『陽だまりの僕ら』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:遥 彼方                

     あらすじ・作品紹介
日阪陽は都内の大学に通う一年生。そんな彼はある日、一人の女性に出会う。彼女は山本和子といって、美しい顔立ちをした一つ上の先輩だった。陽は大学の友人や家族と触れ合いながら、穏やかな大学生活を過ごしていく。しかしそんな時、和子が事故に遭って意識不明の重態になってしまう。

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 日阪陽は、今年の春から都内の私立大に通い始めた、極めて真面目な学生だった。授業は必ず出席し、この七月までに一回たりとも欠席したことはなかった。
 授業中はひたすら熱心に耳を傾け、ノートには板書だけでなく、講師の語った内容もまとめて書いていた。
 勉強する傍らバイトをして、その蓄えを全て専門書に使っていた。それだけではなく、彼は自宅通いで、少しずつ家にお金を入れて貢献することも忘れなかった。
 真面目に生きることが彼の信条だった。友達は少なくとも、やりがいだけは見つけることができると信じていたから、思い悩むようなことは決してなかった。

 その日も、陽はキャンパスを颯爽と歩いていた。学生達はみんな闊達に喋っていて、陽は自分がその人々の影に埋もれてしまっているような気がした。
 しかし、穏やかな微笑みを浮かべて、弾んだ足取りで歩いている。元々周囲のことはあまり気にならない性質をしていたからだ。
 そうした中、誰かと肩がぶつかった。数冊の参考書がその人の手から落ちる。
 陽は慌ててしゃがみ込み、それをかき集めた。するとしなやかな細い指が伸びてきて、陽はそこでようやく持ち主の顔を見た。
 一瞬、それは日本人形かと思った。
 その顔は、それほど完璧な造作でできていた。形の良い眉はなだらかな曲線を描き、まるで山麓の稜線を見ているかのようだった。透き通った鼻梁と、桃色の肉感的な唇、そしてその瞳をじっと見つめていると、陽は見惚れて動けなくなってしまった。
「……ごめんなさい」
 彼女はそう言って、頭を下げた。長い髪を頭の後ろでかんざしで留めていて、風が肩に掛かった一房をふと浮き上がらせた。そこで檸檬のような香りが漂ってきて、陽はようやく我に返った。
「余所見をしていたから、ついぶつかってしまって」
 そう言って参考書を叩き、表紙に軽く砂がついていたので払い落とす。
「大丈夫ですよ」
 彼女はそう言って受け取り、にっこりと微笑んだ。
「それより肩、痛くなかったですか?」
「僕は、全然大丈夫です」
 彼女はその言葉にうなずき、「あなたは、確か文学部の一年生でしたよね?」とつぶやいた。その言葉に、陽はまじまじと彼女の顔を見つめてしまう。
「なんで知ってるんですか?」
 彼女は「教授から話を聞いたんですよ」と指先を垂直に立てて説明し始める。
「山本先生っているでしょう? 食堂でご一緒してる時に、『あの学生を見ろ』と突然あなたを指差したんです。私もびっくりしたんですけど、先生はあなたの真面目な性格を懇々と賛辞し始めて……」
 陽は頭を掻き、苦々しく笑った。
「真面目じゃないです、僕」
「嘘を言っても無駄ですよ」
 そう言ってくすくすと笑う彼女は、思春期の少女のようにあどけなく見えて、陽は少し可愛らしく思って妙にどぎまぎしてしまう。
「日阪陽さんでしたよね?」
 突然名前を呼ばれ、畏まってしまう。
「私は文学部二年の山本和子と言います。どうぞ宜しく」
 「山本さん」と陽は繰り返す。和子はうなずき、そして顔を近づけてきた。突然甘いその香りが鼻先に迫って、陽は体を硬直させた。
 先生は私の叔父なんですよ、とはにかむように彼女は笑った。その言葉に陽は口を噤み、そしてくすりと笑った。
「すごいじゃないですか」
「秘密、ですよ」
 和子はそう言って、「それじゃあ、また授業で会いましょう」と手を振って、歩き出していく。ヒールの音が徐々に遠ざかっていき、そうして高揚感も引いていった。
 陽はその背中をずっと目で追っていたが、このような女性が日本にまだ残っていたのか、とそのことに驚いていた。
 自分のその思考に気付くとなんだか笑えてきて、陽は噴き出しそうになるのを堪えながら、そのまま図書館へと向かった。

 自習スペースへと座り、買ったばかりの本を読んだ。文章を目で追っても、どうも集中できなかった。先程の女性のことがすぐに頭に浮かんできてしまうからだ。
 あの整った顔が脳裏に蘇り、「山本さん、か」とつぶやいていた。
 すると「山本さん?」と背後から声が聞こえてきて、陽は飛び上がった。振り向くと、一人の女子学生がそこに立っていた。
 馬の鬣のようにさらさらしたショートヘアー、そしておでこが広く、その顔はどこか幼げで、彼女は悪戯を企むような表情でこちらを見つめていた。
 原田知美、クラスが一緒で、飲み会の時真っ先に陽に話しかけてきた女子だった。
「山本さんって、誰?」
 知美は隣の椅子に腰掛け、そっと身を乗り出して聞いてくる。こういう話題には常にアンテナを張っているのだ。
 陽は視線を逸らし、「バイトの先輩だよ」と嘘をつく。「へえ。その人に興味があるんだ?」と知美は首を傾げてみせた。
「そういうんじゃないよ。会ったばかりだし」
「ほうほう、会ったばかりなのか。彼女、美人?」
「美人には変わりないけど……」
 なんだか自分がこのまま言う必要のないことを喋ってしまいそうで、「僕、勉強があるから」と体の向きを変えた。だが、それでも知美はそこから動かなかった。
「話は、また今度で」
「山本和子のことでしょう?」
 その言葉に思わず振り返ってしまい、そうして陽は、しまった、と思った。知美はにやにや笑いを浮かべ、「確かに美人ね」と口角を上げる。
「おい、何か勘違いしてるだろ」
「……別に。ただ話のネタが増えたな、と」
 知美はそう言って、もう用がないとばかりに、自習室を出て行った。陽はその背中を追おうとしたが、すぐにやめた。
 元々こういう奴なのだ。いつも暇を持て余していて、何か楽しいことはないか躍起になって探している。下らないことを聞いてくるし、それはほとんど恋愛の話や失敗談、人の悪口であったりする。
 元々こういう奴なんだ、と自分に言い聞かせても、どうも落ち着かなかった。知美のことだから、もしかしたら山本さんにありもしないことを吹っ掛けるかもしれない。それだけは勘弁だ、と思う。
 その時、事務員が戸口から入ってくるのが見えた。「予定通り、本日は自習室を十三時で閉鎖します。すぐに退室してください」と呼びかけた。
 陽はどこかイライラした気持ちで戸口に向かった。

