『再会の言葉は、嘘【完結】』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:遥 彼方                

     あらすじ・作品紹介
私立大に通う、長谷川加奈子は根っからの読書好きで、様々な本との出会いを常に楽しみにしていた。そんな中、加奈子は題名も著者名も書かれていない一つの本に出会う。

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 そうして僕は、彼女の純真な瞳と向き合い、溢れんばかりの感情を乗せて、その言葉をつぶやく。
 ――別れよう、と。
 彼女はその言葉を聞いた瞬間に目を見開いて、「どうして」とつぶやいた。僕は首を振って、「これは仕方がないことだから」とその腕をそっと握った。
「君は誰かに依存するような人生を、やめなくちゃいけない。僕がいなくても生きていけるようになって欲しいんだ。それは、どうしても必要なことなんだよ」
 そう言って彼女を抱き締めると、彼女は額を肩に擦りつけてきて、「私はあなたがいないと、生きていけないわ」と震える声でつぶやいた。
「大丈夫だよ。君にはもう、僕は必要ないはずだから」
「そんなこと、絶対に嘘よ。私はあなたといる時間だけが、どうしようもない悪夢の中で唯一の救いだったの。それでもまだ、あなたは私を置いていくって言うの?」
「大丈夫、いつか必ず戻ってくるから。……君が一人で生きていけるような気丈な心を持てたなら、その時必ず迎えに行くよ。僕らは一緒になれるから。約束するよ」
 彼女は嗚咽を噛み殺し、必死に僕の胸にすがりついてくる。彼女のうなじを撫でながら、僕は心中で「すまない」とつぶやく。
 ――今の言葉は、全部嘘だ。僕はもう君の前には現れないだろう。……永遠に。
 だからこそ、今この瞬間を大切にしようと思う。彼女の温もりが消える前に、この感情を心の奥深くに焼き付けておくんだ。

 +

 私は大学の帰り道、自転車を押しながら、そのゆったりとした時間に顔を綻ばせていた。視線を前方に伸ばせば、地平線から夕陽がのぞいていて、向日葵のように輝いて見えた。
 そうしてわきに挟まった文学全集に視線を向けると、早く読みたくて心の奥深くが疼いてくる。
 鮮やかなオレンジ色のグラデーションが描かれた道を歩いていると、ふとページを捲る音が聞こえた。視線をそっと向けると、一人の女の子が川原の側に座り込んで本を読んでいた。
 甘いデザートを口に運ぶように、その表情は本当に幸せそうだった。私は引き寄せられるように目を向け、彼女の様子を眺める。
 懸命に視線を走らせ、悲しそうな表情を浮べたと思いきや、次の瞬間には零れんばかりの笑顔を見せたりする。
 本を読むことを心から楽しんでいるのだとわかる。ここにも本を愛してくれている人がいた、と胸が熱くなるのを感じた。
 彼女は私の存在に気付かずに読み続け、五時のチャイムが鳴ったところで、ようやく顔を上げた。そして、こちらへと振り向く。
 すぐに彼女の視線が私の顔に行き当たり、彼女は首を傾げて、誰、とぽつりとつぶやいた。
 私はそっと膝を折って、「何の本を読んでいたのかな?」と聞いた。
 女の子はその小さな手に不釣合いな分厚い本を掲げてみせると、表紙を見せてきた。私はそれを見て、うなずいた。
「はてしない物語、ね。私もあなたぐらいの歳に夢中で読んだわ。嫌いな自分も大好きになれる、そんな本よね」
 「そう、ケッサクなの」と女の子は嬉しそうにうなずく。
 私は彼女の隣に腰かけ、しばらく様々な作品について語ってみせた。女の子は私が著名なタイトルを挙げる度に、「知ってるよ」と得意げな顔でうなずいてみせる。
「本はたくさんの人々からの贈り物なの。大人になっても、ずっと読み続けてあげてね」
 そう言って「もう遅いから、帰りなさい」とその子の背中にぽんと手を当てた。女の子は「うん」とうなずいて、ランドセルを背負って立ち上がる。「ありがと、本のお姉さん」とはにかむように笑った。
「じゃあね。バスチアンとの冒険を楽しんでね」
 そう言って手を振ると、女の子は何度も振り返りながら、砂利道を駆けていく。ランドセルの中で、本がカタコトと鳴って、小気味良かった。

 *

 私の名前は長谷川加奈子と言って、私立大の文学部に通う二年生だった。週に三度、古書店でアルバイトをしている。本に囲まれることが大好きな私にとって、そこで働くひとときは、本当に星の煌めきのように輝いていた。
「今日も、まるで恋する乙女のようね」
 本の整理をしていると、店主の娘である和子さんが苦笑しながら近づいてきた。
「確かに私は、本の世界に恋慕していると言ってもいいかもしれませんね。すべての願いを叶えてくれますし、無限の世界が心の中で広がりますから。本は、偉大な財産なんです」
「あらら、絶賛してるわね。でも、確かにそうだわ」
 和子さんはそう言って、カウンター奥の冷蔵庫からパックを取り出し、グラスに入れて差し出してきた。
「ここら辺で一息入れたらどう? そんなに夢中になっていたら、他のことに障るわよ」
「それは素直に認めます」
 私はグラスを受け取って一口飲み、息を吐く。
「誰か、現実にいる男性で好きな人はいないの?」
「……残念ながら」
 和子さんは私の飲み干したグラスを受け取ると、そこに再び注いで、飲み始める。
「でも、こないだあなたが年下の男の子と歩いているのを見たのだけれど」
 和子さんの突然の言葉に、私はえ、と思わず裏返った声を上げる。
「嘘よ。かまかけてみただけなの。ごめんね」
 和子さんはくすくすと笑って私の背中を叩き、そのまま店の奥へ入っていった。私は頬の火照りを感じながら、「和子さんの意地悪」とつぶやく。
 私にとって、彼は絶対にそんな人じゃない。ただ、気兼ねなく話せる年下の男の子ってだけなんだ。

 *

 バイトが終わったのが三時頃で、私はそのまま近くの公民館へと向かった。彼はまだいるかしら、と思うと少し早足になって、ふとショーウィンドウに映った自分の姿を確認してしまう。
 少し髪の毛が跳ねていたのでそれを直し、そのまま私は公民館の敷地内へと入った。
 和室から舞踊音楽が流れてきて、いかにも平穏な日常の昼下がりといった雰囲気が館内に溢れており、私の歩調も幾分ゆっくりになった。
 そのまま階段を上がり、図書室へと足を踏み入れる。その途端に、あの懐かしい香りが漂ってきて、カウンターに立っている若い女性が、「いらっしゃい」と笑って挨拶してくる。
「本当に暑いですね」
 私が額の汗を指先で拭ってそう言うと、彼女もうなずき、「冷房入れて欲しいわよねえ」と肩をすくめてみせる。
「扇風機が三台あるんだから、十分だ」
 ふと声が聞こえてきて、私は振り返る。奥のテーブルで、少年が参考書を広げて勉強していた。片手で頬杖をつき、こちらへ顔を傾けて見つめている。
 穂積君、と私はつぶやいた。
 長めの前髪は汗に濡れ、毛先が細くなっていた。細い上体にワイシャツがぴったりと張り付いていて、背中に薄っすらと染みが広がっている。
 軽く染められた髪に、清潔感のある端整な顔立ちをしていた。そうして彼は「確かに暑いけど、勉強できないほどじゃないな」と言う。
「そんなこと言ってもねえ、奥の棚を整理する時、すごく熱気が篭もってて暑いったらありゃしないの」
 司書さんはそう言って、手近にあった本でパタパタと仰ぎ始める。穂積君が、「あんた、ホントに司書かよ」と眉をひそめる。
「テーブル席には扇風機が二台あるけど、私のところは戸口に一台あるだけなのよ? 鈴木さんが勝手に扇風機の配置を決めちゃって、私の意見聞いてくれないんだから」
 ぶつぶつ愚痴を垂れ始めたので、私達はそっと彼女から視線を外し、どちらともなく笑い合う。
「バイト、ごくろうさん。今日も恋人と蜜月の時間を過ごせた?」
 穂積君はそう言って、悪戯っぽく微笑む。私は向かいの席に腰を下ろしながら、「毎日バイトがあればいいのにな」と彼の冗談を受け流す。
「本が好きなのはいいけど、勉強やらなくていいのかよ」
 彼はそっと、参考書の付箋がついたページを開き、私に見せてくる。私は「どれどれ」と引き寄せながら、「暗記することは授業中にほとんど覚えてしまっているから、その分趣味の時間が取れるのよ」と笑う。
「有名国立大に入った女の言うことは違うなあ」
「穂積君だって、成績いいじゃないの。えっと、ここはね、」
 そうして私はその解法を説明した。
 彼と一緒に過ごす時間は心から安心できて、本を読む時以外で唯一好きだと思える時間だった。これからも彼と、こうした時間を過ごしていけたらいいなと思っている。それでも、その幸せな日々もいつか終わりを告げる時が来るのだろう。
 ひとしきり私が説明すると、彼はぽんと手を打ち、「なるほどな」としきりにうなずいた。そして、
「加奈子さんがいれば、学年三位を楽に守り切れるわ」
 彼はそう言って欠伸をし、背もたれに上体をよりかからせた。
「家庭教師代、次は何で返そうかな」
 彼は目を細めながらぽつりとそう言う。私は苦笑し、
「いいのよ、そんなこと。穂積君に勉強教えるの、楽しいし」
「いーや、ここまで時間を割いてもらって、何も返さないのは紳士としていただけない気がするよ」
「もう、律儀なんだから」
 穂積君は現役の高校生で、受験生だった。公民館で偶然出会ったのが関係の始まりで、それから私は彼の勉強を見てあげている。
 私は好きで彼の面倒を見ているのに、彼は何故か引け目を感じているらしく、事あるごとにその恩を返そうとしてくる。先日も、私を水族館へと連れて行ってくれた。
 「何にしようかな」と腕を組んで考えている穂積君を見ながら、私はあの日のことをふつふつと思い返していた。

