『白い鳥の幻想』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
ゴールデンウィーク、僕は妹を名乗る褐色肌の少女に出会う。彼女と意図せずいちゃつきながら、僕は彼女の探し物を手伝うことになる。彼女の探し物――それは、外国に憧れて、固執して、自分の国を飛び出してしまった白い鳥の幻想の断片たちだった。

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 白い鳥の幻想


 葉桜の揺れる並木道を歩いていると、校門の方で誰かが手を振っているのが見えた。
「おーい! お兄ちゃん!」
 女の子だ。
 白いノースリーブブラウスにギャザースカート。かぶっているつば広帽も白ければ横に置いている小さなスーツケースも白い。それと対をなすように髪は黒色で、肌の色は褐色をしていた。
「…………?」
 眉をひそめて周囲を見回してみるが、辺りには僕以外に人影はない。ゴールデンウィーク前ということもあって、帰宅部の連中はさっさと帰ってしまっているし、部活のある奴らは運動場で練習に励んでいるのだ。普通に考えるならば、「お兄ちゃん」とは僕のこと。でも、残念ながら僕に妹はいないので人違いである。そう思って無視を決め込んでいたら、なんと女の子の方から僕の前へやってきた。
「お兄ちゃん!」
 女の子のおさげが揺れる。僕の顔を下から覗き込むように視線が送られる。三つ編みが重力にしたがって彼女のむき出しの肩を撫でるように垂れ下がった。歳は僕よりも下だな。中学生かそうでないかくらい。目がとても優しげだ。口元はころころ表情が変わるためかとても活発な印象を受けた。綺麗と可愛いが同居したような娘だ。
 僕は得心して一つ頷いた。
「そういう『お兄ちゃん』か。――どうしたの? 人でも探しているのかな?」
 腰をかがめてそう尋ねると、彼女は不思議そうな顔で唇に人差し指を当てた。
「わたしが探していたのはお兄ちゃんだよ」
「この高校に君のお兄さんが通っていて、道を訊くために『そこのお兄ちゃん』って僕を呼び止めたんだよね? お兄さんの学年と名前を教えてもらえるかな? 事務に問い合わせてみるよ」
「んう……? 二年生、神崎シュン……?」
「なぜに疑問形? というか、神崎シュンって僕の名前じゃないか。なんでそうなるよ……」
 腰に手を当ててため息を吐く。すると女の子は小首を傾げてこう言った。
「だから、わたしはシュンお兄ちゃんに会いに来たんだよ」
「えっ……?」
 女の子の視線はまっすぐで迷いがなかった。僕の事を何年も一緒に過ごしてきた家族のようなまなざしで見つめてくる。いやいや、そんなふうにきらきらした目で見つめられてもお兄ちゃん困っちゃうんだけど。いったい何が起こっているんだよ。前世からの因縁? 幼い頃に生き別れちゃった妹系? 古典の教材じゃないんだぞ。
「お兄ちゃん、会いたかった! ずっと、ずっと会いたかったよー!」
 いまだ事態を飲み込めていない僕をそっちのけで抱き付いてくる女の子。あ、控えめな胸が柔らかい。女の子特有の甘い香りもする。絡みついてくる褐色の足の筋肉の動きがズボン越しに伝わってきて頭の中が一瞬真っ白に――。
「待った! ちょっと待った!」
 慌てて女の子を引きはがす。「盛り上がっているところ悪いけど、全然意味が分からない。僕は一人っ子だ。妹なんていない」
「でもお母さんはそう言っていたよ。写真見せてくれて、この人がパパとお兄ちゃんだって」
「お母さんって……。僕の母は十二年前に死んでいる」
「あ、そう言ったのはわたしのお母さんで、お兄ちゃんのお母さんじゃないよ」
「――――――――――――」
 絶句。嫌な予感しかしない。つまりこの子が言っているのは、わたしは腹違いの妹だよってことで……。そうなると、犯人は一人しかいなかった。
「お兄ちゃん?」
 訝しげにこちらを見てくる妹(仮)を一瞥すると、「ちょっと待っててね」と笑顔で言う。スマホを取り出して電話帳を呼び出すと『父』と表示されている項目を選ぶ。大事な商談中とか構うものか。申し訳ないけれどもきちんとお話を聞かせてもらわないといけない。ちなみに僕の父はアダルトビデオに出てくる太った男優のような見た目の男だ。小さい頃はよく一緒に風呂に入ったもので、そのとき見た父の一物は巨大で猛々しかった。僕の頭や体を洗うのだってめちゃくちゃ巧かったし、手つきもねちっこかった。あらぬ疑いをしてしまってもしょうがないと思う。
『おう、シュンか。どうした?』
 数コールのあと野太い声が電話口に出る。僕は困惑する女の子に微笑みかけながらこう言った。
「父さん、今僕のところに妹を名乗る女の子が来ているんだけど、何か言うべきことはない? 女の子は十三歳前後で、黒い髪に褐色の肌をしている。もしかしてだけど、十数年前に仕事先で出会った女性とそういう関係を持ったとか?」
 父さんは貿易商をしていて、現在進行形で世界各国を飛び回っている。その途中で東南アジアや太平洋の島国の辺りを訪問することもあっただろう。限りなく黒に近いグレー。案の定父さんは歯に物がはさまったような言い方になった。
『あー……そうか。もう来たのか……。もっと先だと思っていたんだが、そうか……。あー……。シュン、その子、元気か?』
「はぐらかそうたってそうはいかない。率直に訊くけど浮気していたの? この子の年齢的にまだ母さんが生きている頃だよな、もししていたとしたら」
『あー……。それは、なんつうか、どこからどこまでが浮気なのかっていう根本的な問題だなあ。俺としてはありゃあ浮気とは呼べないもんで……』
「その『浮気とは呼べない行為』で妹が出来ているみたいなんだけど。じゃあ訊くけどこの子は僕の妹なの?」
 僕がそう言うと、ズボンの端を握りしめていた女の子の手がびくりと震える。申し訳ないけれども、ここだけはきっちりと確認しておかないといけない。父さんは一拍何かを考えるように間を置いて、
