『この場所でヒーローは笑った』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:のんこ                

     あらすじ・作品紹介
学校一の人気者である良純は、過ぎていく日々に嫌気がさしていた。そんなある日、自分の言った一言によって傷つけてしまった少年、拳人が車にひかれそうになっているのを目撃する。咄嗟に助けようと体を張った良純は、目が覚めたとき見知らぬ少年たちに囲まれていた。だぼついた学生服、皮のカバン、そして時代錯誤なリーゼント。それはいつか映画や漫画で見た、昭和時代の不良たちの姿であった――

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 人気者、いじめられっこ、勉強のできる奴、できない奴、試合に負けた野球部の負け惜しみ、恋愛話に花を咲かせる色めきだった女子の黄色い声、下世話な会話で笑う男子生徒の声。
 様々な声で溢れかえる教室を尻目に、くだらないなと、良純は小さく溜息を吐いた。笑い声も誰かを貶す言葉も、教室内を満たす全ての音が煩わしかった。
(どいつもこいつも、嘘ばっかりつきやがって)
 クラスメートたちの唇から漏れる言葉のどれもこれもが嘘や誇張にまみれていることに、良純は随分前から気が付いていた。彼らが放つ言葉の裏側には、いつだって「人の気を引きたい」という本心が隠されている。自分の言葉に相手が笑えばいい、驚けばいい、放った言葉によって、相手が自分を受け入れてくれればいいと、そんな思いを隠しながら相手の顔色を窺ってばかりいるクラスメートの姿が、良純の目には酷く滑稽に映った。
 しかし何故そのように感じるのか、その理由も理解しているつもりであった。嘘と誇張にまみれた彼らの姿は、そのまま良純自身の姿として彼の目に映っていたからである。
 自分の唇から漏れる言葉がクラスメートたちの気を十分に引くことが出来ることを彼は知っていた。それだけではない。自分の言葉が彼らの行動を左右するのだと言うことも解っていた。解っていて尚言葉を紡ぐ自分自身に、良純は最も嫌気がさしていた。
「なあ、澤田いんじゃん。あいつの女さあ、中学の頃の知り合いの知り合いの知り合いの元カノらしいんだけど。すっげー女らしいよ。すっげー病んでるらしい」
「え、ちょっと待って、知り合いの何?」
「知り合いの知り合いの知り合い。まあ要するに俺はなんもしらねぇんだけど。なんか束縛とかすげえらしくて、前そいつと付き合ってた奴一か月でげっそり痩せたらしいぜ」
「うあ、なにそれこえーな。確かに澤田あいつ、なんか頬こけたよな。ははっ、ちょっと前まで彼女が出来たーっつって騒いでたのになあ」
「女運ないんじゃない。どうせまだ童貞だろ」
「っていうか良純、お前の情報網ほんとすげえよな。前から思ってたけど、お前どんだけ知り合いいるんだよ」
 感心したように言う友人の言葉に、そうでもねえよと良純は小さく笑った。
 知り合いの数などいちいち把握してはいなかった。知り合いだけでなく、友人と呼べる人間がどれほど居るのかも解らない。今こうして自分の机の周りに集まってきた数名の男子生徒ですら、人に問われれば友人だと紹介するものの、自分の中でだけその関係を括るとしたら、友人という枠に区分するかどうか怪しいところであった。そもそも良純には友人と言うものの定義がよく解らなかったのだ。
(……めんどくせぇなあ)
 誰かとつるむことには意義を見出すことが出来た。何故なら一緒に居る者の質や数は、この狭い学校生活において大いにステイタスになり得るからだ。事実同学年はもちろん、他学年にも他校にも多く知り合いがいる良純は、本心を幾らか偽って作り上げた人格の甲斐もあり、教室内はもちろんのこと、この学校内でも知らぬ者は居ないと言える程度の知名度は手に入れていた。
 しかしそうした人間関係や人格と言ったものは、良純にとってはステイタスになるからこそ意味を見出すことが出来るものであった。従って、もし意味のなさないものであったとするならば、自分は一人きりでこの教室で過ごしていたとしても平気なのだろうと、そう思う。
(一人で居られる方が、楽なんだけどなあ……)
 こんな風に自分の立ち位置を知らしめるためだけに誰かと一緒に居ることは、良純にとって億劫以外の何ものでもなかった。
 自分の言葉にいちいち耳を傾けて笑ったり驚いたりする彼等を、心底間抜けだと思う。何故なら良純の紡ぐ言葉にはほとんど意味などないからだ。あるとするならそれは、自分をより優位な立場に導くため以外のなにものでもない。彼らを楽しませる気などもとよりなかった。良純にとって、自身の立ち位置を確定させ、そうして他の者達とハクをつけることによって心を満たすことこそが全てであった。それ以外の目的のためにこの集団の中に所属する意味などないのである。
 そのため、そうした自己満足的な意図しか含まれていない自分の言葉に笑うクラスメートたちを見る度に、呆れた気持ちになるのだ。
 ああこいつらは俺の望むままの反応をして俺をより高みへと導いているということに気が付いていないのだと、そう思って余計に興ざめした気分になる。
 そしてそんな彼らを嘲る気持ちと同じように、自分の優勢を築くためだけに毎度何処からかネタを仕入れてくる自分自身にも良純は呆れ果てていた。子供しかいないこの空間の中で、立ち位置にばかり固執している自分自身が何よりも滑稽だった。