 彼はバイトで忙しいのにも関わらず、わざわざ時間の合間を縫って、私を水族館へと連れて行ってくれた。
 深海の色に染まった館内を歩いていると、彼が水槽の前でふと立ち止まって、説明をしてくれる。水槽の中を泳ぐ魚達は、それぞれ好き勝手に動いているようで、俺達自由なんだぜ、と語りかけてくるような飄々とした様子だった。私がそれについて話すと、穂積君は肩を震わせて笑い、「だってこいつら、水槽の中に閉じ込められたままじゃん。絶対に自由だとは思ってねえよ」ともっともなことを言う。
「でも、この水槽は広いし、泳いでいても飽きないんじゃないかな」
「そもそも深く考えたって、魚の気持ちなんてわかる訳ないだろ。加奈子さんはいちいち感情移入しすぎなんだよ」
 彼はそう言いつつも、どこか優しげな視線を向けてくる。私は「こうして考えてしまうのも、本を読んでいる所為かしら」と頬に手を当ててつぶやく。
「それはあるかもね。小説の中でなら、どんな存在の気持ちも描けるからね。加奈子さんは今まで、小説の中で色んな登場人物と一緒に笑ったり泣いたりしてきたから、無意識に彼らの気持ちを想像して、自分に重ねちゃうんだと思うよ」
 私は目の前を行き交う魚を視線で追い、「そうね」とうなずく。
「加奈子さんの感性は本当にすごいと思う。その鋭い感覚を分けて欲しいぐらいだよ」
 その言葉に、振り返って彼の横顔を見つめると、彼は澄んだ空間の先、はるか遠くを見つめていた。何か他のことを考えているようにも見えた。その表情が本当に穏やかなものだったから、私はしばらく声をかけられずに、その優しげな眼差しを見つめていた。
 やがて彼がふっとこちらに視線を向け、「ごめん、何だっけ?」と苦笑する。
「穂積君は結構水族館に来たりするの?」
 私は会話を繋ぐ為に、思いついたことを言った。穂積君はうなずき、「バイトで行き詰った時、こうしてここを歩いていると、落ち着くんだ」と笑った。
「バイトばかりやっていて、自分の時間が取れなくなるのはきついんじゃない?」
「そうでもないよ。バイト、好きでやってることだから」
 そう言って、穂積君は不意に「本の話をしてよ」と言った。
「俺、加奈子さんが本の話をしている姿を見るの、好きなんだ。本当に好きなことをしている人を見るのは、楽しいことだから」
 私は頬を緩めながら、「じゃあ、最近読んだ一冊なんだけど、」と語り始める。
 その小説はちょうど五ヶ月前に出版された本で、「積木正太郎」という作家が書いた、「ほとぼりが覚めるまで」という作品だった。安定した文章で、ストーリーも作者が実体験を語ったと思えるほどのリアルさがあり、ストーリー全体を通して臨場感に溢れていた。
「その本のあとがきで、水族館のことが書かれているの。本当に私達が今見ているような情景が頭に浮かんでくるような描写なんだ。作者も執筆の合間によく水族館に来るって書いてあったし」
 穂積君は「へえ」とうなずき、微笑みながら私の顔を見つめてくる。
「加奈子さんはやっぱり本が好きなんだな。あなたが僕の姉だったら、よかったのに」
「穂積君、兄弟いるの?」
 私がそう言った瞬間、穂積君の顔が曇った。足元に視線を落とし、「いるけど、そいつのことはあまり話したくないんだ」と言った。
 私はその表情が本当につらそうで、「大丈夫?」と顔を近づけて囁く。穂積君は「何でもないんだ、気にしないでくれ」と急に早足になって歩き出した。そして、
「ショーを観に行こう。あれは絶対に見ておいた方がいいよ」
 無理矢理話を変えようとしているようにも思えて、私は何か言葉を掛けようとするけれど、穂積君は私と視線を合わせずに、そのまま足早に進んでいく。

 あの時のことを思い返すと、穂積君に色々問いただしてみたい気持ちに駆られる。けれど、彼が再び沈んだ表情を浮かべてしまいそうで、何も言えなかった。扇風機から吹きつけてくる風が穂積君の前髪を浮き上がらせて、その白磁の肌が顕になる。私は彼の顔をぼんやりと見つめながら、あの時のことを思い返していた。
 するとその時、彼が不意にぽんと手を打ち、
「そういえば最近、ベストセラー小説が映画化されていたよな。あれなら加奈子さんも気に入ってくれそうだ」
 そうして振り向き、「どう?」と満面の笑顔で問いかけてくる。
 ――穂積君となら、どこでもいいよ。
 そう言おうとしたけれど、なんだか恥ずかしくなって、「それは面白そうね」と別の言葉をつぶやいた。

 *

 大学の構内は学生達で賑わっていて、ちょうどこのぐらいの時間になると、弁当売り場は行列を成し、店員の威勢の良い声が飛び交い始める。ベンチは煙草を吸う学生で埋まっていて、彼らは輪を作って楽しそうに談笑している。
 私も午前中の授業を終えて、友人達と学食へと向かっていた。混み合っている為か、他の学生と肩がぶつかってしまい、カップラーメンを手にしていた学生が悲鳴を上げながら手を拭おうとする。
 そこで私はそっとハンカチを取り出して彼の手を拭いてあげ、「ごめんなさい」と笑った。すると、その男子学生は目を点にしてこちらを凝視し、微動だにしなくなる。
 どうしたものかと様子を見ていると、隣を歩いていた蘭が、「ほら、気を取られてないで、行くわよ」と私の腕を引いた。
「あの人、どうしたのかしら」
 私がぽつりとつぶやくと、友人の国東咲が、「どうせ加奈子を見て、衝撃を受けているだけよ」と言う。
「加奈子は男に優しいからね。勘違いされやすいのよ」
 すぐに蘭がそう言って、私が握っているハンカチを見やって、「それ洗いなよ。匂いがついたらもったいないし」とつぶやく。
「別に私は、気を引こうとしている訳じゃないんだけど」
「自覚はなくても、やってることは同じなの。気をつけないと、加奈子のことだから、親切に接しているうちに男に何されるかわからないわよ」
 咲がそう言って私の手を強く握ってくる。
「男はみんなケダモノ、とはよくある言葉だけど、本当のことなんだから」
 蘭もうなずき、「私達だけは純潔を守るのよ」と決然とした表情で言った。ただ単に相手が見つからないだけなのでは、と思ったけれど、そんなことを言ったら怒りそうなので、黙っておくことにした。
 ようやく学食スクエアに着き、二階へと上がる。私達は三人揃って「特大ほっけ定食」を頼み、黙々と食べ始めた。すると、私の左右の席へ、同時に誰かが座った。
 「やあ」と二つの声が、左右から聞こえてくる。どちらへ振り向けばいいのかわからないので、私はとりあえず「こんにちわ」と前を向いたまま挨拶した。
「あんた達、また来たの?」
 蘭が軽蔑するような視線を二人へ向ける。眼鏡をかけた細面の男子がさわやかな笑顔を浮かべて私を見つめ、「僕は、加奈子さんに用があるんだ。他の二人はほっけの尻尾にしゃぶりついていればいいよ」と冷ややかな声でつぶやく。
 すると、「そうそう」と反対側からハスキーな男の声が聞こえ、振り向くと、長い茶髪を分けた鷲鼻の男子学生が微笑んでいた。
「教室行ってもいないから、意地の悪い知人にまた連れて行かれたと思って、追ってきたんだよ」
 咲が「その意地の悪い知人って私と蘭のこと?」と唇を尖らせる。
 それには何も返さず、そのまま男子学生達は私に話をし始める。蘭は「ただちに加奈子から離れなさい!」と叫ぶのだけれど、男子学生達は見向きもしなかった。困った私は、
「あの……せっかく五人で食事をしているんですから、全員で話をしませんか?」
 すると、眼鏡をかけた学生が、「まあそうだね」と言う。
「誰がこんな奴らと喋りたいって言うのよ」
 蘭がほっけの身をご飯の上に載せながら、鼻息荒く言う。
「ほら加奈子さん、彼女達はほっけの身をほじくることで忙しいんだよ。僕らだけで話そう」
 鷲鼻の学生が優雅に白米を口に運びながら、言った。
「それよりさ、この後少し時間ない? 僕らとお茶しようよ」
「坂を下りたところに、喫茶店あるでしょ? あそこの珈琲は自家製で美味しいんだ。奢ってあげるからさ」
「あんた達、いい加減にしなさいよ」
 咲が細い目をさらに細くさせ、男子学生達へ向けて牽制するように言う。
「これ以上加奈子に付き纏ったら、教授に言いつけるわよ? あんた達が出欠をごまかしてること、ばらしてやるんだから」
 すると、男子学生達は顔を青ざめさせて急に慌てだし、「あ、味噌汁が冷めちゃう」「美味しいな、チンジャオロース」と食事に集中し始める。私はそれを見て、思わず微笑んでしまった。すると、蘭が私の顔を見やって、呆れたように溜息を吐いた。
「だから加奈子は、危なっかしいのよ」
 そう言いつつも、寄越してくるその視線は優しげだった。

 蘭と咲が示し合わせたように定食を食べ終わり、私は完食していなかったけれど、そのまま彼女達に手を引かれて食堂を後にした。
「あの人達に何も言わないで出てきちゃって、よかったの?」
 私が戸惑いがちにそう言うと、咲と蘭は同時に「いいの、いいの」と手を振って、「ねえ」と顔を見合わせた。
「あいつら、入学した頃からずっと加奈子のこと狙っているんだよ。どうせ胸目当てなんだろうけど」
 私は顔を真っ赤にして、「蘭ちゃん、そんな大きな声で言わないでよ」と彼女の袖をつかんで言った。
「さっさと教室行きましょ。加奈子、次授業取ってたわよね?」
 咲の言葉に私は目を伏せ、「ちょっと用があるの」と言った。
「あの真面目な加奈子が、授業を休むなんて」
 蘭がそう言って目を丸くする。私は「あまり興味がない授業は切り捨てようかと思って」と小さな声で言った。彼女達は「確かに授業眠いよね」「それもそうだ」とうなずいた。
「私、図書館に寄ってくるから、四限でね」
 私がそう言って歩き出すと、「読書に夢中になって、授業忘れるなよ!」と蘭が手を振って送り出した。私は笑ってうなずき、そのまま図書館へと向かっていった。
 真夏の日差しが額へと照り付けてきて、温い汗が首筋を伝い落ちていった。空気に触れた汗は冷たくて、背筋を震わせてくるようでもあった。
 そうした中、激しい罪悪感に襲われ、立ち止まりそうになる。それでも私はその場所に向かわないといけなかった。本棚の前を通り過ぎ、自習スペースまで来ると、そうして窓際の席へと振り返った。
 そこに座っている一人の女性は、頭の後ろで髪を結わえており、薄く茶色に染められた房が日差しにきらきらと輝いて溶けてしまいそうだ。ワンピースから華奢な肩が覗いており、うなじのラインがどこか艶かしい。
 何より、彼女は清純な印象を否応なしに与えてくる。私はそのまま棚の前に立ち尽くして、食い入るように彼女の姿を見つめていた。
 そのまま硬直していると、彼女がふと振り返った。視線が絡み合い、どんな言葉も出てこなくなる。
 野木坂香奈さんは目を見開いて私を見つめ、ふっと笑顔を浮かべ、「長谷川先輩!」と椅子から立ち上がった。そうしてすぐに近づいてきた。私も彼女に歩み寄り、「久しぶりね」と微笑んだ。
 四肢が震えて、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうになる。香奈さんはそんな私の様子には気付いていないようで、「どうしてすぐに声をかけてくれなかったんですか?」と少し拗ねたような顔つきになった。
「集中しているようだったから、邪魔するのも悪い気がしてね」
 すると、彼女は「勉強なんかより、長谷川先輩と話す方が一億倍楽しいですよ」と言った。
「そうかしら。私と油を売っているより、勉強した方が一兆倍為になるわ」
「いいから、今日こそお茶に付き合ってくださいよ。長谷川先輩ともっと話したくて」
 そう言って縋り付いてくる香奈さんに対して、私は苦笑して「ごめんね」とつぶやく。そうした中、全身が悪寒で震えてくる。それでも私はそれを言わないといけなかった。
「今日、これから調べ物をしないといけないの。また、今度ね」
 すると、香奈さんはうなだれてしまった。私はそのまま会話を打ち切り、「じゃあね」と手を振ってその場を後にした。
 背中から「また逃げられちゃったな」と囁き声が聞こえてきた。それでも私は足を止めることはできなかった。彼女への想いが膨らんでいくようで、身を切られるような感覚を抱いてしまう。
 ようやく棚が並ぶ場所までやってきて、私はそっとそこに背をよりかからせて、溜息を吐いた。
 彼女の姿を見ることができた――それだけで、満足だったはずなのに。私には彼女と時間を共にする資格なんてないのだ。そのまま震える指先で本を選び始めた。本の世界に浸っていないと、心が擦り切れて感情が溢れ出しそうだったから。
 そうして私は無数の作品の中から、その一冊の本を見出した。私は棚へとそっと手を伸ばし、その真っ白な装丁の本を取り出す。そして表紙を見て、市販の本ではないことに驚いた。
 厚紙で覆っただけの表紙で、題名・著者名、いずれも記されていなかった。私はそっとページを捲り、ワープロで印刷されたその文章を読み出した。
 その瞬間に、鼓動が高鳴り出す。
 最初の数行を読んだ瞬間に、胸を打たれた。一文一文が宝石のように輝いていて、描写のすべてが光っている。
 私はそうして立ち尽くしたまま、ページを捲り続けた。時計の針が二度同じ地点に来るまで、本にかじりついて読み続けていた。最後の一文を読み終えた瞬間に、涙が溢れ出した。
 この本は、作者の心からの願いで満ちている。一字一句、想いが込められていないものはない。本そのものに作者の願いが根付いているのだ。
 私は泣き続け、仕舞いには司書の女性が私を見つけてぎょっとした顔を浮かべ、どうしたの、と尋ねられても、私は本を抱きしめるだけで何も言えなかった。
 司書の女性は「この本が棚に入っていたの?」と戸惑った表情を浮かべた。そうして私から受け取って読み始めると、彼女は息を呑んだ。
「どうしてこんな本が……」
 彼女はそう言いいつも、文章から目を離さずに、次々とページを捲っていく。私は涙を拭いながら、それまでの罪悪感や切なさが暖かい感情へと変化していくのを感じていた。
 この本は、私を救ってくれた。途方もなくつらい日常を、優しい調べに変えてくれたのだ。そんな陳腐な言葉さえも、胸に暖かく染みこんでいく。

