『落ちこぼれ、父になる』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:目黒小夜子                

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「俺は落ちこぼれなんだよ」
 が、兄の口癖だった。

 私の家は、父・母・姉・兄・私の五人家族です。楽観的に考える性格の人が多い仲で、兄は“敏感”で“癖のある”性格だった。特に、五歳離れた私としてはややこしいことに、小学・中学と、兄のことをよく知る先生から話を聞く機会があった。

 先生は私を見てひとつ。
「へえ、澤口の妹か。鼻と口元がよく似てるなぁ。澤口はなぁ……頭は良かったんだけど……」
 言葉の間に挟まれる空白を通して、教員が兄をどう思っているのかが、伝わるようだった。冬になると母は、兄の通信簿を見て言った。
「お兄ちゃんて、テストの点数はすごく良いのよ。ただ、好き嫌いがちょっと激しいわね。数学の先生が嫌いだとかそういう理由で、どうも揉めたみたいよ。だってほら、吉永先生から、紺野先生に変わった途端、数学が3から5になったもん」
 母と一緒にこたつに入る私は、どうしてそんなにも成績が変わるのかわからなくて。みかんの皮を剥きながら聞いたのだ。
「へ? どうしてそんなに変わるの?」
 うーん、と母は難しい顔をしてひとつ。
「授業態度だね。絶対」

 そう。兄は困った人だった。
 自分の成績が良いからか、“あの教師はわかりきってることを教えてる”とか“そんな説明の仕方じゃ誰もわからねえよ”とか、そんな言葉を授業中に挟んでしまうらしい。そして、気に入らない先生の授業は妨害し、気に入った先生の授業はおとなしく受け、協力までするのである。どうりで授業態度で悪い点数を取るわけだ。

「でもあの子、すごく優しいんだけどなー。好き嫌いが激しいから、ちょっと損なのよね」
 母はため息を吐きながら通信簿を閉じた。兄の高校受験が近づいていた。
 二階からトントンと階段を下りる父は、リビングに入るなり熊のような巨体を縮込ませる。
「あいつ、ねずみ男みたいな恰好やったで」
 あいつとは、兄のことである。父に言わせればナンセンスな恰好だったのだろう。

 話が脱線するが、母の言葉を借りるならば、父は“陽の当たる道ばかり歩いて来た”人らしい。成績優秀、スポーツ万能、二枚目の甘いマスクに社交的な性格。そこだけ聞けば、確かにそうなのかもしれない。しかし、酒好きでつまみにピーナッツを欠かさない食生活のせいか、今では熊のような風貌であり、眼鏡がそうさせるのかハンサムという印象も受けない。しかしまあ、母のような温かい人と結ばれて幸せそうなので、人生とは意外とバランスがとれているものなのかもしれない。

 ふと思うのが、兄の口癖。
「俺は落ちこぼれ」
 という台詞は、この父と比較して人生を観てしまっているからではないか。
 窓を染める闇を遮るように、雨戸をガラリと閉める父の背中を、私はじっと見ていた。

+++

 しんしんと雪が積もる中、大方の予想通り、兄は風邪をひいた。受験の十日前の出来事である。
「お兄ちゃん、38.5℃」
 小型の土鍋で卵おじやを作りながら、母が右手のしゃもじを立てる。
「がんばれ、お兄ちゃん!」
 私に言われてもな……と心の中で呟きながら、私は赤のランドセルを背負う。
「あいつは毎年よく風邪をひくんだなー。由美が小学校で風邪もらってきて、里奈は大丈夫なんだが、彼だけ重症になるんだなー」
 父はスーツに身を包みながら会社へと向かった。