『その子は、俺の子だ。これからは俺が育てる。そう伝えてやってくれ』
 とだけ言った。
「父さん、あんた……」
『だが肉体関係は結んでいない。俺はあくまでミエコ一筋だった』
 この親父はこの期に及んで言い訳を並べるつもりなのかよ。僕はため息を吐いた。もう怒りを通り越して呆れてしまう。
「父さん、悪いけど、ちょっと何言っているか分からない」
『だろうなぁ。まあ、こんな重要なことを電話口で話そうっていうのが間違っている』
「それはそうだよ。親族会議ものだぞ、これ」
 電話口の向こうから書類をめくる音が聞こえてきて、それから父さんの声が再び続いた。
『今やってる商談だけまとめてすぐ帰る。悪いが、しばらくその子の面倒を見てやってくれ』
「……分かった。帰ってきたら、ちゃんとした説明を聞けると信じてる」
 僕が電話を切ろうとすると、父さんは後を追うように言葉を続けた。
『シュン、すまん。本当はもっと早くに言おうと思っていたんだ。だけど、言い出せなかった。本当に悪かったと反省している。とにかく、できるだけ早く日本に帰るから。それじゃ』
 通話が切れる。僕はスマホを耳元から離すと画面をじっと見つめた。よほど怖い顔をしていたのか、女の子が恐る恐るといった感じで尋ねてくる。
「お兄ちゃん、どうして怒っているの?」
「父が不義理を働いたから。浮気は家族の気持ちを傷つけるものなんだよ」
「お兄ちゃんは傷ついているの?」
 妹が真顔で僕の顔を見上げてくる。僕は目を逸らした。
「そうだよ」
「ふーん、そっか……」
 本当は違うんだけどね。ぶっちゃけた話父さんが不倫していたとしても、僕としては気持ちの上では特に感じることはない。母さんの思いを踏みにじったと義憤に駆られるような性分でもない。そこら辺は割とドライ。多分、事情がそれだけなら細かいことは父さんに任せて静観していたと思う。だけど、そこに父の莫大な遺産が絡んで来れば話は別だ。大学を出たら自分の会社をつくって、機が熟せば父の会社もろとも財産を全部丸ごと飲み込んでやるつもりだったのに、これでは場合によっては僕の取り分が大幅に減ってしまう可能性がある。そんなの嫌だ。貰えるものは全て奪い尽くす主義なのだ。
 とにかく、事態は変わってしまったようだ。
 そんなわけで、僕は新たな布石として、妹を懐柔することにした。周りを囲む葉桜たちを、口を開けて見まわしている妹に、僕は再度視線を合わせた。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。僕は――ってもう知っているんだった。だけどもう一度名乗っておく――神崎シュン。君の名前は?」
「メレだよー」
「そうか。よろしく」
 僕が手を差し出すと、メレはその手をじっと見つめてきた。
「お兄ちゃん、わたしのこと嫌いじゃないの?」
 僕は微笑んだ。
「嫌いじゃないよ。僕の父が帰ってくるまで、君の面倒は僕が見ることになった。おいで、一緒に帰ろう」
 メレの表情がぱっと明るくなった。それから僕の斜め後ろにぴたりと着いてくる。何が嬉しいのかは分からないけれども、後ろ手に手を組んで僕の顔を横から覗き込んでいる。僕の顔に何かついているのだろうか?
「ふふふー」
 目があった瞬間、メレが表情を緩める。こっちを見ていたことに特に意味はないようだ。彼女は両手を広げると、軽い足取りで僕の前に出て、沼地の奥に誘おうとする悪い妖精みたいに右へ行ったり左へ行ったりする。周りに人はいないけれども何となく恥ずかしい。仕方がないので彼女を大人しくさせるために話題を投げることにした。
「メレは、今までどこに住んでいたの?」
「宮崎だよー」
「日本なのか。お母さんは元々どこに住んでいた人なの?」
 メレは僕の前を歩くのを止めて、横に並んだ。
「分かんない。何回か尋ねたんだけど、その度にお母さんははぐらかしていたから。わたしの予想ではー、多分南の方?」
 メレの肌の色の具合からして、オーストラロイドの血が混ざっていることはまず間違いない。だけどそれだけというわけではないだろう。髪は真っ黒で艶やか、目は明るいとび色で、鼻も子供の割には高い。モンゴロイドもかなりの割合で入っている。堀の深さやくっきりとした二重瞼を見るにコーカソイドも入っている。あれ? 割とだいたい全部入っていそうなんだけど。かなり色々な血が混ざっている――南西太平洋の辺りの民族が祖先なのか。もしかして、メラネシア系? あんまり適当な推測をするのは止めておこう。
「人種が混ざれば美人が生まれるとは言うけど、結構マジだったんだな……」
「お兄ちゃん?」
「何でもない。それで、君はどうしてこのタイミングで来たんだ? 父さんと僕の対話が終わってからの方が穏便に済んで良かったと思うんだけど」
「んー。えっと、先月お母さんが死んじゃって、パパから手紙が届いて、学校が夏休みになったら家に来なさいって言われて――」
「まだゴールデンウィークだぞ」
 メレは白いスーツケースを僕の手から取り上げると自分で引っ張り始めた。手に取るときにわざわざ僕の腕にくっついてきたのは、スーツケースを持たせてしまってごめんなさいという意思表示なのだろうか。彼女はカラカラとケースを転がしながら空を見上げる。
「知りたいことがあって来たの」
「へえ……、何を知りたいんだ?」
「分かんない」
「いや、分かんないって……。知りたいことを探るのに、肝心のモノを知らないとか探求のしようがないだろう。それを言ったら、知っているものはそもそも探求する必要がないってことになるわけだけどさ」
 いわゆる探求のパラドックスと言うやつである。
 メレは僕の横に寄り添って歩きながら言葉を探すようにゆっくりと口だけを開いた。さっきまで穢れを知らない子供のような雰囲気を纏っていた彼女だけれども、なんだかいきなり十歳くらい年を取ったふうな達観した表情になる。
 そのとき強風が吹いて、僕の髪とメレの三つ編みを強く揺らした。彼女は露わになったうなじの辺りに手を当てて髪を元に戻す。それから感情の読めない表情のままこう言った。