 司書の女性は、「持っていっていいわよ」と笑ってみせた。
「内容は別にいかがわしい訳じゃないし、きっと誰かが読んで欲しいから置いていったのね」
「やっぱり作者が誰か、わかりませんか?」
 私がまだぐずついている声でそう言うと、司書の女性は困った顔をした。
「こっそり置かれていた本だからね。ちょっとそれはわからないな」
「これだけの小説を書けるのは、やっぱりプロの小説家ですか?」
 私の言葉に、司書の女性はうなずいた。
「そうね。学生の小説家かもしれないわね」
 そう言って、「また本を読みに来てね」と言って彼女はそのまま業務に戻っていった。
 私は本を抱えながら、図書館を出た。ちょうど携帯が鳴り出したところだった。画面を見ると、咲からだった。私は目尻の涙を拭い、そっと足先を校舎へと向けた。
 この作品に出会えて、どこか吹っ切れたような気がしていた。あれほど胸を覆い尽くしていた負の感情が抜け落ちて、清々しい気分が湧いてくる。
 私はもう一度本をぎゅっと握り締め、歩調もどこか弾むようになるのを感じた。

 そうしてその作者が誰なのか、わからないままに私は何度も本を読み続け、思いを馳せた。
 そんな中、クラスの飲み会に参加していても、うわの空だった。
 咲と蘭はしばらく私の様子を窺がっているようだったけれど、仕舞いには「大丈夫なの?」と私に声をかけてくる。
「ちょっと気になることがあってね。別に具合が悪い訳じゃないから、気にしないで」
 私がそう言うと、登美子さんが「加奈子ちゃん、ノリ悪いわね」と言い、私はそっと振り向いた。
「飲み会で考え事なんてしてたら、いつまで経っても悩みは解決できないわよ。ほら、ジャンジャン飲んじゃって」
 そう言って瓶を私のグラスへ傾けてくる登美子さんに、私は「そんなにいらないですって!」と慌ててその手を押さえつけようとする。
「飲まないとやっていられないことがあるんでしょ? それならさ、今ここで全部吐き出しちゃうのはどう? 私が聞いてあげるからさ」
 登美子さんはセミロングの髪をかき上げ、「親友達も心配してるだろうしさ」と咲と蘭を見遣る。咲は「まあ、そういうことだから、話してみなさいよ」とこちらに体を向けてきた。
「男に関することだったら、私達抜きでは解決できないわね」
 蘭はそう言って自信満々に微笑んだ。私は彼女達を見て息を吐き、言った。
「そうじゃないのよ。ただある本が気になっていてね」
 すると、あからさまに三人が呆れた表情を浮かべた。「また、本か」と蘭がつぶやく。
「加奈子ちゃんが本を何よりも愛しているってことは知ってるけどさ、今にも死にそうな顔をするほどのことなの?」
 登美子さんがそう言うと、蘭と咲も深くうなずいた。私は彼女達を見やって、「確かにその通りですね」と言った。
「趣味は楽しむものでなくちゃいけない。それが苦しくて、つらいことになってしまったらもう趣味とは言わないから。でも、これだけは私の人生の一部だから」
 そう言って私は登美子さんをまっすぐ見つめて言った。
「だから、私はこの世界が好きなんです。誰にも理解できないかもしれないけど、これが私の生き方だから」
 そう言うと、登美子さんは寂しそうな顔をする。
「加奈子もさ、何もそんなに深く考えなくてもいいんじゃないの?」
 蘭が思い詰めた顔でそう言った。それでも、私は俯いて「だけど……」とつぶやいた。すると、
「そんなに、気になっている本があるの?」
 咲が優しく囁きかけてきた。私の髪にそっと手を触れ、そうしてすぐにくしゃくしゃとかき混ぜ始める。
「話してごらん。加奈子の問題なら、私達も一緒に考えるから。なんでも、遠慮なく言って」
 私は思わず声を詰まらせそうになったけれど、一つうなずいてその本のことを語り始めた。
 三人は真剣な表情で聞いていたけれど、ふと登美子さんが「それってもしかして」とつぶやいた。
「あれかな、白い装丁の本? 誰が書いたかわからないやつでしょ?」
 私はその瞬間に登美子さんの腕をつかんでしまう。知っているの?
「結構学生の間では有名だよ。最初の頃は五冊ぐらい置いてあって、回し読みされていたみたいだけど、ネットでも結構話題にされていたと思うよ」
 私はしばらく口を噤んでしまう。「それ、本当なの?」と蘭が言った。
「今は、色んなところへ出回って、残ってないみたいだけどさ、加奈子ちゃんのは一冊目だろうね。私が探してきてあげよっか?」
 私は身を乗り出してその腕をつかんでしまう。本当に、あの作品に続編があったなんて。
「お願いします」
 私がそう言うと、登美子さんはどこか顔を紅潮させて、「わかったわよ」と手を振った。
「とりあえず、他の子に当たってみるから。全巻揃えられるかはわからないけど」
 その時、唐突に「面白いな」と声が聞こえてきて、私達は振り返った。近くの席で静かにビールを飲んでいた清水さんが、骨ばった顎に手を当てて、こちらを見つめていた。
「学生の間で話題になっている小説か……それを文化祭で上演したら、盛況だろうな。ぜひとも我が演劇サークルで使ってみたいものだ」
 そう言って彼は座敷の上を半回転し、真正面に向き直った。
「是非、俺にも読ませてくれ。どんなものか、一度拝見してみたい」

 *

 その小説が、演劇サークルの舞台で上演されることが決まったのは、飲み会から三日後のことだった。既に手元には四冊の本が揃えられ、それを元に脚本が作られた。
 しかし、最後の一冊だけがどうしても見つからなかった。その為、脚本も区切りの悪いところで終わることになってしまった。
 打ち合わせの際は、いつもその問題が話題になった。
「この際、読者の記憶を元に、シナリオを作るのはどうだろう?」
 サークルの部長を務める島崎さんが、眼鏡のフレームを指で押し上げながら、周囲を見渡して言った。すると、そこかしこで唸るような叫びが上がった。
「でもそれって、原作に忠実じゃないってことだよね。ある程度脚色しちゃうってことだし……あの破格のストーリーをそのまま再現できないっていうのは、残念だな」
 清水君が、丸めた脚本をテーブルにぽんぽん打ち付けながら悔しそうに言った。それもそうだよな、と他からも声が上がる。
「だったらこの際、観客の想像力に任せて、四巻のラストで終わらせてもいいんじゃないですか?」
 ふと女子部員が手を上げて、そんなに深く考えなくてもいけるんじゃないですか、と言った。
 四巻のラストは、主人公とヒロインが別れてしまう場面で終わっていた。しかし五巻で彼らは再会することになっている……つまり、四巻までを上演すると、どうしても後味が悪くなってしまうのだ。
「だったらもう、上演までに五巻を必死になって探すしかないだろうな。それでも駄目だったら、覚悟を決めるしかないだろう」
 部長の言葉に、他の皆が顔を見合わせて、「やっぱり探すしかないか」と若干気だるげな声を出した。
 部外者である私は、ただ部員達の困惑そうな表情を見つめるだけだった。最後の一巻を見つけたかったのだ。何より読んでみたいし、みんなの情熱を無駄にはしたくなかった。
 私にできることは、何かないのかな……そんなことを思っていた。

