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『世界の終わりのこの場所で 『完結編』』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:神夜
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あらすじ・作品紹介
世界の終わりのあの場所から始まった、僕と渚さんの、ありふれた物語。
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「世界の終わりのこの場所で」
「クリスマス編」
めっきり冷え込んだ冬の午後、場所は学校の小さな部室。
めっきり禿げた頭をこさえた校長先生の有難いお言葉なんてハナクソほども憶えていないまま、終業式が終わった開放感を味方につけて冬休みに突入したのはつい数日前のことであり、しかし数日もすればやることもなくなってしまって、暇つぶしに部室へ顔を出してみたが誰もおらず、仕方が無いからメンバーの一人が勝手に持ち込んだコタツに入り込んで週刊雑誌の合併号を読んでいたら、先輩の渚さんがやって来た。
渚さんに関わらず、女の子は何でこんな寒い中でも短いスカートを履いているんだろう、とぼんやり思いながらも、生々しいふとももを舐め回すように視姦していると、渚さんは無表情でツカツカとこっちにやって来て、そのまま何の躊躇いも無く思いっきり僕の顎を蹴り上げた。パンツを見る暇も無かった。
げふんっ、と自分のモノとも思えない叫びだけを残してひっくり返ったのも束の間、すぐそばで渚さんがうんこ座りで視線を落とし、僕の顎を掴んで顔を持ち上げ、小便を漏らしてもおかしくない程の睨みを利かせ、人でも殺すんじゃないかという程の低い声で言い放った。
「――おい。わたしに言うことあんだろ」
いきなりそんなことを言われても困る。心当たりなんてこれっぽっちも、
「……ふともも見てすみませんでした」
心当たりがあったから素直に謝ったのに、「違う」と言いながら次は頭を叩かれた。理不尽極まりない。
渚さんはまだ怖い目と声のまま、
「今日は何日か言ってみろ」
今日は何日だろうか。冬休みに入って数日後、というのは判るのだが、具体的な日にちがまったく判らない。体感的にまだ大晦日ではないだろうし、かと言って冬休み初日の二十日であるとも思えない。であればその体感の数日から、当てずっぽうで何とか日にちを当てなければならない訳である。ならば。
「……二十三日」
ゴッ、と音がしたと思った時には目から火花が散った。散ったかと思った。
「違げえよバカ」と怒鳴った渚さんは、そのまま答えを口にする。
「今日は二十五日だ」
ああ、と僕は思う。
そう言えば今日に出掛ける前、付けっぱなしにされていたテレビがそんなことを言っていた気がする。生まれてこの方十七年、自分には丸っきり縁の無い行事だったからすっかり忘れていた。そうなのだ。つまり今日はクリスマスであり、世間ではそらもう大賑わいのどんちゃん騒ぎを繰り広げているはずなのである。
なるほどなるほど、と一人で勝手に納得していると、目の前でうんこ座りをしたままの渚さんは、ほとんどキスでもするんじゃないかというくらいの距離まで顔を近づけて来て、小便どころか尻から大腸が漏れ出すかのような視線を向けて来て、世界を滅ぼす魔王かのような声を降らせた。
「もう一回聞くぞ。お前、わたしに、言うことあんだろ」
考える。選択肢を誤れば死に直結することが本能として判る。
考える。ふともも見てたことじゃなかった。
考える。さっきまで心当たりは本当に無かったが、渚さんとの会話で大凡の流れは理解出来た。つまり今日はクリスマスなのである。ならばまぁ言うべきことはきっとひとつしかない。今まで自分にはまったく縁の無い行事だったが、今年は違うのである。違うのならば、言うべきことはひとつだけ。ようやっと答えが導き出せた。
至近距離にいる渚さんに対して、ぼんやりと笑いながら言った。
「渚さん。――デートしましょう」
「遅せえんだよバカ」
頭突きを食らった。理不尽極まりない。
◎
嘉応渚(かおうなぎさ)と言えば、この学校では知らぬ者は居ない程の名の知れた、武闘派の不良である。
嘉応渚は口より先に手と足と頭突きが出ることで有名で、女相手には渾身の平手一発で怒りを萎えさせることが出来ることを熟知しており、男との喧嘩ではまず最初に急所に攻撃を繰り出すことを誰よりも心得ていて、そしてそれは先輩後輩だろうが、もちろん教師相手だって差別区別なんてなく、気に入らなければ口より先に躊躇い無く手と足と頭突きと平手と金的が出るような武闘派の不良なのである。
だから、そんな渚さんと自分とでは、まったくこれっぽっちも本当に全然、生きていく上で一切関わるようなことのないような人種の人だと思っていた。
だけど、あの日。あの残暑が残る、秋が迫りつつあったあの日。
僕と渚さんは、偶然にも出逢った。
打ち解けてしまえば、後は早かった。
半ば強制的に、僕は渚さんと付き合うことになった。それ自体はまぁ別に拒む理由も無かったから良かったのだが、問題は、僕が今まで彼女なんて居たことがなく、おまけに女友達もほとんど居ない身分だったため、まったく気が利かないし、まったくデリカシーも無いということなのである。クリスマスは女の子にとって、きっと特別な日なのであろう。それはもちろん、渚さんだって例外ではないはずなのである。それをすっかり忘れていた辺り、やっぱり自分はどうしうようもない程の馬鹿なんだろうなと思う。
その結果、大いに賑わう街を、渚さんはムスッとしたままツカツカと早歩きで過ぎ去って行く。後ろからそれを追うだけで精一杯だった。腰まである長い茶色の髪を左右に揺らしながら歩く後ろ姿から放たれる、話し掛けるなオーラが凄まじい。凄まじいのだが、流石の自分でも、その中に「早く謝って来い」という素直な気持ちが見え隠れしていることは何となく気づいていた。気づいていたのだが、それでも自分は馬鹿だから、その謝るタイミングがまったく見出せないのだった。
どれくらいそんな惨めな格好で渚さんの後を追っていたのかは判らないが、それでもようやっと決意を固め、尻の方から度胸を掻き集めて歩き続ける渚さんに対して声を掛けようとしたその時、急にピタリとその背中が停止した。タイミングが悪かったせいでそのまま背中にぶつかった僕には何の反応も示さず、渚さんは前だけを見ている。何をしているのか確認しようとする前に、背中にぶつけた鼻がただ痛くて摩っていると、
「おう。渚じゃねえか。何してんだお前」
声が聞こえた。鼻を押さえたまま、渚さんの背中から少しだけ顔を出して前を見る。
男の人が三人居た。びっくりするくらいの不良丸出しの三人組だった。街ですれ違ったら、思わず目を背けるような、今で言うなら絶対に脱法ハーブをキメてダブルピースをして笑っていてもおかしくないような三人組である。やばいやばい絡まれる、とひとりで焦っている僕を他所に、渚さんは依然ムスっとしたまま、
「おう。久しぶり」
三人組がこっちに近づいて来る。
「最近こっちにも顔出さないし何やってんだよお前」「そうだ、俺ら今からカラオケ行くから一緒に行かね? 女居た方が面白いしよ」「その後に山本ん家で飲むんだけど、ついでにどうよ」
口々にそう言いながら目の前で屯する男三人組に対し、渚さんは「あー……」と言葉を濁しながらこちらにちらりと視線を移した。
そこでようやく男三人組は僕の存在に気づいたようで、意外そうな顔で、「あれ、誰だそいつ?」「見たことねえな」「何、お前の弟かなんか?」
どうしよう、と思うのも束の間、渚さんの手が伸びて来て、僕の腕が掴まれて引っ張られたと思った時にはもう、自然な形で腕を組まれていた。そして何の躊躇いもなく、渚さんは言った。
「わたしの彼氏」
男三人組が絶句する。
それはそうだろう、と僕は他人事みたいに思う。嘉応渚は言わずと知れた武闘派の不良で、たぶん目の前の三人組もそういう渚さんの知り合いなのだろう。だから渚さんの彼氏はきっと、目の前のこういう人種であったり、あるいはK1ファイターのような人間でなければ釣り合わないのかもしれない。ましてや、自分のようなやせっぽっちで、身長だって渚さんより低いちんちくりんな人間なんて、本来ならばまず相手にもされないのかもしれない。
絶句したままだった男三人組が、しかしやがて急に笑い出した。そしてその笑いはたちまちに大きさを増し、
「冗談言うなよ、これがお前の彼氏!?」「笑わすんじゃねえよ、あの渚の彼氏がこんなヘボみてえなヤツだってのか!?」「駄目だ腹痛いっ」
やっぱりそう思われるか、と考えつつも、僕は「あはは」と取り敢えず笑って過ごそうと思い、
「おい少年、やめとけ。お前じゃこの女の相手は無理だ。だってこの女は、」
瞬間、腕を組んでいる渚さんから、猛烈な怒気が滲み出したのが瞬時に理解出来た。
決断するのは、それだけで十分だった。
足を出そうとした渚さんより一歩早くに前へ歩み出して、そのまま頭を下げた。
「渚さんの彼氏の中野って言います。いつも渚さんがお世話になっています」
間一髪だと思った。前に傾いていた渚さん重心が停止している。
揉め事なんて起こす必要は何処にも無いのだ。今日はだって、クリスマスなのだ。
言葉にはしていないけど、それでも、渚さんだって今日は楽しみにしていたのではないか。そんな中で揉め事を起こして台無しにする必要は無い。馬鹿にされるのは慣れている。いまさらに何を言われたってどうということは無い。それよりも、自分のせいで渚さんが不要な感情を抱くことは、ずっとずっと、怖かった。
沈黙の五秒が過ぎた後、毒気を抜かれたように男三人組は「お、おう……」とつぶやいた後、それぞれがゆっくりと歩き出しながら、「デート中に悪かったな」「まぁ頑張れや少年」「じゃあな」と口々に言いながら、人ごみに紛れてそのまま姿が見えなくなる。
完全に姿が見えなくなった後、ようやく緊張の糸が切れた。大きな、本当に大きな息を吐いた。
たぶん寿命が五年は縮まったと思う。冬じゃなければ小便を漏らしていたかもしれない。間一髪というのは、きっとこういうことを言うのだと思った。大任を終えたかのような達成感に包まれた気分に浸っていると、ずっと組んだままとなっていた腕がぐいっと引っ張られた。
やっぱり至近距離からの睨みと声だった。
「……なんで止めたの」
さっきの出来事よりも、百倍怖かった。怖かったけど、それでも。
「せっかくのクリスマスですしね。それに、」
自然に笑っていたと思う。
「渚さんが僕のこと、彼氏って言い切ってくれて嬉しかったですし」
目の前の瞳が僅かに揺れ動く。しかしそれがすっと離れて、その条件反射で頭突きが来ると理解して身体を強張らせて目を瞑る。
しかしいつまで経っても頭突きは来なくて、おそるおそる目を開けると、目の前の渚さんは明後日の方向を向いたまま、ただ、こちらに対して手を差し伸べてきた。
「ん」
それだけ言って、渚さんは手を差し伸べたままそっぽを向き続ける。
状況はすぐに理解出来た。気が利かなくても、デリカシーが無くても、それでもこれの意味くらい判っている。
笑顔で応える。差し出された手をしっかり握り返す。
手を繋いで初めて、渚さんの体温が驚くほど温かいことに気づいた。
心なしか渚さんの顔が赤いのは、きっと気のせいではないだろう。
◎
僕には両親が居なかった。
小さい頃、事故で死んでしまったそうだ。だから僕は、写真の中でしか両親の顔を知らない。幸いにして、心優しい祖父が僕を引き取って育ててくれたから、そこまで不幸だとは思わなかったけれども、それでもやはり、親と喋った記憶もなく、どんな人なのかも判らないことは、言いようの無い喪失感として、常に胸の奥にあった。
その喪失感を紛らすように、小さな頃からよく、近所の公園で一人で過ごすことが多かった。学校が無い日は、公園のベンチに一日中座り込んで、家族連れでやってくる子供を見ながら、きっと自分に両親が居たらあんな感じだったのだろうかとよく考えていた。答えなんて出るはずがなかったけれども、それでもそうしている間だけは、この胸にある喪失感が、少しは無くなるような気がした。
夏が過ぎ去り、秋が迫りつつあったその日もまた、僕はその公園のベンチに座り込んでいた。
空は夕暮れで紅く染まり、子供は両親と一緒に帰って行って、もう公園には誰も残っていなかった。遊ぶ相手が居なくなった遊具は静かに鎮座していて、夕日に照らされた影が長く伸びている。静かな空間だった。誰もいない空間だった。その光景を見て、まるで世界の終わりみたいだと、僕は思った。
そんな折、誰も居ないはずの公園のベンチに、いきなり誰かが座り込んだ。
一切の遠慮が無い体重の掛け方だったため、それなりに距離があるとは言え、こちらの尻に思いっきり振動が来た。びっくりして隣に視線を移すと、女の人が居た。どこかで見た覚えのある顔だった。どこでだったっけ、と考えてすぐに、それは降って湧いた。思い出した。制服じゃなく随分と派手な服装だったから一瞬判らなかったけど、学校の武闘派不良、嘉応渚である。
やばいどうしよう、とベンチから腰を上げそうになるが寸前で思い止まる。どうやら嘉応渚の方はそもそもこちらの存在に気づいていないように見える。ということは下手に逃げ出すことによって気づかれる可能性も否定出来ない。ここはいっそのこと、ベンチの一部に擬態してバレないようにやり過ごすことが得策なのではな
ぺっ、と嘉応渚が地面に唾を吐いた。唐突過ぎて思考が止まった時、無意識的に吐き捨てられた唾に視線が移っていた。
そこでようやっと気づいた。その唾が僅かに赤いこと、そして多少なりとも見覚えのある嘉応渚の顔の頬や目頭に、青い痣があること。夕日に照らされたそこで、非現実的な光景が広がる。何の思考も湧き上がらなかった。何も考えられない。呆然と嘉応渚を見ていることだけしか出来ず、
嘉応渚がもそもそと動き、何処からとも無く小さな箱を取り出した。タバコのパッケージだった。そのまま中から一本を取り出して、端に青い痣の浮かぶ口でタバコを咥え、実に慣れた動作で火を点けた。そして小さく息を吸い込み、
「っ」
僅かに身体を強張らせて目を閉じた後、本当に小さく、「……クソッ」とつぶやいた。
思考は回らない。回らないけれども、それでもいつの間にか、言葉は口から出ていた。
「……身体に悪いですよ、タバコ」
言ってから初めて、自分が口を開いていたことに気づいた。どうして今にそんなことを言ったのか、タバコが身体に悪いことなんて知っているが、自分ではそれが「なぜ悪いのか」は説明できないし、そもそも人に対して何かを偉そうに言えるだけの資格もあるとは思えない。それ以前にどうして声を出してしまったのか、ベンチに擬態してやり過ごすはずではなかったのか。
そして当然のように、こちらの存在に初めて気づいた嘉応渚は、恐ろしいまでの目でこちらを睨みつけた。
身が縮まった。これほどまでに敵意を剥き出して人を見る人を、僕は産まれて初めて見た。
真っ直ぐに睨みつけてくるその瞳から視線を外すことが出来ない。外したら何をされるか判らない。判らないからもう何もしない方がいい。このままゆっくりと立ち上がって、目を離さないまま後ろ下がりで歩いて、公園を出て走って逃げるべきだ。殺されたって不思議じゃない状況だ。だから、
「……身体に悪いんです、タバコ」
どうしてそんなことをもう一度言うのか。
自分自身がどうしてしまったのか、まるで判らない。
やがて嘉応渚は一瞬だけ自らの手に持ったタバコに視線を移したと思ったら、そのまま地面に投げ捨ててヒールの付いた靴でぐりぐりと踏み潰してしまった。タバコの火はすぐに消えたはずだがしかし、嘉応渚は止まらない。ぐりぐりしていたのがやがてその大きさを増し、終いには思いっきり地面を蹴りつけるようになってしまった。足で地面を蹴る度に、嘉応渚はただ一心不乱に「クソッ、クソッ」と叫び続ける。狂っているのかと思った。そう思ってしまうくらい、その姿には鬼気迫るものがあって、そして、
そして、その瞳から溢れる涙を見て、もう本当に、何も考えられなくなった。
どれくらいそうしていただろう。履いていた靴はいつの間にかヒールが折れていて、タバコの残骸はフィルターの一部以外姿形すら残っていない。肩で荒い息を繰り返しながら、嘉応渚はただ地面を見つめたまま、ただ静かに泣いていた。滴った涙が地面に落ちる度、ぐちゃぐちゃになった土に染み渡って消えて行く。
どうしていいのか、まるで判らなかった。
やがて嘉応渚が、独り言のように言った。
「……わかってるよ。身体に悪いことくらい」
僕の言った言葉に対する返答だと気づいたのは、どれくらい経ってからだろうか。
嘉応渚は、虚空を見つめたまま、言った。
「でも、どうしようもないじゃん。これ以外に、どうしたらいいのかわかんないんだよ。どうしたらこの気持ちが無くなるか判らないんだ。なぁ、教えてくれよ。どうしたらいいんだよ。もうみんな、死ねばいいんだ。どいつもこいつも、死ねばいい。ふざけんな。なんでわたしばっか。ふざけんな、ふざけんなよ。なんでわたしばっかり、いつもいつもいつもいつもッ」
虚空を見つめていた視線が、いきなりこちらに向けられた。
涙に濡れた瞳でも、それでもそこに殺意はあった。でも、それ以上に、
「みんな死ねばいいッ。あいつもッ、あいつ等もッ。お前もだッ!」
とばっちりというのはきっと、こういうことを言うんだと思った。
それがなんだか無性に可笑しくて、思わず笑い出してしまった。
安心したことがあった。この人も、泣いたり愚痴を言ったりするんだ。
「なに笑ってんだお前」
びっくりするくらい険しい目つきで睨まれた。
それでも一度始まった笑いはなかなか止まらなくて、それで、
「喧嘩売ってんのか」
胸倉を掴まれて、至近距離から睨みつけられた。
怖過ぎて、ここでようやく笑いは納まった。ただ、今度は別の意味で少しドキドキする。産まれて初めて、異性の顔がすぐそこにある。少しでも動けばキスしてしまいそうである。どうしてこんなことになっているのかは正直自分でも判らない。判らないが、それでもそんな中で唯一判っていることがあるのだとすれば、それは、目の前のこの人もまた、僕と同じだということ。
僕もこの人も、行き着く場所なんて何処にも無いのだ。
見つからない探し物をしている途中なのだ。
この人の瞳の中に、僕は自分自身を見た気がした。
だったら、世界の終わりのようなこの公園で、少しくらい、共有する時間を作っても、きっと罰は当たらないのだろう。
「――あの。僕、中野って言います。あなたと同じ学校の後輩です」
「……は?」
「僕と少し、お話をしませんか」
世界の終わりのこの場所で、僕は、渚さんと出逢った。
◎
手を繋いだまま、渚さんと一緒にいろんなところを周った。
今までクリスマスを外で過ごすなんてしたことがなかった僕にとって、彩られた街はまるで別世界に思えて、ものすごく新鮮な気持ちを抱かせてくれた。渚さんはいつも通りの渚さんだったが、繋いだ手は決して離さなかったし、時折見せる綻んだ顔を見ただけで、内心はとても楽しんでくれているのだと判った。
クリスマスのことなんてすっかり忘れいてた僕がどの面を下げて遊び回っているのかという当然の批判は自分の胸の内に押し込め、今はただひたすらに二人で彩られた世界を見て周ることだけを楽しんだ。
時間はあっという間に過ぎ去って、少しだけお洒落なパスタ屋でご飯を食べて、夜になるまでずっと一緒に居た。
人の波に任せて歩いていたら、やがて辿り着いたのは大きなクリスマスツリーのある駅前の広場だった。周りの人の話から察するに、どうやらあと少しでここでイルミネーションの点灯式があるらしい。渚さんに「見ていきますか」と尋ねると、ほんの少しだけ頷いたのが見えたので、しばらく二人でそこに留まることにする。
繋いだ手からは、渚さんの体温がはっきりと感じ取れた。
やがて周囲の喧騒が大きさを増した。
何処からともなくカウントダウンが始まる。見ればもうすぐ時計の針は十九時を刺そうとしていた。
その時、渚さんが少しだけ手を握る力を強くした。
それに気づいて渚さんの方を見ると、未だ灯りの点かないツリーを見つめたまま、ただ一言だけ、こうつぶやいた。
「……ありがとう」
それが果たして何に対するお礼だったのか、気が利かなくてデリカシーの無い僕にはよく判らなかったけれども、それでもただ、手を握り返して笑顔を向けた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
カウントダウンが零になる。
歓声と共に、目の前に色取り取りの星が咲いた。巨大なクリスマスツリーが様々な色に彩られて光り輝く。
それは、とても綺麗な光景だった。とてもとても、綺麗な光景だった。
思わず感動してしまったせいか、僕としては珍しく、気の利いた台詞が胸の奥から転がり落ちた。
「渚さん。――メリークリスマス」
その台詞が意外だったのだろう、渚さんが少しだけ驚いた顔をした後、
ものすごく不機嫌そうな顔で照れ隠しをしながら、コートの襟に頬を埋めながらつぶやく。
「……メリークリスマス」
「元旦編」
新年が明けた一月一日の元旦。
特に慌しくも忙しくもなかった師走が終わりを告げる大晦日は、毎年恒例のように部活のメンバー達と小さなどんちゃん騒ぎで過ごし、いつものように朝方に解散した後、片付けの前に仮眠のつもりで眠ったはずが、目覚めたのは昼の十四時を二十五分過ぎた辺りだった。未だ冴えない頭をこさえた状態でベットから抜け出し、散らかり放題となった自分の部屋にうんざりしつつ、片付けはとりあえず置いておいて洗面所へ向かい、鏡に映ったボサボサの頭に自分自身で呆れ返り、しかしどうしても髪型を直すのが面倒だったため、顔だけ軽く洗ってそのまま居間へ向かった。
パジャマ姿のままの自分とは違い、居間で正月番組を見ていた祖父と祖母はしっかりしたいつも通りの格好をしており、寝起き丸出しの自分を見るや否や、「お正月だからってだらけてないで、しゃんとせにゃいかんぞ」「頭くらいどうにかなさい」と口を揃えて怒ってきたが、未だ冴えない頭では何を言っているのか正直よく判らなくて、むにゃむにゃとおぼろげに返事だけを返し、コタツの定位置に座り込み、机の上でダラダラする。半ば呆れていたが、それでも祖父も祖母も優しいから、小さなため息をだけを吐いてそのまま放置してくれる。
それからしばらくした後、祖母が思い出したかのようにふと、
「そういえば。お雑煮作ったけど、食べるかい?」
お腹の空き具合を頭の隅で僅かに考えつつ、とりあえず「食べる」と返事する。
ぐーたらな孫に雑煮を作るべく、祖母が台所に向かう。そんな祖母を尻目に、僕は祖父と一緒にテレビを見ている。毎年恒例の正月番組だった。番組名はまったく思い出せないけど、今にやっているこのコーナーは知っている。巨人みたいな人と、変なキノコみたいな頭の人がパチンコを打って勝負をするという変なコーナーである。パチンコなんて打ったことがないから楽しさなんてちっともわからないけれども、巨人みたいな人と変なキノコみたいな頭の人は何やら楽しそうである。
ぼーっとそんな番組を見ていると、祖母が大きめのお茶碗と箸を持って戻って来た。
「お食べ」と差し出された雑煮をむしゃむしゃ食べる。美味しかった。味付けもそうだが、何よりも餅単体が絶妙に美味しかった。これは毎年恒例のことであるのだが、この餅は餅米から祖父が自分で突いて作ったものなのである。近所のお年寄りが集まって、元旦に餅を作ることは、この近辺では恒例行事なのだ。おまけにそれがびっくりするくらい美味いのだから、僕としては有難い限りの話である。
餅をむにーと伸ばしながら食べていると、チャイムが鳴った。
祖母が「はいはい」と言いながら玄関に向かう。誰だろう、とほんの少しだけ思ったが、まぁお正月なのである、親戚であったり近所の人であったりが、きっと新年の挨拶にきたのだろう、とぼんやり思う。しかし餅が美味い。これなら何十個でも食べてしまえそうである。餅を食べて太るような人の気持ちが毎年嫌というほど判る。
もぐもぐ食べていると、玄関に行った祖母が戻って来て、少しだけ戸惑った顔をしながら僕を見た。
「ちょっと、まーくん。ちょっと」
「なに」
「お客さんよ」
どうも祖母の様子がおかしい。何か変だ。
それにしてもお客って誰だろう、そう考えてすぐに思い至る。どうせ部活メンバーのひとり、西岡だ。今日の朝方まで一緒に過ごしていた一人である。西岡が昨晩、「とんでもないブツを手に入れたでござる」とか何とか言い出して取り出したのは、無修正のAVだったのである。どうやら西岡おススメの一品だったらしいのだが、そんなものに興味の無い僕らは無視してゲームをしていたから、本人は勝手に不貞腐れていた。そして今日に寝る前、ベットの脇にそのブツが置きっぱなしになっていたことに気づいたことから、おそらく西岡がそれを回収しに来たのだろう。
