『境界(1〜8)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:TAKE                

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 1.

 それに気付いたのはつい最近だ。

 日曜の午後、公園のベンチに座っていた。大きな公園だ。森のように木が並び、その中を何本かの歩道が通っている。別にいつも暇ってわけじゃない。平日は私服勤務の広告会社で仕事をしているし、女もいる。休日はデートをする事が多いが、その日はたまたま彼女の母が誕生日で、家族と過ごす事になっていた。
 そこは丁度木陰になっていて、夏の暑さを束の間忘れさせてくれた。たまにはじっと座って人間観察するのも悪くない。
 ふと、ある事に気付いた。道端のある部分だけ、誰も通らないのだ。電柱やベンチがあるわけでも、犬の糞が落ちているわけでもない。何の変哲も無い歩道の一区画だ。
 人には誰しも第六感が備わっている。他人の考えが分かったり、気配を察したり、ある場所を無意識に避けたり。それは人類の祖先が海に住む鯨類のような生物だったとされるホモ・アクエリアス説信者が強く提唱する考えだが、まあそんな雑学はどうだっていい。
 何となく気になり、立ち上がって近付いてみた。強い日差しが肌を刺す。
 そこへ足を踏み出そうとするが、どういう事だろうか。まるで見えない何かが佇んでいるかのように、侵入を阻む。普段気にも留めないようなものへ意識を集中すれば、新たな発見がある。思えば仕事や恋愛も似たようなものだ。
 右手を出してみる。すると、空間に触れた。何か確たる感触があるわけじゃない。ただそこへ手をついたという感覚のみが存在した。
 無数のクエスチョンマークが脳を支配する。一体これは何だ?
 続いてノックしてみた。左手を握り、裏拳を振るう。

 空間が砕け散った。
 文字通りの意味だ。拳の当たったところからヒビが入り、自分の背丈よりも少し高い穴が空いた。
 しかし、その向こうが別の場所に繋がっているだとか、ブラックホールのような漆黒の闇になってるなんて事も無く、同じ景色が在った。歩道の端と、木の列。
 腕を入れてみる。
 すると、穴の対極になる位置から自分の腕が出てきた。

 何なんだ?

 左腕も入れ、右手を掴む。顔のすぐ横で同じ動作が繰り返され、感触が伝わった。
 不可解なのは、入れた手が所定の位置に存在しているという事だ。もしもこれがいわゆる時空の境界と呼ばれる類のものだとすれば、腕は消えている筈である。という事は別の自分が境界の向こうで同じ行動を取っているとも考えられる。同じ行動を取れば、同じ感触がする。当たり前の事だ。
 続いて手を叩いてみた。パンパンと二回。
 しかしその時鳴った音はパパン、パパン。二倍だ。
 横で伸びてきている腕は自分とは別物だと推測した。
 考えれば考える程不可解で、キリが無い。
 腕を抜く。勿論境界から出てきた腕も同じ行動を取る。

 ベンチに戻って、腰を下ろし、深呼吸する。
 見なかった事には出来ないだろうか。……いや、無理だ。今晩にでも夢の中へ出て来そうだ。

 再び立ち上がり、同じ場所へ歩いてゆく。
 しかし、そこには正常な景色が在った。砕けた空間は消えていた。
 もう一度ノックしてみる。しかし拳は何に触れる事も無く、同じ現象は起きなかった。
 頭は更にクエスチョンマークで埋め尽くされた。

 翌日、ベッドで目を覚ます。夜にしこたま呑んだせいで頭が痛い。
歯を磨き、顔を洗う。シェーバーを顎に当てている時、目の前の鏡を割りたい衝動に駆られる。昨日の現象が再び起こる事を、どこかで期待している自分に呆れた。
 レザーシューズに右足を入れた際、手に持った靴ベラが折れた。舌打ちをする。左足の方は紐を解き、足を入れてからまた結ぶ。
 玄関を出ようとドアを開けた時、またそれが起こった。

 ちょっと待てよ……嘘だろ?

 家を出られない。
 躊躇いがちに右手を振る。拳が固い空間を突き破る。

 ここはマンションの五階、窓からは降りられない。家を出るには、この境界を通り抜けるしかない。
 二の足を踏む。
 しかし、選択の予知はない。これは幻覚だと自分に信じ込ませ、一歩前進する。境界から同じ靴が部屋に入ってくるのが見えた。
 体を横にして通り抜ける。顔が半分入った時、もう一人の自分と目が合った。
 戦慄を覚え、目を見開く。相手も同様の表情をした。
 そのまま体を進める。
 体が完全に通り抜けると、目の前には部屋の内部が在った。
 振り返る。

 今、出た筈だよな?

 開かれたドア。空間が割れた後のヒビは見当たらない。
 玄関を見回す。折れた靴ベラもそのまま、シューズラックの上に乗っている。
 再び部屋を出る。いつもの景色だ。

 幻覚なのか?

 とにかく会社へ向かう。
 最寄駅から、急行に乗り込む。だいたい同じ時間なので、乗り合わせる乗客の顔ぶれもだいたい決まっている。
 横並びになったシートの右端に座る。ここが指定席だ。
 同じく指定席を持つ大学生ぐらいの女がいる。いつも真向かいだ。しかし今日はその席に見当たらない。
 休みを取っているのか、遅刻をしたのだろうか。そう思っていると、隣に人の気配を感じた。その彼女だ。
「どうしたんです?」
 思わず声を掛けた。案の定怪訝な顔をされる。
 いつもは向かいに座っていませんかと、席を指す。同時にそこへ年老いた髭面の男が座った。
「いつもここですよ」
 女は笑った。あなたいい匂いがするんです、と曖昧な口説き文句のような言葉も発した。
 セールで買ったポールスミスだと言いつつ、不安が拭い切れない。それどころか、後から後からその濃度は増してゆく。

 やはりおかしい。

 緊張で手が汗ばむ。指先の感覚が薄れてきた。

 会社はどうなってる?

