『ゲンちゃんの素敵なシナプス』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:ぺしみん                

     あらすじ・作品紹介
おはよう。えーと、君は誰だったっけ。ゴメンね。あ、初対面ですか。スミマセン。その眼鏡可愛いねー。君に似合ってるよ。あ、うん。じゃあお昼ごはんを一緒に食べようか。俺忘れちゃうから、悪いけど呼びに来てくれる? 一年四組。そうそう、番長って呼ばれてるんだ。

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 一

 エレベーターの「下ボタン」を僕は押した。階数を示すランプがゆっくりと上にあがってくる。ここは十四階だ。ずいぶんと高い所に僕は住んでいる。
「乗らないんですか?」
 と、言われて我に帰った。エレベーターはもうやって来ていて、小さな女の子がエレベーターの中にいる。
「あ、スミマセン」
 慌てて僕もエレベーターに乗った。
 女の子が一階のボタンを押す。僕はエレベーターの壁に背中を押し付けて、なにかを思い出そうとする。
「あの、その制服。琴平高校の制服ですよね?」
 遠くから声が聞こえた、ような気がした。一緒にエレベーターに乗っている女の子が、僕に話しかけているのだ。
「あ、そうです。琴平高校です」
 僕はそう言って、改めて女の子の姿を見た。贔屓目に見ても中学生。サイズは小学生みたいだけどこの子、僕と同じ学校の制服を着ている。という事は、高校生か。
「あの、俺は琴平高校の一年なんだけど、君を見たことは無いような気がする。転校生ですか?」
 僕は訊いた。
「あの……私、新入生です。今日は四月十日で、始業式ですよね?」
 彼女が不安そうに僕に訊いた。
「四月十日。……そうか、今日は始業式だ。ということは、俺は今日から二年生だった。ごめん、君が正しいよ」
 僕がそう言った時、エレベーターが一階に着いて、チンと音が鳴った。
「学校まで一緒に行ってもいいですか? あの、二年生に案内をして頂く、という形で」
 回りくどい感じで女の子が言った。小さくて利発そうな子だ。
「うん、案内するよ」
 僕は少し笑って言った。
 外に出ると日差しが強い。体がフワフワしてくるような感覚。春だな、と思う。そうだ、僕は春休みに居たんだった。春休みだから学校へ行かずに、家で本を読んだり散歩をしたり……していたような気がする。
「失礼ですけど、ずいぶんボンヤリしてますね。心ここにあらず、って感じです」
 女の子が微笑んで言った。初対面なのにフレンドリー。いい子だな、と僕は思う。
「俺、そういう性質なんだよ。心、ここにあらず。大丈夫かお前? って周りの人によく言われます」
 僕は言った。女の子がまた微笑む。
「話は変わりますけど、背が高いですね。何センチですか?」
 女の子に訊かれる。他の人にもよく訊かれる。
「去年の測定で百八十五ぐらいだったから、今はもう少しあるかな」
 僕は答えた。牛乳が嫌いなのに伸び放題だ。
「凄いなあ。そしたらスポーツとか……違う、今のナシ。背が高くて、特に感じる事とかありますか? ブシツケですけど」
 女の子が難しい顔をする。
「感じること。……地面が遠いな、と思う。西洋の人ならまだしも、日本人として僕は、ちょっと背が伸びすぎてる。いろいろと不便だ。鴨居にオデコをぶつけたり。ベタだけど」
 僕は少し楽しい気持ちになった。こういう素直な会話を、久しぶりにしたような気がする。
「背が高くて、嫌ですか?」
「いや、普段はそんなに気にならないよ」
 僕は答えた。
「わたし、高校一年になったけど、身長が百四十二センチしかないんです。見ての通り小さいでしょう」
「うん」
「たぶんクラスでも一番小さくて、背の順だと一番前。小学校からずっとそうなんです」
 彼女が俯いて言った。
「俺は中学からずっと一番後ろだな。ラクだよ後ろって。一番前はツラい?」
 僕は訊いた。女の子がじっと考えこむようにしている。
「辛いというかなんというか……。わたし変に意識しているのかもしれないですけど、ちょっとイヤかな」
「一番前の人は、列を仕切らなければならない、と言うような雰囲気が押し付けられている」
 僕は言った。
「一番後ろの人が、なんでそんな事を知っているんですか?」
 彼女に鋭く訊かれた。
「だいたいの先生は、前の方しか見てない。一番後ろに立っていると、列の全体が観察できるんだ。一番前の人はいつも大変そうに見える」
 僕はゆっくりと思い出しながら言った。
「あの……先輩」
「先輩?」
「同じ高校で二年生だから、私の先輩ですよね?」
「あ、そうか先輩か」
 僕はボケている。
「わたし、頑張って琴平高校に入って良かったかも。頭の良い人がいる所に入りたかったんです。でもまさか、同じマンションに先輩がいるとは思わなかったです。私、マンションのお隣さんです、十四階の。高校進学のタイミングで入居しました。どうぞよろしくお願いします」
 彼女が深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしく」
 僕はまだ半分、ぼんやりとしたまま頭を下げた。

 二

「私、先輩のお家に、ご挨拶に行ったかもしれないですけど」
 通学路を歩きながら彼女が言う。僕らのマンションは学校から徒歩二十分。延々と続く緩い登り坂。
「ウチの両親は仕事が忙しくてさ。たぶんご挨拶出来てないんじゃないかな。だいたいあのマンション、近所付き合いしている人なんて、ほとんどいないと思うよ」
 僕は言った。
「私もそう思ったんです。だけど私の親は変なこだわりがあって。娘の私を引き連れて、十四階のおウチを訪問して廻ったんです」
 女の子がため息をついた。
「俺も割りと最近引っ越してきたんだよ。高校に入学した頃だったかな」
「え! そうなんですか。だけどご挨拶廻りなんて、してないですよね」
「親が適当にやったかもしれない。でも俺は、ヤレと言われてもやらないよ。面倒くさいから」
 僕は言った。
「わたしも凄く嫌だったんです。マンションの近所付き合いとか、違和感があって。なんだか怖いような気もするし。しかも十四階なんて。現実離れしている感じがしました」
「うん」
「親に頼まれたけど、絶対にやりたくない! って気持ちになってしまって」
「分かるよ」
「私がかなり抵抗して、親は諦めてくれました。両親だけで挨拶回りに行く事になって。そしたら私、ちょっと行ってみようかなって、急に思ったんです」
 彼女が僕をじっと見て、表情を観察するようにした。
「僕は今日、初めて君に会った訳だけど」
「ハイ」
「その、大逆転で挨拶回りに行こうとした君が、とても君らしい感じがするよ。なんとなく」
 僕は言ってみた。その時、僕らはちょうど校門の前に到着した。
「先輩、また一緒に登校してくれますか?」
 ちょっと心配そうな顔で、彼女が僕に訊いた。
「同じマンションから学校へ行くわけだから。君さえよければ、頻繁にご一緒出来ると思います」
 僕は言った。
「それではまた、お会いします」
 少し顔を赤くして、彼女が言った。校門から校舎の方へ走り去って行った。あの顔、まさか僕に恋? とは違うだろうなあ。残念ながら違う感じだった。だけど話しがとても通じる感じがした。それにしても小さな人だったな。

 三

 下駄箱の奥に張り紙がしてあって、全校生徒のクラス分けの案内が出ている。登校して来た生徒で、かなり賑わっている。僕は二年生の張り紙の前へ行く。
 全部で八クラスあるわけだが、理系と文系で半分づつに別れる。そして、美術を取るか書道を取るかでさらに半分に分かれる。そして、体育で剣道を取るか、柔道を取るか、女子はダンスもあるけれど、それでまた半分に分かれる。区分がハッキリしているので、僕は二年三組になる事が事前に予想出来た。
 しかし三回見なおしたけど、掲示に僕の名前が無い。同級生らしき名前が並んでいるけれど、何故か僕の名前だけが見つからない。
 掲示をじっと見詰めていると、誰かに背中をつつかれた。振り返ったら「チビッチ」だった。
「ゲンちゃん、冗談にしても笑えないよ」
 チビッチが渋い顔をして言った。
「何が」
「忘れちゃったの? 本当に?」
 チビッチが驚きの表情で言った。
「何のこと」
「もう! ゲンちゃんは留年したのよ! 出席日数がギリギリ足らなくて。私がその事でどれだけ奔走したのかも忘れたの? 二人で先生方に頭を下げて。でも成績ならまだしも、出席日数は誤魔化しようが無いって事で。先生に諭されて私が泣いた時、ゲンちゃんは少し笑ってたよね」
 チビッチの目が潤んでいる。
「あ、そうだったかも! じゃあ俺、今年も一年って事か」
 そういやそうだった。なんとなく、雰囲気で二年生になれて無いかな、と自分を励ます気持ちもあったような気がする。
「ゲンちゃんは心が広いよね。いつもながら怒る気が失せる。そうだよ、別に留年したって気に病む必要はないの。焦ってる私が馬鹿みたい」
「うん」
「『うん』じゃないわよ! って怒っても無駄か。ハァ……尊敬するわ、その無神経。一年生の掲示はあっちよ。新入生で賑わってるけど、見てきたら?」
 泣き笑いのような表情でチビッチが言った。彼女にはいつも世話になっている。
「チビッチごめん。いつも気にかけてくれて、有難う」
 僕は言った。
「バカ……。またそんなゆったりした口調で。脱力しちゃうわ。じゃあ、またね」
 チビッチが手を振って離れて行った。チビッチってあんなに可愛かったっけ。やたらと僕の世話を焼いてくれる。幼馴染の僕をほっておけない、元ガキ大将だ。彼女は確か部活にのめり込んでいて、恋愛には興味が無い。というわけで、僕に惚れている可能性も無い。残念だなあ。

 一年生の掲示を見に行く。やたらと混雑している。確か一年生は、理系と文系の分類がまだされていないはず。だけど体育と、美術の分類はされている。すると、恐らく僕は三組か四組になるはずだ。
 掲示に近づくと、周囲の一年生が僕に道を開けてくれた。というより、威圧感を与えてしまっているようだ。僕の制服は二年生なりにくたびれている。身長がやたらと高いし、どう見ても上級生だと思われているだろう。少し気まずいけれど、留年しているわけだから。なるようにしかならない。
「アレ? 先輩?」
 下の方から声がした。群衆にもみくちゃにされて、朝の少女が掲示版前の壁にへばりついていた。押しつぶされて苦しそうだ。
「あの、大丈夫?」
「結構苦しいです」
 たぶん、助けを求められている。僕はしゃがんで、彼女の両脇に手を入れた。失礼かもしれないけれど、非常事態だから許されるだろう。幼い子供に「高い高い」をする要領で、僕は彼女を背後から持ち上げた。「オー」という低いどよめき声が上がる。僕の周囲から、さらに人が離れていく。掲示版の前がガラ空きになった。
 「高い高い」をした瞬間に、彼女に抵抗される事を僕は想像していた。「止めて下さい!」とか「早く下ろしてください!」と、彼女が恥ずかしそうに叫ぶ。「ああ、ごめん」と僕は言って、そっと彼女の小さな体を廊下に下ろすのだ。しかし実際の所、彼女は何も言わなかった。
「何組?」
 持ち上げたまま、僕は彼女の後頭部に訊いた。
「たぶん四組だと思うんですけど、押しつぶされちゃって」
 高い高いをされたまま、彼女が答えた。掲示がよく見える位置に、僕は彼女の頭の位置を調整する。
「あ! ありました。相磯(あいそ)涼子、私の名前です。やっぱり四組でした」
 僕に掴まれたまま、彼女が言った。
「見つかってよかったね」
 僕はそう言って、彼女の体を地面に下ろした。
「スカートじゃなかったら、ついでに肩車をしてもらったのに」
 そう言った彼女の目が笑っている。この子は変だ。いい意味で。僕も、一年生の掲示に目を走らせる。
「あの、先輩。二年生の掲示はあっちですけど」
 彼女が指をさして言った。
「ああ俺、留年しちゃってたんだ。だから多分一年三組か、四組になってると思う」
 恥ずかしげもなく僕は言った。チビッチが言っていた通り、留年ってそんなに悪い事でもないような気がする。周りの人に気を使わせて、申し訳ないけれど。
「留年……。でも今朝は、二年生になるって言ってましたよね?」
「うん。なんか忘れてた」
 僕は自分で言って、笑ってしまった。
「留年を忘れてたなんて……。あの、私も探しますから。先輩のお名前を教えてください」
「うん、有難う。渡良瀬(ワタラセ)源一郎で見てみてくれる?」
「ワタラセ……。あ、一年四組。私と同じクラスですよ!」
 彼女が嬉しそうにして言った。僕と彼女がやり取りをしている間、周囲の一年生にかなり注目を浴びている。噂になってしまうかもしれない。僕は別に気にならないけれど、彼女はどうだろう。明るい子だけど、繊細そうでもある。つまらない噂で傷ついたりしないだろうか。
「先輩、一緒に教室に行きましょう!」
 彼女が満面の笑みで言った。周囲の視線が気にならないのか。元気な子だなあ。

 四

「相磯涼子です。ご覧の通り背が低いので、いつも列の一番前にいます。五十音順でもアイウエオのアイソなので、今日も、自己紹介が一番最初です。小さいけど目印になりますので、避難訓練の時とかに探してみて下さい。よろしくお願いします」
 淀みなく彼女が自己紹介を終えた。少し笑いも取っていた。さすがだ。長年、先頭を務めてきただけある。
 高校生になったばかりの一年生達。初日の自己紹介は緊張するものだ。だけど、相磯さんのお陰で良い流れが出来ている。和やかな雰囲気。僕の一年前は……全然思い出せない。自己紹介が一番最後だったのは間違いないと思う。
「えーと、最後は渡良瀬君?」
 先生の声がした。慌てて僕は立ち上がる。何にも考えてない。マズイな。
「えー、渡良瀬源一郎と申します。ご覧の通り背が高いので、いつも列の後ろにいます。五十音でもワタラセなので、たいてい一番最後です。あ、だから今日も自己紹介が最後ですね。避難訓練の時とかには目印になると思うけど、寝てるかもしれないので起こして下さい。よろしくお願いします」
 相磯さんのセリフをパクってしまった。そして、予想外に笑いを取った。爆笑している人もいる。「すごーい」と言って小さく拍手している女子もいる。狙ったわけじゃない。僕にそんな余裕は無かった。相磯さんの最初の自己紹介が、印象的だったという事だと思う。僕にとっても、みんなにとっても。

 オリエンテーションが終わって、今日はもう学校は終わり。ラクで嬉しい。
「先輩先輩!」
 話しかけられる。顔を上げて見たら相磯さんだった。
「相磯さん、さっきはゴメンね」
 僕は言った。
「え、何がですか」
 相磯さんが不思議そうな顔をする。
「さっき、相磯さんの自己紹介をパクってしまった」
 僕は真面目に言った。こういう事で気分を害する人もいる。
「あ、アレは最高でしたよ? さすが一番後ろの人だと思いました。ちゃんとオチがつきましたよね」
 相磯さんが吹き出して笑った。
「それならば、良かった」
 僕は安心した。
「なんだか先輩って、おじいちゃんみたい」
「おじいちゃん……」
「ゆっくりしてるけど、しっかりしていて」
「そうですかねぇ」
 そんな事言われたのは初めてだ。相磯さんが宙を見詰めて、何か考え事をしている。相磯さんの横には、同じクラスの女子が三人ほど待機している。もう友達を作ったのか。
「相磯さん、俺に何か用があったんじゃないの?」
 僕は訊いた。
「そうでした、スミマセン。あの、先輩が留年している事って、オオヤケにしてもいい事ですか? ゆくゆくは知られる事かもしれませんけど、割りと秘密ですか?」
 控えめな感じで、相磯さんが僕に訊いた。この回りくどい気の回し方。非常に好感が持てる。
「俺さ、留年の事は自己紹介の時に言おうと思ってたんだ。だけど言いそびれちゃったよ。秘密にする必要はないと思ってる。むしろ早目にカミングアウトしたいな。その方が、スムースに事が運ぶ気がする」
 僕は言った。
「さすが先輩。というか先輩の事、私はなんてお呼びすればいいですか? 同級生だけど年上で、器も大きいし」
 器。
「相磯さんの好きに呼んでください」
 僕は言った。
「ではやはり、先輩ってお呼びしたいです私。渡良瀬君、なんて気安く呼べないです」
「じゃあ、それでお願いします」
 僕はまた、ふんわりと楽しい気持ちになった。

 五

 新学期が始まって数日が経った。
 最初の自己紹介で片鱗を見せていたが、相磯さんは人を惹きつける何かを持っている。早くもお友達に囲まれている。さすがだなあ、と思って僕は遠巻きに見ていた。
 放課後。六時限目が終わって僕は机で寝ていた。留年生の余得というか、先生にもあまり注意されない。嬉しいやら悲しいやら。
「先輩先輩!」
 顔を上げたら相磯さんだった。
「来週からクラブ見学会が始まりますよね」
「そうだっけ?」
 僕は曖昧に答える。学校行事にはあまり関心が無い。
「あの、先輩にお願いがあるんです」
 相磯さんの表情は真剣そのもの。情熱に満ち溢れている。
「はい、なんでしょうか」
 僕は気合を入れて、背筋を伸ばして答えた。面倒くさい事は嫌いだけれど、面白いことにはエネルギーを注ぎたい。僕は瞬間に生きているのだ。
「このあと先輩にご予定が無かったら、フライングで部活案内をして頂けませんか? 私達、情報を先取りしたいと思っているんです」
 相磯さんの目がキラキラしている。そして、相磯さんのお友達グループと思われる三名も、目を輝かせている。ピカピカの一年生。どこからその気力はやってくるのか、羨ましい。
「ご案内しますよ。ただし僕には人脈も情報も、ほんの少ししかありません。それでいいなら、喜んでお供します」
 僕の目もキラキラしている、と思いたい。
「お願いします!」
 相磯さんを筆頭に、女子四名に頭を下げられる。当然悪い気はしない。やっぱり面倒くさいけど、やる気の方が上回った。僕は自分のモチベーションも、まったく管理できていない。気まぐれで衝動的、怠け者。思いつきだけで動いている。
 
