『傍観者』 ... ジャンル:ホラー ミステリ
作者:かるちあ                

     あらすじ・作品紹介
その夜、家族に何が起こったのか。一つの事件を中心に崩壊していく夫婦。二人を観察し続ける、謎の傍観者。それぞれの視点で事件の全貌を垣間見た後、最後に到達する傍観者の真実とは。

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1.傍観者

 傍観者がいる。
 他には男と女が一人ずつ、そのマンションの一室では3人の人間が活動している。

 男はリビングのソファでくつろぎながらビールを飲んでいる。
 テレビに映し出された芸人達が男の人生とはおおよそ関係のない話をしている。
 男はテレビを見つめながらたまに笑う。
 だが、その笑いはテレビが面白くて笑っているというよりは、何かを蔑む冷笑に見える。
 傍観者は笑っている男を見ている。他には何もしていない。

 女はキッチンで葱を切っている。
 トン、トン、トンと小気味よいリズムを奏でながら葱は不恰好に細断されていく。
 包丁を持つその手は小刻みに震えており、危なっかしい。
 だが、女は料理下手ではない。むしろ料理上手の部類に入るだろう。
 女の手が震えているのは、男と同様に何かに怯えているからだということを、傍観者は知っている。
 女は葱を切りすぎている。味噌汁にそんな量の葱は必要がない。
 包丁は止まらない。止めどころが分からなくなってしまったかのように、女は葱を切り続けている。
 トン、トン、トンという音が鳴り続ける。

 時間が経ち、男と女の食事が始まる。
 傍観者はその食卓には加わっていない。相変わらず二人を観察し続けている。
 二人はそれぞれ、なんとかいつも通りの会話をしようと心掛けている。
 今日は会社でこんなことがあった、昼間にテレビでこんなことがやっていた、
 今日から部活の合宿に行っている娘はちゃんとやっているだろうか、等々。
 傍観者の視点からは、二人の会話の内容はどこか白々しい。
 それは二人の秘密を傍観者が知っているからだろうか。
 ふと、女が傍観者の方を向いた。
「ミユキ、アンタはいらないの?」と食事をこちらに向けて尋ねる。
 傍観者が何も言わずにいると、女は少し機嫌を損ねたようで「何よ」と吐き捨てた。
「大きくなるにつれて、どんどんそっけなくなっちゃって」と女。
「まあ、仕方がないだろう。あれくらいになったらこんなもんさ」と男。
 傍観者はやはり何も言わない。

「ああ、もう駄目」
 食事が終わったところで女が突然叫び、泣き出した。
「やっぱり無理。耐えられない」
 男は女の突然の絶叫に面喰っている。
「おい、どうしたんだ突然」
 男が女に訪ねた。だが、男も顔面蒼白になっている。それは女を案じての表情ではない。
 大方、自分のしたことが女にはバレていたのだろうかと勘繰り、焦っているのだろう。
 傍観者は何も言わずに、パニックになっている二人を観察している。
「私、ごめんなさい、私、あなた、押入れの、中に」
「押入れ? テレビの裏のやつか」
 男は女の言う押入れに近づく。傍観者はそれを見ている。
「この中に、何かあるのか?」
 女は泣きじゃくりながら、それでもなんとか頷いた。
 男が恐る恐る押入れの引き戸に手を伸ばし、そしてそれを開ける。

 絶叫が、響いた。


2.翌日

 傍観者がいる。
 他には男と女の遺体がある。そのマンションの一室で活動しているのは傍観者だけだ。
 男の遺体の顔は恐怖で凍り付いており、まるでこの世のものではないものを見て、そのまま事切れたかのようである。
 女は表情すら定かではない。顔面も含めた全身がめった刺しにされているからだ。
 腹部の隙間からは内部の臓器を覗き見ることもできる。
 傍観者はそんな二人の遺体を眺めている。
 座って、ただじっと眺めている。


3.神崎邦明

 自分は上手くやれたのだろうか、とビールを飲みながら神崎邦明は思った。
 行きずりのホステスがヤクザ絡みで殺されただけ、警察はそう判断してくれるだろうか。
 我ながら、都合よく考えすぎではないだろうかとも思う。だが、もはや全ては終わってしまったのだ。あとはすべてが上手くいってくれることを祈る他には無かった。
 警察の質問に対して嘘の回答を繰り返している自分を想像してみる。

「え? 明美さんが殺された? 本当ですか」
「いえ、そこまでよく知っている訳ではないですよ。同僚とよく行くキャバクラでたまに指名をしただけです」
「へえ、彼女に多額の借金が。知らなかったなぁ」

 自分が間違えたとすれば、どの時点だろうと邦明は追想する。
 大して女性経験のない身でありながら、男に対して百戦錬磨の女に無謀にも手を出したことか。
 その女がヤクザと繋がっており、またその筋で多額の借金をしていることを見抜けなかったことか。
 妻にばらすと脅され、その脅迫に簡単に屈してしまったことか。
 全てだ、と邦明は思った。引き返せる選択肢はいくらでもあったのに、自分は選択の度に間違った道を進み、最終的には戻ることができなくなって人殺しの一方通行を歩まざるを得なくなったのだ。
 思わず笑みがこぼれる。愚かすぎる自分が、あまりにも滑稽でおかしかった。
 明美の死体はまだあの公園のトイレの中だろうか。ここからそう遠くない場所だから、発見されていればもう少し騒ぎになっているのではないか。それとも、殺人事件に野次馬が集まるといったことはテレビや小説の中だけでの話なのだろうか。
 どちらにせよ、いずれは発見されるのだからすでに発見されていようがいまいが同じことか。どうにもならないことを案じていた自分がまた滑稽に思えて、邦明の冷笑はますます広がった。

