『卒業とシャウト 完結』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:湖悠                

     あらすじ・作品紹介
何故生きてるんだろう。何故死んだのだろう。何故出会えたのだろう。――生きるのが下手な不器用な彼らの物語。桜が散る時、彼らの青春の叫びが木霊する。

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 Prologue:blue 

 ○kaoru


「ね、ねぇ、昨日渡したCD、もう聞いた?」
 高校二年の冬。もうすぐ三年生は卒業し、もうすぐ花粉が飛び始め、もうすぐ春がやってくる頃。
 俺達はお世話になったバンド関係の先輩たちをどうにか感動させてやろうと、オリジナルの卒業ソングを試行錯誤しながら作っていた。
 いつも作曲はボーカルである桜井 ゆかりが担当する。毎回CDに自らメロディーを吹き込み、まず俺に渡して是非を問いてから、他のみんなに渡すという流れが出来ている。
「え? あー……うん、聴いたぜ」
 放課後の学校帰り。今日も俺はゆかりから曲の批評を求められていたのだが……。
 とりあえず隣に居る少女に曖昧に答える。ゆかりはショートカットの金髪がよく映える、目のぱっちりした勝気な女の子だった。
「……最後まで聴いた?」
「あー、まぁ一通りは聴いたかなぁ」
 ゆかりから目を逸らし、曖昧な態度で答える。
 が、実は嘘だ。
 俺はこの時CDをコンポに入れさえしていなかった。まぁ、その、ゲームとか漫画とか……色々忙しかったのである。
「じゃあその……ど、どう?」
 顔を赤らめながらゆかりが上目づかいで俺を見つめる。きっと曲の評価を求めているのだろうだが……。
「すまん、実は聴いてない」
 そんな顔をされては曖昧な評価を下すのに罪悪感が伴う。俺は白状せざるをえなかった。
「なっ」
 先程まで照れが含有されていた顔が、みるみる内に怒りの色へと変わっていく。
「いや、その、だな」
「き、聴いてないの!?」
「いや、最初の方は聴いてたんだが、その、だんだん睡魔が俺を誘惑してだな」
「最後は!? 最後の曲は?」
「その頃には俺は夢の中にいた。いやあ、良い夢だったよほんと……いてっ、ちょ、うぐっ!?」
 ゆかりが隣でぽかすかと叩いてくる。身長150前後という小学生並みに小さい彼女が殴ってくるので、時折溝にクリティカルヒットする。
「お、乙女の純情を惑わしやがってぇ!」
「な、何を言って、いてっ、いてててっ、や、やめっ、うぐっ! み、溝は勘弁っ」
 俺達がそうやってじゃれ合うのを、通行人達は怪訝そうな顔で見つめていた。身長180センチの男が30センチも低い女に鳩尾を喰らっているのだから無理もないかもしれない。
「はぁはぁ……帰ったら絶対聴きなよ」
 ひとしきり殴った後、ゆかりはそう言って拳をひいた。
「わ、わかったよ……」
「特にな、最後の曲は耳かっぽじって聴きなよ。曲が終わっても1、2分は余韻に浸れ」
「どんだけ最後の曲に情熱入れてんだよ。なら卒業ライブの曲それでいいじゃねぇか」
 はぁ、とゆかりは溜息をついた。
「もしかしたら別の曲がお前らには良いかもしれないじゃんかよ、コノヤロー。それに、やっぱお前らに『これだな!』って言ってもらわなきゃ私もテンション上がらないし」
 要するにその最後の曲を聴いた上で絶賛してほしいわけだ。
「それにしても……いつもより作曲したの多くないか? いつもは2曲くらいだったのに、今回は7、8曲も作ってるじゃないか」
「そりゃ、だって、卒業ソングだから」
 感慨深そうに言うゆかりに、俺は首を傾げてやった。
「卒業ソングだから、何なんだ?」
「卒業ソングだから気合入れちゃったってこと! だって卒業だぞ? もうそのガッコに通わないんだぜ?」
 突然つばをまき散らしながら熱弁し始める。汚いったらありゃしない。
「私だったら泣くね。めっちゃ泣く。もう、干からびるくらい泣く。そんな人達を更に泣かせなきゃいけないわけだからそりゃ気合入れるよ」
「……はぁ」
 別に卒業ソングは別れの悲しみに暮れる人々に追い打ちをかけるために作るのではないと思うのだが。むしろその悲しみをいやす、というかなんというか。
 俺の気のない返事を気に入らなかったのか、ゆかりがこちらを睨んで頬を膨らませた。
「なんだよぉ、呆れたような声出しやがって」
「別に呆れちゃいない。ただ泣いてる奴らを更に泣かせてやろうってのがよくわからなくて」
 今度は地団太を踏み始めるゆかりさん。ちょっとそのテンションはさすがに勘弁してほしい。
「くぅーっ、分かってないなぁお前はっ。なんて名前なんだお前はっ」
「何なんだよ突然……黒崎 薫だよ。知ってるだろうが」
「何だそれはっ、女みたいな名前しやがって!」
「いや、さっきまでの話題とぜんっぜん関係ないんだけど」
「当たり前だっ、今のはただの罵倒だっ」
「おい」
 相変わらず芸術的なレスポンスである。
「薫。お前は中学の卒業式の時どうだった? どんな感じに泣いた?」
「泣いてないからわからん」
「えぇぇぇっ泣いてないの!? お前どうしたの? 私は泣いたぜ。泣いて泣いて、もう干からびたぜ」
「はぁ」
「なんだお前、何で泣いてないの? おかしいの? 脳が膿んでるの?」
 ぐらぐらと体を激しく揺さぶられる。いや、お前のテンションの方が絶対おかしい。
「普通泣かねーだろっ。俺らの学校じゃ皆泣いてなかったぞ」
 まぁ正確に言えば女子はちらほら泣いていたようだが。男子らはほとんど泣いていなかった。むしろ「終わったー!」と笑ってたくらいだ。
「えぇーっ何だよそれっ。カルチャーショックにも程があるぞ、おい! お前の学校実は地球人の学校じゃねーだろっ」
「何故に涙一つで人間性を否定されにゃいかんっ」
「だって別れなんだよ? 卒業ってのは。もう学校でワイワイできないんだぜ?」
 切なそうな顔をして、ゆかりはそう言った。
「私は嫌だよ。ずっとワイワイしてたいもの」
 ワイワイ、ねぇ。
 ふと先日鍋パーティをバンドのメンバーでした時の事を思い出す。初めの内は酒を飲みながら普通に鍋をつっついていたのだが、
『これじゃつまらん!』
 とゆかりが突然立ち上がり、まだ鍋に残っていた具を全部ミキサーにかけ、どこから持ってきたのかドリアンをそこに突っ込み、
『よっしゃゲロ鍋の開始だ〜』
 と、やたら高いテンションで俺達に呼びかけた。匂いや見た目からして拒絶したい誘いではあったのだが、不幸なことにアルコールの入った俺達は
『はっはっはゲロ鍋か〜、いっちょやってやろう』
 とバカみたいなノリで鍋に箸を伸ばしてしまったのだ。――結局ゆかりを含めたメンバー全員で鍋に吐き、本当のゲロ鍋になってしまったのは言うまでもない。
「まぁ若さ故の過ちもいくつかあった気がするが……まぁ卒業してもお前がいるなら変わらず俺達はワイワイやれるとおもうぜ」
「でも、毎日はできない」
「お前は大人になっても毎日ワイワイやりたいのか……」
「当たり前だろ。何年私と一緒にいるんだよ」
「たった二年だバカヤロー」
 ゆかりとは高校一年生の時にクラスが一緒になり、自己紹介の時にギターが特技だと俺が言うと、その場で「じゃあ私とバンド組もう!」と叫び、手をぎゅっと強く握ってきたのが縁の始まりだ。それからゆかりは同じ学年の三人の生徒を続けざまメンバーに誘い、今のバンドを結成した。どのメンバーも一癖も二癖もある変人ばかりで、話し合ってると八割がた話の方向がおかしくなるような残念なバンドではあったが、演奏の質だけは確かだった。小学校の頃から演奏していた俺が浮くくらいである。
「ということは……お前らとワイワイできるのもあと一年だけかぁ」
「あと一年以上あの混沌の中に身を置かないといけないと思うとぞっとするものがあるがな……」
 そう言って俺は小さく笑った。ゆかりは頬を膨らませて食いついてくる。「ぞっとするとはなにかー!」と俺の腕を叩いてくる。
 口では文句を言いつつも、やはり何だかんだ言って、俺はそんな日常が大好きだったのかもしれない。あの奇人変人が居て、その中にゆかりが居て、そこに俺が居て……全員でふざけて、時には真面目に演奏して。
 楽しかった。
 面白かった。
 ずっとずっとこのままであればいい、と思った。例え集まれる回数が少なくなっても、あのメンツで多少なりとも集まれるのなら、俺はそれで良いと思った。毎日ワイワイしてなくてもいいのだ。時折、ふざけ合えればそれでいい。だから俺は卒業は別に怖くなかった。悲しくも、寂しくもない。卒業して一生会えないわけじゃない。そんな浅い縁では、ない。
 ただ、この狂犬みたいな少女をそばにおけないこと、それだけは惜しいかもしれないとは思った。そう思った自分が、自分自身よくわからなかった。
「まったく、薫はわかってないなぁ。ほんとにわかってないぜ」
 大袈裟に両手を上げるゆかりを見て、俺は溜息を吐いた。
 出会ってから聞き飽きた台詞だった。
「そうかよ」
「ああ。……そうだ!」
 ゆかりはぽんっと手を叩いた。何となく嫌な予感がした。ふと『そうだ、トノサマバッタを佃煮にしよう!』と、ゆかりが練習の合間に『そうだ、京都に行こう』みたいなノリで叫んでいたことを思い出した。
「名案が思いついたぞ薫」
「迷暗の間違いじゃないのか」
「そうだ。名案だ」
 いや、そうじゃなくてだな。
「来年の私達の卒業式。ちょっとした祭りを起こそう」
「は?」
「卒業式の最後、吹奏楽部が演奏するだろう? その際演奏を私達が乗っ取ってやろう!」
 こいつはまた……突然突拍子もないことを言い始めやがって。確か前は始業式をぶっこわそうとか言ってステージに乱入しようとしたんだっけか。あれはひどかった。前日にステージの影に楽器を隠している所を見つかって、夜まで説教&反省文10枚というスペシャルコンボをくらったんだ。だというのにまったく懲りないやつめ。
「お前なぁ……」
「そうすれば、忘れられない卒業式になるだろう?」
 そりゃ確かにそうだが。
「よし! 我ながら名案だぜっ。明日のスタジオの際にRYOと鴉と洋平にも伝えよう!」
「いや待て待て」
 鴉と洋平はともかく、RYOの野郎は絶対ノリノリで賛成してくるに違いない。そうしたらもう俺らはRYOとゆかりのノリに流されてしまう。それは、それだけは避けたいのだが……。
「……はぁ、勝手にしてくれ」
 まぁ、それもいいか。
 どうせ来年の話だ。それまでには熱が冷めて現実を見てるだろ。
 例え来年まで熱が残ってて、本当にやるとしても――まぁ、それも一興だ。もう、どうにでもなれ。どうせ最後なんだし。
「最後の演奏には絶対皆泣いてるぜ〜」
 むしろ卒業式をぶち壊されたことで泣くヤツが出そうなもんだが。主に教師陣営。
「あぁ、目に浮かぶなぁ。号泣しながら演奏する我がバンドの姿が」
「誰が号泣するかっての」
「いいや、泣かせてみせる」
 夕陽に照らされたアスファルト。ゆかりが立ち止まり、こちらにくるりと振り返ったその場所は、その後何十年までも続くであろう俺達の永遠の分かれ道だった。
「お前がずっとその卒業式を覚えているように、お前がその卒業式で立ち止まらないように、お前が大人になれるように、私が薫を泣かせてやる」
 まるで歌詞みたいなその言葉に、俺は苦笑した。
「やれるもんならやってみやがれ」
 お前は俺を泣かせられるか?
 中学の卒業式で泣かず、タイタニックで泣かず、祖父母の葬式で泣かなかったこの俺を。
 お前は、泣かせられるのか?
「ふっふっふ。泣きじゃくって私の名前を呼ぶお前が安易に想像できるわ」
「大した想像力だな」
「ははは、ぬかせ小童が」
「なんじゃそりゃ」
 腰に手を当てて大笑いするゆかりを半目で見つめてやった。
 やがて笑いが終わると、風が流れるような自然な動きで、ゆかりは俺に背を向けた。俺の帰路とは正反対の方に広がる大通りへ進み、今にもイヤホンを耳にはめようとしているゆかりに手を振った。
「じゃあな」
 俺がそう言うと、ゆかりも振り向いて言葉を返してきた。
「ああ。……え、えっと、その、ちゃんと聴けよ! CD」
「おう」
 そして俺も背を向け、歩き始める。
「ちゃんと最後まで聞くんだぞ!」
「おう」
「……ちゃんと、返事くれよっ!」
「おう――え?」
 よくわからない言葉を残したゆかりは、
 振り返ってもそこにはいなくて、
 そして俺は、
 それが永遠の別れだとは気付かなくて、
 しばらくして背後で聞こえたブレーキのけたたましい音も、
 しばらくして通りすぎる救急車のサイレンも、
 俺とは、
 俺達とは、
 無関係のものとしか思えなくて――、
「明日はRYOとゆかりを抑えるのが大変そうだなぁ……」
 そう呟いた騒がしい明日は……


 永遠に、来ることはなかった。


 


 1.弱虫のブルース

 川が流れるように、時間は止まることなく進んで行く。立ち止まることも後ずさりことも許されず、俺達は無理矢理背中を押されていった。そうやって進まされて、気がつけばもう三年生の二月になってしまった。
 ふと窓から外を望むと、白い雪がひたすら振り続けている。一眠りしてる間に随分と降り積もったものだ。
 ……今何の時間だっけ。
 あぁ、数学か。どうでもいいな。どうせ進学しないし。来年から叔父さんの建設会社で働くのかぁ。給料安そうだなぁ。やっぱ大学出て一流企業に就職したほうがよかったかなぁ。
 ……どうでもいいなぁ。
 あー、つまらね。
「ふぅ」
 一つ溜息を吐く間にどんだけ思考してんの俺。
「Oh、薫吐く溜息、Oh、降り積もる粉雪、yeah」
 ……何か後ろからトンデモねぇ独り言が聞こえてきた。
「Oh、終わりゆく数学ぅ、Oh、佐々木の当惑ぅ、yeah」
 このクソ下手なラップ……。
 俺は数学の教師に気づかれない様に、そっと後ろを覗き見た。
「Hey、マイブラザー、Hey、サンプラザー」
 ヨウチェケ! な格好をとっている地黒サングラスファッキンボーイ、来栖 良太――またの名をRYO――が俺の真後ろの席に堂々と座っていた。教室じゃ帽子被っちゃいけないのに、RYOとプリントされた自己主張の激しい黄色のニット帽を被ってる。ついでに言えばサングラスも校則に則ればアウトだ。
 つか相変わらずラップ下手だな……。黒人っぽい見た目だけは凄腕ラッパーっぽいのに。キーボードが上手いのは認めるんだが……。
「Oh、どうしたサンプラザ薫ゥ、ウンコしてぇのかァ? 走ってるのマイカァ? ここジャマイカァ?」
 得意げな顔でラップを披露してくるRYO。あー、ほんっとにイラッとくるなこいつは。
「うるせぇ。誰がサンプラザだ。つか何でお前ここにいんの。お前の席あっちだろ。ここ佐々木の席だろ」
「ウンコしてぇのかァ? 走ってるのマイカァ? ここジャマイカァ?」
「いや、そのくだり聴いたから。つか席戻れバカラッパー」
「Hey、バカオルゥ、ウンコしてぇのかァ? 走ってるのマイカァ? ここジャマイカァ? イェー」
 悩まし気に眉を寄せてヨウチェケするRYO。これでイラつかない聖人君子が果たしているのだろうか。
 つか何でさっきから同じ文章繰り返してるの? 何なの? ぶっ殺されたいの?
 しかし穏やかな俺はこんなことでキレはしない。あくまで冷静に対処するんだ。
「いや、だからここは佐々木の――」
「Hey、"チェリーボーイ"カオルゥ、ウンコしてぇのかァ? 走ってるのマイカァ? ここジャマイカァ? イェーア」
 プチッ。
「Hey、バカラッパー! ここジャパァァン! 車パァァァン!! 頭パァァァン!!!」
 持っていたノートで思いっ切りRYOの頭をぶったたいた。
 ハッ、俺としたことが、あまりの挑戦的なラップに怒りが許容を超えてファッキンベイベ。
 周りからの視線と数学ファッキンティーチャーの投げたチョークが痛い、帰りたい、RYO殺したい。
「Oh、流石は俺が認めるファッキンカオルゥ、予想もつかない行動するゥ」
 ニタニタと笑うRYOをこれほどぶっ飛ばしたいと思ったことは――こいつと出会ってからの三年間で、三百五十六回目くらいだろうか。てことは三日に一度はイライラが頂点に達してる計算になるな……ほんと歩くストレスだわこいつ。
 ねりけしを後ろに投げてささやかな復讐を果たそうとしていたらチャイムが鳴った。数学教師の怒りと周りからの冷ややかな視線が矢のように降り注いだ数学の授業は終わり、ようやく昼休みとなったわけである。俺は机の端に弁当箱を開き、体を伸ばして机につっぷしながらちびちびと昼食を取り始めた。
 そんな俺の背中をちょんちょんと誰かが叩く。大方RYOだろう。
「Oh、返事聴いてないぜェ、yo、ついでにお金ないぜェ」
 振り向くとRYOが親指と人差し指でわっかを作り、俺を悩まし気に見つめていた。直視していると苛々が高まり、再び爆発してしまいそうなので前を向いて食事をとることにする。
「あぁ? 何の返事だよ。ついでに金は貸さん」
「お前の憂欝な顔ォ、yo、じゃあそのパンくれよォ、yo」
「別に……何でもねぇよ。それとパンはやらん」
「アハァン? 卒業するのが嫌なのかァ? それは皆同じ憂欝ゥ、食うものなくて苦痛ゥ」
 確かにもうすぐ卒業だ。あと1ヶ月もすれば、この制服を着ることがコスプレ扱いになる。そうしたらそれぞれがそれぞれの道へ行き、恐らく会う頻度は少なくなるor一生会わなくなることだろう。やはりそれが寂しい生徒も多いようで、皆最近事あるごとに「卒業イヤだねぇ」「寂しいねぇ」なんて口にしている。
 だが……。
「俺は別に卒業するのは嫌じゃない。むしろ早く卒業したいね。そうしたら就職できて、今よりもっと多くの金が入る。今までみたいにやることもなく退屈に過ごすような日々は終わる。それは、いいことさ。俺にとってはな。ついでに何を言っても食いもんはやらん」
「それが楽しいのかァ? それで満足なのかァ? Oh、俺が知ってる薫ゥ、ギター進んでやるゥ、目煌めいてるゥ。今のお前目が死んでるゥ、俺腹へってるゥ」
「知らねぇよ……。あの頃の俺なんて、知らねぇ。ギターも知らん。楽しいか満足かも知らん。ただ、それしか道筋がないなら、そこに歩いて行くだけだ。ただ、それだけだよ」
 RYOは大げさに肩をすくめ、溜息を吐いた。
「お前変わったYO。あの日から……なァ」
「……韻踏んでないぞ」
「FUCK」
 中指をおっ立てて、RYOは去っていった。
「変わった、ねぇ」
 一体どこが変わったんだ? あの頃、バンドを組んでて、皆でワイワイ楽しくやってた頃。あの頃だって俺は、そこまで生きることに積極的じゃなかった。バンドだってアイツが引っ張るからついていっただけで……だからこそ、あいつが居なくなった今俺はバンドを辞めている。それ見ろ。何も変わっちゃいない。俺は変わっていない。ただ……周りが変わっただけだ。ただ、あいつが……。
「はぁ」
 溜息をつく。
 この世は、どうしようもなく憂欝だ。 
 ――なぁ、ゆかり。
 お前のせいだぞ、俺がこんな憂欝なのはさ。
 なぁ、ゆかり。
 どうしてお前は、死んじまったんだよ……。
 どうしてあの日別れてすぐ……車に轢かれちまったんだよ……。
 なぁ、答えろよ……答えて、くれよ……。


 その帰り道、俺は例の分かれ道まで来ていた。
 一年前、俺はここでゆかりと別れた。
 あいつは天国へ。
 俺は、現実という名の地獄へ。
 ゆかりが進んで行った方へと歩いていく。こちらは車の通りが多い大通りへと繋がっていた。事故当時、大通りの前にある小さな十字路はカーブミラーも標識もなく、更に住宅を隔てる塀が高いため、車側も歩行側も死角が多かった。こんな所でむやみに飛び出したら大きな事故につながる。……それはゆかりもわかっているはずだった。
 その十字路を曲がった所にある電柱。そこに、多くの花束が置いてあった。しゃがみこみ、花束に降り積もっていた雪をどかした。
「……ゆかり」
 先生の話によれば、ゆかりはこの道に飛び出した際に乗用車に追突され、この電柱に頭を打ったらしい。即死、だったそうだ。車に気づかなかったのは、きっとイヤホンのせいだろう。
「あの時、俺が外せと言っていれば……」
 情けない後悔が口から漏れる。もう、どうしようもないことだ。どうにもできないことだ。そう分かっていても、俺は毎日ここに来ては後悔の言葉を口に出していた。毎日毎日、あいつの命を救えなかった自分を責めていた。ヒロイックな気分にでも浸りたいのだろうか、俺は。本当に情けない。情けなく、つまらない。俺はここまでつまらない男だったのか……。
 電柱に手を置いて俯く。その時、電柱の下にあいつが好きだったゲームソフトが置いてあるのに気付いた。
「マリオカート……あいつめっちゃ弱いくせに、毎回俺らを誘ってたよな」
 ゆかりはレースゲームがヘタクソだから毎回ビリになるのだが、誰よりもゲームを楽しんでいた。俺も、バカ笑いしながらゲームをするゆかりを見ていると楽しい気分になったものだった。
 しかしゆかりが死んでから、俺は何事も楽しいと感じられなくなってしまった。
 ゲームをしても、ギターをしても、何をしても……ゆかりが居た時のような幸福感、充足感には浸れない。あれは、何だったのだろう。どうして俺は毎日楽しいと思っていたんだろう。どうして何気ない日常が好きだったのだろう。
 疑問を浮かべればゆかりの笑顔が浮かぶ。
 思い出を探ればゆかりのハチャメチャな行動が浮かぶ。
 俺は、やっぱり――
「カオル」
「え?」
 聞き覚えのある声だった。
 立ち上がって振り向くと、おかっぱ頭の前髪で目が隠れている根暗そうな少女が居た。
「鴉、か」
「ボソボソ……」
「ん? よく聞こえないんだが」
 耳を澄ます。
 木場 斗鳥、通称『鴉』は、ゆかりと出会うまでは極端なコミュ障だったために未だに声が小さい。ドラムの音はでかいんだが。
「すまん、もう一度……」
「ボソボソ(相変わらずツンボ野郎だな)」
「いや、お前の声が小さいだけだからな?」
「ボソボソ(蚊の羽音が聞こえるのならボクの声も聞こえるはずだ)」
「あ、蚊の鳴くような声ってことはわかってんだな」
 鴉は声が小さいのに加え、かなりの毒舌家なので友達はとことん少ない。少ないと言えば鴉は数少ないボクッ子でもある。少ないと言えばカップも……いや、なんでもない。
「ボソボソ(それにしてもお前声でけーな自重汁)」
「俺の声がでけーならアニマル浜口の声は爆音になるぞ」
「ボソボソ(ツッコミが古いんだよ。お前は新しい道を模索しろ。そして帰ってくるな)」
「何で遠まわしに死ね宣言されなきゃならん」
「ボソボソ(何だその平坦なツッコミはツッコミはドーンバーンデーン!!! ってびっくりマークを三つくらい重複させるのが基本だろうが。ほれ、やれ、やってみろ薫。やれたらご褒美に骨をやろう)」
「俺は犬か!!! っていうかボソボソの四文字にそんな言葉が凝縮されてるの!?」
「うるさい」
「あ、すいませ――って最初から普通に喋れ!!」
 何とも疲れる相手だ。RYOも疲れるがコイツは更にその上を行く気がする。女子であるから暴力的手段をとれないのも痛いところだ。
「ボソボソ(どうした、ひじきみたいな顔をして)」
「とりあえずひじきに形容されたのが予想外すぎて言葉が出ないんだが」
「ボソボソ(何言ってるんだ。お前の顔は海藻系だぞ)」
「草食系とかではなく!?」
 鴉はフッと笑い、親指を立てた。
「ボソボソ(ボクって海藻キライなんだよね)」
「言葉と行動が噛み合ってないんだけど!!」
 俺は溜息を吐き、苦笑する。 
「はぁ……久しぶりに会ったけど、相変わらずなようで俺は安心したよ」
「ボソボソ(お前に安心されてもな)」
 鴉はそう言うと俺の横を通り過ぎ、電柱にしゃがみこんで花を添えて黙祷した。
 鴉の友人と呼べる女子はゆかりしかいなかった。そして、そのゆかりが居ない今、彼女に女友達は一人もいない。
「……カオル」
 普通に名前を呼ばれて少し驚いた。
「あ? ようやく普通に喋る気になったのか」
「お前、毎日ここに来てるだろ」
「……それが、なんだよ」
 鴉は立ち上がって俺を見つめた。長い前髪の間から、大きな目が俺を捉えている。
「……なんでもない」
 言葉と同時に伏せられた瞳に、俺は既に映っていなかった。鴉の言いたいことは分かる。言われなくても分かってる。それは、俺自身ずっと考えてきたことだから。
 しばしの沈黙の後、風と共に鴉の呟きが流れてきた。
「あ? なんつった?」
 鴉は答えず、俺に背を向けて立ち去った。俺は溜息を吐き、塀に寄りかかる。塀は、制服越しにも分かるくらい冷たかった。
 ああは言ったけど、本当は聞こえていたんだぜ、鴉。
 ――よわむし……か。


  俺は鬱屈とした心情の中帰路についた。まるで足が鉛になったかのように重たかった。衣服にまとわりついた雪は、容赦なく俺の身体から体温を奪っていく。何でこんなに、歩みを進めることは辛いのだろう。前を向こうとすると、どうしてこうも凍えそうになるのだろう。
 「ただいま」を言わずに、俺は自宅のドアを開けた。どうせ誰もいない。母はまだ仕事だし、父は……。
 自室まで辿りついた途端、俺はベッドに身体を投げていた。心身ともに疲れ果てていたのだ。
「……ゆかり」
 重い身体を何とか起こし、俺はいつものようにCDコンポに手を伸ばした。悪癖であるとは思う。しかし、やめられなかった。
 スイッチを押す。微かな雑音の後、歌声が流れてきた。ゆかりの、最後の歌声だ……。
『ね、ねぇ、昨日あげたCD聞いた?』
 ああ、聴いたよ……。
『……最後まで聴いた?』
 ああ、もちろんさ……。
『じゃあその……ど、どう?』
 どう、ねぇ。お前は最後の曲を随分と推していたみたいだがな、最後の曲は――バカ野郎、最高じゃねぇか。
 俺はギターを手に取り、彼女のメロディに合わせて旋律ひいた。
 夕暮れの演奏会。
 初めの内はゆかりの唄声に合わせられなかったが、今となっては完璧に近い音を出せるようになった。……それもそうだ。ゆかりが死んでから、毎日のように練習してきたのだから。
 やがて演奏が終わり、少々の雑音が支配する静寂が訪れる。かすかに聞こえるゆかりの息や風の音。俺は、その当時を強く想像させられるその雑音に――その雑音さえも、いずれCDが自動に止まり、終わってしまうという事実に――途方もない悔しさ、悲しさを覚え、演奏が終わったらすぐに自ら停止ボタンを押すようにしていた。
「……ごめん」
 毎回、こうやって演奏が終わる度に罪悪感と寂しさを感じている。
 あの時俺が聴いていれば。
 お前に感想を言ってあげていれば。
 後悔は尽きない。
 RYOにああ言ったものの、罪悪感に背中を押され、家では未だにギターを弾いている。だがわかっているのだ。こんなことに何の意味もないことが。わかっているのだ。だけど……弾かずにはいられない。彼女が歌うのならば、俺は弾く。今までもそうやってきたのだ。
 何より、彼女のCDに合わせてギターを弾く時、その時だけは心が安らぐ。ゆかりが、すぐそこに居るような気がして。
 決して楽しいという感情は生まれず、ただ、酸素を取り込むために息をするのと同じように……辛い気持ちを慰めるがためにギターを弾き続けた。
 深いため息を吐き、今度こそベッドに横たわった。
「ああ……鴉、お前の言うことは正しいな……」
 ――確かに俺は弱虫だ。


  雪の中登校するのは、それはそれは大変なことだった。雪が降って嬉しかったのは小学生まで。中学に上がり、自転車登校になってからは「あー、どうしてこんなしんどいんだろ」としか思わなくなった。雪が降っている中ならまだしも、雪が降った翌日は地獄だ。下手したら滑って頭打って死にかねない。そんな死に方は冗談じゃない。まったく、笑えない。
 校門まで着いた時、鴉と鉢合わせした。が、なんとなく気まずくて会話は一つもなかった。
 RYOにも階段ですれ違ったが、お互い目も合わせなかった。
 二人とも俺に失望しているのだろう。未来に流されようとしているフリをして、過去にずっと縛られている俺の姿に。
 わかってる。
 わかってるんだ。
 でも、どうすればいい?
 忘れればいいのか?
 ゆかりを、忘れればそれでいいのか?
「できるわけ、ないだろ……」
 あいつを忘れるなんて、そんなこと不可能だ。忘れるには、あいつの存在が大きくなりすぎた。
 ああ、ダメだ。憂欝になる。
 難しいことを考えるのはやめよう。ダラダラ生きて行こう。それが一番だ。今までだって怠惰に過ごしてきた。そうすれば、痛みは和らいでいくのだ。下手に難しく考えるな。このままぼーっとしていよう。そして、傷がいえるまで待とう。いずれはあいつよりも大きな存在が現れるかもしれない。そうすれば俺は忘れるのだ、あいつを。そう思うと胸が苦しくなるが、それはしょうがないことだ。しょうがないことなんだ……でも、でも……。
 誰かが俺の肩に手を置いた。
 その時ふと、何の脈絡もなく、何の意味もなく、俺は呟いていた。
「――ゆかり」
 その瞬間、俺の身体がぐっと持ち上げられた。
「テメェは……まだそんなこと言ってるのかよ、アァ!?」
 元バンドのメンバーである木嶋 洋平が、鬼のような形相でにらみ、俺の胸倉を掴み上げている。
「よ、洋平?」
「昔のよしみで宿題見せてもらおうとおもったんだがなァ……やめた。ぶっとばすことにする」
 洋平の不穏な言葉に、周りの生徒たちが反応する。何事だ何事だと騒ぎたてる。一番騒いでそうなRYOは、冷静に俺達を見つめていた。サングラスで隠れている目は今、どんな色を見せているのだろう。
「オラ、よそ見すんじゃねぇよ……」
 髪を引っ張られ、洋平へと視界が戻された。
「な、何なんだよ、洋平……っ。何でお前が俺の胸倉を掴んでるわけ」
「お前が……ウジウジウジウジと昔の事をひきずってるからだ。……ムカつくんだよ。そういうの」
 洋平は典型的なDQNタイプだ。今は髪を下しているがライブの時とか赤のトサカだし、制服着ないでパーカー着てるし。それにすぐキレやすい。……だけど、それは一年の頃の話だ。バンドをやっていく中でこいつの気性も穏やかになった。というか、友達には至極穏やかなのに気付いた、というべきか。キレやすいのは確かだが、決して友を傷つけはしない。
 木嶋 洋平は、俺の言葉一つで怒り、胸倉を掴んで殴ろうとするような、そんな悪いやつじゃなかった。そして俺も……そんな洋平を見て苛立つような男ではなかったはずなのに。
「意味が、わかんねぇよ」
 つい、低い声が出てしまった。洋平が鋭く俺を睨んだ。
「アァ?」
「何で俺がお前にキレられなきゃならない。放っておけよ。ウジウジするタイプが嫌いなら、無視してりゃいいだろうが」
「何だとテメェ……」
「それともあれか? 人にそう言いつつ、お前が一番引きずってんじゃねぇのか?」
 やめろ。
「俺がちょっと名前出しただけでそんな怒るなんて、おかしいだろうが」
 それ以上言うのをやめろ。
 俺は知っている。
 どうして洋平が怒るか知っている。
 でも……それは俺も同じだから……だからこそ俺も止まれなかった。
「お前、ゆかりの事――」
「テメェ、歯ァ食いしばれぇぇぇ!!!」
 激昂した洋平を止める者は誰もいない。もうこうなっては誰も止められない。
 洋平が拳を振り上げる。大きなモーションだ。これなら避けられる――。

「やめろよ、バカアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 それは、とても懐かしい声で、
 それは、一番聴きたかった声で、
 その声の先に居た彼女は――俺が、俺が一番会いたかった人で、
「ゆかり?」
 顔を真っ赤にして、こちらを睨みつけるその少女は、相も変わらない姿でそこに居て、
 俺は、
 俺は……、
 お前と、祭りを起こしたかった。
 お前と、卒業ソングを歌いたかった。
 お前と、涙ってやつを、流してみたかった。
 俺は、お前と、まだまだ生きていたかったのに。
 なぁ、何で死んじまったんだよ。
 お前がいなきゃ、泣けねぇよ。
 お前がいなきゃ、卒業式なんて忘れちまうよ。
 つまらないんだ。
 お前がいない人生が、生活が、全部が。
 伝えたかった。
 幻でもいい。
 今のお前が夢でも幻でもなんでもいいから……せめて、せめて伝えさせてほしい。
 俺は、
 俺は……、
「ゆか――」
 彼女の名前を呼び掛けた瞬間、右頬に強い衝撃が加わった。
 視界がぐらつく。黒が多くなっていく。足からだんだんと感覚が薄くなっていく。
 闇へと沈んで行く中、彼女だけは見失わなかった。見失ったら、一生伝えられなくなりそうな気がして、必死で意識をつなぎとめようとした。
 ――ゆかり。
 声が出ない。手を伸ばそうとする。しかし、もう既に身体は動かない。
 ――ゆかり。なぁ、聞いてくれるか。
 机をなぎ倒して、顎から床に倒れこむ。意識が朦朧とする。それでも、視線だけは、それだけは離さない。離したくないのに……消えて行く。意識が、消えて行ってしまう。
 ――聞いて……くれ……るか……。 
 ――俺は……お前の……こと…………。
 落ちて行く意識の中、最後に見えたのは眼を真っ赤にして泣きながら走ってくるゆかりの姿だった。




