『アシカと僕【改稿】』 ... ジャンル:ファンタジー リアル・現代
作者:狐ママン                

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 僕はずっとアシカと暮らしている。
 アシカはとても大きくて重い。そして全体がゴム合羽みたいに黒くてつるつるとしている。
 僕のアシカは、サーカスで働いている。テントでほうぼうを移動しながら、芸を見せるのだ。
 真っ白な照明の下で、小さなプールを泳ぎまわって輪くぐりをしたり、床の上で玉乗りをしたり、サーカスの団員とボールの投げ合いをしたりする。
 たくさんのお客が、たくさんの拍手をして、たくさんのお金を投げ入れるが、アシカがもらえるのは数匹の小さな魚だけだ。
 なぜならサーカスには、他に大勢の団員や動物がいて、彼らを食べさせるにはとてもお金がかかるし、それにアシカには、僕がいるからだ。
 朝と夕方に、アシカの飼育係が、僕に食べ物を持ってきてくれる。サーカスが満入りのときは多めに、客が少ないときは、もちろんそれなりの量だ。
 でも僕は、文句を言ったことは一度もない。だってそれは全部、僕のアシカが一生懸命働いて稼いでくれたものだもの。
 長雨が続くと、サーカスに来てくれるお客はぐっと少なくなる。そうなると、僕のおかずは焼き魚ばかりになる。
 僕は、それを食べるのが、とてもつらい。それが本当は、アシカのものだと知っているからだ。アシカが、自分の餌を僕へ回すように、飼育係に頼んでいるのだ。
 そんなとき僕は、普段より時間をかけて丁寧に食べる。僕が食べなければアシカが悲しむし、どちらにしても焼いた魚はもうアシカは食べることができない。

 ひえびえとした雨の夜、飼育係が標本みたいになった魚の皿を下げて行ってしまうと、僕は僕の小さな部屋を出て、いつものようにアシカに会いに行った。
 アシカの檻は、目ヤニをたくさんつけたトラと、いつも死んだように眠っている大蛇の檻の間にはさまれている。
 アシカが僕の姿を見つけ、いそいそと這ってきた。
 僕はポケットから鍵を出し、錆びつきかけた鍵穴に差し込み、檻の中に入る。そしてアシカをぎゅっと抱きしめた。
 アシカが、大きなひれで僕の体のあちこちをペタペタとさわりながら言った。
「ぼっちゃん、ご飯はちゃんと食べましたか?」
 僕はうなずくが、アシカはなかなか納得しない。
「魚の焼き具合は、どうだったかしら。今日はちょっと飼育係が急いでいたから、手をぬいたかも知れない。それに魚はおととい仕入れたものだったし」
 僕は、魚はちゃんと中まで火が通っていたし、変な匂いもしていなかった、骨のわきの肉まできちんと食べたと説明して、アシカを安心させた。
 それでアシカはようやく微笑んだ。でも他の人は、アシカの顔はいっつもピエロみたいに笑っているようだと言う。目は垂れ下っているし、口の端はぐいと上がっている。
 僕はアシカの顔を真似しようとするのだけれど、なかなかうまくできない。
 僕がいつでも笑っていれば、アシカももう少し幸せになれるはずなのだけど。
 僕の体は生まれつきどこもかしこも弱くて、体のあちこちには何本もの管が通っているし、車イスでないとどこにも行けない。大きな声で笑ったりしたら、すぐに息がとまって死んでしまうだろう。
 だから僕は、アシカと会う以外は、自分の部屋から出ることもない。
 お客が、どっと大きな拍手をしたり、楽しそうに笑うのを、遠くでじっと聞いているだけだ。
 僕のアシカがきらびやかなステージに上がっている様子を、一度でいいから見てみたいと思うけれど、むっとした熱気の中に十分でもいたりしたら自分でもどうなるか分からないので、それはとうにあきらめている。
それに芸をしているアシカを見たら、もしかしたら大声で泣いてしまうかも知れない。