 そう。私は風邪っぴきだった。しかしどういう星の下に生まれたのか、滅多に重症化しない。そして、私の分まで悪化しましたと言わんばかりに、兄の風邪は悪化していくのだった。テスト前になると、兄は水も飲まない勢いで勉強するので、体重と同時に体力が落ちて風邪をひきやすい状態になっていたのだろう。一応、兄のいる部屋に足を向けるが、兄は私の気配を察するなりいうのだ。
「お兄ちゃん、あの……」
「何だ」
「あの……えっと」
「がんばれとかごめんねとか、言うなよな。嫌いなんだよ、その言葉」
 今思えば、兄なりの気遣いだったのかもしれないが、当時の私としては恐ろしくて、すぐに引き返した。

 兄が第一志望の高校に合格できなかったと知ったのは、もう少し後の話である。

+++

「俺は落ちこぼれなんだよ。親父は俺に失望したと思うよ」
「あんたまたそんなこと言って。A大学に合格できたんだからいいじゃん」
 姉が連れて行ってくれた焼肉屋での出来事である。その日は姉の提案で、“きょうだい三人で、お兄ちゃんの大学合格パーティーをしよう”という話になったのだ。働いて社会人になった余裕なのか、姉はお店で一番良いセットを兄にご馳走していた。

 私は兄よりもう少し安いお肉だったが、それでもぴかぴかのお肉をほお張れる喜びに違いはない。口の中に幸せをたくさん詰め込んで言った。
「そうだよ。合格した時、あんなに喜んでたじゃん」

 話は数か月ほど前に遡るのだが、当時は電話先で受験番号を入れると、電子音で結果が聞けた。
「受験番号、××××××、ですね」
 私は台所でりんごの皮を剥いていた。リビングにつながった電話の前で、母と兄が固唾をのむ。父は新聞を広げていたが、耳だけは電話越しの電子音に向けられている。
「残念でした、だろ……」
 主役の諦めた声に、電子音の“おめでとうございます”という無機質な音声が重なった。えっと目を合わせる親子。はっはっはと笑顔を向ける父。私がりんごの皮むきを中断して
「やったー」
 と言う頃には、母と兄が抱きしめあっていた。
「やったー、お兄ちゃんやったー」
 母の喜ぶ声の後で、涙を流した兄が叫んでいた。
「やったー、俺、浪人生じゃない。やったー!!」

 そんな、感動に満ちたはずの合格発表を終えて、数か月。兄のテンションはがっくりと下がっている。

「俺、大学生になったら遊べると思ってた」
 専門学校生だった姉は、“いいじゃん”と笑う。若いんだから遊べと、態度で話していた。
「でも、実際は……」
 そのあとは、今までの青春時代の延長のようだった。つまり、友達らしい友達がおらず、女の子にもモテないだとか、皆の輪にうまく溶け込めないとか、そういう感じだった。姉は“へぇー”と言いながら、未成年の兄にビールを注ぐ。ちなみに兄としては、受験合格の時に母と抱きしめあったことを良く思っていないようだった。
「お兄ちゃん、面食いだもんねー。かわいい人が大好きだし。」
 ちなみに、姉の方はすごい。常に友達がたくさん居て、彼氏ができては別れてを繰り返していた。一体、この二人にはどんな差があるのだろう。

 そういえば、親戚はよく話していた。
「いやー、里奈ちゃんほんま綺麗になったなぁ。や、由美ちゃんも大人っぽくなって、ちょっと綺麗になったんちゃうん? あ、洋平君や。洋平君は彼女はまだ出来てないの? でも優秀やから〜……」
 その人の良いところを褒めるという意味で、親戚のおば様方は素晴らしいコミュニケーションスキルを身に着けている。そう、兄に足りないものは、コミュニケーションスキルである。

 その後も、きょうだい三人で遊ぶと、兄は決まってこちらの心が痛むような話をしてくれた。
 友達の家に泊まると親には伝えたが、友達には断られたので、カプセルホテルで泊まったとか、そういう話だ。
「今日のはさすがに、お姉も何て声かけて良いかわからなかったよ」
 姉は、そう言って苦笑した。しかし、キャラクターが濃厚な分、好かれる人には好かれる兄。気が合う人とは本当によく合うので、姉の彼氏――のちに夫となる人――にはよく可愛がられた。