(……きっとここにはダチなんか一人も居ない。友情なんてものは存在してないんだ)
 いつだって良純は自身の立場を確立するためにクラスの中心に立っていたし、そしてその周りに群がる者も同じように立場を確立するために自分の傍らにいるに違いなかった。
 その関係性は傍目から見れば慕い慕われ仲良さ気につるんでいるように見えるのかもしれないが、事実は互いの利害が一致した末の結論に過ぎないのだ。そんな関係を友情と呼ぶことは、どうしたって良純には出来そうもなかった。
 そうして良純は思うのだ。ここは泥濘なのだと。酷く足場の悪いこの土地で、皆きちんと立っていられるようにと懸命に誰かにしがみついている。倒れたら負けだ。だから時には倒れないようにと誰かを犠牲にする。そうして倒されるのは、いつだって弱い者たちだった。それがこの学校と言う狭い空間の中を生きる子供たちの真実だった。
「いてっ。なんだよ、気をつけろよ……って、お前かよ」
「あ……」
 不意に自分を囲む生徒の一人が声を上げたので、つられたようにして良純は顔を上げた。それに倣うように他の連中も顔を上げる。見れば先ほどまであれほど沸き立っていた教室内が嘘のように静まり返っていた。
 クラス中の視線が、一人の男子生徒へと注がれる。その視線から逃げるように、俯き加減に顔を伏せるその表情を見つめながら、時文は思わず溜息を吐いた。その溜息を聞きとめたらしい少年が、怯えたように肩を震わせた。
「なんだよ、非力なくせに人にぶつかって来やがって。謝ることもできねーのかよ」
「ご、ごめん……」
 泣き出しそうに顔を歪めながらそのまま教室を出て行った少年の後姿を、良純はしばらくの間眺めていた。
「全く気分わりぃなあ。根暗な奴に触られっと根暗がうつりそうでやんなるぜ」
「ハハッ、確かに移りそう。にしても、良純の言うとおり、拳人なんて名前であんなんじゃ、名前負けもいいとこだよなあ。なあ、良純」
「ん? ……ああ、そうだな。でもそれ言ったら、俺なんて良識の良に純粋の純で良純だからなあ。純粋なんて柄かよってーの」
 そう言って笑い声を上げた良純を中心に、再び教室内は喧騒を取り戻していった。その中で一人、尚も表情に笑みを貼り付けながら、良純は教室の外へと視線を向けた。
 真山 拳人。先程逃げるようにして教室を出て行った生徒の名である。終始怯えたように視線を彷徨わせていた姿を思い出して、良純は少しばかりバツの悪い気持ちになっていた。
 数週間前まで、真山はごく普通の生徒だった。大人しい性格の持ち主だったので、もともと友人は少なくクラスでも目立たない存在ではあったが、特段難があると言うわけでもなかった。ごく一般的なクラスメートの一員として、真山はこのクラスに受け入れられていたのだ。少なくとも、数週間前の彼が先ほどと同じように自分の周りの男子生徒の誰かにぶつかったとしても、謝罪の言葉一つで解決していたはずである。
 それならば何故真山があのように冷たい視線の中に放りこまれて身を竦ませなければならなかったのかと言うと、その原因の全ては良純にあった。予想以上に周囲の者に影響を与える彼の一言が、真山の学校生活を変えてしまったのである。
 良純にとってそれは、ほんの些細な一言であった。
 人の名前を覚えるのがあまり得意ではない彼は、三年生に進級し、クラスが変わって約二月経った頃になっても、クラスメートの名前を覚えられずにいた。積極的に自分の周りに集まってくる男子生徒の名前以外、把握してはいなかったのである。
 そんなある日の昼休みのことだった。昼食を終えていつもの面子でくだらない話をしていると、不意に良純の双眼が教室の前方の壁に貼られているクラス名簿を捉えた。ジッと名簿を見つめる彼に、周りの者達は一体どうしたのと首を傾げていた。
 そんな彼らに対し、良純は未だにがクラスメートの名前を覚えていないのだという旨を伝えると、盛大に驚かれた。まだ覚えていないのかよと、半ば呆れるように言われて首を傾げる。彼らの話によると、幾ら関心が薄くとも、二月も経てば大体の生徒の顔と名前は覚えるようになるものなのだと言う。
 それに「へえそうなのか」と、普段あまり高く評価していない彼らに軽く感心しながら、もう一度良純は名簿へと視線を向けた。決して視力は悪くはないが、流石に教室の真ん中あたりの席からは、A4の紙に書かれた小さな文字は判別することが出来なかった。
 一度目を細めた後、良純は席を立った。がたりと椅子がなる。それに気付いた幾つかの眼差しが彼の後姿を追う。それらを気に留めることなく歩みを進め、良純はクラス名簿の前に立った。
 秋田、阿部、伊藤、太田、加藤、木村、佐々木……前からしばらくはありふれた名前が続く。十七番目に自分の名前があった。橋熊田 良純。大それた名前だなと、そう思う。字数が多いため、小中と習字の授業で苦労した。字はそれほど下手な方ではないが、それでも使い慣れない筆でこの名字を書くのはなかなかに難しい作業であった。その度に風変わりな名字を恨めしく思ったが、しかしこの一風変わった名字もまた、自分の立ち位置を決めるのに幾らか影響を及ぼしていたに違いなかった。ありふれた名前の中で自分の名字はなかなかの存在感を示していた。
 そうしてクラスメートの名前を目で追いかけていくうちに、不意に良純の目がある名前を捉えた。自分の二つ後にある名前である。それが真山 拳人の名だった。