 意識が先走りする。早く、早く駅に着け。念じたところでダイヤは変わらないが、内心で電車を急かす。
 自分が降りる駅の一つ手前で女が降りた。それはいつも通りだ。
 席を立ち、扉の前に移動する。息が荒くなり、シャツの第二ボタンを開ける。

 駅に到着した。
 早足で会社に向かう。街中がどうなっていたかなんてのは気に止めないようにした。
 所属しているオフィスに入り、自分のデスクを見ると、そこでは同僚が作業していた。
「おい」
 声を掛ける。同僚は間の抜けた表情を浮かべてこちらを見上げてきた。
「お前のデスクは向かいだろ?」
 怪訝な顔をされる。電車の女と同じだ。
「何言ってる? 俺はずっとここだ。お前はこっちだろ」彼は左手をパソコンから放し、隣のデスクを指した。そこには愛用のMacとデザインの資料、その他私物が雑然と存在していた。
「どうした?」
 向かいで作業する先輩が言った。同僚のものであった筈のデスクだ。
「いえ……」
「体調悪いなら無理するな」
 大丈夫だと答え、デスクに着く。Macの電源を入れ、昨日やりかけだった新型車の広告を作る。仕事の内容には変化が見られなかった。〆切は三日後なので、ある程度進めたところでバンドをやってる友人に頼まれたホームページのデザインに手を付ける。
「進んでるか?」課長が画面を覗き込んだ。「何やってる」
「何って、仕事です」
「ホームページの製作がか?」
「知り合いに依頼されたやつです。ちゃんと会社を通して、俺を指名してきた」
「広告の方を優先しろ。時間が無いんだ」
 不安がまた増幅した。
「〆切はまだ先でしょう?」
「おい、しっかりしてくれ」彼は俺の肩に手を置いた。「明日の午後までだろ?」
「三日後までの筈じゃ……」
「俺には確かにそう報告してきたぞ」彼は溜息をついた。「急いで仕上げにかかってくれ」
「……分かりました」
 画面を広告の製作キャンパスに切り替える。

 まるでSFだ。それもサイコスリラーもの。
 主人公が精神異常者だと疑われ、それから謎の殺人が起こったりする。
 今居る世界は夢なのか? だとすればそれを証明出来る要素はいくらでもある。空間の破壊と再生、目が合ったもう一人の自分、微妙にズレた世界。
 しかしこう次々と妙な事が起きれば逆の発想が働く。

 何が現実だ?

 何を以て現実を証明する? 自然から感じる地球の息吹か、それとも科学か。隣に居る人間とのコミュニケーションか、自分が生き、行動し、生活を営む事か。

 何だこの禅問答は? 古典的でしかもキリがない。何故こんな事を考えなきゃならない? 何の罰ゲームだ。

 気が付くと、周りの社員が全員こちらを見ていた。
「何だ?」怪訝に思い訊いてみる。
 叫んでいた、と先輩が言った。
「悪い夢でも見たのか?」同僚が眉間に皺を寄せる。
「……今見てるとこだ」
 仕事の原稿をUSBに保存し、自宅での作業を申し出て、会社を早退した。


 帰宅して、ドアの鍵を閉める。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一・五リットルのペットボトルからそのまま飲んだ。
 ベッドに潜り込む。仕事をやらなきゃならないが、頭が回らない。仕事が何だ、どれだけ凝った広告を作ったところで二、三秒流し見されて終わりじゃないか、とも考えた。
 しかし、今の現実から逃げる事は出来ない。目覚ましを二時間後に設定して、仮眠を取る。

 目が覚めて、微かな希望を持ちながらベッドを出る。さっきまでのが夢で、元の正常な世界に戻っているんじゃないかという希望だ。
 机に向かい、パソコンを起動してUSBを読み込む。持ち帰った原稿が表示された事で、それは失望へと反転した。
 溜息をついてマウスを動かし、黒い背景に浮かび上がった車体の周りへ近未来的な幾何学模様のCG画像を合成する。クリック、クリック、クリック――。
 車体が消え、画面は幾何学模様で埋め尽くされた。再び溜息をつき、赤い×ボタンにカーソルを合わせる。

【LEXIM】 は変更されています。保存しますか?
 いいえ

 再びファイルを開く。元の画面が表示された。
 ペンタブで白っぽい線を車の周りに描く。
 ありきたりな表現しか浮かばない。頭を振り、机を離れ、シャワーを浴びた。コンディショナーが切れていた。
 濡れた頭で部屋へ戻ると、電話が掛かってきた。発信者の名前を確認して携帯を取り上げる。
「もしもし」
〈私〉
 恋人からだった。同じ会社に勤めている為、誰かから早退の知らせを受けたのだろう。
〈帰ってるの?〉
「ああ……ちょっとな」
〈風邪?〉
「まあ、そんなとこ」
〈そう……お大事に〉
 そう言って彼女は電話を切った。

 何だこの事務的な会話は?
 少し気になり、折り返し電話を掛けた。
〈もしもし〉
「なあ、一つ訊いていいか?」
〈ええ。何?〉
「今更こんな事言うのも変だけど、君はどう思ってる? その――」
〈あなたの事を?〉
「そう、俺の事を」
〈誠実な人よ。最初に会った時から変わらない〉
「じゃなくて何と言うか……好きでいてくれてるのか?」
〈――嫌いじゃないわ〉
「そうか……。もう一つ訊くけど、俺達付き合ってるんだよな?」
〈どうしたっていうの?〉
「答えてくれ」
〈付き合ってるわよ、勿論〉
「……」
〈もういい? まだ会社なの。ゆっくり休んで〉
「ああ、分かった」電話の切れる音がして、規則的な電子音が続く。

 そうか。こっちの世界ではそういう関係なのか。

 ゴミ箱を蹴飛ばした。中に入っていた紙屑が飛び散る。片付ける気も起こらず、ソファに座り、頭を抱えた。

 待てよ?

 早まった〆切、突然倦怠期を迎えたかのような二人の関係。今居るのは二日先の世界なのではないか?
 目覚ましの表示を見る。デジタルで表示された文字は、正常な日付を示していた。

 クソッ。

 目の前に見えるのは何ら変わらない街に、人に、モノだった。なのに見知らぬ異国の土地で一人、迷子になったような気分に苛まれた。

 唇を噛んだ。
 血が滲むまで噛んだ。


 2.