「そう。彼氏はお兄ちゃんの事すごく好きみたいでさ。よく“ヨウスケは空いてないのか。一緒に飲むぞ”なんて言ってる」
 冬のこたつでみかんを堪能する私と母に、姉は笑いながら話してくれた。兄の名前は洋平だが、その人はヨウスケという独自のあだ名をつけたらしい。こういう人ばかりが兄の周りにいたら、兄の人生も少しは違うのかもしれない。


 さて、そんな兄の長い長い冬眠生活にも、やっと春が訪れようとしていた。
「アザラシの赤ちゃんみたいな顔をした奴でさ……」
 兄がそう言ったのは、違う大学の、サークルで知り合った女性だった。大人しい人らしく、話す人が居ないところに、兄がたまたま声をかけてからかったらしい。それが、どうもその人の心にヒットしてくれたのだそうだ。
「す、すごい……。あ、由美、今のは内緒よ。お兄ちゃんにいうと、逆鱗に触れちゃうかもしれないし」
 母は、息子に訪れたチャンスに動揺していた。

「ああん気になる! でもどうせ、お母さんには教えてくれないしなぁ。……ねーぇ、由美?」
 いやな予感がしたので、“いやだよ”と答えるが、母は動じない。
「意地悪しないで! お母さんも気になるの。由美と里奈で、お兄ちゃんの彼女の話聞いて、お母さんに教えてよ」
 私と姉も、人の噂話は好きな方だった。スパイをしているようでスリルがある反面、思わぬ兄の幸せに、自然と顔がにやけてしまう。協力してあげてもいいけど……と私が話すと、母は両手を合わせて喜んでいた。

 話はトントン拍子に進み、兄の彼女、由香里さんは、気づけば私の家にご挨拶に来てくれたのだそうだ。
 姉と母は嬉しそうに微笑み、
「とっても良い子なのよ。かわいいし!」
 と母。姉に至ってはすっかり気に入った様子で、
「あの子に決めた!」
 なんて言っている。私は遅れをとって、なかなか由香里さんに出会えない。しかし、由香里さんの素敵な人柄とかわいらしさに魅了された母と姉からは、有益な情報が得られない。仕方なく父に聞くと、とても冷静な意見だった。

「長いスカートで、長いブーツで、短い髪で、きちーんと挨拶してくれたんだ。ちゃんとしていて、とても感じのいい子だったよ」
 なるほど。どうやら、由香里さんはそれまでの印象通り、素敵な人のようだった。しかし、運命はやはり、兄の思う通りには進めてくれないものである。兄が就職試験に励む頃、世間は就職氷河期とも呼ばれていた。就職率が下がり、“一流大学の卒業なら将来は安泰”という社会の概念が大きく覆った頃だったのだ。兄はいわゆるロストチルドレンと呼ばれる時代を生きていた。
 ことさら、人間関係が不器用な兄のことだ。上手く切り抜けていける人が就職枠を掴み取る中、いつまでも就職先が決まらずにいた。大学の新卒として採用してもらえなかったら、次の年はもっと就職できなくなる。そういう考えのもと、兄が発案したのが、なんと留年だった。今年は採用されないから、卒業までの残った単位をあえてとらずに、留年することで、就職活動の期間を長引かせようとする兄の作戦だったのだ。
 当然ながら親は猛反対。
「あんた、私立の大学ってすごい高いのよ? できることを尽くしてないあんたに、そんなお金を払ってやれるほど、うちは裕福じゃないの」
 とのことだった。困った兄だが、唯一引っかかった企業がひとつあった。……が、しかし。これが恐ろしく遠いので、帰省となると飛行機を使わなくてはならない場所だった。さすがに、父と母、私たちきょうだいも驚いたが、兄だけは腹をくくったと言わんばかりに一言。
「雇ってもらえるんだから、当然行くさ。だけど問題があって……」
 この問題というものが、兄の健康状態だったのだ。ふてくされて、やけ酒・やけ食いでもしていたのだろうか、高コレステロールと、γ‐GTPの値が高値だったとのこと。そこからが兄のすごいところで、なんと就職までの二か月で体重を十キロ落としたのだ。さすが、テストになると勉強のために体重が落ちていただけのことはある。努力の甲斐あって、晴れて企業採用となった兄だったが、健康状態を再検してくれた人からは
「確かに良くなりましたが、ちょっとやり過ぎですね」
 と言われたらしい。