 2.青春とシャウト

 ●

「彼がキーボードのRYOで、彼女がドラムの鴉、彼が洋平で、そこの彼がギターの薫だ! はい! というわけでいまここにバンド、"ゆかりオールスター"を結成しまーす!!」
 俺、RYO、鴉、洋平が初めて顔を合わせたのは、1年の夏休みのことだった。
 突然旧校舎に集められ、突然バンド結成を発表された俺達は、しばらくの間何のアクションもとることができなかった。
「……とりあえず、そのバンド名はない」
 ようやく口に出来た俺の言葉がそれだった。
「えぇっ? どうして? 何で?」
 バンド名を咎められた事が本当に予想外だったようだ。まぁバンド名云々の前に言うべきことがあったかもしれないけども。
「どうも何も、まずセンスがないだろ」
 俺がそう言うと、ゆかりはスカートのポケットからメモ用紙を取り出し、う〜んと唸りながらそれを真剣に見つめ始めた。ちょこっと覗き見ると、バンド名の候補がいくつか書いてあった。どんだけ力入れてんだ。
「じゃあそうだな……このゆかりーズは?」
「少年野球か」
「ゆかりと愉快な仲間達」
「すごい不愉快だ」
「ザ・ゆかり・バンド」
「ゆかりを抜け!!」
 俺達が問答を繰り広げる中、サングラスの男、RYOがビシッと両手を挙げた。
「oh、yo、センスなら任せろこの俺にぃ、今日から俺はお前らのおにぃ」
「「「誰がおにぃだ」」」
 バンドのメンバーが初めて一致団結した瞬間だった。
「oh、お前らノリワリィ、ほんとにうまいの韓国ノリィ」
「誰がお前の好物を聞いた」
 そしてこれが俺単体でのRYOへの初ツッコミだった。初対面だと言うのによくこんな事を言えたなぁ、と今でも思う。
「オレがこれから言うバンドネームはお前らを痺れさせるゥ、お前ら感謝するゥ、ノリ歯に挟まるゥ」
「どうでもいいが壊滅的にラップが下手だなお前」
 こうなったら最後までこのノリでつっこんでやろう。と、俺は今後苦労するとも知らずそう心に決めてしまっていた。
「oh、うるさいぞ薫、お前はどこから生まれんだァ? お前はクソの塊かァ? ノリはおやつに入るのかァ?」 
「こいつ無視して次の案を出そうぜ」
 RYOを除く全員が頷く。案外このバンド上手くいくんじゃないかと思った瞬間だった。
「お前らオレをスルー、絶対後悔するゥ、そして俺はノリをプレゼントするゥ」
 RYOが気持ちの悪いリズムに乗りながらポケットから人数分の韓国海苔のパックを取り出した。
「oh、どうだ俺の景気づけェ、これが最強ラッパーのわけェ」
「あ、俺海苔苦手なんで」
「――テメェぶっころすぞこの野郎表出ろおおおお!!!」
 海苔を断ったらキレた!! てかそこはラップとかしないのねっ!?
「お前らはオレサマをバカにしてるようだがなァ、オレサマは空手、柔道、剣道、ピアノなどの部門を極めていてだなァ、お前らなんてこの俺の滑らかかつしなやかな指つかいだけでイチコロにできるんだァ、特に女はオレサマの指使いですぐイ――」
「チェストォォッ!」
 手を卑猥な形にしやがったRYOの後頭部に思い切り殴りかかった。鈍い音とともにRYOが床に倒れ、間一髪セクハラな発言だけは免れた……。
 ように見えたが、鴉と称された女の子だけは赤い顔をしてそっぽを向いていた。
「あれ? 鴉どうしたの?」ゆかりはそういう方面の知識が皆無なようで、「ところで鴉、これって何?」RYOの指使いを何のためらいもなく真似してた。
「お、おい、女の子がそういうはしたないことをするんじゃありません!」
 しかしゆかりは首を傾げるばかり。
「はしたない? こうして中指を立てることのどこがはしたないんだ? FUCKとは違う形なんだぜ薫」
「FUCKとは違う形なんだがある意味FUCKなんだそれはっ。てかもうその話はいい! バンド名だバンド名!」
「ん〜なんかいまいちスッキリしないなぁ。まぁ、じゃあ鴉なんかある?」
 鴉と呼ばれた少女が小さく口を動かす。そこまで遠くにはいないのだが全然聞こえなかった。ゆかりが耳を近づけ、ふんふんと頷いている。
「何々……レマン――」
「もうその話はいいよ!!」
 どこまで下ネタを続かせる気だよ! あのおかっぱ頭め、下ネタ好きかっ。
「とにかく下品なのは禁止だ、禁止。どうせやるなら上品なバンド名にするぞ」
「ボソボソ」
 鴉がなにやら呟いた。が、相変わらず声が小さすぎてこちらまで届かない。
「……ゆかり、そいつは何て?」
「『うるせードーテーヤロー』、だってさ」
「よし、表出ろ!」
 俺は今きっと引きつった笑みを浮かべていることだろう。頬のあたりがぴくぴく痙攣している。
 つーか何で童貞とわかったんだこのアマ。天才か。って褒めてどうする俺。
「ボソボソ」
「『ドーテーがいきり立ちやがった。その調子で別の所もいきり立たせやがれクソイ○ポ野郎』だってさ。……薫、イ○ポって何だ? なんかの悪魔の名前か?」
「ああ、男にとって最悪の悪魔だが少なくとも俺には取り憑いていない、というか何を言ってんだお前も鴉も――そして俺も」
「ボソボソ」
「『ドーテーは隠語だけで興奮するから性質が悪い。どうせゆかりの言葉を家に持ち帰って肥やしにするに違いない』と。おい薫、私の言葉が肥やしって何だ? 食べるのか?」 
「ボソボソ」
「『ある意味食べる』? 意味がわからんぞ」
「おい、その小さな口を閉じさせろ」
「ボソボソ」
「『なんか言い方が凄くエグイ。絶対意識して言った。セクハラで訴えるぞ』ってお前セクハラしてるのか! いくら鴉が可愛いからってそれは許されないぞ」
「むしろ逆セクハラだと思うんだが。てか何で初対面なのにこんな言われなきゃあかんのだ」
 じっと鴉を見つめると、彼女はすぐにぷいとそっぽを向いてしまった。なんだ? 俺、彼女に何かしたか? ……むむ、覚えが全くないぞ。大体初対面だし。俺の考えすぎか?
 しばらく彼女を見続けていたのだが、キッと睨まれてしまった。
「ボソボソ」
「『バンド名は変態視姦クソドーテーでいいんじゃないか』だってさ」
「こ、と、わ、る!」
 最後の救いを求め、俺は椅子に座って腕を組んでいる赤髪不良少年に眼を向ける。
「…………」
 洋平とか呼ばれていたそいつは、下方に顔を向け、眉を寄せて何やら考え込んでいる。一見するとただの軽薄ヤンキーに見えるが、もしかすると物凄い気難しいヤンキーなのかもしれないな……。
 俺は少し警戒しながら話しかけてみることにした。
「な、なぁ。お前はチーム名――じゃなかった、バンド名は何が良いと思う?」
 しかし洋平はダンマリを決め込んでいる。もしかして初対面なのに"お前"とか言ったのが悪かったのだろうか。RYOと鴉を相手にした後だから少々人との距離感を掴みかねているな。
「す、すまん、その、あんたは、あー、いや君は」
「……くかぁー」
「って寝てただけかよ!!」
 俺のつっこみで、洋平がハッと前屈みになっていた身体を起こした。何て奴だ。ずっと黙っていると思ったら寝ていやがったとは。
「あー、何だ? バンド名とやらはもう決まったのか?」
「いや……まだ決まってない。できれば洋平くんからも一つ案を頂きたいんだが」
「洋平"くん"てのはきめぇって。呼び捨てで構わねぇよ。……それにしてもバンド名ねぇ。まぁ確かにカッケェ名前ならいくつも浮かんでくるけどな」
 自信満々と言った顔で洋平はニヤリと笑った。
「紅蓮決死隊……どうだ」
 だ――ダセェ……。究極的にダセェ。つうか中二病丸出しだ! そんなドヤッて顔で言う名前じゃない。キラリと歯を光らせて言う名前じゃない。っていうかそもそもバンドに付ける名前じゃない。決死隊って! 何をする集団だ。奏でるのはマフラー音じゃないぞ。
 ついツッコんだり笑ってしまいそうになったが何とかこらえた。何か吹いたりしたらボコられそうだもの。だがしかしこんなダサい名前は願い下げだ。どうにかして機嫌を損ねることなくやんわりと断らなければ……。
「あ、あのなぁ、洋平。その……」
 あたふたとする俺を差し置き、ゆかりが一歩前に出て――腹を抱えて笑った。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ、何だその名前ー! お前まだ不良が抜け切ってなかったのかよーっ! うひゃひゃひゃひゃ、う、ウケる! ダサ過ぎてウケる!!」
 お前は何ぶっちゃけてんのぉぉぉぉ!? こっちがせっかく気を揉んで何とかふわっと断ろうとしていたのにっ。案の定洋平のやつ顔真っ赤にしてぷるぷるしてるじゃねぇか! 絶対怒ってる。もう知らないぞ俺はっ。
「……別に、今のは冗談に決まってんだろ……」
 洋平は殊勝な態度でそう呟いた。
 あ、あれ? ……なんか、おかしいぞ。もしかしてこいつ……いや、まぁ何も考えないでおこう。
「嘘つけよー。言っとくけど私見たからなー? お前が背中に"男"って書かれた皮ジャンを――」
「ぶっ!」
 や、やべー思わず吹き出しちゃった。だって男皮ジャンて! に、似合う。最高にダサいが最高に似合ってるっ。これを笑わずしていつ笑うというのか。
「…………チッ」 
 まぁ、だが、当然のごとく虎のような鋭い眼差しを向けられているわけなのだが。まずいな。このままだと食われかねない。どうにか怒りを収めさせなければ……。むぅ。とりあえず褒めちぎって――褒めるて、吹き出した後に? ふ、不自然にもほどがある……。
 なんとなく気まずい空気が流れる中、鴉がボソッと何かを呟いた。ゆかりがそれを聞き、代弁する。もしや鴉の奴、気を利かして小粋な話題を提示しようと……?
「『十秒熟考したけどやっぱりダサいな。古着屋で百円で買えそうだ。誰も買わんがな』だってよ」
 するわけないってわかってたけど! わかってたけどもっと気を使った発言しろよっ。せめてぼかせよっ。なんで直球ストレートで投げちゃうんだよっ!!
「あっはっは、鴉ぅ、違うぞ〜。こいつは二万でそれを買ったからなぁ。そういう馬鹿もいるんだよ世界には」 
 も、もうやめてあげて! ドッジボールで最後に残った一人みたいになってるからっ。
 なんだか可哀そうになってきたので、ここはフォローすることにする。 
「い、いやぁ〜、でもあれじゃない。皮は良い素材使ってるんだから……」いや、しかし案外安い合成皮を使ってる可能性もなきにしもあらず。「あー……いや、でも皮ジャンて基本高いから! しかもイカすプリントされてれば二万円しちゃうの仕方がないって」
 もう我ながら意味不明なこと言っているのは重々承知ではあるが、仕方がない。俺にできることといえば、寒そうな裸の男にそっとマッチ棒を差し出してやるくらいだ……。
 洋平はそっぽを向き、ボソッと何かを呟いた。まるで鴉のようである。
「……ちげぇし。割引使って千円で買ったんだし」
 って割引使ってまで買ったのかよ! もうフォローできんわ。お前せっかくマッチ棒差し出したのにすぐに折るんじゃねぇよっ。
 再び気まずい沈黙が下りる。いや、そりゃそうだ。だって意味わかんないもの。不必要だった発言だもの。
「あー、まぁとりあえずあれだ」おほん、とその場の空気を一変すべく咳をし、一呼吸置いてから告げる。「そもそも俺たちはバンド名を決めるべく話し合っていたはずなんだけど」
 まともな発言をしたつもりなのだが、ゆかりは頬を膨らませて俺に抗議する。
「だーかーらー、私はザ・愉快な仲間たちとゆかりーズと何回もだなぁ」
「まとめりゃいいってもんじゃねーんだよ! 結果わけわかんなくなってるだろうがっ、没!」
「く、くぅ……私がリーダーなのに、私がリーダーなのにぃぃ」
 ハンカチを噛んでキィィと獣の声を上げているゆかりはひとまず無視することとする。
「Heyブラザー・トォム、オレの発言聞いてくれェ、昨日の晩飯ハウスのカレェ」
「いつから俺の名前はトムになった。いつの間に回復していつの間に聞いてもない昨晩のディナーをさえずりやがって」
「Oh、俺不屈ゥ、でも今腹痛、Oh、俺としたことがァ、バンド名を言えないとはァ」
「お前は何しに来たんだ」
 オーマイガッとトイレへ駆けていくRYOを、殺意100%の眼差しで見送った。さて、あとは鴉と洋平なわけだが……。
「ボソボソ」
「おい、ゆかり、翻訳を……あれ?」
 先ほどまでいたじゃじゃ馬娘は見る影もなく消えていた。おいおいどこに行ったあのやろう。
「あいつならあそこに引きこもっちまったぞ」
 洋平が指差したのは、教室の隅にある掃除用具入れだった。バンド名が受け入れられなくていじけたのか? しょ、小学生みたいな女だな……。
「説得すんのもめんどいな……」
 しょうがない。少し距離を詰めて聞きやすいところへ移動しよう。
 と思って一歩、二歩と鴉に近づくのだが。
「おい、何故後退する」
 鴉は俺が近づいた距離だけ後ろに下がってしまった。表情から意図を読み取ろうにも、カーテンのような前髪に隠れてよくわからない。
 再び歩みを進める。
 同じだけ後退される。
 進む。
 下がる。
 むぅ。
「ボソボソッ」
「いや、わからん」
 ここまで露骨に逃げられるとそれはそれでショックなのだが……なんだろう、こう……。
「なんだかこうなったら意地でも捕まえてやりたい気分になってくるな」
 ウサギなどを捕まえたい気分と同じか。なんだか鴉からは、鴉というニックネームとは違う小動物らしさがあふれ出ている気がする。
 俺の妙な視線を感じたのか、鴉は体をびくっと震わせて、さらに俺から逃げようとする。うむ。なんだ、これは……嗜虐心というのか? な、なんかぞくぞくするな。
「ようし、鴉。逃げろ逃げろ。まぁどんなに逃げても、必ず俺が追いつめ――」
「変態かっ!!」
 ロッカーからミサイルのようなゆかりの蹴りが跳んできた。
「ぐへっ!」
 その小さな身長からは想像できないほどの威力。よく考えてみればゆかりのほうが鴉よりも小さいというのに、鴉を抱き寄せて俺をにらむ彼女はなんだかお姉さんのようだ。
「一応何か言い訳があるか?」
「い、いや……今のは確かに俺が悪い。全面的に」
 変態的な何かに体と心がとらわれていた。むむぅ、情けない。
「お前は史上最低の変態ペド野郎だな! 死ねっ!」
 お前のほうがむしろロリ体型だ、とは今の状況では言えない。こちらが加害者なのだ。先ほどまでは俺が散々鴉に言葉の暴力を振るわれていた気がするが……どんな状況であれ、女性に逆らってはいけないということか。
 俺を睨んでいる……かどうかはわからないが、鴉がこちらに向いて何かをボソボソと呟いていた。
「なになに? 『やはり変態クソドーテーでバンド名は決定だな』だってさ」
「か、勘弁してくれ……。ライブでバンド名を告げられる度に身が縮む思いがする」
 あまり強く否定できなくなった今の状況が何より嘆かわしい。
 肩身が狭くなった女性陣から視線を離し、俺は救いを求めるように洋平のほうを見た。 
「今となっては紅蓮決死隊でさえいい案に思えてきた」
 そう言うと、洋平は一瞬で機嫌が直ったようで嬉しそうに笑った。
「フフ、そいつは目から……目から、なんだっけ? 答えは言うんじゃねえぞ……ちょいヒントくれ」
「ええっと、ヒントは魚」
「……フフ、目から魚だな」
「誰かヒントの意味を一から教えてあげてくれ」
 そもそも目から鱗ということわざを使うタイミングでもなかったのだが。 
「なんか洋平の案が良いみたいな流れになってるけど、私は絶対いやだぞ。そんなDQNネームなんて」
「ボソボソ」
『そういえば変態ドーテーはまだバンド名を言っていなかったな。早いというのは病気らしいが、今このときだけは許そう。お前もさっさと言えソーロー野郎』だと。ドーテーやらソーローやら、なんかお前悪の怪人みたいだな」
 ある意味怪人だ、と鴉が呟いている気がした。っていうか誰が早漏だこのむっつり女め。
「おう、そういえばまだてめぇからは聞いてなかったな。バンド名の案をよ」
「え? あー、いやぁ、まぁそうだったな」
 そもそもバンド名だけでなく、このメンバーでバンドをするというところからツッコミたかったのではあるが、どうも流れ的に引き返せない空気である。
「Oh、ダサいのは勘弁、俺なかなか快便」
 突然現れたかと思いきや誰も聞いてない腸の調子を告白したRYOに鉄拳制裁を加えたいところだったが、ここはグッと我慢する。
 それにしてもバンド名、かぁ。よくこいつらアドリブで言うことができたな。いや、まぁどれも鼻くそみたいな内容だったわけだが。
「ふふん、私のセンスあるネーミングを否定する薫なのだからなぁ。よほど良い案があるにちがいねぇべさ」
 ゆかりは挑戦的な笑みをこちらに浮かべている。なんだろう。挑発に乗るタイプではないのだが、こいつにこんな顔されると意地でも納得させられるようなバンド名を出したくなってくる。
「バンド名、かぁ」
 腕を組み、必死に思考する。安易な名前ならいくつか上がってきた。しかし、どうも納得いかない。逆に少し凝った名前も考えてみる。……だめだ。安易な名前を考えるとゆかりのようなバンド名になり、凝った名前を考えると洋平のようになる。ならちょっとシャレていて、でも俺たち高校生にふさわしいような、身の丈にあっているようなそんなのがいい。……例えるならば、夏場に気軽に着るTシャツのような、そんなイメージの名前……。
 高校生。バンド。
 二つの箱が浮かぶ。高校生という箱には、泣いたり笑ったり、駆けたり止まったり、怒ったり褒めたり……そんな青春が詰まっていた。
 バンドという箱には、ギターを弾く自分や、それぞれの楽器に想いを乗せる多くのバンドマン達、そしてそのすべてを総括し、自分の叫びで見るもの聞くものに感動を与えるボーカルの姿が見えた。
 二つの箱の中身を混ぜる。混ぜ合わせる。未成熟な果実と、燃えるような出汁を調理する。やがてそれは一つに溶け合っていき――。
「青春と、シャウト……」
 俺はその名前を漏らしていた。
 全員の視線が集まる。俺は、それがなんだか気恥ずかしくて、ちょっとキツくて、床に視線を落としていた。
「ふーむ」
 ゆかりが唸る。洋平も同じような声を出していた。
「クサいな」
 RYOがキャラを捨てた口調で呟いた。
「ああ、クサい」
 洋平も続く。
 顔が熱くなるのを感じた。頭の中では結構うまく調理できたと思っていたのだが……まぁ、確かによくよく考えればクサい気はするんだけども。 
 静かだったからか、鴉のボソボソ声も耳に入ってきた。
「だけど……悪くない」
 俺はその言葉に顔をあげていた。相変わらず鴉の表情はわからないが、しかし俺には微笑んでいるように見えた。
「え、えーと……」
「私は結構気に入ったぜ!」
 言葉を見失っていた俺を――いつの間に近くにきていたやら――ゆかりはバシバシッとたたいた。少し興奮しているようだ。
「い、痛い、痛いっつの」
「その青臭い感じいいなぁ! ちょっとダサいけど、まぁ大目に見てやるよ、このこの〜」
 少なくともお前が考えたのよりはダサくない、と思ったが口には出さないことにした。
「なぁ、お前らはどうだ? まぁ何を言おうとも、今さら私の考えを覆すことはできないがな」
 だったら言う意味ねぇじゃないか、と俺はそう思ったのだが、洋平は律儀に「文句はねぇさ」と言い、RYOは「ブラザーダセェが最高だぜェ」と意地でも韻を踏んでいた。
 どうやら、本当にこの集まりの名前、つまるところバンド名が"青春とシャウト"となってしまったようである。
 嬉しさと恥ずかしさが同時にこみ上げ、俺は何とも言えない表情を浮かべた。それを見たゆかりが「お前なんかひょっとこみたいな顔してんぞ」と言うまで。
 その後、俺たちはコンビニへ行き、菓子やジュースをその教室に持ち寄り、これからなにをするか、という話に花を咲かせた。多種多様な花の群れではあったが、どこまでも、いつまでも、虹色の花畑は広がっていきそうだなぁと、俺はそう感じていた。
 やがて学校の下校時間となり、物を片付けていざ教室を出ようとしたとき、俺の後ろにいたゆかりが「はぁ〜」と興奮冷めやらぬ溜息をついた。 
「"青春とシャウト"かぁ」
 振り返ってみれば、ゆかりは心底楽しそうに笑っていた。
「この五人が、いつまでもずっと騒ぎ合っていければいいなぁ」

 ●

 俺は、願っていた。
 永遠を、きっと願っていたんだ。
 その永遠は、抽象的な"ずっと"であって、無限の時間という意味の永遠でもなく、死ぬまでの時間という意味の永遠でもない。
 俺らが望む限りの永遠。
 あと、もう少しの時間だけ、それだけでよかったんだ。
 なのに……望んだ微かな永遠は、簡単に打ち壊された。
 ずっと聴いていたかった演奏は、車のけたたましいブレーキ音に打ち消されてしまったのだ――。

 目覚めると、白い天井が視界に曖昧に広がった。
 何故だか目がうるんでいる。それと、少し胸が苦しい。……何か、悲しい夢でも見ていたのだろうか。それとも……。
 起床してしばらくは状況がうまく呑みこめなかったが、頬の痛みを自覚した途端、全てを思い出した。
 ……確か、俺は洋平と喧嘩――とは言えない程一方的だったが――になって……。
「あ、起きたーっ!」
 俺の思考を遮断する叫び声が飛んできた。それに次いで、重たい何かが跳びこんでくる。
 一体なんだ……? イタズラ好きの猫か何かか……?
 ――その予想は、当たらずとも遠からずのものだった。
「もーっ、ほんとにおまえらはバカだなぁ! 突然喧嘩なんてしやがってー。皆引いてたぞおいー! 喧嘩することがカッコいいと思ったら大間違いだからな! 喧嘩がカッコいいのは中学生までだぞ。いや、中学二年生ぐらいまでかな? あ! 要するに中二病だ。お前らはまだ中二病を患ってるわけだ!」
「あ……」
 俺にまたがりながら長いことまくしたて、こちらにビシィ!と指差すのは、猫ではなく、少女。その少女は、金色に輝いた短い髪を揺らしていて、ビー玉のような丸く綺麗な目を煌めかせていて……そして、何より俺が憧れていた太陽のような光を持っていて――だからその少女はどう考えてもあいつとしか思えなくて。
「ゆかり……?」
 彼女の名前を呼んだ。触れるように、確かめるように。
「ゆかり……なのか? ゆかり……なんだよな?」
 不安だった。胸の動悸の理由の大半はそれであった。その不安はあらゆるものを含んでいる。もしかしたら夢なんじゃないか、とか。俺の頭がおかしくなって幻を見てるんじゃないか、とか。――だが、何よりの不安は、もっと別のところにあった。……それは、隠してしまうこと。その夢を、その幻を、現実のものと受け入れて、彼女の死を隠してしまうこと。それが……何よりも不安だった。もしそうしてしまったら、俺は"本当"に壊れてしまう。
 彼女の唇が開くのが怖かった。
 もし彼女が「そうだよ。ゆかりだよ。実は私、死んでなかったんだ」なんて言ったら、きっと俺は、その幻想を躊躇もなく受け入れてしまいそうだったから。
 俺は、それほどに弱かったから。
 しばらくの間、暖房の音だけが保健室に鳴り響いていた。
 果たしてゆかりは――
「……え、もしかして、見えてる? あれ? 薫って霊感あったっけ?」
 呑気な声で、そんなことを言っていた。



 3.ゆかり

 暖房の効いた職員室を出ると、昼休みの喧騒と冬の冷気が俺を出迎えた。
「……はぁ」
 身体を伸ばした後、俺は大きなため息を吐いた。
 ゆかりともっと対話を試みたかったのだが、保健室を出るなり担任に腕を掴まれて職員室に連行され、かれこれ3時間以上説教を食らってしまった。今日と明日の自宅謹慎を言い渡されて解放され、洋平はまだ説教を食らっている。あの分だと一週間から一か月は謹慎くらいそうだ。
 職員室から下駄箱へと向かう廊下の窓から、ふと外を望む。冬の風に揺れる桜の木。まだつぼみの小さなその木の陰――そこに、俺は彼女を見つけた。
「……ゆかり」
 身体の熱が急激に上がっていく。心臓が、激しく鼓動し始める。
 ゆっくりと歩いていたはずがいつの間にか早足になり、下駄箱を過ぎるころには全力で駆け出していた。 
 ゆかり……! ゆかり、ゆかり、ゆかり!!!
 俺の全神経が、その名を叫ぶ。
 自分で自分に呆れるほど、俺は彼女を欲していた。彼女の姿を、声を、あの元気な輝きを――早く、いち早く確認したかった。
 桜の木にはあっという間にたどり着いた。しかし、そこに彼女の姿はない。どこだ、どこに行ったんだ。
「……っ!」
 辺りを見渡すと、旧校舎の方へ向かうゆかりの小さな後ろ姿を見つける事ができた。やがて彼女が旧校舎の中へ消える頃、俺の足は再びせわしく動き出す。
「旧校舎……」
 ――この五人が、いつまでもずっと騒ぎ合っていければいいなぁ――
「ここは……」
 古びた中央玄関のドアを開き、薄暗い旧校舎へと足を踏み入れる。埃っぽいこの旧校舎は俺たちが卒業した1、2年以内に取り壊される予定であり、現在一応立ち入り禁止とされているのだが、意外と学校側の監視と閉鎖状態は緩く、教師が近くに歩いていなければすぐに入ることができる。最近は旧校舎からの運び出しもあるようで、鍵をかけてない時間も多い。昼休みなどは特にそうだったりするわけだ。
 階段を上る。いつかゆかりが「あれ? 一段ないぞ!!」なんて大騒ぎして七不思議の濡れ衣を被った旧校舎一階の中央階段。
 ああ……ここは、とても思い出が多い。
 当時、取り壊されるのなんてつゆ知らないころの俺たち"青春とシャウト"は、放課後によくここに入り込んで無断で練習したものだったのだ。
 桜舞う春は花見と称したどんちゃん騒ぎ。
 蝉の鳴く夏は勝手に合宿を。
 紅葉深まる秋はハロウィンとか言ってコスプレで旧校舎を闊歩。
 雪降り積もる冬はこたつに入って鍋をつつき合う。
 ――めぐりめく四季を、こうして過ごそう、何て語り合った日はもう遠く。まだまだ続くはずだったお祭り騒ぎは、二年で終わりを告げる。 
「もっと、あるはずだった」
 三階にたどり着いた俺は、その扉に手を掛けた。
「最後まで、駆け抜けるはずだったんだ」
 かつて、俺たちの秘密基地だったその部屋に、一年ぶりに足を踏み入れる。
「なぁ――ゆかり」
 日差し差し込むその窓で佇む少女を、俺は見つめた。
「俺は、お前と……」
 しかし、その言葉を最後まで言うことはできず、俺はそこに立ち尽くすことしかできない。
 振り返った少女は、ただただ目を丸くして俺を見つめる。
「ほんとに……見えるのか、お前は」
「……今目の前にいるお前は夢幻でないかぎり……俺の目は、お前を見ているよ」
「……そっか――そっか!」
 ニカッと、生前のような笑顔を携えて、ゆかりが俺へと駆け寄る。
「私は、お前とまた話ができるんだな!」
 まぶしかった。
 その笑顔は、あまりにまぶしすぎた。
「……ふっ」
 その光にやられ、俺も笑ってしまう。
 暗い感情をも晴らすその光は、かつて俺たちの太陽だった。
 『青春とシャウト』は、いつもその光に照らされていた。
「おい薫。なんだ今の『ふっ』て笑いは。ニヒル気取ってんのか? かっこつけてんのか? ってかそれがかっこいいと思ってんのか?」
「そんなわけじゃねーよ」
「いや、今のお前はなんかあれだ。中学二年〜高校一年の男子が女子の前で少しでも自分をかっこよく思ってもらいたくて出す笑みだった」
「なんだそりゃ」
「あいっかわらず中二だぜまったく……頭が痛いよ薫。中二病ってのは不治の病なんだな」
 まるで死んだことなんて忘れたかのように、俺たちは言葉を投げ合う。
「お前は漫画とかで『これで、終わりだあああ!』みたいなセリフに感動するタイプだろー。家に誰もいない時に叫んじゃうタイプだろー」
「まずそんなタイプの人間がこの世に存在するかどうか議論が必要だな」
「ブリーチとか好きな奴は大体そんなやつだ」
 なんつー偏見だ。
「残念ながら俺が好きなのはいちご100%だ」
 さっ、とゆかりが後ずさり、スカートを抑えた。
「そういうやつは欲求不満のエロスケベクソ野郎だ。あんな史上空前のエロ漫画に毒されやがって」
 なんつー偏見だ。
「お前が成人誌読んだときの反応が見てみたいよ」
「ヤングジャンプか?」
「小学生かお前は」
 身体的にも精神的にも。
「ヤングジャンプはいかんよ。あんなん性欲と暴力の巣窟だろ」
「なんでヤンジャンがそんな世紀末じみてんだよ」
「ああいう雑誌は撤廃するべきだね。そういう真似をする少年を増やす要因だぜ」
「PTAかお前は」
 気付けば二人とも床に腰かけてしゃべり合っている。
 二人とも素知らぬふりをしているが、きっとお互いわかっているだろう。気分が高揚していることを。
 何せ一年ぶりの会話なのだ。
 一年も……俺たちは会えなかったのだ。
 本当は、一生会えないはずだった。
 しかし、何の幸運なのか知らないが、俺たちは今こうして会うことができている。
 ゆかりは死んだ。
 そうだ、死んだよ。
 だけど、こうして話せてる。笑って、怒って、そうやってお互い前のように話せてるんだ。
 これ以上、いらないよ。
 いらない……。
 ゆかりと話せるだけで……いいんだ。
 それだけで、俺は……。
 何かを伝えたら壊れてしまいそうな気がした。
 抱えていたすべてを伝えたら、消えてしまう気がした。
 弱い人間だな、と思う。
 臆病だな、と思う。
 それでも、俺はゆかりと他愛もない話をし続けた。言いたかったこと、伝えたかったことを押しとどめ、平静を務めた。
 きっと俺は、夢を見ている気分だったのだろう。
 良い夢というものは、夢と気づいたその瞬間に覚めてしまう。大切なものを手に入れても、現実に戻る際に砕け散ってしまう。
 だから、気付かぬふりをして、俺は何も問い詰めることもなく、夕暮れまで彼女と話し続けた。
「――で、その時RYOが……」 
 日が沈もうとしても尚話を続けようとする俺の口を、ゆかりが人差し指を押し当てて止めた。
「もう、帰る時間だぜ、薫」
「……あ、あぁ」
「ほら、帰るぞ」
 ゆかりは立ち上がり、部屋の出入り口へ歩いていく。
 ……終わってしまう。
 彼女の影のない後姿を見たとき、ふとそんな予感がした。
 旧校舎を出て、二人並んで歩く。その光景は、ゆかりが生きていた頃と変わりないのに。それなのに、心臓がばくばくと激しく鼓動する。
「なぁゆかり」
 俺は明るい声を出すように努めた。
「こうやって一緒に帰るの、久しぶりだよな」
 ゆかりは、何も答えない。
「まったく、お前が居ない帰り道ときたら静かで――」
 校門にたどり着いたその時、ゆかりの歩みがぴたりと止まった。
「ん?」
 既に校門を出た俺は、立ち止まっている彼女を怪訝そうに見つめた。
「どうしたんだ? なんか忘れもんでも――」
「ごめんな、薫」
「え……な、何だよ。別に忘れもんくらい気にしないって。だから、早く取りに行って一緒に――」
「私は、帰れないんだよ」 
 寂しげな微笑みを、ゆかりは浮かべていた。
 やめろよ……。
 そんな顔、すんなよ……。
「帰れないって……ハハ、何言ってんだ」
 情けないくらい乾いた笑いだった。
「早く帰ろうぜ。ほら、日が暮れちまう」
「無理なんだよ」
「どうしてだよ。ただ、その校門を超えればいいだけじゃないか」
「……それが、無理なんだ」
 どうして、と問いかける俺に、彼女は微笑みかけた。
 とてもとても、悲しい笑顔だった。
「私は……この学校が好きで、さ」
 彼女は校舎に向かって振り返り、その両腕を広げた。まるで、その風景を胸に抱きしめるように。
「この学校で出会ったみんなが好きで、『青春とシャウト』のみんなが好きで」
 ゆかりの肩が、小さく震えた。
「この学校を、卒業したくなくて……でも、絶対に卒業しなくちゃいけなくて。でも、やっぱり悲しくて。それならいっぱい思い出を作ろうって思って。卒業しても、いつでも思い出せるように、いつでもあの日々に想いを馳せられるように」
 ゆかりが振り返る。   
「でも――死んじゃった。あは、は……バカだよね、ほんとう。浮かれてぼーっとしてて、車がくるのに気づかなくて……死んじゃった」
「ゆか、り……」
 認めて、しまった。目の前にいるゆかりが、"前と違う"と……認めてしまった。
 もうあの日には戻れないと、認めてしまった。
「か、えろう」
 それでも、俺は認められなくて。二人で帰ろうと彼女の手を引こうとして――。
「あ……」
 その手は、空を切っていた。
 正確に言えば、彼女の手を、俺の手が通りぬけて行った。
「私、地縛霊らしいんだ」
 触れ、られない。
 幽霊でも、夢幻でも構わない、なんて自分で言っていたくせに、彼女に触れられないという事実は、身が裂けそうなくらいショックだった。
「地縛霊――その場に、特別な理由があって留まり、離れられない霊。あぁ、て納得したよ。私、学校が好きだったから。ずっといたいって思ってたから。でも、でもさ……」
 その大きな瞳から、大粒の涙が、こぼれていった。
「私……みんなと……みんなと一緒に、卒業したかったのに……っ。卒業なんて、いやだ、さびしいって思ってた。だけど、だけどさぁっ……みんなとなら、いいって思ったんだ。みんなと泣けるなら、それでもいいって――それがいいって!」
 まるで雨が降るように、地面が濡れていく。
「なんでっ、何で私死んじゃったの……っ。みんなともっと一緒に居たかったのにっ! もっともっと一緒に居たかったのに!!」
 ゆかりの悲痛な叫びが、心に突き刺さる。
「やくそく、したのに……」
「……っ」
「卒業式で、薫を泣かせるって……やくそく、したのにっ! なのに、なのにそれもできない……っ」
「ゆか、り……」
 俺が呼びかけると、彼女はハッと肩を震わせて、目元をごしごしと拭いた。
「――ごめ、ごめんなっ、と、突然……ははっ、ほ、ほんとに私は、弱虫だなぁ」
 違う。
 それは違うよゆかり。
 お前は、弱虫なんかじゃない……そう、言ったじゃないか。それは、弱いってことなんかじゃないんだ。
 弱虫なのは、お前じゃない……。
「とっ、とにかく、私はここから出れないんだ! だから――じゃあな、薫……っ」
「ゆかりっ!」
 彼女は俺の静止の声を振り切り、校舎へと走っていく。
 追わなければならない。
 そう思うのに、俺は動けないでいた。
 日が沈み、空が黒に染まるまで、俺はそこで立ち尽くすことしかできなかった。

 ――そんな自分が、とても、嫌いだ。


 4.後悔の隠しトラック

 ●

 今となっては随分と昔に思える想い出。あれは、いつの頃だったろうか。
 そう……確か、夏だ。
 焼き焦げてしまいそうなほど強い日光、うだるような暑さ。
「海に行きたい!」
 クーラーの付いていない旧校舎で、ゆかりはそう言ったんだ。
「Oh、海ィ、嬉し恥ずかしかしましィ、イェァァァァ」
「うっせぇぞRYO。テメェがクソラップ披露するたびに温度が上がる」
「ボソボソ(うるさいぞバカ。お前がしゃべる度にIQが下がる)」
「言っとくけどお前ら全員うるせぇからな。な、わかるだろ? こう言ってる俺もうるさいんだよ。もうどうしようもねーなあっはっは」
 あまりの暑さにどいつもこいつもどうかしていた。多分、ゆかりが叫んだのもこのサウナのような空間に脳をとかされてしまったのだろう。俺はそう思っていた。
「あーもう! お前らだらしない顔しやがって! ニ年の夏といえば高校最後の夏と相違ないようなもんだぞ! 来年はみんな受験で勉強に忙しいだろうからな!」
「Oh、最後のラストサマー」
「意味重複してんぞクソラッパー」
「アァ? おい、チョーフクってなんだ薫。オレにもわかるように噛み砕いて説明しろ」
「偏差値30を下回るお前にわかるよう説明するには噛み砕くどころかダイナマイトを使って爆砕しなきゃならんから骨だな……」
「ボソボソ(そもそもなんの話だったっけ。薫のブツが一センチにも満たないって話だったっけ)」
「お前の脳が半径一ミリにも満たないって話だったかな」
 バン! と勢いよく机を叩く音。見れば、ゆかりが顔を真っ赤にして激昂していた。
「海だよ海ッ!! この夏に行くの!! 今決めたの!! 絶対行くの!!!」
 ゆかりはまるでだだをこねる子供のごとく――いや、子供そのものだった。
「うがああああ!!! うがあああああああ!!!! うおごぉぁあああああああああ!!!」
 突然奇声を上げたかと思えば、ロケットのように洋平に頭から突っ込んでいった。
「えっ!? なっ、なんだこいつっ!?」
 その時の素っ頓狂な顔をした洋平の顔は、今でも忘れない。
 ゆかりの頭突きをもろに鳩尾にくらった洋平は
「コフー……コヒュー……」
 という下手なリコーダーのような音を出して倒れ、RYOはそれを見て
「ワァォ、クレイジーゆかりィ、一足早い夏祭りィ」
 とラップを口ずさんだかと思えば、俺に向かって殴りかかってきた。
「アッハッハ! こいつはロックだぜ!!!」
 恥ずかしいことに俺の頭は最高にシェイクされていた。
 謎のセリフを叫んだ俺は、何故か手元にあった広辞苑を手に取り、それでRYOを思い切りぶん殴っていた。
 その後俺たちは旧校舎の教室で暴れに暴れた。暑さでイライラがピークに達していたのだろう。
 鴉はそそくさと逃亡。RYOは何を思ったか三階のベランダから飛び降りて足を骨折し、洋平はRYOに触発されたのか同じくベランダを飛び降りようとしたのだが、窓ガラスの存在に気づかず激突して気絶。俺はゆかりと最後まで箒でちゃんばらを演じ、テンションが上がった二人で屋上まで戦い歩き、お互い同時にブッ倒れて「へっ、お前強いな……」的感慨に浸った。
 ようするにキチガイでバカみたいなことをみんなでやっちまったんだ。
 だけどさ、なんというか……ロックじゃね?
 謎のアドレナリンに侵されていた俺の脳は、そんな結論に至り、満足してしまっていた。
 屋上に寝転がる俺たち。
 聞こえるのは、部活動に励むヤツらの声と、烏の鳴く声と、互いの呼吸。
 気づけば空は燃えるような赤に彩られていた。
「なぁ薫」
「ん?」
「楽しいな」
「まあな」
「海、行こうな」
「ああ、そうだな」
 そんときゃお前、俺らを喜ばせるような際どい水着を着けてきやがれよ。
 なんてバカみたいな事を言おうと思った。
 だけど、ゆかりを見たら、何故か泣いてるんだ。
「おまえ……泣いてんの?」
「……泣いてねぇし」
「いや、声も震えてるしよ……何、どっかいてぇの? 俺、やりすぎた?」
 女子の涙ってやつに、俺は全然慣れていなかったんだ。
 まるで男子にやるみたいにふざけて女子を軽くぶったら、そいつがガチで泣いちまって、うわ、どうしよう、どうすればいいんだろう……って戸惑っていた小学生の頃を、俺は思い出していた。
「そういうわけじゃねーよ。何気色悪い声出してんだ」
「気色悪いて、お前なぁ……」
 頭を掻きながらため息を吐く。ゆかりは顔を両手で覆って声を震わせていた。
「こういうの……きちゃうんだよ……。こういう……何でもないバカみてぇな一瞬がさぁ……今この時しかないんだって思うと……」
「何だよ、それ」
 微笑ましい、というのだろうか。
 空気が抜けるように、笑いが口から漏れた。
「くっ、笑うんじゃねーよバカぁ……。わかってるんだよ、弱虫だなぁってことはっ」
「……別に、弱虫ってこたぁねぇだろ」
 再び屋上に寝転がって、茜色の空を望む。
「そういうのは、泣き虫って言うんだ。……フッ、なんだよ。やかましいやっかいな女だと思ってたけど、可愛いとこもあんじゃねえか」
「なっ――」
 さっきまで泣いてたというのに、突然ゆかりはがばっと起き上がり、俺に馬乗りになって胸ぐらを掴んできた。
「おっ、お前はなななな、何言ってんだ! か、か、可愛いってなんだ! バカにしてるのかっ、なぁっ、おいっ!」
「う、うおっ、ゆ、揺らすんじゃねぇ!! な、何なんだよ、人がせっかく正直に褒めてやってんのに」
「しょっ、正直って! あ、あ、ぅ……ぅ〜〜〜〜〜〜っ!!」
 湯気でも出るんじゃないかってくらいゆかりは顔を真っ赤にしながら、俺を勢いよく突き放して離れた。
「いてっ! ったくなんなんだ一体……」
「そ、それはこっちのセリフだってのに……ぅぅ〜〜〜〜、くそぉ、何なんだ〜〜〜もぉ〜〜〜〜〜!」
 よくわからないがその場で地団駄踏んだり髪をかきむしったり……なんだろ、暑さにまだやられてんのかな。
「……あ、そうだ」
「なっ、なんだ! また変なこといって私を惑わせるつもりかっ!」
「あ? 惑わせる? なんのことかは知らんが違う。一つ訂正をしたかっただけだ」
「訂正?」
 俺は頷いて、ゆかりと同じように立ち上がる。
「バカみてぇなこの一瞬、この時は今しかないけどよ、だけど……」
 そのあとに続く言葉は、まるで劇のセリフのように思え、そのあまりのクサさに言うか言うまいか一瞬逡巡するが、結局俺はその言葉を言い放っていた。
「それは生きている限り、いつまでもいつまでも続いていく……そうなんじゃねえの?」
「いつまでも……?」
「ああ……だって、俺らって多分、ちょっとやそっとで離れられるほどやわでかわいらしいバンドじゃねーだろ? だから――俺が、俺らがずっと一緒にいる限り……続いていく限り……バカな一瞬は無限に近いほど存在しちまうんだよ」
 それは、俺の望みだった。
 ささやかな、ほんのささやかな……砂粒ぐらいの小さな望み。
「そっか……なんだ、無限に近いのかよ……涙、足りねーよ」
「そうだな。俺らといたら多分、枯れるだろうな、涙」
 ――枯れさせてやりたかった。
 そんでもって、お前に、もう二度と涙を流させてやらないつもりだった。
 ただただ、笑わせてやりたかった。
 ただただ、笑い合っていたかった。
 卒業まで、その時まで。
 俺は――あるいはこの時、お前に恋をしたのかもしれない。
 だって、決意したんだ。
 お前を泣かさないって。
 お前を泣かせる時は、それは――俺が泣く時だって。
 決意……していたんだ。