 相磯さんのお友達の一人が、料理クラブを見たいと言った。それで、まず初めに家庭科室に向かうことになった。だけどたしか、料理クラブには何か問題があったような気がする。なんだっけ……。
 まだ一学期は始まったばかりだし、部活動が始まっているかどうかも分からない。とりあえずみんなの要望に答えて、場所の案内だけでも出来れば良いと僕は思った。
「失礼します」
 と僕は言って、家庭科室のドアを開ける。料理クラブの活動場所は家庭科室。調理台の上にエレキギターを持った男子がいて、こちらを睨みつけて来た。薄い色の茶髪に目が行く。その男子と話をしている女子が、鼻に銀色のピアスをしている。これは校則違反だ。恐らく、放課後だけピアスを装着しているのだろう。
「何か用ですか?」
 脇の方から、大柄の男子が詰め寄ってきた。エプロンをした、金髪のゴツい男。そうだよ、思い出した。料理クラブはヤンキーの溜まり場だ。家庭科の先生はフェミニストの中年女性。それがなぜか、ヤンキー達とは馬が合っている。ある意味、微笑ましいクラブなのだった。
「みんな一年生? 入部希望? 嬉しいなあ」
 チャラいけど目つきの鋭い男子が、僕らの前に歩み寄ってきた。エプロンをつけているけど、危険な香りがする。相磯さんを含め、四名の女子達が明らかに怯えている。僕の後ろに隠れるようにして、身を縮めている。
「正直男子はいらないんだけどね。女子は大歓迎だよ」
 僕の目の前で、そのチャラい男子が言った。割りと肝が座っている。彼が部長かな。しかし男子がいらないとは、エライ正直に言ったものだ。
「俺らは見学に来たんですけど。案内とかしてもらえますか? やっぱり料理クラブだから、美味いものを食べさせて貰えるとかさ」
 僕は何も考えずに言ってしまった。これは挑発と取られても仕方が無い。
 チャラい男子が眉間にシワをよせ、僕に詰め寄ってくる。いわゆる、ガンをくれている状態だ。
 その時、家庭科準備室のドアが開いて一人の女子が現れた。黒に赤がほんのり入った、ロングヘアーの美人。体格もいい。姉御って感じだ。
「あ、部長。お疲れ様です」
 チャラい男子が急に大人しくなって頭を下げた。部長はお化粧もバッチリ。制服の着こなしに荒れた色気がある。貫禄を感じた。
「あれ? ゲンちゃんじゃん。なんか用?」
 彼女が、僕に向かってにっこりと笑って言った。

 六

 赤髪の綺麗な子に見詰められている。僕は必死に自分の記憶を呼び覚まそうとする。知っている子だ。この状況で、知っていなければならない。
「えーと、あのねぇ……。! 『マキコ』だよね?」
 勢い良く僕は言った。
「うん、マキコですけど?」
 彼女が笑って言った。
「あのさ、同級生の子が、クラブ見学をしたいって言うから連れてきたんだよ。『料理』に興味がある新入生を連れてきた」
 僕は強調して言った。
「ああ、そうなんだ〜。だけどねえ、ウチのクラブはちょっとね。まあ『料理』は本格的にやってるのよ? これは本当。でもさ、ガラが悪いのが多いから。あんまりオススメできないかな」
 気の強そうな彼女が、苦笑して言った。料理クラブを見たいと言った子に、僕は訊いてみる。
「というわけだけど、どうする? 俺もあんまり、オススメできないと思うよ」
 僕のセリフを聞いて、マキコが爆笑した。
「ゲンちゃんはいつもダイレクトでいいよね。私も真似したいわ。最近ちょっとタルんでるから」
 そう言ってマキコが、さっきのチャラい男子を鋭く睨みつけた。チャラい男子が恐縮している。料理クラブの面々、ヤンキーっぽい生徒達が一斉に笑った。
 
「いやゴメンね。俺もそんなに詳しいわけじゃないんだよ。料理クラブが普通じゃない、というのはなんとなく知っていたんだけど」
 家庭科室から退散して、僕は相磯さん達に謝った。
「そんなそんな、先輩は凄かったです。ねえマリコ? 不良系の人達に対して、先輩は全く物怖じしてなくて。しかもあの、赤い髪の綺麗な部長さんは、先輩のお知り合いなんですよね。大人の世界でした」
 相磯さんが言った。他の女子もきゃあきゃあ言っている。何はともあれ、みんなが無事で良かった。
 次は茶道部だ。相磯さん達全員の要望。ウチの高校の茶道部は、対外的にも有名らしい。
「私、中学三年の時、学校見学会で琴平高校に来たんです。その時に見た茶道部のみなさんが、本当に素敵でした。着物姿が綺麗だったし、先輩方はしっとりと落ち着いていて。憧れました」
 女子の一人が気持ちを込めて言った。
 しかし、茶道部にもなにか問題があったような気がするぞ。僕は思い出そうと必死になる。しかし、あっと言う間に茶道室の前に着いてしまった。
「失礼しまーす」
 相磯さんが茶道室の扉を開けた。
「あら。どうぞ、お入り下さい」
 茶道室の中から、明るい女子の声が聞こえた。
「みんな一年生? よく来てくださいました。私は茶道部部長の森川です。どうぞよろしくね」
 なんとも上品に、部長の方が挨拶をしてくれた。この部長さん、パッと見て分かる美人ではない。悪いけど下膨れでおたふくで。だけどそれが、なんとも言えない愛嬌と優しさを醸し出している。僕は素敵だと思った。物腰の柔らかさが極まっている。
「自由に座ってね」
 部長さん自ら案内をしてくれる。さきほどの料理クラブとは大違いの対応だ。相磯さん達はとても楽しそう。和菓子が目の前に並べられて、部長さん自らお茶を点ててくださった。抹茶の渋さに、甘いお菓子が絶妙に合う。僕も末席で堪能させてもらった。お茶の作法を全く知らないので、無礼な振る舞いをしてしまったかもしれない。だけど部長さんは、僕らにほんの少しアドバイスをするだけで、終始にこやかな表情だった。この人は人間が出来ている。さすがは茶道部。
「有難うございました。やっぱり茶道部は素敵です。私たちの中で入部する子がいたら、どうぞよろしくお願いします」
 相磯さんが、相変わらず粗の無い挨拶をした。僕らは茶道室を後にする。
 次はどこに行こうか。廊下に出て、僕がみんなに聞こうとした時に、後ろからそっと背中を触られた。振り返ったら茶道部の部長さんだ。森川さん。何故だか、泣き笑いのような表情をしている。
「ゲンちゃん、元気だった?」
「元気でした」
 僕はとりあえず答える。
「ゲンちゃんは、忘れちゃったのね?」
 森川さんが悲しそうにする。これはマズい。彼女を落ち込ませてはいけない。必死に思い出す。頭が爆発するかと思うほどに、脳に検索をかける。
「ゲンちゃん。私たちは恋人同士なのよ。去年私はゲンちゃんに何度もアタックして、ついにOKを貰って。忘れちゃったのね?」
 森川さんの声が震えている。なんてことだ。森川さんは僕の彼女だったのか。頭をグリグリと回転させて僕は思い出す。ピキッと頭にスイッチが入って、部分的に世界が開けた。
「アヤノだ。アヤノさん、アヤちゃん。いや違うな。結局は俺、君のことを森川さんって呼ぶんだ。どうして春休みに遊びに来てくれなかったの? 遠慮しないでって、いつも言ってたじゃない。それは君の為じゃなくて、僕の為なんだよ」
 僕は森川綾乃さんの肩に手をかけて言った。
「私、春休みの間ずっと、ゲンちゃんの電話を待ってた。一度電話をくれさえすれば私、毎日でも押しかけるつもりだったのに。ゲンちゃんが悪いのよ。私、あのね……」
 茶道部部長の森川さんが、うずくまってしまった。僕はかけよって背中をさする。数分そうしていただろうか。彼女がスッと立ち上がった。僕の顔をじっと見詰める。
「わたし、ゲンちゃんの事が大好きなの。三回も告白して、あなた、三回目でようやくOKしてくれたのよ。覚えてないのね?」
 茶道部部長が切ない表情で僕に迫る。
「ゴメン、今のところ思い出せない」
 僕は言った。
 彼女が崩れ落ちそうになる。僕は彼女の肩を支えるべく、側に寄った。
「ゲンちゃん、私はあなたの事が大好き。付き合って下さい」
 彼女が涙ながらに言った。その顔が美しくて、僕は胸がドキドキした。そして、告白された時の感覚を少しだけ思い出した。俺って酷いなあ。
「俺は自分の記憶を管理できてない。だけど、君のことが好きだという気持ちは、無くなってないよ。すごく好きらしい。僕は森川さんの事が大好きだ。大丈夫だよ」
 僕は彼女に、精一杯伝えようとした。
「ゲンちゃん」
「ハイ」
 彼女にキスかハグを求められるのか、一瞬期待したけどそんなことは兆しも無かった。こちらから抱き寄せようにも、彼女にはスキが無い。ただ、とても情熱的な目でじっと見詰められた。そしてその光景は、相磯さんグループ四名に、バッチリと見られていた。

 七

 次は囲碁将棋部の見学。新入生グループに、将棋を趣味にしている女の子がいる。彼女の希望だった。渋い。将棋が出来る女の子って、カッコいいと思う。
「渡良瀬先輩」
 相磯さんに声をかけられる。
「はい」
「茶道部の部長さんって、先輩の彼女さんなんですねよね?」
「そうみたいね」
「そうみたいねって……」
 相磯さんが渋い顔をしている。
「料理部のスケバンみたいな部長も、先輩のお友達みたいですね」
「スケバン? 死語にしても凄まじいよ」
 僕は言った。相磯さんと、僕も含めてみんなが笑った。
「気になる?」
 僕は訊いた。無理も無い。
「いえ、大丈夫です」
 相磯さんが慌てた感じで答えた。

 囲碁将棋部の部室前に到着した。見学を希望した女の子が、だいぶ緊張している。僕が部室のドアを開けた。盤面を挟んで対局している生徒達が数名。部室の開け放たれた窓から、春の心地良い風が吹き込んでいる。とても気持ちがよそさそうだ。僕は何かを思い出しそうになった。
「見学ですか?」
 対局をしていた生徒の一人が、こちらを振り返って言った。相磯さん達が一斉に息を飲む。知的なイケメン。男の僕でも分かる。フチのない眼鏡をかけている。極めて端正な顔立ち。頭が良さそう。なにしろ囲碁将棋部だからな。
「源一郎か……」
 そのイケメンが、僕を見て呟いた。ヤバい、こいつも知り合いか。誰だったか。
「えーと、囲碁将棋部の見学に来たんだ」
 とりあえず僕は言った。
「そうか、源一郎は留年したんだったな。後ろにいるのは新入生?」
 なんだか困った顔の彼。それにしてもイケメンだなあ。どんな表情をしても、こいつはイケメンだろう。線が細いけど、貧弱な感じはしない。モテるだろうなあ。
「あの私! 主にネットで囲碁と将棋をやってまして、それで見学に来ました」
 大人しそうで緊張していた新入生の女の子が、声を上ずらせて言った。
「じゃあ経験者だね。見学に来てくれて有難う。どう? 一局やっていかない? ちょうど一人余ってるんだ」
 イケメンが笑顔で言った。この誘いを拒否できる女子はいないだろう。
 女の子が椅子に座って、対局を始めた。お相手は上級生の女子部員。相磯さん他、新入生の女子の面々が、彼女らの対局を興味深く見守っている。
 
「源一郎は何しに来たんだよ」
 先ほどのイケメンが僕に笑いかけた。だけど目が笑ってない。何かあるぞ、これは。
「何しにって、見学だけど」
 僕は答えた。
「そっか。じゃあ久しぶりに俺と対局してくれないか。早指しでやろう」
 イケメンの真剣な表情。
「じゃあ、ちょっとやりますか」
 僕は勢いに押された。将棋のルールは……大丈夫。知っている。
 横を見たら女子達が盛り上がっている。新入生の子が結構な実力者のようだ。上級生の女子に半分脅されながら、それでも楽しそうに対局をしている。相磯さん達は将棋のルールも分からないようだけど、息を呑む感じで見守っている。
 一方僕の正面にいるイケメン。僕との対局が始まってからすぐに、首筋に汗をかき始めた。眼鏡のフチに手をかけたり、口元やアゴに手をやったりと忙しい。
「なんでお前は毎回指し手が違うのかな。フェイントにはひっかからないし」
「うん」
 イケメンが飛車を進めて、僕は金底の歩で対応をする。
「センスだけで、将棋に勝つことは出来ない」
 イケメンが言った。
「そうだね」
 三十秒考えてイケメンが角を差しこんで来た。僕は一手差の桂馬で王手。これで終わりのような気がする。
「……参りました」
 イケメンが盤面をじっと見詰めて言った。僕は勝ったようだ。なんだか、とても申し訳ない気持ちになる。
「あのさ」
 僕は何か言いかけた。
「俺の名を呼べ、源一郎」
 イケメンが怒っている。マズいマズい。この男は僕の大切な友達だ。僕は自分の頭を二、三度ひっぱたいて、記憶を呼び戻そうとする。
「いや、済まない。無理はしないでくれ」
 イケメンが心配そうにする。だけど僕は絶対に思い出したい。
「あ! お前は龍之介だ。俺こそ済まない。今年の春休みはちょっとボーっと過ごしてしまってさ。それで俺、だいぶ抜けてるんだ。龍之介の事はかなり気になってた。本当だぞ!」
 僕は言った。
「そうか、有難う」
 龍之介が、ちょっと辛そうに微笑んだ。
「そうだほら、新人戦トーナメントはどうなったの?」
 僕は訊いた。
「準優勝だった。決勝はかなり接戦で、結局負けはしたけど、納得の行く対局が出来たよ」
「そうか良かったな。準優勝ってことは、関東大会に出られるんじゃないか」
「ああ、一ヶ月後に関東大会がある。そこでベスト四に入れば、全国大会へ行ける。まあ、今年は無理だと思うけど」
 龍之介が笑って言った。彼は落ち着きを取り戻したようだ。良かった。
「源一郎」
「うん?」
「お前と対局しても、全然勉強にならないんだよ。俺は一度もお前に勝ったことが無い。そして、負けた理由も分からない。だから悪いけど、関東大会が終わるまで、次の対局はお預けにしよう」
「分かった」
 僕は答えた。
「勘違いしないでくれよ。俺はお前と対戦している時が一番楽しい。負けるのが心地良いくらいなんだ」
 龍之介が切ない表情を浮かべて言った。イケメンだなあ。
「でもそうすると、だいぶ間が空いちゃうよな。今度は龍之介が俺に声をかけてくれよ。また俺はいろいろと忘れるぞ。でも、楽しみにしてるからさ」
 僕は言った。龍之介がなんとも言えない表情で頷いた。

 八

 部活動の見学、最後はバスケ部という事になった。なんと相磯さんの要望だ。こう言っちゃなんだけど、身長の低い相磯さんとは相性の悪いスポーツだ。僕は米国のNBAが好きでテレビで見ているけれど、バスケットボールは結局、身長がモノを言うスポーツだ。小さい人だって活躍はできるけど、かなりの制約を伴う。
 バスケ部を見たい、と言った相磯さんに対する僕のリアクション。それを瞬時に察して、相磯さんが僕に向かって言った。
「私の身長じゃ無理だと思ってるんでしょう、先輩」
「うん。ヤメたほうがいいと思う」
 僕は言った。言ってしまった。
「でも私、中学の時に全国大会に出てるんですよ」
 相磯さんが胸を張って言った。
「え? マジで?」
 僕は本気で驚いた。
「熊津学園ってご存じないですか? 埼玉の」
「知ってるよ。有名なスポーツ校だよね」
「私、そこでスーパーサブだったんです。シックスマンって言ったら言い過ぎかな。三ポイントと、ドリブルの切り込みで勝負してました。出場機会は少なかったけど、ベンチには常に入ってました」
 相磯さんが目を輝かせる。
「機敏に動いてドリブルして、意表を突いての三ポイントとか。相磯さんの活躍が目に浮かぶよ。それで今、体重は何キロあるの?」
 僕が訊いたら、相磯さんが真っ赤になった。そうだった、女子に対して失礼だな。
「四十一キロです……」
 相磯さんが小声で答えた。軽! と思ったが僕は表情に出さない。
「さらに失礼だけど、相磯さんのご両親の体格を教えてくれる?」
 何か僕の中のスイッチが入った。
「父は百七十センチありますけど、母は百四十センチです」
 相磯さんが言った。
「なるほど」
 と僕は言った。なにが「なるほど」なのか、自分でもよく分かっていない。
 
 バスケ部の人と思われる男子が近づいてきた。僕の顔を見ている。
「渡良瀬、まさかバスケ部に戻って来てくれるとか?」
「いえ、今日は同級生の見学に付き合って来ただけなんです」
 僕は答えた。先輩と思われるこの人にも、僕は見覚えがない。しかし「戻って来てくれる」ってどういう事だろう。
「じゃあ、そこにいる女の子達が?」
 先輩が言った。
「あの私が、入部を検討しています」
 相磯さんが言った。身長が極めて低い彼女を見て、先輩が極控えめに難色を示しているのが分かる。
「そっか。これから女子は紅白戦やるんだけど、良かったらちょっと見ていく?」
 とても好意的な対応だ。この学校は生徒の精神レベルが高い。みんな心が広い気がする。料理クラブには変な奴もいたけど。
「いいんですか?」
 相磯さんが嬉しそうにする。
「部活見学週間はまだ少し先だけど、俺が女子の部長に頼んでみるよ。せっかく来てくれたんだし」
 先輩が言った。優しい人だなあ。
「有難うございます」
 僕はにこやかに言った。
「渡良瀬が連れてきた子だからな。お前、俺の名前をまた忘れてるだろう」
 先輩に肩を小突かれた。確かに思い出すことは不可能だと僕は思った。
「スイマセン」
「俺の名前は川上だ。今年三年になって、男子バスケ部の部長になった。まあ、覚えなくていいよ」
 川上先輩。やはり先輩だったのだな。
 
