『美しく優しい世界の片隅で』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木                

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 夜が更け、表通りにも人の姿がなくなるころアパートに帰る。
 カーテンも電灯もない部屋は月明かりに照らされ青く輝いていた。まるで月が濡らしたように青い世界に沈んでいる。月光の海だ。すり切れた畳の上に置かれた飲みかけのミネラルウォーターのペットボトル、施設を出る時に佐々木先生がくれた真鍮製のロザリオ、脱ぎ散らかした服、わずかな食料品が入ったビニール袋──僕の全財産が海の底で冥い影をつくっている。
 ペットボトルを取り上げて生温い水をひと口含んだ。
 鋭い痛みが走って初めて自分の口の中が切れていることに気づいた。
 僕が特別痛みに鈍いわけじゃない。口の中よりも殴られた頬と蹴られた脇腹の方が痛くて気がつかなかっただけなんだ。何発も殴られ、何度も蹴られ、全身が熱っぽさと痛みに覆われている。こめかみのあたりが強ばる感じがするから血が出て固まっているのかもしれない。鏡がないから自分がどんな面相になっているか解らないけど、さぞ惨めな顔になっているだろう。
 でも、どうでもよかった。いつものことだ。
 シャツは泥だらけで破れている。手や顔は血で汚れているだろうけど、それを治療する気力もない。カビの臭いがする畳に倒れこみ、青い光に包まれて眠りにつく。眠りに落ちるわずかな時間。目に映るすべてが青いビー玉を覗きこんだときと同じ色になる刹那、ひとときの安らぎを得る。
 でも、きっと夢の中でも傷の痛みに苛まれるだろう。


 浅い眠りを何度も繰り返し目が覚めた。
 わずかな眠りの中で何度も同じ夢を見た。見知らぬ人が理由もなく僕を殴りつける夢。僕は何もできずに丸くなって身を守る。背中を蹴られ、太股を棒で叩かれ、ツバを吐きかけられ、汚い言葉を投げかけられる。
 現実と変わらない夢。朝になれば夢と同じ現実がまたやって来る。
 月は沈み、部屋は息苦しいほどの暗闇に埋め尽くされている。僕の身体もペットボトルもロザリオも漆黒の空間にに沈み輪郭すら解らない。身体も物も全てが混ざり合って闇に拡散していく錯覚にとらわれる。鈍い痛みがあるけど、どこが痛いのかすら解らない。広がった僕の意識は数え切れない痛みと怠さを抱えたまま無量の苦海に漂う。
 こんな時は青いビー玉のことを思い出してみる。


 僕は青いビー玉を持っていた。いや、青いビー玉しか持っていなかった。
 生まれたばかりの僕は病院の前に捨てられていた。身元を示すようなものはなく、僕を包んだバスタオルの中にビー玉が入っていたそうだ。両親が名乗り出ることなく施設に入れられた。施設で偽物の名前をもらい、同じような境遇の子どもたちとの偽物の家族の中で育った。
 偽りの家族の中で僕は独りだった。周りの子たちのように馴染むことはできず、いつも施設の裏庭に生えているアオキの陰で仰向けになって寝転んでいた──そこは小さな空間があって、誰も知らない僕だけの秘密の場所だった──ビー玉を目の前に持ってきて太陽に透かす。陽光が濃紺のビー玉を透過して青い世界が広がる。
 静寂が支配する硬質の空間が眼前に現れる。そこには偽りも醜さもない。両親がくれたたったひとつの物の中にあった真実の場所。僕は意識だけをその世界に飛ばせる。どこを見ても美しく冷たく透き通った青い光。テレビで見た南の海の中のような透明感。この光に包まれ優しい時間を過ごしていた。
 だけど、いつの間にかビー玉は僕の手元から消えていた。いつなくなったのかも、どこでなくしたのかも思い出せない。たったひとつの真実は僕の手から消え、僕は偽りの世界にただ独り取り残されてしまった。