 さて、肝心の由香里さんの方はというと、遠距離恋愛になったが、兄が二〜三か月に一度は東京に帰ってくるのだ。顔に似合わない女の子らしいストラップが携帯につけてあったので、
「げっ、何これ?」
 というと、兄からはこんな返答があった。
「遠距離だから、会うたびにお互いのストラップを交換しているのさ」
 どうやら二人は、私よりもよっぽどロマンチストだったらしい。由香里さんの家族は、一家揃ってディズニーランドが大好きだった。兄は、東京に帰省するたびに、由香里さんの家族と一緒にディズニーランドへ行った。その話をすると、私の母が羨ましがるので、私の両親とも一緒にディズニーランドへ行ってくれた。母は、ディズニーのキャラクターの絵がプリントされたお菓子を配りながら、とても嬉しそうに話してくれた。

 さらに数年後の話。私は専門学校に合格したが、合格先が二つあり、どちらを選ぶか決めきれないでいた。ひとつは家から近い私立の学校。ひとつは家から遠い公立の学校。親はどちらでも良いと言ってくれたが、学校の先生は公立の学校を推した。
「澤口はどこの学校も受からないかと思ったし、まさか公立の学校に受かるなんて思わなくて、正直ヒヤヒヤしてたんだぞ。公立の学校の方が偏差値は上位だ。それにまぁ……高校は私立に行ったんだし、この先は公立の学校に行った方がお金の面も安く済む。親孝行してやりなよ」
 確かにそうだな、と思った。それでいいやとも思った。そして、公立の学校に決めようと思っていたところで、携帯にメールが入っているのを確認したのだ。珍しく兄からの受信メール。どうやら、母から状況をすべて聞いたらしい。
 文面にはこう書いてあった。
「由美へ。まずは合格おめでとう。どっちの学校に行くか決めてないって、母から聞いたぞ。でも、もしお前が私立の学校に行きたかったとして、公立の学校に行こうとしていたなら、そしてそれがお金のことでそうしようとしているなら、気にしなくていい。俺が貸してやる。うちは独身貴族なんだから」
 最初は、意味がわからなくて読み直してしまったが、不器用な兄の優しさを遅れて感じると、あははっと声をあげて笑ってしまった。同時に、胸の奥が何かで満たされるのを感じていた。うれしくて、母と父に報告すると、父は眉毛を八の字にして“おおそうか。洋平がそんなことを……”と話した。母は穏やかな表情で、告白した。

「お兄ちゃんが就職試験に悩んでいた頃ね、“あんたにお金をあげすぎて、由美の受験のお金が無くなったらどうするの”って言っちゃったの」
 そういえば。母自身がそうだったことを思い出す。母は末っ子なのだが、上の兄弟の受験費用が高くついたことで、母が大学受験をできる資金が無くなったのだそうだ。母は、受験という機会を与えられずに、就職するしか方法がない人だったのだ。そして、恐らくは子供にそんな思いをさせたくないと思ったのだろう。決まって母は“お勉強に使うお金なら、出してあげる”と言ってくれた。