 そうして打ち合わせが終わり、部室から出ると、清水さんが「お疲れ」と言ってきた。
「わざわざ部外者である君を頼ったりして、悪かったね」
「いえ……私は何もしてませんし、意見も言えずに」
 すると、清水さんはくすりと笑い、「本当にあの作品に魅入られているんだね」とつぶやいた。
「僕も正直興奮しているんだ。あの傑作を僕らの力だけで上演しようとしている。今年の夏は最高なものになりそうだよ」
 私もうなずき、「また何かあったら、声をかけてくださいね」と言って別れた。
 全員があの作品に惹かれているのだ。それだけあの作品には、人を惹きつける魅力がある。私はその感動を、どうしても人々に伝えてあげたかった。
 そのままコンビニへ行くと、咲と蘭が既に待っていて、「お疲れ」と手を振ってきた。
「どうだった?」
 蘭が言うと、私は首を振って「まだ見つかってないんだ」と沈んだ声を出してしまう。すると彼女は、「まだ誰かが持っているのかしらね」と歩き出した。
「あれだけの作品だから、処分されてるってことはないと思うんだけど。誰かが手放したくなくて、こっそり持っているのかも」
 蘭が言うと、咲が「そうそう、それだよ」とうなずく。
 五巻の所在も気になっていたけれど、さらに私の心を縛っていたのは、一度作者と会って話してみたい、ということだった。
 その人に、「ありがとう」と言いたかった。こんな素敵な作品を書いてくれてありがとう――一言でもいいから、その言葉をかけてあげたかった。
 その時ふと、「あ」と蘭が視線を横へと向けた。その方向を見ると、一人の女性が歩いているのが目についた。結えた髪がひらひらとなびいている。
 周囲の男子学生も彼女をちらちら見ている。すると、蘭が「出たわ、噂の美人……」と言った。
 咲もうなずいて、「あの足の細さ、見てよ」と太ももの辺りを凝視している。
 その女性は他でもなく、野木坂香奈さんだった。図書館に向かって歩いている。その背中を見つめた瞬間、胸が締め付けられるような心地がした。香奈さん、と声を出しそうになる。
 彼女はそのまま図書館へ入っていった。咲と蘭は、「すごいね、あの子」「オーラが違う」とうなずき合った。
「でもあの人、男フリまくっているって噂だよ。高嶺の花ってやつだね」
 蘭が何気なくつぶやいたその言葉が、私の心臓を滅多刺しにした。
「誰か、好きな人でもいるのかねえ」
 その瞬間、私は地面を蹴って歩き出していた。二人が「ちょっと」と声をかけてきたけれど、私は振り返らずに、「次の授業、行けないから」とつぶやいて、そのまま早足で歩き続けた。
 図書館へと入り、本棚の間を抜けて、自習スペースまで来る。ちょうど、香奈さんが席につくところだった。
 彼女は私に気付き、「あれ」とびっくりした顔をする。そこでようやく私は自分の行動に気付き、混乱する。「もしかして、会いに来てくれたんですか?」と、彼女のその言葉に我に返った。
「……そうかもしれない。図書館に来る用事があったから、あなたの顔を見ておこうかと思って」
 そう言うと、香奈さんは顔を綻ばせ、「今日こそ、お茶でもいかがですか?」と言った。私は思わず視線を逸らして「私は……」と言葉を濁す。
 そのまま歩き出そうとした時、香奈さんが私の手を握った。手首が激しく締め付けられて、私は苦悶の声を漏らす。
「お願いです。今日ぐらい、一緒に付き合ってください」
 その瞳は本当に切実で、私はその目から視線を逸らせなくなった。そこでそっと手の力が緩んだので、私は「わかったわ」と小さくつぶやいた。すると、香奈さんは顔を輝かせた。
「学内カフェに行きましょう。奢りますよ」
 香奈さんは私の手を握り、歩き出した。

 私達は隅の席に座って、しばらく珈琲を飲みながらたわいのない話をした。私の心臓は暴れ回るように鼓動を刻み、握り締めた拳は汗だくだった。
 香奈さんは本当に楽しそうに話していた。その表情を見ていると、私の心はきりきりと締め付けられる。そうして私は彼女の話を聞きながら、ぽつりとつぶやいた。
「香奈さんは、誰ともお付き合いしてないって本当なの?」
 気付けば、その言葉が口を衝いていた。すると、香奈さんは視線を落として、押し黙った。
 重苦しい沈黙が過ぎった。やがて彼女はどこかぎこちない笑みを浮かべて言った。
「私には、待っている人がいるんです」
 その言葉が、私の心を奥深くまで突き刺した。
「その人が帰ってくるまで、私の心は変わったりしません。……絶対に」
 そうして彼女は私の手を握ってきた。
「長谷川先輩を見てると、何故か彼を思い出すんです」
 その途端、私は彼女の肩を突き放していた。香奈さんが目を見開き、私は肩で息をしながら歪んだ笑顔を浮かべ、「そろそろ行かなくちゃいけないわ」とすぐに席を立った。
 香奈さんはしばらく私の顔を見つめていたけれど、やがてうなずき、「わかりました」とどこか沈んだ声で言った。
 私達はそうして入り口の前で別れた。彼女に背を向けて歩き出しながら、ずっと視線が背中に刺さっていることに気付いていた。それでも、振り返ることはできなかった。
 何故なら、私は――。

 その本のストーリーは、男性が愛する女性に必死の想いで別れを告げ、彼女から離れていくことに耐え切れなくなり、再び二人の恋愛が始まるという内容だった。
 彼は彼女が自分にとって絶対に必要な存在であることを悟り、彼女に永遠の愛を誓うのだ。そうして想いが通じ合い、新たな道を歩みだしていく。私はこの作品を読んで、オーソドックスな内容が気にならない程に、心情描写が優れていることに気付いた。
 その言葉はまるで劇中で俳優が語るように臨場感があり、周囲に情景が浮かんでいつの間にか作品の中に入り込んでしまうような、不思議な魅力があった。
 この魔法のような作品に出会うことができて、私は本当に何度だって読み返してしまうほどに、夢中になっていたのだ。
 いつまでもこの作品に触れていたい――そう思ううちに、どうしてもこの物語の続きを読んでみたくなってしまう。
 そうして来る日も来る日もその作品に思いを馳せ、やがてどうしようもなく狂おしい感情へと繋がっていくのだ。

 その日も私は大学からの帰り道、あの本のことについて考え続けていた。ぼうっと時を過ごしてしまっていたのだ。駅で本屋に寄って物色した後、自転車で家へ向かったけれど、心をどこかへ置いてきてしまったようだった。
 そんな中、堤防沿いの道を歩いていると、そこで見覚えのある人影が腰を下ろしているのが見えた。
 私は思わず自転車を停めて、彼女の背中をじっと見つめた。するとその足音に気付き、女の子が振り返って、「あ!」と声を張り上げた。
 私は笑顔を浮かべて、彼女に駆け寄った。すると、女の子は嬉しそうに「本のお姉さん!」と同じように走り寄ってくる。
「今日もここでずっと本を読んでいたの? そろそろ寒くなってきたし、早く帰りなさいね」
「だってさやか、ジョウブだから……少しぐらい平気だよ」
 女の子はそう言って胸に抱えたハードカバーを見せてきた。私は何気なくそのタイトルを見て、その瞬間目を瞠った。
 ――積木正太郎 『銀色の砂を掬う手』
 思わず彼女の手からその本を受け取って、顔に近づけて見てしまう。私は『ほとぼりが覚めるまで』を読んだ時から積木正太郎のファンで、書店でも彼の作品を前に何度も立ち止まってしまう程だった。
「積木さんの本ね。こんな難しい本まで読んでいるの?」
 私が驚きを含んだ声でそう言うと、彼女は「うん。私も好きなんだ。積木さんの本が」と声を弾ませて言った。
「本当に好きなのね。お姉ちゃんだって、こんな難しい本は読めた試しはないわよ」
「難しくたって、どうしても読みたいんだもん」
 女の子はそう言って私の手からそれを引き抜いて、大事そうに胸に抱えた。思わず私は彼女の表情を見て頬を緩ませ、「それ程大事なのね」と彼女の頭を撫でてあげた。
「私も、本当にどうしても好きで堪らない本があるのよ。もう夢中になって、好きな人を見つけたみたいになって」
 すると、女の子は目をぱちくりさせ、「お姉さん、なんか思い詰めた顔してるね」とそっと手を握ってきた。
「あなたにも読んでもらいたいの。ちょっと待ってて」
 私はバッグからそっとその一冊の本を取り出し、彼女の小さな手に握らせた。女の子は何も書かれていないその表紙を見て、「ヘンな本」と顔をしかめた。
「ちょっと読んでみて」
 そうして私達は芝生に腰を下ろし、女の子の背後に回って、彼女の顔の前で本を捲ってあげた。
『私はどうしようもなく苦しい恋をしている。この恋はもはや誰にも理解されない歪なものと化している』
 私がそう読み上げた瞬間、彼女は黙りこくり、文字の羅列をじっと見つめて、私の言葉を聴いている。
 女の子の暖かな温もりを感じながらページを捲っていると、彼女が突然「これ、知ってるよ」と声を上げた。私は「え?」と目を見開いた。
「これと同じ絵本、読んだことがあるよ」
 私は思わず彼女の肩をつかんで、「それって本当なの?」と声を張り上げてしまう。女の子は何度もこくこくとうなずき、「読んだことあるよ」と言った。
「絵本で同じものがあるの?」
「だってさ、この男の名前も全く同じだし、最初の辺りもまるっきり一緒だよ」
 私は彼女の手を握って、しばらく何も答えられなくなってしまう。そんなことが本当に有り得るの? 同じ内容の絵本が存在しているなんて。
 私はとりあえず彼女と正面から向かい合って、話を聞いてみることにした。彼女は確かに小さい頃、兄にその絵本を読んでもらい、何度も繰り返しその物語に触れたことがあったと言う。
「まだその絵本、持っているの?」
「わからない。ずっと前のことだし、捨てちゃったのかも」
 私はその感情を必死に押し留め、彼女の両手を握った。女の子は涙が滲んだ私の瞳を見て驚き、顔を引き攣らせている。
「お願い、さやかちゃん。その本を持ってきて欲しいの。私に力を貸して……」

 その日の夜、私は布団に包まりながら、枕元でその本を広げて溜息を吐いていた。その緻密な構成で語られたわかりやすい文章を口に出して読んでみると、リズムに乗っていくらでも物語に浸ることができてしまう。
 そんな中、私の頭の中には、さやかちゃんの言葉が駆け巡っていた。
 ――これと同じ話の絵本、読んだことがあるよ。
 ――だってさ、この男の名前も全く同じだし、最初の辺りもまるっきり一緒だよ。
 私は気付けばその言葉を復唱し、そこに篭められた意味を何度も反芻していた。
 もしも彼女の言うことが本当なのだとしたら、誰がその絵本を小説にしたのだろう。それとも、昔からあったその小説を元に、誰かが絵本を書き上げたのかもしれない。
 考えても、私にはどんな答えも導き出すことはできなかった。やがて本は汗に濡れて私の香りが染み付いていく。
 彼女が絵本を持ってきてくれることをただただ願うしかなかった。それでその絵本の作者を見つけることができるなら……。
 そのまま眠ってしまっても、心のどこかでその本について考えている自分がいた。まるで心に何かが染み付いてしまっているかのようだった。

 次の日、私は夕方に大学を出て、そのまま急いであの堤防へと向かった。自転車を押しながら歩く事が多かったこの道を全力で滑走するなど、大学に通い始めてから一度だってなかったことだった。
 それ程までに私は気持ちを抑え切れなかったのだ。そうして昨日女の子がいた辺りまで来て、「さやかちゃん!」と声を張り上げて彼女の姿を探した。
 けれどそこには彼女の姿はなく、私は自転車を停めてその場に立ち尽くすしかなかった。数分経過しても彼女は現れず、私は俯いて芝生に力なく腰を下ろしてしまった。
 そうして彼女のあの溌剌とした声を再び聞くことはできず、私は自然とバックから本を取り出してそれに目を走らせた。
 やがて夕陽が沈み、辺りが宵闇へと覆われても、私はいつまでも本のページに視線を落としたままその場から動けなかった。
 どうしても、彼女の言葉を聞きたかったのだ。唯一同じ志を持った彼女から何を聞けるのか、心待ちにしていたのかもしれない。
 どうしてこんなにも思い詰めてしまうのだろう。私はその本をぎゅっと握った。この本を読んでから、何か別の自分が心の中に現れて、言葉を語りかけてくるような違和感があった。