 ●

 目覚めると、そこには茜色はなく、暗い天井が広がっているだけだった。
「……帰って、そのまま寝ちまったのか」
 瞼をこすり、体を起こす。鉛のように体が重い。
 辺りを見渡すと、淡く輝く光が一つ。また俺は、あのCDを聴きながら寝ちまったようだ。
 スイッチを切ろうと手を伸ばす。
 その時だった。
『あー、ごほん!』
 わざとらしい咳払いが、そこから響いてきた。
『よ、よう、薫。曲はちゃんと聴いてくれたか?』
 ――えっ……?
 こんなの、聴いたことがない。CDを何度も何度も聴いていたのに……なんだ、コレ……。
『どうだったかな。結構自信あるんだ。今回は』
 ……隠しトラックだ……。
 曲が終わってから何分も放置した時に再生される、アーティストがアルバムとかを出す際にたまに入れる『お遊び』だ。あいつ、こんなことを……。
『卒業ってかんがえたらすごい気合が入っちゃってさ。いっぱい作っちゃった』
 ……知ってるよ。
『きっと私泣くだろうなぁ。みんなを泣かせようと思って、泣いちゃうんだろうなぁ』
 それも、知ってる。
 お前が、どんなに"卒業"に強い想いを持っているか……。
 お前が、卒業式に何をしようとしていたか……。
 お前が、卒業が嫌で……でも、俺たちと一緒に卒業したかったことも……。
 お前が、お前が……俺を、泣かせようとしていたことも……。
「全部、知ってるんだよ……っ」
 ベッドを思い切りたたいた。右手が、クッションに沈む。
 この隠しトラックは、過去の再生だ。何の意味もない。聴くべきだった時に、俺は気付けなかった。今さら、こんなの聴いたって……。
『それでな……あの……その、な……お前に、言いたいことがあるんだ』
 スイッチを切ろうとした手を、思わず止めた。
 なにやってんだ。
 過去の言葉だ。
 今さら聴いたって仕方がない。
 ――わかってる。
 ……わかってる、けど……だめだ。だめなんだよ……。
 好きなやつが、しゃべってるんだ……。
『ずっと言いたかったんだ……だけど、なかなか言えなくて……お前を目の前にすると、言えなくなっちゃって……』
 過去の言葉だ。
 でも、まるでお前が目の前にいるようで……今でも生きているかのようで……。
『私――』
「ああ……」
『お前のこと、好きなんだ』
「そう、か……」
 それは……。
「それは、知らなかったなぁ……」
 俺はCDの再生をようやく止めることができた。でも、胸の疼きは、いつまで経っても止まることはなかった。
 後悔は、いつだって俺を苦しめる。


 
 5.とあるベーシストの悔恨

 ○yohei

 後悔していた。
 オレは、ずっと、後悔し続けている。
「ハァ……」
 らしくねぇ溜息が出た。木嶋 洋平らしくねぇ、ダセェ姿だ。川辺で黄昏て、オレは一体何やってんだ。
 こんなことしても、意味なんてねぇんだよ。
 わかってるさ……わかっては、いるんだ。……わかってる、だけなんだ。
 煙草の煙を燻らせる。もうこれを吸って一年になるのか。相変わらずまずい。だが、一瞬やってくる思考の空白……そいつが、オレを煙草から離れさせてくれない。
 オレは、何も考えたくないんだ。
 何も……。
「……ヨーヘイ」
 声で鴉だとわかった。だけどオレは振り返らなかった。
「あ? なんだお前、キャラは捨てたのか? 普通にしゃべりやがって」
「ヨーヘイはいつもと同じだな。相変わらずイタいことしてる」
「うるせえよ」
 平たい石を見つけたので、おもむろに川むかって投げてやった。石は、5回水を切って沈んだ。
「すごいな」
 想像していた反応ではなかった。こんなのは全然すごいうちに入らない。
「……ゆかりは15回水を切ってたよ」
 だから、思わず言ってしまったんだ。昔からオレをバカにしやがる、あいつのことを思い出しちまったんだ。
「そうか」
「ああ……すごいやつだったんだよ、昔からな……」
 あいつは、昔から無茶苦茶なヤツだった。何度出会ったことを後悔したことか。……結果的に、今も、それは変わらないのかもしれない。後悔の根源を辿ればそこに至る。だが……例え過去に戻れたとしても、オレはゆかりと会わない未来を選択することは確実にないだろう。
「ゆかり……」
 薫に怒る資格なんて、オレにはない。あいつもわかってるんだろう。でも、そんなお互いを、オレらは認められない。それも、きっとわかってる。二人とも、わかってるんだ。……そうさ、わかっているだけ、だ。だからオレらはああなっちまう。オレらを磁石のように強く反発させるのは、お互いの"後悔"だ。どうしようもない、後悔だ。みっともないそれを、見たくないんだ。自分の目では自分は見えない。でも、他人のことは見えちまう。見えてしまうみっともない自分を受け入れることは、オレらにはできない。オレはあんなのじゃない。オレは違うって……クソったれ。
 オレは自分が嫌いだ。
 どうしようもない、自分が。
「同じだな」
 背で鴉が呟いた。
「あ?」
「お前も、同じだ」
 誰とオレが同じなのか。そんなのは考えずともわかることだった。
「バカばかりだ。ほんとうに」
「……うるせえ」
 どうしようもなくイライラする。
 薫……。
 オマエも、そうなんだろう?
 オレを見て、イライラするんだろう?
 一体どうすればいいんだろうな。オレたちは。
 てんで、わかりゃしねえよ……。
 しばらくの静寂のあと、鴉が立ち去っていく足音が響いた。オレは何本目かもわからない煙草に火をつけていた。
「ボクも……なんだけどな」
 風に乗って、そんな声が聞こえてきた。だが、タバコを吸って想いを馳せていたオレの頭に、その言葉が残ることはなかった。

 ●

 オレは小学3年生当時、どうしようもないワルガキだった。
 俺の周りの奴らはピアノを弾けたり、サッカーがうまかったり、縄跳びができたり、何か自分の得意とするものを持ってた。それは才能と言い換えてもいい。才能を持ってる奴らはキラキラして、まぶしくて、オレの目を眩ませた。
 一方のオレには何もなかった。
 得意とすることは何もない。不器用でドンくさいオレは、人よりも劣った動きしかできなくて、周りの嘲笑を誘った。悔しかった。それが悔しかった。オレにも何かあるはず。必死にそれを探った。でも、結局オレは何ももっていなかった。多分カミサマがオレと言う人間を作る工程で、何かミスをしてしまったんだろう。100個のうち1つだけまぎれている不良品。それがオレなのだろう。――当時は本気でそんなことも考えたもんだ。
 不良品のオレは当然のように疎まれた。
 人が人を足蹴にする理由なんて単純だ。「自分より醜いから」「弱いから」「うぜえから」etc……。
 音楽の時間にどれだけ隣人を愛する歌を歌っても、道徳の時間にどれだけ御託をならべても、そいつらは平気な顔でオレを踏みつけるんだ。オレはその矛盾した行為に吐き気がしたから、音楽の時間は勝手に抜け出してセックスピストルズのCDを聴いて過ごしたし、道徳の時間は昼寝をして過ごした。
 ファック、ファック、ファック。オレに石をぶつけてくるやつ、オレを無視するやつ、オレによそる給食を少なくするやつ、オレにわざとぶつかってくるやつ、オレをあざ笑うやつ……みんなファックだ。死ね、死ね、死ね。心の中で呪い続けた。不良品のオレは、ついに心まで故障しかけていた。
 そして、ある日、オレは耐えきれず爆発してしまう。
 それはまだ夏の暑さが残る9月。きっかけは単純だ。暑くてイライラしてるときに、わざとぶつかってくるバカがいた。
 不快な笑みを浮かべながら、他のやつらに囃されてオレにぶつかってきたデブ。そいつがぶつかった時、思ったよりも衝撃が強く、机を巻き込み、オレは転倒してしまう。
 暑い、イライラする、デブ、イライラする、痛い――ああ、もう限界だ。
 目の前がなんだか真っ赤になって、感情の赴くままに拳を振るった。ファックデブ。オレの拳が顔面に入ったデブはたった一発で倒れ伏し、けたたましい泣き声をあげた。周りは唖然騒然。皆、嘲笑の目とは打って変わって怯える目でオレを見ている。
 なるほど、と思った。
 とても胸がすっとしたのだ。心の暗雲が晴れたように思えた。ようするに、これだ。これだったのだ。オレの、才能ってのは。
 ニヤリと笑う。
 その日から、ネジの壊れたぜんまい人形は、どこぞやのスプラッタ人形のような、暴力をばらまく害悪と化したのだった。
 慣れというのは恐ろしいものだ。
 喧嘩に明け暮れる日々を過ごして早3か月がたっていた。先生に呼び出されたり親からげんこつくらうこともあったが、オレはようやく見つけた「暴力」という才能をみすみす手放すこともなく、相変わらず気に入らないヤツをぶん殴るというスタイルを貫き続けていた。 
 それにしても、どいつもこいつも闘ってみれば弱いものだ。今までどうして自分は蔑まれていたのだろう、と不思議に思う。
 オレは天狗になってた。
 どいつもこいつもオレに媚びへつらうし、ワルに憧れてる奴らは勝手にひっついてきた。快感だった。恐怖で人を自分の下に置くというのは。あまりにも気持ちが良すぎてオレは大事なことに気付かなかった。いや、目を反らしていたのかもしれない。
 ――結局、自分が周りと馴染めない不良品であることには変わりなかったこと。
 ――結局、誰もオレの隣に来てくれなかったこと。
 ――このままだと、ずっとオレは孤独であり続けるということ。
 それでもいい。
 クソみてえな現実に、オレは拳一つで立ち向かってやる。こんなクソみてえな世界でめそめそしてくらいだったら全部ぶっこわしてやる。
 オレはそんなことを本気で考えていたのだが、
「へえ、お前、ダッセエことしてるんだなぁ」
 しばらく後にあいつと出会い、拳よりも有意義な『世界への立ち向かい方』を知ることとなる。

 ●

 たばこの箱を胸ポケットから取り出す。無性にタバコが吸いたい気分だった。もう夜で、川岸はえらく暗く寒くなっていたが、あまり気にならなかった。甘美な思い出は、オレの身を少なからず暖めていた。
 そう、あの日だ。あいつ――ゆかりが引っ越してきたあの日……あいつは、言ったんだよ。「ダサいことしてるな、お前」と。オレはもちろん怒った。いきなり隣に引っ越してきたヨソモンに、いきなりそんな言葉を吐かれるんだ。耐えられねぇ。オレはその時拳を振り上げてあいつに襲いかかろうとした。
「そしたら……ハハ……」
 思わず噴き出した。殴りかかろうとしたら、ギター振りかぶって応戦してきやがったんだよなぁあいつ。まさかあんな重くてデケェ鈍器使われると思わなかったから怯んじまって、ボッコボコにされたっけな……ほんと、ゆかりは変なやつだったよ、最初から……。
 それからあいつ、痛みに悶えるオレに「女の私なんかに負けたことを言いふらされたくなかったら私の言うコトを一つだけ聞け」なんて言いやがって……。何を言うかと思ったら、「ベースを弾けるようになれ」だもんなぁ……。
 最初は困惑したし、反抗もしたもんだった。でも、無理やり渡されたぼっろぼろのベースを弾いてるうちに、暴力以外でもこのクソみてえな世界に一石投じることができそうだって気付いて、それからは夢中でベースを練習して、ゆかりとセッションして……それがすっげえ楽しくて……色んな曲を聴いて、コピーして、それをゆかりに自慢して、またセッションして……楽しくて、楽しくて、楽しくて……。
 オレは……あいつと居るうちに……いつの間にか、クソッたれな世界が好きになり始めていたんだ。
 ああ、いいかな、って。もう、許してやるか、ってさ。
 ゆかりみたいなバカが楽しくやってる世界なら、案外わりいもんじゃないかもしれねぇって……。
 ――その時、突然、あの時の薫の声がよみがえってきた。
『意味が、わかんねぇよ』
 なんだよ、薫。
『何で俺がお前にキレられなきゃならない。放っておけよ。ウジウジするタイプが嫌いなら、無視してりゃいいだろうが』
 そんなことできるわけねえだろ。お前見てると、すげえ疼くんだよ……。
『それともあれか? 人にそう言いつつ、お前が一番引きずってんじゃねぇのか?』
 クソ……ふざけんな……っ。
『俺がちょっと名前出しただけでそんな怒るなんて、おかしいだろうが』
 そうだよ、こんなんおかしい。わかってる。わかってるけどよ……っ
『お前、ゆかりの事――』
 オレは立ち上がり、河原に向かって思い切り叫んだ。
「悪いかよっ! 好きで悪いのかよ!! 忘れられねえよ! 忘れられるわけねえだろ!! あいつのおかげで毎日が楽しくなったんだ! あいつのおかげで、オレみてえなクズも世界に居ていいって思えたんだよ!! そしたら、そしたらようっ、好きになるに、決まってるじゃねえかっ!! 決まってるじゃ、ねえかよ……っ」
 オレは膝から地面に崩れた。痛いほどの悲しみが全身を苛んだ。
「……この世界はクソッたれだ。何も変わらねえ。変わったのは、あいつが現れたってことだ。オレはクソみてえな世界が好きになったんじゃねえんだ。オレは……ただ、ゆかりが、あいつが好きで……オレは……っ」
 忘れたい。
 好きであることをやめたい。
 こんなの苦しいだけだ。
 空しくて、悲しいだけだ。
 どんなに大きな声で叫んでも、
 世界は相変わらずクソったれで、
 そこから抜け出す術を、
 オレはもう、
 知らない。


 
 6.薫
 
 ○kaoru

 CDに残っていた彼女の告白を聴いた翌日。ゆとり世代である俺は、土曜という休日をベッドの上でだらだらと過ごすことで消化していた。
 しかし、CDコンポに目がいった時、俺はどうしようもないやるせなさを感じてしまい、部屋にいたくなくなってしまった。おもむろにベッドから立ち上がった俺は、床に放り投げられていた少しオーバーサイズのジャンパーを羽織り、よれよれのマフラーを巻いて、外へと足を進ませた。
 ひどくけだるい。一歩踏み出す度に身体が沈んでいくようだ。ガードミラーに映った自分の顔は、とてもやつれていて、今にもぶっ倒れてしまいそうだった。空は曇天。今にも雲が落ちてきそうだ。
 無意識に歩いていた。自分の気がまぎれるのだったらどこでもよかったのだろう。ふと視線の端に、運動公園が映る。冬の寒さにみんな参ってしまったのだろうか、園内に人の姿は見られない。なんともさみしい景色であるが……まぁ、俺には都合がいい。俺は園内に足を踏み入れた。
 自販でコーヒーを買い、かじかんだ手を温めながらベンチを探した。コーヒーがぬるくなるまで歩いてようやく見つけたベンチには枯れ葉が積もっていて、人が久しく訪れていないことが窺えた。
「……まるで世界にひとりぼっちになってしまったみたいだ」
 そのベンチから望む公園は、とても物悲しくて、物寂しくて、なんだか空しい俺の心を映し出しているようだった。
 すっかり冷たくなったコーヒーは、思ったよりも苦くて、2、3口飲んだらもう飲むのが嫌になってしまった。溜息も苦い。ああ、まったく、俺は何をしているのだろう。こんな無意味なことを、ずっと繰り返している。いつから、俺の世界はこんなにつまらなくなったんだろう。――いつから、ね。わかりきった答え。もう嫌になる。
 俺は、もうずっと手を伸ばしているんだ。
 もう届くことのない、背中のほうにある宝物に。
「……帰ろう」
 呟いて立ち上がる、俺の足元に、ころころとボールが転がってきた。
 この公園を有効利用している人がちゃんといるんだな、と安心した俺は、ボールを手に取って転がってきた方に目をやった。
「Oh,yearマイブラザー。俺のボールを取ってくれYO」
 ボールが手からすり落ちた。
「……何でクソラッパーが」
「カオルの孤独なwinter saturday、オレのラップは世界一でい」
 大きくため息をついた。今日の公園は哀れだ。こんなくだらねぇやつ二人に使われているのだから。
「一人で何やってるんだか知らないけどまぁ楽しんでくれや。俺は帰る」
 しかし、クソラッパーはチッチッチッと指をふって俺の行く手を遮る。
「クソ童貞カオルゥ、オレとキャッチボールするゥ」
「何をわけのわからないことを……んな青春みたいなこと、なんで俺がお前みたいなふざけた野郎としなくちゃならんのだ」
「クソ童貞カオルゥ、オレとキャッチボールするゥ」
「いや、だから俺はやらないって」
「クソ童貞カオルゥ、オレとキャッチボールするゥ」
「…………」
 壊れたラジカセみたいに、同じフレーズを繰り返すRYO。
 俺は二度目の溜息を吐く。
「……第一グローブが」
 言い終える前にRYOが懐から茶色いグローブをぶんなげてきた。
「随分用意がいいんだな」
「オレウズウズゥ、カオルとキャッチボールウズウズゥ」
「ラップと言うより日本語が不自由みたいなしゃべり方だな……」
 やれやれ、と諦めながらグローブを手にはめる。まぁいい。適当にやって適当に切り上げてしまえ。
 RYOが俺から離れ、両手を天に突き出した。
「プレイボーーーール!」
「なんか違うだろそれ」
 まあいいや。
 軽くボールを投げた。RYOがそれをキャッチし、振りかぶる。
「オレ投げる時質問するゥ、YO、お前投げる時答えるゥ、HEY! OK?」
 ボールが返ってくる。なんだかよくわからないが……。
「OK!」
 こういうことだろう。何がしたいかは知らないが満足するまで付き合ってやろう。
「Hey、チェリーボーイカオルゥ、ちゃんとウンコはしてきたかァ?」
 ボールが放たれる。やや上方に飛んできたそれを、背を伸ばしてキャッチした。
「朝したよバカ!」
 ったく、せっかくの休みの日にこんな茶番に付き合わなきゃなんてな。
 RYOはケラケラ笑っていた。腹が立つ。やや力をこめてボールを投げ返した。
「HEY、クソ童貞カオルゥ、ギターはちゃんと弾いてるかァ?」
 RYOが投げる。キャッチ。
「……おう」
 投げ返す。少し手が震えた。
 茶番をする気は、ないのかもしれない。
 少し身構える。
「HEY、カオルゥ」
 RYOの顔をじっと見つめる。
「昨日は何回オナッたんだァ?」
 思い切り前のめりにずっこけてしまった。
 こいつは、やっぱり俺をおちょくりたかっただけなのか。いや、いつもそうだったじゃないか。何で俺は緊張なんかしちまったんだ。なんだか恥ずかしい。
「0回だバカ野郎!」 
 ボールを投げ返す。
 肩に入っていた力はいつの間に抜けていた。と、いうか全身から力が抜けていたというべきか。
 だから、気付かなかった。
 いつの間にかRYOがサングラスをはずいていたことに。
 気付かなかった。
「なあ、薫」
 その呼びかけが、いつもと違って韻を踏んでなくて、RYOは、真面目な顔をして俺を見つめていて、
 RYOが――

「お前、ゆかりが好きなのか?」

 そんな、質問を投げかけてくるなんて。
 ボールが、俺の肩を越え、背中を転がっていく。俺は一歩も動けず、転がっていったボールを肩口から見つめることしかできなかった。
 何で、そんなこと聞くんだ。
 わかってるんだろう?
 俺が、みっともなく過去に手を伸ばそうとしていて、でも手は届かなくて、その場に、ただただ足踏みしてるだけだって。
 その、一番の理由が――ゆかりへの恋心だって。
「答えろよ、薫」
 RYOの雰囲気は一変していた。弛緩した空気は見る影もない。
 俺は首を振り、RYOの言葉を拒んだ。
「いやだ。意味のないことだ……まったく、意味のないことなんだ。そんなものは」
「どうして、意味がない?」
「だって……悲しいだけだ……。俺が今それを口にしたとして、何になるっていうんだ。その言葉は、届かない。届けたかったひとは、俺よりずっと後ろで立ち止まってるんだ。それで、俺は手を伸ばすけど、でも絶対に届かない。届くことはない」
「……薫」
「たとえ声が届いたとしても、想いが届いたとしても、俺のこの手は、この腕は、あいつの手を捕まえることも、抱き留めることもできない。――なあ、こんな悲しいことがあるか? こんな、こんな辛いことがあるのか? 俺は、いつでも手を捕まえられたんだ。いつでも、抱き留めることができたんだぜ? なのに、俺はそれをしようとしなくて、日常はこれからも続いていくと信じていて……そうしたらあいつは、ゆかりは……死んじまった。もう、手は届かない。その後悔が、胸を突き破るくらいの苦しみを俺に与えるんだ。そして、あいつへの想いを言葉にしようとすると気付くんだ。もう、それが過去形でしかないことに。それが、無性に悲しくて、無性に辛いんだ……」
 俺は背に転がって行ったボールを掴みあげ、RYOを見つめた。
「もう、キャッチボールは終わりだ」
 ボールを、RYOに向かって放つ。
「……いいや、違うさ」
 そのボールを、RYOは受け取らなかった。
「なあ、薫。人生ってむずかしいよな。自分が最善のことをしてると思っても、別の人間から見たら愚の骨頂に見えるかもしれない。前に向かって懸命に走っていても、その姿を揶揄されるかもしれない。生きるってむずかしいよな。でも、だからって、諦めるわけにもいかないのが、人生ってもんなんだよな」
「……何が言いたいんだ?」
「僕らは、立ち止まることができない、ってことさ。例えバカみたいなことしかできないとしても、例え醜く見えたとしても、僕らは前へ向かって走るしかないんだ。前を見て、進むしかないんだ。――だったらさ。どうせ後戻りできないんだったらさ。後悔を失くせないんだったらさ。せめて残す後悔が少なくなるように、全力で生きてくしかないよな」
 RYOが、足元に落ちたボールを拾い上げる。
「なあ、薫。お前の想いは、本当に『過去形』なのか?」
「!!」
 それは……。
 俺の、ゆかりへの想いは……過去に、『失った』ものなのか?
「いや、でも……」
「どうせ届かない? まあそうかもな。後ろには」
 でもさ――と、RYOは振りかぶる。
「お前の声は、前には届くんだぜ?」
 グローブにボールが小気味のいい音を立てて収まる。
「……前、に?」
「僕たちは後ろにある後悔に手を伸ばすことはできないが、前にある後悔の可能性は消すことができるんだ。そのためには、全力で叫ぶことだ。叫び続けることだ。そして、僕たちは、どうすれば全力で叫べるかを知ってる。後悔を抱えた青春バカ達は、どうすればシャウトすることができると思う?」
 俺たち、青春――そして、シャウト。
 頭をよぎる、俺と4つの影。
「僕たちにできることなんて限られてる。みんな、生き方が下手だからな。でも僕らは、自分が上手にやれることがあるって知ってる」
「それは……」
「なあ、薫」
 RYOが笑った。それは屈託のない、まるでこれから起こりうる様々な出来事を想起してウキウキしているような、そのようなむかつく笑顔であった。
「僕ら、もう一度叫んでみないか? 僕らの持ってる最高の楽器で」


 帰ったのは深夜だった。
 RYOの言葉がずっとリフレインされていた。
 叫ぶ。
 前に、叫ぶ。
 それを延々と考え続けて歩いていたら、いつの間にか時は過ぎていた。
 玄関でぼうっと立ち尽くす。靴は二つ。俺と、母さんの靴。父のは――ずっと昔に無くなった。
 そういえば、俺がギターを手にしたのは……そうだ、それも、叫ぶためだった。全力で、叫ぶためだったんだ。
 自分の部屋へ行き、ケースにしまってあるギターを取り出す。アコースティックギター。こいつとも随分長い付き合いだ。そう、そうだな……長い。とても長く……俺の人生と共にあった。

 ――このギターを弾き始めたのは、父さんと母さんが離婚してからだった。

 小学生の時だった。
 それ以前から両親は喧嘩ばっかしてたし、どちらかが家に居ないことが多かった。それでも、二人が離れるということを知った時、俺は酷いショックを受けた。
 日常が崩れる音が聞こえたんだ。在るモノが壊れる。それは、嫌だった。父さんに、離婚しないでくれ、と頼み込むほどだった。しかし、父さんは聞き入れてくれなかった。「もう無理だ」と言った。父のその諦めの言葉が、ひどく陳腐に心に響いて、俺は悔しかった。母に同じことを言えば、ごめんなさい、という言葉が返ってくるばかりだった。
 離婚が成立し、俺は母と共に家に残った。何が一番嫌だったかと言えば、離婚が成立し、縁が法律の上に切れた後の二人が清々しく、むしろ離婚してからの方が仲が良いように見えたことだった。俺は情けなかった。こんなつまらない両親の子供なのだと思うと、絶望するくらいだった。
 何で俺を生んだんだ。お前らは、そんな繋がりの浅さで俺を作ったのか。じゃあ、俺の価値ってなんなんだ。そんな、小さいものなのか。
 叫びたかった。否定し、打ち捨ててやりたかった。でも、俺はそんな手段知らなかった。
 何をするにもつまらなくなった。ゲーム、漫画、ドラマ、スポーツ……何をしても俺の心が晴れることはなかった。
 しかし――運命の出会いは偶然、突然、唖然。……とは言っても、実際はそんなドラマチックなもんじゃなかった。
 ただ、物置を整理していたら、父のギターが残っていた。それだけ。
 なんとなく興味が湧いたからなんとなく弾いてみた。それだけ。
 それだけだったのに、どうしてこんな胸が高鳴るんだろう。
 口下手な俺が表現できなかった嘆き、鬱憤、様々な想い。それが、弦を抑えてピックで弾く、それだけの動作でギターからこぼれ出た。ただ、想いを音にのせればそれでよかった。
 俺は簡単な曲からコピーしていき、技術を磨いた。ギターは俺を夢中にさせた。弾けば弾くほど、もっと上手く感情を吐露することができる。どんどん、想いを乗せられる。
 それでもまだ満足しなかった俺は、適当に曲を作り、歌ものせてみることにした。
 はは、思い出すと笑えるな。あれはひどかった。あまりにクサいし下手。でも……気持ちはすごい籠っていた、と思う。
 やがて中学にあがる頃、俺は駅前に出て演奏するようになった。部屋の中で叫ぶのじゃ物足りなくなったんだ。叫ぶなら外界で、広いところで、みんながいるところで。
 誰でもいい。
 俺の叫びを聞いてくれ。
 俺は不満なんだ。
 俺は哀しいんだ。
 俺は寂しいんだ。
 俺は怒っているんだ。
 誰も見向きもしなかった。むしろ、なんだコイツ、みたいな目を向けられることが多かった。でも、たまに聞いてくれる人もいた。それだけで、充分だった。
 ギターを弾いて歌っていたら、両親のことなんてどうでもよくなった。
 俺が生まれた理由、俺の価値、そんな曖昧でよくわからないものを、俺は叫ぶんだ。ぐだぐだ悩んでるくらいならギター弾いてやるんだ。叫んでやるんだ。
 そうやって、いつものように駅前でギターを弾いていたある日のことだった。やたら髪の長い少女が、演奏する俺の前に近寄ってきた。よく視線の端に見かける女だった。そして演奏が終わるとその少女は、
『どうやったら、あなたみたいに楽しく生きれますか』
 と書かれたメモを渡してきた。
 おかしかった。思わず笑った。久しぶりに、腹を抱えて笑えた。
 少女は呆然としていた。髪が長すぎて顔がよく見えなかったのだが、俺のことをきっと不思議そうに思っていたことだろう。
 ひとしきり笑った後、俺は言ってやった。
「あんたも楽器やってみなよ。楽しいかどうかはわからないけど」
 少女はまたメモに何か書いて渡してきた。
『私なんかに、できるでしょうか』
「"なんか"ねえ……」
 自分に自信がないのだろう。きっと、俺みたいに腐ってるんだ。いや、俺より腐ってるのかも。自分でしゃべらず、文字に頼ってる時点で、何か俺たちと違う。何か抱えているのだろう。髪で顔を覆っているのも、そういう理由があるのかもしれない。
 あくまで仮定の話。想像でしかない。
 もし、俺がヒーローだったら、彼女に救いの手を差し伸べるところなのだろう。
「あんたにできるか、なんて知らないよ」 
 でも、生憎俺は自分のことで手一杯なんだ。
「俺も、できてるかどうかわかんないんだ。ただ、"やってる"だけだから。でも、やってみたら案外楽しいかもよ。俺も……楽しいし」
 俺はヒーローじゃないから、手なんか差し伸べられない。
「とりあえずやってみれば? あんたがドラムとかやったら、すげえ面白そうそうだ。ドラムやりなよ。普段全然しゃべらないのに、ドラムを叩く音だけはすっげえでかいんだ。ドラムの音で、いろんなヤツを圧倒させてやるんだ。びっくりさせてやるんだ」
 俺にできることなんて、些細なものだ。小さいことで悩み苦しむ俺には、世界を変えるようなことも、たった一人を救う事もできない。
「ああ、そうだ。もしドラム始めてさ、誰も組む人がいなかったら、俺と組んでくれよ。そんで、みんなをあっと言わせてやるんだ。ぎゃふんと言わせるんだ。俺たちでも、こういうことができるんだって、見せつけてやるんだ。そうしたらさ――あんたも、少しは楽しいんじゃないかな」
 自分が無力だなんてこと、自分が一番よく知っている。
 けど、それでも、こんな俺でも、何か少しはできることはあるんじゃないか。そんな淡い希望を抱いて、拙い言葉を絞り出した。
 少女の表情は見えない。口は開かれない。ただ、メモ用紙にペンを転がす音だけが聞こえた。
 そして、紙を渡したかと思うと、少女はどこかへ駆けて行った。
「あ、おいっ」
 頭をぽりぽりと掻き、メモ用紙に目を向けた。
『頑張ってみる』
 とてもシンプルだが、胸に沁みるような一文だった。
 何だか俄然やる気が湧いてきて、それから夜になるまでギターを弾き続けた。
 そうして、そろそろ帰ろうか、と思ってギターをケースに仕舞ったその時、足元にビー玉が転がってきた。赤いビー玉だった。それを目に当て、夜の街を望んだ。そうしてみたら、意外と世界は綺麗に見えて、まぁ頑張って生きてやるか、と思えた。

 ――あの日のように、俺は生きる事に希望を持つことができるだろうか。

「よく、わからねえ」
 ベッドに横たわり、あの日拾ったビー玉を通してじっと天井を見つめた。ゆかりを想うと胸が苦しくなるし、未来に展望なんて見えないし、洋平のことを考えるとむしゃくしゃするし、鴉に会うのは何言われるかわかんないから億劫だし、RYOはわけわかんねえし、俺は相変わらず俺が嫌いだ。
 でも、まあとりあえず、ギターを弾こう。
 俺にできることは、きっと、それくらいしかないのだから。


  
 7.Let It Be

 月曜日。俺はギターを背負って学校へ向かった。久々に背負うギターは重かった。おまけに周りからの奇異の視線が痛かった。でも、同時に誇らしくもあった。
 教室に入った時、RYOと目が合った。この前のことが思い出されて、何か気まずい。というか、何か恥ずかしい。あんな真面目にRYOと話したのなんて初めてだったからな……第一『僕』とかあいつ言ってたし。どんなテンションでいけばいいのか……。
 とりあえず席に座ってみると、
「Oh,YARUKIになったかマイブラザー、オレ感涙の雨ザーザー」
 RYOは普段のへたクソラッパーに戻っていた。ラップ云々よりもこいつは日本語の勉強をするべきだろう。でもまあ、助かった。
「別にお前が感動しようがなんだろうが知らんが、俺はただ、自分にはギターしかないって思い出しただけだよ。」 
「Fooツンデレのマイブラザー、萌えの世界に進出ダァ」
「気色悪いことを言うな……」
「ところでファッキンフレンドカオルゥ」
「なんだよファッキンラッパー」
「ヨーヘイとはあれから話したのかァ?」
「ああ、それな……」
 溜息を吐き、苦笑いを浮かべた。
「やっぱ、あいつむかつくんだよな、どうしても」
 まあ、お互いそう思ってるんだろうけれど、それさえもむかつく。
「どうしたらいいと思う?」
「そうだナァ……やっぱァ、ファッキン同士、喧嘩だなァ」
「喧嘩、なぁ……」
 窓から外を望む。
 雪が降りそうな、そんな寒い日のことだった。


「ぁ……」
「お」
 昼休み、屋上でギターでも弾こうかとぼんやり考えながら廊下を歩いていると、曲がり角で鴉と出くわした。
 なんとなく居心地が悪い。彼女に「よわむし」と言われたのが結構響いていた。
「よ、よう」
 ぎこちない言葉しか出てこない自分が情けない。
 向こうはどうなんだろう。相変わらず目まで髪が覆っているから、表情が分かりにくい。
「……カオル」
「ん、なんだ」
「それ……」
 ゆっくりと、鴉が人差し指で俺を――いや、違う、ギターだ。俺が背負っているギターを指差している。
「あ? ああ、ちょっと色々と思うことがあって、なんとなく持ってきたんだ」
 "思うこと"があったのに、"なんとなく"とは、なんだか自分でも呆れるくらい曖昧だ。
 別に、何もかも吹っ切ったわけじゃない。ただ、暗い部屋で溜息を吐いているくらいだったら、外に出てギターを弾いていた方がマシかな、と思っただけだ。
 鴉は、ずっとギターを見つめていた……と、思う。口を開けて、呆けているようにも見える。
「そ……か」
「あ、俺これから屋上行くけど……」
「いく」
「へ?」
「ボクも……いく」
「お、おう、そうか。うん、まあ、いいぞ」
 なんだ? どういう風の吹き回しだろう。
 よくわからないが、同行するのを了承してしまった。
 二人で屋上に上がるまで、会話は何もなかった。でも、よくよく考えてみると前からこうだったかも。鴉はばーっと小声でしゃべるときもあれば、しーんとずっと黙り込んでいる時もある気まぐれな奴だった。ゆかりが『動』だとすれば、鴉は『静』という感じだったな。俺へ悪態をつくときは二人ともそろって『騒』だったけど。
 屋上に出ると、強い北風に晒された。今日も寒い。風も強い。北にそびえる山々は白い厚化粧を携え、俺たちを見下ろす。あまり長居はしたくないな。風邪ひきそうだ。
 座り込み、ケースからギターを取り出す。アコースティックギター。父が唯一俺に残したもの。
「それは……」
「ん?」
「……なんでもない」 
 相変わらず小声だったが、いつもより声量があった気がする。妙な反応だ、と訝しむ気持ちもあったが、
「はやくひいて」
 とせがまれるものだから困ってしまう。適当に弾くだけにしようと思っていたんだがなぁ。
 とりあえず、初心者用の課題曲だったジブリの曲を適当に弾く。
「なめてるのか」
 お客さんは満足しなかったようで。
 これなら、まあと、ビートルズの曲を弾く。懐かしい。弾きたての頃はよくコピーしたもんだ。
 Let It Be。
 あるがままにしろ、ねえ。
 なかなかそれは難しいよ、ジョン。
 弾き終えると、鴉は小さな拍手と共に、
「まあまあだな」
 という賛辞を贈ってくれた。ちくしょう。
 それから二人だけの演奏会はさしたる盛り上がりもなく淡々と続いた。
 風は相変わらず強く、冷たかったが、身体の内側から何か熱いものがこみあげてきて、指がかじかむこともなく、寒さに震えることもなく、ギターを弾き続けることができた。
 俺は、思い出していた。
 一人、強い風に晒されながらもギターを弾き続けた、あの頃のことを。
 春は花粉に惑わされ、夏はうだるような暑さに苛まれ、秋の涼しさに油断し、冬の寒さで身を引き締められる。
 聴いてくれるやつはほとんどいなかったが、それでも充実感はあった。受験が来るまでやめることがなかったのも、その楽しさからだ。
 ああ、楽しいなあ。
 やっぱ、ギターを弾くのは楽しい。
 何が違うんだろう。
 ゆかりの残した曲を部屋で弾き続けたこれまでの夜と、
 寒空の下、無口な女たった一人にテキトーなギターを聴かせる今は。
 まあ、いっか。
 難しいことは、よくわからねえ。
 そんなものクソ食らえだ。 
 興が乗ってきた俺は、あの時作った拙いオリジナル曲を弾き始めた。
 鴉が、息を呑む声が聞こえた。
 どうだ、鴉。
 クソみてえな曲だろう?
 思わず呆れるくらい、グダグダな構成だろう?
 歌詞もめちゃくちゃ、曲もめちゃくちゃ。
 でも……俺はこいつで、抗っていたんだ。俺を苛もうとしている何かに、こんなへっぽこなもんで立ち向かっていたんだ。
 そんな曲を……そういや、聴いてくれてたやつがいたな。どんなやつかは忘れちまったけど。リピーターなんてそいつしかいなかった。そうだ、あの、『頑張ってみる』と言った少女。
 あいつ、元気かな。
 あいつ、頑張れたのかな。
 俺はあいつに何か与えられたのだろうか。こんな拙い演奏で、ほんの少しでも、支えになることはできたのだろうか。
 そうだったらいいな、なんて、とりとめもないことを思った。
 そうしていたらいつの間にか演奏は終わっていて、
「……鴉?」
 目の前の少女は、顔を覆って涙を流し、
「まあまあだ」
 と、泣きながらも笑っていた。

 ●karasu

 ボクは、自分の声がとても嫌いだった。
 理由は至ってシンプルだ。
「ととりちゃんのこえってへんだね」
 幼稚園にいた頃、同い年の女の子に言われた言葉。決して悪意ある言葉ではなかったのだろう。しかし、傷つきやすいボクの心にトラウマを植えつけるのには十分なものだった。
 その女の子が口にしたのを境に、他の子たちも便乗して、
「ほんとだ。ととりちゃんへん」
「へん、へんだね」
「ねえ、ちょっとこえだしてみてよ。ねえねえ」
 と口々に言い募った。それ以降、ボクが何か言葉を発する毎に笑われた。ボクは、しゃべるのが怖くなり、その原因になった自分の声を呪った。
 自分では、この声が変なのかどうか、いまだにわからない。もしかしたら、女の子は少しからかいたかっただけなのかもしれない。他の子も、本意ではなく、ただ面白かったから便乗しただけかもしれない。
 真相なんて、十数年も前のことだからわかりやしない。
 でも、ボクは傷ついた。
 それ以降、言葉を発しなくなった程度には。
 筋トレを続けないと筋肉がどんどん落ちていくのと同じように、声というのも、口にしない日が続くとどんどん聞くに耐えないものになっていく。声量は落ち、声質は聞きづらいほどに衰え、語彙も少なくなっていった。
 両親に、何でそんなに喋らないんだ、と叱られた。そんなんだと友達が出来ないぞ、と言われた。言われるまでもなく、ボクに友達なんていなかった。誰かに笑われるのが怖くて、話す勇気がなくなっていたのだ。
 そんな具合に、私の幼稚園生活は過ぎ去った。
 親の言うとおり、勇気を持って人と話すことをしていれば、それ以降の生活があそこまで苦しくなることはなかったのかもしれない。
 小学校に入学して早々、ボクは浮いた存在になった。
 まったく喋らない子。
 言葉を持たない子。
 親は先生に「娘がちゃんと人と話すように教育してください」と頼み込んでいた。だから、先生は喋らないボクを叱った。
 叱るということは、ボクは悪いことをしているということだ。悪いことをしているやつには、何を言ってもいいんだ。だって、悪いことをしているのが悪いんだから。――同級生のいじめはきっと、そんな心から始まった。
 何でしゃべらないのか、ときつい口調で質問された。ボクは首を横にふった。下手に喋って笑われるのは嫌だったのだ。しかし、それがよくなかった。ボクの無愛想な態度は、彼らの顰蹙を買った。
 それからの日常は……あまり思い出したくない。思い出しても面白いことなんて一つもない。結論から言えば、ボクが学校に行かなくなるぐらいのことはされた。机に落書きされたり、物がなくなったり、悪口を言われたり……小学生というのはここまで残酷なことができるのか、と感心するぐらい、彼らは執拗にボクを扱き下ろした。
 親は学校に直談判したらしい。おかしな話だ。自分から蒔いた種だというのに。先生も生徒を叱ったり、集会を開いたりしてくれたらしいけれど、どんなことをしてもボクは学校に行く気なんてこれっぽっちもなかった。
 いつの間にか中学生になっていた。ボクは相変わらず学校に行かなかった。小学校にいた生徒たちがみんなそこにいるのだ。居場所なんてあるはずもない。
 でも……このままでいいのかな、なんて気持ちも少しはあったんだ。その気持ちは親への罪悪感とか、将来の焦りとかからどんどん膨らんでいって、ボクはある日、学校に行く決意をした。

