『アフター・デイズ・ストーリー』 ... ジャンル:恋愛小説 ミステリ
作者:コーヒーCUP                

     あらすじ・作品紹介
高校一年の中澤は、学校の生徒会長である女子生徒に目をつけられていた。何かにつけて彼女の仕事の手伝いをさせられる。彼女の仕事とは生徒の困りごとを解決すること。日々起こる問題を解決するうちに、二人の距離に変化がおこっていく。

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《序章》

 君には、嫌いな人はいるか?
 いるなら結構なことだ。数は別にどうでもいい。一人だろうが百人だろうが、そこには僅かな差異しか存在しない。気にすることはない。ましてや卑下なんてしないでいい。その数だけ、君という人間は何かを思い、何かを考え、ちゃんと感情を作動させているんだ。
 むしろいないと思ったり、考えた人間が問題だ。実に人間らしくない。気持ち悪いから、できるだけ私に近づくな。なにか、うつりそうだ。
 この問いは迷うものじゃない。考える時間なんて一瞬もいらない。一瞬でも考えた人たち、その欺瞞に満ちた性格は先天的なものか後天的なものか知らないが、本当に性格が悪い。できるだけ猛省しながら生きてくれ。できれば今すぐにでも死んでくれ。
 さて、お前はどうなんだって言われそうだけど、私は嫌いな人しかいないから安心してほしい。君らを含め、みんな嫌いだ。大嫌いだ。消え失せてくれても、きっと足りない。それくらい嫌いだ。
 性格が悪いって? それの何が悪いの?
 というかだからこそ、今ここでこんなことを話してるわけだ。言っておくが、この物語において私は主人公でもなければ、ヒロインでもない。そういう華々しくて馬鹿馬鹿しい役目は彼と彼女がちゃんとやってくれるよ。
 私はただの脇役だ。なんでここにいるかって、その彼と彼女の物語の少しでも嫌な始まり方をすればいいと思って、こんな意味も面白みもないことを長々と喋っているわけだ。
 それだけの理由だよ。
 言ったろう、私は性格の悪いやつだ。それを自覚し、矯正する気なんて微塵もない、君らと同じようなただの一般庶民だ。
 だけど、この彼と彼女の物語については色々と思うことがあって、無関係じゃないから、こうして出鼻を挫いておこうと思ってね。
 ……でも、もう疲れたな。飽きた。
 さて、さっさと物語にはいればいい。好きしてくれ。
 悪役の愚痴から始まるなんて物語も悪くなかっただろ?
 じゃあね、またいつか。すぐに会えるさ、嫌なことにね。



第一章《憐愛論》

 【前日談】

 坂上明里はふぅっと息を吐いて、部室を見渡した。
 時刻は夜の八時前、六月といえどさすがに外が暗くなる時間。彼女はそんな外の景色を窓から眺める。校舎の三階に位置するこの音楽室は眺めが良くて、部室がここでよかったと入部した時から思っていた。
 彼女は吹奏楽部の副部長。昨年の秋に就任して、予定だと秋の大会が終わればそのまま引退するので、あと三ヶ月ほどしかこの部室にお世話になれない。
「色々あったなあ……」
 彼女は教室の隅に置かれている丸椅子に腰掛けて、そんなことを呟く。本当に色々あった。部としても、個人としても決して何か大きな結果を出したわけじゃない。それでも楽しく、時々辛い、いい日々だった。
 今日は他の部員たちはもう帰っていて、自分だけ掃除のために残っていた。別に誰にやれと言われたわけでもなく、そういうことがしたい気分だった。ただ実際に部室を綺麗にしたら、達成感があって気持ちが良い。
 とはいえ、もうゆっくりしていられない。そろそろ校舎から出ないと先生たちから怒られてしまう。
 彼女は自分のカバンからiPodを取り出し、イヤホンを耳にはめて、お気に入りのクラシックを聴き始めた。そして部室の電気を消して、退室しようとしたときのことだった。
「……え」
 イヤホンをしていたのに、曲ではない何かが彼女に聞こえた。思わずを動きを止めて、耳を澄ます。……間違いないじゃない、確かに何かが聞こえる。
 彼女が恐る恐るイヤホンを外すと、それははっきりと聞こえた。
 それは笑い声だった。男とも女ともいえない、静かで不気味な笑い声が部室の中から聞こえてくる。
「だ、誰っ」
 ビクビクとしながらもそう声を張ったけど返事はなく、ただただひたすら笑い声が続く。それも、何故かだんだんと大きくなっている。まるで、近づいてくるように。
 自然と足が引けた。まだ鍵をしめていないのに、一歩、部室から距離をとってしまう。そんな彼女を追い詰めるかのように暗闇の中で笑い声だけが、まだ響いている。
 誰もいないはずだ。それはわかっている、部員は全員一時間前には帰っている。そしてずっと掃除していたから、他に誰かいれば気づくはずだ。なのにどうして今、部室の中から声なんか聞こえる。
 それも聞いたこともない、笑い声が。
 彼女はもう考えるのも嫌になった。そのまま急いで、扉をしめて鍵をかけると、走ってその場から立ち去った。職員室まで全力疾走した。
 声はいつの間にか聞こえなくなっていた。


 
 蛙が潰されたときのような声を出して、目の前の相手が目を白くしながら倒れた。
 つい数分前間までは威勢良く突っかかってきたのに、マジで大したことなかった。歯ごたえのなさに嫌気さえ覚える。倒れて気を失っている相手を蹴飛ばしたあと、制服の汚れたところを払ったあと、そいつをその場に放置して路地裏から出た。
 むしゃくしゃしながら街を歩いていたときに、偶然さっきの男と目があった。そんな気分でもないし無視しようとしたのに、向こうが「なんだよ」と喧嘩腰できたので、相手をしただけ。相手にならなかったが、少しスッキリしたから感謝してる。
 人混みの中を歩きながら、ポケットに入れていた財布を取り出して、中身を確認した。昨日親から渡された万札が三枚、綺麗に残っている。そういえばもう夕方になるのに、今日は昼飯も食ってない。
 三時限目の授業で教師ともめて、そのまま無断で高校から出て行ったから当たり前だった。ただ、思い出すと急に腹が減ってきてしまう。
「飯、食お」
 繁華街をぶらぶらと歩いた後、特に食いたいと思う店も見当たらなかったから適当なファミレスに入った。案内されるまま四人掛けのテーブルを占領して、とりあえずメニュー表に一番でかかく写真が載っているパスタを頼んだ。
 待ち時間の間、退屈だったので最近はまっているスマホのゲームをしていたら、急に向かい側に誰かが座った音がして、驚いて顔を上げた。
 そこには一人の女が当たり前のように座っていた。
 ホコリひとつついてないほど清潔な、俺の通っている高校の制服を形を一切崩すことなく着こなし、最近の女子みたいに髪型でおしゃれをすることもなく、ただ髪を後ろにまとめ、前髪は邪魔ないならないように七三のような形でヘアピンでとまとめられている。
 そして細い銀縁のメガネが、店内の明かりに当てられて鋭く光っていた。
 鬱陶しいことに見覚えのある顔だ。
「……凝りねえな、あんたも」
「お言葉ですが、それはこちらの言葉ですよ。懲りないですね、中澤くん」
 そいつは何事もなかったみたいに近くに通った店員に声をかけて、紅茶を頼んだ。
「おい、金はてめえで出せよ」
「私は三年の先輩ですので、新入生に奢ってもらおうなんて考えておりません。ですが、奢らなくていいというのは気楽でいいものです」
 金の話なのに包み隠さずそう解説したそいつは、俺の顔をじっと見つめてきた。そして迷いなく、はっきりと断言してくる。
「喧嘩しましたね」
「してねえよ」
「頬が少し赤くなっています」
「気のせいだろ」
「今朝挨拶した時より、制服が乱れてます。汚れはとれも、しわは残りますよ。ましてや誰かにつかまれるなんて、強い力が加われば」
「気のせいだって言ってんだろ」
「あの方の手当ては私がしておきました。他言無用にとお願いしてるので、今回の件が学校に漏れることはありません」
 拳でテーブルを殴りつけると、音に反応した周囲の客が一斉に視線を向けてきたが、こっちが見返すと何事もなかったように視線を戻した。糞どもが。
「公共の場ですので、お静かに」
 そんな状況でも目の前の女は眉ひとつ動かすことなく、いつも通り気持ち悪いくらいに落ち着いていた。
「余計なことすんなよ」
「余計なことはしていません。ただ必要最低限な処理はおこないました」
「俺にとってはそれが余計なんだよっ」
 また声を荒げたちょうどそのときに、店員が俺のパスタと女の紅茶を笑顔を引きつらせながら持ってきた。
「置いておいてください。ありがとうございます」
 女がすぐさまそう言うと、店員は料理だけテーブルに置き、素早く「ありがとうございました」と頭を下げて足早に去っていった。
「怖がらせないように」
「何もしてねえだろ」
「声が威圧的だったでしょう。あなたの悪い癖です」
「知るかよ」
 パスタの皿を寄せて、胸糞悪い気持ちをぶつけるように勢いをつけてかぶり付いた。
 目の前の女のせいで、おいしくない。
「中澤くん、喧嘩はやめてください。この注意、もう何度目になりますか?」
「一度もわかったって言ってねえだろ」
 女はその返答に「そうですね」と、すんなり納得した。まるでこっちがそう言うことをわかっていたかのように悲観することも、呆れることもない。その態度がまたむかついた。
 こっちの気など知らないで女は紅茶に砂糖を少し入れて、ストローで一口飲んだ。
「頼みたいことがあるんです」
 そして突然そう切り出してきた。
「は?」
「中澤くんに是非お願いしたことがあり、今日は来たんです。このお願いをきいてくれれば、とりあえず本日のことは水に流しましょう」
 思わぬ提案を俺は鼻で笑ってやった。この女は一体、何を言い出すんだろう。
「あんたに水に流されなかったところで、困らねえんだよ」
「そうでしょうか」
 そいつは急にポケットから何か取り出し、それを自分の顔の前に持ってきて見せつけてくる。
 鍵だった。キーホルダーすらついていない、本当にただの鍵だ。ただそれには嫌という程見覚えがあって、とっさに自分の尻ポケットに手を入れて確認するが、あるはずの中身がなかった。
「て、てめっ」
「喧嘩したときに落ちたのでしょうね。あの付近に転がっていましたよ」
 手を伸ばして取り返そうとするとが、女はすぐさまそれを背中の後ろに隠した。
「おい返せよ、俺の鍵だろ」
「一つ、疑問があります。中澤くんはまだ十五歳で、大型二輪どころか原付の免許も持っていないはずです。なのにこの鍵はなんの鍵ですか。有名なバイクメーカーの名前が刻印されていますが」
「あんたには関係ねえだろ。いいから返せよ」
 その要求に女は表情を変えない。無機質で、感情が読めない視線だけを向けてくる。こいつのこういう表情が嫌いだ。
「落し物ですし、交番に届けようと思います」
「俺のだって言」
「仮にこれが中澤くんのものだとするなら、私が交番に届けたあと、自分のものだと警察に名乗り出ればいいだけです。簡単なことではありませんか。私はこれが中澤くんのだと分かりかねますので、安易に渡せないんです」
 人の言葉を遮ってまで、女は苛つく理屈をわざとらしく、ゆっくりと読み上げるようにこちらを見つめながら、まるで授業中の教師みたいに言い聞かせてくる。
 思わず奥歯を噛み締めた。そんなことできるわけない。面倒なことになるのをわかってて、それを逆手にとってきやがる。
「話を戻しましょう」
 睨みつけられながらも女は鍵を自分のカバンの中へ入れて、紅茶を一口飲のみコップを片手にしたまま再度言った。
「中澤くん、頼みたいことがあるんです」



 この女、小野夏希と知り合ったのは入学してから一ヶ月ほど経ったころだった。だから俺はあの日の自分の行動を今でも悔やんでいる。
 その日もクラスで揉め事になり、クラスメイトを一人殴りつけて、気絶させた。そのことを教師連中に問い詰められそうになったから、面倒になる前に、校舎の二階から飛び出して、学校を後にした。
 そう、ちょうど昼休みの最中だった。
 校門から出ると警備員に呼び止められるので、適当に校舎裏の柵を飛び越えて着地したところで、人の気配を感じた。咄嗟にその方を見てみると、一人の女子生徒がいた。どうやらそいつは登校してきたばかりのようで、学校指定のカバンを肩に提げて、汚れひとつみあたらない制服を着こなし、驚いた目でこちらを見ていた。
「……エスケープですか?」
 そんな表情をしていたくせに見透かしたようにそれだけ訊いてきた。その時初めて、こいつどっかで見たことあるぞと思ったが、それがどこだったかは思い出せなかった。
「うるせえ、ほっとけ」
 ぶっきらぼうに答えて、そのままその場を去ろうとしたのに、いきなり右の手首をがっしりと掴まれた。
「お、おい!」
「今日は大目に見ましょう。私も事情があるとはいえ、こんな時間に登校しているですから偉そうなことは言えません。ただ、お名前だけでも伺っておきます」
 その言葉は拒否なんて許さないという強い意志が込められていて、実際に女は決して俺を放さないように、かなりの力強さで俺の手首を掴んでいた。
「おい、放せよっ」
「エスケープと言いましたが、私は授業からエスケープしたとは思っていません。こんなところから抜けてくるくらいです。しかも急いでいました。もっと、別の何かから逃げてきたのでしょう。では、あなたには時間がないことになります。いつ、追っ手がくるかもしれない。ここで素直に名乗れば、素早く逃げられます。さて、お名前を」
 こっちが焦っているのに、女はとてつもなく冷静に状況を分析し、さらには逆手にとってきた要求をしてくる。
「なんでそんなことお前に」
「時間がありませんが?」
 あくまで拒否しようとする俺の言い分など聞く気が端からなくて、自分の要求が早く飲まれることだけを考えているようだった。
 試しに腕を振り払おうとしたが、女は華奢な体とは裏腹に握力を弱めることもなかった。
「……中澤だよ」
 もうどうでもよくなって、正直に名乗ると同時に女は一度頷いて、あっけなく手を放した。
「どうぞ。きっと追っ手はきませんが念のため走って逃げてください」
 さんざんこちらの邪魔をした挙句、そんな無責任なことを言い、さらには少し命令してくるのが癪だったがかまっている時間ももったいなかったから、そのままその場を後にすることにした。
 女はむかつくくらい丁寧に頭を下げたあとは、背筋をまっすぐしたまま歩き出し、学校へ向かっていた。
 結局、その日はそのままばっくれたが学校から家や携帯に連絡が入ることはなくて、翌日も何のお咎めもなかった。
 なんでそうなったのかわからなかったが、その日から俺には妙な監視がつくようになった。
 それが彼女だった。



 二人で学校へ戻ったころには日が暮れていて、もう辺りは夜に包まれていた。運動場ではライトをたよりに未だに運動部の連中が掛け声をあげながら、暑苦しく練習しているので、夜だが閑散とはしていない。
「おい、本当に鍵は返してくれるんだよな」
「疑われるとは心外ですが、不安になるのも理解します。ご安心ください、ちゃんとお返しますから」
 相変わらずの無表情と、まっすぐ伸ばした背筋。小野会長を見ていると定期的にロボットを連想する。感情が読めなくて、行動が決まりきっている。どっかにコントローラーでもあるんじゃないか。
 あのファミレスで結局俺は会長に協力することを約束した。そうしないと十万以上払って買ったバイクが無駄になるから。
 それに本当に不本意だが、この一ヶ月でこういうことは珍しいことではなくなっていた。
 彼女が生徒会長だということを思い出したのは、出会った翌日。いきなり一年の教室に現れて、俺の机の前に立つと昨日はどうもという挨拶をしたあと、こう自己紹介をしてきた。
『私は小野夏希ともうします。この学校の生徒会長です。長くて一年のお付き合いになりますが、どうぞよろしくお願いします』
 意味不明な挨拶に、口を開けて驚いている俺を無視して彼女は踵を返して教室を出て行った。
 しかしながら、それ以降、この小野会長は俺に目をつけている。俺が何をするにしても彼女のところへ情報が伝わり、生徒会室へ呼び出されることが日常茶飯事になっている。もちろん、行ってやることは少ないけど、行かなければああやって急に現れる。
 そして小言を言われたあと、こうやって会長の仕事を手伝わされる。
 蛍光灯で照らされた階段を上りながら、会長がこちらを見ずに訊いてきた。
「夜の学校は初めてですか?」
「当たり前だろ」
「そうですよね。できればお昼間に済ませておきたい仕事だったのですが、どこかの誰かさんがまた授業から逃げ出したと聞き、何か嫌な予感がしたので探しに行って、今の時間になってしまいました」
「ああ、そうかい。大変だったな」
「いえ、大変ではありません。慣れたものですので」
 嫌味を言ってやったのに、会長は全く気にすることなく、むしろそのままカウンターで返してくる。舌打ちをしてやるが、それにも何も言わない。本当に動じない。
「音楽室は南校舎の四階にあるのですが、行ったことはありますか?」
「ねえな。用事がねえから」
 音楽の授業は必修じゃなくて、選択科目だから音楽室なんて行く用事はまずない。
「では、そこに肖像画が飾られているのもご存知ではないのですね。有名な音楽家の肖像画を、先代の音楽担当の先生がわざわざ自費で購入し、額縁にいれて飾り、それが今でも残っているんです。立派なものですよ」
「うちの学校、そこまで音楽に力いれてたか?」
音楽室を吹奏楽部が部室に使ってることくらいは知っているが、大会で優勝したとか、そんな輝かしい話はきかない。わざわざそんな凝ったことをする理由がわからなかった。
 俺の疑問に会長は首を横に振った。
「いえ、ごく普通です。そうしたのは先生の趣味です。ただ、音楽室っぽいという理由でずっと飾られているんです」
なんだよそりゃと呆れた。ようは、テレビでよく見る音楽室を再現したかっただけじゃねえのか。
「で、それが何だよ」
 急にそんな話題を振ってきたからには何か理由があるはずだ。この会長は基本的に口数が少ない。全く意味のないことは絶対に口にしない。喋ることには絶対、むかつくくらい意味があるはずだ。
 案の定会長は一度だけ頷き、短く、端的に説明した。
「ベートベンが笑うそうです。夜な夜な、声をあげて」

 音楽室の前につくと会長はポケットから鍵を取り出して解錠した。ガチャッという鈍い音が俺たちしかいない廊下に響いたあと、会長が扉を開けた。
「初めての音楽室ならよく見ておくことをお勧めします。あと三年、中澤くんはこの高校にいるのですからいつどこでお世話になるかわかりません」
 三年ちゃんと在学する気などさらさらないし、ましてや音楽室になんて世話になることは絶対にありえないが、口には出さないでおこう。どうせくだらない理屈で言い負かされるのが目に見えている。
 音楽室は別に特別な施しもない、小中学校と同じような本当にただの音楽室だった。教室の真ん中にでかいピアノがあり、部屋の隅々に布をかけられて眠っている木琴などの楽器がある。
そして肖像画が五枚、確かに飾られている。会長がそれを順に指差してながら説明しはじめる。
「右からベートベン、バッハ、モーツァルト、シューベルト、ヘンデルです。どの方の曲も素晴らしく、圧倒されてしまいますよ。中澤くんも聴きますか?」
最後のヘンデルとかいうやつ以外は名前くらいなら知っていた。肖像画の顔も確かにどっかで見たことがある。だが、全く興味がわかない。
「聞くわけねえだろ。眠くなるだけだ」
「それはいいことなんですよ。人が眠りつくとはとても重要です。野生動物は絶対に身の危険を少しでも感じる場所では眠りません。つまり、中澤くんは音楽を聴くことで安心しているんです」
「俺は野生動物と一緒かよ」
「語弊がありましたね。ただ、安心しているのは間違いないでしょう。そしてそれは中澤くんに今一番必要なことかもしれません。やはり今度CDを持ってきますね」
 例え本当に彼女がCDを持ってきたとしても、絶対に借りてやらない。そう決めた。
「で、あんたは本当に怪談話なんて信じるのかよ」
 ベートベンが夜な夜な声をあげて笑う。今時の小学生でも鼻で笑いそうな怪談話を真に受けてここまで来るなんて本当に馬鹿馬鹿しい。会長は「そうですね」と言うと、しばらく黙って、そして間を置いてから人差し指をたて、目を瞑り喋り始める。
「はっきり申し上げて、信じていません。ですが疑っています。そのために確認しに来ました」
「疑ってるってそりゃ、何をだよ」
 よくわからないから問い出すと、会長はまた間を置いてから答えた。
「肖像画が笑うなんてことはありえません。しかし、複数の証言があり、私はそれらを虚偽とは思えませんでした。ですから、私は幽霊や心霊現象を信じてはいませんが、誰かが何らかの意思に従い、そうしているのだと思っています。そしてその意思は決して善意ではないでしょう。仮に善意だったとしても、残念ながら結果が伴っていません。……私はその人物は何らかの悪意によって行動しているんじゃないかと疑っています」
 そこで会長はもう暗くなった窓の外へ目を向けた。そしてグラウンドでまだ練習をしている運動部のいうこと連中を指差して、こちらを見つめた。
「もうすぐ夏休みです。通常ならこの時期は大会と三年生の引退も重なり、部活動はどこも活発化するものなんです。しかしながら、この悪戯のせいで吹奏楽部では怖がる生徒が増えたため、時間を制限しての活動を余儀なくされています」
「いいじゃねえか。別に強豪校ってわけじゃないんだろ」
その言葉に会長は怒ることもなく、ゆっくりと首を左右に振った。
「そういう問題ではありません。やりたいのにできない。それは間違いなく苦痛で、ストレスです。私は生徒会長してそれを見過ごすわけにはいきません」
 俺が思うに吹奏楽部の中にはまず間違いなく「部活がなくなった、ラッキーだ」と喜んでいるやつだっているだろう。むしろそういう生徒の方が多いと思うけど、この会長がそのことを考えてんのかどうか知らないが、とにかく目の前の問題を除去することだけ考えてるらしい。
「吹奏楽部は秋に大会があり、夏は運動部の応援に行かなければなりません。この夏休みの前の時期は、とても重要です。それを蔑ろにするような事態です」
「あー、はいはい、わかったよ。ならささっと終わらせようぜ」
会長の話は長い上にただ真面目で、聞いていて疲れる。早く終わらせて、帰るのが一番だ。
彼女は俺の言葉にこくりと一度頷くと、教室の隅に置いてあった丸椅子を持ち上げて、それを俺に渡してきた。
「は?」
「私では背が届かないんです」
 会長を無理やり俺に椅子を渡すと、ベートベンの肖像画を指さした。
「一番大きな可能性を調べます。機械が仕掛けられているか、どうかです」
 ようやく「頼みごと」の意味を理解した瞬間、マジで嫌になった。


「おい、何もねえぞ」
 上靴を脱いで椅子の上に立ち、肖像画を壁から降ろしてその裏側や、壁そのものも細かく確認するが何か仕掛けられているなんてことはなかった。ただ額縁の上に埃が薄らと積もった肖像画だ。吹奏楽部の連中、ここの掃除をしてないのか、埃のせいで気分が悪くなる。
「中澤くん、肖像画を貸してください」
 会長は俺の報告に返事をすることもなく、そんな要求だけしてくる。なんだよと思いながらも、肖像画をぶっきらぼうに渡した。受け取った会長は、それをまじまじと見つめだす。
「……中澤くん、念のため他の肖像画もチェックしていただけますか?」
「おいおい、五枚ともかよ」
「お願いします」
 肖像画ばかり見つめてこっちを見ないくせに、しっかりとそれだけはやらせようとしてくる。わざとらしくため息をついたあと、仕方なく他の肖像画も壁から降ろし、裏側や壁そのものを、さっきと同じ要領で調べていく。
 十分ほどかけて、すべての確認を終えた。結果はどれも一緒だった。会長の予想と反して、レコーダーのような機械が仕掛けられてなくて、どれも何の変哲もないものだった。
「おい、次はどうすんだよ」
 会長がベートベンを当たり前のように俺に渡してきたので、それを元の場所に戻しながら質問する。
 彼女は腕時計を確認すると、一度だけ頷いた。
「帰りましょう」
「は?」
「もう八時前です。そろそろ帰りましょう。調査はまた明日にします」
「おいおい、結局無駄骨かよ」
 不平を漏らすと先輩は首を横に振った。
「収穫はありました。しかし、今日は撤退しましょう。一番期待してたことも起きませんでしたし、明日にしましょう」
 明日にしましょうということは、俺は明日も手伝わされるのか。嫌になったが、逆らえない以上、文句を言うのも屈辱的だ。俺は丸椅子から飛び降りると、それを片付けもしないで、音楽室の出口へ向かう。
「おら、帰るなら早くしようぜ」
 会長は俺が片付けなかった椅子を丁寧に元の場所に戻すと、急ぎもしないで部屋の電気を消した。
 真っ暗になった室内を一旦見渡した後、会長がとても小さな声で呟いた。
「……これでよし」
 どういう意味かわからなかったけど、会長はそのまま音楽室から出て鍵をかけた。
「さて、帰りましょう。今日はありがとうございました」
「明日もやるんだろ」
「もちろんです」
「なあ、俺は未だに信じられねえんだけど。ベートベンが笑う? ありえないだろ。実際、俺らはずっとあそこにいたけど、何もなかったじゃねえか」
 廊下を歩きながら俺が本心を口にすると、会長は何度も頷いていた。
「そうですね」
「そうですね、じゃねえよ。あんただって忙しいんだから、こんなバカな噂信じることねえだろ」
 他人事みたいな感想に苛ついたのできつめに言うと、すぐさま俺の言葉に会長が何か言い返そうと口を開いたときのことだった。急に会長が足を止めて、その場に静止した。
「おいどうしたよ」
「お静かに」
 会長が急に目をつむって、唇に人差し指をあてながらそう命令してくる。なんだよと疑問に思ったのは一瞬で、俺はすぐにその意味を理解させられることになった。
「……おい、なんだよ、こりゃ」
 それは、声だった。静かで、不気味な笑い声がどこか遠くから聞こえて来る。
 動揺する俺をおいて、さっきまでゆっくりと歩いていた会長が急に踵を返して、駆け足で音楽室へと走っていく。一瞬反応が遅れたが、すぐさま俺もその背中を追う。
 その間にだんだんと声が大きくなっていく。それを聴きながらやはり、あの声は音楽室から聞こえているみたいだと確信した。
 二人で音楽室の前に着くと会長は素早く音楽室の鍵を開けて、その扉を開けた。
 その瞬間だった。
「……やみましたね」
 本当にその瞬間、笑い声は聞こえなくなった。真っ暗な教室では、何も聞こえない。不気味なくらいの無音だけが、俺たちの目の前にあった。
 言葉を失っていた俺に、会長が一瞥をくれた後、いつもと変わらない落ち着いた声で行った。
「中澤くん、無駄骨ではありませんでしたね」
 いつもなら腹のたつその正論も、今は聞き流すことしかできなかった。
 五枚の肖像画が、暗闇の中で無機質な目で俺たちのことを見つめていた。



