『ヴァイスシュネー・プリンツェッスィン プロローグ〜全七話』 ... ジャンル:リアル・現代 アクション
作者:江保場狂壱                

     あらすじ・作品紹介
 雷丸学園二年生白雪小百合はいわゆる黒ギャルであった。しかし彼女には秘密を抱えていた。転校生であり、同級生の丸尾虹七の所属する秘密機関、内閣隠密防衛室の秘密を知ってしまったのだ。その秘密を守るため彼女は諜報員スペクターとなった。恋人の猿神健太郎、風紀委員長の先輩市松水守とともに困難に立ち向かう。学園スパイアクション!!

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『プロローグ』

「なあ、暇だなぁ」
「暇ならいい遊び道具があるぜ。ほら」
 学生服を着た男子生徒たちが一人の少女を指差して言った。指を差した先には一人の少女がいた。
 黒炭の枠のように黒く長い髪で三つ編みにしている。つぶらな目にすっきりした鼻立ちで黒縁メガネをかけている。肌は雪のように白く、頬は血のように赤かった。
 白いブレザーでチェック柄のスカートが女子生徒の制服である。少女の体型は年頃の女子の平均を超えていた。
 三つ編みと黒縁メガネのせいで地味な印象を受けるが、よく見れば素材は一級と言っていいだろう。しかし少女には覇気がなかった。席に座ってうつむいている。自信がないのかウサギのように周囲を気にして怯えていた。
 周りの生徒たちはそんな彼女を見て悪意を向けていた。中には少女の過去を知っている者がいて、さらに侮蔑の表情を浮かべている。
 少女はひたすら机に向かい、教科書とノートににらめっこしていた。勉強に夢中になることでこの世の悪意から逃れたい一心のようであった。
「よぉ、白雪ちゃぁん。俺らと一緒に遊ぼうよぉ」
 そんな少女のささやかな願いを、三人の男子生徒が打ち破った。どちらも薄ら笑みを浮かべ、少女を見下ろしている。男子生徒たちは三人とも不良には見えない。むしろ真面目な容姿である。それが三人とも禍々しい邪悪な笑みを浮かべているのだ。不気味である。
 白雪と呼ばれた少女は一度男子生徒を見上げたが、すぐに教科書に目を落とした。目の前には誰もいないと自分に言い聞かせている。そんな様子を見て男子生徒のひとりが教科書を取り上げた。
「おいおい、俺たちを無視するなんて冷たいねぇ」
 男子生徒は取り上げた教科書を窓の外に放り投げた。それを見ても周りのクラスメイトは無視している。
「そうそう、休み時間に勉強するなんてサァ、青春の無駄遣いだよねぇ」
「それとも日本人の俺たちをバカにしているのかなぁ?」
 そう言って男子生徒のひとりが白雪の髪の毛を乱暴につかんだ。白雪は涙目になり、小声でやめてと懇願する。
「はぁ〜? 君は何を言っているのかなぁ〜? 声が小さいよぉ〜?」
「……」
「聴こえないって言ってるんだよぉ!!」
 男子生徒は白雪の頭を机に叩き付ける。大きな音が響いたがクラスメイト達は無視している。寧ろ白雪がいじめられて楽しそうであった。
「けっ、お前が中学生の頃、金髪だったってことはみんな知っているんだよ。それを高校に上がったらこれみよがしに黒く染めやがって。日本人をバカにしているんだろ? あん?」
 男子生徒は白雪の髪を乱暴に掴み、激しく揺らしている。それを見て他の男子生徒はげらげら笑っていた。白雪は涙を流したが、さらにげらげら笑いだした。
「お〜い、お〜い。白雪ちゃ〜ん、泣いてもダメだよ〜ん。休み時間が終わっても次の休み時間に付き合ってもらうからね〜ん」
 男子生徒が歯をむき出しにして残虐な笑みを浮かべている。
「付き合うのは俺のほうだぜ」
 男子生徒たちの後ろに人影が現れた。その声に男子のひとりが振り返ると教室中に大きな音が鳴り響いた。そして男子生徒は豪快に飛ぶと机を倒しながら吹き飛んだ。
 白雪は見た。そいつは猿に似ていた。醜いという意味ではなく、愛嬌のある部類に入る。短く刈り上げた髪は真っ白に抜けており、顔は浅黒いのでニホンザルに似ていた。身長は百七十五くらいの高さで、体つきは引き締まっており、その容姿は猿よりゴリラに近いだろう。無論威圧感ではなくゴリラ特有の愛嬌のよさを兼ね備えていた。
 そいつは右手を突き出していた。彼が男子生徒を殴ったのは明白であった。殴られた男子生徒は左の頬が腫れていた。口から涎と血を垂れ流し、折れた歯が零れ落ちた。白目を剥き、身体をぴくんぴくんと痙攣させていた。
 一瞬教室は静かになった。呆気にとられた男子生徒二人は我に返ると怪鳥のような叫び声をあげながら猿に似ている少年に殴り掛かった。しかし二人の動きが写真に写ったように止まった。そして膝からかくんと倒れた。猿に似ている少年が男子生徒たちの顎を一瞬に打ち抜いたのである。クラスメイトたちは倒れた男子生徒たちの口から魂が抜け出たように感じた。
「さっ、猿神ぃぃぃ!! お前何をしているんだ!!」
 ちょうど教室に男性教師が入ってきた。白髪混じりの七三分けに黒縁メガネをかけた四〇代の人生にくたびれた中年である。このクラスの担任教師だ。
「ヘイ! こいつらが白雪をいじめていたんでね。こらしめてやったのさ」
 猿に似た少年は悪びれずに答える。
 男性教師は白雪を見た。そして倒れた男子生徒たちを見回す。彼も白雪のことを知っているのだろうが、白雪を擁護するより、倒れた男子生徒たちを弁護し始めた。
「無法だ! お前のやっていることは無法者の行為だ!! 今すぐ職員室に来い!! 職員会議でお前を退学に追い込んでやる!!」
 男性教師は少年に指を差しながら、口に泡を飛ばしながら叫んだ。彼は影で行われるいじめに関わるより、わかりやすい暴力事件を槍玉にあげたいのである。進学校故に生徒たちは日々勉強漬けで精神が病んでいる。心が冷たく錆びた鎖に巻きつけられ、冷える身体と錆びの臭いが生徒たちをぐずぐずに崩していくのだ。
 白雪は彼女のいた中学校から資料を送られているので、彼女が日本人でないことは知っていた。だからこそ白雪を他の生徒たちの生贄としていじめを黙認していたのである。
猿神と呼ばれた少年はどこ吹く風である。
「かまわねぇよ。お袋に言われて進学したのはいいが、どいつもこいつもくずばかりだ。こんな学校いつでもやめてやるぜ」
 男性教師は口を鯉のようにぱくぱくしている。そして顔色がみるみる蒼くなり、血管が浮き出ていた。高圧な態度をとる教師より、猿神のほうが冷静であった。他の生徒たちも口には出さないが、猿神のほうが王者の風格を醸し出していると感じていた。
「で、お前さんはどうするかね?」
 猿神は白雪のほうを向いた。暴力事件を起こしてこの笑顔である。白雪は一瞬はっとなった。
「弱い者いじめしか娯楽がない、いじめを見て見ぬふりをするくずどもと一緒に学校生活を送るのかい? なら俺と一緒にやめて所帯でも持たないかね?」
 猿神が誘った。白雪は答えに迷った。やがて迷いを吹っ切ると猿神の差し出された手を握ったのである。
 
 *

「で、結局はどうなったの?」
 昼休み、風紀委員室で昼食をとっていた丸尾虹七が訪ねた。丸尾虹七は見た目は平凡な少年である。だが見た目に判断してはいけない。彼は内閣隠密防衛室という諜報機関に所属している通称スペクターと呼ばれる諜報員である。
 丸尾虹七は転校生である。転校する前はセッル共和国という中近東にある小国で、アメリカ人の生理学者イワン・イワノヴィッチ・イワノフ博士を救出した。
 セッル共和国の国政に不満を持つ王政派のゲリラ、セッル解放戦線に拉致されたのだ。セッル共和国とイワノフ博士は日本と密接の関係にある。ただちにスペクターである丸尾虹七が潜入し、見事イワノフ博士を救出したのである。
 その前に丸尾虹七はアメリカの日本人大使館占領事件、そして中国の日本人技師救出事件を解決している。いずれもひとりだった。
 基本的にスペクターは一般人に紛れ込む。弱弱しい白兎の皮を被り、狼たちを欺くのだ。暴力団や宗教団体、その他もろもろの重要な集団に潜入することが多い。
 もちろん格闘術や銃火器の扱いを始め、サバイバルや科学知識も豊富である。そうでないとスペクターは務まらない。スペクターの訓練は忍者の修業に近い。もっとも遺伝子操作など様々な化学を使うので死亡率は低い。
 丸尾虹七は遺伝子操作で常人の四倍で成長している。短期間であらゆる情報を吸収したが、経験だけが足りない。マニュアル通りには動けるのだが、規定内のことには混乱する欠点がある。アサルトライフルを装備したゲリラを十人相手にしても平然としていられるが、学校内でのことでは予期せぬ出来事が多いので、予測できないことが多い。
 丸尾虹七はイワノフ博士を救出した後、転校生として来た。もちろん任務だが具体的な命令は一切なかった。これには理由があるのだが、後で語るとしよう。
机の向こうには猿神拳太郎と金髪黒ギャルの白雪小百合がいちゃいちゃしていた。白雪が猿神の口にあーんをして食べさせている。その横を市松人形のような少女に見える風紀委員長の市松水守がこめかみをぴくぴくさせながら昼食の海苔巻をかじっていた。
 ここは新宿区、雷丸学園高等学校である。中央公園の近くにあるので緑と接する機会が多い。
 雷丸学園は戦後アメリカ人の実業家、テレンス・サンダーボールによって設立された学校だ。当時のアメリカの技術の粋をつぎ込まれた校舎は芸術作品として評価されている。もっとも長年でぼろぼろになり、改築を何度も繰り返しており、つぎはぎが目立っていた。
丸尾虹七、猿神拳太郎、白雪小百合、市松水守は風紀委員である。虹七を除いた三人は虹七がスペクターである事実を知っている。猿神と白雪はスペクターの新入りでもあった。
「それがねぇ、あたいは退学にはならなかったのよ。教授が逆にあたいをじめていた奴らを退学処分にしちゃったのさ。それであたしは一日自宅謹慎。ケンは一週間の停学ってわけね」
 白雪はけらけら笑いながら、猿神の口におかずを運んでいた。市松は海苔巻を食べ終え、口元をハンカチで拭いている。教授とは現在の虹七たちの担任教師である大槻愛子の愛称である。ちなみに結婚して姓は変わっているが、市松水守の姉である。
 ちなみに大槻愛子は現在職員会議の真っ最中であった。
「その話ならわたくしも聞きました。白雪さんの生まれでいじめが起きていると。わたくしとしては現場を押さえたかったのですが、仕事が忙しくて……」
 市松は申し訳なさそうに答える。風紀委員として校内が荒れていたことを悔やんでいた。
「でもどうして白雪さんはいじめられていたの? それに日本人じゃないって……」
 虹七は恐る恐る尋ねてみた。
「うん。あたい日本人じゃないよ。ヨーロッパのとある小国で拾ったんだってさ」
 白雪はあっけらかんに答えた。影がまるでなかった。
「ヨーロッパ?」
「うん。うちの両親はその国で薬品関係の会社に出張に行っていたんだってさ。そこで捨てられていた赤ん坊のあたいを養女にしたわけよ」
 重い話を茶化しながら話している。説明するのが面倒だからばっさり切ったのだろう。
「なるほど。その後日本に戻ったわけだね。それでずっと日本に住んでいたから日本語が母国語になったんだね」
「そういうこと。ちなみにその国はドイツ語で話していたってさ。バ、何某って国らしいけどね」
 白雪はもう自分の出身地には興味がないらしい。過去に自分がいじめられていた話をしたのだから、もう大丈夫なのだろう。
「髪の毛が金髪で、肌色が雪のように白いから、いじめられていたそうだぜ。それで高校に上がったら髪を黒く染めたそうだ」
 猿神が弁当のおかずを平らげた。
「ところで白雪さんはどこの出身なのかしら?」
「北海道だよ」
 市松の質問に白雪が答えると、市松は目を丸くした。
「北海道から来たのに、あなたがヨーロッパ人だと知られていたのですか? なにか作為を感じますわね」
「その通りさ。ユリーをいじめていた奴らは生徒会というか、円谷に金を積まれて頼まれたそうだ。金額は一人五千万円、しかもそいつらの弱みも一緒だったらしい」
 円谷とは生徒会役員で書記を務めているゴスロリを好んでいる。しかし生徒会はただの生徒会ではなく、中身は政府機関も真っ青な情報収集能力と、権力を持っているのだ。そんな彼らが白雪のいじめを主導していた。これには何か理由があるのだろう。
「ちなみにあたいは一人暮らしだよ。両親は札幌にある製薬会社で研究を続けているのさ。しょっちゅう外国にも行っているからあたいは一人で東京に来たわけ」
「東京に来た理由は? やはりいじめが原因で?」
「まあそれもあるけどね。あたいとしては親と一緒に製薬会社に就職したいわけよ。それで北海道の大学より、こちらのほうがいいと両親に言われたわけさ」
 白雪は自分の食事を終えた。
「あはは、この話はもうおしまい。さぁて、ケン。昼休み終了までふたりっきりでイチャイチャしようぜ〜」
 白雪は猿神の左腕をつかむと、腕を組んで風紀委員室を出て行った。残ったのは丸尾虹七と市松水守のふたりだけになった。
「……白雪さんにはどんな秘密があるのかな」
「どういう意味ですか?」
 虹七の独り言を市松が訊いた。
「花戸さんは猿神くんと白雪さんをスペクターに誘った。猿神くんのお父さんは元SATで花戸さんの知り合いだった」
「SATですか。確か独身者でないと入隊できないはずですから、辞めてから結婚したのでしょう。とはいえSAT出身者を憎んでいる人もいるはず。猿神さんのお父様はそのせいで亡くなったのかもしれませんわね」
 市松が語る。彼女の父親は警視庁長官だ。警察関係には一通り詳しいのだろう。
「うん。親の因果が子に報うともあるからね。猿神くんを守るためにもスペクターに誘ったのかもしれない。でも……」
「白雪さんですね。確かに彼女も誘ったのは気になります。彼女は日本人ではなく、ヨーロッパ系の白人であるだけで一般人のはずです」
 以前白雪は自分が死んでも悲しむ人間はいないといった。生みの親も悲しまないと言ったが、それ以前に生みの親の顔を知らないようだ。一人暮らしをしたのも育ての親に気を使っているのかもしれない。白雪は育ての親の悪口を言っていないからだ。
「でも花戸さんは誘った。もしかしたら白雪さんには秘密があるのかもしれない。もっとも先ほどの会話だと白雪さん本人は何も知らないと思う」
 花戸とは虹七の上司である。花戸は諜報機関、内閣隠密防衛室の室長を務めている。普段は千代田区秋葉原にある同人ショップ『ユニバーサル』の社長花戸利雄として過ごしている。好きなのはロリキャラだが実年齢は何百歳のエルフ娘や生まれて二歳のアンドロイド娘なのでポルノ法を抜けようとしていた。イタリア製のブランド物に身を包み、イタリア製の車に乗り、前記のロリキャラをプリントした痛車に乗るヘンタイという名の紳士である。
 花戸利雄は丸尾虹七の上司ではあるが、同時に父親でもある。彼は虹七をスペクターという駒ではなく、一人の人間として見ている。彼を成長させると同時に、年頃の友達を作らせるため、あえて大雑把な任務だけ与えて雷丸学園に送り込んだ。もちろんスペクターの関係者である大槻愛子がいたからだ。妹の市松もスペクターの名前は知っていたが、実際に見たのは虹七が初めてである。
 虹七は相手の会話と表情で相手の本心を探るのが得意だ。白雪の会話では本人が拾われたことや、薬学関係で東京に来たのも本心だと知った。そうなると白雪自身に何か秘密があると見て間違いないだろう。
 突如虹七の携帯電話が鳴った。表示を見ると相手は花戸利雄である。
「はい、僕です。え? 今すぐ本社に来いって? あと白雪さんには目を離すなって、どういうことですか? はい、はい」
 虹七は携帯電話を切った。その様子を見た市松は何事かと訊いた。
「僕は今から秋葉原に行きます。何か仕事があるようです」
「そうなの。でも白雪さんに目を離すなとはどういう意味かしら?」
 虹七は首を横に振る。詳しくは聞かされなかったのだろう。虹七は白雪に連絡を入れようと携帯電話を操作するが、白雪は出なかった。代わりに床下で着信音が鳴っている。デコレーションされてキラキラしている携帯電話であった。白雪の持ち物だろう。
 虹七は首を振った。今度は猿神に連絡しようとしたが、繋がらない。三分ほど待ったが出る気配がなかった。
「仕方ありません。市松先輩は白雪さんの携帯を白雪さんに返してください。そしてさっきの話をして警戒するようお願いしてください」
「ええ、わかったわ。丸尾さんも気をつけなさいね」
 虹七は風紀委員室を出た。残されたのは市松だけであった。
 この時点で虹七は出て行ったばかりの白雪をすぐに追いかけなかったことを後悔することになる。

『第一話:アンファング(始まり)』

 夕暮れの新宿駅の近くにある一軒のグリムマートという名前のコンビニエンスストアで、白雪小百合はアルバイトをしていた。実家からの仕送りはあるが、社会勉強のためである。猿神とは清い仲でカラオケか、アミューズメントパークで遊んでも、一線は越えない。もっとも猿神以外の付き合いはなかった。今は丸尾虹七もいるが。
 店内では白雪は金髪を縛り上げ、黒髪のおかっぱのカツラを被る。ファンデーションで肌を白く塗り、黒縁メガネをかけて地味な印象を作っていた。アルバイトの時は変装している。黒ギャルファッションはあくまで学校の中だけであり、仕事をするときはそれにふさわしい恰好をしていた。
 この日も多くの学生やサラリーマンたちがごった返していた。店長は六〇代の老夫婦で、普段は二人だけで切り盛りしている。バイトは白雪だけであった。一年生の頃から働いていた。この店は朝の七時から夜の十一時までの営業である。
 老夫婦は子供はおらず、つつましく暮らしていた。白雪の勤務態度は極めて真面目であり、てきぱきとレジをこなしていた。老夫婦は白雪を孫のようにかわいがっていた。
 やがてひと段落する時間になった。老夫婦はくたくたになり、奥のほうに引っ込む。白雪を信頼しているのである。
「よぉ、白雪。元気かね?」
 白雪が遅い夕食に賞味期限切れのおにぎりを食べていると、声をかけられる。声をかけたのは一人の男であった。ひときわ体躯が大きく、顔や身体、腕や脚がころんと丸い岩のようであった。
 丸刈りで肌は日焼けして黒く、団子鼻で唇は太くて丸かった。一見愛嬌のある顔に見えるが、丸い目だがその目には氷のような冷気を宿していた。そして特徴的なのは両手にはめた黒い皮の手袋である。すっかりはきつぶしているのか光沢は失われているが、なにやら黒く汚れていた。血の臭いがわずかにしているのである。
 雷丸学園三年生、生徒会副会長、乙戸帝治である。その後ろに乙戸の仲間である執行委員の五人ほどついていた。
「誰ですか? 昭和年代のバンカラファッションの知り合いはいませんが」
 白雪はすっとぼけた。乙戸たちは毎日この店に通っているが無視していた。服装が違うし、印象も違う。気づいていないと思っていた。なぜなら乙戸は校内で白雪を黒人呼ばわりしていたのだ。
「バンカラは否定しないが、とぼけるな白雪。俺はずっとお前のことを知っていたよ。お前が一年の時にいじめられて、それを猿神に助けられた時からな」
「そうなのですか。変装には自信がありましたが」
 白雪が訊いた。ギャル風にしゃべるのはあくまで校内だけである。校外ではこのように真面目な口調だ。
「目と声でわかるよ。騙されるのは自分にしか興味がないうちの生徒くらいだな」
 乙戸は籠を置く。中には弁当や総菜、即席麺やペットボトルが入っていた。白雪はそれらをレジにかける。
 乙戸は雷丸学園で転校生が来ては、よってたかっていじめていた。実際は転校生に扮したスペクターたちを公衆の面前で再起不能にしていたのだ。本心は卑怯なことは嫌いだが、効率を優先しているためである。
 もっともスペクターたちも只者ではなく、ただリンチに遭っていたわけではなく、数人道連れにしていた。
 乙戸帝治は丸尾虹七を公衆の面前でいじめた。しかし虹七は平気だった。その後取り巻きの生徒会執行委員たちは夜の新宿中央公園で虹七を闇討ちにしたが返り討ちにされた。生徒会と深く結びつく坂田大学病院に入院していた。もう一週間前の話である。
「それに校内では円谷の命令とはいえ、ひどいことをしたからな。外で会っても無視することにしていたんだ」
「命令されたらなんでもするのですか?」
「そいつを言われると耳が痛い。俺は円谷や陽氷に恩があるんだよ。頼まれると断れないのさ。それに転校生たちを袋叩きにしても、こちらが無傷でなかったことはお前さんも知っておるだろうに」
 乙戸たちが転校生を袋叩きにした後、数人の執行委員が休みだした。転校生のいたちの最後っ屁にやられたのだろう。彼らは一方的に痛めつけられる存在ではなかった。
 白雪はレジを終え、商品をすべて袋に入れていた。話をしている最中でも白雪の手の動きは止まらない。
 レジの上には大きな袋が三つになった。どれも食料と飲料水である。
「今日の買い物は多いですね。何かあるのですか」
 白雪が訊くと、乙戸はため息をついた。
「……ここだけの話だがな。今日は生徒会で留学生の迎え入れを話し合うのだ」
「留学生ですか?」
 雷丸学園はこの手の得意分野の知名人を招き、講義や教壇に立つことが多い。留学生にしても中近東にあるセッル共和国に大勢の国民を招いている。そのうち七人は影の生徒会(ザラーム・ジャイシュ)と呼ばれ、特殊な能力を持っていた。
 それは生徒会役員であり、元スペクターである円谷皐月と満月陽氷のふたりだけで運営されていた。恐るべき才能の持ち主である。
「ああ、ヨーロッパにある小国、ヴァイスシュネー公国からなのさ」
「ヴァイスシュネー? 世界規模の製薬会社がある国ですか」
「おや、よく知っているな」
「……私の両親が勤務していたことのある国です」
 白雪は口ごもった。さすがに自分が拾われた国とは言えなかった。
 ヴァイスシュネー公国。世界規模の製薬会社クーア・ゲッティンがある小国である。ドイツに近く、ドイツ語が標準語になっている。ヴァイスシュネー公国は長らく国王ヘンゼルが治めていたが、今年薨去した。今は王妃グレーテルが代理として即位している。ヘンゼルには弟のルドルフがおり、ヴァイスシュネー国軍の将軍を務めている。ヴァイスシュネー国軍は小国でありながら精鋭の集団であり、陸軍は英国のSASの元教官を招き、警察関係ではドイツの連邦警察のOBたちを招いている。どちらも国王ヘンゼルが大学生時代に築いたコネクションだと言われているが定かではない。
「でも留学生を招くのに話し合いが必要なのですか?」
「その留学生に問題があるんだ。王弟ルドルフ将軍の息子、トビーアス王子なんだよ」
「王子様……、ですか」
「正直円谷はあんまり受け入れたくないらしい。そもそもトビーアス王子ってのは問題があるそうだ」
「問題?」
「……そいつは中二病だそうだ」
「ちゅうに、びょう……ですか」
 白雪はぽかんとなった。外国でも中二病患者はいたのか。しかも王族に。
「うちの陽氷も似たようなものだからな。今の生徒会も陽氷が理想としたつくりになっている。そして生徒会に敵対する風紀委員会もな」
 雷丸学園生徒会は書記の円谷皐月が基本を作り上げた。円谷は白雪と同じ二年生だが、精神年齢も知識もすべて大人顔負け、科学者並みである。円谷は虹七と同じスペクターであった。生徒会長である満月陽氷は三年生だが、実を言えば虹七と同じ遺伝子操作で成長を早められている。陽氷のほうが性能としては有能なのだが、精神年齢は小学生並みに低い。筋肉隆々の体格だが、心は強くない。母親に依存する幼子だ。
 円谷にとって陽氷はかわいい弟であり、愛しい息子なのだ。円谷は陽氷を守るためならなんでもする。どんな敵が来ても単身相手を血みどろにしても、両手を血で汚しても躊躇しない。
 現在の生徒会は陽氷のために作られた。成長時期を冷たいコンクリートの部屋で過ごした彼にとって、漫画本の世界は憧れだった。特にお気に入りだったのが週刊少年ステップに連載されている『超人学園ジュヴナイラー・作者綿貫伸郎(わたぬき・のぼろう)』という学園ジュヴナイルであった。ちなみにその漫画は全十巻で打ち切られたが、別冊で読みきり二本で完結した。小説版が二冊出て補完された形になった。そして深夜アニメになった稀有な作品である。
 綿貫伸郎の作品は時代劇漫画『素浪人銃兵衛(じゅうべえ)』が有名で、アニメ化もして実写映画にもなった。
 円谷は陽氷の夢をかなえるために適当な学園、雷丸学園を見つけた。そして脱走後に手に入れた内閣隠密防衛室が集めた脅迫データを使い、政治家や企業を脅迫し、搾り取った金でセッル王国に革命を起こさせた。そしてセッル王国は共和制に生まれ変わった。製薬会社や病院が建てられた。脅迫した相手には製薬会社と大手病院の理事長がいた。坂田大学病院はその代表である。
 そして雷丸学園の近くにセッル共和国の大使館ができた。テレンス・サンダーボールが生前に作った別荘で長い間閉鎖されていたのを改造したものであるが、事前にその別荘に雷丸学園への秘密の抜け穴があるので、そこを選んだのだ。
 円谷は生徒会役員にふさわしい人間を選んだ。
 会計は一年生の鮫泥可南華と美土里の双子の姉妹である。赤毛で三つ編みをしており、めがねをかけている。そして背は小さいが胸が大きい。姉の可南華は社交的だが、妹の美土里は無口で食いしん坊。だがその体は鋼鉄のごとく頑丈で壁に頭をぶつけても平気なほどである。
 そして副会長は乙戸帝治だ。彼は不良学生だった。喧嘩がめっぽう強く敵なしだったが、ある日両手首を失う事件が起きた。そして少年院に収容されたが闘争心は全く失わず、そこで天下を取っていた。粗野だが面倒見がよく、敵も多いが慕う人間も多かった。その人柄に円谷は白羽の矢を立てたのである。
乙戸の黒い手袋の下は鋼鉄の義手である。円谷が記憶能力で覚えた技術を使ったものだ。
まさに自演乙である。しかも性質が悪いことに発想は子供でも、やっていることは大人であった。
 乙戸の言葉に白雪はひらめいた。
「もしかして私のいじめは生徒会の主導ですか」
「……ああ。すまない」
 乙戸はぼそりとつぶやいただけであった。猿神のように好戦的な人間と関わるのはともかく、白雪のように遠い北海道からやってきた少女をいじめさせたことに良心の呵責があるのだろう。
「やっぱり……。私をいじめさせたのは特別な理由があったからですか?」
「いや、お前さんが日本人じゃなくて、生粋のヨーロッパ関係者だったかららしい。それを猿神に守らせるのが円谷の脚本だった。猿神の性格ならいじめを見過ごすことはないからな」
 白雪は生徒会の陰謀に怒りを通り越して、呆れていた。生徒会長満月陽氷は容姿端麗、才色兼備、スポーツ万能だがどこか幼稚なところがある。いわゆる中二病であった。
「書記さんは私とケン、猿神くんが結びつくことを予測していたのですね」
「いや、単純に猿神が守ると思っただけだ。お前さんが黒ギャルに変貌するなんて予測の範囲外だったよ」
 白雪が奇抜な服装になったのは、いじめを避けるためである。猿神といつも一緒にいるために黒ギャルになったのである。
「お前さんがなんちゃって黒ギャルなのは最初から知ってたけどな。お前さんの白々しいギャル語は聞いててうざかったが」
 それを聞いて白雪は顔が赤くなった。
「まあ留学生云々は俺たち生徒会の仕事だ。風紀委員は自分の役目を果たすことだな」
「ちょっといいですか?」
 乙戸の後ろから声がした。見ると市松人形のような少女が立っていた。雷丸学園三年生市松水守である。風紀委員長を務めている。
 白雪は乙戸と目を合わせたが、すぐに離した。風紀委員と生徒会の仲は悪いが、校外には持ち込まない主義のようである。
「ここに白雪小百合という人が務めているはずですが、いらっしゃらないのですか?」
 白雪と乙戸は目を丸くした。それを感じた市松は首をかしげる。
「わたくしは白雪さんと同じ学校の先輩です。白雪さんはどこでしょう」
 市松はまた質問した。彼女には目の前にいる変装した白雪が本人だと気付いていないのだ。白雪は口をもごもごとさせると、乙戸はにやりと笑うと、
「おい市松。こいつはな、白雪の従妹なのさ。彼女なら白雪に渡りをつけてくれるはずだぜ」
 白雪は、こいつは何を言っているんだと、乙戸をにらみつける。それに気付かない市松は白雪の顔を見ると、やがて笑みを浮かべた。
「なるほど、白雪さんの面影がありますね。従妹なのは本当でしょう。ではあなたにこれを預けます」
 そういって市松はカバンから携帯電話を取り出した。それは白雪が忘れた携帯電話であった。
「わざわざありがとうございます。市松先輩」
「あら? 自己紹介をしましたかしら」
 白雪がまごまごしていると、乙戸が口をはさむ。
「市松、お前は有名人だからな。白雪姫に出てくる七人のドワーフみたいな風紀委員の話はこのあたりじゃ知らない人間はおらんぜ」
「どわぁふ? なんですかそれは?」
「そいつは正義感の強いって意味さ。継母に命を狙われる白雪姫を守る騎士なのさ」
 市松は納得だとうなずいているが、乙戸の目は笑っていた。白雪は乙戸が意外にも茶目っ気があると感心していた。
 乙戸と市松は店を出た。この時市松は虹七の伝言を忘れてしまったのである。

