『アンサリング 〜女子内暴力〜 【第3話(完結)】』 ... ジャンル:リアル・現代 サスペンス
作者:アイ                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 七月に入り、期末テストの結果がかえってきた。席次表から、美香は自分の名前を確認した。総合二位。一位は、彩音だ。三位に風宮、六位に礼紗、八位に由乃。つい教科別順位を確認したくなったが、美香はそれをこらえ、首をちいさく振った。粗探しをしても、自分が虚しくなるだけだ。
 驚いたのは、十八位に夏樹の名前があったことだ。これまで席次表とは無縁だった夏樹が、自分たちと同じ表に名を連ねた。そのことが美香をいらだたせた。どうせ彩音に勉強を教えてもらったのだろう。彩音のことは譲歩する余地があっても、夏樹は別だ。この場所に這いあがってくることは、許せない。
 教室に入ると、礼紗を含む友達が何人も「おはよう」と声をかけてくれた。「二位だったね、凄い」「さすが美香」と次々に褒めてくれる。美香は照れたように口元を手で覆って「やめてよ、くすぐったい」と言った。
 自分の席で友達に囲まれ、あれこれと雑談をする途中、初めて彩音の席を横目でうかがった。彩音は、いた。由乃と、何人かの女友達と、そしてなぜか夏樹と一緒に。向こうも休戦を考えているのか、一切こちらを見ようとしなかった。やがて風宮が登校してきて、ここ数日の出来事など忘れたように明るく彩音に声をかけていた。そのことがまた、美香を焦らせた。
 だが、考えればいくらでも懸案事項は増えるのだと分かり、美香はもう何も考えないことにした。夏休みまでのあと半月、彩音のコミュニティー内にいる人間とは一切関わらない。心を落ち着かせる。気分がふっきれたら、夏休み明けにまた彩音に会う。そのときに大人になった自分でいるためにも、マイナスの要素を孕むものとは距離を置きたい。
 美香の試みは思いのほか円滑に運んだ。七月に入ると短縮授業が多くなり、追試を受ける生徒や部活組以外は正午に下校する日が何度もある。ほとんど彩音と顔をあわせずにすむ。無論、美香たちは追試とは縁がない。結果、通常授業で彩音を避けて過ごす以外は、気楽な二十日間をすごした。
 最初こそ、彩音と関わってはいけない、という強烈な自己暗示が逆に彩音へ意識を向けてしまう結果になり、以前よりずっと彼女を気にしてしまっていた。だが三日も経つと彩音を視界から排斥することも楽になり、いつしかまったく気にならなくなった。些細なことで苛つくこともない。彼女がいなくても日常は成り立つことに、最初の二、三日は寂しく感じた。一緒に弁当を食べられるグループは他にもあるし、褒めたり持ちあげたり、面白い話を共にしたりする友達も多い。だから彩音はもう必要ない、というわけでは決してないことに気がついた。代わりが効くからこそ、彩音を選んで一緒にいたことに意味があった。彩音からは、言葉で説明する必要のない部分で影響を受けていたはずだ。結局は友達の定義も不明瞭なのかも知れない。
 彩音と一緒にいる理由、なんて深く考えなくてもよかった。女の友情は脆く手軽だからこそ、理由は必要ない。友達になる理由は、いずれ絶交する理由に取って代わるのだから。
 終業式当日、誰もが花火大会や夏祭りや海などの予定を持ち寄って、スケジュール帳をどんどん埋めていく。美香も大勢の友達とひとつの机を囲み、夏休みの計画を立てていた。それは彩音も同じで、彼女も由乃たちと机を囲み、楽しそうに談笑していた。
 離れてみて分かったことがある。話を聴く側になると彩音の毒舌ばかりが気になるが、第三者として彼女の話を聴いていると、人を褒める回数が多いことに気づく。アクセサリーや文具をさして「それかわいい」「どこで買ったん?」は日常。特に髪型は日ごろからよく見ているらしく、崩れそうになったら修正してあげたりもする。普段の会話でも、「それすごいやん!」「もっと詳しく教えてや」「ゆっこがおらんとできひんねん」など、人が喜ぶ言葉を頻繁に使っている。おそらく意図して多用しているわけではない。素直だからこそ自然に使える言葉だ。
 常時一緒にいると、彩音の嫌味な物言いばかり耳につく。彼女に褒められたことだって何度もあるはずなのに、すぐには思い出せない。だけど自由人な彩音のことだから、自分がいつどのように美香を褒めたかなんて、きっと覚えていない。
 悔しくはあったが、妬みに変わる前に諦められた。人を無尽蔵に褒められる彩音の優しさは、屈託のない笑顔が似合う彩音だからこそ美しくなる。自分がそれをコピーしても贋作にしかならないし、そのために己の特技を探す時間を潰してしまいたくない。

 夏休みに入ると急に力が抜けた。それは毎日昼近くまで寝ていられて、溜めこんだ本を好きなだけ読めて、どこにでも遊びに行けること以上に待ち望んでいたことだった。これからしばらく、彩音のいない夏を満喫できる。
 初等部時代から、夏休みの宿題は七月中に終わらせている美香。このやり方に賛同しているのが礼紗で、八月一日までの十日間、彼女はほぼ毎日美香の家にやってきて宿題をした。元々どちらも勉強が得意なので、一日のノルマは夕方までに終わってしまう。
「どんなもんですか、彩音と離れてみて」
 礼紗がペンの尻を唇に当てながら言った。美香は「意識改革にはなるよ」とかえした。
「同じグループにいたらイラッとするばかりだったけど、他人として彼女を傍で見てると、前は気づかなかったようなことに色々気づいて、楽しいっちゃ楽しい」
「あたしも同じ」礼紗は問題集にペンを走らせながら苦笑する。「初めて会ったときの気分に近い。明るくて楽しそうな子だな、っていうあれにさ。いちいち彩音の言葉に受け答えする必要がなくなって、気楽になったし」
「そっか」礼紗は微笑んだが、その眉間は前髪の下でちいさく寄せられていた。
 美香は親友の横顔をじっと見つめた。ギャルのような外見で入学当日からクラスで浮いていた彼女に、美香が初めて声をかけた。派手な見た目に反し正義感が強く、情に厚い。頼りがいのあるお姉さんという感じだ。あっさりした性格は感情的な美香の欠点を埋め、礼紗は美香の丁寧さに感化される。
 別に彩音がいちばんの親友でなくてもいい、という考えは、一日じゅう礼紗と一緒にいるうちに辿りついた。すべての友達を平等に愛すべきだとか、どこからが親友でどこからが友達なのかとか、細かいことにこだわっているから自分の中で勝手に相手と線をひいてしまうのだ。そのことに気づけたぶん、彩音には感謝したい。
 宿題が終わると、友達と夏祭りに行ったり遊園地に行ったりと、休暇を満喫しはじめた。特に塾にも行かず、勉強は自力でしていた。そんななか珍しく何も予定がなく、家でごろごろしている矢先にカレンダーを見て気がついた、妙に目立つ赤マル。明日、八月十日、登校日。風鈴が、蝉が、日差しが、赤マルをなぞるように鳴く。
 登校日は基本的に全員登校が原則だ。必ず、彩音と由乃と夏樹の面々と再会する。距離を置く期限は夏休み明けまでと決めているが、少しなら話してもいいかも知れない。今の気分は穏やかで優しい。過剰でなければ彩音の毒舌ぐらい、許せるはずだ。そうして許せた自分を見て、さらに自信をつけたい。大人になってゆく自分を。
 美香は扇風機の風にあたりながら、パソコンを立ち上げる。インターネットブラウザをひらいて、ふと左側に表示されたサイドバーのお気に入りに目が行く。
 この一ヶ月と少し、ツイッターをほとんど更新していない。その理由として、いじめから逃れて充電期間中ということにしている。励ましや応援のリプライは今も届けられる。煽るネタがなければ飽きられるのも早く、八月に入ってからはほとんど荒らしリプライがなかった。もし送られてもすぐにブロックし、ファンからのリプライにのみ返事をする。りぃのブログで荒らしと喧嘩をしても、以前ほど熱くなれずにすぐにやめた。
 考えかたが変わっている。そう分かるほど「みぃな」に依存しなくなった。
 美香はお気に入りのサイドバーからツイッターにアクセスした。ブログを閉鎖するよう勧めた歩美からも『ゆっくり休んでください』とリプライが来ていた。ああ、やっぱり切り捨てなくてよかった、と思いながらスクロールしてゆく。安易に切れるネット上の関係だからこそ、自分を愛してくれる人を大切にする。そのことに意味がある気がした。
 荒らしがいないだけで、ずいぶんと心が落ち着く。余裕が生まれる。明日はうまくいきそうな気しかしない。きっといつかは彩音や由乃、そして夏樹とも和解できるだろう。時間さえかければ誰だって過去を悔み、心を入れ替える。そのとき、私が許せばいい。
 ――もしそのときが来れば、あの夏樹と、私は友達に戻る気になれるだろうか?
 想像がつかないことは、決してその可能性がないという証拠にはならないのだけど。
 こういう元気なときこそ、好きな人にめいっぱい自分を売りこめる。そう思った美香はケータイをとり、風宮にメールを打った。『今日、午後から暇?』
 ちょっとカフェでお茶するだけでもいい。ショッピングに連れて行って、さりげなく風宮の好きな女子の服のタイプを聞きだすのはもっといい。まずは無難な服を選ぼうとクローゼットをあけたとき、風宮指定の着信音が部屋に響いた。
『ごめん、今彩音たちと一緒にダッシュフェスタにいるんだ。また明日会おう』
 おっと、と美香は首をかしげそうになって、やめた。自分を納得させるようにそのまま縦に頷く。風宮も彩音も漫画が好きで、「少年ダッシュ」を交換していて、だから別におかしくない。友達なんだから、当たり前のことだ。何度も何度も首を縦に振り、片手で素早く風宮からのメールを削除する。
 今の自分は落ちついている。心穏やかに、事態を客観的に見ることができる。だが美香の目には、適当な服を着て色気もなく風宮と馬鹿笑いをする、邪気のない彩音の姿がうつった。ちいさな波紋を打ち消すために水の中に手を入れたら、もっと大きな波ができてしまうと分かっているから、美香は自分が送ったメールも削除した。
 少し遅れて、後悔する。もう読みかえせないが、風宮のメールには確かに「彩音たち」と書かれてあった。彩音は今、何を知っているのだろう。
 
 ずいぶん久しぶりに袖を通す、夏服の白いワンピース。夏らしい快晴、新品の空気。しかし気分は上の下といったところだろうか。八月十日のけだるい登校日。駅から学校までの長い並木道を抜けながら、美香はスマホをいじっていた。ツイッターに送られた『大丈夫ですか?』『どうしてみぃなさんにばかり』などというリプライに、ひとつひとつ返事を送る。ただ一言『昔私をいじめた子からまだ因縁をつけられていました……もうやだ』とつぶやいただけなのにこの反響だ。フォロワーも千を超えた。いじめから解放される夏休み、誰もが傷を舐めあってくれる人を探しているのかも知れない。
 教室に入ると、ほとんどの席が埋まっていた。すぐに彩音と由乃の姿を探す。すると、窓際で楽しそうに談笑しているふたりを見つけた。だが、彼女たちは一度もこちらを見ない。当然だ、時間を置いたとはいえ、彩音がすぐに態度を変えられるとは思えない。話しかける準備をしていただけに、少し残念だった。しかし、自分にできることを彩音に強制しない。そんなことをしても、また新しい諍いの原因になると分かっている。
 ゆっくりでいい。夏休みが明けてからでもいい。永久に牽制しあったまま過ごすより、卒業式のときに笑ってプロフィール帳を交換できるようになれたら、それだけでじゅうぶんに友達と言えるのではないか。
 先に登校していたらしい礼紗に「学校では久しぶり」と声をかけられる。美香が返事をするより早く、礼紗は耳もとで「講堂行く前にちょっとやりたいことがあっから」とささやいた。美香が詳細をたずねようとしても、彼女は口元で人さし指を立ててあたりをうかがうだけだった。
 チャイムが鳴り、全校集会のためにクラスメイトたちが教室を出ていく。美香も講堂用シューズを用意し、廊下に出た。だが、日直が教室の鍵を閉めたとき、礼紗が「あっ、しまった」と声をあげた。
「講堂シューズ、中に忘れたし。やっば」
「あ、じゃあもう一回あけようか」日直の女子が笑顔で、ふたたびドアをあけた。
「ごめんごめん、先行ってていいよ。鍵はあたしが閉めてくからさ」
 よろしくねー、と言って日直は廊下の人ごみにまぎれていった。礼紗と美香はふたりで教室に入り、ドアを静かにしめた。
「二分でできる」その低い声に、礼紗の覚悟がうかがえた。「彩音と由乃のケータイを見るよ。犯罪すれすれだけど、すでに盗撮と会話の録音までした。もうじゅうぶんだよ」
「何を」美香はさすがにうろたえた。二十日前に葬った、腹の中に虫を飼っているようなあの違和感が、ふたたび食道を這いあがる。
「美香はブログを閉鎖したから、もうIPを探せない。だけどツイッターは自動ログインができたら、そのデバイスの持ち主のアカウントが分かる。荒らしのリプライと同じアカウントだったら、ケータイと画面の写メ撮る。ツイッター、今も荒らされてんでしょ?」
 自動ログインとは、毎回ユーザーIDとパスワードを入力せずとも端末情報を登録しておけば、アクセスするだけでアカウントにログインできる機能だ。
「そうだけど、今はほとんど落ちついてるし、私もあんまり気にしなくなってきたの」美香は焦って早口になる。「もう大丈夫だよ、礼紗。今は必死で抵抗するときじゃない。それに、本当に犯罪ギリギリじゃない」
「夫の浮気で裁判を起こそうとしてる人がよくやるらしいんだよ。こないだ録音した音声ファイルも合わせて、これで彩音たちを完膚なきまでに黙らせられる。やろうよ。ここまでしたら、あいつら転校とかして、もう二度と顔合わせずに済むよ」
 礼紗はどこか焦ったように踵をかえし、彩音の机にかけられた鞄をあけた。美香はどうにも納得がいかないまま、彼女の元へ歩いていった。必死になって彩音の鞄の中をひっかきまわす礼紗は、何かに追い立てられているような、誰かを痛めつけるためというよりも自分が痛めつけられないためにバリケードを作っているように見えた。
 何があったの、礼紗。そうたずねるより早く礼紗が「ちくしょう」と舌打ちする。
「あいつ、ケータイ持ってってやがる。集会中にバイブ鳴ったらどうすんだよ」
 実際、それで何度か没収された生徒がいたので、教室に鍵がかかるのをいいことにほとんどの生徒が教室に平然とケータイを置いていく。それを見越しての策だったが、彩音に人類の常識が通じないことを思い出す。
 礼紗は彩音の鞄を元に戻し、今度は由乃の鞄に手を突っこんだ。さすがに止めるべきなのか、と美香は悩んだ。これで荒らしの証拠が見つかったとて、他人の鞄を漁るような人間だと批判されるのは嫌だ。会話を録音するのは被害者の正当な対処法だと思うが、人のケータイを覗き見るのは後ろめたさが残る。しかし礼紗は「あった」と短く叫び、由乃のケータイのロックをスライドさせた。
 止めるか、共犯者となるか。迷うあまりに硬直して動けなくなる。そのかんにも礼紗は手早くツイッターにアクセスした。ページの下部にあるアカウントの表示を確認する。
 美香は、これは礼紗のやったことなんだから、と自分に言い聞かせて、そっと彼女の手元を覗きこんだ。もう何が出てきても驚く気がしなかった。

   * * *

 平穏な時間は踏まれて強くなる。コンクリートを音もなく突き破るタンポポの花のように。違和感も変貌もさびしさも、すべて静かな大地の下に隠してしまう。
 二十日間などあっという間に過ぎた。いつ来たのか分からない春や秋のように、足音を聴くまでもなく、気がつけば「明日から夏休みですが気をしっかり引き締めて」しかじかと校長が言い連ねる全校集会で眠気をこらえて立っていた。明日から夏休みだー! と騒ぎ、はしゃぎ、机を倒す。いつもの光景。友達はみんな空気を読んで美香の話題を一切出さないし、自分もあえて彼女を見ないようにしていた。最初こそ、彼女が視界に入ると以前より苛立ったものだが、それは時間がすべて解決してしまった。友達の数なら美香に負けない。あえて「いつも通り」を、別の女子たちとくりかえした。美香も同じ心境だったのか、まったく話しかけない。悪口の手紙もぴたりとやんだ。単純な結果だ。
 これまでも、どうしても合わない子たちから何度も嫌味を言われたが、さすがに高校生にもなると距離の置きかたも覚えた。人間関係は、仲良くするか対立するかの二択ではないのだ。みんなと仲良くしないといけない、仲間外れを作ってはいけない、と小学校の先生が言っていたことが抜けず、今になっても引きずっていた。自分もクラス全員から無視されたことがあるので、美香と距離を置くことに幾許かの後ろめたさもあった。だが、もし一緒にいて互いに苦痛になる関係なら、関わらないという第三の選択肢がある。
 そう割りきり、「美香と無理に仲良くする必要はない」という心持ちで教室にいると、彼女のことをむしろ考えずにいられた。友達のことを考えない、放っておくということが罪悪に思えていたが、一度許すと楽になる。「友達」の束縛をゆるめると、逆に美香の一挙手一投足が気にならなくなった。自分の心身の平安を優先すると、余裕も冷静さも手に入り事態を達観できる。日本人は和と協調を重んじると言われるが、社会的には他者に対し冷酷で干渉を嫌う。「友達に囲まれたい」と「自分らしく生きたい」の白黒で揺れていた彩音の価値観に、これまで嫌っていた日本人的発想を加え逆手にとった結果だ。
 ただの一クラスメイトとして美香を見るようになると、旧家のお嬢様という疑いようのない身分を改めて認識させられた。例えばいただきますとごちそうさまは欠かさず、物を拾うときは必ず膝を曲げてから取り、教師に対して軽口など絶対に言わない。授業中にペン回しもしない。背筋を伸ばし、指先をそろえ、顎を引く。笑っていても、必ず口元を手で隠す。自慢口調を差し引くと美香の言葉遣いは洗練されていて、前向きな意味の単語を多用して会話の彩度を落とさない。悪口に乗らないどころか、さりげなく他の話題に切り替える。相槌や質問のタイミングも絶妙だ。それは、彼女と一緒にいたときにはほとんど気づかなかった、あるいは気づいていても見ようとしなかったことだ。
 ごく普通の労働者階級の家庭に育ち、公立小学校でひたすら遊んで過ごし、両親と共に野球中継を見ながらちゃぶ台を囲む。そんな自分とはまったく別世界の人間だ。よく食べよく遊び、漫画を読んで、ひねくれた毒を孕んだ自分には到底追いつかない壁があった。彩音がいくら素敵な女の子に憧れても、何度も現実を突きつけられ、観念した。
 同率一位が嬉しいという単純な気持ち。今、そのときのふわふわとしたあたたかい気持ちを少しだけ思い出す。あんなふうにはなれない――それも割りきりのひとつだった。
 瓦礫から都市を築いた関西の街。弔いの涙も笑いに変える人々。阪神淡路大震災の傷が癒えぬ一九九六年の故郷に生まれ、町の復興と未来の再建にのぞむ活気の中で育った彩音。ただひたすらに明るく、笑って、自分を偽らずに生きてきた。それでよかったのだ。今の彩音のように生きることで救われた人やものが、確実にあったのだ。いじめられていた過去を否定してしまえば、そのとき大切だったものも簡単に否定できる。今も大勢の友達に囲まれて、毎日誰かを笑わせている。今の自分を完全に捨てきれるほど、憧れている人物像ははっきりしていない。
 きっと、無理をして美香のような女の子に近づいたとしても、それはおそらく裏切りになるのだろう。故郷でも両親でもなく、美香を友達に選んだ自分自身への。入学式で握手をし、二年の新学期に話しかけたときの自分に、打算などなかった。
 ただ「友達になりたい」という願いだけが、薄暗い憧憬よりも鮮やかだったのだ。