 女子の紅白戦をみんなで見学する。とても良い試合をしていて、レベルが高いと僕は思った。シュートの精度が高い。ディフェンスも気合が入っている。
 紅白戦が終わって、相磯さんはかなり興奮していた。このまま入部しそうな勢いだ。でもこの身長だと、やっぱり厳しいだろう。心配だ。何故だかとても心配だ。
 先程まで試合に出ていた女子部員の一人が、僕らの側に駆け寄って来た。よく見たらチビッチだった。
「一年生だよね? 見学に来てくれて嬉しいよ。バスケは初めてですか?」
 チビッチが、タオルで汗を拭いながら言った。
「あの、私は経験者で見学をしに来たんです。他のみんなは付き添いの、クラスメイトです」
 相磯さんが緊張した面持ちで言った。
「身長が低いね」
 と、チビッチが笑って言った。
「そうなんです」
 と相磯さんが笑顔で答えた。お互いの笑顔には理由がある。チビッチもかなり背が低い。相磯さんとほとんど変わらない。試合に出ていた時も小さいとは思ったけど、周りの部員がデカかったから、紛れていて分かりにくかった。
「小さいのに、結構活躍してたね」
 僕は失礼な事を言った。
「それはそうよ、ゲンちゃんのお陰」
 チビッチが弾ける笑顔で答えた。
「今日はシュートの調子が良かったね。相変わらず朝練してる?」
 僕は無意識にセリフを発した。
「してます。ゲンちゃんの厳命を守ってます。そうだ、練習はもう終わりだから、ちょっとシュート練習とかしてみる? ほんの遊びで。ね、みんなで」
 しかし今更だけど「チビッチ」。最悪に酷いあだ名だ。しかも僕が命名したような気がする。本名が思い出せない。
 
「こちらの相磯さんは、熊津学園でシューターだったんだよ。ドリブルも得意で。チビッチ、レギュラー取られるかもよ」
 僕は言った。
「ゲ、熊津学園? 相磯さん」
 チビッチがビビっている。
「相磯涼子と申します。スタメンじゃなかったので、大したことないです」
 相磯さんが楽しそうにして言った。そして、みんなでシュート練習を始めた。新入生の子達はフォームもめちゃくちゃで、全然シュートが決まらない。当たり前だ。
 だけどチビッチはズバズバ決めている。相磯さんも制服姿でズバズバと決めている。これは本当にライバル関係になるかもしれない。ヒートアップした二人は、一対一の勝負をし始めた。相磯さんは制服姿だ。期待通り、すっ転んで縞々パンツがあらわになった。僕も含め、男子生徒が大喜びする。プレイ内容も良かったから、スゲー盛り上がり。それを見た女子部員の上級生が、強制的に対戦を終了させた。やっぱりパンツがマズかったらしい。惜しい。
 
「ゲンちゃん!」
 帰り際、チビッチが僕にボールをパスした。リングに向かって斜め四十五度。フリースローラインのちょっと後ろあたり。僕の得意な位置だ。膝に力をいれて伸び上がり、まっすぐにシュートを放った。ボールはリングにもかすらず、エアボールになってしまった。
「もう一本!」
 チビッチが僕にパスを入れる。他の部員の人は片付けを始めてる。僕はもう一度シュートを放った。今度はリングにあたったけど、微妙に外れた。がっかり。
「ラスト!」
 チビッチがさらにパスをくれた。
 僕は大きく息を吐いてシュートを放った。ボールがスローモーションで放物線を描き、スパっと綺麗にシュートが決まった。スッキリとした。
「ゲンちゃんまた来てね!」
 片付けに忙しい部員たちに引っ張られながら、チビッチが僕に手を振ってくれた。僕も手を振り返す。チビッチありがとう。
 
 九
 
「リョウコちゃん、もうバスケ部に決めたの?」
 女子の一人が相磯さんに訊いた。
「うん、決めました」
 相磯さんがニコニコしている。
「あの小さい人、二年生なのにエースなんだって。その人に、涼子ちゃんは負けてなかったよね。身長もいい勝負だったし」
 女の子が言って、みんなが笑った。
「俺さ、あの二年生の子と中学が同じだったんだ。バスケ部で。あいつ、自分の身長の事を凄い気にしていてさ。でも、チビッチの実力は俺がよく知ってたから。ロングシュートとドリブルを磨けば、絶対に通用すると思ったんだ。それで一緒に朝練して、他に自主練もしたような気がする。相磯さんもその方向だよね」
 僕は思い出したことを、ズラズラと並べて言った。
「エースの小さな先輩と、私の事が重なったんですね。先輩の中で」
 相磯さんが嬉しそうにする。
「そうだったみたい」
「それじゃあ先輩が、私の朝練にも付き合ってくれるんですね」
「いやいや、そこまでは言ってないよ」
 僕が慌てて言ったら、女子たちがきゃあきゃあ言って喜んだ。僕のバスケ熱は、もうだいぶ遠くに行っているような気がする。

「先輩有難うございました。先輩のコネって凄いですね。まるで番長みたい。みんなに一目置かれていて」
 相磯さんが言った。
「番長っていう言葉も、だいぶ死語だと思うよ……」
 僕は言った。相磯さんって可愛いし面白い子だけど、ズレている。僕が言うのもなんだけど。

 十

 一学期が始まって数週間が経ち、僕のアダ名は「番長」になってしまった。留年しているという事実がだいたいの人に伝わり、上級生に対する僕の横柄な態度もあり。クラスメイトも僕の扱いを決めかねていたようで「番長」という名前が丁度よかったらしい。もちろん広めたのは相磯さんだ。まあ、僕は特に気にしない。みんなが呼びやすいなら良いと思う。
「番長、今は正式に部活見学期間ですけれど。番長は部活どうするんですか?」
 相磯さんが生き生きとしている。僕にしょっちゅう絡んでくる。番長って言いたいだけのような気もする。全然イヤじゃないけど、周囲の目が気になる。そんな僕の気持ちを察したのか、相磯さんが余計な事をしてくれる。
「あ! みんなに言って置くけど、番長にはちゃんと彼女がいます。なにしろ番長なんだから。女子でも惚れちゃうような、素敵な彼女がいるんです。あと、他にも番長を狙っている女子が」
「ちょっと待て、ヤメなさい」
 僕は相磯さんの口を慌てて塞いだ。
「だって、誤解を解いておいたほうがいいじゃないですか。変な噂が立たないように」
 相磯さんが不満そうに言った。
「余計噂がたつよ」
 僕は言った。
「それはそうとアニキ、部活はどうするんですかい」
 相磯さんのテンションが凄まじい。番長だったのが今度はアニキだ。
「相磯さんはバスケ部に入ったんでしょ? 俺の事は気にしなくていいよ」
「そんな、連れないじゃないですかアニキ。というか、今は見学期間だから、本格的な練習を一年生は出来ないんですって。正式に入部届を出すのは来週以降という訳で。だから私は、大恩のあるアニキのお手伝いをさせて頂きたいんです」
 わー面倒くさい。可愛い女の子にかまってもらえるのは嬉しいけど、この子は変だからなあ。頭の回転が速すぎる。僕は頭の回転が遅い、というか鈍い。ストレス溜まりそう。
 
 午前中で授業が終わって、一年生の「特別」部活見学会が始まった。最終的に今日こそ部活を決めろ、というイベントだ。小規模な文化祭といった感じで、学校が楽しげな雰囲気に包まれている。僕は去年もこれをやったんだよな。二回もやるっていうのは、お得なのか、馬鹿なのか。
「番長、いざ参りましょう」
 相磯さんとそのグループに、教室から引っぱり出される。相磯さんはもう、しっかりと自分のチームを作ったようだ。チームの面々が結構可愛い。背が高くて無表情な子と、のほほんとした天然パーマの子。眼鏡をかけてノートパソコンを小脇に抱えている子。バリエーションも豊か。リーダーはもちろん相磯さんなわけだが、チームのみんなが僕を、先輩とか番長と呼んで慕ってくれてる。まるでハーレムだ。悪い気分ではない。
「番長は、昨年ちょっとだけバスケ部だったのは本当ですか?」
 相磯さんに訊かれる。
「うん。チビッチによると、一学期はバスケ部だったらしい。だけど夏休みの練習をすっかり忘れてて、首になったんだ。そうだそうだ。それで、面倒くさくなったんだ」
「夏休みの練習を忘れるとか……。さすが番長。それで、夏休みに何かあったんでしょうか」
 相磯さんがインタビュー口調で迫ってくる。この子、やっぱり変だ。そして、僕と相磯さんの会話を、ノートパソコンの子が逐一記録をしている。なんでだろう。凄まじいスピードでタイピングしている。絵を描くために使う画板を首から下げて、ノートパソコンを載せて使っている。可愛いのに勿体無い。みんな変だなあ。

 十一

「夏休み……去年の。なんかあったような、なかったような」
 僕は頭を抱える。思い出したいけど思い出せない。こういう時は結構辛い。その辛い感覚も、すぐに忘れてしまうから負担にはならない。
「先輩、大丈夫ですか」
 相磯さんが心配そうにしている。
「いやゴメン。夏休み……。なんだったっけな」
 僕は言った。良くない兆候だ。どうしても思い出せなくて、頭の中が冷たくなっていく感じ。失っている、ということに正面から向き合う事は好きじゃない。
 
「あらゲンちゃん、今日は部活にこないの?」
 聞き覚えのある声がした。
「増渕先生」
 僕はとっさに答えた。だけど増渕先生って誰だったろう。
「あらま。お休み明けなのに。ちゃんと私の名前、覚えててくれて嬉しいわ」
 にっこり笑ったその人は、白衣の上に綺麗な長髪をなびかせている。そして声が低く、動きがクネクネとしている。このヒトはオカマだ。僕は知っている。
「俺、部活に入ってるんですね」
 僕は増渕先生に訊いた。アホな質問だ。
「あなたは写真部よ。そして私は顧問。ゲンちゃんが自分で来てくれたらなぁと思ってたけど、今回はダメだったか。でも気にすることないわ。それに、新しいお友達も出来たみたいね」
 増渕先生がにっこり笑って言った。イケメンなのに、タイトスカートを着けているのが致命的だ。
「あの、間違ってたらスミマセン。増渕先生って、もしかして男性の方ですか」
 相磯さんがダイレクトに質問をした。相磯さんってスゴい。
「あら、あなた新入生? 初々しくていいわねぇ。ちっちゃくて可愛い」
 相磯さんの質問に答えずに、増渕先生がクネクネして言った。相磯さんを含め、女子たちが凍りついた笑顔を浮かべている。
「先生、みんな怯えてますよ」
 僕は言った。
「失礼ね。別に取って喰いやしないわよ。私は保健体育の増渕先生でーす。中性的な人間が、保健体育の教師っていうのは、ある意味理想的だとは思わない?」
「自分で言うなよ!」
 僕は咄嗟に突っ込んでしまった。女子たちが途端に大笑いしている。増渕先生も笑っている、と思ったのだが、先生がちょっと真面目な顔になっていた。
「先生」
 僕は心配して声をかける。
「違うの、ゴメンね。ゲンちゃんが元気そうで、嬉しくなっちゃったのよ。新しいクラスメイトとも仲が良さそうで。先生安心したわ」
 美しい涙。
「私は今、写真部に顔を出してきた所なの。せっかくだから、ゲンちゃんも顔を出しときなさいよ。お友達も連れて。見学週間なんでしょう?」
 涙を拭って、増渕先生が言った。微笑んだ顔が綺麗だ。これでオカマじゃなければなあ。一緒にいる女子達も、先生の顔を見て切ないような表情を浮かべている。条件はともかく、美しいものは美しい、と僕は思った。

 生物室と化学資料室の奥の部屋。学校の一番端と言ってもいい場所だ。「写真部」と書かれた木の看板は、ずいぶんと年季が入っている。伝統がある部なのだろう。
「失礼します」
 と言って、僕は写真部のドアを開けた。
「おわ! 源一郎」
 ノートパソコンを操作していた男子が、僕の顔を見るなりに言った。
「ゲンちゃん!」
 ヒョロッと背の高い眼鏡の女子が、手に持っているペットボトルを握りしめて言った。どうやら顔見知りらしい。思い出さなくては。この感じだと、結構大切な友達だと思われる。俺こんななのに、友達多いなあ。
「顔を出すのが遅くなってスミマセン」
 僕は取り敢えず言った。
「ったく、相変わらずマイペースだよな源一郎は。でも写真部を覚えてくれてて嬉しいよ」
 ノートパソコンの彼が、笑顔をほころばせて言った。雰囲気からしてこの人が部長かな。中肉中背。がっしりとした体格をしている。頼り甲斐がありそうだと思った。別に頼る予定も無いのだが、そう思った。
「増渕先生の命令で迎えにも行けなかったの。ゴメンね、ゲンちゃん」
 眼鏡の女子が感極まった感じで言う。この人にもだいぶ世話になっているような気がする。名前を思い出したい。
「俺、自分が留年した事もわかってなくて。最近はちょっとドタバタしてたんだ」
 時間稼ぎの言い訳。
「でも、写真部の事は思い出したんでしょう?」
 眼鏡の女子が嬉しそうにして言った。
「いや、途中で増渕先生に会って、促されてここに来ました。ゴメンね林さん」
 咄嗟に名前が出た。林さんは僕に名前を呼ばれて喜んでいる様子。
「俺の名前も思い出せよ源一郎。頭、ちゃんと回ってるか?」
 ノートパソコンの彼が笑って言った。
「その言い方はないでしょう、ダイスケ」
 林さんが怒った顔でノーパソの彼に言った。ダイスケ……。そうか、彼は中学校からの同級生、のような気がする。
「お前せっかくのチャンスなのに。俺の名前をバラしてどうするんだよ!」
 ダイスケが林さんに向かって、怒った顔をして言った。
「あ、ゴメンなさい……」
 林さんがシュンとする。
「ダイスケ。女子にはもっと優しくしろよ。林さんに謝れ」
 僕は言った。自分でも驚く無骨な言い回し。ダイスケが、僕の言葉を聞いて目を丸くしている。
「そうだな。林、ごめん。源一郎に言われたからじゃなくて、本当に謝るよ。ゴメンな」
 ダイスケが丁寧に謝った。丁寧過ぎると僕は思った。あ、ダイスケは林さんが好きなんだ。そうだよ、そうだった。間違いない。
「ダイスケは、まだ林さんに告白してないの?」
 僕はそう言って、言った瞬間にヤバいと思った。
「はぁ? 何言ってんだよ?」
 ダイスケの顔が真っ赤になっている。林さんの顔も赤い。ついでに、傍らで見ていた相磯さん一同も赤くなっている。なんてこった。こういうことは、僕は今まで何度もやってきたような気がする。細かくは思い出せないが、思い出せないのは救いでもある。
 
 ガラッと戸が開く音がした。固まった空気に対して絶妙なタイミング。一眼レフのデジカメを持った少年が部室に入ってきた。ここにいるからには高校生なのだろうが、身長は相磯さんよりちょっとだけ高いくらい。
「あ、ゲンちゃん。やっと来たんだね」
 とても小さい男の子。誰だったろう、また思い出せない。
「ゲンちゃんは留年したけど、僕は引き続き記録を取ってるから。必要ならばいつでもアクセスしてね」
 少年が少しはにかんで言った。この人、誰だっけ。重要な感じなのに、全然思い出せない。

 十二

 午後四時を過ぎていて、相磯さん達は先に帰る事になった。帰り際、相磯さんが僕の顔をじっと見詰めている。
「どうかした?」
「あ、いえ。スミマセン。では失礼します!」
 慌てて相磯さんが部室を出て行った。何か言いたかったように見えた。そうだよなあ。いつ、どうやって説明すればいいのか。そもそも説明が必要だろうか。だけど僕は、こういう中途半端な状態に慣れている。
「自己紹介をしたほうがいいですか」
 先ほどの少年が、僕に対して言った。写真部のダイスケと林さんは、少し離れた所にいて何か作業をしている。二人が、僕らの会話に、じっと耳を傾けているのがよく分かる。
「たぶん君にも、だいぶ世話になってると思う。だけど、申し訳ないけど思い出せない。何故かちっとも思い出せないな、ゴメン」
 僕は言った。
「大丈夫です。僕は、ゲンちゃんの影になるように努めてきました。思い出せないというのは嬉しい……とまでは行かないけど、ちょっと楽しいかな。だから自己紹介も簡単に済ませますね。僕の事は『データ君』と呼んでください。なんかSFチックですけど、面白いでしょう」
 少年が笑って言った。データ君……。僕は深く考えない。
「データ君、いままで有難う。そして、これからもよろしくお願いします」
 僕は言った。
「やっぱりゲンちゃんは凄いなあ。その割り切り方がたまらない。『データ』という名前はデータベース、と思って下さい。僕はゲンちゃんの記録係なんです」
「ではデータ君。データ君にお訊きしたい。今僕の頭の中で、記憶の引き出し方が上手く行ってない。それで今、戸惑ってるんだ。あの、言っている意味は分かる?」
 自分でも、ちょっと分からない事を言った。
「だいたい分かります。でも、僕にはどうすることも出来ないです。ゲンちゃんの記憶は、かなり気まぐれだから。でもね、絶妙なポイントで、上手に思い出を引き出します。それが実にドラマチックなんです。素敵ですよ」
 データ君がため息混じりに言った。うーむ。
「僕が一番深く関わっている人は、茶道部の森川さんかな。僕の彼女ということらしい。その部分をちゃんと思い出せないのが、とてももどかしいよ」
 僕は言った。
「よく分かります。でも、ゲンちゃんと森川さんの関係について、僕はあまり発言しない事にしています。森川さんに対して失礼になりますので。恋愛関係の事は、自力でなんとかしてください」
 データ君が言った。
「春休みの間、僕はかなりの事を忘れてしまったみたいなんだ。データ君が、そこをサポートしてくれなかったのはどうしてなんだろう。厚かましいとは思うけどさ」
「その通り、厚かましいですよ。僕は趣味で、ゲンちゃんのデータを集めています。ゲンちゃんの助けになりたいと思ってはいるけど、一蓮托生ってわけではないです。ゲンちゃんがそれを嫌うなら、潔く身を引きます。今日も、その許可を頂きたいと思って話をしているんです」
 データ君が言った。
「データ君、去年は僕と同級生だったんだよね?」
「ハイ」
「頭がよさそうだよなあ。学年末のテストはどうだった?」
「僕は総合で四位でした。ちなみに一位は森川さんです。ゲンちゃんの大切な人、森川さん」
 データ君が微笑んで言った。俺の彼女が一位か〜。
「ゲンちゃんは自分の成績を覚えていないでしょう。理系科目はほぼ満点でした。だけど現文と英語が酷くて、赤点ギリギリ。でも、苦手という訳では無いんです。抽象的な思考を求められた時、ゲンちゃんは、決断するために時間を惜しまない。その結果、時間切れになってしまって、解答用紙が埋まらない」
「そうなの? 普段は、深く考えないようにしてるんだけど」
 僕は言った。
「思考に関して、深いとか、浅いではないんですよ、ゲンちゃんは。これは僕の想像ですけどね。考えたことを、ちゃんとどこかの引き出しにしまっている。それでここぞという時にサッと取り出す。だからドラマチックになるんです。本当に絶妙なんだから」
 データ君が小さく頷きながら言った。
「僕の頭の構造は、そんなに複雑なのかね?」
 僕は笑って言った。データ君はなにかの冗談を言っているのかもしれない。
「僕はゲンちゃんのデータベースですから。ただ見守るだけです」
 データ君がにっこりと笑って言った。