餅を食うことを未だ止めないまま、
「上がってもらってよ。僕の部屋に行っててって言っといて」
祖母はなおも戸惑ったままだったが、しかしそれでも、廊下から玄関の方へ少しだけ手招きする。
餅に夢中で、おまけに未だ冴えない頭では、この時の違和感の正体に気づけなかった。それがすべての敗因であろう。祖母はもちろん西岡のことなんて知っている。だからもしこの来客が西岡であれば、祖母はまず間違いなく、「西岡くんよ」と言っていたはずなのである。にも関わらず、敢えて「お客さんよ」と言ったその真意に気づいてさえいれば、この後に起こるいろいろなことに対して、下の下くらいの戦略は立てることが出来たのかもしれない。が、やっぱりもうすべては後の祭りで、結果的に言えば、下の下の戦略も糞も無く、全部もう手遅れだったのである。
祖母に手招きされて居間に通されたその人物を見た瞬間、餅を食う手が初めて止まった。息も止まった。心臓も止まった。血液の流れすら、この時は止まっていたはずで、小便が漏れなかったのは奇跡だった。
渚さんは、居間の入り口から、ムスっとした顔のままこっちをじっと見ている。
死刑執行の始まりだった。
◎
五秒。いや五秒じゃないです。五分。いえ三分。いや十分くらい。本当に十分くらい待っててください。お願いしますすみません。部屋。部屋です。部屋片付けて来ます。散らかってて、いやいつも汚いんですけど今日は違うんです。ダメなんです。だから十分、いや十五分待っててくださいごめんなさいお願いします。ここでテレビでも見て。爺ちゃんいますけど気にせず。雑煮。そうだ婆ちゃん、お雑煮出してあげて。渚さん、是非雑煮食べてテレビ見ててください。ね。お願いします。ね。ね。ね。
何も言わない渚さんに対して謝り倒し、状況がまったく飲み込めないであろう祖父と祖母に時間稼ぎを丸投げして、居間から脱兎の如く飛び出してまずは洗面所に向かった。予想はしていたがやっぱりそうだった。頭が火山爆発みたいになっている。こんな姿を、渚さんに見られたのである。おまけにパジャマだった。死にたい。
冷水なんてモノともせずに頭から被り、寝癖をまずは死滅させる。パジャマを大慌てで脱ぎ捨て、適当な私服に着替える。そのまま居間には寄らずに階段を駆け上がり、部屋へ飛び込んで惨状を理解する。西岡と杉田と井上。あの三馬鹿に荒らされた部屋は酷いものであった。ゴミであろうがそうじゃなかろうが、判別のつかないものはとりあえずゴミ箱にすべてぶち込んで、脱ぎ散らかっていた服などは押入れに全部叩き込む。他に見られてまずいものは何か――ベットの脇に転がっていた西岡のブツが目に入る、殺すぞ西岡と悪態をつきながら無造作にベットの下へと叩き込む。
とりあえず何とかなった。はず。あとは軽くだけでも掃除機を掛ければ、必要最低限の準備は整うはずである。肩で息をしながらも必死に掃除機を掛ける。師走でもこんなに忙しい日はなかったのに、なぜ元旦からこんな思いをしているかがまったく判らない。おまけにこういう時に限って掃除機に物が詰まったりしてまったく捗らない。
結局、何とか人が入っても大丈夫なようになる頃には、十五分なんてとっくに過ぎていて、気づいたら三十分くらい経ってしまっていた。息つく暇も無く階段を駆け下りて居間へ飛び込む。祖父と祖母が何とか時間を潰してくれていれば、と他力本願に願っていたのだが、ぼんくらの孫とは打って変わり、祖父と祖母はそれは見事に接待を行っていた。
「お嬢さん、なかなかイケる口だ。ほれ、こっちの日本酒も美味いぞ」
「すみません。頂きます」
「ごめんなさいね。おつまみって言っても、おせちくらいしかなくて」
「いえ。どれもとても美味しいです」
「まー坊はまったく酒飲めなくてなぁ。飲める相手がいると楽しいなぁ」
「わたしで良ければ、いつでもお付き合いします」
「あの子ってほら、あんなんだから美味しいってほとんど言わないから。お世辞でも嬉しいわ」
「とんでもないです。毎日食べたいくらい美味しいです」
確か杉田だったか井上だったか。確か井上だったと思うんだけれども、いつかに言ってた気がする。不良は上下関係を何よりも重んじるから、自然と目上の人間に対する接し方が上手くなる、その結果として、それは僕たちに無い、いわゆるコミュニケーション能力というものに直結するのだ、と。その言葉を今日ほど実感した日は無かった。
渚さんが、あの渚さんが、僕の祖父と祖母と宴会をしている。非日常としか思えない。悪い冗談に思えてくる。
居間の入り口に立ち尽くしていると、ようやっと全員が僕の存在に気づいて、「なんだいたのか」という顔をした。ものすごくアウェーに思えた。ここは僕の家のはずだし、祖父と祖母は間違いなく血縁者のはずなのに、なのにどうしてか、僕の存在がものすごくアウェーに感じてしまう。思わず泣いてしまいたくなる。
「……あの。掃除が、終わったので、その……すみません」
しょぼくれながらそう言うと、渚さんはコップに残っていた透明の液体を何の躊躇いも無く飲み干した後、その場で姿勢を正して小さく頭を下げた。
「ご馳走様でした。とても、美味しかったです」
名残惜しそうにする祖父と祖母の傍から立ち上がり、僕の横に並んでもう一度だけ小さく頭を下げた。そしてそのまま踵を返して歩き出して、すぐそこにあった階段を上って行く。我に返って慌てて追い掛ける。階段を上がり切ると同時に少しだけこちらを振り返り、顔で「どこ」と尋ねる。再三慌てて「ふ、二つ目の部屋ですっ」と答える。
大掃除を急ピッチで行った僕の部屋へ、渚さんが初めて入る。この部屋に入ったことがある人間なんて、本当に片手で足りるくらいしか居ないと思う。ましてや女の子がこの部屋へ足を踏み入れるなんて、夢を見ているかのようである。この状況で言うのであれば、それは悪い方の夢なのかもしれないけど。
部屋に入った渚さんは辺りをきょろきょろ見渡した後、少しだけ考えるかのような素振りを見せた後、一番座っても問題なさそうと判断したのだろう、ベットの上に遠慮なく座り込んだ。おまけにその顔が、さっきまでの表情が嘘のように怒っていた。だから悩むまでもなく、そのすぐ前の床に正座する。
何を話すべきのかが、まったく判らなかった。そもそもなぜ渚さんがここに居るのかすら、僕には判らなかった。前に住所を教えた気はするのだが、家に呼んだことは一度もないし、そもそも今日に遊ぶ約束も、ましてや家に来るなんて話も聞いていない。判らないことだらけで頭が破裂する一歩手前だった。
頭でぐるぐる考えていると、ついに渚さんからこう言われた。
「お前。わたしに言うことあんだろ」
いつかに聞いた台詞だった。しかもつい最近のことである。
あの日は確かクリスマスだった。僕はそのことをすっかり忘れていたから、渚さんに怒られてしまった。つまりそれがヒントであるからして、今日もまた、僕は何か重大なことを忘れているのだろう。今日はお正月である。おまけに元旦である。そこから考えるに、カップルが行うべきことなんて、ひとつしかないのではないか。気が利かなくてデリカシーの無い僕でも、これだけのヒントを貰えば答えに辿り着くには十分過ぎた。
だから僕は、いつかのようにぼんやりと笑いながら言った。
「渚さん。――初詣に行きましょう」
ゴッ、と音がしたと思った時には目から火花が散った。散ったかと思った。
目の前の足で蹴り上げられたと気づくのにかなりの時間が必要だった。今日も短いスカートに黒のタイツを履いていたから、もし身構えていたらパンツくらいは見えたかもしれないのだが、しかし今にそんなことを言おうものならたぶん、地獄なんて生温く感じるくらい酷いことをされそうな気がする。
ベットから降りた渚さんが、すぐそばでうんこ座りで視線を落とし、僕の顎を掴んで顔を持ち上げ、小便を漏らしてもおかしくない程の睨みを利かせ、人でも殺すんじゃないかという程の低い声で言い放った。
「違う。いや違わないけど順番が違う。――もう一回言うぞ。わたしに言うことあんだろ」
考える。選択肢を誤れば死に直結することがやはり本能として判る。
考える。初詣ではなかった。
考える。初詣ではなかったが、それは別に違わないらしい。順番が違うと渚さんは言った。ということはつまり、その前に何か足りないのだ。考える。今日はお正月の、元旦である。初詣の前にしなければならないこととは何か。年明け。つまり、今年初めて、僕は渚さんに会ったことになる。ということは、つまり。
「……明けまして、おめでとうございます」
一か八かだった。これが違えば死ぬのだと腹を決めた。
そして僕は、賭けに勝った。
未だ不服そうではあるが、至近距離にいる渚さんは小さく言った。
「……おめでとう。今年もよろしく」
ようやっと開放される。渚さんがベットに戻る。僕は正座を正す。
新年の挨拶を忘れていた。これをして初めて、じゃあ初詣に、という流れが正解なのだ。
今年始めで、早速に一世一代の大仕事をやり遂げたかのような充実感があった。もうこれで今年に思い残すことがないと言っても過言でもない。渚さんに言われるまで、礼儀に対して考えたこともなかった。年越しまで一緒に居たはずの三馬鹿に対しても特に新年の挨拶などもしなかった。僕にとっては、そういうのはあまり大きなことだと思ったことがなかった。でもどうやら、渚さんは違ったらしい。
そう思ったせいで、ここに来てようやく、違和感を言葉にすることが出来た。
「……渚さん。ひとつ、聞いてもいいですか」
ムスっとしたまま、渚さんは言う。
「なんだよ」
「……わざわざそれを言うために、家に来てくれたんですか?」
その一言はきっと、言ってはならない言葉だったのだろう。
なぜなら、渚さんと付き合ってまだ半年も経っていないけど、たぶん、この時に見せた渚さんの表情が、今までで一番、可愛かったから。
だけどそれも束の間、渚さんはいきなりベットから立ち上がると同時にこちらを思いっきり殴りつけ、まるで怒鳴るかのように、
「誰のせいだと思ってるんだバカ野郎っ。お前がメールも電話もよこさないから仕方が無く来てやったんだろうが殺すぞっ」
「てっ、あえ、はっ、はいっ、すみません、あの、痛っ」
渚さんに殴られながら、それでも思う。
顔のにやけが止まらなかった。だから僕は、敢えて渚さんの方を見ないようにする。
きっと渚さんも、僕と似たような表情をしているだろうから。
◎
渚さんと二人で、初詣へ行くこととなった。
家を出る前に、渚さんと一緒に、改めて祖父と祖母へ挨拶をした。渚さんの名前から始まって、学校の先輩であること、そして、今に僕たちが付き合っていること。ぼんくらな孫に初彼女が出来たことを二人は大変喜んでおり、渚さんが遠慮してしまうくらいにまた是非遊びに来いと言い寄っていた。
外の空気はツンと澄んでいて、肌を刺すように冷たかった。ただこれがまだ太陽のある午後だから良かったけれども、深夜とかならもっと寒かったであろう。しかし一つだけ思うのは、僕が例年通りに部活メンバーと小さなどんちゃん騒ぎをしていたその深夜、渚さんはもしかしたら、僕からの連絡をひとりで待っていてくれていたのかもしれなかった。そのことに気づいてしまってから、僕はもう、自分自身がものすごく最低な男に思えてならず、渚さんがいつものようにぶっきら棒に差し出してくれた手を、遠慮がちにしか握ることが出来なかった。
近所にある、それなりに大きな神社へ向かう途中、他の参拝客がちらほらと合流し始めた頃、渚さんがぽつりと言った。
「……あの、さ」
隣の渚さんを見る。
「……迷惑じゃなかったら、なんだけどさ」
随分遠慮がちに言う渚さんの言葉を、ただ待った。
「……また、……お前ん家に、遊びに行っても、いいかな」
その一言に、僕はある種の衝撃を受けた。
渚さんが遊びに来たいと言ったこと自体にも驚いたが、それ以前に、「家に遊びに行く」というその言葉の真意に、衝撃を受けた。あの渚さんがそう言ったことに、僕は戸惑う。
だから、
「……無理してないですか、渚さん」
「平気。久しぶりに、何も抵抗なかったんだ。だからきっと、お前の家なら、大丈夫だと思う」
繋いだ手からは、ほんの少しだけ、震えが感じ取れた。
無理していないはずがなかった。そして僕は、渚さんが「家に来る」という意味の重大性に、今ようやく気づいたのだった。
僕は何を浮かれていたのか。渚さんが「家に来る」ということに、どれだけの決意が必要だったのだろうか。そんなことにも、僕は気づけないでいた。気が利かなくてデリカシーの無い僕だけど、それでもこれだけは気づいてあげなくちゃダメだったのだ。今日の僕は、本当にダメだった。本当に、最低だった。落ちるところまで落ちてしまったのだ。
だったらもう、ここから先は無しだ。底なし沼でも、必ず底はあるのだ。それが例え地球の中心まで行く深い深い所だって、今日のこの日がその底だとするのなら、もうここから先は無い。ここからは上を目指して登り続けなければならない。
遠慮がちに握っていた手を、今度は自分から、しっかりと握り締めた。
驚いた顔でこちらを見る渚さんに対して、言った。
「だったら。だったら僕が、渚さんの傍にいます。だからいつでも来てください。いつでも、傍にいますから」
頼りなくても、ちんちくりんでも。
それでも僕は、この人と一緒にいるのだと決めた。
世界の終わりのあの場所で、僕はこの人と一緒に居るのだと、決めた。
血に濡れた記憶でも、それは僕と渚さんの、大切な絆だから。
しばしの沈黙の後、握り締めた手が、さらに握り返される。
前を向いた渚さんが、やっぱりコートの襟に頬を埋めながら、小さく言った。
「……約束、したからな……」
「勿論です。手始めにそうですね。今年の大晦日は、一緒に過ごしましょう」
年始早々に年末の話をする辺り、自分でも大きく出たと思う。
でもそれはつまり、ある種の決意表明だ。
今年だけではもちろん無く、来年も再来年もずっと一緒に居るという、決意表明。
ちっぽけな僕が掲げる、唯一の抱負。
神社に着いたら、渚さんと一緒に神様にもお願いをしよう。
きっと渚さんも、僕と同じことを願ってくれるだろう。
――僕たちが、ずっと一緒に、居られますように。
「誕生日編」
日付は一月二十三日、場所は放課後の学校の部室。
冬休みで得たはずの開放感なんて遥か昔に消え去り、いつもと代わり映えしない日常をただ無能に過ごし続け、唯一の変化と言えば校長先生の頭皮が新年から更なる撤退戦を繰り広げていることくらいだろうか。もう直に高校生活の二年間が終わってしまうわけだけれども、いつもの部活メンバーの三馬鹿との無駄話を含め、思い出らしい思い出は僕にはほとんどなく、きっとこのまま高校三年生になって、卒業して、大学生になって、社会人になって、適当に人生を過ごすのだと思っていた。小学校や中学校の今までの過去を含め、それが僕という人間性なのだと思っていた。
しかし、そんな僕にも、去年の夏過ぎから、ひとつだけ、大切なモノが出来た。
そして。
「――全員、集合したか」
カーテンを閉め切った真っ暗な部室で、僕はその一言を切り出した。
部室、と言えば聞こえはいいが、実はここ、元は各部活動の使わなくなったものを保管しておく、ただのゴミ置き場兼倉庫だったのである。去年の春辺りにグラウンドの隅に新しいプレハブを建てたことから、倉庫はそこへ移転することになった。その結果として、ぽっかりと空いたこの八畳ほどの空間をどのように開放するかと学校が検討したのだが、特に何も思いつかなかったその場所に目をつけた杉田が、一体何を血迷ったのか「僕たちで部活動を作ろう」と言い出して、勝手に僕と西岡と井上をメンバーに引っ張り込んで、「将棋部」なんていうものを作り上げてしまった。杉田は兎も角として、正直な話をすると、他の三名は将棋のルールすら知らない。だから名ばかりの部活だったし、実際の活動なんてここでダラダラ喋っているかゲームをしているか漫画を読んでいるかだけで、いつに生徒会の監査が入って潰されたって文句は言えない現状である。だけど全員が全員適当だから、「とりあえず潰されるまではここをたまり場にしよう」と好き勝手に思っているのである。
廊下の端っこの方にある場所であるため、この学校の部活動を行っていないほとんどの生徒がその空間の存在を知らず、人通りはほぼ無いその部室は、入り口から入って八畳ほどの空間があり、突き当たりが窓になっている。中央には西岡が勝手に持ち込んだコタツが鎮座しており、今現在、そのコタツを取り囲むように、窓際に僕、右に西岡、左に井上、正面に杉田という位置関係となっている。カーテンは締め切られており、電気を点けていないその部屋を照らしているのは、コタツの上に置いてある仏壇に供えるような蝋燭一本のみである。なんだか雰囲気が出そうだからこうした。
僕は全員の顔を順に見渡しながら、言った。
「今日集まってもらったのは他でもない」
「留年でも決まったのか」と井上が言う。
「新年早々おねしょでもしたか」と杉田が言う。
「極上のAVでも手に入れたの?」と西岡が言う。
「うるさいバカ」と僕は言う。
咳払いをひとつ、
「今日は皆に相談があるんだ」
「赤点でも取ったのか」と井上が言う。
「金と尻は貸さんぞ」と杉田が言う。
「ジャンルは痴漢モノがおススメ」と西岡が言う。
「いい加減にしろっ」と僕は怒鳴る。
机をバンバン叩くと、蝋燭の火が激しく揺らめいた。
そしてその本題を切り出す。
「一月二十五日。二日後のこの日が何の日か、君たちは知っているのか」
「会社員の給料日」と井上が言う。
「パチンコのイベント日」と杉田が言う。
「西野かなえの新作AV発売日」と西岡が言う。
突っ込むだけの元気すら無くなった僕は、それでも厳かに答えを口にした。
「明後日の二十五日は、――渚さんの誕生日だ」
そう。明後日の二十五日は、渚さんの誕生日なのである。
本人から聞いた訳ではない。気が利かなくてデリカシーの無い僕には、付き合っている女の子の誕生日をさりげなく聞き出すという力量なんてハナクソほどもない。これはただの偶然知り得た情報である。いつかに渚さんと生徒手帳の話になった時、渚さんの生徒手帳を見る機会があって、その時に偶然、知り得た情報なのである。
そして、いろいろな過程を経た結果、気が利かなくてデリカシーの無い僕は渚さんを散々に落胆させてきたけれども、この日だけは男を見せようと思った訳である。つまりはサプライズプレゼントの決行だ。結局、僕はクリスマスプレゼントすら渡せなかったのだから、その汚名返上という名目も兼ねている。きっと渚さんのことだから、僕が渚さんの誕生日なんて知るはずないと思い込んでいるに違いない。そこに先回りしてサプライズプレゼントを決行した時、果たして渚さんはどんな表情をするのか、それが今から楽しみで仕方が無かった。
しかし、それにはひとつだけ、問題があった。
今まで女の子と付き合った事もなければ、女友達もほとんど居ない身分だった僕は、果たして女の子がどんなものを貰ったら嬉しいのかなんて、これっぽっちも判らないということである。だから助け舟として、唯一の友達と言ってもいい、部活メンバーの三名に集まってもらったということだ。男が四人も集まれば、流石にそれなりのアイディアくらいは出るだろう踏んだのである。
だが。
「ご馳走様」と井上が言う。
「充実野郎は死ね」と杉田が言う。
「渚さんて西田かなえに少し似てる」と西岡が言う。
「え、いやちょっと、」と焦った僕を、井上が制した。
「判ってる。あれでしょ。プレゼント何が良いか話し合おうっていう」
さすが井上話が判ると感動するのも束の間、
「だからこそ無理だ。ここにいるメンツを考えろ。僕ら全員、女の子のおの字も知らない連中だぞ。お前だって嘉応さんがいなければ僕らと同類だ。そんな僕らが集まったところでいいアイディアなんて出る訳ない。零はどれだけ掛けても、どれだけ足しても零だ」
「いやたぶん僕らも頑張ればほら、コンマ一くらいは、」
「無理だって。杉田は拗ねてるし西岡はAVしか頭に無いんだぞ。どうしようもない」
言葉通り、杉田は「死ね爆発しろ」と拗ねており、西岡は「いや西田かなえじゃなくて伊藤奈々か?」と悶々と考え続けている。使えない連中の中で唯一の頼みの綱である井上には、きっぱりと「無理だ」と言われた。これではどうしようもない。サプライズプレゼント作戦が失敗に終わってしまう。
僕は大慌てで、
「そこを何とかっ、何とかし」
瞬間、
真っ暗だった部室のドアが、破壊されんばかりの勢いで開かれた。
あまりの音に僕らは悲鳴を上げて飛び上がり、招かねざる来訪者へ視線を向けていた。
そこに立っていたのはもちろんムスっとした顔をした渚さんで、アホ面を並べて視線を向けてくる面々を順々に見渡した後、真っ直ぐに僕を睨みつけ、
「帰るぞ」
一言だけだった。魔王の一言だった。
誰も逆らえないがしかし、まだ作戦の目処すら立っていないのである、ここは僕が意地になってでも、
「あっ、あの、渚さんっ、きょっ、今日はそのっ、」
「……なんだよ?」
小便が漏れそうになるくらい怖い目つきになった。口から魂が抜け出しそうである。
しかし何とか魂を繋ぎ止めながら、それでも心を魔王にも負けないくらいの鬼にして、
その時、渚さんはふと思い出したかのような顔をした後、
「そう言えば。おい、三馬鹿共」
突然、未だアホ面をして見つめている三人組に対して尋ねる。
「聞きたいことがあるんだが」
そして渚さんは、言った。
「大晦日の日、――こいつの家にAV置いてったの、誰?」
時が止まった。
世界が止まった。
息も止まった。心臓も止まった。血液の流れすら、この時は止まっていたはずで、小便はもう実は漏れ出したそばから蒸発していたのかもしれなかった。
――バレてた。隠したはずなのに、バレてた。
そこから三馬鹿の行動は実に早かった。あっという間だった。
この時ばかりはきっと、三馬鹿の発進は日本の短距離記録なんて裸足で逃げ出すくらいの速度だったに違いない。それくらいあっという間に逃げ出してしまっていて、結果としてこの部屋に取り残されたのは、僕と、渚さんだけだった。
そして、背筋が凍るかのような笑顔を浮かべる渚さんを見て、僕は思った。
西岡。殺すぞお前。
◎
何のアイディアも得られないまま、二十四日になってしまった。
あの後、三馬鹿との連絡は取れなくなった。どうやら思いの他にAV発言のダメージがあったらしく、メールは返って来ないし、電話をしたらあろうことか着信拒否にされていた。男の友情なんてクソみたいなものである。あいつ等が受けたダメージなんて、怖いくらいに笑顔を浮かべる渚さんと一緒に帰らなければならなかった冤罪の僕に比べれば、まるでハナクソではないか。
しかしいつまでもそんなことを恨んでいても何も始まらないし、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。このままでは本当にサプライズプレゼント作戦が失敗に終わってしまうため、どうしようもなくなった僕はひとり、街へと繰り出していた。勿論、渚さんへのプレゼントを買うためである。
しかし、女の子が好きそうな物を売っている店に入る勇気が、どうしても捻り出せなかった。店の前までは行けるのだが、ショーウィンドウから覗く店内には女の子が溢れ返っていて、とてもじゃないがそこへ男ひとりで入って行くことなんて出来なかったのだ。街へは昼前に到着したはずが、そうこうしている内に時間は無常にも過ぎ去って行き、太陽がほとんど沈んでしまってもまだ、僕はどうしても最後の一歩を踏み出せないのだった。
途方に暮れていた。
店の前にあった街路樹のブロック塀に腰掛け、店内にお客が一人も居ない瞬間が訪れないか、藁にも縋る思いで監視していたのだが、それでもどうやら人気店らしく、一向に人足は途絶えない。こうなったら閉店ギリギリまでここで粘り、最後の最後に突入して金を出せと叫び、違う、何とかプレゼントを選んで速攻で逃げ出すしか道は、
「あれ? お前、少年じゃね?」
いきなり声を掛けられた。
目の前に現れた人物を見た瞬間、思考回路が真っ白になった。
不良だった。びっくりするくらいの不良丸出しの男だった。街ですれ違ったら、思わず目を背けるような、今で言うなら絶対に脱法ハーブをキメてダブルピースをして笑っていてもおかしくないような不良である。とんでもなく怖かった。渚さんも怖い。ものすごく怖い。怖いんだけれども、渚さんの怖さの中には、僕は確かに優しさを感じることがある。だけどきっと、この不良は違う。優しさなんて微塵も無く、きっと僕を散々に殴り倒した後、指を一本一本圧し折って、
「憶えてねえ? ほれ、前に渚と一緒に居た時に会ったろ」
「……あっ」
そう言われて思い出した。