 拳人という文字は幾らか特徴的ではあるけれど、今の時代特段珍しい名前ではなかった。変わった字を使う名前なら、他にも幾つかある。それならば何故この名に目がいったのかと言えば、なんてことはない、恐らくは昨日見たボクシング映画が影響していたに違いなかった。
 拳の人。拳人。その名とともに、良純の頭の中には一人の男の姿が浮かんだ。暗闇の中一人たたずむその人物は、見たことはもちろん出会ったこともない。良純の脳内が作り上げた、彼の頭の中にだけ存在する想像の人である。昨日見た映画の主人公に少しばかり似ていたかもしれない。赤いパンツに赤いグローブをつけて、小刻みにステップを踏みながらいずこかを睨みつけていた。
 瞬間、風を切る音が聞こえた。男の放った拳が、闇を切り裂いた。途端に光が差し込み、明るくなった世界にハッとする。どこからともなく、歓声が上がった。どうしてか、拳を握りしめていた。握りしめた拳は僅かに震えていた。
「……真山 拳人って、誰?」
 気付けば教室内を振り返り、そう問いかけていた。呟きのような声とともに、教室内から音が引く。普段とはどこか異なる雰囲気を纏って教室内を見渡す良純に、クラスメートたちは僅かに息を飲んだ。
「……俺、だけど……」
 数秒、数十秒、あるいはそれ以上の奇妙に長い沈黙の後、どこからともなく声が上がった。その声音に、良純だけでなくクラス中が振り返った。声がした方を辿ると、僅かに手を上げ、居心地悪そうに良純を見つめる男子生徒の姿があった。その横に居た二人の男子生徒が、見守るようにして良純と彼を見比べていた。
 窺うようにして向けられた視線を、良純は堂々と受け止めた。そうしてまじまじと、少年の姿を眺める。
 僅かに茶色がかった明るい色の髪の毛。小動物を連想させる、黒目がちな二重の瞳。そばかすの浮いた顔。特別整っているわけでもなければ崩れているわけでもない、印象深いわけでもない顔立ちの生徒だった。体つきも可もなく不可もなくといった様子である。しかし自分を見つめる双眼に宿った怯えの色が、なんとなく彼を弱々しく見せていた。少なくともその姿は良純が連想した名前の人物とは大きくかけ離れていた。
 そうして感じた落胆を、気付けば良純は口に出していた。
「なんだ、拳人なんて名前だから、どんなヤツなんだろうって期待したんだけどな。全然そんな柄じゃねぇじゃん」
 言葉が音になって教室内に満ちて数秒の後、はじけた様に笑い声が上がった。声に出して笑っているのは、主にいつも良純の周りにいる少年たちである。しかしそれ以外のクラスメートも、笑いを堪えるようにして顔を引きつらせていた。その様子を見てを始めて、良純は自分が心の内で思ったことを言葉にして放っていたことに気が付いた。
 ハッとして真山へと視線を向けると、彼は恥ずかしそうに、居心地悪そうに俯いていた。そんな彼を、傍に居た友人たちも気まずそうに見つめていた。
(……悪い事しちまったなあ)
 傷心した様子の真山を見つめながら、良純は心の中で謝罪をした。傷つけるつもりも、貶めるつもりもなかったのだ。力強さを感じる彼の名前に良純が勝手に期待を馳せ、そうして見た本人の姿に勝手に落胆したに過ぎない。そしてその落胆を、最悪な形で口にしてしまっただけのことに過ぎなかったのだ。
 まさかこの出来事が尾を引くとは思わなかった。というよりも、打ちひしがれたように頭を下げた真山に頭の中で一度謝罪をしたきり、良純自身はその出来事を忘れてしまっていたのだ。無責任と言われればそれまでかもしれないが、彼にとっては他愛もない出来事に過ぎなかった。どうせ傍に居る友人が落ち込んでいる彼を慰めるのだろうし、今こうして笑い声をあげているクラスメートたちも、幾らか時間が立てば忘れてしまうのだろうと、そう思っていた。
 そのため、昼休みが終わり、午後の授業が終わって迎えた放課後、いつもは金魚の糞のように自分の周りにいる少年たちが真山を見てにやにやと笑っているのを見て幾らか驚かされた。慌てて真山に視線を向けると、彼の友人であったはずの二人の少年はどこか引き攣った笑みを浮かべながら、話しかけてくる真山におざなりな返事をしてそそくさと教室を出て行ってしまったのである。
 そんな光景を見て、良純は愕然とした。自分がしでかしたことの重大さに驚かされた訳ではない。こうも簡単に人は人に見切りをつけるのだと言う事実を改めて実感し、それに衝撃を受けたのである。
 明日から真山は一人きりになるだろう。それどころか、自分を取り巻く少年たちの手によって酷く傷つけられることになるかもしれない。途方に暮れて立ち尽くす真山を見つめながら、半ば確信的に良純は思った。しかしその反面、それでもいいじゃないかとも思う。
(あんなことで簡単に途絶えてしまう友情に、一体何の意味があるって言うんだ)
 離れていく物を繋ぎとめることに何の意味があるのだと、心の内で誰にともなく疑問を投げかけ、良純は眉を寄せた。
 離れたくなければ離れないのだろう。そうでなかったとするならそれは、簡単に手放しても良い物であったということである。そうして自分が手放されたというのなら、次にすることは一つだ。掴みたいと思う物を自分が掴み取ればいい。崩れてしまった足場を立て直せばいい。泥濘に足を囚われ転げたというのなら、今度は立ち上がる方法を考えれば良いだけのことである。一度泥にまみれたからと言って、いつまでも泥の中と言うわけではないだろう。ここは底なし沼ではないのだ。浅い泥の中で子供たちがせめぎ合う、そういう世界なのだ。
(……だけどやっぱり、あれは俺が悪いよな)