 次の日の昼休み、俺は正直言うと行きたくない生徒会室へ向かった。あの部屋に自分から行くのは初めてかもしれない。だいたいいつもは「中澤くん、来てください」と会長に呼び出されないといかない。
 ただ今日は会長に聞きたいことがあったから、気分は乗らないけど向かった。
 生徒会室なんていうけど、使ってるのは会長だけだ。別にあの人が変なわけじゃなくて、代々そうなのだと聞く。もう何年も前の生徒会長が、学校内に自室が欲しいと訴えて、何をどうやったのかは知らないけど、学校から一室勝ち取ったらしい。
 そしてその部屋が今でも生徒会長の部屋として使われている。生徒会は他に何人かいるが、積極的に活動しているのは会長だけで、他のやつなんて顔も知らない。
 そんな部屋の前につくと、ノックもせずに中に入っていく。
 生徒会室は他の教室と違い、机や椅子は並べられていない。部屋の真ん中にガラステーブルがあって、それを挟むように黒いソファーが並べられている。そしてそのテーブルの前に、かつて学園長が使っていたという立派な机があり、そこが会長の席となっていた。
「ノックを忘れていますよ、中澤くん」
 会長はいつも通り、そこにいた。ちょうど弁当を食べ終わったところらしく、弁当箱を片付けているところだった。
「どうせあんたしかいないだろ」
「はい。ですが、そういうところから癖付けていきましょう」
 面倒な説教がさっそく始まったので「わかったよ」と適当に返事をして、ソファーに座った。
「それにしても、中澤くんが自分からここへ出向いてくださるなんて珍しいですね。いつもは呼び出しても来てくれないで逃げるのに」
「逃げてなんかねえよ。面倒だからいかないだけだ」
「それを逃げたと言っているんですよ。いいですよ、どうせ捕まえます、いつものように。それで、本日はいかがなさいましたか?」
 むかつくことを言ってくるくせに、本当にいつも通りだった。
「昨日の件だよ。ありゃ、どういう仕組みだ」
 そう、昨日の晩に聞いた、あの笑い声。不気味で気持ち悪い、あの声。未だに耳に残っていて、気分が悪くなる。
 おかげで気分がスッキリしない。胸糞が悪い。誰がどうやったか知らねえが、痛い目をあわせねえと気がすまねえ。
「わかりません。昨日の帰り道、そう説明したはずです」
 そう、あの後、結局二人で帰りその最中も散々からくりを説明しろと迫ったが、会長は一貫して「わかりません」としか答えなかった。
「あれから半日経ってんだ、なんかわかったこととかねえのかよ」
 会長は筒状の水筒でお茶を飲むと、口元をティッシュで拭った後、首を横に振った。
「ありません」
 期待していただけに、短い最低限の答えに拍子抜けする。
「あんたさ、いつもみたいにささっと解決して犯人を見つけ出せよ。殴ってやらないと気がすまねえ」
「暴力行為に及ぶなら、犯人は教えませんよ。ただ、昨日の件で中澤くんも被害者になったわけですから、知る権利はありますね。確かに状況は変わっていません。しかし、私の中ではいつくか可能性が浮かびました」
「それを聞かせろよ」
 それを期待してここまで来たのに、無情にも会長は首を横に振る。
「あくまでまだ可能性にすぎません。口に出すほどのものじゃありません。それに色々と確認しなければならないこともあります」
「なんだよ、そりゃあ」
 何の確認か必要かも説明しないで、会長は壁にかけてある時計に目をやった。
「ちょうどいい機会ですね。そろそろ約束の時間になるので、中澤くんにも同席願いましょう。きっと、貴重な話を聞けるはずですよ」
 ちょうどその時に、ドアが二回ノックされた。会長が驚きもしないで「どうぞ」と返すと、ドアが開き、二人の女子生徒と、一人の男子生徒が姿を見せた。男を先頭に、あとの女二人はその背中に隠れるようにしていた。
「会長、来ました」
 男子生徒がそう会長に声をかけると、彼女は席から立ち上がって三人に向かって頭を下げた。
「お忙しいのに呼び出してごめんなさい。いくつか、質問したいことがありまして。どうぞお掛けください」
 誰に対しても馬鹿丁寧な敬語を使うのは、この会長の癖だ。一年の俺に敬語なのだから、本当に呆れてしまう。
 三人の生徒は少し戸惑っていたようだ。その原因は俺みらいで、怪訝そうな目つきで見てくる。
「なんだよ」
 けんか腰にそう睨み付けてやると、女二人は怖じ気づいて男の後ろに隠れたが、男は明らかに不服そうな顔をした。
「お前、一年の中澤だろ。俺らは三年だ、一年なら敬語を使えよ」
「三年かどうかなんか知らなかったんだよ。敬語使ってほしけりゃ、敬語で喋ってくださいって頭下げろ。そしたら考えてやる」
 いきなり名乗りもしないで、しかも上から目線で向かってくる野郎なんかに、なんで敬語を使ってやらないといけない。
 男は明らかに目を鋭くしたが、結局は何もしてこなかった。せいぜい舌打ちだけだった。
「生徒会室で騒ぎを起こすなら、二人とも退室願いますよ」
 会長が立ち上がって、そう警告してくる。俺としてはそれでも良かったが、男はそうでもなかったようで、すぐさまに「ごめん」と謝った。
「今日は私と彼がお話を伺います。それに異論はありませんか?」
 三人は同時に首を横に振るが、真っ先に異論があったのは俺だ。
「おい、こいつらが誰か知らねえぞ」
「こいつらではなく先輩です。彼らは吹奏楽部の三年です。今回、私に相談にきた子たちです。まず、右側の女の子が橘優さん」
 そういうと右側に隠れて立っていた女がわずかに顔を出して、頭を下げた。少しだけ目がだれた、ショートカットの黒髪の女で、なんだか本気で俺を怖がっているらしい。
「次に真ん中に立っている男の子が、遠藤司さん」
 男はこちらを睨み付けたまま。名前を知ったところで、何も思わない。
「最後が左側の女の子、赤坂明里さん。現在吹奏楽部の副部長になります。ただ、部長の方が現在病気のために長期入院しているため、部長代理ということになってます」
 その赤坂というやつはあまり俺を見ることもなく、一歩進んで会長に「昨日、ごめんね」と謝った。
「夜に調べてくれてたんでしょ。ありがとう」
「いえいえ、気にしないでください。会長として、そうしないわけにはいきませんから」
 どうやら二人は旧知の仲らしく、「でも夏希だって忙しいのに」と申し訳なさそうにする赤坂に、会長が首を横に振って応える。
「赤坂さんには赤坂さんのやるべきことがあったんですから、仕方ないんですよ。さあ、早くお話を始めましょう。三人とも、そこにおかけください」
 三人はいそいそと俺と向かい合うようにソファーに座る。真ん中が遠藤で、女子二人がそいつを囲むように座るのを確認すると、会長が俺の隣へ座ると同時に、しゃべり始める。
「まず、状況を整理しましょう。議題はあの笑い声。あれが聞こえ初めて以来、吹奏楽部でいろいろな推測が広がり、怖がる生徒が増えて、今は時間制限をかけての部活動になってしまっている。あなたがたは、今の状況を打破したい、つまりはあの笑い声の正体をつきとめ、それを仕組んでいる人を止めたい。それでよろしいでしょうか?」
 まるでコンピューターみたいに、必要事項だけ淡々と並べていくと会長は、人間味を感じられない。まあ、いつものことだが。
「うん、そうよ」
「お三方には事前に説明しておりましたが、私たちは昨日音楽室を調査しました。そして実を言うと私たちも帰る間際にその声を聞きました」
 会長が特に何でもなかったかのように、無表情で報告するから三人は一瞬ぽかんとしたが、すぐに赤坂が立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出してくる。
「だ、大丈夫だったの?」
「ええ、彼もいたので」
 会長がそう言って俺を横目で見る。別に俺は何もしてないし、この会長の方がよっぽど落ち着いていやがったけど、とりあえずふんぞりかえっておいた。
「あれが毎晩聞こえれば、怖がる生徒のも当然です。対処しなくてはいけません」
「なあ、喋っていいか?」
 会長がまだ言葉を続けようとするのを、遠慮なしに遮った。会長は別に表情を変えなかったが、目の前の遠藤はうっとしそうな目をする。
「いいですよ、どうぞ」
「なんであんたらはあんな声にそこまで敏感になってんだ。確かに気味悪かったけど、そこまで怖がるもんじゃねえだろ」
 正直、昨日あの声を聞いたときから疑問だった。確かに薄気味悪い声で、そんな声を悪戯かなんかで聞かせてくるやつには腹がたったけど、正直「怖がる」というのがちっともわからない。
 俺の疑問に三人は少し複雑そうな顔をした。それは会長も珍しく同じ反応で、すぐにはっきりとした答えをくれるやつはいなかった。
 ただ、赤坂が妙に慎重になりながらしゃべり始めた。
「正直、一年生にわからない感覚よね。部内でもそうよ、一年の子は気にしないって子が多いわ。……二年と三年の子たちが、怖がってるのよ」
「はあっ?」
 呆れてしまい、そんな声を出してしまった。
「なんだよそりゃあ。先輩だって偉ぶるんだったら、あんな声にびびんなよ」
 俺がそう馬鹿にした途端に、顔を赤くした遠藤が立ち上がって俺に掴みかかろうとしてくる。ただそれを、会長が制した。伸ばした彼の手を掴むと、その目を見ながら首を左右に振った。
「……彼は一年なんです。私たちの気持ちが分からないのは、無理もないでしょう」
「けどっ」
「あとで注意はしておきます。今は、冷静でいてください」
 さすがに面食らった。俺としては軽いジョブのつもりだったから、ここまでマジギレされるとは予想もしていなかった。
 遠藤が不服そうにしながらも座ると、妙な静けさが生徒会室を支配した。なんだか、すげえ悪いことをした気分になる。そんな中、ばつが悪そうにする俺の膝を会長が一度だけ軽くたたいてくる。
「いてっ」
「言葉を選びましょう。……ただ、理解できないというのは、理解します」
 会長はやけに真剣な声を出して、息をすぅっと吸い込んだ。
「話を戻しましょう。……あの声が聞こえ始めたのはいつからでしたっけ?」
「二週間前だよ。私が掃除したあと、ゆっくりしてたら急に聞こえてきた。それ以後、聞こえるようになった。それまではそんなこと一切なかったのに」
 赤坂が間髪入れず応えると、続けざまに橘が喋り始めた。
「最初は悪戯だって決めこんで、いろいろ調べたの。機械を仕込んだのかもしれないって思って、部屋中探した。けど見つからなかったの。ただ……声は消えなかった。いつも決まって。誰かが退室しようとすると声がするの。だから、みんな最後になるのを嫌がって」
 俺はそこでよく分からなくなったから、遠慮もせずにまた口を挟んだ。
「部活って全員で終わるもんじゃねえのか」
 中学でも高校でも部活に入ったことはなかったが、それでもそういうもんだとは知っている。運動部の連中なんて意味もないのにグラウンドに全員で頭下げて終わってる。
 俺が喋ったことに遠藤だけが顔に不快感を出したが、赤坂が普通に答えた。
「うちの学校の下校時間は八時でしょう。だけど、最後まで残ると電車通学してる子とか、帰りが遅くなっちゃうから基本的に六時半以降は自由解散にしてるの。残れる子はその時間を自主練にあてたりしてる。今の時期は基本的に大会のこともあるから特例で全員最後まで残したいんだけど、それができないのよ」
 そういえば俺のクラスでも遠いやつだと二時間近くかけて通ってるって言ってたやつがいたことを思い出した。確かにそいつらからすれば八時に終われば帰宅は十時か。めんどいな。
「うちの部は女の子が多いし、保護者の意見もそういうのに偏るから……」
 赤坂が歯切れのよくない言い方で締めくくった。表情が晴れないところを見ると、こいつはこういった現状が気にくわないみたいだ。確かに部活にいちいち親が口出ししてくるなんて鬱陶しい。
 部長ならそういう声もほかの部員より届きやすいんだろう。
「結局、こういうことが続くとみんな部活に行きたくないって話になるの。確かにうちは別に大会で結果を出してるような強豪校ではないけど……それでも私自身、二年以上、あそこでやってる。せっかくの集大成を、こんな形で邪魔されるのは‒‒悔しい」
 赤坂の怒りがこもった声に、全員が黙った。俺にはこういう真剣さが全然分からない。なにを熱くなってんだよとしか思えない。だからこそ、かけるべき言葉なんて何も浮かばなかった。
「あの声に、聞き覚えはありませんか?」
 静かになった部屋の空気を変えたのは、会長の次の質問だった。三人がそれぞれ顔を見合わせながら、首をかしげる。
 そんな質問されると思ってなかったって顔であり、どういう意味だって顔だった。そんな三人に対して、会長が人差し指をたてて、補足説明をし始める。
「一応、全部活動に昨日までに『最近部活動中に何かおかしなことはありませんでしたか』と聞いて回りました。どの部活も何もないと答えてくれました。つまり、今現在おこってるこの問題は、吹奏楽部にだけ標準を合わせたものです」
 三人の顔色が少し変わる。遠藤は「やっぱりか」という顔だし、橘は純粋に驚いている。赤坂は普通に落ち込んだようで、目を伏せる。俺としては「この人またそんな面倒なことしてたのかよ」と呆れた。
 三人のリアクションなんて気にせず会長が続ける。
「しかも話を聞く限り、誰か特定の個人を狙った行動ではありません。吹奏楽部が標的なんです。目的は、不明です。しかし部活動に対する妨害行為ならほかに方法がありそうなものですが、犯人は今の方法を選んでいます。もしかしたらそれに何か意味があるのかもしれません。ですから、質問しました。あの声そのものが、何らかのメッセージという可能性はありませんか?」
 本当に話が長い。一々理詰めで喋りやがる。ただ、こうして言われるまでそんな可能性はちっとも考えてなかった。そもそも「単なる嫌がらせ」と思ってるし、あんまり真剣に考えてないから当然か。
 それは問題の当事者である三人も俺と同じうようだったようで、ちっともそんなことは考えていなかったらしい。
「あの声? いや、聞き覚えなんてあるわけない。なあ、そうだろ?」
 遠藤が少し動揺しながらも左右の二人に確認をとると、二人ともうんうんと頷いた。
「聞き覚えがあったらなら部員の誰かが言うと思うよ? それに……あんな声、一度聞いたら忘れないよ……」
 橘が肩をふるわせながら、顔を青して断言する。こいつ、さっきは俺に対してびびってると思ったが、単純に恐がりなんだな。遠藤が慰めるようにぽんぽんと肩をたたくのを見ながら、そんな感想を持った。
「そうですか。なら、本当にああいう方法をたまたまとった、そういうことでしょう。なるほど」
 今の言葉に俺は鼻で笑いそうになった。この一ヶ月の経験でわかる。今こいつはちっとも納得なんかしてない。なるほどとか言いつつ、今の可能性を忘れる気はゼロだ。
「では赤坂さん、質問があります」
「何言ってるの、さっきからしてるでしょ」
 赤坂が少しだけ笑いながらツッコむが、会長はしれっとしていた。
「いえ、赤坂さんに個人的な質問です。……どなたかに恨まれていたりはしませんか?」
 その質問に室内の空気が凍った。赤坂は笑ってた顔を固まらせて、俺も驚いて会長を見つめた。残りの二人もフリーズしたが、すぐさま遠藤が立ち上がった。
「おい、ちょっと、何言うんだよっ」
「私は赤坂さんに質問しておりますが」
 明らかな遠藤の抗議に会長は見向きもしないで、まるで獲物を捕らえた獣のように赤坂だけを見つめていた。その態度に遠藤が余計に殺気立つ。
「なんで赤坂一人にそんな質問するんだよっ」
「最初に声を聞いたのが赤坂さんで、彼女が部長代理だからです。吹奏楽部を狙ったものでないと仮定するなら、吹奏楽部の誰かということなります。でも、普通の部員の方を狙ってのことなら、こんな部全体に影響するようなことをするでしょうか? もし犯行が明るみになったとき、リスクが大きすぎます。それにさほど効果的でもありません。しかし、赤坂さんならどうでしょうか? 彼女は部の責任者です。その彼女に対しての行為だというなら、部全体を狙ったことも頷けます。それに最初に声を聞いたときは赤坂さん一人だったのでしょう? なら、余計にそうです」
 感情を高ぶらせる遠藤とは対照的に会長はいつも通りだった。冷静……いや、今に限っては冷徹だ。困っている知り合いに対して、言ってみれば「この騒動はお前が原因じゃないのか」と言ってるようなもんだから。 
 会長が無機質な視線を赤坂に送っていたが、赤坂はそれに対して、ちょっと困ったなという小さな笑顔を浮かべる。
「ごめん、わかんないや。そうならないように気をつけてるけど、そういうのって、自分じゃどうしようもないし……。でも、面と向かって誰かに嫌いだって言われたことはないよ」
 会長は赤坂の答えにに「そうですか」と頷いて、すぐさま頭を下げた。
「ごめんなさい、傷つけてしまいました」
「いいよ。うん、わかってる。考えなかったわけじゃないから」
 会長は頭を上げると、ポケットから何かを取り出した。それはプラスチック製のカードで、どこかの会員カードらしかった。全員がそれを見つめながら首をかしげる。
「この学校から歩いて一五分ほどの場所に借りスタジオがあります。そこと会員契約をしました。これから一週間は、そこで練習してください。三十人収容できる一番広い部屋を予約してます。この高校名を出せば、案内してくれるはずです」
 あまりに突然の提案に全員が驚いてしまったが、最初に口を開いたのは赤坂だった。
「あ、え、うそっ。な、なにもそこまでしてくれなくていいのにっ」
「これで安心して練習できます。顧問の先生にも話を通しています。費用は学校が負担してくれていますので、お金の心配は無用です。思う存分、練習してください」
 その言葉に赤坂の目が一気に潤んだ。そして勢いをつけて、力強く会長の手を握る。
「夏希っ、本当にありがとうっ!」
 会長は手を掴まれたまま、首を横に振る。
「吹奏楽部の日頃の頑張りがあったから、先生方も納得してくださいました。赤坂さん、あなたのおかげですよ?」
 そこから事件の話は一切しないで、感謝しきりの赤坂と謙遜する会長のやりとりがしばらく続いた。そのやりとりが長かったので、俺は途中で飽きてあくびをしたのだが、そのときになって残りの二人の表情に目がいった。
 遠藤はさっきの質問のせいか、まだ納得いってない様子で、ぶすっとしている。橘は体を小さくしながらも、二人のやりとりをほほえましそうに見ていた。そういえば、この二人はなんでここにいるんだ? 部長の赤坂だけでいいだろうに。
「なあ、あんたらなんでここにいんの?」
 直球でそう質問してやると、遠藤は虫でも見るかのような視線を送ってきたが、そんなのどうとも思わない。橘は俺に話しかけられたことが意外だったようで、言葉を出せないでいた。
「……赤坂一人に任せるわけにはいかないって、橘が言ったんだよ。橘と赤坂は幼なじみだからかな。俺はその付き添いだ」
「ほーん」
 聞いて得するような情報でもなかった。俺の態度に「なんだよ、くそ」と橘が小声で毒づく。
聞かなかったことにしてやろう。こいつは相手にするのが面倒だ。殴ったら、うるさそう。
 それからすぐに会長は「今日のところはこれくらいにしましょう」と話を打ち切って、三人は仲良く生徒会室を出て行った。赤坂と橘は最後まで会長にお礼を言っていたが、橘だけはそうはしなかった。
 二人だけになった部屋で、会長は何事もなかったかのように元の椅子に座り直した。
「なあ」
「はい、なんでしょうか」
「今の話でなんかわかるようなことあったか? 別に何もなかっただろ」
「……いえ、とんでもありませんよ?」
 なにがとんでもないのかが気になるのに、それは具体的に答えない。どうせ聞き出しても言わないだろうから、もう質問するのはやめた。その代わり、さっきのやりとりの感想を口にする。
「あんたもひでぇことすんな。普通、あんなこと聞かないだろ」
 さっき赤坂にした質問だとすぐにわかったんだろう、会長は「そうですね」と答え、珍しく眉を下げた。じゃあなんであんなこと言ったんだよと言いたくなったが、やめておいた。
「ひどいことをしてしまいました」
 どうやら自覚はあったようだし、不本意だったみたいだ。
「でも、確信できたこともあります。……中澤君、今日の放課後、またお願いしますね」
 拒否権なんてないくせにと恨みながら、「ああ、わかったよ」と答える。その答えに満足したのか会長は一度頷くと、壁に掛けられた時計をみた後、急に立ち上がった。
「私はこれで失礼しますね。中澤君も午後の授業に遅れないようにしてください。間違ってもここでサボろうなんてしないように」
「うっせえ」
「うるさくはありません」
 会長は荷物をまとめると、そのまま生徒会室から出ようとする。だが、ドアノブに手をかけたところで急に振り返った。
「中澤君」
 また注意されるのかと嫌になりながらも、「なんだよ」と返事をすると全く予想していないことを言われた。
「ありがとうございました。素晴らしいご助力でしたよ」
 こっちが何のことか分からず混乱している最中に、会長はそのまま退室していった。



 放課後になったところで会長から「用事ができてしまいました。午後五時に音楽室集合でお願いします」とメールが届いた。会長からこういう連絡があるのは初めてじゃないが、そもそもメアドを教えた覚えなどないから、一体どこで仕入れたのかといつも疑問に思う。
 とにかく暇になったので、どこかで時間をつぶす必要ができた。校内をふらついていたら教師がうるさく突っかかってくるのが目に見える。なるべく、誰も来ない場所がいいと思って、屋上を選んだ。
 屋上は昼休みはそこで昼食をとるために人が集まるが、それ以外の時間は閑散としていて、人が来ることは滅多にない。
 それなのに俺が屋上に着くと、一人の生徒がそこにいた。
 屋上にはいつも何もないのに、どうしてか机と椅子が設置されていて、そこにそいつは腰掛けていた。見かけない顔の女子生徒で、俺の存在に気づくと微笑を浮かべた。
 白色と規定されている学校の制服だが、彼女が着ているものだけは黒色だった。上から塗ったわけではなく、黒色の生地で造られている。それにもう六月だというのに長いスカートに、七分袖だ。そして手首にはいくつものブレスレットが巻かれていて、重そうだった。
 しかも女子が好んで身につけるようなおしゃれなブレスレットじゃない。数珠とか、曲玉みたなものがいくつも連なったものだ。一見すると、どこの霊媒師かと思う。
 机の上には水晶玉とトランプがあって、彼女はそれを触るわけでもなく、見つめていた。
 なんだか気味が悪い。関わりたくないと直感したので、踵を返そうとしたときだった。
「暇だろ? お話していこうじゃないか」
 そう声をかけられた。人をいきなり暇人扱いするとか、いい度胸だ。体の向きを変えて、ずかずかと彼女へ向かっていく。目の前に俺が立っても彼女は、微笑を浮かべたままだ。腰までのびている黒髪に、長すぎるまつげが不気味に感じる。
「暇じゃねえよ。なめてるとな殴んぞ」
「うーん、そいつは勘弁してほしい。自分が痛いのは嫌いなんだ」
 こちらが怖がらせようと声を低くしているのに、それを気にしてないどころか、少し面白がっている。そういう余裕がしゃくに障った。
「暇でないということはないと思うけど、君がそうじゃないと主張するなら受け入れよう。ただ、忙しかったとしても私の提案は変わらないよ? お話しようじゃないか」
「嫌だよ、誰とも知らねえやつと話す趣味はねえ」
「私かい? 私はしがない、占い研究会の会員だ。聞いたことはないかい?」
 俺が首を縦に振ると、そいつは「おお」と嘆息した。
「知名度はまだまだ低めといったところか。まあ、それでもいい。知られているから良いというわけでもない。知られてないからといって悪いわけでもないか」
 それは話しかけているというより、本当にただの独り言だったみたいで、言い終わるとそいつはうんうんと一人で納得していた。意味が分からない。
「占い研究会は、今は私一人だけの部活でね。まだ正式な部活動でもないけど、こうやって活動している」
「こうやってって、あんた何もしてねえじゃねえか」
「うん? ああ、そう見えるかい? じゃあ、活動してあげよう」
 なんとも適当な女だ。活動しているのかそうじゃないのかさえ分からない。というより、部員一人の部活なんてあるのかよ。正式な部活じゃないしても、じゃあなんでこいつはそんなものを名乗ってるんだ。
 こっちが疑問を巡らせてる間に、そいつは机の上に置いてあったトランプを手に取ると、それをシャッフルしはじめた。
「座るといい。あ、椅子なかったね。今度持ってくるよ。だから今は立っておきなよ」
 別に座っておかなくても良かったが、こういうものの言い方をされるとカチンとくる。こいつはそんなこと気にしてないようだが。楽しそうにトランプをシャッフルしながら、鼻歌をしている。
 そして一分ほどしたら、そのトランプを机に置き、扇形に広げて見せた。
「どれでもいいや、一枚とるといい」
「占いならもっとなんか質問とかするんじゃねえの」
「質問したところで、君が選ぶ一枚は変わることはないよ。前後など無意味だ。きっと結果は、何があろうと最初から決まっている。それはこれに限らず、ありとあらゆることでね。私は抵抗や、努力や、過程というものが嫌いでね」
 マジで意味がわからなかった。ただ、どことなく会長が長々と説明してくる時と似ている。ただ比較するなら会長の方がマシだ。あの人は理解できるように喋るから。
 とにかくこういう場合は「聞き流して、さっさっと言われたことをする」のが一番面倒じゃない。ここ一ヶ月で身についたことだ。
 だから適当に一枚選んで、それを指さした。ちょうど扇の真ん中あたりにあったカードだ。
「これか。うん、まだ捲っちゃだめだよ。さて、どうしてこれを選んだんだい?」
「適当だよ。目に入って、それでいいと思ったからだ。理由なんてねえ」
 そいつはそれを聞くと楽しいそうに口笛を吹いた。
「なるほど、つまりそれは––運命だ」
 風が吹いて、俺の制服や女の長い髪をなびかせた。その間に二人の間に静寂が生まれたが、すぐにそれは死んだ。
「……はあ?」
 こいつは急に何を言い出すんだ。運命? 
「そうだよ、運命だ。君は理由もなくこれを選んだ。だけど理由はないだけで、そこに繋がりがあったんだよ。人は、物は、何もないと繋がれない。コミュニケーション能力や、知識や人脈がどれだけあっても、人はこの世のすべてと関係をもつことは不可能だ。時間的な問題じゃない、きっといくら時間があっても無理だ。だって必要なのは時間じゃなく、繋がりだから」
 そいつは俺が選んだカードを器用に表面が見えないようにカードの扇の中から取り出して、ほかのトランプを重ねて束にした。
「君はこのカードを選んだんじゃない、他のカードを選べなかったんだよ。理由は簡単だ、繋がりがないから関係を持てなかった。けど、このカードには繋がりがあったのさ。そして身に覚えのない、目に見えない繋がりを、人は運命と呼ぶのさ」
 女は一通り喋り終えて満足したのか、そこでようやくカードの表面を見せた。
 現れたのは、ハートの四。
「おお、これはなんというかあれだね。中途半端で、不気味だね」
 またしても意味の分からない言葉を言い、そいつは大げさに天を仰ぎ体を仰け反らせた。
 さっきの言葉もそうだが、今のだってなんでこいつがこんなリアクションをしたのか全然分からない。首をかしげていると、そいつは「うん?」となぜだか怪訝そうにした。
「なんだい、意味がわからないって顔をしているね」
「意味がわかんねえんだよ。さっきの言葉の意味も、てめえのそのリアクションも。ハートの四だろ、別に普通じゃねえのか」
 そいつはわざとらしい両手を叩くと「ああ、そうだね」と、ぶりっ子のように舌を出した。
「さっきの言葉の意味は、きっとこれから学べる。忘れてくれて良い、むしろ忘れた方が良いかもね。さてハートの四だ。中途半端なんだよねえ」
 そいつはさっきのトランプの束の一番上捲った。現れたのはスペードの一。
「トランプの記号にはそれぞれの意味がある。……スペードは死」
 そしてまた同じように一枚捲る。今度はダイヤの二。
「ダイヤは宝」
 そしてまた次の一枚を捲る。出てきたのはクローバーの三。
「クローバーは幸福」
 そしてさっきのカードを人差し指と中指の先で器用に挟み、自分と俺に交互に向けた。
「最後のハートは、愛情」
 なんとなくハートのダイヤの意味は知っていたし、想像もできたがクローバーとスペードは初めて知った。今後絶対に活かせない知識だから、ものの数日で忘れるんだろうが。
 女は四枚のカードを並べて、口元に微笑を浮かべながら話を続ける。
「一般的に、意味からも分かるとおり、スペードは不吉なものだね。ダイヤはちょっととられ方によるかな。しかし、ハートとクローバーは歓迎される。意味的にもそうだろう。しかしながら、ハートの四。愛情と不幸が入り交じっている」
「いやだから、それがわかんねえっての」
「考えなよ、君。頭を働かせるんだ。首からは上は飾りでつけてるのかい? 知らないのも、知ろうとしないのも罪だが、どちらが重罪かというと後者だ。まあ、どちらしにしても『損をする』という罰がついてまわるわけだけどね」
 なんだか、話を聞いていると会長と話してるときのことを思い出す。ただ、会長は必要なことを事細かく説明するから話が長くなるが、こいつの場合は違う。肝心な部分ははぐらかしている。そのくせ、必要ないことをぺらぺらと喋る。
 似てるけど正反対だ。
 ここで会長のことを思い出しても仕方ないので、カードのことを考えることにした。
 愛情と不幸が入り交じっている? 意味がわかねえなと、やっぱりすぐに考えるのをやめようとした時、とてもくだらない可能性が浮かんだ。
「……おい」
「なにかな」
「まさか、四が不吉な数字だからとかいうんじゃねえだろうな」
「おお、大正解だ」
 女は一人で楽しそうに拍手をしやがる。そのときに手首につけているいくつものブレスレットが音をたてた。あまりのうざさにそれにさえ腹が立つ。
「……なめてんのか」
 声を低くして脅すように問い詰めると、女は拍手をやめて、いやいやと首を左右に振り、なぜかそのときに口元の微笑を消した。
「なめてる? いいや、そんなことはないよ。確かに君という人間を味見したかもしれないけど、なめるほどじゃない」
 女が急に顔を少し伏せたので表情がうかがえなくなった。長い前髪が垂れて、カーテンみたいに女を隠す。
「今のは馬鹿にしたわけじゃなく、本当に中途半端なんだよ。愛情と、四––つまり、死がはいっている。愛と死だ。どちらが歪かというと、私は愛だと思う。あれほど理不尽で、不合理で、不条理なものはないからね。しかしながら、死はある意味、理路整然としている。やつは理だからね。みんな、それを通過する。例外はない。そんな整ったものと、愛情というグチャグチャのものが混ざっている……。これは、不気味だよ」
 さっきまで俺らを遠慮なく照らしていた太陽が、急に雲に隠れたので少しだけ周囲が暗くなった。
「言ったとおり、君はこの不気味なカードと運命があった。運ばれたのか、運んだのか、それはわからない。しかしながらその命(ハート)と君は確かに繋がっている。さて……これは、おもしろいねえ」
 そこで肩を小刻みに震わせながら、クククッと笑い始めた。話が長い上に、明らかによく言われていないことだけは分かったので、イライラしてくる。この女にしょうもない時間をとられただけじゃなく、よくわからないが侮辱されたと思う。
 机でも蹴飛ばしてやろうと後ろに一歩下がった瞬間だった。
「恋をしたことはあるかい?」
 さっきまで俯いてやがったくせして、突然顔をあげてそんなことを訊いてきた。しかも元通り、口元に微笑を浮かべながら。その急な変化に一瞬驚いてしまい、動きをとめてしまった。
「は、はあ?」
「恋だよ。知らないってことはないだろう。やめてくれよ。私だってあれが何か知っているが、あれがどういうものかを説明するのはうまくできそうにないんだ」
「知らねえわけねえだろ」
「知ってるなら答えなよ。君は人を急かすくせに自分だってすぐには答えないなあ」
「そんな質問いきなりされたらびっくりするに決まってんだろ。なんだよ、どういう意味があるんだよ」
「物事に一々意味なんて求めない方がいい。それほど無意味な行為はないから」
 どうやらこっちの質問になど答える気はないらしく、女はそれで黙った。なんだか、ペースを完全に持っていかれてる。うざったいとは思いつつ、どういうわけか、力尽くで話を終わらせようという気もおきない。
 最初にこの女が最初に言った通り、俺は暇なんだろうな。
「ねえよ」
「そうかい。つまり君は赤の他人を愛したり、逆に愛されたりしたことがないわけだ。いや、そう怖い顔をしないでくれ。私は馬鹿にしてるわけじゃない。いいかい、そんな経験はあってもなくてもどっちでもいい。ないからと言って恥じるものではないし、あったからと言って誇るものじゃない。むしろそんなもので誇るなら、そんなことでしか誇れないなら、その哀れな人生を盛大に恥じるべきだ」
 女がさっきのトランプの束から適当に一枚引き抜いて、それを見せてきた。ハートのエースだ。こいつ、本当はどこにどのカードがあるのか把握してるんじゃないのか。
「私も恋をしたことがない。したことはないし、知ったことではないと思ってる。さっき言ったように愛は不合理で、理不尽で、不条理だからね。そんなの嫌いなのさ。恋に堕ちている人たちを見るたびに思う、憐れだなって」
 俺も恋なんて知ったことじゃないと思ってる。初めてこの女と意見が一致したと思ったが、さすがにここまでひねくれていない。ただ、憐れとまでは思わないが、馬鹿だとはいつも思ってた。愛だが恋だが知らないが、そんなもんに身を削ってるやつらを見ると鼻で笑いたくなる。
「……で、急にそんなこと訊いて、本当に何なんだよ」
「言ったろう、意味なんて求めるなって。あったところで、それはきっと存在するというだけで、無いに等しいものだよ」
 女が急にトランプの束を手にして、立ち上がった。そして何事もなかったみたいに、椅子も机も、ついで一度も使わなかった水晶玉もそのままにして、その場を去ろうとするので「おいっ」と背中に声をかけて呼び止めると、足を止めずに振り向いた。
「楽しかったよ、中澤君」
 こっちが言う前にいきなり名前を呼ばれたのでドキッとしてしまう。なんでこいつは俺の名前を知ってるんだよ。
 こっちが困惑している最中、女は勝手気ままに喋り続ける。
「自己紹介していなかったね。私の名前は宮塔夜風(みやとうよかぜ)。覚えておいてくれ。……それじゃあ、またね」
 さっきまでの微笑と違い、目を細めて唇をつり上げてるという嗜虐的な笑顔をした後、片手を小さく振りながら宮塔は屋上を立ち去った。
 雲に隠れていた太陽がまた出てきて、風が少し吹いた。