 *

 夜の八時になるとあたりは真っ暗になった。白雪はバイトを終え、自分の住むアパートへ戻った。右手にはビニール袋を持っていた。賞味期限ぎりぎりで購入した惣菜とミネラル水が入っている。
 白雪の容姿は変装を解いており、金髪と黒く焼けた肌が露出されている。公園のトイレで着替えたのだ。帰ってからでもいいが、あくまで自分は黒ギャルである。自分は猿神拳太郎にふさわしいギャルだからという自信があった。いや、自信というよりも思い込みである。
 白雪の住むアパートは築三年目の二階建てで、壁はぴかぴかに白のペンキで塗られていた。アパートの前には住人の持つセダンとワゴンが止まっている。
 部屋はそれぞれ五部屋ある。どちらもまだ部屋の明かりがついていた。白雪の住んでいるのは二階の左端にあり、そこだけ真っ暗であった。白雪は二階に上がると部屋のカギをポケットから取り出した。
 白雪は一度立ち止まり、ドアノブをじっと見つめた。やがてドアノブを回して部屋に入る。
 部屋はバス・トイレ付きであった。部屋にはベッドに勉強机の上にノートパソコンが置いてある。冷蔵庫の上に電子レンジが置いてあり、食器棚にテーブル、鏡台に本棚があった。本は参考書や辞書の他に女性向けの雑誌があった。一番上には人形が置いてあった。」髪の毛は茶色い毛糸でできたボタンの目の不細工な人形であった。全部で一六体あった。白雪の誕生日に一体ずつ贈られてきたのだ。その人形はヴァイスシュネー公国から送られてきている。両親から誰がくれるのかと聞くと、ヴァイスシュネーには自分たちの恩人がおり、その人が白雪のために毎年一体ずつ手作りで送ってきてくれるそうだ。もっとも今年は送られてこなかったが。
一番下の段にはテレビアニメ『ソシエール・コント』という魔法少女物のDVDと同人誌がある。テレビは好きではないので置いていない。DVDはノートパソコンで視聴できるからだ。
 壁にはカレンダーとソシエール・コントのポスターが貼ってあり、年頃の女子高生にしては必要な家具しかない地味な部屋であった。
 白雪はまず服を脱ぎ、シャワーを浴びる。バスルームから出ると下着を着替え、なぜか制服を着た。そして学生鞄の中身を取り出す。
 そのまま電気を消すと、ベッドの中に潜り込んだ。部屋は暗闇に包まれた。白雪はベッドの上から天井を見る。
 天井には蜘蛛が一匹網を張っていた。それは巨大な女郎蜘蛛であった。人間並みの大きさを誇る蜘蛛は女性の形をしていた。全身がぴっちりとした黒いスーツで包まれている。
 それは天井に腕を組んで張り付いていた。そいつの頭部から髪の毛が天井の四方に伸びていた。顔はわからない。目元は暗視スコープでおおわれているが、口元だけは見えている。髪の毛は美しい金髪であった。
「グーテン・アーベント。フロイト・ミッヒ」
 蜘蛛は挨拶した。白雪は答えなかった。蜘蛛は口元に笑みを浮かべると、首を縦に振る。すると蜘蛛は垂直になり、するすると降りてきた。そして天井に張り巡らせた髪の毛は白雪のほうに垂れてきた。その髪の毛は蛇のように白雪の肩から胸元に巻きつくと、そのまま白雪を吊し上げた。
 哀れ白雪は蜘蛛の巣に捕らわれた紋白蝶であった。
「イヒ・ハイセ・ハール」
 蜘蛛は言葉をかける。
「コメン・ズィー・ビデ・ツー・ウンス」
 白雪は困惑の表情を浮かべていたが、首を横に振ると、意を決したように口を開いた。
「つーか、人の部屋に勝手に入ってさぁ、自分の家に来てくれなんて図々しいんだよねぇ。ヤー・ゲァネとでも言うと思っていたわけ?」
 白雪は一気にまくしたてた。すると蜘蛛は虚を突かれたようで、暗視ゴーグル越しで白雪の顔を見つめる。
「……ドイツ語は理解できるようですね」
「まぁね〜。あんたのやっていることは蜘蛛だけど、名前が髪(ハール)なんてね。どんなラプンツェルなのだか」
 白雪は精一杯虚勢を張った。目の前の脅威の打開に頭を巡らせていた。
 先ほど蜘蛛、ハールと名乗る女性が最初の言葉は、ドイツ語でこんばんは、を意味する。そのあとイヒ・ハイセは、私はハールですと自己紹介したのだ。そしてコメン・ズィー・ビデ・ツー・ウンスは私たちの家に来てくださいという意味である。ヤー・ゲァネははい、喜んでという意味だ。今の状態で感謝の言葉など出るはずがない。
「まあいいでしょう。私の目的はあなたを丁寧にお連れすることです。身動きのできない状態ですのでおとなしくしてください」
 ハールは部屋の窓を開けた。辺りはもう就寝なのか、明かりの消えた家が多い。一階には大型トラックが止まっていた。そして荷台は布団などが敷かれている。
「……悪いけどさぁ、あたいは無法なまねをされておとなしくする性格じゃないんだよね。それにあんたの家が魔女の住む塔でないという保証はないしさ」
「いいえ、魔女の塔ではなく、ヘキセンハウスです」
「なら、いかねぇよ。ばぁか!!」
 白雪が叫ぶと彼女を縛る髪の毛は解けた。突然のことにハールは驚いた。白雪の手には三角定規が握られている。髪の毛はその三角定規で切断されたのだ。
「……!! それは硬質セラミックで作られた文具!! あなたはまさか……」
 ハールは最後まで言えなかった。突如轟音がとどろいたかと思うと、玄関のドアが魔法の絨毯みたいに飛んできたのである。
「グーテン・アーベント」
 否、それは魔法ではない。玄関には大柄の人影が立っていた。そいつは右足を突き出している。そして靴から煙が出ていた。こいつがドアを蹴り飛ばしたのは明白であった。
 そいつの体格はプロレスラー並みの体格で、黒いトレンチコートを着ていた。そして銀髪で短く刈り上げていた。サングラスをかけており、黒いズボンを穿いていた。全身黒づくめで黒くないのは髪の毛くらいである。
「イーゼル!! あなたがなぜここに!!」
「なぁんであたしがここにですって? それはこっちのセリフですわ。ヘキセンハウスのヘクセがなんでこの国にいるのかしら?」
 イーゼルと呼ばれた男はしなを作りながら野太い声で答えた。どうやらお水系である。ハールは答えなかった。代わりに呆けている白雪を窓に突き飛ばした。白雪は二階から一階へ落ちた。そして下に止まっていた大型トラックの荷台へ落ちる。その瞬間エンジンのかかる音がした。そしてそのまま走行していく。
「あたしと戦うより、目標をさっさと連れて行くわけね。さすがだわ」
「お前に構う暇はない。チュス(バイバイ)!」
 ハールは二階から飛び出した。そして首を振るうと髪の毛が釣竿の糸のように飛んでいき、電線に絡みついた。そして振り子の要領で飛んでいき、ハールは電線の上に降り立ったのである。トラックが走っていた方向に向かって走り出した。
 その様子をイーゼルと呼ばれた男が眺めていた。そしてコートのポケットから携帯電話を取り出す。
「こちらイーゼル。プリンツェッスィンとハールは予定通りに動いたわ。あとはまかせます」
 アパートでは今の騒動に目を覚ましたようで騒がしくなった。イーゼルは隣の部屋のドアが開き、近所の人間が野次馬根性で見物にくるまえに、柵の上に足を乗せ、そのまま地面に飛び降りた。そしてイーゼル、ドイツ語でロバのような脚力で走り去ったのである。そして尻を左右に色っぽく振りながらで。

 *

 白雪は大型トラックの荷台にくるまっていた。荷台から降りたいのだがさっきからトラックは止まる気配がない。赤信号を巧みに避けており、飛び降りるにしても怖くてできない。
 このトラックは自分の部屋の真下に止まっていた。そして自分が落ちてきたときに動き出した。ハールと呼ばれた女と関係があるのだろう。あらかじめ赤信号にぶつからないようにナビゲートされているのかもしれない。自分が逃げられないためだ。
(困ったな……。携帯電話を忘れてしまった。秘密道具だけは持ち出せたけど)
 白雪は制服の中にスペクターの秘密道具を忍ばせていた。白雪は最初から部屋の中に曲者がいたことを知っていた。部屋に入る前にドアノブにかすかな違和感を抱いていた。彼女は瞬間記憶能力を持っており、今朝鍵をかけたときのドアノブと帰宅した時のドアノブの差を見分けたのである。普通に人間ならまったく気づかなかったし、ベッドに入る前に制服のままで入ったのも驚異の対処のためだった。
 もっとも天井に張り付いているとは思わなかった。
(ヘクセはドイツ語で魔女。ツー・ウンスといったからハールだけじゃなく、別に魔女がいると見て間違いない。でもどうして私が狙われたの?)
 白雪は考えた。自分がなぜ狙われたのか。それは自分がスペクターだからなのか。もっとも白雪はスペクターではひよっこだ。重要な機密を知っているわけではない。ただし相手にとっては弱いほうから狙ったかもしれない。
 白雪は首を横に振る。ハールは自分の髪の毛から抜け出した際に使った三角定規を見て、驚いたと同時に心当たりがあったようだ。ハールは自分がスペクターであることを知らなかったのだ。
 だからといって人違いではない。相手は自分がスペクターであることを知らなかったが、最初から自分を誘拐する手筈だった。なぜ自分を連れ去る必要があったのか。
 白雪はハールの揶揄にラプンツェルで例えて、魔女の塔に連れ去られるといった。その返事はヘキセンハウス、お菓子の家という意味だ。子供を呼び寄せる甘いお菓子で作られた魔女の罠。そしてイーゼルと呼ばれる大男の登場だ。イーゼルも自分が狙いだった。しかし顔見知りのようだが、別々の思惑で動いているようだった。
 白雪は頭を抱える。判断するには材料が少なすぎる。せめて虹七か、猿神に連絡を入れたいのだが、携帯電話もなく、トラックも止まりそうにない。八方ふさがりである。
 ふと白雪は空を見上げた。周りはビルに囲まれており、時刻はすでに九時を過ぎているので明かりが消えたビルがほとんどだった。
 そして白雪は信じられない物を目撃する。
 電線の上に何かが見えた。それは人間の形をしていた。ハールであった。
 ハールは電線の上を百メートル走の選手のように走っていたのだ。時速五〇キロくらいで走行しているトラックにみるみる追いついていった。そしてトラックの荷台に飛び降りたのである。
「どうも」
 ハールは右手を挙げて挨拶する。白雪も釣られて挨拶した。
「このトラックは目的地まで止まりません。ですが心配はいりませんよ。私たちの主はあなたの命を望みません。イノシシを殺して、ハンカチにその血を染める必要などないのです。そして私は自分の髪の毛であなたの首を絞めることもありません」
 ハールは冗談ともつかないことを言った。確かにハールは自分を殺そうとしていない。しかし非合法な方法で自分を連れ去ろうとしていた。このまま彼女についていくのは危険ではないか。白雪は頭を回転させた。だがその回転は虚しく鈍くなった。
 ハールは上を見上げた。白雪も釣られて上を見上げる。
 トラックはもうじき歩道橋の下に差し掛かった。その歩道橋の上に人影が見えた。それはトラックが下に通りかかると思うと、身体を乗り出し、ぴょんと飛び降りた。まるで猫のように体をくるくると回って飛び降りた。
 それは長身で針金のようにやせ細っていた。目元はサングラスで隠れており、鷲鼻で口元は薄く笑っている。頬はこけていた。銀髪で後ろ髪をまとめており、腰まで虎のしっぽのように伸びていた。そしてイーゼルと同じく黒いトレンチコートを着ていた。白雪はハールとその男に挟まれた形になった。
「グーテン・アーベント」
 長身の男は白雪に挨拶した。ハールにしろ、イーゼルにしろ、彼らは挨拶するのが基本なのだろうか。
「カッツェ……。あなたまで来ていたとはね」
「わしも驚いとるわ。あんさんがここに来とったことがね。せやけど目的は同じのようでんなぁ」
 カッツェと呼ばれた男は関西弁をしゃべりながら白雪を見た。そして両手から鋼鉄の爪が飛び出たのである。
「もっともわしの目的は彼女の命やけどね」
 そしてカッツェは白雪に向かって右手を挙げた。その先は鋼鉄の爪が月明りで鈍く光っている。
「そうはさせない!!」
 ハールは髪の毛を振るった。髪の毛がしゅるしゅるとカッツェの右手に絡みつく。
 それをカッツェが右手を引っ張り、左手でハールの髪の毛をつかみ取ると綱引きのように引っ張った。
 髪の毛が武器のハールは髪を引っ張られると簡単に引かれた。そしてカッツェは右手を挙げ、無防備なハールの後頭部に爪を突きたてようとした。
 だがハールは荷台を蹴り上げると頭部を軸にし、両足をエビのように曲げ、両足をカッツェの首を絞めた。
 身動きが取れないカッツェは体を回転させたり、トラックの荷台の壁に体当たりをしたりしているが、ハールは離れない。
 やがてカッツェはあきらめたのか、今度は自信が背中を曲げ、ブリッジの形を作る。ハールは両足を床に着けた途端、今度はカッツェが自分の足をハールの首に絡めた。
 ハールはカッツェを振りほどこうとするが、うまくいかない。さすがに女性と男性との体格の差が出ている。
 するとハールは首を横に振ると髪の毛が左右に一直線に伸びた。そして電信柱にそれぞれ絡み付く。わずか数秒もかかっていない。
 そしてハールはゴムのパチンコのようにカッツェを抱きかかえながら飛んで行った。電信柱と電信柱に繋がっているハールは洗濯物のようにぶら下がっていた。その光景を白雪は見ているだけだった。

 *

 脅威は去った。しかしトラックは止まらない。先ほど騒ぎが起きても止まる気配がないのだ。このままトラックに身をゆだねたらどうなるのか。少なくともそれがいい結果を生むとは思えない。
 しかしあまりの出来事に白雪の頭はぐちゃぐちゃになりかけていた。いつもなら猿神と一緒だと頭のめぐりはよくなるのだが、今はだめだ。
 丸尾虹七の正体とか状況などは客観的に判断できたのは、猿神がいてこそだった。猿神は見かけはともかく、頭の回転は速い。知識より経験を重視しているのである。知識は覚えているだけで、いざというとき記憶の引き出しを出すのに苦労する。経験はあらかじめ記憶のテーブルにわかりやすく置かれているようなものだ。
 以前丸尾虹七が生徒会役員で会計を務める鮫泥姉妹の催眠術で他の生徒たちが殺意のない暗殺者に仕立てられた。それを白雪が自慢げに推理していたが、実のところ猿神の真似である。猿神ならこう推測するだろうと思ったからだ。さらに猿神と一緒なら彼が助け舟を出してくれると信じている。
 白雪は両手で両頬を叩く。そしてポケットから生徒手帳を取り出した。
それには猿神拳太郎の写真が入っていた。一年生の時は猿神がいないと何にもできず、頭の回転も鈍かった。今は猿神がいなくても、この写真を持っていると勇気が湧いてくる。
 ふと白雪はあたりを見回した。確かこの近くに猿神が住むマンションがあったはずだ。今の状態は猿神に頼るべきだ。そして丸尾虹七に連絡を入れてもらおう。
 そう思うと白雪は荷台にある布団を数枚取り出した。そしてそれを自分の体に巻くと、交差点を見計らい、飛び降りた。くるまった布団で落下の衝撃を緩和したのだ。もちろん直線だと危険なので、速度を落とす交差点で落下したのである。
 それでも衝撃はかなりのもので、右肩に鈍い痛みを感じた。幸い車はなく、トラックも白雪がいなくなったことに気付かずに走って行った。
 白雪は布団を外すと素足のままで冷たいアスファルトの上を歩きだした。そして路地裏の闇の中へと消えていく。その様子を電信柱の天辺から見つめていた人間がいた。それは黒い影であった。

 『第二話:トラオアー(悲しみ)』

 インターホンの音がした。部屋の主である猿神拳太郎は部屋の真ん中に吊るされたサンドバックを蹴るのをやめた。身体の汗を冷たいタオルで拭い、スポーツ飲料を一気に飲み干す。そして玄関に向かった。
「ヘイ。こんな時間に誰だい?」
 猿神は嫌味っぽく訊ねる。時刻はすでに午後十時を回っていた。こんな時間まで猿神は筋力トレーニングを続けていたのである。
 猿神の住居は南新宿駅と代々木小学校の真ん中近くにある三階建てのアパートだ。築二十年だが手入れは行き届いている。猿神は雷丸学園には歩いて通っている。
部屋は二階にあり、バストイレ付で居間と寝室に分かれている。居間には食器棚に冷蔵庫、電子レンジが置かれている。本棚には教科書やボクシング関係に警察関係の本が並んでいる。その上に毘沙門天の像が置かれていた。
 部屋の真ん中にはサンドバッグが吊るされており、筋力トレーニングのための鉄アレイなどが床に置かれていた。
「わっ、私……」
 インターン越しに伝わる声は弱弱しかった。猿神は聞き覚えのある声に、急いでドアを開けた。そこには白雪小百合が立っていた。靴を履いてないので足に血がにじんでいた。その表情は苦痛にゆがんでいる。
「おい、ユリー!!」
「……よかった」
 そういって白雪は緊張の糸が切れたのか、猿神の胸に落ちて行った。猿神は急いで抱きしめると、気を失った白雪を自分の部屋へ運んだ。

 *

 どうしてわたしはみんなとちがうの?
 みんなのかみのけはくろいのに、どうしてわたしだけきんいろなの?
 おとなのひとたちはわたしをみて、ことりのようにさえずる。
『おやに、ぜんぜんにていない』
 と、それをおとうさん、おかあさんにきくけど、こたえてくれない。
 おとうさんは、にがわらいをうかべながら、わたしのあたまをなでる。
『おまえがおおきくなったら、はなしてあげるよ』
『でも、そのまえにおべんきょうをしましょうね』
 そういっておかあさんは、べんきょうのほんをつくえにおく。さんすうのもんだいしゅうがおおかった。
『おまえは、さんすうがとくいにならなくてはいけないよ』
『それがあなたのためなのよ』
 そのときのおとうさん、おかあさんはうすわらいをうかべている。そのすがたはまるでおとぎばなしにでてくる、くもをつきぬけるほどの、おおきなひとに、にていた。まっかなめに、まっかにさけたくちでわらっている。
 ふたつのかげが、わたしのからだをすっぽりとつつむ。まるでわたしをかげでのみこんでしまうように。ふたりはぜったい、わたしののぞむこたえをおしえてくれない。うすわらいと、べんきょうをおしつけるだけ。
 わたしはだれなの? なんのためにうまれてきたの? だれかわたしのことをおしえてよ。
 わたしは、だれなの……。わたしは……、私……。……。

