『異世界転生記 1-2 (第一部完)』 ... ジャンル:異世界 ファンタジー
作者:レインボー忍者                

     あらすじ・作品紹介
☆バックナンバーは小説投稿掲示板の作者名「レインボー忍者」横のアスタリスクをクリックしてください☆ 異世界に転生し、幼児の立場をフル活用していた僕。おっぱいを吸ったり、可愛いロリ美少女たちと戯れる日々を送っていたが、それが突如異形の怪物の襲来によって乱されてしまう。迎撃時、辺境伯の奥方が連れ去られ、村の要人たちはその奪還作戦に乗り出すことに。みんな、それぞれの大切な人を守るために死地に飛び込んでいく。それを見て僕は――大切な日常を守るために、戦うことを決意した。

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第七章  覚悟



 僕は混乱に乗じて別館に撤退すると、服を着替えて部屋から出た。
 そのまま別館から出てきた体を装って本館前へ駆け寄っていく。
「アルフォンス!」
 グレイスが僕を見つけて駆け寄ってきた。「どうして出てきたの? 部屋に戻っていなさい!」
「カペー司祭と衛兵の二人は!?」
 僕は激しい剣幕でそう尋ねる。
「え、ええ?」
 グレイスは困惑したような顔になった。
「いいから、三人は生きているんですか!?」
「ええ……、皆意識を取り戻されました」
「よかった……」
 僕は胸を撫で下ろした。
 僕だって鬼畜ではない。当然関わり合いを持った人間の安否くらい気にする。
「でも、アドリアン様が……」
 グレイスの言葉に僕は人だかりの方を見た。
 そこには四人の村の幹部たちと二人の衛兵、メイドたち、そして――メイドに肩を抱かれながら地面に両手をついて俯いているアドリアンの姿があった。
「マーガレット……。マーガレット……。マーガレット……」
 アドリアンは今しがた攫われた妻の名前を呼びながらすすり泣いていた。メイドがアドリアンを立たせようとするが、彼は拒絶するように腕を振った。グレイスが慌ててアドリアンに駆け寄る。
「マーガレット!」
「アドリアン様、落ち着いて下さい。冷静に――」
「これが冷静でいられるか! マーガレットが、妻が……!」
 アドリアンの声は半分潰れて聞き取りづらい。
 気持ちは分かるけれども、今は取り乱すより先に今後の策を考えるべきだと思う……。
 泣いていても何も解決しないのだから。
 一方、村の有力者四人はアドリアン抜きで話し合いをしていた。
「お嬢さんたち! 誰でもいいから屋敷周辺に小人族の冒険者がいないか探してきてくれや!」
 ダイモンが大声でメイドにそう言っている。近くにいたメイドたちが首を傾げるが、ダイモンに急かされて別館の暗がりの方へかけていく。
 エルフの男――グラヴァルウィがダイモンに訝しげな視線を送った。
「小人族の冒険者ですって? その方がどうかしたのですか、ダイモン」
「さっき助けられたんだ。強力な魔術師だった。おそらくA級下位相当の実力者だ」
「あれで下位ですか? 術にはもっと威力があるように見えましたが……」
 衛兵の一人が眉根を寄せる。ダイモンは首を振った。
「威力だけなら中堅クラスだろうな。だが詠唱に時間をかけすぎだ。A級中位の奴でもあれより速い。だが、とんでもない化け物に変わりねえ。正常な判断力はありそうだし、何としてでも迎撃隊に欲しい」
 ダイモンの言葉に眉を顰めたのは、白ひげを蓄えた老人――ガランティウスだった。
「そのような強力な魔術師がこんな辺境の地におるのか? A級と言えば王都の国家魔術師級じゃぞ? 桃の迷宮を攻略しに来たとしても、到底信じられんことじゃが……」
 ダイモンは腕を組んだ。
「俺の考えじゃあ、あれは多分隣のブライト辺境伯領で兵士か何かをやっていた奴だと思う。あそこは神聖ルール帝国と四六時中どたどたやってるからな。戦争屋しながら飯食っていたが――俺みたく怪我してこっちに流れてきた奴かもしれねえ」
 グラヴァルウィは顎に指を当てた。
「だとしたら、手足のどこかが欠損している可能性がありますな。そのせいで詠唱とともにする身振り手振りが上手く行えないのかもしれません。詠唱の時間と威力に差があるということの説明もつきます」
「あぁ……、そうか。五体不満足だったら魔術の発動も大変だろうからなぁ」
 ダイモンが納得したように頷く。ガランティウスが白ひげを撫でながら言葉を発した。
「ではわしの方から冒険者ギルドに該当する者がおらんか確かめておこう。小人族でA級相当の魔術師。四肢が欠損している可能性があると」
「あと、教会のローブに似た、擦り切れた汚いものをはおっている。くそジジイ、この条件も追加だ」
「服はもう変えておるじゃろうが……。まあよい、行ってくる」
 この場を後にしようとするガランティウスに、ダイモンは突然血相を変えて叫んだ。
「いや、ちょっと待て! くそジジイ、てめえ、探すついでに自分の部下にしようと企んでいるんじゃないだろうな!? あの魔術師は俺が最初に見つけたんだ! 雇うのは俺だ!」
 ダイモンの言葉にガランティウスは面倒くさそうに眉根を寄せた。
「お主が雇うても宝の持ち腐れじゃろうに。商工会は慢性的な魔術師不足で困っとるんじゃぞ。それにわしが雇うた方が有効活用できる――」
「知るか! 干からびた狸なんぞにくれてやる理由はねえ! あいつは俺の畑で土を耕すのに使うんだ! 奴が手に入れば大幅な経費削減ができる。いや、それどころか――金のなる木だ!」
「ほれみい。豚に真珠とはこのことよの」
「何だと、コラァ!?」
 口論を始める二人に、見かねたグラヴァルウィが声をかけた。
「お二人とも、時間は無駄にできません。ここは早い者勝ちということでどうでしょう。先に見つけた方が雇うと」
 その言葉に白ひげの老人と太った中年の口喧嘩がぴたりと止まる。二人はにらみ合いながら丘を下りていく。
「くそジジイ! てめえの足じゃ無理だ。先に雇うのは俺だ!」
「なんの。それならあとで引き抜くまで! それ以前にデブには負けんわい!」
 声が遠くなっていく。
 グラヴァルウィは自分の尖った耳を撫でながら安堵のため息を漏らした。それから、先ほどから何かを思案するように押し黙っているカペー司祭の方に顔を向ける。
「カペー司祭。件の魔術師が見つかったら、最上級回復薬の準備をお願いします。四肢が欠損しているならまず治してやらないと。金はおそらくダイモンかガランティウス翁が払うでしょう」
「ん? あ、ああ……」
 そこでようやくカペー司祭は顔を上げた。グラヴァルウィが気遣うように司祭を見た。
「司祭、大丈夫ですか? やはり先ほどのダメージが……」
「いや、大丈夫です。少し――」
 カペー司祭の視線が僕を捉えた。司祭の目が見開かれる。
 げ。
 ちょっとまずいかも?
 僕は努めて可愛く見えるよう首を傾げた。
 それを見て司祭は考えを振り払うように首を振った。
「――問題ありません。グラヴァルウィ殿、最上級回復薬の手配ですな。幸運にも一瓶余っております。取引の前に王都の大司祭たちに許可をいただかないといけませんが、手紙に事情を書けば許可が下りるでしょう。心配ありません」
 グラヴァルウィはそれを聞いて笑みを浮かべた。
「良かった。このような火急の時には強い戦力が少しでも必要ですから」
 別に、僕としてはお金を払ってもらわなくても手伝わせてもらうつもりなのだけど。
 畑仕事にこき使われるのはちょっと勘弁だけど、魔獣を追い払うのなら話は別である。

「カペー司祭、グラヴァルウィ殿」

 そこで、涙に掠れたアドリアンの声が割り込んできた。
 アドリアンはグレイスに支えられながら立っていた。彼の顔には並々ならぬ覚悟が見て取れた。
 アドリアンは二人に向かって深く頭を下げた。
「お願いだ! 私は妻を取り戻したい! どうか……、どうかお力をお貸し願いたい。妻は――マーガレットは、私のようなの男を愛してくれた最愛の女性なのだ! どうか……、どうか……!」
 衛兵が「坊ちゃん……」と悲痛な声を出す。グレイスも二人に頭を下げた。
「私からもお願い申し上げます。どうか、連れ去られたマーガレット奥様をお救い下さい」
 カペー司祭とグラヴァルウィは顔を見合わせた。それから二人とも暗い顔になる。
 カペー司祭が口を開いた。
「アドリアン、仮に彼女を助けに行くとしても戦力が揃ってからだ。今の状態だと分の悪い賭けをするのと同じだ」
 グラヴァルウィが沈痛な面持ちで続ける。
「アドリアン殿のお気持ちはお察ししますが、ここは数日待たねば――」
「す、数日!? そ、それでは、妻は食われてしまうのではないか!?」
 もう食われているんじゃないか――とは、この場の誰も口にはできなかった。
 食われていなくても、マーガレットさんは怪力を誇る魔獣に無造作に胴を掴まれていた。あの時点で内臓が潰れて致命傷を負っていてもおかしくない。彼女が生きている可能性は限りなく低い。
 そんなマーガレットさんに、救助隊を出す余裕は――この村にはない。
 アドリアンは頭を抱えた。
「わ、私のせいなのだ。私が、彼女に部屋に止まるよう言いつけなかったから……!」
「アドリアン……」
「アドリアン殿……」
 司祭とグラヴァルウィは目を背けた。
 アドリアンはきゅっと口を引き締めた。
 そして横に控える衛兵の腰から剣を引き抜き、そのまま森の方へ向かって歩き出す。
 司祭は目を剥いた。彼は慌ててアドリアンの前に周り込む。
「アドリアン! 止めるんだ! 自殺行為だ!」
「アドリアン殿、どうかここは抑えてください! 貴方はこの辺境伯領の領主。ここで貴方が死ねば収拾がつくものもつかなくなります。その身は貴方一人の物ではなく、領民すべてのものだとご理解ください!」
「領民など……知ったことか!」
「アドリアン殿!」

「私は! 継ぎたくてこの領地を継いだのではない!」

 彼は血を吐くようにそう叫んだ。
 それからはっと我に返り、自嘲するように口元を歪めた。
「はは……。どうだ、私は所詮この程度の男なのだ。領主などという器ではない」
 アドリアンはグレイスを見る。「あとのことはお前とチーノに任せる。ジェームズは少なくとも私などよりはまともな領主になろう」
 グレイスは首を振った。
「アドリアン様を一人で行かせるわけにはいきません。私も一緒に行きます!」
「えっ!?」
 僕は大声を上げていた。
 いやいや、なんでそうなるの?
 おかしいでしょ。死ぬならアドリアン一人でいいんじゃない? グレイスまで行く必要は全くないだろう。
 アドリアンの事は――残念だけど、彼が決めたことだ。
 心行くまで魔獣に挑んで、一撃で肉塊に変えられればいい。
 だけど、グレイスはいけない。
 彼女は僕の大切な人だ。
 僕にたくさんの愛情を与えてくれたお母さんなのだ。
 死にに行かせるわけにはいかない。
「お母様、ご自分が何を言っているのか分かっているのですか?」
 僕が尋ねるとグレイスは硬い表情で頷いた。
「アルフォンス、お母さんは大丈夫です。きっと何とかなります。こう見えて出たとこ勝負には強いんです!」
「お母様、何を勘違いされているのか知りませんが、これは勝負とは申しません。勝負とは勝算が一パーセントでもあるから勝負と言えるのです。まともに剣も触れぬ愚かな男と華奢なお母様が挑んでも勝てる可能性は全くありません。すなわち貴女がしようとしている行為は『出たとこ勝負』ではありません。意味のない自殺です」
 僕がそう言うと、衛兵二人が前に進み出た。
「坊ちゃんが行くなら俺も行くぜ」
「私も先代からアドリアン坊ちゃんの身を守るよう頼まれていますからな。当然お供いたします」
 この人たち馬鹿なんだろうか……。
 僕には理解できない……。
 カペー司祭はため息を吐いた。
「仕方がない。それなら僕も行く」
「カペー司祭! 正気ですか!?」
 グラヴァルウィが血相を変えてそう言った。カペー司祭は眉間を揉んだ。
「だって仕方がないでしょう。アドリアンは止めたって行くつもりなんですよ。それとも彼を木にでも縛り付けますか?」
 グラヴァルウィは肩を落とした。「観念しました」とでも言いたげだ。
「まさか。そうしようとしたらそこの衛兵二人に返り討ちでしょう? ――アドリアン殿、本当に行くつもりなのですか?」
「ああ、すまぬな、グラヴァルウィ殿」
 エルフの男は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
「魔獣を刺激することもお構いなし。勝算もなく、あてもなく、何も考えずに死んでいるかもしれない人間を助けに行く……。信じられません」
「すまぬな」
「それで済むはずがないでしょう! これで激昂した魔獣が再び村を襲ってきたら、貴方は大量殺人犯ですよ!? お分かりか!?」
「――――――――」
 アドリアンは無言でグラヴァルウィに背を向けた。グラヴァルウィは愕然とした表情になったあと、渋々言葉を捻り出した。
「私も行きます。アールブを受け入れてくださったモーリス家の人間を見殺しにはできません」
「ほ、本当か!?」
 アドリアンは振り返って目を輝かせた。グラヴァルウィは覚悟を決めたように一つ頷いた。
「ええ。ただし、出発は準備を整えてから。明日の未明にして下さい。このままでは本当にただの自殺になってしまいますから。また魔獣との戦闘は避けることをお約束ください。マーガレット殿の死亡を確認しても、怒って一人で飛び出さぬように――」
 カペー司祭が肩をすくめた。
「グラヴァルウィ殿、そんなことをアドリアンに言っても仕方ないですよ。我々が力づくで止める他ありますまい」
「です、か。頭が痛いです……」
 え、なんか、本当にマーガレットさんを救出しに行く流れになっているんだけど……。
「皆さん、正気ですか?」
 僕はそう尋ねた。
 カペー司祭は肩を落とした。
「領主を見殺しにはできない。素人に勝手に魔獣を刺激させるわけにもいかない。教会の力を使うわけにもいかないから、あくまで僕個人が友人として出るしかない。マーガレットさんの安否を確認して、無事帰ることに全力を出すしかない」
「私も右に同じです」
 グラヴァルウィも難しい顔でそう言った。
 駄目だ。
 これは本当に駄目なやつだ。
 アドリアンの我儘のせいでたくさんの人が死ぬ!
「お父様!」
 僕は怒気も露わに自分の父親を睨んだ。
 殴り飛ばしてやるつもりだった。
 だが、それも途中でグレイスに阻まれた。彼女は僕を抱きかかえると、暴れる僕を抱えて別館へと連れ帰った。
 僕は――どうすることもできなかった。
 彼らが死にに行ったあと、せめてそれ以上の被害が出ないようにどう魔獣と戦うか、それを考えるより他なかった。

  ×                 ×                ×

 翌日未明。
 僕はアドリアンとグレイス、それからジェームズと顔に包帯を巻いているチーノとともに村の北の入り口まで行くことになった。
 僕やジェームズ、チーノがアドリアンとグレイスについてきた理由は、救出作戦に参加する他の人やその家族に頭を下げるためである。
 アドリアンとグレイスだけが頭を下げて息子である僕たちが下げないわけにはいかない、たとえ未成年でも筋はきっちり通しておかなければならないのだ――とチーノに言われたから、仕方なく、である。
 理不尽だと思う。
 僕は、かわいそうだけどマーガレットさんは見捨てるべきだと思うし、助けに行くアドリアンは屑野郎で付き従うグレイスは馬鹿だと思う。ちゃんと止めたのに、その上で彼らは行こうとする。
 なら、もう勝手に行けばいいんじゃないかと思った。
 でも、グレイスが死ぬのは嫌だ……。
 この悶々とした心境の中、僕は親の都合で頭を下げさせられるのだ。
 別に頭を下げることに拒絶反応があるわけではないのだけど、アドリアンの馬鹿な行為を周囲に認めてもらうために頭を下げるというのは、恥ずかしいとか恥ずかしくないとか以前におかしい。道理が通らない。
 しかし断るわけにもいかないので、僕はアドリアンとグレイスについて館を出たのだった。
 まだ周囲が暗い中、僕たち五人はひたひたと丘を下りる。
「ねえ、パパ。ママはどこ行ったの? 朝から見てないけど」
 ジェームズがさっきから場違いな質問をアドリアンにしている。彼は昨夜マーガレットさんによってぐっすり寝かしつけてもらったそうだ。
 外は相当騒がしかったはずなんだけど、ジェームズは眠りがとても深いらしく起きることはなかったようだ。あれだけ爆音が響いていたのにのん気に寝ているなんて、生物として失格なのではないかと思う。
「スカアハの稽古、今日はあるんだよね! パパ、俺結構強くなったよ!」
「ジェームズお兄様、少し黙ってはどうですか?」
 僕は静かにそう言った。ジェームズは僕の顔を睨みつけ、真っ赤になった。それからにんまりといやらしい笑みを受ける。
「おい、お前、俺に向かってそんな生意気な口利いてもいいのかよ」
「――――――――」
「スカアハに教えてもらって俺は強くなったんだぞ。お前なんて――こうだっ!」
 ジェームズは足元に落ちていた棒切れを拾うと僕の頬を叩いた。
「ジェームズ、止めなさい!」
 アドリアンが悲痛な声で叱りつける。「兄弟仲良くやってくれ! 頼む……!」
「だって、パパ、こいつムカつくんだもん」
「だって、ではない!」
 アドリアンは怒鳴った。「これは父からの命令だ! アルと喧嘩をするな! 兄弟助け合って生きよ」
 うるせえよ。
 茶番はいいからその口閉じろよ。
 あー、この場でアドリアンを半殺しにしてしまおうかな。そうすればたくさんの人が死なずに済むよな。
 だが、僕がアドリアンに空気結晶の弾丸をぶち込む前に、遅れていた衛兵二人が追い付いてきてしまった。二人は完全武装をしていた。悔しいが、さすがにこいつらが近くにいては弾丸も弾かれてしまう。アドリアンの暗殺は失敗だ。
 村の入り口まで来る。
 未明の闇の向こうには予想していたより多くの人影が見えた。僕は目を細めた。
 教会のローブを着たシスターが数名。
 動物の革の服を着たエルフの男女が数名。
 あと子供が二人余分にいる。
「カペー司祭! グラヴァルウィ殿!」
 アドリアンが声を上げる。この屑野郎が声を出すたびに僕の殺意は増大していく。
 アドリアンの声に、司祭服を着た精悍な男と動物の革の服を着こんだエルフの男がこちらを見る。
「アドリアン、おはよう」
 カペー司祭は無機質な声でそう挨拶した。グラヴァルウィの方は悲壮な顔のまま口を開こうともしない。グラヴァルウィは、最初はアドリアンに対して好意的な感情を持っていた感じだったけど、昨夜のアドリアンのアホな行動以来一気に温度が下がった対応になっている。
 まあ、当然だよな。
 カペー司祭は後ろに控えるシスターたちに手をやる。
「この作戦に、追加で参加してくれることになったシスターたちだ。皆それなりに武の心得はある」
 シスターたちは青い顔でアドリアンに頭を下げた。アドリアンは感激したような顔で頷いた。僕はアドリアンのそんな反応に思わず彼をぶっ殺してやりたくなった。
 分かってんのか、こいつ。
 今犠牲者が増えたんだぞ。
「アドリアン殿、アールブからも協力者が」
 グラヴァルウィが紹介する。
 ああ、どんどん死人が増えていく……。
 カペー司祭は硬い声で喋り始めた。
「森は広い。早く見つけ出さないと手遅れになる可能性もある。そこで、隊を四つに分け、一隊は連絡に特化し――」
 僕は司祭の言葉を聞く気にもなれなかったので、暇つぶしに、集まっているシスターやエルフたちに視線を投げた。
 と、そこで。
 僕の方にじっと視線を送ってくる二組の瞳に気が付いた。僕は彼女たちを見て思わず目を見開いた。
「あ……」
 対して向こうもそれぞれ反応を寄越す。
「え……? アール君?」
「……………………」
 金髪のエルフ――シルウィは僕の方に驚愕の視線を送り。
 黒髪の魔族の女の子――リリナは胡乱な目で僕を見ていた。
 しまったな。
 嘘がばれちまったか。
 なんかもう、割とどうでもいい気分になっているけど。
「ねえ、パパ、これから何するの? この人たちなんで集まってるの?」
 ジェームズの空気の読めない発言に、その場にいた全員が弛緩したようにため息を吐いた。
 九歳の子どもに言うのはあれだけど、ジェームズお兄様はマジでそろそろ黙った方が良いと思う。