この人、あの時、クリスマスの時に会った、渚さんの知り合いの不良三人組の中の一人だ。
「ほら、飲めよ」
「あ、すみません……、ありがとうございます」
不良さんにホットコーヒーを奢ってもらった。
街路樹のブロックに二人揃って腰掛けて、道行く人を眺める。
不思議なことになった。どうしてこうなったのかよく判らないが、不思議なことになった。発端はやっぱりさっきの出会いで、戸惑う僕に対して、不良さんは「ちょっと話そうぜ」と言った。その結果、ホットコーヒーを奢ってもらって、こうして二人並んでいるのだが、果たして何を話すのか、僕にはまったく検討がつかなかった。
苦いコーヒーを我慢して、必死にちびちび飲みながら、こそこそと隣に座り込んだ不良さんの様子を伺っていると、同じようにコーヒーを飲んでいた不良さんはその手を少しだけ止めながら、
「この前は悪かったな」
「……この前?」
意味を掴み兼ねたのでそう返すと、不良さんは苦笑しながら、
「初めて会った時、お前のこと馬鹿にしたろ? あれだよ」
なんだそんなことか、と思う。むしろそんなことがあったことなど、今の今まですっかり忘れていた。しかし、どうして改まってそんなことを言い出すのだろう。別に当の僕でさえ忘れるくらい気にしていなかったのに。
再びに様子を伺っていると、不良さんは手に持ったコーヒーに視線を落としながら、
「あの渚の彼氏が少年みたいなヤツだったからよ、意外過ぎてつい口が滑っちまっただけなんだ。悪かったよ」
「いえ、そんなの……」
全然気にしてないですよ。そう言い掛けて止まった。
思い出したことがある。あの時は渚さんが怒気を放ったから最後まで聞けなかったけど、確かあの時、この人たちは。
「あの、聞いていいですか」
「なんだ?」
「渚さんとは、どういう関係なんですか?」
意外そうな顔でこちらを見た不良さんは、少しだけ考えた後、急に笑い出して、
「わははは。安心しろ少年。別に元カレとかじゃねえよおれらは。なんつーかね、渚とはちょっとした腐れ縁みたいなもんでよ。何年くらい前だったかな、二年くらい前かな。街歩いてたらさ、いきなり絡まれたんだよ、渚に。あいつほれ、ちょっと前まで爆弾みてーな女だったろ。人でも殺すんじゃねえのかってくらいさ」
ああ、と僕は思った。
あの日。あの世界の終わりのあの場所で初めて出逢った、昔の渚さんのことだ。
「そんで絡んで来たはいいんだけど、あいつ滅茶苦茶しやがるからよ、おれらもマジギレしちゃって。さすがに女相手にこっち複数人だったからボコボコにしちゃったんだけど、我に返った時にやり過ぎたと思って、まぁ、そっからいろいろあって、その日からずっとおれらとつるんでたんだよ。あいつほっとくと何しでかすかわかんなかったしよ、家に帰りたくねえとか言ってたし、おれら普段活動は夜だし、みんな暇だったしな」
ああ、と僕は思った。
そうだ。あの頃の渚さんは、――いや、今もそうだ。今も渚さんは、きっと。
「そんな時、去年の夏過ぎくらいからあいつがぱったり姿を見せなくなった。連絡しても繋がらない。正直、ヤバイことにでも首突っ込んで死んだんじゃねえのかと思ってたんだけどさ。したらあれだぜ、クリスマスに男連れで、おまけに少年みたいなヤツが彼氏って、あの渚が言い切るからよ。思わずああなっちまった、って。そういうわけ」
そう言った不良さんが、改めてこちらに視線を向けた。
「あれから思ってたんだけどさ。あいつ、あんな目してなかったんだよ、今まで。なんかもう、別人みてえな女になってて、正直ちょっと驚いた。丸くなるっていうのは、たぶんああいうことを言うんだろうな。……少年、お前だろ、渚をああしたの。何したのかは知らねえけど、まぁあれだよ、渚を頼むわ。もうおれらのとこに戻って来させるなよ」
思った。
きっとこの人も、渚さんが好きだったんだ。
異性の関係とかじゃなくて、ただ純粋に、友達として。
不良さんが頭を掻きながら立ち上がり、
「うわやべえ、ガラにもないこと言ったら鳥肌立った気持ち悪っ。おい、お前この話渚にしてみろ。殺すからな」
それだけ言い捨てると、「じゃあな少年」と言って歩き出す。
その後姿に、声を掛けた。
「あのっ」
不良さんが「なんだよ」と言いながら振り返る。
この人は、渚さんの友達だ。だったら。
「――ひとつ、お願いがあるんですけど」
◎
何十通りかのプランを考えた。ほとんど寝ずに考えた。嘘をついた。寝ずに考えようと思ってたらいつの間にか眠ってしまっていた。それでも、それくらい頑張ってプランは考え続けたのだ。だけどその結果は、ほとんど伴わないものになってしまった。気が利かなくてデリカシーの無い僕では、どれだけ頑張ってみても、映画やドラマの中でよく見るようなロマンチックな演出は、世界が破滅しても思い浮かばないと気づいてしまった。
だからもう、直球勝負で行くことにした。どうせ策を弄しても失敗するに決まっていた。だったらもう、直球で勝負するべきなのだ。男を見せる時が、遂に来たのである。
取り敢えず先手必勝だということで、前日の夜に、「明日の朝十時に、あの公園に来てください」とメールを送った。返信はしばらく無かったが、日付が変わるかどうかの辺りにようやく返ってきて、ただ一言、理由も聞かずに「わかった」とだけあった。
絶対に遅刻出来ない戦いだったから、家にあった目覚まし時計を掻き集めて朝の八時にセットしたのにも関わらず、結局それらはほとんど無意味に終わり、起床したのは九時四十五分だった。公園までは、どんなに急いでも十分ほどの時間が必要だった。
遅刻ギリギリで駆け込んだ公園のベンチには、いつものようにムスっとした顔をした渚さんが座っていて、息も絶え絶えに辿り着いた僕に気づいた渚さんは、ぶっきら棒にただ言った。
「何の用?」
すぐ傍まで駆け寄って、膝に手を着きながら必死で息を整える。冬だというのに額に汗が浮かぶ。
何十通りかのプランを考えた。言葉だって、本当にいろいろ考えた。考えたけれども、やっぱり僕はぼんくらだから、直球の言葉しか、伝えることが出来ないのだと気づいた。
息が整ったのを見計らって、渚さんの顔を見る。
冬の冷たい風に撫でられた頬が微かに赤い。そして、その瞳の奥で揺れ動くひとつの感情が、少しだけ見て取れた。不安、あるいは動揺、だろうか。きっと渚さんも、薄々は勘付いているのだと思う。自分の誕生日に彼氏から呼び出されたら、何を言われるか、何を渡されるか、そんなことくらいは渚さんには容易に想像出来るだろう。だけど相手がこの僕だから、どうしてもその行為に対して確信が持てなくて、きっと動揺しているのだと思った。
良い意味で、期待を裏切ることが出来たんだと、この時の僕は、思っていた。
だから、やはり先手必勝の戦法を取った。
上着のポケットに入れていた、小さな紙袋を取り出す。赤い用紙に、薄い青のリボンが着いている、そんな紙袋。
渚さんを真っ直ぐに見つめながら、言った。
「渚さん。――誕生日、おめでとうございます」
楽しみで仕方なかった。こうしようと思ってから今のこの瞬間まで、楽しみで仕方がなかった。
渚さんはどんな反応をしてくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。なんて言ってくれるだろうか。もしかして嬉しさのあまり、渚さんが泣いてしまったりするのだろうか。そんなことを、ずっとずっと考えて、楽しみで仕方がなかったのだ。そしてその思いが、今にようやく、
「……は?」
真顔で、渚さんにそう言われた。
「……え?」
真顔で、そう返した。
それから五秒が過ぎ、十秒が過ぎ、三十秒が過ぎ、一分が経とうとしたその時、渚さんがぽつりと、
「――わたしの誕生日、明日なんだけど」
「……は?」
また真顔で、そう返した。
そう返した瞬間、急に渚さんが大笑いを始めた。
お腹を抱えて、目に涙まで浮かべて、渚さんが笑う。
「お前、わたしの誕生日が今日だって、誰に聞いたんだよそれ」
プレゼントの紙袋を差し出したまま、呆然と、
「え……、だって、渚さんの生徒手帳に、今日って……」
あー、あれか、と渚さんは人差し指で目元を拭いつつ、
「あれな、何でか知らないけど、学校の手違いで二十五日になってんだよ。面倒だったから放置してたの。でもわたしの誕生日は間違いなく明日。今日じゃない」
すべてが音を立てて崩れ去った気がした。
全部が全部、崩壊した。もう僕にはきっと、何も残っていない。髪が白くなって、すべて抜け落ちても何ら不思議ではない。穴があったら入りたいどころの騒ぎではなく、その穴を掘り続けてそのまま地球のマグマまで突っ込んで溶けて消え失せてしまいたかった。格好悪いとか、そういう次元の話じゃない。ぼんくらがここに極まった瞬間である。せっかくあの不良さんに協力までしてもらって、勇気を振り絞ってこのプレゼントを買ったのに、こんなのって、こんなのって、
思わず泣き出しそうになっていると、ようやく笑いが納まりつつあった渚さんは、差し出されたままになっていた紙袋を自然な動きで手に取って、
「だけど頑張りは認める。お前にしては上出来だ。久々にこんなに笑わせてもらった。いや、初めてかもしれない、ありがとう」
褒められても、今の僕には何の意味もなく、僕が欲しかったのはこういうお礼ではなく、もっと、
「あー、笑った笑った。本当に笑った。笑い過ぎて泣いちゃった。笑った。笑ったよ。笑った」
渚さんはそう言った。笑わない顔で、笑ったと言い続けた。
異変に気づいた時にはもう、遅かった。
「笑った。笑ったよ。うん、……笑った。……わらっ、……たっ」
無表情だった。無表情のまま、渚さんはただ、涙を流して、泣いた。
泣いたと思ったら、唐突に崩れ落ちるようにそのままへたり込んで、そして、
「…………お前、…………ふざっ、けん、……なよっ……、こんっ、こんなのっ…………お前っ……卑怯っ……ズルじゃ、ねえかっ……」
意味が判らなかった。何が起こったのかさえ、理解出来なかった。
まるで子供のように泣く渚さんは、ただ、「卑怯だ」「ズルい」と、そう繰り返した。
状況がどうなっているのか判らず、果たして渚さんに何と声を掛けていいのかも判らず、
やがて渚さんは、言った。
「…………お前、から……、急に、……呼び出された、から……」
――ああ、そうか。
「……だから、きっと……」
だからさっき、渚さんは。
「……………………別れるって、……言われると、思ったんだよ……、なのに、こんなっ……、…………おまっ、お前、まで……いなくっ、なったら、……どうし、ようって、…………怖く、て、……怖くっ、て、……」
あの瞳に、動揺を押し込めていたんだ。
ようやく、理解出来た。ああ、そうか。ぼんくらな僕だからこそ、渚さんはそう思ったのだ。
気が利かなくてデリカシーの無い僕が、珍しく、いやもしかしたら初めてかもしれない、それくらい稀に、用件も告げずに渚さんを呼び出した。これが本当に渚さんの誕生日である、二十六日であれば問題なんてきっと何も無かったのだろう。僕が本来欲しかった、渚さんの嬉しがる反応が見れたのだろう。
だけど僕はぼんくらだから、勘違いして二十五日に呼び出してしまった。渚さんからしたら、誕生日の前日に、普段からろくに連絡も寄越さないヤツが、用件も告げずに急に呼び出しを掛けてきたのだ、不安に思っても仕方があるまい。だってなにせ相手が、気が利かなくてデリカシーの無い、この僕なのだから。いつに何を言うのかなんて、きっと渚さんにだって、それは予測出来なかったのだろう。
馬鹿なことをしたと思う。今日のことだけではない。今までずっと、馬鹿なことをしていたと思う。
結局、僕の行動は全部、裏目に出てしまったのである。
だけど、だからって、これは、――これこそ、反則ではないか。
こんなにも渚さんを愛おしいと思ったのは、初めてだった。
気を抜けば、僕も釣られて泣いてしまいそうになった。
だから、しっかりと笑って、言葉を噛み締めるように、言った。
「……渚さんが僕に愛想を尽かすことはあっても、その逆は、絶対にないです。言ったじゃないですか。僕が傍にいますって。僕は絶対に、渚さんと一緒にいます。何処にも行きません。約束します。だから、安心してください、渚さん」
へたり込んだ渚さんの傍に、一緒のように姿勢を落とす。
手の甲で涙を拭う渚さんが、ほんの少しだけこちらに視線を向けた瞬間、
目の前が真っ暗になった。信じられない衝撃音が鳴った。
頭突きを食らったのだと気づいた時にはもう、平衡感覚は木っ端微塵に崩れ去ってしまっていた後で、そのまま背後に倒れ込むかどうかの時、今度は胸倉を鷲掴みにされて思いっきり引っ張られた。前に吹っ飛ぶかのように引き寄せたれた直後、最後は思いっきり抱き締められた。息が詰まる、まともに呼吸すら出来ず、すぐそこにある渚さんの髪から微かにシャンプーの香りだけが感じられて、そのまま意識が彼方遠くへ旅立つかどうか、
「……これ以上、……見んな」
低い、嗚咽の混じった声で渚さんはそう言う。
密着した身体からは、微かな震えが感じ取れた。
「……バカ野郎が。もう二度とこんなことすんな。……次やったら殺す。本当に殺すからな。絶対にするな。次やったら許さない。もう二度と喋ってやらない。ボコボコにしてやる。歩けなくしてやる。……わたしがお前に愛想尽かすとか、そんなことあるわけないだろ。次言ったら本当に許さないからな……。だから、……だから。………………だから、…………ありが、とう……」
最後の方はもう、ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
だけど僕は、それだけで満足だった。満足過ぎた。
ああ。どうしてこの人は、いつもこんなに。
あの時だって、今だって。どうしてこんなにも。
どうしてこんなにも、――素直な人なんだろう。
「日常編」
三年生の学年主任の盛山先生と言えば、泣く子も失禁するということで有名な、鬼教師であった。
噂によれば、盛山先生は格闘技全般で段を持っており、大学生の頃はほとんどの全国大会で上位入賞を果たしたことがあって、どれか一種の競技に絞っていれば、オリンピックの金メダルも夢じゃなかったらしい。そして今もなお鍛え続けているその身体は筋肉が盛り上がっていて、腕の太さで言えばその辺の男のふとももくらいはありそうである。確かその噂ではどこかの事業団体から破格の値段でトレーナーとしてスカウトされたこともあるらしいのだが、僕たちは二年生であるからして、盛山先生のそんな噂を耳にすることは数あれど、直接関わることなんてほとんど無かった。そしてこれからも無いだろうと思っていたし、事実、そのだったはずだ。
だから、二月に突入した第一週目のその日、いきなり盛山先生に生徒指導室に呼び出された時、意味がまったく判らなかった。悪いことなんてしたことがないし、やましいことも何も無い。もしかしたら階段で前を歩いていた上級生のスカートの中が気になってバレないように視線を上げていたことかもしれないのだが、それは男の性というものであり、先生も男であれば目を瞑ってくれて然るべきだと思う。
生徒指導室は将棋部の部室を一回り小さくした程度の広さしかなく、真ん中に安っぽいテーブルがひとつと、これまた安っぽい椅子がふたつ、向かい合うように置いてある。刑事ドラマでよく見る、取調室のような部屋である。ここでの良い噂なんてまったく聞いたことがないし、以前に学校で暴れていた不良が盛山先生にここへ連行された一時間後、泣きながら坊主になって出て来たという出来事は、生徒の間ではかなり有名な話である。このご時勢でも、盛山先生はきっと体罰上等を掲げているに違いなかった。
そんな盛山先生と、取調室のような生徒指導室で、二人きりになった。
意識せずとも身体が微かに震える。このまま殺されるんじゃないかと本気で思う。
目の前に座っている盛山先生の顔を見ることが出来ず、テーブルについていた黒い染みのようなものを必死で凝視していることでしかこの時間をやり過ごす術を知らなくて、
「――二年C組の中野真人。それはお前で間違いないな?」
「……はい」
これから一体何をされるのか。まさか取って食われはしないだろうが、いやでもこの盛山先生なら絶対に無いとは、
「急に呼び出して悪かったな。少しお前と話しをしたくてだな」
僕には無いですすみません本当にすみません許してくださいごめんなさい、
「……中野。えー……、あー、と。あのな。……うん。つまり、だな」
「……?」
どうも盛山先生の様子がおかしい。
おそるおそる視線を上げていって、この部屋に入って初めて盛山先生の顔をちゃんと見た。
盛山先生はどうしてか、少し困った顔をしていた。
僕は益々意味が判らなくて混乱していると、ようやっと決意が固まったのか、盛山先生は真っ直ぐに僕を見て、こう言った。
「嘉応渚。お前、その生徒を知ってるか?」
いきなり渚さんの名前が出て来て面食らう。
「え……? あ、いや。知って、ますけど……」
知ってるも何も、僕の彼女である。
すると盛山先生は、単刀直入に、本題を切り出してきた。
「近頃、いや、正確には去年の秋頃からだな。おれの耳に変な噂が入って来てた。あの嘉応が、下級生と付き合っているというものだ」
それが何か?、と素で思う。
「その下級生というのが、中野。お前か?」
「そうですけど……?」
隠すことでは無いので、素直に頷く。
すると盛山先生は、「そうか」と言った直後に、真顔でこう言った。
「まさかお前、何か弱みとか握られているんじゃないだろうな」
瞬間、頭の奥がすっと冷たくなったのがはっきりと判った。
震えが止まった。真っ直ぐに、盛山先生を見ることが出来た。
向けられた視線を真っ向から迎え撃った。
「……何が言いたいんですか」
「いや、ただおれはお前の心配をしてだな、つまり、」
「――ふざけないでください」
自分自身で、少し驚いた。
自分は、こんなにも冷たい声を出すことが出来るのだということを、初めて知った。
だけど。だけど止まらない。こいつは一体、何が言いたいのか。馬鹿にするのも大概にして欲しい。僕が馬鹿にされるのはいい。そんなのはもう慣れっこだ。屁とも思わない。だけど、渚さんのことを悪く言うことだけは許さない。何様のつもりか。こいつが一体、渚さんの何を知っているというのか。たかだか学年主任が、ろくに知らない奴が、渚さんを悪く言うな。
僕に腕力さえあったなら、きっとすぐにでもこいつに飛び掛っていたかもしれない。しかし、腕力が無くても、次にもしまた、こいつが渚さんを悪く言ったら、僕はきっと、自分を制御しない。飛び掛ってでもそれを止めるだろう。すぐに返り討ちに遭うことなんて明白だが、それでもただでは済まさない。ぼんくらにはぼんくらなりの戦い方というものがあるのだ、返り討ちにされたら泣き叫んで人を集めて、大声でチンコを揉まれたとでも叫べば、それ相応のダメージを与えることくらいは僕にだって、
「ああ、いや、すまん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。おれの言い方が悪かった」
慌てた様子で、盛山先生が首を振る、
「生徒の色恋沙汰に関しては、節度さえ守ればおれは何も言わん。個人の自由だ。ただな、嘉応の場合はちょっと例外でな」
盛山先生の言葉をひとつひとつ追い駆けていく。何か失言を吐こうものなら、すぐにでもその喉元に喰らいつく覚悟である。
しかしどうやら、話を聞くにつれて雲行きが判らなくなってきた。
「あいつの家庭環境はおれも把握してる。だからどうにかしてやりたかったんだが、当の本人が全部を拒絶する。三年間ずっと、どうにか出来ないかと思って試行錯誤してきたんだが、おれの力不足で、結局あいつを助けてやることが出来なかった。それに関しては、嘉応に対して本当に申し訳ないと思っている」
盛山先生の顔を、目を見ていて判った。
今の言葉に嘘なんて、ひとつもなかった。
「だけど、近頃のあいつは変わった。素行の悪さはもうどうしようもないが、それでも人間が違って見える。あいつの変わった時期が、ちょうどおれの耳にお前との噂が入って来た頃だ。何があったのかは個人のプライバシーだ、聞くことはしない。しかし、きっとお前があいつの何かを変えてくれたんだろう。だから今日、お前に言いたことがあって、呼び出したんだ」
盛山先生がテーブルに両手を着いて、額をぶつけるかのような勢いで頭を下げた。
「嘉応を救ってくれて、ありがとう」
正直、狼狽した。
極悪非道と噂の盛山先生が、ぼんくらの僕に対して頭を下げている。
何だかもういろいろなことが申し訳なくなって、僕は慌てて、
「っ、いえっ。そんな、いいですからっ。ほんとうっ、頭、上げてくださいっ」
全部が全部、僕の早とちりだった。何様のつもりなのかは僕自身だった。むしろ僕が土下座をするべきなのだ。
長い間頭を下げていた盛山先生が、ようやっと顔を上げた後、肩の荷が下りたかのような長い息を吐きながら、普段からはまったく想像もつかないかのような優しい顔で、いきなり、
「そう言えばな。嘉応あいつ、タバコ吸ってたろう?」
いきなり過ぎてドキッとする。確かに昔、渚さんはタバコを吸っていた。
そして渚さんは、まだ高校三年生だ。タバコを吸っていい年齢ではない。そのことを学年主任が知っているというのは、一大事だ。停学になってもおかしくないし、下手をすれば退学にだってなるかもしれない。
しかし、
「いえっ、でもっ、最近はもうずっと、渚さんはタバコなんて、」
あの日。僕と渚さんが出逢ったあの日以来、渚さんはタバコを止めた。
あの日以来、僕は渚さんが吸っているところを見たことがないし、タバコの臭いだってしない。隠れて吸っている可能性は完全には否定できないが、渚さんにとって、タバコはもう不必要なものだった。だから絶対に、渚さんは今、タバコを吸っていない。僕はそう断言できる。
だから盛山先生に対して弁明しようとした。したのに、言い出した本人は急に大声で笑い、
「知ってるよ。止めたんだろ、タバコ。冬休み前に一回、他の教師が無理矢理に嘉応の荷物検査したことがあったらしくてな。どうも授業中の嘉応の態度が気に入らないっていう、教師失格の理由からだ。腹癒せにタバコを取り出して処分しようとでも思ったんだろうな。だけど、嘉応の鞄からはタバコどころか、ライターすら見つからなかった。惨めなこったよ。ただ、問題はその後なんだが」
まるで昔の友人の面白話をするかのように、盛山先生は話していた。
「あの馬鹿、その教師を蹴り上げちまったらしくてな。さすがにそれはまずいって言うんで、おれが止めたんだが。大事にならないようにするの大変だったんぞ。喧嘩両成敗っていうことで校長に説明するの、どれだけ大変だったか。だからだな、中野。ここからはお前に対するお願いだ」
真っ直ぐにこちらを見て、盛山先生は真面目な顔をする。
「そういうことは、おれの方で何とかしてやる。何とかしてやるんだが。おれでもどうしようもないことがある」
だから、と盛山先生は言った。
「来週にある赤点者だけの最終テスト。あれであいつ赤点取ったら、本当に留年する。お前が、何とかしろ。どんな手を使ってでも、嘉応を卒業させてやれ」
◎
深く考えたことなんて、ただの一度も無かった。
よくよく思い返せばおかしな話である。高校三年生は冬休みに入ると同時に、そこから卒業式までは、ほとんど学校に来ることは無くなる。例外を言うのであれば、引き続き自主勉強をしたい真面目な生徒か、大学にスポーツ推薦を貰ったため、部活動の練習に参加している人くらいだ。しかしそれ加えてもう一つだけ、可能性がある。その可能性に該当するのが、渚さんだったという訳である。
僕はぼんくらだから、本来なら学校に来なくていいはずの渚さんが、どうして毎日のように学校に居るのかを、ほとんど考えたことがなかった。ただ素直に、寂しがり屋の渚さんのことだから、僕と一緒に居たいからそうしているんだと、勝手に思い込んでいた。いや、それもほんの少しはあったのかもしれないが、それでも毎日来たりはしないだろうから、それ以外に、学校へ来なければならない、もっと別の理由があったのだ。
それが、冬休みの後から約一ヶ月間続く、特別補習である。
この補習は生徒が留年せずにちゃんと進級、あるいは卒業出来るように設けられた、いわば救済処置の制度で、主に出席日数が足りなかったり、成績が悪かったりする生徒を対象に行われるもので、その一ヶ月間の補習内容の範囲が最終テストとして出題され、そこで赤点を免れれば、ある程度のことは大目に見られて進級や卒業をさせてくれるというその特別補習に、渚さんは見事に引っ掛かっていたのだ。
大失態だった。盛山先生に言われなければ、まったく知らないまま来週を迎えるところだった。