 数週間前に起こった出来事を思い出しながら、もう一度良純は心の中で真山に謝罪をした。しかし胸の内で唱えたその言葉は、この場に居ない真山には当然のことながら届かない。
 そうしてしばらくの間考えを巡らせているうちに、やはり馬鹿馬鹿しくなってしまい、良純はそれ以上真山について考えることを止めた。幾ら考えたところで、彼自身に真山を救う気は微塵もなかったのだ。
 真山の立場を危ういものにしてしまったのは確かに良純だったが、自分自身を守ることが出来なかったのは他でもない真山自身である。離れて行った友人たちの手を惜しむ真山の気持ちは良純には解らない。しかし打ちひしがれるほどに手放すのが惜しい立ち位置だったのなら、初めからきちんとその両手でしがみついて守るべきだったのだ。それが出来なかったと言うのなら、それは真山自身の弱さに違いない。申し訳ないとは思うけれど、彼自身の責任まで背負うつもりは良純にはなかった。少なくとも良純は、いつだって自分の手で自分の立場を守ってきたのである。
「……馬鹿みてぇだなあ」
 思わず呟いた言葉は、誰の耳に届くこともなく静かに消えた。

「え、なに良純帰んの。これからカラオケ行くのによー」
「ん。わりーな。今日は帰るわ」
 放課後になり、何処からともなくかかる遊びの誘いを珍しく全て断った良純は、一人教室を後にした。いつもであれば何人かで町へと出かけて適当に時間を過ごすのだが、どうしてかこの日はくだらないことをして騒ぎ立てる気持ちにはならなかった。何故だか酷く焦燥に駆られていた。
(……あいつ、何処行ったんだろうな)
 教室を出たきり、真山は戻っては来なかった。鞄は教室に置いたままだったので学校内に居るのかとも思ったが、しかし財布と携帯電話さえ持っていれば鞄などなくとも家に帰ることは出来るのだ。そのため教室に戻ってこなかった彼が何処で何をしているのか、良純には皆目見当もつかなかった。消えたその存在を気にする者は他に誰一人としておらず、そのことにも何故だか酷く苛ついていた。
(……そんなに気にすることじゃないだろう)
 姿が見えない真山に対し、まるで言い訳のように、良純は胸の内で絶えずそう繰り返していた。
 良純が言葉にした通り、拳人という力強い名前と容姿の間に存在する違和感に真山自身何かしら思うことがあったのだとすれば、それは良純も同じことだった。
 良純はこれまで、一度として周りに集まってくるクラスメートたちを友人として認識したことはなかった。クラスメートは友人でもなければ仲間でもなく、彼にとってはより優位な立場を築くための道具でしかなかった。
 そんな風にしか他人を見ることの出来ない自分を、良純は心底狡猾だなと感じていた。そしてその度に、自分の名前が持つ意味を思い出して笑いたくなった。
 自身の利益ばかりを追求している自分の何処に、良心や純粋さがあるというのだろう。無いに違いなかった。普段明るく快活に振る舞う良純を周りがどのように評価しようとも、彼自身は自分の心に存在する薄汚い謀を認識していた。そのためいつだって、背負った名前に違和感を抱き続けていた。
(良心もなければ純粋さもありゃしない。それでも人気者で居られるんだ。ならあいつだって同じだろ。自分の名前を笑い飛ばす力さえあれば、問題なんてなかったんだ)
 どうしてそれが出来なかったんだよと、そう思う自分が思いの外罪悪感に囚われているのだと言うことに気付き、良純はより一層気分が重くなるのを感じていた。
 しばらく黙々と家までの道のりを歩いていると、不意に視線の先に見慣れた後ろ姿を捉えた。茶色い髪の毛に、肩を落として歩く頼りなさ気な姿。真山だと、そう思い僅かに目を見開く。教室を出た彼はどうやら校外に居たらしい。今まで一体何処で何をしていたのだろう、そう思いながらも、声をかけるべきか否か、良純はしばしの間思い悩んだ。
 それでも僅かに歩調を速め、数十メートル先の人物との距離を縮めていく。俯き加減に歩くその背中は、追いかける良純に気付いていないようだった。そうして二人の距離は徐々に縮まり、視線の先の真山は丁度細い十字路に差し掛かったその時である。
「危ねえ!」
 歩道も信号もない道の道路脇を、真山が真っ直ぐに通り過ぎようとしたその瞬間、左方向から一台の車が現れた。それを見て声を上げたのと同時に、気付けば良純は走り出していた。
 視線の先で、車の中の運転手が慌てたように目を見開くのが見えた。よそ見をしていて、真山の姿に気付くのに遅れたのだろう。耳障りな急ブレーキの音が響く。響いた良純の声と急ブレーキの音に弾かれたように顔を上げた真山を見つめながら、良純は思いきり地面を蹴った。

「おい、起きろよ、起きろってば。大丈夫かよ」
 何処からともなく聞こえてきた声に、良純の意識は僅かに浮上した。世界が白んでいた。自分は今どこに居るのだろう、目は開いているのかいないのか、起きているのか寝ているのか、それさえも曖昧な状態だった。
「なんだこいつ、なんでこんなところに倒れてやがんだよ。誰かにやられたってわけでもなさそうだし……」
「発作でも起こしたとか? 病院連れてった方がいいんじゃねえの」
 頭上からは絶えず声が聞こえていた。どうやら二、三人の少年と思しき人物たちに見下ろされているらしいと、聞こえてくる声を頼りに良純は状況を判断した。
 幾らか意識ははっきりしてきたが、もう暫く目を開けることは出来なさそうだった。瞼が重い。加えて鈍い頭痛がした。ズキズキとした痛みを感じながらも、良純は聞こえてくる声音に耳を澄ませていた。