 図書館を出ると、携帯の着信音が鳴り響いた。陽はそっと通話ボタンを押す。
『よう、陽か?』
 どこか軽薄な感じのする声が聞こえてきて、陽は軽く溜息を吐いた。
「何だよ、三上。これから遊びに行こうとか、そういう誘いか?」
 すると、将太は「何だよ」と拗ねた声を上げ、『今、俺は気の利いたツッコミを期待して、挨拶した訳だが、なんでお前はいつもスルーなんだよ』とつぶやく。
「ちなみにどこで、ボケたの?」
『よう、陽か? 重複してる部分が、そうだ』
 陽は「下らないんだけど」とうんざりした気分で言う。すると、将太は『これだから』と糾弾するような口調になった。
『面白くないとしても、そこで笑うのがダチってもんだろ。せっかく俺が電話してあげたのによ』
「それで、何の用? これからちょっと昼飯食べに行くところなんだけど」
『ノートをコピーさせてくれよ。俺、四教科一回も授業に出てないからやばいんだよ。お前だけが頼りなんだよ、なあ』
 必死に懇願してくる将太に、陽は溜息を吐き、「わかったよ」とつぶやく。
「今持ってる分だけでいいよね? 足りなかったものはまた別の日にってことで」
『悪いな、ホント。それでこそ、俺の日阪だ。今度可愛い女の子、紹介してあげるからよ』
 そう言って、将太は待ち合わせ場所を指定して、すぐに通話を切ってしまった。陽は携帯を折り畳み、ジーンズのポケットに突っ込んで、三回目の溜息を吐く。
 三上将太は文学部の一年で同じクラスだった。大学生活をあれほどエンジョイしている学生は他にいないのではないか、と陽は思っている。毎日のように合コンに赴き、誰と付き合っただの、ナンパしただの、そういうことばかり自慢して語る。
 しかし、彼はどこか憎めない性格をしており、屈託ないその様子が人を惹きつけているのかもしれなかった。
 陽はそのまま中央校舎のロビーへと赴き、掲示板を眺めて暇を持て余した。待ち合わせは三十分後で、ひどく時間が余っていた。その時、ふと肩に手を置かれた。
 振り返ると、一人の女子学生が立っていた。赤を基調としたシャツに、可愛らしいチェックのスカートを履いている。明るい雰囲気が漂っていて、すぐに陽は「ああ」と頭を下げた。彼女も「こんにちは」と軽く手を振ってくる。
「この間は、本当にありがとう」
 本田洋子はアルプスの少女さながらの爽やかな笑みを浮かべ、そっと前へ進んできて言った。
「レポートがあること全然知らなくて、君に見せてもらわなかったら、ひどいことになってたよ」
 陽は苦笑して「今度からはさ、」とつぶやいた。
「一応授業に出ていなくても、友達に内容だけは聞いておいた方がいいと思うよ」
 陽は彼女が手にしているギターケースを見遣って、言った。
「音楽やってるんだっけ?」
「うん、軽音楽部に入ってるんだよ。日阪君は、部活はどこにも入っていなかったんだっけ?」
 「まあ、そうだけど」と陽は苦笑してうなずく。
 本田洋子は先週の授業で席が隣になり、彼女にレポートを見せてあげたことで九死に一生を得たことから、お互いに話すようになった。落ち着いた女の子なので、話しているとどこかほっとするのだった。
「良かったら、うちのサークル覗いてく? これから行くところなんだけど、」
「いや、僕は、その、」
 断ろうとしたその時、突然首に腕を回され、がっちりと締め付けられた。陽は呻き声を漏らし、激しく喘ぐ。
「おい、何やってんだよ。俺をほっておいて」
 振り向くと、将太が笑ってそこに立っていた。伸ばしっぱなしのボサボサの髪は金色に染められ、両耳にはピアスの穴を開けていた。ド派手なファッションをしており、自分はどうしてこんな軽薄な男と付き合っているのだろう、としばしば思うことがある。
「俺にも紹介しろよ」
 ようやく無骨な腕から解放され、陽は咳をしながら洋子へと振り向いた。彼女はどこか困惑げな顔で、将太を見つめていた。
「誰? 日阪君の友達?」
「親友ですよ、親友」
 将太はぴしっと陽の顔を指差し、けらけら笑う。 
 「紹介するほどの男じゃないから、こいつとは関わらない方がいいよ」と陽は言った。
「何ぬかしてるんだ、この野郎」
 将太が叫びだすのにも構わず、陽は洋子に近づき、「ちょっと今日は行けそうにないんだ」と言った。洋子は苦笑を浮かべ、「じゃあ、また今度ね」とそのまま歩き去ってしまった。
 将太はその後ろ姿を目で追っていたが、「結構可愛いじゃねえか」と爛々と輝く瞳を陽に向けてくる。びしっとその鼻先に人差し指を突きつけて、「お前には絶対に紹介しないから」と念を込めて言った。
 こんな軽薄極まりない男に彼女を紹介したら、こちらの信用が一気にゼロを通過してマイナスを降下し続けるだろう。
 すると、将太は「ちぇっ」と毒づき、陽は「さっさと行くぞ」ともう振り向かずに歩き出した。「はいはい。そこ通るよ」と将太は近くにいた学生を押し退けていった。

