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『死者の居る景色』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:かめん
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雲ひとつ無い青空だった。
冬の火葬場はしんしんと寒く、昨日までに降った雪がくるぶしまで積もっていた。雪化粧をした中庭の木々は、どこか鬱屈とした様子で、ラウンジで待っている人間たちを見守っていた。彼らは、家長の火入れを任せた直後の肉親だった。
こんなに綺麗な空だなんて
呆けた顔をして老婆が言った。その目線は窓を通して、透き通るような空を見つめていた。彼女の台詞を聞いて、無精髭の男が側で笑った。失笑、というふうだった。
親父には似合わんね
男の零した言葉に、周りの親戚は揃って頷いた。ある人は自分の頬をさすり、ある人は自分の頭を撫でた。誰も彼も虚ろな眼をしていたが、涙を流す者は一人もいなかった。
と、そこでラウンジに、息急き切って駆け寄ってくる人間がいた。服装を見るに、ここの火葬場のスタッフで、先までここの親族を先導していた若い女性だった。
どうしましたか
尋常でない雰囲気に、入り口近くに立っていた舅が声をかけた。女性は少し息を整えた後、泣き出しそうな顔をして、こう言った。
ご遺体が……
ご遺体が、盗み出されてしまいました
誰も何も言わなかった。しんしんと冷え込む、冬のある日のことだった。
その火葬場は山の麓にあった。
建物の裏に広がる雑木林を、重たげな荷物を抱えて歩いていく老人がいた。地面は緩やかな斜面になっていて、一歩を踏む度に、足元の雪がさくさくと音を立てた。老人の息遣いは荒かったが、その口から白い呼気が漏れることは無かった。むしろで包まれた荷は身の丈ほどもあるというのに、それを抱える顔には一切の汗が浮いていなかった。老人は、骨に皮を貼り付けただけのように痩せこけていた。
「どこへ行くの」
不意に頭上から飛んできた声に、老人は落としていた視線を上げた。
数歩先の斜面に、見知らぬ女が立っていた。いや、女と言うには、あまりに若い。少女と呼ぶのが妥当に思えた。彼女は髪が長く、夏に着るような白いセーラー服を着て、肩に何かのケースを提げていた。金属製のそれは、快晴の日差しを受けて、冷たい銀色に光ってみせた。
「どこへ行くの」
少女がまた聞いた。老人は答えぬまま、さらに一歩を踏んだ。
「私が怖いかしら」
老人を目前にして、少女は肩のケースを地面に下ろした。老人が何をする間も無く、彼女はケースからバイオリンの弓を取り出した。
ケースに入っていたのは弓だけだった。少女は透明な弦の貼られた木の棒を、刀剣か何かのように、老人に向けて振りかざしてみせた。
「私が何者か分かるかしら」
少女は老人を見下ろして言った。バイオリンの弓は、太陽を照り返してぎらぎらと凶暴に光っている。老人にはそれが、剃刀か鎌のように思えた。
――風を切る音。
バイオリンの弓が振り下ろされると同時に、老人の体を衝撃が襲った。と言っても、弓が体に当たったのではなく、横から走ってきた人間に体当たりされて、老人は突き飛ばされたようだった。
呻き声が重なって斜面を転がった。荷を抱え込みながら老人は、今しがた自分に突進してきた人間のことを傍らに認めた。もんどり打つその姿は、若い男のようだった。
「何をしやがる!」
しゃがれ声で老人は叫んだ。それなりの距離を転がってしまっていて、少女からは幾分離れている。老人は彼女を一瞥すると、男には目もくれず、荷物を抱えて駆け出そうとした。
「待ってください!」
「うっ!?」
直後、老人の枯れ枝のような脚を、男が両腕で掴んで止めた。つんのめりかけた老人は、持っていた荷をとっさに前へ突き出した。
さくり
むしろがめくれて、中のものが雪を滑った。老人の腕から零れ落ちたそれは、白く濁った眼をして、雲ひとつない青空を見つめていた。
老人の荷物とは、自分の屍体だった。
「お爺さん……」
「……お前もあの娘の仲間か」