 夏休みの宿題は毎日数ページずつこなして着実に片づける派の彩音は、七月十九日の終業式を終えるやいなや自宅で着替え、友達と町にくりだした。ウィンドウショッピングをし、ファストフード店で延々としゃべる。友達の家に漫画を持ちより、ジュースを片手に笑い倒す。時には誰かの家に泊まり、誰かの親戚のお姉さんに連れられて海へ行き、誰かのおばあちゃんの田舎に遊びに行く。ひとりのときはアニメを見たり、ゲームをしたり、漫画を読んだりしてすごした。夕食を食べてから深夜アニメがはじまるまでの数時間が勉強タイム。目覚ましをかけずに寝ていられる至福の長期休暇。
 ふたりの確執を知っていることを美香に気づかれないようにするために、学校ではあまり話さない夏樹。彼女とも、休み中は堂々と会えた。大きな事件が何度もあった一学期が終わり、夏樹の表情に明るい笑顔が戻ってきた。風宮の家に何度も遊びに行っているらしく、心に余裕が生まれてきたことがうかがえる。由乃と元気に笑いあう夏樹を見ていると、この笑顔を守りたい、と心底思う。ネットでどれだけ攻撃されようが、美香から嫌がらせされようが、自分なら耐えぬく。だけど、夏樹のちいさな身体に同じ重圧がかかったらひとたまりもないだろう。それを恐れているから、なおさら何度も首を振る。
 最低限、みぃなのツイッターや掲示板の祭りの中に、夏樹が餌として放りこまれないように警戒するばかりだ。可能性は低いが、美香とのつながりがある以上、ポジティヴではいられない。今でも美香のツイッターやりぃのブログはチェックしている。
 しかし今――貪るように美香の荒探しをする気にはならなくなったことは、自分でも少し驚いている。だけど、納得はしていた。
 結局のところ、何もかもが自分に跳ね返ってくるのだということを痛感した。返り討ちに遭うだけじゃない、泉に少しずつ絵の具を垂らすように、ゆっくりと、人を傷つけたぶんだけ自分の心が濁ってゆくのが分かる。
 美香を討ち取ることが正義だと思っていた。だが実際は違う。でなければ、良太に「笑っとる」と言われることもなかった。ネットで美香を叩くことにそれっぽい言いわけをしていても、余計に自分がちいさく見える。
 美香はツイッターをほとんど更新せず、たまに書いても無難な日常のことだけ。煽られることもない。そこから必死で荒らす要素を探すことはもうしない。的もないのに銃弾であろうとすることは、銃声への執着が剥きだしで恥ずかしいから、やめた。
 宿題も半分が片づいた、八月九日の晴れた午後。化粧もせず適当なTシャツでぐうたらしていると、由乃と夏樹がふいに遊びに来た。由乃は夏休みだというのに、地味なデニム姿である。夏樹は予想に反して、ボーイッシュなファッションで固めている。
「どした。このくそ暑いなか」
「いや、元気してんのかなって思って」由乃はひとつしかないクッションの上に座る。「どうせ彩音、深夜アニメばっかり見てるんだろうけどさ。しんどくないかなって」
「観優香ん家のバーベキューで言うたけど、美香とは連絡とってへんよ、さっぱり」
 彩音があまりにもあっけらかんとしてこたえるので、夏樹はため息をついた。
「心配してたほど、思いつめてない系?」
「色々悟りをひらいたんよ」彩音は三人ぶんのジュースが載ったトレイを机に置く。「それに、やっぱ思うねん。美香のこと、完全には嫌いになられへんのやろなって」
「完全に? つまり、中途半端には嫌いになれるってことなの」夏樹が首をかしげた。
「誰に対してもそうちゃうの。完璧超人なんかおらんで。美香の嫌なところなんかポコポコ出てくるけど、やからって彼女の長所がゼロなわけちゃう。それを『でも美香には実はこんな欠点が』って言って潰すのってあかんやろ。そこ分別つけたら楽になったわ」
 それはこれまで自分に向けられた奇異や嫌悪の視線に対する文句でもあった。由乃は力が抜けたように、ため息混じりに苦笑した。
「まあ、少しは冷静な考えかたができるようになったんじゃない。いいことだよ」「由乃、褒めかたがうまい。褒美をとらす」「ありがたきしあわせ」「はいおにぎりせんべい」「一枚だけかよ」「ポケットに入れて叩いてみ」由乃と彩音のやりとりを見て、夏樹が笑う。
 夏休みは日本全体がぐったりしている。ベランダに干された布団のように、空気がそのまま夏の日差しに蒸発されていく。世界が、夏の猛威を前に崩れていく音が、した。すっかり蝉の鳴き声を聞かなくなった都会の夏が、息絶えたようにごろりと足元に転がる。秋の訪れを待たないうちに。
 その後、すっかり遅くなるまで三人はただひたすら喋っていた。くだらない話で何時間でも楽しくすごせる。彩音の両親が作った夕食を食べ、由乃と夏樹が帰るころには九時をまわっていた。「お母さん、迎えに来てくれるって」夏樹はケータイの電話を切ると、笑顔でそう言った。夏樹は彩音の自宅とは反対側の町に住んでいるので、特急に乗っても四十分以上かかってしまう。由乃は電車で二駅なので、彩音と夏樹は玄関先まで彼女を見送った。別れの言葉は少なかった。明日は登校日で、どうせ学校でまた三人とも会える。
「じゃあまた明日」「おう、ほんならね」「バイバイ、由乃ちゃん」
 駅までの道をゆく由乃の背中を見送ったあと、夏樹が「ありがとう」と言った。
「今日は楽しかった。女友達のうちではしゃいだのなんて、久しぶりだよ」
「んなアホな。なっちゃん、女子にもめっちゃ人気やん。およばれしとんのちゃうの」
「まあ、女友達はいるけど」夏樹は困ったように笑う。「休みの日に一緒に遊んでくれるほど仲良くないんだよ。学校限定。男子が混じるとカラオケとか行くんだけど」
 なるほど、とすぐに納得がいった。同時に呆れた。風宮の幼なじみポジションがそんな羨ましいんか、でもかわいいなっちゃんの友達っていうポジションは手放したくないんか、女子ってエグいわ。
 めんどいなあ、とつぶやいたとき、近づいてきた車が二回パッシングをした。ふたりの前で停車した白いセダンの中から、夏樹によく似た美人の女性が降りてくる。
「お母さん、よく住所だけで分かるよね」夏樹が苦笑して言った。
「カーナビアプリが想像以上に高性能だもんで」夏樹の母は子供のように笑った。「そこの美少女が、夏樹が言ってた彩音ちゃん? どうも、娘が毎度お世話になりまして」
 優しい主婦というよりはデザイナーのような風貌と妙なテンションで、夏樹の母は少女のように笑った。「んじゃ、姫野家産のお姫様を城に連行しますかね」
 そのとき、夏樹が「あっ」と声をあげてバッグの中を手でひっかきまわした。
「ケータイ、彩音ちゃんの部屋に忘れてきちゃった。ちょっと取ってきていい?」
「あ、ええよ、うちが見てきたるわ」
「大丈夫。ちょっと待ってて」
 夏樹は踵をかえし、彩音の家の中に戻っていった。夏樹の母がおかしそうに笑う。
「あの子、いつもどっか抜けてんだよねえ。なーんも考えてなさそうで」
「いや」彩音はつい苦笑する。「考えてますよ。いつもうちのこと支えてくれるし、今日かてうちのこと心配して遊びに来てくれたんやし。家こんな遠いのに」
「そうだよねえ、引っ越してから学校もだいぶ遠くなったし」
 そういえば、と彩音はふと思いついたことを口にした。本当に、悪意はなかった。
「なっちゃんって風宮の幼なじみなんですよね。聞いた話やと、ごく最近までマンションのお隣さんやったけど、中等部のときに引っ越したとか。なんかもったいない」
「ああ、うん、私ももったいないって思ったんだけどね。夏樹、修一くんとは仲いいし」
 夏樹の母は表情を曇らせ、ヘッドライトをつけたままの車に視線をやった。彼女は肩をすくめて、まあいっか、とつぶやく。
「誤解しないで欲しいんだけど、夏樹と修一くんの仲が当時悪かったとか、親同士がどうとか、そういうのじゃなかったの」
「ああ、うん、分かります。あのふたり、だいたいいつも一緒におるし」
「夏樹が高等部にあがるちょっと前の冬かな。よくあるご近所トラブルみたいな感じでね。多分、他の入居者さんの怒りを何かで買っちゃったんだろうな。ちょっと変な嫌がらせがつづいて、マンションの管理人さんもどうすることもできなくて、警察は『誰かに恨まれてるんじゃないですか』ってだけでいちいち捜査してくれないしで、結局家族ごと離れることになったの。夏樹は学校が遠くなったけど、私の職場はむしろ近くなったから、大きな問題にはならなかったけどね」
 彩音の家から、階段を降りる低い足音が聞こえる。心臓の音のように、低く、静かに。夏樹の母は俯き加減だった顔をあげ、頬を膨らませて息を思いっきり吐いた。視線だけは、しっかりと何かに向いていた。夜空の奥に放置された星を、ただじっと見ているようにしか見えないけれど。
「ご近所トラブルってよくあるらしいから」彼女は気分を立て直すように、明るい声で言った。「彩音ちゃんもアパートでひとり暮らしとかするようになったら、夜中に音楽聴いたり、変な車の停めかたしたら駄目だよ」
 夏樹が玄関のドアをあけて「お待たせ」と入ってくるその直前、夏樹の母は目尻をさげて、眉間を寄せて笑っていた。いろんなことを考えていたせいで、「怖いですね」としか言えなかった。ふりかえると、夏樹がケータイをちゃらりと振って「机の下にあった」と言い、無邪気に笑った。彩音はどうにか笑って、彼女の肩を叩いた。

 悶々と過ごした夜が明けた、八月十日の朝。だだっ広い講堂にクラスごとに並び、校長の長ったらしい話を一切聞かず、彩音はずっと考えこんでいた。昨日、夏樹の母が話してくれた、姫野家がマンションを出ていったことについて。ただの邪推か偏見か、何度も何度も、できれば考えたくない方向に思考が飛びそうになる。それを抑えるも、自分が望む望まないに関わらず、そういった結論に向かうことが一番嫌だった。特に、今は。
 冗長な集会が終わり、ドアに近いクラスの生徒が先に講堂を出ていく。他の女子と喋りながら順番を待っていると、背後からぽんと肩を叩かれた。
「彩音、さっき、ケータイいじってただろ。見てたぞ」
 いたずらっぽく笑う風宮。彩音は急に力が抜けて、すんまそん、と頭をさげた。
 風宮は周囲を軽く見わたし、数歩、その場を離れた。そして、生徒の騒ぎ声に紛れるように彼は少し声のトーンを落とす。
「お前さ、今は美香と休戦してるっぽい? 夏休み前から、ふたりともしゃべんないし」
「うん、そんな感じ」彩音も周囲を確認した。「でも、今やるべきことは前の問題とは関係ないねん。ちょっと事情変わったしな」
 前の問題? と風宮にたずねられ、ネットの荒らしがどうこうってやつ、とこたえた。
「あの話は正直、もうどうでもええ。うちが悪いってことになっとってもええし。今はちゃう。美香をボコりたいんは、うちひとりの個人的な怨恨ちゃうねん」
 彩音は、風宮に夏樹のことを説明するかどうか迷った。夏樹と風宮は幼なじみで、誰よりも仲良しだ。だが夏樹のことだ、心配をかけるまいと、美香に殴られたことを風宮に話していないかも知れない。もし意図があってそうしているとすれば、安易に話すと夏樹が悲しむだろう。彩音は話題をそらした。
「なあ、風宮。なっちゃんって、初等部んときはどんな子やったん?」
 はいじゃあ三組退場してください。マイクを通した学年主任の声に、誰もがほっと一息つき、雑談の声を大きくして講堂を出ていく。その波に乗りながら、風宮は話した。
「あいつは見てのとおり大人しいし、のんびりしてる。でも初等部のときは今よりも外交的だったから、地味にモテてたぞ。実際、何回か告白されてたし」
「嘘やん。なんか意外。今まで誰とも付き合ったことなさそうやのに」
「いや、告白オッケーしたことはない」
「そんだけよお知っとって大事にしとるんやったら、美香の肩持つことないやん」
 風宮がぴたりと足を止めた。後ろから次々歩いてくる生徒が、迷惑そうに彼を避けていく。すぐに再び歩きだした風宮だったが、「なんでって」と言う声はちいさくなっていた。
「見とったで。最初にうちが美香と教室で喧嘩したとき、風宮が美香と礼紗連れてどっか行くんを。風宮のことやし美香を説得すんのかと思ったけど、あれ以来、美香の嫌がらせが変な方向に曲がった。違うんやったら否定してな。風宮、美香になんか言うた?」
「何も」風宮は間髪いれずこたえた。
「具体的に言うで。美香な、うちと美香の会話を録音しとってん。証拠になるとか、ネットに流すとか脅迫するためにな。あと、うちの昔のこともちょっと調べて、変な弱み握られたわ。うちもさすがにそれでビビったんやけど、よく考えたら録音作戦、風宮が出したアイディアちゃうかなって」
 風宮は講堂シューズを脱ぎながら、しかし何も言わなかった。動揺しているようには見えなかった。やがて、彼はよりはっきりした声で「それはたぶん」と言った。
「礼紗だ。あいつ、作戦がある的なこと言ってたから」
 それは幾分か納得がいく話だった。おそらく礼紗が美香にスマホでの録音を提案し、自分は彩音の昔の写真を探したのだろう、と思った。礼紗は徹底的に美香派だ。
 風宮が「俺は別に」とつぶやいた。
「片方に味方するつもりはねえよ。てか、俺とお前が喧嘩してもしゃあねえだろ。俺、お前に嫌われたら今後、どうやってお前から毎週ダッシュを借りればいいんだ」
 逃げるような冗談を言う風宮を、彩音はぎろりとにらみつけた。
「いやさ、単純に、今まで親友同士だった美香と彩音がいがみあってるのが嫌だし、未熟ながら間に入ろうとしてるだけだよ。美香が彩音を痛めつけるのは許さないし、和解の道があるならそれを探ろうと思う。それに、なんでそれが夏樹と関係があるんだよ」
「風宮、なっちゃんは美香が苦手やねん。苦手どころか、もう二度と会いたくない、話したくないってぐらい、美香のことを怖がっとんねん。気づいとったやろ」
 渡り廊下を抜け、高等部の廊下に出るまで、風宮は黙っていた。それは、たった今気づいて愕然としているのを隠しているようにも、知っていたが彩音がそれに気づいていたことに驚いているようにも、さまざまに見えた。無造作に鍵盤を叩いたときの音のように。やがて音は濁り、彩度を落とし、雑音に限りなく近くなってゆく。
 彩音と風宮は、同時に足を止めた。
「風宮も見たやろ、美香がなっちゃんにボロクソ言うとこ。美香もなっちゃんが嫌いなんやろな。当たり前やけど。風宮、なっちゃんの幼なじみなんやったら、下手に美香に同情せんとって。美香だけはあかん。あの子はほんまに非情や。何年経ってもいつまで経っても恨んで、なっちゃんのこと追いつめる。なっちゃん、めっちゃ泣きそうやってんて」
 表情をゆがめ、彩音は風宮のワイシャツの胸倉をつかんだ。暴力的ではなかったが、すがるような手つきだった。
「頼むわ、ほんまに。なっちゃんから美香を遠ざけたって。なっちゃんを助けよう。うちなんかいくら殴られてもええから、なっちゃんがもうこれ以上傷つかんように」
 風宮は困惑したような顔をして、「彩音」とつぶやいた。だけど、それ以上何も云わなかった。頼りなさげな目をしている。この草食系で、女子にちやほやされている学園の王子様が、急に情けなく見えてきた。なぜ、なぜと問いただしたかった。
 だが、その言葉は口に出せなかった。風宮が彩音の肩越しに何かを見つけ、目を見ひらく。彩音がふりかえると、背後に美香が立っていた。仁王立ちで、無機質で感情の読めないマネキンのような表情をしていた。彩音と美香は一ヶ月ぶりに対峙した。眼球だけがつるりと光を反射し、肌と唇は油絵の具を塗ったようにツヤがない。肩まで伸びた髪が、他の生徒が通り過ぎるときに少し揺れる。見ていないものをすべて吸い込みそうな、その漆黒の瞳。まばたきもせず、身じろぎひとつせず、まっすぐに、一ミリもぶれずに彩音だけに向けていた。アサルトライフルのスコープ越しに睨まれた気分だった。
 ぞくり、と背筋に寒気を感じる。美香の目に腹をえぐられている。美香は何も言わなかった。だが、それがすべてだった。おぞましいほど一途な雑音がそこにあった。しばらくして、彩音はそっと風宮のシャツから手を離す。ここで何か言葉を口にすればちぎれてしまいそうな糸に、彩音は首を絞められかけていた。許されずにいた。
 そこには何もない。――うつくしく純粋な殺意だけが横たわる。
 やがて美香は目線を彩音から離さないまま、ゆっくりと踵をかえした。彼女の凶器じみた目から逃れられた彩音は、その場にへたりこみそうになった。美香の目は鬼神のそれに似ているのだろうかと思った。相手を嫌い、憎むことなど学校ではよくあることだが、美香は違った。あれはもっと純度の高い、自分たちの知るものとはべつの「嫌い」だ。今まで一度も見たことがない、人の、人間の歴史たらしめてきたもの。
 彩音は美香のうしろ姿を見ていた。なぜあんな目を、と思った。嫌な予感に悪寒が重なる。風宮のとめる声もきかず、彼女を追って、彩音は早足に歩きだした。