 *

 黒く暗い世界の緞帳がするすると上がっていく。そこから白雪は世界が開けていくのをぼんやりと見ていた。
 最初に目についたのはコンクリートの壁だった。壁なのに蛍光灯が飾られているのはなぜだろう。答えは簡単、それは壁ではなく、天井だからだ。
 次に白雪は首を動かす。右を向くと皮張りの壁が鼻の先についた。身体の下はクッションの感触がした。そして体を波のように揺らすと、ふわりとした感覚がした。自分はソファーの上に寝かされているようだ。身体の上には毛布が一枚敷かれていた。
 白雪は現状を確認し始めた。最初自分のアパートに戻った。そして部屋の中に侵入者がいることに気付いた。
 そいつはハールといい、髪の毛を操る魔女であった。白雪はハールの髪の毛に絡み取られた。
 あらかじめ仕込んでいた硬質セラミック製の三角定規を手にしていたので、蜘蛛の糸から抜け出せた。ハールは自分をヘキセンハウス、童話に出てくるお菓子の家に連れて行くと言った。
 次に白雪の部屋のドアを闖入者が豪快に蹴り飛ばした。そいつはイーゼルと名乗る大男だった。
 ハールはイーゼルと戦わず、白雪を二階から突き落とした。外にはあらかじめハールの仲間が用意したと思われるトラックが待機しており、白雪が落下した途端走り出したのだ。
 その後トラックは走行し、ハールは電線を足場にして、走って追いついてきた。
 ハールの次に第三者が現れた。そいつはカッツェと名乗る長身の男であった。ハールとは顔見知りのようだが、仲がよさそうには見えなかった。
 ハールとカッツェは乱戦したが、ハールはカッツェを道連れにトラックを離れた。そのあと、白雪はトラックに置いてあった布団などに包まり、交差点に曲がる際、スピードを落としたときに飛び降りた。
 運がいいことに落ちた場所は、白雪小百合の恋人である猿神拳太郎が住むアパートの近くであった。白雪は急いで猿神のアパートを目指した。靴を履いてないので、足の裏は血でぼろぼろになっていく。そして猿神のアパートのドアの前にたどり着いて、意識が切れた。
「そっか、ここは拳太郎くんの部屋なんだ……」
 白雪はそれを理解すると安堵の息を漏らした。白雪は人前だと猿神を「ケン」と愛称で呼ぶが、二人きりの時は拳太郎くんと呼んでいた。猿神のほうは白雪の愛称であるユリーを使っている。
 ちなみに白雪は猿神の母親のことを心配していない。ここは猿神が一人暮らしをしているのだ。
 猿神の父親は彼が生まれる前に亡くなった。母親の実家は石川県の金沢市にあり、幼少時は外祖父母たちと一緒に暮らしていた。ちなみに旧姓は雉野(きじの)だが、猿神と名乗っている。
 猿神が中学に上がる前に祖父母は連れ添うように亡くなった。母親は実家を売り、息子と一緒に東京に移り住んだ。母親は知人が経営する情報関係の会社に勤めている。東京の家は知人が用意してくれた一戸建てが新宿区内の花園神社の近くにあったが、母親は仕事が忙しく、滅多に帰ってこない。
 今の雷丸学園は母親が勧めたものだ。猿神の成績は並みだったが、猛勉強させられたためか合格はできた。それで実家より遠いのでこのアパートを借りたというわけだ。これも母親の知人のおかげだという。
 ちなみに本棚の上に飾られている毘沙門天の像は父親の形見だという。父親は新潟県出身で毘沙門天を信仰していたというが、猿神にとっては家具の一つに過ぎなかった。正直なくても平気だが、あっても邪魔にはしていない。
「ヘイ! 目が覚めたようだな」
 ドアの開く音がした。バスルームのようで、ドアから湯気がほんわりと出てきた。猿神は上半身をむき出しにしていたが、下半身はジーンズを穿いている。シャワーを浴びたようで、濡れた髪の毛をバスタオルでごしごしと拭いている。
 白雪は体を起こした。足に鈍い痛みを感じる。足を見ると包帯が巻かれていた。白雪が寝ている最中に猿神が手当てをしたのだろう。
「腹は減っていないか? まあ、減っていなくても食べて力をつけるこった」
 猿神は台所に行くと冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。そして戸棚からコーンフレークの箱を取り出す。皿に盛って牛乳を入れた。それにスプーンを添えて白雪に差し出す。
 白雪はそれを夢中になって食べた。時刻を見ると午後十一時を指している。自分のアパートに帰ったのは午後九時くらい。それから二時間ほどで特撮番組も真っ青な出来事が起きた。腹はすっかり空いており、コーンフレークを胃の中に流し込む。猿神はリンゴの皮を剥いていた。白雪が皿の中身を空にすると、猿神はデザートのリンゴを差し出す。白雪はリンゴ一個分をむしゃむしゃと平らげた。猿神は牛乳を電子レンジで温めている。
 白雪が食べ終わると、猿神は温まった牛乳を差し出す。白雪はそれをゆっくりと飲んだ。飲み終わると猿神はやっと口を開いた。
「へい、何が起きたんだい?」
 白雪は自分の身に起きたことを説明した。猿神は手を額に当てて、考え込んだ。
「最初のハールってやつはユリーを連れて行こうとした。逆にイーゼルとカッツェというやつらは殺そうとしたわけか。そいつらの共通点はぜんぶユリーになるわけだが、心当たりはあるのか?」
 白雪は首を振る。部屋を無断で侵入し、自分の髪の毛で相手を巻きつけようとする知り合いなどいない。生徒会にもいないし、セッル共和国出身の生徒で構成された影の生徒会にも髪の毛を操る生徒はいないそうだ。
 たぶん遺伝子操作で髪の毛を操れるのだろう。しかし髪の毛を自在に操るとしたら相当な集中力が必要になる。ハールは余裕のあるふりをしていたのかもしれない。
「あるとしたら名前かな。三人ともドイツ語だったし、最初のハールという人はドイツ語で挨拶したから」
「ドイツ語ねぇ……。相手はドイツ人なのか?」
「……違う気がする。発音が微妙に違っていたの。相手はヴァイスシュネー公国に近い気がする」
「ヴァイスシュネーだって?」
 猿神は聞き返す。確かヴァイスシュネー公国は白雪が拾われた国のはずだ。ドイツ圏で国境がスイスに近いそうだ。
「うん。私の両親が製薬会社に働いているのは知っているでしょう? クーア・ゲッティンの日本支部は東京にあるけど、北海道に研究所があるの。その時ヴァイスシュネー出身の同僚の人が私にドイツ語を教えてくれたの。その時の訛りがハールという女性に似ていたのよ」
 白雪はいつものギャル口調ではない。あくまで人前だけであり、猿神とふたりきりのときは普通に話している。
「そもそもヴァイスシュネーってどの位置にあるんだ?」
「確かドイツとスイス、オーストリアに挟まれた位置にあるわ。確か第二次世界大戦中のどさくさに紛れて独立した国と聞いているわ。ただし詳しくはわからないけど……」
 猿神はそれ以上訪ねなかった。白雪にヴァイスシュネーのことを訊いても意味がないと思っている。
「そうだわ。ハールは私の持っていた三角定規を見て、私がスペクターだと知ったの。少なくとも相手は私を必要としていたみたいだけど、私の正体は知らなかった。つまりハールは私を捕える命令は受けていたけど、私に対する情報は与えられていなかったことになるわ」
 これは白雪の推測である。ハールは白雪を誘拐しようとしていたが、彼女の情報は知らなかった。ハールは多分特殊な組織に所属しているだろう。この手の組織は情報伝達が重要視される。それなのにハールは白雪のことを知らなかった。このちぐはぐさはなんであろうか。
「こりゃあ、教授か、コウちゃんに連絡を入れる必要があるな。まったく厄介な話だぜ」
 猿神は頭をかきながらつぶやいた。もっとも深刻に受け取っていない。猿神にとって厄介ごとこそ、三度の飯より大好きである。その証拠に唇に笑みが浮かんでいた。
 ところが白雪はそれを聞くと、首をうなだれた。猿神はそれをみると慌てて訂正する。
「いやいや、ユリーのせいじゃないぜ。むしろお前は被害者だ。お前の安全を脅かす野郎は俺がぶちのめしてやるよ。なっ、なっ」
 猿神は懸命に白雪をなだめる。すると白雪は服を脱ごうとした。
ボタンを上からひとつずつ外していく。白雪の胸は人並みにふっくらしている。小麦色に焼けた胸は、白いブラジャーに包まれており、神秘の谷間を作っていた。
それを見た猿神は止めようとする。
「ユリー、何の真似だ?」
 白雪は頬を赤らめた。いざ服を脱ぐのは恥ずかしいようである。
「……、私は拳太郎くんに何もしてあげられない。いつも、おんぶにだっこで守ってばかり。せめて私の身体でお礼を……」
 すると猿神は右手で白雪の口をふさぐ。表情に軽い調子は消え、目が鋭くなった。
「それ以上は言うな。自分の身体を大切にできない奴は嫌いだぜ」
「でも、それしかお礼が……」
「お礼なんかいらないよ。気持ちよくなりたければ自分の右手だけで十分さ。あっはっは」
 猿神は笑い飛ばした。二人の外見は派手だが、清い仲であった。白雪は何度も猿神に体でお礼をしたかったが、そのたびに断られていた。
「……おほん。では、教授に連絡を入れるか」
 猿神は学生服のポケットに入れていた携帯電話を取り出すと、教授こと、猿神と白雪の担任教師であり、名前は大槻愛子だ。彼女は東大出身で理学部を卒業しており、教授の肩書を持っていた。だから愛称で教授と呼ばれている。
「あれ?」
 猿神は携帯電話をいじっていると、首をかしげた。その様子に白雪が訪ねる。
「携帯が通じないんだ。圏外とも違う。今度は電話を使ってみるか」
 猿神は部屋に置かれているFAX付きの電話機を手にした。そして電話番号を押すと、受話器に耳を当てる。すると顔をしかめた。
「こちらも通じない。どうやら俺の家も包囲されたみたいだな」
 その時、変な臭いがした。それは寝室から漂ってくる。何か空気が漏れる音がした。すると猿神と白雪は頭がくらくらしてきた。急激な眠気が襲ってくる。二人はくたくたとくらげのように床に倒れてしまった。
 そこに人影が現れた。それは寝室から入ってきたのだ。最初にガラス戸をガラス切りで開けた後、ベッドの上に催眠ガスを置いたのである。そしてガスは部屋中に充満し、部屋の主を深い眠りにいざなったわけだ。
 その影は女性であった。全身を黒く、身体にぴっちりとしたスーツを着ており、身体の線は胸部と臀部が大きく目立っていたからだ。
 身長は小柄であった。顔立ちは目元を暗視ゴーグルで覆っているのでわからないが、すらりとした鼻立ちに引き締まった口元。化粧気は感じられない。銀色の短髪で逆立っている。スポーツ選手に近い感じだ。しかし彼女は健全には見えない。猿神の部屋に不法侵入したからだ。
 影は床に俯けに寝ている白雪に歩み寄る。
「……、ボクはあなたに恨みはない。金の皿などほしくはないし、キミが錘に刺さって死ぬことも望まない。ただボクと一緒に来てもらうだけだ」
 影は独り言をつぶやくと、携帯電話を取り出した。仲間に連絡を入れるのだろう。しかし影の顔が険しくなった。
「ヘイ! 俺の恋人をどこに連れて行こうというんだい?」
 影ははっとなり、声のほうを向いた。そこには猿神が立っていたのである。
「なっ、なんで起きているんだ!! 催眠ガスをたっぷり吸ったはずなのに!!」
 影は大慌てで叫んだ。
「そんなことはどうでもいいだろう。ヘイ! 質問に答えてもらうぜ。俺の恋人、白雪小百合をどこに連れて行こうというのかね? まさか、お城に幽閉して鉄条網みたいな茨で囲み、百年経つまで解放しないつもりなのか?」
「くっ、答える必要はない。くらえ!!」
 すると影は右手を突き出した。そして右手首から鋭い針が飛び出したのである。猿神は紙一重でよけた。
 影は相手によけられたことに焦り、今度は左足で蹴った。蹴りは猿神の頭部をめがけて飛んでくる。それも猿神はしゃがんでよけた。
 猿神はしゃがんだ状態のまま、床を蹴る。そして右の拳に力を込め、影の顎を打ち抜こうとした。
 影はブリッジすることで、猿神のアッパーカットをかわした。その際に両腕は壁のほうに向けた。影の両手首から針が飛び出る。針は壁に突き刺さった。
 猿神は渾身のアッパーカットを空振りになると、その隙をついて影は弓のように曲がった身体を一気にぴいんと飛び跳ねた。
 影の両足は天井に向かって高く伸ばされる。そして右足の踵で猿神の頭部を叩きつけようとした。
 猿神は体を右回転させ、影の尻を眺めていた。猿神は右足の踵をぎりぎりでかわす。影の両足は床についたが、今度は左足のつま先で猿神の顎を狙った。
 猿神は迫りくる左足のつま先を、顎を軽く引いてかわした。影の左足は天井に向かって高くつきあげられる。そして猿神は体をさらに回転させ、影の左わき腹に蹴りを入れた。
 影は壁に突き刺さった針をひっこめると、そのまま蹴り飛ばされ、壁に衝突した。影はけほっけほっと咳き込む。猿神はボクシングを習っているが、蹴り技も鍛えている。ボクシングスタイルはあくまで擬態であり、喧嘩に使っている。切り札なので滅多に蹴りは使わない。そのとっておきが今であった。
「くそぅ、なんなんだよ、こいつは。ただの高校生だと思っていたのに。しょうがない、とっておきの手を使うか」
 そういって影は暗視ゴーグルを外した。鋭い眼差しであった。美少女というより、美男子に近い少女である。もっともどこか幼さを感じており、無理して精悍を演じているといったところか。
 影は黒いスーツを脱ぎだした。そこから出てきたのは黒いビキニブラに、黒いビキニパンツといった恰好であった。ビキニブラは乳首を隠す程度であり、ビキニパンツは極端に面積が少なかった。
「さぁボクの色気にメロメロになりなさい。オー、ホイホイ。オー、ホイホイ」
 影は両肘を脇腹につけると、腰を振りながら扇情的な踊りを始めた。
オー、ホイホイ。オー、ホイホイと口をすぼめている。男を挑発しているつもりなのだろうか。時折猿神に尻を向けて、ぷりぷりと振ったり、突き出したりしていた。
 猿神はまったく動けなかった。影はじりじりと猿神に近づいてくる。そして二人の距離は目睫に迫っていた。
「ねぇ、ボクってきれい?」
 影は猿神の後頭部に手にしようとした。しかし猿神は突如影の左手をつかんだ。焦った影は左手首から針を突出させる。猿神はそれを自分の右肩に突き刺した。針は根元まで突き刺さり、影は慌てて針を抜いた。
「なっ、何を!!」
「……ヘイ! こうでもしないと、眠気が覚めないものでね。あんたの含み針のせいでな!!」
「なっ、なんで気づいたんだ!?」
 影は焦っていた。彼女がスーツを脱いで猿神に迫ったのは、色気で彼を懐柔するわけではなかった。実は口をすぼめた際に口の中に含んだ金針を猿神に吹き付けていたのだ。いわゆる鍼灸というもので、古代から中国に伝わっているものである。
 影は金針を猿神に吹き刺すことで、彼を眠らせようとしたのだ。猿神が眠りから覚ますためにわざわざ影の針を突き刺したから、効果はあったのだ。
「俺は目がいいんだ。お前が変な掛け声をあげるたびに、口から何かを噴き出しているのはお見通しだったのさ」
「そんな馬鹿な!!」
「現にそのバカは目の前にいるぜ。つーか、オー、ホイホイはないだろう。色気どころかしらけさせるね。さてユリーはどう思う? こいつはハールとか、イーゼルたちの仲間だと思うかね?」
 猿神が白雪のほうを向いて声をかけると、白雪はむくりと起きた。その右手にはマスクがあった。それは以前メイド喫茶デズモンドに行ったとき、店長であるクイーンから渡された、折り畳み可能な簡易ガスマスクである。五分程度なら完璧に防げる優れものだ。
 メイド喫茶デズモンドは上品さを売りにした作りをしており、熱心な客層が多い店だ。その正体は内閣隠密防衛室の支店であり、クイーンはスペクター専門の秘密道具を製作しているのである。秘密道具の中には消しゴム型の催涙ガスもあり、先ほどのマスクはそのおまけである。猿神にも渡されており、二人は影の催涙ガスを防いだのだ。
「ハールを知っているのか? ボクはてっきり標的が男の家に来たから行動を起こしたのに。それにイーゼルだと? ブレーメンのやつらが来ているなんて聞いてない」
「イーゼルだけでなく、カッツェというやつもいたらしいぜ」
 影は目を丸くしており、完全に混乱していた。どうやら彼女は白雪がハールから逃げてきて、代わりに彼女を捕えようとしたわけではないようだ。
「……その人の話が正しければ、ハールはその人の仲間で、イーゼルとカッツェはブレーメンという別のチームみたい。でも意思の疎通はしていないようね。だって私がここに来た理由を全然知らなかったみたいだし」
「それに目的も違うみたいだな。ハールとこいつは少なくともユリーを殺さずにつれて行こうとしていた。それにこいつはおれを殺さず、あくまで眠らせようとしていたな。だがイーゼルとカッツェはユリーを殺すと宣言している。お前らは何者だ? 目的は言わなくていい、お前さんはおつむの回転が悪そうだからな」
 実際影は話についていけなかった。手首から針を突き出す能力者だが、精神はあまり強くないようである。
「ボクはビーネ。ヘキセンハウスのヘクセよ」
 影は自己紹介をした。猿神は白雪に質問する。
「ビーネってどういう意味だ?」
「ドイツ語で蜂よ。針はお尻からではなく、手首から出ているけどね。たぶん血液中の鉄分を凝縮して針を作り出しているかもしれないわ。鉄分は酸素を運ぶ重要なもの。手首だと血が噴き出しやすいからだわ。きっと彼女は暗殺専門なのでしょう。針で一気に突き刺すからあまり長時間の激しい運動に耐えられない。だから色仕掛けに見せかけて、針麻酔を行ったのだと思うわ」
「ひゃあ!! なんであんたはそこまで知っているんだ!? あんたらはいったい!!」
 何やら話が脱線し始める。白雪はあくまで推測で話しただけだが、どうやら図星だったようだ。慌てふためく彼女に対して、猿神は一度自分たちの立場を説明することにした。
「俺たちはスペクター、見習いホヤホヤだがね。内閣隠密防衛室の諜報員、でいいんだよな?」
 猿神は白雪に振ると、彼女はうんと、首を縦に振った。
「ひぇえええ!! スペクターだって!? プリンツェッスィンがスペクターだったなんて聞いてないよ!!」
「ぷりん、なんだって?」
 影、ビーネは素っ頓狂な声を上げる。話が脱線しかけているので修正しようとしたら、玄関のほうにどぉんと轟音がした。
 猿神は玄関に急いで向かうと、ドアの蝶番の部分が煙を上げていた。
 さらに轟音が響き渡る。耳がおかしくなりそうだ。さらに部屋中に火薬の臭いが漂っている。クラッカーなどを鳴らした時に出てくる臭いだった。
 そして今度はドアをがんがんと蹴り飛ばす音がした。ドアは乱暴に倒されると、そこからヘルメットを被り、暗視装置を付けた黒いアサルトスーツを着た男たちが無理やり土足であがってきた。手には機関けん銃が握られている。銃身からほのかに陽炎が浮いているので、その銃でドアを無理やりあけたのだろう。
 アサルトスーツの男たちは全部で五人。全員が機関けん銃を持っていた。MP五でマシンピストルとも呼ばれている。ドイツのヘッケラー&コッホ社、略してH&Kが開発している。九・一九ミリバラペラム弾を使用しており、携帯性に優れたものだ。
日本の特殊部隊であるSATや、拳銃対策部隊、原子力関連施設警戒隊、海上保安庁の特殊警備隊などが所有している。もっとも白雪は銃火器に詳しくないので、単に拳銃より大きいとしか思っていない。逆に猿神は銃火器を知っているのか、「MP五だと? どんな特殊部隊だよ」と忌々しそうにつぶやいていた。
「おいおい、呼び鈴も鳴らさないで土足で上がるとは礼儀知らずだね。日本語わかるかな?」
 猿神が茶化すとアサルトスーツの一人がMP五をサンドバッグに向ける。轟音が鳴り響くと、サンドバッグは哀れ蜂の巣になった。ざらざらと砂がこぼれ落ちる。
「ヘイ。ビーネとか言ったな。こいつらはお前のお友達かね?」
「知らない。少なくともイェーガーの装備でないことは確かだ」
「イェーガーというのがお前の所属か?」
 猿神が訊こうとすると、アサルトスーツはMP五を猿神に向ける。これ以上余計な事をしゃべるなという意思表示だろう。
 アサルトスーツの一人が白雪に目を止めると、一斉に彼女に銃身を向けた。相手は白雪が目当てのようだ。それも彼女の命がほしいらしい。
「おい、お前」
 ビーネが猿神の脇腹を肘で突いた。
「ボクの使命はプリンツェッスィンをあるお方の元にお連れすることだ。彼女の命などほしくない。かといって百年の眠りについてほしくない。お前があの人を連れて逃げるんだ。ここはボクが食い止める」
 猿神は小声でビーネを止めようとした。
「何言っているんだ。ユリーの話がマジならお前は一撃必殺の暗殺が主流で、長期戦は向いていないんだろう?」
「向いてないよ。でもボクはそんじょそこらの男には負けない。MP五はおろか、AKを持つ奴を十人相手にできる」
 そういうビーネだが歯がかちかちと鳴っていた。おそらくハッタリだろう。しかし恐怖より使命を優先しているようだ。
「こいつらの目をくらませるものはないか?」
「ある」
 猿神は白雪を見た。そして瞬きで彼女に意思を伝える。猿神の伝心に気付いた彼女は同じく瞬きをした。猿神は首を縦に振る。
「今からユリーが煙幕を張る。お前はあいつらを引きつけろ」
 その瞬間ビーネは首を縦に振ると、踊りだした。例の猿神を魅了しようとした踊りだ。相手はアサルトスーツを着ているので含み針は期待できない。
 アサルトスーツたちの視線がビーネに引きつけられると、白雪はポケットにしまっていた消しゴム型煙幕を取り出し、床に叩き付ける。
 一瞬で猿神の部屋は白い煙幕で見えなくなった。そしてMP五の発射される音が鳴り響いた。猿神は部屋の間取りを熟知しているので、白雪を抱えると、寝室のほうへ走った。そこにはビーネが窓を開けており、そこから逃げた。ベランダには避難用の脱出路があり、二人はそれを使って一階に降りた。猿神は二人の靴を用意していた。ちなみに白雪の靴は非常用のために置いてあった物だ。
 二人は一目散に逃げた。アパートからはマシンピストルが織りなす音楽会が催されていた。

 *

 一時間後、二人は新宿中央公園まで歩いて逃げてきた。新宿は自動車よりも歩いたほうが楽なのである。相手は目立つ服装をしている。MP五を振り回すことはできないだろう。
 中央公園に来たのは理由がある。中央公園の近くに担任教師の大槻愛子が住むマンションがあるのだ。猿神は携帯電話を部屋に置き忘れてしまった。それで直接彼女の元に出向いたわけである。彼女なら深夜に訪問しても悪態はつくだろうが、自分たちをかくまってくれる。そういう性質であることを知っていた。
 猿神は一旦ベンチに休んだ。眠気さましとはいえ、自分の右肩にビーネの針を突き刺したのだ。激痛と出血で頭がくらくらしてくる。白雪は応急手当のセットを取り出すと、猿神の傷の手当てをした。
 白雪は手当てをしながら、自分たちが置かれている状況をまとめてみる。
 最初に部屋を襲撃したハールと、猿神の部屋に侵入したビーネは同じ集団、ヘキセンハウスの人間ということだ。そしてイーゼルとカッツェはブレーメンという集団で、イェーガーという組織に所属しているようだ。ただしハールのことをだが、白雪がハールの元から逃げ出したことを、ビーネは知らなかった。ハールからの連絡があったわけではなく、ビーネは独断で動いたに過ぎない。
 さらにイーゼルとカッツェのことも知らなかった。特殊な能力を持っているのに、連絡体制がまったくなっていなかった。あまりにもちぐはぐすぎているのだ。
 あと猿神の部屋に乱入したアサルトスーツを着た武装勢力だが、ビーネは知らなかった。仲間であるイェーガーとは違うようである。いくら組織が分かれているとはいえ、自分の組織が持つ装備品を見間違う人間はおるまい。
 それにアサルトスーツの連中はやり方が乱暴すぎる。銃声を轟かせ、物を壊しまくっているのだ。機関けん銃を東京の真ん中で撃ちまくるなど正気の沙汰ではない。外国の犯罪組織でも拳銃は撃つが、機関けん銃は撃たない。
 日本での発砲事件は、頭のおかしい民間人が猟銃を発砲したり、暴力団が拳銃を使って敵対する人間を撃ったりするのがほとんどだ。沖縄のアメリカ兵は日本人に暴力を振るっても拳銃を撃ったりはしない。
銃社会のアメリカでも民間人の発砲事件は多いが、どれもショットガンか、拳銃の犯行だ。テロリストがアサルトライフルを振り回すのは、よほどの発展途上国でないと起きない。
 いったい何が起きているのだろうか。自分がスペクターになったからか。違う。ハールもビーネも白雪がスペクターとは知らなかった。ただ自分をある場所へ連れて行くことだけが使命だったようだ。
 わからない。相談しようにも連絡する手段がない。この手の話は担任教師の大槻愛子しかできない。応急手当てを終えたら、急いで彼女のマンションに行こう。そう思った矢先だ。
「くっくっく、鬼子(おにこ)の白雪小百合は君かな〜?」
「ひっひっひ!! その暗黒大陸の住人に似た黒い肌は見間違えがないなぁ〜」
 下卑た笑い声を黒いコートを着てサングラスをかけた男たちが現れた。全部で三人いる。どれも両手に拳銃が握られていた。白雪は知らなかったけれど、彼らが持つ拳銃はUSPタクティカルという自動拳銃である。口径バリエーションは九・十九ミリ・パラベラムを使うタイプだ。こちらもドイツのH&Kが開発している。ドイツ連邦軍の制式拳銃に採用されており、日本警察のSATにも採用されている。
イーゼルとカッツェと同じ服装だが、どこか違う。口調がどこか軽い。口元はだらしなく開いている。それに体がふらふらくらげのように頼りなく揺れていた。年齢は二十歳になったばかりといった感じである。
「あっ、あなたたちは一体……?」
 白雪が訪ねると、黒コートの男は手にした拳銃を猿神に向ける。そしていきなり引き金を引いた。
 轟音が響くと同時に猿神の左足の太ももから血飛沫と硝煙があがる。猿神は思わず立ち上がり口元を押さえ、喉から飛び出そうな絶叫を左手で押さえようとしていた。
 さらに轟音が二度響いた。今度は右足のふくらはぎに穴が開き、右腕にも穴が開いた。
「うぅ、うがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 さすがの猿神も銃弾を三発も喰らって我慢はできなかった。腹の底から絶叫をあげる。地面に倒れたが、それでも口を食いしばり、脂汗をだらだらと垂れ流した。
「あーっはっはっは!! いい声だなぁ。でも命乞いをしないのは気に入らないなぁ」
 黒コートの一人がげらげら笑っている。白雪は目を丸くしたが、現実に戻ると血の海と化した地面にのた打ち回る猿神に駆け寄った。
「なっ、なんで!! どうしてこんなことを!!」
「こんなことを、だって〜? それはお前のせいなんだよぉ。白雪小百合!!」
 黒コートの男が嘲笑いながら言った。白雪は何を言われているのか理解できなかった。
「すべてはお前を苦しめるためなんだよぉ。我々は特殊部隊イェーガーの隊員だ。然るお方の命令で動いているんだよぉ!!」
 そういって白雪を蹴り飛ばした。もう二人は猿神に近寄ると、血があふれ出す銃創を踏みつける。猿神は歯を食いしばり、声を出すまいとした。その態度が気に食わないのか、男たちはさらに傷口を踏みつける。近くにマンホールのふたがあり、そこから血が流れて落ちている。
「さぁ白雪さ〜ん。こいつを助けてほしかったら、ストリップをしてくださ〜い。そうしたらこいつの命だけは助けてあげるよ〜?」
 男は下種な提案を出すと白雪の顔は蒼くなった。しかし、意を決すると白雪は立ち上がった。
 まず制服の上着を脱いだ。白いブラジャーと日に焼けた肌が露出される。
 次に制服のスカートを脱いだ。フックを外し、すとんとスカートが落ちる。普通の白い下着だ。色気のある下着ではない。もちろん白雪はその手の下着を持っているが、猿神は見ようとしていないので、タンスの肥やしになっていた。
 男たちは服を一枚ずつ脱いでいく白雪を見て、口笛を吹いたり、からかったりしていた。
 白雪は下着姿になった。乳房はほどよく膨らんでいる。腰は引き締まっており、脚はすらりと長かった。彼女は日本人ではなく、ヨーロッパ系だ。モデルとして通用するだろう。
 白雪は恥ずかしくで顔が赤くなった。猿神に見せるならいいが、知らない男たちに見せるのは嫌だ。恥ずかしさで穴に入りたいくらいだ。猿神を救いたいという気持ちが恥ずかしさを上回っているのだ。
「……。気に食わないねぇ。男を救うために恥を忍ぶなんてさぁ、気に食わないよ」
 男の一人が猿神の頭部に銃口を向けた。
「なっ、なんで!! 私は脱いだのに!!」
 白雪が叫ぶ。男はにやりと笑った。
「ひっひっひ。俺たちが見たいのはその顔なんだよ。お前が嘆き苦しむ顔が見たいんだよ。それがあのお方の望みなんだよぉ!! ひーっひっひっひ!!」
 男たちはよだれを垂らしながら、げらげら笑っている。完全に正気を失っていた。猿神は倒れながらも、白雪を見る。その眼はいたぶられ、命を弄ばれている弱者の目ではない。白雪に対して、自分を見捨てて逃げろと視線は訴えている。
「さぁて、お前のストリップなんか見たくないや。こいつを殺してお前が嘆く姿を見物させてもらおうか。じゃあ、死ね」
 男は猿神を撃とうとした。白雪は「誰か助けて」と叫ぼうとした。だが声が出なかった。男たちはそれを見て残虐な笑みを浮かべた。
「やれやれ。予定が狂ったべ」
 どこからか声がした。それは地獄から響いているような声だった。男たちは声の主を探すが、周りには誰も見えなかった。いたずらな妖精が人間の死角に隠れている気がした。
「おらはここだべよ」
 その瞬間、猿神の近くにあったマンホールが突如飛び出した。マンホールのふたは五メートルほど高く上がった。下水道の水が噴き出したのかと思ったが、そのふたの下には水ではなく、黒い革のスーツを着た男が頭をふたに乗せていた。
 頭は四角い箱のようでガスマスクを着けていた。体は小柄だが全体が筋肉で盛り上がっている。腰には刀を差していた。男は体をバレエのように回転させながら、手にした刀を振るっていた。刀は月の光に当てられ、キラキラしていた。
 ふたは勢いが弱まると、落下し始めた。男は刀を腰の鞘に納めると、両手でふたをつかむと、脚を曲げるとふたを自分の足元に持っていく。
 そしてふたは男と一緒に元の位置に落下した。男たちは銃口を見る。銃口は横に切り裂かれていた。四角い男の仕業だ。ガスマスクで顔は見えないが、ドヤ顔を浮かべているかもしれない。
「おらはフントだよ」
 ガスマスク越しでフントと名乗る男は挨拶した。男たちは一瞬呆けたが、すぐに正気に返ると、壊れた拳銃を投げ捨てると、腰に差してある新しい拳銃を取り出した。
「そして私がフーンです」
 今度は頭上のほうから子供のような声がした。全員が頭を空に向けると、街灯が見える。その街灯に人影があった。子供のように小さな体で、フントと同じ黒い革のスーツを身に着けている。モヒカンで髪を赤く染めていた。顔立ちは大人であり、子供の身体にちょこんと乗っているように見える。いわゆる小人症であろう。サングラスをかけていた。
それは街灯のポールに立っていたのだ。両腕を組み、重力を無視して立っていた。
 男たちは小柄で弱そうなフーンに銃口を向け、発砲した。フーンは街灯を蹴り上げると、白雪のほうへ飛んでいく。そのまま落下するかと思いきや、フーンは空間を漂っていた。まるで風船のようにふわりと浮いているのだ。
 男たちは発砲し続けるが、フーンは微妙に体を動かすことで、銃弾をすべてかわしていた。
 そして忘れられたフントが刀を抜き、男たちに刀を振るう。
 男たちはくたくたと倒れて行った。刀には血はついていない。全員峰討ちだ。
 フーンは両手をぱたぱたと振りながら、白雪の元に降りてきた。
「グーテン・アーベント。フロイト・ミッヒ」
 フーンは白雪に挨拶した。それに合わせて茂みから影が飛び出た。それは黒いアサルトスーツの集団であった。全員MP五を手にしている。猿神の部屋を襲撃した連中と同じ装備品であった。それを見たフーンはため息をついた。
「やれやれ。ヘクセがいたならあなたの命を狙っていたのですがね。ここはあなたを守ることにしましょう」
「んだな。ここはおらたちがなんとかするだよ。あんたは早くそいつを連れて逃げてくだせぁ」
 フントは訛りのある口調で白雪を守るように立った。
「公園の出入り口に行きなさい。あなたの知り合いに連絡を入れたので、もうじき迎えが来ますよ。早く行きなさい」
 フーンが丁寧な口調で白雪に指示する。アサルトスーツの男たちはMP五を自分たちに向けていた。その数は十数名。とてもではないが、たった二人で相手にできるとは思えない。
 白雪は猿神を背負いながら必死に走った。猿神の体重はそれなりにあるのだが、火事場の馬鹿力なのか、猿神の足を引きずりながらも前に進んでいく。
 後ろから銃声が響くが、白雪は振り返らなかった。そして公園の出入り口にたどり着くと、夜鷹のように黒いワンボックスカーが走ってきた。
 そして白雪たちの目の前に止まるとドアが開いた。
「さあ、早く乗りなさい」
 車から出てきたのは意外なことに小柄で銀髪の美少女であった。美少女なのだが能面に例えられたように何の感情も伺えない無機質な顔であった。しかも彼女は制服をゴスロリ系に改造しており、頭に白いリボンをつけていた。セルロイド人形みたいである。
 生徒会役員で書記を務めている円谷皐月であった。運転席は意外なことに生徒会副会長の乙戸帝治がいたのだ。乙戸は白雪に向かって手を挙げて「よぉ」と挨拶した。
「なんであなたが……」
「説明はあとよ。早く乗らないと、あんたが背負っている大猿が、命の雫をすべて零れ落ちていくわよ」
 白雪はすぐに猿神を車内に入れた。そして自分も乗り込むと車はその場を離れていく。その後銃声を聞いた誰かが警察に通報したのか、パトカーがやってきた。しかし警察官二人は何も発見できなかった。正確には地面や街灯などに銃弾の痕があったので銃撃戦があったことは予測できた。しかし誰もいなかった。中央公園に住んでいたホームレスたちは銃声が怖くて近づいていないという。
 ただ鑑識が調べた結果同一人物が流したらしい血痕は発見された。その相手はどこに消えたのだろうか。警察官たちは難事件に頭を悩ませていたが、突如上層部から調査の中止が言い渡された。誰も被害者がいないという理由だった。マスコミにも一切言及しないようにと念を押されたという。
 そして白雪と猿神のアパートの事件も揉み消された。正確にはガスの不始末による爆発事故として片づけられた。住人は病院で検査中だという。それを白雪が知ったのは翌日の朝刊であった。
 そのとき白雪と猿神はどこにいたのか。それは生徒会役員が住むアパートであった。