予想するに、渚さんはたぶんもうきっと、全部ダメだろう。付き合い始めてから渚さんは一日も学校を休んでいないが、それでもそれまでの出席日数は圧倒的に足らないだろうし、素行も悪いし、あんなんだからテストの点数だって決して良くはないだろうから、文句無しに役満が揃っているのだ。おそらくは一年と二年の時は何とか運良くそれを逃れていたのだろうが、今回はきっと特に酷いに違いない、だからこそ、この期に及んで盛山先生は、僕にああ言ったのだ。
生徒指導室を飛び出した僕は、まるで弾丸のように廊下を突っ走った。生まれて初めて本気で走ったかもしれない。それくらい必死に、昇降口へ向かった。飛び込んだ昇降口の入り口には、いつものように渚さんがムスッとした顔で立っていて、走って来たこちらに気づいた瞬間に、「遅い。何してたの」と文句を言うが、そんなものに構っていられない。問答無用でその手を引っ掴むと、驚く渚さんの言葉なんて聞く耳も持たず、ぐいぐいと引っ張って行く。
文句を言いながら手も出る足も出る渚さんの攻撃を必死に耐えながら、死に物狂いで部室まで引っ張り込む。状況の理解が出来ていない渚さんは、戸惑いながらも僕を見つめていて、そして僕はそんな渚さんの両肩に手を思いっきりついて、至近距離から真っ直ぐにその瞳を見た。
初めて、渚さんが僕に対して怯えた目をしていた。そんな渚さんも可愛いが、それどころじゃない。
「――渚さん」
低い声でそう言うと、渚さんはさらに狼狽しつつも、
「な、なんだよ……?」
言い切った。
「来週のテスト。赤点にならない自信はどれくらいありますか?」
その時に見せた渚さんの瞳の動きで、僕はすべてを理解した。
ダメだ。これじゃダメだ。
しかしそこはやはり渚さんで、状況をすぐに理解したと同時に急に平静を取り繕い、
「問題ない。お前には関係ない」
「関係あります」
またもや言い切る僕に、渚さんは再び狼狽する。その瞳を真っ向から見据え、
「いいですか。渚さんがもし万が一に留年したら、僕と同学年になるんですよ。それでもいいんですか」
「いっ、いいじゃねえかそれならそれでっ。それならあと一年また一緒だろうがっ」
たぶん、狼狽のし過ぎで渚さん自身、今に自分が何を言っているのか理解出来ていないのだと思う。
だから僕は譲らない。
「ダメです。絶対に許しません。もし万が一にでも留年したら、渚さん」
「なんだよ……?」
「別れたりは絶対にしませんが、一年間、僕は渚さんと口を利きません。いいですね?」
「――え」
心が痛んだ。
まさかそんな思いつきの一言で、世界の終わりのような顔をされるとは思っていなかった。
だけど、ここは心を鬼にしてでも何とかしなければならない。渚さんと同学年の学校生活。それはそれはきっと楽しいのだろう。しかし、それはやっぱりダメだ。そういうことを望んじゃいけない。それに僕たちが同学年になったら、僕と渚さんの序列は無くなって、きっとタメ口とかも利いてよくなるはずで、そうなったら「渚。一緒に帰るぞ」なんて言う僕を想像すると少しゾクゾクしたりするけど、それとこれとはやはり別問題であるからして、今にやるべきことはひとつ、渚さんに勉強を叩き込むことであるのだ。
未だ世界の終わりのような顔をする渚さんを真っ直ぐに見つめて、僕は言った。
「任せてください。僕に考えが、あります」
三馬鹿。
馬鹿が三人揃っているから三馬鹿。いつかに渚さんがそう命名した。本来は僕も含めて四馬鹿のはずなのだが、渚さんが命名したおかげで、めでたく僕は除外されていて、だから三馬鹿。
しかし、侮ってはならないことがある。馬鹿とは言え、西岡のAVの知識は日本トップレベルだろうし、杉田の人を羨む際に生じる嫉妬は周囲を巻き込んでブルーにさせる。まったく役に立たないけど、ただの馬鹿ではないのである。いや今はそんな馬鹿の話はどうでもいいのだが、本当に侮ってはならないのが、井上である。僕らと同類の井上だが、こいつだけひとり、実は毛並みが違うのだ。
意外なことにこの井上、勉強がかなり出来る。成績はいつも学年で上位五番以内に位置する。ただ、周りの人間からは「井上って誰だよ」とか密かに言われていたりする訳だが、今は関係無いので放っておくことにして、つまりはその井上に、渚さんの講師を依頼したのである。生憎として僕の成績は中の中、あるいは中の下だから、人様に、おまけに上級生に対して勉強を教えることなんて夢のまた夢だった。
そんな訳で、場所は変わらず将棋部の部室。
コタツを囲んで窓際に僕と渚さん、正面に井上、左右に西岡と杉田が位置する。井上しか呼んでいないのに、話を聞きつけた残りの二人は「面白そうだ」と言って勝手に付いてきたらしい。邪魔をしないなら別にどうでもいいので敢えて何も言わなかったが、少しでも不審な動きを見せたら即刻叩き出す。
左右の二人は無視して、僕は正面の井上に視線を向けた。
「話した通りだ井上。渚さんに勉強を教えてくれないか」
「それは別にいいんだけど。ええっと、嘉応さん。試験範囲っていま、判りますか?」
この状況が気に食わないのだろう、いつも以上にムスっとしたままの渚さんは、その言葉を聞いてもすぐには動かなかった。だけど隣から僕がじっと見つめていると、やがて観念したように大きなため息を吐きながら、「……わかったよ」と小さく言って、鞄をごそごそやった後に、一枚のプリントを取り出して、コタツの上に置いた。
全員が同じようにそれを覗き込む。各種教科の試験範囲の書かれたプリントだった。ただ、それはもちろん三年生用の試験範囲であって、まだ習っていない僕らはちんぷんかんぷんだったが、秀才井上だけは違った。そのプリントを手に取った井上は、上から順にざっと読み流してから、「うん」とつぶやいた。
「これならたぶん大丈夫。いける」
「おお、さすが井上!」と僕と西岡と杉田が歓声を上げる。
「嘉応さん。まずは正直に言ってください。この範囲の成績は、どのくらいですか?」
ムスッとした顔が、さらにムスッとなった。言いたくない、と言っているのが手に取るように判る。
しかしやっぱり隣でじっと見つめていると、渚さんは観念して再びに鞄をごそごそしてから、今度は数枚の紙を取り出して、コタツの上に並べた。どうやら最近に行われた、その範囲の模擬テストらしい。各答案の上には各種教科名が大きくあって、その斜め下の氏名の欄に「嘉応 渚」と殴り書きされており、さらにその横に大きく赤で点数が書いてある。
赤点のラインは確か四十点。その数枚の答案の平均点は、多く見積もっても、どう贔屓目に言っても、二十点台だった。悪いものだと一桁のものもあった。
うわあ……、と全員が心で思ったがしかし、何とか声には出さなかったが、それでも顔と雰囲気には出ていたのだろう、ついに耐え切れなくなった渚さんが急に立ち上がり、猛烈な怒気と一緒にただ一言だけ言った。
「帰るっ!」
「ちょっ、ちょちょちょっ、待ってください渚さんごめんなさいっ」
歩き出そうとしていた渚さんの手を掴んで必死に引き止める、
「すみませんっ、ちょっとびっくりしただけなんですっ。謝りますからっ、ねっ、ねっ?」
歩みの止まった渚さんが顔を赤くしながらも何とか全部を飲み込んでくれて、
「大丈夫っすよ嘉応さん。人間は勉強出来なくても何とかなりますよ」と杉田が余計な一言を言って、「渚さんならきっとAV業界で大人気に、」と言いかけた西岡の台詞は最後まで紡げなかった。目にも止まらぬ前蹴りが杉田を吹っ飛ばして、そのまま軌道を変えた回し蹴りが西岡の首に直撃する。
蛙が潰れたような声を出してひっくり返った二人に対し、渚さんが叫ぶ。
「しょうがねえだろうがっ! 今まで勉強とかしたことほとんどねえんだよっ! あとお前っ! もう一回わたしの名前を馴れ馴れしく呼んでみろっ! 殺すからなっ!」
取り敢えず気絶した二人は引き摺って廊下に放り出す。
肩で息をする渚さんを何とか宥めていると、そんな状況でも無心に悲惨な答案用紙を眺めていた井上が、
「嘉応さん。この答案の試験問題用紙、ありますか? あと、それ以外に最近配られたプリントとか。何でもいいので、持ってるものを全部、ここに出してください」
渚さんの鞄から出て来たいろいろなプリント十数枚を、本当に見ているのかと疑いたくなるような速度で流し読みして行く井上。それをじっと見守る僕と、未だイライラの取れない顔をしている渚さん。どれくらいそうしていただろう、やがてすべてを読み終えた井上は、三十秒間だけ何も無い机の一点を見つめてぶつぶつと呟いた後に、ふっと顔を上げてから「やっぱり」と言った。
「嘉応さん、大丈夫です。いけます。この特別補習の問題、初めて見ましたけど良く出来てます。全部の科目の最重要基礎の要点と、それをほんの少しだけ複雑にした応用問題。それだけしかありませんから、かなり優しいです。でも、それだけでも憶えておけば、後は本人の頑張り次第ですが、それ以上にちゃんと吸い込めるように、きっちり整理されてる。だからこそ、その要点さえまずしっかり理解すれば、少なくとも赤点ラインの四十点は取ることが可能になっています」
井上の言っていることがよく判らない僕は、僅かに考えつつも、
「つまり?」
井上が笑った。
「つまり、――楽勝ってこと」
その日から、渚さんに対する特別授業が始まった。
入り口に「杉田・西岡 立入禁止」と書かれた紙が張り出された将棋部の部室で、放課後になると講師井上による特別講義が実施された。生徒は渚さんと僕。せっかくなので渚さんと並んで井上の講義を聞くことにしたのだが、驚いたことにこの井上、勉強も出来るが人に教えることも抜群に上手かった。まだ授業で習っていない範囲なのにも関わらず、ぼんくらな僕でもすらすらと頭に入って来るような、魅力的な講義を行った。
最初の方はイライラしていた渚さんだったが、井上の講義を聞いている内に次第に理解出来てきたようで、問題がひとつ解ける度にイライラがひとつ消えて行って、最後の方は不服そうではあったが、ほんのちょっぴりだけ、嬉しそうな顔を見せる時があった。そうなってくると後は早かった。
基礎を理解した渚さんは、みるみる内に急成長を成し遂げ、試験前日には井上の用意した模擬テストで、全教科の平均が六十点という、つい数日前からでは考えれない驚異的な高得点を叩き出していた。
試験の当日、僕と井上は二人で渚さんを見送った。気が気ではない気持ちで自分たちの授業を切り抜け、放課後になると同時に部室へすぐさま直行して、そこでテストの結果を持って待ったいた渚さんと合流し、おそるおそる結果を尋ねると、渚さんはいつものようにムスっとしたまま、しかしそれでもその奥に確かな嬉しさを見せながら、自慢げに答案用紙をコタツの上に並べた。
全教科、余裕で四十点を超えていた。平均得点は過去最高の七十五点だった。
ガッツポーズをして、まるで甲子園を決めた野球部のように喜ぶ僕と井上に対して、渚さんは照れ臭そうにムスッとしたまま、しかしそれでも嬉しそうに「喜び過ぎだろ」と言って小さく笑った。
これで、渚さんの卒業が決定した。卒業式は三月だ。
そして、ぼんくらな僕はやっとそのことに気づいた。
渚さんとの学校生活が、後一ヶ月足らずしかないことに。
「バレンタイン編」
「王手。たぶんこれで詰み」
井上のその一言で、僕と西岡は「おおーっ」と驚きの声を上げて、杉田は「嘘だッ、まだ何か、何かあるに決まってる!」と大声で喚いてうるさい。
やることがあんまりに無くて暇だったため、せっかくだから部活らしいことをしようということで、発足から約一年の時を経て初めて、僕ら将棋部は、将棋をやってみた。経験者、というかルールを知っている杉田が皆に説明して、最初はやいのやいのと皆で楽しんでいたのだが、次第に経験者もどきの杉田が調子に乗り始めて、二歩とかを平気でやるど素人の僕たちに対して無双をし始めたのである。その様に本気で腹が立って何度も挑んだのだが、その度に返り討ちにされ、そうすればそうするほど杉田は天狗になっていく。やがて僕と西岡は呆れ返り、打つことをしなくなった時、救世主井上が君臨したのである。
先週の講師井上にて、こいつの頭の良さは本当に証明された。その井上が本気になって将棋を覚えたら、所詮は凡人の経験者もどきの杉田なぞ、ハナクソみたいなものである。一戦目こそは接戦で井上が負けてしまったが、コツを掴んだ二戦目以降は、既に井上の独壇場であった。そしてつい先ほど、五戦目の勝負に決着が着いた。井上はもはや、自主的に飛車落ち、というよりは、飛車を自ら一手も動かさず、なおかつ取られはいけないという自己ルールを掲げた上で、勝利を収めたのである。完全勝利であった。
僕と西岡はさっきまでの杉田に苛立っていたことから、盤面を見つめて「嘘だ……」と繰り返す杉田に向かって、好き放題に「やーい、へたくそー」「飛車すら使わせられずに負けてやんのー」「なかなかないぞこんな完封」「実況の中野さん、今の戦況はどう見ますか?」「いやー、もはや力量の差は歴然でしょう。所詮は素人ですよ」などと言いたい放題していると、ついにキレた杉田が僕たちに飛び掛ってきて、不細工な取っ組み合いの喧嘩が始まった。
喧嘩もひと段落した頃、皆でコタツを囲みながらいつものようにダラダラとしていると、ふと井上が思い出したかのように、
「そう言えば。君たち今日は何の日か知っているのか」
その一言で、部室にピンと緊張の糸が張った。
今日が何の日かなんて、ぼんくらな僕だって知っている。男なら誰だって、心の底では少しだけでも期待する日である。朝に登校した下駄箱であったり、辿り着いた教室の机の引き出しの中だったり、あるいは席を外して帰って来た後の鞄の中であったり、そういうことを潜在的な意識下で意識てしまう日。つまりはそう、今日は――バレンタインなのである。
だけど。だけど、だ。
「誰か、チョ」
「黙れバカモノ!」
井上の言葉を明確に遮って、杉田が叫ぶ。
その場に立ち上がって拳を握り、震えるような声で、
「我ら男四重士にそんな浮ついたものなど必要ないのであるッ。女から施しを受けるなど恥を知れッ。所詮はチョコレートメーカーと悪しきマスコミメディアに踊らされた馬鹿どもが勝手に始めたものではないかッ。もともとはキリストが死んだ日だぞッ。そんな日にチョコを食うなどなんて不謹慎なッ。我ら男四重士の中にそんなことを考える裏切り者など一人も、」
そう言い続けていた杉田の視線が、僕に向けられて止まった。
瞬間、まるで世界が破滅したかのような顔をして、
「……居たッ。裏切り者が居たぞッ。こいつは我ら男の敵だッ! 殺せッ! 火炙りの刑に処せッ! 一族末代まで皆殺しにするのだッ!」
わーわーと叫んでうるさい杉田を無視して、井上は僕に視線を向けながら、
「嘉応さんからチョコ貰ったの?」
と。素直に当然の疑問を投げ掛けてきた。
それに対して僕は、僅かに言葉を濁しながら、説明した。
勿論僕だって、今日のこの日を楽しみにしていた。当然のように、渚さんからチョコが貰えるのだと思い込んでいた。だから昨日の夜にでも、学校へ行くだとか、あるいはどこかで待ち合わせて会おうだとか、そういう連絡が来るものだと思っていたのだ。だけどいつまで経っても連絡は来なくて、だけど自分から連絡するのは小さな男のプライドが許さなくて、悶々としたまま今日に至るのである。今までの自分を棚に上げて随分と偉そうだと自分でも思うのだが、それでもやっぱり白状すれば渚さんからのチョコはものすごく欲しいし、それが生まれて初めてのバレンタインチョコだし、いやそれ以前に純粋に、渚さんに会いたかった。
先週の最終テストで見事合格点を叩き出した渚さんは、それ以降、ほとんど学校へ来なくなった。ただ連絡はくれるし、土日は僕の家や近場にデートなどをしてはいるのだが、平日に会うことがめっきり少なくなった。それが無性に寂しくて、そう思えば思うほど、僕は自分がどれだけ渚さんに今まで寂しい思いをさせてきたのかを痛感した。おまけに、あと一ヶ月足らずで渚さんはこの学校を卒業するのである、そうなったら会う機会なんてもっとずっと減ってしまうはずだった。だけど僕はやっぱりぼんくらだから、自分からもっと会おうであったり、チョコが欲しいであったりを言う一歩を、どうしても踏み出せないのだった。
そんなようなことを拙く伝えると、杉田と西岡は満面の笑みで、「もうそれは振られる一歩手前だな」「愛想尽かされたんだよ」などと傷口を容赦なく抉ってくる。いつもであれば反撃を試みるのだが、渚さんに全然会えなくなったダメージは思いの他大きく、抉られた傷口からは止め処なく不安が溢れて僕を支配していく。
やっぱりもう、下らないプライド云々なんてものは捨てて、素直に渚さんに会いたいと連絡することが、僕が今に一番しなければならないことなのではな
瞬間、
沈黙を守っていた部室のドアが、破壊されんばかりの勢いで開かれた。
いきなり過ぎて全員が飛び上がるような勢いで扉を振り返った時、そこにはやっぱり、いつものようにムスっとした渚さんが居た。渚さんに会いた過ぎて幻覚を見たのではないかと思ってしまうくらい、いきなりの登場でしばし言葉を失ってしまったが、そこにいるのはやっぱり本物の渚さんで、思わず少しだけ泣いてしまいたくなった。
「渚さん!」
そう叫ぶように立ち上がると、渚さんは小さく、「……おう」と言った。
すぐに渚さんの傍にまで走り寄ると、渚さんはそっぽを向きながら、手に持っていた大き目の紙袋をいきなり差し出してきた。
「ん」
「えっ」
いきなり過ぎて戸惑ったが、それでもまさか、これって、
「……チョコ?」
それだけ尋ねると、渚さんはほんの少しだけ顔を赤くしながら「決まってんだろ」と、小さく言った。
たぶん、ここに誰もいなかったら僕は、泣きながら服を脱ぎ散らかした後、裸で阿波踊りをしていたかもしれない。それくらい嬉しかった。このタイミングで渚さんが来て、そしてチョコをくれたのだというのだから、もはやこれ以上は望めない。もうこのまま世界が滅亡したっていいくらいだ。
お礼すら言えない精神状況であうあうしていたら、渚さんは逆の手に持っていた小さ目の袋を掲げ、
「おい、井上」
それだけ言って、その紙袋をコタツに座っていた井上に対して放り投げた。
面食らった井上だが、それでも慌てて何とか袋をキャッチする。そしてまじまじと袋の中身を確かめて、驚きの表情で渚さんに視線を移した後、
「……もしかして、これ」
渚さんは照れ臭そうに、
「勘違いすんなよ。お前のは義理だからな。……この前のお礼だよ。お前には助けてもらったし。その…………、……ありがとう」
たぶんきっと、井上も女の子からチョコを貰うなんてことは初めてだったに違いない。
嬉しかったのだろう、顔を綻ばせながら、
「どうもありがとうございます。……でも、僕のが義理ってことは、そっちのはもちろん……」
良い誘導であった。まんまと乗せられた渚さんが、ほとんど反射で「本命に決まってんだろ」と吐き捨てるかのように言って、そして言ってから初めて自分の口から出た言葉の意味に気づいて赤面する。
僕はもう、死んでもいいと思った。誰かこの気持ちを抱いたまま、僕を殺してくれとすら思った。
天にも昇る気分の僕と、初めてのチョコでほくほくの井上。
そうなってくると面白くないのは杉田と西岡である。二人は揃って声を荒げ、「えーっ、嘉応さんずりーよおれは!? おれには!?」「ひーき! ひーき! 僕にもチョコー!」と攻撃を繰り広げるが、所詮はハナクソ二匹の攻撃である、魔王である渚さんの「あぁ?」の一言の前にたちまち撃沈してしまった。
◎
「ただいま」
玄関を開けながら言ったその一言で、台所で作業をしていたと思わしき祖母が廊下に顔を出し、
「まーくん、おかえ……あらぁ、渚さん。いらっしゃい」
僕の隣にいた渚さんに気づいて優しく笑う。
渚さんは小さく頭を下げながら、
「こんにちは。すみません、お邪魔します」
ぱたぱたとこちらに歩み寄って来た祖母は僕になんてほとんど目もくれず、
「よかったら今日も夕飯食べていかないかい。お爺さんも夕方には帰って来ると思うんだけど」
「……ご迷惑じゃないんですか?」
「とんでもないわよ。いつでも大歓迎よ」
「すみません。では、頂きます」
あの日以来、祖母と渚さんは随分と仲良くなった。無論、祖父とも仲が良い。きっとご飯を作ってもろくに美味しいなんて言わず、酒なんて飲もうものなら一口で即座にぐでんぐでんになってしまうぼんくらな孫より、一品一品に対して美味しいと言ったり、祖父に負けないくらいにがんがん酒を飲む渚さんの方が、二人にとっては楽しいのかもしれない。皆が仲良くなることは大いに結構であるのだが、そう思うたび、僕はものすごいアフェー感に包まれて泣きたくなってしまうのだけれども。
そうこうしていると、ようやっと祖母は改めて僕に視線を移して、唐突に怪訝な顔をする。
「……まーくん。どうしたの、変な顔して」
そう言われてもきっと仕方がないんだろうな、と僕は自分自身で思う。
部室から家に帰るまで、そして今もまだ、僕はきっと、情けないくらいだらしない顔をしているのだろう。どうしても顔が緩んでしまった。あのどん底から一気に天国まで昇った感動は、ちょっとやそっとじゃ抜けなくて、渚さんにまで「お前、気持ち悪いな」と言われてしまうくらい、もうどうしようもないほどの幸福感に包まれていた。
二人揃って階段を上がり、いつものように僕の部屋へ向かう。
年明けから、この部屋は随分と綺麗になったと思う。元旦の時のような失態をもう二度と見せないように、いつに渚さんが来てもいいように、常に綺麗に保つことを常日頃から心掛けるようになった。もちろん、「見られてはいけないモノ」はベットの下なんて無防備な場所ではなく、本当に絶対に泥棒にだって見つからないであろう場所に隠してある。
部屋に辿り着いた渚さんが着込んでいたコートを脱いだので、いつものようにそれを受け取ってハンガーに掛ける。渚さんの私服はやっぱりそれなりに派手で、耐性のない僕は時々目のやり場に困るわけだけれども、それでも時折はバレないようにこそこそとその短いスカートから見え隠れする足とかが気になったり、今日はいつもより一段と開けた胸元とかにも自然と目がいったりして、
「――あ」
そこで初めて気づいた。
僕が気づいたことに気づいた渚さんが、ほんの少しだけ苦笑する。
「……やっと気づいた」
「それ……」
いつもより一段と開けた胸元に見える、小さな十字架のついたネックレス。
見覚えがある、どころの話ではない。渚さんの誕生日に僕があげた、プレゼントである。
渚さんは右手で十字架をそっと触りながら、
「あれからちゃんと、毎日つけてるんだぞ。なのにお前、全然気づかないから」
心の底では密かに思っていた。
あのプレゼントを、渚さんは気に入ってくれているんだろうか、と。
いくら冬で厚着であったとは言え、気づける機会はいくらでもあったはずだった。なのに僕はぼんくらだから、じろじろ胸元を見てはいけないと格好つけていたことから、そのことに全然気づけなかった。だからきっと、業を煮やした渚さんが、今日はわざと胸元の開けた服を着てきてくれたのであろう。どこまでも気を遣わせて申し訳なくなってくるが、それ以上に、
今日は本当に、いいことしか起きない日だ。今日という日は、どれだけ幸せが続くんだろうか。
ベットに座った渚さんは、十字架を優しく触っていた。
いつも。いつもいつもいつも、渚さんはいつだって僕に対して、素直に接してくれていた。
だったら。だったら今日くらいは、僕も素直になるべきなのだ。
渚さんの前に正座する。真っ直ぐに渚さんを見上げて、言った。
「……渚さん」
改まって言う僕に僅かに戸惑いながらも、
「な、なんだよ?」
唐突に言い切った。
「僕は、渚さんのことが好きです。大好きです」
瞬間、
僕ではなく、渚さんの時が止まった。世界が止まった。息も止まって、きっと心臓も止まっていたかもしれない。だけどそれはほんの一瞬で、しかし僕の放った一言は、渚さんを平静を砕くのには十分過ぎた。
「――、っ」
言葉の意味を理解した時にはもう、渚さんの顔は真っ赤になっていて、手の甲で口元を押さえながら、
「おまっ……、きゅっ、急になん、……っ」
ああ。どうしてこの人は、こんなにも素直なんだろう。
ああ。どうしてこの人は、こんなにも可愛いのだろう。
だからこそ、僕は笑う。
「いつも、こんな僕に気を遣ってくれて、ありがとうございます。僕なんかのためにいろいろしてくれて、本当に僕は嬉しいです。実を言うと、ずっと渚さんに会いたかったんです。それなのに僕は馬鹿だから、自分からなかなか連絡出来ませんでした。そんな時、今日も渚さんの方から来てくれた。おまけに、本当にチョコまでくれた。僕がどんなに嬉しかったか。僕は、貴女と会えて、幸せです。今なら心から、そう言えます」
こちらを見る渚さんの瞳が大きく揺れ動く。何か言葉を言おうとするのだが、しかしそれはまったく声にはならなくて、戸惑った末に取った行動は、ベットに倒れ込んでそっぽを向くことだった。倒れ込んだ渚さんはしばらくの間手足をバタバタ動かしていたが、次第にその動きが弱まっていき、ようやっと少しだけ平静を取り戻したのか、こちらには一切視線を向けず沈黙してしまった。