 今の恋人とくっつく事になったきっかけはガイ・リッチーだ。
 会社の隣にあるレストランは、昼時には社員で埋まる。ある日相席になった彼女と知り合い、趣味について話したところ、二人共『LOCK STOCK & TWO SMOKING BARRELS』で彼の映画にハマり、マドンナと結婚生活を送っていた時期に彼女が主演を務めた『スウェプト・アウェイ』とリュック・ベッソンが共同制作に携わった『リボルバー』でガックリきていた。後日、彼がマドンナと離婚する二か月前にイギリスで公開された、ジェラルド・バトラー主演のブリティッシュマフィアものがお互い未見だったので、彼女の自宅でレンタルしたDVDを見た。その高い知能によって綿密に構成されたプロットとクールなバイオレンス、クセのあるキャラクター達が連発するブラックユーモア。実に彼らしい作品だった。
 そこからはありきたりな流れだ。映画の内容を語り合い、夕食とベッドを共にした。今、付き合って二年程経つ。
 お互いの相性は良かった。そこは関係を知っている共通の友人も認めている。

 いや。

 こっちの二人は違うのか? 例えば始めからお互い好きでも嫌いでもなく、何故付き合ってるのか分からないまま、ガイ・リッチーという共通点だけが関係を繋ぎ止めているなんて状況だとか……まさかな。

 夜の内になんとか広告を仕上げた。
 朝になり、会社へ行く。電車の中で今日も女が隣に座った。おはようございます、と言葉を投げてくる。
 どうも、と応えると彼女は笑った。脈ありと思われたのか定かじゃないが、今度は仕事を訊いてきた。デザイン関係とだけ言っておく。
「どんな仕事なんですか?」
「デザインするんだ」
「それはそうですよね」
 そこで女が降りる駅に着いた。彼女は会釈し、立ち上がってドアへ向かっていった。

「今日は大丈夫なのか?」出社して自分のデスクに着くと、左隣の同僚が言った。彼も元々はもう一つ隣のデスクだった筈だ。
「多分な」
 また叫ぶのは勘弁してくれと彼は言い、顔をしかめながら大口を開けた。
「自分がそこまで不細工な顔ならとっくに自殺してる」彼のブヨッとした図体を一往復眺めてから言った。
「お前はハンサムなつもりか?」
「まだマシな方だって自覚はあるかな。ランチにハンバーガー三つも食ってないでダイエットしたらどうだ? あとそのオタク趣味も何とかした方がいい」
 同僚のデスクは二次元世界のカオスだ。デスクトップの画像も、パソコン周りも、アニメのキャラクターで隙間が無くなっている。
「ほっといてくれ。俺は胃がデカイんだし、グラフィックデザイナーにオタクはつきものだろ? 何があったか知らないけど、周りに当たるなよ」
「ああ……悪い」
 確かに自分の中にある憤りを彼にぶつけていた。今はこの状況に慣れるしか無い。
 広告を課長に提出する。
「いい出来だ」彼は言った。「丸投げをされた君の仕事では、今までに見なかったタイプだな」
「そうですか?」
 モノクロで構成された街を赤い車体が走っており、その背景をグニャリと歪めたものだ。
「ああ。車が時空を歪めて、今まさに目的地へひとっ飛びしてきたような印象だ。これで先方に回してくれ」
「ありがとうございます」
 厄介事が、意外なところで役立った。
「体調はどうなんだ?」
 よほど具合の悪そうな叫び声だったらしい。
「平気です」
「本当か? ストレス溜まってるなら、良いセラピストを知ってる。紹介しようか」
「大丈夫です。ご親切にどうも」
 やはりこうなった。
 他人の頭の中で精神病扱いだ。今に殺人事件も起こる。
「なら有給を取れ」
「はい?」
「昨日の君は普通じゃなかった。皆言ってる」
「何ともありません」
「いや、君は最近仕事に根を詰め過ぎてた。同時に六件抱えてた事もあっただろ」
「職場で一度叫び声を上げれば停職処分ですか?」
「有給を取れと言ったんだ」彼はデスクから立った。「それとも、『お前は停職だ。職場で叫ばれると他の社員の士気が下がって迷惑だ』そう言えば満足なのか?」
「最初からそう言って下さい」
「思ってもいない」
「分かりました」
 デスクに戻り、Macを起動した。「ホームページだけ仕上げて帰ります」


 3.

 作業は午後までずれ込んだ。先方からデザインについて採用の連絡があり、あとはホームページの背景を入れるだけだ。
 早めにレストランの席を取り、恋人と会う。
「有給を取れと」朝来た時の事を話した。
「そう」彼女はパスタをフォークで巻き取っている。
「……シャーロック・ホームズは観た?」
 ガイ・リッチー作品だ。ロバート・ダウニー・Jr演じる武闘派シャーロック・ホームズと、ジュード・ロウ演じるワトソンがロンドンを駆け回る痛快活劇。予定が合わずになかなか映画館へ行けない間にDVDが出た。
 彼女は頷いた。「レンタルで。でも、あれはファミリー向けね。やっぱり彼はマフィアを撮る方がいい」そう言い、彼女はパスタを口に運んだ。
「そうか」自分も同意見だった。CGを多様してスケールは大きいが、今一つ彼らしいB級的な刺激が少なかった。
「休みの間どうするの?」彼女は訊いた。
「まだ休むとも決めてない」鶏肉のフライを口に運ぶ。
「でも上に言われたんでしょう?」
「まあ」
「なら休んだ方がいいわ。上司は部下を働かせるのが仕事って掟を破ってまでそう言ったんだから」
「精神を患ったと思われてる」水を飲んだ。「休んだら認める事になるよ」
「疲れが出てるのは確かでしょう?」彼女も水を飲んだ。「人づてにあなたの早退を聞いた立場だけど、私も休んだ方がいいと思うわ」

 元の世界の彼女でも、こう言うだろうか?

「まあ、今日一日様子を見てみる」
「ええ」
 ……そうは言ってみたものの、やはり駄目だ。彼女との間で漂う空気の違和感に耐えられそうに無い。
「じゃあ」半分ほど料理が残った食器をそのままに、荷物を持つ。
「どうしたの?」焦りを感じさせる行動に、彼女は言った。
「仕事を急いでるんだ」
「大丈夫? なんだか心配――」
「本当にしてるか?」
 彼女は眉根を寄せた。「何?」
「本当に心配してるのか?」
「何言ってるの、当たり前じゃない。一応付き合ってる相手なんだから」
「その一応ってのは何なんだ? 昨日から――」そこまで言いかけて、この問答は非生産的な結果しか生まない事に気付いた。「……いや、悪い。とにかく今日は仕事を済ませて帰るよ」
 歩き出した背中に、彼女が自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

 自宅に帰って、ミネラルウォーターを飲む。昨日と同じ行動にうんざりする。
 洗面台に向かう。濡らした後にタオルで拭った顔を鏡に映す。

 誰だ?

 そこに映った自分に問う。
 お前は誰だ? 俺は誰だ? お前とは、俺とは、一体何なんだ?
 自分が自分じゃないような曖昧な感覚は、誰しも一度は感じるのではないか。それがずっと続いてる気分だ。自分の存在そのものさえ疑わしくなる。

 思考のスケールが拡がる。
 昨日と同じだ。古めかしく、非生産的な禅問答。

 何故命ある者は生きる?
 そもそも今本当に生きているのか? 何がそれを証明する?