 第三話:フェアラート(裏切り)』

 白雪小百合と、銃弾を受け負傷した猿神拳太郎は、生徒会役員、副会長乙戸帝治が運転するワンボックスカーに乗っていた。車は新宿区内にある雷丸学園の近くにある、セッル共和国大使館の隣にあるアパートの前に止まった。目の前は白いペンキで塗られたシャッターが閉じている。乙戸は運転席にあるボタンを押すとシャッターがギコギコと音を立てて上がっていく。
 その間に生徒会役員の書記である円谷皐月が応急手当てをしている。恐ろしく手際が良かった。そして何やら端末をいじり、入力している。
 完全に上がりきると、車は中に入っていく。中は車庫であった。工具が置いてある棚や、代用のタイヤなどが置かれていた。明かりは裸電球だけであり、薄らとしていた。
 車は中に入るとシャッターは自動的に降りた。シャッターが下がると、今度は地面から唸るような音が上がる。車が下がっていく。いや地面が下がっているのだ。おそらく車庫の床はエレベータのように上下する造りなのだろう。
 数分後唸り声は止まった。車は広く、真っ白な壁に、きらきらした床、そして明るい照明で満たされた部屋であった。おそらくアパートの地下に秘密基地を作ったのだ。特撮番組に出てくる悪の組織みたいだと白雪は思った。
 部屋には手術着を着た三人の男が立っていた。男たちは猿神を担架に乗せると、部屋から出て行った。
「この家にある手術室よ。猿神に必要な血液と薬品はすでに揃えてあるわ。手術も手慣れた人がやるしね」
 はてな? 手術とはなんだろう。先ほどの男たちは見覚えがある。いつも乙戸の後ろにいる生徒会執行委員という名の不良たちであった。彼らが手術をするというのか?
 その不安を円谷は嗅ぎ取ったのか、にやりと笑う。
「彼らは執行委員だけど、医学は通じている。医大の試験を受ければ合格は間違いなしの実力者よ。いいものを見せてあげる」
 円谷は白雪を連れて別の部屋に行く。そして廊下を歩き、数メートル先にたどり着く。そして十畳くらいの広さの部屋に入った。そこには美容室にあるような髪を乾かす機械に似たものが置かれてあり、その横には学校の下駄箱並みの大きさの箱が置かれていた。
「これはサイコプリンターという装置よ。そこにあるスパコンに入力された情報を脳に刷り込むわけ。義務教育レベルなら小学一年から六年までなら一年で覚えられる。中学、高校三年なら一年、医大は二年レベルを一年で刷り込める代物よ。スペクターなら教育の際に使用されるわ」
 円谷は説明したが、円谷の口元が皮肉っぽく笑う。何か含むものがあるのか、白雪はそれ以上訊かなかった。円谷は何かの意図があり、白雪を案内したのだろうと思っていた。
「ところであなたはなぜ私たちを助けてくれたのですか?」
 円谷は生徒会であり、白雪は風紀委員会を務めている。生徒会は風紀委員を憎んでいた。もっとも生徒会会長の満月陽氷が望む生徒会のために、円谷があえて工作しているのだ。円谷と陽氷は固い絆で結ばれている。円谷の年齢は一六歳だが、陽氷は違う。彼の本名は丸尾虹六であり、遺伝子操作で成長速度を四倍に速められたのだ。知識は医学、薬学、生物学を学者の如く覚えているが、精神は幼児並みであった。生徒会は陽氷が望む遊び場のようなものである。ちなみに円谷皐月の本名は丸尾虹五である。女の子に見えるが、実は男だ。いわゆる男の娘である。
 転校生として雷丸学園に来た丸尾虹七とは異母兄弟である。陽氷は幼少時に虐待されたのに、虹七は内閣隠密防衛室室長である花戸利雄と秘書の松金紅子に愛情をたっぷり与えてられて育てられたのだ。その恨みを円谷は抱いている。自分のことよりも弟分の陽氷の恨みを晴らそうとしていた。
 その誤解も解けた。陽氷を虐待したのは宇野博士という内閣隠密防衛室、通称内防の化学班主任であった。あだ名はドクター宇野と呼ばれている。貧乏人だったが寝る間も惜しんで努力し、学生時代に築いたコネで出世した男である。
 彼は一度雷丸学園にセッル解放戦線のメンバーを呼び、学園を占拠した。花戸利雄が気に食わないので嫌がらせのために呼んだという。実にわけのわからない理由だ。
 この計画は虹七と生徒会と風紀委員によって阻止された。
 宇野は花戸に尋問されたが、彼は何も覚えていなかった。その後の調べで宇野が丸尾虹六を虐待などしておらず、そう思い込まされていたのだ。誰かが陽氷にでたらめの記憶を教え込んだのである。
 幼少時の記憶は簡単に書き換えられる。陽氷は成長速度が速いので、記憶力も抜群だ。それ故、学習期間に虐待されたと言われ続けたので、陽氷はそう思い込んだのだ。それは円谷も同じである。
 誤解は解けたものの、心の傷は身体の傷より癒えるのが遅い。心が虹七を、ましてや内閣隠密防衛室を受け入れるわけではない。わだかまりは残っている。それなのに虹七の友達である自分をなぜ助けたのか、白雪は疑問に思っていた。
「電話があったのよ。生徒会しか知らない回線でね。生徒会は問題児でも救いの手を差し伸べるはずだと言われたからね」
 円谷はふてくされた顔になる。あまり白雪たちを助ける気がなかったのかもしれない。
「やあ白雪さん。とんだ災難だったねぇ」
 そこに一人の男が現れた。身長は百八十くらいで、背筋は伸ばしており、か弱さを感じなかった。総髪で腰まで伸びており、女性のように滑らかな艶があった。
 目つきは日本刀のように鋭く、鼻はすらりと伸びており、口は頑なに閉じていた。美男子ではあるが、人間味が薄く、能面を被っているのではと錯覚するような造りであった。今は無理に笑顔を作っている感じがした。どこかぎこちなさがある。
 生徒会長満月陽氷である。
「あら陽氷は寝てなかったの?」
「ああ、さっきまで寝ていたよ。でも騒がしくなったから起きてしまったのだよ。さっき帝治から話を聞いて、今の状況を知ったのさ」
 時刻はすでに午前一時になっている。
「それはごめんなさい。私は生徒会の仕事をしていたのよ。あなたはもう寝てなさい」
「いやいや、そんなことはできないよ。うちの生徒が襲われたんだよ。例え素行の悪い問題児でも、雷丸学園の生徒を傷つける人間は許せない。私も加えてもらうよ」
 陽氷はにっこりと笑う。どこか頬の肉が引きつっている。無理して笑っているのが滑稽であった。
「さあ白雪さん、食堂に行こう。そこでゆっくりと話をしようじゃないか」

 *

 食堂は同じ階層にあった。ここは生徒会が作り上げた秘密基地で地下三階に位置するという。核シェルターの役割を果たしており、医薬品や輸血用の血液、医療道具が揃えてある。缶詰や乾パンなどの保存食もあるが、太陽光線でクロレラを増やす培養装置があった。クロレラはたんぱく質が多い。最初は消化率が悪いとされているが、改良されているので、食料がなくなってもクロレラがあれば生きていけるのだ。
 さて食堂は病院のように清潔な作りでできており、テーブルが二つあった。そのうち一つに四人の生徒が食事を摂っていた。肌の色は浅黒い。全員セッル共和国の留学生である。
 角刈りで、身体がやたらとやせ細っている長身の男子生徒は、コッファーシュ。
 三つ編みに黒縁メガネをかけた、背が小学生並みに低い女子生徒は、アフアァ。
 禿頭で額が腫れぼったく、巨漢の男子生徒は、ヤラカーナ。
 禿頭でサングラスをかけ、両手に手袋をしている小柄な男子生徒は、コルトである。
 彼らは以前虹七が陽氷と戦う前に、前哨戦として戦ったことはあるが、白雪は面識がないのでわからなかった。
「彼らは学校の警備が終わって帰ってきたのよ」
 円谷が説明した。四人は白米と納豆、冷奴にわかめとじゃがいもの味噌汁を食していた。
「母国の食事はとらないの?」
 白雪が質問すると、コッファーシュが片言の日本語で説明する。
「わたしたち、日本に留学しています。郷に入れば、郷ひろみの、ことわざ、あります。留学中は、月に一度しか、母国の食事、しません」
 ことわざは間違っているが、あえて注意しなかった。
「彼らが影の生徒会なのよね? コウちゃん、から聞いたけどセフレッヤとかコッファーシュという名前は暗号名でしょう」
 するとコッファーシュは首を振った。
「それ、わたしたちの、本名。わたしたち、親の愛、知らない。適当に、つけられた。わたしの名前は、コッファーシュ。日本語でこうもりです。こうもりのように、やせていたから、つけられた。ここにいる、みんな。日本にこなかったら、母国の大地で、こやし、です」
 白雪は絶句した。影の生徒会の面々は暗号名ではなく、本名だった。どれだけ親の愛情をもらうことなく育てられたのだろうか。それを感じたのかコッファーシュが付け足した。
「でも母国では王政とくらべ、生活はよくなりました。私の姉、日本の病院で、看護師してます。ひと月で一年分稼ぎます。私たちががんばって、日本の大学を卒業し、さらに高い給料もらえる職につけます。そう思うと、がんばれます」
「彼らが日本にくる際に、先ほどのサイコプリンターで三年かけて義務教育を卒業する学力を身に付けたの。そして日本では医学を学んでもらい、母国で活躍してもらうわけよ」
 円谷が白雪に説明した。おそらく彼らの苦労を知らなかった白雪に対するあてつけだろう。
「日本では、国語、英語は、なんとかできます。でも、音楽、美術、まったくだめです。感情こもってない、ただ吹いただけ、描いただけ、いわれます」
「それでも、日本のアニメ、まんが、だいすきです。とくに素浪人銃兵衛と、超人学園ジュヴナイラー、おもしろいです。銃兵衛は、銃弾の、跳弾で、敵の浪人たち、刀五本、弾き飛ばすシーン、お気に入りです」
 アフアァが言った。彼女の言ったのは素浪人銃兵衛の第一話のことだ。
 時は幕末後期で、江戸にたどり着いた主人公野牛銃兵衛(やぎゅう・じゅうべえ)は、町医者の娘、流れるような黒髪に、人形のような顔立ち、竜胆の柄で身体の線、乳房や臀部がきっちり出ている着物を着た宇野竜胆(うの・りんどう)が維新志士とは名ばかりの浪人崩れたちにかどわかされた。その時銃兵衛が一発の弾丸で、浪人五名の刀を跳弾で弾いたのである。それを見た浪人たちは銃兵衛に恐れをなし、逃げたのである。
 その後銃兵衛は江戸の治安を守るため、謹慎中の軍艦奉行勝海舟が秘密裏に作った組織、亡霊党(ぼうれいとう)に誘われた。
 銃兵衛に殺された兄の復讐を狙う、ボサボサの短髪で山猿に見えて、太ももが丸見えで薊柄の着物を着る少女。薊(あざみ)
 そして銃兵衛のライバル、天巻一転斎(あままき・いってんさい)という居合斬りの達人の青年。陣笠を目元まで被り、表情を見せない。紺色で白地の渦巻柄の着物を着ている。
 よく見ると食堂には素浪人銃兵衛の実写映画とアニメのポスターが貼られており、テレビの上には銃兵衛のフィギュアが置かれてあった。銃兵衛の容姿は柿色の着物に銃を納めるガンホルスターを腰に下げていた。素手での戦いが多いので、両手には手甲がはめられている。
 他には銃兵衛の敵キャラのフィギュアが並べてあった。
初期の強敵四霊(しれい)では、役者崩れの大男の麒麟(きりん)。
西国から来た維新崩れの小柄な体格の武士、応竜(おうりゅう)。
京に住んでいた自称義賊の長身の男、霊亀(れいき)。
そして彼らを束ねる小男だが長州藩出身で松下村塾出身の足軽、鳳凰(ほうおう)。この四名が銃兵衛を苦しめた。
 そして銃兵衛と同じ銃使いの海鳴弾正(うみなり・だんじょう)がいる。美男子で、銃兵衛の使う拳銃と同じ師匠の作品を持ち、二丁同時撃ちを得意とするが実際は人を一人も撃ったことがない腰抜けである。決め台詞は「銃で自由を蹂躙しろ」だ。
 本棚には銃兵衛の単行本が揃えられており、完全版とコンビニ版も置かれていた。それとテレビアニメシリーズと映画版、実写映画のDVDが揃えてあった。超人学園ジュヴナイラーは置いてない。
「ああジュヴナイラーは娯楽室に置いてあるよ。食事をしながらだと汚れてしまうからね。そっちにもポスターとフィギュアが置かれてある」
 陽氷が説明した。あまり聞いてもどうでもいい話である。
「さて、何が起きたのか、説明してもらいましょうか」
 円谷が椅子に座り、白雪にも勧めた。その横で陽氷も座り、じっと二人を眺めていた。

 *

 白雪は自分の身に起きたことを説明した。ハール、イーゼル、カッツェという謎の人物が自分の部屋で襲ってきたこと。
 猿神拳太郎のアパートでビーネが侵入し、謎のアサルトスーツの集団が襲撃したこと。
 そして中央公園でイェーガーと名乗る集団に襲われ、それを助けたのがフントとフーンだったことを話した。
 それを聞いた円谷は苦虫を潰した顔になった。そしてテーブルに付いてあるボタンを押して、銃火器に関する資料を持ってくるように命じた。五分後に見た目は不良の男が分厚いファイルを持ってきた。
 円谷は「ヴァイスシュネーの装備は……」とつぶやきながら、ページをめくる。そして白雪に目的のものを見せた。
「ヴァイスシュネーの特殊部隊イェーガーならこれを使うのだけど」
 円谷が指示したのはMP五と、USPタクティカルの写真が四枚貼られたページだった。MP五は猿神がつぶやいたのを聞いたからわかるが、拳銃のほうは詳しくないので名称はわからなかった。あらためて写真を見て、イェーガーを自称した男たちの使っていた拳銃だとわかった。
「確かにこれでした。アサルトスーツを着た人たちはこのMP五というのを持っていました。あと、ケン……、猿神くんを撃ったのはこの拳銃で間違いないです」
「なるほどね。ヴァイスシュネーはどちらかといえばドイツよりだし、装備品もそっち関係になる。しかし、面倒なことをしてくれるわね、イェーガーも」
「そもそもイェーガーとはなんですか? ドイツ語では狩人という意味ですが」
「今説明してあげるわよ。イェーガーとはヴァイスシュネー公国の特殊部隊よ。あんたを襲ったヘキセンハウスとブレーメンも元をたどれば同じ組織。ただし、役割は違う」
「役割ですか?」
「そうよ。ヘキセンハウスは日本語でお菓子の家。その中にはヘクセ、魔女が住んでいる。ヘキセンハウスは女性のみで編成され、要人警護を主な仕事としている。ブレーメンは新規に作られた王弟ルドルフの子飼いね。詳しくは知らない。でもイェーガーはナイフや銃火器のプロでもあるけど、特殊能力を持つ者もいる。先ほどのヘキセンハウスのヘクセはまさにそれ。特殊能力は金属探知機には引っかからない。要人警護にうってつけよ。ヴァイスシュネー公国は彼女らを世界各国の秘書兼護衛として送っている。恩を売るためね」
「そうなんですか。ではアサルトスーツの集団は……?」
「それがよくわからない。遠目で見たけどイェーガーの着ているのとは全然違う。それに猿神のやつを撃った連中だけど、自分で特殊部隊だと叫ぶ人間はいない。まったく厄介ごとが多すぎるわ」
 円谷はため息をついた。陽氷はよくわかっていない様子だった。今まで学校では凛々しい生徒会長の姿を知っているだけに、白雪は目の前に座っている男が同一人物とは思えなかった。さらに素浪人銃兵衛の登場人物、竜胆のフィギュアを手に取り、胸や尻を撫でている姿を見ては。
「確かヴァイスシュネーの王子様が行方不明なんだよね」
 陽氷がさらっと口にした。それを聞いた円谷が真っ青になる。
「バカッ!! それを部外者にしゃべるなんて!!」
 すると陽氷は泣きべそになった。
「ご、ごめんなさい……。つい口が滑っちゃった」
「ヴァイスシュネーの王子様……、トビーアス王子のことですか? 確か乙戸さんが留学生として迎え入れるのに難儀しているとか……」
 白雪も釣られてしゃべる。白雪は頬に手を当て、頭痛がするみたいな仕草をする。
「乙戸のやつ、余計なことを……」
 円谷はちらりと白雪を見た。そして考える。
「まあ、いいか。どうせ内防にも話は言っているだろう。ここであんたらにも手伝わせて、恩を売るのも悪くない」
 白雪と陽氷は首を傾げた。そして円谷は説明する。

 *

 ヴァイスシュネー公国が生まれたのは第二次世界大戦に独立した小国である。北はドイツ、南西はスイス、東はオーストリアに囲まれた国だ。
 もともとヨーロッパの貴族のひとり、パトリク・ヴァイスシュネーが大戦のどさくさに紛れて独立したのである。
 パトリクの政策は変わったもので、古代ローマ文明を摸倣としたものであった。かつてルネッサンス時代でも、ローマのマキアヴェッリも、ローマ文明を参考にしたくらいだ。もっともマキアヴェッリ自身は失脚し、みじめな死を遂げたが。
 パトリクの国政は法律を重視したものであった。そして同盟を重要視していた。軍隊に力を注いでいるが、国政を傾けるようなことはしない。
 その一方で製薬会社クーア・ゲッティンを立ち上げた。最初は世界各国の大手製薬会社に妨害されたが、薨去したヘンゼル国王が大学時代にそういった友人たちを作り、コネクションを作った。そうすることでクーア・ゲッティンは大きくなったのだ。
「セッル共和国に革命を起こせたのは、ヴァイスシュネー公国の裏工作があったからよ。でなきゃ、私だけでひとつの国に革命なんか起こせないわ」
 円谷の発言に、白雪は驚いた。確かセッル共和国成立以前は王政だった。ところが軍部のカズブ大佐の主導により、王族は一掃され、共和国制度になった。そこに日本企業がセッル国民のために病院を作り、荒れた土地に手入れを施し、癒してくれたのである。そして周辺国の難民を受け入れるようになった。
 その資金は花戸利雄が集めた脅迫データだ。天下りした政治家や官僚、脛に傷を持つ製薬会社に病院などから金を引き出させる。新宿区にある坂田大学病院もそのひとつだ。乙戸帝治の義手のメンテナンスもそこで行われている。あとはハロルド製薬も協力している。
 その見返りに製薬会社は新薬投与の実験ができる。医学生には多くの手術ができることである。無論セッル国民ではなく、難民だけを選んでいた。自国では新薬実験でモルモットを使うことを反対する動物愛護団体がいるし、医科大学でも医学生に診てもらうことを嫌がる患者が多い。日本では医療特区でも規制が多く、他国と比べて技術が劣っている。規制の緩い他国で経験を積むのは悪いことではない。
 そして難民を傭兵にするのだ。傭兵は正規兵とは数えられず、数字の魔術で誤魔化すのに適している。報酬はひと月で母国の生活費一年分を稼げるのだ。それを拒否する男たちはいない。
 やっていることは非道だが、ヴァイスシュネーにしろ、セッルにしろ、小国故の、苦肉の策だ。ローマのロムレスがサビーネ族の娘を強奪し、サビーネ族を自分の国に誘う時とは時代が違う。それ故に脅迫という非常手段を使うのだろうが、飴もきちんと用意する。
「そもそも花戸利雄のやり方は、ヴァイスシュネーから学んだものよ。ヴァイスシュネーにとっては新薬の実験になる被験者はほしいし、裏では民間軍事会社を立ち上げ、自国民を紛争地に行かせないようにしている。もちろん、ヴァイスシュネーだけでは……」
 それっきり円谷は口を閉じた。余計なことをしゃべりすぎたと思ったのだろう。
「ところで白雪さん。君のしゃべり方が普段と違うようだけど、どうしてなのかな?」
 陽氷がいまさらながらに白雪に質問した。それを円谷が代わりに答える。
「白雪小百合は素行不良のふりをしているのよ。実際は成績優秀で品行もいい。小中学校では自身が日本人ではないからいじめられてきた。うちに入学してからは金で雇ったいじめっこにいじめさせ、猿神拳太郎がそれを救った。それ以降野性味あふれる猿神にふさわしくなるために、全身の肌を黒く焼いた。金髪は地毛だからそのままにしたわけ。そして二人は学園に逆らう反逆者になったわけよ」
 白雪は自分のいじめが生徒会の主導ではないかと疑っていたが、実際にそれを指示した本人の口からきくと、軽い衝撃を受けた。
「なんだって!! どうしてそんなひどいことをするんだ!!」
 それに対して陽氷が激高した。どうやら陽氷は知らなかったようである。
「生徒会の敵を作るためよ。風紀委員の市松はもとより、猿神ならいじめを見過ごさないと判断したからよ。白雪の場合、彼女は日本人ではなくドイツ系白人。いくら髪を染めても容姿が日本人離れしているから、いつもいじめられていた。私がいじめを主導しなくても、誰かしら、いじめを受けていたと思うわね」
 円谷の言葉に白雪は詰まった。事実、円谷の言う通りなのである。
 彼女は幼少時に海道で育った。札幌市に住んでいたが、容姿の件でいつもいじめられていた。両親は仕事が忙しく、滅多に家に帰ってこなかった。たまに帰ってきたとしても家で寝ているだけなので白雪は相談などしなかった。
 相談しても両親はへらへら笑うだけであり、代わりに算数などの参考書を与えるだけであった。中学は自分を知らないところに移った。髪も黒く染めたが、顔つきなど日本人離れしているので、すぐ外国人だといじめられた。外国人のくせに英語がしゃべれないなどなじられた。実際自分が生まれたのはヴァイスシュネー公国というドイツ寄りの国らしく、白雪は両親の同僚の女性にドイツ語を習っていた。その人は難しいけど白雪なら読めると、物理関係の本も贈ってくれた。最初はちんぷんかんぷんだったが、理解できるようになると面白かった。本を読むときだけが幸せであった。
 そして今は猿神拳太郎と出会えたことが幸せである。しかし、その猿神は凶弾によって重傷を負っている。なぜ自分が狙われたのかさっぱりわからない。
 陽氷は円谷の説明に納得したのか、うんうんとうなずいていた。「そうか。ジュヴナイラーとは設定が違うけど、こういうのも面白いな」
「そういえばビーネという人は私をプリンツェッスィンと呼んでいました。ドイツ語で姫という意味ですが、これと関係あるのでしょうか」
「姫……、ねえ。ヴァイスシュネーは特権こそないけど、貴族はいる。あんたの生みの親が貴族様の可能性はあるけど、実際のところは不明ね」
「不明って。あなたは私の出自を知っているのではないですか?」
「確かに調べた。あんたの母親はヴァイスシュネー公国出身で名前はアッシェンといい、庶民。高校を卒業後、王宮のメイドを二年ほど勤めたけど、その後職を辞した。そして八か月後に国立病院に入院し、あんたを生んだ後産後の肥立ちが悪く、身罷ったわけ。父親は不明だけど姫と呼ぶからには貴族のお情けをいただいたのかしらねぇ?」
 円谷はぺらぺらとしゃべった。その言葉がどれだけ白雪を傷つけ、気を重くしたのか理解していない。いや、理解したうえで話したかもしれない。少なくとも白雪はごく普通に出産されたのだ。円谷と陽氷はまともではない方法で生まれてきたから。
 先ほどの話は白雪が高校に進学する前に両親から話してくれた内容と同じである。アッシェンという女性は、両親たちがヴァイスシュネーに滞在している間、アパートが同じで、隣同士だったという。両親たちはアパートより、一戸建ての家を買い、そちらに引っ越して以来敬遠になったが、ある日国立病院で別の用事があって、その時アッシェンと再会したという。その後自分が生まれたが、アッシェンには親戚がおらず、親しい友人もいなかったので自分たちが養女として引き取ったというのだ。
 だが白雪は思った。なぜ自分をその国に放置しなかったのかと。自分の髪の毛は金色だ。日本ではそれが目立つことくらいわかるはずだ。事実小学校時代でも担任教師に金髪を注意され、黒く染めろと言われたことがある。
 自分の存在はこの国では目立つのだ。だから極度に目立たない格好をしても、弱者の肉を食らい、弄ぶことをやめられない悪鬼たちに付け狙われた。なんで自分はこの世に生まれてきたのか、いつもそのことを問い続けてきた。
 雷丸学園に入学し、猿神拳太郎と出会ってからはバラ色の人生が開けたと思っている。
 その猿神は重傷を負っている。それも自分のせいで。
「話はずれたけど、トビーアス王子は複数のSP、イェーガーと共に来日後行方知れずになった。留学云々は来日前から話は来ていた。うちとしてもヴァイスシュネーを繋ぐパイプは大事にしたいから、目下影の生徒会たちを使って、トビーアス王子を探しているわけ」
「へえ、そうだったんだ。私は全然知らなかったよ」
 陽氷はのんきそうに笑った。白雪は先ほどから生徒会長である満月陽氷よりも、書記である円谷皐月が主軸になっていることに気付いた。
「知らなくて当然よ。知らせてないのだから。あなたは与えられた仕事を言われたとおりにこなすだけでいいの。自分の考えはあまり押し出さないように。そして失敗を反省し、気を付けるの」
 円谷は母親のように優しげな声色で、座っている陽氷の頭を撫でた。陽氷も嬉しそうである。
「もうあなたは寝なさい。私は彼女と話があるから」
「わかった」
 そう言って陽氷は部屋を出て行った。