 アシカも僕に芸を見せようとしたりはしない。僕が頼めばきっと見せてくれるだろうけど、アシカのほうから言い出さないということは、本当はやりたくないのだと、僕にも分かっている。
 といっても、アシカがサーカスの話を嫌がるわけではない。
 食事の話が済むと、アシカは、その日一日のことを、こと細かに話してくれる。何時に開演して、客の入りはどうだったとか、その日の演目やら、誰がうまくできて、誰が失敗して、誰が一番うけたかなど。
 アシカはサーカスのことしか知らないし、僕は外のことを何一つ知らないので、結局ふたりの話題は、サーカスのことばかりになる。

 僕は、生まれて最初の三年は病院にいたけれど、そこからあの小さな部屋に越してきた。
 どうして僕が、病院からサーカスの片隅にいるようになったのか、正確なところは知らない。
 だけど飼育係が言うには、ここは<ふきだまり>だから、なのだそうだ。どこにも居場所がなくなってしまうと、最後に辿り着くのが、サーカスという場所なのだ、と。
 僕は〈ふきだまり〉という言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返す。
 〈ふきだまり〉というのは、僕にコロコロと転がるたくさんのボールを思い浮かべさせる。
 だからサーカスではたくさんのボールを使うのかも知れない。そんなふうに僕は思った。

 アシカと初めて会ったのは、ひどく冷え切った冬の夕暮れだった。その何日も前から僕の体は、季節に反抗するように熱く燃え上がっていて、だけどもうそれもいつまで続けられるか分からない気がしていた。
 飼育係が、様子を見に来た。
僕は、飼育係が腕を組んだままじっとしているのを、ただぼんやりと見上げていた。
 まぶたが腫れあがって、ほんの少しだけしか開くことができず、そのせいで、飼育係の姿が遠くなったり、近くなったりしていた。
 しばらくして、飼育係が言った。
「アシカが、必要だな」
 アシカ……?
「アシカは、生まれつき誰かの面倒をみるようにできているし、あんたには面倒をみてくれる者が必要だ」
 そして、アシカが連れて来られた。
 アシカは、泣いたような笑ったような奇妙な顔をしていた。ベッドにもたれて立ち上がると、僕をのぞきこんだ。小さく張り出した耳が、二、三度まばたきをするようにぱたつき、それからぴたりとこちらを向いた。
「ぼっちゃん。かわいそうに」
 アシカの前ひれが、そうっと僕の額にのせられた。それはとても、大きくて、柔らかくて、ひんやりと冷たくて、体の中の悪い血がどんどんアシカの手の中に吸いとられる気がして、僕はうっとりと目をつむった。あんまり気持ちがいいので、そのまま眠りこんでしまいそうだった。
「お眠りなさい」
 アシカが言った。
 でも、僕は眠りたくなかった。眠っている間にアシカがいなくなってしまうのが、怖かった。
 だが、アシカはもう一方のひれで、僕の体をぽんぽんと優しく叩いた。
「わたしは、どこに行きませんよ。ずうっと、ぼっちゃんのそばにいます」
 それで僕は、ようやく安心して眠ることができた。
 それ以来、僕はアシカの世話になっている。

 初めのうち僕は、アシカの世話になるということに戸惑った。それは、アシカが僕の心配をするという以上に、アシカが僕の何もかもを引き受けるということだった。
 自分だけで生きていくことすら大変なのに、僕のことまで背負うのは、どう考えてもアシカにとって荷が重すぎるし、不公平のように思えた。
 だけどアシカは、白いひげを五線譜みたいにぴいんと伸ばし、こう言った。
「ぼっちゃんが、わたしを必要な以上にずっと、わたしには、ぼっちゃんが必要なんです」
「どういうこと? だってアシカは僕のために働いてくれているのに、僕はただ寝ているだけなんだよ」
「アシカにとって働くことはなんでもありません。でもそれは、誰かのために、でなければならないのです。アシカには、自分を待ってくれる誰かが必要なんです」
 その言葉を聞いて、僕は泣きそうになった。