「あの、渚さ――」
「もういいっ」
僕の呼び掛けに対して、渚さんは叫ぶようにそう言って、
「……もういいよ、わかった、わかったから。言わなくていい。それ以上言ったら殺す。あとこっち見んな。絶対こっち見んな。絶対の絶対にこっち見んな。あっち向いてろ」
胸の奥から笑いが込み上げてきた。
こんな反応をしてくれるなら、僕はもっと素直になるべきだったのだ。
僕も寂しくなったら、素直にその気持ちを伝えよう。迷惑かもしれないだとか、ちっぽけな男のプライドだとか、そういうことはひとまず考えないようにするべきなのだ。僕だってもう少しだけ、自分にわがままになったって、きっと罰は当たらないのだろう。好きなら好きと言って、会いたいなら会いたいと伝える。これが、
――……ああ、そうか。
これが、「そう」なのだ。
僕が、僕たちがあの日。あの世界の終わりあの場所で求めたモノの答え。これがきっと、その答えなのだ。
だから、僕は。だから、渚さんは。
ああ、そうか。だから――、
「………………あの、さ」
いつかのように、渚さんがベットに倒れ込んでそっぽを向いたまま、ぽつりと言葉を漏らした。
「…………嫌じゃなかったら、なんだけどさ」
随分遠慮がちに言う渚さんの言葉を、ただ待った。
そして渚さんは、言った。
「……明日。…………わたしの家に、…………来て、くれないか…………」
「……………………………………え?」
「兄貴編」
Tシャツとパンツは新しいモノを用意した。
身体を清潔に保つため、夜に二回と朝に一回の計三回も風呂に入った。
鼻毛も出ていないかチェックしたし、爪も念入りに切った。
そして一晩中悩んだ、悩んで悩んで悩んで悩んで、きっと白髪が五本くらい増えるほど悩んだ結果、家を抜け出して夜中のコンビニに向かい、男店員であることを確認した上、人生初となる、「オトコノタシナミ」を購入した。デモンストレーションとして一回付けてみて、とりあえず本番用に一つと、予備としてもう二つを財布に忍ばせた。
悶々としながら夜は過ぎ去って、あっという間に次の日になる。ほとんど眠れないまま学校へ行って、だけど授業を聞いている内に眠れなかった反動が一気に押し寄せて来て、うっかり居眠りをしたら先生に怒られてしまった。最初の方はそんな調子を三馬鹿からもからかわれていたが、あまりに僕が上の空だから、最後には井上だけではなく、杉田と西岡にまで本気で心配された。
放課後になると同時に、部室に集まろうと言う三馬鹿に対し、僕はたた一言だけこう告げる。
「……僕は今日。大人の階段を登るかもしれないんだ」
頭の上に「?」を浮かべる三馬鹿を残して、僕はひとり、決戦の地へと向かった。
僕の家と渚さんの家の位置関係は、学校を基点として、ちょうど「Y」の字みたいな形に枝分かれしている。二人が始めて出逢ったあの公園は、その「Y」の分かれ目のちょうどの真ん中くらいである。いつもと同じ帰宅路を歩いて、しかし途中でいつもとは違う道へ歩き出す。
渚さんの家に行く。半年ほど渚さんと付き合っているのだが、これが二度目の来訪であった。初めて渚さんの家に行ったのは、渚さんと初めて出逢った次の日のことである。まだ渚さんと付き合っていなかった頃の話。まだ渚さんの瞳に殺意が宿っていた頃の話。渚さんの家に行くのは、それ以来の話である。そしてあの時と今では、状況が違うのだ。
あの頃はまだ、僕たちは付き合っていなかった。
だけど今は、僕たちは付き合っている。
ということは、つまり。誰も居ない家に、僕と渚さん、二人だけという訳だ。僕の部屋で二人きり、という状況とは訳が違う。なぜなら部屋には二人だが、家には祖父と祖母がいるからだ。しかし渚さんの家として見るのであれば、他には誰も居ない。だから、つまり。そんなところに付き合っている二人が一緒に居れば、それはもう、必然的に、そういうアレだって起こってもおかしくない訳で、そうなったら僕も曲りなりにも男なのである、腹を決めるべきなのだ。そのためにTシャツとパンツは新しいのにしたし、風呂に三回も入ったし、鼻毛もチェックしたし爪も切ったし、「オトコノタシナミ」だって買った。臨戦態勢は整っているはずなのである。
冷め遣らぬ高揚を胸に抱いたまま、僕は着実に一歩を踏み締める。
上手に出来るだろうか。失敗しないだろうか。そんな下心に塗れた思考ばかりが溢れ出す。だけどやっぱりやるべきことはもうやったから、後は腹を決めるだけなのだ。ここまで来て退いたら、もともと廃っていた男が本当に見るも無残なモノになってしまう。ここで逃げ帰ろうものなら、それこそチンコを切り落とされて女になれと命令されても文句は言えないであろう。
そうこうしている内に、決戦の地へと僕は辿り着いた。
目の前にあるのは、一軒の、少しだけ古い感じのする二階建てのアパートだった。このアパートの二階の突き当りが、渚さんの部屋である。前に来た時のように階段を上がって、そのまま突き当りまで歩いて行く。部屋の前で立ち止まり、インターフォンを押す手がほんの少しだけ震えるが、女々しい自分とは今日で決別するのだと意を決し、無機質な釦を押し込んだ。
控え目の呼び出し音が鳴って、中から人の動く気配が微かに伝わり、十秒くらいでドアの鍵が解錠されて、押し開かれたドアから顔を覗かせたのは、やっぱりムスっとした顔をした渚さんだった。
「こ、こんにちは」
「……おう」
何とかそれだけ挨拶したが、それ以上が続かなくてどうしようかと思っていると、ほんの少しだけ瞳の中に戸惑いを残した渚さんがドアから身体を離し、
「入っていいよ」
部屋の中に引っ込んで行く渚さんにつられるように、僕も部屋へと入って行く。
渚さんの部屋は、1Kの間取りだった。入ってすぐの短い廊下の左にトイレがあって、右に洗面所とお風呂。その横に小さな窪みがあってそこに洗濯機が置いてあり、その向かいがクローゼットになっている。廊下を抜けると大体八畳くらいの部屋があって、そこが主な居住スペースとなっている。
そこへ足を踏み入れた時、半年前に見た光景が僕の脳裏にフラッシュバックした。
閉め切られた黒いカーテンと、剥き出しの電球が半分切れかけの薄暗い照明。充満したタバコの臭いと、そこらじゅうに転がっていたアルコールの缶。何個ものゴミ袋が無造作に部屋の片隅に置かれていて、床には脱ぎ散らかされた服や、コンビニの弁当容器などが散らばっていて、足の踏み場なんてほとんど無かった。そこはかつて、渚さんの心そのものの場所だった。人間らしい生活なんて、そこには一欠けらだって無かった。この僕にだって、それが異常な光景なんだということに気づけるくらい、その部屋は異常だったのだ。
しかし、半年後に訪れたこの部屋には、見違えるような光景が広がっていた。
閉め切られていた黒いカーテンは開け放たれ、綺麗な模様のついた淡い白色になっており、剥き出しだった電球は取り払われて丸型の少しお洒落な電気に取り替えられていた。充満していたタバコの臭いは一切消えていて、女の子の部屋らしい良い匂いがする。アルコールの缶なんてひとつも見当たらないが、ふと見た台所に日本酒の瓶が置いてあることにはまぁ目を瞑る。床に散らかっていた服なんてまったく無いし、もちろんコンビニ弁当の弁当容器だってどこを探したって無い。綺麗になったその部屋の中央には小さなテーブルがひとつあって、その下にはねずみ色のカーペットが敷かれており、壁際にパイプベットがあって、その足元には大きめの箪笥があった。
この部屋が渚さんの心だとするのであれば、本当に見違えるような変貌を遂げていた。
女の子らしい部屋では無かった。生活する上で、ほとんど必要最低限の物しか無かった。それでも、それがやっぱり渚さんらしくて、この部屋が渚さんの心だとするのであれば、この通りなのだと思った。今の渚さんに、かつての影はもう無い。この部屋の変貌は、その象徴なのだ。
あまりの違いに感動を通り越して呆然としていると、渚さんは僕の部屋と同じようにベットに腰掛けた後、テーブルの傍に置いてあった背凭れのついた小さな椅子に視線を移しながら、「そこ座っていいよ」と言った。まるでロボットのようにその言葉に従って、背凭れがついているその椅子へ正座する。まるで拾われたばかりの猫のように、部屋の中をきょろきょろと見回す。新鮮だった。こんなにも開放的な部屋になっているなんて、正直想像すらしていなかった。なんかいいなぁ、渚さんらしいなぁ、と部屋中をくまなく見ていると、唐突に頭をコツンと蹴られた。
「じろじろ見んな」
「あ、すみません。ちょっと意外だったっていうか、その、」
「なんだよ」
ベットに座る渚さんを見つめて、笑った。
「綺麗になりましたね。渚さんらしい、良い部屋だと思います」
「……汚い部屋に入れて悪かったな」
それだけ言って、不服そうな顔でそっぽを向く渚さん。でもやっぱりその横顔は、少し照れ臭そうだった。
新鮮だった。ああ、なんかこういうのいいなぁ、としみじみ思う。二人っきりの空間。二人だけの場所。うん、こういうのはいいな、と僕はもう一度だけ思う。
二人揃って、それから特に何をするでもなく、そのままで居た。なぜだか今だけは、会話なんて要らないのだと思った。きっと渚さんもそう思ったからこそ、何も言わないのだ。
窓の外から刺す夕日が部屋を照らす。外の音が微かな雑音となって耳に届く。
心地良い空間だった。こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
どれくらいそうしていただろう、やがて渚さんがふと、
「……何か飲む? お茶くらいしかないと思うけど」
そう言いながらベットから立ち上がり、キッチンの横にあった冷蔵庫へ向かって歩き出して、
「え、ああ、それなら僕が自分で、」
僕も一緒のように立ち上がった時、長時間ずっと正座をしていた反動が来た。足が痺れていたと気づいた時には遅かった。
そこから幾つかのことが連鎖的に起こった。僕の情けない声に気づいた渚さんが振り返り、倒れそうになっていた僕を反射的に支えようとする。差し出された腕を無意識の内に掴んだ瞬間、足から力が抜けて僕の身体のバランスが木っ端微塵に砕け散った。倒れる一瞬で床に渚さんを倒す訳には行かないと思い、視界の隅に入ったベットの方へ何とか身体を捻った時にはもう、同じことを思っていたであろう渚さんに、身体毎思いっきり引っ張られていた。成す術なく、そのまま二人揃ってベットへ倒れ込んだ。
下の階から苦情が来てもおかしくないくらいの音が鳴って、何とか状況を理解して、未だ力の入らない足をそのままに、ベットに手をついてその身を起こし、
「――」
「――」
想定すらしていなかった事態に、頭が真っ白になる。
渚さんに怒られる時と同じくらいの距離だった。それくらいすぐそこに、渚さんの顔があった。距離感もそうだが、体勢もまずかった。まるで僕が渚さんを押し倒すような形で、二人揃ってベットに倒れ込んでいた。
すぐそこに、きっと僕と同じような表情をする渚さんがいる。至近距離で互いの目を見つめたまま、頭は真っ白になっていて、一切の言葉が口から出て来なくて。この時ばかりは本当に世界は止まっていたはずで、そしてこのままこの時が永遠に続くかのような錯覚を受けて、
「っ」
先に呪縛が解けたのは、渚さんの方だった。
至近距離にあるその顔が一瞬で赤くなったと思った時にはもう、手遅れだった。
腹部にとんでもない衝撃が走り抜けてそのまま後ろに吹っ飛ばされた。床に背中から叩きつけられてようやく、足で腹を蹴り上げられたのだと気づいたが、おそらくは手加減が一切無かったであろうその蹴りは、今まで僕が受けたどの衝撃とも違って、悶絶する以外に取るべき行動が出て来なかった。
まるで芋虫のように床に転がって悶絶していると、ベットから瞬時に立ち上がった渚さんは、顔を真っ赤にしたまま、まるで壊れたからくり人形のような口調で、
「――おっ、お茶っ。お茶、買ってっ、くりゅっ」
噛んだことなどきっと本人すら気づいていないだろう、それだけ言い残すとあっという間に部屋から飛び出して行ってしまった。制止させようにも腹部の衝撃は未だ抜けず、転がり続ける僕にはどうすることも出来なかった。
それから十分くらいもがき続けた後、ようやく何とか動けるようになった。今まで渚さんから幾度と無く蹴られたりして来たが、あれが渚さんの本気だとするのであれば、普段はきっと十分の一くらいまで手加減してくれていたことになる。腹が吹き飛んだかと錯覚するかのような衝撃だったし、まさか十分ものた打ち回ることになるとは思っていなかった。最近の渚さんがあまりに可愛いから忘れ掛けていたが、昔の渚さんは名の知れた、武闘派の不良なのである。その力を侮っていた。
床に座り込んで深呼吸を繰り返す。酷い目に遭ったと思う。元を正せば僕が悪いとは言え、これはさすがに罰としては重過ぎる。打ち所が悪ければ肋骨くらい簡単に折れていただろうし、もし万が一にでも急所に直撃していたら、男として腹を決める云々以前の問題として、
気づいた。思い出してしまった。
思考回路を何とか抑えようとするが後の祭りだった。さっきの出来事は非常にまずい。この部屋に入る前に抱いていた下心が再発する。せっかくそれらをすべて忘れて、何だかものすごく良い雰囲気だったのに、さっきのが引き金になってしまって全部思い出してしまった。
思い出したらもう止まらない。
心臓が破裂するくらい早い鼓動を打ち始める。さっきのはまずい。非常にまずい。あれは見ようによっては本当に僕が渚さんを押し倒したかのような体勢だった。それに気づいたせいで、渚さんが戻って来たらどんな顔をすればいいのかがまったく判らない。腹を決める覚悟はしていたが、この突発の事態に戸惑いを隠せない。いやむしろこのままの状態で渚さんが帰って来たら、正直な話、僕は自分を抑えることが出来ないかもしれない。やばいやばいやばい。これは非常にやばい状態で、
想像が変な方向へ走り始める、やっぱり止まらない、
ふと視界の隅に入った箪笥に気づく。きっと渚さんの服とかが入っている箪笥なのだ。コートやら何やらはクローゼットに入っているだろうから、その箪笥に入っているのはもっと小さい服とかだろう。つまりはシャツであったり靴下であったり、それ以外の、つまりは、その。男の性が芽を出し始める。好奇心と理性が喧嘩をし始める。だけどさっきの出来事が大きな後押しとなっていて、好奇心が圧倒的に有利な立場になっている。大丈夫だ、と好奇心は言うのだ。大丈夫、この部屋にはいま、誰もいない。もし万が一に帰って来ても、箪笥の位置は入り口から死角になっているから、すぐに戻せば絶対にバレない。大丈夫だ。こんな機会、二度とないかもしれないぞ。だから、
無意識の内にその場からそっと立ち上がり、箪笥に近づく。理性が最後の抵抗を見せて、だけど好奇心がその上から囁いて、
部屋の呼び出し音が鳴った。
心臓が止まるかと思った。
悲鳴を上げなかっただけ自分を褒めてあげたくなる。それと同時に、理性が一発で帰って来た。危なかったと本気で思う。もう少しで人として最低なことをするところだった。何とか自分を押し留めれたことに冷や汗を掻く。乾いた半笑いが自然と顔に出てしまって、
もう一度、部屋の呼び出し音が鳴った。
誰だろう、とようやく思う。思うのも束の間、渚さんだ、と直感で理解する。きっと渚さんのことである、照れ隠しにお茶を買ったはいいのだが、きっと自分でも知らない内に大量にお茶を買ってしまったのだろう。だから両手が塞がっていて、ドアを開けることが出来ないのだ。そうに違いない。
やはりまだ、この時は脳が少々の混乱を残していたのかもしれない。
普通に考えれば有り得ないであろうその仮定を、そうに違いないと思い込んでいた。だから僕は、何の疑問も示さずに廊下を抜け、ドアを自然に開けた。
「渚さん。おかえりなさい」
「久しぶりだな、渚」
二人の声が見事に重なった。
瞬間的に、頭が真っ白になった。
ドアの前に居たのは、三メートルはあろうかという程の、巨大な人間だった。ただ、実際にはもっと低いのだろうが、それでも少なく見積もっても百八十センチ以上の身長は余裕であっただろうし、何よりも盛山先生に負けず劣らずのその体型が、身長を現実よりも遥かに巨大に錯覚させた。
呆然としたまま、視線を上げる。
スーツを着ていた。ネクタイをしていないその胸元に、ごっつい金色のネックレスが見える。プロレスラーと見間違うかのようなその体型。顔は顎鬚を生やしていて、大きなサングラスをしている。髪の毛は短髪だけど茶色に染めてあり、ワックスでガチガチに固められて半ばオールバックっぽくなっている。
その風貌を見て、思った。
不良なんて生易しいものではなかった。その上の、きっと、ヤクザとか呼ばれる、そういう類の、
サングラスの奥に薄く見える眼と、僕の視線が繋がった。
瞬間、
胸倉を掴まれたと思った時には一瞬で持ち上げられていて、足が床から離れたと同時に壁に叩きつけられた。胸倉を持った方とは逆の腕が服の肩口を鷲掴み、斜めに引っ張られて一気に締め上げられる。息がまったく出来なかった。完全に決まったその締めは、脳みその中に想像を絶するかのような空白をもたらした。何も考えられない。状況の整理すら出来ない。見下げる形になったそこに、サングラスの奥から覗く鋭い眼があって、そこには寒気がするくらいの敵意しかなくて、
「……誰だお前。人の家で何してやがる」
言葉など返せるはずもなく、意識が遠のくのが感覚として理解出来て、
喉の奥から、身体の中にあった最期の空気の塊が溢れ出した時、
唐突に、こう言われた。
「……あれ。まさかお前。……中野くんじゃないよな?」
そのヤクザさんは大声を上げて、豪快に笑った。
「すまん。ほんとーにすまん。まさか男が居るとは思ってなくてな。ついカッとなってやっちまった。いやマジで殺してやろうかと思った。君のことを思い出さなきゃあのまま殺してたわ」
笑いながら、冗談ではないことを冗談みたいな口調で言った。
締め技から開放された僕は、しばらくの間、まともに呼吸が出来なかった。遠のく意識の奥で、僕は確かにお花畑を見たように思う。問答無用で殺されそうになるなんて、あの状況で一体誰が予想出来ただろうか。今日は想定外の出来事が起こり過ぎて頭が破裂しそうになっている。これが邪な下心を抱いた罰だとするのなら、流石に本当に、酷過ぎると思う。
一応の謝罪はされたが、それで警戒心が解けるはずなんてなかった。
渚さんがさっきまで座っていたベットにどかりと座り込んだヤクザさんは、部屋の隅で縮こまってぶるぶる震えながら警戒心を剥き出しにする僕に視線を移しながら再びに笑い、
「そう怯えるんじゃねえよ。何も取って食いやしねえよ」
嘘つけ、と心の中で思うが、言葉には絶対に出来なかった。
取って食われはしないだろうが、いきなり殺されることは今の状況では十分に想定出来た。
未だぶるぶると震えながらも、果敢に立ち向かうチワワのようにヤクザさんを睨みつけていると、
「君が中野くんじゃなけりゃ殺してたかもしれん。それは認める。だけど君が中野くんであれば話が違う。おれがここに来たもうひとつの目的が、君に会うことだったからな」
警戒心はまったく解けず、そしてヤクザさんからは決して目を離さない。密かに携帯電話がちゃんとポケットの中にあることを確認しつつ、いつでも一一〇番通報が出来るように脳内シュミレーションを繰り返す。
そんな僕を見つめながら、ヤクザさんが小さく息をついたと同時に、唐突にこう切り出した。
「おれは渚の兄貴だ」
「……え?」
いきなりの台詞に面食らう。
渚さんの兄貴。お兄さん。その話を、あの頃の渚さんから一度だけ聞いたことがあった。そもそも、高校生である渚さんが一人暮らしをしている理由が、そのお兄さんの手回しの結果だったはずだ。しかしそのお兄さんは確か、何処かへ姿を消したまま、ほとんど行方知らずになっていたはずではなかったか。そのお兄さんが、このヤクザさんの正体だと言うのか。
俄かには信じられない話だが、疑うだけの根拠は何処にも無い。
それだけ言ったヤクザさんは唐突に辺りをきょろきょろと見回した後、台所にあった日本酒の瓶を見つけ、いいものを見つけたみたいな顔をしてそこへ近づいて行って、瓶に張られているラベルをまじまじと見つめてから、「渋いの飲んでんだなあいつ」と小さく言いながらも、近場にあったコップ二つと日本酒を手に持って戻って来る。テーブルの上にコップを二つ置いて、そこに日本酒を遠慮なく注ぎ込んで、片方を自分で飲み始め、もう片方をこちらに差し出してきた。差し出されも僕は酒なんて飲めないし、本当にこの人が渚さんのお兄さんであるかすらまだ不明なのである、言葉にはせず視線で受け取ることを拒否しつつ、様子を伺う。
そんな僕にヤクザさんは苦笑しながらもコップを持ったままベットに戻り、小さく息を吐いたと同時に、頭を下げた。
「……渚が世話になった。おれの家のゴタゴタにも巻き込んじまって、君には本当に悪かったと思ってる。身勝手な話だし、遅過ぎるくらいだが、ようやく全部まとまった。さっきここへ来る前に、あのクズ共にはおれからきちんとケジメをつけてきた」
いきなりの話過ぎて展開がまったく読めない僕に対して、ヤクザさんはそれでも続ける、
「本当はもっと早くやるべきだった。片付ける準備をするのに随分と掛かっちまった。当時のおれではどうしようも出来なかった。そしておれに力が無かったばっかりに、結局全部失う所だった。あの渚を放っておいたらどうなるかくらい、最初から判ってたはずなのにな。だから君には、本当に感謝している。……ただ、君からしたらこれは言い訳にしか聞こえんだろう。事実、言い訳だ。おれはあの時、渚を捨てた。あいつひとりを犠牲にした。だから君にだったら、おれは殺されたって文句は言わん。むしろ君には、おれを殺すだけの権利がある」
物騒な話になってきた。殺す殺さないとかそういう話を、この風貌の人が言葉にすると冗談に思えない。いや、もしかしたらこれは、本当に冗談とかではなく、本気で言っているのかもしれない。それくらい、真に迫る迫力があった。だけどそれが本気だとしても、僕がこの人を殺す理由なんて何処にも無い。あるはずがない。それに。
犠牲。この人はさっき、犠牲と言った。渚さんを犠牲にした、と。その言葉に、大きな引っ掛かりがあった。思う。この人は本当に、渚さんのお兄さんなのだ。それはもう疑わない。言葉を聞いていて自然と理解してしまった。嘘を言っているようには、どうしても見えない。それどころか、この人が本当に渚さんのお兄さんだとするのなら、全部がしっくりくる。だからこそ、その言葉に引っ掛かりしか見出せなかった。
警戒心は自然と消えていた。消えていたからこそ、真っ向から否定した。
「……前に、渚さんが一回だけ言ってました」
視線をこちらに向けたお兄さんを真っ直ぐに見つめて、言葉を吐いた。
「……お兄さんだけが味方だったって。お兄さんがいなければきっと死んでたって。そう、言ってました。渚さんは、捨てられたとか、犠牲だとか。そういうこと、きっと思ったことないんだと思います。思ってたら、そんなこと、渚さんは絶対に言いません」
知っている。渚さんは素直な人だ。荒れていた時期も確かにあった。だけど、根はやっぱり渚さんなのだ。あれほど素直な人を、僕は知らない。見たことがない。そんな渚さんが、あの時、お兄さんのことだけは貶さなかった。どん底にいた渚さんだけど、それでもこの人のことだけは、決して悪く言わなかった。だからきっと、渚さんは捨てられたとか、犠牲だとか、そういう風に思ったことなんてないはずだ。だから、こそ。
殺す殺さないはどうでもいい。しかし、これだけは言わなければならない。
「……渚さんの前で、今の台詞だけは死んでも言わないでください。それを渚さんに言ったら、たぶんきっと、僕は、貴方を一生許さないと思います」
僕に出逢う前の渚さんの、唯一の心の拠り所。
それを否定することだけは、絶対に許さない。例えこの人が、本当に渚さんを見捨て、そして犠牲にしてまで、渚さんの前から姿を消していた過去があっとしても、渚さんはそんな風に考えたことなど無かったはずだ。だったらそれでいい。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、そのことを否定することだけは、僕が許さない。一生、絶対に、許さない。僕もこの人も、もう二度と、あんな風に渚さんを泣かせてはならない。だから。
言い切って、対面のサングラスの奥に隠れた瞳を見据え続けた。やがて、その瞳が微かに揺れ動いた後、ぽつりと、
「……納得したよ。渚が惚れた理由が判った。そうだ、そうだよな。その通りだ」
そして急に大声で笑い始め、ベットから降りてこちらに歩み寄りながら、