 *

「あの、円谷さん。満月さんはどこか……」
 白雪が質問しようとすると、円谷が口元に人差し指を当てる。しゃべるなという意味だ。
 白雪の口から「満月陽氷は丸尾虹七に似ている」と言いたかったのだ。
 陽氷は子供みたいだった。知識はあるけどその使い方を理解していないのである。それは丸尾虹七に似ていた。人に言われるまで行動しないのである。積極性に欠けるともいえる。
 あと円谷は自分をいじめることで、猿神が味方し、生徒会の敵になるといった。それも普通ではない。生徒会が強大な権力を持ち、学園を支配する漫画はいっぱいある。そして権力にたてつく存在もいるだろう。
 陽氷はジュヴナイラーと設定が違うといった。なぜ漫画の話を例えに出すのだろうか。
 それに自分たちが目障りならばなんで放置していたのか。やっていたことは副会長の乙戸帝治がたまに猿神と白雪を恫喝するくらいであった。それでも進学校であり、気弱な優等生で占められている雷丸学園の生徒にはきついものがある。
 どことなく満月陽氷はこの世の人間というより、陽炎のような実体がなく、あやふやな存在に思える。そして無邪気な子供のようなのんきさを感じた。それは蜘蛛の糸で繋ぎとめられている危うい状況である。
「……トビーアス王子のことは生徒会の問題よ。あんたの問題は風紀委員会にしてもらうことね。とりあえず今日は眠りなさい。明日、もう日付は変わっているけど、学校に行ったら大槻に相談することね。あの女ならなんとかするかもしれない」
 そう言って円谷の背後に動きがあった。それは長い紐だった。円谷皐月の尾てい骨あたりに移植された電気紐という秘密兵器だ。その長い紐の先にはするどい針が光っており、白雪の首筋を軽く突く。すると白雪の瞼が重くなり、膝から落ちた。白雪は深い眠りについた。
 翌朝、白雪は目を覚ました。すると疲労がすっかり取れていた。短時間しか寝ていないのだが、頭がすっきりしている。
「起きたようね。朝食を用意してあるから、さっさと食べなさい」
 円谷が立っており、白雪の腕を引っ張る。連れてこられたのは食堂であり、複数の生徒たちが食事を摂っていた。
 メニューは白米に小松菜の味噌汁。目玉焼きに紅鮭だ。生徒は執行委員もいれば、セッル共和国の留学生もいた。あくびをかみ殺している留学生はおそらくトビーアス王子探索を命じられていたのかもしれない。
 乙戸帝治と満月陽氷の姿はない。すでに食事を終え、学校に向かったという。鮫泥姉妹も住んでいるのだが、こちらも陽氷たちと一緒に登校したそうだ。
 白雪は用意された食事を平らげる。白米は程よい柔らかさで、味噌汁の味は濃すぎず、薄すぎない味付けだ。チェーン店のレストラン並みの味付けであった。
 食事を終えると、白雪は円谷から新聞を渡された。昨夜のことはすでに記事になっていたが、自分と猿神のアパートがガス爆発と小さい扱いであった。中央公園での銃撃戦は一切なかった。さらに自分たちが入院中という扱いになっている。もっとも実名が出たわけではなく、アパートの住人というだけだ。
「おそらく花戸あたりが嗅ぎつけて、情報を操作したと考えるべきね。あいつはロリコンで、イタリア車を痛い車に塗装するくらいだから」
 円谷が結論付けた。最後のほうはただの悪口になっているが。
「あと猿神の手術は成功よ。麻酔で眠っているから、明日になれば元気になるわよ」
 円谷が付け足した。それを聞いて白雪は安心した。
 白雪は一足早く登校した。一応生徒会にとって白雪小百合は問題児だ。問題児と一緒に登校するのは極まりが悪い。もっとも影の生徒会が彼女を護衛している。
 排水溝を覗けばそこに男の顔があり「やあ」と挨拶する。ハラズーナという生徒で、身体の骨が耳の骨並みに柔らかく、あらゆる狭い場所に入り込める異能者だ。やどかりに似ているが、ハラズーナはカタツムリだという。
 気配を感じ、壁に目を向けると、そこに二つの瞳が壁に浮かんでいる。こちらはヤラカーナといい、壁や地面に同化することができる。道路でも車が通過するくらいは平気だが、刃物を突き立てられるのはだめだという。ヤラカーナはなめくじという意味だ。
 ビルの谷間から風をひゅんひゅんと切りながら飛び移るのは、コッファーシュという生徒だ。身体が極度に軽く、むささびやももんがのような滑空動物のように飛ぶのである。
 もう一人アンカボートという女生徒もおり、円谷と同じ電気紐を使う。尾てい骨から伸びる電気紐を蜘蛛の糸のように操っているのだ。
 白雪は人の視覚には感知されないが、死角の部分には影の生徒会という護衛が付いている。
 白雪は改めて生徒会の実力に舌を巻いた。

 *

 その日の白雪小百合にとって地獄の時間であった。
 猿神拳太郎という頼りになる人間がいないのだ。いや、そばにいなくても付き合って一年は過ぎている。自分を演じることはできる。
 だが猿神は負傷しているのだ。その不安が彼女を臆病にさせた。
 朝礼で満月陽氷は生徒会長として挨拶した。その姿は威風堂々としており、夜に美少女フィギュアをいじっていた人間と同一人物には見えなかった。ただ言われてみないとわからなかったが、どこか演技をしているように感じた。
 大槻愛子が教室に入ってきて出席を取る。その際に自分の名前を呼ばれたとき、声が裏返ってしまった。あと丸尾虹七は欠席していた。大槻は猿神が休んだことを伝えると、教室中、安堵の声が聞こえたのは、白雪にとって軽い衝撃があった。
 一時間目が終わると白雪はすぐ職員室に行きたかった。だが怖くて行けなかった。一年前なら職員室に入ることなど躊躇しなかった。いまはちがう。大槻を除いた教師たちにとって自分たちは異端児なのである。
 せめて昼休みになったら風紀委員室に行こう。そして風紀委員長である市松水守に相談するのだ。
 昼休みになるまで白雪はじっとしていた。脂汗がだらだらと流れる。四方を鏡で囲まれた蝦蟇の気持ちがわかる気がした。
 他の生徒たちの視線も痛かった。視線というか細い槍に全身を突き刺される気分である。授業中でも教師たちは点呼をとるとき白雪の返事が来る前に次の生徒に移った。まるで腫物を扱うようである。
 白雪は対人恐怖症ではない。今回は猿神が負傷したために心配なだけである。それも自分に責任がある。早く彼と話がしたかった。
 やっと昼休みになった。いつもより時間を長く感じた。すると丸尾虹七が登校してきた。
「まるお……、ううん、コウちゃんはずいぶん遅い登校だね」
 白雪は絞り出すように声を出した。虹七はそれに気づかないのか、普通に接する。 
「うん、ちょっとね」
 虹七は口を濁した。
「ところでコウちゃんに相談があるのだけれど……」
「ごめん白雪さん。ボクお腹すいたんだ。食堂でゆっくり相談するから」
 虹七はカバンを自分の机の横に下げると、そそくさと教室を出て行った。まるで白雪の話など聞きたくないといわんばかりだ。
 白雪は首を傾げながらも食堂へ向かった。その途中、乙戸帝治と執行委員の面々に出くわした。乙戸はポケットからメモを取り出した後白雪を罵った。
「おい白雪!! いつもの恋人はどうしたんだ!? どうせ無断欠席だろう? まったくお前らみたいな不良は学園にとって迷惑なんだね!!」
 雷の如き音量で、白雪を怒鳴った。一気に口走った感じである。それに満足したのか乙戸たちは立ち去った。事情を知っているのにあえて知らん顔をしたのは、設定にこだわるためか。立ち去る際に右手で拝む仕草をしたのは、自分に対する謝罪なのだろう。ただ執行委員の一人がこっそり耳打ちし、最後の部分はどうかと言われ、赤面していた。
 白雪は食堂にある食券販売機で食券を購入した。目玉焼き定食で、白米に味噌汁、味付け海苔と目玉焼きのセットである。
 虹七はカレーライスであった。二人は黙々と食べている。そこに一人の女子生徒がやってきた。
「こんにちは〜。白雪先輩に、丸尾先輩〜」
 女子生徒は甘えた声を出してきた。赤毛で前髪はパッツンしてあり、ツインテールにしてある。小顔で愛玩動物のような愛らしさがある。指にはネイルアートが施されており、足はすらりと細く、縞々のニーソックスを穿いている。進学校の生徒にしては派手すぎるかもしれないと白雪は思った。
「えっと、あな……、アンタ、ダレェ?」
 白雪は作り声をしながら質問した。その後咳き込んでしまった。自分を先輩というから下級生に違いないが、こんな派手な生徒はいないはずである。
「アハッ! あたしのことなんかどうでもいいじゃないですか。白雪先輩らって有名なんですよ〜。あの生徒会に反発する反逆者で悪名がとどろいているじゃないですか〜。もう最高かつ最恐で、かっこいいですよ〜。あたし、先輩のファンなんです。狂信者なんです。もちろん狂うほうの意味で」
「へっ、へぇ〜、ソウナンダ」
 白雪の声が裏返る。狂信者は絶対ほめ言葉ではないと言いたかったが、目の前の下級生についていけなかった。それは虹七も同じだった。スプーンを口にくわえたまま、唖然としている。
「そうだ。先輩にいいものをあげますね。ほら」
 そう言って女子生徒はビニール袋をテーブルの上に置いた。中には赤いリンゴが三つほど入っていた。
「先輩たちにデザートを持ってきました。喜んで食べてくださいね」
 女子生徒は果物ナイフを取り出すと、器用にリンゴの皮を剥きだした。鼻歌交じりで楽しそうである。
「あの、わた……、あたいは、あんたにそこまでしてもらう、義理はないんだけどぉ。余計な真似はやめてくんないかなぁ?」
 白雪は拒否しようとした。女子生徒の善意を踏みつけるつもりはない。ただ白雪は疑問を抱いているのだ。白雪は大体学校の生徒の顔を覚えている。瞬間記憶能力というやつだ。その記憶の引き出しに目の前の彼女の顔はないのである。そのリンゴも何があるか分かったものではない。それで拒否しようとしたのだ。
「うっ、うぅぅ……」
 女子生徒が泣き出した。
「先輩はあたしが剥いたリンゴなんか汚くて食べられないというんですね。いくらあたしが穢れてるからってそんなこと……」
 女子生徒の目から涙がこぼれた。
「ねぇ、君。ボクにりんごをくれないかな? そうすれば白雪さんも安心すると思うんだ」
 虹七が横から口を出した。女子生徒は右手で涙を拭いた。
「いいですよ。どうせ丸尾先輩にも食べてもらいたかったし」
 女子生徒は剥いたリンゴを二つに割った。そしてひとつを虹七に渡す。虹七はリンゴをしゃくしゃくと食べた。
 それを見た白雪は安心したのか、もうひとつのリンゴを口にする。
「白雪先輩。あたしの名前は何かと聞きましたよね。教えてあげます。あたしの名前はそれと同じです」
 女子生徒が指を差したのは、リンゴであった。
「アプフェルバオム。それがあたしの名前です」
 アプフェルバオム。ドイツ語でリンゴを意味する。なぜわざわざドイツ語で説明したのか。
「……!? あなたヘキセンハウスの?」
「その通りです。あたしの特殊能力は毒の血液です。遺伝子改造されて、血液に毒性を帯びたのです。でも自分は平気ですよ。毒蛇にとって毒は自分の体液ですから。あたしの血を飲んだ生き物は数秒後に死にます。でも実験動物にしか使っていません」
 白雪は女子生徒、アプフェルバオムの手を見た。真っ白な指で、血など流れていない。安堵の息を吹いた瞬間、白雪は自分の身体が重くなった感覚がした。
「そうそう、白雪先輩は知ってますよね。涙も血液からできているって。もっとも九割は水分になるんで、毒の効力は弱まるんです。睡眠薬レベルに……」
 アプフェルバオムの話を聞き、白雪は思い当たった。先ほど彼女は涙を流していた。その際にナイフに涙をぬぐったのではないか。
 なぜ自分は見知らぬ彼女のリンゴを食べたのか。虹七が先に食べたからだ。なぜ虹七は平気だったのか。涙は片側の刃に塗られていたのだ。
 白雪は深い眠りに落ちた。虹七はまったく慌てていない。表情は暗いものがあった。
「白雪さん、こんなところで眠っちゃだめだよ。仕方ないなぁ」
「あっ、先輩。あたしも手伝いま〜す」
 虹七とアプフェルバオムは白雪を支え、保健室に来た。そこにはガラスのケースが用意されていた。虹七とアプフェルバオムは白雪をガラスのケースに入れる。
「ご協力ありがとうございます」
 アプフェルバオムは頭を下げる。虹七は表情が曇ったままだ。
「……ボクは花戸さんに命じられただけだからね。あとはよろしく」
 そういって虹七は保健室を出た。アプフェルバオムはガラスケースに向かい、ポケットからリモコンを取り出す。するとガラスケースの中にいた白雪の姿がきれいさっぱり消えてしまった。
 ガラスケースは光学迷彩が施されており、人の目には映らなくなったのである。
 アプフェルバオムも保健室を出た。その数分後、業者らしき人間が二人入ってきた。そしてガラスケースを押して大型トラックに運んだ。トラックはいずことなく消えてしまった。
 白雪小百合はどこに消えたのだろうか。丸尾虹七はなぜヘキセンハウスのアプフェルバオムに協力したのか?
 それに答えてくれるものはいない。
 
『第四話:混乱(ウンオルドヌング)』

 それは夢だった。
 周りは真っ白で暖かい世界だった。見えるというより、体で感じたものだった。
 動かせるのは頭だけ。それも軽くしか動かせない。
 それでもうすぼんやりと見えるものがある。金髪で髭を生やした男が自分を優しそうな目で見つめていた。その笑みを見ると心地よかった。
 見えないはずなのに、なぜかその人の顔の輪郭がわかっていた。
 いったいこの人は誰なのだろう。
 あなたはだぁれ?
 尋ねても答えてくれない。男の顔は光り輝く空へと高く上がっていく。そして自分は光の海へと沈んでいった。

 *

 白雪小百合は目を覚ました。見回すとそこは見たこともない部屋だった。
 まるで童話に出てくるお城のような部屋であった。自分が寝ていたのはベッドの上で、天蓋付きである。
 そして自分の身体を見ると、着替えさせられたのか、純白のドレスに身を包んでいた。まさしくお姫様のような姿である。
 白雪の頭は混乱しているが、そこにドアが開いた。
 部屋に入ってきたのは三人の女性であった。全員がエプロンにメイドキャップをつけていた。右から青、黄色、赤のワンピースを着ていた。典型的なメイド服である。
 青は金髪で腰まで伸びており眼鏡をかけていた。一番背が高く胸が大きい。なぜかもじもじしている。
 黄色は銀髪で短く刈り上げている。活発そうな感じだ。
 最後に赤は赤髪で前髪をぱっつんしており、ツインテールである。彼女が、一番背が低かった。
 昨晩、白雪を襲撃したヘキセンハウスのヘクセであった。ハール、ビーネ、アプフェルバオムである。アプフェルバオムが一歩前に進んで頭を下げる。
「プリンツェッスィン。陛下がお待ちです」
「陛下?」
 白雪は混乱していた。昨夜自分を殺しに来た女性たちが、メイドとして現れたのだ。だがアプフェルバオムは質問には答えない。有無を言わさず、事務的に自分の仕事を遂行する。
「会えばわかります」
 きっぱりと断言し、ハールとビーネに指示して、白雪をベッドから起き上がらせると、靴を用意した。そして髪をとかした。そして白雪を部屋から連れ出した。廊下も豪華な作りであった。
 白雪が連れて行かれたのは、とある広い部屋であった。高価なテーブルにソファー。美術品のような電気スタンドに、壁には作者は不明だが絵画が飾られている。天井にはシャンデリアが下がっており、床はペルシャ絨毯が敷かれてあった。
 そして窓の下は新宿の街が見えた。するとここは新宿区にあるホテルなのだろう。
部屋の真ん中には大きなテーブルが置かれてあり、真っ白なテーブルクロスが敷かれていた。
 上座には一人の女性が座っている。
 豊かな金髪で腰までウェーヴがかかっていた。三十代を過ごしていそうだが、それと感じさせない美貌を秘めていた。ただ白雪は彼女を見て美しすぎると思った。誘蛾灯のように淡い光で愚かな蛾を引き寄せ、焼き殺してしまう。そんな感じがした。傾城の美女とは彼女のことかもしれない。彼女はシックな黒いドレスを身にまとっていた。ギリシャの黄金分割のように体つきもモデル並みに美しかった。
 その後ろに一人の女性が立っていた。ハールたちと同じメイド服を着ているが、色は黒で、背筋はぴんとまっすぐに立っている。眼鏡をかけ、栗毛色の髪を後ろにまとめてあり、陶磁器のような美しさと冷たさを持っていた。年齢は三十代後半といったところだが、彼女は外見ではなく、内面に黒いものを秘めている気がした。
「初めまして白雪小百合さん。わらわはヴァイスシュネー公国国王、グレーテルです」
 目の前の女性、グレーテルの自己紹介に白雪は驚いた。確かヴァイスシュネーでは四〇代でないと国王にはつけないと聞いた。四〇歳にしてもその美貌は三十代、いやそれ以下と言われても納得できる。まるで美魔女である。
 困惑する白雪に対し、黒いメイドが前に出る。
「わたくしはグレーテル妃殿下付の侍女マギー・シュピーゲルです」
「あっ、初めまして……」
 白雪はマギーに対し、頭を下げた。マギーも頭を下げる。
「白雪様とは初めてではございません。私は過去に、白雪様にお会いしているのですよ。日本であなたにドイツ語を教えました」
 マギーの言葉に首をひねるが、白雪は思い出した。製薬会社に勤めていた両親の同僚である女性が幼少時にドイツ語を教えてくれたことがあった。
「私が日本に来日して、あなたにドイツ語を教えるように、グレーテル様から命じられたのです」
 マギーが答えた。グレーテルは薨去したヘンゼル国王の妻だった人だ。その人がなぜ侍女頭に命じて、自分にドイツ語を教えたのか、さっぱりわからなかった。そこにグレーテルが付け足した。
「マギーはわらわの従妹です。わらわのもっとも頼りにしている人間なのですよ」
 マギーはうなずくと話を続けた。
「白雪さん。あなたは先代ヘンゼル陛下が、王宮侍女であったアッシェンを寵愛し、儲けられたのです」
「え?」
 マギーの言葉に白雪は呆然となった。母親のことは聞いていたが、父親が薨去したヴァイスシュネー公国の国王だった。そんなことを言われても白雪の思考はついていかなかった。悪い冗談だと思われた。
「悪い冗談ではありませんよ」
 マギーが眼鏡を指で直しながら、突っ込みを入れた。
「アッシェンさんはあなたを産み落とした後、産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまいました。そこで知人で会った白雪夫妻があなたを養女とし、日本へ連れ帰ったのです」
 それを聞いた白雪はどうして自分を日本人の養女にされたのか知りたかった。
「本来アッシェンさんはヘンゼル閣下の側室になる予定でした。ですが彼女は側室になる前にあなたを出産し、亡くなられたので、私生児になってしまったのです」
「そしてあなたが年頃に成長したので、こうしてわらわが会いに来たのです。今日はあなたと食事をしたくて、来てもらったのです」
 側室。貴族にとって愛人は珍しくない。正室と側室の違いは、正室の子供が跡取りを優先されることだ。
 白雪は背筋が凍る思いがした。どうして今の時期、自分に会いに来たのか。白雪を見るグレーテルの目が獲物を狙う狩人のように見えた。
 確かグレーテルは子供を産んでいない。彼女は自分を差し置いて子供を産んだ自分の母親を憎んでいるのではないか。遠い日本へ養女に出したのは、ヴァイスシュネーにいたら殺される可能性があったのかもしれない。
 白雪は胃が痛くなった。
「さて改めて彼女たちを紹介します。右からハールです」
「……ハールです。髪の毛を操る能力を持ちます。もっとも巻きつけるだけです」
 ハールはもじもじしながら、ぺこりと挨拶した。白雪のほうを見ようとしない。アパートを襲撃した時と態度がまるで違う。仕事と区別する性質なのだろう。
「ハールは恥ずかしがり屋なんですよ。こんなにパイ圧が高いのに」
 答えたのはビーネであった。彼女はハールの後ろに回り、大きな胸を揉んでいる。
「ひゃあ!!」
「ちなみにパイ圧とは圧倒的なおっぱいという意味ですよ」
 ビーネはどうでもいいことを自慢げに教えてくれた。ビーネはハールの胸を揉み続ける。ハールの顔はみるみる赤くなり、ビーネを振りほどいた。そして頭を大きく振りかぶると、ビーネの額に叩き付ける。
 ビーネは白目を剥き、床に座り込んだ。ハールは自分の胸を腕で隠した。うっすらと涙が浮かんでいる。
「うう、ここは髪の毛で巻きつけるのが筋だろうに。空気が読めない奴」
 突っ込みどころが違うだろう、と白雪は心の中でつぶやいた。
「だから手は使わず、頭突きにしたじゃないですか」
 反論するハールも突っ込まずにいられなかった。
「……一応紹介しますが、中央がビーネ。白雪様と同年代です」
「ビーネです。手首から針を出します。あと色気で男を惑わす魔性の女です」
 ビーネは復活し、自己紹介をした。白雪は惚けた。ビーネは活発そうな印象があり、魔性の女を自称するには色気が足りない気がした。
「ケツケツケツ。あなたは疑っていますね。ボクの魅力を。このケツ圧の高さを!!」
 そう言ってビーネは白雪に尻を向けた。臀部が自慢ということだろうか。笑い声もケツにかけたと思うが、あえて突っ込まなかった。
「触ってみてください。それでボクの魅力がわかりますよ」
 白雪は触りたくなかったが、ビーネの目がギラギラと輝いており、断ると怖いので触ることにした。ビーネの尻は固かった。鍛えられているのか、筋肉が付いている。運動選手の肉付きで色気は皆無だ。
「ちなみにケツ圧とは圧倒的なケツのことですよ。ボクのケツ圧なら真剣白刃取りだってできます」
 自慢げに語っているビーネをしり目に、アプフェルバオムは無表情でテーブルの上に置いてあった割り箸を手にした。
「黙ってください」
 割り箸はビーネの尻に突き刺さった。
「ぼはぁ!!」
ビーネの顔は蒼白になり、床に倒れた。アプフェルバオムは眉ひとつ動かさなかった。
「こっ、これなんてエロゲ……」
ビーネは震える声を絞り出した。エロゲというより、少年漫画の下ネタに近かった。
マギーはビーネを無視して自己紹介を続けた。
「最後はアプフェルバオム。私の娘でもあります」
「アプフェルバオムです。よろしくお願いいたします」
 アプフェルバオムが丁寧に頭を下げた。なるほどどことなく母親に似ている気がした。床に転がっているビーネを一瞥せず、振舞うあたり肝が据わっている。
「白雪さんはご存じだと思いますが、彼女らは我がヴァイスシュネー公国の特殊部隊イェーガーの隊員です。特に女性専門のヘキセンハウスは要人警護を中心にしております。特殊能力を兼ね備えているのは、遺伝子操作で生み出されました。現在世界各国の重要施設は金属探知機などが設置されております。彼女らの能力はどんな探知機にも反応しません。魔女です。あらゆる施設に潜り込める魔女なのです」
「そういえばアプフェルバオムだけが華麗に小百合さんを連れてきたのでしたわね。さすがはマギーの娘ね」
 グレーテルは朗らかに笑う。ハールとビーネは居心地が悪そうであった。それをアプフェルバオムが口をはさむ。
「いいえ。私だけの力ではありません。実力だけならハールさんや、ビーネさんに劣ります。今回は内閣隠密防衛室のスペクター、丸尾虹七さんが協力してくれたから成功したのです」
 そうだった。自分がアプフェルバオムの罠にはまったのは虹七が彼女に協力したからである。虹七はなぜ自分を彼女らに売ったのか。それを知りたかった。だがそれは叶わなかった。
「では、食事にしましょう」
 グレーテルはマギーに命じて食事を用意させた。ドアが開くと料理人が入ってきた。全員日本人である。寿司を握り、刺身を作り、天ぷらをひとつずつ揚げた。季節の素材を使用した、どれも高級品で、白雪の口には入らない代物であった。ただし緊張のためかあまり味はわからなかった。そして食事は終わる。
「わらわは日本に来たら日本料理を食べたいと思っていたのです。白雪さんはいかがだったかしら?」
「えっと、おいしかったです。はい」
 白雪はしどろもどろに答えた。それ以外答えようがない。三人の侍女たちは食器の後片付けを始めている。ハールは髪の毛で皿を持ち上げようとしたが、うまくいかなかった。本人の言う通り、巻きつけるだけの能力なのだろう。
 談笑の場はソファーに移した。白雪とグレーテルは一緒に座る。マギーが日本茶を二つ持ってきて、脚の低いテーブルの上に置いた。そしてりんごの皮を剥いた。
 白雪は緊張していた。そもそも国王と呼ばれる人物と一緒なのだ。緊張しないわけがない。それに彼女の意図がわからないのだ。最初に口を開いたのはグレーテルであった。
「それよりもあなたはなぜ肌が黒いのかしら?」
 グレーテルが質問した。それをマギーがリンゴの皮を剥きながら補足した。
「日本には黒髪を金色に染め、肌を小麦色に焼く黒ギャルがいるのです。白雪様は地毛が金髪のため、肌を焼くことで黒ギャルになったのです。ちなみにこの国では黒ギャルは肉食系であり、頭が悪い印象があります。ですが白雪様は父親似で数学や物理が得意です」
「あらあら。せっかくの白い肌をわざわざ焼くなんて気がしれないわ。ウフフ……」
 グレーテルは白雪に近寄った。グレーテルは白雪の左手を手に取ると、その肌を撫でまわした。
「ウフフ、ぴちぴちした若い肌だわ。あなたのお母様も若さで陛下を誘ったのかしら? それとも惑わしたのかしらねぇ?」
 そして後ろに回ると、乳房を右手で撫でる。そしてそのまま腹部に下がり、太ももまで撫でるように下がった。時折グレーテルは白雪の耳に息を吹きかけたり、耳たぶを噛んだりした。
 グレーテルの瞳ににらまれる白雪は蛇におびえる蛙であった。だらだらと脂汗が流れてくる。
 グレーテルは嫉妬しているのだ。自分の母親が、自分の夫を横取りし、その愛の結晶が自分には生まれなかったことに、激しい憎悪を抱いているのだ。
 白雪の歯がかちかちと鳴った。それを見たグレーテルは妖艶に笑う。
「あなたは自分の母親のことをどれだけ知っているのかしら? 今のご両親からは聞いているわよねぇ、わらわが……」
 グレーテルの言葉に白雪は頭が真っ白になった。
「あなたの母親が死ぬきっかけを作ったことを」
 