 たしかに僕ができるのは、待つこと、それしかなかった。そんな僕を、アシカは必要だと言ってくれた。
 生まれてからずっと僕が待っていたのは、たぶん、アシカのことだったのだ。
 
 アシカが僕のところにきてくれるようになって、僕のサーカスでの生活はずっと幸せなものになった。
 一人で部屋で寝ている時も、いろいろなことを考えられるようになった。
 お客のざわめきが聞こえれば、もうアシカの出番なのか、と思う。
 歓声や笑い声がたてば、アシカの芸がうまくいったのか、と思う。
 サーカスの終了のベルが鳴ると、僕の胸の鼓動はいっそう高まる。片付けが終われば、アシカは檻に戻され、僕はアシカと会うことができるのだ。
 夜が更けると、仕事を終えた動物たちが、それぞれの檻に帰って来る。
 僕はベッドの上に起き上がり、呼吸を整えながら、彼らのぷつぷつというつぶやきが、泡のようにゆらゆらと立ち昇っているのを、聞くともなく感じている。
 それから、ベッドから落ちたりしないように、慎重に車イスへと移動する。
 夜のサーカスはとても暗い。
 僕の部屋は、サーカスの中でも特に奥のほうにあって、辺りには大きな荷物がいくつも積まれている。
 墨色の濃淡の中に、じっと目を凝らす。すると少しずつ、ぼんやりとしたたくさんのものが、その本当の姿を現わしてくる。
 ゾウが使った曲芸の玉。六頭の白馬が引く馬車。ライオンの輪くぐり。長い縄梯子に、背の高い一輪車。ひらひらしたピエロの衣装。
 車イスの輪が一回転するたび、違う景色になってゆく。
 やがて闇が深くなる。
夜行性のものたちの赤や黄色の目が線となってあちこちを交差し、無数の身じろぎはふくらんだ空気を震わせ、時折ばたつかせる、本物の風のように。
 僕はぎしぎし言う喉で深呼吸をし、汗ばんだ手のひらをシャツで拭く。
 それから上を見上げる。
 弱い光のすじがいく本も、乾いた静脈のように天幕に張りついている。それは、サーカスの夜空だ。テントの隅にかかげられた灯りの光が流れて、そんなふうな模様を描いているのだ。
 見つめているうち、それはもしかすると、地上の複雑な道すじをそのまま映しているんじゃないかと思えてくる。あの一本を辿っていけば、簡単に行きたい場所に連れて行ってくれる、そんな気がしてくる。
 だが僕はすぐに首を戻し、前を見てしっかりと車の輪をにぎりしめる。
 あれは間違った地図なのだ。
 人を惑わせる嘘の光なのだ。
 アシカのことだけを、考えよう。アシカが、今この瞬間も、僕を待っているのだと信じよう。そうすれば僕は、迷うことなどないはずだ。
 車の輪をいく度となく回し、そうしてようやく、今夜も僕はアシカのもとに辿り着いた。
 疲れきって頭を肩にうずめていたアシカが、ぱっと顔を上げた。
「ぼっちゃん。また来てくれたんですね」
 僕はうなずいた。
 もっと上手に、自分の気持ちを伝えられればいいのに。僕がアシカに会えて、どんなに嬉しいか。長い一日の間、どれほどアシカのことを考えていたか。
 だけど僕の眼鼻は、体と同じくらい、ぎこちなくしか動かない。
 それでもアシカが僕に会えて喜んでいるようなので、救われたような気持ちになるのだ。

「この雨が止んだら、別の町へ引っ越すよ」
 ある夜、飼育係が言った。
 しかし僕は驚かなかった。サーカスが引越しをするのは当然のことだから。
飼育係も、それ以上何も言わずに部屋を出て行った。
 だけどアシカは、少し興奮しているようだった。
「次の町には、海があるそうなんです」
「海?」
 僕は海を知らなかった。だけどアシカは知っているようだった。
「わたしは海で生まれたんです」
 僕はびっくりしてアシカを見た。僕が病院で生まれたように、アシカもどこかの病院で生まれたのだと、ずっと思っていたのだ。
「海ってどんなところ?」
 訊くと、
「とっても大きくて、キラキラしていて、魚がたくさん泳いでいて、そうして太陽が毎日生まれるところですよ」