「気に入った。最初に見た時はこんなクソみてえなヤツに渚が惚れる訳なんてねえと思ってたんだよ。何かの間違いじゃねえのかと思った。だが、間違っていたのはおれの方だった。痛感したよ。だからおれは本当にお前が気に入った。おい、高校卒業したらウチの組に入れ。おれが面倒看てやる」
僕の背中をバンバン叩きながら、お兄さんはそう言う。
ものすごく馬鹿にされてる気がするし、最後の台詞には同意し兼ねるが、しかしたぶんこれで良かったのだと、僕は思った。
ちょうどその時、部屋のドアがゆっくりと開いて、ようやっと飛び出して行ったままだった渚さんが帰って来た。
ムスっとした表情のまま、ほんの少しだけ開けたドアの隙間から小さな声で「……ただいま」と言い掛けて、しかし部屋の中に広がる光景を見た瞬間、すべてが停止した。停止したのも束の間、状況を理解すると同時に、ドアを破壊するかのような勢いで開け放ち、手に持っていたお茶のペットボトルをその場に叩きつけるように投げ捨てて、土足のままこちらに突っ込んで来て、僕の服の襟を後ろから鷲掴んだ瞬間には、力いっぱいに引っ張って後ろに吹っ飛ばしてきた。
状況なんてこれっぽっちも判らないまま、引っ張られたせいでバランスが崩れて倒れた僕の前に割り込んで、渚さんがお兄さんと対峙する。しかし対峙したと同時に、突如として、お兄さんに向かい、渚さんの静かに低い声が響いた。
「――こいつに何したの」
その声には、普段の渚さんからはまったく想像も出来ないほどの、冷たい怒りが含まれていた。
まるで僕を守るような形で割り込んだ渚さんの後ろ姿から、猛烈な怒気が溢れ出しているのがはっきりと判る。
その様子から、何かとんでもない誤解をされているのではないかと瞬時に理解する。
弁明しようとするより一歩早く、お兄さんが言った。
「……久々に会ったのに、随分な挨拶だな、渚」
「うるさい。こいつに何したの。こいつに何かしてたら、……兄貴でも、絶対に許さないからな」
一触即発のような雰囲気が漂う中で、意を決して慌てて声を絞り出す、
「あのっ、渚さんっ。違、違うんですっ。ただ僕らは、話しをしてただけなんですっ」
首を絞められて殺されそうになったことは敢えて言わないでおく。
それを聞いた渚さんは、ほんの少しだけこちらに視線を移して、じっと見つめてきた。
やがて小さく、
「……本当? 何もされてない?」
首をぶんぶんと縦に振る。この二人が本気で喧嘩をし始めたら、きっと修羅場どころの話じゃなくなる気がして冷や汗が止まらない。おまけにこの二人のことである、きっと何だかんだで僕を無意識の内に巻き添えにするだろう。さすがに渚さんの本気の蹴りをもう一発食らって無事に済むとは思えないし、お兄さんからの一撃をまともに受けようものなら、たぶん本当に死ぬと思う。
しばらく膠着状態が続いていたが、ようやっと納得してくれたのか、渚さんから発せられていた怒気が静かに治まっていく。最悪の事態を回避出来たことに安堵すると同時に、緊張のあまり喉がカラカラになっていたことに気づく。そう言えば渚さんがお茶を買って来てくれたはずで、ここは場を和ますためにまずはそれを、と思ったとき、ふと視界に入ったテーブルの上に水の入ったコップがあることに気づく。
とりあえず何かを提案する前に、自分の喉を潤したいと切実に思う。冷や汗の出過ぎで水分が圧倒的に足らない。ほとんど無意識だった。目の前にあったから飲もうと思った、たったそれだけの思考回路だった。何の躊躇いも無くコップを手にとって、中身を一気に煽った。煽った瞬間、喉が焼けるような感覚に陥った。
気づいた時にはもう全部手遅れだった。
あ、これ、さっき、お兄さんが、
あっという間に天地がひっくり返った。
*
大声を上げて、兄貴が笑っている。
照れ臭いのもあって、わたしはそれが無性にイラつく。
「うるさい。笑うな。もう一回笑ったら蹴り飛ばすから」
「おうおう、やれるもんならやってみろ」
やれないことを知っている兄貴が、敢えてそう言って挑発してくる。
怒りがふつふつと湧き上がるが、しかし今の状況ではそれを発散させることが出来ない。
「しかし、まさか渚のそんな姿を見れる日が来るとは思わなかった」
「ああもうっ、うるさいっ」
ベットに座り込んだ兄貴と、床に座り込んだわたし。
そして、たったコップ一杯の酒で完全に酔い潰れた馬鹿。その馬鹿はいま、顔を真っ赤にしたまま、情けない寝顔で眠っている。床に寝転がって、頭をわたしの膝に乗せて。これで目の前に兄貴さえ居なければ、まだ良かった。だけど実際には、この姿を、この格好を、目の前の兄貴に見られてしまっている。恥ずかしくて仕方が無かった。
意識せずとも声が荒くなってしまう。
「……そもそも何で兄貴がここに居るの」
手に持った酒を飲みながら、兄貴は言った。
「ここは元々おれの部屋だぞ。不思議はないだろ」
「そういうことを言ってるじゃない。なんで急に帰って来たの。ずっと連絡すら寄越さなかったくせに。連絡先すら、わたしに教えなかったくせに」
ワザと、そういう言う方をした。
その言葉に、兄貴がほんの少しだけ、困った顔をする。
「……それについては悪かった。お前を巻き込む訳にはいかなかったんだよ」
手を伸ばして、酒の入ったコップをテーブルの上に戻す。
そして、兄貴は真っ直ぐにこっちに視線を向けた。
「渚。今日、おれがここに来た目的はひとつ。……あのクズ共と、ようやく正式に縁を切った」
一瞬、兄貴が何を言ったのかが本気で判らなかった。
胸の奥がざわめいたのが、自分でもはっきりと判った。
「もちろんお前もだ。おれの家族は、今は渚、お前だけだ。そして立場上、おれはお前の保護者でもある。……まぁ、もう保護者が必要な年でもねえけどな。この準備を整えるのに、随分と時間が掛かっちまった。奴らと同じ外道にまで手を染めた。人道を踏み外したおれを、お前が軽蔑しても仕方が無い」
思考がついていかない。それでも言葉は自然と口から溢れてしまう。
「……どうして、」
「兄貴の意地だよ」
はっきりと言い切った兄貴から目が離せない。
繋がった視線のその先で、兄貴は言う。
「もう全部忘れていい。お前はもう、自由だ。好きに生きていい。お前が望むなら、もうこんな所にいる必要もない。好きな場所で暮らせるように、お前の好きなことが出来るように、おれが全部手配してやる。だから、あとはお前の判断にすべて任せる」
真っ直ぐにそう言われて、言葉に詰まった。
自由。そう言われても、ピンと来ない。
自由。好きなことをしていい。だけど、好きなこと。好きなことって、何だろう。
今に自分が欲しいもの。今に自分がしたいこと。
少しだけ考えて、でもそれは、すぐに頭の中に落ちて来た。
――ああ、そっか。それはきっと、すごく簡単なこと。
だから、こう言った。
「……半年前なら、わたしはきっと兄貴と一緒に行ったよ。……でも、今は違う」
傍に居ると言われた。だったらわたしだってそうだ。わたしだって、傍に居る。
視線を移したそこに、情けない顔の寝顔がある。その髪を、少しだけ撫でた。
笑っていた。気づいたら、笑っていた。
「……この部屋でいい。この場所でいい。こいつと一緒に居られたら、今は、それだけでいい」
それだけで良かった。今はそれ以外に、何もいらない。
こんな風に思えるようなるなんて、考えたこともなかった。
そしてその返答に対して、兄貴も笑った。まるで、そう言うことを知っていたみたいに。
「……判った。後は全部こっちに任せろ。ああ、あとこれ、」
そう言って、スーツの胸ポケットから何かを取り出してこちらに差し出した。
一枚の紙。兄貴の名刺だった。
「何かあったらいつでもいいからすぐに連絡して来い。今度こそ、おれがお前を助けてやる」
「……格好つけるなら、もっと早く格好つけろよ、馬鹿兄貴が」
「そう言うなよ。これでもおれは、結構、」
「兄貴」
「なんだよ」
「――ありがとう」
頭を下げた。頭を下げないと、きっと、泣きそうになっていることが知られてしまうから。
きっと、わたしの前から居なくなってからずっと。兄貴は、たぶん。
だから、せいいっぱいの感謝の気持ち。これが、今の自分の正直な気持ち。
視線を下げたそこに、まだ眠り続ける馬鹿がいる。
こんなにも素直に人にお礼を言えるようになったのは、きっとこいつのせいだと、思った。
瞬間、
頭に手が置かれて、ずっと昔を思い出すかのように、思いっきり髪を掻き混ぜられた。
「改まって言うな馬鹿妹が。思わず泣きそうになっただろうが」
頭を乱暴に撫でられたことが懐かしくて、だけど無性に恥ずかしくて、
「ばっ、馬鹿っ、やめ――」
兄貴の手をわたしが乱暴に払うより一歩だけ早く、その手が弾かれた。
急な出来事過ぎて、わたしも兄貴も、状況がまったく理解出来なかった。
そして理解出来ないまま、言った。
「――僕の渚さんに、触るな」
身を起こして、兄貴を真っ直ぐに見据えながら、そう言った。
そう言ったのも束の間、いきなり白目を剥いてまた倒れて行く。
あまりの出来事にしばし沈黙していると、急に兄貴が肩を揺らして笑い始めた。
「いいな。やっぱりこいつはいいな。面白過ぎるだろ。おれ相手によくぞ啖呵切った。最高だ。安心した。渚、おれは帰るぞ。このままだとこいつにぶっ殺されちまう。起きたら言っとけ。卒業したらいつでもおれの所に来いってな」
兄貴が帰って行った部屋の中。
外はもうすっかり暗くなっていて、月明かりだけが室内を照らしている。
そんな中で、いつまで経ってもこいつは起きない。情けない寝顔のまま、膝の上でずっと眠っている。
きっとさっきの出来事にしたって、後で問い詰めてみてもこいつはまったく憶えていないと言うだろう。
でも、それでいい。それでいいんだ。
きっとあれは、本心で言ってくれていたというのが、もう判っているから。
普段からそういうことをまったく言わないくせに、こっちが油断している時にだけ、そういうことを平気で言う。
腹が立つ。ムカつく。でも、だから、こいつが。
今に自分が欲しいもの。今に自分がしたいこと。
そして、今に自分がしてあげたいこと。
情けない寝顔を見ながら、その髪を少しだけ撫でて、笑った。
「……格好良かったよ、――真人」
いつか、起きている時に。
ちゃんと、名前を呼んであげたいって、思った。
「卒業編」
昼下がりの午後、僕はひとり、いつものように公園のベンチに座っている。
何もせず、ただ公園で無邪気に遊ぶ家族連れを、ぼんやりと見ている。子供が声を上げながら元気に公園内を駆け回っている。離れたところに居た両親が転んだら危ないぞと注意する。木陰にシートを広げてお弁当を食べたり、父親とキャッチボールをして、疲れたら母親の膝の上で眠る。そんなありふれた、当たり前の出来事で、当たり前の光景。
そんな当たり前の光景を見ながら、僕はいつも思っていた。きっと自分に両親が居たらあんな感じだったのだろうか。きっと自分に両親が居たら、あんな顔を浮かべて公園を走り回ったり、キャッチボールをしたり、膝で眠ったりしたのだろうか。答えなんて出るはずがなかった。出るはずはなかったけれども、しかし、それでもそうしている間だけは、この胸にある喪失感が、少しは無くなるような気がした。
やがて空は夕暮れで紅く染まり、子供は両親と一緒に帰って行って、もう公園には誰も残っていなかった。遊ぶ相手が居なくなった遊具は静かに鎮座していて、夕日に照らされた影が長く伸びている。静かな空間だった。誰もいない空間だった。
その光景を見て、まるで世界の終わりみたいだと、僕は思った。
ひとりぼっちになって、僕はやっと、この世界にたったひとりで居ることに、気づいた。
そこで目が覚めた。
目を開けて、しばらく辺りの光景を見回し、頭をゆっくりと動かして初めて、さっきの光景が夢なのだと気づいた。
窓のカーテンの隙間から、ほんの少しだけ、明かりが射し込み始めている。
思う。胸に、ぽっかりと穴が空いたみたいだった。
久しく感じていなかった喪失感。
それを実感して、初めて理解した。
そうだ。そうだった。
僕も同じだった。
あの日に救われたのは何も、渚さんだけではなかった。
なぜなら。
なぜなら、僕もあの日以来、あの公園でひとりで過ごしたことがなかったから。
気づいていなかっただけで、僕も、あの日。
今になってどうして、そんな夢を見たのか。
カーテンの隙間から射す光を見て、やっと思い至る。
今日は、渚さんの卒業式だった。
◎
小学校と中学校で、今まで二回の卒業式を経験した。
正確に言えば幼稚園の卒業式、あるいは卒園式もあったのだろうが、生憎としてそれはもう記憶の彼方に消え去っていて憶えていない。だから憶えている卒業式は小学校と中学校の二回だけであるのだが、その二回ともで、共通して思ったことがある。
どうして泣いている人がいるんだろう。僕はずっと、そう思ってきた。
卒業式の最中だったり、それが終わった最後のホームルームであったり、そういうところで、必ず泣く生徒が何人か居た。女子生徒の比率が多かったが、その中には少数であれ、男子生徒の姿も見受けられたように思う。そしてそんな泣く姿を見て、僕はずっと、どうして泣いているんだろう、と考え続けていた。学校を卒業すること自体が悲しくて泣いているのだろうか。クラスメイトと離れ離れになることが寂しくて泣いているのだろうか。あるいはもっと別の、僕なんかじゃ想像も出来ないことを思って、泣いているのだろうか。そういうことがずっと不思議だった。
そもそもとして、そういうことを考えている時点できっと、特に華々しくもない学校生活を続けていた僕には、一生判らないことだったのかもしれない。でも、それでいいと思っていた。それはきっとこれからも変わらないだろうし、僕という人間は、きっとそういう一生を過ごしていくのだと、そう、思っていた。なのに。
「――嘉応渚」
盛山先生の口からその名前が出て、ムスッとした顔の渚さんが立ち上がった瞬間、一発で僕の涙腺が崩壊した。
何を思う間も無かった。本当に呆気無かった。あれっ、と異変に気づいた時には既に視界が歪んでいて、そしてそれに気づいたらもう手遅れだった。鼻の頭が一気に痛くなって、抵抗する暇なんて一切なく、そのまま情けないくらいに号泣してしまった。隣に座っていた杉田が肘で僕の脇腹を突いて「おい嘉応さんの番だぞ」と言いかけて、しかし僕の顔を見た瞬間にぎょっとした顔をして「おっ、おいっ、マジかお前っ」と死ぬほど慌てていた。
卒業式で、ましてや自分のではなく他人の卒業式で泣くことになるなんて、僕は夢にも思っていなかった。
昔の僕であればきっと、ハナクソでも穿りながら「早く終わらないかなー」と舐め腐った態度を取っていたに違いない。なのに今の自分ときたらどうだろう。涙が止まらなかった。嗚咽を我慢しようとすればするほど、それが大きく滲み出してしまう。情けなかった。情けなかったけど、どうすることも出来なかった。周りのクラスメイトがあまりの事態にざわざわと騒ぎ出して、杉田が必死に「だいじょうぶっ、だいじょうぶだから! 頼むよお前マジでっ」と泣きそうな顔をしている。
涙で歪む視界の中で、渚さんが壇上へ上がる。さっきまで見ていた卒業生とは、歩くルートが微妙に違っている。それに加え、これ以上ないくらい不恰好な歩き方だった。手に取るように判る緊張。壇上を歩く横顔がいつも以上にムスっとしている。渚さんにとって、きっとこういうことは嫌で嫌でたまらないに違いない。最初は「サボる」と言い張っていた渚さんだが、僕が「絶対に出てください」と念を押して送り出した。こういうことになることは判っていたし、そしてそういう渚さんを見て、後で少しだけ突いて、渚さんの照れる姿を見たかったからである。でも。なのに。
禿げ散らかした頭の校長先生から卒業証書をぎこちなく受け取った渚さんは、そのまま軽くだけ頭を下げて後ろを向き直り、壇上から降りて行く。その途中、階段のところへ差し掛かった時に、自然と在校生の席に座っている僕の姿を探していて、でもその視線は一発で僕を見つけて、
そして号泣している僕を見て、渚さんは一瞬だけ驚いた顔をした後、ほんの少しだけ口元を綻ばしながら小さく動かして、「ばーか」と言った。
声なんて聞こえる訳が無かったけど、絶対にそう言っていた。
そして、距離を経て繋がった視線のその先で、渚さんが、悪戯に笑った。
限界だった。死ぬほど泣いた。
◎
生まれて初めて、授業をサボった。
正確には授業じゃなくてロングホームルームだった訳だけれども、それを初めてサボった。体育館から教室へ移動する際、教室へは戻らずにそのまま将棋部の部室に逃げ込んだ。泣いている顔をもうこれ以上他の生徒に見られたくなかったし、何よりもこんなにも取り乱した自分が恥ずかしかった。消えてしまいたくなる。普段は本当にちっちゃなみみっちいプライドを掲げて斜に構えているくせに、いざ自分がそうなったら、ここまで情けなくなる。どうしようもないほどのぼんくらである。
コタツが片付けられた部室は、何だかいつも以上に広く感じられた。外から射す太陽の光が、小さな窓の形に沿って畳を照らしている。ろくに掃除もしていない部室なせいで、その光に反射した埃が、まるで雪のように輝いて見える。そんな部室の中心で仰向けになって倒れたまま、僕はいつまで経っても動こうとはしない。
涙はようやく止まった。鼻を啜るとまだ少しだけ鼻水がある。
呆然と視界を彷徨わせていると、乾いた笑いが漏れた。
「……………………………………格好悪いなぁ」
思わずそうつぶやく。
最後に泣いたのなんて、もうずっと前のことだったように思う。小学校低学年とか、そういうレベルで昔の話だ。少なくとも、小学校の高学年から今まで、泣いた記憶はまったくない。おまけにあれほどまでの大号泣となると、もしかしたら赤ん坊くらいまで遡らなければならないかもしれない。赤ん坊の頃にどんな風に泣いていたのかは知らないけど、たぶんそれと同じくらいだろう。
ただ、百歩譲ったとして、泣くことはまぁいい。人間誰だって、泣くことはあるのだから。
問題は、その姿を、いちばん見られたくない人に、見られたということである。
見られたくなかった。渚さんだけには、見られたくなかった。初めて僕に出来た、彼女だった。まったく気が利かないしまったくデリカシーも無い僕だけど、本当にぼんくらな僕だけど、それでもやっぱり小さな意地くらいはあるのだ。好きな人に、泣き顔なんて見られたくなかった。曲がりなりにも男として、それは阻止しなくちゃならなかったのだ。
そもそもなんであんなに号泣したのか、今となっては自分でもよく判らない。
落ち着いて考えれば考えるほど、その思考は遠くへ溶けていく。
いや。違う。そうじゃない。そんなものは、とっくの昔に、
胸がもやもやする。無意識の内に鼻を啜
瞬間、
沈黙を守っていた部室のドアが、破壊されんばかりの勢いで開かれた。
いきなり過ぎて飛び上がらんばかりに驚いて、身体を起こした拍子に啜った鼻水が変なところに入った。気管が詰まって畳の上を転がりながら咳き込み続ける。咳き込みながらも涙目で顔を上げたそこに、こちらをムスッとした顔で見つめる渚さんが居た。
判っていた。こんな登場の仕方をするのなんて、渚さん以外にいないことなんて、判っていた。判っていたし、渚さんがここに来てくれたことは嬉しかったが、それでも今だけはやっぱり、まだ、会いたくはなかった。
何とか落ち着いた呼吸を小さく繰り返しながら、もそもそと体勢を変えて、渚さんに背を向けるように体育座りをする。
鼻声になっているのを気づかれないように、精一杯に声を絞り出した。
「……今はホームルームの時間ですよ。サボったんですか」
そのはずだった。校舎はまだ静まり返っている。卒業生も在校生も、今は体育館からそれぞれの教室に戻って、ホームルーム的な何かをしているはずだ。卒業生であればなおさら、これからのことについて何か話があるに決まっていた。それなのになぜ、渚さんはここに来たのだろう。
「お前もここにいるじゃん」
背中越しの声に、思わず「それはそうだ」と笑ってしまった。
笑ってしまったけど、それはすぐさま乾いた笑いに変化して、そのまま沈黙する。
そんな答えは、はなから判っていたはずだ。そして、どうして渚さんがここへ来たのかも、判っていた。判っていてなお、それでも小さな意地は素直になれない。格好悪い姿なんて、やっぱり見られたくはなかった。
そう思った時、急に背中に何かがぶつかった。
思わず声が出て、状況を確認してすぐ、理解する。体育座りをした僕に背中を合わせるように、渚さんが凭れ掛かってきていた。二人とも背中合わせで正反対の方向を向いたまま、部室の真ん中に座り込んでいる。学校の喧騒は嘘みたいに静かで、太陽の光に照られた埃だけが、いつまでも雪のように輝いている。
背中から、渚さんの体温が感じ取れた。
やがて渚さんはぽつりと、言った。
「……お前が泣いてるの、初めて見た」
言われたくなかった。見られたくなかった。
胸がもやもやする。この気持ちの正体なんて、とっくの昔に判っていた。
あの日、渚さんの卒業が決まってからずっと、こうなることは判っていたはずだった。
だけど、どうしても、堪え切れなかった。ただ、それだけの話だった。
背中の向こうから、渚さんは言う。
「泣いてた理由、教えてよ」
理由なんて決まっていた。
寂しいからか、と聞かれればそうだと答える。不安だからか、と聞かれればそうだと答える。寂しくて不安だった。渚さんが遠くへ行ってしまうような、そんな気がした。どこか遠くへ行ったまま、もう二度と、僕のところへは帰って来てくれない気がした。だから寂しくて不安だった。引っ越す訳でもないのに。すぐに会いに行ける場所にいるはずなのに。そのことを頭で判っているはずなのに、どうしても感情の制御が利かなかった。
だから、この気持ちが溢れて、どうしようもなかった。
こんな気持ちを抱くことは、間違いなのだろうか。こんな風に思ったことなんて、今まで一度も無かった。
ほんの少しだけ、鼻を啜った。
「…………渚さん」
搾り出すようにそう言うと、渚さんはただ、「なに」と言った。
それを噛み締めるように聞いて、僕は言う。
「……どこかへ、行ったりしないですよね」
「は?」
「どこか遠くへ行って帰って来ないとか、そういうこと、ないですよね」
ちょっと待て、と渚さんが僕から背中を離して、
「急に何言ってるのお前。また何か勘違いしてない?」
勘違い。それもきっと、遠からず近からずなのだと思う。
この気持ちは、それに近いものなのだ。
あの日、バレンタインの日に判ったことがある。
僕が求めていたモノの答え。ずっとずっと、探し続けていたモノの答え。
単純なこと。本当に本当に、単純なこと。昔から、ずっと昔から胸の奥に喪失感があった。その喪失感を失くすために、ひとりでよく、公園のベンチに座り込んでいた。そうしている間だけは、この喪失感が少しだけでも無くなるような気がしたから。でもそれはやっぱり気休めにしかならなくて、それでもそれ以外の方法がどうしても判らなくて、僕はずっと、そうしていた。
そんな中。世界の終わりのあの場所で、僕は渚さんに出逢った。
出逢って、いろいろなことがあって、最近になってやっと判ったことがある。
僕もまた、無意識の内に、渚さんの中に答えを見つけていたんだ。
渚さんが、僕に答えを見つけたように。僕も、渚さんに答えを見つけた。
でも、この答えは、本当に正解だったのだろうか。
その確証が、どうしても、欲しかった。
だから。だから僕は、言った。
「…………寂しくて、不安なんです。……さっき、体育館で渚さんを見て、思いました。このまま渚さんがどこへ行っちゃうんじゃないかって。もう二度と帰って来ないんじゃないかって。寂しくて不安で、どうしようもなかったです。……それが、泣いた理由です。…………あはは。格好悪いですよね……。なんかもう、こんな姿、渚さんには見られたくはぅわぁっ」
突然、背中を思いっきり蹴り飛ばされた。
顔面から部室の壁に突っ込んで蛙の潰れた声が出た。完璧に無防備だったため、壁に鼻がモロに直撃していた。あまりの痛みに思わず涙が溢れて、そして唐突だったせいと、さっきまでの出来事がすべてぐちゃぐちゃに交わり合ったせいで、感情がコントロール出来なかった。
振り返り様、たぶん出逢って初めて、僕は渚さんに声を荒げた。
「何するんですかっ! 今の本当に」
言い切るより早く、思いっきり、渚さんに抱き締められた。
感情なんて、一発で萎えた。
混乱する僕のすぐそこで、渚さんは言った。
「……ばーか。そんなことで泣くなよ格好悪い」
抱き締められたすぐそこで、その言葉を、ただ聞いていることしかできなかった。
「お前が言ったんだぞ。わたしの傍に居てくれるんだろ。だったら、……だったらわたしだって、お前の傍に居るよ」
探していたモノの答え。
「どこにも行かないよ。絶対に、わたしはどこにも行かない」