 十三

 今日は僕も帰ることにした。部室を出る時に、データ君が僕に新品の携帯電話を渡してくれた。
「何か気になったり参照したい事があったら、気軽に電話かメールをください」
「有難う」
 素直に受け取ってしまった。そうだ、ちょっと思い出した。データ君という名前には、携帯電話のイメージがあったような気がする。しかし携帯の料金とかはどうなってるんだろう。まあいいか、データ君の趣味なんだし。
 
 外に出たらだいぶ暗くなっていた。データ君に貰った携帯で時計を見たら、午後五時半。グラウンドではまだ、陸上部の人達が活動をしている。横目に見ながら校門へ向かう。校門の前に誰か立っていた。
「森川さん?」
 僕は言った。
「ゲンちゃん」
 森川さんがにっこりと笑って答えた。失礼だけど、やはり容姿は十人並みだと思う。でもなんだろう、このフィットする感じ。
「この前はゴメンね。と言っても、まだ全然思い出してないんだ」
 僕は言った。
「大丈夫。私も少し動揺をしていたの。御免なさい」
 森川さんが僕の側に寄ってくる。良い香りがする。
「じゃ、帰ろうか」
「うん」
 僕らは歩き出す。僕は森川さんを観察する。なで肩で華奢な体つき。色が白くて指が細い。首も細い。うなじの辺りがたまらなく綺麗だ。女子にしては身長がある。僕とバランスがとれている。これはいいなあ。
「ゲンちゃんは遠回りをして、私を駅まで送ってくれてたの。毎日、毎日」
「え、そうなの?」
 騙されてないだろうな。
「面倒くさい?」
 森川さんがいたずらっぽく笑った。
「いやいや。喜んで送らせて頂きます。そうだ、僕らは毎日デートしてるんだね」
 僕は言った。
「その『毎日デート』って言葉、私のお気に入りなの。ゲンちゃんが良く使うのよ」
 森川さんが微笑んだ。
「だから明日も、僕は学校に行きたくなるわけだ」
 なんだかまた、少し思い出した。
「また平然と恥ずかしい事を言って……」
「恥ずかしくないよ?」
 僕は言った。森川さんは顔を赤くしている。
「森川さんは可愛いね」
 恥ずかしい事を言った。
「やめて!」
 森川さんに足を蹴られた。痛い。彼女は蹴るのか。茶道部の部長が、蹴るのか。
 手をつないじゃおうかと思ったけど、怖いから今日は止めておいた。でも楽しくおしゃべりをして、彼女を駅まで送り届けた。改札口の所で森川さんに手を振る。彼女も手を振り返して、ホームへの階段をゆっくりと登っていった。

「もしもし、データ君?」
 僕は貰った携帯を早速使う。
「あ、ゲンちゃん。道に迷いました?」
「よく分かるね」
「今、城ヶ崎駅ですか?」
「その通りだよ、凄いね」
「携帯の写真フォルダに地図が入っています。それを見て下さい。単純なルートですよ」
 そう言って、データ君が一方的に携帯を切った。あっさりしてるなー。携帯の操作とかはちゃんと出来るワタクシ。地図を見ながら家に帰った。本当に単純なルートだった。

 十四

 僕の両親は相変わらず忙しい。父は長期出張中。母はいつも早朝に家を出る。僕は母が用意してくれた朝飯を、ゆっくりと一人で食べる。梅干しが美味しい。納豆も美味しい。漬物の糠味噌臭さが、なんとも味わい深い。
 感慨にふけっていたら、家のチャイムが鳴った。相磯さんに違いない。時計を見たらもう八時手前だ。
「おはよう。ちょっとだけ待ってくれる?」
 玄関のドアを開けて、僕は相磯さんに言った。相磯さんが微笑んで頷く。急いで準備しなくては。
 僕は動作が鈍い。時間を上手く管理出来ない。でも、これはどうしようも無い事だ。データ君も諦めていたし、僕も諦めよう。

「御免お待たせ」
 僕は相磯さんに言った。時計はもう八時を回っている。遅刻ギリギリだ。でも相磯さんは慌てる様子もない。ゆっくりと歩いて、エレベーターの下ボタンを押した。十四階。
「先輩、走りましょうか?」
 エレベーターに乗るなり、相磯さんが言った。
「あ、そうだね。そうしないと遅刻だよね」
 僕は恐縮して言った。
「私、足には自信があるんですよ。小さいけど、持久力はあります」
 相磯さんが張り切って言った。
「身長が低くて体重が軽いと、重力の負荷が小さくなるよね」
 僕は思ったまま言った。
「マンションを出たところから競争ですからね。負けた方が学食で、昼ごはんを奢る事にしましょう」
 相磯さんが勝気な笑顔で言った。怒っているのがハッキリと分かる。さて、僕の体力はどの程度のものだろうか。最近は運動していないと思う。体がデカいから、長距離走では負ける可能性が高い。家から学校まで歩いて二十分。走ると十分。距離にすると一キロとちょっと。ただし途中に信号がいくつもある。信号。僕は何かを思い出した。携帯電話の時計を確認する。
 
 エレベーターが開いた瞬間に、相磯さんが走りだした。フライングのような気がするぞ。まあいい。このタイミングだと、一個目の信号に引っかかる可能性が高い。僕も適当に走り始める。
 赤信号の交差点で、相磯さんに追いついた。相磯さんが悔しそうな顔をする。笑ったらもっと怒りそうなので、無表情を決め込んだ。信号が青になって、相磯さんがダッシュした。僕はもう一度時計を見る。頭の中に、なぜか電車の時刻表が浮かぶ。このタイミングだと、信号機はクリア出来ても踏切を回避できそうもない。というわけで、僕はゆっくりと走り始める。
 ハァハァ言っている相磯さんと、踏切の前で再会をした。まだ電車はこない。充分に休める。ここからはほぼ障害物がない。信号はあるけれど、交通量がほとんど無いので無視する事が可能だ。残り約三百メートル。スプリント勝負。
 踏切が開くなり、相磯さんが綺麗にスタートダッシュを決めた。踏切前に立ち並んでいた自転車や歩行者を、一瞬で追い抜いた。制服で短いスカートで、なりふり構わず全力のストローク。カッコ良い。疲労があるはずなのに、気合でぶっちぎろうとしている。
 
 残り百メートル地点。ヘロヘロになった相磯さんと肩を並べた。僕は相磯さんと並走する。
「先輩……情けは無用です」
 ゼーゼー言いながら相磯さんが言った。
「今日は俺が昼飯を奢るよ」
「情けは無用って……言ってるじゃない……ですか」
「なんでも食べていいよ相磯さん。すごい綺麗な走りだった。ちょっと感動した」
 僕は言った。突然相磯さんが足を止めて、トボトボと歩きはじめた。僕も歩調を合わす。もう遅刻の心配は無い。
「先輩の彼女さん、素敵ですね」
「うん。茶道部の部長ね」
 僕は答えた。
 そのあと、相磯さんは自分の息が整うまで何も言わなかった。
「私も変な彼氏が欲しいな……」
 相磯さんが呟いた。そして僕らは校門の前に到着した。
「相磯さんもかなり変だからさ、彼氏は真っ当な人がいいと思う」
 僕はまた、思った通りに言ってしまった。そしたらなぜか、相磯さんがハッとした表情になった。
「そうかもしれません」
 何か考えながら、相磯さんが校舎へ向かって歩いて行く。大丈夫か。
「先輩! お昼ごはん奢ってもらいますからね!」
 笑顔の相磯さんに大声で言われた。わぁ。登校中のみなさんに一斉に注目を浴びてる。相磯さんはやっぱり変だ。思い切りの良さとか、広い心は素敵だけど突拍子がない。これもまた、僕が言える事ではないんだけど。

 十五

 午前の授業中、僕はほとんど寝ていた。相磯さんとの朝の競争が予想以上にキツかった。体力がほとんど残っていない。明日は筋肉痛になると思う。もう少し体を鍛えないとマズイ。そうしないと次は相磯さんに負ける。いや、別に負けてもいいんだけど。

 四限目が終わって昼休み。うつらうつらとしている僕の肩を、誰かが叩いた。相磯さんか。
「ゲンちゃん、今日は屋上で食べましょう?」
 森川さんだった。巨大な風呂敷包みを抱えている。
「それ、まさかお弁当?」
 僕は訊いた。
「うん。これは毎日じゃないのよ。私がきまぐれでお弁当を作るの。そうやって時々、一緒にお昼ごはんを食べています」
 森川さんの優しい笑顔。なんて幸せな事だろう。
「嬉しいよ。俺、今凄く腹が減ってるんだ。そのお弁当、だいぶ充実していそうだね」
 僕はワクワクして言った。
「ゲンちゃんの食欲ってすごいのよ。今年はさらに身長が伸びるんじゃない?」
「二メートルいくかな」
「行くと思うわ」
 森川さんのこの対応。洗練されている。今まで僕とは色々あったハズだ。素敵な思い出が、断片的に蘇ろうとしている。
「先輩、学食で奢ってもらいますからね!」
 と、相磯さんが言った瞬間、相磯さんは森川さんの存在に気がついた。相磯さんの目が、森川さんのお弁当を捉えている。相磯さんの後ろには仲良しグループが控えていて、彼女達は一瞬で固まった。
「あの、いえ。違うんです。その、違うんです全然……」
 相磯さんがアタフタしている。うーむ。
「ゲンちゃん、お約束してたの?」
 森川さんは特に慌てる素振りも無い。
「俺、相磯さんに昼飯を奢る約束をしてたんだった」
 僕は言った。情けない言い方。
「だったらみんなで食べましょうよ。購買で食料を買い足して。お金はゲンちゃんが払うのよ? それなら、奢るという約束も果たせるでしょう」
 淀みなく森川さんが言った。みんなが深々と頷いた。
 
 その後、屋上にて。相磯さん達と森川さんが、食事を忘れて楽しそうにおしゃべりをしている。僕は腹が減っているので、重箱の弁当をがっついて食べている。凄い美味しい。自分の好みとは何なのかを再確認させられる。正月でもないのに、数の子と昆布巻きが入っていた。
「おせち料理ですか?」
 広げられた重箱を眺めて、相磯さんが言った。
「そうなの。ゲンちゃんはおせち料理が大好きなのよ。だから私、時々作るの。あ、でも黒豆は苦手なのよ。美味しいのにね」
 森川さんが笑って言った。女子達が一斉にため息をついた。
「渡良瀬先輩は素敵だと思います。でも、その彼女でいる事は、大変な事じゃないですか?」
 相磯さんのお友達の、フワフワした子が言った。みんながギョッとする。
「大変じゃないって言ったら嘘になるわ。でも私、ゲンちゃんのお陰でずっと初恋気分なの。その感じ、みんなに分かってもらえるかしら」
 森川さんが少し恥ずかしそうにして言った。女子たちがまた、一斉に頷く。なんだか僕の存在がスルーされているぞ。
「でも、いつの間にかほかの子に取られちゃったりとか、心配になる事はないんですか?」
 またフワフワした子が言った。
「マリコ! 何言ってるのよ」
 相磯さんがフワフワした子に詰め寄った。フワフワなのはマリコさんというのか。覚えたぞ。
「ゲンちゃんは今まで何度も浮気してるの。年下は中学生、上は四十代の女の人まで」
「え? そうなの!」
 僕は飛び上がって訊いた。
「嘘です。でもね……」
 森川さんが困った顔をする。
「でも、先輩ならあり得そう」
 フワフワのマリコさんが言った。この子、フワフワしてるのにズバッとくるなあ。
「ゲンちゃんは相当な面倒くさがりだから。相当アプローチしないと無理なのよ。だから、取られちゃう心配はあまりないかな。初恋気分でいられる事は凄く幸せよ。大変だけど、かけがえが無い事だわ」
 森川さんが微笑んで言った。フワフワのマリコさんが、感激して拳を握り、唇を噛んでる。他の女の子達はみんなシュンとしている。森川さんが僕の手に、そっと自分の手を重ねた。

 十六

 携帯にメールが入っていた。題名が「データ君のお知らせ」となっていた。さっそくメールを開いてみるとあっけない。
―五月二十日は森川さんのお誕生日です―
 それだけ。確かに重要な情報ではある。僕が覚えている筈もないから、とても有難い。しかしこれをどうすればよいのか。僕には見当も付かない。デートに誘ってプレゼントをあげて。それぐらいは出来ると思うけれど、いかんせん情報が少なすぎる。
「森川さんの誕生日に関して、もう少し情報を提供してくれない? 恋愛関係には、干渉しないと言っていたけれど」
 僕は電話でデータ君に訊いた。データ君に直接会って訊いた方がいいのかもしれない。ただ、データ君とのやり取りは、携帯でやるのが合っていると思った。
「森川さんのプライバシーを侵害しない範囲で、正直に答えます」
 データ君が慎重に答えた。
「これってたぶん、キワドイ所だよね。僕の知らない森川さんの情報を、データ君はたくさん知っているんだろうから」
 僕は言った。
「ゲンちゃん、どうか怒らないで下さい。僕は森川さんとゲンちゃんが、上手く行って欲しいと思っています。本当です」
 データ君が、切実な声を出した。
「有難う。まさか怒らないよ。データ君がいなければ、僕は森川さんの誕生日さえ知らなかった。そうだな、いくつかヒントをくれたら嬉しいんだけど。限定的でいいので」
 僕は笑って言った。
「分かりました。僕なりに考えたヒントを三つ言います」
 データ君が言った。
「一つ目。森川さんは貞操観念が非情に強い。ゲンちゃんとはまだ、キスもしてないハズです。だけど森川さんの想いはとても強い。そこをゲンちゃんがどうするのか」
 凄いヒントだな。
「二つ目。森川さんはお金持ちのお嬢さんです。金銭的な面では苦労がありません」
 あれ、これはなにかを思い出しそうになった。
「三つ目。これは最近得た情報で、しかも僕が言ってはいけないかもしれない事です。でも、はみ出して言います」
「うん」
「森川さんは大学の医学部を目指しているらしいです。専攻も決まっていて、人間の脳に関する分野。欧米の大学への留学を検討していて、英語とドイツ語の個人授業を受けています。ここまで言えば、ゲンちゃんなら分かると思いますけど」
 データ君が言った。脳かー。
「まさか、俺の為?」
 僕は言った。
「僕が言えるのは、ここまでです」
 データ君がちょっと苦しそうに言った。
「分かったよ。有難うデータ君。そこら辺を含めての、誕生日祝いなわけだね。これは重いねー」
 僕は笑った。
「ここで笑えるのが、ゲンちゃんの凄い所です。頑張って下さい」
 データ君が言った。
「俺としては、普通に頑張るしか無いんだよ、いつも」
「そうでした」
 データ君の笑い顔が目に浮かぶようだった。