「この街には、死んだお母さんの記憶が眠っているの」

 彼女は続ける。
「わたしは、わたしが何者であるかを知りたくて、早くにここに来たんだ。本当はお母さんの記憶を見つけるまでお兄ちゃんにも会わないつもりだったんだけど、つい、来ちゃった」
 彼女はそう言い終わると、ふわりと微笑んだのだった。
 僕は返す言葉に迷ってしまって、結局「そうなのか」と頷くしかなかった。

   ×               ×                 ×

 自宅にたどり着くや否やメレがお腹を鳴らしたので晩御飯にすることにした。お腹の虫がなった時、メレは恥ずかしそうに頬を染めて「今日は朝から何も食べてなくて」と消え入るような声で言っていた。驚いたのは、メレの恥ずかしがる仕草や表情が極めて日本人チックだったということだ。人種が違えば表情や仕草から感情を読み取るのが困難になる。だけど、彼女の見せた仕草は口元に手を当てて薄らと頬を染めるという、僕でもきちんと分かるものだったのである。
「鯖缶のそぼろ寿司。上の花のような飾りは人参とさやえんどうで作っているから全部食べられる。鯖の臭みはすりおろした生姜と酢で消してある」
 豪奢なシャンデリアが淡い光を灯す下で、僕は笹の葉に乗せた寿司をメレの前に運びながら説明する。彼女は目を輝かせた。
「うわあ、かわいいー」
「こっちはあさりの吸い物。右の小鉢は菊菜と人参の白和え。菊菜には予め醤油を振って軽く絞っている。これによって水っぽさが無くなっておいしさが引き立つんだ。左は生姜の佃煮。綺麗な狐色をしているだろう? 奥の肉料理は、ささみと筍のみそ焼き。一緒に添えてあるのはオーブンで焼いたそら豆だ」
「お兄ちゃん説明長いー。早く食べよー」
「そうだね。どうぞ、食べて」
 僕はにこりと笑うとエプロンを外した。メレは器用に箸を操りながらそぼろ寿司を口に運ぶ。食事の様子を見てもやっぱり彼女は日本人だった。肌の色や目の色、すらりとした足や細い腰、何より整った顔立ちはとてもエキゾチックだと言うのに。
「おいひー」
「それは良かった」
 エプロンを外して上座の椅子に座る。「それで、帰りに言っていた君のお母さんの記憶のことについて聞かせてもらえるかな? 食べながらでいいから」
 料理も彼女と取るコミュニケーションも機嫌を取るための作戦だ。とは言え、メレの言う『この街には母の記憶が眠っている』という言が気にならないわけではない。僕がそう訊くと、彼女はぽつぽつと話し始めた。真ん中から始まって最初に戻っていくような説明になるだろうと予想していたのだけど、意外にもきちんと筋道立てて話をしてくれた。中学生に上がったばかりの頃の僕では多分できなかっただろうことを自然体でやってのけるメレにちょっとした嫉妬の念が沸き起こる。こんな女の子に対抗心燃やすこと自体が恥ずかしいことなんだけどね。
 十分簡潔だった彼女の話をさらに簡潔にするならこうだ。
 僕の父さんによって国から連れ出されたメレのお母さんは、父さんと恋に落ちた。二人は日本有数の港町であるここで、色鮮やかな思い出を作って、最後には街にやってきた豪華客船の中で結ばれた――。
 メレの口からまさか情事のことが飛び出してくるとは思っていなかった。というか自分の親父の恋愛譚を聞かされるのがこれだけ苦痛だとは思っていなかった。メレによると、メレのお母さんは、最後の逢瀬となる豪華客船の夜、部屋に夜這いに来た僕の父さんが嬉し泣きしていたと感じたそうだ。嬉し泣きしながら夢中になってメレの母の体を貪って――どうやらその結果メレが出来ちゃったらしい。
「……あの親父が嬉し泣きしていたのかよ」
「うん。お母さんが言うには、ずっと泣いていたらしいよー」
「ずっとって……」
 アホなのか、あの親父は。僕はメレのグラスに冷たい緑茶を注いでやりながら(あくまで晩餐会の主としてサービスしただけで、僕はメレに対して気を許したわけではない)ため息を吐いた。
「お兄ちゃんのご飯お店で食べるより美味しいね!」
「日本人向けの味付けにしたはずなんだけどな。君のお母さんはともかく、君は骨の髄から日本人のようだ。――で? うちの親父は他に何か言っていたのか?」
「泣いているばかりで、お布団に入っている最中はずっと無言だったみたいだよ」
 平然とそう言う。漫画やアニメのヒロインなら恥ずかしがって「はわわー」とか「ふぇぇ」とか腹パンしたくなりそうな接頭語を付けそうなものだけど、メレは真顔である。意外とこの子はませているみたいだ。流石にモザイクなしの男の股間を前にしたら頬ぐらいは染めるだろうけど。どんな反応するか少し見て見たい気もするが、犯罪になると思うので止めておく。まあ、ませていることについてはあんまり不思議ではない。今どきの子供はこんなものである。十時から始まる大人向けドラマとかを小学生が普通に視聴する時代だし。それも親御さんと一緒に。
「……そうか。なるほどね。よく分かったよ」
 僕は得心がいって一つ頷く。メレはテーブルの下に潜り込むと白いスーツケースを引っ張り出して中から数枚の写真を取り出した。
「でね、お母さんはこの写真の場所に記憶を埋めたらしいの。パパとデートして、記念に写真を撮って、何かを埋めた――」
 メレに断ってから写真を見せてもらう。写真はどれもフィルム写真で、そのすべてに右下にオレンジ色で『20000503』とデジタル数字が焼かれていた。明日で丁度十四年前の写真になる。
「なるほど。大学の上にある絶景スポット数か所に、下町の繁華街、更に海側に下ったところにある人工アイランドの海浜公園か。絶景スポットの分は山に住んでいる猪とかに掘り返されていない限りは見つかりそうだな。繁華街はちょっと絶望的かもしれない。地面掘り起こすとかしてたら、すぐに通報されてしまうだろうし、そもそも写真に写っている辺りは何回も工事が行われているところだから、埋められたものなんてとっくの昔に掘り起こされてしまってるだろうし。海浜公園も怪しいけど、可能性はゼロじゃないかな。――よし、明日、良ければ一緒に探さないか? 君の話を聞いて興味が湧いてきた」
「え、いいの?」
 メレが目を丸くする。
「ああ」
「でも、結構歩くことになりそうだよ」
「構わない。君さえよければ同行させてくれ」
 僕がそう言うと、メレはぱっと目を輝かせた。椅子から立ち上がると僕の首に柔らかく抱き付いてくる。
「ありがと。お兄ちゃん、大好き」
「お、おい……!」
 僕は思わずメレの肩を掴んで引きはがす。「止めなさい。女の子がそんな簡単に男に抱き付くな」
「んう? お兄ちゃんに抱き付いちゃいけないの?」
「いや、そう言うわけじゃないけど……」
 メレは無邪気な笑顔を浮かべると兎のようにぴょんと僕の首から飛びのいた。
「お兄ちゃん、ごちそうさま。とっても美味しかったよ。また……食べたいな」
「まあ、何というか、僕も自分の作った料理を誰かに食べてもらうなんて久々だし、作るくらいなら別にやぶさかじゃないというか。気が向かない限りはふりかけだけどな」
「わたしふりかけ大好きだよー。お母さんもよく作ってくれてたー」
「…………君と話していると疲れるな」
「お片づけはわたしがするね」
 言うが早いか、メレは厨房の方へ入っていこうとする。
「待った。今日の君はお客さんだ。僕がするよ」
 勝手の知らない人間に皿の位置とか鍋の位置を変えられても困る。僕は自分で自分のことを他人と深く付き合えない人間だと確信しているんだけど、その理由の一つがこれだ。細かなことが気になってしまって、完璧な状態にしておかないと気が済まないのだ。口に出しさえしないけれども、父さんが帰宅するたびにシェービングクリームの位置が五センチずつずれるのが気に食わないし、燃えるごみの日に燃えないごみも袋に詰め込まれているのを見たら胸がかき乱されて気分が悪くなる。人が知ればドン引きするような性格なので普段は隠して生活している。
 メレはことりと首を傾げた。
「お皿が別の場所に移動しちゃうのが嫌なの?」
「――――いや、別に、そういうわけでは」
「大丈夫だよー。お皿の位置は全部覚えているから」
 メレはにっこりと笑うと、テーブルの上の皿と食器入れを指で結んでアピールする。全問正解だったので何とも言えなくなってしまった。黙っているうちにメレが食器を運んで流しで洗い始める。僕はその様子を見て肩をすくめた。
「僕も一緒にやらせて欲しい」