とアシカは、答えた。
 僕はますますびっくりしてしまった。僕の覚えている病院は、四角くて、どんよりしていて、ツンとした匂いでいっぱいの場所だったからだ。
「海って、いいところのようだね」
「ええ」
「どうして、そんないいところから、離れようと思ったの?」
 するとアシカは、悲しそうに眼を伏せた。
「また海に帰りたいと思う?」
 アシカは、
「いいえ」
ときっぱり言った。
 だが、その言葉は嘘だと、僕には分かっていた。
 アシカは嘘をつくのが、とても苦手なのだ。嘘をつくと、ひげが左右バラバラに動いてしまう。アシカ自身がそのことに気づいていないだけだ。
 アシカに「おやすみ」を言い、檻にまた鍵をかけ、動物たちの間を抜けていく時も、僕は海のことが頭から離れなかった。
 部屋に戻ると、僕はベッドに入り、水差しから水を汲み、そばの引き出しを開け、中にいっぱいつまっている薬の包みを一つ、とり出して飲んだ。
 この薬を日に五回飲まないと、僕は死んでしまうのだそうだ。
この薬を買うためにアシカが余計に働かなくてはいけないことも、僕は知っていた。
本当は、ずっと前から知っていた。
 僕は横になった。
 そして声を出さずに泣いた。
 枕が両わきからじっとりと濡れていった。

 アシカはこのところ、しきりに何かを考えこんでいた。僕はそれを、海のことを考えているのだと思っていたけれど、それは違った。
 ある日、アシカが決心したように言った。
「ねえ、ぼっちゃん。ぼっちゃんは、学校に行かなけりゃなりませんよ」
「学校だって?」
「ええ。この間の土曜日に、たくさんの子供たちがおんなじ服を着て、サーカスに来ていたんです。わたしはそれが不思議だったので、隣のベンガルトラに訊いてみたら、それは学校の制服なんですってね。子供はみんな学校に行って、勉強したり遊んだりするものなんだそうです。あの子供たちは、ぼっちゃんと同じくらいの年の子たちでした。ぼっちゃんくらいの年になれば、学校に行くのが当たり前なんですよ」
「だって、僕に学校なんて無理にきまっているよ。このテントの中からすら出ることができないんだから」
「ところがね、飼育係に相談してみたら、体の弱い子でも行ける学校が、近くにあるそうなんです。そこは病院と学校が一緒になっているところで、具合が悪くなってもすぐにお医者が来てくれるっていうんです」
 僕はアシカの言葉を少し考えてみた。教室、本、そして友達。
「まるで、夢みたいだね」
 僕は微笑んだ。アシカも微笑んだ。
「夢なんかじゃありません。本当のことです。ぼっちゃんさえよければ、そこへ引っ越せるように話をつけますよ」
「引っ越す?」
「ええ、もちろん。だってこのサーカスはもうじき別の町に移動するし、テントから毎日学校に通うなんて、どだい無理ですからね」
「じゃあ、アシカも一緒に来るんだね。サーカスをやめて」
 アシカはヒクヒクとひげをぴくつかせた。
「わたしが一緒に? とんでもない。わたしが、サーカス以外のどこで暮らしていけるというんです。わたしが生きていく場所は、このテントの中しかありませんよ」
 僕は思わず大声を出した。
「嫌だ! アシカと離れるなんて、絶対に嫌だよ。アシカがテントに残るなら、僕がいる場所だって、ずっとここだ!」
 アシカが慌てて僕の背を撫ぜた。
「ほらほら、興奮しちゃいけませんよ。しっかり息を吸って、ゆっくり吐いて」
 僕は、ぜえぜえと肺を震わせながら涙をぬぐった。
「お願いだよ。僕を置いていくなんて、言わないで。僕、学校なんてどうでもいいんだ。アシカのそばにいられるなら、どこだっていいんだから」
 アシカは優しく微笑んだ。
「ぼっちゃんがそう望むなら、わたしはそうしますよ」

 やがてサーカスのテントは、海辺の町に引っ越した。僕もアシカも、もちろん一緒だ。
 アシカは、もう学校のことは言い出さなかった。僕がまた興奮するといけないと思ったのだろう。