 どれも聞き覚えのない声だった。同じ年頃の少年たちだろうか。どこか間延びしたような、鼻にかかったような話し方で、その声音に含まれた乱雑さが酷く耳障りだった。
 一体自分の身に何があったのだと、そう疑問を抱いたところで不意に身体を起こされた。そうして軽く揺さぶられ、鈍い痛みが全身を駆け巡る。伝わる振動に思わず眉を寄せた。急かすようなその動きに、苦心しながらようやく目を開けると、暗かった世界に光が射しこんだ。
「っ……」
「起きたな」
 耳元の近くで声がした。しかし逆光に邪魔をされ、姿を捉えることが出来ない。顔をしかめたまま、良純は唇を開いた。未だに頭痛は続いている。
「ん……いってえ……んだよ……」
「ああ? そりゃあこっちの台詞だ。道の真ん中でぶったおれやがって。おいお前、何者だよ」
「お前らこそ……」
 そう言い視線を巡らせたところで、良純は大きく目を見開いた。明るさになれた視界が、ようやく自分の身体を抱き起こしている少年と、その背後に立ち同じように自分を見下ろしている二人の少年の姿を捉えたのだ。しかし視線の先に飛び込んだ少年たちの出で立ちに、良純は思わず呆然として言葉を失った。
 途端に目を見開き沈黙した良純を、少年たちは怪訝そうに見つめていた。そうして僅か数秒の間、沈黙が訪れた。
 奇妙な沈黙に焦れたようにして、後ろに立つ少年の一人が口を開こうとしたその瞬間だった。堪えきれないとばかりに、良純の唇からは笑い声が溢れた。
「はははっ! なんなんだよ、お前らのそのアタマ! うわーダセェ、俺初めて見た。今時そんな髪形してる奴居たんだな!」
 はじけた笑い声とその言葉に、少年たちは一瞬何を言われたか解らないとでもいうように、呆けた顔をした。
 良純を見下ろす少年たちは、三人とも今ではもうほとんど見ることのなくなった珍しい髪形をしていた。両サイドの髪の毛と前髪を整髪料によってぴったりと後ろに流したその髪の毛は、良純が生まれるより前の一部の若者の間で流行った、所謂リーゼントスタイルというものである。
 良純はその髪形を、漫画や映画の中でしか見たことがなかった。その世界の中で描かれるのは、仲間意識が強く、誰よりも高みを目指して拳を振う少年たちの姿である。そんな彼らの姿を見る度に、良純はほんの僅かな羨望と、そしてそれ以上の無意味さを感じずにはいられなかった。そんなことをして何になるのだと、嘲りたくなる気持ちが胸の中にいつも存在していた。
 いつか見た世界の住人と類似した出で立ちの少年たちを前に、良純は半ば信じられない思いで驚くのと同時に、可笑しさを感じてただひたすらに笑い声を上げた。
 その瞬間である。
「おいテメェ」
「……は、」
「何がオカシイんだよ?」
 瞬間、変わった空気に僅かに良純は身を震わせた。ハッとして顔をあげると、そこにはこれまで見たこともないような色を浮かべて自分を見下ろす少年たちの姿があった。
 ギラリと光る六つの目が良純を見下ろしていた。そのような目と対峙したことは、生まれてこの方一度もなかった。いつだって良純は見上げられる立場にあった。崇拝や羨望の眼差しを一身に受け、その中心に佇みながら「なんて馬鹿馬鹿しいんだ」と、そう言って辺りを見下ろすのが自分だったのだ。
 しかし今、まるで猛獣のような凶悪さと荒々しさを宿して自身を見つめるその瞳に、何故だか良純は眩しさを感じていた。そうして思わず目を細める。
 そんな良純に対し、目前の少年は忌々しげにギリリと歯ぎしりをした。それを見た瞬間、自分が今どのような状況に置かれているのかを思い出して良純はハッとした。
(あ、ヤバいな、これ)
 思うと同時に良純の頭を過ぎったのは、以前見た映画や漫画のワンシーンである。闘志を瞳に宿した少年が、対峙する相手を打ちのめさんと拳を振う。その光景が今、良純の脳内でそのまま自分と目の前の少年の姿に置き換わった。しかし浮かんだ予測に対応するだけの力は、良純にはなかった。
 しかし予期した衝撃はいつまでたっても訪れず、代わりに強い力で学生服の襟元を掴まれ、良純は予想外の出来事に瞠目した。
鼻先が触れ合う程の距離で、鋭い視線に射抜かれる。そこでようやく、良純は息を飲んだ。
「お前、まさか俺のこと知らねえっつーんじゃねえよな?」
 問われた質問に、思わず良純は眉を寄せた。一瞬乱れた思考は、既に冷静さを取り戻していた。
「は? いや知らねえよ。何で俺がお前らみたいなのを知ってるんだよ」
「ああ? 何言ってんだお前。俺らのこと知らねえわけねえだろ。お前花高の生徒だろ」
 自分の胸ぐらを掴んでいる少年の背後に立っていた人物の言葉に、良純はより一層怪訝そうに眉を寄せた。その様子に、少年たちは一層顔を顰めた。
 花高とは、良純の通っている花咲高校の略称である。この町には私立と公立合わせて計五つの高校があり、公立校の一つである花咲高校には普通科しかなく、進学率と就職率が半々のごく一般的なレベルの高校だった。いじめや喫煙、盗難などの細やかな問題は稀に起こるが、割合平和な高校である。
 花高だけでなく、この町の高校全て似たような環境であった。少なくとも暴力沙汰を起こして処分を受ける生徒は、ここ数年の間ほとんど居ない。例えそのようなことが校内であったとしても、生徒たちの間で上手く揉み消されている。いじめが問題に取り上げられることもなかった。そのため真山が今現在どのような状況にあるのか、教師の誰一人として把握していないに違いない。
 そこで唐突に良純は目を見開いた。
「っていうかおい、真山は!? あいつ……」