 しかし、その決意はとても浅はかでとても無駄なものだった、と言わざるを得ない。

 
 8.頑張ってみる

 ボクの机には、花瓶が置かれていた。
 もう、皆の中から、ボクは死んでいたのだ。
 呆然と自分の机を見下ろすボク。笑い声が、周り中から響いてくる。下衆な、卑しい、暴力的な悪意が、ボクの身を取り囲んでいく……。
 耐え切れなくなって、教室から飛び出て行った。どこでもいい、誰もいない場所に行きたかった。廊下は人に満ちていた。怖かった。あらゆる目がボクを見てくる。好奇の目で。嫌な目で。
 ひたすらに階段を上った。何も考えていなかった。ボクはそのとき二年生だったから、教室は二階にあった。とにかく、その階から抜け出したかったのだ。しかし、三階は三階で上級生がいる。ボクはその上を求めた。誰もいない階は、ないのか……?
 続く階段。三階の上は――屋上だった。屋上前の階段の踊り場には誰もいない。こんな場所、きっとこれからも誰かが来ることはないだろう。ボクはそこに座り込み、膝に顔を沈めた。
 誰も、ボクの存在なんか求めていなかった。そんなこと、わかりきっていた。でも、期待していたんだ。みんなが、「ごめん」と言って、優しく迎えてくれる……そんな、夢みたいなこと。
 結局、それはただの夢で、ここはただの現実だった。
 現実は、辛く、寂しく、悲しい。
 ボクには、戦う力なんてない。
 もう、嫌だ。
 やっぱり、ボクにはあの狭い部屋がお似合いだったんだ。食べて寝るだけの、自室。そこにしか、居場所なんてないんだ。
 みんなの中で、ボクはもう死んでる。
 いや、だったらいっそのこと本当に――。
「およよ? 私以外にこんなところでフケる不良女子がいたのかぁ」
 出会いは突然だった。
 顔を上げる。目の前に、短い金髪の、顔がハツラツとしてエネルギーに満ち溢れている、そんな少女が立っていた。
「やあやあどうしたんだい。そんな体育座りで俯いちゃって。まあ、わかる。うん、わかるよ。嫌なことがあったんだよね。うんうん、世の中は結構嫌なことばっかだからねえ」
 少女は一人で喋っていた。ボクはなんだか圧倒されてしまって、ただただ呆然としていた。
「そう! この世の中は濁ってる! 大体なんだいこの校舎は。汚いことこの上ないじゃないか。出る杭は打たれ、全部を均等にさせられる。そのくせ、本当の平等なんてここにゃない。教師は生徒を均し、均された生徒は、個性を持った生徒を叩き落していく。それを教師は見て見ぬふりだ。ここには見えないルールが多すぎる。暗黙の了解が多すぎる。だからこそ、私はそれに抗う! 私はそれに立ち向かう! 自由のために! 私たちの生きる自由のために! この黄金のたてがみこそ、私の叛意の象徴なのである! うががががが!」
 ほんと、この人は何を言っているのだろう?
 一人でテンションが上がっているその少女は、突然ボクに手を差し伸べてきた。
「ほら、立ちなされお嬢さん。ちょっと付き合ってくれ」
 ボクはなすがまま、彼女の手を握らされ、そのまま手を引かれていった。
 向かった先は、屋上だった。
 久しく空なんて見上げてなかったけど、まあ、思ったとおり、空は青かった。それ以外、特に抱いた感慨はなかった。
「これこそ自由の空だ! うっはーーー! 叫べ! 叫べ! 叫べ! 叫ぶことは自由なんだ!」
 なんか怪しい薬でもやってるんじゃないか? とボクは結構本気で心配になった。
「いや〜。やっぱ外っていいね。こんなクソ校舎の上ってのが気に入らないけど。いや、むしろクソ校舎を足蹴りにしていると考えれば……」
 ボクはうなずくことも首を振ることもできなかった。別に外に出ることの感慨なんて何も沸かなかった。しかし、校舎内より息苦しくない、というのは確かだった。
 少女は突然黙り込み、フェンスまで歩いていって、学校周りの広がる田畑を見下ろした。ボクもなんとなく追従して隣に並ぶ。
「今朝、ちょっと嫌なことがあったんだよね。ほんのちょっと、ぐらいだけど」
 思わずその顔を見つめる。こんな元気ハツラツな少女も、ボクと同じように疎まれているのだろうか。信じられない。信じられないが……。
「なんだかなぁ。気に入らないんだよなあ、ほんと。もっと足を伸ばせばいいのに、みんな。窮屈そうにしているから、他の人のことを考えられなくなっちゃうんだ、きっと。自分の場所取りに必死だから、他人を蹴落とそうとするんだ」
 彼女は、不満を抱えていた。しかし、それは恐らく、ボクと同じ目線ではない。
 ボクは疎まれ蔑まれ、彼女はボクを蔑むような人たちを嫌って疎まれている。
 なんとなく、そんな気がした。
 無抵抗のボクとは、違う。彼女は、抵抗している。
 彼女も言ったように、金色の髪が、その象徴なんだろう。
「私、桜井 ゆかり、歌います!」
 突然名乗りを上げたかと思えば、息を深く吸い、天に向かって彼女は高らかに歌った。
 彼女は――ゆかりは、大きな声で、怒りを、悲しみを、寂しさを、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて、光り輝く綺麗なものに昇華させて世界に放り投げた。
 その歌声は力強く、心震えるものであった。しかし、その凄さに圧倒されると同時に、それがボクには持ち得ない強さと輝きであると深く自覚させられて、見せ付けられて、だから――ボクは、そっと彼女から離れ、一人薄汚れた校舎に身を沈めていった。 


 ボクは当然のように学校に行かなくなった。あんな悪意に晒されて堂々と出来るほど勇気はない。
 しかし、部屋に篭もるということはしなかった。自室は、罪悪感と焦燥感の温床だったから。ふらふらと外に出て暇を潰す日々が続いた。
 ずうっと髪を切らずにいたから、すっかりぼさぼさのぼうぼうになってしまい、まるで貞子のような様相を呈していた。半ば対人恐怖症のボクが美容院に行けるはずもない。しかし、この髪はこれはこれで都合がよかった。顔を覆い隠す髪のおかげで、人に顔を見られず、またこちらも人の顔を直視しなくて済む。目が合うのは怖い。理屈抜きで、恐怖を覚えるのだ。
 外に出て、うろついて、帰って、食べて、寝て、起きて、食べて、外に出て……ほんと、からっぽな日々だ。何のためにボクは生きているんだろう。何で生まれてきたんだろう。そんな疑問が、心を蝕んでいった。
 そんな、ある日のことだった。
 夕暮れ、適当に駅前をうろついていたボクの耳に、ギターの音色が入ってきた。
 何故だかその音色は心地よかった。しみこんでくるというか、馴染んでくる。まるで、ボクの心に同調してくるかのように、すうっと入ってくる。一瞬で、興味をひかれた。音をたどってみると、ギターを弾いていたのは、驚くことにボクとさして年齢が変わらないであろう少年だった。
 遠目から、その姿を眺めた。
 少年は、懸命にギターを弾き、声を張り上げて歌っていた。その姿はボクにはまるで、水底に沈まないよう必死でもがいているように見えた。
 決してあのゆかりという少女のように心を震わせるわけではない。汚いものを、輝かしいものに変える力もない。
 けれど、どうしてか、惹かれる。この気持ちは……共鳴?
 答えはわからぬまま、少年はギターを背負って去って行った。ボクも帰路に着き、また無意味な日を終える……。
 だが、果たしてその出会いは、無意味だったのだろうか?
 翌日も、気づけば足が駅前に向いていた。朝、彼はいなかった。学校に行っているのだろう。夕方、また来てみた。すると、彼は昨日と同じ場所に立ってギターを手に取っていた。
 昨日よりも近い場所に立って、その演奏を聴いた。何がボクの心に響いてきているのかを確かめたかった。
 よくよく聴けば、彼の演奏は稚拙であった。歌声も、やはりゆかりには及ばない。でも……。
 翌日も、その翌々日も、ボクは駅前で彼の演奏を聴いていた。彼の"訴え"に、耳を傾けていた。
 ――どうして俺は生きている。
 ――何故親は俺を生んだんだ。
 ――俺にどんな価値があるっていうんだ。
 彼の言葉はとてもストレートだった。一切飾らず、自分の気持ちをそのまま吐き出している。不満を、退屈を、怒りを、悲しみを。
 なのに……すごい楽しそうだ。あの言葉は偽りではなく、きっと彼は思い悩んでいるんだろう。でも、楽しそうなんだ。
 なんでだろう?
 この世は生き辛い。ボクみたいな生き方が下手な人間はなおさらだ。歩みを続けるとどんどんその身は削られていって、身を守るためには立ち止まるしかない。
 ボクは、何度も歩みを止められた。何度も立ち止まった。今も、歩けないでいる。
 生きるって、すごい辛いんだ。
 けれど、彼は笑ってる。笑いながら悪態をついている。
 どうして?
 その疑問は、ボクの心に、それまでになかった異質な物質を生み出した。それはボクにとっては異質だったけれど、悪いものではないように思えた。比喩を用いて誌的に言い表すならば……光の種。希望のびっくり箱。開けるまで何が入っているかはわからないけれど、開けてみたらボクにとってすごい良いものが入っていた……なんて、そんな期待を抱くものだった。
 ――どうやったら、あなたみたいに楽しく生きれますか?
 ある日、勇気を出して、筆談で彼に問いかけてみた。
 彼は、そのメモを見て大笑いした。ぽかーんとするボクを置いてひとしきり笑った後、ボクに楽器をやることを勧めてきた。言葉は拙かったけれど、本気で言っているのだと信じられた。
 ――頑張ってみる。
 驚くほど素直に、そんな言葉を書くことが出来た。何だか胸がむずむずしてきて、その場を走り去らずにはいられなかった。走って、走って、走って、体力の限界がきて、土手沿いの草むらへと倒れこむ。
 走るのなんて久しぶりだったけれど、なんだかとても気持ちがいい。思わず小さく笑った。生え始めの草の感触が気持ちいい。ごろんと寝そべって、そこから沈み行く夕日を望んだ。空はもう濃い紺色をしていて、西にそびえる妙義山、浅間山の輪郭だけが赤く煌いていた。それはとても感慨深い空だった。


 そしてボクは両親に頼み込み、ドラムのレッスンに通わせてもらった。
 ドラムの音はとても大きくて、耳をつんざくほどで、でもその音をボクが出しているんだ、と思うとすごい笑えた。なんとなく、彼が笑った気持ちがわかった気がした。
 対人恐怖症なボクだったけど、ドラムの先生はボク自身のことは一切気にせず、ただただドラムの技術の是非だけを問うシンプルな人だったので、良くも悪くもボクと彼女の関係はドラムとその音だけにあり、今までのような人付き合いの問題は何一つ起きなかった。
 ドラムを叩くのはすごい楽しかった。気持ちを篭めて叩くと、しっかりと音で返ってくる。まるで会話だ。久しくしていなかった会話は、とても刺激的でお腹に響いた。
 ある日、先生に言われた。
「このドラムで、あなたがリズムを作るの。あなたが、みんなを支えるのよ」
 ボクが、支える?
 まるで信じられない話だった。
 もし、彼とバンドを組んだら、ボクが彼を支えるのだろうか。
 そう考えると、何だかどきどきして、顔が火照った。どうしてだろう? 
 ともかく、ドラムを始めてからの日々は楽しかった。決してドラマチックなこともなく、淡々と進む毎日だったけど、音が一つ増えたというのは、虚無だったボクの生活からすると大きな変化だったのだ。
 先生にほめられることが多くなってくると、以前にはなかった自信もついてきた。
 しかし……楽しみが奪われるのも突然だった。
 学校に行かないでドラムに現を抜かすボクに業を煮やしたのだろう。両親は突然レッスンを打ち切りにし、ボクに学校に行くよう強く求めた。
 ――学校に行くようになったらまたドラムのレッスンを再開させてあげる。
 親は、それがいい釣り針になると思ったのだろう。
 それから数日は部屋に引きこもった。ボクの安息はもうここにしかない。外は地獄だ。地獄、なんだけれど……。
『頑張ってみる』
 ボクは、なんて言葉を彼に告げてしまったのだろう。
 その言葉が何度も頭の中でリフレインして、その度に彼の顔が浮かんで、頭を思い切りかきむしりたくなる思いに駆られて……結局、自室でも平穏なんて訪れようもなかった。
 頑張る、ってどういうことだろう。
 ボクが学校に行く、というのは『頑張ってみる』に通ずるものなのかな。
 もし、ボクが頑張らなかったら、彼は失望するのかな。 
 …………行こう。
 言ってしまったものは仕方がない。
 頑張って、生きてみよう。



 9.叫ぶドラマー
 
 校門から、校舎を眺めた。ほんと、汚い校舎だ。ゆかりって子が不満を抱くのもわかる。外見も、中身も、だ。
 机の上に、花瓶はまだ置かれていた。花は、すっかり萎れている。ボクの心も同じように萎れていたが、『頑張ってみる』が脳内に響いたので逃げることはできなかった。鞄を掛け、花瓶を教室の後ろに置いてから席に着いた。
 周りがこちらを見ながらひそひそと話している。眉毛の薄い(というかもはや無毛に等しい)微妙に髪が茶色の女子はボクを指差して露骨に笑った。この貞子みたいな姿を嘲っているのだろう。取り巻き連中も一緒に笑っていた。
 はあ。ほんとうに四面楚歌。何で頑張るなんて言っちゃったんだ、ボク。今更だが後悔してきたぞ。
 みんなは楽しいだろうな。ボクを見て噂話に興じたり、嘲ればいいんだ。生きるの簡単そうだよな、君ら。――それが羨ましいとは、不思議と思わないけれど。
 担任が教室に入り、朝のホームルームが始まった。髭の濃いホームベースみたいな形の顔をした男だった。「おっ、斗鳥も着てるし皆出席だな」なんて余計な……もとい、ありがたい一言を添えてくれた。
 そこからの時間は苦痛でしかなかった。やれ隣同士で国語の教科書の読み合わせをしろだの、やれ隣の人と数学の答え合わせをしろだの、やれ体育では二人一組になって準備体操しろだの……ボクはその度萎縮して、その度あの茶髪の女子連中はボクを見て笑った。
 ただ、今までと変わらないであろう苦痛、その中に、以前とは違う小さな篝火が見えた。それは一見とても弱々しく、まるでマッチにつく小さな火でしかないのだが、何をも焦がすような高い熱をはらんでいる。
 それが何なのか、まるでわからなかった。
 けれど放課後、ふと通りがかった音楽室の前で、ボクは自分のその感情を自覚することとなる。
「ねえ、ほんとそのヘタクソな演奏やめてくんない?」
 あの、茶髪の女の声が響いてきた。
「もう大会前なんですけど。ちゃんとやってくれないかな」
「ご、ごめんなさい……」
 覗き込んでみると、茶髪の女とその取り巻きが、少しぽっちゃりとした女の子に詰め寄っているところだった。ああ、そういえばあの女吹奏楽部だったっけ。三年生が引退した今、部活をも牛耳っているようだ。
「ちゃ、ちゃんとやるから……」
 可哀想に。ぽっちゃりとした女の子は怖がってチューバをぎゅっと抱きしめている。
 それから、ボクは隠れて吹奏楽部の演奏に耳を傾けた。
 ……チューバ、そんな下手かな?
 むしろ、茶髪の女たちの演奏のほうが雑に思える。……いや、そうか。チューバは丁寧で、リズムに沿っているのに、茶髪の女たちが少しずれているんだ。けれど、こう聴いてみると、チューバが浮いているように思える。丁寧でまっすぐだからこそ、ぐねぐねな周りの演奏から浮いているんだ。
「またじゃん。何やってんの、ほんと」
 理不尽にも、チューバの女の子は責められる。
「い、いや、でも……」
「何? 言い訳? もうさ、あんた部活辞めれば? あたし達に合わせる気ないんでしょ」
「そんな……」
 チューバの子は今にも泣き出してしまいそうだった。間違っていないのに。自分が正しいはずなのに。周りがおかしいのに。理不尽を抱えて、でもそれを吐き出すことができない。
 なんだ、これは。
 ボクの中の篝火が、炎となって燃え上がる。
 いつだって、そうだ。ボクらのように弱い者は、強い者の理不尽に"耐えなくちゃならない"なんてクソみたいなルールの中にある。例え自分が間違っていないとしても、大勢という強者の横暴な指揮によって、あっという間に常識は覆るんだ。
 ……ああ、わかったぞ。この、ボクの中に生まれた新しい感情。
 ――そう、ボクは怒っているんだ。
 その感情は、今までは持ち得ないものだ。
 虚しくなったり、悲しくなったり、苦しくなったり、ただそれだけに押し潰されて、逃げ出すのがボク。大勢に威圧されて萎縮するマイノリティの一人がボクだった。
 だけどどうしたことだろう。
 クソが。何笑ってやがる。中途半端な茶髪にしかできない臆病なやつらめ。人のことを見下し、あざけることしかすることのない暇人どもめ。今に見てろ。唾をひっかけてやる。
 ……こんな粗暴なこと、今まで思わなかったのに。
「やる気がないんなら帰れば? 正直迷惑」
「わたし、わたし……」
 ぎゅっと拳を握り締めた。
 抗いたい。抵抗したい。大きな声で理不尽を叫んで、怒りのままに拳を奮って、やつらをぎゃふんと言わせてやりたい。
 でも、弱者であるボクらには拳なんてない。そもそもボクには理不尽を叫ぶための声だってない。……ボクは、本当に弱い。誰かのための義憤をぶつけることもできない。
 所詮、ボクには――。
『ドラムやりなよ。普段全然しゃべらないのに、ドラムを叩く音だけはすっげえでかいんだ。ドラムの音で、いろんなヤツを圧倒させてやるんだ。びっくりさせてやるんだ』
 ……あ。
『そんで、みんなをあっと言わせてやるんだ。ぎゃふんと言わせるんだ。俺たちでも、こういうことができるんだって、見せつけてやるんだ。そうしたらさ――』
 そうだ。
 ボクには拳はない。声もない。でも……。
『あんたも、少しは楽しいんじゃないかな』
 ボクには、ドラムがある。
 衝動で、動いていた。
 ガラッと乱暴に音楽室のドアを開け放つ。全員の目がこちらに向いた。怖かった。でも、ボクにはドラムがあるんだ。
 唖然としている一同の前で、手早くドラムをセットしていく。ドラムの前に座っていた子は、少々乱暴だったが押しやって無理やり退かした。
「なっ、何だよお前! 何でここに」
 クラッシュシンバルを思い切り叩いた。
 うるさい黙れ。黙って見ていろ。
 ボクの怒号に、茶髪の女の子は一瞬でたじろいだ。
 思わず笑った。貞子みたいなボクが笑ったから、茶髪の女の子の顔が一層青ざめた。

 ……さて。
 始めよう。
 いやしかしそれにしても、こんな無茶苦茶なことして、一体どうなるんだろう。ああ、やってしまったなあ。カッとして思わずらしくないことしてしまった。後悔。後のことなんて何も考えてなかった。
 ……ま、いっか。 
『叫べ! 叫べ! 叫べ! 叫ぶことは自由なんだ!』
 そう。
 ボクは叫びたかったんだ。
 ただ――こうやって。
 ドラムスティックを、スネアドラムに叩きつける。バスドラを、ペダルをキックして打ち鳴らす。
 さあ始まりだ。
 ドラムだけで、お前たちを圧倒してやる。
 今に見てろ、クソ野郎ども。
 叩き込む。打ち響かせる。
 ボクは怒っているんだ。
 お前らの理不尽に。
 ボクらの弱さに。
 お前らの胸に刻みつけてやる。
 ボクの声は変なんかじゃない!
 ボクは死んでなんかいない!
 ボクはっ。
 ボクはもう、お前らなんかに屈しない!!

 ――お前は正しい。

 まるで、そう言われたかのようだった。
 突然、ギターの音が入ってきたのだ。それだけじゃない。ベースの低音もだ。
 顔を上げる。
 そこに、ゆかりが笑顔で立っていた。ボクにその輝かしい笑顔を向けて、ギターをかき鳴らしていた。その隣には赤髪の目つきの悪い少年――後に、洋平と知る――がむっつりとした顔でベースを弾いている。突然のセッション。初めてのセッション。でも……どうしてだろう。音同士は、まるで旧知の仲であったかのように、手を繋いでいく。三つの音が繋がり、一つの曲へ昇華する!
「ロックンロールだ!!」
 ゆかりが叫んだ。ボクは頷いた。洋平も。
 レッドツェッペリン。
 スネアとハイハットを打ち鳴らし、その大きな陽気さの影に小さな切なさを孕んだ一曲を綴る。イレギュラーなドラムパターンでかなり難解ではあるが、この曲への熱意だけは本物なので、多少のミスは許してほしい。
 さて、行こうか。

 長い長い孤独の時間は、終わりだ。

 ボクらは演奏する。何のためにか、なんて、もう忘れた。ただ、音が絡み合って、形になって……それがすごい快感で、忘れようもなくて、だから、さらに音を上乗せし、また形にしていく。
 洋平の低く力強いベース。
 ゆかりの拙い英語と、透き通るような歌声。
 そして、ドラムと一体になったボク。
 ああ、こういうものなのか。
 これが、そうなんだ。
 とても、身体の内がぽかぽかしてくる。
 今までの人生では分かり得なかった。
 誰かと、何かを共にするのは、こんなにも――楽しいんだ。
 ああ、もう終わってしまう。
 最後のフィルインを叩き、ロックンロールを終わりに導く。そして、ゆかりのギターと洋平のベースがラストを彩り、ボクらの初演奏は終わりを告げた。
 拍手はない。
 喝采もない。
 だけど、ボクの心には大きな達成感と心地よさが広がっていた。
 ああ。
 よかった。
 本当によかった。
 ……頑張ってみて、やってみて、生きてみて、本当に……よかった。 
 


 暮れなずむ頃。ボクたちは土手に腰掛けていた。
「いやー、最高だったな! 非常に最高だった!」
 ゆかりは満足げに声を張り上げる。隣に座っていたボクは、頷き、笑った。そんなボクらを、洋平は苦々しげに見ていた。
「あんなクソみてえな演奏で満足してんじゃねーよアホ。やっぱゆかり、てめえにギターは向いてねえ。ボーカルはまあまあなんだから、そっち極めろ」
「なんだとこの赤毛野郎。お前はそのクソみたいなギターでノックアウトされたんだろ!」
「そりゃ物理的にだろうが……」
 ぽりぽりと頭をかく洋平。ふいに、その鋭い目がこちらに向く。
「なんか悪かったな。突然割り込んじまってよ」
 ボクは首を横に振る。
 実際助かった。ギター、ベース、ボーカルがついたことで、ボクの音は曲になれた。そのおかげで、さらにあいつらを圧倒できた。
 あの顔、忘れない。もう、やられるばかりじゃない。一方的に攻撃を受け続けるのはおしまいだ。
 あのチューバの子も……そう、思ってくれるといいな。
「しっかし、ゆかり以外にこんなクレイジーなことやるやつが居たなんてなァ。驚きだ」
「学校一番のバカが何か言ってるよ。あれはクレイジーでも何でもないんだぜ。ただ叫んでるだけだ。私も、そして君も」
 ゆかりの大きく丸い目が、こちらに向けられた。
「しゃべらない君がドラムを選んだ、っていうのはなかなか面白いよ。私、そういうのすごい好き」
「はっ、確かに。オレも、そういうの、悪くねえって思う」
「それにしても君君なんて味気ないな。ようし、君は今日から鴉だ。言っとくが、そこらにいるような、ゴミを食い漁ることしかできないようなただの烏じゃあないぞ。私が言うカラスは、鷹にも食って掛かれるような雄々しい牙の生えた烏で、鴉だ。どうだ。かっこいいだろ?」
 鴉……。
 ボクは頷いた。案外、悪くないあだ名だった。第一あだ名自体が初めてのもので、なんだかくすぐったい。
「すげえ中二くせえな……」
 洋平はため息交じりにそんなこと言いやがった。
「お前の入ってる暴走族の名前よりはマシだ。なんだっけ、黒死病?」
「克死壇だ! いや、それにオレはもう辞めたんだよ。関係ねえ関係ねえ」
 とか言いつつも洋平はものすごく汗をかいていた。
「なっ、どうだ、鴉。私たちと組んでバンドやらないか? というかやろう! 鴉のドラムに惚れた! あんなに叫べるやつ、他にいないよ!」
 メモに文字を書いて答えようとした。しかし、彼女は首を横に振る。どうしたのだろう、とその顔を見つめていると、ゆかりはそっとつぶやいた。
「いいんだよ、喋っても」
 え……?
「鴉は、喋れないんじゃないんだよな。喋らないんだよな。知り合いに聞いたんだ。幼稚園の頃は喋ってたって。でも、いつからか喋らなくなっちゃったって。……別に無理に喋れ、っていうわけじゃないんだ。もし喋れないんだったなら謝る。どうしても喋りたくないんだったら、諦める。でも、鴉に喋る意思が、喋りたいって意思が少しでもあるのなら、私は、それに答えたいんだ。なぜなら、私は……いや、私"が"鴉と喋りたいから」
「おいゆかり……」
 眉根を寄せて止めようとする洋平に、ゆかりは首を振り、これだけは言わせてくれ、と呟いた。
「例えどんな小さい声でもいい。蚊のなく声でもいい。今すぐじゃなくてもいい。ただ、知っておいてほしかったんだ。私は、鴉と喋りたいんだって。ただ、それだけなんだ」
 ボクと、喋りたい……?
 本気、なんだろうか。いや、この子が言うんだから本気なんだろうな……。
 こんなボクと、何で喋りたいんだろう。
 最近、疑問に当たってばっかりだ。
 そんなとき、ボクはどうしたっけ?
「すまねえな。こいつ、人のスペースに容赦なく入ってくるやつだからよ。でも……まあ、そこがいいとこでもあんだ。わかってやってくれ」
 洋平は、真剣な顔でボクにそう言った。彼も、そういう経験があったのかもしれない。
 紫色の空を見つめる。
 疑問に当たったとき、とりあえずぶつかってみる。それが、今までのボクだった。そして、それは今までボクに正解をくれている。
 だったら……でも――。


 翌日、緊張しながら学校に向かった。昨日、勢いに任せて色々とやらかしたので、何かしらの報復があるのではないかとびくびくしていた。
 その予想は半分当たっていたのだが、教室に入った時、それ以上の驚きが待ち受けていた。
 ゆかりと、茶髪の女の子が掴みあっていたのである。教室は騒然としていた。
「お前!! こんなことして恥ずかしくないのか!! 例えお前が恥ずかしくないと思っていたとしても、私は恥ずかしいぞ!! こんなやつが、私と同じ人間で、しかも女だってことがな!!」
「なんなんだよテメエ! 離せよクソッ!」
 一体何が何やら。ふと自分の机を見ると、白い破片と花が散らばっていた。
「こんな嫌がらせをずっとしてたのか!? このクソ野郎め! ファック! お前の行先は地獄or地獄だ! 手始めに私が地獄の道案内先をしてやる!」
 パン、という大きな音が教室に響いた。ゆかりが茶髪をビンタした音だった。
「ってぇな!」
 茶髪がビンタをし返そうとしたが、それよりも先にゆかりがビンタをもう一発くらわせていた。
「誓え! もうこんなクソみてえな真似はしないと! 誓えええええええ!!!」
 ゆかりは顔を真っ赤にして叫んだ。
 もしかして、彼女は、ボクのために――。
 何もできず呆然としていると、教室に誰かが颯爽と乗り込んできた。担任か、と思ったら、ロンゲの見るからに不良な男子生徒だった。彼は、茶髪の取り巻きに先導されていた。
「ほら、あいつだよ! あいつが突然……」
 取り巻きが指さす方をロンゲは睨みつけ、ずかずかとそちらへ向かっていく。
「おいてめえ。俺の女になにしてやがんだ」
 ロンゲはゆかりの腕を掴み上げ、茶髪から引き離そうとする。
「黙れクソロンゲ! 自分の女ぐれえ自分できちんと面倒みやがれ!」
 そのロンゲに向けて、ゆかりはぺっと唾を吐いた。余裕そうにしていたロンゲの顔がみるみる赤くなっていく。
「おい……てめえ。俺にこんなことして、ただで済むと思うなよ……」
 ロンゲは青筋を立て、ゆかりに向けて右腕を振り上げた。
 ボクにできた事は、小さな悲鳴を上げることくらいで、足は竦んで動くことが出来なかった。ゆかりが殴られる――そう誰もが確信したその時だった。
「おい、教えてくれよ……」
 彼の右腕を、いつの間にか入ってきた洋平が止めていた。
「テメエにこんなことしたら、一体どういうことになんだ?」
 洋平はロンゲを引っ張り、自分に向かせたかと思うと、有無を言わさず顔面に拳を叩きつけていた。
「がぁっ」
「オラ、早く教えろっつんだよ」
 間髪入れずにわき腹に蹴りを食らわせ、肩から床に倒れたロンゲに跨り、その髪を引っ張る。
「女に手ぇあげようとするなんつーダセえ真似してんじゃねえぞ、オラ」
 洋平はそのままもう一発殴ろうとしていたが、
「おいやめろ、洋平」
 ゆかりに止められ、腕を下した。
「これは私の喧嘩だ。お前には関係ない」
「あぁ? だったらこいつも同じだろーが。部外者同士、こっちはこっちでやってやんよ」
「だとしてもやりすぎ。なんか引いた」
「……そうかい」
 お互いクールダウンしたようだ。ゆかりも洋平も白けた顔をしていた。
「で、何でこんなことになったんだよ」
「あのクソアマが」
 彼氏がぼこぼこにされて顔面蒼白になっている茶髪をゆかりは指差す。
「鴉の机の中をいじくったり、花瓶乗せてたりしたから許せなくてさ。花瓶割ってやったら口論になったんだ」
「ったく下らねー真似しやがる。オイ、そこのブス」
 洋平に呼ばれ、茶髪はびくっと身体を震わせた。
「二度とそんな真似すんじゃねーぞ。オレも、そんでもってコイツも、んなダセー真似は許さねえからな」
「そうだ。鴉は私たちの友達なんだ。私たちを友達がヒドイことされて黙ってるようなファッキン野郎だと思うんじゃないぞ」
 友達……。
 何故だかその言葉はすごい目に沁みた。だけど、二人の気迫に茶髪が先に泣き出してしまったので、ボクの涙は引っ込んだ。
 ようやく時を遅くして担任が乗り込んできて、この事件は終わった。ゆかりと洋平とロンゲと茶髪は説教を受け、何故かボクも「そういう嫌がらせを受けているならきちんと言いなさい」と若干怒られた。見て見ぬふりをしていたのは誰だよ……。
 教室で窮屈な思いをしていたボクだったが、放課後、ゆかりと洋平が教室に迎えに来てくれた。
「私は自分のしたことが間違ってはいないって思ってるけど、でも鴉を教室に居づらくさせちゃったな。ごめん」
「ま、もう嫌がらせを受けるこたねーだろ。どいつもこいつも、オレらにビビってたしな」
 とても申し訳ない気持ちと、感謝の念がボクの心中で渦巻いていた。
 ボクはあの時、何もすることができなかった。
 ただただ呆然と、ゆかりがボクのことで怒りを感じている様を見ていることしかできなかった。
 友達……。
 ゆかりは、ボクのことを友達だと思ってくれている。友達だから、ボクのことで怒ってくれた。
 ならボクは?
 ただただ、ゆかりを憧憬の眼差しでしか見てこなかった気がする。今だってそうだ。何で誰かのためにこんなことが出来るのだろう、凄い人だなあ、て何だか他人事みたいだ。
 それは、嫌だな。
 ゆかりが花瓶を割ってくれたこと。
 ゆかりが友達だと言ってくれたこと。
 それが、とても温かいものになってボクの心に沁み込んでくるんだ。
 応えたい。
 ボクは、それに応えたい。
 ポケットからメモ帳を取り出し、文字を綴った。
「鴉?」
 それを、きょとんとしているゆかりに渡した。
『ボク、君たちと一緒にバンドをやりたい。……いいかな?』
 彼女は笑ってボクに抱きついた。
 

 その日から、ボクはゆかりたちと行動を共にするようになった。ボクに対する嫌がらせはなくなり、何だかあからさまに避けられるようになった。そして何人かの柄の悪い男子生徒に挨拶されるようになった。
「あ、そうそう。洋平な、すげー有名なDQNだから、後輩とか変に懐いてくるかも」
 昼。一緒に弁当を食べている時、ゆかりがそんなことを言った。なるほど、アレはそういうことだったのか……。
「DQNとか、そんなんじゃねえって。まあ、みんなオレにびびったり、憧れたりしてることは確かだがよ」
 どこか洋平は自慢げに見えた。まあ、自慢なのだろう。厨二病乙。中二だけれど。
「まあ洋平がバカだとかDQNだとかダサいとかはどうでもいいんだよ」
「おい待てどうでもよくねえ。前半は認めるが後半は認めねえぞ」
「はいはいかっこいいかっこいい。なあ鴉、今日もスタジオ入ろうぜ」
 ボクはすぐに頷いた。
「精が出るこったな」
「いや、洋平、お前も参加だからな」
「は? だって、オレベース持ってきてねえよ?」
「家に帰って取って来るんだよ」
「なっ、おまっ、それは横暴すぎるだろうが! せめて前日に連絡しとけバカ!!」
 結局、洋平は家に帰ってベースを取りに行くことになる。
 バンドを組むことに決めた日から、時間がある時、一緒に空き教室やスタジオに入って演奏を共にした。洋平の言うとおり、ゆかりのギターはそんなに上手くなかった。例の彼のほうが上手い、って思ったくらいだ。
 スタジオが終わると決まってガストへいき、ポテトを食べながらドリンクバーで何時間も粘って談笑した。その時間がとても好きだった。どんどん彼らが身近な存在に近づいていく様が心地よかった。
「なあ鴉、髪、切ったげよっか?」
 ある練習終わりのガストで、ゆかりがニコニコ顔で、両手をちょきちょきとしながらボクに提案した。
 長すぎてうざったかったし、ゆかりならボクに対する偏見もない。ボクは頷いた。それくらい、ゆかりを信頼し始めていた。
 ……彼女は、ボクの初めての友達だったから。
 土曜日の午前。グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる屋上。新聞紙を敷いて、合羽を羽織って、ボクの断髪式は始まった。ゆかりとボクの二人きりだろう、と思ったら洋平も居た。無理やり連れてこられたらしい。
「さっ、切るぞ〜」
「さっ、寝るぞ〜ふああ……」
 洋平は横になり、ゆかりははさみを手に取った。
 チョキ、チョキ、と軽やかにボクの髪を切っていく。対照的に髪の毛はドサッと重たそうな音を立てて落ちる。
「最近流行りのショートボブにしてあげるからな〜。うふふふ〜」
 ゆかりは楽しそうだ。楽しげな彼女を見ていると、ボクも楽しかった。
 洋平のいびきが聞こえてくる。運動部の声に負けず劣らず大きい。空は雲ひとつない晴天。風は、この町には珍しくゆったりめ。正面にそびえる赤城山は、今日も空に混じって青々としており、相変わらず広い裾野である。
「なんかさ」
 ゆかりの声色は、とても優しげだった。
「世の中は苦しくて、汚くて、悲しいことも多いけど、でも、今みたいなあったかくて、優しくて、分かり合える友達と一緒に居られる時間が、ほんの少しでもあるならさ、案外、悪くないなって思っちゃうよね」
 私って安い女なのかな、とゆかりは苦笑した。
 ボクは――。
「そうだね」
 聞こえただろうか。
「ゆかりと……ゆかり達といられるなら……」
 久しぶりすぎて、擦れた声。
 言葉になり得たかわからない音。
「悪くないって」
 校庭の喧騒にも、洋平のいびきにも負けるであろう小さな……ノイズ。
「ボクも……そう、思えるよ」
 聞こえただろうか。
「……ゆかり?」
 ……ハサミが、地面に落ちる。
 振り向くと、ゆかりは――泣いていた。
 えっ、何で? どうすればいいかわからず戸惑っていると、ゆかりは突然抱きついてきた。
「ゆかり?」 
「よかった」
 ぎゅう、と抱きしめられる。
「よかったよぅ……っ」
 ゆかりは大声で嗚咽した。ボクは呆然として彼女に抱きしめられたままでいた。
 彼女は、ボクが喋ったことで泣いているのだろうか。
 そんな他人のことで、こんな大声で泣き叫んでいるのだろうか。
 どうして? 
 どうしてこんなボクのために泣けるの?
 どうして? 
 どうしてボクの目頭は熱くなってるの?
 胸が温かい。
 すごい、ぽかぽかするんだ。
 ゆかりに抱きしめられて、すごい温かいんだ。
 この温かさは……そう、彼女と一緒に演奏しているときと同じ。
 ボクは……すごい、嬉しいんだ。
「ありがとう……」
 ゆかりの腰に両手を回し、ボクも彼女を抱きしめた。
「ありがとぅ……っ」
 もう、ボクは虚無なんかじゃない。
 ボクにはドラムがある。
 ボクには友達がいる。