 *

 そうして私の日常は再び何一つとして起伏のないものとなり、その欠乏感を拭い去る為に私はバイトを多く入れ、どうにか心のやるせなさをやり過ごそうとした。
 古書店でいつものように本を棚に並べながら汗を拭っていると、そこで店主のおじいさんが近づいてきて言った。
「掘り出し物があったよ」
 そうして本を無理矢理差し出してくる。
 私はいつものことなので驚かずに、「何ですか?」と本を受け取ってその表紙を見つめた。そのタイトルは煤で汚れて見難くなっており、著者名も私が知らないものだった。
「これ、自費出版されたものなんだけど、売れない割に面白かったんだよ。私が若い頃に偶然見つけてはまった作品なんだけどね」
「へえ……ちょっと拝見していいですか?」
 本を開いてみると、そこには割りと綺麗な状態の目次があり、私は順にページを開いてその物語を読み始めた。
「笹山一樹は、絶対にデビューできるだけの素質は持っていたはずなんだけどな。ただ、どうしても文章が単調になりやすくて、読者が飽きてしまったんだろうね。でも、もっと有名になれたはずなんだ」
 そっと本から顔を上げて店主の顔を見つめると、彼はどこか爛々と輝く瞳で表紙をじっと見つめていた。まるで失った宝物を取り返したような、そんな幸せそうな表情をしていた。
 彼をここまで興奮させる本は一体どんなものなのだろう、と私は興味を持ち、文章に目を走らせた。
「今度、彼の特設コーナーでも作ってみようかな。結構話題になるかもしれない」
 そんなことを言って、店主は「君も、仕事に戻ってね」と肩を叩いて、カウンター奥へと戻っていった。
 すると、棚の隙間から顔を出していた和子さんが、「また父さん、変な本を加奈子ちゃんに薦めちゃって」と呆れたように言った。
 その後、休み時間にその本を読んだけれど、とても心が暖まるストーリーだった。どうしてか私の胸の奥が疼き、その本を手放したくないと思えてきてしまうから不思議だった。
 何故か、どこかで同じ感覚を前にも抱いたことがあるような、そんな錯覚があった。

 そうして何度となく通りがかったその道を、その日のバイトの帰り、私は力ない足取りで歩いていた。自転車の車輪がくるくると回って、私の足元の影も揺れた。一見のどかな情景だったけれど、心は深い沼に嵌まったように沈んでいた。
 あれからさやかちゃんはこの道に現れることはなくなった。毎日この道に足を踏み入れる度に、期待を胸に抱くのだけれど、いつもその想いは空回りするだけだった。
 もう疲れ果てて、溜息を吐くしかなかった。そこで紙を捲る音が聞こえてきた。私ははっと目を見開き、そっと顔を上げた。
 すると、信じられない光景がそこにあった。あの女の子が芝生に座って、『その人』と話していたのだ。彼は私の前では見せたことがない、そのどこか強張った表情で彼女を見つめ、そしてうなずいている。
 私の口から、穂積君、とぽつりと言葉が漏れ出た。
 彼がそっとこちらに振り向き、その瞬間、顔を硬直させた。私達はお互いの瞳の内にある動揺に気付き、声を掛け合うこともできずに無言で視線を交わし合った。
 そこでさやかちゃんが私へと振り向き、「あ、本のお姉さん!」と弾んだ声を上げた。そのまま駆け寄ってくると、彼女は私のスカートに顔を埋め、「また会ったね!」ときらきらした瞳で見上げてきた。
 私はそっと微笑み、彼女の頭を撫でてあげ、そうして穂積君に何と言うべきかと迷っていた。穂積君は私と彼女を順番に見つめ、とても複雑そうな顔をして視線を逸らした。
「穂積君、もしかしてさやかちゃんと知り合いだったの?」
 そこで彼の肩がぴくりと震え、そして穂積君は何故か唇を噛み締めて俯いた。さやかちゃんが「私のお兄さんだよ」と私のスカートを引っ張って言った。
「俺の方こそ驚いたよ。加奈子さん、こいつと知り合いだったのか」
 穂積君の声に、どこか突き放すような響きが含まれていることに気付き、私は不安になって「穂積君?」と聞き返した。すると、穂積君はようやく私の顔を正面から見て、「さやかが話していた本のお姉さんって加奈子さんのことだったのか。妙な偶然があるものだな」と苦々しく笑った。
「ごめんね。私、どうしても穂積お兄ちゃんを迎えに行かなくちゃいけなくて、こないだは来れなかったんだ」
「いや、あれはただお前が無理矢理俺の学校まで押しかけてきたんだろうが」
 「そうだっけ?」とさやかちゃんは笑い、本当に嬉しそうな顔を浮かべた。彼はばつが悪そうに立ち上がり、「悪いけど、俺達もう帰るから」とさやかちゃんの腕を握った。
 さやかちゃんはそこで顔を歪め、「お兄ちゃん、痛いよ」と腕から彼の手を引き剥がそうとする。それでも穂積君は手を離さず、「また今度だね、加奈子さん」と笑った。しかし、その笑みはどこか引き攣っているように見えた。
「絵本、今度探してみるから」
 さやかちゃんがそう言って手を振ってくる。すると、穂積君がその手をつかんで、力一杯に下ろさせた。私は目を見開く。
「いい加減にしろ。加奈子さんも、お前の相手をして困ってるだろ」
 さやかちゃんは顔を膨らませて何かを言いかけたけれど、すぐに「お姉さん、またね!」と私へと振り向き、その道を歩いていく。
 夕陽の光を一身に浴びながら、手を繋いで歩いていくその二つの影はどこか幸せそうに見えたけれど、その歩調はどこかぎこちないように感じられた。
 それよりも、私の頭には穂積君のその酷薄な笑みがこびり付いていて、声をかけることもできなかった。

 穂積君のその思い詰めた顔が忘れられずに、何があったのだろうと気になっていたけれど、突然告げられたその事実に、今までの悩みすべてを忘れて、呆然とするしかなかった。
 古書店のおじいさんが亡くなってしまったのだ。彼は普段から心臓病に苦しんでいて、そして病態が悪化し、そのまま搬送先の病院で亡くなったのだ。
 私の前では全くそのような素振りは見せなかったのに、持病を抱えていた事実なんて今まで知らなかったのだ。それが私をさらに深い哀しみへと引きずり込んでしまった。
 いつも本を愛していたあの人は、初めて会った時から私の想いを理解してくれた。和子さんはお葬式の時に何度も感謝の言葉を伝えてくれたけれど、私は結局何もできなかったのだ。
 私はただ自分自身が読書を楽しめればいいとしか思っておらず、彼に何一つ恩返しできていなかったのかもしれない。
 そう思うと、恐怖感が背筋を覆い尽くした。私は一人きりの部屋で途方に暮れるしかなかった。
 古書店にあの溌剌とした声は響くことはなく、ただ和子さんの悲嘆の声が本に染み込んでいくだけだった。
 私は何かに急き立てられるような心地で図書館に通うようになった。あれから穂積君は顔を出さなくなり、私は一人で窓際の席に座ってぼんやりと過ごすことが多くなった。
 あの本を探し求めているうちに、溜まった疲れが押し寄せてきて、それは様々な物事と複雑に絡み合って私の心を圧迫していった。
 私は何か間違った方向へと歩もうとしているんじゃないだろうか。そんなことを思って、本を捲る手が止まってしまう。
 その時、ふと肩に手を置かれた。私は息を止めて体を震わせ、振り返った。
 すると、そこには私が何度も心の中で名前を呼んだその人の姿があった。
 彼はにっこりと穏やかな微笑みを浮かべて、私を見つめていた。私はその瞬間、様々な感情が一斉にこみ上げてくるのを感じ、しかし、どれも言葉にならなかった。
 私の瞳から涙がこぼれ落ち、頬を伝った。彼はそれを見ると目を見開き、すぐに私の肩をつかんで「何かあったの?」と囁いてきた。
 私は唇を噛み締め、ただ首を振るだけだった。すると穂積君が私を立ち上がらせて、背中を押してきた。図書室の外へと促してきて、そのまま私は彼に連れられて屋外に出ると、ベンチへと座らされた。
「加奈子さん……俺は前に、あなたには感情移入をしてしまう一面があるって言ったよね?」
 私が小さくうなずくと、穂積君はそっと手を握って言った。
「加奈子さんはいつも誰かの為に泣いてしまうんだ。それはすごいことだけど、それでも、その哀しみを我慢しちゃいけない。だから――」
 そう言って穂積君は私にハンカチを渡し、「そのハンカチ、汚してもいいから」と笑った。私はその途端に、何か張り詰めたものがプツンと切れてしまったような、そんな切ない気持ちになった。ハンカチを目に押し当てて声を押し殺し、泣いた。
 目の前に様々な光景が浮かんでは消え、それは涙と一緒に私の外へと零れ出て行く。そうして徐々に哀しみは薄らいでいき、やがては消えていった。
 私がひとしきり泣いて顔を上げると、穂積君はただじっと私を見つめて笑っていた。それはいつか彼が向けてきた慈しみに溢れた眼差しと同じだった。
 私はまた涙を零しそうになったけれど、すぐに唇を結んで堪えた。そして、「もう大丈夫だから」と言った。
「誰か、側についてくれる人がいたから、乗り越えることができた気がするの」
「また落ち込んでたら俺はどうしたらいいんだ?」
「そしたら、また慰めてもらおうかな」
 私がそう言うと、穂積君はふと笑って、私の頬の涙を指先で払ってくれた。私は恥ずかしく思いながら、ありがとう、とただ頭を下げた。
 穂積君は苦笑して、「律儀なのは、加奈子さんの方だよ」と言ってそのまま歩き出した。その背中が入り口で止まって、彼は振り返った。
「今は、ゆっくり行こうか」
 私はうなずき、彼へとそっと近寄った。彼の言葉が胸にこびりついて暖かな温もりとなり、心を癒してくれた。あれ程胸を覆い尽くしていた哀しみが、どこか喜びに変わっていくのを感じた。
 そうして私は再び頑張っていこうと思えたのだ。

 その日から私の心は次第に晴れ晴れとした穏やかなものへと変わり、それはまるであの作品と出会ったその日々を思い出すようだった。
 私は全くあの作品の続編を読むことをあきらめてはいないし、それに自分自身の問題から逃げようなんて考えてもいなかった。
 彼女はまだその人が現れることを夢見て、彼との再会を待ち続けているのだ。でも、彼は絶対にもう現れることはない。私はそれを知っているのに彼女に教えてあげることができなかった。
 そんな中、どうしても香奈さんに対して罪悪感を抱いてしまう。それでも、いつかこの関係に終止符を打つ時が来るのかもしれないと思う。
 だが、その瞬間は突然私の元へと訪れたのだ。