 数分前の出来事を思い出して慌てて辺りを見渡すも、三人の少年の他良純の周りに人は居なかった。今いる場所は、良純が真山を助けた十字路に違いなかったが、そこには助けたはずの真山の姿もなければ、飛び出してきた車もない。居るはずの人物が居ない事実と、その代わりに自分を見下ろしている奇妙な出で立ちをした三人の少年の姿を見比べて、良純は愕然とした。しばらくの間、言葉が出なかった。
「真山って、お前のダチかよ。そんな奴居なかったぞ。お前、道の真ん中でぶっ倒れてたんだ」
「……倒れてた? いやでも俺、轢かれた覚えはないぞ」
「轢かれた?」
「ああ、だってあの時俺ちゃんと……」
 あの瞬間。突如左方向から現れた車を見た良純は、ほとんど無意識のうちに走り出していた。そうして車と真山が接触する間際に地面を蹴り、真山を突き飛ばしたのだ。それと一緒に良純自身も車を避けたはずだった。全身を襲った衝撃は、車に跳ね飛ばされた際の衝撃ではなく、勢い余った体が地面にたたきつけられる衝撃であったはずだ。
 しかしどうしてか、そこからの記憶がない。
 一体何故。首を傾げる。真山は何処に行ったのだろう。事故を起こしかけた車は。まさかどちらも逃げ出したと言うのだろうか。
 考えて、そんなはずはないだろうと良純は一人首を振った。幾ら真山が良純のことを恨めしく思っていようとも、自分の命を救った相手を置いて逃げるほど心根の狭い人間には見えなかった。いつだって頼りなさ気な表情を浮かべるあの姿には、内に秘めた優しさや人当たりの良さがありありと滲み出ていた。だからこそ彼が苦しい現状から抜け出せずにいるのだと言うことも、良純は把握しているつもりであった。
(……あいつは逃げ出すような奴じゃあない)
 車に轢かれそうな真山を見てあんなにも懸命に走った良純の心に、罪悪感がなかったと言えば嘘になる。幾ら言い訳したところで、やはり彼の心には自分の無責任な発言によって真山を傷つけてしまったのだと言う認識はあったのだ。しかしかといって、助けたことを感謝されたいわけではなかった。自分のした行いをこれで帳消しにしてほしいと望んだわけではない。しかし歩み寄ることは期待していた。一度底辺まで落としてしまった彼の立場をもう一度もとの居場所の戻すためのきっかけになればと、そう思ったのは紛れもない事実である。
 しかしこの場に真山は居ない。居るのはよく解らない身なりをした、風変わりな男子生徒三人だけである。
一体どうなっているんだと疑問に思いながら、良純は痛む体を起こして立ち上がった。骨が軋んだ音を立てる。そうして自身の身体を見回して尚驚いた。どうしてか、盛大にコンクリートの上に転がったはずの身体には、傷一つなく学生服もさほど汚れてはいなかった。
「……なんだこれ、どういうことだ……?」
 呆然と自分の姿を見回す良純に、少年たちも怪訝そうに眉を顰めた。こいつは一体何者なのだろうと、まじまじと良純を見つめる。
「……お前、名前なんてんだ」
 そうして数秒経過した後、不意に傍らの少年が良純に問いかけた。視線を向けると、先程に比べると随分敵意の薄まった瞳とかち合った。それでもどこか鋭い印象を受けるのは、一重のその目がもともと吊り上った形をしているからに違いない。鼻筋の通った、整った顔立ちをしていた。奇妙なことに、薄めのその顔とサイドも前髪も全て後ろに撫で上げた髪形は奇妙なほどに釣り合いが取れていた。整髪料によって固められた黒髪が、夕日に反射して煌めいていた。
「……橋熊田 良純」
「橋熊田? 聞いたことねーな。お前三年だろ。何組だよ」
「八組」
 短く答えた言葉に、目前の少年だけでなく、成り行きを黙って見守っていた二人も一層怪訝そうに眉を寄せた。
「お前、何言ってんの?」
 その表情の意味が解らず首を傾げると、背後に立った少年の一人が呆れたように口を開いた。随分と背の高い少年である。目に染みるような金色の髪の毛をしていた。その髪を他の二人と同じように全て後ろに撫でつけているその様は、良純の持つお洒落と言う概念からはかなり逸脱していた。
 加えて間違いなく校則違反なその髪の色に、良純は思わず毎月不定期に行われる頭髪チェックの様子を思い出した。僅かに茶色く染められた良純の髪の毛でさえ、それを見咎めた生徒指導の教員によってくどくどと説教を説かれるのだ。一体彼のような髪型の場合、どれほど長ったらしい無意味な指導を受けるのだろうと、自分を睨み付ける双眼を見返しながら良純は思考を巡らせた。
 しかしそうして視線を躱していた少年が口にした言葉に、今度は良純の方がが何を言っているのだとばかりに眉を寄せた。
「嘘吐いてんじゃねえよ。八組なんてねえだろ」
「……は?」
 八組がない? 何を言うのか。だとしたら自分は毎朝何処の教室にむかっていると言うのだ。そんなわけがあるもんか。
 予想外な少年の返しに、良純はいら立ちを隠すことが出来なかった。
「お前こそ何言ってんだよ、八組がないわけないだろ」
「おいテメェ、いい加減にしろよ!」
 眉を寄せながら反論をした良純に対し、唐突にもう一人の少年が距離を詰め捲し立てるように言葉を浴びせかけてきた。ずいと近づいた距離に、思わず一歩後退する。
 突然のことに目を見開きながら、鋭い眼差しで見上げてくるその少年を良純は僅かに見下ろした。金髪の少年に比べ、随分と背の低い少年である。頭の位置が丁度良純の鼻のあたりにあった。