 靴の裏からガツガツと振動が伝わる。痛い。身体がめりこんでしまいそうだ。気にしなければいいのに、そんな些細なことすらわずらわしい。美香は早足に、力強く、大股で廊下を歩いてゆく。普段はあまり歩幅をひらかないのに、ただ驚いて、苛ついて、どうしようもなくて、自然と床に足を叩きつけながら歩いてしまう。すれ違った生徒が「桜川怒ってるっぽい?」と噂していた。
 彩音と夏樹があそこまで仲良くなっていたなんて、知らなかった。
 あいかわらず、顔を知っているだけの関係だと思っていたのに、いつ協力関係を築いたのだろう。彩音の話を聞いている限り、おそらく夏樹は昔のことをもう彩音に話している。顔が熱くなってきた。彩音は夏樹に味方し、復讐をしようとしている。私は夏樹のせいでいじめられたのに。あの子が悪いってことを知らずに、私を貶めようとする。
 まして、風宮とあんなに近づいて、媚売って。友達からはじめて最後には彼女にしてもらおうっていう魂胆? 彩音もやっぱり、あれだけ否定しておきながら、端からそのつもりで風宮に近づいてたの? 風宮をずっと好きなのは私なのに。風宮を盗られる。彩音に盗られる。夏樹に盗られる。みんなが風宮を狙ってる。私の味方をしてくれた風宮を。
 その大きな足音に驚いたような声を耳にし、美香は顔をあげた。講堂シューズを手に持ち、廊下の中央で立ち止まっている夏樹。警戒する目。怯えつつも逃げずに睨みつける。美香は誰にも聴こえないほどちいさく舌打ちをした。このタイミングで夏樹の顔など見たくなかった。毛を逆立てているさまは、美香をいじめ地獄に突き落としたことなど全く反省していないようだった。
「どいてよ」美香が低い声でつぶやいた。「邪魔なんだけど」
「桜川さん、まだ自分が一方的にいじめられた悲劇のヒロインだと思ってるの」
 逃げ隠れしてくれていたほうがまだかわいげがあったのに、彩音という味方を得たからかよく吠えるチワワのようになっている。その様を見て美香は苦笑した。
「あなたこそ、自分はいじめなんてしてないって思ってるの。私を傷つけておいて」
「知らないよ、傷つく資格もないじゃない。美香以上にみんな傷つけられてきてたし、それで反撃されたからって被害者ぶらないで。美香のその生き方そのものが、いじめだよ」
 夏樹の目は充血していた。きっと、自分が感じている以上に怒っている。それだけの怒りを買った――とはいえ、美香も夏樹のせいで中等部最後の一年を棒に振ったのだ。夏樹ばかり被害者面をされても、自分に分があることには変わりない。
 美香は夏樹を睨みかえした。とたん、夏樹の目にさっと恐怖が差す。夏樹はメンタルが強くない。おそらく、自分と同じように執拗な荒らしをされたら、彼女なら間髪いれずにブログを閉鎖するに違いない。戦うことを避けるはずだ。無視してそのまま前進しようとすると、夏樹も後ずさる。その怯え方が苛立つ。腹いせにそのまま階段ギリギリまで追いつめた。ほとんどの生徒が教室に戻りきった廊下はひと気がなくなっている。
 彼女は彩音をどうやって味方につけたのだろう。いずれ昔のように、友達面で近づいて最後に裏切るんだ。彩音は堕ちても構わないけど、私はそう簡単には陥落しない。
 ――私を嫌ってる人間に好かれようとなんて、思わない。
「そうして一生、過去の罪から目をそらして過ごすつもりなんだね」美香はおおきなため息をついた。「それは勝手だけど、私を巻きこまないで。恨まれるいわれなんてない」
 その瞬間、夏樹が一気に怒りの形相に歪み、ものの数秒で真っ赤に染まった。目と口をいっぱいにひらいて、かわいらしい姿からは想像もできない金切り声をあげた。
「自分が恨まれてないって思ってるの!? 逃げるのもいい加減にしなよ! 私に限らず、あのクラスの何人を敵に回したと思ってるの!? ねえ、どうすればいい? どうすれば消えてくれる? お金を払えばいいの? 頭を地に擦りつけて土下座すればいいの? ねえ、私が自殺すれば美香はスカッとするだろうし、もう死ねばいいんだよね、死ねばよかったんだよね、分かったよ今死ぬよ、私だって美香と同じ世界になんて生まれたくなかったよ、死ぬからもう関わらないで、私の家族にもこれ以上辛い思いをさせないで、美香が私にいじめられた的なこと言いふらして同情されて優越感得たいなら勝手にどうぞ、それで構わないからもうお願いします同じ空気を吸わせないで!!」
 頭の中で石が削れるような音がした。美香は無意識に歯を食いしばっていた。視界が真っ暗になる。考える余裕なんてなかった。考える必要がなかった。夏樹の胸をとんと押す。美香は手のひらにほんの少しの痛みと、それにぬくもりを感じた。その質量は、生きた人間の証だった。後ろ向きに倒れてゆく夏樹は、一段下の階段で踏みとどまろうとして間にあわず、手擦りから手をすべらせる。前に突きだされた自分の手。十四段ある階段を転げ落ちていくはずだった夏樹は、しかし美香の横から伸ばされた手に腕を掴まれた。
「なっちゃん!」
 耳元で叫んだ彩音は、咄嗟に手すりをつかんで耐えた。夏樹は彼女の腕にすがりながら、ずるずると段の上を滑る足を必死で踏ん張った。体勢を立て直し、肩で息をする。彩音は「なっちゃん、大丈夫? 怪我してへん?」と夏樹にたずねていた。死の危険に接した夏樹は目を見ひらいて硬直していたが、やがてかろうじて頭を縦に振った。それに安心したらしい彩音が、すかさずふり向いた。左頬を襲う激痛。美香は右向きに倒れ、床に叩きつけられた。肘と頭を強く打った。一瞬だけ見えた彩音の表情は怒りにひしゃげ、憤怒の形相をしていた。
「おい、美香!」
 枯れた低い叫び声。大きな身体に上半身を抱きあげられた。風宮だった。走って駆けつけてくれたのか、彼も息が乱れている。唾を飛ばしながら「しっかりしろ!」と叫ぶ。頭を打ってかなり痛むが、意識ははっきりしていた。目だけで周囲をうかがうと、平手打ちをしたときの体勢のまま顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいる彩音と、階段から落下しかけたショックがまだ戻らないのか、床にへたりこんでいる夏樹が見えた。美香が「大丈夫」と言うと、風宮は安堵の息をついた。美香の背を支えて立ちあがらせると、風宮は突然彩音に向かって怒鳴った。
「お前、いくらなんでも手を出したら弁明の余地がないって分かるだろ!」
「美香はなっちゃんを階段から突き落とそうとしとったんやで! 殺人未遂や!」
「途中からしか見てねえくせになんで殺そうとしたとか分かんだよ!」
「美香の手が前に突きでとった! 言うたやろ、美香はなっちゃんが嫌いやねんて!」
「夏樹を助けようとして手を伸ばしたのかも知れねえだろ! なあ、美香!?」
 突然話を振られて、美香はくらくらする頭でかろうじてうなずいた。逡巡している暇はなかった。ここは風宮を味方につけておいたほうがいいと思ったからだ。もちろん、彩音は激昂して手を緩めない。
「あかん、もうほんまあかん、ついに美香もなっちゃんに手を出すようになったんやね。親友やったはずやのに、風宮までなっちゃんを見捨てて美香に味方しようとする。失望したわ、風宮! なっちゃんが殺されかけたってんに、まだ美香のこと庇うんか! もうええわ! お前もう親友でも男友達でもなんでもない、美香と一緒に死ねや!!」
 堂々と、死ね、という単語を口にする彩音に、美香は物騒だなどと軽蔑する余裕などなかった。すくみあがり、喉から細い息が漏れる。その陳腐な単語は、発信者の強い意志さえ含まれていれば最大級に凄味がある。心臓を締めあげられ、腹がギチギチと痛む。
 座りこんでいた夏樹が立ちあがり、彩音の腕にすがりついた。
「どうしよう、彩音ちゃん、美香に殺されそうになった、あのまま落ちてたら……!」
 恐怖でガタガタと震え、舌が回らない夏樹を、彩音が抱きかかえて落ちつかせようとする。一瞬困惑するような目をした風宮を見て、美香は首を振った。
「どうして嘘つくの、私は助けてあげようとしたのに。人の善意を利用するなんて!」
 叩かれた頬を押さえながら言った。痛みに溢れる涙を止めようとしなかった。風宮はいつかしたように、美香をぎゅっと抱きとめた。そのぬくもりが、さらに痛かった。
 そのとき、騒ぎを聴いたのか礼紗が息せききって走ってきた。「美香!」風宮から美香を奪い取り抱きしめる。頬を呆然と見つめて「手の跡が」とつぶやいた。彼女は夏樹を慰めていた彩音を振りかえり、そのまま間髪いれず彩音の頬を張った。風船が割れるような鋭い音がした。夏樹が悲鳴をあげる。風宮がそれを見て美香を再度抱き締める。
「何すんねん!」頬を押さえて叫ぶ彩音。
「そのまんまかえす! あんたが美香にしたこと、全部かえす!」
「うっさいんじゃ黙れや! お前美香がなっちゃんにしたこと知らんやろ!」
「知らなくてもいいし、別に友達じゃない夏樹なんかどうでもいいし!」
 それを聞いて夏樹がさらに怯えて肩をすくめる。彩音は夏樹の肩を抱いて、勝算を得たように笑った。漫画の悪役じみた、嫌味な笑い方だった。
「ほら美香!」風宮に抱きとめられている美香に向かって叫ぶ彩音。「いつもみたいに、関西人は野蛮やとかろくな人間おらんとか、好き勝手言うてみい! 止めへんから!」
「何を」つぶやいた美香を礼紗がふりかえる。さっきまで怒り心頭だったはずなのに、自分を見つめるその黒目はちいさく揺れていた。
 彩音が小馬鹿にするように鼻で笑う。
「――美香、礼紗は、関西人やねんで」
 何もかもを知ったような、その目で。
 泳ぐ美香の視線。彩音を見、風宮を見あげ、そして礼紗へと。彼女は美香ではなく、どこか遠くの、別の場所を見ていた。美香の知らない場所を。
 美香は一年半もの長いあいだ、ずっと一緒にいた親友の呆然とした表情を、処理が追いつかない頭に焼きつけた。関西人。野蛮。異常者。物騒。単語と単語が絡まって、礼紗の綺麗な化粧がずるずると崩れてゆく。水をたっぷり含んだ泥のように。
「めっちゃ標準語に馴染んどるからな、最初は全然そんなん思わんかってんよ」
 彩音が勝ち誇ったように笑いながら説明する。「けどな、たまに引っかかる物言いがあってん。中間のときやったかな、礼紗、うちが席次表見に行くときケータイ持って行こうとしたら『なおして行きなよ』って言うたやんな? 『なおす』の意味は『修理する』やけど、関西じゃ『仕舞う』って意味やしな」
 礼紗がびくりと身体を震わせた。美香はそれでも、彼女から目が離せない。
「あれで確信したわ。前、同じネタで相手を関西人やって見抜くアニメ見たからな。余計確信持てて。美香、今までうちを軽蔑するために連呼しとった言葉が、端で聴いてた礼紗の自尊心にも穴あけとったってこと、しっかり後悔しときいや」
 彩音はそれで終わりとばかりに話をつづけず、再び夏樹を抱きあげた。「保健室行こか」と優しく声をかけ、ふたりで階段を降りてゆく。その後ろ姿を、美香はじっと見つめていた。頭痛も、頬の痛みも、消えていた。
 渇いた目で呆然と床を見つめる礼紗だけが、彩音を見ていなかった。
 礼紗、と普段どおり声をかけることができなかった。今まで私は何を言った? 彩音を馬鹿にするために生まれ育ちを見下して、家族や故郷もろとも侮辱して。相手が彩音だから構わなかった。際限なく傷つけばいいと思った。ただ罵倒するより、より一層打撃を与えられる言葉だと信じていた。もっともっと深く、トラウマになるほど傷ついて、一生、思い出すたび苦しめばいいと。
 それを――礼紗にも?
 優しいお姉さんのような頼りがいのある言葉で、常に美香の味方をし、支え、傍にいてくれた礼紗。彼女の出身小学校は確か、東京都内のはず。引っ越してきたとか? だから私が知らなかったとか? おそらく標準語にも慣れてしまったのだろう、ほとんど違和感がなかった。かすかな訛りは感じていたが、どこか別の地方出身かと思っていた。
 礼紗は彩音のようにあけすけとした態度じゃなかった、出身地を隠していた、だから私は知らなかった――美香の脳内で、そんな計算式が光速で完成する。
 じゃあ、礼紗が傷ついたのは、私のせいじゃなくない?
「美香」
 礼紗が風の音にもかき消されてしまいそうな、涙交じりの声で言う。「ごめん、言いだせなくて、言うのが怖くて」強気な彼女らしくない、声。「いつも馬鹿にしてる美香に打ち明けるのが怖くて、恥ずかしくて……美香に嫌われたくなくて、一緒にいたくて」
 追いつめられた小動物の目。頬に滲む溶けたメイク。子どものようにしゃくりあげる礼紗を、美香は充血した眼でにらんだ。彩音と同郷。あの彩音と。声も態度も大きく、ちょっとしたことで怒り、暴言をためらいもせず吐き散らす関西人。美香の中で出来た解法は、まっすぐに、黒光りするこたえを導きだす。
 裏切られた。
 嘘をついて、周囲の人間のことを考えず好き勝手に発言する自分を、ずっと傍で呆れて見ていたのか? ケータイ小説を読んで感動してくれて、私が二度といじめられないようにと守ってくれて、優しくしてくれたのに。
「美香」
 礼紗のか細い声に、美香は答えなかった。ほんの少しの勇気だけが場を決した。美香は首を振った。ちいさく、横に。揺れる髪が頬を撫ぜる。風宮のシャツにすがりついた。礼紗はその後何度も「美香」とつぶやいたが、もう返事をしなかった。チャイムが鳴る。教室で騒いでいた生徒が慌てて席につく音が聴こえる。ぐしゃりと顔をゆがめた礼紗は、細い糸のようなかん高い、ちいさな悲鳴をあげて、その場に膝をついた。頼れるお姉さん気質の彼女は、ただの十五歳の少女にすぎない。そのことを美香に思い出させた。彼女に手を伸ばそうとする風宮を、美香はそっと制した。優しく、だが反論を許さない手つきで。

 保健室に着くころには、夏樹の顔は真っ赤に紅潮していた。瞼が重く眼を覆い、眠たげに見える。死の恐怖でショック状態になり発熱するという話を聞いたことがあったので、彩音は保健室に突撃するやいなや、先生に検温を頼んだ。ベッドに寝かされ、脇に体温計を挟んでもらう夏樹。
「見たとこ微熱って感じだけど、具合悪そうだからちょっと横になったほうがいいね」
「すんません、で、うちのここにも冷えピタ的なのください」
 彩音はいまだひりひり痛む頬を指さした。先生はすぐに手のひらの跡だと分かったらしく、冷湿布を出しながら「あいかわらずお転婆だね」と言った。彩音は男子と喧嘩して怪我するたびに保健室に来ていたので、特に追及もされなかった。
「なっちゃん、ほんならうち、教室戻るから。あとで鞄持ってくるな」
「うん、ありがとう、彩音ちゃん」
 布団から伸ばされた細い手をにぎった。夏樹は微笑を浮かべていたが、目がうるんでいる。さらに強く、夏樹の手を両手でつかんだ。
「守れんくてごめん、なっちゃん」
 知らず、噛みしめた奥歯がぎっと鳴る。悔しくて、無力な自分が情けなくて。同じことでも、自分だったら耐えられるのに。彩音は無意識に、ワンピースの上から腹に爪を立てた。傷つき、皮膚が破れる。真っ赤な血は腹から氾濫し、足元めがけて滝のようにまっさかさまに落ちてゆく。しぶきをあげ、赤い霧が周囲に立ちこめる。爪の先、一本の毛の先まで赤々と染まってゆく。眼球に力を入れすぎて痛い。いつか真っ赤な涙を流すことになるのだろうかと思うほど、血という血が暴れまわり、身体を冷やし、同時に熱した。
 この感覚はなんだろう。いつか、どこかで確かに味わった痛み。記憶。甘く優しい些末な夢を求めて、いっぱいに膨らんだ鞄をつかんで走った夏。諦めた。納得した。それでいいと思った。許そうとした。そうすることで、自分とも決着がつくと思った。だけど、違う。そうじゃない。この痛みは、もっと別のところから降ってくる。
 頬を蒸気させて、目尻に涙を浮かべる夏樹。その長いまつ毛に、白い頬に、もう二度と涙が触れないようにと思っていたのに。今は氷のように冷たく濁った液体が、脳髄を満たすのみだ。自分のような末路は塞いでやりたい。惨めで自己中で、真実から逃げてばかりだった自分のようには、させない。
 ――まだや。これはもう、うちと美香の問題ちゃうんやから。
 夏樹はただ、無駄なことを諦めたような目の色で、そっと微笑んだだけだった。
「彩音ちゃんは何も悪くない。元をたどれば、桜川さんと同じ男子を好きになったのが原因だし。こんなふうに恨まれるのも、それだけのことをしたんだよ。被害者に原因がある。他人の力で助けてもらおうなんて、甘えじゃん。最低限、自分にだけ跳ねかえりが来る方法で桜川さんとちゃんと話したいから……」
 椛音は身を乗りだし、夏樹の手をつかんだ。痛いほど熱かったので、自分の冷たい手で落ちつかせる。まるで飢餓の肉食獣だ。誰かに揺さぶられることなく目を覚まし、動物的な嗅覚を持って太陽に熱せられた獲物を探す。
 その獣ににらまれたウサギのような目をする夏樹を見て、椛音はひとつ深呼吸をした。
「なっちゃん、ごめん。やっぱりそこだけはあかんわ。美香がうちに悪口の手紙よこしたとか、音声録音しとったとか、もうそういうの全部ほっぽらかしてええわ。自分のことやし。でも、なっちゃんにしたことは許せん」
「ごめん、椛音ちゃん」夏樹が慌てた。「また椛音ちゃんを不必要に怒らせちゃった。もういいんだよ、そんなこと。何年も前の話だし、どうにかなることじゃない」
「どうにかしたんねん。そんなん言わんといて。なっちゃんひとりで抱えこんだら、うちもしんどいねん。頼ってや。助けさしてや」
 形のないものに、重みだけを求めて。
「なっちゃんを、逃げんでもええところに連れてったりたいねん」
 せめてこの腹から溢れる古い血が、夏樹の足元を汚さないようにと願うばかり。
 鼻の奥が痛み、彩音は布団に顔を突っ伏した。声を押し殺して静かに泣く彩音の頭を、夏樹はそっと撫でた。なだめるのではなく、いつまでも泣いてていいんだよ、と語りかけるように。しかし、だからこそ――つらい。
「……なっちゃんさ」
 椛音は涙を拭い、唐突に質問をふった。
「死ぬ瞬間にいっこだけ願いが叶うとしたら、何お願いするん?」
 枕から少しだけ頭を浮かせ、きょとんとする夏樹。こちらの真意をうかがうように横目で見た由乃。椛音はじっと夏樹を見つめた。冗談ではなく、本気のこたえを知りたくて。
 夏樹はしばらく考えこむように天井を見ていたが、やがて「来世では」と言った。
「かわいくて、優しい女の子に生まれ変わりたいなあ。次こそ、修一に好きになってもらえるように」
 目尻を下げ、照れたように笑う夏樹。椛音はその言葉に射抜かれ、じわりと胸が熱くなるのを感じた。こんなに素敵な女の子に愛されて、どうして風宮は夏樹を見ないのか。今すぐ彼を殴りたい。それができない代わりに、彩音は夏樹の手をさらに強く掴んだ。
 保健室を出たところで、ポケットのケータイが震える。メールの着信だった。歩きながら画面を見ると、物騒な件名が飛び込んだ。
『死ねやデブス。勝手に自滅しろ。コラだと思うなら本人に確認すれば?』
 差出人は、礼紗だった。あれからまだ三十分も経っていないのに、もう嫌がらせのメールをするほどに回復したのか。決定的なダメージを与えたと思っていただけに悔しかった。彼女の出身地は最後のカードだった。彼女と美香の関係を完全に切る最終手段だと思った。美香は礼紗を傷つけた罪悪感から彼女を遠ざけるはずだし、礼紗は美香からの信用を失っただろう。そして、彩音からも。それでもいい――なっちゃんを守れるなら。
 ぶすくれながらメールをひらくと、本文は白紙で、添付ファイルがひとつあった。
 ひらいた画像を見て、彩音は足を止めた。
 撮影されているのは間違いなく、由乃のケータイだ。彼女愛用のストラップがついている。画面にはツイッターのプロフィールページが表示されていた。そのアカウントの名前は――『歩美』。
 彩音は瞬時に記憶をたぐり寄せた。美香のブログにあった「いつもROM専なので、初めて書きこみします」というコメント。「ブログを閉鎖してしまったほうがみぃなさんも楽になれると思うんです」と何度も言って、ブログを消すよう勧めていた。実際に消されたあとは「安心しました」とツイッターでコメントしていた、歩美。
 その歩美のアカウントに、由乃のケータイからログインできている。
 彩音は状況を整理しようとして、しかし失敗し、混乱した。高校に入ってはじめて出来た友達。極度の人見知りで一匹狼だったが、今では彩音とどつき漫才ができるようになった。漫画やアニメの話ばかりして、いつも一緒で、このまま大人になってもずっと一緒にいるのだと、思っていた。
 ――なあ、由乃?
 古い映画のように画面全体が揺れる記憶。水の上で滲む笑顔に、彩音は呼びかけた。嘘だと信じながら、そう言ってくれることを信じながら、うわごとのように。
 呆然と突っ立っているうちに再度チャイムが鳴った。ホームルームを丸ごとサボってしまった。各教室から出てきた生徒があちこちに溢れ、早足に下駄箱やグラウンドに向かう。彩音は顔をあげ、その波に紛れて教室へ向かった。力強く、足の裏で自分の命を確かめるように。三組の教室には帰宅組がまだ何人かたむろしていたが、美香たちの姿はもうない。由乃は自分の席で彩音を待っていた。
「おかえり。サボリなんて珍しいね」
 いつも通りの、冷静で大人っぽい口ぶりの由乃。廊下での大喧嘩には、トイレにでもいて気づかなかったのか、きょとんとして見つめる彼女に、彩音は何から訊けばいいのか迷った。保健室に、とつぶやいた。由乃は納得したように肩をすくめ、何かを話していたが、ほとんど耳に入らなかった。ぐるぐると腹がまわる。内臓が、ちぎれる。
「由乃」
 ぶれている自分の心以上に、しっかりと声が出た。「ケータイ見して」
「え? どしたの急に」
「ええから、ケータイ貸してや」
 彩音は由乃の鞄に手を突っこみ、彼女のケータイを探しあてた。困惑している由乃の手を振りほどき、ブラウザでツイッターをひらく。すぐにログインができた。自動ログイン機能は、アカウントの持ち主だけの特権だ。
 トップページの最下部に表示されたアカウント名は、美香から送られてきた画像と同じ『歩美』だった。
 ケータイを取りかえそうと伸ばされた由乃の手が、そこで止まった。ゆっくりと振りかえると、彼女の目は一瞬絶望に白く染まり、そして伏せられた。諦めたように深くため息をつく由乃。ひらきなおったようなその態度を見て、ぐらぐらと揺れて曖昧だった輪郭がひとつの個体に結実してゆく。スクロールして見ると、『歩美』のつぶやきはほとんどなく、すぐに過去のみぃなへのリプライを見つけた。『しばらくはいじめられずに済みますね』という、みぃなを気づかうようなリプライ。それはかつて、みぃな宛てのリプライを追いかけて彩音も見つけたものだ。
 そういえば、三号館のトイレで、美香がブログを閉鎖するように誘導しようと提案したのは由乃だった。その後も何度か、彩音がみぃなのツイッターを追いかけることに否定的な物言いをしていた気がする。
 ブログに何度も書かれていた。『閉鎖したほうがいいですよ』と。そして歩美は何度も『頑張ってください』『負けないで』ともコメントしていた。信者のように、何度も。
 ゆっくりと由乃を振りかえる。彼女はこちらを見ようとせずに俯き、鞄を肩にかけなおした。ずいぶんと時間をあけてから、「閉鎖させようとして」と言った。
「みぃな信者を装ってブログにコメントしてたんだ。荒らされても意地でも閉めないみたいだから、味方っぽく振る舞ってから提案したらいいかなって」
「でも、みぃなの応援もしとった」彩音は頬の内側を浅く噛んだ。「味方しとった」
「信者っぽく振る舞わないと疑われるし」
「最初に相談したらええやん。なんでこんなまどろっこしいことすんの。嘘でも美香の応援なんかして欲しくなかったわ。あいつ、敵やで? さっきなんか、なっちゃん殺そうとしてんで? 味方するふりとか、して欲しくなかった。なんかもう、分からんわ。閉鎖するよう勧めたのはうちを欺くためで、ほんまは美香を影で応援したかったんちゃうの?」
 由乃は一瞬目を見開いたが、すぐに悲しげに細めた。由乃とのあいだに、越えられないクレバスが生まれる。
「違うよ」由乃らしくない、高い声。「見てられなかった。美香のブログが荒らされてるのが。私、小学校のころ、趣味で書いた二次創作のBL小説をネットに公開してた。そしたら原作のファンに荒らされて、あの掲示板に晒されて、何度も何度も誹謗中傷のコメントされて。二次創作が嫌いなら入るなって書いてあるのに、わざわざ全部小説を読んで馬鹿にして。彩音たちがやってたみたいなことだよ。同じだよ。あのつらさは被害者にしか分からない。大切な場所を土足で汚された苦しみはさあ!」
 由乃が涙声で叫んだ。廊下に残っていた数人の生徒が何事かとこちらを見ている。だが、彩音は冷ややかな目で由乃を見ていた。由乃の弁解のしかたが美香と全く同じだったことが、いちばん大きな風穴を彩音の脳天にあけた。同類なのか。そうか、由乃も美香と同じ、自己弁護に必死になる人間だったんだ。自分のトラウマだとか心の傷だとかを恥ずかしげもなくさらけ出して、同情を誘おうとするプライドの低い人間なんだ。それはよそむきせずまっすぐに辿り着いたこたえだった。だから、それが唯一無二のこたえのように思えた。
 信頼していたのか――夏樹の仇討に乗り気ではなかった、このうそつきを。
「うちに味方してくれてるって言ってくれたんは、嘘やってんな」
 氷の粒が散らばるような、自分の声。
「うちに隠れてコソコソと、美香の味方をして、うちの邪魔して」
「違う、彩音、それは逆だってば!」
「逆もクソもあるかあ!! 裏切り者! なんでときどき美香への反撃に否定的やったんか、今分かったわ。うちの味方でいてくれるんやと思っとったんに、そんなしょうもないことを理由に美香を庇っとったんか! メンタル弱すぎや!」
「しょうもないって」由乃は傷ついたような顔をして、目に涙を浮かべた。「そこまで言うことないじゃん! 誰もが彩音みたいに強いわけじゃないんだよ、ちょっとネットで批判されただけで立ち直れないぐらい落ち込む人もいるし、それを全部その人のメンタルのせいにするのは、彩音の視野が狭いことの言い訳だよ! 自分ができるからってできない人を見下すのは、未熟だったころの自分を否定したがる弱さのあらわれじゃないの!?」
 由乃の言葉がひとつひとつ、長く細い針になって襲いかかってくる。えぐり、掻き出し、ドロドロになった内臓を見せつける。彩音はぎゅっと目を瞑り、首を小刻みに横に振った。口の中に唾が溜まる。血が逆流して、吐きそうになる。
 もういい。じゅうぶんだ。由乃も同じだ――他の大勢の連中と。
「彩音」
「もういい!」
 彩音は自分の鞄を掴み、がなりたてた。「もう由乃には何も言わん! 相談もせえへんし、状況報告も放棄や! どこで美香に漏れるか分かったもんちゃうしな。美香のツイッターにリプすんのも勝手にしろや、その代わりうちはもう由乃は頼らん! うちだけでもなっちゃんを守ったる! 偽善者は自分の足元固めることだけ考えとけ!」
 由乃は顔をゆがめて、目の端に涙を溜めた。親に置いて行かれた子どものような目だった。気丈な由乃の、初めて見る表情だった。罪悪感がチクリと胸を刺したが、憎悪がそれを覆い隠した。足音高く教室を出ていき、雷のような音を立ててドアを勢いよく閉めた。
 もう誰も信用できない。
 風宮は自分の目の前で、夏樹よりも美香を優先した。夏樹を傷つけようとした美香をかばった。へたりこんでいる夏樹を無視して美香に駆け寄った。
 由乃にはなんでも相談できたのに、由乃には相談されなかった。はじめから教えてくれたら慰めたのに。別の方法を探せたのに。黙って行動された。嘘をつかれた。
 どいつもこいつも偽善者ばかりだ。自分にとって最良の結果になるものをと覚悟して決めた選択が、他の大勢を傷つけるなんて知らずに動く。それで本当によかったのか。そう問いかけてやる優しさは持ちあわせていなかった。どうせみんな、最初から自分のことなんてろくに見ていなかったのだ。中学校時代の自分を葬り去ったはずなのに。変わるものも、変わらないものも平等にあるのに。
 結局うちは、逃げようとしとっただけやねんな。最後の楽園を見つけたつもりで、自分が変わらんかったら、周りも変わるはずないのにな。虚飾ばっかやのにな。それで安心して、安心したことをエンジンにしようと躍起になっとっただけやねんな。
 もうええよ、別に。どうでも。
『自分ができるからってできない人を見下すのは、未熟だったころの自分を否定する弱さのあらわれじゃないの』
 由乃の声が何度も頭の中で、鳴る。それを打ち消すために、足音を立てて大股で歩く。
 彩音は学校を出て、電車に飛び乗った。早足に自宅へ戻り、パソコンをひらく。大型掲示板のみぃなスレッドは今も人がいる。さあ、祭りに参加しよう。マガジンをライフルに叩きこみ、フルオートで集中射撃をする、そんな戦場の兵士の気分だ。トリガーをひく人さし指の代わりに指でキイを操作しながら、ひたすらに瘡蓋を、はがす。美香と、美香の追い求めた幻影をすべて壊すために。大切な友達を守るために。
 今ごろ、美香は呆然としているだろう。布団を頭からかぶって震えているかも知れない。その様を想像して、ますます口の端がつりあがる。ケータイ小説がばれ、殺人未遂を犯し、己の愚かさが露呈し、さすがに懲りただろう。当然の報いだ。それだけのことをしたのだ。泣く資格もない。欲望に生きた女の末路だ。因果応報だ。いじめ加害者を絶対に許さない。夏樹を追いつめた罪を今こそ償うべきだ。いじめをする人間に更生の余地などない。転校してもどうせ新しいいじめを始めるんだ。自分の薄っぺらいプライドを守るために。
 せめてあの学校から追い出したい。傷ついて追いつめられて苦しんで、居場所を探して何度でも転校すればいい。――二度となっちゃんの前に現れないで欲しい。そのために、今、自分はどうすればいい?
 ここからはひとりで戦う。もう誰も信じられない。美香や礼紗はもちろん、由乃だって自分を裏切った。親友だと思っていたのに、夏樹を助けなかった。従兄の良太も同じだ。大人は誰も助けてくれない。
 最後まで守るからな、なっちゃん。その声はキーボードの打鍵音に阻まれ、彩音ただひとりにしか聴こえなかった。