 用事を済ませた後、将太は急にラーメンが食いたいと言い出した。その理由を問うと、「あれ食うと、これぞ男って感じがするじゃねえか」と彼は言った。将太は断る暇も与えないままに、陽の腕を引っ張っていく。
 そのまま食堂に入ってむんむんとした熱気を浴びると、すぐに将太が「おばちゃん、しょうゆラーメン二人前!」とカウンターに座ったので、陽は仕方なく隣に座った。
 店内はそれほど広くはなく、カウンターが四席、テーブルが八席あるだけだった。二人の女子学生がカウンター席に座って麺を啜っている。
「将ちゃんの友達か。相手するのにかなり根気がいるだろうから、チャーシュー二枚サービスしてあげるよ」
 おばちゃんはふっくらとした笑顔を浮かべて、麺の湯切りをしている。そんな彼女に、将太は「俺にもチャーシューおまけしてくれよ」と子供のようにねだった。
 陽は再び視線を横へ向けたが、女子学生達はだらだらと汗を滴らせて、夢中で麺を啜っていた。
 そんなに美味しいのか、ここ、と陽は思いながら、差し出されたどんぶりをまじまじと見つめてしまう。おばちゃんが「へい、お待ち。へい、小町!」と得意げに繰り返すが二人は気に留めず、そのまま麺を啜り始める。
 そうして箸の動きを止め、同じタイミングで顔を見合わせ、「美味い」とつぶやいた。

 麺処を出た後、将太は「実はあそこに行ったのには、訳があるんだ」とつぶやいた。陽はどうせろくでもない理由だろうと思いつつも、「何?」と聞き返す。
 将太は「そ、それはだな……」と口篭った。「それは?」と聞き返すが、将太は「それはだな……」という言葉を五回ほど繰り返した。
「だから、なんだよ」
「実は俺、あそこで働いている女の人が好きなんだよ」
 陽はその途端、冷たい汗が額を滑り落ちていくのがわかった。筋骨隆々の男性が女装している姿を見た時のような悪寒を背筋に感じた。
「僕は女性の好みについてとやかく言うつもりはないけど……あのおばちゃんを口説くのは、正直どうかと思う」
「ちげえよ!」
 将太は顔の前でぶんぶんと手を振った。「変なこと言うなよ。想像しちまったじゃねえか」と二の腕を擦っている。
「じゃあ何だよ」
「つまり、厨房の奥でもう一人、若い女性が働いていただろ?」
 陽は厨房の風景を思い起こしてみたが、そんな女性が働いていたとは露ほども知らなかった。
「とにかくあそこで働いているお姉さんが、もろにタイプなんだよ。なんていうか、ナタデココって感じで」
「ヤマトナデシコ?」
「そう、ナでシコ」
 将太はそう言って、「はあ」と悩ましげな溜息を零した。
「恋愛の悩みを僕に相談したかった訳か」
 将太は萎れた海草のように眉を下げ、「そうなんだよ」と弱弱しい声でつぶやいた。
 こいつはよりにもよって何で僕なんかを選ぶんだよ、適材適所って言葉を知らないかよ。そう思ったが、ここで突っぱねたらさらに落ち込ませそうなので、陽は「とにかく詳しく聞かせて」と言った。
「俺だって、お前が恋愛アドバイザーとして適材とは思ってねえよ。でもな、俺がもし他の奴らにそんなことを言ったら、どんな反応が返ってくるか、わかってるだろ」
「まあ、本当かどうか疑われるだろうね」
 それは日頃の行いが悪いから仕方がないことだろう、と思ったが、「適材でない僕でいいのなら、いくらでも相談に乗るよ」と面倒臭い話題を切り上げる為に言った。
「やっぱり俺の日阪は良心的な人間だな。誠実な人間に育ってくれて、俺は嬉しい。今度可愛い子紹介してやるよ」
 そう言って将太は陽の背中をバンバンと叩いてきた。お前に育てられた覚えはないし、何よりろくな女の子を紹介されないので正直迷惑だと思ったが、これも早く用事を済ませる為だ、と思って「そうだね」とうなずいた。
 二人はカフェに向かい、そこで陽はラテを奢らされ、うんざりした心持ちで窓際の席に座った。
 窓からは、キャンパスの様子が一望できた。将太はストローを咥えながら、眼下を歩く女子学生を次々と指差して、点数を述べた。
「駄目だな、化粧が無駄に濃い、眉は剃りすぎ。それから顔の輪郭がかなり良くない。あと足太すぎ」
 無神経にその特徴を喋り立てて、女子学生の肢体をチェックしている。陽はそんな将太に溜息を吐き、
「恋愛相談をしたいんじゃなかったのか?」
 呆れながらそうつぶやくと、将太は我に返った様子で、「そうだった、そうだった」と姿勢を正した。
「それで俺、どうしたらいいと思う?」
 将太が真っ直ぐ見つめてきて、そう言った。
「彼女とまだ話したことないんだろ?」
「……ないな」
「なら、まずは接点を作るしかないだろうな。あの食堂に足しげく通って、一言二言でもいいから話しかけてみること」
 すると、将太は腕を組んで顔を歪め、唸った。
「それはあれだな、ちょっと無理かもしれないな。あの食堂でかなりやばいことしたから、どう考えてもまともに相手してくれないと思うな」
 将太はそう言ってうなだれてしまう。陽はそうなのか、とつぶやき、思案げな表情を浮かべた。
「なら、今度からはなるべく紳士的な態度で振舞うように。そうして少しずつでもいいから、気さくに話しかけてみるんだよ。その後は、そうだな、」
 陽は「嫌われるの覚悟でやるんだけど、」とつぶやく。
「陳腐だけど、仕事が終わる時を見計らって、声をかけてみる、とか」
「……俺、嫌われてるかもしれないから、そのまま無視されて終わりかもな」
「根気強く続けることで、何かが変わるかもしれないよ」
 そこで陽は、ここら辺で会話を切り上げておきたいと思った。次に口にするべき言葉を考える。
「仕方ねえな、試してみるよ。もうここまで来たら、後戻りできないしな」
 陽はうなずき、じゃあこれで、と立ち上がった。その時、将太が窓の外へ視線を向け、「あ、山本和子だ」と言った。陽は弾かれたように振り向いた。
 中央校舎の前の芝生を、和子が歩いていた。かんざしを留めた髪が、風に乗って彷徨っている。
「やはりレベルが違うなあ」
「お前、なんで山本さんを知ってるんだよ」
 すると、将太はきょとんとした顔をし、そうしてすぐにげらげらと笑い出した。
「お前、何マジになってるんだよ。そうか、さては山本狙いなのか」
「違うって……そんなに彼女、有名なのか?」
「当たり前だろうが」
 将太は若干呆れた声で言う。
「学内でも有名な美人じゃねえか。ちょっとはそういう方面の知識も収集しろよ」
 陽は「悪かったな」とバツが悪くなって視線を逸らす。
「ま、そういうことで俺頑張るから。もしうまくいったら、次はお前の恋愛に協力してやるよ」
 将太はそう言って、手を差し出してきた。陽は少々躊躇ったが、その手にパチン、と叩き合わせた。
「俺はな、約束だけは必ず守るんだ。だらしなくても、それだけは何があっても守る」
 そう言って、将太は八重歯を見せて「絶対だ」と笑った。