 *

 突如廊下のほうから轟音が響いた。部屋がかすかに揺れていた。いったい何事かとマギーはハールたちに命じた。さすがにメイド服は着ていても、特殊部隊である彼女らは戦士の顔になった。彼女らはドアに近づいた。
 マギーは惚けていたグレーテルと白雪を非常出口に誘導し、非難させようとしていた。そしてマギーが非常出口のドアを開く。
「こんにちは」
 そこには男が一人立っていた。黒い忍者装束を着ており、背中には忍者刀を背負っている。どこから見ても忍者ですと自己主張している姿だ。
 廊下のほうに音がしたのに、なぜここに曲者がいるのか。簡単だ。陽動作戦である。
 忍者は白雪をひったくると、腰にある取っ手を引っ張った。
 その瞬間背中から蝙蝠のような、ハングライダーができたのである。
「ヘキセンハウスといえど、まだまだ尻が青い。簡単な罠に引っかかるとはな」
「きっ、貴様!!」
 忍者の挑発にハールは激怒し、自慢の金髪を振るった。しかし忍者は慌てもせず、忍者刀を持ち、縦にする。そしてハールの髪は忍者刀に絡みつくが、忍者は軽く捻ると、髪の毛はあっさりと切れた。
「お前の髪の毛はただ巻きつくだけだ。強度は普通の髪と同じ。一見ならともかく、二度目は通用しない」
 ハールは涙目になった。
「へんっ!! ハールは髪に頼りすぎなんだ。でも、ボクは違う、ボクの色気でこいつを悩殺してやる!!」
 そういってビーネはメイド服を脱いだ。胸と恥部を隠すだけの衣装になった。ビーネは後ろを向き、尻を突出し、ふりふりと振った。それは妖艶というより、子供がダンスを踊っているようにしか見えなかった。
「ボクのケツ圧の高さに酔いしれるがいい!!」
 忍者はため息をつくとポケットから座薬を取り出すと、ビーネの尻に突き刺さった。
「はぅあ!?」
 ビーネは悶絶し、尻を天に向けたまま倒れた。
「かっ、括約筋に刺して活躍するとは……。できる」
「お前みたいなガキに惑わされるか。しかも色気の初歩すらなってない。尻を振れば男が悩殺されるなど、甘い考えは捨てることだ。それにちっともうまいことは言ってない」
 ハールやマギーたちがうんうんとうなずいた。忍者はまたポケットに手を入れ、白い布を投げた。それはアプフェルバオムの口に当った。彼女は膝から折れ、くたくたと倒れた。白い布は眠り薬が仕込まれていたのだ。アプフェルバオムはナイフを持っていた。手首を切り、血を噴出させ、忍者に使うつもりだったようだ。
「こいつの毒の血だけは要注意だ。だがビーネの針のように自由に出せなくては役に立たん。いちいち道具を使っては相手に悟られるぞ」
 忍者はヘキセンハウスのヘクセの能力をことごとく破り、助言を与えている。この男は何者であろうか。
 その時風の切る音がした。マギーが果物ナイフを投げたのである。
 果物ナイフは忍者の鼻の先まで飛んだ。しかしそこで止まった。忍者が左足を高く上げた。足は足袋であり、足の指でナイフを止めたのである。
「甘い」
 忍者はつぶやくと、瞬時にナイフの向きを変えると、マギー目がけて投げ返した。ナイフはマギーの顔に飛んでいく。そして彼女の顔に刺さる瞬間、マギーは腰を曲げて、そのまま止まった。
「ではグレーテル陛下。白雪小百合は預かります。彼女を救い出すのは王子様の役目ですので。これにて」
 忍者は白雪に眠り薬を嗅がせ、眠らせた。そして非常出口から飛び降りた。その姿は蝙蝠というより大鷲であった。時刻はすでに夕方になっており、闇が支配していた。
 残されたグレーテルは呆然と、その大鷲の姿を眺めるしかなかった。
 マギーは起き上がる。彼女は果物ナイフを口に咥えていた。そしてナイフを吐き出す。ハンカチで口を拭くとつぶやいた。
「……この借りはすぐ返させていただきますわ」
 マギーは静かに怒気を含んでいた。

『第五話:成長(ヴァクストゥーム)』

 暗闇の中、白雪小百合は目を覚ました。空気がひんやりとしており、埃とカビの臭いがした。どこかの建物らしいが、明かりがないのでわからない。だがどこかの廃屋を利用していることだけはわかった。
 白雪は自分の状況を分析し始める。自分は今、下着だけである。両手は後ろに縛られていた。そして足元はグラグラ揺れて不安定だ。おそらく何かを積み上げて土台を作ったのだろう。自分の首には麻縄が括られている。これは簡易絞首台であろう。自分がなぜこのような目に遭っているのか。それは自分を誘拐した忍者のせいだ。
 そう考えたら右側に光がぽわっと出てきた。最初人魂かと思ったが違う。それは携帯ゲーム機の光であった。そこから聞き覚えのある音楽が流れ、時折ぴこぴこと音を立てていた。ゲームで遊んでいたのは忍者であった。忍者が椅子に座って携帯ゲームで遊んでいたのである。そして忍者は覆面越しだが、若く渋い声を出した。
「……、このゲームは私が生まれる三十年前に発売されたものだ。コンビニなどで金を払い、無線受信機でダウンロードしたものだよ。当時の人間はゲームをダウンロードして遊ぶなど夢にも思わなかっただろうな」
 携帯ゲーム機からはゲームオーバーの音が流れた。忍者はやれやれと首を振った。
「今の小学生ならこれをクソゲー呼ばわりするだろうね。だがこのゲームは遊ぶたびにうまくなる実感がわく。ヒントが少ないゲームも自力で解いたときの快感は何事にも代えがたいものだ。今のゲームは謎解きではなく、謎解きの雰囲気を出して、気分を味あわせているだけだ」
 忍者は携帯ゲーム機を閉じ、立ち上がった。
「さて君に紹介したい人がいる。どうぞ!!」
 突如光が発生した。白雪は一瞬目がくらんだが、周りの風景がわかった。
 コンクリートで囲まれた廃工場のようだ。自分は二階にいて、目の下はブリキの階段があった。窓は板を打ち付けられている。一階にはドラム缶やビニールシートを被せられた山が点々としていた。床には鉄板などが置いてあった。正面にはシャッターが下りているが、長い間使ってないようで、さびついていた。
 光を当てられた場所には人影があった。
 昨夜、中央公園で白雪たちを狙った襲撃者たちと同じ黒いコートを着た黒メガネが四名立っていた。全員二十代を過ぎていない。そしてそれを囲むように一人の男が座っている。
 金髪の坊ちゃん狩りで、牛乳瓶のような眼鏡をかけていた。顔立ちは美男子なのだが分厚いメガネと頭の線がゆるそうな笑みを浮かべているので、台無しになっている。童話に出てくる王子様の服装だが、どことなくバカっぽく見えたが、雰囲気に合っていた。
 そこに黒服の一人が前に出て、説き明かした。
「控えおろう! こちらにおわす方をどなたと心得る。ヴァイスシュネー公国国王、王弟ルドルフ将軍のご子息、トビーアス様であるぞ!!」
 そういってトビーアスと呼ばれた男は立ち上がり、にょほほと下品な笑みを浮かべた。
「その通り!! ぼくちゃんこそが、ヴァイスシュネー公国の正当な後継者なのであーる!! 褒めろ、お前ら!!」
 黒服たちは歯をむき出しにして、「あんたが大将!」だの「いよっ、大統領。憎いね、このっ」などとはやし立て、拍手をした。気をよくしたトビーアスは手をパンパンと叩き、止めさせた。白雪は唖然として言葉に出なかった。そこを忍者が説明する。
「なぜトビーアス王子がわざわざ遠いヴァイスシュネー公国から日本へ来たのか。それはすべて君の責任なのだよ」
 なぜ自分の責任になるのか。全く意味が分からない。そこをトビーアスが笑いながら補説した。
「君はねぇ、邪魔な存在なのだよ。ヴァイスシュネーどころか、この世界、別世界でもね。今の国王グレーテルの魔女はね、ぼくちゃんのパパから王位を簒奪しただけでなく、薨去したヘンゼル陛下の遺児である君を後継ぎにしたいのだよ。もっとも君のことをものすごく憎んでいる、殺したいくらいにねぇ。だって自分を差し置いて下賤な女に情けをあげたんだ、むかついてしょうがないよねぇ。それでも思い通りになる政治と贅沢な生活は捨てがたい。君を国に連れ帰ったら薬漬けにして生き人形にする予定だったのさ。そう腹話術の人形みたいにね」
 トビーアスはげらげら笑いながら、説明した。そしてひとしきり笑い終えると、イナバウアーのように体を曲げて止まった。そして起き上がると烈火のごとく怒りだした。
「そんな真似はさせないぞぉ!! 王位はぼくちゃんのパパが継ぐのだ。あの色情狂なんかに国を任せられるものか!! だから、ぼくちゃんはお前を殺すのだ。これはぼくちゃんのパパも同意しているのだ。お前なんか死ねばいいんだ!!」
 トビーアスは息巻いていた。白雪は悲観した。そもそもグレーテルがこの時期にわざわざ会いに来た理由がわからなかった。その答えもトビーアスが解明してくれた。グレーテルは自分の地位を盤石にするために自分を取り込もうとしたのだ。例え庶民の女から生まれた子供でも公達だ。大いに利用できる。
 あの自分を見つめる目が獲物を狙う蛇のようで、ねっとりとしたものを思い出した。
「そもそもお前はヘンゼル閣下が気まぐれに手を出して生まれた不義の存在なんだよ。お前の母親もヘンゼル閣下にもっと愛されていたのに、お前を身籠ったせいで、時計の針が午前十二時を指す前に、弊履の如く捨てられたのだ。お前を育てた義理の親もそれを利用しようとして育てただけなんだよ。利用価値がなければお前なんか目障りな存在なんだ。誰もお前なんか気にかけないんだよ、それどころか消えてほしいと願っているんだよ!!」
 白雪の目から涙がこぼれた。その眼は焦点が合ってなかった。
 いったい自分は何のために生まれてきたのだろうか。どうして自分は今ここにいるのか……。
「さぁて、これで納得できたかな。これから死ぬのに、死ぬ理由をわざわざ説明してあげたぼくちゃんに感謝しなさい!! 本当は赤く焼けた靴を履かせて死ぬまで躍らせるか、火を焚いたかまどに生きたまま焼き殺してもよかったけど、ぼくちゃんの慈悲で絞首刑にしてあげるのだ!! 処刑開始!!」
 トビーアスが合図をしようとした瞬間、工場内に爆発音が響いた。その後白い煙がもくもくと上がり、視界が悪くなった。
 白雪は冷静だった。いや、今の騒動に何も感じていなかった。彼女は虚ろであった。心の中は空っぽになっていた。
 トビーアスたちがうろたえている間、階段を駆け足で上る音がした。そして煙の海から飛び出したのは猿神であった。忍者はぼそりと何かを呟いた。
 猿神は白雪の両足を抱き、持ち上げる。白雪の首をくくった縄が外れ、自由になった。猿神は白雪を抱きかかえると一目散に逃げ出したが、煙が消え、視界が良好になったため、トビーアスたちが猿神たちを発見し、拳銃を取り出した。USPタクティカルである。彼らは拳銃をぶっ放した。猿神は白雪を抱え、ビニールシートがかかった廃材の山に隠れた。
「……どうして来たの?」
「ああ、生徒会の下宿で寝ていたが、生徒会の端末からお前の居場所を記された地図が送られてきたんだ。探すのに苦労したぜ」
 猿神が学生服を着ていた。その下は包帯が巻かれており、痛々しく見える。現に傷がふさがったばかりのようだが、開いたようで、時々、傷のあたりを手で押さえていた。額からは脂汗がだらだらと流れており、呼吸も乱れていた。
「そうじゃない。どうして私を助けに来たの?」
「そりゃあ、恋人のお前が危殆に瀕しているんだ。助けにくるのが当たり前……」
「そうじゃなくて!!」
 白雪は悲鳴を上げた。猿神は呆気にとられた。
「私は価値がないの。何の価値もないの。あいつらから私の過去を聞かされたわ。生みの親も育ての親も私のことなんか愛していない。誰も私のことなんか気にかけてもいない……」
 白雪がぶつぶつとつぶやいた。無感動の表情を浮かべたままである。
「私が今ここにいるのは、虹七君なの。虹七君がヘキセンハウスのヘクセと手を組んで私をグレーテル国王の前に連れて来たの。虹七君は私を売ったのよ……」
 白雪の目から涙が流れる。猿神以外に友達ができたと思っていた。それなのに、虹七は裏切った。昨日からめまぐるしく状況が移り変わっていくので、白雪の頭は混乱していた。
「それに私は拳太郎君のことを忘れていたの。私を守って銃で撃たれて寝込んだあなたを忘れていたのよ。私にとってあなたは大切な人ではないの」
 白雪の独り言を猿神は黙って聞いていた。工場内では銃声が響いている。彼らは白雪たちを探しているのだ。その中でトビーアスが狂ったように笑っている。
「銃は偉大だぁ!! 銃で自由を蹂躙する快感は最高だぜ!!」
それでも白雪は落ち着いていた。もう彼女の魂は常世のものではなかった。そして白雪は言ってはいけない禁忌の言葉を絞り出そうとした。
「私なんか、私なんか生まれてこなければ―――ッ」
 その先を白雪は言えなかった。猿神が手でふさいだからだ。
「ヘイ、ユリー。お前さんはすべての人に愛されたいのか、この世の生きとし生きるものたちに祝福されないと困るのか?」
 猿神は赤子をあやすような優しい声色で訊ねた。白雪は首を振る。
「たとえ生みと育ての親に愛されていないとしよう。だけどね、この世は自分一人だけだ。親はいつか必ず死ぬ。死なない人間などいやしない。死ぬときは誰でも一人だ、違うか?」
 白雪はこくんと頭を振った。それに満足したのか猿神は笑顔を浮かべる。
「ユリー、いや、白雪小百合。この世で自分を愛してくれる人間は一人だけでいいんだ。それは俺だ。俺だけがお前を愛している。お前はそれに不満があるか?」
 白雪は首を振る。そして猿神は立ち上がった。
「ヘイ!! 白雪小百合!! 俺はお前を愛している!! だからお前も―――ッ」
 お前も―――!?
「猿神拳太郎を、愛していると言えッ!!」
 その瞬間、白雪の目から滝のように涙が流れた。愛している。陳腐な台詞だが、ここまで心を抉った言葉はない。
「わっ、わたしも―――ッ」
 猿神が叫んだので、黒コートたちが二人の位置を知った。彼女たちの後ろに拳銃を構えている。獲物を仕留める恍惚の笑みを浮かべた。
「私も、猿神拳太郎を愛しています!!」

 *

 その瞬間、銃声が複数鳴った。それと同時に床が揺れた。まるで近くに鉄球が落下したような衝撃だった。黒コートたちはバランスを崩し、拳銃は天井に向かって発砲する形になった。
 そして錆びついたシャッターがどん帳のように開いた。いや、開いたのではなく、開かれたのだ。その真ん中には大男が一人立っていた。その男は右足を高く上げていた。この男がシャッターを蹴り飛ばしたのは明白であった。後ろは漆黒の闇である。すでに夜になっていたのだ。
「ふぅ、間に合ったわね。プリンツェッスィンに間違いが起きたら切腹ものよ」
 大男は体格に似合わないお姉言葉を吐いた。彼は最初白雪のアパートのドアを蹴り飛ばしたブレーメンのひとり、イーゼルであった。
 黒コートたちは呆然としていた。それはトビーアスも同じであった。そしてつぶやいた。
「あれ? あんたは誰? 丸尾虹七と市松水守が助けに来るはずでは……?」
 イーゼルはトビーアスを見た。そして怪訝な顔になった。
「トビーアス王子……、のそっくりさんかしら? それはそうと……」
 イーゼルはあたりを見回した。そして白雪たちを発見する。
「無事で何よりだわ。この場はあたしたちに任せてもらうわ。あなたを巻き込んでしまった罪滅ぼしにね」
 イーゼルは優しげな笑みを浮かべた。昨夜とは全く違う雰囲気に白雪は疑念を抱いた。そこに二階にいた忍者が叫ぶ。
「お前はいったい何者だ!!」
 その言葉にイーゼルはにやりと笑った。そして決めポーズをとった。
「あたしはエーアトベーベン(地震)のイーゼル!!」
 そしてイーゼルの後ろから電光石火の如くは知ってきた影があった。それはイーゼルの肩に飛びあがった。それは小柄だが、黒い革のスーツ越しでもわかる、小山のように盛りあがった体で、四角い顔の男だった。目つきは座敷犬のようにくりくりとしており、おちょぼ口であった。腰には刀を差している。
「オラはドンナー(雷)のフントだぁ!!」
 次に上から何かが落ちてきた。それはフントの肩に乗った。長身で腰まで伸びた銀髪に黒いコートを着ていた。サングラスをかけており、鷲鼻である。
「ブレンネン(火事)のカッツェ!! よろしゅうたのんまっせ」
 そしてカッツェの髪の毛から小男が這い出てきた。そいつはカッツェの頭の上に昇り、立ち上がる。赤いモヒカン刈りにサングラスをかけていた。そして腕を組んで居丈高にものを言った。
「私はタイフーン(台風)のフーン。四人合わせて……」
 イーゼル、フント、カッツェは両腕を大きく広げた。
「「「「ブレーメン!!」」」」
 遠くで火薬の音がどおんと響く音がした。効果音のつもりだろう。トビーアスたちは呆然自失していた。だが忍者は自分の身体をぽんぽんと叩きだした。そして脱ぎ捨てられた白雪のドレスを調べる。そこには彼が望んだ品があった。それは小粒の真珠のようなものだった。
「発信機だな。付けたのはマギーかな? おそらく私がナイフをマギーに投げつけたと同時に、彼女のドレスに発信機を付けたのが真相だろう。まさか、ブレーメンが一番槍を立てるとは思わなかった。だが、想定の範囲内だ!!」
 忍者が呼び子の笛を吹いた。その瞬間、どこからともなくアサルトスーツを着た兵士が現れ、二階と一階から、ブレーメンを取り囲んだ。全員ゴーグルを付け、MP五を装備しており、その銃口をブレーメンに向けていた。その数は全員で三十名ほどである。フーンはサングラス越しで周りを見回し、口を開いた。
「……どこのだれかは知らないが、全員只者ではない雰囲気を感じる」
「せやけど、全員ぶっとばせばええんやろ?」
「オラたちならこいつらぜーんぶ、ひとひねりだべ」
「じゃあ、パーティの始まりだわね。クラッカーの代わりに……」
 イーゼルが右足を高く上げた。足の先が天井に向いている。そして床に向かって一気に叩き付けた。それと同時にアサルトスーツたちがMP五を発射した。
 叩き付けた瞬間、床に置かれていた鉄板がむくりと起き上がった。機関拳銃の弾丸はすべて鉄板によって弾かれた。蹴りの衝撃で、床の鉄板が起き上がったのである。
 イーゼルはにやりと笑うと、右足で鉄板を蹴り上げた。鉄板は横向きになって飛んでいく。アサルトスーツは三人ほど巻き込まれ、壁に叩き付けられた。げふっと血を吐き、気絶した。
 二階のアサルトスーツたちはイーゼルを狙った。しかしフーンとカッツェが飛んできた。
 フーンは天井に逆さになって止まった。不思議なことにフーンは重力を無視して落ちてこない。フーンはカッツェの髪の毛を両手でつかんでいる。カッツェは駒のように回転し、両腕を水平に広げた。手の甲には鋼鉄の爪が突き出ている。
 フーンはカッツェを分銅のように振り回すと、ぱっと手を放し、二階にいるアサルトスーツたちに投げた。アサルトスーツは飛んできたカッツェに機関拳銃を浴びせた。しかしカッツェは足を突出し、回転しながら鋼鉄の爪で弾き返した。
 アサルトスーツの隙間に飛んでいき、壁に衝突する寸前、カッツェは膝を曲げ、衝動を殺した。アサルトスーツたちは一瞬気を取られた。カッツェは両腕を一度組んだ。そしてにやりと笑うと、両腕を大きく広げ、上半身を回した。鋼鉄の爪はブリキの床を削った。
 その瞬間、火花が飛び散った。アサルトスーツたちは火花で視界をやられた。カッツェは床に落下する前に猫のように床へ降りた。そして床を爪で引っ掻き、火花を飛ばしながら、アサルトスーツたちを一階へ突き落していった。
 二階へ突き落されていく仲間を一階のアサルトスーツたちは呆然と見ていた。その隙をフントが手にした刀で機関拳銃を切り裂いていく。その姿は稲妻の如くで、目には見えない速度で、アサルトスーツたちは自分たちの武器を無力化されていったのである。
「さあ、とどめの四身一身(よんみ・いっしん)攻撃だ。いくぞ!!」
 天井に張り付いているフーンが叫んだ。フーンはその瞬間、落下した。そしてどこからともなく布を取り出し、自身は体を丸くして布に包みこんだ。フーンはイーゼルの真上に落ちていく。
「サーブ!」
 イーゼルは丸くなったフーンを右足で蹴り上げた。フーンはボールのように飛ばされていく。一階にいたアサルトスーツたちは弾丸となったフーンに弾き飛ばされた。
フーンが身に包んだ布は宇宙服に使われる素材より、さらに頑丈で、衝撃を吸収素材でできていた。イーゼルの強烈な蹴りを受けても、中身は一切衝撃を受けていない。生卵を入れても割れる心配がないのだ。
フーンは一瞬宙に浮いた。その隙を二階で生き残っていたアサルトスーツたちが銃口を突きつける。そこにフントがフーンに向かって飛んできた。
「スマッシュ!」
 フントはフーンを蹴った。二階にいるアサルトスーツたちに、勢いよく飛んでいき、ピンボールのように弾かれた。二階にいたアサルトスーツたちは一掃される。
「最後はボレーや!!」
 カッツェは天井まで飛び、鋼鉄の爪を天井に着きつけた。そして飛んできたフーンを蹴り飛ばした。その先は生き残っているアサルトスーツたちであった。アサルトスーツたちはボーリングのピンのように飛ばされた。
 フーンはくるくると飛んで行ったが、布を回収すると、新体操の選手のように華麗に着地した。
「これでエースを狙えるというものだ」
 おそらくブレーメンはバレーボールとテニスの漫画を参考にしたのだろうが、スマッシュとボレーはテニスだ。しかも蹴りではなく、手で打ち上げている。滑稽に見えるが彼らはその異常に気付いていない。
 フーンは懐から袋を取り出し、白雪に投げた。白雪は呆然としていたが、それを受け取った。中身は万年筆に缶ペンケースとヘアブラシ、そして校章のボタンが入っていた。白雪はそれが丸尾虹七の使っていた特殊拳銃、文具銃であることを察した。
「プリンツェッスィン、いや白雪小百合さん。あなたは生みの親に愛されていたのです。あなたの愛の証を育ての親は育んでいたのです。今のあなたは素浪人銃兵衛の第一話の名シーンを再現することが可能なのです」
 フーンが叫ぶ。素浪人銃兵衛? なぜここに漫画の話が持ち上がるのだろうか。
 白雪と猿神はトビーアスたちに囲まれていた。トビーアスは血管をぴくぴくさせながら、怒髪天を衝かんばかりに憤激していた。
「なぁ、なんなんだ、お前らは!! わからない、わけがわからない!!」
「トビーアス王子。あなたは白雪小百合と猿神拳太郎を拳銃で撃ち殺すのです。そして勝利の雄たけびをあげるのです」
 忍者が叫んで指示をした。するとトビーアスはにんまりと悪魔の笑みを浮かべた。
「そうか。ようし、銃であいつらを撃ち殺してやる。銃で自由を蹂躙してやるんだ!!」
 トビーアスはUSPタクティカルを白雪たちに向けた。ブレーメンの面々はここからでは遠い場所にいる。間に合いそうにない。
 白雪は冷静であった。彼女は文具銃を素早く組み立てた。この構造では弾丸は一発しか装填できない。一発限りで終わりなのだ。
 フーンはなぜあんなことを言ったのだろうか。自分が生みと育ての親、両方に愛されているなんて。そして素浪人銃兵衛の話をするなんて……。
 その瞬間、白雪の頭に閃いた。一発だけの弾丸、そして五人の男たちが拳銃を自分たちに向けている。それを打開する方法を思いついたのだ。USPタクティカル。自分はその構造を知っている。生徒会の下宿先で、円谷皐月が自分に見せてくれた写真。重さと材質をきめ細やかに記されていた。
 そして黒コートたちの動き方。トビーアスの動き。それらを組み合わせることで、自分にできること。それは―――!?
 白雪は文具銃を両手で構えた。彼女は一度訓練でこの銃を使ったことがある。だから大丈夫だ、あとは引き金を引くだけ。
 白雪はまず前方に立っている黒コートに目を向けた。そして一人ずつ、後ろにいる男たちの拳銃に目をやる。最後はトビーアスの拳銃だ。
「大丈夫―――、うまくいく」
 白雪は目をつむる。そして引き金を引いた。
 