    ×              ×                ×

 午前〇時をまわった頃、僕はようやく満足してパソコンの前で背骨を伸ばした。明るい画面には十四年前の新聞記事がある。高校のWEBサイトから経由して手に入れたものである。記事のタイトルは、『南西太平洋からの船便で転落事故』。地方紙の、それもかなり隅っこにあったものだ。内容は簡単なもので、
『メラネシア人の男性の遺体が近海から発見された』
 というもの。同記事では、
『男性は南西太平洋からの船便に乗っていたが、途中であやまって海に落ちたのではないか』
 と、密入国しようとした疑いがあることを示唆していた。
 探す方の身としては一面記事から全部読んでいかないといけないわけで、候補となる新聞が二週間分ほどあった時点でだいぶん時間を食われることは予想していたのだけど、まさか日が替わるまでかかるとは思っていなかった。
 しかし、これで要素は集まった。
『嬉し泣き』、『ずっと泣いていた』、『豪華客船』、『船便』、『僕の父さん』、『死んだメラネシア人の男性』――――。
 明日、この街に眠る記憶が何なのか分かったとき、僕の推測は確信に変わるだろう。
「はあ、風呂入るか」
 というか、こんな夜遅くまで益体のない調べものなんかして、ほんと何やっているんだろうか、僕は。夕食のあともメレと並んで皿洗いなどという謎の構図を展開してしまったし、彼女の部屋のベッドが歪んでいたことが気になってしまって一からベッドメイクし直した挙句床の掃除までしてしまったし。今日は一日だけでアホなことをたくさんしてしまっている。環境の変化に戸惑っているのだろうか?
 着替えとタオルとを持つと浴場へと向かう。そう言えばメレは風呂に入ったのだろうか。いや、変な意味で疑問に思ったわけではなく、風呂のこと何も聞きに来なかったからちゃんと入浴したのか気になっただけだ。電車とかを乗り継いでここまで来たのだろうけど、それならかなりいっぱい汗をかいているはず。疲れているとしてもシャワーくらいは浴びた方がいいのは明らかだ。ま、僕には関係のないことだけどさ……。
 脱衣所に入ると見慣れない手提げ袋が置いてあった。メレの洗面具か何かだろう。僕は首を回して肩の凝りをとりながら服を脱ぐ。そして眉間を指でもみほぐしながら浴室のドアを開けた。
 瞬間、濃い湿気が顔を包んだ。すこし広めの浴室には温かい湯気が充満していた。オレンジ色の靄の向こうにはシャワーがかけられていて、キュッキュッとノズルを回す音が聞こえてきた。
「え」
 それは、どちらの声だっただろうか。それすらも分からないほど、僕は混乱していた。思考はこの浴室の湯気と同じくらい曇っている。湯気が脱衣所の方へ流れていき、徐々に視界が良好になり始める。シャワーの下には金色の風呂いすがあって、その上には――、
「お兄ちゃん?」
 ――一糸まとわぬ姿のメレが腰かけていた。
 第一印象、めちゃくちゃ綺麗な体をしているなってこと。天性のみずみずしさがある上に、今はお湯を浴びてほんのりと桜色になっている。スタイルも、子供だと思っていたのに、白い私服の上からでは子供の体系だと思っていたのに、胸なんかは膨らみかけで、おしりから太もものラインも微妙に脂肪がついてきていて、だけど腰やお腹には余分な肉がついていなくて。
 すごい。腰がくびれてる。下手なアダルトビデオよりもすごくえっちだ。
 メレは彼女の象徴である三つ編みを解いていた。黒く艶やかな髪が水気を含んで頬や肩、背中に張り付いている。形の良い顎の横で揺れる毛先から、水のしずくがぽたりと浴室のタイルに落ちた。
「め……、メレ。済まない。僕としたことが、これは、その、覗きではではなくて、えっと、つまり、ごめ――」
「ご、ごめんねー。わたし、お兄ちゃんがお風呂入るのを待ってたんだけど、十二時過ぎちゃったから、先にお風呂入らせてもらってたんだー」
 メレは笑顔でそう言いながら素早く近くの手すりにかけてあったバスタオルで体を隠す。「わたし、出るよ」
「で、出るって……。それはおかしいだろう。先に入っていたのはメレだ。タオルが濡れていないから今から体を洗うところだったんだろう? いいから続けなさい。僕は出るから」
「え、でも、お兄ちゃんの服ってスーツみたいにきっちりしてるやつだよね。もう一度あれを着るの?」
 汚れた服をもう一度着る――気は進まないが仕方がない。あ、でも、着終わったところで数分後にはもう一度脱ぐことになるのか。どんな罰ゲームだよ。
「今は五月だし、脱衣所はそこまで寒くないし大丈夫だろう」
「駄目だよ!」
 メレは強い声でそう言った。それから胸の前で体を隠していない左手の方を握りしめる。「風邪ひいちゃうよ。わたしのお母さんも風邪ひいて、おかしくなって、死んじゃったもん」
「いや、人間風邪くらいでは死なないから――」
 僕は手を腰に当ててため息を吐いた。って、あれ、手を、腰に当てちゃったら、前を隠しているタオルはどうなるんだ?
 しまったと思った瞬間にはもう手遅れだった。
 はらりと僕の前を隠していたタオルがクリーム色のタイルに落ちる。メレの裸を見て半分くらい本来の姿を取り戻していた僕の分身があらわになった。
「――――」
 メレが息をのむ。
 ……僕が他人と深く付き合えない理由の一つに、このグロテスクな一物のことがある。幸い僕は顔と体型は父さんに似ることはなかったんだけど、残念ながら一物に関してはばっちり継承してしまっている。色は赤黒くて、全体的に血管が目立ち、全開パワーのときは臍にくっつきそうになるほど。しかも形はかなりグロテスク……って何を僕は説明しているんだ。要点を押さえて言うと、小学校の修学旅行の時なんかは隣が女子風呂だというのに、クラスメイトの近藤ってやつが大声で僕の息子のことを「赤黒い」とか「気持ち悪い」とか言ったせいで後ろ指をさされるようになって、僕のトラウマかつコンプレックスになってしまったのだ。近藤は絶対許さない。将来絶対仕返ししてやる。
 癖のある臭いを浴室全体に放ちながら遂に降臨した僕の大いなるトウモロコシを、メレはしばらくの間ぼんやりとした表情で見つめていた。そして徐々に顔を赤くしていって、最後には顔を背けてしまう。くそ、やっちまった。妹(仮)の褐色美少女の現役女子中学生に、うっかり僕のモノを見せつけてしまったぜ。なんてことだ。悪気は全然なかったのに、これじゃまるで変態だ。
「うっ! メレ、すまない……ッ! くぅっ、出る……ッ!!」
「う……、うん。あ、ちょ、ちょっと待って、まだ……。あの、一緒に。お兄ちゃんと一緒に」
「え?」
「えっと、ね……」
 メレは顔を背けたまま言葉を連ねる。「わたし、お兄ちゃんに風邪ひいてほしくない」
「とは言っても」
「あの、じゃあ――一緒に入る?」
「一緒……ッ!? い、いや、これ以上はまずい。通報ものだ」
「兄妹でお風呂って、そんなに変なことなのかな?」
 きょとんとした顔でメレが首を傾げる。
 変……なのか? 分からない。兄妹で一緒に風呂に入るっていうのはよく聞く話だし、問題ないように思えてきた。
 というか、ここでうろたえる方がみっともないことだろう。それだけ意識しているということになってしまうし。そうだ、どうして意識する必要があるんだ? ここは絶対者としての威厳を示さないといけない場面だ。生まれたばかりの小鹿みたいに挙動不審じゃいけない。
 よし。
「分かった。じゃあ、まず僕から体を洗うよ」
「じゃあ、わたし背中流すー」
 メレがバスタオルを纏いながら僕の後ろに回る。僕はメレに代わってどっかりと風呂いすに腰掛けた。あ、前はちゃんと隠したから大丈夫だぞ。彼女がハンドタオルに石鹸をとって、良い匂いの泡をたくさん作り出す。そのあと僕の背中を丁寧に擦り始めた。
「……メレ、一つ聞きたいことがある。君や君のお母さんを侮辱するつもりはないんだが、知りたいんだ。――君のお母さんは、日本語をちゃんと話せたのか?」
 僕が静かにそう問うと、メレはすぐに答えた。
「お母さんは日本語あまりうまくなかったよー」
「そういうことになるか。……でも、メレは日本語がとてもうまいよな。難しい言葉も知っているし」
 僕が褒めると、メレは嬉しそうに「えへへー」と笑った。
「ありがと、お兄ちゃん。でも英語はもっとうまいよー。最初に覚えたのが英語だったから」
 つまりメレの母親が日本で生きるために使った最初の言語も英語に属するものだったわけか。おそらく源流は百年以上前、南西太平洋の島国とヨーロッパ列強とが交易していた時代にまでさかのぼる、ビジネスのための非常に簡略化された英語。正式な名称もない『英語のようなもの』だ。
 メレは続ける。
「英語で書かれた本をお母さんが買ってくれてー、でもわたしは読めなかったんだー。だからおねだりして辞書を買ってもらったの。すごく分厚い英語の辞書。……最初に覚えたのは『ツチブタ』だった。わたしはあの単語を生涯忘れないと思う。言葉を覚えたらすごく楽しくて、寝ても覚めても辞書のことを考えてた。歴史上の人物の事とか世の中の事とかは載っている例文から知って――どんどん知りたくなって、わたしは知りたがりなんだって分かる頃には、お母さんに買ってもらった本が読めるようになっていたの」
 そう話すメレの口調は本当に楽しそうで。
 辞書を読み解いていたときの感動を思い出すような音色を帯びていた。
 辞書なんて読むような酔狂な人間はこの日本にはとても少ないだろう。僕だって読みたいとは思えないし。だけど――少なくとも彼女にとってはキリスト教徒にとっての聖書も同然のものだったのだ。
 そしてそれを語るメレに、僕は不思議な共感を抱いていた。
「メレは、お母さんが好きだったのか?」
「大好き!」
「そうか」
 僕はそれだけ言うと目を閉じた。メレがシャワーのノズルを捻るために体を伸ばしたからだ。
 ……目を閉じる前にちょっとばかりシャンプー入れの横に目を走らせる。石鹸ケースは、昨日の夜も僕が置いていた場所に、一センチのずれもなく置いてあった。