 *

 今年の夏は猛暑が続き、昨年より熱中症の死者が増えていることから、屋外での活動を控えるように大学でも呼びかけていた。
 そんな中、陽は灼熱の中で登校し、正門前の坂道はただ暑いだけの難所でしかなく、延々と繰り返される蝉時雨や、燦燦と降り注ぐ日差しに、蒸し風呂に入っているかのような心地になる。
 眼下の線路を走る列車のフレームが眩い光を明滅させ、樹木が風を受けて枝を擦らせている。その音が一種の催眠のように生徒達の口数を少なくさせた。
 陽はキャンパスの敷地内に足を踏み入れて、そのまま中央校舎に入った。
 視聴覚室へと足を運んで、ドアに手をかけようとしたところで、「あら、日阪君」と声をかけられた。
 振り返ると、原田知美がそこに立っていた。陽はげんなりしたが、「よう」と男勝りな声で彼女は言った。
「原田も、映画を観るのか?」
 陽は面倒臭そうにそうつぶやく。
「いやいや、あんたの背中が見えたから、追っかけて来たのよ」
「一体、何の用だよ」
 陽が突き放すようにそう言うと、知美は唇を尖らせて、「何よ、その言い方」とつぶやく。
「また話のネタを収集しに来たのかよ。うんざりなんだよ、そういうの」
 すると知美はふん、と鼻を鳴らした。
「別に私はね、それが目的で君に話しかけてた訳じゃないよ」
「どうだか」
 陽は取り合わず、そのまま部屋の中へ入った。すると知美が後をついてきた。席に腰を下ろすと、彼女も隣に座った。
 「なんなんだよ、お前も観たいの?」と言うと、知美は黙ってうなずいた。
 DVDプレーヤーにディスクを差込み、ヘッドホンを一つ渡した。そうして二人は無言で映画を観始めた。
 知美が何故こんなに付き纏ってくるのかはわからないが、悪気はないのだろう、と結局は思うことにした。
 しばらくじっと見ていると、知美は聞いてもいないのにべらべらと感想を話し始める。陽は本当に変わった奴だな、と心底思った。

 映画が終わると、知美が泣き始めた。まさか感動して泣くような奴だとは思わなかったので、狼狽した。彼女は陽から受け取ったハンカチで目尻を拭い、鼻水拭くなよ、と言おうとしたが、彼女はそのままそれで鼻を拭ってしまった。
「私ね、こういう切ない恋愛モノに弱いのよ」
 そう言って彼女はDVDのケースを叩く。
「あんたも、こういうの観るのね」
「原田が泣いたことの方が意外だよ」
 陽達はそんな会話を交わしながら、学食へ向かった。なんだか彼女の意外な一面を見たようで、その所為か嫌悪感が薄れてきているようだった。そのまま窓際の席に座って、昼食を摂った。
「なんというか私、あんたに随分と迷惑かけてたみたいだね」
 突然そんなことを言い出したものだから、陽はまじまじとその顔を見つめてしまう。
「どこか頭でも打ったのか?」
「何よ、それ。あんたのさっきの顔見て、私のこと嫌ってるんだってすぐにわかったわよ」
 陽は「いや、確かにうるさいとは思ってたけどさ」とカツサンドを手に持ちながら言う。
「私は別に、話題を探していただけよ。皆が食らいつく話って大体決まってるでしょ? 別にあんたが面白いネタ持ってるから近づいていた訳じゃないんだから」
 「そうなのか?」と陽は首を傾げながら言う。
「そういうことで、私謝るから。そのカツサンドは私のお詫びの印よ」
 陽はその小さな一切れを見つめながら、自分が被った厄介事はカツサンド程度のものなのか、としみじみ思った。
「そんなに躍起になる必要はないんじゃないかな」
 陽は咀嚼しながら、ぽつりと言う。知美は興味深そうにこちらを見つめてきた。
「気負わずに、ありのままでいればいいんだよ」
 その方が被害も少なくて済むだろうし、と思いつつその横顔を窺がうと、彼女はカウンターの方をじっと見つめていた。そして「ありがとう」と小さくつぶやいた。
 陽は最後の一欠けらを口に詰め込み、安っぽい味だな、と心中で感想をつぶやいた。