 *

「ヴンダー……」
 ブレーメンの面々がつぶやいた言葉。それはドイツ語で奇跡という。
 まさしく奇跡であった。
 まず白雪が撃った弾丸は前方の黒コートの拳銃のフレームに当り、弾き飛ばした。
 弾丸は跳ね返り、次に後ろにいた黒コートの拳銃を弾き飛ばす。
 弾丸は稲妻の如く、ジグザグと飛んでいき、最後にトビーアスの拳銃を弾き飛ばしたのである。
 それは時間としては一秒も経っていないと思われた。しかし第三者から見れば、スローモーションのように、映画を見ているような感覚であった。
 拳銃を弾き飛ばされた黒コートたちは止まった。猿神はその隙を逃さず、拳銃を手放した黒コートを一人目は顎に右ストレートを食らわせた。二人目は左ジャブ。三人目はボディブロー、四人目はアッパーカットでぶっ飛ばした。
 トビーアスは腰が抜けたようで、おもらしをした。
「ヴンダー、ではない。必然だ」
 フーンだけは冷静であった。台風のように敵を薙ぎ払った彼だが、ブレーメンのリーダーらしく冷静沈着である。
「白雪小百合。彼女の父親であったヘンゼル閣下は生まれつき高度の計算能力を持っていた。彼女はそれを父親から受け継いだ。その受け継いだ力を彼女の育ての親が育てた。彼女が自分の力を理解したからこそできたのだ」
 白雪は冷静だった。心が澄み切っていた。彼女は素浪人銃兵衛の第一話の名シーンを思い出した。主人公の野牛銃兵衛がヒロインの宇野竜胆が維新志士とは名ばかりの浪人崩れたちにかどわかされた。その時銃兵衛が一発の弾丸で、浪人五名の刀を跳弾で弾いたのである。
 今回は刀ではなく拳銃だったが、事前に文具銃を撃っていたこと、円谷に見せてもらったUSPタクティカルの資料を目に通していたことが勝因となった。
「ああ、思い出した―――」
 白雪は小学生の時に両親に自分の容姿のことを訴えた時のことを思い出した。
 あの時の父親はどこか目がひくひく血走っていた。最初は自分に対して怒っていたかと思っていた。
「おっ、大人になったら、教えてあげるよ……」
 父親はそれだけ言うと自室へ戻った。母親は慌てて「その前に勉強しましょうね」と数学の問題集を渡し、父親を追った。それは小学生が解くには難しい代物だったが、白雪は特に苦も無く解いていた。
 白雪は問題集を解くと、両親の部屋に行き、報告しようとした。部屋の中で父親が悲痛な声を上げていた。それを母親が必死になだめていた。
「クソ……、なんで小百合が容姿でいじめられなければならないんだ。思い切って小百合をいじめた奴らをぶん殴ってやりたい……」
「だめよ、あなた。そんなことをしたら私たちはともかく、あの子がますますいじめられるわ。いいえ、いじめですむならいいかもしれない。私たちはあの人から、あの子を守るようにお願いされたのよ。その願いを反故してはいけないわ」
「……わかっている。怪物親と馬鹿にされ、その余波が小百合に及んでは意味がない」
「……あなた、私たちは間違っていたのでしょうか。日本に連れ帰ってきて。容姿が他の子と違うあの子を苦しめるだけだったのではないかしら」
「いいや、あの子をあの国に置いておけば、暴走した善意があの子を襲う。この国ならまだ容姿の違いでいじめられるだけで済む。だが、それで……」
 すると父親はドアが少し開いていることに気付いた。そこに娘が立っていた。
「何をしている!! 勉強が終わったらさっさと寝なさい!!」
 思わず怒鳴ってしまった。自分の気持ちを吐露してしまったのを聞かれたかと思うと、怒鳴り散らすことしかできなかった。父親は拳を壁に叩き付ける。
「……最低だ。俺は……」
 白雪は怒られたことで、両親の話を忘れてしまっていたのだ。自分は両親に愛されていたことを忘れていたのだ。自分の悲劇を慰めるために両親に愛されない自分を作り上げた。自身に酔っていたのだ。
「小百合。お前は算数が得意でなくてはいけないよ」
それがお前の生みの父親が望んでいたことなのだと―――。
「それがあなたのためよ」
 いつか生みの両親があなたの誕生を祝福し、幸福を願ったからと―――。
「最低だ。私……」
 両親の愛を忘れて、悲劇のヒロインを演じていたのだ。自分の馬鹿さ加減に呆れてくる。
「ひっ、ひぃぃぃぃ!! なんだ、あいつは!! 銃兵衛と同じ拳銃使いだと!? 聞いてないよ、ぼくちゃんは!!」
 トビーアスは取り乱していた。漫画と同じシーンを再現されたのだ。狼狽しないわけがない。そこに猿神が近付いた。
「ひぃ!! 近付くなぁ!! ぼくちゃんは偉いんだぞ、偉大なんだぞぉ!!」
 偉いと、偉大が類義語になっていることに気付いていない。
「あの女はなぁ!! この世に生まれてきてはいけない女なんだよ、世界から忌み嫌われている存在なんだよ!! だから自由にいじめていいんだよ!!」
 トビーアスは泣き叫びながら、白雪を指差して罵詈雑言を浴びせる。猿神は薄く笑った。
「へっへっへ!! バーカ、バーカッ!! あんな女とさっさと別れるべきだ、捨てるべきだよ。あいつと付き合うとろくなことがない、不幸なことが起きる。災厄が君を襲うよ。あのクズは死ねばいいんだよ、誰もあいつのことなんか気にかけない、いや、鬱陶しいと思っているんだ!! なぁ、ぼくちゃんと一緒にあいつをいじめて楽しもうぜ? 苦しめて苦しめて、苦しめた挙句、ころ――――」
 トビーアスは最後まで言い切れなかった。猿神の右ストレートがトビーアスの鼻に激突したのだ。眼鏡はひしゃげて、鼻は潰れて鼻血が飛び出た。「あぎゃッ」とみじめな声を上げたきり、地面に仰向けで倒れた。
「その五月蠅い口を永遠に閉じていな」
 猿神はトビーアスに背を向けると、白雪の方に近寄った。
「さあ帰ろうぜ。俺たちの家に」
「……うん」
 白雪は小麦色に焼けた肌でもわかるほど、紅潮した。ブレーメンの面々はすでに後ろを向いている。野暮なことはしない、粋な計らいである。
「その前に服を着たいな」
 猿神は自分の学生服を白雪に着せた。廃屋の外に出ると、太陽が昇りかけていた。すでに朝になっていたのだ。
 こうして白雪の長く、慌ただしい夜は終わった。だが白雪のアパートはドアが蹴破られただけだが、猿神のアパートは本当にガス爆発が起きたようで、めちゃくちゃになっていた。そもそも猿神は拳銃で撃たれていたのだ。真っ先に病院へ入院する羽目になったが、白雪が献身に看病したのは言うまでもない。

 『第六話:ヴァールハイト(真実)』

 「「ごめんなさい!!」」
 ここは千代田区、秋葉原にあるメイド喫茶デズモンドである。他の店とは違う、格式の高い店だ。店内の客であるおたくたちも、行儀よくしている。規則を強要されるのではなく、自然にしたくなるのがデズモンドであった。
 そのデズモンドではVIPルームというものがあり、来店ごとに一個押されるスタンプを百個集めないと入れない部屋である。そこは大きな樫の木で作られたテーブルと、木製の椅子が並べてあった。
 テーブルの上には紅茶とシフォンケーキが五人分置かれていた。
調度品はどれも骨董品で、陶器で作られたピエロ人形に、ゴスロリ衣装を着たセルロイド人形。そしてオルゴールなど置かれている。雑におかれているのではなく、自然に感じる配置であった。
 部屋には六人の男女がいる。
一人は店長であるクイーン。彼女は二十代後半で栗毛の長い髪を後ろにまとめ、化粧は控えめで、めがねをかけていた。立ち振る舞いがきびきびしており、本物のメイドはこうではないかと錯覚するほどである。聖母と呼んでもおかしくない美貌の持ち主であった。
彼女は傍らに立っている。
テーブルには五人の男女が座っていた。一人は白雪小百合である。そして先ほど謝罪したのは、白雪の同級生である丸尾虹七と、もうひとりはヴァイスシュネー公国の国王グレーテルであった。二人は白雪に頭を下げている。謝罪をされた白雪のほうが唖然としていた。
「ボクのせいで白雪さんを危険な目に遭わせてしまったんだ。本当にごめんなさい!!」
「いや、私が虹七に命じたのだよ。謝罪するのは私の方だ。この通り」
 虹七を優しく制したのは座ってはいるが身長は百七十の半ばで、恰幅がよく、紺色のダブルスーツを着ている。ひ弱なサラリーマンというより、セキュリティポリスのような屈強な体つきであった。
 年齢は四十代後半で、顔は馬のように長く、あごが大きいが、ニヒルな笑みが似合う不思議な男である。彼が丸尾虹七の上司である花戸利雄である。
「あの……、いったいどういうことでしょうか。私にはさっぱりわかりません」
 白雪が戸惑うのも無理はなかった。彼女は猿神の見舞いに行く前に呼ばれたのである。猿神は現在坂田大学病院に入院している。本来生徒会の息のかかった病院だが、担任教師の大槻愛子が生徒会に話を付けて入院させたという。
 丸尾虹七の件は解決していた。彼は言われたことを守ろうとする性格だ。それは以前、新宿中央公園で花戸と出会ってからわかったことだ。そして先ほどの言葉からそれが真実と分かった。
 問題はグレーテルだ。隣にはマギーが座っている。こちらはメイド服ではなく、黒いスーツだ。たぶんクイーンとキャラが被るので、着替えたのだろう。眼鏡を外している。ちなみに伊達だそうだ。グレーテルの服装もゴージャスなドレスから、シックな装いになっている。それでも美貌があふれ出ており、来る途中、人の目を惹くほどのオーラがあった。
「わらわもゆるしてちょうだい。まさかトビーアスがあんなことをするなんて……。ブレーメンの子たちが関わっていたなんて知らなかったのよ。そもそもわらわはヘキセンハウスの子たちにあなたを連れてくるよう命じたのに、マギーがめちゃくちゃな命令を出していたの」
「めちゃくちゃな命令?」
 白雪の疑問に、マギーが答える。
「はい。ヘキセンハウスには小百合さまを誘拐するように命じました。そして私はこっそりブレーメンを呼び出し、暗殺を命じました。もちろん口に出すだけで、実際は誘拐を命じただけですが」
 マギーが淡々と答える。白雪の呼び名も小百合に変わっていた。
「なぜそのようなことを……」
「グレーテル様に自覚を持っていただくためです。自身の言葉の責任の重さを思い出してもらうためです。過去に小百合さまの母親の命を落とす原因を作ったことがありましたので。ちなみに今回小百合さまを連れてくるのはパフォーマンス、ほんの冗談のつもりでした」
 マギーは補った。白雪は絶句する。一体グレーテルが何をしたのだろうか。
 そしてマギーは語りだした。白雪の母親アッシェンのことを。

 *

 アッシェンは、元々名家の生まれだったが、アッシェンが十歳の頃、母親が亡くなり、父親はすぐに後妻を迎えた。彼女は娘が二人おり、アッシェンの姉になった。
これがひどい性格で、三人はアッシェンをいじめて、彼女を家から追い出した。父親は後妻に夢中で先妻の娘など気にも留めなかった。アッシェンは孤児院においやられたが、不幸と思わなかった。もともと彼女は名家の気質についていけず、いつかは出ていく予定だったからだ。両親は名誉ばかり気にしており、最初から娘には興味がなかった。精々娘を貴族の嫁にすることくらいである。
 ヴァイスシュネー公国の福祉施設は大手企業が寄付をしている。まっさらな人材を育成し、将来自分の会社に入社させるためだ。早い話恩に着せて社畜にするのだ。
アッシェンは当時設立された警備会社に引き取られた。彼女は孤児院にいたときからどんな仕事もこなしてきた。顔中灰だらけだが、綺麗にすればモデル並みの美しさを誇っているのだ。もっとも彼女は自分の美貌に無頓着であり、周りに化粧くらいしろと注意されたほどだ。
 アッシェンが学校を卒業し、警備会社に就職した。そしてヴァイスシュネー国王のメイドとして働くことになった。彼女の身体能力の高さは護衛にふさわしかった。その上度胸もある。上司は迷うことなく彼女をヴァイスシュネー城に送った。
 ヴァイスシュネーの城は要塞というより、豪華な屋敷に近かった。それでも高い塀に守られており、兵士は懐に拳銃を忍ばせ、巡回していた。
 ちなみに彼女の実家は消えていた。父親は後妻によって麻薬中毒にされてしまい、死亡。その罪が発覚し、後妻とその娘二人は逮捕された。三人はヴァイスシュネー公国特有の刑、『永久労働刑』に処せられ、死ぬまで畑仕事を続けなくてはならなかった。そして稼いだ金は遺族であるアッシェンに一部送られたが、アッシェンはすべて孤児院に寄付していた。
「私とアッシェンは同期でした。彼女は自分の身の上をあまり語りませんでした。もっとも以前お茶をしたとき、自分にとって大事なのは未来なので、過去には興味がないと言っていました。私もメイド見習いとして働いていましたので、彼女の明るさは他の人間を明るくする、そんな性質を持っていたのです」
 マギーは紅茶を飲みながらつぶやいた。どこか目がうるんでいるのはアッシェンの死を哀切しているのかもしれない。
「そんな彼女にひとつの幸運が訪れたのです。いいえ、彼女にとっては不幸の始まりと言えるかもしれません」
 マギーは話を続ける。
 アッシェンは仕事を続けて二年経ったある日ヘンゼルのお手付きになった。ヘンゼルは先々代国王の息子だった。アッシェンに手を付けたのは気まぐれと言える。しかしヘンゼルは真面目な性格だった。一度抱いた女性は一生面倒を見るのが筋と、アッシェンに側室になるよう要望したのだ。
 それをアッシェンは拒否した。仕舞にはヘンゼルに対し愛想が悪くなったのである。いったいなぜなのか?
「日本の人には理解できないと思うのだけど、側室とは結婚を申し込むのと一緒なの。庶民の子がいきなり側室になってくれと言っても、玉の輿と思うどころか、恐れ多いと避けてしまうものなのよ」
 グレーテルが補足する。日本人なら金持ちや貴族と結婚できたら玉の輿と喜ぶが、貴族と庶民が密接な国では逆であり、貴族の名を汚すことを恐れるようだ。夜中の十二時までお城の舞踏会で王子様と踊っただけで一生の思い出にできる。それだけで十分らしかった。
 アッシェンは孤児だが、名家の出身でもある。名家とはいえ内側の腐敗を知っている彼女は、自分がヘンゼルの側室になることを恐れていた。そのうち彼女は妊娠したことに気付く。ヘンゼルは責任感が強い人間で、自分が胎児したと知ったら速攻で側室にするだろう。アッシェンはマギーに辞表を渡し、逃げ出したのである。

 *

 それを知ったヘンゼルの嘆きも去ることながら、婚約者であるグレーテルも憤慨していた。それは正室を差し置いて側室を作ろうとしたことではない。なぜ側室を逃がしたかということである。グレーテルは貴族だ。彼女にとって貴族の正室になり後継ぎを産むのが高貴な義務と思っている。側室がいればいつかは家臣の列に入れて一家を興す度量があるからだ。本人としては器の大きさを見せたかったのだろう。
 グレーテルは家臣に命じてアッシェンを連れてくるように命じた。ちなみにヴァイスシュネーは貴族の特権はない。グレーテルの実家は化粧品の会社を興している。働いているのは家臣の一族だ。そしてグレーテルの命令が悲劇を呼んだのである。
「あの、どうしてそれが悲劇を呼んだのでしょうか?」
 白雪が質問した。今の話ではグレーテルは自分を、そして母親を認めているではないか。トビーアスが自分たちを憎んでいるなどでたらめだった。何の問題があるのだろうか。
「……、シュピーゲル家の家臣たちはアッシェンさんを探し出し、抹殺しようとしたのです。不動産や就職など圧力をかけ、彼女をいぶりだそうとしたのです。シュピーゲル家は貴族としては最下層ですが、それほどの金はかけられますし、息のかかった人間も多かったのです」
「なぜ、そのようなことを?」
「グレーテル様のためです。ですが、悪意はありません。善意なのです。グレーテル様を、シュピーゲル家のためを思ってやったことなのです。グレーテル様は自分の命じたことの重大さをまるっきり理解していなかった。それどころか今回も同じ轍を踏もうとした。だから私が裏で動いていたのです」
 それを聞いた白雪は幼少時のことを思い出した。父親は自分がヴァイスシュネーにいると暴走する善意に殺されると言っていたからだ。
 グレーテルがうなだれている。自分の軽率な行動に反省しているようだ。
「裏で、というと?」
「私は一足先にアッシェンさんを探そうとしました。私の父親はイェーガーに所属していたので。ですが、手遅れでした。彼女は私が探す前にすでに逃げていたのです」
 アッシェンが行方不明になり八か月が過ぎた。その間マギーはグレーテルに公立病院などでボランティアをやらせた。そして整形外科に力を注ぐように進言した。世の中には顔に自信がない女性が多い。そのために安くて技術が高い医師を育成し、女性たちの悩みを払しょくすべきだと言われた。グレーテルはその通りにし、女性の支持を得た。
 ある日グレーテルは家臣から、アッシェンを見つけたら抹殺する話を聞いた。それを聞いた彼女は激高するも、マギーに諭された。自分の立場を理解せず、軽はずみな行動をした結果がこれだと。家臣たちは善意で動いていたことを教えた。
 グレーテルはしょんぼりした。もちろんマギーはアッシェンを保護しようとしたが、失敗したことを悔やんだ。
「でも、その人は一体どこにいたのでしょうか」
 白雪が質問した。まだアッシェンを母親と呼ぶには抵抗があるようだ。
「それは小百合さま。あなたの今のご両親に保護されていたのです」
 マギーが答える。最初白雪夫妻は調査の対象外だった。なにしろアッシェンの住んでいたアパートの隣に住み、夫人が転んでけがをした際、治療した。もっとも働く時間がばらばらなので会ってはいない。その後アッシェンはアパートを出ていき、白雪夫妻は校外に一戸建てを購入し、引っ越したのである。
 世の中何がきっかけになるかわからないものだ。あとで白雪夫妻に尋ねたところ、二人は休暇の時にヴァイスシュネーとスイスの国境辺りを観光していた。その時アッシェンと出会ったのである。彼女は最初にスイス行の列車に乗った。だがカーブで速度を減速したところで飛び降りたのである。妊婦にしては無謀な行為だ。そこを白雪夫妻に目撃されたのである。
 白雪氏はアッシェンから事情を聴くと、自分たちは一戸建てを購入したので、そこに隠れて住めばいいと提案してくれたのだ。アッシェンは最初断ったが、夫人が自分を助けてくれた恩返しと説得し、アッシェンはずっとかくまわれていたのである。
 マギーがそのことを知ったのはアッシェンが白雪を出産する三日前であった。白雪夫妻が食料を多めに買っていたことと、白雪夫人は数か月前にヴァイスシュネーで助産師の免許を取っていたことが判明したのだ。白雪夫妻の家にマギーはグレーテルを連れて来た。家の中ではアッシェンがベッドの上に横たわっていた。
 アッシェンの目はギラギラに光っていた。妊婦に必要な栄養は取っていただろうが、いつ自分を殺しに来るかもしれないストレスで、アッシェンは死神に魅入られたような顔になっていた。
 マギーは急いでドクターヘリを呼び、アッシェンを国立病院に入院させたのである。
 ここから先はマギーの視点で話を進めていきます。

 *

 朝日が出て数時間経った頃、ヴァイスシュネー公国国立病院の廊下に二人の女がソファーに座っていた。
 グレーテル二三歳。白いスーツを着ていた。その横にマギーが黒いスーツを着ている。当時は十八歳で高校を卒業したてだが、それ以前からイェーガーに所属しており、父親も同じ組織の幹部であり、影ながらシュピーゲル家を支えていた。
 今彼女らは待っていた。正確にはマギーが何かを待っているらしいが、グレーテルにはわからなかった。
 アッシェンは病室にいた。すでに出産は終わっており、赤ん坊は健康体として生まれた。問題はアッシェン自身であり、彼女は今峠を迎えようとしていたのだ。
「……医師の話では、アッシェンは過度のストレスで心身ともどもぼろぼろになっていたそうです。それなのに子供は異常なく生まれたのは奇跡だとのことです」
 マギーがつぶやいた。グレーテルはそれを聞いているが、答えなかった。アッシェンをかくまった白雪夫妻は病室にいて彼女の看病を続けていた。念のために白雪夫妻に事情を聴いた。彼らは製薬会社の研究室に勤めているが、情報を重視していた。アッシェンがシュピーゲル家に追われていたことを理解していた。ヴァイスシュネー市街ではグレーテルは魔女であり、毎日自分の美しさを自分の侍女に訊く。そして自分より美しいものは殺し屋を差し向けて殺すのだと噂されていた。もっともグレーテルが病院でのボランティアを始めた。そして、実際に彼女に触れた庶民はそのウワサがでたらめだと知ったのである。
 ヘンゼルと婚約者だったために、誹謗中傷が触れ回ったのだと思われた。白雪夫妻はそのウワサを信じたため、グレーテルたちが来るまで彼女のことを知らなかった。そしてウワサを信じた自分たちを恥じた。
「……私のせいだわ。私が軽はずみな命令を出したから……」
「それを言うなら、彼女を確保できなかった私に責任があると言えます。ですが、それは関係ありません。今私たちが彼女にできることは、彼女に満足できる死を迎えさせることだけです」
 うなだれているグレーテルに対し、マギーは無感情であった。彼女は過去を振り返らない人種であり、過ぎたことはこだわらない主義だ。次に自分ができることは過ぎたことをどう対処するかにある。
「これは私が想定した結末でも、まだ軽いほうです。あと数時間、彼女の命の炎が燃え続ければ、彼女の魂は執着の大地に繋がれている錆びた鎖を解き放ち、天使たちの吹くラッパに歓迎され、神の国にたどり着けるでしょう」
 グレーテルはマギーが何を待っているのか知らない。だが彼女は事務処理が得意な性質だ。おそらく自分では対処できないことをしてくれると思っている。
 そう思ったとき、病室が慌ただしくなった。医師と看護師が慌ただしく入ってきた。アッシェンが地上を離れる時間がやってきたのだ。彼女には何の魔法もかけられていない。彼女が死んでも何も残らない。彼女は自分がこの世に生まれてきた証を何一つ残さないまま、命のともしびが消えようとしているのだ。
 そこで玄関が騒がしくなった。いったい何事だろうとグレーテルが振り向くとそこには一人の男性が大勢のマスコミに囲まれて、歩いてきた。
 三十代を過ぎており、金髪を七三に分けている。身長は一八〇を超えており、髭をはやしている。不思議に相手を威嚇する灰色熊より、パンダのような愛嬌を感じる男性であった。灰色のダブルスーツを着ている。
 男は患者たちに愛想よく挨拶をしながらグレーテルに近づいた。グレーテルはその男性を見て一言つぶやいた。
「ヘンゼル様……」
 なぜ、自分の婚約者がここに来たのか。その後ろでマスコミたちがひそひそ話をしていた。
 どうしてグレーテル様がいるの?
 ほら、グレーテル様は病院でボランティアをしているからさ。
 ああ、それをヘンゼル様が視察に来たのだな。
 それを聞いたグレーテルは理解した。マギーが自分に病院でのボランティアを薦めたことを。そしてマギーがヘンゼルのスケジュールを調整し、彼がここに来るようにしたのだ。
「愛しいグレーテル。そこの病室は何やら慌ただしいが、どうしたのかね?」
「ヘンゼル様。今ここの方はこの世にお別れするところです。どうか死に水を取っていただけませんか?」
 思考が止まったグレーテルに変わり、マギーが求めた。ヘンゼルはこれも何かの縁と答え、マスコミを追い出して、グレーテルとマギーだけを連れて病室へ入った。
 ベッドの上ではアッシェンが医師から心臓マッサージを受けていたところだった。心臓は動いているが、それはろうそくが最後に燃え尽きるのと同じであった。
 ベッドの横には生まれたての赤ん坊がうつ伏せで寝ていた。アッシェンは薄れゆく意識の中、自分の目の前にいるはずのない人物を認めた。その瞬間、彼女の目は見開いた。
「ほう、しわだらけの赤ちゃんは君の子かね。名前は付けたのかな?」
 ヘンゼルが赤ん坊に近づき、アッシェンに尋ねる。彼女は弱弱しく首を横に振った。
「まだなのか。ならここで会えたのも何かの縁。私が名前をつけてあげよう」
 そういってヘンゼルは病室の窓に目を向けた。そこには白百合を飾った花瓶が置いてある。アッシェンが好きな花であった。
「君は百合が好きなようだから、リリーエにしよう。それでいいかね?」
 アッシェンは涙を浮かべながら、頷いた。ヘンゼルは医師に断り、赤ん坊を抱く。そしてアッシェンに近づけ、彼女の指と、赤ん坊の指をからませた。そしてヘンゼルもその手を置く。
「ではリリーエ。母親に代わって私が代弁しよう」
 その横で心電図の波が小さくなっていく。
「この世に生まれてきてくれて、ありがとう」
 心電図の波は平らになった。医師が再び心臓マッサージをしたが、やがて医師は首を横に振る。ご臨終であった。その死に顔は満足げな表情を浮かべていた。
「うむ。マギーよ。一応死に水を取った縁だ。彼女を手厚く葬ってあげてくれ」
 ヘンゼルはそう言って病室を出た。もう死んだ人間など忘れたように、患者たちに愛想よく振舞っていた。そのうち子供の患者に質問された。
「どうしてヘンゼル様は大人なのに泣いているの?」
「ああ、これは目にゴミが入ったからだよ。あっはっは、大人が泣くわけないじゃないか」
 そういって乾いた笑いを浮かべるヘンゼルは去った。十二時の魔法は解け、アッシェンは天国へと旅立った。代わりに残されたのはガラスの靴ではなく、ヘンゼルとの間に生まれた子供が残されたのである。

 *

「その後、リリーエは白雪夫妻の養女になり、名前を小百合と変え、日本に行きました。ヴァイスシュネー公国で育てれば、シュピーゲル家の家臣が命を狙われる可能性が高かったからです」
 マギーの説明が終わった。白雪はそれを黙って聞いていた。今まで彼女は生みの両親を知らなかった。そして育ての親もわざわざ容姿が違う日本に連れてきて育てたことを恨んでいた。
 だが母親のアッシェンは自分を守るために逃げ続け、そして自分の身を犠牲にして生んでくれた。父親は自分が生まれてきてくれたことを祝福してくれたのである。
 今の両親も自分を守るためにあえて日本人として育ててくれたのだ。その選択を間違っていたのではないかと悩んでいたが。
 白雪の目から涙がこぼれた。自分は愛されてこの世に生を受けたことが、一番うれしかった。そこにグレーテルが優しく彼女を抱いた。母親が子供にぬくもりを与えるかのように。
「リリーエ、いいえ、小百合と呼ばせていただくわ。ヘンゼル様はあなたが日本へ行った後、毎年あなたのために人形をちまちまと作っていました。それは遠い日本でもあなたを見守る家族を作るためでした」
 白雪は思い出す。毎年不出来な人形が誕生日に届いたが、あれはヘンゼルの手製だったのかと。だが今年はなぜか送られてこなかった。
「ヘンゼル様が人形を贈らなくなったのは、あなたを守ってくれる王子様ができたことです」
 それが猿神拳太郎なのだと知ると、白雪は顔が赤くなった。
「わらわは一度あなたに会いたかった。あなたならいいお姉さんになれると思ったから」
 グレーテルが優しげな声で語る。そこに今まで黙って聞いていた虹七が口を挟んだ。
「そういえばなぜマギーさんは自ら白雪さんにドイツ語を教えたのですか? 今のご両親が教えてもよかった気がしますが」
 それは白雪も疑問に思っていたことだ。それをマギーが答える。
「実は白雪夫妻に連絡があったのです。小百合さまがヘンゼル陛下と同じ、計算能力を持っていることが判明したのです。私はすぐに日本へ旅立ち、クーア・ゲッティンの社員のふりをして、小百合様にドイツ語を教える傍ら、計算能力の有無を調べていたのです。その結果、小百合様は高度な計算能力を兼ね備えていたことがわかりました。もっともそれは予測の範囲内です。もともと日本に行かせたのは、花戸様がいたからです」
 白雪と虹七は花戸の名前が出て驚いた。花戸がマギーの代わりに答える。
「内閣隠密防衛室とイェーガーは深い関係がある。それにヘンゼル閣下とは旧知の中でね。自分の娘が、自分と同じ能力に目覚めたとき、それを悪用する者がいるかもしれない。もしそうなったら彼女を守るため、守る力をつけさせるために、スペクターに入れてほしいとね」
「えっ? じゃあ中央公園で私をスペクターに誘ったのはノリではなかったのですか?」
 白雪が驚いた。虹七も同じ気持ちだったらしい。
「ボクも白雪さんと猿神クンがスペクターの秘密を知ったから、機密保持のために誘ったかと思っていました」
「ただの一般人をスペクターに誘うわけがないだろう。雷丸学園に潜入させたのは生徒会の件もあったが、白雪さんがいたからだよ。もっともご両親に頼んで彼女を雷丸学園に入学させたがね。だがやつらが白雪さんをいじめていたとは計算外だった。許してください」
 花戸が頭を下げた。それを聞いた白雪は一瞬怒りで紅潮した。自分の人生が人形劇のように後ろで操られていたからだ。もっとも怒りはすぐに消えた。少なくとも自分は人形のようにふるまってきた。それを差し置いて自分が怒るのは不当である。ふたりは自分の身を案じて舞台を整えてくれていた。それで満足だ。
「そういえばグレーテル様は白雪さんがお姉さんになるとおっしゃいましたね。それはどういう意味ですか?」
 これは虹七である。おそらく話を切り替えようとしたのだろう。
「ええ、フリードリヒの遊び相手になると思ったからよ」
「フリードリヒ?」
「わらわとヘンゼル閣下の間に生まれた子供よ」
 白雪の質問に、グレーテルは何気なく答えた。すると白雪の頭の中にはてなマークが浮かび上がった。
「あの、グレーテル様は子供はいないと、トビーアス王子が言ってましたが……」
 実際はグレーテルが自分を後継ぎにすると言っただけだ。だが後継ぎが必要ならグレーテルはヘンゼルとの間に子供がいないと思っただけである。
「トビーアスの坊やが? そんなことを言うはずがないわ。だってあの子はフリードリヒに会っているのよ。そんなうそをつくなんてありえないわ」
 フリードリヒは現在六歳。未熟児として出産したので、健康状態が悪く、国民には発表しなかった。現在健康が回復したので公表する予定だという。出産自体は貴族の間では知れ渡っていたそうだ。
 部屋の中が静まり返った。白雪は混乱した。彼はなぜ嘘をついたのだろうか。そこにマギーが口を挟んだ。
「小百合様。トビーアス王子に会った時のことを詳しく話してくれませんか?」