  ×                ×                ×

「そっかー。それじゃ、アール君はアルフォンス君だったんだね」
「騙していてすみません」
「いいよ。辺境伯様の子どもだって私たちが知ったら、仲間外れにされるかもしれないって思ったんだよね?」
「ええ、まあ……」
「私は気にしないから。アール君はアール君だよ。あ……、アール君じゃなくてアルフォンス君か」
「呼びにくかったらアールのままでいいですよ」
「じゃあ、アール君って呼ぶよ。慣れちゃってるしね」
 フランチェスカ教の質素な教会堂の中に僕とシルウィの声が反響する。
 もう日は昇り、教会堂のステンドグラスから色鮮やかな影が長椅子の上に落ちている。僕は左側前から二番目の椅子、シルウィは身廊を挟んで僕と反対側の椅子に向き合う形で座っている。リリナはシルウィの一つ前の長椅子の上で体育座りをして膝に顔をうずめている。
 あのあと――。
 僕たちは作戦に参加してくれる人たち皆にお礼を言った。ジェームズもわけも分からず頭を下げさせられていた。お別れの挨拶は十分くらいで終わった。
 その後、僕たち子どもとチーノが見送る中、アドリアン、司祭、グラヴァルウィたち一行は東の森へと出発していった。カペー司祭が引く教会騎士の重鎧を乗せた荷車の車輪の音がやけに大きく耳に残っていた。
 一行が闇の向こうに消えたあと、ジェームズがお腹が空いたと言い出したので、チーノは館へ帰ろうと僕の手を引いた。だけど、僕はそれを拒否した。館に戻れば部屋に閉じ込められるかもしれないから。それはいただけない。
 そういうわけで、僕はシルウィとリリナと一緒に空っぽの教会に移動し、中で『吉報』を待つことになった。吉報というのは、どの基準のものをそう言うのかはちょっと分からない。僕としては救出隊メンバーから死人が出なければ万々歳だと思う。最低限、グレイスは無事に帰ってきてほしい。
「アール君はさっきから何しているの?」
 シルウィが羊皮紙片に黒鉛を擦り付ける僕を見てそう訊いてくる。
「刺激されて怒った魔獣が村に下りてきた時、どう戦うかアイデアを書き殴っています。手間はかかりますが、僕の場合ぼんやりと考えるよりも何かを得られる可能性が高まるので」
「……アールに何ができるって言うのよ」
 ぼそりとリリナがそう声を漏らす。シルウィは眉根を寄せた。
「ちょっと、リリナ」
 リリナは膝から顔を起こす。彼女の唇は緊張に震えていた。今からカペー司祭が帰還するまでずっと震えているつもりだろうか。体力が持たないと思うけど。
 リリナは努めて淡々と言葉を発する。
「魔獣はすごく強いっておとうさんが言っていたわ。アールに何かできるとは思えない。……お願いだから自殺行為は止めて」
 僕は彼女の言葉に顔色一つ変えない。だって、その言葉は僕にとって何の意味もないから。だから無言。黙っていたらリリナはまた僕を無視し始めるだろう。
 それより今は魔獣を何とかする方法を考えないといけない。下手したら家や財産までも全部吹き飛んでしまう。魔獣と戦闘らしい戦闘をしたのは、多分僕やダイモンたち四人だけ。衛兵が帰ってこなければ経験者は僕とダイモンだけだ。
 僕にできること。
 僕にしかできないこと。
 それは、経験した魔獣の動きから戦術を組み立てることだ。
 まず、問題となって来るのが――――。

「聞いているの!?」

 耳元でキーンと耳鳴り。
 僕が我に返って見上げると、リリナが珍しく顔を真っ赤にして仁王立ちしていた。
 なんだこれ。この子、怒っているのか?
 面倒くさいな。
「……聞いていますよ、リリナさん」
「貴方にできることはないって私は――」
「その発言に何の意味があるんですか?」
「――――――――!! 私、前から思っていたんですけど、貴方のそういうスカしたところが大っ嫌い!」
 僕は黒鉛を擦り付ける手を止めて噴き出した。
「大嫌い? フフッ、リリナさんは達観した老人みたいな人だと思っていたのですけど、違っていたようですね」
「どういう意味?」
 リリナの声が震えている。シルウィが見かねて僕たちの間に割り込んできた。
「喧嘩は止めなよ。リリナ、四歳の子に言い過ぎ。アール君も考えるのはいいけど、それを自分で実行しようなんて思わないでね? 妙案があったらまずは私に話して。本当に良い案だったら、私が責任を持って大人の人に伝えるから。分かったらこれで――」
「シルウィ姉は全然分かってない! こいつは――アールはやるって決めたら絶対やる奴よ。ギルバード君の一万倍は性質が悪いわ!」
「……アール君、危ないことをするつもりなの?」
 シルウィがまじまじと僕を見つめてくる。僕が答えないでいると、彼女までも眉をつり上げた。
「アール君、駄目だよ! もし――辺境伯様や貴方のお母様に何かあったとしても、絶対に魔獣と戦うなんてしないで! 桃トレントを倒すのとは全然話が違うんだよ!?」
「では、シルウィさんはどうするつもりですか? もしものときは、命あっての物種と逃げるつもりですか?」
「当然でしょ!」
 僕は彼女を見上げた。
「では、グラヴァルウィさんが貴女と魔獣の間に立って『逃げろ』と叫んだとき、貴女は逃げるんですか?」
「――――――――!!」
 シルウィが言葉に詰まる。それから僕に怒ったような目を向けた。
 似ているとは思っていたけれど、グラヴァルウィはやはりシルウィのお父さんだった。
 シルウィの性格からして自分の父を見捨てて逃げるなんてことは絶対できないだろう。彼女なら死を覚悟して戦うと思う。
 僕は続けた。口はすらすらと言葉を紡ぐ。それに反比例して僕の気分はどんどん底に落ちていく。
「父のアドリアンと母グレイスは、残念ですがおそらく戻ってきません。マーガレット奥様の身柄を取り戻しに行くと言うことはあの魔獣の巣に行くということとほぼ同義です。魔獣も当然、ご飯は自宅に帰って食べるでしょうからね。刺激された魔獣は怒ってこの村を襲うかもしれません。そうしたら、僕は生活の場まで奪われることになります。――それはさせません。僕は魔獣にこれ以上平穏を奪われる気はありません。奪われるなら――戦います」
 シルウィとリリナが目を見開く。
 シルウィは唇を噛みしめたあと、僕から視線を逸らした。これも初めてみる顔だ。シルウィはやるせないとき、こんな風にすごく悔しそうな顔をするんだな。
 一方、リリナは瞳の輝きを変えていた。
 らんらんと、信じられないくらいの強さで僕を見つめている。
 リリナはおもむろに口を開いた。
「……一つ聞きたいのだけど、アールはどうして救出隊についていかなかったの?」
 僕は即答した。
「その方が、成功確率が高いと思ったからです。魔獣に見つからないようにしなければならないのですから、開拓場付近の森に詳しくない僕が同行したら、足手まといになるでしょう?」
 僕の体はあくまで四歳児。魔術で身体能力を強化しているに過ぎない。
 静かに行動しなければならない救出隊が下手に魔術を使うわけにもいかない。
 加えて僕の背丈では森の小さな枝木が邪魔で皆を見失ってしまうかもしれない。そんなことになったら、救出隊はその場で立ち往生することになる。
 僕の考えに粗や間違いはあるかもしれない。
 だけど、それでもコンマ一パーセントでも確率が高くなるように選択肢を選んだつもりだ。
「――――――――」
「――――――――」
 シルウィとリリナはともに沈黙した。
 邪魔が無くなったので僕は再度戦術の組み立てに戻る。
 やはり、あの魔獣の能力で一番ヤバイのは再生能力だろう。
 ただでさえ頑健かつ俊敏で殺しにくいのに、脳を潰して上半身をずたずたにしてもすぐに再生するのだ。
 しかも、再生している間も奴は止まらない。これが地味に厄介で、千切れた腕などがあらぬ方向から奇襲してくることになる。備えていれば避けられるが、視界に入っていなければ昨日の衛兵みたいに一撃で持っていかれる。
 僕の生前の知識は役に立つか?
 えっと。
 強力な再生能力というのは、日本製のRPGなんかでは『序盤では絶対に倒せないボス』だとプレイヤーに気付かせるためにある能力だ。
 この手の敵はもっとあとのシナリオで弱体化イベントをこなすなり何なりして再戦時に倒すものだ。
 でも――、ここはあくまで現実。
『もっとあとのシナリオ』なんてあるわけがない。
 死んだらそこでゲームオーバーなのだ。
 達成目標を一段階下げて『撃退』にするか?
 しかし、魔獣は個体窒素の冷たさや体を半分持っていかれる痛さを経験してしまっている。また同じように撤退してくれるとは限らない。『撃退』で良いという考え方は危険だ。
 僕が眉間を揉んでいると、シルウィとリリナが唐突に立ち上がった。
「私、ちょっと家に忘れ物。アール君、ここから出ないようにしてね」
「……私も」
「はい……? いってらっしゃい」
 僕は二人の背を見送る。
 美少女二人はやけに急いだ様子で教会堂から出ていく。
 ああ。
 なんだ。
 ウンコか。
 普通に言って出ていけばいいのに。
 僕は再びメモに目を戻した。
 創作物において、不死の怪物を殺す方法というのは、矛盾するようだがたくさんある。
 例えば何か弱点になるもので攻撃するとか。
 アンデッド相手なら聖水。吸血鬼なら日光と十字架。
 確か、奴は火を怖がっていたはずだ。もしかしたらこの世界の火には特攻効果があるのかもしれない。
 そうか、燃やしちゃえば再生できないんじゃないか。不死鳥みたく灰から蘇るなんてこともなさそうだし。
 しかしあのぶよぶよして潤沢に水分を蓄えてそうな皮膚が簡単に燃えるだろうか。
 燃やすという行為は氷の城壁と相性が悪いし。
 三角だな。
「ただいま」
 リリナが帰ってきた。例のシスター服を改造した頑丈な服を着ている。手にはポーチとファルシオン。彼女は早速僕の向かいの席にそれらを広げて中身をチェックし始めた。
「リリナさん? 何ですか、それ」
 僕が尋ねると、リリナはいつもの口調で答えた。
「私も貴方と同じ。奪われるなら戦おうと思ったの。それだけ」
「……前線に出て戦うつもりですか?」
「まさか。必要になったとき、大切なものを守るために戦うわ」
「そうですか」
 僕はそう呟いてしげしげとリリナのポーチの中身を確認した。
 ポーチは小さなリュックサックくらい中に物を入れられるみたいだ。椅子の上にはリリナが調合したよく分からない小道具が並べられている。
 あ、治癒薬の瓶もある。
 赤色をしているから普通の回復薬だな。緑色は解毒薬。
 黒色の泥みたいなやつは――気付け薬だ。市場で売っている。僕もつけてみたけど、こいつはめちゃくちゃ効く。
 黄色は麻痺毒を取る薬か。
 司祭の義娘だけあって回復系統の薬はたくさん仕込んでいるみたい。
「……ずっと貯めていたの」
 僕の視線に気付いたのか、リリナは薬の品質を確認しながら言う。「並の冒険者パーティならヒーラーが務まると思う」
 確かに子どもの小遣いレベルじゃない。
 もしもの時に備えてちまちまちまちまやっていたんだろう。
 まだ六歳なのにホント普段からよく考えて行動しているんだな、こいつ。
「一度、リリナさんとパーティを組んで旅をしてみたいものですね」
 具体的には僕がモーリス辺境伯領から出る時。
 アドリアンが死んだらその先どうなるか分かんないもんなあ。下手したら予想以上に早くここを出なきゃいけなくなるかもしれないし。
 僕の打算的な言葉を聞いて、リリナは回復薬を検める手をぴたりと止めた。それから無表情で僕の顔を見る。
「奇遇ね。私もよ」
 僕は肩をすくめた。
「僕の事は大嫌いじゃなかったんですか?」
「好き嫌いで命は買えない。ギルバード君と組まされるよりは、貴方と組んだ方が絶対に長く生きられる」
「……リリナさん、実はギルバードさんのこと嫌いなんじゃないですか?」
「――――――――」
 リリナは僕を無視した。ま、いつものことである。
 僕もリリナと必要以上に慣れ合う気はない。
 しかし、利害が一致したときは遠慮なく協力し合える。
 信頼関係ばっちりだな。
 僕とリリナが無言でやることをやっていたら、数分くらいしてシルウィも戻ってきた。
 彼女は動物の革の服に着替え、鋏のような武器を持っていた。日本で布団干すときに使う奴に似ている。
 ただしこっちは鋼鉄製で、複雑なギミックが色々組み込まれている。
「……………………」
 シルウィが無言で席に座る。それから目を瞑って瞑想を始めた。
 よく見ると鋏みたいな武器に加えて矢筒も持っている。
 そうか。
 あの鋏みたいな物は弓なんだ。
 矢を撃つときは鋏を開くのだろう。面白そうな武器だな。弓形態の他にも何かありそう。近接攻撃用に双剣形態や短剣形態になるとか。
 あ、短剣と言えば。
「リリナさん、これ。返し忘れていました」
 僕はそう言ってローブの中から昨日迷宮に入る前に渡された教会産の短剣を取り出した。
 リリナは僕の方をちらりと見ると首を振った。
「まだ持っていて。ただし、魔獣が討伐されたら必ず返して」
 はは。
 討伐されたら、か。
 どれくらい先のことになるんでしょうね。
 僕は短剣を再びローブに仕舞いながら尋ねた。
「リリナさん、ヒュドラってこの世界にいますかね?」
 リリナは面倒くさそうに僕を見た。シルウィにでも訊けと言いたげな顔だ。しかしそのシルウィは深く瞑想しているのだ。シルウィの邪魔をするのは悪い気がする。
「そのヒュドラという言葉のニュアンス的に、多頭竜のことを言いたいの? それなら知ってるけど」
「多頭竜――それです。そいつに、『近寄るとすごい毒で相手を殺す』っていう特性はあります?」
「ええ、私の聞いた多頭竜には。――なるほど。多頭竜の毒で魔獣を殺す気なのね」
 僕は無言で頷いた。
 日本で慣れ親しまれている『ギリシャ神話』では、英雄ヘラクレスがヒュドラの毒で不死の存在を殺めている。正確には生き返っても毒で死ぬって状態にしたのだけど、関係ない。魔獣の自由を奪えれば良いのだから、その状態にすれば殺したも同然だ。
「リリナさん、その多頭竜はどこにいますか?」
「話によれば海の向こうに浮かぶ迷宮都市の最下層に潜んでいるらしいわ」
「それって、遠いですか?」
「すごく。だからあまりうまい方法ではないかも。そもそも多頭竜は『竜』って名前がついていることから分かる通り、あらゆる状態異常を無効化し、殺しても死なない不滅の存在よ。体内の毒袋を採取するのは至難の業だわ」
「そうですか……。教えていただきありがとうございます」
 不死性を持つ相手を狩るために状態異常無効の不死の化け物を狩る――。
 こりゃ駄目だ。
 別の方法を考えた方がいいな。
 僕がため息を吐いた時、瞑想していたシルウィの耳がぴくりと動いた。
 彼女は目を見開き、きゅっと唇を噛みしめて、こう言った。