 ふと、妻のことが頭に浮かぶ。邦明から見て背後のキッチンで、今晩の夕食を作っている女のことだ。トン、トン、トンと包丁が小気味いいリズムを奏でている。
 涼子は自分と明美の関係に気づいていたのだろうか。また意味のない疑問が頭に浮かぶが、その思考は止まらない。
 気づいていた節はある。確信はなかったかもしれないが、仕事が遅くなったといって深夜に帰宅する自分を見る妻の目は明らかに猜疑心に満ちていた。もし涼子が知っていたならば、万一警察が来たときに余計なことを口走るようなことはないだろうか。
 邦明はまた冷笑した。馬鹿馬鹿しい、警察が涼子に事情聴取するほど自分に目をつけられているならば、その時点で自分の破滅は確定している。涼子が何を言おうが関係はあるまい。そもそも、自分は涼子に浮気が知られることを恐れて恐喝に従っていたのではなかったか。そして最終的に、明美を手にかける羽目になってしまったのではなかったのか。ならば、すでに妻に浮気がバレている前提で物を考えるなど、本末転倒ではないか。
 邦明は叫びだしたい気分になった。考えれば考えるほど自分の愚かさを思い知っていくのに、耐えられなくなりそうだったからだ。
 涼子が夕食を持ってきた。妻の顔がどことなく沈んで見えるのは、自分の中にある罪悪感のせいだろうか、と邦明は思った。

「それで、また西村がやらかしやがってさ。俺はもう今日一日頭を下げっぱなしさ。まったく、いい加減にしてほしいよ、ホント」
 涼子の作った味噌汁をすすりながら、邦明は喋り続けていた。こんな日に限っていつもより舌がまわるのは、恐怖心の裏返しだろうか。
 涼子は自分の話を聞いているのかいないのか、へぇ、とか、そう、とか言いながら自分が作った煮物に箸を伸ばしている。
「そういえば、春はちゃんとあっちに着いたのか? どこって言ったっけ、静岡あたりだったか」
「長野。昼過ぎに無事着いたってメールくれたわよ」
「なんでバスケの練習をしに長野まで行かなくちゃいけないのかね。俺は前々から思うんだが、運動部で遠くの方で練習するメリットってのはなんなんだ。練習するだけなら自分の学校の体育館でいいんじゃないのか」
涼子が呆れたように嘆息した。
「環境の問題とか、施設とかいろいろあるのよ。いつも同じところで練習していたんじゃ息も詰まるし、厳しい練習にも合宿っていう名前がつけば、合宿中は思いっきり練習するんだって心構えもできるからね。まあ、学生時代万年帰宅部だったあなたには分からないでしょうけど」
 そんなものなのか、と邦明は思った。
 だが、合宿の意義は理解できなくとも一人娘が長い期間家から離れているというのは、邦明にとっては有難かった。溺愛している一人娘に自分が殺人者であるという事実を隠しながら接するのは、かなり辛いに違いない。

 ふと、涼子が立ち上がり、キッチンの方に歩いていった。少しして、キャットフードが盛られた動物のエサ用皿を持って戻ってくる。
「ミユキ」と、妻はテレビの横で寝そべっている猫に対して話しかける。
「アンタはいらないの?」
 そういえば、今日はミユキが食事をしているのを見ていないな、と邦明は思った。
 ミユキは五年ほど前から神崎家の一員として生活している飼い猫だ。買ってきた当初はミユキという名がよく似合う愛らしい快活な子猫だったのだが、今では見る影もなくまるまる太り、いつもテレビ横で寝そべっている置物と化している。
 涼子はキャットフードの皿をミユキの横に置いた。
 だが、ミユキは大して腹が減っていないのか、キャットフードをちらりと見ただけで大きく欠伸をするだけだ。
「何よ」と涼子が少し苛立ったように言う。
「大きくなるにつれて、どんどんそっけなくなっちゃって」
「まあ、仕方がないだろう。あれくらいになったらこんなもんさ」
 なぜ自分は猫のフォローをしているのだろう、と邦明は自問自答したが、すぐに理解した。休日にいつもテレビの前のソファで寝そべっている自分とミユキの姿はよく似ていたからだ。

 その後も夫婦の食卓は他愛無い会話が続いた。
 会話をしているうちに、昼間のことは空想だったのではないかという思いが湧いてきた。あれは明美に対しての、死んでほしい、殺してやるといった憎悪が募りすぎて幻視した白昼夢ではないのかと信じそうになる。
 だが、もちろんそんな訳はなかった。
 半日という時間は、可能な限りの力をこめて女の首を絞めた手の感触を忘れ去るには短すぎた。