 その思いが、あの就職難の真っ只中で苦戦する兄の心に、ずしんと響いたのかもしれない。

+++

 由香里さんと兄は、お洒落な式場で、心のこもった結婚式を挙げた。
 由香里さんは友達がたくさん居たようで、いろんな人が“ゆかりん綺麗だよ”と声をかけては写真を撮ってくれた。一方の兄は“よかったね”と声をかけてもらえていた。結婚式の招待状に早く返答をしてくれた人、上位三人にワインを贈るなど、兄と由香里さんは、出席してくれた人に自分達らしく感謝の思いを込めていた。由香里さんのウエディングドレスには、かわいらしいティアラがついていたので、私は“お姫様みたいだ”と思っていた。しかし、今日のお姫様のティアラは、ぽろぽろと飾りが少しずつとれてきていた。それを見た由香里さんは、あははと笑う。
「このティアラ、私のお母さんと妹が手作りで作ってくれたんです。二人とも、あんまり器用じゃないから……」
 そう言いながら飾りを拾う由香里さんは、愛しそうにポケットに仕舞いながら“あとでつけようかな”と話していた。
 
 披露宴のネームプレートには、“澤口由美様”と書いてある後ろに、兄の字面でこう書いてあった。
 “君だけ、新居に来てないから、今度遊びに来なさい。これは命令だ”
 そして、母のネームプレートの裏にはこう書いてあった。
 “俺は落ちこぼれで、たくさん失望させたかもしれない。だけど、選んだパートナーだけは、期待以上だったかな”

 二人を祝福する気持ちに溢れた結婚式が終わろうとして、私たちも美味しい料理がお腹に入らなくなってきた頃、司会者が話を切り出した。
「それでは、新郎新婦の退場となります。お二人のご希望で、新婦は妹の茜さんと、新郎はお母上の美野里さんとご退場されます。茜さん、美野里さん、前へどうぞ」
 予想だにしない呼び出しで、母は口に運びかけたワインのグラスを戻す。
「えっ、私?」
 新婦の家族席では、由香里さんの妹である茜さんが、困った表情を見せていた。というのもこの妹さん、兄とどこか似ていて、人間関係が上手くないらしい。おどおどしている背中を由香里さんの両親が優しく押して、気まずい表情の中、ぎこちなく笑っていた。しかし、その顔が、ウエディングドレスを着た由香里さんの前に来ると、しわくちゃになった後で穏やかな笑顔になった。一方で母は、酒に酔ったのか、あははおほほと前へ登場している。そして、兄の前に来ると、兄から母へと手を出していた。

「こんな機会でもないと、手なんて繋がないでしょ」

 ここで泣いたのは、私だけだった。大学合格受験の時に、母と抱きしめあって、その後で後悔したなんて言っていた、あの兄からの発言だった。“結婚は相手の家とするものだ”なんていう言葉があるが、その通りだと思う。そして、兄と由香里さんはきっと上手くやっていける。心のどこかで、私はひっそりと思っていた。


 それから二年も経てば、親戚はこう話していた。“子供はまだ?”

+++

 兄と由香里さんの間に子供ができないのは、私たち家族の間でタブーとされる話題だった。
「もしかしたら、子供が欲しいのに出来ないのかもしれないから、外野は黙っていましょ」
 という母の意見である。
「……でも、由美ならお兄ちゃんに聞いてもいいかもしれないけど」
 付け足された台詞の中に、スパイ活動への勧誘が込められていた。

 一度、子供はまだなんだね、といった感じで話すと、由香里さんはこう話してくれた。
「私も、実は子供が欲しいんだけど、洋ちゃんはまだだって。別に洋ちゃんがそう言うなら、まだでもいいかなって思うの。だけど、私も自分のおじいちゃんに“子供は?”って聞かれると、ちょっと辛いんだ」
 姉が妊娠した年のことだった。兄も周りの気配を感じ取ったのか、正月に帰省するとご馳走を囲みながら、こう言った。