 まただ。証明という言葉。数学的な単語だ。
 生命。その証明要素は現実を表すそれと同じなのか。それとも体の内側、脳の電気信号が走る数十センチの範囲で感じ取る感覚が生きるという事なのか。
 耳鳴りがする。
 頭を抱えて壁にもたれる。気分が悪い。
 洗面所を出ようとするが、また出られなくなった。

 勘弁してくれ。

 拳を振る。空間が音を立てて割れた。
 通っては駄目だ。本能がそう言った。

 ならこの耳鳴りはどうすればいい?

 もう一度拳を振る。腕だけ空間の境界に突っ込んだ。
 誰かを殴る鈍い感触がする。同時に、自分の顔へ衝撃が走る。

 足元がふらつき、床へ倒れ込んだ。


 4.

 携帯の振動で目が覚めた。
 ポケットから取り出し、耳に当てる。「自分」に殴られた面とは逆の側頭部を床に打ち付けたらしく、二種類の痛みが首から上を覆っていた。
「はい」
〈私。今どこに居るの? 様子を見に来たのに、電気が点いててもインターホンの返事が無いものだから〉
 恋人だった。
「ああ……洗面台だ」
〈開けてくれない?〉
「今日は帰ってくれ。悪い」
〈話したいの〉
「いや、だから今日は――」
〈お願い〉
「……分かった」呻きながら立ち上がった。
 破壊された空間の境界が消えているのを確認し、洗面台を出る。
 玄関に向かうと、チェーンを外して鍵を開けた。
「入っても?」彼女は言った。
「ああ」
 中へ招き入れる。
「座りなよ」リビングのソファを勧めた。彼女はその言葉に従い、自分はキッチンで水割りを二つ作る。一つを彼女へ渡し、隣に座った。
「どうした?」
「昼間の事」
「だと思った」
 彼女は苦笑した。
「いつものあなたらしくなかったから」
「ああ」
「何があったのか訊きたくて」
「その前に俺が訊こう」グラスをテーブルに置いて、彼女の左手を取る。「いつもの俺ってどんな感じだ?」
「電話でも言ったでしょう? 誠実な人だって」
「君に対してどう思ってるように感じたんだ?」
「……分からない」彼女は俯き、手を離した。「最近、お互いに対しての関心が薄い感じだった。倦怠期なのか、別れるサインなのか。判断がつかなくて」
「……そうか」
「でも昨日からのあなたは違ってた。電話を掛けたり、急な行動を取ったり……何があったの?」
「話せば長い。それに君も、他の誰も信じない」
「信じるわ」
「いくらなんでも無理だ」
 それでも彼女は話す事を強要した。
 起こった出来事を簡潔に話した。日曜の午後から、先程の洗面所での事までを。

 彼女は黙っていた。
「何か言う事は? 頭がおかしくなったとでも思うのなら、別れるなり勝手にしてくれ」
「別れたいから、そんな突拍子もない話を?」
「違う」グラスに付いた水滴を指で拭う。「だが今は君も、この僅かな水さえ、偽物だと思い始めてる」
「……どうすればいいの?」
「何がだ? 頭のおかしくなった男への対応か、それとも俺と入れ替わって違う世界に行った彼を取り戻す為にすべき事か。どっちだ?」
「分からない」
 沈黙。
 数分して、彼女が首に腕を回してきた。キスをする。舌を絡めながら、今度はデニムのジップを下ろし始めた。
 唇を離し、彼女の頭に触れる。その位置は徐々に下がり、長い髪が腹に落ちた。
「それが考えた末の行動か?」
「分からない」動作の隙間を縫って彼女は言った。
「何も分からないのか」
「ええ。あなたと同じ」
 もう一度頭に触れ、動作を止めさせる。こちらを見上げる彼女を抱き上げ、ベッドへ運んだ。

 朝になっても眠らず、隣で寝息を立てる彼女の顔を見ていた。白いシーツが裸のラインを浮かび上がらせる。
 同じ顔をした別の女に見える。後味が悪い。
 付けっぱなしのラジオから懐かしい曲が流れていた。「Unchained melody」だ。映画『ゴースト』でヒロインの恋人が死んで幽霊になり、壁を通り抜けるショボイCGを思い出す。別にあの映画を悪く言ってるんじゃない。視覚効果が未発達だっただけで、ストーリーは素晴らしかった。分かりやすく誰しも共感させられる、死を超えたラブストーリーだ。
 ベッドから出て服を着る。
 精神障害者だと決めつけられるのは極めて不愉快だが、今までのように仕事が出来るわけにもいかない以上、休みを取る必要がある。
 彼女が起きた。
「会社は?」一緒に行くのか訊いてみる。
「いいの」
「どうして」
「今日は行っても……多分仕事にならない」
「そうか」苦笑した。
「あなたは行くの?」
「ああ」キッチンの水道で顔を洗った。「有給の申請をしてくる」
「そう……」
「いつまでここに?」
 彼女は俺を見て眉根を寄せた。相手が誰であれ、この表情を見るのは苦手だ。
「居ちゃいけないの?」
「そうとは言わないが……悪い、しばらく一人で過ごしたいんだ。心を患った人間は自分と向き合う必要がある。そうだろ?」
「……分かった」彼女は服を取り、全て身に付けると、バッグを持った。
 駅まで見送り、そこで別れる。彼女は逆方向の電車で帰宅、こちらは出社だ。

 いつもより少し遅い時間だ。ホームで電車を待つ面子も異なる。
 ……と思ったが、一人例外が居た。隣に座る女だ。
「おはようございます」こちらに気付き、会釈をしてくる。「今日は少し遅いんですね」
「お互い様だな」後ろに並ぶ。
「寝坊ですか?」彼女はこちらを向いて言った。
「悪い、振り返らないでくれ」向かいのホームを気にしながら言う。「昨夜恋人がウチに泊まってね。相手も今、電車で帰るところだ。こっちを見て浮気の現場だと勘違いされても困る」
「そうなんですか。すみません」そう言って向き直った。
「いや」
 答えてから思った。