 五時を少し過ぎてから音楽室へ行くと、すでに会長が到着していて、肖像画を下から眺めていた。俺が来たことに気づいても、眉一つ動かすことはなくて、こんにちはとだけ挨拶してきた。
「七分ほど遅刻ですよ。ただの遅刻ならいいのですが、何かトラブルに巻き込まれたりはしていませんか」
「ねえよ」
「では、トラブルに巻きこんだりはしていませんか?」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味です。いえいえ、何事もにならそれでいいです」
 会長はいつも通りの調子で、おそらく自分も約束を引き延ばした負い目を感じたんだろう、あまり責めてくることはなかった。
 何事もなかったってわけじゃない。あの奇妙な、宮塔とかいう女との接触は間違いなく異質なことだが、じゃあれを何事だときかれても、うまい言葉が出てこない。
 だから、話すことはなかった。会長に訊けば、あいつが誰でどういうやつかわかったかもしれない。全校生徒の名前と顔を覚えているんじゃないかというくらいの記憶力の持ち主だから。
「何か用事があったのか」
「ええ、急用でした。少し借り物をしていました。貸す条件に、色々と報告しろと言われてしまいまして。一時間で切り上げられたので良かったです」
「報告ってなんの? あと借り物ってなんだよ?」
 そこで会長は珍しく「クスッ」と小さく笑った。この鉄仮面にしては珍しい。初めて見る表情じゃないにしても、ちょっと驚いてしまう。
「なんだよ」
「いえいえ、失礼しました。なんだか質問ばかりでおかしくなってしまいまして」
 会長は「あれです」と、音楽室の隅に置いてあるアタッシュケースを指さした。高校の教室には似合わないもので、なんだか音楽室にそんなものがあるのが、すごい違和感を感じる。
「なんだよあれ。金でも入ってんのか」
「私も入れ物は別のが良かったです。ただ、貸してくれた人が言うには『雰囲気作りが大切だ』ということでして……。あの方の仰ることは、時々よくわかりません」
「そのあの方ってのが貸しててくれた奴か。誰だよ」
「この高校のOBです」
 会長はどういうわけか、それ以上の説明はしなかった。いつもならどういう人かまで聞いてもないのに説明するくせに、なぜかそこだけは端的にすませた。
 珍しいこともあるもんだと思いつつ、そこにつっこむことはしないでおいた。
「で、中身はなんだよ。アタッシュケースが似合うもんってなんだ」
「少し物騒なものですよ。アタッシュケースが似合うかどうかわかりませんが、確かに近い空気は持ってるかもしれませんね」
 会長はそう言いながら、アタッシュケースに近づき、それを両手で持つと教室のちょうど真ん中あたりに持ってきた。ご丁寧に暗証番号のロックがかかっていたが、会長が熟れた手つきで解錠し、ケースを開けた。
 中には、見たことが無いものがはいっていた。トランシーバーというか、一昔の携帯ラジオというか、そんな感じの見た目でアンテナっぽい黒くて細い棒が飛び出ていた。
「なんだ、これ」
「盗聴器発見器です」
「……はぁ?」
「少し言いづらいですし、あまり言いたくないので、二度は言いませんよ?」
 会長はばつが悪そうで、自分が何を持ち出しているのか理解しているようだった。
「おいおい、あんた、どこでこんなもん買ったんだよ」
「ですから、私は借りただけです。購入ルートまで把握しておりません。訊きもしませんでした。ただ、インターネットでは売っていたりするそうです」
 珍しく会長が目をそらして、どこか投げやりに答えた。どうやら今そんな物騒なものを手にしてるのは、彼女の本意ではないらしい。
「うちのOBってのは何者なんだよ」
「あの人のことは、わかりません」
 つくづく、この危うげな機械を貸したやつのことは話したくないのか、そもそも本当にわからないのか、会長は「とにかく」と、無理矢理に仕切り直した。
「今はこういった機械が必要なんです」
 会長はそれ以上はこの話題を出したくないのか、素早くアタッシュケースを閉じて機械の電源をつけた。会長の珍しい態度が少し面白かったが、それ以上追求しないことにした。
「で、なんでそんなもんが必要なんだ。盗聴器なんて、仕掛けられてねえだろ。今ここで起きてる問題は、音を盗まれることじゃなくて、音をたてられることだろ」
「昨日の夜のこと、覚えていますか?」
「人の記憶力をどんだけ馬鹿にしてんだよ」
「そういう意味ではありませんよ。私たちはここで音をたてる機械があるかもしれないと捜査をしました。しかし、そういったものは見つからなかった。そして帰宅するとき、扉の鍵を施錠し、廊下を歩き始めたところで笑い声が聞こえました。間違いありませんよね?」
 俺が一度「おう」と頷くと、会長は人差し指を立てた。
「タイミングが良すぎませんか?」
 それは思えば当たり前の疑問だった。確かに、長い間ここにいたのに、その間には何も起きなくて、出て行ったところで笑い声がしはじめるなんて、都合がいいといえば、都合がいい。
「最初、赤坂さんが声を聞いたときも退室するところだったと言ってました。そのほかの方もそうです。最初はこれも何か機械的な仕掛けがあるのかと思いましたが、そうではありません。その証拠に赤坂さんが声を聞いたときに、彼女はまだ鍵もかけず、ここを締め切っていない状態でした。対して、私たちはどうだったでしょうか。鍵をかけ、ここから離れて少し経ってから声を聞きました。この誤差は、機械ではありえません」
 会長はそこで間を置き、息をすぅっと吸い込んで、はっきりと断言する。
「あの声は人為的なものです。そして何か仕掛けをして発生させています。そしてその犯人は、常にここを見張っているんです」
 経験則でわかる。
 会長がここまではっきりと言い切ったことに、外れは無い。


「おおよそ、そんな方法が限られています。カメラしかないでしょう」
 起動した盗聴器発見器は電波を拾えないラジオみたいに、ガーッ、ガーッと不快な音をたてる。そんなことを気にしない会長は、それを片手に部屋の中心から動き始めた。壁をそうように、音楽室を一周しはじめる。
 俺はそんな彼女の後ろについていった。
「カメラが仕掛けられているのであれば、盗聴器も可能性として十分にあります。ですのでそれを調べることにしました」
「まあ、理屈はわかってやるが、それならまずカメラが先なんじゃねえの?」
「いえ、後回しで大丈夫です」
 どうして大丈夫なのかは説明しない。いつものことだから気にしないけど。
「でもよ、機械的な仕掛けはなかった。それは吹奏楽部の連中、それに俺ら、両方が検証済みだろ」
「はい。私たちは確かに調べました。いいですか、中澤君……その結果、私はあれを機械的な仕掛けであると断言しています」
 会長が何を言ってるのか理解できなかった。あの検証は彼女が進め、俺は手伝っただけだ。ただ作業のほとんどは俺がやった。だからこそ、そんなものなかって言ってる。事実、会長もそれに納得していた。
「意味、わからん」
「大丈夫。意味ならちゃんとあります。そして、きっとわかります」
 会長は壁沿いを一周すると、今度は部屋の中心に戻り始める。さっきから発見器に変化はない。ずっと不快な音を出してるだけで、作動してるかどうかも怪しい。ただ会長がこっちを見ずに、小さな液晶画面を見つめてるところを見ると、たぶんちゃんと仕事してるんだろう。
「理屈はいずれ説明します。今はこの調査が先です」
 しばらくして会長が足を止めて、発見器の電源を切った。そして「ふぅっ」と息を吐く。
「どうやら、盗聴器はないようです。これで少し安心しました。この機械はすぐにお返ししましょう」
 会長はすぐさま発見器をアタッシュケースに戻すと、何か忌々しいものでも扱うように、ちょっと力を込めてケースのふたをを閉じた。
「さて、おかげで少し安心しました」
「まだカメラが残ってんだろ」
「ええ。ですが大丈夫です。……だからこそ、と言うべきかもしれません」
 またしても意味不明な言葉を口にした会長は、つかかつかと例の絵画の下にいく。そしてそれを見上げながら、急に何か小声でぶつぶつと呟きだした。
 これはこの人の癖で、何かを考えるときこうなる。聞き取れない声で、むちゃくちゃ早口で呟きはじめる。おおよそ何を言ってるかわからない。声をかけても反応しない。だから、こうなったらこっちは待つしかない。
 たぶん、今まで集めたた情報と、考えられる可能性を自分の中で組み立てるんだと思う。彼女の中での最後の答え合わせだ。
 そしてつぶやきが止まると、会長はこちらを見た。
「考え、まとまったのかよ」
「はい。ところで中澤君」
 結構重要な質問なのに、会長はなんてことはないと言うようにさらっと答えて、しかもすぐに切り替えてきた。慣れてきたとはいえ、むかつく。
「なんだよ」
「恋をしたことはありますか?」



 宮塔夜風は夜が好きである。名前に夜という字があるから、という理由では無い。そもそも彼女は自分の名前に何の執着も無い。もし明日から花子と名乗れと命じられても、抵抗も抗議もしないだろう。
 彼女が夜を好む理由は、その闇が全てを隠してくれるからだ。何をするにしてもやりやすい。
 こつこつという足音をたてながら、夜の校舎を進む。もうとっくに八時を過ぎていて、下校しなければならない。ただ彼女はそのルールを守るつもりはない。違反したところで、罰はしれていて、そしてそれを下す人物はいない。この学校において、彼女は自覚できるほど特殊だった。
 渡り廊下を歩いていたところで、ポケットにしまっていた携帯電話が震えだした。液晶画面も見ず、応答する。今電話をかけてくる人物など、一人しかいない。
「もしもし」
 普通に応答してやると、その人物はずいぶん慌てているのか、声を荒くしながら色々と質問してきた。うるさい、すぐに電話を切りたい。ただ、それでも彼女はニヤッと笑った。安い代償だと思った。
「うん。準備はしてあげてる。早く来なよ。正面の校門じゃなくて、裏門からお入り。そこは鍵を外しておいたから。あとは勝手にしてくれよ」
 まだ何か言いたいのか、相手は色々とわめいていたけど、彼女はそこで通話を終えて、すぐさまその電話番号を「着信拒否」に登録する。どうせ、二度と通話することはない。
 夜の静けさが彼女の全身を包む。
 窓から月を眺める。月が憎いくらいの光を放っていて、彼女はそれに照らされた。
 鬱陶しい光だなと思いながら、彼女は胸ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確認する。今の電話の人物がここにくるまで、十分。そして「彼女」がことを片付けるのに、二十分といったところか。合計三十分。
 また携帯電話が震え出す。誰かと思い確認すると、思わず笑いがこぼれた。
 いい暇つぶしになりそうだ。



 その人物が音楽室の扉を開けると、真っ暗で何も見えなかった。どういうわけか、カーテンまで締めきられていて、夜の頼りない光まで遮断されていたからだ。少し動揺しながらもポケットからスマホを取り出し、ライトをつけた。
 カーテンを閉めた人物については、検討がついていた。そもそもこの教室の鍵を開けておいてほしいと彼女に頼んだのは自分だ。他にいるはずがない。
 その人物はライトの明かりを頼りに、まずは近くにあった丸いすを手に取った。そして音楽室の隅の天井に設置されている、スピーカーの下にそれを置き、足場にした。
 スピーカーの上には小型のカメラがあった。二週間以上前に自分が設置した。ネットで安く購入したものだったが、これがなければ計画は進められなかったし、今こうして自分の危機を排除することもできなかっただろう。
 カメラを回収し、すぐさま丸いすから飛び降りた。カメラはこれでいい。あとは、肝心のあれだ。
 計画は完遂できなかった。それでもいい。少なくともあの騒動が自分の犯行だと露見することを思えば、仕方ないことだ。
 いやそもそもこんな騒動に発展するなんて思っていなかった。だいたい、生徒会長が出てくるのがおかしい。あんなの予想していない。あれのせいで全部台無しだ。
 不満や、文句がたくさんある。けど、それは後回しだ。
 絵画のところまで歩いて行き、それらを見上げる。……こんなのが笑うはずない。考えたらわかるだろ。ただの悪戯じゃないか。なんでこんなに大事になってるんだ。
 そこで「あ」と声が漏れた。しまった、忘れ物をした。すぐに取りにいかなければ。その人物が踵を返し、扉に戻ったところで、、また「あ」と声を出してしまった。
 扉が閉まっていた。当然、その人物は閉めていない。気味が悪いと思いつつ、開けてみようとするが、なぜか鍵がかかっていて開けられない。
「お、おい……なんだよ、これ」
 困惑して、混乱して、どうしようかと足を一歩引いたところで、急に背中に何かがった。
「う、う、うわぁぁぁぁっ」
 そんなみっともない声を出して、逃げようとするが目の前の扉は開かない。ガチャッガチャッと何度も扉を開けようとしてたところで、体ごと扉にたたきつけられた。
「がっ」
「きみわりぃ悲鳴あげんな。マジで腕でも折ってやろうか」
 聞き覚えのある声だった。でも、恐怖のせいで頭が働かず誰かは思い出せない。
 開かなかった扉が、何もしてないのに急に開いた。そのせいで押さえつけれていた体が支えを失い、そのまま顔から倒れてしまう。なんとか手で支えて、顔を廊下に打ち付けることは避けたが、自分を押さえつけていた人物に今のは予想外だったらしく、「うぉっ」という声をあげて、同じく倒れた。
 その隙を見逃さず、一気呵成に立ち上がり走りだそうとするが、またしても恐怖のせいで足が思うように動かず転んでしまう。
 転んだ彼の前に、足が見えた。女子生徒の、綺麗にそろえられた両足。上履きにも、白のソックスにも汚れ一つ見当たらない。
「中澤君、暴力はいけませんと言いましたよ」
「あんたなっ、急に開けんなよ! あぶねぇだろっ!」
「危ないのは中澤君です」
 目の前にいる人物と、さきほど自分を押さえつけていた人物の口論を聞きながら、思い出した。そうだ、あの声は中澤だ。生徒会室で会った、一年生だ……。そして目の前に立つ人物も、自然と誰か分かった。
 ゆっくりと顔を上げていくと、彼女も視線をあわすようにしゃがみ込んだ。そして視線があうと、見慣れた無表情で挨拶してくる。
「こんばんは、遠藤君。下校時間は過ぎていますよ?」
 人のこと言えるのかよという反論は口にできなかった。
 彼女が右手にもっていていたレコーダーが、自分の計画が露見したことを全て語っていた。



 呆けて立ち上がらなかった遠藤の首根っこをつかみ、そのまま音楽室の中へ連れ戻して、投げ捨てるように彼を教室の真ん中へとやる。びびってちゃんと歩けないのか、よろよろとした後にまた転んだ。
「中澤君、さきほどの私の注意が聞こえませんでしたか?」
「今のはこいつが勝手にこけただけだろ」
「乱暴してはいけません。今度、ゆっくり話し合いましょう」
「絶対にやんねえ」
 会長は音楽室の扉をしめると、締め切っていたカーテンを開けていく。真っ暗だった音楽室に月明かりが差し込んできて、ずいぶんと暗さがマシになる。会長は最後に電気をつけて、ようやく満足したようだ。
「暗くてお話するのも嫌になってしまいます。私、夜はあまり得意ではありません」
 誰に聞かれたわけでもないのに、そんな告白をする。いや、今のはもう独り言だな。
「で、こいつどうすんだよ? 締め上げるか?」
 未だに音楽室の真ん中で顔を青くしてる遠藤を指さしながら訊くと、会長は首を横に振った。
「そんな選択肢はありません。彼には色々確認しなくてはいけないことがあります」
 会長は遠藤の側によると、未だに会長を直視しない立場の前に正座した。
「中澤君が乱暴を働いてしまい、申し訳ありません。……ただ今回ばかりは、あなたにも非がありますよね?」
 まるで教師が生徒を諭すときのような口調だ。それにも遠藤は答えず、ただ俯いている。
「……あの笑い声はあなたの仕業。間違いありませんか?」
 答えない遠藤を無視して、さっそく会長が本題に入る。
 会長は答えを待つためか、次の言葉を口にしない。無音がずっと続いた。そんなじれったい状況に耐えきれなくなり、俺は遠藤のポケットに問答無用に手を突っ込んだ。
「お、おいっ」
「黙っとけ。ぶん殴るぞ」
 そう睨み付けてやると、あっさり抵抗するのをやめた。俺はポケットの中のカメラを引っ張りだし、それを会長に投げ渡した。
「これが証拠じぇねか。現行犯だよ、現行犯」
「……やっぱり話し合いが必要ですね」
 会長はカメラを手にしながらも、そんな決意をはっきりと表明した。うわ、マジになりやがった……。
「……ただ、確かにこれは動かぬ証拠ですね」
「よく言うぜ。それを期待してたくせによ」
 俺の言葉に遠藤が「へ?」と馬鹿みたいな声を出して、俺と会長を交互に見る。
「てめえはこのカメラの映像を見て、急いで駆けつけたんだろ。会長が怪しげな機械で部屋中を調べてるのが怖くなった。違うか?」
 指さしながらそう問い詰めてやると遠藤は「ぐっ」と言葉に詰まった。さっきからこいつまともな声出してねえな。
「ばぁか。お前はな、会長に踊らされたんだよ」
「ど、どういうことだよ……」
 ようやくはっきり喋りやがった。ただ、俺が何を言ってるか分からないようだ。無理もないか。
 数時間亀の記憶を思い起こす。

10

「なんだ、その質問は」
「いえ。ちょっと興味があったというか、確認したかったというか、そんなところです」
 考えがまとまったかと思えば、急にそんな意味不明なことを聞いてきやがって。ていうか、この質問さっきもされたばっかりじゃねえか。なんだよ今日は。どいつもこいつも色気づきやがって。
「ねえよ」
「そうですか。それなら、仕方ありません」
 宮塔と違って、まるで予想していたかのように、薄い反応しかよこさなかった。
「そういうあんたはどうなんだよ」
「……さあ。忘れてしまいました」
 会長はそんな適当な答えで、それ以外はなにも喋らなかった。なんだか答える前に間があったし、少し寂しそうなのは気のせいか?
「で、その質問に何の意味があんだよ」
 それこそ宮塔と違って、会長がそんなことを訊いてきた以上、意味があるんだろう。会長はこの質問にはっきりと答えた。
「今回の件の犯人は、遠藤君です」
 いきなりの断言のせいでとっさに言葉がでなかった。
「そして動機は、橘さんでしょう」
「ちょ、ちょっと待て。もっとわかるように言いやがれ」
「ですから、恋です」
 ですからとか言われてもわからない。会長は、なんだかなんとも言えない表情のまま、俺を見つめていた。
「橘さん、恐がりでしたよね」
「橘っていえばあの引っ付いてきてた女か。……まあ、確かにびびりだったな」
 生徒会室での出来事を思い出す。はっきりと喋らず、年下の俺にさえびびっていた。
「そして遠藤君は彼女のそういうところを理解しているようでした。私、ずっと考えていました。この騒動、一体どういう効果があるのか。しかしメリットというメリットは思い浮かびませんでした。なぜこんな方法なのか、なぜ吹奏楽部なのか」
 会長は人差し指をたて、目をつむった。
「実は犯人はあの三人の中にいました。それはもう、昨日からわかっていました」
「はあ?」
「中澤君、私がお昼に三人になんと言ったか覚えていますか。取り調べを開始した直後です」
 頭を掻きながら、昼間のことを思い出す。あんまり真剣に聞いてなかったから、思い出せる自信はなかったが意外と簡単に会長が何を言いたいのかわかった。
 そう、会長は取り調べをはじめたあと、こう言っていた。
『お三方には事前に説明しておりましたが、私たちは昨日音楽室を調査しました』
 なるほどわかった。
「つまり、あれが機械的なことだとするなら、その仕掛けをできるのは事前に俺らがここに来ることを知ってた奴に限られるってことか」
 会長は少し唇を綻ばせて「はい」と答えた。
「ですので、私は今日あの三人から話を聞くことにしました。結果は、中澤君のおかげで犯人の特定にまでいたれました」
「そういや言ってたな、なんだっけか、あれ」
「素晴らしいご助力でしたよと言ったんです。実際、そうでした。私はあの場で、三人の、特に遠藤君と橘さんの関係に気づけました」
 関係って……普通の友達同士にしか見えなかったけど、会長には何が見えたっていうんだよ。
「中澤君が質問していましたよね。橘さんと遠藤君に、どうしてここにいるのかと。訊き方は乱暴でしたが、遠藤君の答えはヒントになりました。彼は、自分は付き添いだと答えてました。しかも、橘さんが赤坂さんをほっとけないという理由でついてきたのに反し、彼はそれを理由としなかった。あくまで橘さんがそう言ったから、その付き添いだと答えました」
「そういえば、そんなこと言ってたな」
 というか俺がその質問をしたとき、会長は確かに赤坂と話していたはずなんだけど。どさくさに紛れて、ちゃんと聞き耳をたててやがったか。
「つまるところ、橘さんを放っておけなかったというわけです」
「ああ、よめてきたぜ、つまり、遠藤は橘に惚れてると言いたいわけだな」
 会長は一度こくんと頷いたあと、鬱陶しいことに「先輩には『さん』をつけてください」とちゃんと注意してきやがった。適当に聞き流す。
「今回は大目に見ますね。話を戻しましょう。今の私の考えだと、この笑い声の謎も解けます」
「いや、それはわかんねえ。部活で男が女に惚れた、それだけだろ。あれの何の関係があるってんだよ」
「もうすぐ、私は卒業します」
「……はあ?」
 いきなりそんなことを言い出した会長に、本気で意味がわからなくなる。
 会長は窓の方へ歩き出した。そしてオレンジに染まる夕暮れを、特にまぶしそうにすることもなく、手を前に組んでまっすぐ見つめていた。
「私、三年生なんです。だからあと、半年と少しで卒業します」
「それくらい知ってるよ。それがなんだっていうんだよ」
「時間があるようで、ないんです」
 会長は横に立つ俺を見ると、なぜか遠い目をした。
「半年です。でもその中には、夏休みや冬休みもあって、しかももう受験が本格的に始まります。焦っている子も多いですよ。そして彼がそうだとしても私は驚きません。何か動かなければと考えても……。特に部活は三年生は引退が近いですからね。遠藤くんが橘さんとの関係を進展させたいと考えたとしても、それとはとても自然なことでしょう」
「告白でもすりゃあいいじゃねえか」
「そうですね。そうするつもりでしょう。しかし、失敗したら、嫌じゃないですか」
「告白ってのはそういうもんだろ」
「ええ、そうです。だからこそ、告白する前に確実に成功するようにしておきたい。そう思っても、これもまた自然です」
 会長が目を細めた。それは夕日がまぶしいとかではなく、何か、思い出したような、そんな感じだった。ただめがねの向こう側の心理までは読み取れない。
「橘さんは恐がりです。もし今回みたいな騒動が起これば、きっと怖がったでしょう。仮に、その問題を身近な男の子が解決してくれたなら、どう思うでしょうか?」
 身近に起こった意味不明な現象を、日頃から仲良くしていた男が解決する……。思わず「けっ」とつばを飛ばしたくなった。
「少女漫画かよ」
「ええ、でも、素敵です。素敵がゆえに、現実にはそう起こりません。そうは起こらないから、起こすしかありません」
 会長は頬を指先で二度ほど掻き、はぁっとため息をついた。
「心霊現象を起こす。それによって橘さんが怖がり、それを自身が解決する。これが遠藤くんの計画でした。困ったものです。恋は応援してあげられますが、こういう手法をとられてしまうと、私は止めるしかありません」
 会長は本当に困っているようで、夕日のせいでオレンジに染まった顔がうかないものだ。
「でもどうしたってあいつは今日までほっといたんだよ。解決するなら、さっさとすればよかっただろ」
「たぶん、時期を見計らっていたんでしょう。問題が起きてからすぐ解決しては、疑われてしまいますから。しかしそうしている間に赤坂さんが予想外の行動にでてしまった」
 その予想外の行動ってのは簡単にわかった。
「あんたに相談したってことか」
「はい。これによって遠藤くんはタイミングを逃しました。すぐには解決できなくなった。それで私がどういう調査をするのか知りたくて、なるべく監視の目を光らせました」
 けどそれが仇になったわけだ、会長は最初からある程度ターゲットを絞ってたんだ。たぶん、部内にいるとは決めつけてた。それが一番自然だからな。基本的に音楽室って鍵がかかってるし。
「そして私が調べるのを狙って、あの笑い声を聞かせた。怖がって逃げてくれることを望んだのでしょう」
「でもそれが逆に、あんたからすりゃ特定に至るヒントになったわけだ」
 会長は反応しなかった。この人から言わせれば罠にかけたわけだから、あんまり素直に肯定したくないんだろう。
「だから質問したんです。恋をしたことがありますかと。男の子って好きな女の子のためには、こんなことまでしてしまうものなんですか?」
「知るかよ、あいつがおかしいだけだろ」
「あいつではなく、先輩です」
 なんでこんな状況でもこんな小言が言えるのか全くわかんねえ。今回ばかりは聞き流すのもばからしく「知るかよ」と返した。
「それで、犯人はあいつだとして、方法が未だにわかんねえんだけど。というか、むしろそれが一番問題だろ」
 会長は体の向きをくるりと変えると、そのまますたすたと歩き出し、なんと音楽室から出ようとした。
「お、おい」
「歩きながらお話しましょう。この後、他にも行かなければならないところがあります」
 いつものように、それがどこなのか、なんでなのかは説明しないで会長はそのまま退室した。
「ああ、もうっ」と悪態をついた後、その後を小走りで追うと、すぐに追いついた。
「どこ行くんだよ」
「中澤くん、昨日の夜、私たちはあそこを調べました。結果、機械は見つかりませんでした」
「ああ。でも、あんたはあれが機械だっていうんだろ」
 会長が歩きながらこくんと一度頷くと、ちょうどそのときに通りかかった生徒に手を小さくふった。その女子生徒は大きく手を振りかえしながら、廊下を走ってどこかへ消えた。
「……廊下は走らないでくださいと言っているんですけどね」
 そんな決まりを律儀に守ってんのはあんただけだよという言葉が、喉まで出たが飲み込んだ。そんなことはありませんと、言い返されるのが目に見えてる。
「話を戻しましょう。正直に言いますと、私はある程度の予想をつけた状態で、昨日調査をしていました。あれはいわば、確認だったんです」
 今更何を言われても驚かねえけど、この一言にはただ腹がたった。
「……じゃあ何か。てめえは、仕掛けに予想はついていた。ただただ、実際に声を聞くために昨日、俺を連れ回したのか」
「ええ、そうです」
 悪びれもせずあっさりと肯定しやがる。その態度に拳をぎゅっと握るが、すぐにそれをやめた。もう、何もかも面倒に思えてきた。勝手にしてくれって感じだ。
「だって調べることは、吹奏楽部の皆さんがしていたと仰っていました。なら、きっと普通に探しても見つからないところです。私には一つしか思い浮かばなくて、それを確認しました。中澤くんのおかげでそれを確信できたので、昨日は回収せず、声を聞かせてもらいました。犯人が誰かまで特定できていませんでしたし、目的も不明だったので」
 そういえば昨日、音楽室を出るときに会長は小声で「……これでよし」と呟いていた。あのときは意味がわからなかったけど、今ようやく理解できた。あのときの会長は方法をわかっていて、それが発動するのを見届けたかったんだ。
 驚いた姿も演技だったわけだ。どこで遠藤が見てるかわからないから、予想外だったっていうリアクションをとっていただけだ。
 ……性格、悪いな。
「なんだか今、すごく失礼なことを思いませんでしたか?」
 こっちの心でも読めるのか、瞳を覗きながらそんなことを訊いてくる。
「思ってねえよ」
「そうですか。……次は、許しません」
 ちっともこっちのことなんか信頼してねえなら、確認なんかすんなよ。
 いい加減、一番肝心なところ訊くことにした。
「それで、いい加減方法を教えろよ」
「ですから機械です。レコーダーのようなものだと思います。遠隔操作ができるようですので、テープレコーダーとかではなく、最近のMP3対応の機械でしょう」
「だとしても、それはどこにあんだよ。吹奏楽部の連中はもちろん、俺らだって調べただろ」
 急に会長が人差し指をたてた。いつもの癖のやつだと思い、次の言葉を待ってみるが、一向に喋らない。それにイライラして「おいっ」と声を荒げた。
「なんか言えよつ」
「あ、これは失礼しました。これは指をたてたのではなく、指をさしたんです」
 なんだよそりゃと思って、会長の指先を見ても当たり前だけど校舎の汚れた天井しかない。
「おい、何もね‒‒」
 言葉を途中で止めてしまったのは、そこでようやく会長が何を言いたいのか理解したから。会長はなんてことないというように「はい」と答え、とても簡潔に吹奏楽部の連中がここ最近ずっと頭を抱えていた問題を、たった一言で片付けた。
「機械は、天井に仕掛けられています」