 季節は輝かしい夏に移り変わり、サーカスも連日たくさんのお客でにぎわった。
 彼らはみな、明るく軽い服を着て、色のついた氷水を飲みながらサーカスを見たり、テントの外に立ち並んでいる屋台で、射撃をしたり、リンゴ飴を買って舐めたりした。
 僕は飼育係に頼んで、アシカの出番のない夕方に外出の許可をもらった。
そしてアシカを連れて、毎日のようにテントの裏側にある高台へのぼった。
 そこからは海を一望することができた。
 海は本当に大きくて、空と同じくらいに広がっていた。でもその海は、太陽が生まれる海ではなく、沈む海だった。だからアシカが生まれた海とは違う海なのだ。
 しかしアシカは言った。
「海は空とおんなじで、世界中の海は、全部どこかでつながっているんです」
「じゃあ、アシカの海も、この海とつながっているんだね」
「ええ」
 僕らは、時間の許すかぎり、海を眺め続けた。
 まったく海は素晴らしかった。
 泡立ち、うねり、揺れ動きながら、それでいて落ち着いていて、どこまでも深く、果てしなかった。
 風や雲や、太陽さえも、海の上では赤ん坊のようにあやされ、やがて地平線の向こうへ吸い込まれていく。
 アシカはよく、大きく鼻をふくらませて、空気をふかぶかと吸っていた。まるで海の匂いで自分の体をいっぱいにしようとするかのように。
 潮風に濡れたアシカの体は、いつもよりもずっとすべすべして、清潔ないい匂いがした。
 僕たちは檻の中に戻っても、その匂いを楽しむように、いつもより口数は少なく、いつもよりずっと満たされながら、いつもよりちょっとだけ長く寄り添っていた。
 アシカがしまいにこう言うまで。
「さあさあ、ぼっちゃん。もう寝る時間ですよ。それから、いつもの薬を忘れずに飲むんですよ」
 僕は素直にうなずいて、アシカから体を離す。
 きいきいという車イスの音を聞きながら、ぽつりと小さく灯りのともった自分の部屋に戻る。
 そうして、僕のやるべきことをやる。水差しから水を汲み、引き出しから薬の包みをとり出す。
 この小さな包みの一つ一つが、僕とアシカとサーカスをつなげているのだ。

 夏も盛りになり、太陽が大きく育つと、僕の体はすっかり弱ってしまった。
 この一週間、僕はベッドから一歩も起き上がれず、アシカにも会いに行けずにいた。
 アシカはひどく心配したが、飼育係から立派なお医者に来てもらっているからと説明されて、少しは慰められたようだった。
 その晩、僕が、むっとした空気を小さな扇風機がむなしくかき回しているのを見ていると、コツコツとノックがして、いつものように飼育係がやって来た。
「やあ、具合はどうだい」
 そうしてまったく手のつけられていない夕食を見た。
「とても、いいよ」
 僕は答えた。実際、とても気分が良かったのだ。僕の体は羽のように軽くなって、暖かい風にのり、今にもふわふわと宙に浮いていきそうだった。
 飼育係が言った。
「アシカは、今夜、海に帰るよ」
 僕はうなずいた。首を動かすと頭の奥がズキズキと痛んだ。
 飼育係はベッドのそばの小さな椅子に腰をかけた。それから長い間、黙って僕の顔を見つめていた。
 僕も飼育係の顔を見つめた。そんなにじっくりと飼育係を見たのは、初めてだった。
 顔全体がきゅっと上に持ち上がっているのに、眉をひそめているせいで、なんだか泣き笑いをしているようで、そこがまるでアシカみたいだった。だけどそれはたぶん、全部僕の気のせいだったのだろう。
 やがて立ち上がった時には、飼育係からアシカのようなところはまったく消えていた。
「じゃあ、さよなら」
 いつもの、おやすみ、の代わりにこう言って、飼育係は部屋を出て行った。
「さよなら」
 僕は、閉まった扉に向かって、そう言った。
 今夜でサーカスは終わるのだ。もう別な町に引っ越すこともない。テントは畳まれ、永遠に開かれることはない。団員たちは去ってゆき、動物たちも元いた場所に帰ってゆく。