 困る? 何がだ。

 昨日から恋人と時間を共にしている違和感に襲われていたのはどこの誰だ? 自分と入れ替わった自分が交わしてきた惰性のような恋愛を引き継ぐ必要がどこにあるんだ。
「……ああ、やっぱり気にしなくていいよ。向き合って話そう」
「いいんですか?」
「いいんだ」
 彼女は再び振り返った。「事情を知ったので、少し気まずいです」
「すまない」
「そんな……」彼女は苦笑した。「本当に大丈夫なんですか?」
 向かいのホームに目をやる。恋人がこちらを見ていた。目が合うと視線を外し、左の方へ歩いていった。
「大丈夫だ」同じ顔の、知らない女だ。気にしまい。
「……上手くいってないんですか?」
「何が?」
「恋人の方と」
「どうだろうな。分からないんだ、何も」
 女はこちらを不思議そうに見る。
 電車が来た。乗り込み、いつもの席に座る。
「君はどうして遅くなったんだ?」
 訊くと、彼女は俯いた。
「実は……」恐るおそる切り出す。「待ってたんです」
「何を?」
「あなたを」
 一瞬、空気が硬直する。
「すみません」彼女は言った。
「いや……」
「恋人が居るとは知らなくて」
「知っていたら、それはそれで複雑な気分になる」言うと、彼女は笑った。「君はその……俺の事を?」
 随分と長い間が空く。隣で眠ったのかと思った。
「すみません」
「謝らなくてもいい」
「でも――」
「誰を好きになるのも君の自由だ。たとえその対象であろうと、他の誰かが否定する事じゃない」
 電車は鈍行だった。余計に時間を食う。
「次の駅で、急行に乗り換える方が早い」
 腰を上げかけると、彼女は首を振って制止した。
「もう少し長く乗っていたいので」
 妙な事になった。
 座席に座り直して、息を吐く。

 いや、これが普通なのか。

 開き直って女と話す。駅に着き、彼女が降りると、走り出した電車の中で席を立った。扉にもたれ、流れる景色を眺める。
 次の駅に着き、電車を降りた。
 ホームで煙草を取り出し、口に咥えて火を点けた。空は曇っている。ダークグレーをした重量感のある雲が、頭上に秒速十センチで迫ってくる。
 ひと雨来そうな雰囲気だ。出る前に天気予報を見とくんだった。
 吐いた煙が線路に流れて、消えた。人身事故を起こした人間の亡霊みたいだ。
 もう一度、煙を目一杯吸い込む。チーッという嫌味な音が鳴る。煙草の先はひと際燃え盛り、縮んだ。
 灰皿に吸殻を突っ込み、会社へ向かって歩いた。


 5.

 オフィスに入る前から変な空気になるのは分かっていた。
 ドアを開けると、視線がこちらに集まってきた。通路を歩き、課長のデスクの前に行く。
「しばらく休む事にしました」
 彼は机の上で手を組み、顎を乗せた。
「電話で済ませられたのに、わざわざ出社したのか」
「目を見て判断して頂きたいので」そう言って顔を近付ける。
「判断とは?」
「狂った人間の目に見えますか?」
「いや……だから私は、そうとは思っていない」
「だが部下は全員思ってる。オフィスに入った途端、好奇と憐憫の眼差しを受ける筋合いは無い」
 振り向くと、彼らは視線を外した。
「言われてからマズイと思ってやめるような事は最初からするなと、小さい頃に習わなかったか?」
 自分の席から見て右隣にある同僚のデスクへ向かって歩いた。彼は無意識に椅子を引いた。「なあ、習わなかったか?」
「……さあ、どうかな」彼は表情を引き攣らせた。
 向かいの先輩を見た。
「何だよ?」
 答えず、オフィスを出た。悪態をついたところで仕方ない。

 自宅に戻り、車の鍵とヘッドセットを持ってまた出掛ける。
 貸し駐車場に停めてあるプジョーへ乗り込み、イグニッションを回した。エンジン音と振動に包まれ、しばらくじっとする。
 出発しようという時、電話が掛かってきた。ヘッドセットを耳に付け、車を駐車場から出す。
「もしもし?」
〈私だ〉
 課長だ。
「何です?」
〈こんな事を言うと、君は更に苛立つかも知れないが――〉
「それなら今はよして下さい。車を運転してるんです」
〈セラピストの事だ〉
 二トントラックが目の前に迫り、急ブレーキを踏んだ。
「今まさに、事故を起こしかけましたよ」
〈悪い。なあ、一度私の紹介するところに行ってみてくれ。お前が今の生活に違和感を感じてるなら、何か分かるかも知れない〉
「人に聞いて分かる事なら苦労しませんよ。やっぱり俺の内面に問題が生じてると考えたんですか」
〈私はずっと、お前の事を買ってるんだ。そんな部下の様子が変われば、気が気でなくなるのも仕方ないだろう。番号を送っておくから、必ず一度行ってくれ〉
「いや、ですから――」
〈診断の結果がどうであれ、お前にとっても今の自分を知った方が良いだろう。いいか、私はお前の上司で、これは指令なんだ。分かるか?〉
「……分かりました」さすがにクビはまずい。
〈有給が終わって出社する時、診断書を持参してくれ〉
 番号と場所を聞き、通話を切る。
 話がまずい方向へ向かってる。彼は俺への精神病疑惑を俺自身に対して認めた。ずっと幻覚を見ているのだとでもいうように。
 そもそも、この先元の世界に戻れる可能性はあるのか? 昨日、空間の境界が表れた時、通り抜ける事を本能的に止めたのは、そうとは限らないからじゃないのか。
 病院に行ったら、その後遠くへ行こうか、と考えた。
 誰も自分を知らない所へ。


 6.
 課長から聞いた住所へ向かう途中、個人経営のコンビニへ立ち寄った。
 書籍が並ぶ棚の一角に、心理学関係の本があった。どうしてこっちの世界はどいつもこいつも、自分を胸糞悪くさせるのだろうか。
 違和感があるからだ。
 屈折しているともいう。
 大してタイトルも見ず手に取る。最初から順番にパラパラと捲る。空間が破壊されて別の世界へ行く幻覚を見る症状が出る精神病なんて、どこにも記載されていない。薬物乱用によるものには僅かな可能性ぐらいありそうだが、そもそも自分はコカインもマリファナもヘロインもシンナーも、何一つやった覚えは無い。本を棚に戻し、PEPSIとミントガムを取って会計を済ませる。
 車に戻り、エンジンをかける。カーステレオからはビートルズのI’ve Got A Feelingが流れていた。ルーフトップコンサートの映像で見たこの曲を演奏する彼らは、ロックミュージシャンの在るべき姿を明確に表現していた。当時の気温が僅か二℃だったロンドンのアップル社で、それぞれの妻の上着に身を包んだメンバーが屋上で演奏する。ポールが叫び、ジョンがコーラスをかぶせると、ジョージが低音でそれを支え、リンゴはそんな三人を後ろから眺めながらスティックを振るう。一様に空を見上げる群衆、隣のビルにかかった屋上への梯子をよじ登る若者、制止する事を躊躇い、四七分の間静観しながらロード・マネージャーのエル・エヴァンスと交渉する警官隊。同じリズムが延々と続くこの曲が街へ降ってくるその様は、爽快な光景だった。