 食事が終わって、涼子が先ほどから一言も発しなくなっていることに邦明は気付いた。もともとあまり口数の多い方ではないが、先ほどから相槌すら打っていない。また、明らかに顔色が悪い。顔面蒼白といっていいほど青ざめている。
 先ほどの他愛ない会話の中に、そこまで気分の悪くなる内容の会話があっただろうか、あるいは、単純に体調が悪いのだろうかと邦明は思った。
 自分の起こした事件と涼子に関係があるなどと、この時の邦明は全く思っていなかった。
「ああ、もう駄目」
 突然涼子が叫んだ。邦明は目を丸くして驚いた。
「やっぱり無理。耐えられない」
そう言うと涼子はその場に崩れ落ち、泣き始めた。尋常ではないその様子に、邦明は呆然とすることしかできない。
「おい、どうしたんだ突然」
 この時になって、ようやく邦明は涼子が自分のしたことを知っているのではないかと察した。
 例えば、前々から浮気を察していた涼子は自分が仕事に行く振りをして、逢引をするのではないかとあたりをつけ、家を出た後の自分を尾行していた。そして、偶然自分の凶行を、あるいはその結果を目撃したのではないか。
 浮気を勘付いていた様子と、彼女の行動力を考えればありえないことではない。涼子は口数こそ少なめではあったが、一度決めたことは何があろうと最後まで実行する女であることを、邦明は二十年以上の結婚生活で思い知らされていた。
 そして、その彼女が何かを「耐えられない」と口にしたのである。前後の様子からしても、涼子に尋常ではない何かがあったことは間違いなかった。
 涼子は涙混じりの声で途切れ途切れに続けた。
「私、ごめんなさい、私、あなた、押入れの、中に」
 押入れ?
「押入れ? テレビの裏のやつか」
 邦明は涼子の言う押入れの方を振り返った。よく見れば引き戸の端がほんの数センチ開いている。
 この押入れは、普段から使っているものではない。普段はあまり使わないが捨てるのも忍びないようなものを詰め込んでいたものだ。だが、それらも最近になって殆ど処分してしまい、今はほぼ何も残っていないはずだ。
 おそるおそる、邦明はその押入れに近づいた。

 この中に、何かがあるのだ。涼子をあれだけのパニックに陥らせる何かが。
 ごめんなさい。涼子はそう言った。
 何を謝るのだろう。
 先ほどの予測が頭をかすめる。
 まさか、そんなはずはない。
「この中に、何かあるのか?」
 尋ねると涼子は泣きじゃくりながらも、頷いた。
 引き戸にゆっくりと手を伸ばしながら、邦明は考えた。
 涼子のこんな姿は初めて見る。
 涼子は頭のいい人間だ。度胸も据わっている。
 おそらくは自分よりもずっと。
 だからこそ。
 だからこそ、そんなはずはない。
 そんなはずがない。そんなはずがない。
 邦明の頭の中で同じ言葉が繰り返される。
 自分のやったことと関係のあるものが、この中に入っているなんてことがあるはずはない。
 何があるにしても、それは自分には関係のないものだ。
 そうに決まっている。
 邦明は意を決して押入れの引き戸を開いた。
 ごとり、と音がして今まで内部から引き戸側にもたれかかっていた『それ』が、邦明の方に倒れこんできた。

 物言わぬ傍観者となった、明美の双眸と目が合った。
 邦明は絶叫した。


4.神崎涼子

 トン、トン、トン。

 最も悔やむべきことはなんだろう、と神崎涼子は思った。
 浮気をするような男と結婚したことだろうか。
 最初に勘付いた段階で、邦明を問い詰めなかったことだろうか。
 現場を取り押さえようと、邦明を尾行したことだろうか。
 邦明の凶行を目撃して、それを警察に届け出なかったことだろうか。
 いや、やはり、何よりも。
 この家にあの女を持ってきてしまったことだろう。
 そう、涼子は思った。

 トン、トン、トン。

 邦明の浮気を確信したからといって、すぐに離婚するつもりなどはなかった。
 自分は専業主婦で、春――娘は私立の高校生だ。邦明は大手のベンチャー企業に勤めるサラリーマンで、同年代の人間の数倍は稼ぎがある。だからこそ、結婚するまでは想像もしていなかったこのような高級マンションに住むことができたし、娘が私立の高校を受験することにも何の抵抗も無かった。今まで邦明の収入に頼ってそんな生活を続けてきたのに、そこから急に夫がいなくなって自分達はやっていけるだろうかという不安がまず第一にある。
 金銭的な面以外にも、二十年来共に暮らしてきていた夫に対する情もやはりあった。それは昔のように愛と呼べるようなものではなかったが、それでも好意の一種であることに間違いはなかった。
 事実を突き詰め、認めさせた後に、二人で話し合い、可能であれば許したかったからこそ、涼子は邦明を尾行した。
 まさか、夫が殺人を犯すほどに思い詰めていたなどとは考えもしなかった。

 トン、トン、トン。

 ぐったりとした女の遺体を発見した時、それを警察に届けなければならないという考えは頭の中に浮かばなかった。
 まず最初に涼子が思ったのは、「このままではいけない」ということだった。
 夫は逃げるつもりなどなく、このまま自首するつもりなのではないかと思うほどに、その公衆トイレ内は証拠品や手がかりだらけの殺害現場だった。
 この事件に名探偵や名刑事が登場する必要はなく、ミステリー小説に出てくるような無能な警察だったとしても、この現場から邦明を逮捕するのに何も問題はないように思える。
 邦明は直接自らの手で女の首を絞めて殺害したらしい。犯行の瞬間を見ていたわけでもないのにそれが分かるのは、女の首にくっきりと男物の手形が残っていたからだ。この時点でまず犯人は男だとバレる。さらに、女はどうもホステスのようだ。当然警察は犯人と女が男女関係にあり、動機もそのあたりがもつれたことにあるのでないかと推測するだろう。
 すると、目撃証言がとられる。犯行時のものではなく、女にそういった関係の男がいたかどうかだ。ある程度あたりをつければ後は簡単だろう。女の首に残った手形と、容疑者の手形が一致するか確認すればいいのだ。そして、日本の誇る警察組織が邦明を怪しい人物として挙げるのはそう難しいことではないはずである。なんせ、素人である自分でさえ邦明と女の関係を調べることができたのだ。邦明の隠ぺい工作はかなり杜撰なものだと言えよう。浮気と殺人、両方について、だ。
 このままではいけない。このままこの現場を放置しておけば、夫は一週間もたたずに捕まるだろう。
 いつかドラマで見た光景が頭に浮かぶ。
 扉の前に張られた罵詈雑言が書き連ねてある紙。毎日のようにかかってくる誹謗中傷の電話。苛めに耐え切れず高校を中退する娘。犯罪者の家族など、どの会社も雇ってはくれない。そんな生活に、耐えきれる自信はなかった。
 涼子は邦明に対して怒りを覚えた。今朝方まで感じていた、不貞に対する怒りではない。逃げるつもりなら、なぜもっと上手くやらないのだ、という怒りだ。