   * * *

『礼紗が部屋から出てこようとしないの』
 スマホから聴こえた、礼紗の母の震えた声。美香は電話を切るなり、着の身着のままで自宅を飛び出した。二駅離れた礼紗の家へ向かう。彼女はごく普通の一軒家に住んでいて、正面の道路から向かって右側の二階の部屋が礼紗のものだ。夜七時半、辺りが些か暗くなってきたというのに、電気もついていない。
 呼び鈴を鳴らし、礼紗の母に取りついでもらう。だが、『帰って欲しいって言ってる』と言われてしまった。それ以上追いかけることができず、美香は門から離れた。礼紗の部屋を見あげる。唇が細かく震えた。
 礼紗が関西出身だと分かってからというものの、美香は礼紗を避けつづけた。自分が長く偏見を持っていた対象に親友がいたと言うショックと、礼紗を知らず傷つけつづけた罪悪感、それをごまかすための自己弁護とで板挟みになった。礼紗に謝るべきか、このまま友達をやめたほうが楽だけど、信じつづけた友達を簡単に切るのも嫌だ。何度も風宮に電話し、縋りついた。だが、未だ礼紗との関係は冷戦状態を保ったままである。
 美香は思いきってスマホを出し、礼紗のケータイに電話をかけた。だが出ない。仕方なくそのままメールを打つ。『礼紗、ごめんね、私のことで怒ってるなら許して欲しい。明日から二学期だから、一緒に登校しよう』
 一時間ほど、礼紗の自宅の前で待っていたが、返事はなく、礼紗の部屋のあかりもとうとうつかなかった。さすがに暗くなってきたので、諦めて踵をかえした。ずるずると靴底を引きずるように、俯き加減に歩いた。
 また彩音が何かした? ――美香は彩音が原因だとしか思えなかった。りぃのブログもみぃなのツイッターも更新せず、掲示板も見ていない。アクセスする気力がない。もう二度と「みぃな」としても「りぃ」としても、ネット上には顔を出さないつもりだった。これ以上ネットに固執していると彩音に出し抜かれてしまう……さらに屈辱を受ける。我慢できなかった。強がることも、勝利への執着も、理想の自分も、どうでもよかった。彩音がいる限り、自分はネットの世界では生き残れない。あの彩音と、正面から戦うことはもうできない。
 さすがに美香は考えた。もう転校しちゃおうかな……そうしたほうが確実だ。彩音に会わなくて済む。風宮とは遠距離恋愛になるけれど、もしかしたら新天地でもっといい物件に出会うかも知れないし。それでいいんだよ。苦しまずにいられるんだから。
 電車に揺られながら窓の外をぼんやりと見ているとき、スマホが震えた。礼紗だ! 慌ててスマホを操作していた指は、メールをひらいた瞬間に動きを止め、冷えた。
『ずっと前から言おうと思ってたんだけどもう我慢できません。美香とは縁を切らせてください。あたしは来月関西に帰ります。もう耐えられません。美香と一緒にいると命が危ない。美香ひとりで勝手に彩音といがみあっててください。もうあたしを巻きこまないでください。一年のときから、同率一位の子が関西人だなんて、と言って馬鹿にする美香を見てきました。偏見ばかりの美香の言い方がつらかったです。あたしはそういう無意識の罵倒もいじめだと思ってます。ずっと美香に間接的にいじめられて、友達をやめたくて仕方なかったんです。でも美香と一緒にいると友達が増えるから離れられなかったんです。それはあたしの弱さです。だけどもういらないです。二度と連絡してこないでください。あたしを見下して満足したでしょう。ちなみに彩音ならもうあたしがとどめを刺しました。こないだ見つけたツイッターの写真を送ったから。今は由乃と仲間割れしてるはず。これでじゅうぶん落とし前はつけたでしょう。許して下さい。解放してください。
 あたしは登校日の夜、ストーカー被害に遭いました。夜コンビニに出かけたら道で男の人に顔を殴られました。彼は「お前がみぃなだろ、性悪女」と言ってました。通りすがりの人が助けてくれたので逃げられましたが、怖くなって掲示板を見たら理由が分かりました。それだけの恨みを買われてるんです。美香のせいで巻き添えを食った。あたしがみぃなだとネットの住民たちに思われた。今もあたしの写真や個人情報がネットに漏れてるのかと思うと外を歩けません。だから関西に帰ります。あたしを友達だと思わないでください。美香の自己満足の当て馬に利用しないでください。お願いします』
 震える指。一歩も動けない足。ドアの前で立ちつくしていると、新しく入ってきた乗客に邪魔だと呟かれた。だが美香には聞こえなかった。そのまま五駅以上も乗り過ごし、ようやく正気に戻って電車を降りた。美香はどうにかして心を守ろうとした。襲ってくる衝撃のためにクッションを用意しようとした。だけど、間に合わなかった。礼紗の言葉のぜんぶが尖って美香の全身に突き刺さる。大の男に殴られて顔を腫らす礼紗を想像し、平衡感覚を失った。倒れそうになり、帰宅途中のOLに支えられた。
 ほうほうのていで自宅に帰り、ベッドに突っ伏した。二度とメールをひらく気にならなかった。見知らぬ人に襲われるほど恨まれている、ということを自覚し背筋に寒気が走った。礼紗をひどい目に遭わせたのは私? いや、実際襲ったのはその男だ。私じゃない。だけど、そうさせる原因は? 私がりぃを作ったから? ブログをはじめたから? 私が生まれてきたから? ああ、風宮の言うとおりだ、不毛な問いかけだ。
 一晩中泣いて過ごした。布団を頭までかぶり、泣いていた。今年の春に戻りたかった。まだ四人で一緒にお弁当を食べていられた。移動教室も一緒だった。ただ笑って、笑って、笑っているだけでしあわせだった。どこからおかしくなったのか、その原因は自分なのか、彩音なのか、世界のあらゆるものなのか。結局、自分の行動は原因そのものではないとしても、ひとつのきっかけにはなったのだ。怒り狂い、りぃを作り、荒らしに対抗しようとした。ああしていれば追いだせると思っていた。常連たちが『みぃなさん頑張って! 負けないで!』と言ってくれることが、勝利よりも嬉しかった。誰よりも強くありたかった。誰も自分を批判しない世界が欲しかった。チクリ魔だの自意識過剰だの、それは私が優秀な証拠だ、と言い聞かせていた。大丈夫。私はこの試練を乗り越えてゆける。いつだってそう思っていた。何人友達をなくしても、最後には必ずしあわせになれる。
 だが、礼紗が襲われた。ネットを見て事情が分かったと彼女は言った。かつて礼紗が言ったことを思い出す。「大学附属の学校に通ってるとか、成績優秀でいじめられたとか、海外の中学に行く予定だったとか。そのへんは本当のことでしょ?」そうだ、一切の虚勢を交えず実話を書いた。同率一位がふたりいたことも書いた。やはり、みぃなつながりのサイトが関連しているとしか思えない。
 美香は朝日がさす部屋の中、一睡もしていない目をこらしてスマホを起動させる。大型掲示板をひらいてすぐ、誰もが『どっちがみぃなだ』と騒いでいることに気がついた。何事かと騒動の先頭を探していると、画像へのリンクつきの書き込みを見つけた。
『みぃななら知ってる。同じ学校だし。ふたりともかなり性悪だよ』
 無記名だった。日付は一週間ほど前。美香は慌ててリンクをひらく。
 途端に肩がびくりと震え、全内臓が喉元近くまで跳ねあがった。自分と礼紗とのプリクラ画像だ。制服姿で、ふたりで並んでいる。目元でピースをし、好き勝手に落書きしている。ふたりの顔にはモザイクがかかっておらず、名前も書かれていないので、どちらがみぃなとりぃなのか他人には分からない。布団を押し上げて飛び起きた。何度も戻り、進み、画面を交錯させた。誰だ。誰だ! 自分の顔写真が、モザイクなしでネットに流出しているなんて。この画像は何人かの友達に送ったが、覚えていない。それに、その友達が別の人間にこの画像を送った可能性もある。スレッドを見ると、画像に対し『右がみぃなっぽい』『この制服本当に名門高校だよ』『意外と美人』『特定厨はよ』と好き勝手に書きこまれ、スクロールするごと『東京の学院前駅でよく見かける制服だ』と真実に近づいていっている。彼らが時間をかけて個人を特定し、礼紗を見つけた誰かが彼女を襲ったのだろう。
 彩音だ。美香はそうとしか考えられなかった。彩音が写真をアップロードしたんだ!
 寒気が止まらない。心臓が跳ねる。手が震え、スマホがぽろりと床に落ちる。涙が出てきた。ネットで最も恐れられていることが起こったのだ。礼紗が襲われたとなれば、次は私だ。私が特定されるのも時間の問題だ。いや、もう誰かが見つけたかも知れない。家の外で張っているかも知れない。ガタガタと身体が震える。怖い。現実で恨みをぶつけられるのが怖い。ブログに『死ね』と書き込みをした本人たちが自分を狙っている。みぃなではなく、桜川美香を。この町で、校門の前で、末摘花の白い制服を来た、プリクラ画像と同じ顔の女子生徒を探している。気持ち悪いオタクたちが「てめえがみぃなだな!」と叫んで襲ってくる。布団を掴む手に力が込められた。取り乱し、歯がガチガチと鳴る。
 彩音はたっぷり一時間、そうして震えていた。八時近くになって布団から手を伸ばし、床に落ちたスマホを拾いあげる。素早く風宮の番号をコールした。
『……もしもし? 美香?』
「風宮!」彼の声を聴いて安心し、涙がさらに溢れた。「よかった、出てくれたんだ。風宮、助けて! どうしよう、ネットに私たちの顔写真が流出してて、礼紗が襲われたの。次に狙われるのは私かも知れない。学校に行けない。外に出られないよ!」
 電話の向こうは沈黙していた。美香は返事を待っていたが、少しずつ怖くなって「何か言ってよ!」と叫んだ。
『……やっぱりお前が原因だったんだな』
「え?」
『礼紗から電話があったんだ。道端で男の人に殴られたって。それで俺、今まで余計なことしないためにもって自重してた美香のブログのキャッシュとツイッターを見たんだ。あの大型掲示板の書き込みも、全部。そしたらさ、散々荒らしを挑発したら、誰かがお前と礼紗の写真をネットで拡散したってな。礼紗が襲われたのはその写真から特定されたからだろ。こうなる前にブログを閉鎖してたら、こんなことにはならなかったのに』
「でも、でも風宮、私は……!」
『もういい、美香』風宮の声は、ぞっとするほど冷え切っていた。『荒らされたときのお前の対応も、そのときできる最良の選択だったんだろ。でも、最悪の結果を引き起こした。礼紗は電話口でずっと泣いてたんだ。美香が怖い、逃げたいって。あいつ、関西に戻るってな。それだけのことをしたんだって、お前、自覚してる?』
 してる。だけど、私だって怖い。被害に遭ったのは礼紗だけじゃない!
「私だって顔写真流出したんだよ! 今も家から出られなくて怖いんだから!」
『分かってる。だからしばらく学校を休め。来なくていい』
 どうして? どうして突き離すの? 学校でしか風宮に会えないのに!
『お前が何を言いたいのか、大体のことは分かってる。だけどな、俺だってしんどいんだよ。お前が夏樹を殺そうとしたなんて思ってないけどさ、礼紗を無意識に傷つけたりとかそういうの、初等部から何も変わってないって気づけたか? 人に頼ってばかりで、人のせいにしてばっかで、自分が理不尽に痛めつけられてる的なこと周囲に吹聴して、本当は自分が引き金引いてるかも知れないっていう可能性すら考えないだろ。そのプライドの高さも偏見の強さも、全部自分を守るためだって分かってる。でもそれが仇になって、自分を守ってくれるものも自ら信じられなくしてるってこと、思い出せよ』
「お願い、風宮」美香は涙声で懇願した。「迎えに来て。一緒に学校行こう。怖いよ」
『どうにもならねえよ、俺だけじゃ。警察に言えよ。俺だって、お前と関わったらネットでどんな仕打ちを受けるか、怖いんだよ。頼むよ、美香』
 数秒の沈黙のあと、唐突に電話が切れた。もうどんな声も届けてくれなくなったスマホを、美香はそっとベッドに放った。しばらくそのまま硬直していた。どこも見ず、何も聴かず、暑さで体中から汗が垂れてくるのを放置していた。十分、二十分と時間が経過し、居間から母に「美香、起きてるの」と呼ばれてようやく這いあがった。身体を動かすだけで精いっぱいだった。なのに、魂ひとつぶん減ったように身体が軽かった。
 ゆっくりとした手つきで制服に着替える。以前のようにどこも震えていない代わりに、力がほとんど入らなかった。リボンを丁寧に、丁寧に、型崩れしないように結ぶ。髪にブラシをあてながらふと全身鏡を見た。そこにうつっているのは、青白い肌をした、俯き加減の、目を真っ赤に腫らした女の子だった。乾いた唇も、荒れた肌も、乱れた髪も、すべて美香がこの世界に生まれたときから持っていたものだった。今はこんなものたちが、いったいどんな意味を持つのか分からない。きっとどこかに理由があるはずなのに、探すことさえ億劫だった。手をそっと頬に添えて、鏡にうつる自分がただの映像でないことを確認する。輪郭を、体温を、確かめる。手に持ったブラシを振りあげ、鏡に投げつけようとした。が、その腕はそっとおろされた。
 一階に降りるとすでに朝食の準備ができていた。美香はテーブルに座り、用意されたごはんや味噌汁などの料理をじっと見つめる。匂いを肺に吸い込んで、毎朝急ぎ足に掻きこんでいたこの朝食が今の自分を作ってきたんだ、と感じる。丁寧に手を合わせ、テレビも見ず、ひとつひとつ味わって食べた。母が「おはよう」と言って向かいに座ったとき、美香は自然と「お母さん」と口に出していた。
「朝ごはん、おいしい」
 そんなことを言ったのは初めてだった。母は苦笑して「どうしたの」と言ったが、それ以上何もこたえられなかった。美香は鼻をすすらないよう懸命に堪えながら、ごはんを口に運び続けた。食べ終わったあと、「ごちそうさま」とていねいに手を合わせた。
 もう方法は残されていない。一択だ。――残さなかったのは、私だ。
 玄関で靴をならしていると、母が弁当の包みを持ってきた。美香はそれを受けとり、じっと見つめた。「どうしたの」と苦笑する母。自然と、笑えていた。ごまかしでも背伸びでもない、純粋な笑顔がこぼれた。美香は弁当を鞄にしまい、母に正面から向きなおって「行ってきます」と声をあげた。手をふる母の、自分とよく似た顔に笑いかけ、自宅を出た。
 道を歩いているときも、電車に乗っているときも、誰かに見られている気がした。街ゆく人全員が、あいつがみぃなだ、と笑っている気がした。誰かに包丁で刺される幻影が妙にリアルだった。足元をすくわれる。視線を浴びる。ゆっくりと足を動かして、気がついたら改札にいて、気がついたら電車に揺られていて、気がついたら学校にいた。校長先生のマイク越しの声が漏れる講堂を横ぎって、教室棟へつづく渡り廊下に立つ。夏の匂いを残す風が吹き、蝉がしつこく鳴く。かすかに聞こえる校長先生の単調な話。
 美香は渡り廊下の床に体育座りをして、母が作ってくれた弁当箱をひろげた。まだかすかにあたたかい。卵焼きとプチトマトと、ほうれん草のごま和え、から揚げなど、定番のおかずが並ぶ。箸を持ち、丁寧に手を合わせて「いただきます」と言う。すべてのおかずを、ひとつひとつ、ゆっくりと食べる。朝食で満腹のはずなのに、母が作ってくれた弁当はどこまでも食べられる気がした。打ちひしがれているとき、食べるものの味が分からないなどという描写は小説などでよくあるが、嘘だ、と思った。母の食事はいつでもおいしい。自分の血肉になるために自慢の味を主張する。生きろ、絶望するな、明日のために、と食べものが叱咤する。だから、時間をかけて噛み、味わった。泣くことは、できなかった。泣けばいいのに、と自分に言い聞かせるも、泣けなかった。なぜだろう。
 弁当箱を片づけると、鞄からパソコンを出してひらいた。『掲示板自動書きこみソフト』を起動し、入力画面を呼び出す。以前ネットで見つけて用意した奥の手。ネット上の複数の掲示板に、指示した文章を自動で書きこみする、スパム広告用のソフトだ。戦うことを選びつづけた美香は、まあ実際に使うことはないだろうな、と思いつつ無料お試し版をダウンロードしておいた。五十件しか投稿できないが、じゅうぶんだ。美香は名前欄に『桜川美香』、件名に『いじめの復讐』と書いた。さらに本文を打ちこむ。
『末摘花学院大学附属高等学校一年三組の桜川美香です。ネットで「みぃな」として運営していたブログを荒らされていました。私はいじめられています。加害者は同じクラスの村井彩音。私をネットで誹謗中傷し、教室に隠しカメラを設置して脅迫したり、私を階段から突き落とそうとしたりしました。村井彩音が許せない。いじめ加害者に永遠の地獄を。村井彩音 十五歳 電話番号→03‐○○○‐××× 住所→東京都……』
 文字数制限が二百五十文字しかなかったので最低限の情報しか書かなかった。それでいい。そのほうがネットで憶測が生まれる。美香は大型掲示板で特に盛り上がっているスレッドのアドレスを五十件入力し、「書きこみ」ボタンを押した。一斉に広がる当惑の波。『みぃなってあのブログの?』と大勢が騒ぎはじめる。美香はまったく同じ文章を新聞社や出版社、テレビ局にも公式サイトのメールフォームから送りつけた。自分のツイッターにも『拡散希望』と書いてつぶやいた。今日の夕刊には大々的に掲載されるだろう。
 パソコンを閉じ、ふうとため息をついた。汗が頬をすべる。これで終わりだ。最後のカードを切った。絶対に美香が勝てる最終手段だった。情報リテラシーが下がった現代日本。この書きこみが真実だと思ったネット住民たちがさらに拡散するはずだ。それでいい。それで終わりだ、じゅうぶんすぎる。
 ――意味がなかった、とは、思わない。
 自分を貶めたネットで敵を潰すなんて、皮肉すぎる。美香はそう思いながら、渡り廊下から下界の中庭を見おろした。三階はさすがに高い。しかし運悪く生き残る可能性もあるので、落ちるなら頭からだ。わざわざ塀に立つことなく、美香はそのまま靴を脱ぎ、鞄もパソコンもそのままに身を乗りだした。下腹部に食いこむ塀が、妙にリアルだった。
 命を狙われるほど彩音の怒りを買った、という恐怖がプライドを押し潰す。それは、教室で孤独に過ごした中等部時代に選ぼうとした自害とは、全く異なる重みを孕んでいる。怖かった。世界が広がれば自分の価値観も通用しなくなり、誰かから批判される。美香はただ、美香を愛してくれる、同じ考えかたを持って生きる、美香を傷つけない人だけを集めて世界を構築したかった。そこから突きでたら、きっとまた軋轢が起こるから。その諍いを乗りこえてまで、異世界の人間と仲良くするつもりなんてなかったから。何もかもの、ぜんぶから、目をそらした。
 私はただ、しあわせになりたかった。
 ――死ぬ瞬間にひとつだけ願いが叶うなら、何をお願いする?
 もう何年も前の出来事のように茫漠と蘇る、彩音の声。重力に従い真下に落ちる髪。頭にのぼる血。やはり思い浮かぶのは風宮だった。ずっと好きだった。風宮だけは味方でいてくれた。一度自殺しようとした私を止めてくれた。「いじめられたのは自業自得」と大勢が言う中、風宮だけが信じてくれた。
 その風宮にまで「頼むよ」と懇願された。男が頭をさげるほど嫌われた。もう何もかもが終わった。破れたわけじゃない、終わったのだ。戻ってこられないほど長い夢が。風宮がいたから戦えた。彼が支えてくれたから自分を信じていられた。負けるわけがないと思っていた。なのに、終わった。最悪の状況に陥った自分を、風宮は捨てた。守ってくれる人も、失いたくないものもなくした。明日起こる幸運のために生きるなんてできない。今日に壊れた大切なものたちのために、誇れる過去があったはずなのに。
 もう、何もない。
 何度もすがりついてきたささやかなしあわせが、実現を目指した夢が、信じた友情が、砂のように指の隙間からこぼれおちた。
 長い長い片思いは、それそのものを勲章にするためにあるんじゃない。ましてそれだけを理由に相手に詰め寄るのは間違っている。だけど、どうしても言いたい。騙して欺いて嘘をついてきてしまったけれど、それを信じてくれた優しい風宮に、言いたい。
 美香は体重を前にかけた。頭からぐらりと傾き、風が追い打ちをかけるように白のワンピースをあおる。重力を受けた身体はふわりと浮遊感につつまれ、身体が地面に呼ばれる。世界がさかさまになる。耳の奥が鳴る。肌が震える。落下する肉体と意識。蝉の声がやむ。夏の日差しが緩む。美香の閉じられた目から涙がひと粒こぼれ、空中で弾けた。霧散し、散り、消える。空気と同調するように。
『同率一位とかってやばいな! クラス同じやろ? うち、関西から来たばっかで誰も知りあいおらんから、友達になったって!』
 ――意識が途切れる寸前、彼女の笑顔が浮かんだ。あの明るい声が、今になって強く、優しく耳の奥で響く。