11

 結局、その後職員室で脚立を借りて、会長が教師と交渉して特別に下校時間をずらしてもらっていた。俺は職員室に入るのが嫌だったので、外で待っていただけだが、たぶんその方が話が早かったと思う。教師の連中は、会長を信頼しきっているから。
 その後はとても簡潔なもんだった。会長が説明してくれたことを、そのまま思い出す。
「さきほど私は特殊な機械を用い、音楽室を調べました。その様子はカメラがある以上、見えていたでしょう。遠藤くんは確実に今晩、カメラとレコーダーを回収しに来ます。あとはそこを待ち伏せしてしまえばいいんです。ですので、夜までは自習としましょう」
 自習なんてまっぴらごめんだったが、結局「鍵、いらないんですか?」という脅しのせいで、つきあわされることになった。
 そして八時前になると、作戦を聞かされた。
『遠藤くんはすぐにこちらに戻ってくるでしょう。しかし、スタジオからここまでは走っても十分ほどかかります。その間に、カメラは確認できないでしょう。私たちはその隙に音楽室に入り、レコーダーを回収します。中澤くんは音楽室の中に隠れていてください。カメラを回収してくれれば、現行犯です。私は外で待機して、逃げられないようにします』
 この作戦を最初に聞いたときに思ったことは「この人かなり腹黒いな」だった。口にはださなかったのに、「許さないと言いませんでしたか?」と質問されたのには、結構マジにびびった。
 それでも確かに会長の作戦は成功した。レコーダーは見事に回収できて、音楽室のピアノの下で待っていたら、遠藤が入ってきた。あいつがカメラを回収してる間に、隣の教室で隠れていた会長がそっと扉を閉じて、鍵を閉めた。

 会長がこのことをざっくりと、無駄な情報は一切挟まず遠藤に説明した。その間、俺は遠藤が逃げないように後ろに立って、威圧だけ与えていた。
 ただ、この様子だともう逃げる気力も残ってないらしい。 
「すいません。少し意地悪な作戦でした。しかし、こうしてくれないと認めていただけないと思いまして」
 本当に「すいません」とは思っていないだろう無機質な声で、会長が呆然とする遠藤に頭を下げた。彼は未だに状況が完全に飲み込めていないのか、目をぱちくりとさせている。
「……ど、どうして」
「はい? どうして、ですか。それは何に対してでしょう」
「どうして、天井だって……」
「ベートーベンが笑うなんてあり得ません。しかし、声は聞こえた。絵にも壁にも仕掛けが無い。ならもう天井しかありません。ただの消去法です」
 どんな消去法だよと言いたくなるけど、この人の頭の中じゃそれが成り立つんだろう。
 でも言われてみれば、確かにそうだった。ベートーベンが笑うなんて噂がたつ以上は、音はあの絵画の近くから鳴ってるわけで、それが絵でも壁でもないとなると、天井くらいか。
 さっきレコーダーを回収したときにちゃんと確認している。天井には細いラインが入っていて、それに沿って、切られていた。小さくだが、それを透明のセロハンテープで隠していた。あんなとこじっと見ないから、普通分からない。
「なによりのヒントは、埃でした」
 驚いている遠藤なんていないかのように、会長は説明を続ける。
「昨日調べたとき、中澤くんが埃のせいで辛そうでした。私は、それで確信したんです。だって絵は吹奏楽部の皆さんが調べていたはず。埃があることが、まずおかしいです。二週間前、最初に声を聞いた赤坂さんはこの教室の掃除までしています。なんで埃があんなにあったのか。……簡単です。天井にあった埃が、レコーダーを設置するときに落ちたんです」
 会長の話をそのまま思い出すと「遠隔操作が可能な機械で音を出すんです。ということは常に電源はつけっぱなし。定期的に電池の交換、もしくはバッテリーの充電が必要でしょう」ってことらしい。
 遠藤はもう完全に顔が青くなっていて、言葉が出ない様子だ。無理もないか。結構手がこんだ仕掛けがあったのに、それがものの二日で看破されたんだから。
「もし反論があるのなら、もちろん聞きます。ただないのなら、私は依頼主の赤坂さんに報告しなければなりません。それあなたにどんな不利益をもたらしてもです」
 その言葉に遠藤が激しく反応する。会長に手を伸ばして何かしようとしたから、首根っこを捕まえて、後ろに倒してやった。
「じっとしてろっ。何する気だ、てめえはっ」
「中澤くん、乱暴は」
「言ってる場合かよっ。明らかにあんたになんかする気だっただろっ!」
 なんでこんなときまでこういう性格なんだよ。腹がたつが、会長は「でも……」とまだ何か返そうとしてくる。それを思いっきり睨んでやったら、さすがに黙った。
 少しは状況を考えやがれってんだ。
「……遠藤くん、反論がないのなら報告しますね」
「ま、待ってくれよ。ああ、わかった。認めるよ、うん、俺がやった。認める、認めるから……頼む、黙っててくれ」
 昼間の強気な態度はもう微塵もなかった。下級生の俺がいるのに必死に会長に手をあわせて頼みこんでいた。ほっといたら土下座でもしかねない勢いだ。一応、首根っこを捕まえたまま、静観することにした。
 どうせこの頭の固い会長だ。一言はっきりと「それはできません」と答えるに決まってる。無駄な抵抗だ。
 ただ、俺の予想は覆される。
「……遠藤くん、一つ質問します。それに答えていただければ、穏便に片付けるよう、ことを進めます」
「えっ……お、おいっ」
 予期せぬ会長の答えに口を挟んでしまうが、会長は人差し指を唇の前にもってきて、静かにと指示してくる。
 困惑する俺と反して、遠藤は目を輝かせていた。
「あ、ああっ、何でも答える! すぐに質問してくれっ!」
 遠藤も聞き入れてもらえると思っていなかったんだろう。思わぬ会長の言葉に、必死にしがみつく。
 そんな彼を見つめたまま、会長はとても冷たい目で、一つだけ質問した。

「この計画は、あなたが考えたものですか?」

 その言葉に目を輝かせていた遠藤が完全に止まった。輝かせていた目の光を失い、さらには言葉も出てこない様子だった。また「え」とか「あっ」と、意味不明な言葉を出し始める。
 俺としては遠藤の態度はもちろん、会長のその質問も意味不明だった。でも会長はとても真剣で、遠藤を視界からとらえて離さない。
「どうなんですか?」
 会長が少し遠藤との距離を詰めたときだった。
 急に勢いよく扉が開く音がして、全員がそっちに目をやった。
 そこにいたのは、一人の女子生徒だった。
「おやおや、よく知った顔が三人も。こんな夜遅くに何してるのかな? パーティーかい?」
「あ、宮塔」
 それは放課後に会った、自称占い研究会の宮塔だった。昼間と変わらない格好で、なんでかこの場に現れて、俺ら三人がいることにときに驚きもしない。どちらかというと、なぜかこのとき待っていたといわんばかりに、唇が綻んでいる。
 そして彼女の登場に一番反応したのが遠藤だった。
「あ、あいつだよっ!」
 急に宮塔を指さし、そんな大声を出す。
「俺はあいつにそそのかされたんだよ。本当はこんなことしたくなかったんだよっ!」
「おやおや」
 必死にそんなことを訴える遠藤に対し、指をさされた宮塔はとても落ち着いていた。
 遠藤と視線を合わせるために膝をついていた会長が、立ち上がり宮塔を見据える。
「お久しぶりですね、宮塔さん」
「うん。お久しぶりだね、死に損ない」
 会長が無表情で、宮塔はとても楽しそうな笑顔。そのくせ、挨拶はちても毒気を含んでいた。意味はわからないが、この「死に損ない」ってのは会長のことだろう。
「……下校時間はすぎていますが?」
「つまらないことを確認しないで欲しいな。ここで私は治外法権だ。知ってるだろ? それにそれは君らもだろ。まあ君のことだ、教師から許可は得ているだろう。ここで本当にルール違反をしてるのは、そこに転がってる間抜けだけだよ」
 間抜け呼ばわりされた遠藤は「なっ」と口を開けて、そのまま怒りのあまり顔を赤くした。
「お、お前がっ、許可は私がもらっておくって言ったんだろっ!」
「うるさい男だな。もういいから、黙っててくれ」
 宮塔に飛びかからんばかりの勢いの遠藤を一応、押さえつける。会長がそうしておいてほしいという目線を向けてくるからだ。俺から言わせれば、今のは宮塔が悪いと思うが。
 それにしてもなんだこの状況は……。さっぱりだ。
「事情は説明する必要がありませんよね。ここ最近、吹奏楽部である問題が起きていました。犯人はこの遠藤くんです。しかし彼は今、この計画はあなたにそそのかされて、実行したと言っています。それは事実ですか?」
「ほ、本当だよっ! 俺はただ、赤坂から占い研究会があるって聞いて、ちょっと試しに相談しただけなんだよっ! それをこいつが、変な計画持ち出してきて……。お、俺は被害者なんだよっ」
「うっせえな、静かにしろって」
 まくしたてる遠藤の口をふさぎ、強制的に黙らせる。まだ何か言いたいことがあるようだけど、たぶん、今はこいつの言葉はいらない。明らかに、俺らは場違いだ。
 宮塔と会長が向き合ったまま、動かない。
「……今の彼の言葉は事実ですか?」
「いやあ、大嘘だろ。自分の罪を認めたくないから、私になすりつけているのさ」
 遠藤がまた何か叫ぶが、俺が口をふさいでいるので、声にならない。そんな彼を見つめた宮塔がこちらに向かってくる。そして膝をついて彼と向き合うと、耳元に顔を持って行き、何か呟いた。
 それはこの距離にいた俺にさえ聞こえないものだったけど、聞き終えた遠藤がブルッと体を震わせた。そして宮塔は笑顔のまま、立ち上がる。
「中澤くん、喋らせてあげなよ。今度は私から質問するから。‒‒今回の件は、すべて君がやったこと。そうだね?」
 一応会長の方を見ると、彼女はこくりと頷いた。遠藤の口から手を放すと、意気消沈した遠藤が「……そうだ」と短く答えた。あれだけ主張してた意見はどうしたんだよ……。
「うん。そうだね。どうかな死に損ない、これで私の疑いは晴れたかい?」
 会長は何も答えない。ただ、遠藤の方を見ていた。しかし、遠藤はもう何も喋らない。人形みたいに目をうつろにして、顔を青くしていた。
「宮塔さん……何が目的ですか?」
「うん? 目的? いやだな、私は目的なんて持っていない。そんなものがないと生きていけないほど、やわな生き方はしていない。そんなものに沿って生きるなんて、愚かな人生も歩んでいない。……でも。そうだね。目的はない。うん、目的はない」
 宮塔はなぜか同じことをつぶやき「ただ」とつけたす。
「ただ、標的はいるかもね」
 宮塔はこれでもかという笑顔をうかべ、それを会長に向ける。
「死に損ないと中澤くん、早く帰ることをおすすめしてあげよう。そいつはほっとけばいい」
 宮塔は言いたいことだけ言うと、背中を向けて立ち去ろうとした。ただその背中に会長が声をかける。
「今回の件で一つ気になっていたことがあります。それは心霊現象に見せかけるという方法です。確かに遠藤くんの動機を考えると、自然かもしれません。でもこんなに手がこんでいます。他に方法もあったはずなのに。でも、この計画が彼のたてたものでないなら、別の理由が出てきます。幽霊の声が聞こえる‒‒。そうですね、そんな相談をされたら、私が動かないわけない。そういうことですか?」
 その質問の意図は分からなかった。ただ、宮塔は「ふっ」と笑って、会長を見向きもしないで素っ気なく答える。
「そこまで分かっていれば、自覚していれば、合格点だ。合格なだけで、満点ではないけどね。そして満点でないものを、少しでも足りないものを、人は欠陥品と呼ぶんだけどね」
 昼間と同様にまたよくわからない言葉を放って足を進めようとする宮塔に、また会長が声をかける。
「次は見逃しません。これは注意ではありません、警告です。覚えておいてください」
 宮塔が足をとめて、今度は体の向きをくるりと変える。そして笑顔のまま、はっきりと言い放った。
「次は手を抜かないよ。これは決意じゃないよ、宣戦布告だ。覚えておいてくれ」
 
12

 赤坂明里はノックをして、「どうぞ」という返事を聞いてから生徒会室にはいった。
 中には昨日と違って、生徒会長の小野夏希だけがソファーに座って、赤坂を待っていた。
 昨日の夜遅くに事件について、ある程度の報告は電話で受けた。一応、会って最終報告をしたいと言われた。どういうわけか、一人でという指示つきで。もともとそのつもりだったので、気にはとめなかったけど。
 彼女の前に座り、気になったことを質問した。
「今日は夏希一人なの?」
「はい。彼はサボタージュだそうです。なので、あとで行かなければいけないんです」
 思わずくすっと笑ってしまった赤坂を、小野夏希が首を小さくかしげ、訝しげ見てくる。赤坂はなんでもないよと答えながら、彼女と向き合うように座った。
「遠藤くんが犯人だったんでしょう?」
「はい。事情は昨日の夜に電話で話したとおりです。今日、彼に会いましたか?」
「ううん。なんか避けてるみたいね」
 無理もないかなと赤坂は思う。小野夏希から受けた報告を信じるなら、自分と合わせる顔なんんてあるはずない。素直に謝るなんてことも、彼の性格上はしたくないだろう。
「これにて、赤坂さんからの依頼は完了です。ご協力、ありがとうございました」
 頼み事をしたのは赤坂の方だというのに、小野夏希は丁寧に頭を下げてきた。その態度にどこまでも彼女らしさを感じてしまう。
「お礼をするのは私の方だよ。ありがとうね。あとは、部内の問題だから、そこは私がなんとかするよ。これ以上、夏希の迷惑になるのは、嫌だから」
 赤坂と小野夏希は一年生のころに同じクラスだった。彼女は社交的ではなかったが、かといって孤独でもなかった。クラスの中心ではなかったが、彼女がいなくなったら、船頭を失った気がしただろう。そんな不思議な存在だった。
「報酬なんていらないってのが、確か主義なんだよね?」
 小野夏希が生徒会長になって、人の困りごとに解決してるというのはもう校内では知らないものはいない。しかも見返りがないと聞くと、みんな彼女に頼った。そして赤坂もその一人。
「はい」
「でも、なんか申し訳ないな。今度、何か奢らせてよ。これは、もう友達としてでいいから」
 どうせ普通に誘っても断れることを予想できたんで先手を打ったのだが、彼女は首を横に振った。
「それはできません」
「いいじゃん、それくらい」
「では、こうしましょう。私は今からあることを話ます。それを聞いていただけますか?」
「話を聞く? それだけでいいの?」 
 彼女は「はい」と頷いた。
 赤坂からすると意味不明な報酬だけど、彼女がそれでいいと言うならそうしようと決め、どうぞと彼女を促した。
「赤坂さん、あなたも宮塔さんに頼りましたよね?」
 それが最初の言葉で、赤坂は思考と呼吸を止めてしまうほど驚いた。そんな彼女を、小野夏希はまっすぐと見つめている。
「今回、遠藤さんの計画を見抜けたのは、あなたが掃除をしていたというのが大きかったです。今思うと、なぜ二週間前あなたが掃除していたのか、そこに疑問を持つべきだったんでしょう」
「ちょ、ちょっと待とうよ」
「いえ、待ちません。お昼休みも限られていますから。昨日、遠藤くんが言っていました、あなたに占い研究会の存在を教えられたと。見事ですね。自分が先に相談していて、そしてその相談事を成熟させるため、遠藤くんを巻き込んだ」
「夏希、あなた本当に何を言ってい‒‒」
「あなたは宮塔さんにこう相談したんではありませんか? 遠藤くんと恋人関係になりたいけど、彼には思い人がいる。どうしたらいいかと」
 まるでどこかで見てきたのかと聞きたくなるような、そんな推理だった。
「そして宮塔さんはこう答えた。彼の恋を無理矢理失敗させて、落ち込んだ彼に救いの手をさしのべてみてはどうかと。遠藤くんに持ち出した計画と似ていますね」
 いつもの小野夏希と様子が違うと感じたのは、このときになってからだ。人の話を遮ってまで自分の意見を主張する子じゃない。なのに、今は余裕がないように、まくしてていた。
「あなたがしたことは限られています。まず、宮塔さんの存在を彼に教える。そして彼が宮塔さんの計画を実行したのを確認して、あえて音楽室を掃除した。証拠が残りやすいように。そして私を介入させた。彼の計画が最終的に自分ではない第三者の手によって解決させられるように。あとは、時を待った。彼の計画が私の手によって阻止されれば、あなたの計画が動き出す。橘さんにことの真相を告げて、橘さんと遠藤くんの間に亀裂を入れる。そして傷心した彼に、手をさしのべる」
「い、いい加減にしてよっ!」
 そう声を荒げて、テーブルを手のひらで力強く叩いたあと、勢いにまかせて立ち上がった。
「なによっ、そんなに私を黒幕にしたいの?」
「いいえ、黒幕はあなたではなく、宮塔さんでしょう」
「そんな話じゃないっ! そんなに私を悪者にしたいのかって訊いてるのよっ!」
「……したくはありません。しかし、なったのはあなたでしょう」
「証拠なんかないくせに」
 その言葉に小野夏希が何も返さなかったので、赤坂は勝利を確信した。
 そう、今の話はすべて本当。だけど証拠なんかない。物証なんて残るわけない。それが気に入って、あのいけ好かない女の計画に乗ったんだから、当然なんだ。
「夏希がこんな人とは思わなかったな。もういいや。じゃあね、バイバイ」
 怒ったふりをしながら、生徒会室を出て行こうと足音をたてながら進む。もっと勝利の余韻に浸っていたい気もしたけど、もともと彼女に恨みはないからこれくらにしておこう。
 ただ、まさか言い当てられるなんて想像もしていなかった。さすがだなと思う。
 ドアノブに手をかけたときだった。
「ごめんなさい」
 急に背中に小野夏希の声が刺さった。思わず振り向くと、さっきと変わらず、座ったままの彼女が、こっちを見ずになぜか俯いていた。
「な、何よ? 今のでっちあげに対する謝罪? 言っておくけ」
「いえ、そうではありません」
 彼女は俯いたまま、どうしてか、膝の上に置かれていた両方の拳をぎゅっと握った。せっかく無駄なしわ一つついていないスカートが、しわしわになっていく。
「もう、私には何もできません。だから、ごめんなさい」
 意味が分からない。何に対する謝罪なのか、彼女が何に悔しがっているのか、何も分からなかった。ただ、とても居心地が悪くなったので、逃げるように生徒会室から出て、足早に廊下を歩ていく。
「何だっていうのよ……」
 そんな愚痴をこぼしたところで、渡り廊下にさしかかった。そしてその向こう側から見知った顔が見える。遠藤だった。彼は青白い顔をしていて、とぼとぼと歩いている。
 ようやく会えたっ。思わず胸がはずむ。朝からずっと、この瞬間を待っていた。彼には悪いけど、ここからが私の計画だ。ああ、やっとだ。
 赤坂が彼に駆け寄ろうとした瞬間、彼もこちらの存在に気づいたみたいだ。最初は驚きのせいか、鳩が豆鉄砲をくっらたような顔をしていたけど、それはすぐに変わった。
 急に顔を真っ赤にして、こちらに走ってくる。あまりに急激な変化と、その表情にむき出しにされている怒りに、思わず足を止めてしまったが、すぐに遠藤が彼女の前に来て、力強くその両肩をつかんだ。
「痛っ!」
「赤坂っ、お前っ、俺を利用しやがったなった!」
 いつもの彼ならこんなことはしない。なのに、今はすごい形相で、かなりの力で彼女の肩を掴んでいた。制服ごしだというのに、彼に爪が肌に食い込んで、とても痛い。
「な、何を言ってるのよ……」
「とぼけんな! さっき全部宮塔から聞いたんだよっ! お前が俺と橘の邪魔をするために、俺を利用したってなっ!」
「なっ」
 声が出なかった。そんな馬鹿な……。なんでそんな……。
「ふざけんなよっ、お前! 俺がどんな気持ちでいたか、わかってんのかよっ!」
「ち、違う、違うわよっ! 落ち着いてよっ、そんなわけないでしょ。なんでそんなこと信じるのよっ!」
 彼の勢いに負けそうになって、彼女も声を荒げる。
「宮塔が、あいつが嘘ついてるのよっ!」
「お前が宮塔に相談したときの録音が残ってんだよっ! さっき、それを聞かされたんだよっ!」
 目の前が真っ白になった。彼の表情さえ、はっきりととらえられなくなる。
「う、嘘でしょ……」
「嘘なわけあるかよっ。お前……本当に最低だな」
 今の彼女の反応を自白を受け取ったのだろう、彼があんなに強く掴んでいた両肩を放した。
「ち。違うの。ね、ねえ、ちゃんと話をしましょう。だって、私たち友達じゃ」
 彼に手を伸ばすが、その彼女を手のひらを彼は手荒に払った。
「もう、俺に話しかけなんな……この腐れ女……死んじまえっ」
 それが捨て台詞だったらしく、彼は彼女の右肩を強く押して、体勢を崩した彼女をそのままにして歩き去って行く。追いたかったけど、足がすくんで動けなかった。彼が最後に放った言葉が、彼女の胸を確実にえぐっていた。
「う、嘘よ……」
 なんで、どうして、こんなことになったの……。自問自答するが、答えがない。
 絶望しているときに「良い表情だ」と声をかけられた。声のした方を見ると、宮塔が薄和笑いを浮かべながら立っていた。
「あ、あなた……」
「これで今回の件は片付いた。なかなかおもしろい見世物だったよ」
 ここでやっとわかった。この女は最初から赤坂の悩みも、遠藤の悩みも解決する気なんてなかったんだ。今この状況こそ、こいつが望んだ未来だったんだ。
「ふ、ふざけんじゃないわよっ!」
 彼女に掴みかかろうとしたが、身軽によけられて、渡り廊下の中央あたりで顔からこけてしまった。
 立ち上がろうとしたのに頭を力強く掴まれ、そのまま額を廊下に当てられる。
「ご苦労様。よくやってくれたよ。彼女の実力も測れて、いいモルモットだった。だから、もういいよ」
 こっちの激情など気にすることは無く、淡々とした口調で続ける。
「彼女は無報酬かもしれないけど、そんなの特例でね。世の中、代償が必要だよ。君と遠藤の相談に私は解決策を示した、その報酬がこれだ。いいじゃないか、夢を見れただろ。夢は高くつくのさ」
 彼女が唇を赤坂の耳元によせる。
「君も遠藤もいい顔だったよ。だけど、あの橘って子が一番だね。君が遠藤にしたこと、遠藤が彼女にしようとしてたこと、それを知ったときの彼女の顔といったら傑作だったよ」
 息が止まるかと思った。まだ、彼女には何も話していないのに……。
「私が代わりにしておいてあげたのさ、感謝なんてしてくれなくていいよ。そんなもの何の価値もないからね。それじゃあここでお別れだ、さよなら、憐れな恋する乙女」
 赤坂の頭を放して彼女は足音だけ残し去って行った。
 それでも赤坂は起き上がることができなかった。目の前が真っ暗で、何も見えなくて、何も見たくなくて、その場にうずくまっていた。
 思い浮かべるのは、あの音楽室で過ごした楽しかった日々。きっと元に戻ってこないもの。
「あ……あ……」
 声にならない声だけが、口から出続けた。