 ボクには……希望がある。



 10.鴉

 それからの日々は、とても楽しかった。
 三人で同じ高校目指して、そこでバンドやろうって誓って、そしたら変なラッパーと、思い出の人と出会った。
 思い出の人はぜんぜん変わってなくて、でも思ったよりかっこよくなくて、むしろボクらと同じような不細工な人間で、それでもやはり惹かれるものがあった。まあ、あいつは……薫は、ボクのことなんかぜんぜん覚えてなかったし……それに、あいつは……。
「今日のスタジオも疲れたなあ」
 それは、とある日の帰り道。
 ボクと薫は二人で暮れなずむ道を歩いていた。
「ボソボソ(どっかの誰かが足引っ張ったからな)」
「うぐ……」
 ついつい暴言を吐いてしまう。
 そんなこと、言いたいわけじゃないのに。
 薫は確かに何度も演奏を止めて、「すまん、もう一度頼む」と頭を下げてたけど、それは彼が下手だからじゃなく、自分の演奏をもっと良くしたい、そうすることで、全体の質をも上げたい、と真剣に考えてやっていたことだって、そんなこと、わかってはいるのに。
「う、うるせえ。お前らのレベルが高すぎるんだ。俺は今までずっと一人でやってきたから、中々人と合わせる、ってのに慣れてねえんだよ」
「ボソボソ(ふん、精々努力することだな)」
 そんなことないって、わかってる。薫のギターは普通に上手いレベルだ。それでも努力して、更に向上させようとしてる。わかってる。わかってるんだけど……。  
「くぁー、それにしてもゆかりのヤツ、ほんと歌うめえよなあ。あいつ、口を開けば奇人変人の類だけど、あの歌には思わず聞き惚れるぜ。あー、くそっ、悔しいなあ」
 これだ。これなんだ。
 薫は、ゆかりのことをすっごく見てる。彼女の歌声に憧れに近い気持ちを抱いてる。だから、その歌声を映えさせるためにギターのレベルを上げようとしてる。そのために、努力してる。
 彼女ばかり、見つめてる。
 そのことが、ボクの胸を疼かせる。彼女の歌は確かに上手く、ボクだって聞き惚れるほどだ。そうなんだ。そうなんだけど……。このざわつく気持ちは、一体何なんだろう。
「なんかさ、普段はバカやってるやつが、同じ土俵にいるやつが、ある分野ですげえ才覚を見せつけて俺なんかより全然先の方へ走ってってるってのはさ、置いてかれてる感があるというか、ああくそ何で俺はここでは隣に立つことができねえんだって思えてきて、なんか、すげえ悔しいよな」
 薫は、ゆかりの隣に立ちたいんだ。
 ボクじゃない。
「ボソボソ(まずは国語力を鍛えたらどうだ、この口ベタめ)」
「るせーっつの。かぁーっ、お前らがあいつにぴったり合わせられるのがうらやましいぜ」
 ……だったら、ボクの隣にも来てくれよ。
 ボクは、君の隣に行きたくて、ドラムを頑張ったんだ。
 だから。
 だから……。
「おっと、鴉は右の道だったよな。そんじゃ、また明日」
 分かれ道に差し掛かり、薫がこちらに背を向ける。
 なんだかそれが切なくて。
 憎まれ口を叩くだけで後悔が湧いてきて。
「薫」
 ボクは、少し大きい声を出して、彼を呼び止めた。
 薫が、きょとんとした顔をこちらに向けた。
「そ、その……明日、暇なら一緒に練習しよう。しょうがないから、ボクが音を聞いて、お前に必要なことを教えてやる」
 そんなことを、言ってしまっていた。
 ああ、何を上から目線で言ってるんだボクは。ああ、もう、こんなんだから……。
「え! マジか!?」
 でも、薫はすごい嬉しそうで。
「サンキュー鴉! 頼むわ!」
 夕日に照らされたその笑顔に、思わず胸が高鳴っていた。 
 そう、それは――淡い片思い。
「……ああ、それじゃ……」
「おう、また明日!」
 別に、それでもよかった。
 こうやって、少しでもこちらを見てくれれば……。それだけで、ボクは嬉しいんだ。安い女だから。笑ってくれるだけで、嬉しいんだ。
 ゆかりと付き合ったって……いや、本当のことを言えば、そんなことを考えるとすごく胸がきゅうってなる。なんだか寂しくなる。
 でも。
 でもさ。
 薫もゆかりも、ボクを救ってくれたんだ。ボクに光をさしてくれたんだ。
 そんな二人が好き合っているのなら、それはきっとすばらしいことなんだ……。
 そう思って、疼きを抑え込んだ。
 新しい高校生活は楽しかったし、このまま楽しくいられるなら、それでいいと思っていた。
 けれど……唐突に、大きな痛みがやってくる。ボクは、歩みを止めざるを得なかった。
 ゆかりが…………死んだ。
 嘘みたいだった。
 ゆかりは太陽みたいだったから。
 太陽が沈んで、もう二度と上がってこないなんて、誰も考えないだろう?
 温かな陽気は消え、暗く寒い冬が突然やってきた。
 洋平は痛々しいほどに荒れ、薫は生気を失った。RYOは変わっていないように見えたが、時折何かを真面目に思案するような表情をすることがあった。
 そしてボクは……。

 夢を見る。
 悪夢だ。
 決まって同じ悪夢。
『ゆかりが死んだ』
 誰かが言う。
『ゆかりが死んだよ』
 そいつは笑いながら言うんだ。
『よかったじゃないか。これで薫は君のものだ』
 やめろ。
『敵う相手じゃなかったもんな。君が表舞台に上がるには、彼女の存在は邪魔だった』
 そんなんじゃない。ゆかりのことを邪魔だなんて思うもんか。
『そうかな? いつも君は嫉妬してた。強くて、可愛くて、キラキラ輝いている彼女のことを。絶対に越せない壁だってずっと思っていた』
 違う! ボクは、ボクは……っ。
『目を開けて御覧よ』
 自分の意思とは関係なく、瞼が上がる。
『そうだ。目の前に映っているもの。それが真実だ』
 ボクに呼びかける、そいつは――ボクの顔をして、笑っていた。

 ばっ、とベッドから飛び起きる。
 もう冬だというのに汗が全身を濡らしている。
 頭を抱え、膝に顔をうずめた。
「そう……なの?」
 ボクは、あの夢のボクなのか……?
「だから……なの?」
 ずっと、考えていた。あの日の、ゆかりが死んだ日の、自分のことを。
 散歩していたら、物々しい雰囲気の路地があって、野次馬に紛れてみたら、血まみれになって救急車に運ばれるゆかりの姿が見えて、全身から血の気が引いて、その場にへたりこんでしまって、ずっと立てなくて、ようやく警察の人に病院を聴き出せて、ふらふらと向かったその先で、彼女はもうこの世を去っていた。
 全身の血液が凍ったような、そんな感覚に陥ったのを覚えている。
 でも、涙が出なかった。
 その時の自分の感情がどのようであったか。それは、もう思い出すことができない。すっぽりと頭から抜け落ちている。
 だから、何で自分が泣けなかったのか、それを知ることができない。
 何故、ボクは泣かなかったのだ――その疑問が、悪夢となって、ボクを蝕み始めた。
 信じたくない。
 でも否定できない。
 自分はそんな卑しいことを考える事のない正しい人間なんだって、信じることができないんだ。 
 自らへの不信。それが募っていくたびに、ドラムスティックが重くなる。
 ゆかりが死んだ日から、何度も何度も、部屋に設置した電子ドラムの前に座っては自問自答した。
 こんなボクが、ドラムを続けていていいのか?
 こんな卑しいボクなんかが。
 希望の象徴だったゆかりは、太陽みたいだったゆかりは、もう、歌う事さえ叶わないと言うのに。
「あ……」
 今日も、握ったはずのスティックが、指から零れ落ちる。
 茫然と床に転がるスティックを見下ろし、その場に力なく座り込む。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 許して。
 こんなボクを、許して……。


 時が過ぎゆくのは本当に早く、気が付けば卒業間際の冬となっていた。相変わらずボクはドラムを叩けない鬱屈とした日々を過ごしていた。女友達なんて、ゆかり以外に居なかった。また、中学生以前へ逆戻りだ。
 きっとこのまま、花が枯れ落ちるように、ボクらの青春は朽ちていくのだろう、とそう思っていた。
 薫も、洋平も相変わらずだった。苦々しげな顔をして、何かを悔やんでいて、それを偽ろうとしてさらにドツボにはまっている。二人は似ていた。だからこそお互いを許せなかったのだろう。
 ある日、二人が喧嘩したという話を聞いた。RYOからだった。
「惜しかったなァ」
 放課後の廊下でばったりと会い、薫と洋平について話していたそんな時、RYOは妙なことを言っていた。
「惜しい?」
「あの二人はもっとぶつかるべきなんだァ、YO、お前もそう思うだろウ?」
「……わからん」
「わからんのはお前だHEY鴉ゥ、なんでおまえは立ち止まってるゥ?」
 ボクは何も口に出さなかった。RYOが珍しくため息を吐いた。
「俺らはさァ、ホントダメ人間の集まりだって思うんだァ、俺はァ」
「俺"ら"と言ったか」
 ムッときたが、まぁ、否定はできない。
「俺らの脚は棒切れのように貧弱なんだァ、YO。一人で歩いていけるほど頑丈じゃねーんだァ、YO。だからつまずくし、こけるし、きっとお前のように立ち止まっちまうんだなァ」
「…………」
「でも、俺らには借り物とは言え翼があるんだァ。俺たちはさァ、飛ぶしか能がねえんだァ。……わかってるんだろう? 鴉」
「……何がだ」
「僕たちにゃ、それしかないってことが、だよ」
 RYOはボクが何かを言う前にさっさと去って行った。 
 棒切れのように貧弱、か。
 お前の脚はよっぽど頑強に見えるよ、RYO……。
 ボクには薫や洋平のことについて、「どうすれば」なんてこと考えられないんだ。
 自分のことで、精一杯なんだ。
 自分のことでさえ、どうしようもできないんだ。
 こんなクズみたいなボク、いいんだよ。
 どうでもいいんだ。
 翼なんて、なくたっていいんだ。
 こんなボクなんて、飛ぶ価値さえ……。


 そんなボクの足元に、ある日突然、羽がひらりと落ちてきた。
 いつもと変わらない鬱屈とした一日。朝学校へ赴くときはそう思っていた。
 でも、薫とばったり廊下であって、ボクは驚かされたんだ。ずっとふさぎ込んでいたあいつが、ギターを背負っていた。その目に、若干の希望が灯っていた。
 なんで?
 どうして?
 ボクはたちまち混乱した。そして、胸が高鳴った。
 ボクは、薫のギターが好きだった。
 ある時は駅前で、ある時は旧校舎の部室で、ある時は放課後の教室で……プロみたいに上手い演奏じゃないのに、その音色を聴くととても――とても、どうだったっけ?
 確かめたい。そのギターを聴くとき、ボクはどんな気持ちだったのか。
 半ば無理やり、ギターを弾かせた。薫は戸惑いながらもギターを弾いてくれた。初めは退屈だった演奏が、だんだん興が乗ってきたのか、色鮮やかに彩られる。
 胸がドキドキしてくる。体が勝手にリズムを取り始める。体が熱くなってくる。……懐かしい。ボクは、いつも、こうだった。薫の演奏を聴いていると、ボクはいつも――。
 往年の洋楽のコピー曲が終わり、また新しい曲が始まる。
「あ……」
 それは、今までの曲と違って、とても"完成されていない"曲だった。
 とてもへなちょこで、
 とてもぐだぐだで、
 呆れるくらい拙い歌詞と音色。
 それでも、その曲に助けられた人がいた。
 どんなにへたくそでも、励まされた人がいたんだ。
 君のギターは、本当に、ボクを勇気づけてくれた。ボクに、翼をくれた。
 ああ、ほんとうに――楽しい。君のギターは、とても楽しい。
 そうだ……楽しかったんだ。
 薫のギター、洋平のベース、RYOのキーボード、ゆかりのヴォーカル。
 君たちの音に囲まれていると、すごい楽しかった。その音に混じれていると思うと、本当にうれしかった。
 ふと、ゆかりと洋平との初演奏が頭に浮かんだ。
 あの時も楽しかった。
 あの時から楽しかった。
 全てはあの曲から始まり――ああ、そうだ。あの時思ったんだ。生きててよかったって。心から、そう思えたんだ。
 
 そう思わせてくれたのは、ゆかりだったんだ。
 
 たった一人のボクのドラムに、君が歌という色彩を加えてくれた。
 君はボクに喋ってもいいんだよって言ってくれた。
 君はボクの為に、イジメに対して激怒してくれた。
 君が、ボクの長かった髪を切って、世界を見れるようにしてくれた。
 ……ああ、そうだ。
 思い出した。
 思い出したよ……。
 ボクはね、ゆかり……嫌だったんだ。
 悲しくないから泣けなかったんじゃない。悲しいから、泣かなかったんだ。
 涙を流して、君がいなくなったんだって認めるのが、嫌だったんだ……。
 悲しみを肯定して、君が死んだということを肯定するのが、とても嫌だったんだよ……。
 ゆかり……なんで死んじゃったんだよ……。
 ボクは、まだまだ君の歌声を聴いていたかった。
 薫とのことは、少し胸が痛かったけど。
 だからと言って、君が居なくなることなんて、一体誰が望むものか。
 だって、君が大好きなんだ。
 本当に、本当に、大好きだったんだ。
 どうしてこの気持ちに、疑いを持ってしまったんだろう。
 どうして醜い心で、この清い気持ちに蓋をしてしまったんだろう。
 もっと一緒にいたかった。
 ずっと一緒にいたかった。
 青春とシャウトのみんなで、永遠に叫び続けたかった。 
 もう、叶わない。
 叶わないんだ。
 ゆかり……っ。
 ゆかり……っ!! 
 
 ――ボクは静かに慟哭した。

 ゆかりに髪を切ってもらったあの日以来、久しぶりに涙を流した。ゆかりを抱きしめて泣いたあの日のように、ゆかりの死を抱きしめてボクは嗚咽した。
 いつの間にかギターの演奏は終わっていた。薫は心配そうにこちらを見つめてくる。
「鴉?」
「……まあまあだ」
 ありがとう。
 ボクに、音を奏でる楽しさを思い出させてくれた。
 ボクに、ゆかりがいない悲しさを思い出させてくれた。
 この悲しみを、この苦しみを、このくやしさを……叫びたい。 
 ボクに、叫ぶことを思い出させてくれて……ありがとう、薫。
「……なあ、鴉」
 薫が、泣き続けるボクに語りかける。
「俺さ……またギター、弾いてみるわ。なんか、やっぱ楽しいんだわ。部屋でうじうじ弾くんじゃなくて、誰かに聴かせるために弾くの。やっぱ、すげえ楽しい」
「ああ……」
「でもさ、一人だとかっこつかないんだわ。俺一人じゃあ、足りないんだ」
 ボクらは、一人で生きてきた。孤独で耐えてきた。でも、もうそんなのは無理だ。ボクたちはもう、誰かと一緒に生きるという温もりを知ってしまった。楽しさを知ってしまった。そして、孤独になることの悲しさを、強く知ったんだ。
「何で弾くかもわからねえ。何で歌うかもわからねえ。でも……きっと、楽しさが待ってるってのは、わかる。今とは変われるって、確信できる。だから――」
 薫が、ボクに手を差し伸べる。
「俺と、組んでくれ。お前のドラムで、俺を支えてくれ」
 ああ……やろう。やってやろう。
 ボクも、今ならきっと、スティックを落とさなくて済む。
 今は、叩きたくて叩きたくて、しょうがないんだ。
『もしドラム始めてさ、誰も組む人がいなかったら、俺と組んでくれよ。そんで、みんなをあっと言わせてやるんだ。ぎゃふんと言わせるんだ。俺たちでも、こういうことができるんだって、見せつけてやるんだ』
 誰かにバンドに誘われる時。その時は、決まって希望が降り注ぐ。
『なっ、どうだ、鴉。私たちと組んでバンドやらないか?』
 けれどボクは怖がって、いつもその手をとるのに躊躇した。
 ボクに出来るだろうか。ボクなんかでいいのだろうか。
 不安は、いつでもボクと共に居た。
「……しょうがないな」
 でも、今のボクは知っている。
 ボクは、"やれる"。ボクには"できる"。
 むしろ、ボクはこれだけしかやれない。これしか、ないんだ。
 そうだよな……ゆかり。 
「支えてやるよ、薫」
 その手を握る。
「一緒に、叫ぼう」
 壁を蹴り壊し、ボクは前へと足を踏み出す。
 この世は生き辛い。
 ボクみたいな生き方が下手な人間はなおさらだ。歩みを続けるとどんどんその身は削られていって、身を守るためには立ち止まるしかない。
 ボクは、何度も歩みを止められた。何度も立ち止まった。
 けれど……ボクはまた、少しずつ、歩いていく。
 生きたいように生きよう。
 そうして、いつかは、追いつこう。
 あの、太陽みたいな君に――。


 その日、夢を見た。
 ボクはドラムを叩いていて、ゆかりは気持ちよさそうに歌を歌っていて……。演奏が終わって、彼女が振り返り、笑顔で言う。
「やっぱ楽しいな、鴉」
 うん。
「こうやってみんなで演奏するの、すっげえ楽しいな」
 うん……っ。
「よ〜っし、もう一回やろうぜ! 今度はゆったりめでやろう。こう〜、抒情的というか〜、やさしげというか〜……」
 何度だって、やるよ。君とだったら、何度だってやる。
 だってこんなに楽しいんだ。
 君と居る時間は、すべてを楽しくしてくれる。そう、すべてを――楽しくしてくれたんだ……。
「ゆかり」
「ん?」
「ありがとう」
 ボクなんかと出会ってくれて。
 ボクなんかをバンドに混ぜてくれて。
 本当に……ありがとう。
「大好きだよ、ゆかり」
 自分が卑しくない人間だって信じることはまだできそうにない。価値があるかどうかも、わからない。
 でも……この気持ちは信じられる。
 君のことを思ってドラムを叩く時間。その価値は……絶対に、あるんだ。
 だから――。
 目を覚ますと、カーテンの隙間から眩い朝日が差し込んでいた。
 起き上がって濡れる目元をぬぐい、電子ドラムの前に座ってスティックを握る。
 さあ、叩こう。
 この想いを、逃さず、残さず、全力で叫べるように。


 
 11.洋平

 ○kaoru

「――RYO」
「Oh、ファッキンマイブラザー薫ゥ、バンド組みたいんだろゥ? だったら俺が組んでやるゥ」
「……なんだろうな、この釈然としない感じは……」
「ボソボソ(ボクはバンド組むのに4話も使ったというのにたった一行だと……)」
 またバンドをやろうと決めた俺と鴉は、早速RYOのところに向かったのだが……。RYOは訳知り顔というかドヤ顔というか何か俺たちに生暖かい目を向けて待っていたのだった。
「ボソボソ(ものすごい拍子抜けだな。お前全然見せ場ないじゃないかRYO)」
「HEY、お前らまだまだ子供ォ、俺は一足先にアダルトォ、つまり俺はおにぃ、お前らのおにぃ」
「そのネタは何年も前につっこんだ」
「ボソボソ(そもそもお前にお兄ちゃん属性はないぞ。あるのなんてマジキチ属性くらいだろ)」
「Oh、それはちがあゥ、俺はオシャレラッパアゥ、カリスマラッパー属性だぜイエイ」
「お前がオシャレだったら洋平の男皮ジャンだって……」
 ……ああ、そうだ。
 俺、鴉、RYO……となると、あとは……。
「お前は俺なんかよりィ、あいつのところへ行くべきィ」
 ……そうだな。
「わかってるよ」
 腰は重く、脚は震える。俺は、今だにわからない。何が正しくて、どうすることがいいことなのか。
 俺はギターを弾くことしか、今はわからない。
 ただみんなでバンドをやりたいと、そういう想いしか今はない。
 あいつと対峙して、わかるのだろうか。
 何かを掴めるのだろうか。
 前へ歩いていると、実感できるのだろうか。
「薫……大丈夫、か?」
 鴉が心配そうに俺を見上げる。
「……ともかく、話してみるさ」
 ほんと、かっこつかねえな、俺。
 きっと漫画のヒーローなら、颯爽と洋平のところへ走っていき、綺麗な言葉で説得、分かち合い、笑顔で握手を交わすに違いない。
 でも、俺はヒーローじゃない。
 何も思い浮かばない。あいつと会い、何を話せばいいのだろう。
 そもそも俺は、何でバンドをやりたいのだろう。何でギターを弾きたいのだろう。
 楽しいから?
 それも、きっとある。でも、心の奥底に、何かまだ釈然としない、小さなしこりのような想いがある。
 疑問符だらけの中途半端な俺。洋平にメールを送り、廊下を歩いていく。
 その時だった。
 廊下の影に、見知った人影を見つけた。
 ――ゆかり?
 ゆかりは、廊下の角からこちらを窺っているようだった。目が合った途端、びくっと飛び上がり、走り去っていく。
「待ってくれ!」
 あれ以来、顔を合わせていなかった。
 彼女の悲しみを目の当たりにしてから……。
 何もできずにその場に立ち尽くすことしかできなかったあの時から……。
 彼女の残したテープに隠された想いを聴いてから……。
 胸がチクリと痛む。
 手が、足が震え、身体が重くなる。
 過去の象徴。
 後悔の実体。
 でも――それでも、追いかけずにはいられない。
 会いたいって、思う気持ちに歯止めをかけることなんて、できやしないんだ。
「ゆかり!」
 身体を縛り付ける実態のわからないなにかを振り払い、ゆかりの消えた方へ駆けていく。
 俺に何が言える?
 一体、何ができる?
 わからない。
 悔しいけれど、わからない。
 彼女が曲がった廊下に入る。すると、もう彼女は廊下の奥に居て、俺の姿を見て階段の方へ駆けていくところだった。
 どうして、逃げるんだ。
「待って、くれっ」
 階段を駆け下りる。
 そこに……彼女は居なかった。どこを見渡しても、その姿を見つけることはできない。
 息を切らし、その場にへたり込む。もう、走る体力は残されていなかった。
 俺は……何で彼女を追いかけたのだろう。何を、したかったのだろう。
 その時、先ほどまで沈んでいたその答えが、急に浮かび上がってくる。
 ――伝えたいんだ。
 伝えたい、言葉があるんだ。
 伝えたい、想いがあるんだ。
 ずっと言えなくて、恥ずかしくて仕舞い込んで、結局言うことができなかった想い。
 泣きじゃくるお前に、かけられなかった言葉。
 CDに録音された音声で先を越されてしまった告白。
 今さら意味がないと、心の川底に沈めてしまった想い。
『お前の声は、前には届くんだぜ?』
 ……なあ、RYO。もし、そうならさ。もし、俺のこの気持ちが、前に届くのだったら。
 俺は、叫びたい。
 好きだって。
 ゆかりのこと、好きなんだって。
 叫びたい。
 バカみたいに、何度も、何度だって、叫んでやるんだ。
 立ち上がり、携帯を取り出す。
 洋平にあてたメールが返ってきていた。
『了解。待ってる』
 ……決意は固まった。
 自分がやりたいことも、わかった。
 あとは、伝えるだけだ。

 
 土手から河原に降りると、確かに洋平はそこに居た。煙草をふかして、川を見つめていた。
「よう」
 その背に、声を掛ける。
 ゆっくりと、洋平は振り向いた。
「……きたか」
「ああ」
「何の話だ? この前の、リベンジマッチでもするつもりか」
「ある意味そうだな」
 俺の物言いを不審に思ったのだろう。洋平が俺を強く睨みつけた。
「……用件はなんだ。オレはお前と仲良くおしゃべりすると思って待ってたわけじゃねえぞ」
「俺もそんなぞっとする絵面を想定してここに来たわけじゃないよ」
 洋平、と呼びかける。
「もう一度、バンド、組まないか」
 俺の、その誘いに対して、洋平は――
「……ふざけんな」
 怒りを以て、応えた。
「てめえらが何考えてるかは知らねえ。知りたくもねえ。だけどな……オレは、てめえらの遊びになんか、付き合わねえ。てめえらの傷の舐めあいに混じるなんざ、ごめんだ。話はそれだけか? だったらもうオレは行くぜ」
 洋平は、俺の横を通って河原から去ろうとする。
「遊びなんかじゃない」
 俺は、その背に言葉を投げかける。
「俺は、遊びのつもりで、傷の舐めあいのつもりでバンドを組むつもりじゃない」
 洋平は振り返り、鋭い視線をぶつけてきた。
「じゃあ、てめえは何のためにバンドを組むつもりだ。何のために、ギターを担いでやがるんだ」
 俺も、先ほどまで意味を見いだせなかった。ただ、ギターを弾くしか、それしかできないからと、こいつを担いできた。何故ギターを弾くのか。何故、またバンドを組むのか。その答えは、あいつの、ゆかりの小さな背を見て、ようやくおぼろげながらにも掴んだ。
 それは、至極単純なものだったんだ。
「届けたいからだ。ゆかりに。伝えたいからだ」
 伝えられなかった想い。
 言えなかった気持ち。
「なあ洋平。俺はさ……ゆかりが好きなんだ」
「……っ」
「すっげえバカで、突拍子がなくて、暴れん坊で、そのくせ泣き虫で……そんなあいつが、俺は好きなんだ」
「何、言ってやがる……っ」
「ずっと言えなかった。あいつが死んで、どうすることもできなくなった。だけど――俺は、もう嫌なんだ。こんな気持ちを、こんな大事な気持ちを心の奥に押し込めて、いじけたように生きていくのは……もう嫌だ。こんな中途半端なまま、卒業するなんて、俺は嫌なんだ!」
「だからバンドを組む? だからギターを弾く?」
 洋平は踵を返し、俺の胸倉を掴んだ。
「ざけんな、それが傷の舐めあいだって言うんだ! 意味ねえんだよ。そんなことして、何になる!」
「俺はもう後悔したくないんだよ! あいつに言えなかった、伝えられなかった、それで、これからもずっとぐだぐだ悩むなんて、もうそんなだせえ真似したくない。だったら、俺は叫ぶ。聞くやつみんなの頭に刻みつけてやる。俺が、どれだけあいつのことを好きかってな!」 
「あいつを好きだと? だからなんだっていうんだっ。もう、そんなものに価値なんてねえんだよ!」
「俺がアイツを好きであり続ける、その価値を、お前には絶対に否定させない! お前だけには否定させない! お前だってそうなんだろ!? あいつのことが、好きなんだろ!?」
「てめえ!!」
 洋平が振りかぶった拳。それを、俺は避けもせずに顔面で受け止める。
 衝撃。脳が揺さぶられ、景色が揺れる。それでも、立ち続ける。それでも、俺は叫ばなくちゃいけない。
「俺はゆかりが好きだ! "好きだった"じゃねえ! 今でも好きなんだ!! これからだって、ずっと好きだ!!」 
 もう一発。目の上が切れる。血が流れだし、目に入って頬を伝っていく。
「この想いから、もう目は逸らさない。どんなに苦しくても、どんなに胸が痛くなっても、忘れない。忘れたくないんだ!」
「どうして……っ」
 洋平の声が震える。
「なんでお前は……っ!」
 大きく掲げられた拳。
 ああ、やばいな……あれ食らったら、さすがにぶっ倒れる。
 まだ、倒れるわけにはいかない。
 ここで、言葉を失うわけにはいかない。
 絶対にこいつとやるんだ。
 こいつと、RYOと、鴉でやらなくちゃいけないんだ。
 俺たちじゃなきゃ、意味がない。
 意味がないんだ……っ。
 だから、お前に、こんなところで負けるわけにはいかないんだよ!
 殴りかかる洋平。
 俺は、土壇場の力を振り絞り、何かコイツの拳に勝てる武器がないかと頭を巡らし、そして――

 ○yohei

 どうしてこいつはこんなに強くなった?
  
『俺はゆかりが好きだ! "好きだった"じゃねえ! 今でも好きなんだ! これからだって、ずっと好きだ!』
 
 なんだよそりゃ……。

『この想いから、もう目は逸らさない。どんなに苦しくても、どんなに胸が痛くなっても、忘れない。忘れたくないんだ!』

 そんなの、ありかよ。
 オレがずっと悩み続けたこと。それを、そんな簡単に叫んじまうのかよ。

 わかってた。
 薫の言葉を遮ろうと、必死で力でねじ伏せようとしていること……それが、ただのオレの心の弱さだってこと。
 知らぬ間にオレなんかより何歩も先に居た薫をどうしても認められなくて……認めたくなくて……。
 渾身の一撃だった。
 この一発で、絶対にこいつをKOできる。そう確信していた。
 だけど、予想していなかった。

 ――まさか、薫までもが、どこかのバカみたいにギターを振りかぶってくるなんて。

 それがもろに入り、オレは耐えきれず倒れ込む。気付けば石っころの上で仰向けになっていた。
 おいおい。そりゃ、卑怯だろうよ……。
 こんな時に、あいつみたいなことしてくるなんて、そりゃ、ずるいぜ……。

『あー、なんていうか、おまえがとつぜんなぐりかかってくるもんだから、ついついびっくりしてギターでなぐっちった』
 あの時……ゆかりと初めて会って、初めてKO食らった時の情景が蘇ってくる。
『まあでもおまえがわるいぞ。こんなかよわきおとめにほんきでなぐりかかってくるんだからな!』
 か弱き乙女はギター振り回したりしねえっつーの……。
『いやー、これでおまえもダサさに、はくしゃがかかっちまったな! なんたって女のわたしにケンカでまけたんだから』
 まったくだ、ダセえ……ダサすぎる……。
『女のわたしなんかにまけたことをいいふらされたくなかったら、いうコトを一つだけきけよ、オイ』
 ああ、きいてやる。なんでも、きいてやるさ……。
『ダセえおまえがたしょうマシになれるように、ベースをひけ。ちょうどわたしんちにベースがいっぽんあまってるんだ。それやるからひけるようになれ。そしたらおまえ、いままでみたいなダセえまねしなくてすむようになるぞ! なんたって、ベースはちょうムズかしいけど、ちょうかっこいいからな!』
 本当か……? オレ、もういいのか?
 自分を守るために、クソみてえな世界に抗うために……もう、誰かをぶん殴らなくてもいいのか?
『そんでもって、わたしとバンドをくもう! きっとたのしいぞ! わたしと、おまえと、うーん、あと3にんくらいほしいな! そのバンドの5にんは、かたいキズナでむすばれてるんだ。どんなくるしいことがあろうと、みんなでたちむかうんだ。そんで、ライブのときは5にんでせいいっぱいあばれてやるんだ。そしたらさ……』
 ああ、そしたらきっと……。

「すっげえ、楽しいだろうな……」
 
 夕茜空は、いつの間にか暗い紺色に変化していた。傍らに、痣だらけ血だらけの薫が座っている。
「……なあ、薫」
「おお、よかった、起きたか洋平」
 悪かったな、と薫は俺に謝ってきた。そういやゆかりは謝らなかったよな、と思ったらのどの奥が苦しくなった。 
「オレはさ、薫……あいつに助けられて……ゆかりと出会ってから、毎日がすげえ楽しくて……ずっとずっと楽しくて……」
「ああ」
「お前らと出会ってから、もっと楽しくなって……それは、全部ゆかりのおかげなんだ……あいつが、燻って、いじけて、暴走してたオレに、有意義な生き方を教えてくれたんだ……っ。だから、だからよぉ……」
 涙が溢れた。止まらない。流れ出した涙が、顔をぐしゃぐしゃにして地面を濡らす。
「オレだって……っ、オレだって好きだよ……! 辛くて、苦しくて……でも、オレだって、オレだって、ほんとうは忘れたくねえんだよぉ……っ。あいつとの思い出……あいつと一緒に演奏したこと……あいつを好きだったこと……ぜんぶ、ぜんぶ大切なんだ……っ」
 一度堰が外れると、洪水のようにゆかりへの想いが溢れてくる。とめどめもなく、溢れてくるんだ。
「どうすりゃ、いいんだ……っ。どうすりゃ、オレはダセえことやらずにすむんだ。あいつを……オレは……っ」
「ゆかりは……死んだ。でも、俺たちは生きてる。あいつはもう、何もできない。でも、俺たちには何かできる」
「何か……?」
「俺らは俺らのゆかりへの想いを、ありったけの想いを叫ぶべきだ。そうじゃなきゃ、みんな後悔を抱えて、腐っちまう……。それは、だめだ。きっと、だめなんだ。俺も、今まで気付かなかった。でも、今、わかったんだ。お前と殴り合って、自分が生きてるんだって。腐ってちゃダメなんだって……」
「でも、つれえんだよ……なんで、あいつのいない世界で、生きてかなくちゃいけねえんだよ……っ」
「それはきっと……あいつのために、生きてかなくちゃいけないんだ、俺らは。ゆかりのことを絶対に忘れない俺らだからこそ、生きてかなくちゃいけない……」
 生きる。
 そんなこと、真面目に考えたこともなかった。
 オレみたいなバカが生きる。それが、あいつのためになるのだろうか……。
「なあ、洋平。俺、お前と会うまで、考えていたことがあるんだ。ゆかりのために、俺らが何をできるのか。聞いて、くれるか?」
 頷いて、先を促した。
「もうすぐ、俺らは卒業だ。ゆかりと過ごして、ゆかりと別れた高校生活と、さよならすることになる。……ゆかりはそれを誰よりも嫌がって、そして、誰よりも望んでいた。"俺たち全員で卒業する"ことを……。でも、あいつは、卒業証書をもらえない。ただ一人、もらえないんだ……。それを、俺は許せない。そんな卒業式、クソだ。あいつと一緒に卒業できない高校生活なんて、また後悔が残っちまう。だから……俺たちで、卒業式を変えちまおう」
「卒業式を、変える……?」
 あまりの突拍子もない提案に、オレはやつの面影を見た。
「ゆかりは言っていた。卒業式の最後、吹奏楽部が演奏するその時、演奏を"青春とシャウト"が乗っ取ってやろうってな」
 思わず笑ってしまった。笑って、また涙が出た。
「俺らで、乗っ取ってやらないか? 卒業式の最後を、ゆかりただ一人のために使ってやろうぜ。俺らの演奏で、あいつを、あの泣き虫を、卒業させてやろう」
 ほんとくだらねえ。あいつらしい。ほんと、あいつらしいアホらしい作戦だ……。
 でも――。
「ああ……そうだな」
 悪くねえ。
 それが、あいつの遺した望みだというなら。
 あいつの、後悔だというのなら。
 オレたちの後悔ごと、吹き飛ばしてやる。
 あいつが望むのなら。あいつのためになら。
 オレは……また、ベースを弾いてやろう。
 暴力と、そしてベースしか取り柄のない、バカになってやろう。
「惚れた弱みだ……」
「全くだ。洋平、立てるか?」
「てめえらみたいな軟弱と一緒にするんじゃ、アイテテテテ、ちょ、慎重に扱えこのヤロー!」
「ったく俺もお前と同じようなもんだっつーの、イテテテテ……」
 バカな女に惚れたバカな男同士。
 血と痣だらけの不細工な二人が、肩を組んで道をゆく。
 隣の薫の顔を見る。とても清々しい顔をしていた。
 ……オレは、知ってた。
 こいつがゆかりのことを好きだってことも。
 ゆかりも、こいつのことが好きだったってことも……。
 それでもこいつに負けねえと思って……ゆかりが死んで……どうしようもなくなって……けれど、こいつはオレより先に立ち上がった。前へ向かって歩き始めた。
 ああ……だからゆかりはこいつのことを好きになったんだな。
 今、胸に生じる切なさと共に、オレはそれを受け入れた。
 今まで受け入れられなかったのに。
 それでもあいつのことを好きでいると、あいつのことを忘れたくないと、認めたからだろうか。叫んだからだろうか。
 まあ、どうでもいいか。
 ゆかりを好きな気持ちは、オレだって負けねえんだ。
 好敵手ってやつだな、薫。
 絶対に負けねえぞ。ほんとだぜ?
 まあ、どっちにしろ、弱いオレはきっと、ベースを弾いてまたあいつを思い出すだろう。
 でも今なら……もっと、明るい気持ちでゆかりのことを想い、ベースを弾けそうだ。
 どんなことがあろうと、あいつのために弾くのだと決めた、今ならば……。

 


 12.クソラッパーの生まれた日

 ○RYO

 僕と鴉が、薫を洋平の所へ送り出した翌日の放課後。教室に、青春とシャウトの面々が集まった。薫と洋平の顔はあざだらけで日頃の三割増しでブサイクになっていた。
「oh、ブサイクニコイチィ、やはりオレがイケメン日本一ィ」
「「「それはない」」」
 僕がいつものように道化を演じると、二人だけでなく、鴉からも同じ言葉が返ってきた。仲の宜しいことで。お兄さんは嬉しいよ。……きっと、ゆかりも、喜ぶだろう。
 本来、ずっとこうあるべきだった。こうあるはずだった。
 それが、彼女の死によって分かたれた。まるで、ゆかりという糸だけが僕たちを繋いでいるようで、それが無性に悔しく、寂しかった。結局俺たちの縁はこんなものだったのか。こんなに脆いものだったのか。失望が、全身からやる気を奪っていった。
 それでも、そんなことで納得する訳にはいかなかった。
 納得したく、なかったのだ。
「RYO、鴉、お前らに、話したいことがある」
 薫が、真面目な顔で僕らに向き直る。
「俺らで……青春とシャウトで、やりたいことがあるんだ」
 そして、薫は話し始めた。ゆかりのために、俺らは何かをするべきだと。ゆかりが卒業証書を貰えないのは納得できないと。ゆかりが、卒業式を乗っ取ってライブをするつもりだったと。そして――
「だから、俺らでやっちまおう。俺らで卒業式を乗っ取って、あいつに、卒業証書をくれてやるんだ」
 薫は、目を輝かせてそう言った。
 まるで、ゆかりが話しているような錯覚に襲われて、目頭が熱くなった。鴉も同じ様子だった。
 薫なりに答えを見出したのだろう。そしてそれに呼応するように、各々が足を踏み出し始めた。鴉が、洋平が、前を向き始めた薫を見て、だったら俺たちもと思い、歩き始めた二人を見て、薫も一歩を踏み出した。
 僕にはその姿がとても眩しく見えた。薫の提案は、僕には眩しすぎて、自分の頭では到底ひねり出せるようなものではなかった。
 僕みたいな紛い物では、オリジナルになれない。
 ……ゆかりが居たら、こんな後ろ向きなことを思う僕を叱咤するのかな。
「いいと、思う。……やりたい。やってやりたい」
 最初に口を開いたのは鴉だった。呆けていた俺も、慌てて頷く。
「童貞キング薫にしてはァ、中々いいアイデアじゃねえかァ」
 動揺をラップに乗せてごまかした。お兄さんはいつでも強がることに必死なんだ。
「よし、じゃあここに青春とシャウト再結成――いや、ちげえか」
 寂しそうに薫は笑った。そう、再結成ではない。再結成など、ありえない。何故なら、ボーカルがいない。僕たちの大事な、とても大切な歌姫様が。
 気持ちが沈む。大切なものを失った僕たちは、それを修復することなどできない。それを、僕たちは実感した。不揃いのパーツ。最後のピースは、一生揃うことがない。
 しかし、薫はいとも簡単にこう言ったのだ。
「じゃあ、装い新たに『卒業とシャウト』結成だな」
「卒業と、シャウト……」
 代理品じゃない。模倣品でもない。あくまでオリジナルとして、薫は完成をさせた。ゆかりを弔うバンド。ゆかりを想うバンド。青春は終わり、卒業がやってくる。それでも最後までいじけずに叫び続けよう。薫の言葉には、その想いを感じられた。彼の成長を、まざまざと見せつけられた。
「……くさいか?」
「オウ、当たり前じゃねーか。薫の言うことなんざ、どれもくせーよ」
 洋平が笑う。久々に見る、彼の笑顔だった。
「ボソボソ(だせーよりはマシだ厨二野郎)」
 鴉も頷き、笑った。
「……まったく」
 思わずラップも忘れてしまう。
「相変わらず青臭えセンスは変わらないな、チェリーボーイ薫」
 だが、その青臭さが僕を、洋平を、鴉を――そしてゆかりを惹きつけてやまなかったのだ。薫は青春の象徴みたいなもので、かっこ悪く、不器用で、失敗ばかりの男だ。うじうじして、すっごく後ろ向きで……でも、だからこそ、僕たちはまた集まった。ああ、こいつに任せてたらどうしようもねえな、と。やれやれしょうがないな、と。苦笑いを浮かべ、それぞれの楽器を手に取って。
「だけど薫YO、吹奏楽部の説得はどうするんだYO」
「……そ、それはこれから考える」
 ほんと、詰めの甘い男である。
 しょうがねえな、まったく。
「俺は史上最強ラッパー、薫の頭はパッパラパー」
「ボソボソ(前半はともかく後半は頷けるな)」
「パッパラパーってなんだ? 英語か? フランス語か?」
「ボソボソ(洋平の頭もパッパラパーだな……)」
「よ、よせよ……オレに横文字は似合わねえぜ……」
「ボソボソ(バカってめんどくさいな……)」
「バカはともかく俺が手配するYO、お前ら俺をあがめろYO」
 吹奏楽部には伝手がある。僕が世話してやったヤツが後輩にいるのだ。あいつも基本パッパラパーだから僕の提案を面白いと言って乗ってくるだろう。
「……正直それは助かるな」
「お前はスタジオの予約してろォ、俺の写真を神棚に飾って拝めろォ」
「そうだな。練習しなくちゃな……何せ初めて弾く曲だ」
「初めて弾く曲? 今までにやったやつじゃねえのか?」 
 洋平の疑問はもっともだ。そう言えば何を弾くのか聞いていない。
「ああ……俺がやりたいのは、ゆかりが最後に残した曲だ」
「ゆかりが……」
「やるのは一曲。この一曲にすべてを籠める」
 薫が、背負っていたケースからギターを取り出す。
「あいつの卒業への想いのが籠った――」
 薫が、曲名を口にし、ギターでメロディーを紡いでいく。
 