 文化祭当日に、『再会』の舞台が開演することになり、とうとう五巻の所在を突き止めることができなかった。私はまだその事実を受け入れられず、その本を必死に探し回っていた。
 親友達も巻き込んで、ビラを作って通行人に配り、とにかく五巻を探すことに奔走した。その作品が読めるなら、と思っていたけれど、それでも見つけることさえできなかった。
「そろそろだよ」
 清水さんが舞台裏でどこか興奮した面持ちで私の肩を叩き、そうして開演時間が迫った。演劇サークルの部員達は円陣を組んで掛け声を上げた。
「この傑作を、舞台の上で演じきるんだ。そして、観客の心を興奮させるぞ。いいか、この作品は我々にしか演じられないんだ! 行くぞ!」
「「おうッ!」」
 そうしてあっという間に時間となり、衣裳に身を包んだ部員達が次々と舞台へと繰り出していく。
 そのまま部長が舞台に出る番となって、そして彼は私の前まで近づいてきて言った。
「加奈子さん、君がこの作品を見つけてくれたから、今の我々がいるんだ。本当に感謝している」
 そう言って部長は大きく頭を下げてきた。
「……あの、部長さん」
 彼はその言葉に振り返って、苦笑した。
「この作品の続編が見つけられなかったことは本当に残念だ。だけど、それでもこの作品が傑作であるということには変わりはないから」
「わかってます。私は私のできることをするだけです」
 部長はその後に何かを言いかけたけれど、すぐに前へと振り向き、そして顔を引き締めて舞台へと繰り出していった。そうして開幕となった。
 私は舞台裏に回って必死に自分を奮い立たせ、ただこの劇が無事に終わって何らかの糸口を新たに見つけることができるのをただただ祈っていた。
 その心の裏には、本当にこれでいいのか、と自責の念が渦巻いていた。
『如月達子と申します。何か御用でしょうか?』
『私達は文芸サークルを個人的に開いているんだが、少し建物を見学させてくれないだろうか? 私は林と言うんだ』
 セリフが始まり、すぐに観客の声が静まり返って、張り詰めた雰囲気が舞台裏にまで伝わってくる。
 この劇を観賞している彼らは、この物語の本当の結末を知らないのだ。
 そうして素晴らしい作品を忘却の彼方へと投げ捨てて、「あの劇、大したことなかったね」と笑い話にしてしまうのだろうか。私は単なる思い込みだとわかっていても、どうしても譲れない想いがあり、拳を握り締めて苦悶の声を漏らしてしまった。
『私はあなたのことが好きなんです。どうしてもこのしがらみは私の心に根付いて離れません。どうか、どうかこの心を理解してください……』
『それは、私の耳に届くことのない言葉です。私はあなたの言葉を聞くよりも、ずっと前に自分の言葉を聞いていたのです。ですから、私も今、この場所であなたに自分の心を伝えましょう』
 観客が息を呑んで、その舞台で口付ける二人の姿に見入っているのがわかる。私も目を閉じ、その作品を頭の中にイメージして、浸り続けていた。
 そのまま劇は順調に進行していき、閉幕へと刻一刻と近づいていく。私は唇を噛み締め、何か言葉をつぶやくけれど、そこで舞台に響き渡るその声が聞こえてきた。
『私はどうしてもあきらめられないの。あなたのその想いを受け取ったのに、それをみすみす手放すことはできないから』
『私だって本当はそんな結末など望んでいなかった。だけど、これはもうただの劇のワンシーンに過ぎないんだよ。私達の関係はただの甘ったるい芝居でしかなかったんだ』
『……それでも、私はッ!』
 気付けば私はその言葉を受けて、立ち上がっていた。周囲で控えていた部員達が振り向き、「どうしたの?」と囁いてくる。
 少し席を外します、と言って舞台裏を飛び出し、観客席へと出た。もしかしたら、この舞台を見ている人の中に、あの続編を持っている人がいるかもしれないのだ。
 私はそっと通路に立ち、薄暗い中、観客席を見渡してみた。そうしてふと、見知った顔が視界を横切った。はっとして振り向くと、舞台を見つめている香奈さんの姿があった。
 彼女は胸に一冊の本を抱いて、じっとセリフに耳を澄ませている。私はそれを見た瞬間に、駆け出していた。
 周囲で飛び交う声など気にせずに、私は強引に観客席へと割り込み、そして彼女の名前を呼んだ。すると、香奈さんがこちらへと振り返り、ぽつりと言葉を漏らした。
 先輩、とどこか疲れ切った声を上げたのだ。私はすぐに彼女の手首をつかんで立ち上がらせて、「ちょっとこっちに来て」と腕を引いて歩き出す。
 香奈さんは抵抗せずにふらつく足取りで歩き出した。私は彼女の肩をつかんで支え、ようやく会場の外へと連れ出すと、一言「香奈さん、仲間だったんだね」と微笑んだ。
「……何が、ですか」
 香奈さんは唇を震わせてそうつぶやき、そして縋りついてきた。私はしっかりとその手を握り締め、そして言った。
「あなたはこの物語を知っていたんだね。この作品に惹かれて、今こんなにも心を震わせているんでしょう?」
「私は彼女のようになれるのでしょうか、先輩」
 ふと香奈さんの肩が震え出し、そのまま崩れ落ちてしまう。私は彼女の肩を抱いて支え、「香奈さん」と耳元で囁く。
「私、どうしてもあの人と巡り合って、永遠を共にしたいんです。彼女みたいにいつでも彼を呼び戻せて、無理にでも自分の愛を伝えられたら、そしたら……」
 香奈さんはそこでその想いを声に出して、泣き始めた。彼女は私の腕を振り切って、そのまま地面に倒れ伏してしまう。
 私は言葉をかけることができず、彼女のその苦悶する姿を見ながら、鋭い刃物で切り付けられたような痛みを感じていた。
 彼女がこうして苦しんでいるのも、すべてあの約束を反故にした自分の所為なのだ。この作品の結末に自分を重ね、喘ぐ香奈さんの姿を見ていると、私がとても残酷な罪を背負っているように思えてきてしまう。
「私もいつか、彼と再会したい。だから――」
 香奈さんがそうつぶやき、本に視線を落として何か言葉を探しているようだった。私はそっと彼女に近づき、その肩に手を置いてうなずいた。
 目を閉じて、その決意を確めた後、言った。
「会えるよ、きっと」
 その言葉が静まり返った廊下に響き渡ると、香奈さんが私をじっと見つめてきた。私は罪悪感で押し潰されそうになりながらも、その続きを口にした。
「きっとあなたの前に、彼が再び現れるわ。私が約束するから……」
 香奈さんは「それは……」と顔を歪めたが、私は彼女の手からその本を受け取り、「この本ね」とつぶやいた。
「どうしても今、この本が必要なの。香奈さん、見届けてくれるよね?」
 香奈さんが私へと手を伸ばそうとした時には、私は「ごめんね」と言って歩き出していた。「先輩」と香奈さんが掠れた声を上げ、私はそっと振り返って言った。
「私は今、この作品の結末をたくさんの人達に届けないといけないの。だから――」
 そう言って香奈さんに必死の眼差しで訴えかけると、香奈さんはふっと微笑んで、「行ってください」と言った。
「加奈子さんはいつも私から離れていってしまうんですね。でも、今はどうしてもその本を必要としていると伝わってきます。だから、もう行ってください」
 私は「香奈さん」とつぶやき、そして正面を向いて大きく息を吐き出し、その途端に走り出した。香奈さんの姿が視界から消え、私は会場の中へと再び入って通路を駆け下りた。
 舞台はもうラストが目前に迫っていた。すぐにでも終幕のセリフが観客の心に刻み付けられようとしている。でも、それだけは何があっても止めなくちゃいけなかった。
 彼らに届ける言葉は、今この胸の中にあるのだから。
 私は舞台裏に入ると、ぎょっとして振り向くスタッフの間を抜けて、そのまま舞台へと降り立った。
 すべてのスポットライトが降り注ぎ、私は前だけを見据えて一歩前へと進み出た。側で立ち尽くす部員が「加奈子さん!」と状況を呑み込めずに叫んだ。
 周囲のどよめきも、制止の声も聞かずに、ただその本を開いて語りだした。
「彼と彼女は再び巡り合い、その愛を確かめ合いました。再会の言葉は嘘ではなかったのです」
 そこから、新たな物語が始まるのだ――。

 *

「わざわざ劇を観に来てくれ、って言うから足を運んでみたら、まさかこんなことになるなんてな」
 穂積君は私の顔を見つめながら、どこか複雑そうな表情を浮かべて言った。私は観客の消えた会場の末端の席に座り、俯いて震えているしかなかった。
「あのまま俺は劇が終わるのかと思ってたよ。それが、突然加奈子さんが現れて本を朗読し始めるんだ。あれには驚いたよ」
 穂積君は肩を揺らせて笑い、私の背中をぽんぽんと叩いてくる。私はただ「ごめんなさい」と繰り返し謝った。
 あの時は、どうしても物語の続きを知ってもらいたくて、あんな手段に出てしまったのだ。本のことになると見境がなくなってしまうのはいつものことなのだけれど、まさかあんなことになるなんて自分でも予想していなかった。
 即興で俳優達が劇を演じて何とかラストまで漕ぎ付けたから良かったものの、あのまま滔々と喋っていたら野次が飛んでいたかもしれない。
 それでも、ここまでやっても後悔は全くなかった。私は観客の人達にあの物語のラストを伝えることができた。それだけでもう、自分の恥など全く忘れてしまえるほどに幸せだったのだ。
 穂積君は私から視線を外すと、まっすぐにステージを見て、ぽつりとつぶやいた。
「まさかこの作品が劇として上演されることになるとは思ってもいなかったよ。この本をあの図書館に置いたのは、それほど大した理由があった訳じゃないんだ。ただこの本を誰かが読んでくれて、それでその人が何かを感じてくれればいいと……結局そんなことしか思っていなかった」
 私は穂積君を見つめ、薄っすらと青白く色づいた彼の頬を手で擦った。彼は加奈子さん、とつぶやき、そしてどこか憔悴しきった顔でこちらへと振り向いた。
「俺のおやじは笹山一樹と言って、全く無名の小説家だったんだ。あいつが書いた作品はどれも幸せ一杯の現実とはかけ離れた虚構の中の虚構だった。たぶんそのギャップが読者を惹きつけなかったんだと思う。それに比べて、俺が書く作品はとにかくリアリティを重要視している。あいつみたいな甘ったるい文章はどうしても書けない性質なんだ」
 そう言って、穂積君はどこか言い淀むような様子を見せてから、そして言った。
「あの本を書いたのも俺だ。普通に小説家として仕事をもらってるし、おやじの作品を手直しして本にすることぐらい訳もないことだった。ただ、積木正太郎が書いた本だと誰かに悟られはしないかと心配だったんだ。文体までは変えることができないからね」
 私は「……穂積君」と言って、そして溢れ出てくるその想いを言葉にした。
「私はこの本を読んで、あなたに真っ先にその言葉を伝えたかったの」
 私にこの本を届けてくれて、ありがとう。
 すると、穂積君は目を見開き、そして何か苦しそうな声で呻いた。私はそっと微笑み、彼の腕を握った。
「積木さん。あなたの想いはちゃんと私達の心に届いているわ。お父さんの作品を大切に想い、そして彼ができなかったことをあなたの力で成し遂げようとしたんでしょ? あなたの力はお父さんの作品を救ったのよ」
 加奈子さん、と穂積君は声を漏らして、歯を食い縛って俯く。そして、「俺は」とつぶやいた。
「おやじの絵本が誰の目にも触れずに葬り去られるのに耐えられなかったんだ。俺だったら、この作品のレベルを何段階にも上げて、すごい傑作にできると信じていたから。傲慢な話かもしれないけど、だけど俺は――」
 そこで彼は唇を噛み締めて拳を握り、その想いを必死に押し留めようとしているようだった。
「あきらめたくなかったんだ。だから、学内見学で訪れてあの図書館に行った時、こっそりと本を置いた。おやじが通っていたこの大学なら、きっと理解してくれる人がいると思って」
 そうして彼は額を抑えて嗚咽し、「だから、本当に嬉しいんだ」と途切れ途切れになりながらも必死の言葉で語った。
 私はうなずいて、「穂積君にね、見てもらいたいところがあるんだ」と言った。彼は乱暴に目元を拭い、「何だよ、説教でもする気か?」と健気にも笑ってみせた。
「あなたのお父さんが残した遺産が、まだ残っているのよ」
 そうして私は「古書店に、ね」と彼の手を握って立ち上がった。