 そっと枕の下に手をやると、いくつもの薬の包みがカサカサと音をたてた。
 僕はもうずいぶん前から薬を飲むのをやめていた。そうして宝物のように、その一つ一つを大事に貯め込んでいった。
 音が大きくなるたびに、僕の体は軽くなり、心は希望でいっぱいになった。
 枕の下の薬の数が、引き出しの中の薬の数と同じくらいになったなら、きっと僕の願いは叶うだろう。
 アシカは僕から解放され、僕は僕から解放される。そして、サーカスも二度と始まることはない。
 なぜならアシカは僕のアシカなのだし、サーカスも僕のサーカスなのだから。
 僕がいなくなれば、サーカスはなくなり、アシカはただのアシカに戻る。
 そして、飼育係は、今夜、と言った。飼育係が言うのなら、それはきっと今夜なのだろう。
 だから僕は目をつむったまま、アシカのことを考えた。
 飼育係は、僕が願ったとおりに、アシカに伝えるだろう。
 サーカスは今夜解散する。僕は病院に引っ越して、学校に通う。そしてアシカは、海に帰る。
 アシカは訊くかも知れない。アシカがいなくて、僕が寂しがらないかを。
 飼育係は言うだろう。アシカがいれば、僕はいつまでもサーカスから離れようとはしない。アシカが海に帰ってしまえば、僕もあきらめてテントを出るだろう。
 きっとアシカは心配するだろう。これから僕の面倒は誰がみるのかと。学校や薬のお金は、いったい誰が払うのかと。
 飼育係は答えるだろう。アシカがそんなことを心配しなくてもいい。僕がこれから行く場所では、お金なんて必要ないのだから。僕だけでなく、そこにいる誰もが、払ったり払われたりしなくともよいのだからと。
 僕は知っていた。アシカは、自分を動物園に売って、そのお金で僕を学校に通わせるように頼んでいたのだ。飼育係がそれを僕に教えてくれた。
 だから僕は、薬を飲むのをやめた。僕とアシカが一緒にいる方法は、それしかないのだ。
 僕はアシカであり、アシカは僕そのものなのだから、アシカと僕は、離ればなれになるべきではないのだ。
 目を上げると、すでに天幕はとり払われ、深く澄んだ藍色の空が広がっていた。
 その下では、檻から放たれた動物たちの影が、おずおずと動き出している。
 遠くから見るそれらは、小さくて、丸くて、くるくると静かに回転していた。確かにそれはボールだった。さまざまな色に輝くボールだった。
 いつの間にか、上も下も、そんなボールの光でいっぱいになっていた。
 僕には、ようやく分かった。
 ボールこそ、僕たちがとるべき本当の姿なのだということに。
 トラも、ゾウも、鳥も、魚も、ピエロや飼育係さえも、かつては誰もが小さな一つのボールだったのだ。ただいつしかそんなことすら忘れてしまっていただけなのだ。
 だけど時がくれば、みんな元の姿に戻ることができる。
 そろそろ僕にも、その時がきたようだ。
 アシカももう、ボールにかえっているだろうか。
 そんなアシカを、僕は見つけることができるだろうか。
 でもきっと大丈夫だ。
 僕たちは、すぐにまた出会うことができるだろう。
 あたたかくて、満ち足りていて、どこからも守られている、世界中で一番うつくしい、あの場所で。
 帰ろう。
 みんなあそこに帰ろう。
 そうしてもう一度、ひとつになろう――――。

 二人の刑事が、車の中で話をしていた。
「平本さん。俺は、やりきれないですよ」
 助手席にいた年配の刑事が、答えた。
「事件はなんだって、やりきれないものさ」
「それにしても、今回の無理心中事件……。結局、心中を図った母親は助かって、子供だけが死んでしまいましたね」
「部屋の中で練炭を焚いたんだが、空気の密閉度が甘かった。それで体の弱い子供だけが死んでしまった」
「母親はこれからどうなるんでしょう」
「それは裁判で決まることだが、おそらく執行猶予つきで、五年程度の懲役判決が出るだろう」
「子供一人を殺した割には、軽すぎやしませんか」