「木をなぎ倒す音がする。――お父さんたちが戦ってる!」

   ×              ×               ×

 シルウィの言葉に僕たちは雪崩を打って教会堂の外へ出た。
 遥か向こう――東の森の開拓場の奥に目を走らせる。
 何も見えない。
 いや。
 南東方向の空に白い煙が上がっている!
 何かが燃えているんだ……!
 森の開拓場の奥で誰かが火を使っている!
 魔獣が潜む森で火を使う理由は一つしか無い。
 誰かが戦っているんだ。
 僕たちが呆然と煙が上がる方を見つめていると、教会区の住人たちがぽつぽつと家から出てきた。そのほとんどはエルフで、シルウィと同じく異音を聞きつけて様子を見に来たらしい。
 何人かが煙の上がる南東の空を指さして悲鳴を上げている。
 湧き起る悲鳴の合間を縫って、地面が爆ぜるような音が遠雷のように届いてきた。
「どうやら、戦う時が来たみたいだね」
 シルウィが静かにそう言った。僕は彼女の声に振り返った。
「シルウィさん?」
 彼女は僕の方を見ると決然とした表情で教会堂を指さした。
「アール君、教会堂の中へ戻って。私はお父さんを助けに行ってくる」
「シルウィ姉、私も行くわ。おとうさんを死なせるわけにはいかない。おとうさんは私に命をくれた。命の恩は命で返す。――――必ず」
 僕は――二人の言葉を聞いて、頭の血がさっと首の下におりていくのを感じた。
 この二人……今、何て言った?
 ちょっと、よく聞こえなかったんだけど。
 僕は引きつった笑みを浮かべてエルフの女の子を見上げた。
「し、シルウィさん? 何を……言っているんですか?」
「言葉通りの意味だよ」
 シルウィはいつもの優しい雰囲気を霧散させて、簡潔にそう言った。彼女の翠緑の瞳は決意の炎に燃えていた。
 僕は――頭の中が真っ白になった。
 よろよろと彼女に詰め寄る。
「シルウィさんでは邪魔になるだけです!」
「そうかな? アール君に作戦があるように、私にも作戦があるのかもしれないよ」
 嘘だ。
 根拠はないが、シルウィは嘘を吐いている。
「……小細工が通じる相手じゃありません! 相手は体が半壊しても瞬時に再生する本物の化け物なんですよ!?」
「知ってるよ。お父さんから聞いたから」
 僕は言葉に詰まった。
 なんだ、これ?
 僕は何でこんなに焦っているんだ?
 肉親でも何でもない女の子が二人『死にに行く程度』で。
「リリナさん! 貴女も正気ですか!? 自殺行為は貴女が一番嫌う行いでしょう!?」
「私たちは死にに行くのではないわ。私にも考えがある。おとうさんたちがピンチなら、割り込んで救い出せる算段がある」
「――――――――――――。いや、貴女たちは何も考えていない。貴女たちが行ったことで司祭たちが死ぬこともありうるんですよ?」
「そうならないように考えて行動するわ」
 リリナがポーチの中身を再々度確認しながら淡々と答える。シルウィが続ける。
「アール君の言ってることを裏返すと、私たちが行かなければお父さんたちが死んでしまうこともありうるよね。それとも、そんなことはないって言い切れる?」
「……………………!」
 開いた口がふさがらなかった。
 なんだ、これ。
 なんなんだ。
 止めてくれよ。
 お願いだから……止めて。
 これ以上何も失いたくない。
 この世界で初めてできた――友達なんだぞ!
 二人は、項垂れて全身を震わせる僕の横を通り過ぎていく。
 彼女たちの髪の香りを嗅いだ僕ははっと我に返った。
 回り込む。
 二人の前に出て両手を広げる。
「……行かせません」
 僕はもう、自分で自分が何を言っているのか分かっていなかった。「お二人がこれ以上馬鹿なことをするのでしたら、殴り倒してでも止めてみせます」
 シルウィとリリナが顔を見合わせた。
 そしてお互いこくりと頷き合う。
 リリナが、鞘に納めた状態のファルシオンをゆっくりと正眼に構える。
 僕は熱魔術を展開した。
 だが、空気結晶の弾丸をつくり出す前に、シルウィがリリナを手で制した。
「リリナ、ちょっと待った」
「…………どうして?」
「感情的になって行動するのは良くないよ」
「でも」
「ファルシオンを引いて。教会堂に戻ろう?」
「………………」
 リリナが無言でファルシオンを腰に戻す。
 僕はそれを見て涙が出そうになった。
 諦めてくれたのか?
「――アール君、私たちが悪かったよ。ごめんね」
 シルウィは僕の前に進み出て――ふわりと僕を抱きしめる。
 女の子の甘い香りと柔らかな双丘が僕を包み込む。
「し、シルウィさん!」
 僕は慌てた。
 シルウィは僕におっぱいを押し付けながら、くしゃりと髪を撫でた。

「ごめんね」

「え?」
 気づいた時には遅かった。
 シルウィが僕の頭を撫でる手を――すっと襟元に落としていたのだ。そのまま、両手で僕の服の首穴を締め上げる。
 日本の柔道で言う『絞め落とし』。
 服の襟で頸部を圧迫することで脳へ行く血流を止め、相手の意識を奪う技。
 こっちの世界の教会騎士の格闘術にもある技だった。
 視界がぐらつく。
 駄目だ。このままでは血流が止まって二、三秒で落ちる――。
 僕は慌ててシルウィの両手を掴んだが、僕より力のあるシルウィに抵抗することはできなかった。
 意識が――遠のいていく。
 くそ!
 駄目なのに!
 ここで意識を手放したら、彼女たちが――!!

「ごめんね。――ありがとう」

 シルウィの柔らかな唇が僕の額にそっと触れる。
 僕は歯を食いしばった。
 ――シルウィ! リリナ!
 だけど、声は出てこない。
 そうして。
 僕の意識は暗闇に沈んだ。

   ×                ×                ×

 どれくらいの時間が経っただろう。
 僕は意識を取り戻した。
 瞼を刺激するのは鋭角に差し込んでくる太陽の光だった。
「――――っ」
 跳ね起きる。
 周りを見回す。
 僕は教会の長椅子に寝かされていた。
 お腹の上にはリリナのローブ。
 頭にはシルウィのローブが畳んで置いてあり、枕の代わりになっていた。
「――――っ! シルウィさん! リリナさん!」
 大声で叫びながら教会堂から外へ出る。
 外の街路は閑散としていた。
 まるで村中の生き物が全て死滅してしまったかのように。
 街路の向こう――広場の方に見える日時計を目視。
 十時過ぎ。
 僕が気を失ったのは推定で八時前後だったから、あれから二時間経っている!?
「――――っ」
 僕は気づくと駆け出していた。
 風魔術と土魔術を発動し、街路の地面をカタパルト代わりに、文字通り飛ぶように駆けていく。
 街路は一瞬で抜ける。
 村の周囲を囲う柵と堀は一足で飛び越える。着地時は地面を緩ませて、全身泥だらけになりながら転がって勢いを殺す。
 南東の森には今や小さくなった白い煙。
 シルウィたちが出ていってから二時間。
 たった二時間。
 だけど、今の僕にとっては永遠にも等しい時間だった。
 枯れた草原の向こうには積み上げられた土嚢。
 いくつもの小さな人影が蟻のように蠢いている。
 誰か、シルウィたちに気が付いて止めてくれたか?
 いや、それなら彼女たちは教会に戻ってきていたはずだ。
 少なくともリリナは僕の声に気が付いて顔を見せたはず。
 彼女たちは開拓場に行ってしまったのだ。
 土嚢の防壁を越えて。
 森の木々の合間を抜けて。
 助けないと。
 彼女たちが死んでしまうのは絶対に嫌だ!
 僕は泥の中から立ち上がり、再び魔術を起動する。
 自然と唇がめくれ上がる。
 湧き上がってきたのは自嘲の笑みだった。
「はは……、ざまあない。結局僕もアドリアンと同じ穴のムジナじゃないか」
 だけど。
 だけど!
 僕は再び疾走を開始する。
 景色は風のように流れ。
 枯草が木枯らしに遭ったように天高く舞い上がる。

 数分後、森は目前に迫っていた。



間章  シルウィ視点



「ごめんね。――ありがとう」
 私はそう言ってアール君を絞め落とした。
 アール君は最後まで抵抗しようとしたけれども、力は私の方が強いから、結局抜け出せずに気を失ってしまった。
 崩れ落ちるアール君を支える。
 体を捻って彼をおんぶする。
「シルウィ姉、教会堂の中に」
 リリナは事前の目配せで全部分かっていたのか全然慌てた様子がない。てきぱきと教会の扉を開いて私を誘導してくれた。
「ありがとう、リリナ。…………アール君には悪い事しちゃったね。こんな、騙すような事」
「そうでもしないとアールは止まらなかったわよ」
「うん。でも、ちゃんと話せば良かったよ。起きたらすごく怒るだろうな……」
 私がいつもの悪い癖を発動していると、リリナは呆れたようにため息を吐いた。彼女はすごくドライなのだ。区別をはっきりしすぎているというか、割り切り過ぎというか。
「アールは怒らないわよ。焦るくらいはするかもしれないけど、それだけ。そいつはどうせ私たちの事を仲間とは見ていないだろうから」
「――――――――」
 そう。
 そうなのだ。
 私は暗い気持ちで彼を長椅子に寝かせ、ローブを畳んで頭の下に敷く。
 アール君は、多分、本当の意味で私たちを仲間だと思っていない。
 本人は『友達』として扱っているつもりなのだろうけど、そうじゃない。
 上手く言えないけど、そうじゃない。
「シルウィ姉にはこの際はっきり言っておくけど、そいつは私たちのことを愛玩動物かおしゃべりする人形程度にしか思ってないよ」
「――――――――それは、知ってる」
「じゃあ、もういいでしょう? 早く行こうよ。おとうさんを――ううん、皆を助けないと!」
 リリナはローブをアール君のお腹に被せると私を促す。
 私は頷いて駆け出した。あとにリリナが続く。
 結局、最後までこっちを振り向かせることはできなかったな。
 ううん。
 それじゃまるでこれから死にに行くみたいだ。
 私たちは生還するのだ。
 お父さんたちを皆助けて。
 来るなって言われたけど、やっぱり黙って見ていることなんてできない。
 助けられるなら、助けなきゃ。
 景色が後ろに流れていく。
 走りながら私が想起するのは――、やっぱり夏の終わりに出会った不思議な男の子のことだった。

   ×                ×               ×

 夏の終わり。
 ニケ月以上もかかった麦の収穫もようやく終わった頃、私――シルヴァルウィはアールと言うおかしな少年に出会った。
 私が彼に対して抱いた最初の印象は、とても冷たい目をした少年だなということだった。
 物腰は柔らかで、空気に融け込むような自然さがあったけど、その裏に潜む顔はどこまでも冷たいのだ。見た目は確かに綺麗でかわいいけど、直感的に「この子はやばい」って思った。
 一緒に居たら危険だって。
 だけど、そう感じても、私は誰かを仲間外れにするということはできない子なわけで。
 気付いたら彼に自己紹介していた。
 そこまでいけば、私はもう友達気分だった。楽天家で思考が単純。私の悪いところである。
 最初は乗り気じゃなかったアール君は、私たちが教会騎士の剣術の話をし始めたら途端に食いついてきた。
 どうやら彼の目的はこれらしい。
 彼はローブからメモ帳と思しき紙の束を取り出し。
 それに書きにくそうにこりこりと黒鉛を擦り付け始めた。
 私たちと会話するときもずっと。
 話しかければすごく丁寧に返してくれるけど、メモ帳は絶対に離さない。視線は私たちの間と周囲の風景、それから手元の黒鉛の間をせわしなく行ったり来たり。
 そして、質問の返答の内容には、神経質なほどに自分に関する情報を含ませないようにしている。
 当然、必要がないときは貝のように口を閉ざして一言も喋ろうとはしない。
 後ろから付いてきているリリナはめちゃくちゃ警戒していた。ついでにブチ切れていた。
 まあ、気持ちは分かるよ。普通はリリナみたいになっちゃうよね……。
 ギルバードも野生の勘か何かで気付いているだろうけど、細かいこと気にしないいい奴だから、なるべくいつも通りにアール君に接している。
 私が変わっているのだ。
 リリナやギルバードに向けるのと同じ笑顔を彼に向けている。
 理由は――、漠然とだけど分かる。
 私は悔しいのだと思う。
 この子に観察対象か何かのように扱われるのが。
 絶対に友達に引き入れてやるって思った。アール君が日曜学校に来たり私たちの剣術の訓練に参加するようになったりして、その思いはますます強くなった。
「シルウィ姉は物好きだね」
 ある朝、日課の剣術の自主練習のあと、付き合ってくれたリリナが私の横で汗を拭きながらそんなことを言い出した。
 自主練習は私のわがままで始めたことで、リリナは早起きして相手をしてくれる。ギルバードも早く起きられた日はやって来て一緒に稽古する。
 アール君も誘いたいけど、彼は必要以上に私たちと一緒にいることがないので誘えずにいる。そもそも、今の親密度じゃ彼は来てくれないだろう。
 彼は私たちと遊ぶことより、自分の事を何より優先するのだ。
 私たちが何かをしようってなっても、日曜学校や剣術の稽古で脇道に逸れたことをやろうってなっても、彼は拒否して自分の事をする。彼に「どうして一緒にしないの? 楽しいよ、やろうよ」って誘ったことが何度もあるけど、その度にすげなく断られてしまっていた。
「えー? 私が物好き? 何のこと?」
 リリナの言葉の意味は分かっていたけれど、私は知らないふりをする。
 認めたくないから。
 アール君を仲間外れにしたくないから。
 するとリリナは淡々と追撃してくる。
「アールのことよ。また断られていた。昨日で二十連敗」
「アール君は悪くないよ。私が――必要以上に馴れ馴れしくしちゃってるだけで」
「まあ、シルウィ姉が好きでやっているのだから、私が口出しするのはおかしな話なのだけれど、彼にはあまり深入りしない方が良いと思う。シルウィ姉が必死に誘っているのに、あいつは自分に利益がないと雑に断っているのよ。それがどういうことか、考えた方がいいと思う」
 リリナの言い方に私はむっとした。
「そんなの分かってるよ。だけど、悔しいでしょー? 諦めずに誘っていたらいつかあのメモ帳と黒鉛を投げ出して一緒に来てくれるかもしれないじゃん!」
 リリナは一瞬呆気にとられたあと「まさか!」って言わんばかりに笑い出した。
「シルウィ姉、あのアールって奴は、死んでもメモ帳を離すことはないわ。私の秘蔵の石鹸を賭けてもいい」
「どうしてよー? そんなの分かんないでしょー?」
「いい? アールは日々手に入れた情報を全部あのメモ帳に書きこんでいるの。新しく知ったことは二センチくらいの大きな字。それに対する仮定、推定は矢印マークをつけて一センチ。さらにそれに対する考察と疑問点を星マークのあとに書き加える。どうでもいいことから常識的なことまで事細かく。そりゃもう潔癖なくらいにきっちりかっちり仕分けして。――それがライフワークになっている奴が、どうしてメモ帳手放して遊ぶのよ」
「えっ!?」
 不覚にも、私は引いた。
 なんかたくさん書いているなーとは思っていたけど、そんなことをしていたのか。
 なんていうか、病的なものを感じる……。
 リリナはペラペラと続ける。
「日曜学校の時に取るノートも同じように黒いインク、赤いインク、青いインクで分けて書いているわ。信じられないくらいに機械的に。語学の勉強中は先生が言ったことの三倍の内容をガリガリ書いている。数学の時間は何をしているか知ってる?」
「う、ううん。知らない……」
「いつもメモしている内容を大きな羊皮紙に全部書き写しているのよ。あとですぐに参照できるよう鉄製の高そうな輪っかに順番に通して。今やこーんな分厚い本になっているわ」
 そうなんだ。
 アール君一番後ろの席だから全然知らなかった。
「あれ? でも数学の時間にそんなことしているのに、いつも一番始めに計算が終わっているよね。リリナとほとんどタッチの差で手を挙げているような気がするけど……」
「めちゃくちゃ早いの、あいつ」
 リリナが苛々したようにそう言った。私からしたらリリナも相当早いんだけど。
 私はリリナよりもたくさん計算練習しているのに、いつも彼女より十数秒遅くなってしまうのだ。ちょっとコンプレックスになり始めている。
「リリナも同じくらい早いんだからいいじゃん。あんまり変わんないよー」
 するとリリナは暗い顔でぽつりと呟いた。
「手加減してる。あんまり早くなり過ぎないように、私が計算し終わる頃を見計らって一瞬早く手を挙げているの」
「性格悪っ!」
 私は思わず叫んでいた。
 そんなことやってくるものなんだ……。
 アール君って何歳だっけ? 結構小さいよね? ……本当に小さいのかな?
 リリナは続ける。
「あいつ掛け算するとき1×1から99×99まで一瞬で出すのよ。それどころか一部の三桁×三桁の計算まで。どうやってそんなに早く計算しているのだろうと思って手の動きを観察していたら、この前ようやく分かった。どうやら筆算使ってないみたい」
「筆算使わずに!? どうやって計算しているの!?」
 リリナは唇を噛みしめた。
「分からない。きっと、あいつの中には何かしらの簡易な計算式のようなものが出来上がっているのだと思う。だから、簡単な計算からちょっとした応用問題まで全部、私たちが手間暇かけている間に、そういう技術を使って数倍速く解くことができる。問題によっては数字の他に変な記号みたいなものまで使っているようだし……。意味が分からない!」
 リリナが木刀の先で地面を傷つける。
 そこには『x』『y』とか『π』とか見たこともない文字が並んでいた。
 私はアール君の事がちょっと恐ろしくなると同時に、リリナの方が自分より物好きなのではないかと思い始めた。
「リリナの席って、アール君の席から三席前だよね?」
「え? うん、そうだけど」
「よく見てるねー」
「見たくて見ているわけじゃないわ」
 てっきり顔を真っ赤にして「えっ!? ちょっ!? ばっ!?」って慌てると思ったけど、そんなことなかった。リリナの顔に広がったのは苦り切った表情だった。
 彼女は続ける。
「悔しいけど、あいつ、すごいの。多分、見ている世界が違う。すごく『進んで』いるのよ。――だからだと思うけど、あいつは私の事を自分と同列には見ていない。真正面から認識していない。いつもいつも高みから冷静に俯瞰している。それが、ムカつくの。理由は分からないのだけど、すごく、すっごく、ムカつく。大嫌い! だから、いつかあいつを超えて見下してやるために、目を皿にして研究しているだけ」
「ふぅん。そっかー」
 よく分からないけど、リリナはアール君に対抗意識を燃やしているらしい。
 アール君は頭がいいから、自分を同列に見ていない、か。
 そのときはリリナがあまりにも嫌そうな顔をしているので話題を切り上げた。
 だから言わなかったけど、私が考える『アール君が私たちを同格に扱っていない理由』は、実は彼女の考えるものとは別にあった。

 彼は愛された事の無い子どもなのではないか――?