    ×                ×                ×

 翌日、僕とメレは『埋められた記憶』とやらを掘り起こすために、朝早くに家を出た。装備は少し大きめのスコップ二つとお昼ご飯のポケットサンドだ。特に意図していなかったのだが、ポケットサンドもメレと二人並んで作ることになってしまった。彼女に出会ったのは昨日のことのはずで、まだ一日も経っていないというのに、聖域たる厨房を使わせてしまったのは、不覚だったと思う。
 僕の家は動物園の近くの住宅街にあるんだけど、写真の場所はそこから電車で一駅行った街に多く点在しているみたいだった。僕たちが駅を降りると、北側には飲み屋や学習塾が見えて、南側には神社の鎮守の森があった。昔、この辺り一帯は大きな地震の被害に遭ったらしい。僕は中学二年生までは関東に住んでいたし、地震が起きたのが生まれるちょっと前だのことだったのであまり良くは知らない。でもこの神社近辺の高さまで津波が押し寄せてきて街を飲み込んだということは聞いている。それを考えればよくここまで街が元に戻ったなと思う。酷い目に遭っておきながら、人々は土地を捨てずに居すわって街を再生することを選んだ。あいにく土地に飼い慣らされるという言葉の意味が分からない人間なので、彼らの選択の是非は僕には分からない。でも、壊れた街がこうして傷を癒し、また空へと飛び立つ力を宿したということに、僕はすさまじい生命力を、部外者ながら感じるのだった。
 生命力――前を歩くメレの三つ編みにされた黒い髪を見つめる。もしかたら、僕は彼女に同じものを見ているのかもしれなかった。
「メレ、まずはこのすぐ下にある繁華街から回ろう。そのあと坂を上って、大学の上に出る。最後にもう一度電車とモノレールに乗ってアイランドに行くってプランで」
「うん、分かったー。ふふふー」
「何がおかしいんだ?」
 僕は眉をひそめた。もしかして僕の格好に変なところがあるのだろうか。家を出る前に入念に確認したはずなんだけどな。メレは「ううん」と首を振ると続けた。
「もう普通に『メレ』って呼んでくれるんだなーって。昨日のお風呂のときにね、わたし、初めてお兄ちゃんに名前を呼んでもらえて嬉しかったんだー」
「お、おい……」
 通行人の何人かが振り返った気配を感じて僕は慌ててメレを制した。「風呂の事は外では内緒だ。いいか、人には絶対に言うなよ、絶対だぞ」
「分かったよー。じゃあ……わたしとお兄ちゃんとだけの秘密だね」
 無邪気な顔でそう言われると言葉に詰まってしまう。くそ、昨日の風呂の事を思い出してしまったじゃないか。
 メレは僕の気も知らないでどんどん先に上っていく。メレのスカートから伸びるすらりとした褐色の足……。ちらりと見える腿の後ろの筋肉に力が入り、続いてふくらはぎの筋肉が張る。ひざ裏の窪みがうごめくのを見た瞬間、僕は思わず顔を背けてしまった。どうかしてる……。
 悶々とした感情を持て余しながら、まずたどり着いた写真の場所は、繁華街にある商店街前だった。大きな道路が左右に通っていて、それと垂直に交わるようにアーケードが走っている。写真が撮られたと思しき場所に立ってみたのだが、下はアスファルトの地面でスコップを突き立てることすらできそうになかった。
「ここじゃないのかな?」
 メレがきょろきょろと辺りを見回しながら言う。僕は写真と、ぱらぱらと人が行き交う目の前の光景とを何度か見比べたあと、丁度僕の右側にあった電柱に手を当てた。
「もしかしたら、こいつにくくり付けたのかもしれない」
「ああー、なるほどー。そうかも。お兄ちゃん鋭い!」
「割と誰でも思いつくと思うんだけど……。もしそうならもう撤去されてしまっているだろうな」
「残念だねー」
 いずれにせよ、こんな街中でスコップを振るわけにはいかない。僕はスマホで地図を呼び出しながら息を吐いた。
「山の上で撮ったものの中に地面に埋めたものがあればいいけどな。埋めてあっても、タイムカプセルみたくちゃんと入れ物に入れるなりしておかないと年月を経て駄目になってしまっているかもしれない」
「大学の上の風景を撮った写真は五つあるんだよね?」
 メレがひょいと僕のスマホを覗き込んでくる。瞬間、僕がいつも使っているリンスの香りが鼻をくすぐった。
「あ、ああ……。そうだ」
「五つもあれば何個かは大丈夫だよ」
「そ、そうだな」
「お兄ちゃん?」
「何でもない。行こう」
 心臓に悪いので止めていただきたい。僕はスマホを胸ポケットにしまうと坂を上っていく。後ろでメレが待ってよぉーと言いながら駆け出すのが聞こえた。
 二か所目は山の中腹にある有名国立大学のキャンパスに挟まれた団地だった。この辺りは高級住宅街で大きな家がたくさん並んでいる。近くの道路が走り屋のコースになっている(と散策していた時に偶然耳にしたことがある)ことやコンビニが周囲に見当たらないことをのぞけば住むにはとても良い場所だろうと思う。空気が綺麗なうえに標高が高いこともあってゴキブリが出なさそう(家事をする身としては重要だと思う)。何より、崖沿いの道を歩くとき、眼下に広がる街とその向こうに煌めく海が見えるのである。海の向こうの対岸も見えて、まさに絶景。なかなか良い気分になれてよかったけれども、ここの写真もやっぱり電柱の横から撮っているみたいで骨折り損だった。
 三か所目にはエロ本が落ちていた。
 さっきの団地からちょっと西に行ったところに、大きな谷があって、谷の下に無数のお墓が並んでいるっていうこれまた絶景を見られる林の斜面だったんだけど、エロ本が落ちていた。開かれたエロ本のページの内容は褐色肌妹役の女優さんが大股開きで『私の妹マ〇コずぼずぼしてぇ!』と誘っているというものだった。悪意を感じた。
「…………」
 僕が何とも言えない顔でエロ本を眺めていると、メレが斜面を器用に下ってくる。
「お兄ちゃん、何を見ているの?」
「いや、別に。何も見ていない」
「あっ……。ふーん。お、お兄ちゃんってこういうのが好きなの?」
「――――――――」
 僕が黙っていると、メレはちょっとショックを受けたような顔になって、それから意を決したように僕の前に転がっていたエロ本を拾い上げた。
「お、おい……!」
 僕の制止も聞かずにメレは開かれたページを、頬を紅潮させながら目を走らせる。それから僕の方に振り返って、首まで真っ赤にして叫んだ。
「わ、わたしの妹マ〇コずぼずぼしてぇ!」
「ぶっ!」
「ど、どう、かな……? ヘヘ……」
「どうかな、じゃない!」
 僕は思わず声を荒げた。そうしたら、メレがしゅんとなって消え入りそうな声で、
「ごめんなさい」
 と謝る。あれ、なんだ、このシリアス展開。僕は少し気まずくなって視線を逸らせた。
「いや。あのさ、そういう事は口にしちゃいけないんだ。一緒に居るのが僕だからよかったけど、他の男ならどうなっていたか分からないから」
「わたし、妹失格?」
 またあの感情の読めない表情。でも眼差しの中にわずかにおびえたような光があった。何なんだ。昨日までは馴れ馴れしくべたべたしてきたのに。……いや、でもこれは僕に非があるか。高校生の男にすごまれたら普通はおびえるよな。
 僕は少し腰を折って、メレに視線を合わせると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「別に怒ったわけじゃない。びっくりさせてしまったのなら謝る。ごめん。ただ、こんなよく分からない悪ふざけはしなくていいから。冗談を言うのが駄目ってわけじゃなくて、普通に接してほしいだけなんだ」
 そう言ったあと、ためらいがちに彼女の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でてやった。何となくそうすべきだと思ったからだ。イリーガル・ユース・オブ・ハンズではない。
「ありがと。お兄ちゃん」
 メレがぱっと笑顔になる。僕はリュックサックを下ろすと中から小型のシャベルを二つ取り出した。
「さあ、掘ろう」
「うん!」
 そうして。
 しばらく僕たちは無言で土を掘り返した。途中何回か人が近くを通ることがあって、その度に二人して木の陰に隠れるという珍妙な行為をしなければならないこともあったが、その分対価が用意されていた。シャベルが固いものに当たったのである。結果、林の中からは古い鉄の菓子缶が出てきた。塗装がはげ落ちて、鉄がむき出しになったところが錆びてぼろぼろになっていたけど、中の物は無事だった。
「――貝殻だー」
 メレが缶の中身を摘み上げて言う。大きさは僕の親指くらいの貝だ。白くて綺麗で中央に茶色い線が走っていた。口のところには赤褐色の何かがこびりついている。僕は白い貝を見つめるメレを見下ろしながら口を開いた。
「バードウェイフジイロハマグリだね。オーストラリアとか、南西太平洋近辺に生息している。君のお母さんの宝物だろう。あの辺りの島国では、美しい貝殻を集めて飾り物にしたりするから」
「宝物……。んう? お母さんは南西太平洋の国の人だったの?」
「どうだろう。でも可能性は非常に高い。あの辺りには、メレと同じような人種の人たちが住んでいるんだ」
「ふーん。お兄ちゃん物知りだねー!」
「教養があると言ってくれたまえ」
 昨日の夜調べたから知っているだけなんだけどな。絶対者としての威厳があるので元から知っていたという態度を崩す気はない。
「でも、なんでお母さんはこんな大切な物を埋めちゃったのかなー……?」
 メレが首を傾げる。その顔には微妙に生気がない気がした。僕はスマホを取り出した。
「時間をちょっと使い過ぎた。早いこと次に行こう」