 トン、トン、トン。

 とりあえず、手形のついたこの遺体をそのままにしておくわけにはいかなかった。幸い、さすがに邦明も目撃者には気を使ったらしく自分以外で近くにいる人間は見当たらない。今ではほとんど誰も使っていないこの寂れた公園を逢引の場所に使ったことから、邦明は最初からこうするつもりだったのだろう。
 涼子は行動した。その時には迷いは無かった。
 女の腕を引くと、自分の肩に載せて無理やり立たせ、酔っ払いに肩を貸しているような状態で歩きだした。
 女は細身で体重も軽く、涼子の力でもなんとか運ぶことはできた。近くに人間が現れないことを祈りつつ、公園の前に停めてあったレンタカーまで女の死体を引きずった。
 このレンタカーは邦明の尾行用に前日から借りていたものだ。邦明が毎日車で出勤していたために手配したものだが、まさかこのような形で役に立つとは思ってもみなかった。
 女を後部座席に寝かせると、どっと疲れが押し寄せてきた。だが、休んでいる暇はない。この遺体をどうするのか考えなければならなかった。
 とりあえず、この手形が消えるようにしなければならない。できれば発見も遅らせたい。発見されることがなければそれが最良だ。
 山に埋める? 海や池に捨てる? それとも遺体をバラバラにして――。
 恐ろしい想像をしている自分に気づいて、涼子は我に帰った。
 とにかく、このまま停車しているのはまずい。いつ誰に見られるかわかったものではない。涼子は車を走らせた。

 トン、トン、トン。

 車を走らせながら、涼子は考えた。
 山に埋めるというのはかなり厳しい。この近辺に山はないし、仮にあったとしても女の身である自分だけで遺体を運びながら登山するというのは現実的ではない。
 海や池に捨てる、というのも無理があるように思えた。人ひとり沈めたままにしておけるほど大きな池もこの近くにはない。海に捨てたとしても、陸地に近いところで捨ててもすぐに打ち上げられてしまうように思えるし、沖の真ん中で捨てる方法は思いつかない。
 ならば、どうするか。
 先ほどの想像の中で、最も残酷な方法を思い出す。
 バラバラ。
 実際にその作業を行っている自分を想像するだけで気が狂いそうになったが、遺体を遺棄する手段はそれ以外に思いつかない。幸い娘は今朝から部活の合宿に行っている。期間は一週間ある。邦明に協力をさせれば、なんとか一週間以内には遺体を細切れにできるのではないか。遺体が人の形を保っていなければ、廃棄する方法はいくらでもあるように思えた。
 だが、そのためにはまず遺体を自宅に持ち帰る必要がある。自分のマンションの駐車場から部屋まで、後部座席で横になっている遺体を引きずることを考えると、涼子は気が遠くなりそうになったが、他に方法はない。
 涼子は決意した。
 この時にはまだ、自分が正しい方向に向かっていると信じて、涼子は行動していた。

 トン、トン、トン。

 遺体を部屋まで運ぶのは、想像以上に辛い作業だった。
 公園から車まで引きずった時とは訳が違う。あの人のいない公園と比べて、このマンションで他の入居者とすれ違う可能性はいくらでもあったし、防犯カメラの設置されているエレベーターは使えないため、階段を上りながら遺体を引きずっていくしかなかった。
 誰ともすれ違わずに部屋に入れた時の安堵感は凄まじく、玄関の鍵を閉めたあと涼子は思わず遺体を放して崩れ落ちた。
 五分ほど床に手をついた体制で深呼吸をしながらなんとか顔をあげると、生気のない見開いた目がこちらを向いており、思わず涼子は小さな悲鳴をあげた。
 プライベートな空間に逃れることができて余裕が生まれたからだろうか、その時初めて涼子の中に恐怖という感情が生まれた。
 自分は恐ろしいことをすでに実行していて、これから更に恐ろしいことをしようとしている。考え始めてしまうと、遺体とこの空間に二人きりでいることが耐えられなくなってきた。
 涼子は再び遺体を引きずり始めると、今はほとんど空になっている押入れの前まで運び――途中で猫のミユキの尻尾を踏んでしまった。猫はフギャアと怒りと苦痛に満ちた叫びをあげた――その引き戸を開けた。
 予想通り、そこには人ひとりは余裕で入れるスペースがあった。涼子は遺体を頭から押入れに押し込んだ。
 遺体はまるで体育座りをしているような恰好になり、押入れの奥の壁にもたれかかっている。こちらの方を向きながら項垂れているそれをこれ以上見ていたくなくて、涼子はすぐさま押入れの引き戸を閉じた。

 トン、トン、トン。

 気づけばもう夕方の4時になっていた。
 これからのことについて考えようとしたが、涼子の脳はこれ以上の思考を拒否した。なんにせよ――仮に先ほどまで考えていたことを実行するにしても――これからのことは自分ひとりでは不可能なのだ。ならば、邦明が帰宅するまですることはない。せいぜい夕食の準備をするくらいだ。
 涼子はそう思い、ソファから立ち上がった。押入れの方はできる限り見ないようにした。
 この異常な事態でも、日常通りの行動をとる自分を少し不思議に思ったが、すぐに納得した。ようするに、何かしていないと落ち着かないのだ。