 私は、何となくだけど、そんなふうに彼の事を見ていた。
 アール君は自分の家族の事について語りたがらない。だから推測に過ぎないのだけど、彼は愛情に飢えた子どもなんじゃないかと思うのだ。
 私は、自分で言うのもなんだけど、すごく幸せな家庭に生まれた。
 そこそこお金があって、お父さんとお母さんはとても優しい。
 アールブは種族的に子どもができにくいから、その分二人は猫のように可愛がってくれた。
 お父さんは長い事生きているから何でも知っていて、私に何でも教えてくれる。
 お母さんは美味しいご飯を作ってくれて、時間が許す限り私に構ってくれた。
 二人とも、いつも笑顔いっぱい。
 でも私が悪い事をしたらきちんと叱ってくれて。
 叱った理由も、私が納得できるように教えてくれた。
 私が泣きながら「ごめんなさい」って言うと、二人は最後には淡い笑顔に戻ってくしゃりと優しく髪を撫でてくれた。
 他の、家族じゃないアールブの皆も優しくしてくれた。
 私を見かけたら笑顔を向けてくれるし、暇だったら遊んでもくれる。
 アールブは個体が少ない分、とても仲間意識が強いのだ。
 私はそんなふうに周りから愛情をいっぱい受けて育った。
 すくすくと。
 とても健康に。
 だから、愛されることの素晴らしさを知っているつもりだ。
 心がぽっと温かくなるあの優しい感覚を。
 だけど――、そうじゃなかったら?
 私がもし――、もっと違う境遇に生まれ育っていたら?
 例えば。
 お父さんが仕事ばかりしていて。
 お母さんが、自分の事をきちんと見てくれず、別の事に夢中で。
 周りにいる人たちも、私を見る度に嫌悪の眼差しを向けていたら?
 今の、私――『シルヴァルウィ・カリナリエン』は存在しただろうか、と。
 誰かを助ける、親切にするということができただろうか、と。
 いや、そうはなるまい。
 きっと、そんな環境で生きた人間は究極の利己主義者になる。
 だって、その人にとって大切な物は自分しかないから。
 自分を愛し、自分を心から気遣ってくれる相手は自分しかないから。だから、自分を一番にするしかなくなる。全ての勘定に自分と言う存在を入れなくてはならなくなる。
 自分が無くなれば、そこには何も残らないから、生存本能に近い生理的反応で自分を常に優先する。周りは流れる川や空を渡る風のようにただ利用する相手でしかなくなる。
 それって、今のアール君じゃないかって、私は思うのだ。
 無論、そんな不幸な過去があったところで、アール君自体の評価がましになるわけじゃない。
 どんな経緯があれ、私たちが目にするのは、『そういうアール君』という結果だけなのだから。過程まで推測して同情するなんてこと、普通はしない。
 普通はしない。
 普通はしないのだけど、私はしてしまった。
 最初は眼中に無いかのような扱いをされて悔しかったから彼に付きまとい。
 いつしか、私が彼と接触する理由は、彼をかわいそうだと思うからになっていた。
 ギルバードは相変わらず野生の本能でアール君と絶妙な間隔を保ち続け。
 リリナはまともにアール君の話を聞こうともしなくなった。
 そんな折、剣術の稽古で一番弱かったアール君が急に強くなった。
 なんか構えが変な感じになったのだ。あと左手に鍋の蓋じゃなくて自作の木の小剣を持ってくるようになった。最初にギルバードから綺麗に一本取った彼は、瞬く間に私とリリナからも一本を取った。
 見たこともないような動きで、小剣を使って剣を弾かれた。
 六歳の頃から剣術を始め、リリナが来てからは一日も自主練を欠かしたことのない私が、剣術を始めて半年も経たない小さな男の子にあっけなく敗れてしまったのだ。
 何故負けたのか理由も分からず、私は彼を抱きしめて褒めた。
 お父さんやお母さんが私にそうしてくれたように、私も反射的に彼を褒めていた。
 その日から私の彼に対する評価は、『かわいそうだけどすごい子』になった。
 一月下旬になると唯一彼に対抗できていたリリナまでもが彼から一本も取れなくなった。
 そういうわけで私たちは彼に隠れて三人で特訓した。
 私はこのとき彼を仲間外れにすることに何の罪悪感も抱かなくなっていた。

 彼は、私やリリナ、ギルバードとは異質な存在なのだと。

 そんなふうに何の抵抗もなく思ってしまっていたのだ。
 もちろん、最低限のアプローチはそれからも続けていたと思う。
 だけど、思えば私は、そのとき、彼の事を半ばあきらめていたのかもしれなかった。

  ×               ×                ×

「シルウィ姉、聞いてる?」
「え? あ、うん……」
 私はリリナの声に我に返った。
 現在、私たちは土塁の防壁を越えて、開拓場の森に入っている。さすがに森の中まで草原と同じようには走れない。成長の遅いアールブ故、私もまだまだ小柄なのだ。
 森の奥から断続的に響く爆音はいよいよ大きくなってきている。
 私は――多分リリナも――それに対して焦りではなく、不安を感じていた。
 子どもっぽく言うと、とても怖い。
 リリナは行く手を邪魔する枝葉をファルシオンで払いながらため息を吐く。
「まだアールの事考えているの?」
「うん……。やっぱり、悪い事しちゃったかなー……って」
「…………」
 リリナは答えない。私も沈黙するしかなくなった。
 やがてリリナが口を開いた。
「シルウィ姉は『ド』がつくお人好しよ」
「そうじゃないよ。アール君は私たちを友達だって思ってないけど、多分、私たちも同じだったんじゃないかって」
「そうね」
「うん……」
「シルウィ姉、色々思うことはあるだろうけど、後回しにした方がいい。気持ちを入れ替えて。そうじゃないと、死んじゃう」
「そうだね。ごめん。……よしっ」
 私はパンと頬を叩く。
 それで気持ちを無理やり切り替えた。
 リリナがポーチから小石サイズの黒い玉を取り出す。
「魔獣は犬に似ているっておとうさんから聞いた。だから、嗅覚や聴覚がかなり敏感なんじゃないかと思うの。催涙玉と――こっちが音爆弾。だいぶん前に作った奴なんだけど品質は問題ないわ。これで魔獣の動きを数秒の間止めることが出来るはず。ひとまず、これで行動不能にしている間に、おとうさんたちに応急処置をする」
「私たちじゃ皆を運ぶのは無理だもんねー。少なくとも二、三人は動いてくれないと立ち往生か。――あ、私の方もさっき考えた策があるよ。こっちは魔獣と戦うときの策だけど」
「戦うの!?」
 リリナが目を見開く。私は苦笑した。
「真正面からやるんじゃないよ。そうじゃなくて、あくまで最終的に逃げるための策。――魔獣は超再生力があるらしいのは知っているよね? お父さんの話では、まるで飛び散った肉や血が元の場所に集まるようにして再生するらしいんだ。時間の巻き戻しって言うのが近いのかな」
 リリナは眉根を寄せた。
「アールが言っていたように毒で動きを止めるくらいしかないと思うけど」
 リリナはアールの事が嫌いなのだろうか。
 本当は結構好きなんじゃないかな……。
「ううん。その回復の際に、余分な物を巻き込めないかなって」
「どういう事?」
 私は説明のために一瞬言葉を選ぶ。
「肉や血が巻き戻される瞬間に、間に尖った石や、木の枝を挟んでいけばどうかなって思うんだよ。肉がくっつくときに、石や木まで癒着しちゃうんじゃない?」
「あっ……」
 リリナは目を見開いた。「そうか……、重要な筋組織の合間に入れば痛みで動きが鈍くなるかも。毒と違って血液に融けないから代謝もされないだろうし」
 私は頷く。
「行けそうでしょ?」
「うん! うまくすれば、本当に全員を助けられるかもしれないわ!」
 リリナの顔がぱっと輝く。
 きっとこの子は何人かは見捨てないといけなくなると思っていたのだろう。
 その考えは、私も念頭に置かないといけないことだった。
 全員を助けようとしたら、全滅してしまうことだってありうるから。
 厳しいようだけど、そこを弁えておかないと本当にただの犬死になってしまう。
 ……犬死にならなければいいなあ……。
「連携は――朝やっている通り。お互いの動きを見ながらうまく立ち回ろう。助けるのが無理だって判断したら、きちんと諦める。分かってるよね、リリナ」
「……ええ、シルウィ姉。ベストを尽くしましょう」
 これは分かってない返事だ。
 とは言え、彼女の場合は仕方ない。
 リリナはなんだかんだ言って六歳の女の子なんだから。
 割り切るのは難しいと思う。こんなふうに思う私だって、割り切れるかどうかは正直微妙である。
 いけない。雑念を払わないと。
 音はいよいよ大きくなっていく。
 私も背中からアールブの弓を取り出した。
 これで遠距離から矢を射る。
 私は腐ってもアールブ――森住族だ。
 目は良いし、弓の腕もそこらの人には負けない。特に森の中では私の骨格を最大限活かす戦い方が出来る。
 ここは森の中。
 私の独壇場だ。
 視界が開けてくる。
 音は既に地響きと化していた。
 私たちはどちからともなく頷き合い――。
 一気に、木々の向こうへと飛び出した。
 大切なものを守るため。
 親切にしてくれたたくさんの人たちに恩返しするため。
 胸には確かな覚悟を秘めて。

 だがこのあとすぐ、私たちはいかに自分たちの見通しが甘かったかを知ることになる。
 後悔する頃には――もう何もかもが遅かった。



第八章  出来損ないの双子U



 僕は土魔術と風魔術を使い、森の中も全くスピードを落とさずに駆け抜けていく。
 あの魔獣のスピードには全然及ばないものの、成人エルフの二倍程度のスピードは出ているだろう。
 目的地にはすぐにたどり着いた。
 最初に、前方に白い布が見えた。
 目を細めて見てみると、それは教会のローブだった。しかも昨夜見た奴と同じ意匠の。
「カペー司祭!」
 僕は叫んで草むらに飛び込む。
 果たしてそこには司祭が血まみれになって倒れていた。昨日気絶していた時の様子より数倍酷い。頭から血を流し、右腕と左足はおかしな方向に折れ曲がっている。
「うっ……あっ……」
 司祭は定期的に激しい痙攣を起こしていた。
 痛みのあまり気絶と覚醒を繰り返しているんだ。
 彼の顔には血とは別に汗でもべたべたに濡れている。
 昨夜は僕のことを認識して名前を呼んでくれたけど、今回はそれどころじゃない。極めて危険な状態だ。
 応急措置をしたいけど……。
 森の方から爆音が届く。
 何か大きなものが小さい鼠を叩き潰さんとしているかのように、地響きはせわしなく起こりまくっていた。
 戦っているという感じの音じゃない。
 誰かが必死に魔獣の攻撃から逃げているんだ。
 ちんたらしていたら、向こうの方が先に死体になってしまう。
「司祭、頑張ってください。すぐに助けに戻りますから」
 僕は司祭にそう吹き込むと、再び土魔術と風魔術を起動させる。
 空気砲で射線上の木々を薙ぎ払い、一気に森の原っぱへと飛び出した。
 視界が一瞬にして開ける。
 僕は自由落下とともに眼下の様子を確認する。
 巨大な赤黒い魔獣。昨夜より狂暴性を増しているのか、暴れ狂っている。四本の後ろ足で立ち上がり、同じく四本の前足で地面をモグラたたきのように抉っていた。
 そして、はじけ飛ぶ土煙の合間、叩きつけられる四つの足から必死で逃げ惑う小さな影も一緒に捉える。
「――――っ」
 僕に迷いはなかった。
 熱魔術を起動。
 五つの空気結晶の塊を展開。
 自由落下の勢いを殺しながら、僕はそれらを魔獣の横っ腹に叩きつけた。
 魔獣が咆哮をあげる。四本の足を上回る威力の弾頭が、奴の体を爆散させて弾き飛ばす。
 魔獣はもんどりうって転がった。そこらに生える木々を中ほどからへし折りながら後方へ千切れ飛ぶ。
 油断はしない。
 さらに追撃だ。
 土魔術を起動。
 勢いを殺そうとする八本の足の下から土の槍を生成。
 巨体はあり得ない方向からの奇襲により、木々を軽く超える高さに跳ね上がる。
 続けて五つの空気結晶の塊で斜め下に叩き落とした。
 これでいい。
 まずは魔獣をこの場から引き離さねば。
 僕は綺麗に着地を決めながら、森の原っぱの様子を確かめた。
 左右の木陰に朝方見送ったシスターとアールブたちが折り重なるように倒れている。何人かは四肢が欠損している人もいる。誰かが応急措置をしたのか、血は止まっている様子だ。
 魔獣が転がっていったすぐ横には、グラヴァルウィとアドリアンとグレイス。巻き込まなくて良かった。
 グラヴァルウィはぼろぼろだ。背中を向けて倒れているのだけど、皮膚が大きく擦り剝けている。右腕は肘から先が完全に折れていた。
 アドリアンとグレイスには目立った外傷はない。
 おそらくグラヴァルウィが庇ったのだろう。この二人は何とかなる。
 衛兵二人は……駄目だ、見当たらない。
「なんでっ!? 気を失っていたはずじゃ……っ!?」
 そこでようやく僕は足元の声の主に気が付いた。
 そこには涙と鼻水でぐじゃぐじゃになったリリナがへたり込んでいた。彼女の震える手にはファルシオン。巨獣に立ち向かうにはあまりにも小さすぎる武器だった。
「リリナさん、無事で良かった。シルウィさんは?」
 僕は機械的に質問をする。リリナは嗚咽を漏らしながら右手後方を見た。
 そこにはシルウィがいた。
 気を失ってぐったりしている。
 吹き飛ばされた際に木の枝で脇腹を串刺しにされたらしく、モズの早贄のように奇妙な格好だ。僕はかっと頭に血が上るのを感じた。
 落ち着け。
 怒るんじゃない。
 冷静になれ。
 そうじゃないと、あの魔獣には対処できない。
 僕が対処できなければこの場の皆が死ぬ。
 シルウィは大丈夫だ。部位欠損が治る回復薬があるんだ。うまく臓器を避けていれば、大事には至っていないはず。
 僕は深呼吸すると、魔獣が吹っ飛ばされた方を見ながら冷静に言葉を紡ぐ。
「後ろの茂みにカペー司祭がいます。一番重症なので、まず彼から手当てを。その後この場の皆に応急処置をお願いします。それが終わったら、逃げられる人だけ連れて逃げてください。村についたらダイモンという名主に『魔獣が下りてくるかもしれないから厳戒態勢をとるように』と伝言を」
 ギリと、足元から小さく歯を噛みしめる音が聞こえた。
 その後、か細い声が続く。その声は場違いな憎しみに満ちていた。
「魔獣は、どうするつもり?」
「僕が食い止めます」
「――――――――――――」
 魔術の詠唱を始める。
 無言詠唱は人の前では使わない。僕が不利になるから。
 土は僕の意図を汲み盛り上がり。
 風は暴風のように渦巻く。
 リリナが息を呑む声が聞こえた。
 身をかがめる。
「頼みましたよ」
「ちょ――!」
 返事が戻ってくる前に僕の体は再び宙を舞っていた。
 音を置いてけぼりにし、飛んでいった魔獣の後を追う。
 ……ふと我に返ってみれば、僕の脳内は後悔でいっぱいだった。

 何故こんなところに来たのか?

 ここは紛れもなく死地だ。判断を誤れば即座に死に、判断が正しくとも一秒後には死んでいるかもしれない。
 グレイスがアドリアンに着いていくのを止められないと分かった時、僕は深く悲しんだ。悲しんで、グレイスを行かせた。教会堂から白煙を確認したときも、助けに行きたいとは思ったけれど、行けば自分が死ぬかもしれないから行こうとは思わなかった。
 では、何故今になってここへ来たのだろうか?
 友達二人の方が僕にとって大切だったから?
 いや、人命に優劣がないことは小学校の道徳の時間でも学ぶことではないか。
 僕はそんな簡単な事、当然知っている。
 では、何故――――?
 僕は僕自身の理由が知りたくなった。
 答えが出る前に地面が接近する。
 いけない。切り替えないと。
 舞い降りる第二の原っぱには、再生を終えた相当の魔獣。自身の敵が飛来してくるのを感じ取っていたのか、四つの獣の眼でしっかりと僕を見ている。
 僕は着地を決めながら右手を肩の横に上げる。
 原子よ。
 分子よ。
 僕に従え――。
 命令は即座に行きわたる。僕の指先から当たり前のように紫電が散る。優しい痺れが僕の手を撫で、それは足元の地面へと伝播した。
 土が盛り上がる。魔獣の一歩に劣らない地響きを伴って高く高くそびえ立っていく。出来上がったのは岩石の砦。素材はえり好みしたから敵の初撃程度は容易に弾きかえそう。
 魔獣が啼いた。
 八本の足。
 犬のような胴体。
 二つの頭。
 なるほど明るいところで見ると凄まじくグロテスクだ。足が多い、顔が多い、肌の色がおかしい――すべて人の生理的嫌悪をそそるものである。魔獣はそこに存在するだけで不快をまき散らす化け物だった。
 黄色い眼には獣性と知性。
 獣にはあるまじき光が混ざっている。
 刹那、魔獣が跳んだ。
 四本の足で大地を蹴り、右の二本の剛腕を僕目がけて振り下ろしてくる。虫を潰すかのような無造作な跳躍。しかし僕はその動きを昨日見て既に『知っている』。
 砦が変化する。岩石の城壁は強引に形を変化させられ、頭上を覆う棘のシェルタと化す。魔獣の攻撃は継続している。空中で勢いを殺すことはできない。右の二つの腕がはじけ飛んだ。魔獣が苦痛に吠える。まるで赤子が母を呼ぶような泣き声。
 しかし啼いたのは一方の顔だけ。
 左の一方は口から長い舌を出し、宙を舞う腕を一本絡めとった。
 先手を打たれた。
 存外頭がいい。
 だけど、残りの一本は貰って行く!
「ふっ……」
 左手を前に出す。僕の魔力はまたも大地を鳴動させた。硬い槍が地面からそそり立ち、悪血をまき散らしながら転がる腕を串刺しにする。更に串刺しにした腕の周囲を岩の砦で囲む。
 魔獣は雄たけびを上げながら岩の牢獄に突進した。
 そうはさせない。腕は返してやらない。
 僕は七つの土の槍と五つの空気結晶を生成し、魔獣を弾き飛ばした。魔獣はまたもや背後に吹き飛んでいく。僕はそれを追う。
 視界の先――奴の右腕前から二番目は青い電気をまき散らしながら血止めが行われている。しかし腕は生えてこない。

 奴の腕は再生していない。

「やっぱり、そういうことか」
 僕は高鳴る心臓を押さえつけて呟いた。
 ここへ来る前に必死に魔獣への対策を考えた。
 どうすれば勝利となるのか条件を絞り出した。
 魔獣は倒せない。あの強力な再生能力が殺すことを邪魔してくる。再生回数が有限か無限かは分からない。しかしおそらく殺しきる前にこちらの魔力が底をつくだろう。だから倒せない。倒すことは勝利条件としてあまりにも難易度が高い。
 魔獣をまた撤退させるか――。しかし魔獣は住処で戦っているのだ。これ以上退いてくれるはずがない。
 人の救出だけして村へ逃げ帰るか。これは最後の選択肢だろう。最終的にどうしようもなくなったら採る手段。だってこれをしたら、怒れる魔獣を村まで牽引することになるから。
 そんなことをすれば防備を固める途中の村は消し飛んでしまう。
 だから僕は第四の手段を考え出した。

 魔獣を封印する。

 八本の肢を切り離し。
 二つの頭を引き裂いて。
 長い胴体を寸断する。
 そしてそれぞれを岩の小部屋に閉じ込めるのだ。
 魔獣の再生はDVD映像を巻き戻すがごとく行われる。
 飛び散った血は元の位置へ。
 はじけ飛んだ肉も最初の場所に。
 それは、失ったものを再生成するという形ではなく、時間の巻き戻しのように行われる。ならばその巻き戻しを阻害すれば再生は防げる。
 その際内側から檻を壊せない程度に体を削り取っていく。
 単純だけど、かなり効果的な作戦だ。
 魔獣に追いついた。
 奴は右足を一本失い、僕を警戒するように僕の背後へ回り込まんとゆっくりと移動する。岩の城壁はこれでは使えまい。僕も同じように魔獣の歩みに合わせて円に歩いた。
 互いに、相手を喰らう一瞬を狙って。
 僕たちは獣のように腐葉土の上を歩む。
「……ッ!!」
 魔力を練る。
 再度原子に命じる。
 再度分子に命じる。
 風とは僕の手だ。
 土とは僕の足だ。
 『世界』とは僕の体だ。
 だから僕の思いは、『世界』を塗りつぶす。
 空中から空気結晶の槍が出現する。大気中の分子が僕の頭上へと奔流のように押し寄せ、強力な冷気によりその姿を個体へと変化させる。形状は衛兵の二人が使用していた短槍。穂先が一本の、相手を刺し貫くことに特化した形。
 果たしてそれが呼び水となったか。
 双頭の魔獣は歌声を上げた。
 吠え声、泣き声とは違う清らかな声。
 歌うのは右の頭。
 魔獣は女だった。
 透き通るような音は相反するがごとく大気にびりびりと不快な振動を伝播させていく。