 十七

 いつもの帰り道。僕は森川さんと一緒に歩いている。駅までの通りには、桜の木が隙間なく植えられている。もう葉桜になっていて、地面に落ちている花びらも少ない。それでも森川さんは、残った桜の花を愛でるように、少し上の方を見ながら歩いている。
「夕焼けに、映えるね」
 僕は言った。
「本当に」
 森川さんがこちらを見ずに言った。
「しかし今日の弁当は凄かったなあ。焼肉弁当というか、ステーキ弁当か。ご飯より肉が多いっていうのがまた、記憶に残るよ」
 僕は言った。
「嬉しい。本当に記憶に残った?」
 森川さんが僕を見て、なんとも言えない表情をした。
「街道の葉桜と夕焼けと、焼肉弁当。森川さんのお母さん特製の、ごぼうの漬け物。今の君の切ない笑顔。こういうのはセットになるんだ。すぐに思い出せなくても、確実に記憶に残る」
 僕は言った。
「母のお漬物を出す所が、本当にずるい」
 森川さんが僕を睨んで言った。
「特に意識して言ったわけじゃないんだけど」
 僕は言った。
「それが分かるから、私はあなたに参ってるのよ。ゲンちゃんが結婚詐欺師だったら、向かう所敵なしね。相手を騙すには、まずは自分を騙す事がセオリーでしょう?」
 森川さんが変な事を言い出した。話題を変えよう。
「勉強は大変? 授業の他に、語学をやってるんだってね。データ君に聞いたよ。森川さんは、データ君の存在を知っているんだよね?」
「それを毎回確認するのね、ゲンちゃんは」
 森川さんがそう言って、渋い顔をした。
「データ君の事、マズかった?」
 僕は慌てた。
「大丈夫。私、データ君の存在を知っています。直接にお話した事はないけれど。私、自分のプライベートに勝手に踏み込まれる事は、とてもイヤだわ」
 ちょっと怒った声で森川さんが言った。
「ハイ」
「でもね、ゲンちゃんと私には架け橋が必要だと思う。だからデータ君の事は黙認してるの。でも彼にその事は秘密よ。公認はしたくないの」
「うん。でもただ、彼は僕の記憶装置になろうと、徹底してくれている感じがある」
 僕は言った。
「そうね、彼は紳士ね。だから私も許せるの。もう本当に、絶妙なラインを分かっている。そういう意味では、ちょっとゲンちゃんに似ている所があるわ」
 森川さんが笑顔で言った。それがまた素晴らしい笑顔で、僕はまた手を握ってしまおうかと思った。だけど今の雰囲気を壊したくない。この話をもう少し続けたい。
「データ君は近い存在だね。ただし裏切りは常にある。他人故に」
「そう、他人故に。データ君は危ない橋を渡っているのよ。そうしないと、私の医学部志望なんて割り出せないでしょう?」
 森川さんが、僕の表情を伺うようにして言った。
「それは……」
「彼は教員用のアカウントを使って、高校のデータベースにアクセスしているの。私の成績とか、三者面談の記録も見ている。音声情報まで取ってる。徹底しているわね」
 僕は黙った。データ君、大丈夫か。
「ゲンちゃん、データ君と接していてどんな気持ちがする? 彼ってやっぱり紳士でしょう?」
 森川さんがまた「紳士」という言葉を使った。
「そうだね。彼は礼儀を貫いている。そして、とても頭がいい。だから、ハッキングがバレるような事はしないと思うんだけど」
 僕にはネットワークの知識が無い。ただ、概念としては分かる。
「データ君は私だけに『分かる』ようにハッキングしてるの。詳細は省くけど、かなり手の掛かる事をやってるのよ。それが彼の礼儀なのね」
 森川さんが話疲れたようにして、深い溜息をついた。僕らは駅前のターミナルに到着していて、今はバス停のベンチに座っている。時間は午後六時半を過ぎてる。
「データ君の話で、これほど盛り上がるとは思わなかったな。今日話した事を、データ君に伝えられないのがちょっと残念だ。あのね、森川さん」
 僕は森川さんの制服の肩にそっと触れた。森川さんがビクッとする。「貞操観念」という言葉が僕の頭に浮かび上がった。
「僕らはこういう話を、何度も繰り返し話しているんでしょう? 退屈になることは無いのかな。ウンザリすることは無い? いまさら君に、訊く事じゃ無いかもしれないけど」
 森川さんの肩に、僕はまだ手を置いている。
「ゲンちゃんの記憶は、リセットされているわけじゃないの。ゲンちゃんも自分で言ったでしょう? すぐに思い出せなくても、記憶には残るって。それは私も良く分かっています。ゆっくりに見えて、いざ進むぞって時には、瞬間移動なのよあなた。もうそれが素晴らしくて。それで私や、データ君みたいな人が、あなたに引きつけられて居るのだと思う。ゲンちゃん。私の言っている意味は分かる?」
 高ぶる感情を抑える感じで、森川さんが僕に言った。駅前のバスターミナル。帰宅時で沢山の人が往来している。僕は森川さんを抱きしめたいと思った。だけど彼女の「貞操観念」を大切にしたいからヤメた。森川さんが、僕の頬に手を伸ばしてそっと触る。僕はその手を両手で受け止めて、自分の口元に持って行こうとした。そうしたら、森川さんがサッと手を引っこめた。
 彼女の顔が耳たぶまで赤くなっている。森川さんの貞操観念って、相当に厳しい。ああ、そうだ。僕は誕生日の話をするのを忘れてた。また今度、しっかりとしなくては。

 十八

「みんなに彼氏がいて、その彼が誕生日を祝ってくれるとして。その時にみんなは何を求める? 彼氏に何を与えて欲しいと思う?」
 僕は相磯さんと、そのグループの三名を相手にして質問した。みんなの顔が一瞬で赤くなった。
「番長、質問がダイレクト過ぎます! 求めるとか、与えるって」
 相磯さんがあたふたしている。他の子も返答に困っているようだ。パソコンの子はネットで検索をし始めた。そうだな、ダイレクト過ぎたな。紳士的じゃなかった。
「アクセサリーとか貰ったら嬉しいかな。高いものじゃなくてもいいから。でも、先輩が言っているのはそういう意味じゃないですよね。……マリコ、お願い!」
 相磯さんが行き詰まって、マリコさんに話を振った。
「相手が本当に、本当に好きな人なら。私はココロのこもったキスをして貰いたいです。それで抱きしめて貰うの。息が出来ないくらいにぎゅうっと。それからね?」
「わぁ、マリコ! ありがとうね。でも、もういいからね」
 相磯さんがマリコさんの口を塞いだ。マリコさん流石のダイナミズム。
「元になる情報が少なすぎます。番長のお相手って、森川先輩ですよね」
 検索の女の子が言った。もっともな意見だ。
「私はなにか、しっかりとしたモノが欲しいです。相磯さんが言うように安物の指輪でもいいの。気持ちさえあれば」
 今までほとんど発言をしなかった第三の女の子が言った。この子は身長が百七十以上あるだろう。僕と目線が近い。何も言わずに、常に相磯さんの側につっ立っている感じだったが、今日は積極的だ。
「サワコは彼氏いるんだよね」
 相磯さんが朗らかに訊いた。
「うん。彼は今、高校三年生。でも彼、私の体だけ求めているような気がして。とても不安なんです、番長……」
 サワコさんが僕をじっと見詰めて言った。ささやき声で話す彼女のセリフがディープ。彼女は端正な顔立ちをしている。スタイルもいい。
「な、なに言ってんのよサワコ。か、カラダって?」
 相磯さんが可哀想な程に慌てた。
「サワコさん。後で俺とちょっと話そうか。相談に乗るよ」
 僕は言った。
「ホントですか番長? 是非お願いします」
 サワコさんが微笑む。と言う事で僕らは、放課後にお話をする事になった。僕は森川さんに、一緒に帰れない理由をちゃんと説明した。
「それはいい事だけど。ゲンちゃん気をつけてね。また……」
 森川さんがため息をついた。また……なんだろう。まあいいか。

「俺は男女関係に詳しく無いし、経験も薄いよ。みんなに番長って呼ばれて嬉しいけど、喧嘩した記憶も無いし。でも、サワコさんの状況は危ないと思った。見過ごせないよ」
 僕らは学校からだいぶ離れた所のファミレスにいる。奥まった所の席だし、客も少ない。ここなら話しやすいだろう。サワコさんは目線を下げて、ただじっとしている。
「カラダが目的っていうのがね。男子は少なからずそういう所があるから、少しは分かる。でもダメだ。たぶん今回のケースには愛が無い」
 僕は言った。恥ずかしいセリフだが、自然に言ってしまった。
「先輩……私ね。普通にデートしたいって言っても、なかなかそうはいかなくて。時々呼び出されて、彼の家に行く感じです。これって恋愛なのかなあって、疑問に思っています。会話も少ないですし」
 サワコさんが言った。表情が乏しいし涙も無い。だけどサワコさんはだいぶ傷ついている。何故だか伝わってきた。
「差し出がましいけど、彼と別れた方がいいと俺は思う」
 僕は言った。
「そうですよね」
 サワコさんが小声で答えた。
「本気で別れたいって思ってる? 本気でだよ」
 数秒待って、サワコさんが力を蓄えていく感じ。
「別れたいです。このままで行くのは耐えられません」
 サワコさんが僕の目をじっと見詰めて言った。この人は、かなり目に力がある。
「じゃあ俺が仲介するよ。サワコさんが彼と話しても、なし崩しになってしまうと思う。だから、俺が彼と話す。いいかな?」
 僕は念を押して訊いた。
「はい……番長すみません。どうかお願いします」
 サワコさんがようやく、ぽとりと涙を一滴こぼした。俺は番長だ。勤めを果たさなければならない。

「お前、サワコの何なの?」
 サワコさんの彼氏に訊かれた。
「友達だけど」
「アイツを狙ってるわけ?」
 彼氏が不敵に笑って言った。
「そういう事じゃ無いよ」
 僕は言った。
「まあいいや。俺はサワコと別れるつもりは無いから。他人が余計な口出しすんなよ。分かった?」
 彼氏が凄みを利かせて優しく言った。僕は一人。サワコさんの彼氏は、仲間と思われる人を二人連れてきている。ファッションかもしれないけど、バタフライナイフをクルクルさせてる。彼らと戦うのは嫌だなあ。
「喧嘩するのはいいけど、刃物は無しにしようよ。お互いに危ないから」
 僕は言った。何故か僕のカラダには傷が多いのだ。それを思い出して言ってしまった。
「この状況で挑発してる? お前、頭大丈夫か」
 彼氏が言って、その一同が笑った。割りと正統派の不良というか、ヤンキーだ。今どき珍しい気もする。僕もちょっと笑ってしまった。
「例えばだよ。俺らが昔の戦争で、軍隊の同じ部隊に入ってたらさ。戦友になってたかもしれない。そんな気がしない?」
 僕は言った。
「ハァ? 何いってんだよ。やっぱコイツ頭おかしいぞ。こういうのが一番アブねーんだ。気をつけろよ、みんな」
 説得は失敗した。僕の頭がおかしいってのは正解だ。サワコさんの彼氏は、非道ながら頭が良い。だからこそ、女の子を引っ掛ける魅力もあるのだろう。惜しいなあ。
 僕らは池袋の小さな公園にいる。周囲に人はそこそこいる。ただし、ちょっとアンダーグラウンドな場所だ。喧嘩が始まっても誰も関わってこないだろう。
「サワコさんと別れろ。それが嫌なら、まあ喧嘩だな」
 僕は強めに言ってみた。何故か血が騒ぐ。自分が笑顔になっているのが分かった。
「お前、後悔しろよ」
 彼氏が真顔で言った。やはり筋金入り。刃物は実戦用だ。参った。痛いのはイヤなのになー。
 
 僕はナイフで手足を切られ、合計七針縫った。しかもボコボコに殴られて後で血尿が出た。幸い骨折等の重傷は無かった。相手もそれなりに、喧嘩のルールを知っていたのかと思う。結果としては僕の大敗だ。三対一で勝てるハズがない。三人に責められながら、僕はセオリーとして、サワコさんの彼氏を集中攻撃した。顔面を執拗に殴り続けた。目は傷つけないように。歯はお互いに何本か損傷したけど、これは仕様が無い。途中で警察へ通報が行ったらしく、パトカーの音がした。それを聞いて彼氏達と僕は、池袋の街の賑やかな方へ、紛れるようにして逃げた。幸い捕まらないで済んだ。運が良かったと思う。
 
 数日後。僕の顔の腫れも引いた頃。
「彼から呼び出しのメールが来ました」
 と、サワコさんが学校で僕に報告した。
「文面を教えてくれる?」
 と、僕は訊いた。
「俺はお前の事を大切に思ってる。これからはちゃんとデートもするし、殴ったりは決してしない。マジで愛してるから。……以上の内容です」
「それでまた、家に呼び出されているの?」
「いいえ。ファミレスで私と話しがしたいそうです」
 サワコさんが無表情で言った。
「番長及び男子として言わせてもらうと、彼の言葉はほぼ全て嘘だね。話をしてみて、彼の性質もある程度分かった。ただ、サワコさんがこの後どうするのかは自由だよ」
 僕は言った。
「番長。ここまでして頂いて厚かましいとは思うのですが、何か私にアドバイスを頂けないでしょうか」
 サワコさんが僕をじっと見て言った。やっぱり目に力があるなあ。
「サワコさんは芯が強いよ。でも今の彼氏と付き合ってたら、間違いなく不幸が続くと思う。だけどさ、もし戦国時代にサワコさんが彼と出会っていたら、サバイバルで協力し合えたかもね。彼は男として魅力があるよ。でも今の時代だと、ちょっとキツいな」
 僕は言った。しかしなんだよ、戦国時代って。
「番長……。素敵なアドバイス、ありがとうございます」
 サワコさんが号泣した。教室の中で、声を押し殺して悲しそうに泣いた。戦国時代は大丈夫だったのか? そして周囲の目が痛い。番長が女を泣かせている。マズイ。
「サワコ大丈夫?」
 瞬時に相磯さんが駆けつけてきた。相磯さんが僕に、鋭い視線を向ける。
「リョウコちゃん違うの。私、番長に慰めてもらってたの。本当に嬉しくて、感激してしまって……」
 サワコさんが涙ながらに、でも、ハッキリと説明をした。
「ゲ、すみません番長。そりゃそうですよね。申し訳ありませんでした」
 相磯さんがアタフタする。こういう役どころが似合うなあ彼女は。チビッチにやっぱり似てる。
 
 サワコさんの結論は「彼と別れる」という事だった。戦国時代でも彼とは別れます、と彼女が言った。戦国時代でもだめかー。
 僕はサワコさんの携帯を受け取って、彼氏へ返信の文章を送った。件名は「俺と再戦する?」で、本文は「また顔面を殴り続ける」とした。サワコさんも独自に、彼にお別れのメールを送ったそうだ。それらのメールを送信して以降、彼からサワコさんに連絡が来なくなった。
 他人に介入しすぎたような気がする。だけど、僕は自動的に動いただけだ。僕は気になった問題に、首を突っ込みたい欲望があるようだ。ずいぶんおせっかいだ。
 お礼をさせて下さい、と言って、サワコさんが僕をホテルに誘った。
「絶対に誰にも言いません。一回だけです。番長、お願いします」
 と、サワコさんが透き通る笑顔で僕に言った。その目と仕草。凄まじく妖艶だ。この子には、この子なりに問題があるぞ。アブネーなあ。僕は切羽詰まって、森川さんに相談をした。不良の彼氏とお別れして、ちょっと不安定な子がいるんだ、と僕は言った。
 森川さんはそれ以降、サワコさんの教育に情熱を注いだ。僕のお昼ごはんの弁当や、帰り道のデートを疎かにするほどだった。サワコさんは森川さんの家にお泊りもして、徹底的に教育を施されている。その過程で、僕はサワコさんに話しかけてみた。
「番長には感謝しています。だけど今は、私に近付かないで下さい」
 と言われた。サワコさんを森川さんに任せて良かった。十六歳の女の子が本来持っている美しさを、徐々に取戻しつつあると僕は思った。

 十九

「ゲンちゃん、まただいぶ殴られましたねー」
 データ君からの突然の電話。
「え、何で知ってるの。まさか見てたとか?」
 僕は訊いた。
「ハイ。僕は池袋とか渋谷の街が嫌いなんですけど、行った甲斐がありました。リーダー格を執拗に攻撃するゲンちゃん。ナイフで切りつけられても、怯むことは一切に無い。何故だか笑顔まで見せている。そこで相手は戦意喪失です。勝負有りでした」
 データ君が楽しそうにして言う。
「喧嘩としては詰まらない部類だったよ。まあ、今回は目的が目的だから、仕方が無い。お互いに殴り損だったなあ」
「ゲンちゃんの喧嘩には華があります。本当に上手かったです」
 データ君が言った。
「有難う御座います」
 と、僕は言うしか無かった。それで会話は終わり。またもあっさりしている。だけど、警察に通報してくれたのは、たぶんデータ君だったのだ、と僕は想像する。
 
 そして森川さん。今だにサワコさんの情操教育を続けている。茶道部にも強引に参加させている。サワコさんは、意外に楽しんでいるらしいが。
「あの子は純粋でとてもいい子なの。純粋過ぎてつけこまれた形ね。世間ではまあ、よくある話ですけれど」
 森川さんが眉を潜めた。そして情熱に満ちた表情が浮き上がる。彼女の教育熱は留まるところを知らない。
「ゲンちゃんったら思い切った行動を取ったわね。複数人と渡り合って、ナイフで切られて? 下手したら取り返しが付かない事だって起こるのに。私、わ、わたしには……」
 今までに無いリアクションだった。森川さんが両手で顔を覆って小刻みに震えている。僕は彼女を抱き寄せる。抱き寄せる事が出来た。森川さんは僕の胸に額を押し付けた。
「ゲンちゃんらしいのよ。私は止められない。尊敬しています。だけどね、もっと酷い怪我をしてたかもしれないのよ」
 森川さんが、嗚咽混じりの声で言った。
「結果オーライ」
 僕はあまりにも軽く答えた。本当にそういう気持ちで、そのまま口にした。森川さんは僕の顔を見て呆然としている。マズイ、なにか慰めの言葉が必要だったか。
「ゲンちゃんって……やっぱり凄いわ。カッコいいな」
 森川さんが顔を上げて言った。涙の後が頬に残っていて、眩し過ぎる笑顔だった。
 
 そして僕らは屋上で、今日も昼ごはんを頂く。寿司だ。旨い。ちらし寿司に、エビとイクラがふんだんに使われている。四角い押し寿司が、重箱に隙間なく詰められていた。鯛と鮭、鱒の押し寿司。数の子も入っている。彩りも鮮やか。
「こんなに尽くしてもらって、いいものなのかね」
 僕はそう言って、胸元にご飯粒をこぼしてしまった。森川さんがそれを丁寧に摘んで取って、自分の口に入れる。
「ゲンちゃんのご両親には、一応お許しを頂いているの。私は将来、ゲンちゃんのお嫁さんになりたい。本当に、なりたいの。ゲンちゃんは……どう思いますか?」
 え! と一瞬思ったけど、森川さんが相手ならいいよな。お料理が上手で理性的で。顔カタチが僕の好み。非の打ち所が無い。
「お嫁さんになってくれたら嬉しいよ」
 僕が軽く答えたら、森川さんがじっと下を見て、僕の制服の袖を掴んだ。
 こういう場合、男子は女子を抱きしめてもいいのではないだろうか。もうフィアンセみたいな感じだし。だけどヒシヒシと伝わってくる、彼女の貞操観念。寸止めされて、もどかしい。でもこれって、僕ららしいのかもしれない。ゆっくりと進むのも、まあいいか。

 二十

 僕と森川さんは、いつも一緒に帰宅する約束をしている。だいたい午後六時に校門の前で待ち合わせて帰る。森川さんは茶道部の活動が有るので、僕も放課後に、約三時間の暇な時間を持つことになる。
 この暇をどう解消すべきか。その答えはすでに出ていて、僕は写真部に入部しているわけだ。しかし写真には全く興味がない。カメラも持ってないし。
 僕は授業を終えると、相磯さん達に挨拶して写真部へ行く。最初はダイスケと無駄話とかしていたのだが、最近部室に客が増えてきた。
 囲碁将棋部の部員達。僕の噂を聞きつけてきた、龍之介の尖兵だ。勝負してください! と意気込みが凄い。僕は適当に相手をする。何故か負けない。だったら囲碁はどうかと言われたが、ルールを知らない。そこでダイスケが、携帯ゲーム機の囲碁ソフト数本を本体と一緒に貸してくれた。家でやったけどなかなか面白かった。一週間かけてクリアした。そうしたら囲碁将棋部の人に、囲碁でも負けなくなった。
 退屈はしのげるけど、毎日囲碁将棋ではなあ……。僕には蓄積する能力が欠けているからか、達成感や勝利の喜びが少ない。まあ、周囲の人たちも楽しそうだからいいか。連戦連勝で、上級生にも僕は、番長と呼ばれるようになってしまった。