     ×               ×                ×

 それから、四か所目、五か所目、六か所目と回り、写真の撮られた位置を掘り返した。出てきたのは、ぼろぼろになった貝殻のネックレス、黴が生えてみすぼらしくなった鳥の羽根、そして、最後は指輪だった。指輪は鉄でできた簡単なもので、素人が作ったような不恰好なものだった。最初は嬉々として母親の思い出の品を掘り返していたメレだったけれども、場所が進むにつれて、憑かれたように無心で掘り返すようになっていた。
 山の上の撮影ポイントを全て掘り返し終わって、電車に乗る頃には、もう日が傾き始めていた。
 モノレールに乗って、最後の撮影ポイントにたどり着くと、僕は無言でシャベルを取り出す。メレはそれを無言で受け取って、オレンジ色に染まった野原を静かに見下ろした。
「もういいよ、掘り返すのは。お花が可哀想」
「そうか? でもこの下に君のお母さんの記憶の断片が眠っているかもしれない」
 僕が静かに返すと、メレは両手を握りしめた。初めて見た彼女の怒りの表情だ。唇を噛みしめて、ぷるぷると震えている。
「そんなの眠ってない。お母さんは、パパとデートして、幸せな思い出をいっぱい作ったはずなのに、どうして、こんな――」
「――宝物を埋める、いや、捨てるようなことをしたのか、だね」
 メレの言葉を引き継ぐ。メレのお母さんの行動にタイムカプセルを埋めるみたいなプラスの意味はない。彼女がやっていることは臭いものに蓋をする行為だ。時間とともに風化していくような場所に故郷の品をおざなりに埋めて、放置して、実際に何個かは永久に失われてしまっている。指輪を埋めるなんて普通ではありえないことだ。だってあの指輪、多分結婚指輪なんだから。
 僕はメレからシャベルを取り上げるとリュックにしまい込んだ。それから彼女に向き直って口を開く。
「それは多分、君のお母さんにとって忌むべき記憶だったからだ。確たるものは無いにせよ、もう薄々気が付いているんじゃないか? 何故お母さんが宝物を捨てたのか、豪華客船の逢瀬の夜に本当は何が起こったのか、君は何者なのか」
「――――――――」
 無言でうつむいたままのメレを一瞥して、僕は言葉を続けた。
「君のお母さんは僕の父さんと知り合って恋に落ち、父さんによって国を連れ出されたと、君はそう聞いたんだよな? で、そのあとこの街でデートして、豪華客船でパーティ楽しんで、最後にベッドインしたと。でもそれは嘘だった。それだけの話だ」
「嘘……。どうして、そんなことが言えるの……?」
 呆然とメレが聞き返してくる。僕は彼女の目を見つめ返した。
「君のお母さんは、僕の父さんがベッドで『嬉し泣き』していたと言ったんだろう? だけど、それはとてもおかしな話なんだ、どうしようもなく。人種が違えば表情を読み取るのが難しくなるっていうのは、聞いたことないか?」
「ううん、知らない」
 僕は目を閉じた。
「表情は残念ながら普遍的でないんだ。実際にリサーチした西洋の学者のチームがあってね、彼らはこう結論付けた。西洋人――典型的なコーカソイドの表情を読み取るのは、同じコーカソイドの方が他の人種よりも得意で、他の人種は、偶然以上の確率で読み取ることは可能だけど、やっぱり不正確だ、と」
 僕は続ける。
「調査に使ったテストは簡単なものだ。六つの西洋人の顔写真が提示されて、それぞれ、どれかが喜び、驚き、恐れ、怒り、嫌悪、悲しみを表していると説明される。この六つの基礎感情を、六つの写真と合致させてくださいというものだ。この男の顔は泣いている顔だと思ったら、悲しみを選ぶっていう具合にね。感情によって正答率は変わるけど、例えば日本人は、恐れや怒り、嫌悪の表情の写真を正しく選べた確率はどれも六〇%台だった。スマトラの人々は全ての感情の正答率が七〇%ほどしかなかった。ニューギニアなどではテストが成立すらしなかったそうだ。――もう何が言いたいか分かるとは思うけれども、船内の淡い照明だけが頼りの部屋で、日本人の男から『嬉し泣き』なんて特殊な動作を読み取るのは、日本人を深く知っていないとできない芸当なんだよ。部屋に入ってから泣くばかりで言葉を交わさなかったのなら、それは同じ日本人でも難しいことになってくる。いくら知り合ってちょっとばかり経っていようと、無理なものは無理だ。だから、『嬉し泣き』というのは、日本人にある程度触れて幾分か理解したあと、君のお母さんが付け加えた作り話だ」
「じゃあ、パパは――?」
「部屋に来た男が泣いていたのは本当だろうね。全くの作り話にするなら『喜んでいた』と言えば良いんだから。だけど、無視できない要素として、泣いていたってことがあった。だから、君のお母さんは『嬉し泣き』していたことにした」
「パパは悲しんでいたの?」
 メレが訝しげに聞き返してくる。
「不思議だよな。旅先か仕事先かは知らないけど、そこで知り合った美女をまんまと国から連れ出したんだ。彼女の社会的地位やコミュニティ、家財を全部投げ捨てさせてまでしてね。もしそんな奴がいたとしたら、ベッドで浮かべる感情は勝利の喜びだ。泣くのは絶対にありえない。だから、そいつが僕の父さんだとは非常に考えにくいんだ。ここからは推測になる。多分、部屋に入ってきた男は父さんじゃない」
 僕はスマホを操作して予め送っておいた新聞記事のデータを呼び出し、メレに見せた。メラネシア人の男が、船から海に転落して死亡したという記事である。「――魚に食われ、損傷の激しい遺体で見つかったこの男だ」
 僕はスマホをメレに渡して続けた。