 学食から出て、講義室へ向かった。民俗学の授業が午後から始まることになっていたのだ。この授業は受講者が多い為、大講堂を使うことになっていた。
 中央の席に腰を下ろすと、ふと「あら」と声がした。振り向いた瞬間、身体中の血液が沸騰するのを感じた。山本和子だった。
「え、あ、」
 陽は咄嗟に言葉が出ず、声を裏返らせてしまう。和子はそんな様子には気付いていないようで、「また会ったわね」とそっと微笑んだ。すると、知美がひょいと顔を出し、「どうも」と和子に頭を下げた。
「あら? 今日は彼女と一緒なの?」
 和子は二人の顔を交互に見つめながら、微笑ましそうに笑った。陽達は同時に顔の前で手を振り、「ありえないです」と言った。
「そうなの? 親しそうだったから、つい」
 そう言って和子は「ここに座ってもいいかしら」と隣の席を指で叩いた。陽は「もちろんです」としどろもどろになりながら言う。
 そうして和子はそっとスカートに手を当てながら座った。
 「あんたも、美人に弱いのね」と知美は呆れながら言った。陽は「声がでかいよ」と囁いた。
「私、消えた方がいい? 邪魔でしょ?」
 知美のその申し出に陽は首を振って、「居てくれよ」と懇願した。
「本当にチキンね」
 それでも知美は身を乗り出して、気さくに和子へと話しかけ始める。陽は二人の会話を聞きながら、とりあえずほっと息を吐いた。
 その時、再び「日阪君」と声が聞こえてきて振り向くと、本田洋子がそこに立っていた。こちらに手を振っている。
「……久しぶりね」
 洋子は階段を挟んで隣の席に腰掛けた。
「ここ一週間ばかりはちょっと授業を休んでいたけど、何とか単位だけは取れそうよ」
 それはよかった、と陽がつぶやいた時、知美が「どうも」と洋子に声をかけた。
 そうして三人はすっかり意気投合し始め、陽は呆気に取られながら、彼女達の様子を見守った。
 そして、会話が弾む中授業が始まり、どうしても隣にいる和子のことが気になってしまう。その顔を窺がうと、彼女は熱心に話に聴き入っているようだった。
 何故こんな気持ちになるのだろう、と思った。だが、自分は友人として、彼女ともっとよい関係を築きたいと思っているのではないかと考えた。
 しかし、いくら悩んでも答えは出ず、結局のところそういうことなのだろう、と結論付けることにした。

 授業が終わると、彼女達はお互いに顔を見合わせて、「それじゃ、またね」と囁き合った。
「もし良かったら、今度みんなで会おうよ。来週までは待ち遠しいし」
 洋子が、ふと言った。和子もパチンと手を叩き、うなずいた。
「……そうね。じゃあ、日阪君と連絡取り合って、みんなの予定を合わせましょう。学内でもいいし、飲みに行ってもいいし、とにかく会いましょうね」
 知美も「賛成」と手を上げる。そうして、彼女達の視線が陽へと向けられた。
「そういうことだから、まとめ役お願いね、日阪君」
 その言葉に陽はうなずくしかなかった。そうして、そのまま彼女達と別れた。
 陽は知美と一緒に講義室を出た。そこでようやく肩の力を抜いた。
「チキンね」
 知美がもう一度そう言った。陽は何も言い返せず、溜息を吐いた。
「まあ、会う約束まで取り付けられたから良しとするけど。うまくすれば、恋人にすることも可能かもよ?」
「いや、だからさ、」
 陽はうんざりした心持ちで知美に言う。
「これは恋愛感情とかじゃないよ」
「恋愛がどうのこうのとか、細かいことは気にしないの。さっさと恋人にしてしまえばいいのよ。恋愛かどうかは、付き合ってるうちに否応なしにわかるんだから」
 そう言われても陽は釈然とせず、首を振って、そのまま並んで一号舎へと向かう。
 あんな美人を彼女にできる訳ないじゃないか、と心底思う。望みがあると言うが、当の本人にしてみれば、そんな可能性は皆無であるように思えた。