「番長、将棋で勝負をお願いします」
 と女子の声。僕はダイスケと、ほんのりエロい写真をパソコンで見ているところだった。慌てた。振り返ったら森川さんだったので、更に慌てた。
「森川さん、将棋やるんだ」
 僕は取り繕うようにして言った。
「お忙しいようでしたら、また今度にしましょうか」
 森川さんが、ダイスケに微笑みかけて言った。怖いよ。ダイスケがわざとらしく咳払いをして、ノートパソコンの画面をパタンと閉じた。エロい写真終了。林さんが何故かハラハラしている。僕は笑った。
 林さんがお茶を出してくれて、僕と森川さんは将棋の対局を始めた。
「茶道部はどうしたの?」
 僕は適当に駒を進めながら訊く。
「今日はお客様がいらしたの。イベントの日という事で、早目に終わりました」
 森川さんは、真剣な表情で盤面を見詰めている。
「サワコさんは順調?」
「ええ、順調よ。でもあの子、ちょっと常識に欠けている所があるわね。まだまだ心配。でもそういう人って、私好きだから」
 森川さんが言った。ダイスケが吹き出して笑った。林さんはまだハラハラしている。
 一時間後、僕は敗戦した。他愛のない話をしながらスイスイ進めていたつもりが、いつの間にか追い詰められていた。なんで負けたのかよく分からない。周囲には囲碁将棋部の人達もいたのだが、みんながそれぞれ、いろんな表情をしていた。笑っている人。呆然としている人。怒り心頭な感じの人。どういう事だ。
「みなさん御免なさい。二度としませんから。ゲンちゃんには帰り道に、ちゃんと説明します。じゃあゲンちゃん、そろそろ御暇しましょう?」
 森川さんがみんなに頭を下げて言った。うーむ。
  
「誕生日に、ドクドク事典が欲しいわ。私の誕生日、覚えてる?」
 帰り道に相磯さんが僕に訊いた。
「五月二十日だね」
 僕は答えた。相磯さんがにっこりとする。データ君のおかげだ。
「ドクドク事典、高いわよ」
「いくら位?」
「八千円くらいかな」
 相磯さんが小さな声で言った。
「本当に高いなあ」
 僕は言った。必要な教材なら、森川さんが自分で買うだろうに。彼女の家はお金持ちなんだから。
「僕が買うっていう所に、意味があるんだね。ドクドク事典」
 僕は笑って言う。
「ゴメンなさい、いつもあなたを試すような事をして。心苦しいけど、でもそれが私たちのやり方でしょう? いいわよねゲンちゃん。大丈夫よね?」
 森川さんが苦しそうにしている。僕はどれだけ、彼女に負担をかけているんだろう。
「森川さん、深呼吸して。考えすぎると不安が広がるらしい。僕にはそれが出来ないので、不安なんてほとんど無い。君が思い悩む必要も無いんだ」
「ありがとう」
 森川さんが僕に身を寄せる。いい感じだ。
「でもね、僕は君の考えている姿が好きなんだ。悪いけど、不安な表情にも魅力を感じてる。僕の分まで考えているから、君は時々凄く不安になるんだ。これからも迷惑をかけるよ」
 僕は言った。
「ゲンちゃん……」
 森川さんが僕を眩しそうにみて、首を少し傾けた。僕がキスをしようとしたら、彼女が目をつむった。僕は彼女を驚かせない様に、そっと口をつけた。森川さんは真っ赤になったけど、優しい表情だった。ただのキスじゃないぞ、これは。間違いなく過去に無かった、記念碑的な出来事だ。分かる。断片的な記憶が、頭の中を縦横無尽に駆け巡る。僕はついにやった。

 手をつないで駅まで歩いた。これ以上は無い、とても幸せな気持ちだ。駅前。別れる段になって、森川さんがモジモジしている。
「どうしたの?」
 僕も興奮しているから、ぎこちなく訊いた。
「ゲンちゃん、将棋に負けて悔しくは無かったの?」
 すっかり忘れていた。
「悔しくは無いけど、とても不思議な感じがした。森川さんは強かったけど、負ける感じはしなかった。それがね、いつの間にか、吸い込まれるようにして負けたね」
 僕は言った。
「ゲンちゃん、ほら」
 森川さんがスカートのひだのポケットから、何か取り出してみせた。歩が二枚と、銀が一枚。将棋の駒だ。
「イカサマをしたのよ」
 恥ずかしそうにして森川さんが言う。
「えーと。これは、どういうこと?」
 戸惑ったまま、彼女に訊いた。
「これはゲンちゃんにしか通用しない方法なの。私が歩を取る時に、合わせて二枚取っちゃったりするのよ。上手にやれば、ゲンちゃんは絶対に気が付かない。アレ、ちょっと変だな? って顔はするのよ。その顔が私大好きなの。ゴメンなさい」
 森川さんが済まなそうにした。
「キスしたいけど」
 僕は言った。
「え? 何で?」
 後ずさりする森川さん。
「キスするよ」
 僕は森川さんに近づく。瞬時に怯えた表情になって、森川さんが身を翻した。自動改札を抜けて、向こう側からこちらを見ている。
―ゴメンなさい―
 森川さんが声を出さずに口を動かした。
「いや、僕こそ御免」
 困った笑顔で、森川さんが階段を駆け登って行った。強敵だなあ。

 二十一

 キスとは不思議なものだ。一度してしまえばいくらガードが堅い女の子も、その後はそんなに抵抗をしなくなる。デートをする度にキス。ちょっとしたきっかけでキス。そういうものだと僕は想像する。しかし森川さんは全然違う。超絶にガードが堅い。この前のキスはなんだったのか。あれはとても素晴らしい出来事だった。それだけに、男子としてはもどかしい。
 そこで僕は、例によって相磯さん達に相談することにした。僕はこの子たちと結構楽しくやっている。彼女たちは僕を番長と呼んで慕ってくれている。相談に乗ったり、乗ってもらったり。
「一度キスしたら、二回目以降は抵抗が無くなるんじゃないの? 女子でも」
 僕は彼女たちにダイレクトに訊いた。
「え、キス? 番長キスしたんですか?」
「したよ」
 僕は言った。なんか変な会話だな。
「もちろん森川さんとですよね。というか、今までキスしてなかったなんて。二人共大人っぽいのに。ちょっと意外でした」
 相磯さんが言った。
「そこが微妙なんだけど、お互いにファースト・キスでは無いかもしれないんだ。思い出せない。でもね、すごく素敵なキスをしたんだ、この前」
 僕は言った。女子一同が真っ赤になる。ああ、今のはかなり紳士ではなかった。
「す、素敵なキスってどういう感じですか?」
 検索の子が、ありったけの勇気を振り絞る感じで訊いた。僕は先日の行動と感情のディテールを、余すところ無く、みんなの前で表現してみせた。やりすぎた感じもある。
「番長って……さすが番長です」
 相磯さんが、タマシイの抜けた表情で言った。
「素敵ですね。私には無理だな……。パソコンが恋人だし」
 検索の女の子が元気なく言った。彼女の気持ち。地面にめり込むような落ち込みを僕は感じた。
「私は割りとすぐにキスしちゃいます。でも、男の子のキスってたいていが気持ちが悪いの。ベトベトしてて変な感じ。どさくさに紛れて色々触ってきたり。番長みたいに、雰囲気を大切にしてくれればいいのに」
 マリコさんが言った。相変わらずダイナミック。
「マリコさんは経験があるんだね」
 僕は言った。
「ハイ、番長。私、経験はそこそこにあります。でも、軽い女じゃないです。ちゃんと考えてます。男の人と、寝たことは無いし」
 そう言った瞬間に、相磯さんが取り乱した。近くにいたクラスメイトに、わざわざ訂正をして回った。相磯さんはキュートだ。
「ごめんね、リョウコちゃん」
 マリコさんがさすがに謝った。
「私達がビッチだって思われるでしょ! 気をつけてよね」
 相磯さんが額に汗して言った。仲間思い。
「そうすると、私はもう充分ビッチだね。ビッチ……」
 サワコさんが肩を落として言った。慌てて相磯さんがフォローに廻る。忙しいなあ。
 
「そうだ、データ君と相性がいいかもな、検索さん」
 僕は閃いて言った。
「検索さん?」
 検索の女の子が言った。
「御免、君の名はなんだっけ?」
「……」
 彼女が答えない。気にせず僕はデータ君に電話をした。
「あ、データ君? データ君って彼女いる?」
「いません」
「パソコンと、検索が好きな女の子に興味ある? 背が小さくて頭が良くて、男子とは付き合ったことが無い。だけどキスに興味がある。俺的にはかなり可愛いと思うよ。とにかく頭の回転が早いのが魅力かな。データ君に合ってると思う。どうかな?」
「デートの申し込みをします」
 データ君が即座に答えた。さすが。僕は検索の女の子のメアドを伝えた。数分して、彼女の携帯にメールと、添付データが送られて来た。
「あの、ばんちょう……」
 検索の女の子がマゴマゴしている。
「俺は彼のことをデータ君って呼んでる。信頼出来る男だよ。優秀で紳士なんだ。体格は小さめで、知的な顔つきをしてる。一度会ってみたらどうかな?」
 僕は言った。
「ハイ。有難うございます」
 検索の子が真っ赤になって頭を下げた。データ君がキス……。想像しづらい。まあいいか。
「番長! わたし、わたしは?」
 マリコさんが期待に満ちた顔で言った。
「ゴメンね、マリコさんの相手は今の所思いつかない。また今度ね」
 僕は言った。この子に合う男子はいるのだろうか。マリコさんは自分の机に突っ伏して力尽きた。でもこの子なら、他人が介入する必要は無いと思われる。もちろんいざとなれば、番長として力になりますけど。
「あの、番長。……私は? 私のお相手候補はいますか?」
 相磯さんが自分の前歯に爪をかけて、消え入りそうな声で言った。可愛いなあ。僕は相磯さんにだいぶ世話になっている。彼女が毎朝迎えに来てくれなかったら、僕は遅刻しまくりだったろう。
 相磯さんにはバスケ部の朝練があるので、午前七時に僕を迎えに来る。その生活に僕も慣れた。僕は相磯さんとチビッチの練習相手を、朝練で務めている。バスケ部は寛容なので、僕の存在をスルーしてくれている。二人の成長を見るのがとても楽しい。僕も体力を使うので、毎晩良く眠れるようになった。授業中にも寝ちゃうけど。
「バスケ部って暗黙の了解で、恋愛禁止じゃなかった?」
 僕は言った。
「そうです。私はバスケに青春を捧げてます。でも彼氏が欲しい。欲しいよぅ」
 相磯さんが暴れだした。ちっちゃい子がおもちゃを欲しがるように、本当にバタバタしている。サワコさんが相磯さんの両脇に手を入れて、上に持ち上げた。ジタバタと相磯さんの両手両足が空を切る。ほとばしるエネルギー。
 サワコさんが相磯さんを持ち上げたままに言う。
「リョウコちゃんなら、素敵な人が見つかるよ。焦らないで。絶対に大丈夫。周りの雰囲気に流されてはダメ。私、森川先輩にその事を強く言われてて、本当に納得できたの。リョウコちゃんは可愛いから、何の心配はないの」
 ワーオ。サワコさん凄い。森川さんのご教育が行き届いている。僕は感動した。
「そうかな」
 相磯さんの動きが一瞬で収まった。単純だなあ。サワコさんが相磯さんを持ち上げたまま続ける。
「リョウコちゃん。今はバスケに集中して。リョウコちゃんは輝いてるの。リョウコちゃんが頑張ってる姿を見るのが私は好き。本当にかっこよくて。私、試合を見るのがとても楽しみ」
 サワコさん、しゃべるようになったなあ。しかも説得力が有る。伊達に修羅場をくぐってない。
 相磯さんが下の方を見て、ジーっと考えている。
「サワコちゃんありがとう。でもね私……デートしたいぃ」
 相磯さんがまた暴れて少し泣いた。クラスの女子達が、驚いて慰めに走る程だった。我儘な小さな子をみんなであやしている。
 
「番長がデートしてあげればいいんじゃない?」
 知らない女子が言った。
「そうよね、番長だもん」
 またも知らない女子が言う。
「番長の彼女って、かなり寛容なんでしょう」
 また知らない女子。言いたい放題だ。しかし皆良く知っているな。
「じゃあデートしようか」
 僕は言った。
「でも、森川先輩が……」
 相磯さんが、ベタベタに泣いた顔で僕に言った。
「相磯さん、僕とデートしてくれますか?」
 僕は笑顔で訊いた。
「……ハイ」
 切ない笑顔で相磯さんが答えた。可愛いんだよ。

「という訳なんですが」
 僕は森川さんにすべてを伝えた。
「相磯さんって、あの小さな子よね。ゲンちゃんと同じマンションの。とてもお世話になってるし。うん、いいわよ」
 森川さんが余裕の笑顔で答えた。
「もしかして成り行きで、相磯さんにキスしてもいい?」
 僕は言った。言った後に、僕の頭が痺れた。
「いいわ」
 森川さんの表情がブレた。我ながら、なんという事を訊いたのだろう。僕は言い訳をしようとする。それを制するように、森川さんが言葉を発した。
「ゲンちゃんの性質上、これからも浮気みたいな事は起こると思うの。でもいいの。こうやって、ゲンちゃんが正直に言ってくれるから。大丈夫よ」
 森川さんが言った。また彼女を傷つけた。だけど僕は、僕のままでいるしかない。

 二十二

 相磯さんとデートする事になった。日曜日、遊園地に行ってから新宿で買い物をする予定だ。午前十時に駅前で待ち合わせ。マンションから一緒に行ってもいいのだが、相磯さんがデートっぽく待ち合わせをしたいと希望した。
 僕が駅に到着すると、もう相磯さんが先に着いていた。真っ白なレースのワンピースを着ている。いつもはお団子にしてる髪を後ろに垂らして、波打ち際の美少女になっていた。「波打ち際」という表現は、とっさに出てきたので自分でもよく分からない。だけどビックリするほど可愛い。彼女は本当に小柄だ。僕が一緒だと、保護者に見えてしまいそうだ。
「相磯さん、お待たせ」
「あ、先輩。お待ちしてました」
 相磯さんの笑顔が弾ける。可愛い。抱きしめたい。森川さん御免。
「なんというか見違えたよ。美少女だ。それしか表現方法が無いよ」
 僕は思ったまま言った。
「美少女? そんな事言われたの初めてです。嬉しい!」
 ピョンピョンと飛び跳ねて相磯さんが喜んだ。仕草がまるで子供だ。
「先輩、ちょっと手をつないで、駅前を一周してもらってもいいですか?」
 相磯さんが恥ずかしそうにして言った。
「うん」
 相磯さんの小さな手を、僕はそっと握る。相磯さんはこちらを見ないようにして、顔を赤くしている。こんなに小さな手と細い指で、バスケをしてるのだ。大変だな。
「あ。そこの古着屋さんに入ってもいいですか?」
 相磯さんが言った。
「いいけど、遊園地が先じゃないの?」
 僕は訊いた。
「ちょっとだけ。ね?」
 相磯さんがはにかんで言った。やっぱり可愛いぞ。
 
 古着屋に入ったら相磯さんが豹変した。
「ゲンちゃん、私可愛いスカートが欲しい。買ってくれるって昨日言ったよね」
 冷たい感じの、美少女キャラを演じていると思われる。予想以上に演技が上手だ。僕は店員の男性と顔を見合わせて、げっそりした表情をしてみせる。
「これはいかがですか。大胆な水玉ですけど、彼女さんにだったら合うと思います」
 店員さんが優秀だ。小さな店だし、この人は店長さんかもしれない。
「わたし水玉は嫌いなの。ゲンちゃん、ちゃんと探してよ」
 不機嫌そうに相磯さんが言う。僕は心底困ったような表情をする。店員さんが同情の眼差しを僕にくれる。スミマセン。
「彼女さんの好みとか、分かりますか? 華奢で綺麗な方ですから、足を見せてもいいと思います。スカートじゃなくて、ショートパンツを勧めてみるのはどうでしょう。これは賭けですけど」
 店員さんが僕を勇気づけるように言った。彼が益々真剣なので非情に申し訳ない。僕と店員さんで厳選して、ショートパンツをいくつか選んだ。そして、相磯さんの目の前に並べた。相磯さんはいつの間にか、お店の人にお茶まで出してもらっている。まるでお嬢様気取りだ。さあ、ショートパンツを選んでくれ。
「なによこれ。私、スカートが欲しいって言ったのに」
 物凄く不機嫌な顔。僕は相磯さんの演技力にまた感心をする。
「リョウコは色が白くて足が細いだろ。ショートパンツにしたら、強調されていい感じになるって。それに合った靴も買おうよ。そうしたら完璧だよ」
 僕は全力を尽くす。店員の男性も、僕の発言に感銘を受けてくださったようだ。ちょっと楽しい。
「え? 靴も買ってくれるの? ゲンちゃん有難う。じゃあ私、これと……このパンツにする! 二つ買ってもらってもいい?」
 上機嫌な相磯さん。もはや、どこまでが演技なのか分からない。
「リョウコが気に入ったなら、両方買ったほうがいいよ。店員さんに、お礼を言うのを忘れないでね」
 僕は言った。
「えっと。有難うございました。また来るね」
「こちらこそ有難う御座います。ご来店をお待ちしております」
 店員さんが爽やかに言った。 相磯さんは最後まで役を演じ通した。
 帰り際、店員さんに僕は囁かれた。
「本当に可愛い彼女さんですね」
 僕は言葉を発さずに、大きく頷いた。