 桜川美香が飛び降り自殺をした。
 講堂での始業式が終わり生徒がぞろぞろと帰ってゆく中、誰かが叫んだことを皮きりに伝言リレー式に単語が飛ぶ。ざわめきが広がる。逃げようとする女子と野次馬の男子とが押し合い、混乱を招く。自殺。二年生。三組。女子。桜川。美香。自殺。飛び下り。中庭。自殺。死体。血。生徒の絶叫が伝染し、地響きのような足音と悲鳴と先生の声がそれに重なる。彩音はけだるい始業式を終えてぼんやり浮いていた意識をピシッと締めた。倒れそうになるほど人ごみに身体を押された。ばらばらの単語がひとつの文章になる。美香が、自殺? いやまっさかー。別の誰かやろ。講堂の狭い通路で生徒の波が揺れる。「美香がなんて、ねえ」と同じクラスの友達が呟いた。なあ、そんなんな、ありえんやろ。信じられない気持ちと膨大な恐怖とがせめぎあい、彩音の笑顔は痛いほどひきつった。さすがにそれはありえない、あってはいけない、そこまでは、と首を何度も何度も振る。
 しかし、講堂を出て、人ごみを押しのけながら渡り廊下から下を見おろすと、ちょうど先生たちが野次馬の生徒たちを押さえつけながら、血だまりの中央に保健室のベッドシーツをかぶせる瞬間を、見た。
 白いワンピース。ショートの黒髪。真っ赤な血。吐瀉物。折れた手足。半分以上が潰れた頭。一瞬しか見えなかったが、彩音は硬直し、腹を掴んだ。息が止まる。足がガクガクと震えて立てない。手も震える。鉄の塊を飲みこんだような嘔吐感。咄嗟に口元を押さえる。這いつくばるように渡り廊下を出ると、トイレに駆け込んで勢いよく吐いた。口と鼻の穴から、溶けた朝食と胃液と少しの血が出た。ぐちゃぐちゃになって、複雑に混ざる。腫れた喉で、必死にゼイゼイと呼吸をした。目の焦点が定まらない。廊下で泣き叫ぶ女子や慌てる男子、面白がっている生徒たちの声に、桜川、美香、という言葉が混じっている。何度も何度も聴かされる。咳と血とが一緒に出てきて、涙も出た。美香? 自殺したのは、本当に美香なんか? あの美香が自殺したんか? 失神しそうな意識の中、駆けつけた他の友達に助けられ、顔を洗った。
 教室に戻ると、担任の先生が「すぐに荷物を片づけて。私と副担任の先生について、駅まで集団下校します」と言った。その声をただぼんやりと椅子に座って聴いていた。美香と、礼紗の席だけが空白だった。由乃は机に突っ伏していた。結局、死んだのが誰かと言うことは最後まで伝えられなかった。だけど、あの死体が美香だということは、その場にいた全員が確証を持っていた。俯き、早足に、朝九時半の街を歩いてゆく。道ゆく人が自分たちを見ている気がして、晒し者にされている気分で。誰もがすすり泣き、呆然とし、あるいは笑い、逃れようとした。この世界から意識をそらそうとした。そらす先もないまま、頑固な現実を恨みながら。誰にも世界を変える力などないのだと失望しながら。まだ暴力的な夏の日差しが、見てきたものを思い出せと、幼い少年少女の肌を焼く。
 学校はそれから三日間、休校になった。
 同じ学校の生徒の自殺、というだけなら単純だ。しかし、それでは終わらない。始業式の夜からずっと、彩音の自宅の電話が鳴りっぱなしだった。最初は母もいつもどおり受話器を取っていたが、やがて青ざめた顔をして切る。何度かそれをくりかえし、翌日には電話をとらなくなった。彩音が電話をとると、『人殺し』『いじめ加害者は死ね』『テレビで謝罪しろ、でないと家を燃やす』などと言われる。まさかと思いネットで調べてみると、美香による書き込みが大量に拡散されていた。そこには美香と彩音の名前と、彩音の住所と電話番号が書かれてあった。大型掲示板には専用スレッドが立ち、美香のツイッターアカウントからの呟きは四万リツイート以上。当日の夕刊で正式に報道される前にいたずら電話がかかってきたのは、このためだろう。電話につづいて郵便ポストに包丁や脅迫文、はたまた大量の犬の糞が入るようになった。車にペンキをぶちまけられ、門が壊された。窓に大きな石をぶつけられた。彩音は、これは美香からの復讐だろうとはかろうじて判断できたが、かといって理解はできなかった。
 夜、自宅に警察が来た。そのときにようやく事情を知る。プリクラ画像が流出したことにより掲示板の住民が個人を特定し、礼紗が夜道で襲われたこと。美香のブラウザの履歴に画像のURLが残っていたこと。美香のパソコンには掲示板の自動書きこみソフトがダウンロードされていて、ネットの書き込みはそこが発信源だということ。「いじめていたと彼女は言い遺していますが」と両親の前で訊かれ、彩音は激しく首を振った。「うちがいじめられとったんや!」と反論する。美香が書いた大量の手紙の現物と、彼女が教室で彩音の鞄に手紙を入れる動画を見せた。ネットの炎上事件から、美香の嫌がらせ、夏樹に対する殺人未遂の件も、すべてを話した。理路整然としていることからも捏造ではないと信用され、手紙と動画のSDカードは資料として検察にあずけることになった。美香の遺書の内容に関しては真偽が定かでなく、彩音を重要参考人とするもののはっきりと自殺に関与しているとは言い切れないこと、被疑者の彩音が逆に美香からの被害を主張していること、さらにプリクラ画像の流出元がまだ調査段階だということで、急な身柄の拘束などはなく書類送検で済んだ。現段階では証拠不十分で、仮に美香の両親が刑事告訴に踏み切っても受理される可能性は低いと言われ、まずはほっとした。いずれは由乃や夏樹たちもここに呼ばれるだろう。自宅ではまだ電話は鳴りつづけていた。最後にはとうとう父が回線を引き抜いた。逮捕されなかったとしても、面倒な毎日が来るという予感はあった。
 ネットで拡散された画像を完全に削除することは不可能だ。プリクラ画像は美香の顔の部分のみトリミングされて出回り、世間ではすでにいじめ自殺だと報道されている。ワイドショーでは憶測も流れ、ネットはさらに不確かな情報で溢れかえる。慣れない正義感に張りきるネット住民によって『遠慮はいらん、どんどん拡散しろ』と出回る個人情報。何に対しての遠慮だろう。桜川美香が村井彩音にいじめられて自殺した、という土台を元に作りあげられる巨大な砂の砦。叱責の雨。自宅に報道陣が押し寄せるようになり、外出ができなくなった。父がインターフォン越しに「帰れ」とどなった。週刊誌には匿名で彩音のことも掲載されたが、その内容のほとんどが勝手な想像だ。いたずら電話も手紙も長くつづき、母はノイローゼを起こして入院した。父は家に帰ってくるたび疲れた表情をしていた。一度だけ、彩音は自分を取り囲んだ報道陣に向かって「うちのほうがいじめられとったんや!」と叫んだが、「ですが相手の女子生徒は亡くなっています」「自殺するほどの苦痛を与えたのではないですか」と言われてしまった。
 これが目的か、と彩音は思った。美香の目的は、自らの命を売って被害者の立場を永遠のものにし、かつ彩音を絶対的な加害者にして社会的抹殺をはかることだ、と分かった。死の概念が希薄になった現代でさえ、十五歳の少女の自殺は国民のありったけの同情を誘った。「村井彩音にいじめられた」というメッセージは死によって確固たるものになった。事件からたった二日で、画像の送信元がまだ判明せず、由乃たち関係者の供述もとれず、彩音が直接美香の自殺に関与したわけではないという警察からの正式発表がないことも逆に拍車をかけた。それゆえに、主にネットでの「本当に桜川美香だけが悪いのか」「村井彩音もいじめられたと言っている」などという疑問の声は死者、ひいてはいじめ問題の軽視と呼ばわられ無条件に抹殺される。ほとんどの国民が美香に味方し、いまだ被疑者でしかない彩音を侮蔑した。事実か虚偽かは関係ない。そして、必要としない。
 復讐だ。命をかけるだけの効果はある。あるいは、この効力が美香の命の価値そのものか。彩音は別の意味で、命の重さを痛感した。死がもたらす影響を思い知った。
 美香のお通夜に参列しようとしたが、会場に入ることすら許されなかった。美香の両親が断固として拒否した。いっそ彼らを警察へ連れてゆき、検察にあずけた証拠物品を見てもらおうかと思ったが、会うことすらできなかった。門前払いされ、報道陣に囲まれる彩音の目の前で、クラスメイトたちが二列になって横ぎった。会場に入ってゆく彼らは、彩音をみとめると驚き、しかしすぐに目をそらし、俯いた。関わるまいとしているようだった。列の中に由乃の姿を見つけた彩音は、何かを叫ぼうとしたが、無遠慮に眼前に突きつけられるマイクが鼻を直撃して、顔を両手で押さえた。そのさまを撮影され、翌日の週刊誌に「被疑者生徒、自殺生徒の通夜で耐えきれずにむせび泣く/罪の重みを実感か」と掲載された。彩音は記事をビリビリにやぶり、そのときはじめて声をあげて泣いた。自宅の電話が不通になると今度はどこから調べたのか彩音のケータイが鳴るようになり、「死ね」「謝罪しろ」という匿名の罵声と一緒に無遠慮なジャーナリストからの「なんだかんだ言って、友達にひどいことしたっていう自覚があるんじゃないの?」などという、親身なのか挑発的なのか分からない話をくりかえされ、結局ケータイを解約し番号も一新した。
 三日後、休校期間が終わり、一度だけ学校に行った。校門前では報道陣が、登校中の生徒を無差別に捕まえてマイクを向けていた。しつこくつきまとわれ写真を撮られて泣き出す女子生徒、事実を誇張して話そうとし先生に止められる男子生徒。裏口から入ったが、下駄箱で先生に呼びとめられ、校長室で学年主任や担任も交えて長い話をした。彩音はこれまでの経緯を説明し、自分も美香にいじめられたのだと説明したが、やはり「桜川さんは自殺までした」の一点張りで、何の解決にもならない。大人はどこも見ていない。美香の死という結果しか見ていない。彩音を擁護する書き込みが叩かれるネットと同じだ。教育機関さえ、死が介入すれば一様に天秤が傾く。彼らはすでに彩音を加害者だと認知し、かつそれを隠蔽しようとする思惑が透けていて、興ざめしてしまった。全員、一方通行の狭い視野でしか物事を見ていない。だから大人は信用できない。いじめを大人に相談しないのは恥ずかしいからだ、心配をかけたくないからだ、などと勝手なことを言われるが、彩音は違うと思っている。大人に頼っても何も解決しない、むしろ悪化させることを子どもはよく知っているからだ、と。
 教室に入ると、これまで仲良くしてくれた友達が全員、彩音を無視した。遠巻きに彩音を覗き見し、小声で何かを話している。美香の遺書の真偽を確認してくる友達はいなかった。死体を目撃したのだ、真実がどうあれ、彼らの手のひらはオセロも同然。その上、ネットの書き込みにより「加害者は村井彩音」という印象が広まり、他の級友たちはほとんど批判されなかった。「いじめは傍観者も同罪」という共通認識も、加害者の実名流出という衝撃的な出来事の元に葬られた。だから彼らは今、比較的安全地帯にいる。罪悪感が伝染することなく、自分たちは大丈夫だという余裕が彩音への敵意を増幅させた。
 二限が終わった休み時間、彩音は美香と仲がよかった男子に突然、廊下で殴られた。「人殺し!」「死んで償え!」叫びながら彩音の腹を蹴る。何も入っていない胃袋から血を吐き、舌を噛んだ。強く誇り高い正義の暴力だった。この校内暴力はいじめではない、美香との強い絆のあらわれだ、と彼らの目が語る。倒れてなお暴行を受ける彩音を、誰も助けなかった。助けたら「お前はいじめを許すのか」と言われ、第二の被害者、そして加害者になると分かっているのだ。風宮がそんな彩音を横目で見て、通り過ぎて行った。それがこたえだった。蹴られながら彩音は、ああ、美香に殴られたなっちゃんの気持ちはこれか、と納得した。彩音は三限の前に無言で早退し、二度と学校に来ることはなかった。

 彩音は母のいる病院の前で、ゆく手を塞ぐ報道陣に向かって決定的な一言を口にした。向けられるマイクがまた顔にぶつかる前にと手で押さえつけると、「ひとりの人間を死に追いやった自覚はないんですか!?」と男性記者に言われ、彼を殴る代わりに叫んだのだった。それは長くつづいた「美香が被害者、彩音が加害者」という一方的な見解をほんのわずかながらも覆し、各所の各人がこの事件を根本から疑問視するきっかけになった。正義のお祭り騒ぎができる都合のいい出来事や薄っぺらい情報でいとも簡単に意見を翻す民衆は、彩音の発言に何度も眉根を寄せた。
「相手の子は自殺したんやから、って言うけどな。自殺したら絶対被害者になれるんやったら、うちが美香より先に自殺しとったわ。美香にされたこと遺書でバラして。証拠がそろったら味わえや。自分らが、罪もない女子生徒を殺そうとした女を『自殺したから』っていう安直な理由で擁護してたってことを」