 講義が終わった後、二人は駅の改札口で向かい合って別れた。
「それじゃあ、またね。今日は誤解が解けたようで良かった」
 知美は笑ってそう言った。陽はその表情をまじまじと見つめながら、こんな表情もできるのか、と驚いていた。
「……じゃあ」
 知美は小さく手を振って、そのまま改札口に向かっていった。陽はその背中を見送った後、売店で新聞を買い、電車へと乗った。
 吊り革に掴まりながら、買ったばかりの新聞を片手でつかみ、記事を読み出した。
 頭の隅で今日のことがフラッシュバックしてきて仕方がなかった。今日は本当に楽しかった、と思う。友人の少ない陽にとって皆と語り合った時間は本当に貴重な経験だった。
 これからもこうした一時を過ごせていけたらいいな、と思う。しかし人付き合いは難しく、今日のような場面に出くわしたのは本当に稀なのだろう。
 陽は駅へと着いて、書店に入った。そのまま物色していると、ふと肩にぽんと手を置かれた。
 振り向くと、同い年くらいの少年がそこに立っていた。短髪は艶やかで純粋な黒色をしており、背は高く陽の方が見上げる形となった。
「兄貴じゃねえか、偶然だな」
 日阪夕陽は白い歯をのぞかせて笑った。陽は夕陽の顔を見返しながら苦笑し、「全然偶然じゃないだろ」と言った。
「ちょうど予備校から帰ってきたところなんだ。参考書買おうと思っていたら、形の良い後頭部が見えてね」
「お前、僕の後頭部に拘るなあ」
「兄貴の頭の形、本当にいいんだよ。なんだか、胸に抱えたいくらいだ」
 二人はお互いの顔を見つめ、笑い合った。夕陽は現在高校三年で、地元公立高校に通っている。私立大を狙っていて、部屋に閉じこもって勉強している為、陽と顔を合わせない日もあるぐらいだった。
「俺はもう買ったけど、兄貴はまだここにいるのかよ」
「いや、僕も用は済んだよ」
「陽の、用が済んだか」
 夕陽はそう言って、「巧いだろ?」と笑う。二人は歩き出してエスカレーターに乗った。
「同じようなギャグを言った知り合いがいるんだよ」
「自分で言うのもなんだけど、その人、頭悪いな」
 夕陽の言葉に、陽は「そうなんだよ」とうなずいた。
「なんかチャラチャラしてて女好きだし、将来あれでやっていけるのかなって思う」
「兄貴にもそんな友達がいるんだな。それは貴重じゃねえか」
 「貴重?」と陽はじっと弟の顔を見つめる。夕陽は人差し指を立てて、「だってよ」とつぶやく。
「自分と正反対のタイプと付き合ったら、自分が狭い範囲でしか物事を考えていなかったことが否応無しにわかるだろ? 価値観が広くなるんだ。そういうのって大事だと思うよ」
「そういうものかな」
 陽は言われるまま、将太の顔を思い浮かべる。そうしてすぐに首を振った。あいつと接していても、面倒なことになるだけだ。
 そのまま二人はバスへと乗り、自宅へと向かった。



 家に帰って玄関に入った瞬間、パタパタと階段を下りてくる足音が聞こえた。そして、妹の朝陽がひょっこりと廊下から顔を出した。
「兄貴、おかえりなさい!」
 朝陽はすばやくスリッパを玄関に並べ立て、サンキュ、と陽達は口々に言い、リビングへと入った。
「父さん達、外食に行ってるのよ。だから、今日は私が作ったの!」
 朝陽は得意げにそう言って、テーブルの上の料理を指差した。
 そこには、机からはみ出すほどに料理が並べられていた。匂いが津波のように押し寄せてきて、陽と夕陽は思わず呻き声を漏らし、半歩後ずさった。
 陽はそのまま逃げるようにして、自室に戻った。夕陽も、きっとそうだっただろう。
 朝陽の作った料理を全て平らげる訳にはいかない為に、逃げてきたのだ。そうして息を吐き、パソコンを開いた。
 すぐにお気に入りの小説サイトを閲覧する。そこにはなかなか趣のある作品が多く、どうやらそれらは年輩の方々が執筆しているらしく、陽はこのサイトを本当に気に入っていた。
 「本棚」に入っている作品が新たに更新されていたので、それを読み出した。そのまま没頭して何時間もパソコンにかじりついてしまうことが多いので、携帯のアラームをセットしておいた。
 そうして違和感を感じる箇所、作品の長所や、登場人物の性格など、学ぶべき点をメモしていく。そうしたことをするのは、陽もエッセイなどを書くことがあって、文章力を磨く必要があるからだ。
 良い作品を沢山読み、自分の糧としていきたいと思っていた。いずれは出版関係の仕事に就きたいと思っている。
 そうしてパソコンにかじりついていると、ふと作品のあとがきに意味深なことが書かれていることに気付いた。
 ――この作品を中応大学の山本和子に送る。
 陽の通っている大学がそれだった。そして、山本和子、という記述に、陽は息を呑んでその文字に見入った。
 どうして山本さんの名前が書かれているんだ? 陽は作者の紹介ページを開いたが、現役大学生・二十歳の男性、と書かれていた。ということはつまり、この作者も陽と同じ大学に通っている可能性がある。
 陽は何度もそのページを読み、しかしいくら目を通してもその意図するものは見えてこなかった。そうしてそのうちにアラームが鳴った。