 朝からノスタルジーに浸ってばかりだ

 それが元居た世界への懐古心なのか、曲の力がそうさせるのかは定かではなかった。ただ彼らの奏でる力強くも優しいリフレインに身を任せ、車を走らせ続けた。

 病院は複合ビルの三階にあり、思った程大きなものではなかった。。
 吹き抜けの階段を上がり、ドアをノックする。どうぞと返事があり、中に入った。
 待合室には誰もおらず、そのまま診察室へ通される。
中にはデスクに着いた初老の男が一人。名前を訊かれたので、答える。
「先程、あなたの上司から連絡を受けました。早いお着きで」
「早く済ませたかったので」椅子を勧められ、腰を下ろす。「先に言っておきますが、俺におかしいところはありません」
「皆さんそう言われます」
 セラピストはこちらへ体を向けた。
「対人恐怖症などはありますか?」彼は言った。
「ありません」
 彼は診察用紙に文字を書き込んだ。「職場で突然叫んだという事ですが」
「考え事をしていて……まとまらなくなってストレスが」
「以前からそのような事は何度かありましたか?」
「いえ、初めてです」
 彼は再び用紙に書き込んだ。「普段と違う行動をいくつか取ったと聞きましたが、自分からして周りに違和感を感じる事は?」
 勿論違和感だらけだ。今の自分の生活は、違和感を中心に回っている。「あると言えば、自分は精神異常者ですか?」
「断定は出来ません」セラピストは言った。
「なら、ありません」
 彼は用紙に書き込みながら、こちらを見た。「虚言癖のカルテを作りましょうか?」
 言葉が見つからず、押し黙る。
「心を患えば、誰しもそれを自分の中で認めたがらないものです。ですからまずは自分の病を認め、向き合う事が第一です。分かりますか?」
「それは分かってます。でもこれは……確信は無いが、心の問題じゃない」
「では、何の問題だと考えているのです?」
「自分の存在している場所……そう、今いるこの世界だ」
 駄目だ、こんな事を言うと逆効果だ。
「あなたのいる世界が……どうなっているのですか?」
 今は、解決策を見出すヒントを模索する事が先決かも知れない。この男は自分にそれを与えてくれるのだろうか?
「話して下さい」彼は言った。「でなければ、あなたを救う事が出来ない」
「救えるのですか? 本当に」
「症状が分かれば。時間はかかるでしょうがね」
「……」
 セラピストに、経緯を話した。とにかくこの状態から抜け出したい。
「空間が割れると……」
「ええ。物理的に」
「それで、今いるのはその境界を乗り越えた、別の世界だという事ですか」
「別という表現ではそぐわないかも知れない。元から繋がっている……双子のようなものかと」
「そして元いた世界には、今の世界にいたもう一人のあなたが存在していると?」
「ええ」
 医師はペンを頭に当て、暫く考えこんだ。
「信じますか?」
「今のお話が妄想だとすると、作家の才能を持っていますね」セラピストは用紙に一通りの記入を終え、こちらを見た。「トゥルーマン・ショーのような話だ」
「何です?」
「映画ですよ」セラピストは笑った。「知りません? ジム・キャリーの」
「ああ、あれですか」
 テレビ局が作った巨大なセットの中で生まれ、人生の全てを撮影され、周りにいる人間も全て役者だという世界で生きる男の話だ。徐々にその世界の違和感に気付き出し、男は外の世界を見ようとする。
「あなたの持つ症状に近いものを扱った映画として、他に有名どころではシャッター・アイランドだとかブロークンだとか、あとはドグラ・マグラなんて日本文学がありますね」
「つまり?」
 セラピストはデスクに用紙を置き、膝の上で手を組んだ。
「一言でまとめると、あなたの症状はカプグラ症候群だと思われます」
 初めて聞く病名だ。
「昔、ドイツで一人の老婆が、突拍子もない事を言い出した。自分以外の人間は全て軍が雇っているそっくりな偽物で、本物はレ・ミゼラブルに出てくるような巨大な地下牢に閉じ込められていると。当時、そのように壮大な話を頭の中で作り上げ、現実と混同する症状が数例発見されました。ソジ―の錯覚とも呼びます」
「聞きたいのは歴史の話じゃありません。解決法です」
 彼はデスクのパソコンを操作した。
「これは統合失調症の一種です。長期的な潜伏期間を置く症状で、今のところ原因として考えられているのは、幼少期の遺伝子損傷や、脳への影響が与えられる頭部外傷等だとされています。何か、大きな怪我や病気などをした事は?」
 記憶を掘り起こしてみる。
「特に、思い当たりません」
「よく思い出してみてください」
「子供の頃に、自転車で転んだ事ぐらいはありますが……それぐらいです。大きな病気にもかかった事はありません」
「どの部分に怪我をしましたか?」
「膝です。歩道を走っていたら消火栓にぶつかって、その根元に付いているボルトが肉を抉った」
 セラピストは首を捻った。
「遺伝も考えられますが……ご両親のどちらかが、同じような症状を見せた事は?」
「無いと思います」
 彼は考え込んでいる様子だった。
「ここが不明瞭となると、治療法の判断も出来かねます。リスペリドンとレポドミンを用いた投薬治療等が挙げられるのですが……」
「それで治せるんですか?」
「リスクがあります」彼は再びパソコンを操作した。「副作用が強く、また糖尿病を発症する場合もある」
「その何とかって薬は、健常者が飲んだらどうなります?」
「副作用の危険性だけが伴います。具体的には、意識の混濁ですね。場合によっては、薬の影響で統合失調症を患う事もあります」
「……少し、考えさせてもらえますか?」
 セラピストは頷いた。「服用の是非を決断する為にも、まずはあなたの言う話が妄想なのかどうかを、見極める必要がありますね」
「方法は?」
 彼は再びマウスを動かし、データをプリンターへ出力した。
「脳外科で、科学的な検査を受けるよう勧めます。今のカウンセリング内容は伝えておきますので、同じ説明をする必要はありません」
 プリントアウトした用紙を、彼はこちらへ渡した。
「もしもカプグラ症候群をはじめとした、妄想性誤認症候群の兆候が脳の働きの状態から確認された場合、進行度合いによっては社会復帰が困難になる場合もあります。あなたは理性を持って話す事が出来ているので、身内を通さずに直接こういったお話が出来ますが、予断は許されません。彼は信頼出来る医師ですし、多次元宇宙やドッペルゲンガ―といった類に関する知識も多少備えているので、何らかの解決法は見出せるかと思います。なるべく早急に行動して下さい」