 それは、『世界』を侵す歌だった。

「なっ――!」
 僕は目を見開く。
 魔獣の七本の足先が燃え上がる。赤い炎を揺らめかせて、魔獣は更に天に吠えた。
 来る――!
 そう感じた時には僕はもう背後に跳んでいた。土魔術と風魔術を展開させて、後先考えず目一杯後ろに下がる。
 巨獣の姿がぶれる。
 それは捕食行為ではない。
 完全に相手を滅ぼす一撃だった。
 大気ごと薙ぎ払うように三つの足が数瞬前まで僕のいた場所を薙いでいく。更に魔獣は三本の足を支えに後ろ足を天高く蹴り上げた。火柱が倍に膨れ上がる。それは僕を飲み込もうと押し寄せる波のように接近する。
 盾。
 窒素の盾。
 しかし炎は貫通する。
 物理的に防いでは駄目だ。
 酸素を散らすんだ。
 大気の分子を減少させるんだ――!
「――っ!」
 腕を振るう。
 細かい調整は出来ない。
 酸素が散る。
 火柱が近づく。
 僕は体を捻る。
 追いつかない。
 窒素の盾を再度展開。炎の向こうから僕を狙う四本の足を迎え撃つ。

 ――――接触。

 凄まじい衝撃が僕の体を貫いた。
 体がバラバラになりそうなほどの激震。
 しかしそれはまやかしだ。
 平穏に慣れた僕の甘えた妄想に過ぎない。痛みを無視すれば僕の体は全て無事だ。
「――っ。――っ」
 中空で身を捻る。
 勢いを殺す。自ら後ろに飛ぶ。
 同時に反撃。空気結晶の剣を三本生成。風に煽られたそれらは、複雑な軌跡を僕の瞼に残しながら魔獣の足に喰らいついていく。
 剣の先があたかも白刃のごとく煌めいた。
 光の螺旋のように渦巻く三本の剣は、逃げ遅れた魔獣の左の後ろ足を刈り取っていく。
「貰った――!」
 土の槍で串刺し。囲んで封印。僕は遅れて着地する。魔獣は痛みに慣れたのか悲鳴は上げない。これであと六本。
 そろそろどちらかの頭が欲しい。
 左はともかく、右は妙な魔術を使ってくる。さっきのはファイア・エンチャントか。燃やしているのは自分の足の毛皮だろうか。赤い炎は淡く燃え続けている。
 巨獣が再び吠える。
 僕の方へ突進してくる。
 乱舞が始まる。腕を振るい、足を振るい、二つの禍々しい口腔が僕に致命傷を与えようと迫り来る。
 しかし予習はしてきた。
 昨日見た奴の動きから正確に逃げ道を予測し、その通りにすり抜けていく。右からの振りおろしには風の魔術で土埃を払いながら左に、追撃の左振り上げは身をかがめてやり過ごし、喰らいついてくる二つの頭に土の槍を叩きつけながら後方に跳ぶ。
 槍は当然のように躱される。奴は喉をこちらに見せるようにのけぞる。
 巨体とは思えないほど動きは俊敏。これが獣ではなく、知性ある人ならば、僕は既に十回は殺されている。
「――っ、――っ、――っ!!!」
 僕のリズムは一定だ。
 後方へ下がりながらまたもや空気を低温化させる。
 呼応するように右の頭が歌い出す。
 僕の命じた低温化が侵されていく。
 そのとき唐突に気付いた。
 僕の魔力は黒色をしているのだ。
 僕の指の先。
 紫電の散った先には、黒いヘドロのような何かが蠢いている――ような気がする。
 きっとそれは幻影だ。
 現代日本人だった僕は、今やあり得ないものを幻視していた。
 僕の『黒』が、右の頭の『赤』に塗りつぶされていく。
 凄まじい負荷が僕の両手にずんとかかる。
 低温化が解かれる。空気結晶は巨大な氷と化し、崩壊しながら魔獣へと直進していく。低温化が終わっても、弾頭は消えない。
 氷の弾丸は半身を失いながらも異形の魔獣の右の顎に着弾した。
 しかし威力が全然足りない。
 ただでさえ心もとない質量が半減されては、ほとんど損害は出ない。
 頭を吹き飛ばすはずの一撃は、右の首筋を深くえぐるにとどまった。
 しかし頭の歌は止まる。
 喉に溢れた血が奴の詠唱を邪魔する。
 『赤』の『世界』が急速に勢力を失っていく。
「――――っ。―――――!!」
 魔力を響かせる。
 響け!
 響け!
 響け!
 天高く!
 『世界』を満たせ!
 僕は『世界』を黒くする。
 原子と分子が黒い力に侵蝕されて強引に形を変えられていく。
 極限まで低温化された大気はビキビキと凄まじい音を立てて結晶化していく。
 槍があった。
 剣があった。
 無骨な弾丸があった。
 ファルシオンがあった。
 ロングソードがあった。
 眩い日の光を浴びながら数多の結晶の彫像は敵に向かって直下する。
 風が逆巻く。
 僕の指先の動きに応えて、大小二十三の空気結晶の武器が魔獣の体に襲い掛かる。
 時に斬る。
 時に突く。
 時に打ち抜く。
 僕は吠えた。血臭に鼻が曲がる。グシャグシャという肉をなます切りにする不快な音が僕の耳を変にする。
 右前足。
 左前足。
 右後足。
 左後足。
 すべて刈り取る。
 空に巻き上げられた六本の足を、僕は横から攫うように撃ち落とした。
 囲う。
 これでチェックメイトだ。
 奴の足は全て奪った。
 あとは残った胴体を三枚におろし、首を二つ刎ねるだけ――――!!
 しかし。

 その時、左の頭が歌い始めた。

   ×              ×                ×

 喉の潰れた右の魔獣の頭が沈黙する一方。
 左の頭が歌い出した。
 右の頭とは違う歌声。
 低く、怨嗟を孕む、呪いのような声音。
 だけど左も女だった。低くても、その歌声は女だった。
「何を――?」
 するつもりだ? ――と僕は眉根を寄せる。
 左の歌の『色』が見えない。
 無色透明だ。
 だから分からない。
 何をするのか。
 芋虫みたいになって蠢く、奴の意図が全然分からない。
 だが、これ以上させるのは危険だ。
 僕は瞬時にそう判断し、再び空気を低温化させる。すると右の頭が弾かれたように口を蠢かせる。ガラガラに壊れた声で僕の世界を侵そうとする。
 僕は抵抗した。
 ここで散らされてはいけない。
 左の頭を仕留めないと大変な事になる――!
 そう感じたから本気で魔力を込めた。
 だけど。
 僕の命令は容易く右の頭に塗りつぶされた。
 単純な力負け。
 生物として、奴の方が格段に優れていただけの話。
「ぐっ――!?」
 とてつもない衝撃が体を襲った。
 これは詠唱を続ける左の頭の攻撃か。
 いや――違う。右の頭に、魔術をキャンセルされた反動が僕の体にフィードバックして来ているんだ。
 理解した。
 魔術に対しては、強力な生物はレジストだけでなく、キャンセルもしてくるのだと。
 左の頭の歌が終わってしまう。
 僕は全身から汗がどっと噴き出すのを感じた。

 無色透明だったはずの、左の頭の魔力が、僕と同じ『黒』になっていた。

 僕の魔術を盗られた。
 真似られた。
 驚愕する僕の目の前で『黒』が『黒』に塗り替えられていく。
 同じものだから抵抗は出来ない。
 よく分からないまま、僕が展開した足を封じる牢獄が六つ全部ほどけていく。
 いけない――再度土魔術で魔獣の足を縫い付けないと。
 そう感じた瞬間、僕はがくりと膝をついた。
「嘘……、だろ……?」

 魔力の枯渇。

 昨日、三十七の弾丸を撃ち落としたあとに僕を襲った底知れない虚脱感と同じものが僕の中を駆け巡る。
 僕が動けないでいる間に、魔獣は六本の腕をくっつけていた。
 六本は完全再生。
 魔獣が再び雄々しく立ち上がる。
 それに気を取られていた僕は。
 背後からの『それ』に気が付くことができなかった。
「ガッ――――!!」
 無防備な背中に巨大な何かがぶち当たる。
 先ほど受けた衝撃なんかまるで比にならない。
 咄嗟に自分から跳んでいなければ気を失っていた。
 身を捻って確認する。
 飛んで来たものは、最初に封印した魔獣の右前足だった。
 攻撃の意図はなく、単純に再生のためだけだったために威力はない。だけど、僕の小さな体には、それですら致命的だった。
「あッ――――! ガッ――――!!」
 地面を体が滑る。
 顎の下がずたずたに擦り剝ける。
 僕の右手はひしゃげる。
 足は絶対に守る。
 だけど、左の手首がイカレた。
「く……そ……!」
 薄目を開けて魔獣を見上げる。
 魔獣は悠然と僕を見下ろしながら残る再生を終えていく。
 そのとき、僕は服の襟から零れ落ちる木製の犬笛を見つけた。

(『病んだ血の殉教者』と呼ばれるケモノに効果のある笛だ。あんたがピンチになったとき、これを吹けば、相手がその眷属なら助かるかもしれない)

 そんな虚ろな声が想起される。
 僕は首を無我夢中で突き出して犬笛を咥えた。
 息を吹き込むと、笛は僕の耳には聞こえない音色を奏で始めた。

「MAAAAAAAAAAAAA!!!!」

 魔獣が吠えた。
 不快そうに。
 嫌がるように。
 無造作に振り落とそうとしていた鉤爪を引いて。
 同時に右の頭が歌い出す。
 声は清らかなものに戻っている。
 赤い色が侵蝕し。
 次の瞬間、僕の口の犬笛が音を立てて砕けた。
「はは……なるほどね。確かに、これは助かるかもしれない……」
 魔獣が戦意高揚していない時ならっていう条件付きだけど。
 つまり、この場においては何の意味もなかった。
 僕は何とか身を起こしたけど、まだ体は衝撃から立ち直っていない。
 魔力は枯渇し、疲労状態。
 魔獣は苦しむのを止め、僕に再び腕を伸ばした。
 虫でも潰そうかという無造作な叩きつけ。技巧もクソもないただの通常攻撃だけど、今の僕を殺すには十分過ぎる一撃だった。
 僕は脳裏にこれまでの四年間の映像が駆け巡るのを感じた。

「アール君! 伏せて!」

 僕が死を覚悟した瞬間、そんな凛とした声が響いた。
 僕の頭上で灰色の何かが爆発する。
 灰のような粉末。
 それが魔獣の鼻元にもわりと漂う。
 魔獣は口を大きく開き、涎を垂らして吠えた。
 いや、咳き込んだ。
 風に乗って僕の鼻に魔獣の獣臭い息と、鼻の粘膜を刺激するスパイシーな香りが届いた。

 魔獣が怯んだ!

「――――っ!」
 そう見るや否や、僕は魔術を発動させていた。
 体に鞭うつ。
 魔力を捻り出す。
 空気結晶は低温化の途中でほどけた。しかし続けて発動させた土の槍は、無防備な魔獣の腹に直撃し、奴を天高く放り出した。
「――――!」
 上に打ちあがった魔獣に、連続して灰色の靄がさく裂する。
 悶える魔獣の四つの眼に、さらに綺麗な鳥の羽根がついた矢が命中した。
 僕は空気結晶を再度出現させる。
 小さいが、魔獣を弾き飛ばせるぎりぎりのサイズ。
 着弾。
 魔獣は苦痛に鳴き、森の奥へと吹き飛ばされていく。
「っ、はあ――。はあ――。はあっ――」
 僕は右手を挙げたまま、項垂れて荒い息を繰り返した。そんな僕の低い視界に、二組の革靴が駆け込んできた。
 誰が来たかなんて上を見なくても分かる。
 シルウィとリリナだ。
「アール君、良かった! 生きてた!」
 シルウィの声が僕の頭上から降り注ぎ、続けて彼女のしなやかな手が僕の肩に乗せられた。
「どうして……」
 僕は体を震わせながら声を絞り出した。「どうして来たんですか!?」
 見上げる。
 そこには、やはり、蜂蜜色の髪のエルフの女の子と烏の濡れ羽色の髪の女の子が立っていた。
 シルウィの上着の下からは血に濡れた包帯が露出している。もう血は止まっているらしいし、内臓を傷つけていそうな色でもない。
 僕の叫びに、シルウィは哀しげな顔になった。
「どうしてって……。分からないの?」
「分かりません。助けていただいたことには深く感謝しています。しかしどうして逃げなかったのか意味不明です。――リリナさん、僕はきちんと貴女に言ったはずですよね?」
「聞いたわ。応急処置は全員済ませた」
「だったらどうしてそのまま逃げなかったんだ!?」
 僕は頭に血が上って二人に向かって怒鳴った。「死にますよ!? 冗談とかではなく、あの魔獣は貴女がたにどうこうできるレベルの敵ではないんですよ!?」
 僕の声は涙で掠れていた。
 二人を失いたくない。
 そんな強迫観念にも似た何かが僕の体を呪いのように支配していた。
 僕はぽつりと続けた。
「僕を助けに来たら、犬死になることも、分からなかったんですか……?」

「じゃあ、私は犬死でいいよ」

「え……?」
「私は犬死でいい」
 シルウィは繰り返した。
 森の奥で魔獣の怒りの声が聞こえる。どうやら嗅覚が戻ったようだ。
「シルウィさん、貴女は――!」
 彼女に食いつこうとする僕を遮って、リリナが前に出た。それから、冷ややかに、ごみを見るような視線で僕を見下した。

「シルウィ姉は、貴方の慰みものじゃない」

 それを聞いて。
 僕は。
 頭が。
 真っ白になった。
「なん……ですって……?」
「言葉通りの意味よ。手っ取り早くぬくもりが欲しいだけなら他所でやって。貴方ほどの人間なら、シルウィ姉の代替品なんてすぐに見つけるでしょう?」
 その言葉を、頭で理解するより先に、僕の一番深いところが無意識的に感じ取っていた。
 僕は冷たい血が体を駆け巡るのを感じた。
 触られた。
 この烏の濡れ羽色の髪の少女は、今、僕の本質に土足で踏み込みやがった。
「―――――――――――――――」
 僕はリリナをねめつけた。
 ありったけの憎悪を込めて。
 ありったけの殺意を込めて。
 リリナ・カペーという少女を直視した。
「人は、『ホントウ』の事を指摘されると、怒るか、泣くかのどちらかの反応をする。ふふっ、なんだ――――。仮面つけたみたいな気色悪い顔の奴だと思っていたけど、そういう顔もできるんだ」
「……何ですって?」

「ようやく、私を『見た』わねって、そう言っているのよ。アルフォンス・モーリス」

 彼女は僕の殺意に得体の知れない喜色で返し、僕に背を向けた。
 もう用は済んだと言わんばかりに。
 時同じく、地響きとともに魔獣が原っぱに降り立つ。
 シルウィは僕を見て柔らかく微笑んだ。

「逃げて、アール君。『貴方なら』逃げられるでしょ?」

 貴方なら、逃げられる。
 彼女はそう言って魔獣に立ち向かうために僕に背を向けた。
 彼女も逃げられるはずなのに。
 もう逃げていなくてはおかしいのに。
 アールブの技術の粋を込めた弓の機工がガシャリと音を立てて変化する。
 それは、一組の白銀の双剣だった。
 対人では鋭い切れ味を誇るそれも、異形の魔獣には何の役にも立たない。
「行くよ、リリナ!」
「うん!」
 二人は止める間もなく魔獣に突っ込んでいく。
 リリナがポーチから黒い玉を取り出し、魔獣に投げつける。
 灰色の靄に魔獣が嫌悪している間に、シルウィが肉薄して魔獣の足に刃を振るう。
 でも、それで終わりだ。
 魔獣の皮膚は裂けることすらなく、シルウィの双剣を弾き返した。
「シルウィ姉!」
 リリナがすかさずフォロー。白い玉を宙に投げて魔獣をかく乱する。
 なんだ、これ。
 どうして?
 何をしているんだ……?
 僕は呆然としていた。
 呆然と、先ほど二人に言われた言葉を反芻していた。

(私たちは、貴方の慰みものじゃない)
(逃げて、アール君。『貴方なら』逃げられるでしょ?)

 僕は――どうして、こんな死地に自ら飛び込んできたんだ?
 僕の中に理性的な疑問が湧き起った。
 だが、そんな疑問は簡単に氷解する。
 答えは、『友達』を助けるためだ。
 僕は『友達』を失いたくないからここへ来た。
 だけど、彼女たちは、本当に僕の『友達』だったのか?
 僕は彼女たちといることで、ささやかな温もりを感じていた。
 それが、僕に向けられたものだと思って。
 だけど、本当にそうだったのか?

 僕は、彼女たちが温かな笑みを浮かべるのを、綺麗な絵画を観るように眺めているだけだったのではないか?