 翌日、大学は休みだった。シフトもなく、陽は久々に休日を楽しむことにした。近くの海へドライブへ出かけ、母親の軽自動車を借りて二時間程使ってそこに赴いた。
 そんな中、妹の朝陽がずっと喋り通して、陽はそれだけで疲れてきてしまった。
「いい加減、静かにしてくれよ。何か曲かけてあげようか?」
「兄貴と喋ってるのが一番楽しいよ。せっかくの休みなんだから、話すことの何が悪いの?」
 可愛いことを言ってくれると思うが、もう高校一年生なのだから、その辺はわきまえて欲しいと思う。
「それで、誰か気になってる人はいないの?」
 さっきからその話題ばかりだった。
「だから、いないって」
「もう入学してから四ヶ月経つんだし、そろそろ彼女できてもおかしくないんじゃないの?」
「そんなこと言っても、周りはすごい人ばかりだし、とても僕じゃ釣り合わないよ」
 そう言って、陽は和子の顔を思い浮かべる。尊敬する先輩は今のところ、彼氏はいないようだが、それでもいずれ男性と付き合い始めても全くおかしくはないだろう。
「出会いはあったんだね。ならまだ見込みはあるぞ」
 朝陽はパーマのかかった髪の毛を玩びながら、最近聞いたという恋の十か条について話し始めた。
「ちなみにそれ、お前が考えたの?」
「尊敬する先輩から教えてもらった」
 正直、そんなことを教えてしまうのは、無神経だとしか言いようがない。それどころか、わざと面白がって嘘をついたのではないかと思う。
「兄貴なら、きっといい彼女ができるから」
 朝陽とそんな会話をしていると、ようやく海へと到着した。そのまま砂浜へと降り、朝陽は歓声を上げて波打ち際へと近寄った。
 陽はしばらく妹が遊ぶ姿を眺めていたが、その時、携帯に着信が入った。画面を見て陽は思わず体を硬直させる。
 和子からだった。メールを開き、そしてそれに目を通した。
 今から会えないかしら、と簡潔な文章が綴られていた。海に来ていることを返信すると、すぐにメールが返ってきて、近くにいるから行ってもいいかしら、とそこには記載されていた。
 陽は驚き、そうして妹を見遣った。朝陽は波打ち際へと座って貝殻を拾い集めている。彼女にそっと近づき、これから友人がここに来るかもしれないことを話した。
「それって女の人?」
 朝陽は目を輝かせながらそう言った。陽が苦笑しながらうなずいたので、「いいよ。これはチャンスだ」と陽の背中を思いっきり叩いた。
 陽は頭を掻きながら、待ち合わせをしましょう、と和子にメールを送った。

 和子はTシャツにホットパンツという出で立ちで登場し、サンダル姿で砂浜を歩いてきた。陽光が汗に濡れた彼女の額を照り輝かせて、それはきらきらと光った。
 朝陽が身を乗り出して、まじまじと和子の顔を見つめる。そうして「これは美人だ」と感極まった声を上げた。
 陽は「本当に来たんですね」とつぶやいた。和子はどこかはにかむように笑って、「……来ちゃった」と自分の頭を小突いた。
 朝陽が前へ進み出て、「妹の朝陽です。兄貴がお世話になっています」と丁寧にお辞儀をした。和子は微笑んで、「可愛い妹さんね」と言った。
「元気だけが取り柄なんです」
 苦笑混じりに陽がそう返すと、朝陽は「一言多いよ」と頬を膨らませる。和子はどこか微笑ましそうに笑って二人を見つめた。
「近くに住んでいるって、本当だったんですね」
 陽がそう言うと、和子は「歩いて五分くらいの距離にあるのよ」とその方向を指差した。朝陽が「へえ、いいですね」とすかさずに言った。
「そこからは、海が見えるの。本当は大学近くで下宿しているのだけれど、今日は実家に帰っていたからね」
 そう言って、和子は「アイスでも食べる?」と軽快な足取りで歩き出した。朝陽は子供のようにはしゃぎながらその後を追っていく。

 砂浜近くの階段に腰を下ろして、アイスを食べた。そうした中、陽は和子を見てそっと口を開く。
「なんでまた、僕なんかと会おうと思ったんですか?」
 それがどうしても気になって聞くと、隣の朝陽が「兄貴がアタックし始めた」と小さな声で余計なことを言った。
「なんだか日阪君といると、落ち着くから」
 和子はただそれだけを言った。しばらく陽は言葉を返せず、その顔を見つめるしかなかったが、朝陽が「お、好感触」とすかさずつぶやいた。
「あ、ありがとうございます……」
 陽がどこか赤い顔でそう言うと、和子は笑って、視線を水平線の方へと向けた。
「なんだか最近疲れていてね」
 その言葉に思わず振り向くと、和子はすぐに手を振って「なんでもないの」と笑った。「悩みごとでもあるんですか?」と陽は身を乗り出して聞いた。
「まあ、なんというか、その……」
 和子は視線を逸らして、言葉を濁した。
「個人的なことだから、話せないんだけど」
 朝陽がアイスの棒を持ちながら、ちらちらとこちらの様子を窺がっている。その時ふと、和子が顔を上げて言った。
「波打ち際に行こうか、朝陽ちゃん」
 朝陽は「うん」とうなずいて立ち上がった。
「僕はここにいるよ」
 陽がそう言うと、和子は少し残念そうな顔をして、すぐに朝陽と一緒に歩いていく。
 波に足を浸して戯れる彼女達の姿を眺めながら、陽はどこか空虚感を抱いていた。今の状況を楽しめていない自分がいる。
 自分は和子と仲良くなることを望んでいて、しかしなかなか距離感をつかめずにいた。あの小説のあとがきについても言及できずにいる。
 何もかもが中途半端で、そのやるせなさをどうすることもできずに、唇を噛むしかなかった。

 そのままずっと彼女達を見つめていたが、目の前を家族連れやカップルが次々と通り過ぎていき、自分だけ何故こんなに落ち込んでいるのだろう、と陽は思った。
 そうして溜息をついた時、「兄貴!」と声が聞こえてきて、陽は慌てて立ち上がった。
 朝陽が大きく手を振り、波打ち際へ来るように促している。周囲の視線が一斉にこちらに向かってくるのを感じ、陽はどこか顔を火照らせて、「何してんだよ」と問い掛けた。だがその時、朝陽が突然水を掬って浴びせてきた。
 すぐに飛び退こうとしたが、すかさず彼女は水鉄砲を作って飛ばしてくる。
「ほら、どうだッ!」
「おい、濡れるだろ、やめろ!」
 そうやって跳ね回っていると、和子も応戦してきて、みるみる陽の体が濡れていった。
「やめろ!」
 そうやって反撃しようとした時、ふと体のバランスが崩れて足が和子の膝と絡まった。その瞬間、勢い良く陽は倒れた。
 水飛沫が上がり、そして小さな息遣いが聞こえてきた。彼女の吐息が鼻先にかかり、どこかくすぐったかった。陽はそうしてそっと瞼を開く。
 すぐ鼻先に顔があり、視線がまっすぐ繋がった。周囲の景色が消え失せ、お互いにただじっと見つめ合った。心臓が早鐘を鳴らし始めた。
 こんなに近くで彼女を見るのは初めてだった。その瞳の中に相手の心がたゆたっている気がした。しかし、陽はすぐに我に返って飛び退いた。
 彼女はしばらく目を瞬かせていたが、突然噴き出し、陽も「なんか笑えるな」と苦笑した。