 *

 白雪は話した。自分が忍者にさらわれた時のことを。そして目を覚ました時、トビーアスが自分を殺すと宣告したことを話した。そして全員心痛な面持ちになった。
「白雪君。トビーアス王子の言ったことはでたらめだよ。彼は絶対そんなことは言わないはずなのだ」
 花戸が口を開いた。
「私はトビーアス王子と懇意ではない。外交のために補佐するつもりもない。ヴァイスシュネー公国の貴族なら絶対言わないのだよ。なぜなら―――」
 花戸は一瞬溜めた。そして再び口を開く。
「ヴァイスシュネー公国の国王は世襲制ではないのだよ」
 それを聞いた白雪は惚けた。世襲制ではないと花戸は言った。つまり自分を後継ぎにすることはできない。
 ちなみにヴァイスシュネー公国では国王は元老院に選抜され、国民投票で決められる。国王候補は国内で功績を残した者であり、ヴァイスシュネー国民でなくてはならない。移民でも二十年暮らせば国民になれる。ちなみに年齢は四〇歳からだ。
 ヘンゼルは製薬会社であるクーア・ゲッティンに力を注いだ功績が認められた。父親が退位したとき、選挙で選ばれたのは血筋ではなく、国益を与えたからである。
グレーテルの場合、医療関係、特に美容整形に力を入れ、国外でも患者がひっきりなしに来るようになった。さらにヘンゼルが薨去したため、国王を新たに選抜されたのである。それで当時のグレーテルは四〇才であり、彼女ほどヴァイスシュネーに貢献した人物はいないので、彼女が国王になったわけだ。別にヘンゼルの妻だから選ばれたわけではないのである。
「さらに言うと、王弟ルドルフ将軍ですが、ヴァイスシュネーでは政治は国王が、軍事は将軍が行います。役割としては国王と同じなのです。ですからトビーアス王子がルドルフ将軍を王にしたいというわけがないのです。実際は王と同じ地位なのですから」
 将軍の地位も、選挙で決まる。ヘンゼルとルドルフの兄弟が選ばれたのはただの偶然であり、彼らより国民の信頼が厚い人間がいなかっただけだという。無論、将軍の地位も世襲制ではない。
 マギーの説明に白雪は唖然となった。よく思い返してみると、おかしい話だった。彼女は以前ヴァイスシュネー公国の法律を調べていた。それなのにどうして自分はそのことを忘れてしまったのだろうか。そして忍者に捕らわれていたとき、そのことを思い出さなかったのか。
 答えは簡単だ。当時の白雪の精神状態はまともではなかったからだ。
 恋人の猿神拳太郎は拳銃で撃たれて重体だった。そして自分は虹七とアプフェルバオムによって事情を知らないまま誘拐された。
 さらにグレーテルが目の前に現れ、自分の生みの親の話をしたのだ。混乱しないわけがない。そこを忍者が巧みに利用したのだろう。
 今思えば絞首台も自分を不安に陥れる小道具だったのだ。そしてトビーアスの芝居がかった声色で説明したのも、演出なのだ。
 猿神が都合よく助けに来たのも理由がある。忍者が教えたのだ。そして忍者は猿神が絶好の機会で救出に来るのを調整するために、わざわざ携帯ゲームで遊んでいたのだろう。
「ところで忍者はどこにいったのでしょうか?」
 白雪が訊ねると、マギーが答える。
「ブレーメンの話によれば、いつの間にか消えていたとのことです。ですが小百合様の話ではトビーアス王子たちに命令を下していたのはその忍者で間違いないようです。ブレーメンに介抱されたトビーアス王子たちが目を覚ましたら、正気に戻っていました。そして不審の念を抱いていました」
「不審……、ですか?」
「はい。トビーアス王子とその護衛は、ブレーメンの面々と面識があります。彼らが言うには護衛たちが流ちょうな日本語を話していたとのことです。実はイェーガーでは幹部以外に日本語が話せるのはブレーメンと、日本に連れて来たヘキセンハウスのヘクセ三人だけなのです。ちなみに護衛のイェーガーは全員日本語が話せなくなったとのことです」
 意外であった。いったいどういうことだろうか。白雪は考えてみた。
 そもそも白雪は中央公園でも、連れ去られた廃屋でも、イェーガーの隊員が日本語で話しているのを聞いている。彼らの特徴はまるで演劇を演じているかのように、外連味を利かせていた。そうあらかじめ決められた台本を読んでいるようだった。
「……サイコプリンター?」
 白雪が何気なくつぶやいた。サイコプリンターは生徒会の下宿の地下にある、知識を刷り込む機械だ。つぶやきを聞いた花戸は納得顔である。
「サイコプリンターか。あれなら白雪君の説明で納得できなかった部分が理解できる」
「そうなのですか?」
「うん。サイコプリンターは知識を一度に刷り込むのだが、これにはコツがいるのだよ。一度に刷り込むと知識だけは覚えているが、理解力や応用力が欠けてしまうのだ。情報だけ知っていても、物事には予測不可能なことが多い。その対応ができなくなるのだ。だからサイコプリンターを使うときは、理解力を深めるための授業が必要不可欠なのだよ。あと感受性が弱くなるので、芸術や音楽には向かないね」
「ボクはそれを使ったことはないけど、似たようなものらしいよ。ボクは普通の人より物覚えが速いからね。そのおかげで理解力が弱いから、花戸さんや松金さんに教育してもらっているんだ」
 花戸と虹七の説明に、白雪は納得した。生徒会長の満月陽氷が子供っぽいのは知識ばかりが身に付いている頭でっかちなのだ。そして影の生徒会であるコッファーシュが言っていた。国語と英語はできるが、音楽や美術がだめだと。
「猿神くんに殴られただけで正気に戻ったのなら、洗脳レベルが低かったのだろう。本来虹七と市松くんを呼ぶつもりだったが、ブレーメンの面々が来た。予想外のことで一瞬硬直したのだろうが、忍者が命令することで軌道を修正したのだろうな。以前雷丸学園を襲撃したドクター宇野と同じ症状だ」
 考えてみれば一番許せないのが忍者だ。自分を誘拐したのはともかく、トビーアスたちを洗脳し操ったのだ。おそらく忍者こそがこの事件の首謀者なのだろう。
「そして一番の問題がある。アサルトスーツの面々はイェーガーではなく、日本人と判明されたからだ。しかも全員高校生だ」
「高校生……、ですか?」
 生徒会執行委員の件もあるので、驚かなかった。ただなぜか高校生が符合になっているようで、気になっている。
「そうだ。そして全員同じ学校の生徒だった。その学校の名前は……」
 白雪はごくりと喉を鳴らした。
「新宿区にある象林(ぞうりん)高校なのだよ」

『第七話:ゲブーアト(誕生)』

 一週間後猿神拳太郎は退院した。そして白雪小百合と丸尾虹七が一緒になって登校している。濃縮された慌ただしい二日間を過ごした彼女は一皮むけていた。今まで捨て鉢な態度であった彼女は自分の出生の秘密を知ることができた。今まで頭を縛っていた鎖が解けたために体が軽くなった気がした。
 かといってギャルをやめるつもりはなかった。もう慣れてしまったので、直すのが面倒だからだ。長年のくせが染みついたためだろう。
「結局俺の部屋を襲撃したのは、象林高校の連中だったのか」
 猿神が言った。虹七は象林高校のことはよく知らない。以前校門前で象林高校の生徒が満月陽氷に難癖をつけていたが、陽氷が一括して追い払っていた。
「そうみたい。ほとんどがサイコプリンターで教育されていたって花戸さんが言っていたよ」
 虹七が説明する。サイコプリンターのことは白雪から聞いていた。
「全員特殊部隊の知識が刷り込まれていたみたい。だけど、そのせいで人格障害を起こしている。もう二度と戻れないと花戸さんが言っていたよ」
 虹七がうなだれた。白雪もそれを聞いて暗くなる。サイコプリンターは一度に膨大な情報を刷り込むことができるが、人間の脳には限界がある。限界を超えた知識を刷り込まれれば人格障害を起こす可能性が高い。
 象林高校の生徒たちは全員精神病院に入院していた。年齢制限がなければ明日にでも特殊部隊に就職できるという。しかし彼らは自分たちが誰だか理解していない。アルファだの、ブラボーだの、フォネスティックコードで呼び合っている。
「ある意味、殺されたと言えるな。今までの自分を消されちまったんだから……」
 猿神は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
 象林高校の生徒には何の思い入れもないが、人の不幸を喜ぶ性質はない。相手がだれかは知らないが、非道を許すつもりはない。もっとも相手がわからないからどうにもならないが。
 そんなことを考えているうちに雷丸学園に着いた。そこで一人の男が立っている。
 ヨーロッパ系の顔立ちだが、髪の毛は丸刈りにしている。背はすらりと高く、背筋をぴんと伸ばしていた。手には細長い袋を握りしめている。
 白雪は彼を見て「あれ? どこかで会ったかな?」と首を傾げた。その人物は白雪たちに歩み寄った。
「おはようございます。従妹殿」
 いきなり頭を下げ挨拶された。しかし、白雪には見覚えのない人間だ。それに従妹? 何を言っているのだろうか。
「あの、あなたは誰ですか?」
 白雪が恐る恐る質問すると、男は驚愕の言葉を吐いた。
「拙者はトビーアスでござるよ」

 *

「まったく驚いたな。まさか王子様が留学するなんてよぉ」
 猿神はぼやいた。
 今は昼休み、ここは風紀委員室だ。猿神だけではない。風紀委員長の市松水守に、白雪小百合、丸尾虹七、そしてトビーアスがいる。さらにブレーメンのメンバーである、フーン、カッツェ、フント、イーゼル。ヘキセンハウスのハール、ビーネ、アプフェルバオムまでいるから驚きだ。
 彼らは全員全校集会で紹介された。そもそもブレーメンのメンバーが高校生だったことは意外だった。ちなみに学年では三年生はトビーアスにフーンと、ハール。二年生はフントにカッツェ、ビーネ。一年生はイーゼルとアプフェルバオムである。
 フーンは赤いモヒカンを下に垂らしている。目つきは鶏ではなく、獲物を狙う鷹のように鋭かった。市松より背は低いが、全身から堂々とした自身に満ち溢れており、からかう気になれない。
 カッツェは猫のような眼であった。背はすらりと高いのだが猫背であった。どこか気まぐれな感じがする。
 フントは若干フーンより背が高いが、分厚い筋肉に覆われていた。顔つきは純朴な田舎ものを連想するが、軍用犬を連想する覇気が出ていた。
 イーゼルは四人で一番の巨漢だが、化粧をしており、若干女性のようになよなよしていた。髪型はリーゼントで威圧感はあるが、口調が女言葉なので不気味である。
「年齢詐称じゃ、ないですよね?」
 白雪が訊いた。全員椅子に座っている。
「詐称などしておりませぬ。そうする理由がござらぬ」
 補佐したのはトビーアスであった。彼は廃屋で出会ったときと違い、口調が変わっていた。まるで時代劇に出てきそうであった。白雪はそれ以上訊かなかった。
「ヘイヘイヘイ!! トビーアスさんだったな? あんた、なんでキャラ付してるんだい?」
 猿神が質問する。それをフーンが答えた。
「キャラ付も何も、これがトビーアス様の本当の口調だ。廃屋ではトビーアス様の名をかたる不届きものと思ってしまったが、まさか本人とは思わなかった」
 フーンがうなだれた。それにカッツェが続けた。
「せやな。本人やったらそこの猿にどつかせるのを、止めてたわ」
「いや、それはよいのだ。記憶にないとはいえ、従妹殿に吐いた暴言の数々。正拳一発だけでは償いにならぬ」
 トビーアスが答えた。廃屋では貴族のお坊ちゃんという感じで、ニヤけた面構えだったが、今の彼はきりりとしたものだ。これがトビーアスの本当の素顔なのだろう。
「だども、トビーアス様はサイコプリンターで洗脳されてたと聞いたべ。しかたねぇことではないか?」
「バカね。フント。実直なトビーアス様が身に覚えがなくても、自分の口から吐いた物をなかったことになどしないわよ。それがトビーアス様のいいところなのだけどね」
 フントとイーゼルが話していた。二人はトビーアスに敬意を表している。そこに市松が口をはさむ。
「詳しい事情はわかりました。ですがトビーアス王子は……」
「トビーアスと呼び捨てにして構わない。今の拙者は王子ではない、ただの一般人と同じでござる」
「……呼び捨てはできないので、トビーアスさんと呼びます。トビーアスさんは何故留学されたのでしょうか。従妹である白雪さんの件は決着がついたと思うのですが」
 トビーアスは首を横に振った。
「今回の件は従妹殿だけの話ではござらぬ。本来拙者が留学することで、ブレーメンの面々も護衛として日本へ来る手筈だったのだ。これはマギー殿から聞いた話だが、前々から内閣隠密防衛室の花戸殿と話がついていたらしい。他のイェーガーの面々を連れて来たのは、あくまで視察でござった。ところが拙者は何者かに拉致されてしまったのだ」
 そして白雪と廃屋で出会ったのだ。だがなぜトビーアスにあんな真似をさせたのかわからない。トビーアスを知る者なら、それが偽りであることがばれるはずである。
「我々ブレーメンはトビーアス様の護衛として来日した。だが、それ以上にスペクターたちと連携を取る必要があった。その結果が白雪殿の偽りの抹殺だったのだ」
 例え偽りとはいえ抹殺とは穏やかではない。だが白雪は思った。人間は誰でも殺すと言われたら心が揺らぐものだ。自分もスペクターの一員である以上、冷静な判断が必要になってくる。おそらくマギーはそれを見越していたのだろう。
 だがあまり冷静すぎるのも考え物であった。心が氷のように凍っているのではないかと錯覚する。たぶん生みの父親であるヘンゼルの計算能力が知らないうちに、状況を計算し、冷静さを生み出していたのかもしれない。それか、自分のわけありの出生で捨て鉢になっていた可能性もある。今は落ち着いているが。
「ヘキセンハウスの方々はどうなのですか? 彼女らはグレーテル閣下の護衛でしょう?」
 市松が質問した。それに対してアプフェルバオムが答えた。
「実際は私たち、小百合様のご学友として連れてこられたのです」
 彼女の答えに白雪は唖然となった。
「母は小百合様が生まれた後、人工授精で私を生みました。将来小百合様の身に危機が訪れるかもしれない。そのために私をイェーガーに入隊させ、ヘキセンハウスのヘクセに改造したのです」
「そうだったのですか……」
 白雪は微妙な顔になった。自分のために人工授精で生まれ、自分を守るために特殊部隊に入れられ、遺伝子改造された。彼女にとって自分の人生を奪われたものではないか。それを白雪から読み取ったのか、アプフェルバオムは表情を変えず、続ける。
「これは私が望んだことです。母に命じられたからではありません。母の罪は私の罪。その償いをするのは当然のことです」
 アプフェルバオムは胸を張っていた。それが彼女の意思ならば、白雪は何も言う必要はなかった。
「そして拙者は従妹殿を守るために全員風紀委員会に入ることにしたでござる」
 トビーアスが突如公言した。最初は何を言ったのか、白雪にはわからなかった。
「風紀委員会に入るですって? 本気ですか」
 市松が訊ねた。トビーアスは真剣な顔で頷く。
「この学園では生徒会が支配していると聞いておる。そして風紀委員会は生徒会と敵対しているならば、拙者たちは風紀委員になるしかなかろう」
 あまりに突飛な発言に、部屋中唖然となった。白雪が恐る恐る尋ねる。
「あの……、拙者たちということは、ブレーメンとヘキセンハウスの方々も一緒にということですか?」
 白雪はちらっとハールたちを見た。ハールは一番隅っこで丸くなっていた。恥ずかしがり屋であまり人と目を合わせられないのだ。
「私は、構いません。元々白雪様を守るのは、マギー様からの指令ですので……」
「ふふん。ボクのケツ圧でこの学園の問題児たちを一掃してやるさ!!」
 ハールの隣に座っていたビーネがいきなり立ち上がった。そして後ろを向き、尻を突き出す。しかし誰も相手にしていない。ブレーメンの面々も同じだ。フーンは鉛筆を手にしていたが、それをビーネの尻に投げた。
「あへぇ!!」
 鉛筆はビーネの尻に突き刺さった。そのままビーネは床に倒れる。
「校内でお尻を責めるなんて、なんてマニアックな……」
 ビーネは恍惚の笑みを浮かべ、涎を垂らしていた。その姿を見て、他の面々は呆れ顔である。
「あなたは黙っていなさい。話が進みません」
 フーンは冷静に諭す。しかし次の瞬間市松の表情が真っ赤になった。
「……風紀委員室で破廉恥な行為。許しませんよ?」
 市松の目が血走っている。しかしフーンは冷静なままだ。
「ビーネは放置すればさらにひどいことになる。必要悪なのです。お許しいただきたい」
 フーンは立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。背は低いが寛容な態度である。市松は毒気を抜かれてしまった。
「話はそれたが、生徒会にはザラーム・ジャイシュという影の生徒会があるとのこと。ならば拙者らは光の風紀委員会を作るべきでござろう。名前はリヒト・リッターオルゲンと名付けたいがよろしいか?」
「あの、リヒトはドイツ語で光ですけど、リッターオルゲンは騎士団という意味で、風紀委員会とは関係ない気がしますが」
 白雪が言った。しかしトビーアスは堂々としていた。
「問題はなかろう。ザラーム・ジャイシュも本来は闇の軍団という意味でござる。日本は間違った言葉を使っても寛容な国でござるからな」
 どこか違う感じはしたが、突っ込みようがないのでやめた。それに市松が目を輝かしていた。
「まあ、なんて素晴らしいのかしら。わたくしも生徒会の横暴に手を焼いておりましたの。わたくしたちと一緒に生徒会と戦いましょう!!」
 どこが素晴らしいかはわからないが、市松は感激しているようだ。白雪は話をそらそうとトビーアスが持っている細長い袋を訪ねてみた。
「あの、その袋の中身はなんですか?」
「これは仕込み杖でござるよ」
 トビーアスはさらっと、とんでもないことを言った。白雪たちが目を丸くしているとトビーアスは袋から木製の杖を取り出す。そして刃がきらりと鋭い光を放っていた。
「おい!! 日本には銃刀法というのがあるのを知らんのか!!」
 猿神が激高した。
「大丈夫でござるよ。相手が拳銃を持ち出さぬ限り、抜くことはござらぬ」
「いや!! 抜かなくてもだめだよ、捕まるぞ! せめてコウちゃんみたいに文房具の武器を使ったら!!」
「問題はござらぬ。こうして袋に入れているからばれないでござるよ。あとは職質されても逃げれば……」
「逃げたらだめだろ!!」
 猿神が吠えても、トビーアスは理解していない。もしかしたら割と天然なのかもしれない。虹七が思いついたように質問した。
「どうして仕込み杖が好きなんですか?」
「ああ、これは我が先祖、天巻一転斎から受け継いだものでござる」
 あままき・いってんさい? 突然の固有名詞に目が点になった。どこかで聞いたことはある。
「それは漫画の素浪人銃兵衛に出てくるライバルキャラではないですか? なぜその人の名前が……」
「おや、知らなかったでござるか? 素浪人銃兵衛は実話を元にした話でござるよ」
 トビーアスの発言に風紀委員室は驚きの声が上がった。ただし日本側だけであり、ブレーメンとヘキセンハウスの面々は動じていない。おそらく彼らにとって常識なのだろう。
「天巻一転斎殿は明治維新後、我が祖国、当時は地方貴族でござったが、銃兵衛に出てくる白雪坊と一緒に帰国したのでござる」
「はっ、はくせつぼう?」
「本名はフローリアン・ヴァイスシュネーといい、幕末に日本にやってきたお方でござる。毛色を誤魔化すために剃髪して坊主になったでござるよ。一転斎殿の剣に魅了され、妹のヘートヴィヒ殿と結婚したのでござる。ほれ」
 そういってトビーアスは古い写真を取り出した。白雪が見ると、そこには白黒写真だが、黒髪の色はわからないが白地の渦巻柄の着物を着ている侍と、長髪で金色の女性が一緒に座っていた。男の方は漫画と比べると確かに漫画に出てきた天巻一転斎そのものであった。
「さらに一転斎殿が銃兵衛と一緒に写った写真もあるでござる」
 もう一枚の写真は複数の人間が写っていた。真ん中は中年男性であり、隣には流れるような黒髪に、人形のような顔立ち、竜胆の柄で身体の線、乳房や臀部がきっちり出ている着物を着た女性が写っていた。彼女は宇野竜胆だろう。
そしてその隣に素浪人銃兵衛が座っていたのだ。彼は侍の格好にガンホルスターを下げている。さらにボサボサの短髪で山猿に見えて、太ももが丸見えで薊柄の着物を着る少女薊もいた。 
「ちなみにあたしたちブレーメンの面々は四霊をモデルにしているの。あたしは役者崩れの麒麟よ」
「で、おらは西国から来た維新崩れの小柄な体格の武士、応竜だべ。実際おらは東北弁だけどな」
「わいは京に住んでいた自称義賊の男、霊亀って設定や。ブレンネンなら鳳凰がふさわしい思うたけどな」
「そして私は長州藩出身で松下村塾出身の足軽、鳳凰です。まあ完全にこじつけですね。ちなみに地震、雷、火事、親父をモデルにしております。実際は人間の親父ではなく、昔の台風で山嵐(やまじ)がなまったのですがね」
 意外な事実である。漫画と思われた素浪人銃兵衛がまさか実話だったとは。
「そういえば花戸さんが言ってたっけ。内防の人が過去の記録を使って漫画を描いたって」
 あまりに荒唐無稽な話なので誰も信じなかったのだ。まさに事実は小説より奇なりであった。
「ちなみにボクらは大! 中! 小! で選ばれています。もちろん、パイ……」
 いつの間にか復活したビーネが元気よく手を挙げようとした。するとハールが立ち上がり、大きな胸でビーネの頬をひっぱたいた。ビーネの身体が独楽のように回転する。そしてアプフェルバオムが彼女の尻に鉛筆を突き刺す。
「はがぁ!!」
 ビーネは悶絶し、尻を上に向けたまま気絶した。
「違うんです! 私たちが選ばれたのは胸の大きさではないのです!」
 いや、ここにいる一部を除いた全員はわかっている。ハールは顔を真っ赤にしていた。
「ヘキセンハウスで一番小百合様と年齢が近いからです。別に漫画を参考にしてはいないのであしからず」
 アプフェルバオムが補足する。彼女はあまり漫画には興味がないのかもしれない。トビーアスは少し呆然としたが、こほんと咳払いをした。
「そういうわけでこれからもよろしくお頼み申します」
 トビーアスは床に座り、頭を下げる。風紀委員が一気に八人増員されたのだ。これから何が起こるかはわからない。どうなるか見当もつかなかった。
 白雪はふとコンビニでバイトしていたときに乙戸が言った言葉を思い出した。トビーアスは中二病だと。確かに言動はそれであるが、すべて現実なのである。中二病が現実世界に現れたのと一緒なのだ。そしてそれは一人ではない。漫画の世界から抜け出てきたような人間が大勢いるのだ。
「乙戸先輩というか、生徒会が難色を示したのが、わかる気がする」

 終わり。

2013/07/04(Thu)22:12:55 公開 / 江保場狂壱
http://kouhoba.blog.fc2.com/
■この作品の著作権は江保場狂壱さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 二〇一三年二月十四日:シークレット・ノーマッドの続編です。主役は脇役の白雪小百合です。当初白雪小百合は黒ギャルなのに名前が白いというだけで作ったキャラでした。
 後付設定がほとんどですが、楽しんでいただけたなら幸いです。
 ちなみに題名はドイツ読みです。

 二〇一三年三月五日:作中のドイツ語はNHKテレビドイツ語会話二〇〇七年からとりました。ヴァイスシュネー公国は架空の国です。

 二〇一三年四月二日:白雪と猿神が清い仲は最初から決まっていました。なるべくひと月に一回更新することを目指しています。逆にひと月で書けばいいやと気楽になれます。とにかくきちんと丁寧に説明することを心がけてますが、欠けているかもしれません。
 あと一話のアドルフ王子の名前をトビーアスに変えました。ヨーロッパではアドルフは嫌われており、老人ならともかく若者なので変更しました。本当はルドルフとアドルフが似ているだけで書いたのですが、きちんと調べないとだめですね。

 二〇一三年四月二三日:今回はアクションなしで説明がほとんどです。生徒会の面々が普段どういう生活を送っているかを書きました。

 二〇一三年五月十一日:今回はヘキセンハウスの面々を掘り下げました。ただしビーネがボケキャラになったのは私も想定外でした。第二話を書いている最中は想像できませんでしたね。ボケさせて、他のキャラに突っ込ませれば、そのキャラの性格を掘り下げることができるからです。
 本来ここで白雪がさらわれ、場所を移す予定でしたが、説明ばかりでつまらないと思い、今回の構成になったわけです。

 二〇一三年五月二六日:今回でバトルは終わりになります。今回はブレーメンの四人を掘り下げました。ヘキセンハウスと違って、物足りないと思います。後は真相を語るだけですがどうなるか不明です。

 二〇一三年六月一六日:今回である程度ヴァイスシュネーの法律が明かされます。グレーテルは最初から読者の裏を書くキャラでした。ヘンゼルの白雪に対するセリフは弟も自分の子供ができたとき、同じことを言ったからです。
 サイコプリンターは、よく私は上司に知識より経験が大事だと言われてました。仕事で大切なのは知識も大事ですが、経験です。最初は仕事の仕様をメモに取ってましたが、慣れるとメモなしでも動けるようになったからです。
 次回で最終回です。あくまで一区切りです。

 二千十三年七月四日:今回で最終回です。正直キャラが多すぎたと反省しております。当初は戦闘に不向きな白雪を主役にし、弄ばれる展開でしたが、白雪自身が冷静すぎでした。次回作を考えておりますが、思い付きではなく、きちんとまとめてからにします。
 それではいままで読んでくださった読者の皆様に一言。
『読んでくれて、ありがとう』

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。