 温もりが心地よかったから。
 その温かさに触れていたいだけで、彼女たち本人のことは、どうでも良かったから。
「あっ……」
 気付いた。
 僕は――彼女たちの事を、温もりを生み出す機械としてしか見ていなかった。
 慰みものとリリナは言った。
 その表現は悔しいほどに的を射ていた。
 僕は、彼女たちを慰みものとして扱うだけで、まともな一個の人格とは見なしていなかった。
 シルウィも。
 ギルバードも。
 リリナも。
 グレイスも。
 それ以外の、皆も。
 僕は、結局のところ、他人を自分と同じ人として見ていなかったのだ――。
「フッ……。フフッ……」
 なんだ、これ。
 なんだ、これは。
 僕は、素晴らしい外道じゃないか!
 人を尊重しない。
 いつもそこにいるのは僕一人。
 本当にアドリアンがグレイスを孕ませたのか?
 グレイスに種づけしたのはそこらの犬畜生ではないのか?
 人の子のする思考とは思えない。
 人の子とは思えない。
 しかし、それが、まぎれもなく僕なのだった。
 スカアハは僕の事を外道になる才能があると評した。
 その意味が今やっと分かった。
 僕は外道だから、成長したら、周り全てを殺して操り人形にするような、世紀の大外道になる才能がある。
 ああ――。
 ようやく分かった。
 僕は、そういう人間だったのだ。
 そういう、腐った人間だった。
 故に、この場で僕のとる行動は一つ。
 自分を生かすために、彼女二人を囮にする。
 温もりをくれる装置として惜しいが、別の子をまた探せばいい。
 それだけのこと。
 はは……。

 ふざけんなよ。

「あぐっ!」
「シルウィ姉! がっ――!」
 シルウィとリリナが魔獣の攻撃を躱しきれず、かすった腕に弾き飛ばされて僕の横に転がった。シルウィの脇腹からどくりと血があふれ出る。シルウィは頭を打ったらしく動かない。リリナはシルウィの下敷きにされてやはり気を失っていた。
「ふざけんなよ」
 死にかけていた思考が呼び戻される。
 僕の中に長らく失われていた炎がめらめらと燃え上がる。
 炎の中に『自分』が消えていく。
 彼女たちを助ける。
 僕は外道だけど、最後まで僕を見てくれた二人には、恩返しくらいしよう。
 それくらいしか、僕は『友達』に報いる方法を知らないから。
 熱魔術を展開。
 僕の周囲の大気が胎動する。
 それは何かの始まりを示唆する鼓動だった。
 空気結晶は崩壊を続けながらも僕の頭上に力強く浮かび上がる。向かってくる魔獣に、僕はそれらを力任せに叩きつけた。
 魔獣が怯む。
 そうだ、僕を見ろ。
 お前の相手はこの僕だ。
 左手を前に。
 熱魔術起動。
 魔獣の周囲全ての熱を奪い、それを魔獣に転嫁。
「AAAAAAA!」
 魔獣は咆哮を挙げた。
 発生した火炎に身を焦がされて悲鳴を上げた。
 右の頭が歌う。
 歌声は僕の『黒』を『赤』に塗り替えた。
 今度は氷の結晶をつくり出す。
 周囲全ての水素分子と酸素分子を集めて、強引に化合する。
 紫電を散らしながら形成される水の中に、僕は低温化に使った熱を閉じ込めた。
 鼻白む魔獣に放つ。
 氷塊は魔獣に着弾すると同時に内部の熱を破裂させて、水蒸気爆発を起こし、魔獣の右の頭を吹き飛ばした。
「ごほ……」
 口に手を当てると、血がついていた。

「アル!」
「アルフォンス!」

 僕を呼ぶ懐かしい声。僕は後ろ振り返った。
 アドリアンとグレイスが並んで立っていた。
 僕を見て信じられないという表情を作っている。
 信じられないのは僕の方だ。
 僕にはまだこんなにも力が残っていた。
 『自分』の安全を勘定に入れなければ、僕はかくも強い人間だったのだ。
 それは、求めている答えとは程遠い自己犠牲。
 彼女たちや皆への贖罪にはなりえないものだった。
「アドリアンお父様、グレイスお母様」
 僕は魔獣を文字通り消し飛ばしながら二人に微笑む。
 でも、僕は笑い方を知らないから、二人を怖がらせてしまう。
「お父様、お母様、彼女たちを連れて逃げてください」
 空気結晶の弾丸を二十展開。
 流星群のごとく魔獣の頭上に振り下ろす。
「あ――、アルフォンス、馬鹿な事を言わないで!」
 グレイスが叫ぶ。
 魔獣が再生しながら僕に襲い掛かってくる。
 地軸を揺るがしながら、後ろの四人まで下敷きにして殺そうと。
 僕は、それを岩石の砦を展開して弾き返した。
 地面が激しく揺れる中、僕は、彼女たちに『笑顔』を向ける。

「生きてください。僕は、これしか、あげられるものを知らないんです」

 二人は僕の顔を見て戦慄した。
 まるで、僕こそが森の魔獣だと言わんばかりに。
 二人はいそいそとシルウィとリリナを回収していく。
 彼女らが木の向こうに消えていった後、僕はようやく魔獣に向き直った。
 奴は僕を見ていた。
 同族を見る懐かしさすらその四つの瞳に宿らせて。
 僕は左手に『黒』の殺意を込める。

「来いよ、犬野郎。化け物同士、死ぬまでじゃれ合おうぜ」



第九章  汝、獣か、人か



 森の開拓予定地の最奥の原っぱ。
 おそらくこの奥には魔獣の巣があるだろう場所。
 そこで僕は魔獣と対峙していた。
 迷いはなかった。もう一度魔獣をバラバラにして封印する。
 全て牢獄にぶち込み切れば僕の勝ち。
 先に僕の魔力が尽きるか、魔獣の爪が僕に届けば魔獣の勝ち。
 多分、僕は敗北する。
 奴の生物としての能力は、僕の能力を遥かに凌駕しているから。
 それは僕が万全の状態であっても変わらない。実際、さっき万全であってもどうしようもなかった。今の僕ではどうあがいても魔獣には勝てないのである。
 しかし心は不思議なほどに落ち着いていた。
 今の僕には何もない。とても自由なのだ。
 目の前の相手を倒すことだけに全力を注げばいい。
 とてもシンプル。
 今この場には、僕と魔獣しか存在しえない。

「止めて!」

 だけど、その状態はあっけなく破られた。

「止めて! 私の娘に手を出さないで!」

 数えるほどしか聞いたことのない、見知った女性の声が、僕たちの決闘に割り込んできた。
 金髪縦ロールにネグリジェを着た豪奢な婦人――マーガレット・モーリスが金切り声を上げながら奥の木陰から飛び出してくる。
「マーガレットさん!?」
 僕は目を見開いた。
 しまった、そう言えば彼女が残っていた。
 マーガレットさんは魔獣の後ろから僕らの方へ近づいてきている。
 位置的に魔獣の攻撃から守り切れない!
「――――っ!」
 急いで熱魔術を起動する。とにかく魔獣をマーガレットさんから引き離さないと!
「止めて! お願い!」
 しかし、彼女は、あろうことか僕に対して敵意の念を送っていた。
「え――?」
 マーガレットさんが僕と魔獣の間に立ち、魔獣を僕から守るように、両手を広げる。
 彼女は肩で息をしながら、鬼のような形相で睨みつけてきた。
 マーガレットさんが僕に叫ぶ。
「わたくしのマリエットとリリエットに手を出さないでくださいまし!」
「マリエットとリリエット……? その魔獣がそうだって言うんですか?」
 僕の言葉にマーガレットさんは唇を震わせて激昂した。
「魔獣は貴方の方です! この、呪われた忌み子が! マリエットとリリエットのどこをどう見れば魔獣に見えるというのです?」
「……何の冗談かは知りませんが、そいつはどこからどう見ても魔獣です」
 僕は油断なく構えながら言葉を発する。「マーガレットさん、そこからゆっくりと横に移動してください。絶対に魔獣を刺激しないように」
「嫌です! こんな、五歳の小さな女の子二人を相手になんと野蛮な。貴方は先ほどこの子たちを魔術で殺そうとしていたでしょう!」
 どういうことだ? 彼女は何を言っている?
 僕は眉をひそめた。
 後ろの魔獣がモーリス家の双子の姉妹、マリエットとリリエットだって?
 マーガレットは正気で言っているのか?
 魔獣に囚われて気が狂ってしまったのではないのか?
 僕は唇を噛みしめた。
 いずれにせよ、マーガレットさんを引き離さねば。でも彼女の位置は魔獣のレジストの範囲に入ってしまっている。僕の呼びかけは届かない。
「マーガレットさん、僕が一方的になぶっているいるように曲解されているようですが、そうではありません。僕はそれと戦っていて、ここは戦場なんです。どうかそこから――」
「曲解などではありません!」
 マーガレットさんは叫んだ。「こんな――こんな小さな子に氷をぶつけて。この子たちは悲鳴を上げて逃げ回っていたのですよ!? それを楽しそうに! この外道!!」
「――――――――」
 マーガレットさんは後ろの魔獣が、人間の形をして見えているのか。
 幻覚か。
 気が狂っているのか。
 魔獣の風貌に関してはともかく、魔獣がマリエットとリリエットということは辻褄が合わないこともない。
 アドリアンが隠していた理由。
 館内で見ない理由。
 グレイスが知らない理由。
 マーガレットさんからこんなものが生まれて、館を離れて森の奥で成長していたとしたら、全部に説明がつく。
「戻りましょう、マリエット、リリエット。あれは忌み子です。人間の皮をかぶった悪魔です。構わないでいいから、お家に帰りましょう? ね? ……え、どうしたの!? きゃあ!?」
 魔獣は当然のようにマーガレットを押しのけて僕の方へむき出しの敵意を向けてくる。マーガレットさんは腕に弾き飛ばされ、背中から木に激突した。「うぐぅ」とくぐもった声を上げる。それでも彼女はふらふらと立ち上がると魔獣に近寄っていく。
「危ない!」
 僕は悲鳴を上げた。魔獣が無造作にマーガレットさんの細い腰を掴んだのだ。ベキリと嫌な音がして、マーガレットさんの顔が一瞬苦痛に歪む。しかしすぐに悦楽の表情になり、魔獣の手をうっとりと撫で始めた。
「くそ!」
 マーガレットさんを助けたいが、この位置からだと彼女に当たってしまう。
 でも、放っておいたら彼女は肉団子だ。
 ここは迷っている場合じゃない。
 一か八か――。

「やれやれ。笛の音を聞きつけて戻って来てみれば、こんなことになっているとはね」

 この戦いにおいて、もう何度目の乱入だろうか。
 僕が『世界』を『黒』で侵す前に、おそらく最後になる闖入者の声が、森の木々の合間をこだました。
 次の瞬間、何の前触れもなくマーガレットさんを掴む魔獣の腕が斜めにずれた。
 鉄の鑢を擦り合わせたような鳴き声を上げながら魔獣がたたらを踏む。マーガレットさんはずり落ちた魔獣の手の中から解放され、乱雑に地面に放り出された。
 そして黒い影が僕の前に飛来する。
 黒い毛皮のマントに鳥の顔をかたどった黒いマスク。
「スカアハさん!」
 僕は叫んだ。
 彼女は手に見たこともない武器を持っていた。
 銛――いや、槍か。
 長さは二メートルちょい、穂先は三つに分かれていて、紫色の毒々しい光沢を放っている。何か途轍もなく禍々しいものがあの槍に宿っている――僕はそう直感した。
 魔獣は腕を再生しながらじりじりとスカアハから後退していく。彼女を見て怯えているのか?
「はっ、満身創痍かい。魔術師風情が前衛もなしにやり合うからそうなるんだよ」
 スカアハはどこか楽しげにそう言いながら、懐から透き通るようなライトブルーの液体が入った小瓶を取り出し、僕に投げてよこした。
「これは?」
「いいから飲みな」
 促されるままに栓を開けて中身を飲み干す。すると甘ったるい痺れが僕の脳を包み込んだ。体が軽くなったようだ。僕は立ちあがった。
 スカアハが槍を構える。
「哀れな双子だ。森の奥で静かに生き延びる選択もあり得たろうに」
「スカアハさん、気を付けてください。あの魔獣、凄まじい再生能力を持っています」
「知っている。だが弱点を突けばっ」
 話の途中で襲い掛かってきた魔獣をスカアハは難なく弾き返した。信じられないことに、魔獣の剛腕を受け止め、その上で軽々と押しかえしたのだ。体が一瞬ぶれたような気がしたから何かしらの技を使ったのだろう。僕には全く分からなかった。
「弱点を突けば再生は止まる。その間に頭を破壊すれば奴は死ぬ」
「弱点!? どこですか!?」
「弱点は血流に乗ってあちこちに移動する。特定の部位ってわけじゃない」
「流動的に変わるってことですか? そんな無茶な」
 僕は再生を始める魔獣を睨みながら呟く。
「止めて! 娘に乱暴しないでぇ!」
 マーガレットさんが今更のように起き上がってきた。スカアハが舌打ちする。
「おい、魔術師。あの女を押さえつけときな」
「分かりました」
 僕は左手を向ける。お腹を押さえながらよろよろと歩み寄るマーガレットさんを、土魔術で生成した岩石の腕で押し倒す。彼女は地面に押さえつけられ、身もだえしながら泣き叫んだ。
「お願い! 許して! 命だけは! 命だけはぁ!」
 スカアハはマーガレットさんを無視して地面を蹴った。
 スカアハの舞踏が始まる。
 それはとても苛烈で。
 とても美しかった。
 空中を舞うように繰り出された斬撃と刺突は、容易に魔獣を千切りにしていく。僕が命を削りながらやったことを、彼女はルーチンワークをこなすように、その剣指刀掌で再現する。魔獣は瞬く間に芋虫のようになった。
 右の頭が歌い出す。
 だけどそれは予測済みだ。
 僕はその詠唱の第一小節が終わる前に、上から『黒』で塗りつぶした。
 薬の影響か、僕の体は戦闘前に戻ったかのようにぴんぴんとしている。敵の魔術をキャンセルしているというのに、フィードバックを全然感じない。脳がおかしいほどに高揚している。
「――――見つけた」
 スカアハが唐突に呟いた。
「あんたにゃ、分からないだろうが――今は右の尻タブの下だね。あたしの斬撃から庇うように筋肉を動かしている」
 言われて僕は芋虫みたいになった魔獣の尻を見た。
「あ、なんか、他のところより赤い……?」
「へえ――、分かるのかい。これば驚いた」
 スカアハの姿が消える。次の刹那には彼女は手に持つ禍々しい槍で魔獣の腿を刺し貫いていた。魔獣の両方の頭から絶叫が迸る。
「魔術師! 頭頼んだよ!」
「はいっ!」
 僕は左手を上げる。
 氷の塊をつくり上げる。中に熱を閉じ込める。それを七つ作り出す。

「やめてぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」

 マーガレットさんが叫んだ。
 僕はそれをしっかりと聞いて――魔獣の頭に七つの水蒸気爆発をぶつけた。
 二つの頭が――粉々にはじけ飛ぶ。
 青い電気は走らない。
 再生は始まらない。
 魔獣の巨体がずんと地面に沈む。
 異形の魔獣は――僕たちになぶり殺しにされて、あまりにも無惨に息絶えた。

   ×              ×               ×

 魔獣の体から悪血が噴き出す。
 それはスカアハ目掛けて飛んでいく。いや、正確には、スカアハの手にする槍の穂先に向かって、である。
 血は速やかにスカアハの右腕を濡らした。彼女は諦めたようにため息を漏らした。
「あーあ、呪いを貰っちまった。だから嫌だったんだ」
 僕は慌ててスカアハに近寄ろうとして――僕はがくりとその場に膝をついた。
「あ……れ……?」
 体に力が入らない。
 さっきまではぴんぴんしていたのに。
「渡した薬は脳のリミッターを外す薬だからね。脳内麻薬さ。ボロボロの状態で、眷属の魔術を正面からキャンセルしたんだ。そりゃそうなって当然さ」
「――――――――」
 そうか。MP回復ポーションだと思っていたけど、そうじゃなかったらしい。ま、この世界で魔力を回復させる薬なんて寡聞にして聞いたことが無いので効能を聞いて納得である。
 僕はすっからかんの体を振り絞って熱魔術を起動した。口の中に血が溢れる。魔獣の死骸に火がついた。もう死んでいるからレジストされることもない。
「あんた、死ぬ気かい?」
 スカアハの言葉に僕は淡々と返す。
「火葬くらいしてやらないと、かわいそうです」
「鬼! 鬼畜! 人殺し!!!」
 マーガレットさんが叫んでいる。
 時折苦しそうにしているけど、それでも力の限り僕に憎悪を送ってきている。これだけ元気があれば、なんとかなりそうだ……。
「スカアハさん、助けてくださってありがとうございます。貴女が来てくれなかったら、死んでいたと思います」
 僕は改めて彼女にお礼を言った。スカアハはマスクの下で鼻を鳴らした。
「別に。単なる気まぐれでやったに過ぎない」
「呪いって言っていましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ――これかい?」
 スカアハは面倒くさそうに右の腕をまくった。そこにはうっ血した後のように青黒く変色していた。「一年以内に処置しないと死ぬね」
「えっ!?」
「アテがないわけじゃない。呪いを受けたのはあたしなんだし、あんたが気にすることじゃないよ」
「でも……」
「あんたじゃこの呪いに対して何もできない。腐心するだけ無駄ってことさ。それより、あんたはあんたの心配をしてな」
「――――――――」
 スカアハから渡された薬が切れたらおそらく気絶。両腕は使い物にならず、顎の下の肉は大きくずる向けて時折激痛が走る。まあ、魔獣に立ち向かうなんて愚かなことをしたんだ。この程度で済んで良かったと思っておこう。
 スカアハは槍の穂先をブーツで拭ってい始めた。
 見ると、ブーツの下には魔獣の血に汚れた紐のようなものが付いている。
「眷属のへその緒さ」
 スカアハが僕の視線に気付いて事もなげに答える。「魔獣の第二の――いや、第三の脳みそだ」
「目の覚めるような『赤』ですね……」
 僕は目を細める。へその緒からは、魔獣の頭の繰り出す魔術と同じ色が迸っている。これが、あの魔獣の核だったのだろう。
 へその緒か。
 やっぱり、あの双頭の魔獣は――。
 いや、推測はやめよう。あとでアドリアンに全部聞けばいい。彼は――もう隠すことはしないだろう。
「そうだ。あんたに訊きたいことがあったんだ」
 スカアハが僕に向き直る。
「え……、なんですか?」
「あんたは、魔術の本質とは何だと思う?」
 僕は反射的に答えていた。
「命じることです。もしくは、『世界』を塗りつぶすこと」
 スカアハは僕の回答に満足げに頷いた。
「然り。――魔術とはすなわち命ずること。それは魔導の道の行きつく果ての一つ。理の一つだ。魔術とは願うものではなく、祈るものでもない。ただ、自分が対象を支配するだけのこと。そこに第三者の意思は介在しない。存在してはいけない」
「第三者の、意思……」
 スカアハは続けた。
「気付いているかい? 魔術師とは、他者を排除する存在なんだ。他者を排除して初めて理へと至れる。あんたの中には自分しかいなかった。だから、理へ至れた。――大魔術師とはね、アルフォンス・モーリス、究極の孤独者なんだよ」
「――――――――――――」
 別に僕は大したことをしたわけじゃない。単に他人の価値を最初から見ようとしない屑人間だっただけだ。でもスカアハは、そういう僕だからこそ、魔術の果てを垣間見ることができたという。
 孤独者か。
 当然の結果だよな……。
 僕が沈黙していると、スカアハは朗々と僕に呼びかけた。
「『黒の世界竜』の『使徒』でない身ながら、『黒』に高い親和性をもつ大魔術師の雛よ。あんたじゃ人の里は生きにくかろう。空へと飛びたければ、あたしについて来な」
「は――? えっと、それは、僕を弟子に取るという意味ですか?」
 スカアハは首を振った。
「魔術師は弟子にとらん。そうではなくて、あたしに仕えよと言っている。あたしは故郷ではちょっとした地位にいてね。『あたしの臣下である限り、あたしを殺してはならない』という条件を守るのであれば、国賓待遇で迎え入れてやる。影の国へ来れば、あんたに比肩しうる朋友も見つかろう」
 彼女はそう言うと手袋を脱ぎ、仮面の下に親指を差し入れた。
 血のにじんだ親指が僕の前に突きつけられる。
 それで何となく分かった。
 これは誓約だ。
 どこかの地方ではゲッシュと呼ばれるもの。
 スカアハは歌うように言葉を紡ぎ出す。
「村と、人の身を捨てて良いと思うなら、その血まみれの左手を前に出しなよ。あたしの『青』ならあんたの『黒』も塗りつぶせるだろう。あんたに『青の世界竜』の祝福をくれてやる」
 村を、捨てる?
 人の身を捨てる?
 スカアハが何を言っているのか全然分からない。
 でも、彼女がぎらぎらとした目で僕を見ているのは分かる。
 マスクの下の目が、獲物を見つけた虎のようにらんらんと輝いている。
 僕は、彼女の目に強制されるように左手を前に出しかけて――。
 ふと、シルウィたちの顔を思い出して、踏みとどまった。
 くらりと視界が霞む。
 どうやら薬が切れてきたらしい。
 僕はスカアハに返す言葉に迷った。
 迷って――結局、気を失うまで、その場で馬鹿みたいに項垂れていることしかできなかった。