 和子は、このままじゃ風邪を引くから家に寄っていった方がいいわ、と言った。
 確かにこの状態だと色々と不都合だと思い、その好意に甘えることにした。
 三人揃って道路を渡って二分ばかり進み、ようやく和子の家が見えてきた。年季の入った屋敷は広くて、縁側が木陰になっており、涼しげだった。
 家には和子の母と弟がいた。女子達はさっそく風呂に入ることになり、一人残された陽は弟との雑談に興じた。
「一瞬、姉さんの彼氏かと思いましたよ」
 春義はどこか優しげなその目元を緩ませて、言った。
「姉さんにもようやく、と思って感激したんですけど、後輩と聞いてちょっとがっかりですね」
 陽は首を振って、苦笑いを浮かべた。
「山本さんなら、いくらでも彼氏を作ることができるんじゃないですか?」
 春義は渋面を作って、顔の前で大きく手を振った。
「その気配が全くないんですよ、これが。なんだか恋愛の話題は苦手みたいですね、姉さんは」
 陽は「そうなんですか」と上擦った声を上げてしまう。そこに付け込むのは卑怯である気がしたが、どうも抑えようがなかった。
「このままうちの姉をもらってください。日阪さんなら、安心できますし」
「いや、その……」
 陽が口篭っていると、ふと麦茶のグラスが手元に置かれた。振り向くと、「すみませんね」と母の美和子が苦笑してこちらをじっと見つめていた。
「春義は和子のことになると、いつも心配しすぎるんです。気にしないで下さいね」
 こうして二人を見てみると、どちらも顔の造作は申し分なく整っていた。特に目元の辺りが瓜二つで、にこにこ微笑んでいる姿を見ると、すぐに親子だとわかる。
「和子が友達を連れてくるなんて、本当に珍しいんですよ。私、突然だったから本当に驚いてしまって」
「和子さん、友達多そうなのに」
「でも、知り合いは多くても、本当に仲が良い人は少ないみたいなんですよね」
 美和子が頬に手を当ててそうつぶやくと、春義が咎めるように「母さん」と彼女の肩を小突く。
「でも、あなたが来てくれて安心できました。ゆっくりしていってくださいね」
 のんびりとした口調でそうつぶやくと、春義が「夕飯食っていったらどうですか?」と言った。
 「夜遅くなってしまうので、今日はちょっと……」と頭を掻いて視線を逸らす。
「あら、そうなの? だったら、お土産持って帰ってちょうだいね」
「いえ、あのお構いなく」
「春義、ちょっとそこのお土産屋で買ってきて頂戴」
 美和子に言われると、春義は「オーケイ」とうなずき、すぐに居間を出ていった。陽はしばらく面食らっていたが、「どうも、すみません」と美和子に頭を下げた。
「気が向いたら、うちの和子を“もらって”くださいね」
 美和子は冗談めかすようにそう言うと、お盆に載った菓子を勧めてきた。陽は恐縮しながらも、「じゃあ、一枚」と瓦煎餅を手に取った。

 そうして和子の家族と穏やかな団欒の一時を過ごして彼女と別れる際、和子は「突然メールを送ったりして悪かったわね」と本当に申し訳なさそうな声で言った。
「なんか、どうしても会いたくなっちゃってね。でも、本当に助かったわ。ありがとう、日阪君」
 和子がそう言って頭を下げてきたので、陽は慌てて「いや、いいんですよ」と大きく手を振った。すると、朝陽が「こんな兄貴だし、こき使ってやってくださいね」と笑った。
「じゃあ、また学校で」
 和子は手を振ってそう言った。「またね」と朝陽は腕を振り返して歩き出していく。陽はそこでふと、和子に呼び止められた気がした。
 振り返ると、ふと視線が合った。和子はすぐに苦笑して、「ごめん、なんでもないの」と首を振った。
 何故か、陽は不安な気持ちになった。このまま彼女と離れてしまったら、何かが変わってしまいそうな、そんな悪い予感を覚えたのだ。だが、その気持ちを払い除けて、「じゃあ、また大学で」と歩き出す。
 しかしずっと和子の視線はこちらへと向けられており、逸らされることがなかった。
 それでも陽は振り返ることができなかった。胸を覆うこの圧迫感は何なのだろうと思ったが、その時の陽には為す術がなかったのだ。

つづく

2013/11/27(Wed)21:02:03 公開 / 遥 彼方
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■作者からのメッセージ
11/27 2まで更新
前回から期間が空きましたが、ようやく更新することができました。次回からストーリーの転機となる部分に差し掛かってくると思いますが、それぞれの登場人物との絡みをもっと多くして、掘り下げて書いていきたいと思います。
プロットを作り直して、筋の通った読みやすい作品を目指して頑張っていきたいと思います。また、皆様のアドバイスも参考にして改善していくので、ご感想をお待ちしています^^
他にも短編を少し書いていたりして、いつかアップする予定です。時間をかけて一作品を書くタイプなので、なかなか更新ができずに滞ってしまうことがあるのですが、暖かく見守っていただけると幸いです(汗)皆様の心に響く作品を書けるように、精一杯完結に向かって書いていきたいと思います。

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