 その切なくもあたたかい音色は、
 彼女が抱いていた卒業の寂寞と、
 叶うことのなかった未来への希望を、
 切々と感じさせた。


 翌日の昼休み、早速吹奏楽部の部長に会いに行った。
「うげ……先輩が俺を訪ねてくるって、悪い予感しかしないッスよ……」
 という温かい出迎えの言葉を頂戴しつつ、僕は例の件を相談する。
「卒業式の演奏を取って代わる、ねえ……」
「できないかァ?」
「いや、まあ俺は全然構わないッスけどね。なんか面白そうだし」
 相変わらず適当なやつだ。助かる。
「どーせ断っても先輩、昔のこと持ち出してうるさいだろうし」
「Oh、俺はお前の師ィ、知ってるお前の黒歴史ィ」
 こいつが所謂『中二』の頃に色々世話してやった。その時のこいつをみんなに見せてあげたいものである。
「うぐ……む、昔はこんなんじゃなかったのになぁ先輩」
「これが真の俺ェ、皆が戦くカリスマDJェ、イエイ」 
「DJ要素なんてそのへたくそなラップしかない癖に……」
 はあ、と溜息を吐かれた。
「まあとにかく協力はしますよ。機材とか内密に運んで隠しとくんで。調整も一応はしときますけど、細かいところは先輩に任せますよ」
 僕は頷き、後輩と別れた。
 明日はスタジオ練習が入っている。薫の弾いたメロディーの編曲は昨日の晩のうちに大体終わっているが、もう一度見直すことにしよう。


 スタジオ練習も順調に進み、卒業式練習も始まった2月の末のことだった。
「……すみません、先輩」
 例の後輩が、僕の前で頭を下げていた。
「一体どうしたんだ?」
「その……部活内の信用するメンツにだけ話を通しといたんですが……顧問にちくった奴がいたみたいで……」
「……マジかYO」
「ええ、滅茶苦茶説教くらっちまって……たとえ機材の持ち込みとかをこっそりやったところで、またちくられるか勘付かれるかもです」
 ここに来て壁が立ちはだかるか……それも、教師ときた。まあ、卒業式を妨害しようとしてる生徒がいるならば相応の行動ではある。むしろ僕たちが無茶苦茶なのだ。文句は言えない。
 ――が、今回ばかりはそうもいかない。
 きっとこれが、最後になる。
 RYOとしての……最後の演奏になるだろう。
「悪かったな、僕らの身勝手で」
 僕は、後輩の肩をぽんと叩く。
「だけど、悪い。もう少し、勝手を貫かせてもらうぞ」
「先輩……?」
「顧問とは……僕が話をつける。お前らの演奏を奪うことになるが……僕らも、遊びでやってるわけじゃなく、どうしても、弾かなくちゃいけないんだ」
「なんとなく、わかります。何のためなのか、誰のためなのかって……だからこそ、俺も、先輩に協力しようって思ったんです」
「そうか」
「先輩は、変わりましたね」
「今は普通の口調だぞ」
「そういうんじゃないッスよ。昔は……なんていうか、もっと冷たい人でした。優しくないってわけじゃなかったけど、なんか、熱さってのがなかったように思うんです」
 口をつぐむ。確かに、人と接する時も、特に感情の動きもなく、淡々と話していた。うわべだけの関係しか、築いてこなかった。それが変わったというのなら、全部彼女のおかげだ……みんなの、おかげだ……。
「先生の説得、頑張ってください。俺も、部員にはちゃんと説明しときます」
「……ありがとな」
 ガラにもないことを口走って恥ずかしくなり、そそくさとやつの前を去った。
 その足で、一旦家に帰り、"色々と"準備を整えてまた学校へ向かった。
 職員室に入り、例の顧問を探す。顧問はちょうど今立ち上がり、職員室を出ようとしているところだった。これから吹奏楽部の指導に向かうのだろう。
「先生」
 僕は顧問の前に立ち、その歩みを止めさせた。
「ん? ――お前……」
 顧問は目を細めて僕をじっと見つめた。
「お前……来栖……か?」
 半信半疑といった口調だった。
 それも、仕方がないかもしれない。
 僕が家に帰ってしたこと、それは、まず頭をすべて刈り上げることだった。黒染めもしたから、もはや見た目はラッパーというより野球少年である。誠意を見せる時、気合を入れる時、頭を刈るのは基本だ。セオリーだ。ピアスも外し、服装も整えた。帽子もとった。最恐ラッパーRYOとしてのアイデンティティの悉くが崩壊したため、吹奏楽部の顧問も僕が誰であるかわからなかったようだった。
「はい。先生にお願いがあって参りました」
 僕はRYOを一旦隠し、来栖良太となって彼に話しかける。
「……例の件なら許さん。第一、そんなふざけた事、許されると思っているのか」
「ふざけているとは思います。許されないとも思います。でも――それを承知の上で、お願いします!」
 僕は勢いよく頭を下げ、許しを乞う。
「どうしても……どうしても、やり遂げなくちゃいけないんです。どうしても、このふざけた、ばかげたことをしなくちゃいけないんです。お願いします。お願いします!」
 顧問は鼻を鳴らしただけで、まともな返事はせず、僕の横を通り過ぎて行った。相手にすることさえばかばかしいと思ったのかもしれない。
 僕は溜息を吐き、職員室を後にした。背中に、教師たちの視線が刺さっていた。

 翌日も、翌々日も、僕は諦めず頭を下げに行った。その期間、練習には出なかった。結果が出るまで、彼らと顔を合わせるのが申し訳なかったのだ。吹奏楽部の後輩と当日の打ち合わせを重ねている、と嘘をつき、重い足を引きずって職員室に毎日向かった。
 結果は……まだ出ていない。顧問は、もはや僕が見えていないかのような態度を取り続けた。取り合ってももらえないわけだ。だんだん心が折れそうになってくる。何で僕はこんなことをしているんだろう、という暗い気持ちが湧き出てくる。
「お願いします!」
 その日も、僕は顧問に頭を下げていた。こんなに頭を垂れる経験など、今までの人生に一度もしてこなかった。だから……もう限界が来ていたのかもしれない。僕は、職員室を出て行った顧問を追いかけ、廊下の先にあるその背中に、思い切り叫んでいた。
「頼むよ……っ。やらせてくれよっ。どうしても、どうしてもやらなくちゃいけないんだ。あいつの……ゆかりのためにっ。あいつと一緒に卒業するために!」 
 顧問の足が、一瞬止まったように見えた。しかしすぐにその姿は廊下の角へ消えてしまう。僕は、立ち尽くし、その無念を籠めた拳で壁を叩いた。
「ゆかりに……返さなくちゃいけないんだっ。僕はっ……彼女に、命を救われたから……っ」
 諦めるわけにはいかない。
 どうしても、やり遂げなくちゃならない。
 想いは火の子を上げて燃え盛り、僕の心を奮起させる。
 その炎の合間から、ゆかりと出会った時の記憶が見えた。

 ●

 暗い水面が眼下に広がっていた。
 僕、来栖 良太、中学三年生の冬……。自らの手で、その人生に幕を下ろそうとしていた。
 広大な流れを以て海へと続いていく利根川。自殺者は多く、その魂の一つ一つは河原の石ころに宿るのだという。宿るというより、閉じ込められちゃったんじゃないかな、と僕は思った。自分で自分を殺すなんて業深き行いだ。でも、しょうがなくもあるんだよ。自殺するやつの気持ちなんて、自殺するやつしかわからない。人を測るものさしなんてないんだ。だから、石ころに閉じ込めるなんて、勘弁してくれよな。僕はそう祈って、ごうごうと流れる川に身を落とす――。
「何してんの?」
 寸前のところで、誰かに話しかけられた。女の声だった。
「見てわからない?」
 せっかく死を決めたというのに。邪魔されたことにムッとした。
「……度胸試し?」
「度胸があるのを実感する前に死んだら意味ないだろ?」
「まあ確かに利根川だったらこの高さだしこの寒さだしあの流れだしなあ。……あ、なるほど」
 そこまで言ってようやく気付いたらしい。
「寒中水泳か!」
「君がとんでもないアホだってことはわかった」
 はあ、と溜息を吐く。
「僕はな、今から死のうとしてるんだよ。邪魔すんな」
「死ぬ? ほほう、そりゃまたなんで?」
「何でって……」
「せっかくの縁だ。話してみろよ」
 ほんとに変わったやつに捕まってしまった……。
「このまま自殺するやつを見送るのも後味が悪いだろ」
「僕は見ず知らずの人間だ。どうでもいいだろ、そんなん」
「会話してるうちにどうでもよくはなくなっちった」
 訳を話す方が早そうだ。
「……君が聞いても、理解できないよ。僕はな、生きるのがつまらなくなっちまったんだ。だから死ぬんだ」
「つまらないって、何でだ?」
「さあ、何でだろうな。多分、障害も何もない、平坦な人生だったからだろうな。何をやってもうまくいく。何をやっても面白みを感じない。人の感じる幸福というのがよくわからない。空虚だ。そして親の敷いたレールの上をただただ歩いていく。将来が普通に目の前に転がってる。用意された未来が、転がってる。僕は、医者になるらしい。そんなこと望みもしなかったが、他の道を望みようもない。何せ、やりたいことがないんだから。ほんと、空虚だ。僕は何者なんだ。僕は、何で生きてるんだ。わからない。わからないから、死ぬのさ」
 贅沢な悩みだと言われるだろう、と思った。理解されるとも、されたいとも思わない。
 しかし、予想に反してその女は、
「そうか……大変だったなあ」
 と半べそかきながらそんなことを言った。
「……ほんとに僕の話を聞いてたのか?」
「聞いてたさ」
「だとしたら、贅沢な悩みだ、とは思わなかったか?」
「悩みに贅沢もクソもないだろう。人はみんな悩むけど、そこに大小良し悪しをつけることなんてできないんだ。精々自分の悩みに尺をつけられるくらいだ。人の悩みを批判したり賛美するのはおかしいだろ。悩みはその人だけのものだ。他の誰のものでもないんだ」
 意外ときちんと考えてるんだな、こいつ……。
「……僕も、そう思う」
 素直にうなずいてしまう。なんか、他のヤツとは違う。なんなのだろう、こいつは。
「でも、そうかぁ。つまらない人生、かぁ。それは、なんだか勿体ないなぁ。なんか、悔しいなぁ」
「悔しい?」
「ああ。悔しい。なあ、お前、名前何て言うんだ?」
「来栖 良太……」
「じゃあ、来栖 良太は一旦ここで死んだってことにしとこう。一旦な。いわゆるコールドスリープってやつと一緒だ」
「……何の話をしてんだ?」
「もう一度、人生が楽しいか、つまらないか、試させてくれよ。私が、面白い日々をお前に作ってやる」
 突拍子もない話だった。この女は見ず知らずの僕に何を言ってるんだ、と思わずには居られなかった。
「お前、見た感じ歳が近い風に見えるけど、何歳だ?」
「……15」
「おっ、同い年か。てことは今受験生だな。ようし、じゃあ早速だが、お前はこれから私と同じ高校を受けてもらうぞ。高校名は――」
「待て待て待て。一体どういうことだ。話に全然ついていけないぞ」
 少女はニカッと笑って見せた。
「青春の日々の間、お前の命を私が預かるって言ってるんだよ」
「僕の、命を?」
「どうせ今死のうが、後々死のうが同じだろ? 高校も、本来もっと上のとこに行ったのかもしれないけど、"そうしようとしていた"お前は死んだんだ。コールドスリープに入ったんだ。そして、今、新しいお前が生まれるんだ」
「新しい、僕……」
「その名もRYO。普段は道化じみたおちゃらけラッパーだ。話す言葉は全部韻を踏んでるんだ。天才ラッパーだからな。日常会話もラップなのさ。そして楽器は何でも使えるが、その中でもキーボードは格別に巧い。バンドの音に、彩を加える名人だ」
 ゆかりが、勝手につらつらと僕に新しいレールを与えていく。しかし、そのレールは継ぎ接ぎだらけで、道がどこに繋がっているのかもわからない。先行きに不安しかない。そんなのは……初めてだった。
「待て……今、バンドとか言ったな。僕は、その一員になるのか?」
「おうその通りだ。とは言え、まだお前を含めて四人なんだけどな。あと1人欲しいところだ」
 僕はまだ入るとは言っていないのだが。
「ま、高校であと1人は見つけるよ」
「僕、楽器なんてピアノしかやったことないぞ。ラップもよくわからん」
「充分だろ。何せ、"何をやってもうまくいく"んだろ?」
 にやにやしてゆかりは言う。何か、こいつの魂胆が見えてきた。僕に苦労をさせて、「ははは、人生はそんなに甘くないんだぞ若造め」とかなんとかエラそうに言うつもりなのだろう。
 ……上等だ。
 僕は、今この瞬間死ねなくなった。ここで川に飛び込んだら、この少女に負けを認めるということになる。それは、何か嫌だ。死の間際に誰かに負けるなんて、プライドが許さない。
 良いだろう。お前に見せてやる。僕が、何で死を決意するほど苦悩したか。苦悩の一端を見せつけてやる。
 柵を乗り越え、少女の横へ並ぶ。
「おい、君――」
「ゆかりだ」
 エネルギーの塊のような、活発そうな少女。
「桜井 ゆかり。約束するよ。お前の人生に、苦難と楽しさを与えるって」
 その少女が、手を差し出す。
「……ふん。僕に苦難と楽しさだと? やれるもんならやってみろ。まあ、あと三年は生きてやる」
 その手を、握った。 
 こうして、僕は青春の神様と契約し、騒がしい日々に身を投じていくこととなる。 



 13.邂逅と別れ
 
 それから高校入学までの日々、僕はラップとキーボードの練習に勤しむこととなった。勉強はどうでもいい。あんな高校くらい何もせずとも受かる。それよりも差し迫った課題はこの二つなのだ。
 キーボードは色々と自分でコピーしたりしてみて、すぐにコツは掴んだ。コツ、というか、どういう音が内臓されているのかということを熟知した。あとはリズム感だが、天才の僕にはもう問題はないだろう。
 ラップに関しては訳が分からなかった。いや、ラップ自体はわかる。ただ、ラップで日常会話をこなせというのが本当に意味がわからない。ゆかりは何を考えてそんなこと言ったのだろう。これすっげえ難しいんだけど。……いやいや、しかし僕はこれさえこなせてしまう。なんていったって僕は天才だからな!
 そして、高校に入学し、僕は青春とシャウトの面々と顔を合わせることになる。
 くだらない連中だな。というのが第一印象だった。DQNのバカ、声がちいせえ女、なんか青くせえヤツ。僕はこんなやつらとバンドなんてもんをやるために死ぬのをやめたのか。辟易とするものがあった。
 だが、そいつらの演奏力、それは確かだったように思える。まあでも一番上手いのは天才の僕だ。見てろバカどもめ。この僕が練習を重ねた成果を見せてやる。
「よ〜し、じゃあ今日の練習はここらへんにするか」
 えっ?
 皆当たり前のように楽器をしまい、帰り支度を始めた。
 誰も僕を賞賛しなかった。むしろ、
「おい、お前RYOっつったか。ちょっと音がズレてるとこがあったから、次回までに直しとけよな」
 洋平とかいうバカに至ってはダメだしする始末。
 まじか。
 憤怒が全身を巡った。
 僕が?
 ダメだし?
 こんなバカに?
 しかも、どいつもこいつも僕のラップを下手だという。
 そんなまさか。
 神ラッパーだろ。
 家に帰るなり、僕は練習に練習を重ねた。親が不審がって僕を見てきたが、そんなのは気にしてられない。むしろ、僕がバカにされたことの方が大問題だ。
 僕は今まで障害に何てぶつかったことなかった。
 その僕が、こんな目に遭っている。
 いくら自主練を重ね、スタジオに臨んでも、皆それが当たり前かのように弾いていた。
 ウソだろ?
 凄い自信を持って臨んだというのに、毎回毎回そんな風だった。むしろ練習後のバカみたいな馴れ合いの方が盛り上がっていた。その度僕のラップは下手だと言われた。
 チクショウ、どういうこった。
 僕は天才じゃなかったのか?
「最近どうだ? RYO」
 ある帰り道、たまたま帰路が同じになったゆかりが僕に問いかけてくる。
「どうだもなにも僕は……」
「おい、ラップ」
「どうだもなにもォ、おかしいぞォ、俺はかつてない天才ィ、お前らそれに気づかないィ」
「気付かないんじゃなくて、ただ単にお前が天才じゃなかっただけだろ」
 なんてこと言いやがる。
「俺にとってそれはアイデンティティ、崩された俺大ピンチィ」
 ゆかりはケラケラと笑って、
「ははは、だったらお前を生かした価値があったぜ」
 などとふざけたこと抜かしやがった。
「私は言ったろ? 今までのお前は死んだんだって」
「確かに言ったが……」 
「今までのなんでもできるお前は死んで、今のもがき苦しむお前が生まれた。どうだ? 新しい人生は。楽しいだろ?」
 楽しくなんてあるもんか。
 クソみてえな連中に自らを脅かされそうになる毎日だ。
 お前らに置いてかれないよう全力で走る毎日は非常に疲れる。
 その旨を伝えると、
「そりゃお前、今までだらだらと歩いてきたツケが回ってきたんだよ」
 ゆかりはあっけからんとそう言った。  


 それからの日々の中で、僕はようやくリズム感を掴めてきて、演奏の時もいちいち焦ることもなくなってきた。ラップは相変わらずだったが、もはや伸び白があるとも思えなかったので放って置いた。
 余裕が生まれてくると、周りのこともよく見え始めてくる。
 青春とシャウトは、なんとも珍妙な集まりだった。
「おい、それ寄こせよ」
「お、なんだ洋平持ってくれんのか。たま〜に優しいなお前」
「ちげーっつの。お前に持たせてたらチンタラチンタラ遅くて学校までいつたどり着けるやらわかりゃしねえ」
 ある日の放課後。
 旧校舎でこっそり鍋でもつつこうじゃないか、といつものようにふざけたことを考え、薫と鴉を留守番に置き、俺、洋平、ゆかりで近所のスーパーに買い出しに行っている時だった。
 若干顔が赤くなっている洋平をにやにやしながら見つめる。すると気付かれたようで、
「んだよ。何見てんだよ」
 洋平が絡んでくる。
「Oh、優しい洋平クゥン、青い春の予感カミングスゥーン」
「……あ?」
「それは甘い恋のヨカーン、これは甘い缶のミカーン」
 洋平が顔を真っ赤にして僕の胸倉を掴んできた。
「ち、ちちちちち、ちげーっつうの! てめえ何言って……」
「ん? 恋のみかん? ん? 何の話?」
 ゆかりが首をかしげる。
 鈍感なやつだ。まぁ、だからこその面白さがあるのだが。
 洋平はさっさと先に歩いて行ってしまった。
「あ、おい待てよ洋平〜っ」
 ゆかりが後を追う。
 あんまり早く行かない方がいいんじゃないか、と思いながらも、僕も二人の後を追った。

 旧校舎に忍び込み、教室に入ると薫と鴉が鍋を用意していた。
「おお、意外と早かったな」
「Oh,童貞キング薫ゥ、童貞の上に早漏ゥ」
「お前らが来るのが早かったつってんだよ」
「それは悪かったなァ、もっと遅れてくるべきだったぞゥ、なぁ鴉ゥ」
 何も言われずめっちゃ睨まれた。髪で隠れてよく見えないが、確実に怒りをこめて睨んでるだろう。
 なんとなしにゆかりの方を向くと、いつの間にか薫に話し掛けに行っていた。
 ……これ、よほど鈍い奴でなければ気付くだろう。青春とシャウトは、かなり珍妙な集まりなのである。その理由が……この非常にややこしい関係性だ。
 まあしかし、そこが面白くもある。
 演奏やラップの件でフラストレーションの溜まってる僕にはちょうどいいガス抜きに使えるのである。先ほどのように洋平をいじったり鴉をいじったり……ああ、なんてすっきりするのだろう。
 それにしても、青春とシャウト、ってバンド名がそのまま当てはまるような青春っぷりだ。
 僕は端から眺めていることにしよう。
 三年間という余命。
 お前らの青春を温かく見守りながら過ごしてやるよ。


 とはいえ、まるで進展しない様子を見てると何だかもどかしくなる。どいつもこいつも、もう少しつっこんでみろよ、と思わなくもなかった。
 ああしてみろ、こうしてみろと言いたくなる。特に、両想いに思われる二人に関しては。
 ……あれ?
 僕って、こんなに他人に関心を持つ人間だったか……?
 なにかが、変わり始めている気がする。
 最近ラップも自然と出てくるようになってきた。青春とシャウトの面子として、一緒に演奏することも、まるでそれが当たり前かのように。家に帰って色々な曲を聴き、何気なく耳コピしてみることも。
 これは…………。
 戸惑いながらも、僕は日常を過ごした。日常……。かつての、非日常。
 この生活が、高校卒業と同時に終わる。
 そう考えると、胸が空虚になる気がした。
 何なんだ……。
 ふと見上げると、空が見事なまでの夕焼けになっていた。その赤色を追っているうちに、いつの間にか土手にたどり着いていた。
 そこには、見知った先人が居た。
「……お? 奇遇だなぁおいおい」
 ゆかりだった。らしくもなく、土手に座り込み、黄昏ていたようだ。
「何やってんだァ、俺はただの散歩だァ」
「ん……ま、まぁちょっとな」
 よく見れば顔が赤い。夕日のせい、というわけではなさそうだ。
「ふむゥ、青春の予感だぞゥ、童貞ブラザーカオルと何かあったのかァ?」
「なっ、なんにもないけど!?」
 非常にわかりやすい。
「そういやもうすぐ先輩の卒業ゥ、奇才ゆかりの卒業ソングゥ、俺はめっちゃ楽しみにしてるゥ、そしていつも最初に聴くのはカオルゥ」
「……CDを渡したんだよ」
「Oh、つまりそれはァ……」
 ん? どういうことだ?
 CDを渡しただけでこんな狼狽するもんか……?
「……おい、お前誰にも言うなよ?」
「ん? お、オゥ、それはもちろんだァ、俺の口の硬さはダイヤモンド並みだァ」
 もじもじしながら、ゆかりが口を開く。
「……CDにな、隠しトラックを作ったんだ」
「隠しトラック?」
「そこに、ちょっと、な」
 ……ほう。
「つまりそこに愛の言葉を――」
「察しろ」
「つまりそこにラブメッセージを――」
「お願い察して!?」
 狼狽するゆかりを、にやつきながら眺めた。
 ようやく踏み出したか。僕はもどかしくてもどかしくてしょうがなかったのだが、ようやく……。
 ゆかりと薫が両想いなのは火を見るより明らかだ。これで、青春とシャウト内にカップルが生まれることになるだろう。鴉と洋平は不憫だが……しかし、僕でさえ気づいているのだ。あの二人も、薄々勘付いてるに違いない。
 ゆかりと薫が付き合ったらそれはそれで、あの二人も納得することだろう。納得せざるを得ない、と言ったところか。みんな、ゆかりが大好きだからな。そしてあのチェリーボーイのことも。好きなやつが幸せになる。それは、どれだけ喜ばしいことだろうか。複雑な気持ちもあるだろうが、結局、嬉しいという気持ちに落し込むしかない。ゆかりと薫が結ばれたくらいのことで崩れるような結束の緩さではないはずだ。
 ――僕? 僕は嬉しいとか喜ばしいとか、そんなのはないさ。また面白いことになる。そうとしか思ってないはずだ。……そのはずだ。
「一段と愉快になりそうだァ、青春の味はクリームソーダァ」
「また語呂に合わせて適当なことを……」 
 溜息を吐いたかと思ったら、ゆかりは突然河原に下り、小石を拾った。
「何してるんだ……?」
 疑問を口にしながらも、続いて河原に下りる。
 ゆかりは思い切り振りかぶり、
「届けっ!!!」
 と叫んで、石を放った。
 平たい石は川に落ちる――ことはなく、まるで水面を走るかのように何度も跳ねていく。勢いは留まることなく、目視できないところまで進んでいった。
「……すげえ」
 思わずつぶやいていた。水切りは僕も心得があるが、あそこまでいかない。ゆかりの隣に並び、川を見つめた。
「届いたか?」
「多分」
 ゆかりは達成感に溢れた笑顔をしていた。
「届いてたら、いいな」
 空から赤色が消える。深い紺が、世界を染めていく。
「……きっと、届いてるさ」
 向こう岸の姿は、もう夜の闇に飲まれて、ここからではその様子を望むことも叶わない。だけど、なんとなくわかるんだ。ゆかりの投げた石は向こうまで届いていて、ひょっこり現れた白い月の光に照らされているんだろうな、って。わかるんだ。ゆかりの想いは必ず、薫に届くって。それがいつの日になるのかはわからない。あの鈍感な薫のことだ。隠しトラックに気付かないとか、ザラにありそう。ま、その時はちょこっとヒントを出してやろう。石を押してくれたであろうからっ風のように。ちょっとくらいならお節介してやるさ。そうした方が……面白いからな。
「明日が楽しみだな、ゆかり」
「うっ……なんかすげぇ緊張してきた。吐きそう」
 恋する乙女が吐いたら色々と台無しだ。僕は苦笑しつつ、冷たくなってきた風に震えながら土手を上って行った。
「恋が実ったら教えろYO、俺はさながら恋の太陽、イエイ」
「ああ。嫌ってくらいにめっちゃ自慢してやるからな」
 しかし、ゆかりの結果報告は、永遠に訪れることがなかったのである――。



 14.RYO

「何やってんだよ、お前……」
 ゆかりが死んだ翌日、僕は彼女が事故に遭った狭い十字路に訪れていた。電柱の下に、いくつもの花束が添えられていた。
「僕を生かしたお前が、何先に死んじまってんだ。そんなの、契約違反だろうが……」
 ゆかりの訃報を聞いた時に生じた感情は、怒りだった。
「苦難を与えてくれるんじゃなかったのか? 楽しさを教えてくれるんじゃなかったのか? まだ、一年も残ってるじゃねえか。話がちげえよ。こんなひどい詐欺、聞いたこともねえよ……」
 まだお前の作った曲だって聴いてない。お前の恋の結果発表だって、聞いてないんだ。
 それなのに、突然死にやがって。
 ありえねえ。
 ありえねえよ、そんなの……。
「あと一年、どうしたらいいんだ僕は」
 突然放り出されて、何をどうすればいいかもわからない。
 ようやく、キーボードも弾けるようになった。
 ようやく、ラップでの日常生活にも慣れてきた。
 お前が作った"新しい俺"が、ようやく世界に馴染んできたというのに。
「……結局、こうだ」
 やはり世の中はつまらない。
 誰がどんなことをしようたって、変わらないんだ。
 僕はまた、元の僕に戻るだろう。
 そして、あのレールを再び歩むことになる。くそつまらねえ道を、また歩くことになる。
 ……まあ、いいさ。
 飽きたら、また死ねばいいんだ。もう、お前みたいなバカも現れねえだろうからな。……僕は、勝手にやらせてもらうぞ、ゆかり。
 僕は電柱に恨み言で供えてその場を去った。
 何の憂いもなく歩いていたはずだった。
 でも、何でだろう。後ろ髪を引かれるような気がするのは。
 ……それはまさに、気のせいだろう。
 そうに決まってる。
「……クソ」
 足元に転がっていた空き缶を、電柱に向けて蹴り上げた。缶は電柱に当たらず、空を舞って遠くへ転がっていった。
 ただ、戻るだけだ。非日常から、日常に。
「でも……」
 今の僕にとって、日常とは……どういう、ものだったっけ?
 
 青春とシャウトはバラバラになった。
 青春の神様が死んじまったからな。まあ、そうなるだろう。予想はしていた。
 頭では、わかっていたんだ。
 けれど――どうして僕は、放課後になって、旧校舎に訪れてしまっているのだろうか。
「くだらねえ」
 かつて仲間たちで鍋を囲んだ場所。暑さにやられてバカみたいに殴り合ったり、ガラスを割ったこともあったっけ。
「だから、なんだってんだ」
 もう意味のない場所だ。
 いや、元々意味なんてなかった。
 じゃあ、何で僕はこんなところにいるんだ。
 何で、いつもの位置に座って、教室を眺めているんだ。
 どうして、キーボードを用意して、鍵盤に指を置いているんだ。
 空白の教室に、音が生まれる。
 初めてみんなでやった曲だ。今はすいすい弾けているが、当時は随分手こずった。洋平のバカに文句を言われたこともあったな。それが悔しくて、僕は何度も何度も練習を……。
 一つの音だけが流れていく。
 空白が、満たされることはない。
 足りないのだ。
 僕だけじゃ、寂しい音色を奏でることしかできない。
「……何でだ」
 僕は、今まで一人でもなんでもやれた。一人で、なんだってやってきた。だというのに、どうしてこんな狭い教室一つ、音で満たすことが出来ないんだ。僕は天才で、何でもできて、何不自由なく生きてきて……。
 いつの間にか、辺りは暗くなっていた。旧校舎の電灯は古びて微かなオレンジ色を発するだけ。こんな明かりじゃあ、遠くを見渡すどころか、手元さえ見えやしない。キーボードは的外れな音しか出さなくなった。
「ダメなのか……」
 僕一人じゃ、何もできやしない。
 もしかすると、元々僕は天才などではなく、ただのバカだったのかもしれない。
 翌日も、翌々日も、その次の週も、僕は旧校舎に通い続けた。
 そんな日々を過ごして、ふと頭に浮かんだのが、「皆と演奏したい」という淡いぼんやりとした欲求だった。
 

「HEYクソ童貞カオルゥ、今日の放課後空いてるかァ?」
「……何でだよ」
「久々にお前のクソギタァ、と合わせたくなってなァ」
「気分じゃないんだ。他のやつとやってくれ」
 おいおいおい……僕は、お前以外のギタリストなんて知らねえよ。  
 
「HEYクソDQNヨーヘーYO、お前のベースが聞きてえぞォ」 
「うるせえ。てめえに構ってる時間なんてねえ」
「OHどうした天下一のベーシストォ、楽しいことは思い立ったらすぐ行動ォ」
「……ベースなんて、もともとクソつまらなかったんだ。そんなもんより、喧嘩の方が十倍おもしれえさ」
 何言ってんだよ、洋平。お前今、すげえつまらなそうな顔してるじゃねえか……。そんな顔、ベース弾いてる時はしてなかったじゃねえかよ……。

「HEYクソビッチ鴉ゥ、一発ぶちこんでみろよお前のスーパードラムゥ」
「…………無理だ」
「OHつれないぜ無口のドラマー鴉ゥ、お前のかっこいいとこ見せてくれYO、HEY!」
「……ボクは、お前ほど強くないんだ。……じゃあな」
 僕が強いって?  ははは、鴉。お前いつからそんな冗談上手くなったんだ?
 強かったら、こんなことしてないって。こんな、何かに縋りつくような無様な真似、しないだろ?
 
 
 僕が花束を持って電車に揺られ、長野の山間に向かったのは、ちょうどお盆を迎えた頃だった。
 世の高校三年生は受験に追われ、休む間もなく勉強しているのだろう。まあ、僕も勉強はしているが……ちょっとくらい休んでも平気だ。天才……いや、頭が良いからな。
 車窓から映し出されていた田園風景は、やがて木々の姿のみに変わっていく。目的地は、もう近くにある。荷物を下し、降車に備えた。
 着いたそこは無人駅だった。僕以外誰もいない。ひっそりとした山村のようだ。切符を改札に通し、外に出る。青々としげった木々に出迎えられる。やかましく鳴くアブラゼミが居なかったら、もっと寂しさを感じる場所なのだろう。
 ベンチに腰掛け、文庫本を取り出す。
 しばらく経って、車の音が聞こえてきた。
「おうおう、待ったかいのう?」
 軽トラに乗った爺さんが、僕に手を振る。本を仕舞い、彼の元に近づいた。
「いえ。全然」
「何を読んでたんだ?」
「川端康成の小説です」
「ほう。古都かな?」
「いえ、雪国を」
「ほっほっほ、涼しい気持ちになれたかね?」
「アブラゼミに邪魔されましたよ」
 助手席に座り込み、シートベルトを締める。
「それでは、よろしくお願いします――桜井さん」
「ああ……遠いところからわざわざすまないね……」
 僕は、ゆかりの実家を訪れていた。
 彼女は元々祖父母と両親とで長野に暮らしていたらしい。しかし親が東京に転勤することになり、長野にも東京にも比較的近いであろう群馬に越してきたのだそうだ。それでも両県ともに電車で1、2時間はかかるであろう距離だが。
 そのような事情もあり、桜井家の墓は長野の山間の中にあった。しかし、まさか娘であるゆかりが一番最初に桜井家の墓に入ることになるとは、誰も予想だにしていなかったし、考えたくもなかっただろう。
「あの子は昔からやんちゃなとこがある娘でのう……皆に迷惑などは掛けてなかったかい?」 
「そうですね。正直に言えば、迷惑の塊のようなバイタリティに溢れたやつでしたよ」
「だろうねえ……。こんな何もないところで育ったから、のびのびとし過ぎてしまったのかもしれないのう」
 ゆかりの故郷……。見回してみても、畑と林しかないような場所だ。なるほど、道理で野生児の如く元気溌剌なわけだ。あいつが野を駆け山を駆ける姿が目に浮かぶ。今にも飛び出してきそうだ……。
「安心したよ」
 穏やかな声で、ゆかりの祖父さんは呟く。
「安心?」
「この村じゃ、あの子と同年代の少年少女は居なかったからね……。山の麓の小学校には通っていたものの、反りが合わないのか喧嘩ばっかでのう」
「ゆかりが……」
「ここでこれなのだから、引っ越した先ではどうなのだろう、と心配したものだが」
「数はそんなに多くなくとも、心を通じ合える友達は確かに居ましたよ。あいつの死に塞ぎ込んでいるくらい……そいつらは、ゆかりのことが好きでした」
「そうか……」
 やがて、目的地にたどり着いた。小さな墓地だった。花束を手に持ち、軽トラを下りた。
 こうしている今でさえ、僕はどうして彼女の墓を訪れようと思ったのか分からなかった。一人で旧校舎でキーボードを弾いている時に、ふと墓参りを思い立ち、気付けば電車に身を任せていた。
「わざわざ送っていただいてすみません」
「いや……むしろ来てくれてありがとう。あの子も、きっと寂しかったことだろうから……」
「……塞ぎ込んでいるあいつらも、いずれは来てくれると思います」
「そうか……そうだね。そうだと、あの子も喜ぶだろうね……」
 目を細めて、老人は空を見上げた。僕も見上げる。雲一つない、晴天だった。
「わしはこの坂を下りたところで畑仕事をしているから。終わったら声を掛けてくれるかの」
「はい。わかりました」
 祖父さんと別れ、彼女の墓を探した。
 墓地をうろつく中で、桜井家の墓はすぐに見つけることができた。
 その黒い墓標を見たとき、身体が一瞬こわばった。何故だか、鼻の奥がつうんとした。
 ゆっくりと、彼女の墓へと近づく。
 墓の前にしゃがみこみ、花を活け、両手を合わす。そして、顔を上げた。
 そこに、ゆかりはいなかった。
「あ……」
 当たり前のことだった。
 旧校舎にも、電柱の下にも、長野の墓にだって、彼女は居ないのだ。
「あれ……?」
 もう、二度と会えないんだ。
 彼女はどこにもいないんだ。
「ああ、そっか……」
 その時、初めて僕は自分がここに来た理由に気付いた。
「お前……ほんとうに、死んだのか……」
 墓標に刻まれている、彼女の名前をなぞる。
「なあ僕さ、ゆかり……お前が死んだこと、知ってたのに、知ってるはずだったのに。何でかさ、ここに来れば、お前に会えるって気がしてたんだ」
 もう居ない人に、僕は呼びかける。
「でも……やっぱり居なかったな。お前、本当に、本当に居なくなっちまったんだな……」
 胸がひどく痛んだ。
「ああ……嫌だなぁ、そんなの。お前が居ないなんて、嫌だ。すっげえ、嫌だよ」
 俯き、声を震わせた。
「お前が死んで、みんな居なくなっちまった。もう、あの教室に居るのは僕だけだ。一人になっちまった。そしたらさ、何でだろうな……下らねえと思ってたのに、いざ居なくなっちまうとさ……すっげえ寂しいんだ。一人で教室行ってさ、キーボード弾きながら思っちまうんだ。早く、みんな来ないかなって。早く、みんなと弾きたいな……って」
 抑え込んでいた感情が、次々に流れ出していく。
「元に、戻らねえんだ。お前と出会う前の僕に、戻れねえんだ……っ。一人が、すっげえ寂しいんだ。みんなが離れ離れになるのが、すっげえ悲しいんだ。苦しい。すげえ苦しいよ。だけど、昔の僕みたいに、自殺なんてできねえんだ。死にたくない……っ。死んだら、みんなと会えなくなっちまう……! お前みたいに、会えなくなっちまう。そんなの、嫌だ。嫌なんだぁ……」
 その時、鍵の外れる音がした。閉じていた空間から、何か熱い奔流が吹き出した。それはかつては存在しない空間で、それはかつて在りもしない――"想い"だった。