 ショートパンツが入っている袋を抱えて、相磯さんがハァハァ言っている。僕もちょっと疲れた。
「すみません先輩。私デートの時に、ああいうことがやってみたかったんです」
 苦しそうにして相磯さんが言った。
「それはよく分かったよ。しかも相磯さんは上手だった。ただ、お互い頑張り過ぎたね」
「人を騙すのはダメです。前半はとても楽しかったけど、後半はプレッシャーがキツくて」
「でも、俺らはやり通した。頑張った」
「一旦嘘をついたら、途中で止めるのが難しいですね。本当に気をつけよう……。本当に」
 相磯さんの深刻な表情が笑える。
「あ、これはパンツのお金です。本当にすみませんでした」
 パンツ二枚で3980円。相磯さんがお財布から出したのは、ピン札の「二千円札二枚」だった。スゲー。僕は爆笑した。やっぱりこの子は変だ。僕は相磯さんの手首を握って、二千円札を一枚返した。
「これは主演女優賞」
 僕は今、とても楽しい気持ちになっている。
「ええ? あの、でも!」
「そろそろ、遊園地に行こうよ」
「あ、すみません。有難うございます。えーと、今十一時半ですね。ちょっと遅れちゃいました。先輩、駅前に急ぎましょう」
 僕は頷いた。しかし「遅れちゃいました」とは、これいかに。

 駅前に着いたら検索さんとデータ君がいた。二人共、服装がデート仕様だ。うーむ。
「あの……先輩スミマセン。せっかくのデートなんですけど、私ビビっちゃって。ダブルデートと言う事で、お願いできないでしょうか」
 僕の顔を見上げて、相磯さんが恥ずかしそうにして言った。
「うん、相磯さんがそうしたいなら、全然それでいいよ。むしろ楽しそうだ。データ君久しぶり」
 僕は言った。
「ゲンちゃん、僕は昨日お会いしてます」
 データ君が笑って言った。そうだったか。申し訳ないなあ。
「検索さんもそれでいいの? 二人は、初デートじゃないの?」
「初デートです。というか私、人生の初デートです。ダブルデートで有難いです。よろしくお願いします」
 消え入りそうな声で検索さんが言った。うん、こちらも可愛らしい。さすがの彼女も、今日はパソコンを持っていない。当たり前か。

 みんなで電車に乗った。検索さんは相当に緊張している。相磯さんにピッタリとくっついている。データ君は礼儀正しく、ちょっと距離をとって笑顔で立っている。紳士だ。しかもこうやってみると、彼はけっこうイケメンだな。服装も素敵だし。
 相磯さんが検索さんから逃れるようにして、僕の側にやって来た。
「志野ちゃんをちょっと説得しました。データ君とちゃんとお話をするように」
 相磯さんが苦笑して言った。
「あ、シノちゃんって、検索さんの名前か。俺は何度聞いても忘れるな。いつもパソコン持ってるから、検索さんとしか思えないんだ」
「先輩はそれでいいですよ。先輩らしいです」
 相磯さんが笑って言った。
「それにしても相磯さん可愛いなあ。白いワンピースが最高に似合ってる。なんか、学校の時と印象が全然違う」
 僕が言ったら、相磯さんが顔を赤くした。そして、ちょっと怒った顔になった。
「先輩ダメですよ。先輩には森川さんがいるのに。今日は、私のワガママに付き合って頂いて、言える立場じゃないですけど。でも言っちゃいます。私、デートできるのは嬉しかったけど、だんだん罪悪感が出てきたんです。そういう意味でも、ダブルデートにしたいと思ったんです」
「そうか……そうだよね」
 僕は言った。
「偉そうな事言ってすみません。私、先輩の事が好きです。それと、特別な人だってことも分かってます。例えばここで、私がキスしてくださいってお願いしたら先輩、しちゃうんじゃないですか?」
「お!」
 凄いな。
「『お』じゃないですよ! もう危ないなあ。でも良かった。早目にコレが言えて。今日は普通に楽しみましょうね?」
 相磯さんがニッコリ笑った。
「うん」
 僕は清々しい気持ちになった。相磯さんも特別な人だよ。

 遊園地では楽しく遊んだ。予想以上に楽しく遊べた。データ君は検索さんに対して極めて丁寧に接し、あっと言う間にお友達レベルに達した。
 二人は極度の電脳系であるので、期待に応えてくれた形だ。僕や相磯さんが聞いたことのないような単語で、コンピュータの話やSFや、果ては哲学的な話までしている。急接近したとはいえ、二人とも知的なので、ベタベタした感じは生まれない。そんな二人を見ていると、改めて相性が抜群な事が分かる。相磯さんがその雰囲気を感じ取って、相当ご機嫌がよろしくなった。
 ジェットコースターに乗る時に、データ君が事故率の話をしてみんなをビビらせた。僕と相磯さんは普通に恐ろしくなったが、検索さんは喜んで話を聞き、つっこんだ質問までしていた。お化け屋敷では、二人がオカルト的な話で盛り上がり、絶叫も悲鳴も無かった。暗闇そっちのけで、時には二人が喧嘩腰で話をしている。僕と相磯さんは後ろで笑いながら、お化け屋敷を通り抜けた。

「そういえば昼飯を食べてないぞ。スゲー腹が減った」
 と僕は言った。時計をみたらもう午後四時だ。
「楽しくて、すっかり忘れてましたね」
 相磯さんが嬉しそうにして言った。
「まあ、夕飯まで食べなくていいんじゃないですか?」
 データ君が言う。
「わたしも大丈夫です」
 検索さんの声が明るいトーンだ。凄い進化。
「私もお腹減ってないです」
 相磯さんが言った。
「食べないと、カラダが成長しないよ」
 僕は相磯さんを全体的に見ていった。すごい失礼だ。それと、データ君と検索さんもかなり小型だ。失礼だな。しかし誰も怒らなかった。冗談と受け止めて下さったようで、笑いも取れた。申し訳ない。
「じゃあ新宿へ行って、次はお買い物か。それが終わったらバッチリ食べたいね」
 僕はそう言ったが、正直、物凄い腹が減っている。しかし他の人の手前、自分だけ食べるわけにも行かない。
「あ、私おにぎり持ってるんだった! 先輩は学校でも早弁してるから、デート中でもお腹が空くかなって思って、作ってきたんです。でも、ちょっと危ないかな。時間が経ってしまっているし……」
 いや、相磯さんナイスです。素晴らしい。僕はおにぎりを貰って貪り食った。メチャクチャ美味い。これで腹をこわしても後悔は無い。
「この気遣い。相磯さんは素敵な彼女だ」
 僕が言ったら、相磯さんが困った顔をした。
「いや違う違う。例えばね、ほら。今回のデータ君みたいに、相磯さんにも、誰かを紹介したいなって思ったんだ」
 僕は慌てて言った。みんなが笑う。
「それは本当にお願いします。先輩って実は、優秀な仲人さんなのかも」
 相磯さんが和やかに言って、僕はほっとした。しかし、本当に素敵な彼氏を充てがいたいなあ。そうだ、今度森川さんに相談してみよう。それって、形としてとてもいいんじゃないか。この発案は忘れたくないので、僕は携帯のメモ帳にメモをした。普段はこんなこと、面倒くさいから絶対にしないのだが。メモした事自体も忘れるし。
 
 電車で新宿に向かう。なんと、データ君と検索さんは、別行動で秋葉原に行くことになった。ダブルデート解散で本格デート開始。電脳系の二人が上手く行く可能性は高いと思っていたが、ここまでとは。お別れする時に、データ君と検索さんが、僕と相磯さんに丁寧にお礼を言った。まるでもう、新婚夫婦のようだ。
「私今、すごく幸せな気持ちです」
 相磯さんが笑顔で言った。僕は相磯さんの手を握った。相磯さんの顔がイーッとなる。
「いやいや。凄い混雑だから。あと、街に出たら相磯さんを見失いそうな気がするんだよ。小さいから」
 僕は言った。
「酷い! でも、本当。混雑してますね。じゃあちょっとだけ」
 そう言って、相磯さんが握られた手をそのままにしてくれた。これぐらいの役得があってもいいだろう、さすがに。デートなんだし。
 
 実は僕も相磯さんも、混雑がかなり苦手なのだった。新宿での買い物はちょっとだけにして、さっそく夕飯を食べることにした。
「ガツ盛りラーメンとか、行っちゃいますか! 私驕りますから」
 相磯さんが言った。その、白いワンピースで行くつもりか。
「俺が奢るよ。というか、相磯さん食べられるの? 小ラーメンでも量が多いよ。ガツ盛り系は」
「私小さいけど、かなり食べるんですよ。栄養がカラダに反映されてないだけなんです」
 ムスっとして相磯さんが言った。なんか、やっぱり小さいとか言われると気に触るんだな。ヤバいなあ。
 止めときゃいいのに相磯さんは、普通盛りの野菜マシマシを頼んだ。無理に決まってる。僕は大盛りにしようと思っていたのだが、相磯さんが残すこと見越して、シンプルな普通盛りにしておいた。
 そしたら、相磯さんが簡単にマシマシを平らげた。苦しそうな様子も無い。強面の店員さんも、表情には出さなかったが明らかに驚いていた。あっと言う間に食事を終え、店を出る。
「ね、大丈夫だったでしょう? あ、奢ってもらって有難うございました。これもデートっぽくって嬉しいです」
 相磯さんが笑った。
「なんでこれで、背が伸びないだろうね」
 ここでコレを言う俺だ。
「部活で体力を消費しちゃうからかなあ。でも食べて運動して、よく眠って。伸びたっていいのに」
 相磯さんが怒るもの忘れて、悲しそうな顔をする。
「身長以外にも、成長してないよね」
 ここでコレを言う俺だ。相磯さんにみぞおちに鋭いパンチを貰った。細い腕が腹に食い込んで、ラーメンが胃から飛び出しそうになった。でも、これでいいような気がした。相磯さんも清々しい顔をしている。

 デート明けの月曜日、学校にて。
「キスしなかったよ。そんな雰囲気はちっとも無かった。森川さん、本当にゴメンね」
 これを真っ先に言おうと決めていた。
「うん。有難う」
 森川さんが微笑んで言った。優しいなあ。
「相磯さんっていい子なんだよ。彼氏を紹介する約束をしちゃったんだけど。それで、森川さんに相談しようと思ったんだ」
 僕は言った。
「なによそれ、なんで私に……。でも正直に言うと嬉しいわ。ゲンちゃんは私のモノね? 今のこの瞬間は、確実に」
 森川さんが言った。グッと来た。
「端的に言うと、チビッチを女の子らしくした感じだ、相磯さんは。森川さんはチビッチの事はよく知ってるよね? チビッチは、男子に全く興味が無いけど」
「ゲンちゃんが言ってる意味は分かるけど、チビッチちゃんに悪いわよ、その言い方は」
 森川さんが涙を流して笑った。チビッチはネタにしやすい存在だ。有難う、そして色々と済まない、チビッチ。
「デートでキスをしなかったのは、相磯さんのおかげなのかしら?」
 森川さんが言った。女子は恐ろしいな。
「そうでした」
 僕は言った。
「それじゃあ私も、一肌脱がないとね」
 森川さんが少し考えるようにする。
「どうかしら、私の親戚の男性で、大学生よ。ゲンちゃんと同じぐらいの身長で、横幅もあるの。とても優しくて温かい人。奥手だから、女の子と付き合ったことは無いと思う。パッと見はゴリラみたいだけど、可愛い顔をしてる。ポイントはね、大学のトップリーグでバスケをやってるの。センターで、ジュニアの日本代表に選ばれた事もある。彼を相磯さんに引きあわせたら、どうなると思う?」
 森川さんの目がキラリと光った。
「ゴリラとか原始人が好きだよ、彼女は。朴念仁にツッコミを入れるのが大好きだし。そしてゴリラは、小さくて可愛いモノを必死で守るだろう。これは行ける」
 僕は言った。森川さんの眼差しが優しい。
「さすがゲンちゃん。皮肉な私が、正直になってしまうわけよ。あなたには、何がどこまで見えているのかしらね」
 森川さんが僕の肩に頬を寄せて言った。僕は彼女の頭に手を置いて、少しだけ抱き寄せる。綺麗な黒髪、良い香り。本当に素敵だ。

 二十三

―五月も半ばになりました。五月二十日は森川さんの誕生日です―
 データくんからメールが来た。そうだった。
―ドクドク事典ってなんだろう? 森川さんが欲しいと言っていた―
 と僕はデータ君にメールを返した。ドクドクという言葉が印象に残っていた。
―恐らくそれは、独独事典の事です。森川さんがドイツ語の勉強に使うのでしょう。ただ、独和事典の方が勉強には適しているらしいです。それなのに独独事典です。リストを添付しますので、そこから選ばれると良いと思います―
 データ君はどこまで知ってるんだよ。しかも、僕にヒントを与えている。つまりこうだ。森川さんはドイツ語を勉強している。だから、既に独和事典を持っている。それなのにあえて、僕に独独事典が欲しいと言った。そこに何らかの意味があるのだ。ややこしいけど大切だぞ、ここは。
 忘れない内にデータ君に貰ったリストから、独独事典を選んだ。ネット通販で、八千四百円もした。高いなあ。しかし評判が良いモノだったので、これだろうと思った。
 五月二十日当日に、森川さんのお誕生日会がある。茶道部の部員の方や、女性のお友達が彼女の家に集まって、パーティが開かれるらしい。さすがお金持ち。彼氏の僕も当然呼ばれていて、もちろん行くのだが、その時には花を買っていくつもりだ。独独事典のイベントは、事前にこなした方がいい。直感でそう思った。直感しかないんだ、僕には。

 今日は五月の十七日。いつものように屋上で昼飯を食べている。二人で。森川さんの豪華なお弁当。サンドイッチがメイン。肉汁が染み出ているローストビーフと、レタスのサンド。粒マスタードがベッタリと塗られたソーセージのサンド。僕は肉が好きだから堪らない。森川さんは自分用に、イチゴのクリームサンドも作って来ていて、美味しそうに食べている。パイナップルサンドもある。僕はそれも食べたい。ふと見たら自分の手のひらに「ドクドク」と黒い油性ペンで書いてあった。忘れるところだった。
「ちょっと待っててね」
 そう言って僕は、自分の教室のロッカーへ向かう。独独事典を用意してある。ロッカーからそれを取り出して、屋上へ急いで戻った。
 ちょっと遠くから森川さんの姿を見る。彼女は食べるのを止めて、遠い空のほうをぼんやりと眺めている。今日は日差しが強い。風はそんなに無くてほんのりと温かい。彼女が僕に気がついて、小さく手を振った。ぐーっと胸が締め付けられる。思い出さなければいけない。
「これね、誕生日プレゼント。誕生日おめでとう」
 僕はむき出しの独独事典を森川さんに手渡した。彼女が嬉しそうにして、事典を受け取る。ページをパラパラとめくってから、本を胸の内に抱きしめるようにした。
「まさにこれよ。この事典が欲しかったの。本当に有難う。とても嬉しいわ」
 森川さんが笑顔で言った。
「留学をするから、英語とドイツ語を勉強してるんだよね。医学を専攻する為に」
 僕は言った。
「そうよ」
 森川さんが言った。
「留学をする。しかも医学だと、勉強に長い時間が掛かる」
 僕は言った。森川さんが真顔になった。
 僕は思い出した。
「二人が離れたら、僕は君を忘れる。だけど君は、僕の為に留学を決めた。留学をして欲しくないと、僕は言ったんだ。それで去年喧嘩をして、春休みに会えなくなった。それで僕は、またたくさんを忘れた。たった二ヶ月でこれだけ忘れたんだ。留学には最低何年掛かるんだっけ」
 僕は訊いた。
「私の能力だと、早くても八年ぐらい。でもそのあと、すぐに日本に帰ってこれるかどうかもわからないの」
「じゃあ俺も一緒に行こう。森川さんと一緒にいたい」
「そしたらあなたは、たくさんのモノを失うわ。家族とか、お友達。落ち着いた生活。あなたにはそれが必要よ。この話はね、前にもしたの。ゲンちゃんは、私を留学させたくないのよ」
 森川さんが諦めた顔で涙をこぼした。だけど僕に迷いは無い。
「僕も留学するよ。楽しそうだし」
「だってゲンちゃん。去年は強硬に反対したじゃない。もっと考えて。思い出して!」
「俺、考えないよ。もう決定だ。つまり……去年から今まで、俺は考えてたって事になるね。変則的でゴメン。だけど、森川さんもそろそろ慣れて欲しいな、俺のやり方に」
 僕は笑って言った。
「本当にいいの?」
「この決定は、忘れません。俺って流れで生きてるから」
「そうね、そうだったわ。もうゲンちゃんって酷い。結局、私が馬鹿だったという事になるじゃない。ゲンちゃんに全部責任があるのよ。変則的すぎるのよ。だから好きなんだけど。大好きよ」
 じゃあキスをしよう。森川さんがボロボロ涙をこぼして、でも近寄っては来ない。座ったまま自分のスカートを掴んで、じっと僕の顔を見詰めている。こちらからも近寄れない感じ。相変わらずガードが固いなあ。まあいいや、これからはずっと一緒なんだ。

 今日は森川さんのお誕生日会だ。お金持ちイベントだが、僕が思っていたのと少し趣向が違った。森川さんの人選が独特だ。
 なんと、料理部の面々が呼ばれている。原色系スーツで固めた不良達がゾロっと並ぶ。森川さんは料理部部長のマキコと仲がいいらしい。ちょっと意外だが、お互いそのカリスマ性から言って、納得できる部分がある。というわけで、料理部と茶道部は交流があるらしい。料理部は不良。茶道部はお嬢さん方。危険な組み合わせだが、そこは部長の二人がしっかりしている。
 マキコはパンクな服装で、だけどフォーマルともいえる格好をしていた。センスを感じさせる。
「綺麗だね。カッコいいし、マキコはいい女だよなあ」
 僕は率直に言った。
「ゲンちゃんが番長って言われるわけよね。他の女を口説きながら、自分の彼女をトリコにしてるんだもの。こういう男が居るって事が、世の中を乱してるんだ」
 マキコがやたら複雑な事を言った。
「難しい事を言われても、俺にはよく分からないよ」
 僕は言った。
「それよそれ。『俺には分からない』っていうのがズルい。それは嘘じゃないし。森川さんも苦労するね。まあ、しょうがないか」
 マキコがため息をついた。
「俺が、女子にモテてるって事?」
 僕は喜んで訊いた。
「調子に乗るな!」
 マキコに腹をパンチされた。凄い痛い。しかもそれを見て、料理部の面々が詰め寄って来た。
「今日は極めて大人しくして」
 マキコが優しく、凄みを利かせて言った。部員たちはサァっと周辺に散らばっていった。さすが。
 