「俺、父親になる自信がないんだ……」

 大方の予想通り、という答えだった。兄は社会人になっても周囲との気持ちが合わず、しかし周囲に合わせようとするので、過大なストレスを抱えるようになっていた。精神面で不安定になった分を、由香里さんが支えていたのだろう。父に聞く姿はあくまで真面目であり、その姿勢から“あ、ちゃんと由香里さんのことを考えているのかな”という印象がある。
「そうか。まあ、なってみたら、できるもんやで」
 父は酒に酔って赤くなった顔で、にこやかに答えていた。心配はいらないという答えだったのだろう。兄は、そうか……と考えるような姿勢を見せた。あとで母が、私に話してくれた。
「お姉ちゃんが妊娠したし、お兄ちゃんもちょっとずつ考えるようになったんじゃないかしら」
 しかし、一年、二年と経っても一向に妊娠の気配はない。さすがに妹である私も、まだかなーとぼやくようになる。しかし母は、そんな私に“焦らない焦らない”と話した。
「焦ってできるものじゃないのよ。でも、できたら良いね。赤ちゃんって、とーっても可愛いんだから」
 そして、兄と由香里さんが結婚五周年を迎える頃、私の携帯に母からデコレーションされたメールが届いた。


「由香里ちゃんが妊娠したみたいよ!」
 ええーと、携帯を見るなり叫んでしまった。あわてて母に電話をすると、もちろん冗談ではないとのことで、“良かったわねー”なんて話している。しかし、母は話していた。
「予定日が三月みたいなんだけど、私、お兄ちゃんのお家に行くことになるから!」
 ひとつの疑問符が、私の頭に浮かんだ。
 なぜ、由香里さんが妊娠したことで、姑の母が、しかもわざわざ新居に行くのだろうか? 妊婦が里帰りで実家に来るのが普通というか、まあ一般的なのではないか? そう思ったが、母はこう言う。

「ほら、お兄ちゃんって精神的にぐらつきやすいし、里帰りの間もひとりにさせるのは、由香里ちゃんが心配してくれるみたいなの。でもお手伝いは必要じゃない。向こうのお母さんとしても、妹の茜ちゃんがいるから、洋平と由香里ちゃんのところまで行けないみたいなの。だから、私が」
 なるほど。いやだけど……まあ、なるほど。世の中には、いろんな方法があっても良いものである。

「それでね、お願いがあるのよ。由美、三月にお父さんのお世話しに実家に来てくれないかしら?」
 父は、亭主関白の時代を過ごした昔ながらの父親だ。料理はおろか、洗濯物もろくに干せない。一方、世間でいうOLになった私は、実家と同じ県内で独り暮らしをしている。家事全般はできるし、実家から職場へ通えば良いだけの話ではある。了承すると、しばらくしてから、兄と由香里さんからメールが来た。
「由美ちゃん、私たちの都合で由美ちゃんにも影響が出てしまうみたいで、ごめんなさい。それでも、本当に嬉しいです。ありがとう。まだ五ヶ月だから、出産はまだまだだけど、きっと元気に産めるようにするね。」
「由美。ありがとう。こんな俺だけど、やっと父親になれそうです。産まれたら、顔を見に来てやってね」

 全く、仕方ないなぁ。兄も父も、世話がやけるんだから。でも悪くない。私だって一肌脱いであげようじゃないの。母に電話して、私は伝えた。

「お父さんに言っておいて。私が作るからには、毎日煮物か鍋物になるって!」
 携帯電話越しに、両親の笑い声が重なって聞こえていた。

2012/12/10(Mon)07:31:04 公開 / 目黒小夜子
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■作者からのメッセージ
こんにちは。即席で浮かんで、即席で作りました。ところどころにボロがありますが、今じゃないと作れない話の気がしたので。数年前にあげた『姉との思い出』のように、まとめてダイジェスト版にして作品としてあげたかったのですが、どうもうまくいきませんでした。
いつか、ダイジェスト版を作れたら良いなと思っています。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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