ずっとずっと、探していたモノの答え。
「もし離れても、わたしは絶対にお前のところへ帰って来る」
簡単なこと。本当に、簡単なこと。
「だから安心していいよ。わたしはずっと、お前と一緒に居るから」
たったひとつのわがまま。
――人に、甘えたかった。ただ純粋に、人に、甘えてみたかった。
両親が居なかった。居なかったから、人に甘えるということがどういうことなのかが、ずっと判らなかった。喪失感の正体を、いつしか自然と理解していた。寂しかった。不安だった。僕は誰からも望まれていないんじゃないかと心の底で思っていた。人に必要とされていないんじゃないかとずっと思い続けていた。公園で遊ぶ家族連れを見る度に、胸の奥が引き裂かれるような感覚を感じていた。喪失感の正体がそれだった。寂しくて堪らなかった。不安でどうしようもなかった。
ひとりぼっちだった。世界の終わりのあの場所に、ひとりきりで取り残されている気がした。
そんな時に僕は、渚さんに出逢った。
渚さんの瞳に、僕は、自分自身を見た気がした。
最初はただの成り行きだった。互いに探し物をする同士、いつか一緒に答えを見つけられればいいと、そう思っていた。だけど、月日が流れるにつれて、いつしかその存在が大きくなっていっていることに気づいた。そして気づいたらもう、それ以外は考えられなくなっていった。楽しかった。本当に、ただ純粋に、この日々が楽しかった。求めていた答えが、見つかったと思った。だから今日、その日々が終わる予感がして、どうしようも無くなってしまった。せっかく見つけた答えが、無くなってしまうんじゃないかと、思ってしまった。
初めて弱音を吐いた。
そして渚さんは、ちゃんと受け止めてくれた。
欲しかった言葉。言葉にして言われて初めて、確証となった。
ようやく、寂しさが消えた。ようやく、不安が消えた。
胸の奥にあった喪失感が、埋められていく。
僕はもう、ひとりぼっちじゃない。
今はもう、必要としてくれる人が居る。
だったら。だったら、今は、今だけは、思いっきり――。
格好悪いだとか、ちっちゃな意地だとかはもう、全部、捨てた。
渚さんに抱き締められたまま、ただ、泣いた。
◎
将棋部の部室から出た直後、ホームルームをサボった渚さんを捜し回っていたであろう盛山先生に見つかって、そのまま生徒指導室に監禁されて死ぬほど怒られた。
「どうして最後の最後までお前は問題を起こすんだっ。後を濁さずきちっと締めることがなぜ出来んっ。卒業証書の受け取りだってそうだ、練習をサボったせいでお前だけ手順ぐちゃぐちゃだったんだぞ! 清田先生がどんだけ怒ってたかお前知らんだろうっ。お前に蹴られたこと、まだ根に持ってるんだぞ! それを取り持つおれの苦労を、お前は考えたことがあるのかっ。いやそれだけではなく、今まで世話になった人に対して、お前はどうして――」
パイプ椅子に座った僕と渚さんに対し、盛山先生が壁を破壊するかの如きにバンバン叩きながら、有難いお言葉を次から次へと隕石のように落としてくる。正論しか言っていない。言っていないのだが、そういうのはきっと、渚さんが一番嫌いな言葉であることは容易に想像できて、聞けば聞くほど、どんどん渚さんの雰囲気が悪くなっていく。いつに爆発が起きてもおかしくないことが不安で仕方が無く、何とか場を収めようとして僕が口を出そうものなら、盛山先生から「お前も同罪だバカタレっ」と雷を頂いて黙っていることしか出来なかった。
永遠とも思えた間一髪の時間が何とか過ぎ去り、言いたいことを言い切った盛山先生は、肩で息をしながら、しかし最後はこう締め括った。
「まぁ何はともあれ。……卒業おめでとう、嘉応」
その台詞を聞いた途端、張り詰めていた糸が一気に緩んだ気がした。
そして、渚さんは一切の返事をすることなく、隣の僕の手を掴むと同時に立ち上がり、生徒指導室を横切って行く。扉を無造作に開け放ち、僕を先に廊下へ連れ出して、後ろ手で扉を閉めるかどうかでぴたりと動きが止まり、五秒が過ぎて、十秒が過ぎて、やがて三十秒が過ぎるかどうかの辺りで、急に身体の向きを変え、未だ生徒指導室の中に居た盛山先生に向き直った後、本当に、本当に小さく、頭を下げた。下げたと思ったら、そのまま言葉を発することなく、早歩きで廊下を歩いて行ってしまった。
呆気に取られて取り残された僕と盛山先生だったが、先に我に返った盛山先生が僕の名前を一度だけ呼んだ後、手を振って「早く行け」とジェスチャーをする。それに釣られるように、僕は渚さんの後を追う。一瞬だけ見た盛山先生の目が、ほんの少しだけ潤んでいたのは、気のせいだと思うことにする。
ようやっと追いついた渚さんは、相変わらずムスっとしたまま早歩きを続ける。
その早歩きが、どうしても照れ隠しにしか思えなかった。だから僕はぼんやりと笑い、敢えて言った。
「渚さん。お礼はもっとちゃんとしないとダ」
ゴッと音が鳴って、目から火花が散った。
経過時間から察するに、どうやら僕たちは盛山先生に二時間も説教をされていたらしい。
さすがにそこまで時間が経過していると、既に校舎はほとんどもぬけの殻だった。
誰もいない昇降口から二人揃って外へ出ると、すぐそこの階段のところで屯していた三人が目に入った。
それと同時に向こうもこちらに気づいたようで、「あ、居た!」と井上が言って、「あーっ! やっと出て来た! お前ら何やってたんだよ捜してたんだぞ!」と杉田が言って、「あれだよね。高校生活最後の締め括りに制服プレ」と言おうとした西岡の台詞は、投げつけられた渚さんの鞄によって阻止された。
やいのやいのと騒ぎながらグラウンドの端を横切って行く途中、ふと視界にピンク色の風景が入った。校庭をぐるりと囲うように埋められた桜の花びらが満開となった学校は、何だかいつもと違って見えた。暖かな陽射しと、吹き抜ける春の風。散った花びらが、僕たちの前をゆっくりと横切って行く。
やがて校門のところへ差し掛かった時、先頭を歩いていた渚さんを残して、僕たち四人は打合せ通り急に立ち止まる。
立ち止まったことに気づいた渚さんが、不思議そうにこちらを振り返った。
瞬間、四人が声を揃えて、叫んだ。
「――卒業おめでとう、渚さん!!」
一瞬だけ、時が止まった。
言い出したのは僕だった。どうしても、皆で渚さんにこう言ってあげたかった。
小学生みたいだと思ったが、全員が一発で賛成してくれた。
桜吹雪の中で、渚さんが驚いた顔をしている。
そして、やがて、ほんの少しだけ戸惑った表情をした後、
きっと、この時に見せた渚さんの笑顔を、僕たちは忘れない。
「それから編」
学校のことについて言えば、僕は晴れて、二年C組から三年A組へ進級した。井上と杉田と西岡もめでたく同じクラスになって、四馬鹿としていつもと変わらない日々を過ごしている。
将棋部のことについて言えば、三年生になったことだし、せっかくだから最後の大会に出てみようということで、部活動を本格始動させてみた。今まで部長は杉田がやっていたのだが、こいつは調子に乗ってダメだ、という結論が下されたことから、井上に変更された。ちなみに副部長が僕である。ぶーぶーと文句を言っていた杉田だが、井上に飛車角金銀自主落ちルールでコテンパンにされたことを切っ掛けに沈黙した。最初で最後の夏の大会に向け、僕と西岡と杉田は一回戦突破を、井上は上位入賞を目指し、ゆっくりだけど着実に、部活動らしさを醸し出しつつある。ちなみに残念ながら新入部員は獲得出来なかったから、僕たちの代で廃部は決定事項となってしまった。
盛山先生のことについて言えば、今年度から一年生の学年主任となって、日々生徒のために翻弄しているようだ。四月の中頃に一度、盛山先生と話す機会があった時に聞いた話では、どうやら今年もそれなりに問題児が多くいるようで、手を焼いているらしい。ただ、その話の最後に、盛山先生は「まぁ嘉応に比べれば可愛いもんだがな」と言って豪快に笑っていた。
そして、そんな日々が過ぎ去る中、ちょうど四月の最後の週に差し掛かった日のことである。
いつも通り、学校から家に帰ると同時に、居間から血相を変えた祖母が慌てて出て来た。
「まーくんっ。ちょっとまーくんっ」
こんなに慌てふためく祖母を見るのは初めてのことで、しかしどう反応していいのかがイマイチよく判らず、
「な、なに?」
「お客さんっ」
お客さん?、と首を傾げながら、僕は祖母に引き摺られるように居間へ通され、
ちゃぶ台の前に座っている人物を見た瞬間、頭が真っ白になった。
座っていても判るほどの、巨大な人間だった。ただ、実際には人間の想定され得る規格内の身長なのだろうが、それでも向かいに座っている祖父が子供のように思えるくらいの体格差は余裕であっただろうし、何よりも盛山先生に負けず劣らずのその体型が、身長を現実よりも遥かに巨大に錯覚させた。その大男はスーツを着ていて、皺ひとつないワイシャツに黒いネクタイをお手本のように締めている。プロレスラーと見間違うかのようなその体型と、その格好が物凄く不釣合いだった。顎鬚は綺麗に剃ってあって、大きなサングラスもしてはいないが、それでも髪の毛は前と同じように短髪だけど茶色に染めてあり、ワックスでガチガチに固められて半ばオールバックっぽくなっている。
真っ白になった頭が、徐々に冷静さを取り戻していく。取り戻して行くが、今度は別の疑問が頭の中で跳ね回る。
そんな折、向こうから先に声を掛けてきた。
「おう。久しぶりだな。お邪魔してるよ、中野くん」
間違いなかった。渚さんのお兄さんだった。
僕は大慌てで居間に入り、祖父の横に滑り込んで、
「ど、どうしたんですか急にっ。連絡くらい貰えればっ、」
「いやすまん。そう言えば君の連絡先知らなかったと思ってな。失礼かと思ったが、直接来させて貰った」
その時、祖父が肘で僕の脇を小突いた。見れば祖父の目が、「説明しろ」と戸惑っていた。
あ、もしかして、と理解する。たぶんきっと、この人が渚さんのお兄さんだと、祖父も祖母もまだ知らないのだ。だとすれば先の祖母の反応にも納得がいく。どう見ても、失礼ながらこのお兄さんがただの「一般人」だとは思えないだろう。そして当然のように、この人は「一般人」ではなくて、本当に「本職の人」なのである。そんな人が、急に家に訪ねて来たら戸惑うのも無理は無く、気が弱かったら失神して倒れても不思議ではあるまい。
僕は祖父と祖母に向き直り、
「えーっと。この人は、渚さんのお兄さんだよ」
「いつも渚が、お世話になっております」
僕に合わせてお兄さんが綺麗に頭を下げた直後、祖父と祖母の顔に急速に安堵と理解の色が広がった。広がったのも束の間、「そ、それならそうとなぜ先に言ってくれんかったんだっ。ワシはてっきりまー坊が借金でもこさえたのかとっ」「あら大変、お茶もお出しせずにっ」「婆さん、お茶はいいから酒だ酒持って来いっ。ワシの部屋にあの取って置きあっただろ!」「おつまみも今日は全然用意してないのよどうしましょうっ」「何をしとるんだっ、ワシの財布持って今からスーパーに」「――本日はお話があり、失礼を承知でお伺いさせて頂きました」
慌てふためく祖父と祖母を遮って、お兄さんが静かに、しかしはっきりと通る声ですべてを制止させた。
真っ直ぐに視線を向けるお兄さんの気配に、居間が沈黙する。さすがは本職である、たぶんここで僕とお兄さんの二人きりであったのなら、小便が漏れ出しそうな程の冷たい空気を感じた。渚さんとはまた違う迫力があった。きっとこれが、修羅場とかを潜り抜けたからこそ出せるものだと、そう判らせるのには十分過ぎた。
幾らか気配を緩和した後、祖父と祖母が自然と居間に腰を据えたのを見計らい、お兄さんが言った。
「改めてご挨拶をさせて頂きます。渚の兄の、嘉応龍司と申します。ご挨拶が遅れましたこと、お詫び致します。……本日はお孫さんの保護者である御両人に折り入ってお話があり、失礼を承知で訪ねさせて頂きました。……渚が、いつも本当にお世話になっております。これはほんの気持ちです、つまらないものですが、どうかお納めください」
お兄さんの存在が大き過ぎてまったく気づかなかったが、その脇に置いてあった箱を、そっとテーブルの上に置いてこちらに差し出してくる。中身が何かは判らないが、包紙からして、もはや高級感が漂っている。きっとこれは並大抵の一般家庭がおいそれと買えるようなものではないことが、容易に想像できた。そのあまりの神々しさに恐れおののいた僕とは違い、隣に居た祖父は真っ向からお兄さんを見据え返し、
「……お話とは、何ですかな」
はい、とお兄さんが更に姿勢を正し、
「もうお判りでしょうが、御覧のように、私は世間様に顔向け出来るような仕事をしている身ではありません。これまで、捕まってもおかしくないことを繰り返して来たような汚れた人間です。そんな人間であることを、先にご理解頂きたいのです。そしてそれを理解した上で、どうか私の身勝手を聞いてください」
一瞬で、お兄さんが畳に両手を着いて、頭を下げた。
本職の、本気の、土下座だった。
驚いた三人を跳ね返し、お兄さんは言った。
「これからも、お孫さんである真人くんと、妹である渚の交際を、続けさせては頂けないでしょうか。我々には学も無く、血みどろの過去しかありません。ですが、これからの渚は、必ず、真人くんのために全うな人生を歩みます。ですから、過去を忘れろとは言いません、過去を理解した上で、これからの渚を見てやって欲しいのです。その上で、このような私の存在が気に掛かるのであれば、金輪際、渚や貴方方には、一切近づきませんし、姿すらも消しましょう。それでどうか、手を打って頂きたいのです」
その土下座を見て、そしてお兄さんの台詞を聞いて、
僕は、一発で、頭に来た。この人は、まだこんなことを、
感情に任せたまま、僕は意を決して口を開き掛けて、
「――顔を上げてくれませんか」
唐突に響いた祖父の静かな声で、出鼻が挫かれた。
戸惑う僕と、顔を上げないお兄さん。
「顔を上げなさい」
やがて再び、今度は有無を言わせぬ雰囲気で、祖父が言った。
お兄さんが顔を上げ、真っ直ぐに祖父を見据える。繋がった視線の中で、言葉が紡がれた。
「……さすがは渚さんのお兄さんだ。兄妹揃って、よく似ておりますな」
意味を掴み兼ねた僕とお兄さんを前に、祖父は続ける。
「これはワシと婆さんで墓まで持っていくつもりだったんですがね。……渚さんが高校を卒業して少しした後に、ひとりで訪ねて来たことがあったんですよ」
初耳なその台詞に対し、僕は驚いて祖父を見つめる。
渚さんがひとりでここに?、なんで?、と頭が混乱する、
「その時にちょうど、今の貴方と同じことを言っておりました。過去を理解した上で、どうかこのままで居させてくださいと、頭を下げられました」
僕の知らないところで、渚さんがそんなことをしていたことに驚きを隠せない、
「失礼は承知で、ワシはご家族の事を訪ねました。そうしたら渚さんは、真っ直ぐに、『兄がいます。兄だけが今のわたしの家族です』と、そう言い切られました。あの渚さんがそうまで言い切る方なんだ、どんなことをされていようが、ワシらがとやかく言うつもりはありません。汚れた過去など、長い人生を過ごせば、ひとつやふたつ、出てきましょう。そんなことで、ワシらが若い芽を摘むことなど、どうして出来ましょうか」
そうして祖父は、頭を下げた。
「こちらこそ、ぼんくらな孫とワシら共々、今後とも、どうかよろしくお願い致します」
祖父の横に居た祖母までも、綺麗に頭を下げていた。
その台詞を受け、お兄さんが拳を強く握り締めながら、額を畳にぶつけるように、再び頭を下げた。
「……感謝します。本当に、ありがとうございますっ」
それから、祖父と祖母の接待攻撃が始まった。
すっかり打ち解けた三人がほとんど夜通しで飲み明かし、朝方にようやっとお開きとなった。その間、蚊帳の外で眠りこけていた僕に対し、お兄さんは帰り際、とんでもなく酒臭い口を開いて豪快に笑いながら、
「いやあ良かった。あん時に爺ちゃんに消えろって言われてたら、おれはマジで死ぬしか法方が無かったからな。命拾いした。渚になんて言えばいいかと冷や汗もんだったわ。ただこうしないと、いざと言うときの揉め事になると思ってな。おれだって、渚の結婚式で晴れ着を見たいんだ。頼んだぞお前。敢えておれが言うが、渚を泣かしたら組総出でお前を殺しに行くからな」
冗談に聞こえないことを、冗談みたいな口調で言いながら、お兄さんは帰って行った。
朝日に照らされて消えて行くその背中を見ながら、僕は寝ぼけつつも「何だったんだ」と、密かに思った。
渚さんのお兄さんのことについて言えば、それくらいのものである。
◎
そして僕と渚さんのことについて言えば、ひとつだけ、重大な問題が残されることとなった。
渚さんが学校を卒業してもうすぐ一ヶ月になる。あと何日かで四月も終わり、新生活にも幾ばくか慣れ始めたその日も、僕は悶々としながら過ごしていた。いや正確には、渚さんの卒業式のちょっと前から密かに思っていたのだが、月日が経つにつれてそれは次第に活発になっていき、そして表面にひょっこりと顔を出したが最後、ついには引っ込まなくなった。
重大な問題である。それはつまり、渚さんの就職先のことだった。
渚さんが高校を卒業して約一ヶ月。この間、どうやら渚さんはちゃんと働いているらしいのだが、その勤め先を、頑なに言おうとはしなかった。事ある毎に突いてみるのだが、悉く、「言わない」「教えない」と拒否される。「渚さんの勤め先って、どこなんですか?」「言わない」「渚さんの働いているところって、」「教えない」「そう言えば、」「言わない」「あの、」「教えない」「渚さん」「なんだよ」「好きですよ」「教え――……殺すぞ!」とかそんなような感じで、取りつく島もないのである。
渚さんのことだからきっと、まともな就職先が見つかるとは、失礼ながらどうしても思えない。スーツを着て事務職やOLをしている姿なんて想像出来ないし、かと言って渚さんのことだから、如何わしい、それこそキャバクラとか風俗とかで働こうものなら、サービスの前にお客さんを半殺しにし兼ねない。だから働いていると言われても疑問点しか出て来ないし、もしかしたら肉体労働の工事現場で働いていると言われた方が、まだ信用できる。
しかし渚さんの口から本当のことを聞くまで不用意なことは避けたいし、言いたくないのは言いたくないなりの理由があるからだと思うし、でも僕たちの間に隠し事があるというのは実はものすごく悲しいことだと思い始め、そろそろこの気持ちにも決着を着けなくちゃならない時期だとは思っている。
そんなようなことを考えながら悶々と過ごしていたある日、学校の校門からとぼとぼとひとりで帰ろうとしていたら、急に声を掛けられた。
「ちょっと、先輩」
一瞬だけ、誰のことを呼んでいるのかが判らなかった。
まさか僕のことじゃないよなと思いつつも、声がした方に視線を向けると、同じ学校の制服を着た二人の男子生徒が居た。その二人がこちらを見ながらゆっくりと近づいてい来る。着崩した制服の腕章が一年生のものであることがすぐに判り、それと同時に、本当に僕の後輩であることを理解した。そんな実感なんてまったく湧かないが、それでもきっと、先輩とは僕のことなのだろう。
近寄って来る二人をまじまじと見つめながら思う。それにしても柄の悪い二人組みである。盛山先生の言っていた問題児というのは、もしかしたらこの二人のことなのかもしれない。
「ええっと。先輩って、……僕のことだよね?」
「そーそー。ちょっと聞きたいことがあんだけどさ」
ニタニタとしながら、後輩くんはそう言う。
ちょっとだけムッとする。僕が丁寧に言ったのに、いきなりタメ口とは何事か。
だけどいきなり説教をかますだけの度胸は僕には無く、仕方が無く会話に付き合う。
「なに?」
そして後輩くんは、唐突に言った。
「去年卒業した嘉応渚って知ってる?」
いきなり渚さんの名前が出て驚く。前にもこんなことがあったなと思いつつ、
「知ってるけど。それがなに?」
「そいつの彼氏がこの学校に居るって聞いたんだけどさ。それが誰か知らない?」
本当に前にもこんなことがあった。
しかし、これは一体、どういうことだろうか。この二人は、渚さんの知り合いなのだろうか。だとしたらなぜ、僕を捜しているのだろう。まったく意味が判らない。
言葉を選びながら、探ってみる。
「……その人に何か用?」
舌打ちが聞こえた。目の前の後輩くんから聞こえたと理解するのに、少し時間が掛かった。
口調が急に苛立ちを含み始め、
「知ってるかどうかって聞いてんだよ。いいからさっささと答えろよ」
その瞬間に理解した。
ああ、これはきっと。これはきっと、渚さんが過去に犯した罪のひとつだ。
昔、渚さんは相当に荒れていた。その頃、誰彼構わず喧嘩をしていた時期があったらしい。その時に、きっとこの二人も渚さんの標的になったに違いない。勝ち負けはおそらく、この状況を見れば明らかだろう。大方、当時の渚さんと喧嘩をして負けたのだ。そしてその渚さんがここの卒業生だと知り、おまけにその彼氏がまだこの学校に居ることを聞いた。そこで思いついたのが、きっと復讐なのだ。当時にやられたことを、やり返しに来たのだ。
だから、これは渚さんが過去に犯した罪のひとつ。
そしてその罪は、きちんと償わなければならない。過去を消すことなんて出来ない。出来ないからこそ、背負わなければならない。しかし、背負う人が渚さんでなければならないなんて、誰が決めた。渚さんは今、何処でかは知らないが、しっかりと働き始めた。そんな渚さんに、こいつらのような人間を会わすことは避けなければならない。だから、他の誰かがその罪を背負わなければならない。そして背負わなければならないのなら、その役目は、僕が喜んで引き受けよう。
渚さんは、ひとりで覚悟を決め、僕の知らないところで頭を下げた。
だったら次は、僕が渚さんの知らないところで覚悟を決め、頭を下げるべきだ。
渚さんの傍に居るために。渚さんと一緒に歩いて行くために。
だから。
目の前の後輩を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「ぼ――…………おれが、渚の彼氏だ。話があるなら、おれが聞く」
言い直したが、自分でも意外なほど、台詞がすらすらと口から出た。
修羅場なんて大層なものは潜ったことがない。しかし、渚さんと付き合い始めてから二度、小便をちびるような見た目の人と関わることがあった。それに比べればこれくらい、どうということはなかった。殴られるかもしれない。骨だって折られるかもしれない。それでも不思議と、恐怖はなかった。ただ純粋に、僕だって渚さんの盾になれるのだと思うと、逆に誇らしかった。
僕の台詞を受けて、後輩が「はぁ?」と声を漏らし、
「お前みてーのが彼氏な訳ねえだろ。殺されない内に誰か言えっつってんだよ」
「嘘じゃない。おれが渚の彼氏だ。だから話はおれが聞く」
後輩二人が顔を見合わせた後、即座に不快な笑い顔を現せ、
「へえ。じゃあまぁお前でもいいや。自分で言い出したんだから、責任持てよ」
予想通りの展開だった。後輩の手が伸びて来て、胸倉を捕まれた。
「昔、てめえの女に殴られた借り、返させて貰うぞ。嘉応渚呼べよ。てめえと一緒にボコって土下座させてやるよ」
やはり渚さんの過去の罪だ。だったらそれは、甘んじて受け入れよう。
ただし、
「殴るなら殴れ。だけど絶対に、渚は呼ばない」
「状況判ってんのか。お前からボコるぞ」
「だからやっていいって言ってるだろ」
「お前っ、あんまり舐めたこと言ってると、」
胸倉を掴んだ手とは逆の手が、後ろに大きく振り上げられた。
やっぱり恐怖は無かった。これが渚さんの罪ならば、僕は目を逸らしはしない。意識が途絶えようが、例え殺されることになったとしても、僕は絶対に目を逸らさない。これが僕の覚悟だ。だから、
腕が一気に振り下ろされるその瞬間、
「あー!! 少年!! やっと見つけた!!」
そんな場違いな声が聞こえた。
その声で腕が急停止して、僕と後輩二人が、釣られるように揃って声のした方へ視線を向けて、
小便をちびり出しそうな見た目の不良がひとり、手を振りながらこちらに向かって歩いて来る。それは目の前の後輩二人がハナクソに見えるレベルの不良だった。そして僕はその不良さんに、見覚えがあった。渚さんの友達の、渚さんの誕生日プレゼントを一緒に選んでくれた、あの不良さんだった。
いきなりの登場に固まったままの僕たちの所へ、不良さんがずかずかと歩いて来て、
「捜したぞ少年。携帯番号くれー聞いとくんだった。まぁいい、やっと見つけたんだしな。そんなことより少年、今からおれに付き合――……何してんの、お前ら」
この状況に気づいた不良さんに気づいた後輩が、慌てて僕の胸倉から手を離して言葉に詰まる。