 チビッチとか龍之介。ダイスケや林さん。僕の見知った顔が並んでいる。お世話になっているからなあ。森川さんは、僕の友達も積極的に呼んでくれている。
 というわけで僕の同級生、相磯さんと女子三人組も呼ばれていた。みんなとても楽しそうにしている。僕の周囲に集まって、和やかな雰囲気を作ってくれている。楽しい。あ、データ君も僕の横にいる。
 茶道部の人達もいるから、総勢三十名以上。これだけの人数を賄うのに、どれだけの費用がかかっているんだろう。ピアノを弾いている人や、給仕の人もいるし。
「がっかりさせるかもしれないけれど」
 森川さんが苦笑して言う。
「私の家、別にお金持ちじゃないわよ。父がケータリングの会社を経営してるから、パーティは身内価格で出来るの。それだけの事よ」
 と彼女が言ったものの、十分にお金持ちだと思う。普通の人と感覚がズレている。だけど僕こそ、大幅にズレてるからなあ。
 午後七時を過ぎて、宴もたけなわ。しかし僕らは高校生だから、そろそろ帰宅しなければならない。特に女子は遅く帰るわけには行かないだろう。森川さんがみんなにお礼の言葉を述べて、そのまま解散になるかと思った。そうしたら、どこからともなく「スピーチ、スピーチ」という声が始まって、どんどんと大きくなっていった。何事かと思ったけれど、どうやら僕に向けられているらしい。お誕生会の締めは彼氏がやれ、という事だろう。うーむ。僕が森川さんを見たら、少し期待しているような表情をしていた。じゃあ、やりますか。なんの準備も無い。それが俺だ。
「ハイハイ、みんな静かに。ちゃんとスピーチするよ……。うん、じゃあ今日は結構ぶっちゃけようかな」
 僕は話し始める。思ったままに話すだけ。
「今日はみんな、僕の大切な彼女の為に、お祝いに集まってくれて有難う御座います。そしてなにより、僕は森川さんにお礼を言いたい。今日集まってくれたみんなは、僕が普段お世話になっている人ばかりだ。名目はお誕生会だけれど、みんなの慰労会という意味があったのだと思う。そうだよね? 森川さん」
 僕は森川さんに微笑みかける。森川さんが困ったような顔をしている。
「ゲンちゃんの為のパーティじゃないから!」
 マキコがツッコミを入れて、みんながドッと笑った。有難い。
「いや、俺さあ、毎日が楽しいよ。記憶は定かじゃないけど、充実感が出てきた。学校へ行くのが楽しみなんだ。本当にみんなのおかげだ。その中心にいるのが森川さんで、かなり大変なハズなんだ。そして彼女は、とても輝いている。俺はもう、彼女にベタ惚れだね。お誕生日おめでとう、森川さん。これからも一緒に、楽しい時間を過ごそうね」
 僕は森川さんを見詰めて言った。森川さんが感極まった感じで、目を潤ませている。結構恥ずかしいセリフだったと思うが、誰も茶々を入れない。女子は貰い泣きをしている子もいる。一方、一部の男子は、げっそりとした表情をしている。僕は笑った。
 データ君の微笑みが印象的だった。やはり彼は、僕らの大切な架け橋だ。

 六月も半ばを過ぎて、ますます生活が充実している。朝は相磯さんが迎えに来てくれる。バスケ部の朝練で清々しく汗を流す。クラスや部活動で、僕は番長として一目置かれている。昼ごはんは森川さん謹製のお弁当を頂いて、楽しく会話を交す。コレ以上のことは無い。
 森川さんと駅まで歩く帰り道。毎日がデートだ。この時間が一番好きだ。夕焼け空、薄暗い空の下を歩いていると、自然と親密な空気が生まれてくる。この雰囲気をとても気に入っている。
「ゲンちゃん」
 森川さんが、何やら改まった感じで言った。
「ハイ」
「私は医学部を志望しているけど、ゲンちゃんの治療をしたいとか、そういう訳ではないのよ。現にゲンちゃんは今、お医者様に掛かっているわけでもないし。そんな必要は無いと思うし」
「うん」
「私はただゲンちゃんと、より深くコミュニケーションが取りたいと思っているだけなの。その為に医学を学ぼうと思ってる。だけどそれは、一つのキッカケに過ぎないの。医学自体に興味があるから、勉強をするの。留学の事もあるし、私の医学部志望が、ゲンちゃんの負担になったら嫌だわ」
 森川さんがこちらをじっと見て言った。
「考え過ぎだって。俺が君を負担に思うなんて、元々そんな脳の構造をしてないから。それは、森川さんが一番良く知っているじゃない。でもゴメンね」
 僕は言った。抑えようと思ったけど、笑い顔になってしまった。
「そうよ、私って硬すぎるわよね。ゲンちゃんの彼女として、ちょっと情けないわ」
 森川さんがはにかむ。この控えめな感じが、僕は大好きだ。
「二人共記憶が飛んでたら、幸せにはなれないよ。君のその硬さがあるから、上手くいってると思う。僕らはさ、バランスが最高にいいんだ。何も気に病むことはないよ」
 僕は言った。
「嬉しい。ゲンちゃんの言葉にはいつも励まされてる。お誕生会の時にゲンちゃんが言ってくれたけど、私もあなたにべた惚れよ。勉強も、ますます頑張ろうって思えるの。どうも有難う」
 森川さんが眩しい笑顔で言った。
「まあでも、男子としてはもう少し、彼女に柔らかくなって欲しいと思うかな。無理はしないでいいけど、少しずつ」
 僕は笑った。
「そうね。少しずつ」
 森川さんも笑った。それで僕がキスをしようとしたら、森川さんは苦しそうにして、それでも受け入れようとしてくれた。
「硬いよ」
 僕は言った。
「硬いのよ」
 森川さんが苦笑をした。それで僕は彼女のほっぺたに一瞬キスして、森川さんは真っ赤になった。これが今の限界だなあ。

 二十四

 家で僕は朝食を食べている。今日は母と父が食卓にいて、久しぶりに家族団らんの時間を過ごしている。
「ゲンちゃん、学校はどう? 楽しく過ごせてる?」
 母が僕に訊いた。
「うん、楽しいよ。いつの間にか友達がたくさん出来て、助けてもらってる」
 僕は母の作ってくれたオムライスを頬張る。とても美味しい。これも、僕の好物だったな。
「良かった。お父さんもお母さんも、仕事が忙しくてゴメンね。でもゲンちゃんは、大丈夫だって私は思ってるの。社会人の立場から言っても、たぶんあなた、ちゃんと生きていけると思うわ」
 母が少し強気に、でも心配そうに言った。
「森川さんとは上手く行ってる?」
 父が笑って僕に訊いた。
「うん、とても。彼女に一番助けられてる。でも、僕も彼女に少しは与える事が出来ていると思う。偉そうな言い方だけど」
 僕は機嫌良く言った。両親とこんなに話をしたのは、久しぶりのような気がする。
「確かに偉そうだ。お前も言うようになったな」
 父が満足そうに言った。両親との交流に関して、僕はあまり思い出せない。僕の性質上、親に相当苦労をかけているに違いない。まあでも、二人が今、笑顔だからいいと思う。
「あ、そうだ。高校を卒業したら、僕は森川さんと一緒に留学したいんだけど。たぶんアメリカかイギリス。スイスかドイツの可能性もあるんだ。突拍子もない話だけど、父さんどう思う? お金を出して貰えますか。ダメだったらまた考えるけど」
 僕は言った。
「その話はもう結論が出てるよ。お前に寂しい思いをさせた分、ウチはダブルインカムだからね。金の事は気にしなくていい。森川さんと、彼女のご両親ともちゃんと話してあるから。楽しんでこいよ。だけど源一郎、高校は卒業できるんだろうな? 留年してるわけだし、森川さんに遅れを取ることになるぞ」
 父が言った。そうか、ちゃんと話は進んでいるんだな。有難い。
「それはまた、その時に考えるよ。先のことを考えても、僕はどうせ忘れてしまうし」
 僕が言ったら、両親が大笑いした。僕も笑う。
「ゲンちゃん。自分の専攻は考えているの? 留学して、森川さんは医学部志望なんでしょう。あなたも少しは考えてる?」
 母が言った。
「うん。僕の大切な友達で、データ君って人がいるんだけど。彼がいつも言ってくれるんだけど、僕の言葉には力があるってさ。それは、僕の性質に寄る所が大きいと思う。それでね、僕は取り敢えず語学の勉強をしたいと思ってます。英語はもちろんだし、他の言葉も、できるだけ。そして、たくさんの人とコミュニケーションを取れるようにしたい。結局僕は、周りの人と交流してナンボって所があるから」
 僕は言った。事前に考えていたわけじゃない。母親に訊かれた瞬間に、次々と言葉が浮かび上がった。
「でも、国語も英語も赤点だったじゃないか」
 父が笑って言った。
「うん。テストは本当に苦手なんだ。父さんは仕事で英語を使ってるんでしょう。ちょっと話してみない?」
 僕は言った。それで僕と父は英語で会話をし始めた。スラスラと単語が出てくる。父が興奮して、経済問題をテーマにして話し始めた。僕は普通に答えられた。
「驚いた。これなら大丈夫だな。もしかしたら俺より英語は上だ。源一郎にはいつも驚かされる」
「ゲンちゃんは頭がいいもの。ずいぶん変則的だけど」
 母が言った。親バカだ。だけどこの両親あっての、今の僕だろう。それはよく分かる。つくづく恵まれている。

 二十五

 早朝。ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けたら相磯さんだった。何故か制服ではなくて、ジャージ姿だ。これから朝練だろうから、不思議は無いけどいつもと雰囲気が違う。
「ジャージだね」
 僕は見たままに言った。
「やっぱり……。先輩、今日から夏休みなんですけど」
 相磯さんがそう言って苦笑いをした。
「あ! そうか。昨日終業式だったね。疑いもなく、いつも通り学校へ行くつもりになってたよ」
 僕は言った。つくづく馬鹿だなあ。
「でも先輩、朝練はいつも通りですから。良かったら行きましょうよ。なんなら全体練習にも参加してみませんか。みんな歓迎しますよ」
 相磯さんが言った。全体練習に参加するのは面倒臭い。だけど朝練は楽しいから、そのまま相磯さんと学校へ向かうことにした。

 バスケ部の朝練が終わって、僕は手持ち無沙汰になった。取り敢えず写真部へ行ってみよう。部室のドアを開けたら、いつも通りダイスケと林さんが居た。しかもオカマの増渕先生までいる。
「ゲンちゃん、ちゃんと来たわね。相磯さんに連絡を貰ってたから、体育館にお迎えに行こうかとも思ってたんだけど。自発的に来てくれて嬉しいわ」
 増渕先生が言った。相磯さんが連絡……。
「まあ源一郎、座れよ。まったり過ごそうぜ」
 ダイスケが言った。林さんが美味しいコーヒーをいれてくれた。本当にまったりとしてきた。
「ゲンちゃん、なるべく写真部に顔を出してね。夏休みも毎日活動をする予定だから。あとね、写真合宿もする予定なの。ゲンちゃんも行くのよ?」
 いつも極めて大人しい林さんが、結構強い語調で僕に言った。
「うん。じゃあ楽しみにしてるよ。俺も少しは写真を撮ってみようかな。ダイスケ、カメラ貸してくれ」
 僕は言った。ダイスケが笑って頷く。増渕先生が目を輝かせている。
「私も合宿に参加するわね。顧問なんだから。みんなで私の水着姿を撮影するのはどうかしら。この前、素敵なビキニを買ったの」
 ダイスケと林さんがげっそりとする。
「いいじゃん。俺、増渕先生は綺麗だと思うよ。性別は関係ないよ。美しいものは美しい。みんなもっと受け入れないとダメだよ」
 僕は言った。増渕先生が大きく息を吐いた。
「生徒じゃなかったら私、ゲンちゃんに手を出してると思うわ。でも安心して。先生はこう見えて、規律を大事にしているから。そうじゃなかったら、オカマの先生なんて許される訳がないのよ。校長先生と、週に一回は飲み明かしてるんだから。根回しもバッチリ」
 増渕先生が、言い訳するようにして言った。ダイスケと林さんがホッとした顔を見せる。僕はまた笑った。素敵な先生だなあ。
 昼ごはんはなんと、料理部の面々に呼ばれてカレーを食べた。写真部と茶道部の人達も一緒。森川さんとマキコがいる。カレーは大鍋で作るほどに美味しくなる。和気あいあいとしながら食事をした。本当に美味しかった。不良が作ったカレーというのが、スパイスが効いていると思った。
 
 お昼すぎ。食べ過ぎて少し眠い。写真部で、僕は少し居眠りをした。ふと目が覚めて、なぜか森川さんが側にいる。林さんと何か、楽しそうに会話をしている。
「森川さん、茶道部は?」
 僕は眠気眼で訊いた。
「午前中で活動は終わりなの。夏休みはずっとそういう予定。午後は写真部で、ゲンちゃんと一緒にいたいから。ここで勉強をしようと思っています。ダイスケ君にはちゃんと許可を貰いました」
 森川さんが思い切った感じで言った。
「だけど俺らがずっと居たら、ダイスケと林さんの時間が削がれてしまうよ」
 僕は言った。
「お前な……」
 ダイスケが何か言いかけた時に、部室のドアをノックする音がした。現れたのは龍之介だ。あと、何故かサワコさんも一緒に来た。
「源一郎、一局対戦してくれるか」
 龍之介が言った。
「いいよ。そういえば、関東大会はどうだったの?」
 僕は訊いた。
「まぐれで準優勝した。だから次は、夏休みの終わり頃に全国大会」
「マジで? スゲーな。おめでとう。でも、俺と対戦しても大丈夫なの? 調子狂うだろ」
 僕は戸惑って訊いた。
「関東大会で準優勝できたのは、たぶんお前の存在が大きい。レベルが高くなると将棋も、抽象的な要素が大きくなって来るんだ。精神力もね。源一郎と対戦することは、プラスだと思うことにしたよ、俺は」
 マジメな顔で龍之介が言った。うーむ。よく分からないが良かった。そして僕らは対戦を始めた。
「なんでサワコさんと一緒に来たんだ?」
 相変わらず適当に僕は駒を進める。
「俺達、付き合ってるんだ。森川さんの誕生パーティで、結構会話をして。俺が告白した形だ」
 龍之介がなんでもない感じで言った。クールだなあ。
「マジかよ! だけど、サワコさんのどこが気に入ったの」
 割りと失礼な事を僕は言ってしまった。サワコさんは森川さんと、なにやら楽しそうに会話をしている。僕の発言は聞こえなかったかな。
「彼女は凄まじくエロい。色々と凄い。そして正直」
 龍之介が淡々として言った。コイツ……、だけど龍之介はこういうキャラクターだったような気もする。
「まあ、お似合いかな」
 僕は取り敢えず言った。そして盤面の駒をズバっと進める。龍之介が険しい顔になった。悪いけど、やっぱり負ける気がしない。
「サワコにさ、ホテルに誘われたんだってな、源一郎」
 わざとらしく大きな声で龍之介が言った。周囲に緊張が走る。龍之介は酷いやつだ。だからこそ親友という気もするけど。
「ゲンちゃん……それは本当なの?」
 森川さんの顔が真っ青だ。彼女の貞操観念に深刻なダメージを与えている。ヤバい。
「サワコさん、龍之介に全部話したわけ?」
 僕は驚いて訊いた。
「前の彼氏の事も、番長に助けて頂いたことも。全部正直に話しました。そうしないと、龍之介さんと付き合えないと思ったんです。正直に誠実に。森川さんに教えて頂いたことです」
 サワコさんがマジメな顔をして言った。
「ゲンちゃん」
 森川さんが崩れ落ちそうになる。それを見て、サワコさんがようやく事態の深刻さに気がついたようだ。
「あの、すみません言葉が足りなくて。番長は私の誘いをすぐに断ったんです。そして、私の常識が欠けているから、森川先輩に私の教育を頼んで下さいました。お二人には感謝してもしきれません。私は番長と寝てません。誘った事は確かですけれど」
 サワコさんが普通な感じに言った。この子は、いまだにちょっとオカシイぞ。龍之介はなんだか面白そうな顔をしている。食えない奴だなあ。
「ああ、そうなのね。なんだ……ゴメンね、ゲンちゃん」
 そう言ったものの、森川さんはまだ微妙に震えている。ダイスケが空笑いしている。林さんは怯えた表情をしている。まあいいか。誤解は解けたことだし。


 夏休みはそうやって続いている。
 朝は相磯さんが迎えに来てくれて、バスケ部の朝練。その後写真部へ行ってダラダラと過ごしたり、囲碁将棋部の人達の相手をしたり。
 茶道部の活動を終えた森川さんが、豪華なお弁当を作ってくれて、屋上でそれを美味しく頂く。料理部にごちそうになることも少なくない。ダイスケと、エロい画像を見たり、写真の勉強をしたり。図書館で森川さんと勉強をする事もある。
 最近僕は、ドイツ語の勉強を始めた。英語に近いので結構分かりやすい。充実の毎日。そして日が暮れると、いつものように森川さんと駅まで歩く。
「夏休みに僕の記憶が途切れないように、森川さんが根回しをしてくれたんだね?」
 僕は訊いた。
「確かにそれもあるけど、みんなが率先してくれているのよ。ゲンちゃんはみんなに愛されてる。でもゲンちゃんは、私のモノだからね?」
 自分で言っておいて、森川さんの顔が物凄い真っ赤になっている。「君を裏切りたくない。僕を見張っていて下さい。道を踏み外さないように」
「分かってるわ。私はいつも、ゲンちゃんを見ています」
 森川さんがそう言って、僕の手を痛いほど強く握った。この痛みは、間違いなく僕の記憶に深く刻まれる。夕焼け空を見詰めて、でもやっぱり、ちょっと自信がないかな、と僕は思った。

2013/05/14(Tue)04:42:38 公開 / ぺしみん
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