  ×                 ×                ×

 次に僕が目を覚ましたのは暦が次の月になってからのことだった。
 僕は白いベッドに寝ていて、横では老いたメイド長チーノが僕の体を濡れた布で拭いてくれているところだった。チーノは僕が覚醒したことに気が付くと、今まで見たこともないような笑顔を僕に向けてくれた。
「すぐにアドリアン様にお伝えして参ります!」
 チーノはそう言って僕の返事も待たずに出ていく。
 僕は小さな部屋の小さな窓から外を見た。
 冬が終わり、そろそろ風が春の匂いを含んできているのが分かった。白いカーテンが平和に揺れている。
 僕が寝かされていたのは、いつものグレイスと僕の部屋である。
 ただし、今はグレイスのベッドは撤去されているようだ。
 僕はそこで枕元の机の上に、丸められた羊皮紙の手紙が置いてあるのに気が付いた。羊皮紙は無骨な茶色い紐で括られている。端には『アルフォンス・モーリスへ』と流麗な筆跡で書かれていた。
 手を伸ばしてそれを取る。その際折れていたはずの両手が治っていることに気が付いた。
 腕を伸ばすだけで物凄くしんどい。体を覆うのは底知れない倦怠感だ。
 この状態を何と言うか本で読んだことがある。
 というか、何度も経験したことがある。
 魔力の減少による疲労状態だ。
 限界を超えて行使された僕の体からは、魔力という魔力が抜け落ちてしまっていたのだ。魔力とは生命力だという。だから生命力の無くなった僕は、一ヵ月死んだように眠り続けた。もしかしたら本当に死んでいたのかもしれない。今、ようやく前借していた分が溜まったから、体が目覚めたのかもしれない。
 どうあれ、生きているならそれでいいか。
 僕は手紙の紐を解いた。紙を広げたら、大きな紙面のど真ん中に、一言だけ書かれていた。

『気が変わったら影の国へ来い』

 誰が書いたのかは分かる。スカアハだ。
 どうやら彼女は僕の葛藤を見抜いていたらしい。
 そりゃあれだけ返事に困っていれば誰だって見抜くか。
 彼女は僕に逃げ道をくれた。人の里を離れ、人ではないモノとして生きていく道を。きっと彼女も人ではないのだろう。
 影の国というのがどこにあるのかは分からないが、然るべき方法を採ればそこへ至ることもできるのだと思う。これはいよいよ行く段になって考えればよかろう。
 今は――、この村で暮らしていたい。
「アルフォンス様」
 僕が手紙を戻したところで、チーノが意気消沈した顔で戻ってきた。
「チーノさん、アドリアンお父様は?」
「それが――村人からの揉め事の裁判書類がある程度片付いたら行くと」
「そうですか」
 グレイスもアドリアンと一緒に居るのだろうな。
 僕は気を取り直してチーノを見つめた。
「チーノさん、簡単にこれまでのことを教えてくれませんか? ああ、森の魔獣の事は今夜皆がいるところでお父様からお聞きいたします。そうじゃなくてこの一ヵ月の事を」
「かしこまりました」
 チーノは僕に恭しく頭を下げた。この人いつから僕にこんな態度を取るようになったのだろう? 僕としてはこのように敬意を払われるのはまんざらではない。だけどちょっとくすぐったい気がする。
 あ、そうだ。
「えっと、その前に、僕をずっと看病してくれていたのはチーノさんですか?」
「はい、できる限りの事をさせていただきました」
「そうですか。ありがとうございます。厚かましいかもしれませんけど、これからも僕に構っていただけたら嬉しいです」
 僕がそう言うと、チーノは生真面目な目つきで僕を見つめ返してきた。
「アルフォンス様、私のような老骨にそのようなお願いをなさる必要はありません。私は、ただ貴方を尊敬する者として進んでお世話させていただいているだけのこと。当然の事とお受け取りください」
「チーノさん……。本当に、ありがとうございます。これから先、何か困ったことがあれば僕に言ってください。微力ながらお力になります」
「そんな! アルフォンス様のお手を煩わせるなど!」
 四歳の子どもに言われても困っちゃうよな。
 僕は苦笑した。笑えるくらいにすがすがしい気分だった。
 あとで掃除道具や調理器具の修理くらいはさせてもらおう。
 その後、僕はチーノから、僕が気を失った後に起きた出来事を順に聞かせてもらった。
 まず――。
 僕とスカアハが魔獣を屠ったあと、スカアハは気を失った僕とマーガレットさんを担いで村に連れて行ってくれたらしい。
 彼女は村の迎撃隊の詰所にいた村の幹部たちに「魔獣はあたしが狩った」と伝え、僕とマーガレットさんを引き渡すといずこかへ姿を消していったそうだ。羊皮紙はその去り際にチーノに渡したらしい。
 村人は魔獣が討伐された事を知り歓喜に震え――次いで、自分たちが失ったものを把握して意気消沈した。
 死者十名。
 怪我人三十名以上。
 辺境伯領の有力者のうち、二名が意識不明の重体。
 多数の畑は踏み荒らされ、手間暇かけた開拓場は散々な状態に。
「あの、カペー司祭やグラヴァルウィさん、衛兵のお二人など、救出隊のメンバーはどうなりました?」
 僕が恐る恐る尋ねると、チーノは口元に笑みを浮かべた。
「皆様ご無事です。――ですが、司祭様は先日傷が完治したので中央の審問会の招集に応じられ、村を出ていかれました。来月の審問会で今回の責任を追及されるだろうとのことです」
「そうですか、カペー司祭が審問会に……」
「教会には教皇の『目』と『耳』と呼ばれる優秀な諜報集団がいます。中央の力の強い教会のこと、カペー司祭も断ることが難しかったのでしょう」
 僕はチーノを見上げた。
「司祭は、無事に帰ってこられるでしょうか?」
「分かりません。今回のことでカペー司祭は多大な犠牲を払われています。少なくとも、お咎めなしということにはならないでしょう。現在は生き残ったシスターたちが司祭の代理という形で祭事を行っていらっしゃいます。近いうちに川の横の村から繰り上がりで別の司祭様がこちらにお見えになるそうです」
「――――――――」
 酷い……。
 それじゃほとんど解雇されたも同然じゃないか。
 カペー司祭……あの人は本当に良い人なのに。
 僕は掛布団を握る手に力込めた。
 何とかしたい。
 でも……、悔しいけど、僕じゃどうすることもできない。
「アルフォンス様、被害だけで言いますと、アドリアン様が一番深刻な損害を受けております」
「……と、言いますと?」
 チーノは言い淀んだ。それから僕の顔を伺うように覗き込んでくる。
「それは――。どうかアドリアン様を糾弾されないでください。アドリアン様は最善を尽くそうと頑張っておられました」
 僕はチーノの言葉噛みしめるように目を閉じた。
 ここだ。
 今までの僕に足りなかったところ。
 他者を一個の人間と認め、安易に否定はしない。蔑んで切り捨てるのではなく、無関心に放置するのでもない。認めて――できるならば、一緒に未来を模索する。僕はアドリアンと、人として、彼の息子として向き合わねばならない。
「僕にアドリアンお父様のことを責める権利はありません。故にお父様の選択を糾弾するなど絶対にありえません」
「ご厚情、アドリアン様に代わって感謝致します。領地の状況ですが――まず、モーリス家の直営地が魔獣の襲撃によってほとんど壊滅しました。土起こし、種まきの終わった畑のおよそ三分の二が使い物にならなくなり、支配下の小作農から五名の死者が出ました。けが人は二十名程度。全て農作業の中心となる成人男性です。現在はモーリス家が総出で復興作業に取り掛かっています」
「復興のためのお金は、他の名主たちに支援していただいているのですか?」
 僕が尋ねると、チーノは力なく首を振った。
「すべて断られました。一番親密でしたアールブも、今後モーリス家を盟友とは思わないと言い――。現在、国王陛下の慈悲におすがりしようと連日王都に早馬を飛ばしております」
 国の支援を受けた場合、下手したら国王に領地を吸収されるな。
 早馬はもう送られているから、あとは国の判断次第だろう。この辺境の地を、王の直轄地にしたいのなら、すぐにでも支援隊が派遣されるだろう。
 が、一ヵ月も早馬を送り続けているということは、向こうも相当渋っているという事だ。別の事にかかりきりなのか、それともこんな貧しい土地は要らないということなのか……。
 いずれにせよ、これで僕のやることも決まった。体が回復したらできる限り復興の手伝いをしよう。一番の問題は冬畑の作物がほぼ駄目になってしまっていることだろう。食料は個人の付き合いで分けてもらっているかもしれないが、それでも限度がある。どこから食料を持ってくればいいか――。
 僕が考え込んでいると、チーノは申し訳なさそうに「あの……まだ続きがございます」と切り出した。
「実は、復興支援は出るには出たのです」
「えっ、名主にはすべて断られたんじゃないんですか?」
「商工会のガランティウス翁は支援の要請を受けてくださいました」
 ガランティウス――あの白ひげの爺さんか。食えない人物っぽいけど、優しいところもあるんだな。
 僕は息を吐いた。
「そうですか。ガランティウス様には深く感謝しなければいけませんね」
 しかしチーノは首を振った。
「それはそうですが、支援はタダではありませんでした。――代価を取られました」
 あれ、なんか雲行きが一気に怪しくなってきたような……。
 僕は恐る恐る尋ねた。
「えっと、代価って、具体的に何と何ですか?」
 チーノは僕の方をちらりと見たあと大きく息を吸い――一気に喋り出した。

「領内の漁港に対する課税権全て、街道の各関所の通行税の徴収権利の九割、死者が出て耕す者が足りなくなった直営畑いくつか。森の木から大きな木材を伐るためのアールブの許可証とその権利、商工会への課税の全面撤廃、他細々とした権利。加えて、モーリス家の牛や豚などの農耕用途の家畜全て、書庫の中身全てと本館を取られました」

 え?
 は?
 え……?
 何、それ?
「……冗談でしょう?」
 数秒の沈黙のあと、僕はやっとのことでそう口にした。
「申し訳ありません。本当の事です。国王陛下より認められた直営畑と森林以外の、モーリス家の固有財産のほとんどを――奪われました」
「抵当に入れる等の選択肢はなかったのですか?」
「ガランティウス翁はそれでは支援できぬとおっしゃり――」
 チーノが沈痛な面持ちになる。
「えっと……、さっき最後に本館を奪われたって言っていましたけど、それじゃ、アドリアンお父様たちはどこで寝泊まりされているのでしょう?」
「この別館に。マーガレット奥様もジェームズ様も引っ越されました。現在、隣の部屋がアドリアン様の寝室、吹き抜けを挟んで反対側がマーガレット奥様とジェームズ様の部屋。一階の小部屋がグレイス奥様と私の部屋となっております」
「他のメイドさんたちは?」
 僕は唖然とした。「衛兵のお二人は?」
「アドリアン様が全て解雇されました。住むところもないし、お給金も満足に払えないからと。衛兵のお二人は無料でも働く、住処は森で野宿するとおっしゃっていましたが、さすがにそんなことをさせるわけにもいかず、アドリアン様は王都近郊の親類の家を紹介され――」
 衛兵二人よ、住処は森で野宿って――それは住処とは言わない。
 などという突っ込みはさておき、そんな危機的状況に陥っていたのか。
 というか、そんな状態で復興は本当に進んでいるのか?
 アドリアンはチーノの話からして別館の執務室で村民の裁判書類と日々格闘しているんだよな?
 現在、モーリス家にはアドリアン、グレイス、チーノ、マーガレットさん、ジェームズ、僕の六人しかいない。マーガレットさんとジェームズは働けないわけで、チーノも僕の看病をしてくれていたってことは……。
「グレイスお母様が復興の指揮を執っているのですか?」
「いえ、グレイス奥様はアドリアン様と執務室にいらっしゃいます」
「あの……、看病してもらっていた身でこんなこと訊くのはあれなんですが……。この一ヵ月、本当にきちんと復興作業が行われていたんでしょうか?」
「――――――――」
 チーノは顔を背けた。
 それを見た瞬間、僕は布団をはねのけてベッドから飛び降りていた。
「アルフォンス様! いけません、まだ安静にしていませんとお体に触ります!」
「では、僕が倒れないようにチーノさんが伴をしてくださいませんか」
 僕に一つの人格と尊厳が存在するように、小作農も人間である以上それらは存在する。物ではなく、人なのだ。
 僕は万能の神ではないから、全ての人を助けることなどできないが、それでも、魔術師として目の届く範囲の人間くらいは助けることが出来る。
 立ち眩みを覚えながら、ベッドの下から町人服と粗末なローブを取り出した。
 自分が倒れては元も子もないから、それだけ注意しておこう。土魔術程度なら使えるはずだ。熱魔術や分子操作の魔術も出力を絞ればいける。
 一応、素性は小人族の魔術師とでもしておくか。アドリアンの古い友人で昔彼にかけてもらった恩義に応えるため、復興の手伝いをしに来たとかそんな感じで。
 四歳の子がぼこぼこ魔術を使っていると市井に知られたら、何が起こるか分かったものじゃないからな。今、何か悪いモノが引き寄せられて来たら、モーリス家は文字通り潰れてしまうだろう。スカアハもその辺を見越して魔獣は自分が狩ったということにしてくれたのだ。
 僕は下着(おむつを履かされていた)と服とを着替えると、一瞬、開け放たれた窓に近寄りかけ――立ち止まって踵を返した。館の出入り口は正面玄関であって、窓ではないのだ。
 ふと、ローブの中にメモ帳の重みを感じる。
「――――――――」
 僕は無言で黒鉛と羊皮紙片を服から取り出すと、それをベッドの上に投げ出した。
 これはもう、必要ないだろう。

  ×                ×                 ×

 丘の下の村周辺の畑は、開墾した者がその所有権を主張していたこともあって、飛び地になっていたり、迷路のように複雑に入り組んでいたりする。魔獣と迎撃隊が踏み荒らして駄目にした畑の部分は、そんな畑の中でも割かし整備されていたところだった。二年ほど前、アドリアンが頑張って整理したらしい。そこが全部やられてしまっているわけだ。アドリアンも報われない。
 僕はチーノの案内でそれらの畑を見て回る。春の種まきの時期なのに、畑で土をほぐしている人は一人もいない。踏み荒らされた畑は、何度か降った雨に流されて、文字通りぐじゃぐじゃになってしまっていた。
 今夜にでも魔術で土を耕す許可をアドリアンから貰おう。
 今日のところは、崩れてしまっている畦道の修補といくつかの糞尿処理場の回復、次に直営地の農民の家に行き、道具や家の修理などをする。死人や怪我人が多数出ているのだ、そういう細々としたものはほったらかしになっていることだろう。
 僕はまず無言詠唱で淡々と畦道の補修を行っていく。
 チーノはそれを見て目を丸くしていた。
 魔素信仰が普通の世界だから、命じるだけの魔術が信じられないのだろう。彼女さえ学ぶ気があれば喜んで教えるのだけど、チーノはただただ僕を褒めるだけで、どういう原理を用いて魔術を行使しているのかは尋ねてこなかった。
 これまでの常識を無視して新しい事を学ぶと言うことが、どれほど難しいことかを彼女は理解しているのかもしれない。
 糞尿を捨てる処理場の再生も済ませるころには、もう日はオレンジ色になり始めていた。
 僕はチーノを伴って次は村の民家を訪ねていく。
 アドリアンの関係者を名乗ると住人は皆めちゃくちゃに野次を飛ばし、僕たちを追い払おうとした。だけど、僕が精密な土魔術を操る魔術師だと知るや否や、僕に無言で道具を押し付けてきた。熱魔術や土魔術を使い、その場で直す。すると誰もが引っ手繰るようにして修繕されたものを取り上げ、僕の顔も見ずに家の中へと引っ込んでしまう。
 まあ、顔を見られないのは僕にとっても好都合なので問題ない。
 一通り見て回ったところで、村の外郭部に崩れているところはないか確認しに行く。
チーノの話ではガランティウスの手の者が最低限の工事を行ってくれたらしい。実際、修理が必要なところはほとんど見当たらなかった。
 いよいよ日が傾いてきたので、僕はチーノに言われて村をあとにすることにした。
チーノは何故か誇らしげに僕の横で胸を張って歩き、信じられないくらい口数多く僕に話しかけてきた。内容は様々。思い出話、昔話。時には僕のお祖父さんのことであったり、時にはアドリアンの昔話であったり。
 僕はそんな『どうでもいいはず』の彼女の話に耳を傾け、合いの手を打っていた。数年ぶりに人と会話したような気分だった。
 僕とチーノの後ろには日暮れ特有の長い影が伸びる。
 途中で空を飛んでいる鳥を数羽仕留めて、僕とチーノは館へと戻った。