「母親側にも、酌量すべき事情があるからな。子供は生まれた時から重い疾患を負っていて、成人まではとうてい生きられないと宣告されていた。それで将来を悲観して、というのが心中の動機らしい」
 若い刑事は憤慨したように言った。
「そんなのは親のエゴでしょう。寿命がいつまでにせよ、途中でそれを断ち切るなんて権利は、誰にもないはずです」
「無理心中なんてものは、全部エゴの結果だよ。……まあ、子供の父親とはずいぶん前に離婚しているし、女手一つで重病の子供を育てるのは大変だっただろう。仕事もいくつものパートをかけもちしていたようだ。実家とは疎遠で、相談する相手が周りにいなかったのも、追い詰められた要因の一つかも知れないな」
「被害者の少年は、十歳。学校なんかはどうしていたんでしょう」
「ほとんど行かせていなかったようだ。学校へは療養のためと説明していたようだが、本当のところは、母親の仕事の都合で登下校に付き添いができないというのが、主な理由だったらしい。そのあたりは学校や行政の責任も問われるところだろう。それから……」
「それから?」
「そもそも今回母親が用意した練炭の量は不充分で、部屋の中の一酸化炭素の濃度も高くなかった。医者は、子供でも、この程度のことでは命を落とすはずがないと首をひねっていた」
「どういうことです?」
「調べたら、子供の枕の下から大量の薬が発見された。子供がいつも飲んでいた薬だよ。どうも、ここひと月ほど、飲むべき薬を飲んでいなかったらしい」
「母親が飲ませていなかったんでしょうか」
「母親は知らないと言っている。ほかの証言を聞いても、それは本当らしい。子供はほとんど寝たきりだったが、ベッドの上で食事をするくらいはできたようだ。実際、母親は仕事で留守にすることが多かったから、子供は、食事をするのも、薬を飲むのも、自分でしていたんだ」
「じゃあ、子供が自分の意志で、薬を飲んでいなかったってことですか」
「理由ははっきりとは分からないがな。ともかく、もともと病弱だった子供は、そのせいで、すでに死の一歩手前までいっていたんだ。練炭による一酸化炭素中毒が、その最後のあと押しをしたというのも、間違いのないところだとは思うが」
 若い刑事は、ため息をついた。
「やっぱり、やりきれないですよ」
 平本は左へ目をやり、おや、と言った。車は海沿いの道を北へと走り続けている。
「どうしました?」
「今、波間に誰かが泳いでいるような影が見えた」
「まさか。もう盆すぎですよ」
「そうだな。目の錯覚だろう。もう見えなくなった。丸いものが二つ、浮かんでいるように思えたんだが」
「アザラシかなんかじゃないですか。よく話題になるでしょう」
「そうかも知れんな」
「そういえば、亡くなった子供が抱いていたのが、アザラシのぬいぐるみじゃなかったですか。ひどくボロボロになっていましたが」
「あれはアシカだよ。母親がずっと昔に買ってやったものだそうだ。子供はそれを肌身離さず持って、宝物のように大事にしていたらしい」
 若い刑事は首を振って、もう一度深いため息をつくと、運転に専念することにした。
 平本は、初秋の海に、白い波がいくつも立っては消える様を、黙って眺め続けていた。
〈了〉

2013/12/31(Tue)08:33:41 公開 / 狐ママン
■この作品の著作権は狐ママンさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
以前に投稿した作品の改稿版です。
そして某賞落選作です……。
こんな手垢のついた、しかも季節感ゼロの作品で申し訳ないのですが、大晦日ということで許してやってください。(関係ないって)
自分自身、文章力・語彙不足は分かってはいるのですが、これがなかなか……。
できれば改善点などご指摘いただくと助かります。もちろん、一言感想でも大変嬉しいです。
よろしくお願いします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。