「さらに言えば豪華客船と言うのはおそらく記事に出てくる単なる船便のこと、そして父さんが君のお母さんを連れ出したというのも嘘だ。だいたい、一計案じて連れ出したのなら客船の夜の逢瀬を最後にするはずないんだよ。君のお母さんが、日本語が不自由ならきちんと適応できるよう手とり足とりするはずだし、僕の母さんが死んだあと、ちょっとしてから再婚すればよかったんだ。十何年も放置するとかあり得ない。――父さんが君のお母さんと知り合ったというのは本当だ。惹かれ合ったというのも間違いない。でもそこからが違っていた。キスくらいはしたかもしれないが、肝心なところで父さんは関係を持つことを拒んでいたんだ。死にかけとは言え自分にはれっきとした妻がいるんだからな。多分、母さんのこともそれなりには愛していたと思うし。父さんは肉感的で華やかな異国の女性に惹かれたものの、自分の全てを捧げるつもりはなかった。だけど、君のお母さんは違ったんだ」
「……お母さんは、日本に憧れてた……」
 メレはぽつりとそう言った。「ガラス瓶とかを拾ってきて、綺麗にして机の上に並べてた。わたしが片づけようとしたらすごく怒って……」
 僕は眉根を寄せた。僕は基本的にドライな人間なんだけど、流石にここで平然とした表情を続けることは出来なかった。
「君のお母さんは自分よりも華やかに思えた観光客たちに――外の世界に憧れていたんだろうね。固執していたと言ってよいかもしれない。今日掘り起こした品々を保護していた菓子の空き缶、あれはお母さんが故郷の浜辺とかで拾ったものだろう。憧れて、固執して、それで言葉も分からないのに、僕の父さんに近づいた。そして、心の底から愛し合えたと勘違いしてしまった。父さんはどこかの時点で気づいて君のお母さんを置いて日本に帰ろうとした。父さんが帰国することに勘付いた君のお母さんは、全てを投げ打って父さんの後を追った。財産、仲良くしていた仲間たち、そして――結婚相手かそれに準ずる男まで全部ね。で、『豪華客船の夜』、君のお母さんは僕の父さんに詰め寄り、ベッドに誘った。父さんは悩んだだろう。言葉が通じないのに意気投合した相手だ。元から相性が良かったのだろうと思う。悩んで――やっぱり逃げ出してしまった。父さんは、部屋にはいかなかった。君のお母さんは待ち人がなかなか部屋に来なくて、悲しみに暮れただろう。そして夜半過ぎに現れた男に飛びついた。男はマスクか何かをしていて顔を隠していたんじゃないかな。とにかく顔の判別ができないように細工をしていたはずだ。で、そいつは泣きながら君のお母さんを抱きしめて、体を重ねた。その男って言うのが、記事にある死んだメラネシア人の男――君のお母さんの本来の恋人だろうね」
「お母さんは、気づかなかったの? マスクの男の人が、パパだと思ってた?」
 僕は首を振った。
「そりゃどこかで気づいただろうさ。マスク取らないし、しゃべらないし、体型とかは同じか分からないけど、体温や肌の具合、汗の臭いは多分違うだろうし。何よりむせび泣く声を聞いたら、自分の恋人だった男だと気づかないわけがない」
 僕は続ける。
「父さんに拒絶されたことにも気づいただろうね。でも、全部に気が付いたうえで、君のお母さんはかつての男に抱かれ続けた。そこにどんな感情があったのかは推して量るより他ないけど……。そのあと船を降りた彼女は、あてもなくこの街をさまよい、国から持ち出した宝物を捨てていった。貝殻、貝殻のネックレス、鳥の羽根、そして愛していたはずのメラネシア人男性との結婚指輪――。この海浜公園に置き去りにしたのは、さしずめ僕の父さんとの思い出の品といったところだろう。まだ無事なら、掘り起こせば出てくると思う」
 僕はそこで言葉を切った。メレは握りしめた右の拳を胸の前に持ってくる。開かれた手の上に乗っていたのはバードウェイフジイロハマグリ。ぽたり、と白い貝殻の上に水滴が滴る。
「――――」
 彼女は声もなく泣いていた。嗚咽を漏らすことなく、顔を歪めることなく、どういう表情をすれば良いか分からないまま、目から涙を溢れさせていた。
 自分の全てをかけて夢を追いかけたのに、それはただの幻想だった。故郷を捨てて、男を信じて、でもそれは勘違いで。メレの母親は船から降りた時、何もかもを無くしてしまっていた。空っぽのままこの海浜公園から夕陽を眺めていたのかもしれない。僕はリュックから綺麗な布に包んでおいた首飾りと鳥の羽根、そして指輪を取り出した。それを無言で差し出す。するとメレはやっぱり無言でそれを受け取ると、震える手で布に包みなおしてから胸に抱きしめた。母の記憶というにはあまりも重くて冷たくて闇色をしたそれらを前に、彼女はそうするしかなかったんだ。
 メレは目を見開いたまま涙を流し続けた。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと。
 ずっと……。

    ×               ×                ×

 折り重なるように波が押し寄せる音がする。遠くの方からボォーと船の汽笛の音が聞こえてきた。太陽は既に水平線の向こうに沈んでいて、空は半分オレンジ色、半分紫色になっている。海浜公園の大理石の広場の上で棒立ちになっていたメレは、ようやく左手で目の涙をぬぐった。
「……はは。そっかー。そういうことだったんだ」
「あくまで僕の推測だけどな」
 僕がそう断りを入れるとメレはゆっくりと首を振った。
「お母さんは、ちょっと、おかしかった。わたしには優しくしてくれたけど、他の人に対してはそうじゃなかったし。わたしはね、お兄ちゃん、お母さんの語る甘いラブロマンスが信じられなかったの。わたしみたいな子供に話して聞かせる内容じゃないにも関わらず、お母さんはしがみつくようにえんえんとお話を繰り返していた。自分の自慢話みたいに。その様子が普通には思えなくて、何かがおかしいって思っていたの」
 言って暮れなずむ空を見上げる。「でも、そっか。わたしはお兄ちゃんの妹じゃなかったんだねー」
「僕の仮説が正しければそういうことになるな。血のつながりのない赤の他人に」
 僕がそう言うとメレはすがるように僕の方を見る。
「お……、お兄ちゃん、あの、できればだけど、これからも一緒にいさせてほしいな。わたし、自分で言うのもなんだけど、結構役に立つよ」