【後日談】

 学校から少し距離のある公園のベンチに座り、さっき自販機で買った缶ジュースのプル打歩を開けたところで、足音に気づいた。
「今日はこちらでしたか」
 いつの間にか真横に会長がいて、当たり前のように隣に座ってくる。
「なんだよ。もう四時も過ぎてる。今更連れ戻しても何にもねえぞ」
「そうですね。できれば日中に探しに来たかったのですが、少したてこんでいまして」
 会長は鞄の中からあるものを取り出し、それを渡してきた。
「お、やっとかよ」
 それはバイクの鍵。あのときにぱくられたものだ。意気揚々とそれを受け取る。
「はい。色々とありがとうございました」
 会長は丁寧に頭を下げてくる。実際、俺がしたことなんてほぼ何もないのに。
「べ、別に礼はいらねえよ」
「そうもいきません。中澤くんがいなかれば、解決できませんでした」
 さっき座ったばかりだというのに、会長はまたすぐ立ち上がった。
「私、この後に例の盗聴器発見器を返さないといけないので、もう行きますね」
「はいよ」
「中澤くん、今日は見逃しましたが、ちゃんと学校に来てください。明日からは、本当に許しませんよ」
「……うっせえな」
「うるさくはありませんよ」
 会長が一礼して去っていく。その背中を見てたら、なんでか自然と「おい」と引き留めていた。会長が「どうかしましたか」と振り返る。
「あんた、なんかあったのか。いつもより暗い顔してんぞ」
 いつも無表情だが、なんだか今日は違って見えた。それが気になったし、背中もなんだか寂しそうだった。
 会長は答えず、その場に立ちながら俺を見つめていた。
「……中澤くんは恋をしたことがないんですよね?」
「あ? ああ、そうだけど……」
「なら、失恋もないですよね・あれは、辛いですよ」
 意味不明な言葉だった。ただ会長は「これで失礼します。約束に遅れてしまいますので」とまた歩き始めた。
 今度は止めず、離れていく彼女の背中を眺めていた。なぜか側にいた方がいい気がした。
 ただ当然そんなことはせずに鍵をポケットにしまうと、ジュースを一気に飲み干し、空き缶を近くのゴミ箱に放り投げた。
 綺麗にゴミ箱に入った空き缶が、妙にむなしい音をたてた。


第二章《悲密》

【前日談】

 大森絵美は夕飯の支度をしているときが好きだった。毎日のメニューを考えるのが煩わしいという同年代の主婦にありがちな悩みは、彼女には関係ないことで、彼女はそれこそがやりがいだと感じている。
 だからその日、七月十九日もそうだった。午前中に家事を済ませて、午後になって買い物に出かけた。日差しが強く、近くのスーパーに行くのにも紫外線対策をしなくてはいけない季節。じりじりと焼き付けるような太陽光を浴びながら、自転車をこいだ。
 スーパーでその日の特選品を手にとって確認しながら、夕飯のメニューは何がいいだろうかと考える。
 彼女は学生時代から料理が好きで、専門学校を卒業し、結婚して寿退社をするまでは料理人として働いていた。だからこそ、こういう時間が至福となった。しかも料理を振る舞うのは、愛する家族。こんな喜びは他に無い。
 そういえば、今日は一人娘である絵里花の高校では終業式で明日から夏休みだ。娘は学期末の成績も良くて、学年で上位十名に入っていた。二年生になってから成績もそうだが、風紀委員に選出されたこともあり、なんだかイキイキしている。そんな娘を見ると、自然と元気がでた。
 テストのこともあるし、今日は彼女の好物でも作ろうと決め、さっそく材料をカゴの中へ入れていく。
 絵里花の好物はクリームシチューだった。その材料を買い終え、袋を片手に相変わらず強い日差しが襲い来る外へ出て、駐輪場にとめていた自転車のカゴに袋を入れたところで、ポケットの携帯が鳴った。
 娘の絵里花には「ラインができないから、いい加減スマホ買ってよ」と言われているにも関わらず、未だに使ってる五年前にかった携帯電話。操作に慣れてしまい、今更機種変更する気が起きない。
 その絵里花からの着信だった。
「もしもし、お母さんだけど」
 そうやって出るが、なぜか相手からは何も言ってこない。電波が悪いのかと思って、さっきよりも大きめの声で「もしもしぃ」と言うと、やっと声が聞こえた。
『お、お母さん……』
 か細い声だが、確かに愛娘の声だった。ただいつもらしくない。一気に不安になって、心臓が高鳴る。
「絵里花? なに、どうかしたの?」
 ただその動揺を声には出さなかった。もし娘に何かあって、自分に助けを求めているなら、こっちが慌ててはいけない。
『……お母さん。私ね』
「うん、絵里花がどうしたの?」
『……しばらく、帰らない。夏休みが終わる頃には帰ると思うけど……ごめんなさい、しばらく帰らない』
 娘が何を言ってるのかわからなかった。だから、次の言葉が出てこなかった。
「絵里花、あなた何を言‒‒」
『でも、大丈夫だから! 何にもないから! 警察とか、そういうのはやめて!』
「ちょ、ちょっと待ちなさい。お母さん、何がなんだか……」
 ここで、電話の向こうで鼻をすする音が聞こえた。
『ごめんね……また、連絡するから』
 通話はそこできられた。頭が真っ白になり、何を考えたらいいかわからなかった。とりあえず、ゆっくりとリダイヤルをする。しかし電話から聞こえてきたのは『電波が繋がっていないか、電源がきられています』という機械アナウンスだった。
 どうしていいかもわからず、とりあえずそのまま帰宅した。もしかしたら、娘なりの冗談だったのかもしれない。そんな淡い期待で、焦燥する心を落ち着かせながら、いつも通り夕飯を作り、娘の好物のクリームシチューを完成させた。
 結局、その日から娘は帰ってこなくなった。



 インターホンが数回鳴らされたところで、イライラが限界に達して、玄関に駆けていき思いっきり強く扉を開けた。
「うるせえな! 新聞ならとらねえよ!」
 しかし、外で待っていたとのは連日押しかけてくる新聞屋の爺ではなく、学校で見慣れた顔だった。
「……元気そうだな」
「ちっ……家庭訪問なら事前に連絡いれとけよ」
 そこに立っていたのはスーツ姿の、やたらとがたいのいい屈強な男だった。ぱっと見は柔道部の顧問にしか見えながら、確か天文学部の顧問だったはずだ。そんなどうでもいいことを覆いだした。
「家庭訪問ではない」
「わかってるっての」
「そうか」
 淡々として口調で、まるで感情の無い機械のような受け答えで、それがいつも気に食わない。
 男は俺の後ろの方に目を向けた。そこには俺の部屋が広がっていて、自分でいうのも何だけど、片付いてはいない。それでも男は眉一つ動かすこと無く、当たり前みたいに言った。
「入れてもらえないか。話がしたい」
「ごあいにく様だ。野郎を招き入れる趣味はねえんだよ。それに電話で何度も言っただろ、補講には出ねえよ」
 拒否してそのまま扉を閉めようとしたのに、男が扉に足を挟んできてそれができなかった。
「おいっ」
「補講だけの話じゃない。あまり人に聞かれたくない話だ‒‒小野のことについてな」
「小野?」
 その名前には確かに聞き覚えがあったのに、なぜかすぐに顔が出てこなかった。ただ、しばらくして、あの銀縁めがねの生徒会長のことを思い出した。
「会長がどうかしたのかよ」
「それについて話したい。時間をくれないか」
 どうしたってここで話すのは嫌って感じだった。俺は頭を掻いたあと、扉を開けて、挟まって僅かに変形した男の革靴を解放した。
「言っとくけど、何も出さないぜ」
「安心しろ」
 男はそこで右手に持っていたビニール袋を掲げた。袋にはよく見るチェーン店の弁当屋のロゴが入っている。
「弁当を買ってきた。どうせまだ昼飯をとってないだろう」

 この男、海野は俺の担任だった。一言で言えば寡黙な男だ。無駄話もしないし、生徒が冗談を言っても表情を崩すことがない。常に真顔で、最低限なことしか喋らない。
 会長もあまりお喋りな方じゃないけど、あの人は必要になれば理詰めで、誰でもわかるように無駄に長く話す。ただ海野は違う。本当に必要なことでも、多くは語らない。一部の女子生徒からはそれがクールだとかで、受けがいいらしい。
 表情を変えないのは笑わないってだけじゃなく、怒るときもそうだ。俺がどんな問題を起こそうと、顔を赤くしたことも、眉を寄せたこともない。淡々としていて、はっきり言って、時々人間味を感じない。
 ただ、それは生徒に興味がないということかっていうと、たぶん違う。会長と同様にやたらと俺に「授業へ出ろ」だの「学校に来い」だのとしつこい。こっちがどんな拒み方をしても、折れるってことはしない。
 だから、俺は好きじゃ無い。

「適当に座れよ。うち、別に飯食うところとか決まってないからな」
 部屋に入れた海野は、どこに座っていいかわからない様子だった。当たり前だ、一人暮らし用のこの部屋には所狭しと雑誌や、衣服が散らばっているんだから。
「片付けないのか」
「片付いてんだよ」
「そうか。なら構わん」
 海野はそれ以上追求することなく、床に散らばった雑誌をどけて適当な場所で座った。俺は距離を置くために、少し離れた場所に置いてあったキャンプ用の椅子に腰掛ける。この部屋で唯一の椅子だ。
「それで話ってなんだよ」
 俺は受け取った弁当を開け、口で割り箸を割りながら尋ねた。
 弁当は唐揚げ弁当で、わずかなキャベツと、ミニトマトが二つ、あとは白飯と唐揚げが入っていた。こうしたしっかりとした飯を食うのは久しぶりだ。
「まずは補講についてだな」
「だから、行かねえっての」
 夏休みの補講。一学期の成績が良くなかったら、強制参加だ。そこで成績の分を補う。これで無事進級できるってわけだけど、俺はそれをこの二週間さぼり続けていた。暑いし、外に出るなんてごめんだ。暑くなくても休みの日に学校なんて行ってられない。
 だが、海野は担任として当然出ろ出ろと要求してきた。
「てか、補講ってもう終わりだろ。今更出たって、無駄じゃねえの?」
 俺はもともと成績がよくない。良いのは体育くらいだが、それもあんまり出てないから平均くらいだ。だから定期テストだって休んで良かったのに、会長が「テストに出ないなんて正気ですか。言っておきますが、意地でも出させますから」と宣言をしてきたので、仕方なく参加した。
 テスト前日の晩にこの部屋に来て、必ず来ると約束しないと、一晩中ここに居座るって脅してきたときは、そっちこそ正気かよと疑った。
 それでも一夜漬けもしなかった頭じゃ、本当に出ただけ。成績は悲惨なもので終わった。
「ああ、お前の成績では今更出ても、どうしようもないだろう」
 海野は担任のくせに他人事みたいにそうはっきりと告げた。弁当を食いながら、そんな感じでばっさり言われたら、腹をたてる気も起きない。
「ははっ、なら話すことなんか余計にねえな。俺は留年でも退学でも、何でもいいんだよ。知ってんだろ、もともと入りたくて入った高校じゃねえ」
「ご両親は、それでいいと言っているのか」
「親なんかいねえよ。ありゃ、ただの保護者だ。そんでその義務もとっくの昔に放り投げたんだよ。厄介払いのために、こんな離れた高校に入れて、一人暮らしさせてんだ。こっちのことなんか気にもとめてねえよ。俺がどうなろうと、知ったこっちゃないと思うぜ?」
 俺の言ってることに間違いはなくて、実際に一人暮らしを始めてから四ヶ月以上経つが向こうから連絡が入ったことはない。月に一度、口座に振り込まれてる仕送りだけが唯一、お互いが生きてるってことを確認する手段だ。
 海野はそんな話のときでさえ、表情を変えなかった。
「そうか。ただ、お前や保護者の方が何と言おうと、お前は俺の生徒だ。卒業までしてもらう」
「はっ、仕事熱心だな。でもこのままだと俺は進級もできないっぽいぜ。諦めな」
 未練なんかない。さっき言ったように入りたくて入ったんじゃない。入れと言われたから、仕方なく入った。そうすれば一人暮らしができたし、うざかった地元との縁も絶ちきれるから。
 海野は弁当を食い終えると、丁寧に持ってきた袋にゴミを入れた。
「補講のことは俺がなんとかしよう。だから、お前に頼みがある」
「……嫌だね。俺は成績がどうなろうが興味ねえって言ってんだろ。何頼まれるか知らねえけど、とにかくめんどくさい。他の奴に頼めよ」
 顔を背けて、食い終わった弁当の空箱をそこら辺に放り投げる。
「小野のことだ」
 顔は見えないが、海野がいつも以上の真顔でいることはなんとなく声の調子で分かった。
「中澤、最近小野と会ったか?」
「学校もねえのに会うわけねえだろ。終業式の日に『問題は起こさないように』なんてご丁寧な忠告してきたのが最後だよ」
「そうか」
 どこか落胆したような声音で、率直に珍しいと思った。こいつがこうわかりやすい反応をするのは、初めて見たかもしれない。
「頼み事というのは、小野についてだ。あいつを探して欲しい」
「……は?」
 思わず背けていた顔を海野の方に向けてしまう。相変わらずの真顔がそこにあった。
「なんだよ、会長が家出でもしたのかよ」
 それを想像すると思わず笑いがこぼれた。あの「真面目」を絵に描いたような会長が家出? 何の冗談だよ。
「家出ではない。実際、連絡はとれている」
「話が見えねぇな。連絡がとれるなら、お前が会いに行けよ。なんで俺が行くんだよ。そもそも連絡とれるなら探さなくてもいいだろ」
 この男は無口なのを自覚して会長みたいに……いや、そこまでじゃなくていいけど、とにかく最低限のことは喋って欲しい。何が言いたいのかちっともわからない。
「連絡はとれている。そして会って話してもいる。はぐらかされたんだ。こちらの質問に素直に答えてもらえなかった」
「会長がお前に嘘ついたのかよ」
 会長と海野に親交があったのは知っている。会長はことあるごとに「あまり海野先生にご迷惑をかけてはいけませんよ」と注意してくるし、海野は「最近、小野は元気そうか」とよく聞いてくる。
 だから、その話がちょっと信じられなかった。あの会長が教師相手に嘘をつくなんて。
「嘘はついてないだろう。ただ、うまい具合にかわされた。小野はそういうのを心得ているからな」
「まあ、確かに」
 嘘はだめだが、論点をずらし会話を終わらすのはいい。なんとなく、会長が考えそうなことだ。そして何より得意そうだ。
「追求しなかったのかよ。仮にも教師だろ」
「あいつは意味も無く誤魔化すような生徒じゃない。何らかの理由があるんだろう。だからこそ、放っておけん」
 いや、ほっとっけよと思ったが、言っても無駄だろう。海野は立ち上がると、のしのしと歩いて俺の前に来ると、そのまっすぐで暑苦しい視線で見下ろしてきた。
「小野の行動を確かめて欲しい。そうすれば、成績のことはどうとでもしてやる」
「嫌だっての。会長のことだ、なんか面倒なことに首つっこんてんだろ。ほっとけって」
 それがどんな厄介ごとかは知らないが、とりあえず関わったら絶対に面倒になる。なんで夏休みまであの人につきあわなきゃいけなんだ。絶対に、ごめんだ。
「他の奴に頼めよ。てか、てめえでなんとかしろ」
「小野は最近、神崎町にいるらしい」
 脈絡のない言葉だったが思わず顔がこわばった。海野の顔を見るが、その真顔から嘘じゃ無いということだけは伝わってきた。
「あの人があの街に? なんのためにだよ」
「それを聞き出したかったんだ」
 そりゃそうだと思わず納得してしまった。それが聞けていれば、こんなところに来てないか。
 にしても、あの街かよ。あの人、何してんだ?
「お前は小野と親交もあるし、あの町に時々出入りしてると聞いている。小野があそこで何をしてるか、それを知りたい」
「だからさっきから言ってるだろ、自分でやれよって」
「俺に知られていい内容なら、素直に話してくれただろう。小野は小野なりの考えがあってそうしなかったんだ。ただ、あの街に出入りしてるとなれば、放っておけん」
「……わっかんねえな。具体的に、俺にどうして欲しいんだよ。会長が何してるか報告すりゃいいのか」
「それを俺が知っても問題ないものなら、そうしてくれ。判断はお前に任そう。しかしそうでないのなら、傍にいてやってほしい」
「なんだそれ。お前が知ったらまずいってことは、良くないってことだと思うぜ。それを黙っててもいいのか?」
「小野は、そういうことはできん。あいつは、お前と同じで不器用だからな」
 あの完璧超人が不器用って、この教師大丈夫かよ。人を見る目がなさすぎるだろ。しかも勝手にひとくくりにしやがって……。
「本当にそれだけでいいんだな?」
「そう言っている」
 爪をたてて何度も何度も頭を掻きむしる。ああ、もうっ。何であの人はこう、面倒ごとに俺に巻き込んでくるんだよ。まさか夏休みまでこんなことになるなんて予想してなかった。畜生め。
「……わーったよ。あと、成績はどうでもいいんだけど、一つ質問させろ。それが条件だ」
 海野は表情を変えず、一度だけ頷いた。
「あの人はなんで人の厄介ごとに首をつっこんでるんだよ。趣味ってわけじゃねえだろ」
 一学期からそのことがずっと気になってた。当人に訊いても「生徒会長ですから」としか答えない。どこの生徒会長が好きこのんでいろんな厄介ごとに首つっこむんだよ。明らかに、あの人なりに理由があるだろ。
 ただ生徒は知らなそうだったから、この男なら知ってるかもしれない。
「……あいつなりに考えてのことだろう。しかし一番の理由は、そう頼まれたからだ」
 やっぱりなんか知ってやがった。ただ、あまり歯切れが良くない。
「頼まれたって、誰にだよ。みんなの悩みを聞いて解決してあげなさいなんて、会長に教えた奴でもいるのか?」
「ああ、その通りだ。‒‒これ以上は、俺が言うべきではない。いつか小野から話してくれるだろう。小野は、お前を信用しているようだ」
 どこがだよ。何かにつけて注意や忠告をしてくるのは、信用とは一番遠い感情を抱いてるからだろ。このおっさん、本当に教師なのかと疑いたくなる。
 海野はそのまま背中を向けて床に散らばったものを避けながら、玄関へと向かっていく。巨体がのしのしとゆっくり歩く姿は、ガキの頃に観たロボット映画を彷彿させた。
 出て行く間際、首だけ振り向いた。
「小野のこと、頼んだ」
「……適当にやっといてやるよ。てか、お前も大変だな。俺だけじゃなくて、担任でも無い会長のことまで気にしなきゃいけないなんて。俺のことはほっといてくれてもいいぜ」
 そこで海野は珍しく、表情を変えた。少し、本当に少しだけ唇を綻ばせて笑った。
「お前らを気にかけるくらいなんてことはない。お前の何倍も面倒ごとを起こしてくれた生徒の担任を三年やったことがある。ちゃんと卒業させた。お前も、必ず卒業させる」
 珍しく饒舌になったと思ったら、それを捨て台詞にして海野は帰っていった。まあ、確かにその通りかもしれない。俺みたいな生徒は、きっと珍しくないだろう。会長みたいな生徒はどうか知らないけど。
「ああ……だるい」
 そう呟いたあと、とにかく着替えることにした。神崎町への行き方を思い出しながら、ハンガーにかけていた服を一着適当に手にとる。それに着替えながら、舌打ちをする。
 あの会長、何をやってやがんだよ。



 神崎町はあの高校と一番近い、歓楽街だ。しかもいくつかヤクザの組が拠点を置いているので、危険度は全国の歓楽街でも上位に食い込むと思う。実際、昼に行っても夜に行っても、怪しいやつしかいない。
 高校ではあまり近寄るなってアナウンスしている。実際、過去には遊び半分で近づいた生徒が痛い眼をみたことがあるらしい。
 ただ、俺はこの街によく通っていた。理由は退屈で、ストレス発散をしたいから。何もしてないのにつっかかってくるやつがいる。そいつらを相手にしてるだけで、暇つぶしにはなった。
 だからこそ、この街に一番似合わないあの人がいるってことが、嫌な予感しかかき立てない。どう考えても、あの人が自分の事情でいるとは思えない。また厄介ごとに違いない。
 適当に街をふらついていると、一学期の間で知り合った奴が何人か手をあげて挨拶してくる。お互い、名前も知らない。ただここでふらついていたら、絡んできて、そんで喧嘩で俺が勝った。ただそれだけの仲。
 そのうちの一人と眼がった。そいつはまだ若い男で、少し話ししたことがあり、なんでも大学を中退して、それからずっとここを遊び場にしている。ちゃらけた奴で、喧嘩を売ってきたのも「見慣れない年下だったから勝てると思った」って理由だ。
 中途半端に長い金髪に、何個もつけた銀色のピアスが特徴の男だ。
「お前、最近ずっとここにいんの?」
「なんだよ、話しかけてきてくるなんて珍しーじゃん」
「いいから答えろよ」
 相手の方が年上だけど口調に気をつけたりはしない。相手も気にしてないようで、何が面白いのかわからないが、愉快そうに笑っている。
「俺はいつだってここにいるぜー」
「最近、めがねかけた女を見かけなかったか? 背がこんくらいの奴だ」
 手で会長の身長を表したが、そいつは首をかしげる。
「俺が女を見逃すわけねーけど、めがねの女なんか見たかな……。記憶にねえ」
「そうか、ならいいよ。どうもな」
 そのままそいつに軽く手を振って分かれて、また街を探索する。まだ昼間だから、人が少ない。ここは夜になると栄えるから、昼間は店だって閉じているところが大半だし、うろついている人もまだ夜に比べればマシだ。うっかり道に迷った一般人っぽいのみ見かける。
 昼間はシャッター街っぽい。ただ、明らかにヤクザっぽいやつが肩を揺らしながら歩いているので、怪しい街に違いないけど。
 そんなところを一時間ほど探索したが、会長は見つけられなかった。というか毎日ここに来てるかどうかも知らない。もしかしたら今日は来ていないのか。
 何も考えず飛び出してきたが、無駄足だったか。
「……帰るか」
 そんな独り言をつぶやいて、踵を返して駅に戻ろうとしたときだった。ずっと遠くの方で、会長が歩いているのが見えた。会うときはいつも制服だから一瞬気づかなかったが、白で無地のシャツに、灰色のスカートを履いた会長が歩いていて、そのまま視界から消えた。
 一瞬、見つけたのに驚いてしまい、動き出せなかったが、すぐに走ってさっき会長が消えた場所に走る。そこまで行くと、会長がまた見えた。明らかに街になじめていない彼女の存在感はある意味で、とても目立っていた。
 距離を詰めながら、その背中を追っていく。なんだかストーカーみたいだけど、頼まれごとだし、仕方ない。
 しばらく会長はただただ歩き続け、そしてあるビルの前で足を止めた。そのビルはどうやら今は使われていない廃ビルらしく、人気を感じないし、外装は薄汚れていてた。
 会長はそのビルを見上げたあと、扉をノックしたりすることもなく、さも当然のように入っていった。
「……おいおい」
 明らかにおかしいだろと思いながら、そのビルの前に立つ。扉は金属製で、ガラスもないので中は見れない。会長はこんなところに、何の用があるってんだよ。
 ただ、海野に隠し事までしてこの街にいる理由が、ここにあるのかもしれない。頭を掻いたあと、俺もビルに入った。
 中は当たり前だが、暗くて、埃だらけだった。前はどこかの会社の事務所だったのか、デスクやソファーだけが埃にまみれて置いたままにされている。窓にブラインドがされていたので、外の光もそこまで入ってきていない。
 扉を閉めて、中に進んでいく。あたりを見渡すが、会長はいない。奥に階段を見つけたので、そこから上をのぞき見る。
「何か見つけられましたか?」
 後ろからそんな声をかけられたのは、そのときだった。ドキッとしてしまったが、すぐに落ち着けた。その声に嫌と言うほど聞き覚えがあったからだ。
「なんもねーよ」
「そうですか。中澤くん、尾行はあまり褒められた行為ではありませんよ?」
 学校にいるときと変わらない口調に、声音。そしていらつくほどの正論。
「こんな街に生徒会長がうろつくことは、褒められた行為なのかよ」
「事情がありまして……。それを聞きにきたのではないですか? さしづめ、海野先生に補講を出なくていいという交換条件で」
 よくもほとんど何も言ってないのにここまでわかるもんだな。相変わらず化け物染みでやがる。
「海野先生は私のことを気にかけてくれていました。心は痛みましたが、先生にここにいる理由をお話するわけにはいきませんでした。なので、うまく誤魔化したつもりでしたが、そうですか、やはり納得されていませんでしたか。さすが、ですね。教師には話せないなら生徒に、ということですね。そこで中澤くんが出てきた。交換条件でも提示できて、先生のクラスの生徒で、私とも親交がある。ベストな選択ですね」
 訊きもしてないのに自分の推理の過程を説明してくる。相変わらず、ご丁寧なことだ。
 ここでようやく俺は振り向く。見慣れない私服姿の会長が、そこに立っていて、上目遣いで俺を見ていた。
「で、なんでこんなところにいんだよ?」
「……そうですね」
 会長は少し迷ったあと、真顔できっぱりと言い切った。
「お話できません」



 電話口に彼女の声を聞きながら、宮塔は軽く笑った。
「何を怯えているんだい? 安心しなよ」
『だ、だって』
 彼女と交信するのはもう日課になりつつある。こっちからは連絡をとらないが、向こうがしつこくかけてくる。そしてその声は日に日に悲壮感が増えている。
「怖じ気づいたなら、家にお帰り。止めはしないさ」
 電話の向こうで相手が黙り込む。ここで宮塔はまた笑った。
「言ったろう、これは君の意志だ。逃げたいなら、逃げればいい。私はあくまで企画発案しかできない」
『この計画……本当にうまくいくの?』
「君がそこでじっとしれいれば、自然とそうなるさ。安心しなよ、君は待つだけでいい。時は残酷だけど、残酷が故に、とてもシステマティックでね。寸分のずれもない。やつに身をゆだねれば、間違うことは無い。間違わないってのは正しいってことじゃないけどね。間違わないというのは、どんなものであれば、確たる答えを導き出すってことだ。それがどんなものでも」
 相手は話が理解できないのか、電話の向こうで何かうねっている。ただでさえ不安なのに、よくわからないことを言われて困っているんだろう。わかろうとすれば、簡単なことだけど。
 宮塔はあるビルの屋上にいた。今は夕方で、夕日がもうすぐ沈もうといている。その風景と、夜を迎える街を堪能しながら、彼女は電話の向こうの相手にまた言葉をかける。
「今のところ、私の計画に狂いはないよ。全て、予想通りだ」
『そう……なら、いい』 
 そこで電話が切られた。携帯をポケットにしまい、屋上の鉄柵に指を絡める。
 自然と笑いがこぼれた。本当に、今のところ、計画に狂いはない。もちろん、その「計画」というのが、電話の向こうの相手が望むものではないけど、それはしらない。少なくとも宮塔の計画には狂いはない。時のように、寸分もずれてない。
 ようやく駒も揃った。これで、いい感じになる。あとはあの二人がどれだけ早く、たどり着けるか。
「期待してるよ、お二人さん」