『自分が先に自殺していた』『被害者生徒、殺人未遂?』というスポーツ新聞の見出しをぼんやりと眺め、彩音は何も乗せていないトーストを力なくかじった。土曜日だが、事件のことで何度か警察に呼ばれ仕事が滞っているらしい父は、朝に家を出ていった。ネットでは「村井彩音が」としか書かれていないので父の実名は晒されていないが、いずれネットに流出するだろう。彼はそれを恐れている。実際、彩音は父のスーツ姿を毎朝見ていながら、本当に出社しているのか、辞めてファミレスで時間を潰しているのか、分からなかった。彩音はネットで事件のニュースを漁り、それに対する世間の無節操なコメントやSNSの投稿を読むばかりの日々。かつては無数の『村井彩音が桜川美香をいじめていた』というコメントばかりだった。いくら彩音が弁明しようと、世間としては『美香が彩音をいじめていたなら、美香が自殺する必要はない』という見解なのだろう。道理にかなう。その見解に彩音の『自分が先に自殺していた』『美香は人を殺しかけた』発言が重なり、現在では世間の捉えかたがさらに複雑になっている。複雑すぎて真剣に考えることを放棄した国民が増え、今や一部の執着心が強いネット住民をのぞき、掲示板での議論も人口が減り、あとはただテレビで専門家が語るのみになった。いじめ自殺が起こるたびにくりかえさせられただろう紋切り型なコメントを。
 クラスの誰かから聞きつけたのか、マスコミが彩音と美香との確執、ネットでのやりとりまで詳しく週刊誌に載せたことで、大型掲示板にも『みぃなが桜川美香で、荒らしの中に村井彩音が混じっていた』という認識が広まった。彩音に味方する者も多いが、事態は変わりない。マスコミは実名を伏せながら、次々真実を掘り当ててゆく。暴かれる、ふたりがいじめられていた過去。クラスメイトが声を変えてワイドショーに出演し、授業を受ける教室の様子がニュースで流される。
 何より恐れているのは、芋づる式に夏樹へマスコミの魔の手が伸びることだ。彼女は何も関係がない。純粋な被害者だ。だから、夏樹が責められるいわれはまったくないが、マスコミが分別をつけられるわけがない。
 どうしたものか、と彩音はテーブルに額を擦りつけた。なんで美香だけが被害者みたいに言われとんねん、死んだら勝ちなんか、何やその最強カード。彩音は世間が美香に味方することよりも、美香が彩音の受けた傷を利用して出し抜いたことにショックを受けた。中学生のときのように、敵を欺くことには自信があったのに。思えば隠しカメラ作戦でも美香のほうが一枚上手だった。今回もこうして彩音を限界まで痛めつけることに成功している。なぜか些細なことで負ける。
 引っ越したろかな。彩音はぼんやりと思った。が、意味がないことに気づいた。自分は今後、クラスメイトを自殺に追い込んだいじめの主犯として日本中に名前と顔を知られて、後ろ指を指されながら生きてゆくのだ。自分も美香からいじめられたのに。細かい事情を知らない人に限って清潔な正義を叫び、正義感の強い人ほど自分の非を認めない。曖昧な正しさの定義と勧善懲悪の精神を持って。どんな経緯があったかは知るつもりもない、とにかく加害者は問答無用で社会追放だ、とばかりに。その無慈悲さ、無節操さ、思慮の浅さが日本を囲む。共通の敵を作って選民意識を高める、その生贄。必要な犠牲。いじめの行く末を見せつけるスケープゴート。残りの人生を、消えるはずのないいじめのささやかな抑止のためだけに利用されるのだ。
 声をあげる権利さえ奪われたまま。
 海外に高飛びしたろか、と思ったのは先日だ。学校で習ったところまでなら英語も話せるし、今なら九月スタートの学校に少し遅れて入学できる。多少は日本での出来事をたずねられるかも知れないが、アメリカならここよりずっとリベラルだろうと思っていた。
 中退のための手続きはまだはじまったばかりだ。間違いなくスムーズに行くと確信している。過日、警察からの正式発表があり、プリクラ画像のアップロード元は彩音のパソコンやケータイではなく、末摘花高校内部のサーバーからだと判明した。これに世間はどよめいた。学校のコンピュータールームや教務室、各種特別教室などにたくさんのパソコンがあり、全生徒、全教務員が加害者になりうることとなった。現在は警察の捜査が入り、パソコンの履歴が洗われている。
 さすがの彩音も驚いた。身近にいた誰もが当事者の可能性があると分かったことで、深刻な疑心暗鬼になった。しかし、学校全体の責任問題としてマスコミが加速度的に煽っている今、諸悪の根源の片割れである彩音が学校を去ると申し出れば誰も止めなかった。本来経るべきステップを大幅にかっ飛ばし、彩音の退学とアメリカ・テキサス州のカントリーサイドにあるちいさなハイスクールへの転入手続きは順調に進んでいる。
 彩音当人がやるべきこと、特に英語で書かなければいけない書類が多く、今日も作業をするつもりだった。買い物に行くことをやめ、机の前に向かったとき。
「……あ、やってもた」
 思わず口に出してつぶやいた。電子辞書がない。鞄の中を探しても見あたらなかった。先日、先生にチェックをしてもらいに学校へ行ったが、そのときに忘れてきたのかも知れない。特大のため息をつき、めんどくせえ、と思いながらも制服に着替える。今までも何度か学校と家を往復しているのだ、今さら外に出ることに抵抗はない。
 家の前で早朝から待ち伏せをしていた数人の報道陣にコメントを求められたが、自転車で逃げた。学校の最寄り駅で電車を降りると、さすがに末摘花の制服は目立った。早足に歩いて住宅街を抜け、裏口の門の前にいる警備員に通してもらう。教務室でたずねると、やはり忘れていったらしくシールまみれの電子辞書をかえしてもらった。「順調かい」「普通です」短い会話をしてすぐに出ていった。責められることも、慰められることもなかった。それが救いだったし、賢明だと思った。
 第二土曜日なので、学校には部活組しか生徒がいない。遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏と、野球部やサッカー部のかけ声。パソコンの件で彼らも被疑者のひとりとなった中、気が休まらないはずだ。それでも声は明るく、よく通る。すぐにでも帰るつもりだったが、彩音は踵をかえし、階段をあがっていった。せっかく誰もいないのだから、もう戻ることがないだろう一年三組の教室を、最後に一度だけ見ておこうと思ったのだ。
 一年の廊下は閑散としていて、歩くとき、靴の裏のゴムが床と触れあう音がやけに大きく聞こえる。一歩ごと、びちゃり、と足元で水が跳ねるような感覚。生き物の背中にいるようで、そのくせ死の臭いがする。人が死んだ学校。血が完全に拭きとられたあの中庭に残る、ひとりの少女の悲鳴と虚飾。
 彩音は三組の前で立ち止まり、ドアの窓から中を覗きこんだ。すると、窓際に立っている、よく見知ったうしろ姿を見つけた。耳に携帯電話を当てている。白いワンピース。細身の腰、ダークブラウンの髪。
 夏樹だ。
 彩音はここ数日緊張しっぱなしだった頬が緩むのを感じた。すぐさまドアをあけようとしたが、かすかに見えた夏樹の険しい横顔にひるむ。普段は穏やかで綿毛のような笑顔を振りまいている夏樹の、憎しみに我を忘れたような憤怒の顔つき。異常な落差だった。次の瞬間、「だからしょうがなかったって言ってんじゃん!」という絶叫が聞こえ、思わず身をかがめた。ドアの影にしゃがみこみ、硬直する。聞いたらあかん、と本能が警告を鳴らす。だが彩音はドアにぴったり背中をつけて、夏樹の声に聞き耳を立てた。
「大丈夫だよ、履歴調べたって私がそのパソコン使ったってことは警察にばれないし、修一にもらったプリ画はとっくに消去したよ。修一、なんで怒ってるの? 命狙われて黙ってられる人がどこにいるの。美香はそういう子だって、中等部のときに分かってたじゃない。さすがに自殺するとは思わなかったけど、当初の目的は美香を転校させることだったんだから、結果オーライだよ。当然の報い」
 鈴が割れるような夏樹の声に、血の気がひいた。肋骨のあたりを締めあげられる。指先まで心臓の鼓動が伝わる。顎に無駄な力が入って、呼吸がままならなくなる。今、自分が何を聞いているのかは自覚していた。だからこそ、幻覚か何かだと思いこもうとした。履歴。プリ画。転校。単語が磁石のようにひきよせられ、あるべき場所に並ぶ。
 なっちゃん。口をついて出そうになる叫び声を必死でこらえた。
 美香に階段から突き落とされたことを、そこまで恨んでいたのか? 安直にそう考えかけた彩音の耳に、新たな怒声が突き刺さる。
「そんなこと分かってる! だから警察で散々供述したよ、美香が前に私をいじめてて、彩音ちゃんが私の代わりに仕返しをしてくれて、それで美香がいじめられてるって思いこんだってふうに! 中等部の友達も証言してくれたから、証拠さえそろったら彩音ちゃんは悪くないって警察もちゃんと分かってくれるよ。今はすごい騒がれてるけど、いつか美香の暴虐が露呈して、彩音ちゃんは友達を守る素晴らしい人間って言われるはずだよ」
 早口に話す夏樹の声が、妙に優しくて。
「違うよ、修一。私はね、うちの家族までひどい目に遭わせてマンションから追い出した美香に復讐しただけだよ。どうして責めるの。地獄で反省してるよ、今ごろ」
 いつだったか、夏樹の母が話してくれた。風宮のお隣さんだった夏樹たち一家が、嫌がらせに遭って引っ越したことを。
「だって、自分ひとりでやろうとしても力量不足だったし! 彩音ちゃんは口喧嘩が強いし頭もいいから、美香に勝てるって思った。責任問題になっても、私が美香にいじめられてたこと話せば情状酌量ぐらいにはなるって、前に言ったじゃん。だから平気だよ、彩音ちゃんは私が守るから。彩音ちゃんのおかげで美香を消せた。これでぜんぶが解決したじゃない。喜んでよ、修一。これからは美香のいないこの学校で、ふたりで……」
 ドアをあけた。跳ねかえるほど強く。夏樹は肩を震わせて、はじかれたようにこちらを振りかえった。彩音はゆるゆると戻ってきたドアをふたたび押しあけ、教室の入り口に立ちつくした。チャイムが鳴る。逆光ではっきりと見えない夏樹の表情は、それでも突然現れた彩音の存在に驚いて硬直しているのが分かった。彼女の右手がゆっくりと、ケータイの電源ボタンを押す。彩音は数秒、そのまま動けずにいたが、やがてワンピースのポケットにそっと両手を入れた。右のポケットに入れたままの新しいスマホを静かに操作し、美香がかつてそうしたように録音をはじめた。
「今の話、憶測で勝手に要約させてな」
 自分でも信じられないほど、話す声は落ちついていた。「なっちゃんは美香が嫌いで、それは分かっとんねんけど、美香を精神的に追いつめて転校させるためにうちと美香を対立させた。うちに、なっちゃんの仕返しという名目で、美香にいじめをするよう誘導した」
 ドアの敷居を踏むと、ギイと木が鳴いた。
「美香を嫌う理由は、中等部のとき、姫野家が美香に執拗な嫌がらせや脅迫をされて、引っ越しさせられることになったから。何があったか知らんけど、なっちゃんのお母さんは警察頼ったらしいし、相当やったんやろな。たぶん、美香的視点で考えたら、風宮の幼なじみでお隣さんっていうのがムカついたんちゃうかな」
 後ろ手にドアをしめると、教室内はほぼ無音になった。いや、聴こえなかっただけかも知れない。運動部員の掛け声も、蝉の鳴き声も、誰かの止める声も。
「ところが、図太い美香は転校せえへん。一旦は落ちついたとはいえ、うちと美香、結構凄い勢いで喧嘩しとったのにな。そんで、なっちゃんは美香に殺されかけた。身の危険を感じたなっちゃんは、とうとうプリクラ画像をネットに流して、決定打を与えた。転校でなくても、ひきこもりとかでもよかったんやろな。で、やりすぎて、自殺された。そんでなっちゃんは今、焦ってるんかな」
 彩音がゆっくり、一歩ずつ踏み出すごと、夏樹は一歩ずつ下がった。ひらきっぱなしの窓まで追いつめられ、短い悲鳴をあげる。ケータイを胸の前で持ち、彩音を見あげて震える夏樹。怯えた表情が扇情的で妖艶だったが、今の彩音には分からなかった。
 なっちゃんが、プリクラ画像を流出させた。美香を転校させたがっていた。そのために、彩音を後ろ盾にした?
「ほんまのこと話して、なっちゃん」
 優しく言ったつもりが、ただの感情がない音になってしまった。
 夏樹の手がちいさく震えた。それがこたえだと分かった彩音は、彼女の肩を掴んだ。
「なんでや、なんでそんなことしたんよ! 美香のケータイ小説にあった、美香に殴られた的な話、あれは嘘なんか!?」
「違う、それは本当だよ!!」
 夏樹がかん高い声で叫んだ。悲鳴のようだった。
「私、凄く怖かった。家族全員身に覚えのない通販の箱が着払いで届いたりとか、十何人ぶんの出前が来たりとか、潰れたゴキブリの死体がいっぱい入った封筒がポストに入ってたりとか! そんなことが毎日毎日つづいて、家族みんな怯えてて、警察は真面目に捜査してくれないし。修一のおじさんとおばさんもお手上げで。そのとき修一が、デジカメをメーターの上に置いて動画を撮ったの。ドアポストに土を詰めこんでたのは、美香だった! あの子、修一のことが好きだから、隣に住んでる私を追いだそうとしてたんだよ、絶対。引っ越ししたらなくなったもん。家族の誰にも相談できなかったけど。うちの一家全員を疲弊させてまでくだらない色恋に溺れてたんだよ、美香は! そのことを問い詰めたら殴られて、証拠もないのにひどい、なんて被害者ぶられて。叩かれたことはあのときのクラス全員に知れ渡って、美香は無視されるようになった。そしたら今度は自分がいじめられたのは私のせいだなんて因縁つけられて! 悲劇ごっこに酔って、私が友達の好きな人を横取りしたがったなんて嘘の話にしてケータイ小説に書いたりして!」
 夏樹の目は次第に潤み、声が掠れた。彩音は呆然としながら、彼女の告白を聞く。
「誰にも言えなかった。クラスの子たちはもちろん、一度ひどい目に遭って崩壊しかけた家族には絶対に相談できない。お父さんもお母さんもノイローゼ起こしてたんだもん。美香は、犯人は自分だって気づいてるのが私だけだと思ってるみたいだけど、修一も知ってる。だから、ずっとふたりで復讐の機会をうかがってた。転校させてやる、町から出たくなるぐらい痛めつけてやるって。でも私には知恵がない。言いくるめて逃げる狡猾さも持ち合わせてない。そしたら、友達になってくれた彩音ちゃんが優しくて、すごい強い子だったから、きっと彩音ちゃんなら私のことを助けてくれる、美香を怯えさせて追いだしてくれるって思って。彩音ちゃんが美香のケータイ小説を見せてくれたとき、これだって思った。だからあのとき話したんだ。私が昔、美香に暴力を振るわれたことを話せば、味方になってくれるって……」
「それで、同情引こうとしたん?」
 彩音の言葉に、夏樹は口を閉ざした。
 椛音は必死で嫌な想像を振りほどいた。なっちゃんが、うちを利用しとった? 美香を追いつめるために。なっちゃんは何度も涙を零して、助けてって縋りついてきた。あの目に嘘はなかった。優しい友達を傷つける美香が許せなかった。ただ笑って欲しかった。夏樹にしあわせになって欲しかった。傷ついて欲しくなかった。善意でそうしていたのに、涙の奥で、夏樹はずっと考えていたのだ。
 どうすれば彩音が美香を潰してくれるかを。
「そんなん」
 彩音はふうっと細い息を吐く。「直接言ってくれれば美香にお灸据えさすのなんか、いつでもやったったのに。同情ひいたりとか、まだるっこしいわ。どんだけ信頼してへんの。普通にな、昔美香にいじめられとったって話してくれたらよかってんて」
「彩音ちゃん」
「それよかな」
 彩音は突然、夏樹の右腕を乱暴に掴んだ。強い力で締めあげられ、痛い、と夏樹が悲鳴をあげる。彩音は自分の顔が、信じられないほど熱くなっていくのを感じた。
「なんでプリ画をネットに晒したんや」
 低く、ドスのきいた声で、関西弁で罵られる。夏樹はすくみあがり、青ざめた。目尻に浮いた涙が急速に乾いてゆく。
「だ、だって」親に叱られた子供のように、ちいさな声で言い訳をする夏樹。「あの子、私のこと殺そうとしたんだもん。あのまま階段から落ちてたら死んでたよ。とうとう命を狙われるぐらい恨まれたんだって分かって、怖くなって、早く追いださないとって思って」
「こいつがみぃなやって書きこんだんか」
「何も悪くないじゃん! 自分の身を守っただけ! 自殺までするなんて大げさだよ! あの子お金持ちじゃん、学校やめて家に引きこもったらいいって思っただけだよ。時間が経てばネットの人は忘れるんだから、それまでじっとしてればいいのに、死んで逃げたから問題がこんなに大きくなった! しかも彩音ちゃんをいじめの加害者にして! 私だけじゃなく彩音ちゃんまで、自分の悲劇の妄想をひきたてるための悪役にして、あの子はどれだけ私たちに迷惑かければ気が済むの!」
 夏樹は何度も何度も頭を横に振り、泣き叫んで訴えた。襲われる小動物のようだった。しかし、彩音は手を離さなかった。血が通わなくなり手のひらが紫色になるほど、夏樹の手首を強くつかんだ。
 そして思った。――なっちゃんの涙も、同じ色をしていると。
「なっちゃん、今さ」彩音の声はさらに低くなる。「美香がネットにうちの個人情報晒さんかったら、美香がおらんくなったわラッキー、で済んでたと思ったやろ、一瞬」
「違う、そんな」夏樹の掠れた声は、彩音が窓枠を叩いた音にかき消される。
「アホちゃうか! なっちゃんは一番でかい間違いをしとる! あんなふうに殺されそうになって、その怖さから衝動的にやらかした気持ちは分かるわ。めっちゃ分かる。うちも同じことしとったかも知れん。なっちゃんは美香が嫌いやろ。うちも大嫌いやで。けどな、究極的に違うわ、うちとなっちゃんが美香を嫌う根っこのところとか色んなんが」
 彩音はもう一度窓を叩いた。壊れそうなほど激しい音がした。手のひらに激痛が走る。
「美香は図太いし、強そうに見えるけど、過去になんか嫌なことあって自分でプライド高めに設定したせいで、それをうまく扱えんくて火傷する子や。ブログの荒らしに対抗したんも、そうせんと弱さが露見するからってだけで実際は全部放り出したいぐらい苦しかったはずや。匿名なら本性出せるあの子にとって、ネットに自分の顔写真がハンドルネームと一緒にバラされるっていうのはキャパオーバーやってんて。そのメンタルの弱さを知らんかったやろ、なっちゃん。あの子の臨界点分からんくてクリーンヒット喰らわしたんはなっちゃんやで! うちは美香の欠点を山ほど知っとるけど、ええとこもめっちゃたくさん言える。そのうえで美香が大嫌いなんや! 取り返しがつかんくなるって分かるから、画像アップする前に相談してくれたらうちがなっちゃんを止めたのに!」
 最後のほうはほとんど絶叫に近かった。お前が美香を殺した、と言わんばかりの彩音の物言いに、夏樹も引っこみがつかなくなったのか本音を漏らした。
「じゃあどうすれば正解だったっていうの! さすがに犯罪レベルまで行きそうだったから怖くなって、夏休み前にふたりを落ちつかせたのに、それでも美香は私を……」
「落ちつかせた?」彩音は眉根を寄せた。「ああ、あれか。なっちゃんがうちに、しばらく美香と距離置け言うた話。そうか、あれってうちと美香の戦争がヒートアップしてきたから、冷却させよう思て言うたんか」
 図星だったのか、目を瞑って震える夏樹。
「あれもそうか、同時期に美香もうちのこと無視しはじめたんって」
「……同じこと、修一にやってもらったの」
 あの時点ですでに、風宮と夏樹は協力関係にあったのか。それもそうだ、あの風宮が幼なじみの涙を見て放っておくはずがない。
「そんだけビビりで、問題がでかくなったときに焦って対処に困るのに、なんで……」
 最悪の結果を予想できず、いざ取り返しのつかない場面に接して正常な判断力を保っていられる力も覚悟もない。だから夏樹はプリクラ画像をネットに晒して、後悔した。その後悔の刃がすべて自分に向くほど自信がないから、必死で正当化して怯える。
 例外なんてない。誰もが弱い。
 歯を食いしばった。自分が夏樹と友達になりたいと憧れているときに、彼女は自分を利用するための算段をしていた。話してくれれば。最初に言ってくれれば。訴えたところでもう美香は戻らない。風宮だけじゃなく、自分や、由乃にも相談して欲しかった。全力で守ったのに。もっと真正面から、美香の前科に対して仇討ちしたのに。
「――なっちゃんの中で、うちの存在ってなんやったん」
 本音がつるりと口をついて出る。その言葉に傷ついたような顔をした夏樹は、かつて彩音が美香にしたように、礼紗が彩音にしたように、彩音の頬を強く張った。目の前が白く弾け、激痛が走る。
「どうせ彩音ちゃんだって、いつか私のこと妬ましく思うくせに」
 夏樹の目から、信じられない量の涙がぼたぼたっ、と溢れて床に落ちた。手の甲で何度も涙を拭いながら、愛を、憎悪を、ただ素直に吐露する夏樹。失われた言葉はすべて、空気を震わせるように彩音に伝わった。うろたえた。無様なほどうつくしいそれらは、どうしても忘れられなかった昔の幻影に似ていた。
 彩音はその場に立ちつくしていた。すべての時間が一ヶ所に集まる。あるべき場所に戻ろうとするチェーンの欠片のように。幻想じみた音を響かせて、継ぎ目をあわせて、脆く崩れそうになる地面を踏みしめて必死に立って。最後にすがりつくのはそのツギハギだらけの現実と知っていながら、人は溺れ、涙を流し、誰かの愛情を信じようとして、そのぶんだけ何かを乗りこえた気になって偉ぶって。傷ついた数だけ強くなれるなんて嘘だ。道の先にあるものに約束がなければ、いずれ足元は泥のようにぬめり、砕け、谷底に還る。
 今は何をやっても、何を言っても、変わらないものができてしまった。
「なっちゃんの、決定的な間違いな」
 彩音は静かに、恐ろしいほど冷静な声で言った。夏樹は顔をあげ、目を見ひらく。
「……礼紗は、無関係やろ」
 小動物のように大きく黒目がちな夏樹の目が、濁った深紅に染まった。すぐに飛んできたもう一発の平手を、彩音は片手で防ぐ。爽快な音がして、痛みが肘まで伝わる。夏樹はあいた片手をにぎり、彩音の肩を力いっぱい殴った。一瞬ひるむが、彩音はすぐにその手を掴んで真下に勢いよく引っ張り落とす。体勢を崩した夏樹の足を払って、背中から落ちた彼女の両腕を肘で固めた。
「喧嘩でうちに勝てると思わんといて」ほくそ笑む彩音。手早くスマホを取り出し、録音を停止して操作する。夏樹は痛みに細い悲鳴をあげたが、すぐさま彩音の肘にめいっぱい爪を立てる。思わず手を離すと、その隙に立ち上がった夏樹に脇腹を蹴られる。スマホが床に落ちた。さほど勢いはなかったが、よろめいた彩音はひらきっぱなしの窓の枠に鳩尾をぶつけた。咳き込み、窓の下へ身を乗り出したその一瞬の隙をついて、夏樹が彩音の片足を脇に抱え、肩の高さまで持ちあげた。悲鳴をあげる彩音の身体は、腹を支点に窓の外へずり落ちていった。必死に窓枠を掴んで耐えたが、夏樹が抱えた片足を窓枠より外へ出し、ずるり、と彩音は窓からぶら下がった。スカートがめくれ、声にならない掠れた悲鳴が響く。全身の血液が一気に脳天に集まる気がして、こめかみが痛くなった。夏樹は彩音の足首を掴んで支えているが、重みで靴下がずるずると脱げてゆく。
「あかん! ほんまやめて落ちるから!」自由なもう片足をばたつかせる彩音の絶叫。「やめてや助けてほんまやめて嫌やこんな死に方したくない! なんでうちまでなっちゃんのために消されなあかんの!」
「消される、なんて」
 夏樹の目は真っ赤に腫れ、涙がひたすらに零れる。「頭おかしいんじゃない? 彩音ちゃんだって私のこと利用してたくせに。昔傷つけた自分の友達を思い出して、過去の贖罪のために私を救おうとしたんでしょ? いじめられてるかわいそうな女の子に寄りそってまで寄りそわれたかったのは自分のくせに。美香のこと自意識過剰とか言いながら、あんただって自己満足で、訳知り顔でいじめっこの救世主ごっこしてたんじゃない。自分が原因でいじめられたっていう自覚あるんなら、前科消して逃げようとすんな、元デブが」
 恐怖に歪んでいた彩音の表情に、一瞬、悲しみとも後悔ともつかない色が浮かんだ。夏樹の目から零れた涙が、彩音の太腿を伝ってゆく。彩音の涙は、まつ毛を伝い、その先でちいさな水の球になって、中庭に落ちる。
 耳の奥で、死を間近にした人間にしか聞こえないだろう音楽が響く。そしてかつて、ここではないどこかで抱きしめた、自分によく似たちいさい小鳥の、あの鮮やかな羽ばたきの音が重なった。
 荘厳なオペラと共に、メリーゴーラウンドがまわる。――こぼれてゆく。
 忘れたかったのに、今、目の前で泣いている夏樹を救いたがっている自分が、不思議で、妙で。風が鳴り、夏樹の手が重みに耐えきれずずり落ちてゆく。彩音は彼女の手をとれない代わりに、もう片方の足を添えた。静かに、重ねるように、耳をふさぐように。
「ごめんな、助けられんくて」
 もっと早くに友達になれたらよかった、と思うことすら、たぶん重罪だ。
 夏樹はまた、顔を歪めた。怒っていた。同時に泣いていた。歯をむき出しにして、顔に皺を寄せていた。彩音の足首を持つ手の力が緩んだ。そして、解放される。許された彩音の身体は、まっさかさまに重力に引っ張られる。一瞬の浮遊感。ざっと音を立てて血の気がひく。中庭に激突する寸前、彩音の耳に「嘘ばっか言ってんじゃねえよこのゴミカスが!」という夏樹の怒声が聞こえた。