「だって僕はお前らが、お前らのことがっ――どうしようもなく、好きなんだよっ! 青春とシャウトが、誰よりも好きなんだよぉ……っ!!」

 地面が濡れる。雫が、いくつも流れ落ちていく。
「お前の、せいだぞゆかり。お前が、僕を変えたんだ。なんで、あの時僕を生かしたんだ。なんで、死なせてくれなかったんだっ。そしたら、こんな苦しみ、味わうことなんてなかった。こんな悲しみ、味わうことなんてなかったんだ……!」
 ただ、みんなと一緒にバンドをやれればよかった。これからもずっと、あのバカな奴らと共に居る。それだけでよかった。
 もし、事故が起こらなかったら、きっと薫とゆかりは付き合ったはずだ。そしたら、僕はめいっぱいいじっていたのだろう。洋平と鴉は複雑そうな顔をしながらも、僕と一緒になって二人を冷やかすだろう。薫は僕らに抵抗するが、すぐに負ける。ゆかりは意外とウブなところがあるから、きっと顔を真っ赤にして俯いてしまう。そうして二人は照れながらも目を合わせて、困ったように笑うんだ。そうしたら僕らもしょうがないから笑ってやろう。笑って、二人を祝福してやるんだ。
 それは、なんて楽しい未来だろう。
 叶わないと知った今、なんて眩しく見える光景だろう。
「なあ、頼むよ、ゆかり……っ。帰ってきてくれよぉ……っ。みんなをっ、青春とシャウトをっ、元に戻してくれよぉ……っ!」
 叫び声は、しかし、届かない。
 僕の慟哭は、ただ空に飲み込まれていく。
 そうして僕は、ゆかりの祖父さんが様子を見に来るまで、彼女の墓前で泣き続けていた。 


「送っていただき、ありがとうございました」
 駅の前。軽トラックに乗る祖父さんに頭を下げた。
「いいんだよ、そんなことはね。……もう、大丈夫かい?」
「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」
「いいんだよ。思い切り泣いていいんだ。泣いて泣いて、明日のことを考えられるようになれば、それでいいんだ」
「明日の、ことを……」
「そうさ。わしらは生きてるんだ。生きているやつには明日がある。否応にも、明日ってのはやってきちまうんだ。だから、考えなくちゃならない。今悲しんで、明日どう笑うかを」
 帰りの電車の中、祖父さんの言葉が頭をぐるぐると回っていた。
 未来のことなんて、考えたこともなかった。精々レールの先のことぐらいだ。レールを外れた今、目の前には未知しか広がっていない。そのことを考えるなんて……。
「僕はどう生きるべきなのだろう……いや、違うか。どう"笑う"べきなのだろう……」
 どんなに嘆いたってゆかりは帰ってこないし、めそめそしてても青春とシャウトは元に戻らない。それは今日の一連の出来事で痛感したことだ。
 であれば、兎にも角にも行動しなくてはならない。
 僕は、青春とシャウトの解散に納得ができない。
 みんなと離れ離れになりたくない。
 ……とにかく群馬に帰ったら色々考えよう。
 そうやって未来のことを考えていれば、きっと、この胸の痛みは少しぐらいごまかせるだろうから――。


 その日から、一日に必ず薫、洋平、鴉の三人の最低でも一人とは積極的に関わるようにした。青春とシャウトが、その面々が、少しでも繋がっているということを忘れないように。青春とシャウトが、いつの日かまた再結集できるように。
 そうやって関わってみると、各々が決して青春とシャウトを無視して生きれていないということが感じられた。逆に意識しすぎている。
 何か一つ考え方を変えることさえ出来れば、再結集は決して難しくないように思われた。ただ、その考え方一つを変えるのがかなり難しいことなのである。それも三人分。
 どうしたもんか……と思考に耽りながら、答えは出ず、季節は冬を迎えた。
 厳しい寒さと焦りが、ただでさえ鈍重な思考を阻害した。非常にむしゃくしゃした。
 ある日、薫と洋平が喧嘩した。
 少し会話を聞いていたが、どうやらゆかりのことらしい。あの二人がゆかりのことを好いていたことは今さら言及するまでもない。しかし、まさかぶつかり合うとは……。
 その日の放課後は受験勉強に勤しんでいたのだが、二人の喧嘩によってさらに募りゆく焦りに、どうも落ち着かなくなり、気付けば外に飛び出していた。
 駆け、駆け、ひたすら駆けた。数百メートル走り続けて息が続かなくなり、倒れ込む。足が熱くなり、筋肉が軋んだが、不思議と焦燥感が消え失せていた。
 煮詰まった時は、むしろ身体を動かして思考をリセットした方がいいのかもしれない。
 翌日から放課後はランニングに時間を費やし始めたので、無駄に体力がつき始めた。しかし、その時間そのものは無駄ではなかった。ランニングを終え、自宅でシャワーを浴びた後、非常に頭がすっきりし、物事をより効率的に考えられるようになったのだ。やはり僕は天才かもしれない。
 とはいえ、思考がゴールに向かうことはなかった。終着点のあるランニングと違い、同じところをぐるぐるぐるぐると走り続けているだけなのだ。やはり僕はバカなのかもしれない。
 しかしそう考えてみると、思考に身を入れるのは無駄なのかもしれない。下手に考え続けても、結局屁理屈しか浮かばないのだ。そんなものであいつらをバンドに引き戻せるのか? そもそも僕はなんでバンドをすることになったんだ? 
 ――その原因たるものはゆかりだ。ゆかりが、死のうとしていた僕を生かしたからだ。僕を、RYOに生まれ変わらせたからだ。
 僕は、彼女に説得されたわけじゃない。
 ただゆかりが好き勝手言って、僕を無理矢理引っ張り上げただけだ。
 あいつはきっと、何にも考えてなかった。
 ただ"そうしたい"から、僕をRYOにしたんだ。
 それは、思わず彼女に胸に湧いた衝動だったのだろう。しかし、だからこそ僕も"生きる"衝動にやられたんだ。
 なんだかおかしくなってきて笑った。そしてベッドに寝転がり、惰眠をむさぼった。
 僕は、考えるのをやめた。
 

 ――そして翌日、公園で佇む薫を見つけた僕は、"キャッチボールをしたい"という衝動のままグローブを家から引っ張り出し、衝動の赴くままに薫をキャッチボールに巻き込んだ。
 薫の後悔の念を聞きだした時、僕の頭に祖父さんの言葉がよぎった。
『そうさ。わしらは生きてるんだ。生きているやつには明日がある。否応にも、明日ってのはやってきちまうんだ。だから、考えなくちゃならない。今悲しんで、明日どう笑うかを』
 なんて難しいことなのだろう。
 慟哭の果てに、笑顔を浮かべることなんて、今の僕にはまだできそうもない。
「日常はこれからも続いていくと信じていて……そうしたらあいつは、ゆかりは……死んじまった。もう、手は届かない。その後悔が、胸を突き破るくらいの苦しみを俺に与えるんだ。そして、あいつへの想いを言葉にしようとすると気付くんだ。もう、それが過去形でしかないことに。それが、無性に悲しくて、無性に辛いんだ……」
 薫の言葉に、ほんとその通りだよな、と頷きたくなる。僕だって悲しいさ。僕だってすげえ辛いよ。
 でも……それじゃダメなんだってよ。
 虚しくなって、人生を諦めようとした時、ゆかりが僕の手を無邪気に握り、無理矢理引っ張っていったんだ。「こっちの道は、すげえ楽しいぜ?」ってさ……「そんなところで立ち止まっちゃ、もったいないぞ」って……。
 確かにその通りだったんだ。
 あいつに連れてかれた新しい道は、とんでもなく面白くて、楽しくて……。
 だから、ここで立ち止まっちゃダメなんだよ、薫。
 せっかくあいつが連れてきてくれたんだ。
 とりあえず、歩いてみようぜ。
 僕もいるからさ。
 僕は天才だが、同時に、弱虫なんだ。
 一人じゃおちおち歩いてもいられない。
 だから、頼むよ。
 一緒に、歩いてくれ。
 きっと、楽しい事が待ってるはずだから――。
「僕ら、もう一度叫んでみないか? 僕らの持ってる最高の楽器で」 
 
 ●

 紆余曲折を得て、ようやくゆかりの死によって分かたれた僕らが、また一つになったんだ。
「お願いします」
 何度だって、下げてやる。
「お願いします……っ」
 この願いが叶うまで。
「お願いしますっ!!」
 この想いが届くまで。
 あいつらのためだったら、なんだってやってやる。一人でだって、なんだって……。
「お前は」
 土曜日の午後だった。部活終わりで、タバコを吸っている顧問のところへ頭を下げていた。
 僕のしつこさに辟易としたように、彼は口を開く。
「卒業式を台無しにしようとしているんだぞ。お前らの自己満足で、卒業生全員の式をめちゃくちゃにしようとしている」
「わかってます」
「わかってないだろ。だからそんな無茶苦茶なことが言えるんだ」
「……僕らは、卒業証書をもらう多くの卒業生よりも、それを受け取ることのできないたった一人のことを考えている……ただ、それだけなんです。みんなにはそれだけに思えることでも、僕らにとっては重大な事なんです。彼女のために何かをしたいんです。それが例えどんなに多くの人間の迷惑になることでも……卒業式をジャックすることが、あいつの夢だったから……それを、叶えたいんです。彼女じゃ叶えることのできなくなったそれを、彼女の卒業証書とするために……僕らは、演奏しなくちゃいけないんです」
「……ふん」
 顧問はタバコを吸いがら入れに押し付け、その場を去ろうとする。
「お願いします」
 その背に、僕は叫んだ。
「僕たちに、彼女との時間をください! お願いします!!」
 しかし足音は止まらなかった。顧問が、僕から遠ざかっていく。
 ……また、だめなのか。
 いや、それでも僕は、やらなくちゃいけないんだ。
 一人でも、僕は……僕は……。
 
「お願いします!!」
 
 その声は、前方から響いてきた。

「俺たちを、見逃してください!」

 思わず、顔を上げた。
 顧問の前に、一人の男子生徒が立ちはだかり、頭を下げていた。
 それは――
「か、薫……っ」
 どうして、お前がここに……。
「チッ、黒崎、お前もこんなバカなことを」
 顧問が苦々しい口調と共に溜息を吐く。薫が、毅然とした態度で顔を上げた。
「そうです。俺はバカなんです。ついでに言えば、そこに居るRYOもバカだし、鴉もバカだし、洋平だってもちろんバカです。そして何より……ゆかりは、誰よりもバカだったんですよ。だからバカな願いを持った。卒業式に俺たちで演奏して、みんなを泣かせてやるだなんて……。その一番のバカは、一番早く死んでしまった。願いを叶えることもなく……もう、あいつがバカをやることもない。不完全燃焼で、あいつは死んじまったんですよ。そんなの……やるせないじゃないですか」
「だからといって、教師として許すわけにはいかない」
 薫の脇を抜けようとする。しかし、薫の横を固めるように、二人の生徒が道を阻んだ。鴉と、洋平だった。
「声が小さくて、ボクの声は天国まで届かないんです。でも、ドラムがあれば、皆の演奏があれば、きっとゆかりまで届くんです。お願いします。叫ぶ機会をください、先生」
 拙い言葉を紡ぎ、鴉が頭を下げる。
「オレたちバカに、死んじまったバカに、もう一度だけ、バカをやらしてくれ」
 洋平も彼女に続いた。
「「「お願いします!!」」」
 三人が頭を下げる姿に、顧問は困惑した様子で固まった。僕も、しばらく声も出せず、立ち尽くしていた。
 胸が熱い。心の底から、ものすごく熱い何かがせり上がってくる。
 ふと、一人旧校舎でキーボードをいじっていた日々が目に浮かんだ。
 一人じゃ、何も出来なかった。何の感動も生まれなかった。ただただ鬱屈な日々を過ごした。だから、僕はみんなを求めた。みんなと一緒に一つのことをがむしゃらに頑張る……なんて、そんな日を夢見た。
 そして――あの日夢見た光景は、今、目の前に広がっている。
 もう、キーボードの機械音だけの世界じゃない。
 聴こえる。
 鴉の押し留められた声を代弁するドラムの叫びが。
 洋平の今にも爆発しそうな激情を宥め、淡々と吐き出していくベースの息使いが。
 薫の青臭く不器用な想いを彼の望む形で弾き出していくギターの声が。
 教室の隅、寂しそうに鍵盤に手を置いていた僕はもう居ない。
 何もかもがつまらなくなって自殺しようとした僕はもう居ない。
 そうだ。もう、僕は……僕の、人生は――。
 その時、そっと背中を押された気がした。それは、きっと吹き込んできた風だったのだろう。でも、僕にはなんとなく、ゆかりが背中を押してくれたような……そんな気が、少ししたんだ。
 風に押されるまま、顧問のもとまで歩いていき、頭を下げた。そして、想いの全てを言葉に籠めた。
「先生……。僕は、昔自殺を図った時があります。この世がなんだかつまらなくて、生きている意味なんてないんじゃないかって。そんな時、ふらっとゆかりが現れて、僕に楽しい道を提示してくれたんです。そうして、僕は、こいつらに出会えた。この、最高の仲間に……会えたんです……っ」
 声が震えた。
「本当に楽しくて、楽しくて……っ。死にたかったことなんて、すっかり忘れてしまうほどだったんです。生きるのが、楽しかった。生きていて、よかった。死ななくて、本当によかった……。僕は、ゆかりのおかげで、そう思えるようになったんです……っ。でも、それに気付いたのはゆかりが死んだ後で、僕は、ゆかりにそれを伝えられなかったんです。お礼すら言う間もなく、あいつは、死んじまったんです。だから……お願いしますっ。僕に……っ、機会をください!」
 気付けば涙が流れていた。ぼろぼろと、雫が床に伝った。
「僕に、あいつに恩返しをさせられる機会をください……っ。楽しい日々をくれたゆかりの為にっ、最高の仲間と出会わせてくれたゆかりの為にっ、どうか、僕に、僕たちに、彼女の夢を叶えさせてくださいっ!」
 なあ、ゆかりよ。
 僕には、伝えたい言葉がある。  
 僕には、返したい恩がある。
 だけど、それは多すぎるから。それは積もり積もって山ほどあるから。
 だから、僕は、僕たちは、シンプルにそれを渡すよ。
 きっと届ける。
 君がどこに居たって、構わず届けてやる。
 いらないと言っても、押し付けてやる。
 それが僕らだ。
 薫がさっき言ってたけどさ。
 僕らはどうも、君に似て、とてつもなくバカなんだってさ。
「…………当日」
 そんな僕らを相手にするのがバカバカしくなったのだろう。
「当日、何があっても、俺は知らん。ウチの部のやつが何をこそこそやっていようが、お前らが吹奏楽部の演奏するスペースで何をやっていようが、俺は知らん。もう、面倒だ」
 顧問は溜息を吐き、
「勝手にしろ」
 と言って去って行った。
 僕らはしばらくワケがわからず呆然としていた。しかし、やがてその言葉が彼なりの「許す」ということであると気付き、
「よっしゃあああああ!!」
 と自然に4人が叫び、抱き合っていた。
「まったくRYOテメエ、ずっと練習サボってると思ったらいつの間にボウズにしやがって」
 洋平が僕の頭を乱暴に掻きまわした。
「あんまりのサボり率を不審に思ってお前の後輩に事情を聞いてみたら……ったく、お前一人だけにカッコつけさせるかっての」
 薫が僕の鼻を摘み上げた。
「水臭い。バカ」
 鴉が僕の足を蹴った。
 まったく、好き勝手言ってくれるぜ、このアホども――もとい、マイブラザーズ。
「Oh,俺としたことがァ、こりゃ末代までの恥だァ」
「その恰好でラップしてもな」
「バカなオレでもわかる。これが……キャップってやつだな!」
「ボソボソ(オイバカ、もしかしてギャップって言いたいのか)」
「Hey,史上最強のバカ洋平、CとGの違いわからねェ」
「あ? たかが右上に点々があるかないかのちげえじゃねえか。オレは点々なんていらねえんだよ。そんな小さいお節介いらねえんだよ」
「こいつ何言ってんだよ……」
「ボソボソ(こんな昆虫みたいな脳をしたやつと同じバカ扱いされたのが悔しくてならないぞ)」
「……ははっ」
 僕は思わず普通に笑ってしまった。
 やっぱり、こいつらと居ると楽しい。
 本当に、よかった。
 みんなが駆けつけてくれて、本当によかった。
 こんな仲間に出会えて、本当によかった。
 生きていて、本当によかった。
「Hey,ブラザーたち」
 こいつらと、またライブができる。
 こいつらと、ゆかりに向けて叫ぶことができる。
「ほんとうに、ありがとうな」
 僕はすごく嬉しくて嬉しくて、嬉しすぎて――笑いながらも、涙はずっと止まらなかった。



 15.青と春

 学校では卒業式の準備に全生徒が駆り出されていたが、俺たちはフけて最後の練習をするべく、スタジオに集まっていた。
 RYOによると、機材の準備はこっそりと後輩がしてくれているらしい。そこに俺らが混じったら、かえって他の教師たちに疑われてしまうから(許してくれているのは吹奏楽部の顧問だけだからな)、むしろ居ない方がいいのだという。しかしだからと言って卒業式の準備をフケるのもどうだろうと思いもしたのだが、まあ俺ららしくていいか、と結局楽器を担いでスタジオに行き着いていた。
「なあ」
 チューニングを終え、さあ弾くぞ、と皆が気を引き締めている中、俺は声を掛けた。
「卒業したら、みんなどうするんだ?」
 気になりながらも、今に至るまで聞けなかったことだった。
「進路のことか?」
「ああ」
 俺が頷くと、洋平は苦笑いを浮かべた。
「そうさなあ……オレは、まあお前らがいつも言ってるようにバカだからな。進学はしねえよ。知り合いの伝手で、ドカタでもやるつもりだ」
「Oh、Year、お前ほどヘルメットと作業着が似合うやつぁいねえぜェ、工事現場で見かけたら俺のラップで送るぜェ、SO、天才ラッパー最高のエールをYO」
「いらねえっつの。もしクソラップを囀るテメエを見つけたらアスファルトの一部にしてやるからな」
「そんときゃ是非とも名付けてくれYO、これがカリスマラッパーRYOロードォ」
「ボソボソ(雑草も根付くのを嫌がりそうな道だな)」
 進路一つでこのバカな会話だ。まったく、こいつらと練習するのがこれで最後だなんて、忘れそうになる。
「……まあ、よ」
 頬をかきながら、洋平は照れたように笑った。
「オレは町のどこかに必ずいる。そこで道を、家を、町の何かを作り続ける。だからよ、将来的にお前らがどこか遠くに行っても……オレは、変わらず居るからよ。だから……ああ、くそ、言葉がまとまらねえな、クソ。こういう時、バカなのが嫌になるぜ」
「……いいや。なんとなく、わかるよ」
 なんだか俺まで照れくさくなるが……。
「お前がいつでも俺たちの故郷に居続けてくれるなら……故郷を、守り続けてくれるなら。それなら、安心だよ。安心して、帰ってこれるよ」
「……おう。ゆかりの思い出ごと、守り続けるよ。ゆかりの思い出と共に、お前らを待ち続けるよ」
「洋平……」
 誰よりもゆかりと長い時間を過ごしていた洋平。だからこそ彼女を失い、荒れに荒れた洋平。
 そんなこいつの顔に今あるのは、熱いゆかりへの想いと、静かな一つの決意。
 ったく、男前な顔をしてやがるぜ。
「ああ、くそ、恥ずかしいな。おい、鴉。今度はお前の番だ」
「ぼ、ボク、か」
 突然話をふられ、鴉はたじろぎながらも答える。
「ボクは……東京の大学に行くよ。まだ、受かるかわからないし、受かったとして、そこで自分が何をできるのかわからないけど……それにそこには、ボクの知っている人は誰もいないけど……」
 でも、と鴉は決意を以て顔を上げた。
「でも――頑張ってみる」
「あ……」
 その言葉に、脳裏によぎる記憶があった。
 もしかして、鴉は……。
「鴉が東京、ねえ……よくもまあそこまで自分を追い込んだな」
 洋平は皮肉などは一切なく、純粋に感心しているようだったが、
「うっ……や、やっぱりそう思うか。ボクも正直無茶しやがって自分……て今から思ってる……」
 鴉は項垂れて弱気を漏らした。先ほどの決意はなんだったんだか……。
「HEY、クソドラマー鴉ゥ、お前は持ってるファッキンドラムゥ、Year、それでやつらをぶっとばせェ」
「……ああ。まあ、困ったときはこいつを頼るよ。そうしたら、きっと色んな人と出会えると思うから……。みんなと出会えたように、きっと……さ」
 そう言って、スネアを叩き、小さく笑った。
 その顔を見て、俺は先ほどの考えを改めた。鴉が、あの時の唯一の"常連"だったかもしれない、ってこと。
 鴉は、彼女じゃない。
 空を彷徨えるような迷い鳥は、もういない。
 こいつは牙を持った立派な一羽の烏だ。向かい風の中でも、力強く、自由な空で飛び続けることだろう。
「ボクの次は、RYOだ」
「Oh、聞きたいか俺の遥かな野望ォ、耳をかっぽじってよく聞けこの野郎ォ、ついでに最近ハマってるぜ相撲ォ」
「そういうのいいから」
「相変わらずユーモアが足りんぜクソ童貞薫ゥ、新しいことやれば何かが変わるゥ、とりあえずお前は回しをつけるゥ」
「ほんとそういうのいいから」
「フンッ感じろ俺のビバビートォ、照れ屋の俺は恥ずかしいんだYO、真面目に語っちゃドントRYO」
「……で?」
 俺は憮然として問いかける。
「お前はこれから何をするんだ?」
「……俺は、医者になるYO そうするYO」
「医者?」
「俺はそれが嫌だったァ、だからなったぜクソラッパー、それでも俺は医者になるゥ、音楽ではなくメスをとるゥ、SO、それは何故かァ……」 
 RYOは突然ラップを止め、サングラスと帽子を外して、俺らに向き直った。坊主頭が露わになる。
 普段は飄々としているRYO。
 でも、俺は、俺たちは知ってる。
 こいつは、誰よりも熱い心を持っている男なんだ。
 そんなRYOが居たから。だから俺は、俺たちは、前に進めたんだ。
「……僕は、ゆかりに命を救われた。いや、捨てようとしたら拾われた、と言った方が正しいかな」
 口を開いた彼は、俺たちの知っているRYOではなかった。
「でも、彼女のおかげで、色々なことがわかった。生きるっていうことは、すっごい辛くて、すっごい楽しいんだってこと。死ぬなんてもったいない。死んだら、すべて終わりだ……。それを、伝えたい。僕が、死にそうな人を助ける事で、誰かを生かすことで、伝えてあげたい。そのために、ここを離れて医大に行くよ。ここだとやっぱり僕は俺……RYOでしかないからな」
「じゃあお前は……RYOを、捨てるんだな」
「いや、まあ、来栖 良太としてお前らと会うのはなんだか気まずいというか今さらという感じがするからな。だから、SO、続けるぜお前らの前ではクソラッパーRYO、考えたけれどこれもやっぱり俺なんだYO、俺は俺の思うままに生きるぜ、SO、俺は目指すぜ天才ラップドクターRYO、ラップと共にメスを握るぞォ」
「さっきと言ってることがまるでちげえじゃねえか……」
 まあ、でも。
 RYOは、やっぱりRYOじゃなくっちゃな。
「NEXT、ファッキンギタリストォ、お次は薫の番だYO」
 RYOがラップと共に指をさす。三人が、俺を見つめた。
「俺、か」
 俺は、洋平、鴉、RYO、三者の顔をそれぞれ見渡し、そして、言った。
「俺はな……浪人する」
 三人は――溜息を吐き、項垂れた。
「お、お前……オレが言うのもなんだが、バカか」
「ボソボソ(ほんと締まらないやつだな……)」
「最後まで呆れさせるぜファッキン薫ゥ、何でお前を最後に回したと思ってんだクソ野郎ゥ、ちょっとは良い事言えバカ野郎ゥ」
「う、うるせーよ! これでも前進したんだ! 今までは何も考える気が起きなかったけど、色んなことを通して、やっぱり俺もこれからのことを考えようって思えたんだ! だから自分のこれからのことを考えながら浪人するの! これから考えるの! ほら、成長だよ成長!」
 しかしやはり三人から漏れたのは溜息だった。
「あーもう! そんな呆れた顔すんじゃねーっつの! 練習だ! 練習すっぞバカども!」
 こうして俺たちは楽器を手に取る。
 最後の練習。
 最後の青春。
 でも――何故だろうか。俺は、この面子での演奏が、明日で最後とは到底思えなかった。
 俺たちは点々バラバラに生きてきて、そうだと思えばゆかりに無理矢理引き合わされ、そして彼女の死によって分かたれた。
 しかし、やはり俺たちはまた集った。ゆかりという核を以て、再び集った。
 その俺たちが、これでまた離れ離れになる?
 いいや、そんなことはありえないだろう。
 だって、俺らしかいない。
 こんなバカな奴らは、こんなクソな奴らは、こんな、こんなに……ゆかりのことを好きな奴らは。俺らを置いて、他に居るわけがない。
 だから、これが俺たちの最後の練習、ってわけじゃない。
 これは、俺たちの"青春においての"最後の練習。
 きっと青春が終わっても、俺たちは――。
「よし、始めるぞ!」
「いつでも」
「どっからでも」
「Oh,Year,地獄の底でも!」



 スタジオ練習が終わった後、俺は忘れ物を思い出し、一人学校に戻った。
 校舎に、生徒の姿は見られない。午前放課ということで、皆さっさと思い思いの場所へ足を向けたのだろう。
 一人で歩く廊下。俺の足音しか響かない。
 僅かに空いた窓から風が流れ込む。冬の厳しさはやや鳴りを潜め、春の訪れを予感させる心地よい風だった。
「もう、春か……」
 ふとゆかりの顔が頭に浮かんだ。春は、あいつにぴったりの季節だと思う。明るくて、あたたかくて……始まりを感じさせられる。
 俺たちの物語は、青い空の下、春みたいなあいつに出会って始まったんだ。
 そうだ。
 見つけに行こう。
 自然と足が動き出す。
 彼女の足跡を見つけるために、歩き出す。
 ――教室。
 三年生の教室。そこには誰もいない。誰かの痕跡はもうない。ただ机が無造作に並べられている。そこには誰の荷物も掛けられていない。卒業を前に、俺たちの居たおもちゃ箱は空になってしまった。
 ここに、ゆかりはいない。最初から、いなかった。
 ――体育館。
 渡り廊下を進み、体育館に入る。館内には何人かの先生と生徒がちらほら見えるだけ。ここは汗水垂らした場所だった。よく昼休みにゆかりやRYOとパンを賭けてバスケしたっけ。
 でも、俺たちの運動した思い出は、別れの儀式に覆い隠されている。シートが敷かれ、パイプ椅子が無数に並んでいる。
 まだ、ここじゃない。
 ――グラウンド。
 靴に履き替え、外に出る。よく走らされた。ゆかりが色々無茶苦茶やったせいだ。巻き込まれた俺らまで怒られて、校庭10週を言い渡されたりした。だからグラウンドにはいい思い出がない。
 ああ、そういえば。ゆかりは罰をフケてたな。
 ここにも、ゆかりはいなかった。
 ――旧校舎。
 ここには……思い出が多すぎる。 
 入った瞬間から、あいつの足跡がたくさん目に入る。それが無性に沁みる。
 階段を上り、俺は屋上を目指した。木造故にギシギシと一歩踏み出す度に軋みを上げる。こんな不安になるボロ校舎であんな無茶ばっかしてたのか、俺たちは。そう思うと、俺たちを見守り続けてくれたこの大きな老人に感謝の想いが湧いてくる。
 ……ありがとう。
 そして俺は、錆びついた屋上の扉に手を掛ける。
 
 眩い、赤だった。
 
 とても美しい空が、俺を出迎えた。綺麗過ぎて、とてもはっきりと目を開けていられない。
 心奪われる様な景色。しかし、既視感を覚えた。どこかで……。 
 ああ。
 そうだ。
 あの日の、景色だった。
 あの、赤いビー玉を通して望んだ……あの景色だ。
 ずっと見たいと思っていた。
 いつの間にかこの目は曇ってしまって、ビー玉を通しても見ることが出来なくなってしまった。
 ギターと出会うまでの俺に、逆戻りしていたんだ。
 でも……そうか。この、景色は……何かを通さなくても、見ることができるんだな……。
 そうか……。
 そう、なっちまったんだな……。
 それはほんとは喜ばしいことで、嬉しいはずのことで、だけど……俺の胸は強く締め付けられる。
 切なさを抱えて、旧校舎内に戻り、俺たちがいつも居た教室に入った。
 そこにもゆかりはいなかった。ここまで回っても会えないなんて、あいつ、どこかに隠れてるのか。
「ゆかり……」
 会いたい。
 会いたいよ。
 だけど、しょうがねえ。お前と会うのは、明日に取っておくことにしてやる。
 チョークを手に取り、黒板の前に立つ。
 そこに、招待状を綴った。

 ○yukari

 私は、屋上から薫を見つめていた。あの日、彼の前で泣いてしまった時から、できるだけ姿は見せないようにしていた。
 私は死んだのだ。ここにいちゃいけない存在なんだ。なのに、嬉しくて……薫と話せるのが嬉しくて……その奇跡に甘えた結果、みっともない姿を彼に見せることになった。死んでしまった悲しみを、よりにもよって薫にぶつけてしまった。
 わかってたのに。
 彼らもみな悲しんでいることを。わかってたはずなのに。
 死んでからずっと、彼らを眺めていた。青春とシャウトが、私の死に端を発して別たれていくのを、ただただ見ていることしかできなかった。胸が痛かった。大事な人たちが悲しみにその身を沈めていく姿を前に、何もできないなんて。私は、そういう悲しみや虚しさが嫌いだったから、青春とシャウトの面々を集めたのに。
 私の存在は、もう、みんなに悲しみを与える事しかできないんだ。
 だから、会っちゃだめなんだ。薫に。ただ、お互い空しい思いをするだけなんだから。
 それでも……彼の姿を見ると、胸が熱くなる。目が離せなくなる。話したくなる。
「薫……」
 会いたい。
 会いたいよ。
 もう、卒業しちゃうんだ。薫は、居なくなってしまうんだ。二度と、会えなくなってしまうんだ。
 死にたくなんて、なかった。
 ずっと一緒にいたかった。
 涙が溢れそうになるのを堪え、薫の背中をじっと見つめた。彼は、体育館、グラウンドと歩いた後、旧校舎に入って行った。
 誰もいない学校で、一体あいつは何をしてるんだろう。
 卒業を前に、思い出巡りでもしているのかな。そうだとしたら、何とも薫らしい。青臭いあいつらしい行動だ。
 でも――私は、考えてしまう。薫は、私を探しているんじゃないか、と。そうであってほしいと。
「……最低だ」
 薫に会っちゃだめだって、わかってるのに。私の存在は、ただ悲しみの塊でしかないんだって、わかってるのに。薫に悲しんでほしくないって、思ってるのに。なのに、それでも、私のことを気にしていてほしい、だなんて……。私という存在にとらわれていてほしい、だなんて……。
 もはや、悪霊だ。
 思い出に憑りつこうとする、悪霊だ。
 こんなのだめだって、わかってる。
 だけど、消えたくない。
 消えちゃったら、もう二度とみんなと会えないんだ……。
「そんなの、いやだよぅ……」
 頭を抱え、膝を屈する。
「みんなと会えないなんて、いやだ……」
 神様は、なんで私をこんな風にしたのだろう。
 なんで、私の消えたくないって願いを叶えてしまったのだろう。
 なんで、卒業を間近に、薫にだけ見えるようにしたのだろう。
 こんなの、生殺しだ。
 こんなの、地獄だ。
 こんなの、こんなのって……。
 やがて、薫が旧校舎から出てきた。彼は旧校舎をじっと見つめた後、校門へ歩いて行き、校舎を後にした。 
 私は、立ち上がり、歩き出した。彼に会えないにしても、せめてその残滓にだけは触れたかった。
 彼と同じように、体育館へ、グラウンドへ、足を進ませる。
 ただ、風が吹いているだけの世界。他に何もない世界。
 何の感慨も浮かばない。どうせ、これからもずっと目にし続ける風景だ。みんながいなくなっても、あり続ける景色なんだ。そんなものに、価値なんて……。
 最後に、旧校舎へと向かう。みんなで語らい、演奏を共にした、思い出の空間。
 思い出は温かかったけれど、何もない旧校舎は、ただただ肌寒さを感じるだけだった。
 日は沈みゆく。今日もすぐに終わる。そして明日が来て、また、時間は過ぎ去っていくのだ。
 私は取り残される。
 この冷たい世界に、私は――。
 陰鬱な気持ちを携えて向かった教室の一角。いつも集まっていたそこに足を踏み入れた時、急に春の温かい風が私の頬を撫でた。
 黒板が、山に姿を隠しつつある太陽の僅かな光に照らされていた。
『ゆかりへ』
 そこに、桜が咲いていた。
『フケずに卒業式に来い』
 不恰好だけれど、凛と、恥ずかしげもなく立派に花を開く、一本の桜の木。
『俺たちが、お前の名前を呼んでやる』
 私は今度こそ、涙をこらえることが出来なくなった。
『一緒に、卒業しよう』
 大粒の涙を流し、嗚咽をあげた。
 薫は、相変わらず青かった。とても青臭くて、とても……かっこよかった。
 あいつは、私たちの空だった。そのあまりの青さに、目を細めて見上げてしまう……それでも、親しみを覚えてやまない……雲一つない、青空だったんだ。
 私は、そんな青い空に恋をした。
 ずっと寄り添い、その青を輝かせ続ける太陽になりたかった。
 大好きだったんだ。
 大好き……なんだ。
 黒板に書かれた拙い文字をなぞる。そこに、薫は居た。私に向かって、微笑みかけてくれていた。
 
 その時、私の中に願いが生まれた。
 桜井 ゆかりという存在にとって最後の、そしてたった一つの、神様へのわがまま。
 それを大切に抱きしめて夜を明かし、遂にその日を迎えた。
 吹奏楽部の演奏で目を覚まし、一歩一歩、大事に踏みしめながら、体育館へと歩いて行く。

 そして――3月9日。
 卒業式が、始まった。
 

 

 Last episode.