 トン、トン、トン。

 涼子はハッとした。葱を細切れにする作業はとうに終わっている。先ほどから自分は回想をしながら、まな板の上の何もない空間に対して、包丁を打ち続けていた。邦明はずっとテレビの方を向いてビールを飲んでおり、涼子の異常に気付いた様子はない。一本分まるまる細切れにされた細葱を見て、涼子はため息をついた。
 タッパーを取り出し、今回の味噌汁には使わない分の葱を詰め込む。

 自分にはできない。

 先ほどから思うのはそのことばかりだ。
 たしかに、実際に遺体を見つけてから行動していた時の涼子は自分でも驚くほどの冷静さを発揮していた。邦明の犯行の杜撰さを正確に把握できたし、その隠蔽のために可能な手段を模索できた。あの時考えていた計画の通りにこれから行動すれば、まだ警察に捕まらないで済む可能性はあるだろう。
 だが、もはや涼子の精神力はこれ以上持ちそうになかった。
 女の遺体を引きずりながら上ったあの階段での疲労が、そして玄関で目があったあの女の双眸が。涼子からこれ以上の行動を起こす気力を根こそぎ奪っていってしまった。
 もう楽になりたい。
 そう思うとともに、昼間の自分の行動からそれ以前の行動に対して全てに後悔が走る。
 なぜ、遺体をこの部屋まで連れてこようと思ってしまったのか。
 なぜ、遺体を処分しようなどと思ってしまったのか。
 なぜ、夫を尾行しようなどと思ってしまったのか。
 なぜ、夫の浮気に勘付いてしまったのだろうか。
 なぜ、浮気をして、殺人までする夫の妻になってしまったのだろうか。
 後悔は原初の二十年前まで遡り、今自分の後ろで呑気にビールを飲んでテレビを見ている全ての元凶となった男を、手に持った包丁で刺し殺してやりたくなる。
 邦明にはまだ何も言っていない。全ての気力を失ってしまった涼子には、その押入れにはおまえが殺した相手が入っているのだと伝えることも億劫だった。
 できることはいつも通り、完成した夕食をテーブルの上に運ぶことだけだ。
 テレビを見ている邦明の顔は笑っていた。
 だが、その笑いの中にどこか白々しいものを感じたのは、自分の気のせいだろうかと思った。

 邦明はよく喋った。
 会社の愚痴、近所の話、合宿に行っている春の話、さまざまなことを喋った。
 普段そこまで口数の多い方ではない邦明が今日に限ってよく喋るのは、殺人を犯した高揚感がそうさせているのだろうか。
 逆に涼子の方は疲れ果てていたため、口から出る言葉は邦明の喋ることに挟む相槌程度だった。

 ガタン。

 ふと、小さな音がした。邦明は音自体に気づいていないようだったが、たしかに押入れの方から聞こえた。
 涼子は血の気が引くのを感じた。最早邦明の話など全く耳に入っていない。
 何かが押入れの中で動いたのだ。
 馬鹿な。涼子は思った。
 たしかに死んでいた。あれだけ動かしても、引きずっても全く反応が無かったのだ。間違いない。
 だが、脈をとったり、心臓が動いていないかを確かめたりしたわけでもない。
 この時初めて、涼子は自分の愚かさを悟った。

 自分は、あの女が本当に死んでいたかを確認していない。

 今の音は、もしかしたら本当は生きていたあの女が目を覚ました音ではないのか。あるいは、死にかけだったあの女がとうとう力尽きた音だったりするだろうか。
 もし後者だとすれば、自分はとんでもないことをしたことになる。
 治療すれば助かる見込みのあった女に、いわばとどめを差したようなものだ。
 私が、殺した?
 思考が回転する。
 回転する。
 回転する。
 目の前の邦明の顔が歪んでいくように見える。
 殺した、殺した、殺した、違う、違う、違う。
 戦慄の中、また押入れの方からガタンという音がした。
 間違いない、あの中には生きているものがいる――

 そう確信しかけた時、視界の片隅、押入れの引き戸の下の方で何かが動くのが見えた。ミユキだ。あの猫が、押入れの戸に体を擦りつけていたのだ。
 ミユキには狭いところに入りこもうとする癖があり、よく見れば押入れの引き戸が少し開いている。死体を隠したときにきちんと閉めなかったのだろう。
 つまり、さっきの音はミユキがその隙間から押入れの中に潜り込もうとしていた音だということだ。
 涼子は呆然と、しかし安堵した。
 そして、今日はまだミユキに餌を与えていなかったことを思い出す。
 立ち上がり、キッチンに向かう。餌用皿を手に取り、その中にキャットフードを適量入れた。
 リビングに戻り、押入れに侵入するのを諦め、テレビの横で丸まっているミユキに対して話しかける。
「ミユキ。アンタはいらないの?」
 しかし、ミユキは横に置いたキャットフードの皿をちらりと見ただけで、そのまま眠り始めてしまった。今日一日エサを与えていないのに、この大飯食らいにしては珍しいことだ。
「何よ」
 この猫に対してなんだか無性に腹が立ってきた。先ほど自分に対してあれほどの恐怖を与えておきながら、その原因は気持ちよさそうに眠りこけている。
「大きくなるにつれて、どんどんそっけなくなっちゃって」
「まあ、仕方がないだろう。あれくらいになったらこんなもんさ」
 邦明が呑気そうに言うのも、また腹がたつ。誰のせいでこんな目にあっていると思っているのだ、と怒鳴りつけたくなった。