   * * *

 桜川貞義【なぜうちの娘が自殺しなければならないのか。いじめなんて臆病者がすることだ。いじめ加害者に人権など与えたくない。美香が命を捧げたぶん、一生をかけて償って欲しい。気に食わない友達を自殺に追い込むなど、本当に人間のやることか。どんな親に育てられたらそんな凶悪な悪魔に育つのか。里が知れる。美香はさぞ苦しんだだろう。その尊い意志を、私は尊重しつづける。美香がいじめていた? 侮辱もいいところだ】

 六条礼紗【あたしは殺してないですよ。彩音って自殺でしょ? 確かに憎らしかったけどさ。あたしは美香に巻きこまれただけ。いじめられてる友達を助けてあげようとしてたのに、なんであたしを責めるんですか。どうしたら正解だったんですか。ねえ。いじめを目撃したすべての中学生はひとり残らず、絶対にその正解の行動をやらなきゃだめなんですか? そうしないと大人は加害者の仲間呼ばわりするんでしょ、どうせ】

 村井幸代【まあ悪ノリするところがある子やったけど、いじめるような人間と違いました。仲ええ子相手やとよおふざけるみたいやし、それをいじめやって相手の子が勘違いしたんでしょ。悪意が全くないのにいじめやなんて横暴でしょう。それで一方的に悪人扱いされた彩音のほうがいじめられてたようなもんやないですか。そんなん言いだしたら、友達相手でも何もできなくなりますやん。絶対に相手を気分悪くさせんように顔色うかがって、お互いがいい気分にしかなれん人間関係しか許せへんのですか、この国は】

 支倉由乃【美香は確かに、彩音をずっと陰湿にいじめつづけてた。だけど、無関係の人たちが声高らかに美香を批判するほど、悪人じゃないんですよ、近くで見てると。ふたりとも、ただ傷つきたくなかっただけだと思うんです。だから私はどうしても和解させたかった。私は美香を敵だとは思えなかった。彩音は友達思いだって知ってた。だけど、私は美香を敵とみなさなかったから、彩音に弾かれた。それだけです。これを悪いことだと大人が言うなら勝手にしてください。みんなその中で必死に生きてるんだから】

   * * *

 寒い。手足が凍りつきそうだ。もう爪が取れてしまったのかも知れない、と思って風宮は毛布から手を出し、月の光にかざしてみた。爪は、ある。指も。だがいつ凍傷を起こして壊死してしまうか分からない。そう考えた瞬間、指先が濡れた泥だんごのように崩れてしまう想像がふたたび脳裏をかすめ、それを振り払うために風宮は枕に額を擦りつけた。ベッドのスプリングが鳴り、前髪が抜け、摩擦で熱が生まれる。
 あたたかくなった顔に手のひらを当てた。大丈夫。風宮はそう呟いて両手をさする。大丈夫だ、まだ指がある。壊死してない。でもとても寒いから油断ならないぞ。毛布を頭から被りひたすらに暖をとろうとするが、九月下旬の今、厚着をしている風宮の体はすでにじっとりと汗をかいている。彼の自室は締めきり、カーテン越しに見えるかすかな月明かりだけが少年の震えるさまを照らしていた。
 何度も何度も、呪いの言葉のように「大丈夫」と口にし、体を丸めて震えた。寒気が止まらない。奥歯が鳴る。足の指先を、射精する瞬間のようにきつく内側に丸める。寝間着は汗で湿り、それが風宮の体温を奪う。家族がドアの前に食事の載ったトレイを用意しているが、風宮はすでに一週間近く、用を足す以外は部屋から一歩も出ていない。
 暗い室内に、秒針の音と風宮の呟きだけが響く。そこに突然割って入ったのが、もう二度と聞きたくなかったケータイのバイブ音だった。風宮は毛布がずり落ちそうになるほど体を震わせ、枕に顔を押しつけて絶叫した。違いますごめんなさい許してください俺は何もしていない! バイブがやみ、しばらくしてまた鳴る。それを四度ほど繰り返したところで風宮は毛布から顔を出し、サイドテーブルをじりじりと滑るケータイを手にとった。画面に「夏樹」と表示されてるのを見て、それを床に取り落とした。五度目のバイブが鳴ったとき、風宮はようやくケータイを拾いあげて通話ボタンを押した。
「……なんで」風宮の目から涙が溢れ、鼻水が口に入る。「電話してくんだよ」
『修一! やっと出てくれた。やっぱり大丈夫だったよ。彩音ちゃん、自殺でほぼ確定になった。間違いじゃなかったんだよ!」
 その言葉にまた、全身が跳ねる。弛緩し、震える。ベッドの上で身をよじり、冷たい心臓を摩擦であたためようとする。
 一週間前、彩音が死んだ。
 教室の窓から落下したと見られ、美香と同様に頭が潰れて即死だった。日本中から浴びる非難を苦に飛び降りた、という噂が飛び交い、警察もそれが自殺の動機だと発表した。それを確固たるものにしたのは、彩音の死亡推定時刻とほぼ同じ頃、ネットに流された以下の書き込みだった。
『桜川美香をいじめていたと話題の村井彩音です。本人です。私は彼女をいじめてなどいません。彼女のブログを、彼女が管理人と知らず荒らしただけです。それを知った美香は、私の下駄箱に嫌がらせの手紙を入れたり、会話を録音して脅迫したりしました。挙句、彼女は私の大切な親友を階段から突き落とそうとしたのです。桜川美香を擁護するみなさん、報道では分からない真実を知ってください。自分を正当化するためには殺人も辞さない人間を、一方的な視野のみで被害者だと判断し守らないでください。今こそいじめの本質を知る時です。桜川美香による第二の犠牲者を生む前に。どうか、お願いします』
 最初の書き込みは大型掲示板だった。死体発見時に彩音のポケットに入っていたケータイは、この書き込み完了の画面がひらいたままになっていた。即座にネットで拡散され、『これマジ本人?』『桜川美香が人を殺そうとしたって』『だから言ったろw』と騒がれる。その日のうちにニュースになり、大々的かつ瞬間的「いじめ問題ブーム」が起こった。これまで桜川美香を被害者、村井彩音を加害者と断定しつづけてきた国民はうろたえた。常識の転覆は時代を動かす。双方の自殺というなんとも責任の所在に困る結末に、専門家は首をかしげるばかり。どちらに味方しても非難を浴びる。いじめにおいては特に白黒つけたがる勧善懲悪主義の大人たちを、高校一年生の少女ふたりは前例のないイレギュラーでぞんぶんに撹乱した。マスコミは中立な立場を守り結論は大衆に任せるという大義名分のもと、いじめの概要を洗い出して報道するのみという逃げ道に出た。実際はただふたりが犯した行為を晒してゆくだけだったが。そして大人の「平等な判断のための仔細な事実解明」を円滑にすべく、末摘花の生徒がマスコミに詰問されることとなった。駅前から学校の門までは教師が列を作って生徒を守り、記者たちが腕ずくでそれを押しのけ、感受性が高く怯えきった生徒から思い出したくもない死体の様を聞きだそうとする。誰もがショックで押し黙るか面白半分にマスコミを茶化すかのどちらかだった。個人情報保護と報道の自由とがせめぎあい、詮索を恐れて登校拒否になる生徒も出た。カメラから思春期の生徒を、そして分別のつかないおしゃべりな生徒から学校の威厳を守ろうとする教師の姿が、いじめを隠蔽しようとする学校の姿勢と判断された。生徒の五分の一が転校により姿を消し、入試の受験者数は中高共に激減し、末摘花の制服を来た生徒は近隣住民から殺人犯を見るような目でにらまれる。大学附属高校のブランドは事実上、廃滅した。これからは村井家と桜川家、双方が法廷で争い紙面を湧かせるだろう。
 彩音は命をかけて身の潔白を証明したのだと信じられ、風宮もそうだと思っていた。が、数日前、夏樹からかかってきた電話で一気に崖下へ叩きつけられた。
「ごめん、彩音ちゃんを助けられなかった」
 詳細を聞くごと、血の気がひいていった。一週間前、彩音死亡の当日、夏樹からの電話が途中で途切れたあの日。彩音に自分たちの会話がすべて筒抜けだったと知り、揉み合いの末に窓から突き落としたという。彩音は自分たちのことを警察に言うつもりだった、だから仕方なかった、それに意図的に落としたんじゃない、とも言っていた。夏樹は以前、美香がスマホで会話を録音していたことを思い出し、もしかしてと思い教室に残った彩音のスマホをひらくと、やはりボイスメモのファイルが残っていた。すぐさまハンカチ越しに操作してそれを削除し、さらに自殺に見せかけるために例の書き込みを大型掲示板へ投下した。そのまま何食わぬ顔で美術部の活動に戻っていった夏樹は、他の生徒からの「また誰かが飛び下りたぞ」という大声に、泣き崩れたふりをして逃れたという。
 風宮はそれ以来、外へ出られなくなった。
『やっぱさ、あれは間違いじゃなかったんだよ。咄嗟の判断が役に立ったね』夏樹が興奮を隠しきれない声で言う。『これで彩音ちゃんの無実が確定されるよ。みんな、私が書きこんだ偽の遺書を信じて、彩音ちゃんをいじめたのは美香かも知れないっていう噂が広まってるよ、今。この風潮がつづいて、私や由乃の証言が重なれば、彩音ちゃんは報われる。きっと許してくれるよ』
 うわずった声で嬉しそうに話す夏樹。その、誰もが憧れる鈴の音のような声を、風宮は恐れた。まだおとなしくしていたころの夏樹を思い出そうとして、できなかった。まるで夏休みの子供のようだった。彼女は何度見ても、昔とあまり変わらないのに。
 美香のことが大嫌いだった。勝手に好かれて、大切な夏樹を痛めつけられて。
 マンションのトラブルがあってから、夏樹と風宮は幼なじみ以上に強く互いを意識するようになり、内緒でつきあうことになった。ふたりの仲を裂こうとして美香がやったことは、皮肉にも結果としてふたりの絆を深めることになった。その優越感、物語の主人公のような自分の立場に熱くなり、美香を嫌悪する気持ちも増幅されていった。妄想の中で自分と勝手にデートされて、仲のいい女子に勝手に嫉妬されて。『夏樹はただの女友達』と公言すると美香は夏樹を攻撃しなくなったが、引っ越したあとも姫野家全員が疲弊し、隣人を恐れ、隠れるように暮らしているさまを見るたび、両の拳をほどく機会を手放した。
 だけど、今、美香は死んだ。自分を盲目的に愛し、邪魔な女を蹴散らしてまで自分を見つめつづけ、いつか恋人同士になれるはずだと信じて疑わなかった、あの美香は。
 なおも興奮を隠しきれず現状の報告をしつづける夏樹の声を、そっと遮った。
「お前、何がしたいんだよ」
『え?』
「美香を殺して、それで本当によかったって思ってんのかよ、マジで」
 地面に響く声。空気全体をくるんで離さない、暗く重い音。
「確かに俺だって美香のこと、大嫌いだよ。あいつのせいでお前も、お前の家族もめちゃくちゃになったの、全部覚えてる。だけどさ、なんでこんなことまですんだよ」
『こんなことまでって、さすがに自殺するなんて思わな』
「さすがにってなんだよ、どこまでだったらよかったんだよ!」
 風宮は声を荒げた。涙交じりだった。その悲痛な叫びに、電話口の向こうで夏樹がちいさい悲鳴をあげる。
 夏樹が美香に殴られ、風宮が女友達宣言をし、美香がそれを認め、事態が落ち着いた中等部三年の末。ぼろぼろになった夏樹に「いつかあの子を追いだそう」と誘われた。そのときの、涙を浮かべた、逃げ道を失って自分にすがりつく夏樹の表情を、覚えている。
「そもそも、あれが間違いだったんだ」と、うわごとのようにつぶやく風宮。
 春。夏樹が彩音のケータイを拾ってあげたときに見て知ったという、美香が運営しているとしか思えないブログ。自分を模した架空の男子と管理人みぃなとの、妄想恋愛ブログ。気持ち悪かった。夏樹も自分も、管理人は美香だとすぐに分かった。腹いせのために風宮はブログを大型掲示板に晒し、炎上していく様を眺めてほくそ笑んでいた。
 美香と彩音が互いの正体に気づき、教室で戦争になったあの日。夏樹は新たに美香が書いたケータイ小説を見つけてきた。夏樹がマンションでのできごとを問い詰め殴られた一件が、友達が自分と同じ人を好きになった、裏切られた、というストーリーになっていた。ただ憤り、奥歯を噛みしめ、ケータイを床に叩きつけた。夏樹と約束したことを、今こそ実行すべきだと思った。夏樹が彩音を煽り、美香をいじめて、転校させたら成功する。もし彩音が責任を問われたら、美香にされた嫌らがせをすべて明かして、彩音を「友達のために仇討ちをした正義のヒロイン」に仕立て上げればいい。そのときはまだ、自分が美香のブログを掲示板に晒したことも、荒らしの中にたまたま彩音がいたことも、彼女らが本格的に対立するきっかけになったからちょうどよかったと思っていた。
 だが転校するどころか、盗撮や脅迫など、一歩間違えれば警察沙汰になりかねない本格的な戦争に発展した。夏樹と風宮はそれぞれ彩音と美香を説得し、落ちつかせた。大ごとになってしまうことを恐れた。あくまで美香が転校したのは因果応報で、彩音は強く優しいヒロインという結果で終わらせたかった。夏休みにじっくりガス抜きをすれば、美香と彩音は友達に戻れなくても、せめて喧嘩などしない、互いに無視するだけの関係になれるだろうと思っていた。
 なのに、夏樹が殺されかけた。一瞬は信じられなかった。いくらなんでも、保身を優先するあの美香がそこまでするはずない、と。だから夏樹の「殺されかけた」という言葉も、無意識に脳内で打ち消した。そんな風宮の態度にしびれを切らした夏樹はこっそり、ずっと以前に送った美香のプリクラ画像をネットに流した。結果、礼紗は襲われ、美香は自殺し、真相を知った彩音も死んだ。
 俺は結局、何を守りたかったんだ?
「やめておけばよかったんだ、ふたりが暴走しはじめたときに」
 風宮は鼻をすすりあげ、涙をぼたぼたと零しながら言う。「あそこまで本気にならなくてもよかったんだ。美香は、性格はともかく頭はいいやつだし、今思えば彼女とちゃんと膝を突き合わせて話せば分かってもらえたかも知れないんだ。なのに、何もかも間違ってたから、彩音は無駄死にして礼紗も傷ついて」
『修一、駄目だよ、美香は人を信じないから、何話したって無駄だったじゃない』
「そのバイアスがこの結果だろ!」鼻水や唾を飛ばして怒鳴る風宮。「何度でも話せばよかったんだ。少なくとも俺は、美香に俺とお前の関係を認めて欲しかった。こそこそ隠れて付き合いたくなんかなかった。美香が俺のことを一方的に好きだったのは確かに嫌だったけど、好きになってくれたことまで嫌ってない。返り討ちにあってもいいから、時間をかけて彼女に理解してもらいたかった。あの子は俺よりもっといい男としあわせになる権利があった。なのに美香は俺のことが好きなまま死んだんだ! 死ぬまで風宮修一っていう呪縛から自立できなかったんだ!」
 それだけじゃない。救いを求める彼女からの最後の電話を、自分の命が惜しいばかりに冷たく切ってしまったのだ――
 枯れた、悲痛な叫び声。涙が散り、フローリングに落ちる。ちいさなすすり泣き。前向きで、絶対に成功すると信じて、夏樹とのしあわせな未来を思い描いていた。美香のいなくなった教室で、みんなに「付き合うことになった!」と報告して、祝福されたかった。彩音や由乃にからかわれたかった。それがしあわせなんだと信じていた。
 彼女のいない日常もいつか当たり前になってしまうと考えることが、当たり前になっていた。
 美香と付き合う自分は想像できない。いつか正面きって断らなければならない日が来ると分かっていた。だけどそれが叶わなくなったから、美香が最後まで抱えた想いは、願いは、この世界にとどまりつづける。そして、風宮の背後にも。
 その亡霊を振りはらう理由を、自分は永遠に手放してしまった。電話を切ったあの瞬間に。
『修一って』
 夏樹が電話口で、ささやくように言った。『美香のことが好きだったの?』
「違う、好きとかじゃなくて」
『言い訳なんかいらない。正直に言って』
「分かってんだろ、夏樹。恋愛感情じゃないんだ。俺が一番愛してるのはお前だよ」
『嘘。偽善ばっかり。彩音ちゃんと同じ』
 夏樹の友人であるはずのその名前は、ぞっとするほど冷たい声でつむがれた。
「違うんだ、違う」風宮は何度も頭を横に振った。「確かにさ、ほら、好きになってくれたのは素直に嬉しいし、その気持ちは無下にしたくないから」
『ほら、やっぱり』
 その低い声に、風宮の涙は止まり、背筋が伸びる。『だから美香が死んだことをそんなにも残念がってるんだ』
 何度目かの、違う、を言おうとすると唐突に電話が切れた。無骨な電子音に阻まれ、言葉は届かない。風宮は数秒、その場で呆然としていた。涙が流れた。音もなく、静かに頬を伝う涙を、もう二度と拭えなかった。まばたきを忘れた。ベッドにもぐりこみ、生まれる前の胎児のように身体を丸めた。寒かった。途轍もなく寒い。凍りつきそうで、体温を失った場所から壊死してしまいそうで、風宮は何度も布団に身体を擦りつけた。