「そんな心配をせんでもお前は俺の娘だ」

 割り込んできた野太い声に、僕とメレは反射的に海浜公園の入り口の方を見た。そこにはいつの間にかスーツ姿の中年男性の姿があった。
「父さん」「パパ……」
 僕たちの声が重なる。父さんは太った体を揺らしながら僕の脇を通り過ぎるとメレに近寄って抱きしめた。
「シュン、お前がここにいるってことは、もう全部分かっているってことだな?」
 父さんがメレから体を離して僕に向き直る。僕は肩をすくめた。
「どうだろう。答え合わせが必要かも」
「俺は船の中であいつを拒否した。んで、あいつはおかしくなって大事な物をこの街中に埋めてまわった。それだけだ」
「……彼女が埋めているのを見ていたのか?」
 僕が眉を上げる。父さんは目を瞬かせた。
「見た。鬼気迫る顔だった。……シュン、お前、服がちょっと汚れているな。まさか掘り返したのか?」
「メレの抱きかかえているものがそうだよ。全部回って、この海浜公園が最後。だけどここに埋められた物を掘り返すのは止めたんだ」
 僕がそう言うと、父さんはにわかに沈黙した。それからメレの方に向き直って彼女をまっすぐに見つめる。
「それがあいつの埋めたものか……。すまなかった。俺が期待させ過ぎたんだ。そのせいであいつの持っていた物を全部壊してしまった。辛かっただろう。できれば横で助けてやりたかった。だが、俺にも家庭や親族のしがらみがあって、身動きが取れなかったんだ」
 メレは首を振った。
「パパはたくさんわたしたちにお金をくれた。それだけで十分だよ」
 本人は至極真面目に言っているのだろうけど、この台詞には僕も沈黙せざるをえなかった。父さんは眉根を寄せていた。どうせ「これからは俺が金では買えないものを与えてやる」とか安っぽい台詞を言おうとしていたのだろうけど、自分にはそんなことを言う資格がないことに気が付いたみたいだ。やがてこう言った。
「……俺からの提案だ。メレ、お前は二つの道を選ぶことができる。一つは宮崎でこれまで通りの生活をすること。どこか学校の近くのマンションにでも引っ越してそこで暮らせ。生活費の心配はしなくていい。高校、大学に行くならいくらでも金は出してやる。何なら海外に留学させてやってもいい。就職したいなら俺のできうる限りの力を使って就職させてやる。もう一度言う。金ならいくらでも出す」
 父さんは言葉をいったん切り、それから続けた。
「もう一つは――この街へ引っ越ししてくること。……どっちでも好きな方を選べ。どちらにしても金は出す。だから、どうか自分が思う方を選んでくれ」
「金は出すって、最低な響きだな」
 僕がそう言うと、父さんは何でもないことのように肩をすくめた。
「そうだ。俺は最低だ」
 メレはしばらく感情の読めない顔で父さんの顔を見つめていた。それから不意に僕の方に視線を向ける。……え? 何? 僕? 何でこのタイミングで僕を見るんだろう? 今まで馴れ馴れしくしてきたのはメレが僕に気に入られようとしていたからだ。父さんに金を出させると約束させたんだから、昨日会ったばかりの僕なんて彼女にとってはどうでもいい存在のはず。なのに、メレは僕の方を見て控えめに笑ったのだった。ちょっと意味が分からなかったので無表情で黙っていると、彼女は父さんの腕からするりと抜け出して僕の方へとことこやってきた。そして目の前で立ち止まると、恐る恐るといった表情でこう言った。

「わたしを、お兄ちゃんの妹にしてください」


   ×               ×                 ×

 眩しい陽光がアスファルトを照らし、ジェット機の白い機体を蜃気楼で歪ませていた。
 緑はより濃くなり、春がいよいよ終わりを告げようとしていることが分かる。もう夏はすぐそこまで迫っていた。僕はガラスの窓から差し込んでくる強い日光に目を細めながら、白いスーツケースを片手に前を歩く『妹』に声をかけた。
「メレ、まだ時間があるんだからそんなに急がなくても大丈夫だ」
 すると、黒く艶やかなストレートの髪をさらりと宙に舞わせて彼女が僕を振り返る。
「へへー、もう楽しみで仕方ないんだよー」
 言ってスーツケースを転がしながら僕の横に戻ってくる。少女と大人の中間のような魅力を放つ彼女に、空港内の男性客の何人かがはっとしたように振り返った。

 あれから一年経った。

 僕は学年が一つ上がり、今年度末に大学受験。メレは――僕のいる港町に引っ越してきて、妹になった。僕はメレが妹だと認めるつもりはなかったんだけど、父さんが彼女を受け入れると言うので仕方なく認めることにした。まあ、こいつといるのはなんか居心地がいいし? 僕みたいな人間と一緒に居てくれる奴自体が希少だし? 当番制で家事をするのも悪くないと思うし?
 ――そんなことはどうでもいい。僕たちは今、ゴールデンウィークを利用してメレのお母さんの故郷を訪ねようとしている。いつかは行かないといけないところだったのだけど、夏休み、冬休み、そして春休みも、ちょっとばたばたしていて行けなかったのだ。
 僕はパンフレットを見ながらため息を吐いた。
「そう言えばメレと出会ったのは去年の事だったのか……。自分の身に起きていることながら本当にどうしてこうなった状態だ」
「んー? お兄ちゃんテンション低いねー。もっと上げて行こう!」
「お、おい!」
 メレが僕の腕に抱き付いてくる。周囲の客の目が一瞬一斉に集まったような気が……。なんか歯ぎしりとか聞こえてくる気がするけど、多分気のせいだよな。メレは無邪気な表情で僕の腕に柔らかな胸を押し付けてくる。僕は昨日の風呂の事を思い出して思わず赤面してしまった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「何でもない」
「ふふ……。旅行中もちゃんと背中洗ってあげるからね」
 彼女は耳元でそう囁くとぱちりとウィンク。それからやっと体を離してくれた。……やばい、さっきのどから変な音が出た。風呂に関しては弁明の余地がない。なんか気づいたらいつも一緒に風呂に入っているのだ。良くないことだとは分かっているんだけど、浴槽に浸かって一日あったことを適当に話すのが日課になってしまっていた。なんてこった。
 僕は寄り添うように歩いてくれるメレに視線を落とした。
「お前の母さんの故郷に行くんだよな、僕たち」
「そうだねー」
「本当にこのタイミングで行っていいのか? 例えば、その、もっとお前が大人になって、本当に過去の記憶になってしまってからにしても良かったんじゃないのか?」
 僕がそう言うとメレは少しの間黙ったあと、ゆっくりと首を振った。
「わたしは、前に進みたいんだ。去年だって、先に進みたかったからお兄ちゃんに会いに行った、お母さんの記憶を探しに行った。今年はお母さんの故郷を感じることで、わたしの中の気持ちに区切りをつけたいの」
「そうか」
「そうなの!」
 僕たちは立ち止まって向き合う。メレはガラスの向こうに広がる空をバックに、スーツケースを後ろ手に持って僕に笑いかけた。
 その笑顔はあの果てしない青空に輝く太陽よりも眩しくて。
 室内にも関わらず風が吹いたような感覚に陥った。
 熱砂を含んだ強い風だ。少し海の匂いがして、ヤシの実の幻影が見えて。

 白い鳥のような飛行機が、空に向かって飛び立つのが見えた。

                                   了

2014/05/04(Sun)21:13:41 公開 / ピンク色伯爵
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