 7.
 一刻も早い解決を求めていた為、すぐに紹介された医師へアポを取り、ビルを出たその足で目的地へ向かった。
 三〇分ほど車を運転する道中、色々な可能性を考えた。自分が精神病だった場合、仕事はどうなるのか、保険は下りるのか。駅での一件があってから、恋人と連絡を取っていない事も思い出し、二人の関係性についての不安は蓄積されてゆくばかりだった。
 もしも自分の目撃している事態が現実のものとして起こっている場合、原因は何なのか。明らかに物理学の範疇を超えているような現象であり、現実がどこに存在するのかという判断すら付けられなくなる。また、何故自分だけがこの事態に遭遇しているのか? 最初にあの現象を見た時、周りにいた人々は何の反応もしていなかったのか?
 様々な疑念が沸き起こり、やはりこれらを一人で解決するには情報量が多過ぎるという事が分かる。診察結果がどれかしらの問題を解決してくれれば良いが……。

 到着したのは、比較的大きく近代的な病院だった。
 受付で医師の名前を出し、少し待っていると順番が来た。
 銀縁の眼鏡をかけた担当医はかなり若く、自分とさほど変わらないように思えた。
「三一です」年齢を訊くと、医師はそう答えた。「彼が私を紹介してくれたのは幸運だった。予約を三つほど飛ばして診に来たんですよ」
「まるで有名人だ」
「あなたのような症例は、統合失調症患者が増加傾向にある現在に於いても珍しい。一般的にカプグラ症候群では人物の入れ換わりを主張するものですが、自分の生きている世界そのものが入れ換わっていると断言するのだから、脳科学者からすると人気者になり得る存在ですよ。エリック・クラプトンに会うようなものだ」そう言い、彼は笑った。「申し訳ない、不謹慎でしたか」
「問題が解決出来るなら、何だって構わない」二人並んで診察室へ向かう廊下を歩きながら、そう返した。「Crossroad Bluesが好きだ」
「ロバート・ジョンソン?」
「クラプトンの話だろう。カバーの方だ」
「そうでしたね。失礼」
「それに、カプグラ症候群であるかどうかを確認する為に来たんだ。まだ人気者だという保証はない」
「そうでしたね」
 診察室に到着し、医師はドアの指紋認証システムに人差し指を押し当ててから、鍵穴にキーを挿し込んだ。
「厳重だな」呟くと、彼は口角を上げた。
「うちの分野では、患者のプライバシーを尊守する事がとても重要ですからね」
「なるほど」
 診察室へ入ると、CTスキャナーのようなものをはじめとした、見慣れない機械がいくつか目に止まった。いわゆる科学的検査器具≠セろう。
「どういった検査を? 嘘発見器にでもかけるのか」
「妄想性誤認の症状である場合、患者は自分の言う事を真実だと思い込んでいるので、ポリグラフは役に立ちません」彼はそう返答した。「脳の状態を確認するので、fMRI検査を行いましょう」
 助手の看護士を呼び、医師は機材のセッティングに取りかかった。
「どなたか、信頼出来る方の写真はお持ちですか? 家族か、または恋人ですとか」
 途中、彼はそんな問いかけをしてきた。
「恋人とのツーショットなら、携帯のフォルダに」
「貸して頂けますか?」
 写真を表示させた携帯電話を渡すと、台へ横になるよう促された。
 MRIに無線接続したパソコンと携帯電話をUSBケーブルで繋ぎ、検査が始まった。
 台が動き、頭の中を輪切りの状態で撮影される。少し時間が経つと、医師が出した合図と共に目の前の画面へ、携帯電話に保存されている写真が表示された。
「自然な反応を見ているので、あまり何も考えず、そのままリラックスしていて下さい」
 医師は言う。
ゾウの事を考えるな≠ニ言われるとゾウが頭に思い浮かぶように、リラックスしろと言われれば逆に緊張してしまうものだ。そのあたりの反応は結果に影響しないのだろうか。
 撮影が終わり、問診に答えると、当面の検査は終了した。医師は検査結果を、看護士と共に分析し、診断を下した。
「良いニュースと、悪いニュースがあります」
 医師はそう言った。
「どういう事だ?」
「言葉通りの意味です。とりあえず、良い方からお話しましょうか」
「頼む」
 彼はパソコンでモノクロの動画を表示し、こちらに見せた。
「あなたの脳です」
 頭部の輪郭が形作られている中にクッキリと脳の断面が映っており、緑や紫色の斑点が点滅している。
「色で塗りつぶされている部分は、活発に動いている事を表しています。あなたの語るエピソードから導き出される症状の場合、情動を司る回路と、相貌を認識する回路の連絡が絶たれている事が考えられます」
 医師は動画を少し早送りした。
「写真を見た時の動きです」
 斑点が何度か点滅し、脳内を移動した。
「前頭葉に近い部分、線条体が活発に動いています。ここはドーパミンを分泌する器官であり、喜びや安心感など、プラスの方向へ働く感情が生まれている事を示しています」
「しかし、自分は今恋人に対して疑念を持ってる。セラピストから聞いたろう?」
 医師は頷いた。「写真がツーショットで笑顔を浮かべており、幸福を感じる要素が強い為に、マイナスの感情よりも勝っているのでしょう」
「つまり、どういった結果が?」