 傷ついてまで救われたかった夏樹の誘いに乗ったのは自分だ。そして今、美香が自分を好きにならなければ、椛音がおせっかいを焼かなければ、と考える。この冷気はどこから来た? 幼い身体で、頭で、いったい自分たちは何を必死で考えていたのだろう。十五歳は未熟すぎる。それでもうまくいくと思った。騙せると思った。立派な自信があった。そして最終的に何をもたらしたか。辿りついたこたえはあったのだろうか。自分は、椛音と美香が持っていたあの支離滅裂だけど確実に己のものにしていた主張や価値観に対し、肯定や否定ができただろうか。
 あのふたりは譲らない自我とそれに見合う回答を持っていた。だから互いを攻撃した。自分と食い違う生き方をする相手を認めず、それによって否定されることを恐れた。もしふたりが生きていれば、互いを否定し否定されたことによって、思春期を終えたあと、一本筋のとおった不変の回答を求めてさまようようになったはずだ。それでもこの世界に絶対的な答えはない。流動的であり、茫漠としていて、人の移り変わりによって容易にその形を変えてゆく。こたえが永久に変わらない問いかけは、愚者が縋りつく道徳だ。
 ――だから、こたえを訊ねつづけ、こたえを出しつづけないといけない。
 風宮は毛布の中で、自分の頭を抱えた。両足の間に挟みこみ、首を折れるほど曲げる。空想の中で、波打ち際に作った城が少しずつ削りとられてゆく。塔の上から誰かが飛び下りる。手放そうとして、もしくは、手に入れたくて。その風を受けるのは、自分ではなかった。そうあって欲しいと願っていたのに、いつの間にか塔の中にある石像や銀食器や本は埃をかぶり、皮の剥がれた赤い二人掛けのソファが西日に晒されている。

 待ち受け画面に戻ったスマホを親指で操作し、夏樹はインターネットを巡回した。人が減った放課後の教室棟、女子トイレの中で、ボタンの音が晴れた空の隙間を埋めるように鳴る。ニュースサイト、SNS、掲示板。ひたすらに、機械的に指を動かす。非難を逃れるためか中立的な態度をとる新聞社の記事に対し、個人の発言はほぼ「彩音派」「美香派」に分かれて議論を戦わせていた。美香のブログを荒らしカメラで教室を撮影した椛音は、美香にいじめられた親友の仇討のために戦ったと擁護され、椛音に嫌がらせの手紙を送りつけたり怪我をさせたりした美香は、ブログでの人格否定に近い中傷の反撃と言われる。美香と椛音、それぞれがネットに流した個人情報は、それが正義だと言わんばかりに現在も大量に拡散されている。無関係な生徒が実名で「いじめに加担していた」と書かれるなど、嘘も大量に混じって収拾がつかない。どっちが加害者かなんてどうでもいい上に、そもそもこの世に勧善懲悪は存在しない。
 被害者と加害者という二極でしか理解しない者が、この事件を「いじめ」と名づけた。
 彩音を擁護する書き込みは、彼女の死の直後だからかまだ多かった。
『いじめられてる友達のために戦うとか誰もやらねえだろ』『この子立派すぎる』『村井彩音すげえ偽善者w』『↑いじめを傍観してた人間が吠えております』『桜川美香にペン盗られたってテレビで同級生が言ってた』『死んだら勝ちなのかよ、じゃあ俺も自殺してニートになったのは親のせいだって言うわw』『なんでこんなに優しい子が死ななきゃならんのかね』『もう学校を教師と生徒ごと爆破で解決』『桜川美香が殺人未遂→その子と友達だった村井彩音が反撃→美香いじめられた〜からの自殺→美香の友達が彩音殺害でFA?』『こんな女を守ろうとしてたとか吐き気がする』『村井彩音を称えるスレ→http://…』『んで結局どっちが被害者なの?』
 これで安心してるあたりが美香っぽくて嫌だ、と夏樹はため息をついた。そして、首を激しく横に振った。あんなのと一緒にしたくない。自覚があったとしても。
 あの日、宙づりになった彩音の足首から手を離した数秒後。下界でスイカか何かが崩れるような音がして、彩音の身体は潰れた。一瞬、世界がぐらりと曲がった。自分のしたことに驚いた。倒れるかと思った。だから、そうだ、美香と同じように、と思い浮かんだ書き込みをして正解だった。美術室に戻る道すがら、ネット上で彩音擁護の書き込みが増えていくのを見て、ほっとした。
 だから風宮も大丈夫だと思ったのに。またふたり一緒になれると信じていたのに。彼も美香を気にかけていた。階段から落とされた自分ではなく、叩かれた美香を優先したあのときから、ぼんやりと夏樹の胸でくすぶっていた疑惑は嘘じゃなかった。
 結局、選ばれたのは私じゃない。死んだあの子だ。風宮からも、彩音ちゃんからも。
 夏樹は鼻の奥が痛むのを感じ、慌てて天井を見あげた。彩音がいるとするなら天国だと思った。結果的に、夏樹がネットに書きこんだ彩音の偽の遺書によって、まさに時の人となりつつある。誰かがいじめられていても第二の被害者になることを恐れて逃げてしまう罪悪感、そこから一歩の勇気を振り絞ることが大切なのだ、と偉そうに大人が語る。彩音はそんなことを考えていなかった、ということを夏樹は知っている。
 過去の自分への贖罪。訳知り顔で、「なっちゃんのことを理解してる」という気持ちが透けていて、何が分かるのかと憤った。
 だが、その中にあった「なっちゃんを助けたい」という気持ちも確かに本心だったのだろうとも、分かる。善行の内訳は必ずしもすべて善意というわけではないし、自己満足も当然のように同居していて、それを責めるほうが間違っている。同時に偽善がすべてでもないのだから、申しわけないという気持ちもあった。確かにあった。だけどそれが自分を納得させるためのものでなければ、窓から彩音を落としたりなんてしなかった。
 それに彼女は最後になっても、美香のことを考えていた。美香をよく知っていた。あれだけ憎しみ合い、嫌悪し合い、他人の血を浴びてなお自分の意志を貫いてきたのに、彩音は美香の死に憤っていた。風宮のように。
 でも、と思う。勉強を教えてくれたり、一緒に遊んでくれたり、真剣な眼差しで語ってくれたりして、夏樹は苦しんだ。これまで風宮の隣にいて妬まれないことなどなかった。いじめられた。家族ごと虐げられた。だけど彩音は風宮を男友達と見ていて、夏樹のことも純粋に愛してくれた。あの素直さが、つらかった。親しくなるごと「いつかみんなのように嫉妬されるかも」という気持ちを無視できなくなった。女子からいじめられるたび、風宮の幼なじみをやめようと何度も思ったことが、逆に女友達を作ることへの恐怖を増幅した。誰かに脅迫されたわけでもなく、己の中で生みだし膨れ上がる化け物を退治するために、彩音を根本的に信じることをやめた。美香を追い出すためだと割り切った。
 それでも。
 美香に殺されそうになった自分を、椛音は救ってくれた。今度は自分が椛音を、美香がしたのと同じ方法で殺害して――私は救われていい人間じゃない、と思った。
 救われるべきは、いじめられた過去から逃げて、その後ろめたさに苦しみながらも前を向いて生きた椛音のほうだと思った。
 彩音を殺したあと、何食わぬ顔で美術室に戻り、訃報を聞いた。そのときは、そのとき限りは、縁起ではなく無性に涙が出た。中庭で潰れていた椛音の死体は妙にリアリティを欠いていたのに。目の奥が痛んだ。世界と世界の隙間からこぼれたような涙は、それそのものが生き物であるように、あたたかかった。思い出させられた。忘れてはいたがそう遠くないかつての日、いつだったか、確かに、はっきり感じた唯一の願いを。
 ただ、彩音と友達になりたかった。
 風宮が信じられなくなった今、虚空を掻く夏樹の指先がすがりつくのは彼女だった。
 だから、彼女がいなくなることが怖かった。そうでなければ去年の暴力事件のことなんて話さなかった。いつか彼女に真実がばれたときにはうろたえると分かっていながら、彼女のあたたかい手をにぎりかえした。
 寂しがり屋のくせに人間関係を粗末にして、それでも自分を曲げなかった彩音。夏樹は高校デビューをする前の彩音の容姿を知らない。だけどそのころの、前方向に転ぼうとした彩音の過去ごと愛してやりたい。
「ごめんね、彩音ちゃん」
 夏樹はそっと目を閉じ、ケータイを胸に押しあてた。「でもね、日本中のみんなが彩音ちゃんに味方してくれてるよ。彩音ちゃんが私をいじめから守ってくれたって、私が警察で証言したからね。既存のいじめ問題にメスを入れる新世代のヒロイン扱いだよ、今。きっと彩音ちゃんの元同級生だって、ニュース見て感心してるよ。すごい。かっこいい。ね、大丈夫だよ」
 放電しつづけてあたたかくなったケータイは、かつて夏樹を抱いたときに受けた風宮の口づけと同じぬくもりを共有していた。ケータイをポケットに押しこむと、美術部の活動に戻るために女子トイレを出た。

 足音が遠ざかってゆくのを確認して、由乃は女子トイレの最奥の個室からそっと顔を出した。足音を立てないようにして廊下に出ると、ちょうど美術室のドアが閉まり、「ごめんねー遅くなっちゃった」という夏樹の声が聞こえた。由乃は急に寒気を感じて身ぶるいした。心臓がうるさい。耳の奥で鼓動が響く。今すぐ大声で叫びたい。助けを呼びたい。誰かにすがりつきたい。だけどその前にやることがある。由乃は鞄からノートパソコンを出すと、腕に載せて電源を入れた。
 マイドキュメントの奥へ隠した音声ファイルは、彩音の新しいスマートフォンで録音されたものだ。由乃の持っているオンラインストレージの共有フォルダに、それが同期されていることに気づいたのは三日前だった。共有フォルダのアドレスとパスワードは、以前教室で盗撮した映像の同期設定をするときに彩音に教えた。録音されていたのは、夏樹が彩音と口論をしているさまだ。途中で途切れているが、夏樹の思惑は筒抜けだった。
 なっちゃんが、彩音を利用して美香と争わせた?
 にわかには信じられなかった。だが、流れてくる声は間違いなく彩音と夏樹のものだったし、演技だとも思えない。彩音のスマホには同じ音声ファイルが残っていなかったらしいが、由乃の共有フォルダにアップロードされたのち、おそらくは夏樹に削除されたのだと思った。だが彩音の機転はめっぽう良くきく。最終手段のためにとファイルのコピー先を用意していたのだろう。
「椛音が死んだ」と知った日から今まで、由乃は一度も学校に行っていない。礼紗が夜道で襲われ、美香が自殺し、椛音が転落死。次に何か起こるなら自分だと思った。いくら彩音が世間で、いじめから友達を救ったニューヒロイン扱いされていても、すぐ身近にいた由乃にとっては彩音の死だけが色鮮やかな暗闇だった。正義のために犠牲になんてならなくていいから、傍にいて欲しかったのに。警察や報道陣には何も言えなかった。風呂にも入らず、親が部屋に運んでくれる食事だけで生き、布団を頭からかぶって震えたり、祈ったり、泣いたりするばかりだった。見えない化け物に毎晩夢の中で頭から食われた。だが音声ファイルを見つけるとどうしても動かずにはいられず、制服を着て学校に戻った。そして休み時間や放課後に二組の夏樹を監視し、行動を追っていた。美術部が終わるのを待つあいだにトイレに入っていると、偶然夏樹も電話をするために入ってきた。そして、風宮との会話を聞いてしまった。
 夏樹が美香を殺した。彩音を殺した。今、夏樹はその罪から逃げようとしている。それを誰が見逃してやろうというのか。
 命を弄んだ、人権を犯した、友情を利用した。そんなやつに人権など与えられるわけがない。誠実で清い心を持った、正しい人間だけが尊厳を与えられる。彩音を殺し、彩音との友情を裏切った夏樹は、どんな仕打ちを受けても文句など言えるはずがない。こうなるのは当然の帰結だ。そして夏樹を社会的に抹殺することこそが、日本にはびこる理不尽で無意味ないじめを終わらせるための、戦争の終結のはじまりだ。それを、一部始終を知っている私がやらないで誰がやる? 大人が頼りないから、私たちを救うのは私たち自身、そして国民なのだ。巨大な民意が世相をひっくりかえし、約束されない未来を変え、優しい人たちを救い、汚れた人間を抹消してゆく――由乃はパソコンを操作しながら、何かから逃げるようにそう考えていた。
 由乃がアクセスしたのは、世界中で最も多く利用されている動画サイトだった。彩音から送られてきた音声ファイルと、かつて教室で録画した動画ファイルを重ねて新しい動画を作り、サイトの新規投稿画面をひらく。タイトルは簡潔に「村井彩音と桜川美香の自殺」とした。動画の説明文は細かく書きこむ。
『今年の夏に発生した女子高生二人の連続自殺を知る人からもらったものです。村井彩音が遺書に書いていた問題の動画がこれで、音声は村井彩音が死亡する直前にスマホで録音されたものです。聞いて分かるとおり、ふたりの自殺には姫野夏樹という末摘花学院高等部の女子生徒が関わっています。プリクラ画像をネットに流し、桜川美香を自殺に追いやったのは姫野夏樹です。おそらくは村井彩音も彼女に殺されたのでしょう。みなさん、憶測で飛び交う情報を信じないでください。これが証拠です。桜川美香の顔写真とよく身比べてください。声紋認証にかけても、村井彩音と姫野夏樹の声であることは……』
 改行を入れず、ひたすら訴えを打ちこむ由乃。トイレに響くキーボードの打鍵音。最後には美香や夏樹がしたように、夏樹の個人情報を書き添えるつもりだ。それで世界の、自分たちが愛する部分がうまく帳尻を合わせてくれるのだと信じて。今度は自分が友達の仇を打つ番だ。椛音が夏樹を守ろうとしたように、自分も椛音からの友情を永遠に救済したい。この書き込みが友情を築き、同時に壊すのだとしたら、訳知り顔で大人が語るより世界はもっともっと単純なのだろう。
 由乃は彩音から裏切り者と呼ばれた。信頼してくれなくなった末に死んでしまった。だけど、彩音は最後に自分を頼ってくれた。音声ファイルを、一縷の望みと共に送ってくれた。由乃ならどうにかしてくれるかも知れないと信じてくれた。フォルダにぽつんと残されたたったひとつのファイルが、彩音の想いを、最後の願いを、何度喧嘩しても必ず戻ってくる彩音の愛情を語る。彼女が死を覚悟した瞬間にすがりつきたいと思った人が、自分であったことの幸福を。唯一無二の親友を。
 ――最期に託されたあの子の願いに、私はこたえたい。
 入学当初、地味で暗くて友達も作ろうとしない、教室で縮こまっていた自分の名前を、彩音がはじめて呼んでくれた。ひまわりが咲くような無邪気な笑顔をふりまき、問答無用で手を引っ張ってくれた。
 あの笑顔を忘れさせない。明日になっても、卒業しても、未来永劫、ずっと。私の宝物は、偽善で飾られていいものじゃない。
 由乃はただ、世界が変わることを願った。死の直前でなくても叶う願いがあるのなら、それを成すのは己自身だ。問いかけるのが自分なら、こたえるのも自分だ。そして、こたえつづけるのも自分だ。
 誰に向けるわけでもない別れと再会の言葉の代わりに、由乃はそっと「動画をアップロード」ボタンをクリックした。


<完>

2013/10/28(Mon)21:59:31 公開 / アイ
■この作品の著作権はアイさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
念のため記載させて下さい。
何かとツッコミどころが多いですが、この作品は完全なフィクションです。執筆時期は2010〜2011年です。
私の実体験などではなく、実際の事件や誰かの経験談とは無関係の、100%空想上の物語です。
特定の個人や団体や既存の作品を皮肉ったり批判するものではありません。
また、主人公たちの思想や価値観は私自身の考えを投影したものではなく、あくまで彼女たちのキャラクター、性格、個性として一から創作したものです。
彼女たちの意見が必ずしも私の意見と一致しているわけではありません。
作品にある彼女たちの犯罪行為やいじめなどに対しては、糾弾する姿勢でいます。

エンターテイメントとしてお楽しみください。


深い意味はありません。
というかタイトルと同じ「正解を探している途中」「答えをだし続ける」が彼女たちにとってのぜんぶなんだと思ってます。
私もいじめられてきました。その時のことを思い出しながら書きました。今になって思えば当時と今じゃあの時のことを考える視点がずいぶん変わりました。
私は彩音にも美香にも同情しません。でもそれってたぶん同族嫌悪です。私もふたりのような考え方を持っているところもあるし、真逆の部分もある。
どこで間違ったのかとか、救いはなかったのかとか、そういうのはあまり重要視してないし結局救われようとしなかったのはふたりなのでどーでもいいかなと。

この作品を通して、いじめはいけないとか、逆にいじめをしてもいいとか、そういうことを言いたいんじゃなかったんですが、結果的にそういう誤解を招きかねないものになりました。
そんな意図はまったくありません。
ただ女子の陰湿さや二面性、あるいは友情、裏切られる人間の末路、インターネットの脅威などについて書きたかっただけで。
タイミングがタイミングなだけにひどい内容になってしまいましたが、私の体験を元にした話ではなく、ましてや過去のいじめ事件を参考にしたわけでもありません。
ただ思うがままにふたりの女の子の心境を書きました。
ふたりの視点を交互に書いたのは、難しかったけれどそんな意図があったからです。
彩音と美香、ふたりの立場を行ったり来たりしながら、一緒に怒ったり、反省したり、前を向いたり絶望したり。
そういうアップダウンの中で構想二年、執筆一年かかりました。

彩音も美香も大嫌いですが、真剣に向き合ったぶん、物凄く愛着のあるキャラクターになりました。


各方面から誤解されることは予測できているので、もう一度書かせて下さい。
この作品は100%フィクションです。
実際にあったできごとや私自身の体験とは無関係です。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。