 二重の目が危険な色を秘めてギロリと良純を射抜いていた。しかしその鋭い目の上には眉毛がほとんどなく、それが酷くアンバランスで滑稽に見えた。眉のない部分の皮膚が青くなっているのを見て、何を思ってこの少年はこんなにも眉毛を抜いてしまったのだろうと疑問を抱く。
 そんなことを考えている良純に構わず、尚も好戦的な視線を向けてくる少年のその眼差しを、ようやく良純は受け止めた。鋭いと感じたその目は、見下ろすその低い背と二重の目のためか、幾らか幼く見えた。まるで捨て犬の様だなと、そんなことを思う。
「さっきからふざけやがって。俺らのこと馬鹿にしてんのかよ!」
 少し高めの声で噛み付くようにそう言われ、僅かにたじろいだ。なおも目前で何事かを喚いている少年を見つめ返しながら、一体何故自分がこのような目に遭っているのか、全くもって理解が出来なかった。それとともにふつふつと不満が募る。助けた真山が消えた事実も、事故を起こしかけた車に逃げられたことも、こうして見知らぬ少年たちに取り囲まれている事実にも苛立った。
「俺がいつふざけたっつんだよ」
 僅かに低くなった良純の声音に、目の前の少年が小さく息を飲んだ。
 確かに彼らの出で立ちに対して多少なりとも思う物はあった。馬鹿にしているだろうと言われれば、そういう気持ちもあったに違いない。
 しかしそうであったとしても、ふざけた記憶は一度もなかった。至って真面目に取り合っているつもりであったし、そもそも良純には何故自分が彼らのような学生に絡まれているのか皆目見当がつかなかった。訳の分からない状況に陥った側としては、適当な反応をしているつもりである。
 それなのに先程から全く要領を得ない言葉で以て捲し立ててくる彼ら対し、いい加減良純も苛立ちを覆えずにはいられなかった。そうして抱いた怒りが、ぽろりと唇の端から零れ落ちていく。
「お前らこそさっきからなんなんだよ。喧嘩腰に質問ばっかりしやがって。聞きたいことがあるならちゃんと聞け。聞きたい理由も聞けよ。そしたら答えてやる。じゃないとお前たちの意図がわかんねぇンだよ」
「んだとお!?」
「やめろ正春。おいお前。ほんとに俺らのこと知らねえってのか。花高の生徒で」
 鼻先がほとんど触れ合う距離まで間合いを詰めてきた少年の肩を、黒髪の少年が止めた。止められた少年は尚も怒りが収まらないと言った様子で、片で粋をしている。その様子を冷めた様子で一瞥した良純は、黒髪の少年の方へと静かに向き合った。
「だから知らねえって言ってんだろ。なんなんだよさっきから。つーかそういうお前らこそ、俺のこと知らねぇのかよ」
 花高に通う生徒の中に良純を知らない者はもはや一人も居ない。実際に関わったことはなくとも、どこからともなく聞こえてくる噂話によって、どんな生徒も彼の存在は認識しているはずだった。珍しい名字も生徒たちの気を引く一つの要因となっている。
 しかしそう言った良純を嘲るように笑いながら、金髪の少年が口を開いた。
「俺たちが? お前を? 知るわけねえだろ。大体お前みたいな変な頭の奴、一度見たら忘れられねーよ」
 明らかな挑発に、良純は思わず舌打ちをした。
「んだとこの金髪。お前にだけは言われたくねぇよ。んだよその古臭い頭は。映画から出て来たのかっての」
「てっめえ、ふざけんのも大概にしやがれ! ぶち殺すぞ!」
「落ち着けっつってんだろ! 正春、信隆、お前ら下がってろ」
「だけど凛一……」
「おい、お前」
 リンイチと呼ばれた黒髪の少年が、真っ直ぐに良純を見つめた。鋭い一重の瞳が自分を射抜く様に、良純は僅かに息を飲んだ。その目に怯んだわけではない。しかしながら、強さを秘めて光を宿す眼差しはどうしてか良純の焦燥を酷く掻き立てた。
 リンイチ。そう聞いて真っ先に凛一という字が頭に浮かんだ。鈴の音のような清々しい響きがその名にはあるが、しかし目の前の少年の堂々たる佇まいには、爽やかさよりも凛々しさの方が感じられた。
 なるほど名前通りの男だなと、自分を睨み付ける双眼に尚も胸中を揺さぶられながら、頭の中の僅かに冷静な部分で良純はそのようなことを考えていた。
「高倉 凛一。俺の名前だよ。ほんとに聞き覚えねえのか」
 しかし問われた言葉の中に潜む高慢さが無性に気に食わず、良純は眉を顰めて言葉を返した。
「ねえよ、何回も言ってんだろ。お前らなんて見たこともねえよ」
「転校してきたってんじゃねえのか」
「一年からずっと居るよ。わりぃけど俺もう帰るよ」
「あ、テメッ、待てよ!」
「いい正春。追うな」
 凛一という少年の一言に従ったらしい二人の少年は、幾らか不満げな声を漏らしながらも良純を追いかけることはしなかった。背後で行われた彼らのやり取りに幾らか胸を撫で下ろしながら、なるほどこの三人の仲を取り仕切っているのはあいつなのかと、良純は黒髪の少年の顔を思い浮かべた。
「おい橋熊田」
 そうしてしばらく歩いた先で、不意に背後から声がかかった。橋熊田と、そう呼ばれたことに驚いた良純は、気付けば足を止めていた。確かに一度聞けば忘れられないような名字ではある。しかしその名を、よもやつい先ほどまで自分を睨み付けていた少年に呼ばれるとは思いもしなかった。
 そんなことを思いながらも、呼びかけに耳を傾けてしまったことに何故だか悔しさを感じ、振り返ることはしなかった。こっちを向けよと、二人の少年が不満を口にする。その声を良純は背中で受け止めた。
「俺らこの十字路右に曲がった先にあるASTERっつー茶店にいるから。多分夜までいるよ」
 それは何かあったら俺のところに来いということなのだろうか。
 一体何故?