「ここは危険ですので、中澤くんはお帰りください」
「危険だから帰れって理屈なら、あんたも一緒だろ」 
 この怪しげなビルはどうも廃ビルで、持ち主が誰かもわからない物件だそうだ。いつの間にか鍵が壊され、誰でも出入るできるようになっているという。
 そんな明らかに何かに悪用されているであろうビルに会長が入ったのは、俺の尾行に気づいておびき寄せるため。どうして気づいたかは教えてくれなかった。
 なんでこの街をうろついているかも「教えられない」ときっぱりと断れ、どうしたものかと悩んでるときに会長に言われたのが、今の言葉だ。
「私は、用事がありますので」
 室内には当然冷房なんてなくて、会長は額にかいた汗を手の甲で拭いながらも、涼しげな表情で答える。
「それを教えろって。そうしたら、俺は帰れるんだよ」
「ですので、それはできません。大人しくお帰りください。そして補講に出てください。成績が足りないなら、そこは私が海野先生に掛け合ってみます」
「補講には出たくないんだよ。何を隠してるか知らねえけど、さっさと言え。日が暮れちまうだろうが」
 実際、汚れた窓から夕日が差し込んできて、夜がすぐそこまできていた。さすがに夜にこの街にいるのはやばいと思う。俺一人なら別に構わないけど。
 会長は窓の外を一瞥すると、ため息をついた。
「今日も終わりですね。……急いでるのに」
 それはとても小声で、ぎりぎり聞き取れた。ただ俺に話しかけたというわけではなくて、いつもの癖で思わず呟いたんだろう。
「何を急いでるんだよ」
「ですので、言えません」
「言えって」
「中澤くん、これはお願いです。どうか、これ以上は深入りしないでください。この街が危険なのは知っています。ですので、細心の注意を払っています。でも、正直自分のことで精一杯です。あなたに何かあれば、私はどうしらいいのか」
「人の心配する前に、自分が心配されてるってことを考えろよ。頭いいんだから」
 相変わらずこうなったら聞く耳もたねえな。意地っ張りっていうか、石頭っていうか。それだけならいいけど、おおよそ自分のことなんて省みない。そういうところが、面倒くせえ。
「海野のこと騙してまで、何してんだよ。あんたがそこまでするって、ただ事じゃねえだろ」
 この人は規則ごとや常識にうるさい分だけ、自分がすることはない。それなのに親交のある教師を騙して、ここに居座るってのはそれなりの理由があるってことだろ。
 会長は眉を下げて、困った顔をした。痛いところをつかれたって感じだ。
「海野先生には、ことが落ち着けば謝罪とご報告に伺います」
「今してやれよ。終わったあとにされても、何もできねえだろ」
 俺が嫌味っぽく携帯を差し出してやると、会長はそれを恨めしそうに睨んだ。
「……できません」
「てめぇ……いい加減にしろよっ」
 思わず大きな声をあげてしまった。会長も予想していなかったようで、体をびくっと一度だけ震わせて驚いた。
「さんざん人にはいらねえお節介やいといて、自分が気にかけられた時には『気にすんな、帰れ』だと。ふざけてんのかっ!」
「そんな……そんな言い方は、していません」
「言い方の問題じゃねえんだよっ」
 はっきり言って自分でもなんでこんなに怒ってるのか、わからない。ただ何となく腹がたった。それは今口に出した理屈なんかじゃなく、単純に隠し事されてることに苛々したんだ。
 はっきり言って、最初は隠されるなんて想像していなかった。訊けばいつもみたいに「協力をお願いします」とか言いながら、教えてくるだろうと思ってたから。
 なんだかそうならなかったことに、無性に腹がたった。
「言えよ。言わねえなら、力尽くでもあんたのこと連れて帰るからな。言っとくけどな、口ならともかく、手で俺に勝てるなんて思うなよ」
 マジの声を出してそう脅すと会長は俯いて、表情を見せなくなり黙ってしまい、嫌な静けさが俺らを包んだ。外からカラスの鳴く声が入ってきたのが、とても不気味で憂鬱になる。
 そしてしばらくすると、会長が覚悟を決めたようで顔を上げ、まっすぐと見つめてきた。
「海野先生には報告しませんか?」
「する、しないは俺に任されてるらしいからな。あんたが黙っといてくれってお願いしてくんなら、そうしてやる」
「では、お願いします」
 ちょっとした悪ふざけのつもりで言ったのに、そんなに真剣に頼まれると悪いことをした気分になってしまう。
 会長は携帯を取り出すと、それを操作して、画面をこちらに向けてきた。液晶画面にはうちの高校の制服を着た女子生徒が写っている。
 少しカールがかかって肩まで伸びた髪の毛に、そして何より頬のそばかすが特徴的な女子生徒で、不思議なことに見覚えがあった。
「彼女は大森絵里花さん。中澤くん、見覚えがありますよね?」
 なんでわかるんだよって驚いたけど、会長はすぐに種明かしをした。
「彼女は二年生で、風紀員です。お世話になったこと、あると思ってました」
 ため息交じりで納得された。会長の言われたことで、何度か校内で服装について注意を受けたことがあったことを思い出した。
「で、この風紀員がどうしたんだよ?」
 液晶画面を指さしながら尋ねると、会長は一度息を吸ってから答えた。
「現在、行方不明になっています」

「家出か?」
 当たり前だけど、最初にそう思った。ただ会長は首を横に振って、違いますと否定する。
「それならわざわざこんな街に出向きません。少し状況が複雑です。大森さんは、終業式の日にお母様に連絡をいれています。しばらくは帰らない、夏休みが終わる頃には戻る、と」
 終業式の日っていうと、今から二週間前か。そうなるとその風紀委員は二週間、姿をくらませてるってわけだ。確かに、高校生の家出にしちゃ長いか。
「でも夏休みだからな。それ利用してるだけだろ」
「中澤くん、家出をしたことは?」
「実家‒‒あんなところ実家と思ったことねえけど、とにかく高校入るまでは、それなりやってたな」
 ただ、別に探して欲しかったわけじゃなくて、単純に帰りたくなかったから。そして相手も探しはしなかった。あれを『家出』と呼ぶかは微妙だな。
「では、事前に『家出します』と連絡したことは?」
「ねえよ。それなら家出の意味な、んか……」
 そこまで言われて、会長が家出のはずがないと断言してる理由がわかった。わかったはいいけど、逆にわからなくなる。
「その風紀員は何がしたいんだよ?」
 その当たり前の疑問に会長は答えなかった。何かを言おうとはしたが、すぐに首を左右に振ってやめた。
「……まだ、可能性です。安易に口にできません」
「ここまできてかよ」
「本来なら大森さんの行方不明も伏せているつもりだったんですよ。私なりの譲歩です、ご理解ください」
 譲歩って言われたって……。確かに会長が何をしているかはわかったが、その全貌が見えたわけじゃないし、明らかに今会長が伏せたことは、それに必要なことだ。
 ったく、いつもなら聞いてもいないことを喋るくせに、今日はやけに口が堅い。
 ……それだけ会長を慎重にさせてる何かがあるってことか。
「ならそこは譲ってやる。そいつがどうして消えたかは置いておくとして、そいつはこの近辺に潜んでて、あんたはそれを探してるってところか?」
 会長は一度だけゆっくり頷くと、はいと答えた。
「目撃情報がありました。それに、この街なら身を隠すのに困りはしないでしょう」
 会長が窓の外を眺めながら、少し恨めしそうに言う。たかが高校生の一人、ここなら簡単に身を潜められる。
「でもよ、そいつは風紀員だろ。こんな街、うろつかないだろ」
「はい。……普通なら」
 そこでやっぱり言葉を止めた。そこから先はやはりどうしても言えないらしい。ここまで意地になってるなら、変に掘り出したら面倒なことになるのが目に見えてるのでやめておこう。
「なんであんた一人で探してるんだよ。誰かに頼めばいいだろ。それこそ高校生が二週間も家から出て行ってんだ、警察はどうだ?」
 会長が難しい顔をしながら「それができたら、しています」と悔しそうに答えた。
「大森さんからお母様へ連絡があったとき、こう伝えたそうです。警察とかには連絡しないで欲しい、と」
「いや、そんなの無視しろよ」
 家出人が探して欲しくなくてそう言うのは当たり前だ。だからってそれを真に受けてその通りにするなんて馬鹿馬鹿しい。
「大森さんは真面目な子です。融通がきかないところがありますが」
「それをあんたに言われるって相当だな」
 余計な茶々をいれたら、きつい目つきで睨まれたので、急いで眼をそらした。会長はこほんっと咳払いをした後、話をもとに戻した。
「……それでも素直で、まっすぐな子です。そんな子が姿を消しています。そしてそれを警察や、他の人には知らせて欲しくないと……。それなりの理由がきっとあります」
 会長は少し俯きながら、声を小さくした。
「私はそれを確かめるまで、この事実を口外したくありませんでした。だから、海野先生もごまかし、中澤くんにも隠したかったんです」
 さっきからこの人の態度を見る限り、その理由をわかってるっぽい。更にそれは隠し通さないといけないものってことか……。頭を掻いて、はあとため息をついた。
 こりゃ、海野に報告するわけにはいかないな。となると、俺は会長と行動をともにしないといけないわけだ。ついてないな……。
「あんたはその風紀員が行方不明だって、どこで知ったんだよ?」
「大森さんのお母様が一人の生徒、大森さんと特に仲良くしていた子に連絡をしました。その子なら何か知っていると思ったそうです。しかし、その子も何も知らされていませんでした。お母様は大事にしたくないということで、その子にも口止めをされたそうですが、その子が私に相談しに来てくれました」
 なるほど。風紀員の頼みを尊重してるのは母親か。俺のところみたいなのは論外だが、こんな状況でも娘のわがままをきくなんて、さすがにどうなんだよ。
「そして密かに捜査を進め、ここに辿り着きました」
「だが、行き詰まってる。違うか?」
 指をさしながらそう指摘してやると、会長は抑揚の無い声で「はい」とあっさり認めた。
「この街にいるのは、ほぼ間違いありません。目撃情報から鑑みるに大森さんは、夏休みに入る前からここに来ていたそうです」
「はっ、とんだ風紀員だな。クビにしてやれよ」
「私にそんな権限はありませんし、大森さんをやめさせるほどの余裕はないでしょうね」
 そういえば会長が前に「風紀委員の数が足りない」とぼやいていたのを思い出した。うちの高校では委員会は立候補制で、数に上限も下限もない。そのくせイベントなどの仕事はよく回ってくるようで、人が足りないのが常らしい。
 特に風紀員は嫌われるし、仕事は多いし、縛りが多いので不人気だとか。
「で、あんたはこれからどうするつもりだったんだ?」
「……どうするとは、どういうことでしょうか?」
「見つけるんだろ、そいつを。その算段はなんかあんのかって訊いてんだよ」
「あったら、もうしています。地道に探す、今はそれしかできません」
 おいおいまじかよと嘆きたくなったが、言われてみればそれが当然だった。会長はすごい人だが、それは高校での話。ひとたびそこから出れば、ただの高校生なわけで、そこまで特別なことができるわけない。
 ましてやこの街では、安易に妙な行動もできない。目立たず自分の安全を気にしながら、どこにいるか分からない奴を探すのは大変だっただろう。
 そして他の誰にも協力要請は一切できない。
「そうは言っても急いでるんだろ?」
「はい。一刻を争うとまでは言いませんが……あまり日が経つのは、絶対に良くないでしょう」
 その理由はわかんねぇけど、会長の行動と態度からして、たぶんただ事じゃない。……やっぱり、面倒ごとになった。最悪だ。
「そいつ、誘拐されたとかじゃないよな?」
「それはありません。最初の連絡以降も、お母様に電話で時々連絡が入るそうです。本人の声で間違いないとのことです」
「そんなの犯人が喋らせてるだけかもしれねえだろ」
「誘拐犯なら何か要求してきますよ。そういうものは一切ないんです。つまり、大森さんは間違いなく、自分の意志でどこかに隠れているんです」
「それならほっとけばよくないか? 夏休みが終わる頃には戻るって言ってんだろ。それまで気長に待てばいいじゃねえか」
 会長はとんでもないというように首を力強く左右に振った。
「絶対にだめです。早く見つけ出す必要があります」
 何がだめなのかも言わないくせして、会長はそれだけは認められないようだ。
 なんだよ。ただの家出でもない、誘拐でもない。その風紀員は何をしてるんだ?
 家出するのにわざわざ連絡して、しかもいつ戻るかまで告げている。警察には言うなと口止めしといて、母親に定期的に連絡をいれてる。そしてそれは間違いなく自分の意志。
 目的が全然わかんねえ……。でも、こんな状況でも会長は何か掴んでるみたいだ。そしてそれは会長自身が危険を冒し、教師を誤魔化し、俺を遠ざけようとするほどのこと。
 何がなんだか全然わかんねえ。
「早く見つけるってったって、方法がねえんだろ。この街、それなりに探したんだろ? それで見つからないなら、これから何やっても一緒だぞ。ここは学校じゃねえ、みんながあんたに協力するわけじゃない。どうすることもできないんじゃないか?」
 俺の指定は図星だったみたいで、会長は本当に珍しく、何も言い返してこなかった。どうやら自分の限界に気づいていたらしい。女性らしい小さな両手の拳が強く握られて、震えている。
 ただ、だからと言ってここでこの人が引き下がるわけない。何が何でもここに居座るだろう。そうなると面倒だ。俺もそうしなきゃいけないんだから。
 窓の外では夕日がほぼ沈み、もう夜がそこまで来ていた。これはもう迷ってる時間もないな。
「おいあんた、今日はもう帰れ」
 俺がそう命令すると会長は「へっ?」と素っ頓狂な声を上げて、俺の顔を見つめた。
「もう夜だ。タイムリミットだよ。もともと帰るつもりだったんだろ?」
「な、中澤くんも帰るんですよ?」
「馬鹿言ってんじゃねえ。この街は夜の方が賑やかなんだよ。情報収集すんなら絶対に夜だ。あんたにはできなくても、俺にはできる。だからあんたは帰れ」
「馬鹿はどっちですか……そんなこと、許可できるわけありません」
「じゃあ、どうするんだよ?」
 意地悪くそう質問してやると会長は言葉を詰まらせた。そんな彼女に追い打ちをかける。
「ここ最近ずっとあんたは昼間にここで情報収集し続けた。それで今も風紀員は見つけられてない。これからもそれを続けるか? 急いでるんだろ?」
 こちらを見つめたまま会長は答えない。
「ならもう違う手段を使うしかねえだろ。夜だ。人が多くなるときに、色々聞き回るしかない。でもそれはあんたにはできない。危険だからな。そんなことさせたら、俺が海野にうるさく言われる」
 だったら、もう手段は一つしかないわけだ。
「俺が夜に調査をする。そうしたら、何か見つかるかもしれねえ。それでいいだろ?」
 本当はこんな面倒なことやりたくない。ただ、これからずっとこの人と風紀員を探すなんて絶対に嫌だ。さっさと終わらせて、夏休みを満喫したい。
 会長は俺が言ってることは理解はしてるみたいだけど、納得はできないようだ。何か言おうと口を少し開けたけど、すぐに閉じた。たぶん、自分が言うことが安易に反論されるのがわかったんだろう。
「選べ、二択だよ。これからも同じ方法をとり続けるか、ここで違う手段を選ぶか」
「……私も同行し」
「させねえ。そんなことするなら、俺は協力しないし、このことを海野に報告するからな」
 会長が銀縁めがねの向こうにある眼を見開いて驚いた。
「あんたが夜にここにいるのは危ない。わかってんだろ」
「そ、そんなの中澤くんも同じじゃないですかっ」
「おう。だからどうしたよ? 他に頼る相手でもいんのか?」
 会長は顔を紅潮させて、肩を震わせていたが反論はしてこなかった。
「どうする?」
 そう迫ってやると会長は悔しそうに俯き、蚊の鳴くような声で「……わかりました」と答えた。
 これが俺が初めて会長に勝利した、記念すべき瞬間だ。

「絶対に危険なことはしないでください。あと、何かあればすぐ連絡を。わかりましたか?」
「何回言うんだよ。てめえは母親か」
 駅の改札の前で切符を片手にした会長が何度も同じ忠告をしてきて、いい加減鬱陶しい。
 会長を駅まで送り届け、さっさと街に戻るつもりだったのに、その会長がしつこく今の忠告をしてくるので行くに行けない。こいつは急いでるんじゃなかったのかよ。
「本当ですよ。約束です、破ったらたたじゃおきません」
「わかったわかった。なんかあったら連絡してやるから、早く帰れよ」
 会長はまだ言い足りないようだ。埒が明かないので無理矢理体を回転させ、背中を押して改札を通らせたのに、改札の向こうで振り向いて「本当ですよ」とまた確認してくる。
「何回言えば気が済むんだよ。こっちは任せて、早く帰りな、生徒会長さんよ」
 会長は不服そうだったが、それでもゆっくりとした足取りでホームへ向かっていった。
 その背中姿が見えなくなったのを確認して、俺は街へ戻るため踵を返した。



 任せろ、なんて言ったが結果はひどいものだった。 
 何人かの知り合いにあたってみたものの、誰一人として何も知らなかった。そいつらを使って他の連中にも探りを入れてみたが、そこでも収穫はゼロ。
 誰かが隠してるってこともあるかもしれないが、少なくも俺が持ってる人脈じゃ、何も出てこない。これじゃあ、会長のやってたことと変わりがねえ。
 大見得を切った分、憂鬱になる。明日会長がそれみたことかという顔をするのが思い浮かぶ。それに今日さんざん色々と言ってしまったから、その腹いせも待っているだろう。
 想像しただけで吐き気がしてきた。
 すっかり暗くなった街を歩きながら、なんとかならないかと頭を回すが、当たり前なことに妙案なんて出てこない。そもそも俺がなんとかできるようなら、会長が手こずるわけないか。
 俺にあって会長にないものは、この夜間の方法収集以外はなくて、それがだめなら、もう打つ手は無い。
「マジかよ……」
 自分の浅い腹がたったので近くにあった自販機を腹いせに蹴っ飛ばすと、大きな音をたてたながら前後に激しく揺れた。
 その自販機に背中を預け、ポケットからたばこを取り出す。会長に何度かすってるところを見つかり、そのたびに没収され、二度とすわないと約束しろと迫られるが、それでもやめてやらない。
 道行く連中を眺めながらたばこを吹かしていると、急に「おおっ」という若い女の声が聞こえた。
 声がした方を見ると、プリントTシャツにを着て、メジャーリーグでよく名前を耳にするチームの「NY」と刺繍されたキャップ帽を被った女が、俺を指さしていた。
「奇遇だね。そのたばこ、私と同じ銘柄だ。珍しい、良い趣味をしている」
 キャップ帽のツバに隠れていて、そいつの顔は見えない。ただその帽子に収まりきらない黒い長髪が腰くらいまで伸びているし、声の感じから若い女だということはわかった。歳もそんなに離れてないだろう。
 もちろん、見覚えはないけど。
「……なんだよ、急に」
「うん? いや、その銘柄のたばこは珍しいだろ。仲間を見つけられて嬉しかったのさ。それだけだよ。なんだかとても運命的じゃないか」
 女はそう言うと愉快そうに笑い、自分もポケットからたばこを取り出してくわえた。
「うまいよね。私はニコチンと婚姻を誓ってるんだけど、こいつじゃなきゃそうしなかったよ」
 女はうまそうに煙をはき出す。その様子を見ているだけで、本当の好きなんだなということがよくわかった。
 俺は銘柄にこだわったことなんかない。最初に吸ったのがたまたまこれってだけだ。
「君は見たところ未成年だけど、安心するといい。愛があれば年の差なんて、ってやつだ。二十歳になるまでこいつとのキスを我慢するなんて普通はできないさ」
 女は腕組みをしながら、うんうんと何度も頷く。こっちはまだ何も言ってないのに、さっきからずっと勝手に話を進めている。
 関わるとめんどくさそうだ、たぶん酔っ払いだろうと思って、俺はその場を後にしようと立ち上がったが、その瞬間に待ってくれよと止められた。
「こんな美人なお姉さんが話しかけてるんだ。無視はひどくないかい?」
「その帽子じゃ美人かどうかわかんねえよ」
「何を言っているんだ。女性はみんな美人だよ。ああでも、私は『とびきりの美人』だね」
 やっぱり酔っ払いだ。しかも泥酔してやがる。
「言っておくけど、私は酔ってないよ。自分に少し酔っているかもしれないけどね、それは仕方ないよ。なんたって、とびきりの美人だし」
 こっちの考えを見透かしたように否定してくるが、これって否定になってるのか。初対面の相手によくここまで意味不明なことばっかり言えるもんだな。
「俺、用事あるからもう行きたいんだけど」
「そうかい。せっかく仲間を見つけたと思ったのに、残念だよ。じゃあ、最後の一つだけ質問させてくれ」
 俺が嫌だよと答えるより早く相手の口が動いた。
「眼鏡をかけた、可愛らしい女の子を見なかったかな? ちょうど君と同じくらいの年齢だと思うんだけど」
「……会長?」
 別に答える気はなかったのに、その質問は昼間に自分がしたものと同じで、思わず口からそう溢してしまった。女は「お?」という変な声を出し、顎に手を当てて、何か考え始める。
「確かにあの子は会長だけど……なんで君がそれを‒‒って、答えは一つか。そうかそうか」
 女は唇を曲げて、また愉快そうに笑った。相変わらず顔は帽子に隠れているが、目でも笑っているのが自然と伝わってきた。
「こいつは運命かな?」
「……なんか前にも似たようなこと言われたことあんだけど」
「そうなのかい? 君はずいぶんとドラマチックな人生を歩んでるんだな。素敵だよ」
 いや、それを言われた相手は宮塔だし、決して良い意味で言われたわけじゃないんだけど。
「んなわけあるか。それよりあんた、会長とどういう」
 こちらが質問しているというのに、女が急に鼻歌交じりに携帯を操作しはじめた。」
「お、おい」
「あの子と私の関係は秘密なんだ、許しておくれ。その代わり、良いことを教えてあげるからさ。……あった、あった」
 女は携帯の画面に向けてきた。そこには写真が表示されていて、薄いピンク色で塗装された五階建てくらいのビルの写真だ。見たことはなかったがこの街のどこかにあるものだということはなんとなくわかった。
「このビルはモスキートビルっていうらしい。ここからちょうど街の反対側くらいにある」
「だからなんだよ」
「そこに大森って子がいる。良い情報だろ?」
 思わず言葉を失った。どうしていきなり今行方不明の風紀員の名前が出てくるのか、ましてやなんでこいつはその居場所を知っていて、しかも俺がそれを探してるってわかったんだ。
 おそらく、俺の困惑は顔に出ていたんだろう。女が面白そうにまたニタッと笑った。
「いいリアクションだね、中澤くん」
「お、おい、あんた誰なんだ」
「申し訳ないね、それも秘密だ。聞いたことはないかい? 女は秘密を着飾って、女らしくなるんだよ?」
 確かなんのか漫画で聞いたことある台詞だったけど、そんなことどうでもいい。
 色んな疑問が頭の中で交錯していて、どれから確認すればいいかわからなかった。
 こっちがそんな状況なのに、女は煙を吐き出すと、のんきに腕時計を確認していた。
「もうこんな時間か。中澤くん、とりあえず今の情報は嘘じゃないよ。明日、あの子と確認しにいくといい。それでこの街ともお別れできるだろ? もう遅いし君も帰らなきゃ。長居すべき場所じゃない」
 女はそのまま背を向けたが、そういうわけにはいかない。
「おいっ」と声をかけてその足をとめた。女は「うん?」と首をかしげながら振り向いてくる。
「なんで、あんた、大森ってやつが行方不明だって知ってるんだよ」
「うーんと……話せば長いなあ。また今度にしてくれないかい? これ、あげるからさ」
 そういうとたばこの箱を放物線を描くように投げてきた。それを受け取ると、女は頷いた。
「今はそのたばこと事実だけを持っていきなよ。君が知りたいその他諸々は、いずれ教えてあげるさ」
「いずれっていつだよ」
「それが分かれば『いずれ』なんて言わないさ。時が来れば、そうなるって。短気は損気だよ」
「あんたを使用して良いかどうかもわかんねえんだけど」
「あらら? こんな美女を信じないなんてひどいな」
 だから美女かどうかわかんねぇと言い返そうとしたのに、女が先に「それに」と続けた。
「ひとまず今の君に、その情報を信じて持ち帰る以外に、面目を保つ術があるのかな?」
 女がまた笑うが、それはさっきまでの楽しげな笑みとは違い、どこか嗜虐的なものだった。ただ攻撃的かというとそうじゃない。いじめているというより、おちょくっている。そんな笑い。
「……意味わかんねえ」
「いや、わかってるさ。君はあの子を知っていた。そして大森って子についても。あの子のことだ、この事件は絶対に口外しないはず。それでも君は知っていた。理由は一つ、君と彼女が協力してるから。しかし、今この場に彼女はいない。あの性格を鑑みると、君一人がここで捜査するなんて作戦はとらないさ。つまり、君が自らこう進言したんだ。夜は自分一人で捜査するから、お前は帰れってね。そうでもしないとあの堅物さんが、こんな状況許すわけ無い。そんな大見得をきったいいものの、情報という情報は得られず、そこで落胆していた……どうだろう、どこか間違っているなら、言ってくれていいけど?」
 今度こそ、言葉が出なくなった。それは今のこの女の推理が一つも間違っていなからというよりも、その推理の仕方が、考えの組み立て方が、それを喋る順序が、会長を彷彿させたからだ。
 口調が全然違うし、会長は自分の考えを喋るときに基本的に無表情だけど、今のこの女の推理の仕方はまさに会長だった。
「……あんた、会長のなんだ?」
「うん? そーだなぁー。じゃあ、恋人ってことで」
 どこまでもふざけていて、こちらの質問に何一つ真剣に答えない態度に苛つく。そんな俺の感情を読み取ったのか、女は「まあまま」と諫めてきた。
「恋人っていうのは嘘だよ。彼女にも黙っておいてくれよ、怒ると根に持つタイプなんだ。怒った彼女は苦手でね」
「じゃあ、本当のところなんなんだよ」
「ひ、み、つ」
 今の言葉がもしメールか何かだったら、この女は確実にハートマークでもつけていただろう。
「ふざけやがって」
「いいや、どこまでも真剣なんだよ。君らに早くこの街から離れてほしくてね。いいから、明日、その情報を彼女に渡してくれ。あとは君たち次第だ」
 女は短くなったたばこをポケット灰皿に捨てると、また別の箱を取り出して一本くわえた。
「君と、あの子にも忠告だ。‒‒気を抜かない方が良い、相手は本気だ」
「相手?」
「さて、私はもう行くね。……ああ、大切なことを言い忘れていた。ここで私と会ったことは絶対にあの子に秘密だ。その情報は君が街の連中から得たってことにしてくれ。いいかい、絶対だよ」
「お、おい、あんた本当になにもんだよっ」
 女は歩き出したかと思ったら、また振り向いて、またニタッと笑った。
「名乗るほどの者じゃない。言ったろう? ただの『とびきりの美人』だよ」
 そしてまた歩き出して、近くの角を飄々と曲がっていった。
 しばらくぼうっとしてしまったが、我に返ってすぐに走って追いかけて同じように角を曲がったのに、その時にはもう女の姿はなかった。首を振りながら周囲を探してみるが、どこにもいない。
「……なんだってんだよ」



「モスキートビル……ですか?」
 翌日、駅の改札で会長と合流し、そのまま例のビルへ向かいながら、俺はあの情報を話した。一応、女の指示に従い、街で聞き出した情報ということにして。あんな意味不明な奴の言うことを聞くのは癪だったが、なぜかそうしてしまった。
「調べてたのか?」
「ええ、この街の建物はおおよそ。確か何人かの住民がいたはずですので、深く調べられていなかったところです」
「ほーん。じゃあ、調べる価値はあるわけだ」
 その言葉に会長は同意してこなかった。歩きながら、あごに手をあてて、何かぶつぶつと呟いている。いつものことなので、ほっとくことにした。どうせ話しかけても反応しないし。
 しばらく歩いていると、会長が元に戻り「それにしても」と口火をきった。
「本当に情報を掴んでくるとは、すごいですね」
「……俺にかかれば、なんてことねーよ」
 なんて言っていいかわからなかったので、そんな言葉で誤魔化した。
「ありがとうございます。本当に感謝していますよ」
「気が早いだろ。本当にそこにいるかまだわかんねーのに」
「いいえ、それでも構いません。お礼は結果に言うものじゃなく、行為に言うものですから」
 俺は会長から顔を背けて「勝手にしろ」と素っ気なく答えた。なんか、どういう表情をしていいかもわからなくなってしまったからだ。会長がその間、クスクスと笑っていたのがすごく悔しかったのにそれに対して何もできなかった。
 そしてそんな居心地がいいのか悪いのかなんとも言えない空気のまま、俺たちは例のビルにたどり着いた。
 ビルの前に二人で立ち、その扉を見つめる。
「おら、早く行こうぜ」
 そうやって一歩踏み出したのに、会長はついてこない。振り向いて「おいっ」と声をかけると、会長は重苦しい視線を向けてきた。
「な、なんだよ」
「ここまできたら、ついてこないでくださいなんて言えません。ただ、お願いがあります。一つだけ、約束していただけませんか? これから何を見ても、それを口外しないと」
 たいてい、会長はこういう言い方はしない。この人が本当に何かして欲しいときは、相手に「はい」と言わせるために交換条件を出す。吹奏楽部の事件のときみたいに。
 なのに、今日は違う。真っ直ぐとこちらを見つめ、素直に「お願いします」と頭を下げた。
「やめろよ」
 そんなことされたって、気分が悪くなるだけだ。会長は頭を上げて、またこちらを見つめる。
「……わかった。そうしてやる。だが教えろ。あんた、何をそんなに必死になってんだ」
 会長はすぐには答えなかった。ただそれは昨日みたいに教えるのを拒んでいるわけじゃなくて、なんと説明するべきか考えているようだ。だから俺も、素直に待つことができた。
「もし、私の推理に間違いがなければ……」
 会長がゆっくりと喋りはじめ、またすぐに言葉を詰まらした。急かすことなく待っていると、会長が大きく息を吸い込み、意を決したように眼を鋭くさせて、自分の考えを明らかにした。
「‒‒おそらく今回のことは、人命に関わっています」