たぶんきっと、僕には理解できない、不良にしか判らない雰囲気があったのだと思う。その雰囲気を敏感に察知した不良さんは、今まで浮かべていた顔をすっと消して、まったくの無表情になった。僕ですら、その顔の豹変に血の気が引いた。まるで人でも殺しそうな顔をしていた。
不良さんが二歩だけ踏み出して、ぽつりと、
「……今、何してたの、お前」
胸倉を掴んだ後輩に対し、状態を屈めて下から覗き込むようにそう言った。
知り合いの僕でさえもはや、失禁しそうになる。
そして相手になった後輩は僅かに後ろに後退しつつ、
「えっ、いや、あの……おれ、あ、いや、僕は、そのっ」
「殴る前で良かったな」
後輩の言葉を遮って、不良さんは言う。
「誰のツレに手ぇ出してるか、判ってないんだな。殴ってたら、取り返しつかなくなってたぞ。……今回だけは見逃してやる。次はないからそのつもりでいろ。判ったな、ガキ共」
無意識の内にぶんぶんと首を振っているであろう後輩をそのまま放置して、不良さんが急にこちらを振り返る。
振り返るのも束の間、すぐに歩み寄って来て、
「おう少年、こんなことしてる場合じゃねえんだよ」
状況がまったく判らない、びびりまくっている僕の肩に腕を回して強引に引っ張りながら、
「ちょっと今からおれに付き合えよ。面白れえもん見に行くぞ」
「え、あのっ、ちょっとっ!」
慌てふためく僕を半ば拉致する形で、不良さんは問答無用で引き摺って行く。
後輩二人が、半ば放心気味に僕を見ていることが、すごく印象深かった。
不良さんに連れられるまま、おそらくは不良さんのものだと思われる車に詰め込まれた。
車の種類なんて僕にはほとんど判らないが、それでもたぶんそれなりの高級車だろうというのが一目で理解できる車で、真っ黒のボディに真っ黒の窓ガラスで、走る度にマフラーから景気の良い排気音が響き渡って、カーオーディオから流れる音楽の重低音が凄まじかった。僕はそんな車の助手席に座り、街を走り抜ける風景を見ていることだけしか出来ない。何か言おうとしても音楽の音量がでか過ぎて何を言ってもまったく聞き取れない。
しばらく走った後、近くの繁華街の裏路地の立体駐車場に車を停めた不良さんは、後部座席から何かを幾つか取り出した後、それを僕に押し付けながら、
「それ着ろ。ああ、あと帽子とサングラス忘れんなよ」
反論しようものならきっとさっきの無表情になるだろうから、黙って従うしかなかった。
手渡されたこの時期に不釣合いなダウンジャケットはサイズがそもそも違うからダボダボで、緑の野球帽と色の濃いサングラスなんてものは、今日が無ければきっと、僕は一生身に着けることなんてなかったと思う。それらをすべて装備した結果、不審者丸出しの僕を見た不良さんは大爆笑をしながら「わははは、時代遅れのB系かお前は。HEYYOって言ってみろ」と馬鹿にしてきた。理不尽極まりないと思う。
不良さんに連れられて繁華街を歩いて行く。さすがにこの時期にこの服装は暑過ぎたが、どうしても不良さんはこれを脱がしても取らしてもくれない。見た目の怖い不良さんと、不審者丸出しの僕が並んで歩くその姿は周りから相当浮いていて、行き交う人々が進路を譲ってくれるほどであり、すれ違う人の視線が突き刺さってものすごく居心地が悪かった。
やがて辿り着いたのは、繁華街の中ほどの路地をひとつだけ曲がったところにある場所だった。地下へと続く長い階段が目の前にあって、その突き当たりに豪華な扉がある。どうやら何かのお店らしいのだが、よく読めない横文字のせいで何と書いてあるのかはまったく判らなかった。
不良さんが階段を下りて行くから、それに従うようについて行く。不良さんが遠慮なく豪華な扉を押し開けると短い通路があって、奥にもうひとつ、さらに豪華な扉がある。そしてその前に、黒服を着たスキンヘッドの大男が仁王立ちしていた。渚さんのお兄さんに負けず劣らずの体系で、まるでアメリカ映画に出て来る御要人のボディーガードのような人だった。
「うっす。久しぶりっすね後藤さん」
不良さんがポケットからパスケースのようなものを取り出しながらそう言った。
後藤さんと呼ばれたスキンヘッドは、ため息混じりに息を吐き出しながら、
「何だお前か。真昼間から良い身分だな」
「そう言わないでくださいよ。今日は飲みじゃなくて偵察ですよ偵察。ほら、前に言ったでしょ。それがこいつです」
その台詞と共に、不良さんが僕の背中を押して後藤さんの前に差し出す。
まるで生贄のような気分で後藤さんの前で縮こまっていると、ほう、と感心するような声が聞こえた。
「こいつがそうか。ならまぁ、今日は特別だ。入っていいぞ」
「どうもっす後藤さん」
後藤さんによって開かれた扉の向こうには、僕が一生入らないであろう世界があった。
まるでテレビドラマに出て来るような空間だった。どこかで見覚えがあるような気もする、なんというドラマだったか覚えていないが、そこに出て来た高級クラブが、ほとんどそのまんまの姿形でそこにはあった。豪華な内観だったが、それでもすべてが綺麗に統一されていて、ものすごく落ち着いた雰囲気のするバーだった。昼間なのにちらほらとお客さんが居るようで、しかしそこ居るすべてのお客さんが、僕なんかとは住む世界が違うような人間だというのが、瞬時に理解出来た。
場違い過ぎて戸惑う僕を誘導し、不良さんが近場のボックス席に腰掛ける。
ソファーがふかふか過ぎて落ち着かない、この場所が異世界のような気がしてならない、僕のイメージではこういう所には片言の黒人が居て、すっと近寄って来ては危険なドラックを進めて来るような、そんな気がして、
「顔は絶対に上げるなよ。そのまま左の方、カウンターの近く見ろ」
不良さんにそう言われるまま、まるでロボットのようにそっちに視線を向けて、
思わずサングラスをぶち破って目玉が飛び出そうになった。
カウンターの横にムスッとした顔で立っているのは、他ならぬ渚さんだった。おまけに、ウエイターの服をびっくりするくらい綺麗に着こなしていて、いつもの渚さんより格段に大人びて見えた。遠目だから詳しくは判らないが、たぶん普段はしないような化粧をきっちりとしているみたいで、本当に別人のように見えた。別人のように見えたが、それでもやっぱりあれはまず間違いなく渚さんで、いやでもこれ、あれ、
何の言葉も出て来ずに呆然としていると、隣に座っている不良さんが今にも大笑いをし始めそうな雰囲気を漂わせたまま、
「一ヶ月半くらい前だったかな。渚が急におれんとこに来てよ。何事かと思ったら、仕事を紹介しろと来たもんだ。あの渚がおれに対して頭下げるからよ、びっくりし過ぎて思わずおれの行きつけの風俗を紹介したら蹴り飛ばされた。冗談も判らないなんてお前どういう教育してんだよ」
教育も何も、ていうかあれ、ナニコレ、まったく意味が判らない、
混乱し過ぎる僕を置いたまま、不良さんは続けて、
「まぁでも、渚の頼みだからな、おれも結構マジで探したんだよ。そうしたらちょうど、昔に世話になった人が出した店で人手が欲しいって話があってだな。紹介したのがここなんだよ。ああ、安心しろよ。如何わしい店じゃねえよここ。会員専用の、ちょっと、いやかなり高いバーでな。すげえんだぞ。ここでポッキー一個でも食ってみろ、普通のサラリーマンの月給が吹っ飛ぶぞ」
視界の中で渚さんがお客さんに呼ばれ、ムスッとした表情のままで何事かをお客さんと喋っているのが見て取れた。おそらくは注文を取っているのだろう、取っているのだろうが、あれが接客をする人の表情なのだろうか。
その僕の内心を読んだかのように、不良さんは少しだけ苦笑し、
「あいつ無愛想だからどうなるかと思ったんだが、存外ちゃんと出来てるみてえでよ。あいつは黙ってじっとしてれば顔は良いからな、中身知らないと、あれがなんかちょっとクールに見えるらしくて、それなりに人気あるみたいだぞ」
もはや呆然と渚さんを見ていることしか出来なかった。
なんかもう、言葉がまったく出て来ない。
「どうせ渚のことだから、少年にこの仕事のこと言ってねえんだろ。だからおれがチクってやろうと思ってな。仕事を紹介してやったんだ、ちょっとくらい面白いことしても罰は当たんねえだろ。だから少年、顔伏せてろ。今からおれがいいって言うまで絶対喋るんじゃねえぞ。……おーい、渚!」
僕の返事を聞く前に、不良さんが渚さんの名前を呼んだ。
心の準備すらしていないのになんてことをしてくれんだと思いながらも、慌てて顔を伏せる。それは不良さんに言われたからではなく、今にどんな顔をして渚さんに会えばいいのかが判らなかったからだ。
呼ばれたことに気づいた渚さんが、見なくても判るくらいの不機嫌オーラを発しながらこっちに歩いて来る。距離が着実に縮まっていき、出来ればこのまま何事も無く通り過ぎてくれないだろうかと神様に願ってみたが、そんなものは何の役にも立たず、僕と不良さんの目の前で渚さんは立ち止まった。
「なんでお前がここにいるの」
開口一番がびっくりするくらいの不機嫌な声だった。
おそらくは不良さんに言った言葉だと思うのだが、聞いている僕の中では寿命が尽き果てるかのような焦りが湧き出てきて、
「なんて口を叩くんだ。仕事を紹介してやった恩人に向かって。接客業なんだからもっとこう、笑顔でサービスを」
「注文は?」
不良さんの声を遮って、渚さんは冷たくそう言う。
そして不良さんは最初からそうなることが判っていたかのように、
「今日は車だからノンアルコールの飲み物なんか適当に頼む」
畏まりましたも承りましたも、それどころか返事すらしない渚さんは、そのまま、
「そっちの小さいヤツの注文は?」
僕のことだ。今日に何度小便を漏らしそうになったかはもうまったく判らなくて、どうしようどうしようどうしようと戸惑っていると、唐突に不良さんが、
「お、おいっ。馬鹿野郎! お前この人になんて口利くんだっ」
三流役者も真っ青な大根口調だった。
やめてくれと思わず叫びそうになったが、それでもその口を開く勇気が出て来なくて、
「はぁ?」と、渚さんが本当に不機嫌そうな声を出し、
「この小さいのが何だよ。知らねえよ」
「いいんだなお前。どうなっても、おれは本当に知らないぞ」
「こいつがなんだっつーんだよ」
「超VIPなお客様だ、丁重に扱わないと、」
「うるさい黙れ」
接客業にあるまじきことが起こった。
業を煮やした渚さんが、無造作に僕の帽子を思いっきり剥ぎ取った。力加減がほとんどなかったせいで、結構な勢いで帽子が取れた拍子に、サングラスが鼻の半ばまでずり落ちる。覚悟も何も決めていない唐突な出来事だったため、もはや成す術は無くて、それでも尻の奥の方から何とか勇気を掻き集めて、もうどうにでもなれ精神をフル活動させた。
顔を上げて、渚さんを見た。そして、言った。
「……あの、どうも。こんにちは……」
あはは、と何とか乾いた笑いを漏らすことに成功し、
しかしたったそれだけで世界は止まって、繋がった視線の先で渚さんの瞳が揺れ動いて、
それで、
瞬間、
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
渚さんが壊れた。
壊れたと思った次の瞬間には、踵を返してあっという間にカウンターの横にあった扉の向こうに姿を消してしまった。
その姿を呆然と見送ることしか出来なかった時、隣にいた不良さんが再びの大爆笑で、
「わはははは!! なっ、何だ今のはっ!! あのっ、あの渚がっ……!! おい見たか少年!! あの渚が顔真っ赤にしてたぞっ!! やべえ、これはマジでやべえっ!! 腹痛えわはははは!!」
その笑い声を聞きながら、なんてことをしてくれたんだと、今になって怒りが湧き上がる。
ここは後にどうなろうが文句のひとつでも言うべきだと判断し、すぐさま立ち上がった直後、
「おい」
いきなりドスの利いた声がした。
慌てて振り返ると、たぶん渚さんと身長が変わらないくらいの、極々普通の男の人が居た。きっちりとしたバーテンダーの服を着ていて、何だか仕事が出来そうなサラリーマンという感じの、極々普通の人だった。ただ、普通の人と違う所が一箇所だけ、あった。それが、その人の目だった。体格は渚さんのお兄さんやさっきの後藤さんに比べればあまりに小さいが、それでもその目の威圧感は、二人の比ではなかった。
その威圧感に頭が真っ白に染まった時、不良さんが笑い過ぎた涙目のまま、
「ああ、忠彦さん、どうもご無沙汰です」
どうやら不良さんの知り合らしくて、それで、
突然に、忠彦さんと呼ばれた男の人が、不良さんの胸倉を鷲掴んで立たせた。
世界が凍りつく中で、言葉が紡がれる、
「お前、おれの部下に何してくれてんだ」
「えっ、いやいやっ。あれはもともとおれが紹介を、」
「関係あるか。嘉応くんは今はおれの部下だ。舐めたマネすると殺すぞ」
「え、……あ、いや。…………すんません、調子乗りました……」
あの不良さんが一発で萎えさせられた。何だこの人、とぶるぶる震えていると、その視線が唐突に僕へ向けられた。
あまりの威圧感に膀胱が本当に限界を迎えそうなその時、
「君、中野くんでしょ? あっちの扉から中に入れるから、行ってあげて。たぶん更衣室にいると思うから。もう今日はそのまま嘉応くんも上がりでいいから一緒に帰りな。代わりにこいつを働かせるから大丈夫」
「えっ、えーっ!? ちょっと待ってくださいよっ、おれも今から用事が、」
「あ?」
「…………はい、すみません、喜んで働かせて頂きます……」
「中野くん、今度はちゃんと遊びに来てよ。君の会員証、作っておくから。お酒は出せないけど、ジュースとご飯くらいならご馳走するよ」
それだけで言った忠彦さんが、視線で「それより早く行け」と言っていた。
完全に沈黙してしまった不良さんのことが僅かに気が掛かりだったが、元はと言えばすべてこの不良さんの責任であるからして、見捨てることを決断する。
店内を横切って、先ほど渚さんが消えて行ったカウンターの横の扉から中へ入る。いわゆるバックヤードと思わしきそこも、店内に負けず劣らずの豪華さだった。入ってすぐの左手に大きな厨房があって、その反対側に半開きの扉があり、少しだけ覗いた結果、おそらくは応接間と呼ばれるような部屋なのだろうが、まるで任侠映画に出て来る事務所みたいな所だったから慌てて見なかったことにする。三つ目の扉の上にプレートが掛かっていて、そこには「更衣室」と書かれていた。
さっき言っていたのはここだろうと判断し、もし万が一に着替え中だったときのこと想定して一応はノックをしてみた。返事がない。もう一回ノックする。それでも返事がない。仕方がないからドアノブをゆっくりと回して、「……失礼します」と小声で言いながら中へ入って行く。
それなりに広い空間がそこにはあって、何となく銭湯の脱衣所みたいな印象を受けた。それで例えるのであれば、本来は服を置く棚があるところに、学校とかでも良く見るようなロッカーが十個ほど並んでいる。しかし室内を見渡しても渚さんの姿はどこにも無くて、不思議に思って何となく、
「……渚さん?」
ダメ元で名前を呼んだ瞬間、視界の端でいきなりガンッと音が鳴った。
見当違いの方向からの音で思わず驚いた僕が慌てて視線を向けると、壁の端っこに着替用のものと同じ形をしたロッカーがひとつあって、そこに貼ってある小さなプレートには「掃除用具」と書かれている。どう考えても音はそこからしたし、この状況で考え得る結論なんてもはやひとつしかなかった。
思わず笑いそうになったのを何とか我慢し、掃除用具入れの前まで歩み寄ってゆっくりと声を掛ける。
「渚さん」
その声に観念したかのように、やがて掃除用具入れの扉が本当に、本当にゆっくりと開いて、中から俯いた渚さんが出て来た。
他にもっと隠れられる所なんて幾らでもあっただろうに。どうやら相当に混乱していたらしい。そんな渚さんの姿を見て、悪いことをしたと、今になってものすごく思った。だから素直に、頭を下げた。
「ごめんなさい。渚さんを驚かすつもりはなかったんです。ただ、成り行きっていうか、その、」
でも。それでもやっぱり。
「でも、渚さんの働いている姿を見れて、正気言うと、嬉しかったです。本当は、渚さんから聞くべきでした。それについては本当に、ごめんなさい」
その言葉を聞いた渚さんは、俯いたままやがてぽつりと、言った。
「……………………ごめん」
顔を上げると、渚さんはやっぱり俯いたまま、
「……本当は、……ちゃんと、言おうと思ってたんだ。思ってたんだけど、でも……」
僕は、笑った。
もういい。それだけでいい。十分だ。
渚さんの言葉を聞いて、すぐに理解してしまった。
単純なことだ。言うのが恥ずかしかった、ただ、それだけのこと。
だから僕は笑った。笑って、手を差し出した。
「一緒に帰りましょう渚さん。今日はもう上がっていいって、お店の人が言ってました」
それからどれくらい経っただろう、やがて渚さんが僕の手をおずおずと握り返し、
思いっきり引っ張られたと同時に、とんでもない音と同時に目の前が真っ暗になった。渾身の頭突きを食らったと理解する頃にはもう床にひっくり返っていて、ぐわんぐわんと歪む視界の中で渚さんは僕を真っ直ぐに睨みつけながら、
「お返しだ馬鹿野郎! 次やったら本当に許さないからな! あの馬鹿もだっ! あいつ絶対あとでぶっ殺してやるっ!」
そう叫ぶ渚さんを見ながら、頭の痛みを何とか押し退けて、僕はもう一回だけ、笑った。
◎
そして最後に。
それからのことについて言えば、僕と渚さんが一緒に居る時の最後の締め括りは、いつしかあの公園に定着していた。その公園の、いつものベンチに隣り合って座って、僕たちはずっと、手を繋いでいる。どっちが言い出した訳でもない、どっちが決めた訳でもない。いつの間にかそうなっていたし、いつしかそれが当たり前となっていた。そしてそれはこれからも変わらないであろうことが、自然と理解出来た。だからその日もまた、僕たちは二人でその公園に居た。
夕暮れで紅く染まった公園には、僕たち以外、誰も残っていなかった。遊ぶ相手が居なくなった遊具は静かに鎮座していて、夕日に照らされた影が長く伸びている。静かな空間だった。誰もいない空間だった。それはあの日、渚さんと初めて出逢った当時と、どこも違っていなかった。そしてそんな光景を見て、やっぱり僕は、世界の終わりみたいだと、思った。
でも、当時とどこも違っていない風景だが、当時と決定的に違う事がある。
今の僕の隣には、渚さんが居る。そして、渚さんの隣には、僕が居る。
繋いだ手は、決して離さない。
僕たちはもう、世界の終わりのようなこの場所にいても、ひとりぼっちではないのだ。
だから、僕は、僕たちは。
「…………あのさ」
いつかのように渚さんはそう切り出した。
視線を隣に向けると、渚さんは公園のどこか一点を見つめたまま、
「……あー、…………その、……」
「? どうしたんですか?」
歯切れの悪い、渚さんらしからぬその態度が不思議だった。
どうしたのだろう、と渚さんを見つめていると、唐突に覚悟を決めたかのように口を開き、
「――きょっ、……今日はひとつだけ、お前の頼みを、聞いてやるっ」
「え?」
急に何を言い出すのだろう。僕にはまったく意味が判らず、
「どうしたんですか、急に」
「いいから何か言えっ」
切羽詰ったかのようにそう言う渚さんに、僕はますます意味が判らなくなる。
しかし、頼み。頼みって何だろう。お願い事だろうか。僕が何かお願いをする。それをなぜかは知らないが、今日の渚さんは聞いてくれるという。意味はやっぱりよく判らないが、それでも僕はぼんやりと、そうですねー、と呟きながら考える。
急に言われてもほとんど思いつかないが、それでも、僕が渚さんにするお願いなんて、たったひとつしかなかった。
「じゃあ、これからも一緒に居てください」
笑ってそう言うと、頭を結構な勢いで殴られた。
「痛っ。何するんですかっ、今の普通に」
「違げえよっ。そういうことじゃなくてっ、そうじゃなくって……、その……っ」
どんどん尻すぼみになっていく渚さんの声。
本当に意味が判らなくて、殴れた頭は地味に痛くて、それでも渚さんはなぜか切羽詰っていて、
やがて渚さんは、急に苛立ち気に立ち上がって、僕を真っ向から睨みつけ、
「ああもうっ。いい加減気づけよっ。くそっ、…………まっ、……っ、まっ……、ま……っ」
ま?
一体、渚さんは何が言いたいのだろう。
そう思っておそるおそる見つめていると、ついに我慢の限界を迎えたらしい渚さんは、いきなり僕の胸倉を鷲掴みして来た。そのまま一気に引き寄せて来て、至近距離で顔を突き合わせ、小便を漏らしてもおかしくない程の睨みを利かせて、人でも殺すんじゃないかという程の低い声で言い放った。
「……目、閉じろ。わたしがいいって言うまで絶対開けるな。開けたら殺す」
有無を言わせぬ迫力があった。恐ろし過ぎて目を瞑る以外の選択肢が、僕には無かった。
これから何が起こるのか、今から何をされるのか、拳が来るか蹴りが来るか頭突きが来るか、あるいは鳩尾や急所への攻撃かもしれない、急所ならもはやどうすることも出来ないが、さすがの渚さんでもそこまでの鬼畜ではないはずだが、いやしかし昔の渚さんは何の躊躇いもなく急所へ攻撃することを選択していたし絶対に無いとは言い切れず、でもだからっていやそれはないと思いたくて、しかし今はそれよりも顔だけではなく身体全体を強張らしてどこへの攻撃にも対処出来るようにするのが先決で、
「………………一緒に居てくれて、ありがとう、――真人」
「――え?」
渚さんの口から出た思わぬ台詞に、反射的に目を開けた瞬間、
ほんの少しだけ。ほんの、少しだけだった。至近距離にあった渚さんの、でもそれは間違い無く、
一瞬だけ近づいた顔が離れて、ゆっくりと渚さんが目を開いて、
開いたままだった僕の視線と繋がった直後、
瞬時に思いっきりぶん殴られた。
げふんっ、と自分のモノとも思えない叫びだけを残してベンチにひっくり返ったのも束の間、目前の渚さんが鬼のような顔をして、
「――おまっ、お前っ、ふざけんなよっ! なんで目開いてんだよっ!」
「えっ、はっ、いや、って、あれっ?」
もはや二人とも混乱し過ぎて何がどうなっているのかすら判らない。
いや、いま、確かに渚さんと、え、でもこれ、何がどうなって、それ以前にさっき、聞き間違えじゃなければ、渚さんが僕の名前を、って、え、どういうこと待って、これ、
ベンチにひっくり返ったまま、僕は呆然と渚さんを見つめていることしか出来なかった。
当の渚さんは顔を真っ赤にして明後日の方向を向いたまま、手の甲で口元を隠している。
ダメだ。思考回路がパンクする寸前だ。いやもしかしたら既にパンクしていて、むしろ皮膚をぶち破って脳みそが弾けているのかもしれない。もう何に置いても、さっぱり全然、意味が判らなくて、
やがて渚さんは、こちらには視線を一切向けず、言った。
「…………もう、絶対に、…………わたしからは、しないからな…………」
僕は、まったく気が利かないし、まったくデリカシーも無い、本当にぼんくらな人間だ。
だから今まで、幾度と無く渚さんを失望させて来た。
だけど、気が利かなくてデリカシーも無い、ぼんくらな僕でも、その台詞の意味にだけは、気づけた。
だったら取るべき行動なんて、言うべき言葉なんて、たったひとつしか思いつかなかった。
願い事が、見つかった。そうか、だからさっき、渚さんは、ああ言ったのだ。
最後の最後まで、僕は渚さんに気を遣わせてしまった。
だったら、ここからは、僕が言うべきだ。
ベンチの上で体勢を直しながら、僕は言った。
「……渚さん。お願いがあります。僕と――」
この場所は確かに、世界の終わりだったのかもしれない。
でも、今はもう、違う。
だったら、ここから始めよう。
世界の終わりのこの場所から、僕と渚さんで、もう一度。
もう一度、世界を始めよう。
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2015/02/16(Mon)19:58:49 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれている方はどうもどうも、消える準備を終えた神夜です。
そんなこんなで、『完結編』「卒業編」+「それから編」でした。クリスマスから何気なく投稿したこの物語もこれがラストとなります。まさかこんな枚数になるなんて正直思っていなかった。「なっきー」以来の久々の中編投稿で、おまけに全部吹っ飛ばして「やりたいことだけをやった物語」で自分で書いてて面白かったです。読んで頂いた方々も、少しでも楽しんで頂けてれば本望です。
これでもう思い残すことはない。またしばらくは読む専門へ戻ります。またいつかふらっと投稿出来ればいいなあ、と思っております。その時は良ければまた、お付き合いを。
それでは誰かひとりでも楽しんでくれることを願い、神夜でした。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。