  ×               ×                 ×

 小部屋で病人食を食べ終わったあと、ベッドで休んでいると、部屋をノックする音が聞こえて、アドリアンが入ってきた。後ろには――グレイスとマーガレットさんが続く。
 グレイスがアドリアンの脇を抜けてベッドの傍にまでやってきた。
「アルフォンス。目覚めて良かった」
 彼女はそう言った。
 燭台の灯りに照らし出された彼女の笑顔はどこかぎこちなかった。
 アドリアンはベッドの傍までやって来て、どこか緊張した面持ちで僕のことを見ている。
 マーガレットさんは僕の方を見ようともしない。右手で左ひじを掴み、アドリアンの背中を見つめている。
 チーノが他の部屋からいくつか燭台を持って入ってきた。
 グレイスが僕から離れてアドリアンの隣に戻る。
 僕は改めて皆をぐるりと見回した。
 皆、記憶の中にある顔より疲れている。薄暗いせいかもしれないけど、特にグレイスの頬がげっそりとこけてしまっていた。
 僕は息を吸った。
「お父様、お母様、マーガレット奥様、それからチーノさん。ご心配をお掛けしました。僕はもう大丈夫です。――お父様たちも無事で良かったです」
「アル」
 アドリアンが僕に呼びかける。
「はい」
「お前は――魔術が使えるのか?」
「使えます」
「そうか――。そうだったのか。私は、お前の父なのに、そんなことも知らなかった。すまん」
 僕は首を振った。
「僕がお父様に隠していたのです。知られると自分が不利になると思って。貴方に向き合おうとせず、姑息な手段で無関係を貫こうとしました。貴方は、被害者に過ぎません」
「不利?」
 アドリアンは首を傾げた。「何故不利になるのだ?」
「家督争いの種になるかもしれませんし、魔術が使えるということがお父様から周りに広がれば、僕にとって煩わしいモノあるいは不都合なモノが寄ってくると思ったからです。僕はアドリアンお父様を信用していなかった。それは――グレイスお母様やチーノさん、マーガレット奥様も同じです」
 ジェームズはともかく、シルウィもギルバードもリリナもカペー司祭も。
 僕は本当の自分を隠して隠して隠し通してきた。
 それを見せる必要がないと思っていたから。
 そこに人間性の欠片も存在しない。あるのは冷たい損得計算だけだった。
 僕はベッドから降りた。
「ここに、これまでの無礼をお詫びしたいと思います。――本当に申し訳ありませんでした」
 頭を下げる。
 十秒ほど下げ続けて、僕は顔を上げた。
 アドリアンとグレイスは「わけが分からない」とでも言いたげな困惑の表情。
 チーノはすました無表情。
 マーガレットさんは冷たい無視。
 どうやら僕の謝罪は伝わらなかったようだ……。
 ま、そんなもんだよな。僕だって四歳の子どもにいきなりこんな風に頭下げられてもどう反応すればいいか分かんないもん。
 男なら黙って行動で示そう。
「よく分からんが、アル、お前も無事で良かった。――さあ、ベッドに横になりなさい」
 アドリアンが言う。僕は首を振った。
「いえ、その前にいくつかお尋ねしたいことが」
「ん……、なんだ?」
「まず一点目、これはお願いになります。僕に直営の麦畑の農耕を手伝わせてくださいませんか? 家畜はガランティウス様にすべて取られたと聞きます。人の数も足りていませんし、春蒔きは諦めているのではありませんか? お父様の許可があれば、僕が魔術を使って小作農の人たちのサポートをしましょう」
「よ、良いのか? ――いや、しかし、四歳の子どもにそんなこと……」
「お父様、モーリス家の危機に年齢は関係ありません。僕には土を耕す力がありますので、それを存分に使いたいだけです。どうかお気になさらず」
 アドリアンは情けなさそうに肩を落とした。
「う……む……。お前が力を貸してくれるというなら、是非とも貸してもらいたい」
「喜んで」
 僕は微笑んだ。アドリアンとグレイスが僕の笑顔を見て怯む。そんなに怖い顔しているのかな、僕……。
「すまんな。本当に。私は――本当に駄目な父親だ……」
「お父様、顔を上げてください。まだ話は終わっていません。二つ目、現在、森の開拓地はどうなっていますか?」
 僕の質問にアドリアンとグレイスが顔を見合わせる。グレイスが口を開いた。
「魔獣の骨を商工会が撤去した後は放置したままよ。管理を委任しているアールブもあの森には入りたがらないし、私たちも人手が足りなくて……」
「アールブには契約を切られた」
 アドリアンが暗い調子で口を出す。「元々私の直営森林だから、自分で管理しろと」
「では僕に管理を任せてくださいませんか? ついでに、魔獣が暴れてできた更地に工房を立てる許可を」
「こ、工房!? な、何を作るのだ? 言っておくが、木を伐採すればアールブからの苦情が来るぞ」
「臨時の鍛冶の工房です。村民の方の道具の修理を魔術で行います。村の鍛冶屋と話をつけて、仕事の分担をするつもりです。向こうが手一杯ならこちらを紹介するといった感じで。交渉次第で変動すると思いますが、今のところ修理代価の半分は鍛冶屋に取らせ、半分はこちらでいただこうかなと。モーリス家の家計の足しになるでしょう」
 ついでに自作の備中鍬なんかを高値で売ってみよう。今の僕なら魔法精錬もできよう。RPGでいう魔法の武器ならぬ魔法の農具である。
 アドリアンは神妙な顔で頷いた。
「そうか……。アルならうまくやるだろうな。許可を出そう。許可を出すくらいしか私にはできることがない。すまん」
「あの、ちょっとよろしくて?」
 そこでマーガレットさんが唐突に割り込んできた。「これからそういう村の事についてのお話が延々と続くのかしら?」
「マーガレット」
 アドリアンは咎めるような声を出した。
 しかしマーガレットさんはカツカツと靴を鳴らしながら続ける。
「アルフォンスさん? わたくしを助けていただいたことには感謝申し上げます。しかし、わたくしの娘二人を殺めたことは今後何があろうと絶対に許しません。ジェームズが家督を継いだ後、どうなるか覚えておきなさい。貴方は二人と同じかそれ以上に苦しむことになるでしょう。――アドリアン、これでよくて? 私はきちんとお礼を言いましたわよ。これ以上ここにいたくありませんのでジェームズのところに戻らせていただきます」
 僕はゆっくりと首を振った。
「戻りたいと言うなら僕には止められませんが……。三つ目、マリエットととリリエットのことについてお聞きしたいです」
「何ですって?」
 マーガレットさんが不快げに僕を見る。僕はマーガレットさんを正面から見つめ返した。すると彼女は舌打ちをしながら傾聴する姿勢になった。
 僕はアドリアンに目を走らせる。チーノにもだ。
「僕も当事者です。アドリアンお父様、いい加減、五年前に何が起こったか、僕に教えてくださってもよいのではないですか?」
 アドリアンはさっと顔色を変えた。
「ご、五年前だと!?」
「ええ、今マーガレットさんがあの魔獣がマリエットとリリエットだとおっしゃったではありませんか。今更とぼけるおつもりですか?」
 アドリアンが目に見えて狼狽し始める。事情を知らないグレイスは困惑した顔で僕とアドリアンとを見比べた。
「アドリアン様。アルフォンス様にはきちんとお話なさった方がよろしいかと」
 チーノが静かに口を挟む。
「――――――――。うむ……、そうだな。分かった、話そう。その前に、アル、お前はどこまで知っているのだ?」
「推測ばかりでほとんど何も。確定的な情報は、あの双頭の魔獣が僕の二人の姉だということくらいしか知りません」
「そうか……。うむ……、そうか……」
 アドリアンは天を仰いだ。それからぽつぽつと語り出した。
「始まりは――、マーガレットがジェームズを妊娠したときだった。初めての子どもだから、私はとても嬉しくてな。ふと、誰かにジェームズの行く末を占ってもらおうと思った。本当に気まぐれだった。我が子が健やかに育つよう験を担ぎたかったのだ。ただ、それだけで、まさかこんな事態にまで発展するとは思いも寄らなかった」
 彼は続ける。
「――私が王都で学生をしていたとき、連日街を遊び歩いていたということは前に話したと思う。そのときに知り合った占い師に、私は占いを依頼した。試験の範囲からギャンブルの勝敗に至るまで、ありとあらゆる占いが全て的中するという凄腕の占い師だ。当時その占い師はとても有名で、私も何度か利用させてもらっては、彼の腕に驚嘆していたものだ。店を出している位置が一定だったので、冒険者ギルドの飛脚も簡単に彼を見つけることが出来たようだった。二ヵ月後、折り返しの手紙が帰ってきた。そこには占い師の出した占い結果が書かれていた。期待に胸を膨らませて読んだ一行目には――、ジェームズには若くして死ぬの運命が定められていると書いてあった」
「そんなもの、出鱈目に決まっていますわ!」
 マーガレットさんが苛々とした様子でそう呟く。アドリアンはマーガレットさんを無視して続けた。
「当然、私は激怒した。しかし、怒りながらも手紙を最後まで読んだ。そこには、ジェームズの後に、マーガレットから鬼子と忌み子が生まれ、鬼子は村を、忌み子はモーリス家を滅ぼすと書いてあった。その過程でジェームズは死ぬのだという。読み終わって、怒りに任せて占い師の手紙を灰にしたあと、私は、とても不安になった。その占い師の占いは、一度も外れたことが無いのだ。もしかして、今回も今まで同様当たってしまうのではないか、と。私はどうすれば不幸な運命から逃れられるかを考え、ある日ついに気が付いた。マーガレットとの間に子供を作らなければよいと。私はマーガレットとの夜の生活を控えるようになった」
 グレイスが咳をする。アドリアンははっと我に返ってグレイスを見た。
「す、すまん、グレイス。私の――欲望の履け口にしてしまって」
「違います! アルフォンスに聞かせる内容の話ですか!?」
「あっ……」
「グレイスお母様、僕は正しく理解していますので大丈夫です。アドリアンお父様、続けてください」
「う、うむ……。私は、その、あー、ジェームズの弟や妹は作らないように工夫した。――しかし、それにもかかわらず、その四年後、マーガレットは妊娠した。マーガレットはジェームズにかかりきりで館から出ぬし、何かの間違いだろうと思ったのだが、間違いなく妊娠していた」
「それは貴方がわたくしと夜の生活をしたからです! 貴方はわたくしのベッドへ来たではありませんか!」
 マーガレットさんが青筋を立てる。
 ん……?
 ちょっと話が見えないんだけど……?
「マーガレットはこのように言っているが、私はマーガレットと寝た覚えはない。私は夢遊病の気などないし、何というか、その、グレイスに悪い気を抜いてもらっていたので、欲望が溜まって我を失ったわけでもない。私は極めて冷静にマーガレットとの繋がりを避けていた。では何故妊娠したのだろうと疑問に思った。――考えているうち、私は、今マーガレットの腹の中にいる存在こそが、占い師の言っていた鬼子なのではないかという推測に行きついた。そうしたらもう気が気でなかった。早く何とかしないといけないと思うものの……、嬉しそうにするマーガレットにまさか子どもをおろすようになど言えない。――その後、私が思い悩んでいるうちにマーガレットは、異形の双子を生んだ」
「マリエットとリリエットは鬼子ではないと言っているでしょう! 悪いのはそこにいるその忌み子ですわ! みんな、みんな、そいつが悪い! マリエットとリリエットは何も悪くありません!」
「……マーガレット、黙りなさい」
「いいえ、黙りません! わたくしは貴方が二人にしたことを忘れていませんわよ! よく分からないことを言って二人を森へなど捨てて! わたくしには二人が死んだなどと戯言を吹き込んで! わたくしの苦悩など、アドリアンにはこれっぽっちも分からないでしょう! 何が『いつも通りに戻ってくれたな』ですか!」
「……森へ、赤子を捨てたのですか?」
 僕は信じられない気持ちでアドリアンを見た。アドリアンは首を振った。

「違う。赤子は、勝手に逃げたのだ。メイド十人を食い殺して」

 その言葉に、僕とグレイスはごくりと唾を飲み込んだ。
「食い、殺した……?」
 グレイスが呆然とおうむ返しに聞く。アドリアンは青い顔で頷いた。チーノの方を見ると、彼女も唇を震わせていた。
「食われていたのだ。メイド十人の喉や腕や足が。彼女たちは私が神経質に隠すマリエットとリリエットを興味本位で見ようとしたらしかった。最初に気が付いたのはチーノだった。私もすぐに駆けつけた。部屋は、血の海だった。――赤子は、マーガレット以外の相手には敵意をむき出しにしていたのだ。だから、皆を近づけなかったのに、あの娘たちはどうしてあのような愚かな事を……。私は――、どうすることもできず、火事のせいにして事件を隠ぺいした」
 アドリアンに代わってチーノが喋り出す。
「私が、部屋の仕掛けを使ってメイドの死体を地下に落としました。カーペットを取り換え、臭いも消しました。メイドの死体は、時間をかけて全て焼却処分しました。――気が狂いそうでした」
 アドリアンは両手で顔を覆った。
「赤子は死んだのだと思っていた。森で他の魔獣に食われるのがオチだと思っていた。だが――、まさか、生きているとは……。それどころか、あんなに大きく育っていたとは……。私がいけないのだ。私が、館から続く血の跡を追って、あの赤子を始末していれば、こんなことにはならなかった。全て、私が悪いのだ。すまない。本当に、すまない……」

  ×                ×                 ×

 長い長い話が終わった。
 部屋の燭台が、窓から吹き込んでくる夜風に揺れる。
 誰もが沈黙する中、マーガレットさんの荒い鼻息だけがその場に響いていた。
 僕は、アドリアンに頭を下げた。
「話してくださってありがとうございます」
 アドリアンは無理に笑おうとしたのか、変な顔になる。
「どうだ? お前の予想通りだったか? アル」
 冗談で聞いたのだろうか。
 もしかしたら本気かもしれない。
 実際、僕は事態のほとんどをだいたい推測できていた。
 これまで集めた断片を繋ぎ合わせればおのずと見えてくるであろう真実。
 驚くに値しない。
 でも――だからこそ、ここで話を聞いておいて良かったと思った。
 予想通りだから、僕が最も危惧していたことをこの場の皆に伝えることができる。
 僕はおもむろに口を開いた。
「お父様、それで、犯人捜しはしたのでしょうか?」
「犯人捜し?」
「どういう事なの、アルフォンス?」
 アドリアンとグレイスが眉根をひそめる。
 ああ、やっぱりか。
「お父様、マーガレット奥様はどうして妊娠したと思いますか?」
「え……? それは……」
「ですから! わたくしはアドリアンと――!」
「マーガレット、悪いが少し静かにしていてくれ。――アル、どういうことだ?」
 僕は目を閉じた。
「そのままの意味です。どうして妊娠したのか。まさか、空気中の悪い魔素がマーガレット奥様の体内に入ったからとでも言うつもりですか? これは人から聞いた話ですが、インキュバスという魔族は、人のメスに自分の子を孕ませるそうです。生まれた子は、多くの場合が男で、そのままインキュバスになると」
 アドリアンは眉根を寄せてグレイスを見た。
「そのような魔族がいるのか?」
 グレイスは恐る恐るといった感じで頷いた。
「はい。私の周りにも一人いました。インキュバスに孕まされたという女の人が……」
「それでは、マーガレットはインキュバスに孕まされたということか?」
 アドリアンの言葉に、マーガレットさんは付き合いきれないとでも言いたげに肩をすくめた。
 僕は首を振った。
「インキュバスの子どもはインキュバスになるそうですから、違います。ただし、同じような特性を持った魔物である可能性は否定できません。もちろん、大気中の悪い魔素のせいでそうなったという説も否定はできませんが……。ですが、よく分からない魔素などより先に、真っ当な方法で孕んだと考えるべきでしょう」
「――――――――」
 アドリアンが口をパクパクさせる。僕はチーノに顔を向けた。
「赤子の誕生日から、マーガレット奥様が行為をされたのはいつか割り出せますか?」
「無礼者が……」
 マーガレットさんが気色ばむ。チーノが指を折って数えていく。
「……七月頃ということになるかと」
「アドリアンお父様、七月前後に、夜中本館に誰かを招き入れたことはありますか?」
「衛兵二人は本館の隅に住んでいたと思うが……」
「他に館に招き入れた者はいませんか? 七月に。夜に」
「夜であろう? 親戚連中は来たとしても日が暮れる前に帰るし――」
 そこでグレイスが小さく手を挙げた。

「村の有力者会議、というのは?」

「あっ……」
 アドリアンが目を見開く。「そうか。七月といえば収穫の月だ。予算会議がある。議論は夜遅くまでやっていて、途中休憩も挟む」
 グレイスは指を顎に当てて僕を見た。
「じゃあ、アルフォンスは、村の有力者の中に、下手人がいるって言いたいの?」
 僕は頷いた。
「可能性の話ですが」
「すぐに有力者を呼んで話を聞こう!」
 アドリアンが背を向ける。僕は慌てて彼を呼び止めた。
「お待ちください。お父様は、有力者を呼んで、真正面から『誰がヤったのか』とでも訊くおつもりですか? 仮に犯人がいたとしても手を挙げてくれるはずがありませんし、情報の少ない今、そんなことを言い出せば狂言者と詰られますよ」
「で、ではどうするのだ!?」
「ひとまずマーガレット奥様の寝室の防備を強化しましょう。少し手狭かもしれませんが、マーガレット様の部屋に、グレイスお母様かチーノさん、アドリアンお父様が一緒になって眠る。マーガレット奥様の寝間着を、今の薄いネグリジェではなく、もっとはだけさせるのが難しい寝間着にする。外から人が来た日の夜は、マーガレット奥様にはその方が帰るまで起きていてもらう。これらに気を付けるようにして、相手の出方を窺ってみましょう。下手人はマーガレット奥様からもう興味を失っているかもしれませんしね」
 僕はマーガレットさんを見ると続けて尋ねた。
「マーガレット奥様、失礼を承知でお聞きしますが――、『アドリアンお父様に抱かれる』という内容の淫夢を、最近見たことがありますか?」
「……っ!? この! 痴れ者が!」
「マーガレット、いいから答えなさい!」
 アドリアンがすごい剣幕でマーガレットさんの肩を掴む。彼女は一瞬ひるんで――面白くなさそうに呟いた。
「貴方が、そこの女ばかり相手にするからです……」
「それでは分からん! きちんと言いなさい! 私と交わる夢を見るのか、見ないのか!?」
 マーガレットさんは鼻の穴を膨らませると怒鳴り返した。

「ええ、見てましてよ! だいたい三月と七月の中頃に! 定期的にわたくしは見ています! ジェームズを生んで、貴方に相手にされなくなってからずっと! きっと豊穣の女神様がわたくしにお慈悲を下さっているんですわ! 夢の中の貴方はすごく優しいですわよ! 今の貴方とは大違い! 先日だってわたくしのことを――」

「先日だと!?」
 アドリアンは目を剥いた。「そうか、そう言えば五日前にも有力者会議があった!」
 僕は尋ねた。
「その会議で、長時間姿が見えなかった者は?」
 アドリアンは絶望に満ちた息を吐き出した。

「ガランティスウス翁、グラヴァルウィ殿、ダイモンの三人がかなり長い間席を立っていた! 犯人がいるとしたら、奴らの中の誰かだ!」

 窓から強い夜風が吹き込んできて燭台の炎を大きく揺らす。
 僕は唇を噛みしめた。
 事件はまだ終わってはいなかった。
 それどころか始まりにすぎなかったのだ。
 マーガレットさんを孕ませ、魔獣を生み出した元凶はまだこの村に野放しのままだ。
 商工会のガランティウス老人。
 エルフの代表のグラヴァルウィ。
 ここら周辺の大地主であるダイモン。
 彼らの誰が犯人かは分からない。
 もしかしたら犯人は他にいるのかもしれない。
 だけど、元凶は今もマーガレットさんを孕ませようと付け狙っている。
 下手をしたら、またあのような化け物が生まれるかもしれない。
 チーノが窓に歩み寄り、震える手で開けっ放しだった窓を閉めた。
 ここは二階で盗み聞きなんてできるはずもないんだけど。
 マーガレットさん以外の僕たちは皆、今更のように、窓を開けて話しをしていたことを深く後悔していた。

 闇の向こうで、誰かの笑い声が聞こえた気がした――。


                                   第二部に続く。


――――更新履歴――――
4月19日 第七章投稿。
4月25日 間章・第八章投稿。
4月26日 九章投稿。第一部終わり。
次→不定期更新。失踪は多分しません。

2015/04/26(Sun)21:30:48 公開 / レインボー忍者
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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