 彼は私がバイト先まで来て欲しいと言うと、途端に顔をしかめて、「そこに何かがあるのか?」と動揺を抑えているようだった。
「そこに行けば、必ずあなたの求めているものが見つかるから」
「なら、行くよ」
 穂積君はうなずいてそのまま立ち上がり、私に案内するように促してきた。会場を出るともう既に人の姿はなく、路上ライブをしているのか、どこからか歓声が聞こえてきた。
 私は彼の手を引いて大学を出ると、そのまま電車に乗った。移動している間、彼はずっと悔しそうな、複雑そうな表情をしており、時折私へと視線を送ってくる。
 私は頷き返しながら、自宅近くの最寄り駅へと降り、そのままバスに乗った。そうして二つ目の停留所で降りた。
 真夏の輝く太陽が雲の隙間から顔を出し、私に何かを囁いてくるような感覚があった。それは自信を持って、と私の背中を押してくれるようでもあった。
 ようやく古書店に辿り着いた時、彼の口からはどんな言葉も漏れてこなくなった。
 店先に札がかけられていて、特集 笹山一樹という文字が掲げられていた。私が彼に声をかけようとした時には彼はそっと店に踏み込んで、階段側のスペースに並べられた本をじっと見つめていた。
 何でこんな場所に、と穂積君は未だその事実が信じられないように、恐る恐る一冊の本をつかんだ。
 そうしてページを捲り、彼は顔に近づけてその文字を食い入るように見つめている。それを目にして、ようやくこの情景が嘘ではないと悟ったように、「おやじの本がこんなところにあるなんて」とうわ言をつぶやいた。
 私は彼の隣に立ち、そこに並べられた一冊の絵本を手に取って開いた。そうして読み上げる。
「彼と彼女は再び出会いました。再会の言葉は嘘ではなかったのです」
 冒頭のその一文を読み上げた瞬間、彼の体がふらりと傾き、彼は地面に手をつきながら、本を握り締めて嗚咽し始めた。
 おやじ、と繰り返しながらその本を胸に抱き、涙を流し続ける。私はその涙が喜びによるものだとわかっていたので、何も言葉をかけることはせず、ただ彼の背中を擦ってあげるのだった。
 あの時、穂積君がそうしてくれたように、今度は私が彼の涙を拭い取ってあげるのだ。彼の瞳は、今は亡き店主が作った特設コーナーへと据えられており、一つの棚をすべて笹山一樹の説明で埋め尽くし、彼の著作を丹念にポップで紹介したその熱心なファンレターに、どんな言葉も出てこない様子だった。
 笹山一樹が遺した著書の数々は、今でもこうして人々の目に留まり、新たな物語を作り出しているのだ。彼の残した最愛の息子が再びこの本を手に取って、そして涙を流すその瞬間を、彼は今、どこかでじっと見ているのだろうか。
 私は胸を覆うこの晴れ晴れとした気持ちをどう表現したらいいのかわからず、ただ「ありがとう」とつぶやいていた。
 私達の言葉はこの作品を何回だって蘇らせることができるのだ。その事実に、いつまでもいつまでも心を震わせ、さらなる物語に惹かれていく。

 *

 その作品『再会を信じて』のラストには、二人が再び巡り合い、そして永遠の愛を誓い合うというシーンがあった。彼は彼女のことを忘れられずに、心の中でずっと想い続け、この愛が叶うことがないのならば、いっそ死んでしまった方がいいと悲観する。
 そうして彼女と出会ったその丘に向かい、そこで夕陽を受けて佇む彼女の姿を見つけるのだ。
「如月さん」
 彼が彼女の背中に向かってその名前をつぶやくと、彼女が振り返って、彼の名前を呼び返す。
 彼らは歩み寄り、そしてお互いの手を握り合って囁き合うのだ。
「やはり、私達は再会する運命にあったんだ。どうしてもこの命はあなたと結びついて、惹かれあう関係にある。もう夢を見ることはやめよう。私はあなたとただ言葉を交わしていたいんだ」
「こうして再会したのだから、もうお互いの想いに嘘をつくことなんて真っ平ごめんだわ。ただ私達は繋がっていればいいの。そのことに気付くのに何年かかったのかしら」
 そうして、「どうか、永久(とこしえ)に」と二人は共に語り合うのだ。
 二人は永遠の愛を誓い合う運命にあったけれど、それをどうしても私は受け入れることができなかった。
 だって私は、『彼女』と運命を共にすることはできないのだ。あの言葉はすべて嘘で、覆すことなどできないと私の言葉で伝えなくてはいけなかった。
 この物語のように、私は再会の言葉を受け入れることはできない。だから――。