 あの音が猫のせいだというのは分かったが、しかし涼子の中の疑念はだんだんと強くなっていった。つまり、あの女はもしかしたらまだ生きているのではないかということだ。動いていなかったというだけで、死を確認しなかった事実に変わりはない。
 そもそも、人間というのは何の道具も使わずに手で首を絞めただけでそう簡単に絶命するものなのだろうか。ミステリー系の小説やドラマなどでの殺人者はたいていの場合何らかの道具を使って人の命を奪っている。また、かすかに息がある中で人工呼吸や人工マッサージで何とか息を吹き返した、などもよく見たシーンだ。
 ならば、仮に意識がなかったとしても、あの女も処置をすれば助かることもあるのではないだろうか。
 自分はあの女に生きていてほしいのだろうか、死んでいてほしいのだろうか。
 自分の夫を奪った女。自分の夫に殺された女。自分がここまで運んできた女。
 叶うなら今すぐにでもあの押入れを開き、女の生死を確認したかった。
 だが、そのためには邦明にすべてを話さなければならない。それはつまり、あなたがちゃんと殺せたかどうかを確認させてほしいと言うのと同じことだ。
 恐怖、疑念、後悔、憤怒。さまざまな感情が頭の中を回転する。
 回転する。
 回転する。
 回転する。
 回転する。
 その回転にとうとう耐え切れなくなり、涼子は叫んだ。
「ああ、もう駄目」
 突然の絶叫に邦明が目を丸くしている。
「やっぱり無理。耐えられない」
 耐えられなかった。できると思っていた。あんなに邦明のことを馬鹿にしていたのに。上手くやれなどと思っていたのに。邦明は殺人を実際に犯したのに、こんなにも平然としている。なのに自分は、些細なことでここまで疲弊している。この差はなんなのだろうか。
「おい、どうしたんだ突然」
 邦明が心配そうに声をかけてくる。この男は未だに、殺した女を自分の妻がこの家に連れてきているなどとは夢にも思ってはいまい。
「私、ごめんなさい、私、あなた、押入れの、中に」
 言った。
 言ってしまった。
 開放感と後悔が同時に駆け巡る中、自分はなぜ謝っているのだろうと涼子は思った。悪いのはこの人なのに、もともと一番悪いのはこの人なのに。
「押入れ? テレビの裏のやつか」
 そう言って邦明は押入れの方に近づいていく。その表情は蒼白になっていた。
 さすがのこの男も、妻が自分のやったことに何か関係しているのかもしれないと気づいたようだ。その声色は先ほどまで違って明らかに強張っている。
「この中に、何かあるのか?」
 涙が止まらず、邦明の顔をまともに見ることもできなかったが、涼子はなんとか頷いた。

 そうよ、入ってるわよ。
 たぶん、あなたが今一番見たくないものが入っているわよ。
 早く開けてよ。そして、もう死んでるって言ってよ。早く!

 女が生きているよりも死んでいることを望んでいることに、この時涼子は自分でも気づいていない。また、なぜそう思うのかなども当然考えない。
 ただ、女が「よくも」などと言って押入れから這い出してこないことだけを祈っている。

 邦明は意を決したようにして、一気に押入れの引き戸を開いた。
 ごとり、と音がして今まで内部から引き戸側にもたれかかっていた『それ』が、邦明の方に倒れこんできた。

 邦明もまた、その時女と目があったようだ。絶叫が響いた。

 そして、絶叫の中、ひと時の間をおいて、涼子は気づいた。

 女はこちら側に倒れこんできた。内部では手前にもたれかかっていた。
 自分が女を押し込んだ時は、手前が足になるように、つまり、奥側にもたれかかるように入れたのに。

 なぜ、女はこちら側に倒れこんできたのか。答えは一つしかない。

 女はやはり生きていた。

 生きていて、中で動いた。

 涼子もまた、絶叫した。


5.傍観者

 男と女の絶叫が響いている。
 傍観者はその音を聞いている。
 やがて、二人の絶叫が収まり、男が女に詰め寄る。
「涼子! これは、これはどういうことなんだ! なんでこいつがここにいるんだ!」
 男は興奮気味に女に詰め寄るが、女もヒステリック気味に返す。
「いいから、早く救急車呼んで! この人まだ生きてるのよ!」
「生きてる? そんな訳ないだろう。瞳孔だって開ききっているし、ピクリとも動かない。
だいたい――まあ、おまえがこいつをここに運んだんなら、俺のやったことも知ってるんだろうな?」
女が頷いたようだ。
「なら、もういいか。俺は、こいつが死んだことをちゃんと確かめたんだ。だから、こいつが生きてるなんてことはあり得ない。脈だってちゃんととった。間違いなく殺し――死んだんだ」
「でも、私がこの人を押入れに入れたとき、この人逆側を向いてたのよ!? なんで、死んでる人間が勝手に動くのよ!」
 男は一瞬言葉に詰まったが、すぐに返した。
「おまえの勘違いだろう。そもそも、なんでおまえこんなことしたんだ」
「それはあなたが――」

 その後も男と女の醜いやりとりは続いた。
 最終的に、どうやら女が家から出ていくことになったらしい。
 女が荷物をまとめている気配がする。

「馬鹿な、考え直せ、涼子。実家に戻ってどうなるというんだ。おまえだってもう死体遺棄で共犯だ。もう逃げることなんでできないんだぞ」
「何とでも言ってください。私にはもう無理なの。あなたとそこの女の人に関わることも、人殺しの手伝いももうたくさん。警察に訴えるならどうぞご自由に。どうせあなたはすぐに捕まるでしょうしね」
 女の足音が遠ざかるのが聞こえる。どうやら玄関の方に向かっているようだ。
「待て、涼子!」
「そうだ、春にはメールしておきますからね。合宿が終わったらこの家じゃなくて、お祖父ちゃんの家に帰ってくるようにって。さよなら」
 そう女の声がした後、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。