 鈍た朝陽が壁のシミを浮かび上がらせている。
 眠りと覚醒の間の柔らかな混沌は全身を覆う鈍い痛みに取って代わられる。腕も足も動かすのがつらい。顔の腫れは退いたようだけど、こめかみのあたりがまだジクジクと腫れぼったさを訴えている。ゆっくりと顔を窓の方に向けると、建物の隙間からわずかに見える空は雲に覆われ、音もなく小さな雨粒を滴らせていた。
 ああ、今日もうんざりする一日がはじまった。
 水圧が弱くてチョロチョロとしか流れない水道で顔を洗い、干からびて硬くなったパンを食べて朝食を済ます。
 どこからかサイレンの音が聞こえる。誰かが苦しみ悲しんでいるのかもしれない。この世界は偽りだから悲しみも苦しみも恐怖も全て本物じゃないのに、人々はさも本物のように涙し恐れおののく。
 偽りの中で悲しんでも無駄なことなのに。
 世の中の人はまだ僕が見つけた真実を知らないんだ。


 昼過ぎの駅前広場は色とりどりの傘に埋めつくされ、凪いだ海のうねりのように人々がゆっくりと動いる。
 僕は傘の海をかき分けて広場の真ん中に立ち、真実への道を大声で伝える。
「ここは偽物の世界なんだ。本当の世界は青い光に満たされたあの場所だ。静寂と安寧が待つあそここそが真実の場所なんだ。束縛と重圧のこの世界から解放されるため、僕の青いビー玉を探して。盗んだのなら返して。僕はあの場所に還りたいんだ!」
 どれだけ声を張り上げ叫んでも誰も耳を貸してくれない。冷たい視線と哀れみを込めた歪な笑いが返ってくる。
 嘲笑、侮蔑、憐憫、憤怒。色々な感情が僕に押し寄せてくる。
 居場所をなくした僕は小雨降る中──見知らぬ人たちに何度もこづかれ、足を引っかけられ、泥まみれになりながら。鼻の奥から流れ出る生温かい血も、すりむいた肘から滴る血も、雨と一緒に地面に吸い込まれていく。足下には醜く汚れた赤茶色のシミができる──背中を丸め、僕をいじめる人がいない場所を求めて彷徨う。


 たどり着いたのは街外れの小さな公園。空き家とシャッターを下ろしたままの店が立ち並ぶ場所。こんな場所なのに芝生は短く刈り込まれ、葉についた水滴が鈍た空の色を映している。
 僕はびしょびしょになるのも構わず芝生に横になって手足を伸ばす。
 灰色の空からは太陽光の欠片を内包させた白光りした雨粒が、幾百、幾千、幾万と落ちてきて僕を叩く。身体は濡れた土の中にゆっくりと沈んでいく。雨水を含んで重くなった手足はぴくりとも動いてくれない。
 ああ、このまま跡形なく消えてしまえばいい。僕が生きてきた痕跡全てをこの雨が流してくれればいい。
 空は鉛色に変わり、降りしきる雨は勢いを増し白線のような雨足を描く。
 こんな空は嫌だ。ビー玉の青に満たされたあそこに還りたい……。

2012/10/14(Sun)01:09:34 公開 / 甘木
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■作者からのメッセージ
 「ザ・ラスト・オブ・イングランド」「エドワード2世」「ブルー」などの名作映画を残した故デレク・ジャーマン監督に捧げる。


 おかしいなぁ……故アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジア」みたいな作品を目指したはずなのに、どこで方向を誤ったんだろう?
 タルコフスキーの水の感性、ジャーマンの絶対的な力の前の無力さ、ヴェルナー・ヘルツォーク監督が描く狂気を最小限の言葉で書きたかったのだけど、アラン・パーカー監督の「ピンク・フロイド ザ・ウォール」の出来損ないのような作品になった気がするのは気のせいかな?
 と言うか、感情面を排除したケータイ小説?

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