「人命?」
 突拍子も無い言葉に思わずオウム返しになってしまったが、会長は静かに「はい」と答えるだけだった。その眼を見る限り、冗談ではなさそうだ。そもそもこの人は冗談なんか言わないか。
「ってことは、その風紀委員の命が危ないってことか?」
「……まだ、確実ではないので、はっきりとは言えません」
 またこれかよと嫌になるが、会長の「他人を巻き込まない」という徹底した今回の姿勢と、わざわざ危険な街に自ら出向くというリスクを犯している積極性を考えると、ここにきてもこの態度を崩さないのは納得できる。
「でもあんた、誘拐とかじゃないって言ってただろ。あいつは自分の意志で消えたんだろう? なら、どうして命が危ないなんて話になるんだよ」
「だからこそ、です。彼女は自らはお母様に連絡し、自分の失踪を隠蔽してします。これが意味することは、多くありません」
 会長は左手首の内側にした腕時計を確認すると、一歩足を進めた。
「行きましょう」
「お、おい」
「時間が惜しいですから。私たちが知りたいことは、きっとここにあります」
  会長がビルのドアを押して、中へ入っていく。今の言葉、やたらと引っかかるものがあったが、とにかくその後をついていくしかないみたいだ。
 お世辞にも広いなんて言えない玄関部分には奥の階段へと続く道と、エレベーター、そして各部屋のポストが設置されていた。会長はその中の三階の部屋のポストを注視していた。
 それぞれの階に部屋が三つあって、三階もそうだった。ただ、その中で一つだけ名字の名札がつけられていない部屋があり目についた。
「ここか?」
「でしょうね。チラシがおかしいですし」
「チラシ?」
 会長が他のポストを指さした。いくつかのポストからピザ屋のチラシがはみ出している。
「ここにはこのチラシがありません。ピザ屋さんはこういうポスティングを自ら行いますので、住民のいない部屋には極力いれません。チラシの無駄遣いになるので。おそらく、この辺りに詳しい店員さんがいたのでしょう。部屋の空き状況を知っていて、ここに投函しなかったんです」
「この部屋の住人がとったってことはねえか? それに、他のチラシはあるぜ」
「なら余計に、なぜピザ屋さんのチラシだけとったのかわかりません。使うにしても捨てるにしても、ポストにチラシが溜まっていれば、一気に取り出すのが普通です」
「まあ、確かに」
「つまり、その他のチラシはカモフラージュ。誰かがこの部屋に住んでいると見せかけているだけ。これのおかげで最初にここに来たときは気づきませんでした。てっきり名札をつけてないだけかと思って……ピザ屋さんにも感謝しなくちゃいけませんね」
 会長はその部屋のナンバーを確認すると、奥の階段へと進んでいった。
 しかし……あの女、マジで居場所を知ってやがったのか。本当に謎だらけだな。
 会長についていきながら階段を上ると、静かなビルの中に二人の足音が反響した。人が住んでいるはずなのに、ちっとも人の気配を感じない。
「なんであの風紀委員はこんなところにいるんだ?」
「……人目を避けるため、です」
「いや、だからってこの街か。てかそもそも、なんで人目を避けてる? さっきの言い方だと、あいつがなんかやばいことをしてる感じだったぜ?」
「……そうですね」
 会長は意外にも肯定した。だとすると、さっきの「人命に関わる」って言葉も意味を変えてくる。俺はてっきり風紀委員自身がやばいことになってると思ったが、まさか、その逆ということもあるのか。
「大森さんの名誉のために言っておきますが、彼女は他人に危害を加えることを決してしません。そんなことをする子ではありません」
「いやいや、そんなのわかんねえぞ」
「いいえ、絶対にありえません」
 そんな会話をしていたところで、三階へ到着した。会長は足を止めると、俺の方を振り向いた。
「中澤くん、一つ、ご協力をお願いしたいです」

 7

 大森絵里花はスマホの画面を眺めていた。友人たちのラインを読みながら、どう返信しようか考えるが、上手な返答が思いつかない。最初のころは誤魔化せていたことが、最近は苦しくなってきている。
 ため息をついて、スマホをスリープさせて枕元へ置いた。
「……寂しい」
 自然と声が漏れた。もう毎日、いやそれどころか数時間おきにこれが口から出る。隠しようもない本心で、本当に辛い。
 ブラインドがされた窓に歩いていき、指で隙間をつくって外を眺める。天気が良くて、外で遊んだら汗をかくだろうが、それでもすっきりできるだろう。体を動かしたい。
 今になって自分の選択が誤りであることを自覚できてきた。それでも、今更引き返せない。宮塔の力まで借りてこんなところに隠れた意味がなくなってしまう。
 でも、本当はこんなことしちゃいけない。間違っている。
『逃げたいなら、いつでもどうぞ』
 宮塔の言葉が頭で反響する。終業式の日、この部屋に案内された時にそう言われた。今でも連絡を取り合っていて、自分が弱音を吐くと似たようなことを面白そうに言ってくる。彼女は自分がそうできないのを知っていて、弄んでいる。ただ悔しいけど、彼女の言うとおりだ。
 自分にはいつでもそうできる。でも、そうしないのは自らの意志……。
 さっき置いたスマホに眼をやると、また通知がきていた。新着メッセージだ。きっと、さっきの会話の続き。今度遊ぼうよという、好意に満ちた友人たちの誘いだ。
 それを夏休みに入ってから、ずっと断っている。最初の頃は友人たちも納得してくれていたが、最近はそうもいかない。夏休みなのになぜそんなに遊べないのかと疑惑を持たれているし、逆に「何かあったの?」と心配もしてくれている。
 本当に心苦しい。本当は早く彼女たちと会いたい。
『夏休みの間だけ、失踪してしまおう。そうすれば君の望みは叶う。準備は私がしてあげるさ。どうだな?』
 最初に宮塔に計画を持ちかけられた時、驚いたもののすぐに頷いた。それしか手が無いと思ってしまったから。
 ただその『夏休みの間だけの失踪』が、ここまで辛いものだとは想像していなかった。寂しいし、辛いし、罪悪感ばかり膨れあがる。
 毎日のように届く母親からの連絡が、その最たるものだった。自分のお願いをきき、警察にも学校にも言ってないようだ。もしあのお願いを聞き入れてもらえなかったら、全てが台無しだった。
 そんな優しい母を裏切っているという事実が絵里花の心を一番苛んでいた。電話やメールで「自分は無事だ」と伝えているが、ちっとも事情を説明しない彼女を責めることもなく、早く帰ってきて欲しいとお願いしてくる母の声は、日に日に悲壮感が増している。
「お母さん……」
 また自然と声が出た。会いたい、話したい。謝りたい……。思うばかりで、行動に移せない、勇気を出せない自分が本気で嫌いになる。
 そんな気分を抱えながら自分が隠れ家にしている部屋を見渡す。大きめのベッドに、そのすぐ隣に小型のテレビがあって、その傍には宮塔が「暇つぶしに使うといい」と置いていったゲーム機が備え付けてある。
 まるで病院の個室みたいな部屋の作りだと、最初は思っていた。しかし最近になって、そうとすら思えなくなってきた。
 ここは、少し贅沢な牢獄。それが彼女の見解だ。
『ひどい言い様だな。牢獄って、君、入ったことでもあるのかい? あそこは狭いとか、冷たいとか、出られないとか、そんな次元で苦しいんじゃないよ。あそこはね、お前なんかいつでもどうとでもできるって目に見えない意志の恐怖に襲われるところなんだ。その恐怖がないなら、そこは牢獄じゃない』
 電話で宮塔はそんなことを言っていた。彼女の言葉のほとんどを実は理解できない。難しいとかではなく、とでも独特で彼女自身、こちらに理解させようとしていないと思う。
 ただ、たとえ彼女が否定しようと、絵里花の見解は変わらない。
 そんな牢獄に二度、ノックが響いた。びくっとしてしまい、すぐ応答ができなかったが、またさっきよりも強めのノックが響く。
「……だ、誰?」
 震える声でそう絞り出すと、聞き覚えの無い、男の声が聞こえてきた。
「飯だ。いつもの連中が来られないから、代理で来た。鍵、開けてくれ」
 ほっと息をなで下ろす。ここへの訪問者は毎日あるけど、その度に今みたいになる。ばれたんじゃないかという恐怖のせいだ。
「わかった。今、開ける」
 少しだけ重たい体で扉まで歩いて行き、のぞき穴とポストしかない緑色に塗装された扉の鍵を解錠した。
「どうぞ」
 扉を少しだけ開けたところで、自分の眼を疑った。なぜなら、そこに立っていたのは見覚えのある男子生徒だったから。「えっ」と唖然としてしまったが、すぐさま正気に戻って、扉を閉めようとしたけど、もう間に合わなかった。
 彼が外側からドアノブを掴んでいて、こっちが敵うはずもない力で扉を無理矢理に全開させた。
「あなた……なんで」
 そこにいたのは学校で何度か注意したことがある男子生徒。一年生で中澤という名前だったことは記憶しているが、その彼がなぜこんなところにいるのか、さっぱりわからなかった。
「おい、てめえ……その腹」
 彼が絵里花をまじまじと見つめながら、信じられないという声音でそんなつぶやきをした。我に返ってとっさに腹部を両手で覆うが、何もかも手遅れであることは一目瞭然だ。
 彼が眼を見開いて驚いている姿を見ながら、一歩下がったところで、その彼の後ろからまた見知った顔が現れた。
「か、会長……」
 委員会活動で何度か顔を合わせ、話もしたことがあった生徒会長の小野夏希が彼の後ろに身を隠していたようだ。
 その彼女は絵里花をまっすぐと見つめている。どこか怒っているようで、安心しているようで、同情しているような、複雑な視線を向けてきていた。
「やはり、そういうことでしたか」
 なんで、どうして……そんな疑問ばかり出てくるが、言葉にできなかったが、わかったことが一つだけ。
 姿を見られた。もう、おしまいだっ。
 背中を向けて、駆け出そうとするけど会長の「やめてください」という落ち着いた声で止められた。
「ここは三階。普通でも飛び降りられません。ましてや、今のあなたでは到底不可能です」
 わかっていたことだけど、その言葉で力が抜けて、その場で膝をつけてしまった。両手も床につけたみっともない姿。
 せっかく、今まで隠してきたのにこんなところで……。
「お、おい、あんた、こいつまさか」
「ええ、そういうことです」
 会長がとても冷静な声で、絵里花が隠し続けていたことを口にだした。
「大森さんは、妊娠しているんです」
 認めたくなくて、床につけていた両手で両耳を覆い、顔を床に伏せた。
 自分の腹部の重みが、嫌というほど感じとれた。



 会長がまるでダンゴ虫みたいに床で丸くなってしまった風紀委員の前に行き、膝をついてから喋り始めた。
「騙すようなことをしてしまい、ごめんなさい。しかし、鍵がかかってることも、あなたが素直に出てきてくれないことも予想できたので、中澤くんに頼んで、あなたの協力者のふりをしてもらいました」
 さっき、三階についた途端にされたお願いは、さっきの演技だった。
『大森さんはおそらく部屋に一人でいて、鍵をかけています。素直に出てきてもらうために、彼女の協力者のふりをしていただけませんか?』
 会長の言葉の後半は意味不明だったが、説明を求めたところできっとしてもらえないと思い、素直に承諾してなんて言えばいいかだけ教えてもらって、さっき風紀委員を見事に騙した。
 なんであれで風紀委員が扉を開けたのかは、はっきりと分かっていない。
 今だってこの状況を完全に理解できてるわけじゃない。ただ、この部屋を開けてもらったときに最初に眼に入った風紀委員の姿が、あまりに衝撃的だったので、その部分だけは理解できた。
 眼があったときの風紀委員の驚きようと、腹部の膨らみ。
 俺は何度か風紀委員と会ったことが会ったから、すぐに妊娠だとわかった。ただ、もし初対面なら少し太っているだけにしか見えないだろう。そこまではっきりと腹が膨らんでるわけでもなかったから。
 会長の言葉に風紀委員が顔を上げて、震える声で「ど、どうして?」と質問した。
「どうして……そう問いたいのは私です、大森さん。どうしてこんな選択をしてしまったんですか」
 少し責めるような口調の会長は、ひどく珍しい。今のは俺や他の生徒にするような注意じゃない。かなりの感情がこもっていた。
「だ……だって」
「あなただって、自分がしたことが正しかったとは思っていないでしょう。こんなところで状況をやりすごし、自分も周囲も追い詰めて、逃げ場をなくすだけの選択で、何がえられると思ったんですか」
 状況を読み込めていない俺を置いて、会長がろくに反論もできないでいる風紀委員を叱りつけた。
 珍しい光景だ。この人は、滅多に人をこんな風に責めない。いつもなら落ち着き払って、諭すようにする。
「あなたがしたことでどれだけ‒‒」
 会長がまだ言葉を続けようとしたところで「おい」と口を挟んだ。
「そこまでにしとけって。こいつは今、そんな話聞きたくないと思うぜ」
 腹を抱え込むように膝をついていた風紀委員を一瞥する。明らかに、まともに話ができる状況じゃないのは明白で、これ以上なんか言うのは酷ってもんだ。
 会長は俺に止められて、落ち着いたようで「……そうですね」と、いつも以上に小さなつぶやきをした後、風紀委員の両肩を掴んだ。
「どこか、体に異常はありませんか?」
「……ない、です」
「それなら、よしとします」
 少しだけ微笑んだ後、会長は立ち上がり、俺に視線を向けた。
「状況を説明しましょうか?」
「ああ、わかりやすく頼むぜ」
「あくまで、私の推測なので、大森さん、何か間違っていれば、修正をしてください」
 足下にうずくまる風紀委員の返答も待たず、会長はいつもの調子で、右手の人差し指をたてながら説明を始めた。
「大森さんは妊娠されています。それはわかりますね?」
「ああ」
「いつどこでしたのか、そこまでは判断できません。しかし、それなり月日が経っているのは明らかです。さて、大森さんは高校二年生です。妊娠したとなれば、当然、周囲の反応は予想できますよね?」
「……堕ろせ、か」
 俺の言葉に風紀委員がビクッと震えて反応した。それを見た会長は、なんとも言えない表情をした後、「そうです」と答えた。
「そう言う方が多いでしょう。ただ、それで『はい、わかりました』なんて言える人は少数です。きっと、大森さんもそうだったんでしょう」
「しかしよ、それがどう今回の失踪に繋がるんだ」
「彼女は、周囲に『堕ろせ』と言えない状況を作ることにしたんです。妊娠に気づいた彼女は、それを隠した。しかし、これほど身体的に特徴がでるものですから、ずっと隠し通せるものではありません」
 そんなこと言われなくてもわかる。
「ですが、姿を消せば、当然隠せます」
「だから失踪したってか? でもその後はどうすんだよ。出産だって金がかかるし、何より入院とかする必要あんだろ。育てるとなるともっとだぜ」
「ええ。必ず周囲の協力がいります。ようは、協力させる状況を作ることが、この失踪事件の真相です。‒‒違いますか?」
 うずくまる風紀委員に会長が問いかけるが、返答はない。ただこんなことを言われても反論しないのは、なによりの肯定だろう。
「母体保護法という法律があります。中澤くん、ご存じですか?」
「知ってると思うのかよ」
「一応言っておきますが、保健体育の授業で習っているはずですよ」
 体育ならともかく保険なんて真面目に聞いてるわけない。ただ、確かにそんな名前が暇つぶしに読んでいた教科書のどっかに載ってあったような気もする。
「で、それがどうしたっていうんだよ。急に法律の名前なんか出しやがって」
「その法律では母体に関する様々なことが定められています。その第十四条に、中絶が可能な期間が示されています。それは妊娠満二一週です」
 そこまで言われて、更にさっき会長が風紀委員を叱っていた『自分も周囲も追い詰めて、逃げ場をなくすだけの選択』って言葉を思い出し、自然と真相が見えた。
「つまりこの風紀委員は周囲にも、自分にも『中絶』って選択をとらせないために、姿を消したってわけだ」
「はい。その期間さえ過ぎてしまえば、もう中絶はできない。なら、周囲も協力をせざるをえないですから。……ただこの選択は、はっきり言って間違っています」
 そこでようやく、黙っていた風紀委員が顔をあげて、ギッと会長を睨み付けた。
「し、仕方ないじゃないですか……ほかにっ、どうしようがあるっていうんですか! 私は、産みたいんです! 嫌です、堕ろしたくなんかないっ! それとも会長は、私にそうしろって言うんですか!」
 せきをきったかのようにまくしたてた風気員を、会長は顔色を一つ変えず見つめていた。
「どういう選択をとるかは、あなたと、その周囲が決めるべきでしょう。しかし、あなたは今のような一方的なエゴで、このような選択をしたんです。私はそれを正しいだなんて、口を裂かれたって言いません」
「え、エゴって……」
「エゴですよ。自分一人でどうしようもないと分かっていながら、でも協力を得るのが難しいからといって、無理矢理そうさせるようにした‒‒悪意のあるエゴです」
 そこまで言い切られて、でも言い返すことができなくて、風気員は唇を噛んで黙った。言葉がきつめだが、会長の言い分が正しい。結局この風気員は、腹にいる赤ん坊のためでもなんでもなく、自分のために周囲を騙したんだから。
「それにしても、どうしてそんなことが分かったんだよ? あんた、話を聞いただけでこの推理できたんだろ。どういう頭してんだよ」
「難しいことではありません。大森さんが失踪する際に、お母様に連絡を入れたというのが大きなヒントでしたから。なぜそんなことをしたのか。さらに、夏休みが終わる頃に戻る言い残していた。つまり大森さんは、絶対に自分が失踪していることが外に漏れない状況が夏休みの間だけ欲しかった。さらに言えば夏休みさえ終われば、そうする必要がなくなるということです。なにかをやり過ごしていると感じました」
「それで妊娠だって考えたわけか」
「ええ。実を言うと大森さんが失踪したと聞いて、すぐに彼女の知り合いに色々聞きました。恋人と別れたところだと知るのは、即日でしたよ」
 これでようやく『人命に関わる』って言葉の意味も理解できた。確かにこれは人命に関わってるな。ただ、俺が想像していたのとは違う形でだけど。
「警察に言うなってのは、捜索されたら妊娠がばれるからか」
「はい。この件は家族はもちろん、学校にだってばれてはいけないもの。だから警察なんてもってのほか。ですから誘拐や、そういった事件に巻き込まれたわけではないと家族を安心させる必要があった。定期的に連絡してたのはそういう理由があったからです」
 しかもメールじゃ無くて電話でしてたのは、間違いなく自分が話してるってことを証明するためか。そうすれば通報される可能性も少なくなる。
「……男はどうしたんだよ」
 さっきから気になっていたことを訊くと、ここに来て初めて会長が顔色を変えた。少し表情を曇らせて、即答しない。ただ少ししてから、言いにくそうに答えた。
「ある大学生だと情報を得ました。ただ、私も捜索しましたが……」
「なるほど、責任とれなくなって逃げたか」
 想像できたことだったから先に言って終わらせた。言いたくないなら、別に無理して言わせる必要も無い。
 風気員が今の会話で嗚咽を漏らし始めた。おそらく、こいつだって探しただろう。唯一頼れる協力者だし、なにより子供を作り、そして産みたいとまで思った相手だ。ただ見事に、こいつはそいつに裏切られたわけだ。
 今は責められているけど、被害者といえば被害者だよな。
「……で、これからどうすんだ?」
「街から離れます。私たちに真実が知られた以上、大森さんがここにとどまる必要はありません」
 会長はまた膝をつくと、うずくまって泣き続ける風紀委員の肩に手をのせた。
「帰りましょう」
「……い、嫌、です」
「なら、どうされるおつもりですか? ここでまた逃げますか?」
 その言葉に真っ赤にした眼に涙をため、頬にいくつもの涙をあとを残した風気員が顔をあげた。
「ほかにどうしようがあるっていうんですかっ!」
「それは、一概に言えません。しかし、今のままを続けるなんて選択は、本当の意味で『どうしようもない』でしょう」
「っ」
「大森さん、私は今回の件をあなたの友達から伺い、捜査していました。その彼女はお母様からお話を聞いたそうです。私もお母様にお話を聞きましたが、本当に心配されておられました。それでもあなたの言うとおり、警察に言わないと仰れましたよ。実を言うと、私は通報すべきだと進言したんです。話を伺った段階で、真相に気づきましたから。それでもお母様はそうはしないと答えられました。その時の言葉を、私は忘れません」
 会長は思い出すように目をつむり、その言葉を口にした。
「私は母親だから、最後まであの子を信用も、心配もする」
 その言葉に風紀委員が眼を見開いて、そして何か言おうとしたが、結局何も言えずに俯いた。
「お母様、すごいですね。本当は胸が張り裂けるほど心配だと思います。それでもあなたを信じておられます。大森さん‒‒」
 そこで会長は風紀委員の両頬を挟むようにして顔を上げて眼をあわせた。
「そのお母様の気持ちをむげにできるなら、あなたは母親にはなってはいけません」
 それがとどめだったみたいで、風紀委員はまぶたにためていた涙を一気に流しはじめ、泣き声をあげながら顔を覆った。その間、会長は申し訳なさそうな顔をした後、慰めるように風紀委員の頭を抱きしめていた。
 どうやら、これで話はまとまったらしい。
「帰るか?」
 俺が訊くと会長が「はい」と答え、部屋を見渡した。
「中澤くん、申し訳ありませんが大森さんの荷物をまとめていただけますか?」
「あいよ。この後はどうすんだ?」
「大森さんを家まで送り届けます。私も、協力できることがあればしたいですし」
 ということは、俺はそこまでの荷物持ちか。面倒だがそれでこの厄介ごとが終わるならよしとしよう。
 俺は部屋の隅に置かれていた風紀委員の鞄と思われものを手にとって、そこにベッドの周りにあった荷物をとりあえず入れていく。そこでさっき気になっていたことを思い出した。
「そういえば、あんたさっき協力者がどうのって言ってなかったか?」
「ああ、それは」
 会長が言葉を続けようとしたところで、部屋の扉が急に開けられた。



「うん、じゃあ、よろしくお願いしたよ」
 そう通話を終えて、思わず笑顔になった。
 単眼鏡を手にして、モスキートビルの三階をのぞき見る。ブラインドがされていてはっきりとは見えないが、それでもさっきから複数人の人影が確認できる。
 宮塔は懐中時計を取り出し、時間を確認した。彼女たちがビルに入って三〇分ほど。予想より時間がかかっていたが、それはあの生徒会長がやけにことを慎重に運んだから。さっさとあの風紀委員を引っ張り出せば良いのに、ドラマみたいな気持ちの悪い説得をするからこんな無駄な時間を消費する。
 その会話を聞いていたイヤホンを外して、ポケットにいれた。これでくだらないビルの監視もおしまいだ。あの風紀委員が今後どうなろうが知ったことじゃない。自分の体のことなんだから、自己責任だろ。
 ただ彼女はあの二人をここに連れてくるという重要な餌の役割を果たしてくれた。感謝はしておこう。
「しかし……」
 宮塔はフェンスに背中を預け、それが軋む音を聞きながら頭を回転させる。
 ……早い、明らかに早すぎる。
 この街に風紀委員を連れてきて、まず生徒会長がしばらくしてから到着した。しかし、予想通り彼女の捜査は難航して、昨日まで停滞していた。
 そこにあの中澤が合流して、そして一日であそこにたどり着くなんて……何があったっていうんだ?
「……何か、邪魔が入ったかな」
 そう呟いた後、また電話を操作しはじめる。構わない、何があったかは知らないが、どうせここまでは計画通り。寸分の狂いもない、見事にこちらの意のままに全てのことは進んでいる。
 電話を耳にあてながら、ビルの方を見る。そしてニヤッと笑った。
「舞台から退場願おうか、死に損ない」
 待ち望んだ相手が電話に出たのを確認して、宮塔は話し始めた。