 それから長い時間がたった。男は一人、死体を前にして呆然としているようだ。
 さっきまでついていたテレビは消したらしく、部屋には物音一つない。たまにミユキが欠伸をするだけだ。
 傍観者は動かない。
 女に見捨てられ、一人死体と取り残された男の心中がどれほどのものかは察することはできない。
 傍観者は察したいとも思わない。
 ようやく男は動き出すと、彼もまた玄関から外に出た。
 男もまた死体から逃げ出したのだろうか。
 だが、男は少しするとすぐに室内に帰ってきた。
 傍観者がちらりとその様子を窺う。どうやらホームセンターで何か買い物をしてきたようだ。
 傍観者にはなんとなく男が何をしようとしているのか察しがついた。
 案の定、男はホームセンターの袋から丈夫そうな荒縄と、鉄の物干し竿、接着力の強いガムテープを取り出した。
 首を吊るつもりなのだ。

 男は今まさに、首に縄をかけて椅子の上に立っている。
 決心がつきかねるのか、長い間そのままの状態を続けていた。
 傍観者は何もしない。
 十分ほどたった後、男はようやく椅子を蹴飛ばした。
 首に縄が食い込み、男は宙づりの状態になった。
「……!」
 その瞬間、傍観者は初めて男の前に姿を見せた。
 傍観者の顔を見て、吊られた男の顔は凍りついた。
 声にならぬ声をあげようとして口を開け閉めしながら、足をバタつかせている。手は自分の首に食い込んだロープを引き離そうともがいている。
 声は聞こえてこないが、金魚のようにパクパクさせているその口は、「死にたくない」と言っているように思えた。
 その様子を、傍観者はただ黙って見ている。
 やがて、男は動かなくなった。
 傍観者は動かなくなった男の遺体を見つめたまま、しばらくじっとしていたが、ふとテーブルの上に『遺書』と書かれた紙が置いてあるのに気付いた。
 傍観者はそれを手にとると、読み始めた。


 キッチンから包丁を持ってきた。
 そして、押入れから半身だけ外に出ている死体に向かって包丁を振り下ろす。
 何度も、何度も振り下ろす。
 そのたびに彼女は呟いている。

「おまえのせいだ。おまえのせいだ。おまえのせいだ」

 彼女のポケットから携帯電話が落ちた。
 画面には先ほど着信したメールのメッセージが表示されている。
 彼女は携帯を落としたことに気がつかない。ただ一心不乱に女の死体をぐちゃぐちゃにしている。
 画面には、こう表示されていた。


 合宿は順調? 
 ちょっと事情があって、合宿が終わったらお家じゃなくてお祖父ちゃんの家に戻ってきてもらえる? お祖父ちゃんの家は分かるよね。
 なんで、って思うかもしれないけどそれは直接話すから、とりあえずお願いね。
 from "お母さん"


6.翌日

 傍観者がいる。
 他には男と女の遺体がある。そのマンションの一室で活動しているのは傍観者だけだ。
 男は太い縄で首を吊られている。
 男の遺体の顔は恐怖で凍り付いており、まるでこの世のものではないものを見て、そのまま事切れたかのようである。
 女は表情すら定かではない。顔面も含めた全身がめった刺しにされているからだ。
 腹部の隙間からは内部の臓器を覗き見ることもできる。
 傍観者はそんな二人の遺体を眺めている。
 座ってただじっと眺めている。
 傍らには男の書いた遺書がある。
 傍観者が昨日の夜から何度も目を通したものだ。
 そこにはこう書かれている。


 前略

 今回のことで関係者各位に多大なご迷惑をかけることをここに深くお詫びします。

 まずこれは警察の方へのメッセージだが、この部屋にある死体は木林明美という女のもので、銀座のSTARパブというところでホステスをしている女だ。同時に、自分の浮気相手でもある。
 殺害し、この部屋まで運んだのは私だ。他の者は一切関係ない。
 殺害理由は、よくある男女関係のもつれだ。

 次に、涼子へ。
 君は私にとって、本当に大切な人だった。君は私のことをいつも救ってくれたし、私の至らない点をいつもサポートしてくれた。
 私は今回のことで、いろいろと愚かなところを君に見せたと思うが、何よりも愚かだったのは君を裏切ったことだと思っている。本当にすまなかった。
 自分のことは忘れて、春と二人、新しい相手でも見つけて幸せになってほしいが、自分のせいでそれも簡単にはいくまいと思うと、心が痛んでならない。
 言われなくてもそうするとは思うが、どうか私のことは一日でも早く忘れてほしい。

 最後に、春へ。もしかしたら、今回のことで合宿を中断する羽目になってしまったかもしれない。今回のことと併せて、本当にすまない。

 君は私の宝物だった。

 君のためなら私はなんでもできた。

 浮気をしていた父親がこんなことを言っても信じてはもらえないかもしれないが、これだけは誓って本当だ。こんな父さんをどうか許してほしい。どうかいい人を見つけて、幸せになってほしい。殺人者の父親のことなど忘れて、隠し通して、生きていってほしい。春にそういうことができなくても、母さんは頭のいい人だからきっと上手くやってくれると思う。
 もしかしたら、君は優しくて、でも少しだけ臆病な子だから、今回の件で何もできなかった自分を責めてしまうもしれない。だけど、私にとっては君がこの事件に関わらずに済んだことが、今回のことで唯一の幸福だ。大人たちの醜い間違いに、子供を巻き込まずにすんだのだから。
 せめて、君が自分の第一発見者でないことを祈っている。