 ○kaoru

 ――3月9日。
 高校生最後の日。
 まだ太陽が昇ったばかりの頃に家を出て、通学路を歩いた。町はいつもと同じような景色でいて、しかしどことなく色彩が違うように思えた。
 色違いの町。
 その色は、そう、桜色だ。
 いくつかの慌てん坊の早咲きの桜が、道路の両端を彩り、一足先の未来へと足を踏み出そうとしている俺ら卒業生を見送る。
 見上げれば果てしなくどこまでも広がっていきそうな空の青と、ひとたびの終わりと新たな始まりを告げる春の色。二色のコントラストは、なんだかとても眩しくて、目を細めざるを得なかった。
 ――3月9日。
 俺たちの青春の最後の日。
 桜並木はどこまでも続き、花を咲き渡らせている。時折、この街特有の強い風が吹いて木々を揺らす。その度花びらが舞い散り、黒くて固いアスファルトを、優しい色に染め上げていった。その桃色のカーペットの続く先に、俺たちの高校がある。桜が手招きする先に、卒業の別れがある。俺たちの歩いて行く、未来がある。
 それは俺たちだけじゃなく、ゆかりもまた……歩いて行くのだ。空へ。あの青の向こうへ。彼女の魂の未来へ。
 でも、中途半端な俺は、こうも思ってしまうのだ。
 消えてほしくない。
 ずっと一緒にいたい。
 それでも……俺はギターを背負い、ここまで来た。そんなエゴよりも大きな願いが、祈りがあったから。
 送り届けたいんだ。
 一緒に卒業したいんだ。
 想いの呪縛に囚われてなんか欲しくないんだ。
 だから……俺は歌うよ。
 ゆかり。
 どうか、見ていてほしい。
 俺の、俺たちの、心からの叫びを――。
「……行こう」
 校門をくぐり、卒業へと足を踏み入れる。
「よお」
 そこに、洋平が居た。
「YO、遅かったなァ、このすっとこどっこいがァ」
 ついでにRYOも居た。
「ボソボソ(どうせ一人黄昏たんだろこの青春バカは)」
 となればもちろん鴉も居た。
 ……まったく。しみじみする暇もありゃしない。
 ギターを少し持ち上げ、ニッと笑う。
「準備はいいな、クソ野郎ども」
 三人とも、同じように笑いを漏らし、そして頷く。
 俺たちはこっそりと体育館に忍び込み、準備を始めた。
 終わらせるために。
 終わらせないために。
 想いを。
 全ての言葉を。
 彼女に、届けるために。
 ――3月9日。
 そして、卒業式が始まる。

 
 ――卒業とシャウト――


「卒業証書授与」
 卒業式は澱みなくスムーズに進められていた。俺たちは、席にも着かずにその様子を二階から眺めていた。
 俺たちの名前も読み上げられた。返事が無いにも関わらず、欠席とされてそのまま授与式は続いた。
 ゆかりの名前は――呼ばれなかった。
 それが、悔しかった。
 それが、悲しかった。
 それが、とても、とても寂しかった。だからこそ、俺たちはここにこうして隠れてる。こうしてその想いを糧にして、楽器を握っている。
 授与式が終わり、送辞、答辞が読み上げられると、仰げば尊しの合唱が始まった。涙交じりの拙い歌声が館内に響き渡る。
『最後の演奏には絶対皆泣いてるぜ』
 おいおいゆかりさんよ。もうみんな泣いちゃってるぞ。話がちげえじゃねーか。
『あぁ、目に浮かぶなぁ。号泣しながら演奏する我がバンドの姿が』
 ……ああ、そうだったな。お前の言う"みんな"は、俺たちも含まれてるんだよな。
 じゃあ、頑張らないとな。
 俺たちは、まだまだ泣けねえ。
「閉式の言葉」
 その声を皮切りに、四人がそれぞれの楽器を手に立ち上がる。今、視線は檀上に向いている。その隙にやることをやってしまおう。
「これで、第46期卒業式を――」
 マイクスタンドの高さを調節し、ピックを握る。RYOに、鴉に、洋平に視線を移す。三人とも、頷いた。
「閉式、致します」
 さあ、始めようか。
 俺たちの卒業式を――。
「悪いが、もうちょっと付き合ってくれ!」
 俺はマイクに向かって、大声を上げた。
 突然の乱入者に、会場の人間の視線が集った。
「まだ、終わりにするわけにはいかねえ。まだ、この卒業式を終わらせるわけにはいかねえんだ!」
 会場がざわつき、何人かの教師がこちらに注意の声を上げる。
 当然の反応だろう。
 だけど、ごめんな。
「これから、卒業式を始める!」
 俺は、全く場を読まない言葉を叫んだ。
 これにはざわついていた会場もしんと静まり返る。みんな、ぽかんと口を開けてアホみたいに俺らを見上げた。
「俺は、俺たちは、今までの卒業式に納得がいかねえ! だから、仕切り直しだ!」
 視線を巡らせる。眼下にある顔、顔、顔……。
 なあ、居るだろ?
 お前も、そこに居るんだろ?
 ずっと捕まらなかった。
 ある時は逃げられた。
 昨日も探したけど、見つからなかった。
 だけど、今日は逃がしやしない。
 祭りをやらかす時は……ゆかり、お前も一緒だ。
 今までだって、そうだったろ?
「まだ閉式させるわけにはいかない! まだ終わらせるわけにはいかない! だって、まだ居るんだ。卒業証書をもらい損ねたバカが、一人だけいやがるんだ」
 そう、たった一人。
 この世から卒業出来ず、今でも彷徨い続けるバカが、たった一人だけ。
「そいつは寂しがり屋で、泣き虫で、変人で……誰よりも卒業を嫌がってて、そして誰よりもみんなと卒業したがってた。……俺も、そいつと卒業したかった。きっとこいつらも……。みんなも、覚えてるだろ? 忘れられないよな。キンパで、猪突猛進で、ちっこくて、なのに声はうっさくて……そんな、桜井 ゆかりを」
 もう俺たちに注意の言葉を向けるやつも、冷やかしの言葉を投げかけるやつもいなかった。みんな、思い出してるんだ。それほど、やっぱあいつは強烈だったんだ。
 それが嬉しくて。
 それが切ない。
 ……そんな感情だけで終わらせないためにも。
「忘れているやつがいるなら思い出させてやる。知らないやつがいるなら知らしめてやる。これは、あいつのための卒業式だ。これは、あいつのためだけに歌う一曲だ」
 ゆかり。
 見つけたぞ。
 そのバカは、体育館の袖で目を見開いて俺を見つめていた。
 よかった。
 来てたんだな。
 俺は、ちゃんと、捕まえられたんだな。
 なんだ、もう泣いてるじゃねえか。
 ばかだなあ。
 これから、もっと泣かせてやるっていうのに。
 涙、足らなくなるぜ?
「――天国にゆくお前に、卒業証書をくれてやる。一緒に卒業するぞ、ゆかり」
 ギターのボリュームを上げる。空気を揺るがす振動音が、館内に響いた。
「俺たちの言葉を、俺たちの想いを、全てこの曲に籠める。高校生活の、俺たちの青春の、ラストナンバーだ」
 さあ、始めよう。
 さあ、終わらせよう。
「――お前ら全員、俺たちが泣かせてやる。聴いてくれ。『桜の別れ』」

 鴉が、スティックを掲げてカウントを取る。
 ギターの旋律から、曲は始まる。静かに、寂しく、桜が舞う風景を描きだすように。
 一人だった演奏に、RYOのキーボードが加わる。切ないピアノの音色が、ギターに寄り添い、抒情な調べを奏でる。
 か細い糸のような音。
 支えてくれ。洋平、鴉。
 一瞬の音の空白。
 別れの悲しみに暮れて、うじうじと歩みの遅かった音。一人じゃだめだった。二人でも、まだ足りなかった。
 そんな俺たちを叱咤するかのように、ドラムとベースが同時に入った。小刻みにハイハットが揺れる。二本の力強い指が弦を弾く。
 転調。
 俺たちは、走り始める。がむしゃらに、ひたすらに、ただただ、"彼女"一人のために。
 元々バラバラだった俺たち。違う音色を持った異なる人間たち。それを、一つにまとめてくれた奴がいた。そいつは、もうマイクを握ってはいない。そいつは、体育館の片隅で俺たちを見つめている。
 ……大丈夫だよ。
 俺は、ゆかりに笑いかけた。
 今度は、俺がまとめてやる。この揃いも揃ってバカな奴らを。

『桜咲くこの季節が 僕の心を揺さぶる』

 マイクに唇が触れた。
 マイクスタンドがそこにあることに違和感。だって、それは、いつも俺の右側に置かれていたんだ。

『何が悲しくて 何が恋しくて 

 今涙を流しているのだろう』

 後ろから見るあいつは、いつも少し背伸びをしていた。背低いんだから、もっとマイクスタンドを下げればいいのに、って思ってた。
 でも、今マイクを前にして――俺も、かかとを上げてしまっている。

『思えば出会いなんてものは 

 突然に現れたものだった』

 ようやくわかった。
 あいつは、決して背伸びをしていたんじゃない。

『だけど僕には必然と言えるほど 

 大事なものだった』
 
 俺は、マイクに食らいつかんばかりに、身を乗り出していた。
 胸の内で高まっていく熱の塊。吐き出しても吐き出しても、そいつは止まらないんだ。
 言葉になんて表せないこの感情。この想い。この感覚。
 ああ……。
 そうだったんだ……。
 お前は……いつも、こんな気持ちで歌っていたんだな。

『この花を見る度に浮かぶのは

 懐かしい日々の記憶』

 Bメロ。サビに向けた溜めに入っていく。
 抑えられない。
 抑え切れるはずがない。
 ようやくぶつけられるんだ。
 ずっと心で燻っていた想いを。
 
『その中でも一番の宝物は』

 さあ、爆発させよう。
 もう限界だ。

『みんなの 笑顔なんだ』

 Bメロが終わり、サビへ繋がるその隙間を、鴉のフィルインが埋める。もう抗えない。否応なく俺たちの熱量は頂点へと誘われた。

『――あの日見たこの空は 綺麗な青の色をしてた』

 そして、サビに入ったその時。ぽつり、ぽつりと、眼下の生徒たちが席から立ち上がる。
 その波は、ゆっくりと、それでも確実に広がっていった。

『全てを包み込むような そんな色』

 ゆかりはその光景に目を丸くしていた。

『それを見ながら走り出して』
 
 俺は、それを見てニッと笑った。

『力の限り 叫んだんだ――』

 一番が終わった時。
 体育館に居る生徒は、皆立ち上がっていた。
 俺たちの熱が、冷めたヤツの心を溶かしたんだ。

 なあ、お前らよ。
 演奏を始めた時、その時はきっとお前ら、白けた気持ちでいただろ?
 バカな奴らだなって思ってただろ?
 何青春ごっこしてんだよって思っただろ?

 ……きっと、ほんの少し前の俺も、お前らと同じことを考えただろうな。
 くせえよって。
 さみいよって。

 だけど俺は、今ここに居る俺は、いや"俺たち"は、そんなお前らの心を溶かした。沸騰させてやった。
 何でかわかるか?
 あ? わからねえだと?
 だったら聴け。
 耳をかっぽじって聴きやがれ。

 俺たちは、
 いや、俺は、
 バカでもねえし、
 ましてや青春ごっこをしてるつもりもねえ。
 訂正してやる。

 俺は馬鹿じゃねえ、"大馬鹿"なんだ。

 そんな大馬鹿野郎の俺はな、今この時、
 

 惚れた女の為に――全力で青春してんだよ!!

 
 俺の全力に、てめーらが勝てるもんか!
 俺たちの全力に、てめーらが勝てるもんかよ!! 
 
 言ったろうが。
 "全員"泣かせてやるってな。

 心に刻み付けろ。
 絶対に忘れるな。

 この卒業式は、

 ゆかりのための、卒業式なんだ。

『いつまでもみんなで共に 歩いていけると信じてた』

 第二章が始まった。
 まだ伝えきれていない想いを、零さぬように、残さぬように。
 ゆかりの卒業式は、始まったばかりなのだから。

『どんな壁だって乗り越えてやるさ』

 少し、ベースが上ずってるような気がして、ふと洋平を一瞥した。

『そう言って僕らは笑ってた』
 
 洋平は、男泣きに顔を濡らしていた。顔を歪ませ、ぐちゃぐちゃになりながら、ベースを弾いていた。
 ……そう、だよな。
 お前は、泣くよな。それも真っ先に。

『いつか別れたとしても』
 
 なあ、洋平。
 俺はさ、お前が最初怖かったよ。
 だって、今もそうだけど、お前の見た目ただのDQNじゃん。目つきわりいしガタイいいし。
 きっと、バンドやってなかったら、ゆかりと出会ってなかったら、お前とは友達になることも、ましてや知り合いにすらならなかったかもしれないな。

 でも、俺はゆかりと出会った。
 そして、お前とも。

『いつか死んだとしたって』

 話してみたら、お前はただのDQNじゃなかった。
 お前は、とんでもないくらいにバカなDQNだった。気持ちのいいくらいのバカだ。
 そんなバカなお前と、こんなバカできて、本当によかった。
 お前と、まっすぐぶつかり合えてよかった。
 お前は最高のバカで、最高のベーシストだ。
 今まで、ありがとう。

『心にはずっと残っているんだ
 
 桜の木の下で 思い出すよ』

 力強いドラム。……いや、力んじまってるんだ。
 鴉。
 目元は髪で隠れて見えない。けれど、それでも、その大粒の涙までは隠せていない。
 おいゆかり。
 泣いちまったぞ。
 お前が大好きだった鴉が。
 って、お前はそれ以上に大号泣かよ。
 ……ほんと、姉妹みたいだよな、お前ら。
 二人の間に何があったかは知らない。
 どうして出会い、どうしてバンドを組むことになったのか。それは、俺の与り知らない物語だ。
 俺は結果しか知らない。
 お前らは、姉妹みたいに仲の良い二人だった。
 お前らは、揃えばやかましく、しかし、やはりいなくなったらいなくなったでどこか寂しい、そんなムカつくくらいいいコンビだった。
 そうさ、ゆかりが居なくなっちまって……あの時は余裕がなくて気が付けなかったけど、今思えばどこか寂しそうにしていた気がする。どこか、苦しそうだった気がする。
 ごめんな、鴉。
 俺は、俺のことで精いっぱいで、逃げて逃げて逃げ続けることに夢中で、お前の力になってやることが出来なかった。
 お前には、いつも支えてもらいっぱなしだ。
 演奏だって、いつもお前が下から持ち上げてくれていた。
 今回の卒業とシャウトだって、お前が助けてくれなかったらきっと存在していない。 
 そうさ、お前は……本当に強いやつなんだ。お前は自分の事をそう思っているかはわからないけど。でも、俺は、お前こそ強い人間だって思う。思わずには居られない。 

 だって、俺の勘違いじゃなければ、お前は"あの時の彼女"なんだろう?
 俺にあの夕陽を見せてくれた彼女が、お前なんだろう?
 頑張ってみるって、俺の拙いギターの演奏でそう決意してくれたのがお前なんだろう?

 本当に――お前は頑張ったんだな。
 誰よりも、頑張ったんだな。
 
 ……ありがとうな
 俺を助けてくれて、ありがとう。
 俺の拙いギターの演奏で、"頑張って"くれて、ありがとう。
 
『みんなで見た景色の数々を

 頭に浮かべてはにやけてる』
 
 突如として、胸に未知の感覚が去来した。
 なんだ、これは。
 段々上ってくるこの感覚は……? 

 困惑する俺の視界に、サングラスを外して泣きじゃくるRYOの姿が映った。RYOは、嗚咽を上げて泣いていた。他の誰よりも、涙の粒を楽器に垂らしていた。
 ……俺は、思う。今さらながら、感じる。
 RYOは、誰よりも青春とシャウトが好きだったんじゃないか、って。
 飄々としていて、クソみてえなラップを囀って、俺たちをからかって……一番訳わかんねえやつだったけれど。
 俺に、前に踏み出す一歩を歩ませたのは、RYOだった。
 いじけきった俺の、きたねえ壁を壊してくれたのは、間違いなく、RYOだったんだ。
 誰にも弱いところを見せず、
 誰にも頼ることなく、
 RYOは……一人でもがいていたのだろうか。
 崩れていった青春とシャウトを見て、誰よりも心を痛ませたのだろうか。

 ただ分かるのは、それでも、RYOは諦めなかったことだ。
 俺を前に進ませ、鴉や洋平との絆を取り戻すきっかけを作ってくれて、そして、卒業とシャウトをここまで運んできてくれた。
 一人で頭を下げて、
 頭まで丸めて、
 俺たちの想いを、願いを、果たさせてくれた。

 RYO。
 ありがとう。
 なんて、お前には特に面と向かって言えねえけど、でも、俺は思ってるんだ。
 本当に、ありがとう。

『なあ聞いてくれ 大好きなんだ

 この空間、時間、そして……』

 ほんとさ……みんな、ありがとうな。
 お前たちが居なかったら、きっと俺はこのまま腐っていって……どうしようもない大人になってた。
 今のような、大きな感動を知らず、感謝も知らず、ゆかりへの想いさえ……この、どうしようもなく好きなんだって感情さえ……きっと、燻らせて灰にさせちまってた。
  
『――あの日見た校舎裏 綺麗な春を咲かせてた』

 サビのメロディが、その歌詞が、無性に心を揺さぶった。
 揺れるゆかりの肩が、どうしようもなく愛おしかった。
  
『始まりを予感する そんな色』
 
 思えば、あの日。
 ゆかりと出会ったあの日。
 
『君と手と手 繋ぎ合って』

 真っ青だった俺の空に、
 突如として春が舞った。

『どこまでも走っていける気がしてた……』

 なあ、ゆかりよ。
 俺の春よ。
 もう、二番終わっちまった。
 これから間奏入って、そうしたらラストのサビだ。
 終わっちまう。
 ……嫌だな。
 ……すっげえ、嫌だよ。

 終幕へと繋ぐギターソロ。俺は、がむしゃらになってピックを弾いた。

 俺は、お前を失って、長い冬を迎えて、凍えそうで、温かさを失ってしまいそうで、春の残り火に縋って、クソみてえになって……それはまるで、底なしの冷たい沼に沈んでいくようで……。
 でもさ、また、お前と会えた。
 もう二度と会えないと思っていたお前に、再び会うことができた。
 春が、近づいた。
 それでも沼に足を取られて、そこへ向かえない。桜の木が遠目に見えるのに、俺は歩き出せなくて。
 そうしたら、俺を引っ張ってくれるやつがいた。
 そんな、最高の春風が、俺をここまで運んでくれた。
 桜の木の、目の前に……。

『そっか、さよならなんだ

 でも、悲しくはないよ』

 そんな春風が、好きだった。
 騒がしく吹き荒れながらも温かい、そんなこいつらが……俺は、何にも代えがたいくらい、好きだ。

『どこに言ったって、離れたとしても

 みんなの胸に居場所があるんだ』

 春風の中心に居て、綺麗な花びらを見せる、そんな桜の木を愛してた。
 その木は小さいけれど、それを感じさせないくらい、ばあって両手いっぱいに花を咲かせる、そんなお前を……きっとこれから出会うどんな女よりも、愛してる。

 失いたくない。
 離れたくない。
 終わりたくない。
 

 それでもラストのサビは迫っていて、
 俺は、愛するバカどもを背に感じながらマイクの前に立って、ゆかりを見つめて歌おうとするんだけど、

「……っ」

 そしたら突然目の前がぼやけやがった。
 なんだよこれ。
 なんで目の前がこんな霞むんだよ。
 なんで目頭がこんな熱いんだよ。
 なんで咽喉が苦しくなって、顔がどうしても歪んじまって、ああ、クソ、なんてこった――。

 俺は、今、泣いちまってるんだ。
 卒業式でも、親の離婚でも、どんな時だって泣いたことがなかったのに。
 愛する友人と離れ難くて、愛する女を失い難くて、
 
 そして何より、
 
 この、最高の青春を、俺はどうしても……終わらせたくないんだ……っ。 

『――あの日見た夕暮れは 綺麗な赤の色をしてた』
 
 涙声で、俺は叫ぶ。

『僕らの心を繋ぐ そんな色』
 
 喉を枯らして、叫ぶ。

『いつまでもそれ見て笑いあって このままで在り続ければいいな――でもさ』

 がむしゃらに、叫び続ける。

『僕らの見た景色は ずっとここに残ってる』
 
 世界に、刻み付けるように。

『別れ何て吹き飛ばす そんな色をして』
 
 この、俺たちが過ごした温かな青い春の日々が、ずっと残り続けるように。

『だからいつまでも……』

 そして、想いを。

『そういつまでも』

 伝えたかった想いを。

 最後まで、届け切るように。
 
『笑って――過ごしていこう』 

 卒業のシャウトが、響き渡る。
 
 バカまっすぐなベースが、
 頑張り屋のドラムが、
 天邪鬼なシンセが、
  
 最後の叫び声を上げる。

 そして、

 すべての楽器が、口を閉ざし、

 俺たちのラストライブは、終わりを告げた。

 体育館に一瞬の静寂が訪れ、そしてその直後に大きな拍手が巻き起こった。
 それは、今までしてきたライブの中で一番の歓声だった。
 しかし、俺たちの中に、その歓声に応えるやつはいなかった。
 これは、観客を盛り上げるライブではない。
 これは、別れの儀式なんだ。
 終わらせ、なくちゃ。
 そうしなくちゃ、いけないんだ。
「卒業証書……授与」
 マイクを掴み、俺はおもむろにそう言った。
 声は、みっともないくらい震えていた。
「桜井 ゆかり」
 俺がその名を呼ぶと、館内は一気に静まり返った。周囲がどんな反応をしようと構わない。俺は、俺はただ、ゆかりのために――。

「はい」

 大きな涙声が、館内に響き渡った。
 ……響き渡った?
 周囲がざわめく。誰が返事をしたのか、という困惑の声が幾重も上がる。
 聞こえて、いるのか?
 彼女の、声が。
 お前らにも……聞こえたのか?
「ゆかりの……声だ」
 洋平が呆然と呟く。
「お、おい……あれ……!」
 鴉が階下の生徒たちの集まりに指を向けている。
「な……っ」
 RYOが口を大きく開けて固まる。
 その視線の先に居るのは――ゆかりだった。ゆかりが、目を赤く腫らしたゆかりが、こちらをまっすぐ見つめていた。
 そうか……。
 見えてるのか……。
 お前らも、俺と同じように……。
 ゆかりが、一歩足を踏み出した、その時、カーテンの隙間から漏れた光が形を成していく。光は階段となり、階下と俺たちの場所を繋いだ。光の階段をゆっくりと昇ってくるゆかりは……まるで、天国に向かうかのように見えた。
 皆が呆然とする中、ゆかりは俺の前までたどり着いた。 
 そして――
「やっ、みんな……久しぶり」
 そう、笑って見せた。
 その瞬間、鴉が彼女の懐に飛び込んだ。続いて洋平が、彼女へと駆けた。
「ゆかり……っ、ゆかりぃぃ……っ!!」
 鴉が、ゆかりの胸の中で泣きじゃくる。ゆかりは目を細めて、愛おしそうにその頭を撫でた。
「なーんだ、見ないうちに……鴉は私くらい泣き虫になっちゃったねえ」
「ほんとうに……お前なのか? お前は……ゆかりなのか……!?」
「おいおい洋平。私と鴉の感動の再会に水を差すんじゃないよ、まったく」
「ゆかり……っ」
「お、おいっ、冗談だからそんな泣くなよ! お前とだって会いたかったぞ、私は」
 ゆかりは泣き崩れた洋平の頭をぽんぽんとたたいていた。
 ……あいつ、触れられる、のか? 前は、彼女に触れることは出来なかった。けど、今は、まるで生きている人間のように……まるで……死んでいなかったかのように……。
「――奇跡……なのか?」
 茫然と立ち尽くすRYOが、そう呟く。
「ゆかりと……また、会えるなんて……これは……」
「そう、奇跡だ」
 あっけからんと、ゆかりは言った。
「私の、最後の願いを、神様は叶えてくれたらしい……」
「最後……」
 そうだ。最後、なんだ。
 一瞬また、俺は逃げようとしてしまった。
 現実から、目を背けようとしてしまった。
 これは、奇跡だ。
 恒常的な現実なんかじゃない。
 ほんのひとときの……夢に過ぎないんだ……。
 でも……。
 俺は……。
 離れたく、ない。
 こんなに近くに居て、
 触れることが出来て、
 みんなからも見ることができて、
 まるで、生きているかのようで――。
「……ゆかり」
 俺は、ゆかりの目を、じっと見つめて……告げた。 

「卒業式の、続きをしよう」

 洋平が、鴉が、信じられないと言わんばかりに目を丸くして俺を見る。
 震える。両手が、震える。抑えろ。俺は、もう、選んだんだ。それを、選んだ。だからもう、逃げるわけにはいかない。そうするのだけは、ダメなんだ。
 近くに置いておいたバッグに手を突っ込み、それを掴み上げる。
 ゆかりへの、卒業証書。
 天国への、切符。
「……ああ」
 彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「卒業、しよう」
 鴉から離れ、ゆかりは俺の目の前に立つ。
「卒業証書、桜井ゆかり。貴方が――……っ」
 っかしいな。決めたんだ。決めた、はずなのに。
 涙が、溢れてきやがる。
 クソ……っ。
「貴方が……っ、本校所定の課程を……、過程をっ、修了した、こっ、こと、を……っ」
 やるんだ。
 最後まで、言うんだ。
 俺は……っ。
 腕が震え、差し出そうとした証書が下がっていく。
 身体が、別れを拒んでいた。
「Hey、カオル」
 震える腕を、RYOが抑えた。
「……やっと、青春とシャウトが揃ったんだァ、だからァ……」
 止められたのかと思った。
 それならば、きっと、流されてしまうと思った。
 しかし、RYOは――。
「だからさァ……俺たちゃ、みんなで、卒業だ」
 腕を引き上げ、証書をゆかりの前にかざした。
 やっぱり強いな……そう思ったが、すぐにRYOの腕も振るえていることに気付いた。
 ゆかりは、目に涙をためつつ、ニッと笑った。
「ありがとな、RYO」
「……フン、感謝される謂れ、それぇ、はねェ」 
「はは、相変わらず下手なラップだな」
「うるせえ元々おまえのせい、Say year、言う事あるんじゃねえ?」
「あああるよ。言いたいこと。……死ぬなって言ったのに、三年は死ぬなって言ったのに、先に死んじゃって……ごめんな。そんでもって、約束を守って、生きていてくれて……ありがとな」
 RYOは目を一瞬見開き、そして、顔を歪めて涙を流した。
「最後に……そんなことを、言うのかYO……っ。俺は……僕は……僕だって……」
「RYO……」
「ずっと、言いたかったんだ。あの時止めてくれて、RYOにしてくれて、ありがとうって……。生きていて、良かった。本当に、楽しかったんだ……っ。だから……っ」 
 RYOは制服の袖で顔をぐしゃぐしゃと拭き、サングラスを掛け直して笑って見せた。
「だから俺天才ラッパーRYOも見送るぜお前の卒業、忘れるな俺の偉業、あの世でも語り継げYO」
 涙声ながらも、RYOはRYOのまま、彼女に別れの言葉を告げ、卒業証書を俺と一緒に握った。
 それを見て、洋平は溜息を吐き、自分の両頬をバシっと叩き、RYOと同じように証書を握った。
「こんなんだからオレは、ダセえんだろうな……」
「あっはは、何言ってんだ。お前はいつでもダサイぞ」
「うるせえ。そういう意味じゃねーんだよ。オレは……」
 洋平の顔がこちらに向く。
「……なん、だ?」
「……いや」
 何事もなかったかのように、彼はゆかりの頭を一回叩いた。
「んぎゃっ! な、何しやがる!」
「うるせ、もうダセえ真似はしたくねえからな。オレは退いてやるってことだ」
「は?」
 ゆかりは首をかしげていたが、俺はその言葉の真意に気付いた。
「洋平、お前……」
「お前は卒業証書を最初に握った。オレは握れなかった。そういうことだ。薫。お前の勝ちだ」
「さっきから何言ってんだバカヨーヘイ」
「あ? オレはお前が好きだったってことだよ」
「……は?」
 ゆかりは一瞬目を丸くしたが、すぐに悲しげな顔になった。
「洋平……私は……」
「いや、いい。いいんだよ。もうお別れみてえだからな。言っておきたかっただけだ。あ、そうだ、それとな……あー、なんていうか……あー……やっべ」
 洋平は苦笑いしながら目頭を押さえる。
「ケッ、んだよ。やっぱダメじゃねえかよ……っ。ダッセえ……っ。最後、くらい……カッコつけたかったのに、よぉ……」
「洋平……」
「とりあえず……コレだけは、言っとくわ。ゆかり。ガキの頃……オレを叩きのめしてくれて、あんがとな……ッ」
「ああ」
「オレに……ベースを教えてくれて……あんがと、な……ッ」
「……ああ」
「なあ、ゆかり……ッ、オレは、オレ、は……ちょうかっけえベーシストに、なれてたかな……?」
 ゆかりは力強く頷いた。
「もちろんだよ。シドヴィシャスの次にかっけえよ」
 洋平は苦笑いしながらも「なら、よかった」と呟き、涙をぬぐった。
 卒業証書は、俺と洋平とRYOによってゆかりの前に差し出されている。
 だけど、ゆかりは困ったように笑って首を振り、腰に抱きつく鴉の頭を撫でた。  
 鴉は嫌だ嫌だと首を振った。
「せっかく、会えたのに……もうお別れなんて、嫌だよ……っ」
「鴉……」
「もう一度、ゆかりと一緒に演奏したかった……っ。ゆかりと一緒に、楽しい時間を過ごしたかった……!」
「私もだよ、鴉。私も……ずっとずっと、そうしていたかった」
「だったら……っ」
「だけど……もう、無理なんだ。私、神様に最後のわがままを言っちゃったんだ」
「わがまま……?」
「そうだよ。私の、最後のわがまま」
 ゆかりは優しく微笑み、俺たちの卒業証書を見つめた。
「それはね……『みんなと一緒に、卒業すること』」
「えっ……」
「大好きなみんなと、一緒にこの学校を去ること。卒業は、とても悲しいけれど、とても寂しいけれど、でも――その先には、未来が待ってる。たくさんの未来が……待ってるんだよ。卒業っていう扉は、出口でもあるけど、入り口でもあるんだ。だから、悲しいけれど、寂しいけれど、皆と、その扉を開けたい。私は、皆が未来へと歩き出すのと共に、天国へと歩いて行きたい。一人は怖いけど……みんなが開けてくれるなら、きっと私は歩いて行けると思うから」
 それが……お前の、たった一つのわがままなのか。
 そっか……。
 ……そう、だよな。
 お前は……寂しがり屋、だもんな……。
「……ゆかり」
 鴉は、ゆかりのわがままを聞き、迷いを抑え込んだようだった。
「ボク……頑張る、から」
 それでも、流れる涙は抑えられない。
「だから……見ててね、ゆかり……」
「ああ」
 ゆかりはもう一度彼女を抱きしめた。
「絶対、見てるから」
 しばらく抱き合って、鴉はゆかりから離れた名残惜しそうに、しかし決意を持って、卒業証書の端を掴んだ。
 俺は息を深く吸い、再び、証書を読み上げる。
「卒業証書、桜井ゆかり」
「はい」
「貴方が本校所定の課程を――」
 なんとなく、そのかたっくるしい言葉は合わない気がした。
「……お前が、この学校で、いやその人生で、精いっぱい騒がしく、楽しく過ごしたことを、ここに証する」
 ああ、そうだ……。この方が、お前らしい。
 嵐のように、突然やってきたお前は、俺たちの人生を楽しくしてくれた。
「卒業――」
「「「「おめでとう」」」」
 俺たちは、彼女に卒業証書を差し出した。
 別れの証書を。
 天国への切符を。
 RYOはサングラスで涙を隠しながら、洋平は歯を食いしばって我慢しながら、鴉は服の袖で涙をぬぐいながら。
 俺は……。
 俺、は……。
「ありがとう」
 受け取ったゆかりは――意外にも、泣いてはいなかった。ただ、笑っていた。俺を見て……嬉しそうに微笑んでいたんだ。
「よかった……」
 その身体が、光に包まれていく。
「本当に、よかった……」
 
 光とゆかりが、溶け合っていく。
 天国の迎え……なのだろうか。
 ……もう、いってしまうのか?
 こんなにも早く、消えてしまうのか?
 
 光がやがて大きくなっていく。
 ゆかりの輪郭が、光に飲まれていく。
 ……まだだ。
 俺は、まだ、お前に伝えていない。
 俺は……っ!
 想いが弾けたその時――光の中に、俺は一歩踏み出していた。
 
 眩い輝き。体育館の様子は一切わからなくなり、ゆかりの影だけが見えた。
「なあ、薫、覚えてるか?」
 影がやがて輪郭を持っていく。光はやがて白色の世界となり、一面に広がった。
「……何を」
 その白の中で、俺とゆかりは二人きりだった。
「私が死んじゃった日のこと」
「ああ」
「私が言った通りになったな」
「何がだよ」
「みんな卒業式の演奏で泣いちゃうってこと」
「……ああ」
「薫も大号泣だったもんな」
「そん時にはお前も大号泣だったろうが」
「いや〜、薫さんの号泣っぷりには負けますよ」
「……うるせえ」
「ほんと、よかった、よかった。泣いたお前が見れて」
「何がよかったんだよ」
「約束」
 ゆかりは、切なげに笑った。
「死ぬ前の約束、果たせたから」
 約束……。
 あの日の……約束。
 あったんだ。
 俺にも。
 果たさなくてはならない、約束が。
「じゃあ、俺も約束……果たさなくちゃな」
「えっ――」
 ぎゅっと、
 この想いを、
 離さぬよう、
 失わぬよう、
 ゆかりを、抱きしめた。
「CDの、返事」
 ずっと、こうしたかった。
 もっと早くに、こうしていればよかった。
 ようやく、こうすることができた。
「俺も……好きだ」
 ずっと、俺を苦しめてきたもの。
 ずっと、俺の大切だったもの。
 弱虫の象徴であり、あの交差点に置いてきてしまったもの。
「ゆかり……お前を、愛してる」
「……かお、る……っ」
 俺の胸で、彼女は肩を震えわせた。
「遅いんだよぉ……っ、ばかぁっ……!」
「ごめん」
「ずっと、ずっと待ってたんだから……っ」
「ほんとに、ごめんな……」
 ずっと、回り道ばかりしていた。
 想いから目を背け、現実から目を背け、いじけきり、投げやりになり、自棄になっていた。
 俺は、弱い。
 とても、弱い。
 ほんとうに、クソみたいな人間だ。
「私も……好き。ずっとずっと……好きだった」
 だけど、そんな俺を好きになってくれた。
 ずっと、待っていてくれた。
 そんな、桜井ゆかりという、少女が居た。
 奇天烈で、強烈で、泣き虫で、そして、俺とかけがえのない友を結び付けてくれた、大切な少女。
 
「ありがとう……薫」

 俺の愛した少女が、俺を愛してくれた少女が、ゆっくりと、消えていく。

「私の人生の最後に、願いを叶えてくれて、ありがとう」
 
 桜の花びらとなって、その身体が散っていく。

「薫は、私にとって青い空だった。広くて、優しくて、どこまでも自由に飛んで行ける、青だった」
「お前は……ゆかりは、俺にとって春だった。温かくて、楽しくて、いつまでも共にありたい、春だった」
 
 ああ……だめだ。
 やっぱり、我慢できない。
 溢れる涙を。
 抑えることが……出来ない。
 笑って見送りたかった。
 最後くらい、カッコつけたかった。
 ああ、クソ……。
 ゆかり……っ
 
 やがて、白の世界が崩れ始める。
 その白も、ゆかりのように花びらとなって散っていく。体育館の姿が、目に映り始める。
 
「青と……春」

 そんな中、ゆかりは、冗談っぽく笑って、

「……私たち、二人合わせて、青春だったんだね」

 温かな春風と共に、

「薫と青春できて、よかったぁ……」

 体育館の窓から、

「……薫」

 抱きしめていた彼女の身体は、

「出会ってくれて、愛してくれて」

 あの高い高い、青い空の向こうへ、

「ありがとう」

 どこまでも続く、空の向こうへと――旅立って行った。

「……ばか」 
 俺は、掌に残った桜の花びらを握りしめて、
「そりゃ……俺のセリフだっつの……ばか、やろう……っ」

 子供のように、泣き崩れた。






 

 Epilogue;spring


 ガタンゴトン。
 電車が揺れる度、まどろみから僅かな覚醒に至る。しかし眠たいのはどうしようもないわけで。浮上しかけた意識は再びぬるま湯の底へ落ちていく。
 ガタンゴトン。
 浮いたり沈んだりしている間に、だんだんと夢とうつつの境が分からなくなっていく。
 ……一体今俺が見ているこの景色はどっちなんだろう。
 電車の中。固い座席。脚で挟んでいるギター。誰もいない電車。揺れる電車。静かな電車……。
「……夢か」
 こんな静かなんてあり得ない。俺は、世界で一番うるさいであろうバカどもと居るはずだ。
 それに――。
「こんな綺麗な景色が広がってるはずないよな」
 車窓から望む景色。線路を挟む二つの斜面に桜が乱れ咲き、桃色の雨を降らしている。太陽に照らされて美しく舞う花びら。夢の中でこんなことを言うのもアレだが、幻想的だった。
「ってことはこの景色は俺の心を映した原風景ってことに――」
「それが一番あり得ないだろ」
 一人のはずだった車内。
 しかし、いつの間にか真向いの座席に、一人の少女が座っていた。
「……いや、お前こそ一番あり得ないだろうが」
 その少女はケラケラと笑って、
「それは言えてる」
 という自虐をかましてくれた。
 ……まあ、こういう夢を見るのも無理はない。
 この電車の向かう先を考えれば、しょうがない。
「――元気だったか?」
 だから……まあ、今はいいだろう。
「まあ、ぼちぼち」
「ぼちぼち、ねえ……」
 浸れば浸る程、現実と対面した時が怖いけれど。
「薫の方はどうなんだ?」
 それは、彼女が心で生きているということなのだから……。
「俺、か?」
「そう、お前」
「俺は……」
 この春に至るまでを思い返す。
「つい最近まで地獄だったよ」
「地獄?」
「自分がいかに勉学に向いていないかわかったのさ」
 本当に辛い一年だった……。
 二人の家庭教師に何度溜息を吐かれたことか……。いやいや、俺だって溜息吐きたかったよ。一人はずっと耳元でラップ囀ってるから全然集中できねえし、もう一人の家庭教師は声が小さすぎて何を言ってるのかよくわからんし。あとどっかのDQNが唐突に遊びに来てゲームやり始めるしな。もう何なんだコイツラ。妨害しかしてないじゃん。 
「相変わらずだなあ、みんな」
 少女は嬉しそうに笑った。
 俺はその顔を、じっと見つめた。
「ん? 何だ? 私の顔に何かついてるか?」
「ああ。大豆みたいな鼻くそが」
「呪い殺すぞ」
「いやシャレになってねえから……」
 幽霊だろうが心の中だろうがまったく変わらん。
 相変わらずアホで、相変わらず口が悪くて、相変わらず――居心地がいい。
「はぁ……ダメダメだなあ、俺は」
「ん? 何だ、大学落ちてたのか?」
「いや、まあ、それは受かったけど」
「マジか。奇跡だな」
 実際俺も奇跡だと思ってる。どっかの声の小さい奴の通うそこそこ頭の良い大学を、自分のレベルも何も考えずに受けたからな。
「じゃあ何がダメダメなんだ?」
「……いつまで経ってもうじうじばっかしてんなあって」
 夢の中だからか、俺は素直にそんなことを口走っていた。
 そしたら彼女はバカにしたように笑って、
「だって、それが薫じゃん。これからもうじうじと悩めばいいさ」
 と言ってくれやがった。
 ……そうかい。それが俺なのかい。そいつはなんとも……情けないなあ。
「――そろそろ、降りなくちゃ」
 座席から立ち上がり、彼女はドアへと向かった。
「……そっか」
「なんだ、寂しいのか?」
「それを言わせるのか?」
「……バカ、マジになるなよ」
 電車が止まる。
 桜溢れる世界の中で。
「そんな顔するなよ。お前は、私に会いに来てくれたんだろう?」
「……ああ」
「だったら、そんなシケたツラしないでくれよな。……聴かせてくれるんだろう?」
「まあ、な。俺だけ気合入れてギター持ってきちまったし」
「だったら、いい演奏をしてくれ。私が居るここに、届くように」
 開くドア。
 桜の世界へ足を踏み出す彼女。
「……やってやるよ」
 絶対、届けるよ。
「だから――これからも元気でやれよな、ゆかり」

 がたん、ごとん。

 ハッとして顔を上げる。辺りは暗い。トンネルを進んでいるようだ。
 周囲を……見渡す必要もなく、そいつらはそこに居た。
「オゥ突き進むぜ暗いトンネルゥ、薫アホみたいにグゥグゥ寝るゥ」
「ボソボソ(……人の頭を枕にするとは、随分と良いご身分だな、薫)」
「何言ってんだお前満更でもなさそうにしてたくせに――ぐへっ!」
「ワォ、鴉のナイスヘッドォ、しかし心はラブ沸騰ォ」
「ボソボソ(駅に着いたら覚えとけよクソラッパー)」
 ……はあ。
 なんだか、夢の内容も吹っ飛んじまった。
 なあ、ゆかり。
 こんなやつらだ。
 墓参りは、どうしようもなく騒がしくなっちまいそうだけど……ま、お前はそっちの方がいいか。
 
 あれから一年。
 色んなことがあった気がするし、何もなかった気もする。
 何度もあの春を思い出すし、その度何度も、お前を思い出す。
 俺は進めているのだろうか。
 また、立ち止まっているのだろうか。
 そんなことも考える。 
 でも――。

「オウ、びっくりしたぜ天才ラッパー! こいつは見事な桜ァ!」
「トンネルを抜けると、そこは春の国でした、ってか?」
「……バカもたまには良い事言う」

 次の春は、またやってくる。
 何度でも、やってくる。

「こんな出迎えされたら、最高のギター弾かなきゃならねえな」
 
 思わず笑ってしまった。
 夢でも現実でも、あいつは人を驚かすのが大好きなのだ。

 夢と相違ない桜の景色を眺めて、その向こうにある空を見上げて、ギターケースをギュッと握りしめる。

 きっと今日は最高の演奏ができる。

 春に刻む歌。

 一歩ずつ、足跡を付けていこう。

 ゆっくりでも。

 そうやって、また季節を巡ろう。

 
 そしてまた、青い春を駆け抜けるのだ――。

 
 
  

2016/04/17(Sun)13:20:02 公開 / 湖悠
■この作品の著作権は湖悠さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 長い間、ありがとうございました。最初にプロットを練ってから早5年。元のプロットを練り直し、再び筆を取ってから1年。卒業式には間に合いませんでしたが、ギリギリ桜の季節には間に合った……いや、ギリギリ間に合ってないですね。遅筆なのが情けない……。
 今回ネックになっていたのは歌詞でした。実は場面自体は先々週くらいに書き終えていたのです。ですがどうしても歌詞が浮かばなくて……。なので、実際に高校の時にバンドをやっていた友達に頼んで歌詞を書いてもらいました。中々青臭い歌詞ですよね。薫みたいなやつなんです。彼は。

 さて、そんなわけでようやく書き終えたわけなのですが。恐らく原稿用紙400枚前後? ですかね。今までの最高が250枚くらいで、250枚でも「なげえ……」と思っていたものですが。結構書いたんだなあ。でもほかの皆さんはもっともっと書いてらっしゃるなあ。凄いなあ。
 実は長編で完全に物語に幕を下ろす形で終わらせることが出来たのは初めてだったりします。TRTとか、バレンタインデーのあれとか、幸せ屋だって、続編あるよ感出しまくりながら終わらせてましたからねえ……あちらも続きを書きたいものですが。

 まあただ、学生生活で書きたかったことは全て書けたんじゃないかなって思います。青春とシャウトの面々と同じように、これでようやく僕も学生をきちんと卒業できた気がします。さよなら青春。

 長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さった方々、ありがとうございます。皆様のコメントがあったからこそ、最後まで書き切ることができました。やはり創作って、いいものですね。
 これからクリスマスくらいまでは、あのアホなサンタたちと一緒に頑張りますので、そちらもどうぞよろしくお願いいたします。ではでは。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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