言い淀む男をぎろりと睨んで、老人は再び屍体をむしろで包もうとした。瞬間、その目の前に、またも少女が立ちはだかった。彼女はバイオリンの弓を手に、屍体を抱える老人を見つめていた。上方から跳躍してきただろうに、彼女の足元の雪は、白紙のように滑らかだった。
「……妖の類」老人が独りごちた。「それとも、死神か」
「後者よ」
少女は弓を突きつけながら老人に言った。深い皺の刻まれた顔が激しく歪んでも、少女は淡々とした表情で、それを見つめるだけだった。
バイオリンの弓が空を切る。
少女の傍に立っていた若木が、呻きのような音をあげてへし折れた。幹を覆っていた雪が弾け、まるで血飛沫のように老人の顔に吹き付ける。ひっ、と、怯えた声が漏れた。
「――待ってください!」
そこで男が割って入った。バイオリンの弓が動きを止める。狼狽する老人を庇うようにして、男は少女の前に出た。
「そこをどいて」
「待ってくださいってば」
少女を嗜めるように、男は再三そう言った。不満げな表情に背を向け、彼は縮こまっている老人へと向き直る。しゃがみ込み、もはや生命を失った亡霊に、手を添える。
「……あなたはどうして、こんな真似を?」
男の言葉に、老人は震えながら顔を上げた。
老人には、男も死人であると分かっていた。自分の霊体を通して感じる掌の冷たさは、生者のそれではあり得ない。ただ、老人はその凍てつきの中に、男の真摯な態度を認めた。少女の見せる無機質さとは一線を画す、ひととしての感傷を、彼の胸中に察した。
「……これを焼かれれば、本当に死ぬんだろう」
老人が言った。
「この屍が焼かれた時、俺は本当に昇天というわけだ」
「そうね」
少女が頷いた。老人は男の手を払い、自分の屍体を抱え込んだ。
「嫌だ……俺はまだ死にたくない」
「……」
ちらと、少女が苛立った様子で男を見た。若い男はその視線に、厳しい表情で制止を求めた。
「お爺さん、あなたは家族にお別れが言えるじゃないですか」男は老人に言った。「誰だっていつかは死んでしまうのだし、中には……ええ、遺体が残らなくて、式もできない人だっているのに」
「それよりは幸運だ、とでも言うのか?」
老人は男を睨みつけた。
「誰もが死ぬからといって、俺も死なねばならん理由にはなるまい」
老人の形相は唸り声をあげる獣のそれだった。老人は、自棄になりつつあった。
「そんなことは……」
「失せてくれ。俺の命は俺だけのものだ!」
老人は怒気を発した。凪いでいた辺りに突然突風が吹き荒れ、男が尻餅を着く。その横で、少女がうんざりした様子で肩を竦めていた。
「大した妄執ね」
少女がバイオリンの弓を振るうと、風は宙空で裂けて大気に散った。尚も歯噛みをする老人に向かって、少女は再び弓を突き付けた。
「あのね」彼女の口調は苛立ちを隠さない。「ただ、生きたい、という意思だけじゃ、それがどんなに強くても、こんな芸当できはしないの」
バイオリンの弓が屍体を指した。
「あなたには、何か望みが有るはずよ。いなくなる前に見届けたい、何かが」
「……」
老人は俯いた。観念した、というよりは、二の句を探すうちに零れた、という風で、しわがれた台詞が口から出た。
「……俺は、偏屈じじいとして生きてきた」
少女は失笑した。
「今だってそうだものね」
「それ以外の生き方は知らねえんだ」
老人の口調は弱々しくなっていた。
「俺は散々、ガキや家内に威張り散らした。手癖も悪い、口も悪い……だがな、精一杯まともな人間になれるように、世話を焼いてきたつもりなんだ」
男がゆっくりと起き上がって、老人のことを見つめた。
「あいつら……俺が死んだっていうのに、平然としてやがるんだ。俺には、言っておきたいことが……言ってやりたいことが山ほどあるのによう。そうだ、薄情な人間に育てたつもりはねぇ、とか、なんとか……畜生、あいつらは俺が死んだって、涙の一つも――」
その時だった。
斜面の下から、雪を踏む音が聞こえた。少女も、男も、老人も押し黙った。真っ白に彩られた林を歩いて来たのは、無精髭の男だった。
こんなとこまで来てたのか、親父
無精髭の男は独り言を呟いた。彼は小走りで坂を登ると、黒いスーツが汚れるのも構わず、老人の遺体を抱え上げた。少女たちの姿は、目に入っていないようだった。
「お、おい……」