10

 部屋に入ってきたのは、見知らぬ男が二人。二人ともマスクをしていて顔がはっきりわからないが、二十代後半くらいだろう。工事現場に勤めてるのかと訊きたくなるようなねずみ色のニッカポッカに、白地のTシャツ。
「……誰だよ、あいつらは」
「私が知るわけありませんが……予想はつきます。そうですよね、大森さん」
 風紀委員は二人を見ると、少し怯えた目の色をした。
「誰かは……知らない。ただ、宮塔が……連れてきた」
「宮塔だとっ」
 思わず声がうわずったが、そんな反応をしたのは俺だけで、会長はその話をいつも通り落ち着いた様子で聞いていた。
「おい会長、知ってたのか。この件にあいつが絡んでるって」
「大森さんについて調査していたときに、宮塔さんと話しているのを見たことがあると証言も得ていました。それになにより、今回の行動、とても大森さんらしくありませんでしたから、彼女以外の意志が働いているのは予想していました」
 思わず舌打ちをしたが、時すでに遅しってやつだ。やっと会長が焦っていた理由がはっきりとわかった。宮塔が何かする前に止めるためだったわけだ。
 一学期の吹奏楽部の一件以来、宮塔は何かと会長の活動への妨害を繰り返していた。会長の話によるともともとそういうのはあったらしいが、あの件以来、増えたそうだ。だから俺もあいつに決して良い感情を持っていない。
 何度か顔を合わせているが、なぜか向こうは俺を見るたびに面白そうにニヤニヤと笑うだけ。その態度については、ぶん殴ってやりたいと思ってる。
「宮塔さんも一学期の間にそれなりに名を売っていましたから、大森さんも彼女を頼ってしまったんでしょう」
 会長が人の厄介ごとに首を突っ込むのと同様、宮塔もそうしていた。ただ会長があくまで正攻法でことを進めるのに対し、宮塔の示す解決策はいつも何らかの危うさを秘めている。それでも解決はしているみたいだ。
 だから生徒の間では「危ないことは宮塔に相談すればなんとかなる」という話も広まっている。
 会長は安心させるために風紀委員の背中を二回さすった後、立ち上がり、一歩前へと出て男たちと向き合った。
「どちら様でしょうか?」
「それはこっちの台詞だぞ、嬢ちゃん。ここは俺らの家なんだが」
「そうですか。お邪魔しています。でも、もうすぐ出て行きますので、ご容赦ください」
 二人組の男は明らかに面白がっているようだった。口元はマスクで見れないが、目元が気持ち悪いくらいに笑っている。しかも胸くそが悪くなるような笑い方だ。
「そうはいかねえな。一応、そこのお嬢ちゃんをかくまえって言われてんだ。報酬ももらってるし、はいそうですかってわけにはいかねえな」
「雇い主の方にお伝え願えますか? 悪ふざけがすぎますよと」
「自分で伝えな。俺らは鳩じゃねえんだ」
「今時伝書鳩なんかいるかよ、馬鹿か」
 思わず口を挟むと、喋っていなかった方がぎろりと睨んできて、俺の方へ一歩進んできた。迎え撃とうとしたが、俺は会長に、向こうは喋っていた方に制止された。
「……冷静に」
 二人には聞こえないように会長がそう諭してくるが、その時、頬に流れた脂汗が見えた。初めて見たかもしれない、この人が緊張しているところ。
「雇い主の方はあなたがたになんと依頼されたのですか? 見たところ、あなた方がこの二週間、大森さんのお世話をしてくださっていたようですが」
「嬢ちゃんが言ったとおりだな。そこの泣いてるお嬢ちゃんを夏休みの間だけ匿ってくれって依頼された」
「なるほど……では、もうその必要はございませんので手を引いていただけませんか? 大森さんは今日でここを退室します」
「できねえな。なんせ、それを妨害するやつらを排除しろって依頼も受けてるから」
 その言葉に「えっ」と反応したのは風紀委員だった。どうやら、そこは聞いてなかったらしい。こいつは宮塔に全部やってもらって、自分では何もしていないらしい。
 こりゃ、あの女がやりたい放題やってやがるな。
「妨害ではありません。これは大森さんの意志です」
「それは関係ない。俺らの依頼主は、そいつじゃない」
「そうは言いましても、ここで手を引いてくださるのが賢明だと思いますよ? 監禁で通報されても大丈夫ですか?」
 会長の言葉に男が眼を鋭くさせた。それを確認して、俺は会長の傍に寄った。
「監禁?」
「ええ、そうです。もしこのまま大森さんが帰らなければ、あなた方はどんな理由があろうと彼女をここに監禁したことになります。監禁は、重罪ですよ?」
 男が鼻で笑って、風紀委員を指さした。
「何言ってるんだ。ここにいるのは、そこのお嬢ちゃんの意志だろ」
「ええ、さきほどまでは。でも今のこの瞬間からは違います。彼女は帰りたいと言っています。その彼女をここに閉じ込めたら、それはもう監禁です。言い訳の余地はありません」
 例えこの二人が宮塔からどんな依頼を受けていても、それは関係ないってことか。確かに風紀委員の意志でここにいるなら、こいつらが罪に問われることはないけど、そうじゃないなら大問題になる。
 その状況を理解して、男が眉間にしわを寄せた。
「……生意気なガキだ」
「ごめんなさい。ですが、わかっていただけるとありがたいです」
 そのまま男と会長がにらみ合った。さすがに場数が違うのか、男は表情を変えなかった。対して会長は汗をかいていて、それを拭いもできずにいる。俺は何があっても瞬時に対応できるようになるべく会長と距離とをつめて、もう一方の男の動きを注視していた。
 重たい沈黙の後、男が「けっ」と舌打ちをした。
「帰るぞ」
 そう言って仲間の男に一瞥した後、くるりとと背中を向けた。会長がそれを見て、ほっと一息をついた瞬間だった。
 男が急にまたこちら向き、素早く会長めがけて手を伸ばしてきた。咄嗟のことで反応できなかった会長は眼を大きくし、動きをとめてしまった。
 他に方法も思いつかなかったので会長を後ろに突き飛ばして、なんとか男から逃したが、力加減ができなくて会長がそのまま尻餅をついてしまう。その彼女に大森が「会長っ」と駆け寄る。
「いい反応したな、ガキ」
 男は会長を捕まえ損ねた手を元に戻して、俺にニヤニヤとした顔を向けた。
「動きが鈍いんじゃねえか、中年」
「いやいや、あの嬢ちゃんならあのくらいで十分だと思ったんだ。運動は得意じゃないって聞いてたからな」
「……なるほどな。てめぇらの雇い主は、ずいぶん丁寧なんだな。胸くそわりい」
「ありがたい限りだ」
 会長と風紀委員が自分の影に隠れるように男の前に立った。
 もう一人の男が、ご丁寧に入り口をふさぐように扉へ移動した。舌打ちをした後、男たちから眼を離さないように、少しだけ後ろを向き会長の風紀委員の様子をうかがうと、会長がよろよろと起き上がっていて、それを風紀委員が心配そうに眺めていた。
「無事か?」
「ええ……ありがとうございます」
 会長は俺の方を見ると、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。それは俺に突き飛ばされたことより、これから展開が読めたからだろう。
「一応、訊くぜ。策は?」
「……もう、ないです」
 あれだけ冷や汗かきながらした説得が失敗したんだ。そうだと思った。
 今回は色々と会長に向かない厄介ごとなんだ。
「なら、いつも説教はなしで頼むぜ」
「中澤くん、危険です……」
「あんたのおかげで慣れちまってるよ」
 これ以上の小言は聞いてられない。俺は目の前を向き、明らかに臨戦態勢に入っている男二人と向き合い、ふっと笑ってやった。
「こんなところでやりあってどうするつもりだよ」
「あの嬢ちゃんの言うとおり、確かに監禁になる。だが、お前らがここに来たことは、お前らは誰にも話してないんじゃないか? なら、お前らごと捕まえれば、通報はされねえ」
「ずいぶん短絡的だな。三人も行方不明になったら、誰かが通報するぜ」
「安心しろ、その頃には根城を変えてるから。こういうことも計画に入れてやがるぜ、あの不気味な女は」
「おお、初めて共感できるな。俺もあの女は不気味だと思う」
 てか、宮塔の野郎……そこまで計算に入れて動いてやがるのか。相変わらず、絶望的に性格悪いな。
「ガキ、てめえは手負いを二人。さらに相手も二人だ。勝てると思ってんのか?」
「悪いな。自分より弱い相手に負けたことがねえんだよ」
 その言葉が引き金だった。男が右手を伸ばしてきたので、それを避けながら体重をかけて肩から体当たりをしてやると、変な声をあげながらその場に背中から倒れ込んだ。背中を打ち付けた男の顔に右の拳をいれてやったあとは、その勢いで立ち上がりもう一人へと向かっていった。
「ふざけやがってっ!」
「喋ってると舌噛むぞ、おっさん」
 勢いそのまま、男の腹に思いっきり蹴りをいれてやったが、男はうめきながらも倒れはしなかった。ぎろっと俺を睨むとポケットから、バタフライナイフを取り出し、震えた手でそれをい向けてきた。
「なんだ、ガキ相手に武器かよ。見た目通り腐ってんな」
 こっちの言葉なんて聞こえてないみたいで、男はわけのわからない雄叫びをあげながらナイフを片手に突進してくる。動きを見切って、男の手首に裏拳をいれてると、また変な声をあげながらナイフを落とした。
「鈍いっての。運動不足だぜ」
 丸腰になった男にアッパーをきめて、そのまま腹に蹴りをいれると背中を壁にぶつけた。逃げ場が無くなったところで力任せに股間を蹴り上げると悲鳴に近い声をあげてうずくまった。
「あーあ、しばらく夜は楽しめねえな」
 そんな余裕をかましていたから、会長が「中澤くんっ、後ろですっ」と叫ぶまで完全に気配を感じとれていなかった。振り向いたときには、ナイフが目の前に迫っていて、それをなんとか避けるのが精一杯。ただ避けきれず、ナイフが頬をかすめて僅かに血が出た。
 さっき倒した男が、顔を真っ赤にして仲間が落としたナイフを片手に、肩で息をしながら俺を睨んでいた。
「やってくれんじゃねえか、ガキ」
「これで数はイーブンだぜ。大人しく手を引けよ。勝ち目、あると思ってのか?」
「俺らにもメンツがある」
「なら、ぶっつぶしてやるよ、その安もん」
 男がナイフを振り回しながら、俺へと迫ってくる。それを避けるため、後ろ向きに進んでいたが、こんな狭い部屋じゃすぐに壁にあたった。そこで男がナイフを振り上げた。
「やべっ」
 横にあったベッドへ飛び込んで逃げると、男が振りおろしたナイフが壁に当たり、キィンッという音が部屋中に響いた。
 すぐさま近くにあった枕を男へ投げるが、避けられた。
「死ねやっ」
「また今度なっ」
 男がまたナイフを振り上げてきたので、体をベッドの上で転がし、なんとかそれを避ける。すぐ横でナイフがベッドに突き刺さる音がしたので冷や汗がでた。
 ただちょうどそのときに偶然、ある物に手が触れた。思わず、それで笑いそうになった。
 男がベッドからナイフを引き抜いて、また振り上げてきたところで、俺は手に掴んだタオルケットを男めがけて放り投げた。
「なっ」
 タオルケットが男の目の前で広がり、そのまま覆い被さる。視界を失った男が混乱している隙にベッドの上で素早く立ち上がり、そのまま未だにタオルケットと戯れている男めがけて跳び蹴りをかました。
 男がうめき声を上げながら床に倒れたところで、タオルケットが自然とはずれたので、男が手に持っていたナイフを蹴り飛ばした。それでもまだ抵抗するために立ち上がろうとする男の顔面めがけて、今日一番に右拳をうちこんだ。
 今度は声をあげずに、そのまま床に倒れ込んだ。
「やっぱり安もんだったな」
 よくよく考えれば、夏休みはずっと家にいたのでこういう喧嘩は久々だったし、武器まで出されたのは本当にいつぶりか思い出せない。よく体がついてきてくれたもんだ。
「中澤くんっ」
 会長が急に大きな声を上げて、そのままずんずんと足音をたてながら近づいてくる。
「おいおい怒ってんのか? 今のはしゃーないだろ」
「そんなことは構いませんっ。傷、今すぐ見せてくださいっ」
 会長は俺に詰め寄ると、腕を力強く引っ張って無理矢理にベッドへ座らせた。
「お、おい」
「動かないでくださいっ、怒りますよっ」
「怒ってんじゃねえかよ」
 珍しく声を荒げる会長に戸惑ってしまい、反抗できなかった。今の手だってふりほどけたはずなのに、この人のこんな姿を初めて見たので焦ってしまったんだ。
 会長は俺の頬の傷をまじまじとと見つめながら、急に声のトーンを落とした。
「痛い、ですか?」
「なんてことねえよ、こんなのしょっちゅうだ」
「……すいません、私のせいです」
 がくっと首を落として、そんな謝罪をしてきた。どうやらこの傷が自分のせいとだと感じてるらしい。俺はそんな会長の頭を片手で掴むと、無理矢理に顔を上げさせた。
「この傷は喧嘩でできた傷だ。責任も痛みも全部俺のもんだ。勝手に取るんじゃねえよ」
「でも」
「でももへったくれもあるか。次そんなふざけたこと言ったら、ただじゃおかねえ」
 会長は何か言い返そうとしたが、俺が睨んだら泣きそうな眼をした後、小声で「はい」とだけ答えた。
「せめて、手当だけでもさせてください」
 会長はポケットからハンカチを取り出すと、それが汚れるにも関わらず傷の周りを拭き始めた。
「汚れるぞ」
「知りません」
 どんな答えだと思ったが、それ以上は追求しなかった。血を拭き終わると、絆創膏を取り出して、それを頬に貼り付けた。
「あとで念のため病院に行きましょう。言っておきますが、絶対につれて行かせます」
「はいはい、わーったよ。もう帰ろうぜ、そいつらが起きたら面倒だ」
 俺がベッドから立ち上がったところで、聞き慣れたある音が遠くから聞こえて、それがだんだんと近づいてきた。その音に気づいた会長が、顔色を一気に青く変えて「まさかっ」と声を漏らした。
「ね、ねぇっ、パトカーがっ」
 気づけば風紀委員がブラインドのされた窓の前に立っていて、その隙間から外の様子を見ていた。
「パトカーがなんだよ」
「このビルの前に停まったのよっ。ここに来るんじゃないのっ」
 聞こえてきた音は確かにパトカーのサイレンだった。でもなんでこのビルの前に停まるんだよ。
 真偽を確かめるために俺もブラインドの隙間に指を入れて、外を覗いた。確かにビルの前に一台のパトカーが停まっていて、中から二人の警官が出てきていた。
「おいおいなんで……」
 後ろで何かの音がしたから振り向くと、会長が膝をついてうなだれていた。
「おいどうしたんだよ」
「……私の負けです。完敗です」
「は、はあ?」
「わかりませんか? これが宮塔さんの計画です」
 会長はどこか自嘲気味に笑うと、倒れていた二人の男を指さした。
「宮塔さんの狙いは、私たちを今この瞬間、補導されるようにすることだったんですよ」
「……は?」
「この状況、どんな言い訳も通用しません。中澤くんは暴力行為に及んでいます。ここに被害者という確たる証拠もあります。そうなると、一緒にいた私たちも一緒に連行されるでしょう。大森さんはそのお腹のことも説明しなければなりませんし、二週間失踪していたことも隠しきれません。そしてこの街は高校で近寄ることを禁止されている街です。学校に連絡がいけば、私たちにはなんらかの処分がくだるでしょう」
「マジかよ……」
「宮塔さんは大森さんを使い、私たちをここへ誘い込み、そしてこの雇った二人と争いになるよう仕向けた。そしてそれが終わる頃に警察がここへ到着するように通報したんでしょう」
「そんなっ、だって宮塔はここにはいないのにっ」
 風紀委員が悲鳴に近い声をあげるが、会長は首を左右に振った。
「ここは宮塔さんが用意した部屋です。盗聴器やカメラはいくらでも隠せるはずです。たとえばそこのゲーム機の中とか」
 会長はテレビ台の中にあったゲーム機を指さしながらも、そこに視線は向けていなかった。喋りつつ、心ここにあらずって感じだ。
「私たちにやましいことがなければ良かったのですが……私はこの街にずっと出入りしていて、大森さんはその体で、そして失踪していて、さらに中澤くんは暴行です。どう考えても、旗色はよくありませんね。ここのビルは入り口が一つ、入り口にパトカーを停められたら、逃げ場はありません」
 会長はうなだれたまま、そんなことを冷静に分析した後、ふふっと笑った。
「おかしいと思ったんです。宮塔さんが絡んでるわりに、彼女が姿を見せないことが。なるほど、そういうことですか。今回は大人の手を使って、私を封殺する手段をとったわけですか……全く、本当に……どうして」
 最後の方はもう独り言で、声が小さくて聞き取れないほどだった。
 今の状況を警察に説明したところで、会長の言うとおり処分は避けられないだろう。会長はまさに「会長」って立場にいる人だ。事と次第によっちゃ、その立場でいることができなくなる。
 風紀委員は完全に隠していたことが露見するし、おそらくそれは家族と学校だけじゃなく、一般の生徒にだって知られてしまうだろう。そうなると、どんな選択をとるにしても、あの学校に居づらくなる。
 俺は他にも問題を起こしまくってるから、今度こそ退学ってところか。
 絶望してうなだれる会長に、顔面蒼白の風紀委員を見ながら何とか乗り切れないかと頭を働かせるが何もでてこない。さっきの連中みたいに倒せばいいってものじゃない。むしろそんなことをしたら完全にアウト。
 会長がこれだけ完全に諦めてるんだ、俺に思い浮かぶ手なんかあるはずない。
 俺はもうどうなってもいいが、会長はそういうわけにはいかない。
 今までさんざん色んなやつが相談してきたのもこの人が信頼できたからだ。その信頼が揺らぐし、この人はこの人で生徒会長って立場を利用して色々してきたから、それができなくなる。確実にこの人の活動に制限がかけられる。
 それになによりこの人、今年受験だろ。こんなところで警察の世話になったら、マイナスでしかない……。
 外を見るといよいよ警官がビルの中へ入ろうとしていた。
「おしまいか……」
 そんな諦めの言葉を漏らしたときだった。
 急に、耳をつんざくような不快な音が外から聞こえてきた。聞き覚えのある音‒‒防災ブザーの音だった。
 そして続いてガラスの割れる音と、女の悲鳴が聞こえてきた。
「誰かーっ!」
 外を見ると、俺たちのビルのちょうど向かい側のビルの最上階の窓が割れていた。そこから白い煙がもくもくとあがっていて、そこに人影が見えた。
「助けてーっ!」
 煙のせいでその人影がはっきりとは見えないが、どうやら女らしく、助けを求めている。
 すると、そのビルにさっきの警官二人が血相をかえてすごい勢いで入っていった。
 その光景を眺めている間に、俺を挟むように風紀委員と会長もその様子を見ていた。
「お、おい、今しかねえだろっ。逃げるぞっ」
 頭は状況についていけてなかったが、それでもそうしなければいけないとは思えた。俺の言葉に風紀委員が大きく頷く。
 俺はさっきまとめていた風紀委員の荷物を手にとって、部屋を見渡した。他になにかないかと探したが、特にない。あるのは転がってるの男二人くらいだ。風紀委員もベッドの周りにあった自分の小物を両手に抱え、逃げる支度を整えていた。
「おいっ、会長っ」
 そんな中、会長だけが向かい側のビルの様子をずっと眺めていた。俺が声をかけてもじっと動かず、ただひたすら状況を見つめていた。
「おいっ」
「会長っ、早くっ」
 俺と風紀委員が同時に呼びかけると、ようやく動いた。急に自分の荷物に駆け寄って、中からメモ帳を取り出し、そこに何か素早く書いていく。そしてそのページを切り取ると四つ折りにして、テレビの上に置いた。
「さ、行きましょう」
 さっきまでの絶望はどこに行ったんだよと言いたくなるくらいに、いつも通りの平静を取り戻した会長が器用に倒れた男二人を避けながら進んでいって、ドアノブに手をかけた。
「おい、今の」
「中澤くん」
 メモのことを訊こうとしたら、会長が振り返らずに冷めた声でこう続けた。
「今度から、隠し事はしないでいただけると、ありがたいです」
 思わず心臓を掴まれた気分になった。会長はそのまま外へ出ていって、状況が読み込めない風紀委員は首をかしげながらも、急ぎ足で会長の後を追った。
 俺はしばらく動けなかったが、倒れていた男の一人が「うっ」と声を出したので、逃げるように外へ駆けだした。

11

「ずいぶんと暴れたみたいだね」
 私は部屋を見渡しながら、そんな感想を漏らした。
 部屋の隅に転がっているバタフライナイフに、そのナイフが突き刺さった跡が残ってるベッドと壁。そして床に落ちたままになっているタオルケットに枕。
「これは小野くんじゃ無理だな。中澤くん、どうやら中々の手練れみたいだね。さすが、私と同じ銘柄を吸うだけのことはある」
 とりあえずバタフライナイフを回収し、それを鞄の中へしまった。あとできちんと処分しておこう。
 枕とタオルケットを片付けようとしたところで、ポケットにしまっていた携帯が震えだした。相手も確認しないでそのまま応答する。
「はい、もしもし」
『俺だ』
「だと思ったよ、ティーチャー」
 相手は海野先生。きっとこの人だと思った。私から連絡を入れると言ったのに、痺れをきらせたみたいだ。相変わらず生徒のことになると、誰より心配性になるんだから。
「報告するね。とりあえず三人は無事で、さっき街から脱出させたよ」
『怪我はないか?』
「小競り合いをしたみたいだから、中澤くんが怪我をしてるかもね。でもたぶん、大したことはないと思う」
 血のあとはないし、たぶん男の勲章くらいの怪我ですんで。
『……なら、良かった』
「大変なのはこれからさ。特に失踪していた子はね。たぶん、小野くんは彼女を放っておかないだろう。相談に行くとしたら先生のところだ、ちゃんとフォローしてあげてね」
『当然だ』
 相変わらず最低限のことしか喋らない人だけど、この人の場合、それが安心感に繋がるんだから不思議だ。
『蓮見、お前は大丈夫なのか』
「うん? 私の身を案じてくれるなんて、いやだな、照れちゃうよ。でも、ご安心を。無事だよ。このナイスバディには傷一つついちゃいないよ。ちょっと煙を吸っちゃったけどね。たばこの煙はあんなに愛しているのに、発煙筒の煙は好きになれないみたいだよ」
 ゆっくりとさっきのことを思い出す。
 予想通り、パトカーがこのビルの前で停まったので、今朝方に工務店で大量に買った発煙筒を使って、向かいビルの最上階を煙りだらけにした。そして防災ブザーを作動させて、あとは窓を自力で割り、声をあげて助けを呼ぶふりをした。
 案の定、警察がビルに駆け込んできてくれたので、すぐさま別の階に移動して、物陰に隠れてやり過ごし、すぐにビルから脱出した。時間稼ぎとしては十分で、彼らはその頃にはビルから離れていた。
 警察は今頃向かいのビルで、大量の発煙筒を見つけて頭を抱えているだろう。悪質な悪戯ってことになるけど、足はつかないだろう。そこは気をつけたし。
「しかし宮塔くんって子はすごいね。策士だよ。たまたま作戦がよめて良かったよ」
『よくわかったな』
「たまたまだよ。どうしてこんな手の込んだことをしてるんだろうって考えてね。もしかして、失踪してる子は囮なんじゃ無いかって考えたんだ。それでなんとかよみきれたよ」
『そのこともだが、大森の失踪と居場所もだ』
「ああ」
 タオルケットを拾って、それをベッドに敷いて、その上に座った。
「私はまだ高校にOBとして知られているからね。知り合いの後輩たちにメールやらラインやら、色んな方法で訊いてみたんだ。夏休みに入ってから顔を見てない子はいないかってね。そしたら、風紀委員のある子がどんなに遊びに誘っても来ないって答えてくれた子がいてね」
『どうして、誰かが失踪してるとわかった?』
「小野くんの行動でね。こんな街に長い間出入りしていて、先生に隠し事をするくらいなら、何か探してるんだって考えられた。それも彼女が秘密にする以上、彼女自身のことじゃなくて、他の誰かのためだろうってこともよめた。もしも彼女の捜し物が本当に『物』なら、あの彼女があれだけ時間をかけて見つけられないなんてことはないだろうし、うまい言い方をして協力者くらい見つけたさ。そうしないってことは、人かなってね。大森くんって子の母親に『小野くんの知り合いです』って言ったら、胃色々教えてくれたよ。そこから私も、小野くんと同じ推理ができた」
 もちろん、他の可能性を考慮しなかったわけじゃない。ただ、一番可能性が高いのがそれだと考え、それから調べだしたら、案の定そうだったというわけだ。
 ポケットからたばこを取りだして、一本くわえて火をつけた。
「居場所はこの街とわかっていればなんてことなかったよ。絶対に協力者がいるはずだからね。一応、この街には高校の時から通っていたから、知り合いもいたし、そこから色々探ったよ。妙な二人組が最近誰かを匿っているみたいだって情報を得て、あのビルを見に行ったら、ポストに入ってるチラシに違和感を憶えてね」
『それで確信したのか』
「ああ、あとはどうやってこの情報を自然と小野くんのもとに流すか考えていたけど……中澤くんと会えて良かったよ」
 煙を吐き出して、たばこを見つめる。私と同じ銘柄を好む後輩……見込みがあるじゃないか。海野先生が信頼して小野くんの傍に置いたのも理解できる。とっつきにくそうだけど、悪い子じゃないだろう。それをわかってくれる人は少ないだろうけどね。
「しかし、今回は先生が一番お疲れじゃないかい? 状況がわからない中、まず中澤くんに声をかけて小野くんに何かあった時でも傍にいるようにして、そして二人が早くこの街から離れられるように私に捜査を依頼‒‒しかも、小野くんの意志を尊重して、先生自身はここに近寄ることなく、小野くんを守ること、そして事件を解決することを考え、何かあった場合は自分が一番に駆けつけるために学校に待機……愚問だろうけど、寝たかい?」
『不眠なら、教師になりたてのころからだ』
「それはよくないね。寝不足は美容の大敵なんだよ」
 そんな冗談に先生は何も返してこなかった。相変わらず、相手にしてくれないんだから。
「私は部屋から彼女たちの痕跡を消して、街を去るよ。くれぐれも小野くんに私が関与したことは内密で。あの子、私が手を出すと『任せたのはあなたなのに、信頼してくれないんですか』っていつもうるさいんだから」
『わかった。ところで宮塔が雇っていた二人組は大丈夫か?』
「ああ、彼らならさっきお引き取り願ったよ。高校生一人に負けたことを吹聴してほしくないなら大人しく手を引いてって、ハンディカム片手に言えばいそいそ撤退したさ。本当は何も録ってないのにね」
 あの二人はたぶん、宮塔って子がそれなりの金額で雇った街の住民だろう。小遣いほしさで適当に引き受けただけで、まさか自分たちが餌にされているなんて思ってもいなかっただろう。最近の若い子は怖いと、トラウマになるんじゃないか。
『そうか。色々と世話をかけたな、お前も早くその街から離れなさい』
「あら、うれしいね。私の身を心配してくれるのかい?」
『当然だ。卒業生も、俺の生徒であることは変わりない』
 そんなかっこいい台詞を、ごく当たり前のように口にしてから、先生は通話をきった。
 相変わらず見事な教師っぷりだ。先生の頼みじゃなきゃ、色んな予定をキャンセルしてまで駆けつけなかった。大学が夏休み中とはいえ、それなりに忙しいキャンパスライフを送ってるので、融通を利かすのは苦労したんだ。
 さて、小野くんがいたから痕跡なんて残してないとは思うけど、一応部屋の中をチェックしてから、私も早々に撤退しよう。
「その前に……」
 さっき自分が火事を偽装したビルの様子を確認するために、ブラインドから外を伺う。最上階ではまだ人影が動いてる。警察はそっちにかかり切りだな。よかったよかった。
「うん?」
 何か、とても鋭い視線を感じたのでその方向を見た。まさにこのビルの真下、入り口のところで、一人の少女がこの部屋を見上げていた。
 前髪で片目が隠れている。しかしもう片方の目が、これでもかというほどの力で、私を睨んでいた。あまりの迫力に、目をそらすこともできなかったが、すぐに彼女の方が何事もなかったかのようにその場から離れていった。
「まったく、最近の女子高生は恐ろしいな」
 彼女が宮塔という子だろう。結果として私がかなり彼女の計画を妨害したから恨まれたかな。
 まあ、見た感じ美少女だし、あんな子になら恨まれるのも悪くないだろう。
 さっさと片付けよう部屋を見渡したとき、テレビの上に明らかに不自然なメモが置かれているのを発見した。真新しい紙が、四つ折りされている。大きさから見て、メモ帳か何かの一ページだろう。
 嫌な予感がしながらも手にとって、紙を広げた。
『そこの後処理はお任せいたします』
 見慣れた、嫌味かと言うほどの丁寧な文字で書かれた当てつけを読みながら、思わず笑みがこぼれた。
「本当に……恐ろしい後輩たちだね」


【後日談】

「おい、なんだこれ」
 急に家に来た会長が、玄関先で電話帳くらいの厚さはあるプリントの束を渡してきた。
「補講で出されていた課題です」
 あの事件から三日。あの後は会長たちを風紀委員の自宅に送り届けた。そこから先は会長に任せ、俺は夏休みに戻れたと思ったのに、今日になって急に会長が自宅に押しかけてきて、そんなふざけたものを渡してきた。
「だから、なんだよ」
「ですから、やるんですよ」
 会長は玄関先から俺の部屋の中を勝手にのぞき込むと、じとっとした目で見てきた。
「片付けましょう」
「片付いてんだよ」
「これを片付いてるとは言いません。これでは勉強も落ち着いてできません。私も手伝いますから、まずはそこから始めましょう」
 会長は俺を押しのけると、許可も出してないのに丁寧に靴を揃えて家の中へ入っていく。
「おいこら、何勝手に」
「生徒会室に許可もしてないのに入り浸っているのですから、こうされても仕方ありません。中澤くん、ゴミ袋はありますか? まずは、いるものといらないものを分けていきましょう」
 人の話なんか聞く耳も持たず、会長は勝手に話を進め、部屋の中を物色しはじめた。なんでこんなことになるんだよとため息をついても、状況が変わるはずもない。
「俺は補講を受けなくていいって海野に言われたんだぞ」
「先生を呼び捨てにするとは何事ですか、まったく……。ええ、その件はちゃんと海野先生から伺っています。しかし、一学期の授業内容を理解できていないと、冬休みに同じようなことになるだけです」
「別にいいんだよ、それで」
「いいわけありません」
 いや本当にそれでいいんだけど、この人がそれで納得するわけもないか……。面倒だし、逃げだすためゆっくり玄関の方へ後退ろうとしたら、素早く手首を掴まれた。
 そしてそのままじっくりと、まるで蛇のような目で俺を捕らえていたが、なぜか急に顔色を変えて顔へ手を伸ばしてきた。
 怯えるかのようなゆっくりとした手つきで、頬に貼ったガーゼを上からなでる。
「お、おい」
「……痛みますか?」
「平気に決まってんだろ。医者が無理矢理つけただけだ」
 会長はその返答に満足はしてないようで、顔色を変えなかった。なんで人の怪我をこの人はこんなに心配して、しかも申し訳なさそうにするんだよ……。面倒な性格してるな、本当に。
「言ったろうが、俺の責任だって。その顔、やめろ」
 その顔をずっと見るのが嫌だったので、会長の両方の頬をつまんで無理矢理に笑顔を作らせた。自分でやっておいてなんだけど、すごい変顔になったので、思わず吹き出してしまった。
 会長が顔色を変えたのは、まさにその瞬間だった。見たことがないような、険しい顔になる。
「……なるほど」
「お、おい」
 手首を掴まれていた力が増して、思わず顔を歪めるが会長はそんなこと気にもとめない。
「……課題と、私がこれからドリルを作りますから、それを夏休みの宿題としましょう。もちろん、普通の宿題もやってもらいます。‒‒絶対に、逃がしません」
 静かな口調だけど、その声に怒気が含まれているのは明らかで、いつものような平坦な口調では無く、どこか地面から這い上がってくるような感じがした。
 やってしまったと気づいたときにはもう遅かった。
「では、まずは片付けからはじめましょうか」
 そのまま腕を引っ張られて、部屋の中へ連れ込まれる。
「お、おい、今のマジかっ」
「当たり前です」
「ふざけんなっ」
「大まじめですっ」
 結局、会長から逃げられるははずもなく、そんな感じで夏休みを過ごす羽目になった。

2015/07/06(Mon)00:33:24 公開 / コーヒーCUP
■この作品の著作権はコーヒーCUPさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして、コーヒーCUPと申します。または、お久しぶりです。
7回目の更新となります。はい。
さて今回の更新分は第二章の「10」の続きからとなっております。
今回はもはや謎解きも終わって、2章の「その後の話」と言ってもいいでしょう。個人的には謎解きが終わったのに、話を進めることに、書き慣れてないせいか違和感を覚えながら書いたパートです。
中澤くんがようやく活躍してくれました。こういうシーンを書きたかった。ちょっとは彼がヒーロー(主人公)らしいことをしてくれました。物語が始まって結構経って、初です。
そんな彼の活躍も結局は宮塔と、この章からでてきているキーパーソンのせいで霞むわけですが、それは仕方ないかなと。
これにて第2章はお終いです。この章は「会長と中澤くんの距離を縮める」ためのパートでした。個人的には良い感じになったと思ってます。
次回からは第3章です。この第3章の主人公は、宮塔です。彼女がついに本格的に動いてくれます。
3章のはじめはこの物語でうやむやにされているところを明かして、宮塔の本心を少し覗かせて……物語の一つの山になる3章をゆっくりとスタートさせます。言ったかわかりませんがこの話、全5章設定で、ようやく折り返しです。
もりあがればいいなあ。
それではお読みいただき、ありがとうございました。

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