 彼は少し間を置いてから答えた。
「結果として言えば、あなたの脳は正常です。多少は疲れによるストレスの兆候が見られますが、回路にはどこも不備がありませんし、健康そのものですね」
 その言葉を聞いて、おぼろげながら悪い方の結果に察しが付いた。
「だとすると……」
 医師は再び頷いた。
「良くない方のニュースなんですが、治療のしようが無いんです。あなたがカプグラ症候群でないとすれば、セラピストに話したエピソードは事実とされ、あなたが感じている環境の齟齬を、脳科学的に取り除く事は出来かねます」
「じゃあ、ここへ来た事は無意味なのか?」
 彼は首を捻った。
「セラピストに聞いたとは思いますが」望み薄だが、といった調子で説明を続けた。「脳科学を研究する上で、相対性理論や超ひも理論のような、半ば哲学ともいえる科学について、その筋の学者と意見を交わして考察する事が私にはよくあります。あなたの言う現象が実際に起こっていると仮定し、素材が揃えば、その辺りの線で道筋を開けるかも知れませんが……」
「素材とは?」
「証拠です」医師は右の掌を、こちらへ向けて差し出した。「あなたの言う『割れる空間』、『もう一人の自分』といったものが、物的資料として保存出来れば、そこから検証する事が出来るのではないかと――」
「つまり、もう一度アレが起こった時に、その現場を撮影しろという事か」
「そういう事です」
 せっかくの有給休暇だが、どうやら休んでいる時間は無いらしい。


8.
「撮影に臨む際、携帯電話の使用は避けて下さい」
 帰り際になって、医師は言った。
「何故だ?」
「空間に何らかの異変が生じている場合、そこには強力な磁場や放射能が発生している可能性があります。その影響を受けるとデータが消えてしまうかも知れません」
「……分かった」

 帰り道、セラピーへ行く前に入ったコンビニへ再び立ち寄り、インスタントカメラを買った。医師の言う事をどこまで信じれば良いのか定かではないが、少なくとも自分よりは多くの知識を持っている。精神科医をたらい回しにされるよりは、よほどマシな状態だ。
 精神病であると認められなかった以上、療養する理由もない。
 休暇は一週間。それまでに、元の生活を取り戻す事が出来れば最高だが、まずはあの現象がもう一度起こらなければ話が進まない。
 境界の出現に、何かしらの法則性は無かったかと考えてみた。
 一度目は公園の歩道。他人が無意識に避けているところへ、自ら近付いた。
 二度目は自宅の玄関だ。少し待てば境界は消滅したかもしれないのに、行動を急いだ事が悪夢の始まりだった。
 三度目は洗面台。ストレスで押し潰されそうになっていた時だ。境界の向こうにいる自分を殴り、気絶した。
 三つの共通点はどこだ? 明確なのは、どの場合も自ら空間を破壊し、境界を出現させたという事だが、それが超能力か何かの類であるというのは、あまりにも非現実的だ。だとすれば、空間に異変が起こっている時、タイミング良くその場に居合わせているという事になる。

 運転中、電話がかかってきた。ヘッドセットが無線接続されていなかった為、携帯をスピーカーフォンへ切り替え、ドリンクホルダーに入れて応答する。
「もしもし?」
〈私です〉
 セラピストだった。
〈紹介した医師から、先程お話を聞きました。どうやら、セラピーの必要性は無いようですね〉
「科学的には、そう証明されたようです。要件は何ですか?」
 電話の向こうで、紙を捲る音が聞こえた。
〈独特な症例だったので、前例が無いか調べてみたんですよ。あなたの言う、空間の破壊について〉
「何かありましたか?」
〈ここ三週間〉セラピストは大きく息を吐きながら言った。〈三週間で、他に同じような現象を見たと訴える報告が、スイスやオーストリアをはじめとしたヨーロッパ圏の一部地域で、約三〇例あります。その内境界を通り抜けたと語る人物が、あなたを含め八名〉
 やはり自分だけではなかったのか。
「パンデミックか何かですか?」
〈ウィルスのような存在は確認されていません。また多くの人物は、脳科学的に妄想性誤認の症状が見られなかったと〉
「俺と同じですか」
〈そうですね。精神性のものでない以上、私は専門外なので口出し出来かねますが、病院へ出向くという選択肢に至っていない人物も含めれば、もっと多くの人々の身に起こっている現象でしょう。いずれにしろ、あなたが見たもののメカニズムを解明する事が先決です。ご健闘を〉
「どうも」
 電話を切る。
 三週間も前から続いている事なのであれば、映像資料を入手する問題について悩む必要は無いだろう。自分が見たものと同じ現象を他にも見ている人物がいるのならば、物珍しがった誰かが撮影して動画サイトにアップロードしている筈だ。おそらくは合成映像だと批判されているだろうが、調べる価値はある。
 道路脇に車を止め、携帯をネットに繋いだ。
 YOU TUBEのページを開き、検索ワードを入力する。

空間 破壊

 決定キーを押すと、最初に出てきたのはキー・マティックのジャズナンバーだった。
 他のワードで試してみる。

空間 崩壊

境界 出現

 どれも芳しい項目は見当たらない。
 批判を考慮した但し書きがあるのではないか? そう考え、新たな検索ワードを入力した。

It’s not CG

 検索結果をスクロールすると、それらしき映像が見つかった。
 二週間前に、プラハから投稿されたものだ。石畳の広がる街並みを観光するアメリカ人カップルが、偶然収めたらしい。
 撮影者が恋人の青年をフレームに捉えながら歩いていると、彼は突如、怪訝な顔をして立ち止まった。
「どうしたの?」女性がカメラ越しに問う。
「分からない。ここに壁があるみたいに、前へ進めないんだ」青年は答える。
 彼は恐るおそる拳を作り、空間をノックした。すると画面全体にノイズが走り、次に映っていたのは、何もない空間に左腕を突っ込み、対角線上から出てきたもう一つの腕に驚愕する青年の姿だった。
「何だ!? 何がどうなってる!」彼は声を上げた。
「腕を引き抜いて! ここにいちゃいけない気がするわ」女性が言った。
「ああ、その方が良さそうだ」
 傍らに突き出ている自分の腕をマジマジと見つめながら、青年は腕を引き抜こうとした。

 次の瞬間、叫び声が轟いた。
 青年の手首から先が消失し、もう一つの腕は形を留めない粉末と化して、風にさらわれ消えていったのだ。
 女性が絶叫してカメラを取り落とし、石畳の映った固定画面が数秒続いた。

 This is not a fake movie. He is treating in hospital. I cannot believe the phenomenon yet.

 画面が暗くなり、投稿した女性のメッセージが流れたところで映像は終わっていた。

 ……今のは一体何だ?

 自分が境界を見つけた時も、腕を引き抜くのがもう少し遅ければ、彼のように体の一部を失っていたという事か?
 空間が崩壊するその瞬間は映っておらず、そのメカニズムを解明するヒントは得られなかったが、ひとまず動画を医師へのメールに添付して送る。
 車のギアを入れ、戦慄を覚えたまま帰路に就いた。

2015/01/03(Sat)03:58:50 公開 / TAKE
■この作品の著作権はTAKEさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
作者からのメッセージはありません。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。