 つい先ほどまで対峙していた相手の思いもよらぬ発言に、良純は思わず後ろを振り返った。どういう意味だと、視線で問う。しかし少し離れたところから真っ直ぐに自分を見つめるその瞳からは、真意を探ることは出来なかった。

「凛一、さっきのあれ、どういうつもりだよ。なんであいつに俺らのたまり場教えたんだ」
 遠のいていく少年の背中を立ち尽くしたまま見つめる凛一に、沸き上がる苛立ちを隠すことなく正春が声をかけた。凛一は既に見えなくなった後姿を尚も追いかけながら、傍らの正春におざなりに返事をした。
「おい凛一。ちゃんと説明しろよ。どういうつもりだ」
 そうしてしばらくの間、聞こえてくる声を適当にあしらいながら立ち尽くしていると、業を煮やしたらしい信隆に強い力で肩を掴まれた。ぐいと引っ張られ、無理やり向き合う形にされる。凛一よりも少し高い位置にある双眼が、不満を抱く心情を露わにしながら見下ろしていた。隣にいる正春からも同じような視線を感じる。気性の荒い親友たちに責めるように見つめられて、凛一は僅かに肩を竦めた。
「お前ら、なんにも気付かなかった?」
 小首を傾げながらそう問いかけると、より一層二人は怪訝そうに眉を顰めた。
その表情を見て、違和感に気付いたのはどうやら自分だけだったようだと確信する。そうして凛一は、つい先ほどまで見つめていた不可思議な少年の後姿を頭に思い浮かべた。
 針山のように空に向かって立てられた髪形が、酷く特徴的だった。そんな奇妙な髪形をしておきながら、凛一や他の二人が毎朝丁寧にセットしている自慢のリーゼントを笑ったのだ。それまで彼らの髪形を馬鹿にする者は一人としていなかった。
 初めのうち凛一は、反抗心を剥き出しにした少年の瞳に心底腹が立った。それだけではない。何を聞いてもどこか要領を得ない返答に、親友二人と同様に馬鹿にされているのだと感じて、殴り飛ばしてやろうかとも考えた。
 しかしその衝動を何とか堪えて目前の相手をじっと見つめると、どうしてか嘘を吐いているようには見えなかった。それどころか、自分たち以上に戸惑った様子の彼が凛一の目には酷く不可解に移った。こいつは一体何者なのだろうと、そう疑問を抱いたところで、不意に凛一はとある違和感に気付いたのである。
「あいつの校章、俺らのと少し違ってたんだよ」
「は? 校章? じゃあなんだよ、あいつ嘘ついてたのか。どこの高校の校章だよ」
 ふざけやがってと、忌々しげに唾を吐いた正春に、凛一は首を振った。
「いや、多分花高生ってのは間違いねえよ。あいつの校章も、ちゃんと花の形してたからな」
「じゃあ何が違ってたっていうんだ」
「花弁の枚数が違ってた」
「花弁?」
 そう言いながら、凛一は自身の学生服の襟元に着いた校章に手をかけた。ピンバッチになっているそれは、後ろの金具を外せばすぐに外れる仕組みになっている。そうして外したものを掌に乗せて、凛一は正春と信隆の目前に突きつけた。
 掌の上に乗ったそれは、一センチ程度の極小さなものである。花咲高校の名を背負ったその校章は「高」という文字を中心に、周りを五枚の花弁でぐるりと囲んでいた。
 花弁一枚一枚には生徒たちに対して学校側が求める願いが込められていた。知識、教養、強さ、清らかさ、そして協調性である。それらの願いが込められた校章を、男子は学生服の襟元に、女子はセーラー服の胸元に取り付けることが義務付けられていた。
 義務という言葉は凛一にとってあまり好ましいものではなかったが、花咲高校の名を背負うことに不満は感じていないので、教師の望む通りきちんと制服の襟元に校章をつけていた。そもそも凛一のような生徒にとって、校章というものは学校側の意図に関係なく意味のあるものであった。
 しかし先ほど対峙したあの少年の校章は、位置こそ凛一たちと変わらず襟元にはついていたが、その形自体が少し異なっていたのである。一瞬見間違いかと思ったが、そうではなかった。何度見てもそれは、同じようで同じではない別のものであった。
「花弁が六枚あったんだ」
「は?」
「嘘じゃねえよ。ほんとに六枚あったんだ」
 真剣な眼差しと声音でそう言う凛一を前に、正春と信隆は一度目を見合わせて、それからほとんど同時に首を傾げた。
「……業者が間違って作ったとか?」
「校章間違うなんて聞いたことねーよ」
「そうだけど……でもそれなら他にどんな理由があるっていうんだよ」
 問われた質問に「さあな」と答えて肩を竦めながらも、何故だか凛一はあの少年のことが頭から離れなかった。

2012/10/10(Wed)22:21:26 公開 / のんこ
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■作者からのメッセージ
近頃ヤンキーやら不良やらにハマっていまして。「てっぺん取るぜ!」とか「○組の誰それがやられた!」とか言いながら教室に駆け込んでくる仲間たちに思わずにやにやとしていたわけでして。
その挙句に不良ものでファンタジーものという、まったく初の試みをすることになってしまいました。勢いのある小説というのが苦手なので(というか書いたことがないので)どのような作品になるか聊か心配ではありがすが、情熱を忘れて生きる現代の高校生と、情にあふれた昔の高校生のふれあいを描いていけたらなあと思います。
毎度のごとくご指摘はオブラートに包んでいただけると心が傷つかずにすみます。

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