老人が嗚咽を漏らした。その言葉自体は辺りの冷気に溶けて消え去ったが、不意に無精髭の男が、きょろきょろと辺りを見渡した。
「ほんの少しだけだったら、伝わるかもしれませんよ」
幽霊の男が老人に言った。老人ははっとした様子で口を開いたが、言うべき言葉に詰まって、眉を下げた。
老人には、何を話せばいいのか分からなかった。口をついて出るだろう一言一句が重要に思え、そのどれもが他愛ないことのようにも思えた。
老人が逡巡している間に、無精髭の男は遺体に着いた雪を払い、開いていた瞼をそっと閉ざした。寒さでその手は震えていたが、白い息を吐く顔は、どこか清々しい表情で父の遺体を見つめていた。
遂に老人は何も言えなかった。
無精髭の男は老人の遺体を背負うと、また独り言を漏らした。
――親父、あんた死んでからも、俺たちを振り回すんだな
なんつうかよ、流石って感じだぜ
あんたは短気で、げんこつ振るいだったけどな、あんたがブレずに立っててくれたおかげで、俺たちは真っ直ぐ生きてこれたんだよな……多分
さあ帰ろうぜ
お袋も妹も親戚も、みんなあんたを待ってて、心配してんだよ
……ああ、畜生
親父には絶対、涙なんか流してやらねぇと、思ってたんだがなぁ
火葬場へと歩いていく息子を見ながら、老人は笑っていた。寂しそうに緩む口元を、透明な滴が濡らしていた。
「なるほど、なるほどな」老人は誰へともなく言った。「偏屈の息子は偏屈だ、当たり前のことだった」
「そうね」
少女はバイオリンの弓を下げた。その横に男が並んで、老人のことを見つめた。彼はほっとした様子で、老人の肩を叩いた。
「早く、戻ってあげてください。最期のお別れが亡骸だけじゃあ、淋しいですから」
「そうだな……」
男の言葉に老人は頷いた。それから、まだ若々しい幽霊の男に、視線をくれた。
「なあ、お前は結局、何者なんだ」
「僕ですか?」男は苦笑いした。「僕はしがない、バイオリンの精ですよ。死神の邪魔ばっかりする、ね」
「バイオリン、なあ」
老人は首を傾げた。と、そこで、はっとした様子で少女を指差した。
「そうだ。お前が死神というのなら、なんで鎌じゃなくて、バイオリンの弓なんだ」
「お爺さん、銃刀法って知らないの? 最近厳しいんだけど」
少女はあっけらかんと答えた。老人は一瞬あっけに取られ、それから、声を上げて晴れ晴れと笑った。
「あなたが邪魔をしなければ、すぐ終わっていたのになあ」
火葬場から上がる煙を見ながら、セーラー服の少女は言った。その横でバイオリンの幽霊は、毅然とした口調で言葉を返した。
「曰く付きのバイオリンなんか拾うからですよ。何度も言っていますけれど、可能な限り、僕のバイオリンで人は斬らせませんからね」
「弓だけじゃない、これ。というか、もともと娘さんに買ったやつじゃなかったの」
「ええ。でも、渡しそびれちゃったから僕のです」
「……あーあ。あんたの遺体も、さっさと見つかればいいのにさ。そうすれば火葬してもらって、いなくなってくれるし」
「そうなれば僕も、毎日三食料理する必要がなくなりますね」
「……今日の晩ご飯は?」
「カレーライスでも作りましょうか」
雲ひとつ無い青空だった。
冬の火葬場はしんしんと寒く、昨日までに降った雪がくるぶしまで積もっていた。雪化粧をした林の木々は、穏やかに火葬場を見守っていた。
煙突から昇る黒い煙は、空の彼方で白くとろけて消えた。
冬のある日のことだった。
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2014/03/10(Mon)00:34:13 公開 / かめん
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■作者からのメッセージ
初めまして。この掲示板は初めて利用させて頂きます。
先日祖父が亡くなり、とにかく何か書いて落ち着こうと思った次第です。ただ、本文中のお爺さんは、実祖父とはまるで違う性格をしていますが……
人に読んでもらう、と意識するとやはり文章を書くのは難しいです。拙い内容ですが、お暇潰しにでもなれば幸いです。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。