 文化祭が終わり、あれだけ歓声に溢れていた校内は静まり返って、期待に満ちた声で語り合った生徒達は冷めた様子を見せるようになった。夢から醒めてしまったような、そんな白けた空気が漂っていた。
 蘭と咲も、自分達のサークルの出し物で疲れ切っているらしく、今日は授業を休んで昼寝をしているという報告があった。私もあの本のことで協力してもらったので何も言うことはできず、ただ授業をぼんやりと聞いていた。
 あれだけ胸を焦がして奔走したのが嘘のように、元の平凡な日常が戻ってきてしまった。
 「再会を信じて」は今でも私の心に深く根付いているけれど、完結を目の当たりにして、私の中で一つの区切りがつき、前ほどに思い悩むことはなかった。
 古書店の店主が残してくれたプレゼントを目にする度に、私は何度もその作品に想いを馳せて、これからもあの作品の現在の作者、穂積君を支えていきたいと思っている。
 穂積君は今でも小説家の仕事を頑張っているし、ぎくしゃくとした兄妹仲も私が彼らを元気付けることで少しずつ良くなってきている気がする。すべては順調にあるべき姿へと戻り、私を優しい世界でほっとさせてくれるのだ。
 それでも、まだ私にはやり残したことがあったから。
 私がノートを取っていると、傍らに座っていた登美子さんが「ねえねえ」と話しかけてきた。あの飲み会で本を探す約束をしてから、彼女もたくさんの協力をしてくれた。そのことで私は恩を感じ、頼られる度にすぐに頷いてしまう癖があった。
「今日これから映画観に行くんだけどさ、一緒に行こうよ。ほら木月卓也が出てるやつ」
 私は苦笑して、そして教授に悟られないように声をひそめながら言った。
「ごめんね。今日これからすごく大事な用事が入っちゃって」
 登美子さんは「えー」と不貞腐れたような声を出したけれど、こればっかりは無理な話だった。
 授業が終わって講義室を出ると、いつか昼食を共にした二人の男子学生が声をかけてきた。「加奈子さん加奈子さん、これから映画観に行かない?」「ほら、木月卓也が出てるやつ!」と興奮した様子で言った。
 登美子さんが「あのね」と何かを言いかけるのを私は手で制し、「私、実はお付き合いしている人ができたんです」と言った。
「「なッ」」
 彼らは体を仰け反らせて、そしてその途端詰め寄ってきた。
「どういうことなんだ、相手の男とはもう……」
「知り合いの高校生なんですけれど、とても優しくて」
 ではこれで失礼します、と私は頭を下げ、彼らの横を通り過ぎていく。
「見てよ、あの顔。私の加奈子ちゃんに手を出そうとした罪よ」
 登美子さんは「ふん」と鼻を鳴らして、そのまま中央校舎の前で別れた。去り際に登美子さんは「年下もいいわよね」と笑って歩いていった。私は彼女を見送った後、いつか『彼女』と話したその場所へと向かって歩き出した。
 どうしても彼女にその言葉を伝えて、すべてを終わらせなくてはいけなかった。私が今まで彼女を無遠慮な言葉で騙し苦しめた罪を、今清算して償う必要があるのだ。
 私が彼女を追いつめて、誰かを愛することをやめさせてしまったのだ。だから、この囚われを消し去る言葉を、私が紡ぎ出す必要がある。
 私は図書館へと足を踏み入れて、彼女がいる窓際の席へとまっすぐ歩み寄っていった。香奈さんはいつものように優しげな微笑みを浮かべて参考書を開き、鉛筆を走らせていた。
 その窓辺には淡い黄金の日差しが舞い込み、その一帯が煌めいているようだった。その中心に彼女がいて、輝く太陽の中に髪が踊っているような、そんなどこか幻想的な情景が広がっていた。
 私は歯を噛み締めてその決意を確めた後、彼女の肩にそっと手を置いた。彼女の体が震えて、そっとこちらに振り返った。
「……先輩」
 香奈さんはどこか戸惑ったような瞳で私を見つめ、そして何か言葉を探しているようだった。私はただ彼女の頬にかかった髪を掬い、「これから少し話したいの」とつぶやいた。
 香奈さんは目を見開いて数秒間私をじっと見つめてきたけれど、やがて俯き、「はい」と震える声を絞り出した。すぐに席を立って、鞄に参考書を入れ始めた。
「もう気持ちは吹っ切れた?」
 私がそう聞くと、香奈さんはふっと自嘲げに笑い、「そんなはずないじゃないですか」と言った。
「私は彼のことを絶対に忘れられないんです。この呪縛はきっと彼にしか解けないはずだから」
 香奈さんはそう言って私へと正面から体を向け、「で、どこまで行くんですか?」と首を傾げてみせた。私は短く息を吸った後、決然とした表情で言った。
「あなたが知っている場所まで案内するわ」
 香奈さんの手を取って、私は歩き出した。すると、香奈さんはどこか怯えたように「先輩。手、痛いです」と言った。けれど、私は立ち止まらずにそのまま図書館から出ていき、大学の外へと彼女を引っ張っていく。
 香奈さんは震える声で、必死に「先輩」と呼びかけてきたけれど、私のその尋常ではない力に震えている様子だった。しかし、徐々にそっと私の指を優しく握って動揺を宥めてくれた。
 私は香奈さんのその澄んだ眼差しに心が少しずつ平静に近づいてくるのを感じ、そっと彼女の手を離して、「ごめんね」と笑った。
 けれど、彼女の顔を見ることはできず、大学の正門を潜って、そのまま無言で駅に向かって歩いた。香奈さんは何も言わずに前だけを見据えている私に、何か問いを投げかけることもなく、ただそっと後ろをついてきた。
 私は香奈さんのその優しさを理解しながらも、心は色々な感情によってぐちゃぐちゃにかき回されて、叫び出しそうだった。
 そうして電車に乗って一時間程移動し、ようやくその駅に到着して、香奈さんは頭上に掲げられたその駅名を見ると、喘ぎ声を漏らした。
「どうして……」
 香奈さんはそうつぶやいて私の顔を見つめ、強く縋りついてきた。そして、「もしかして、こないだの言葉は本当だったんですか?」と必死に腕をつかんで揺すってきた。
 私はそこで大きく息を吸って、そしてそれまでの想いをすべて吐き出した。自分を信じてその言葉をつぶやいた。
「これから、すべての真実を説明するわ」
 香奈さんが「本当ですか」と目元に涙さえ浮かべて言うと、そっと私は彼女の両手を握って優しく振ってみせた。
「香奈さん。私が何を言っても、決してすべてを投げ出したりなんかしないと約束してくれる? 私はいつも懸命に自分と向き合っている香奈さんが大好きなの。その想いをどうか忘れないで」
 私がそう語ると、香奈さんは興奮する気持ちを抑えるように、いつものような落ち着いた表情で大きくうなずいてみせた。そして「私をそこまで案内して下さい」と真剣な瞳を向けてきた。
 私は小さくうなずいて、彼女の手を引いて歩き出した。一歩足を踏み出す度に、心臓に杭が打ちつけられるような、そんな恐怖が私の心を覆い尽くそうとする。
 けれど、今の私にはたくさんの人々の心が溶け合い、あの作品の力強い脈動が臆病な私の心を後押ししてくれるのだ。あともう少し頑張ろう、と自分に言い聞かせることができた。
 そうして駅を出て自然公園に入り、私はゆっくりとそのゆるやかな坂道を登っていった。歩を進めるうちに香奈さんの息遣いが静かになり、私の指を握るその手の力が強くなっていく。
 そうして私の前にその場所が現れた。日差しが燦燦と照りつけるその丘の上に、一つのベンチがあった。そこで、かつて私が香奈さんと交わした言葉の一つ一つが私の胸に押し寄せてきて、私は唇を噛んだ。
 そっとそのベンチへと歩み寄り、香奈さんへと振り返った。
「香奈さん」
 私が目を逸らさずにそっとつぶやくと、香奈さんは打ち震えながらも「はい」と小さく返答した。私はそっと彼女の手を取り、自分の胸元に近づけた。彼女の指にリングをはめる男性のように、その手をじっと見つめて、そしてその声を絞り出した。
「香奈さん。あなたの願いはもう、聞き届けられることがないの」
 香奈さんの口から、ただ小さな呼吸音が漏れ出し、表情を全く動かせることなくただ私を見つめてきた。私は彼女の手を胸元に置き、そして言った。
「何故なら、彼はもうこの世に存在していないから」
 香奈さんは何か声を漏らして、そして私を感情のない瞳でじっと見つめてきた。そして視線を彷徨わせ、最後に体をふらつかせて額を抑えた。
「嘘ですよ、それは」
 香奈さんがそうぽつりとつぶやき、顔を上げた時には彼女の頬は透明の雫で光り輝いていた。私は彼女の手をぎゅっと握り締めて、ただ首を振った。
「本当よ。だってあなたの知っているその人は、元々『いなかった』の」
 香奈さんは私のその言葉に、すべての言葉が頭から抜け落ちてしまったように、口を開いたまま硬直している。その瞳から流れ出していく涙が止まり、ただ「何で」と彼女はその疑問を口にした。
「言葉通りの意味よ。彼はこの世に元々存在していなかったの。だって、その人は――」
 他ならぬ、私だもの。
 私がその言葉をつぶやいた瞬間、香奈さんは私の顔を食い入るように見つめて、そうして何かを悟ったように呆然と声を漏らした。
「私はね、香奈さん――あなたと再会した時、どうしても追いつめられているあなたを救いたいと思って、あなたの心を支える人になりたいと思ったのよ」
「だって、先輩と会ったのは最近で……どうしてあなたが……」
「それよりもっと以前に、私とあなたは会っているのよ。じゃあ見ててくれる?」
 私はそっと手を髪へと伸ばして、腰まで届いたその長い房をかき集め、そしてバックから取り出した帽子を被り、その中に髪を押し込んだ。
「どう? こうすれば、わかるわよね?」
 香奈さんは私の顔をじっと見つめて、それまでの違和感が全て形となってその事実を浮かび上がらせたように「信二さん」とその名前を呼んだ。
「ある事件によって私は幼い頃から、一緒にいた妹と生き別れてしまったのよ。私はその妹をずっと探していた。そうして血の滲むほどの努力をしてようやく十六の春に見つけ出して、そしてまた一緒に暮らそうとあなたの前にやって来たのよ。だけど、」
 香奈さんは事件の傷跡によって憔悴しきっていて、もう私の言葉など聞けないほどに、追いつめられていた。私のことなどわからず、香奈さんが立ち上がれなくなるのではないかと私は身を切られる想いでその考えを導き出したのだ。
「だけどね、男として、あなたの恋人になろうとしたの」
 香奈さんがその場に崩れ落ち、私の顔に視線を縫い止めたまま、動かなくなってしまう。私は唇を噛み締め、自分の腕を強く握り締めて言葉を続けた。
「あなたが誰かに心を開いてくれれば、それであなたの心は救われると思ったから。だから、私は彼になって、あなたと一緒にいることにしたの」
 香奈さんはもう心が空っぽになってしまったかのように、体から力が抜けて私を人形のように見つめていていた。私は頭を下げ、そして言った。
「でも、あの数ヶ月を一緒にあなたと過ごして、これはどうしようもなく残酷なことだと悟ったの。あなたを騙して、叶うことのない恋にあなたを巻き込んで、それで心をかき乱して……。だから、最後にあなたに別れを切り出した時、あなたの心が壊れないように嘘の約束をしたのよ」
 ――大丈夫、いつか必ず戻ってくるから。……君が一人で生きていけるような気丈な心を持てたなら、その時必ず迎えに行くよ。僕らは一緒になれるから。約束するよ。
 あれはなんて最悪の決断だったのだろう、と思う。香奈さんを期待で縛り付けて、それだけを祈って生きさせることに繋がったのだ。だから、私はその囚われをすべて葬り去らないといけない。
「でも、私は彼とただ会いたかったんです。彼がこうして戻ってきてくれれば、」
「駄目よ」
 私は彼女の言葉を掻き消し、そしてしゃがみ込んで、彼女の肩に手を置いた。
「あなたはこれから、一人で決断して生きていけるようにならなくちゃいけないわ。もう誰にも選択権を譲ってはいけないの。すべて自分の選択で、自分と向き直って生きていきなさい、香奈」
 私があの本とは違った別のラストを目前にしてその言葉を口にすると、香奈さんは「嫌です」と泣いて首を振った。
 私は彼女の額に自分の頬を打ち付け、そして言った。
「彼はもうあなたの前には現れないから。あの本のように、二人が再会して永遠の愛を誓うことは最初から叶うことのない夢だったの。それよりあなたは次の恋を探せば良いわ」
「次の恋なんて……何言ってるんですか。私には彼しかいないんですよ」
 私は短く息を吸い、そして大きな声で言った。
「その囚われを自分の手で打ち破るの。もう私はあなたの前には現れないから。でもね、これだけはわかって欲しいの」
 私は額を触れ合わせ、彼女の肩に手を置いて言った。
「私はただ残酷にあなたの心を踏みにじって、勝手に別れを切り出すんじゃない。あなたがあなたの足で地に立って歩めるように望んでいるから。だから、もう彼の後を追うのではなく、自分で生きることを決意しなさい。それがたぶん、あなたの――」
 『彼』への最大の想いとなるはずだから。
 香奈さんの肩から力が抜け、彼女は地面に手をつき、ひれ伏した。私はゆっくりと彼女から離れ、そして立ち上がった。
 そうして一歩、また一歩と後ずさっていく。
「加奈子さん。私は、ただ彼のことを見ていたいんです」
 香奈さんが砂を固く握り締めて、地面に倒れ伏したまま言った。
「でも、彼がいないのなら、私は彼の言葉に従って歩いていくだけです。一人で地に立って歩いていきますよ。それが彼の言葉なら、私は再会の言葉を反故にされても歩み続けますから」
 私は足を止めようとするけれど、そのまま彼女に背を向けて歩き出した。私の瞳から丸い雫が落ちていき、地面に染みを作った。
「私は絶対に彼を忘れません。でも、一人で歩いていくんです。彼の言葉を自分に刻み付けて生きていくんですよ。絶対に。絶対に……」
 香奈さんの言葉は涙で原形を残さないほどに掠れ切っており、でもそこには血の滲むほどの決意が篭められていた。
 私はふっと微笑み、彼女に「さようなら」とつぶやき、そして最後にその言葉を残した。
 ――どうか、永久に。
 香奈さんの言葉とそれは重なり合い、二つの言葉が溶け合って夏の名残となり、空に銀色の軌跡を残した。私は走り出し、自分の顔を腕で擦って必死に涙を拭って、泣き続けた。
 喚き散らしながらも、何度も香奈さんの幸福を願ってやまなかった。それが私にできる香奈さんへの、せめてもの罪滅ぼしなのかもしれなかった。
 そうして私達は別れて、あの日の約束は果たされることがなかった。

 しかし、私達の前には確かな道しるべがある。それはあの作品なのだ。再会を信じて、まっすぐにその道を歩み続けた彼らをあの物語で知り、私達はまたいつか、再会できる日が来るかもしれないと信じている。
 彼女がもう彼のことなど忘れてまた新たな人と出会って、そしてその囚われから抜け出した時――私はまた彼女の元を訪ねようと思う。
 その日が来ることを、私はこの本を読む度に、何度だって夢見ることだろう。再会の言葉が、真実となる日を信じて、ただ私は自分の道を歩み続けよう。
 だから、そう――。

 再会の言葉は嘘なんて、もう言わないことにしようと思う。

2013/07/20(Sat)22:35:33 公開 / 遥 彼方
■この作品の著作権は遥 彼方さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 お久しぶりです。ここ数ヶ月登竜門から離れていましたが、この度作品が完結したこともあり、再び舞い戻ってきました。この作品は以前こちらで途中まで掲載させていただいたものです。その時にいただいた暖かな感想は今でも目を通す度に励みになり、大切に保管させていただいています。(木の葉のぶ様、天野橋立様、本当にありがとうございました)
書いている間に、スランプに陥っていたこともあり、文体が前半と比べて変わっていたりと、様々な粗があるかと思いますが、そういうところを指摘していただけると幸いです。
 また、皆様の作品も大変興味深く、拝見させていただいています。色々と参考にさせていただき、ありがとうございます。
 それでは、よろしくお願い致します。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。