 追伸

 涼子へ
 春にこの文章を見せるかどうかは君が決めてくれ。必要ないと思うなら、この遺書は春には見せずに処分してほしい   

 ――神崎邦明


 傍観者の顔には涙の跡がある。
 その手には、包丁が握られており、それについた血は乾いている。
 外から、パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。


7.一週間後

「あの子の様子はどうだ?」
「相変わらずです。心神喪失っていうんですかね。まったく喋らないわけではないんですが、ずっとぼーっとしたままです。たまに母親が面会に来てるみたいですが、やはり同じのようです」
「部活の合宿をサボって、家に戻ってきた。猫にエサをやってたら、母が帰ってきてしまったので、慌てて物置の中に隠れた。その物置の隙間から家の中の様子をずっと見ていた。にわかには信じがたい話だな。
 遺書によると、あの明美とかいうホステスを実際に殺したのは首を吊ってた父親だということだったな」
「調べたところ、たしかに神崎邦明はあの木林明美というホステスと関係があったようです。明美の死体は損傷が激しかったですが、死因となったのはあれらの刺傷ではなく頸椎圧迫による窒息死だと解剖結果も出ています。首についた手形も邦明のものと一致しました。刺傷は死後かなり経過してからつけられたものだそうです。おそらく、あの春という子の手によって。
 また、神崎邦明も現場の状況から自分で首を吊ったことにほぼ間違いはなく、近所のホームセンターの店員もたしかに邦明本人がロープなどを買いにきたと証言しています。遺書はまだ筆跡鑑定の結果待ちではありますが、おそらく本人の直筆でしょう。総合して、あの子が誰かを殺したわけはない、という話は信用してもいいかもしれません」
「しかし、あの母親の話が全て本当だとすると、あの子は十時間近くあの暗くて狭い押入れの中で死体と二人きりだったということになるな」
「やはり、相当恐ろしかったようですよ。少しでも遠ざけたくて、自分の近くにあった死体を離れたところに動かしたとも言っていました」
「俺のガキなら間違いなく途中で漏らすか、死体が入ってきた時点で叫びながら飛び出してくるな。そういえば、娘はあの明美というホステスのことを知っていたのか?」
「事件の一週間ほど前に、父親と歩いているところを偶然目撃してしまったそうです」
「なら、あの子にしてみれば父親の浮気相手の死体が突然自分の隣に転がってきたわけか。やれやれ」

「しかし、なんでまたあの子は死体をめった刺しにしたんだ」
「それだけは本人が話してくれませんので、何とも言えません。だから、これから話すことは自分の推測です」
「言ってみろ」
「あの子はあの夜の一部始終をずっとあの押入れの、引き戸の隙間から見ていました。そして最終的には母親は出ていき、父親は首を吊った。家族は崩壊してしまった。それが多感な時期の高校生にとってどれほどのショックだったか想像もできません。彼女の友達の話だと、家族仲も良かったようですしね。そして、話を整理すると事の発端はあの明美というホステスが邦明を恐喝していたことのようです」
「だから、憎くてめった刺しにしたというのか。もう死んでいる人間を?」
「おそらく、あの遺書です。あの遺書は娘を傷つけないようにできる限り配慮はされていましたが、邦明は娘が押入れに隠れていたことを知りませんでした。娘はあの遺書を読み、父親への憐憫の情が蘇ったのではないでしょうか。仮に直前までは殺人者としての父を軽蔑していたとしても、高校生の女の子が、もともとは仲の良かった父が書いたあのような遺書を読んだら、さすがにまいってしまうと思います。そして、その父を破滅させる元凶への憎悪も、急激に膨らんだのではないでしょうか」
「あまりピンとこないな。それまであの娘は、何が起こっても押入れの中で怯えながら一部始終を傍観していただけだった。それが感動的な文章を読んだだけで、あそこまで残酷なことをするようになるものかな」
「まあ、これはあくまでただの推測です。正しいかどうかはわかりません。もしかしたら長時間死体の近くにいたせいで、少し精神に異常をきたしただけかもしれませんしね」
「そっちの方が俺にはまだわかりやすいよ」


8.一週間前

 男が女と何かを話している。男の妻ではない女だ。傍観者は部活の練習から帰る途中、偶然二人を発見した。
 男が女に対して、何かを喚いている。傍観者のところにもその声は響いた。
「だから、金は一週間待ってくれと言っているだろう。もう少ししたら給料も入るし、娘の学費もそろそろ振り込まないとまずいんだ」
「そしたら、いっそ娘さんに働いてもらったらどうかしら? 前に見せてもらったあなたの娘さん、大分かわいかったじゃない。どうかしら、アタシの知り合いにそういう店紹介できる人いるわよ」
「貴様、娘にまで手を出すつもりか」
「あなたがちゃんとお金を払ってくれさえしたら、そんなつもりはないわよ。でも、そうね、あなたがこれ以上お金を出し渋るつもりなら、アタシの友達がそういうことしちゃうかもね」
「貴様!」
「じゃあね、お父さん。言う通り、一週間だけ待ってあげるわ。必ず来週にはお願いね」
 女はそう言うと、男の前から去って行った。
 男がぽつりと呟く。
「殺してやる……」

 傍観者はその様子を見ている。

 ただ黙って、いや、声を押し殺して、見ている。

 見ていることしか、できなかった。


(了)

2014/06/06(Fri)01:24:33 公開 / かるちあ
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