『君を忘れはしない』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:こすみ                

     あらすじ・作品紹介
親の都合で東京に引っ越した。慣れない東京生活に悪戦苦闘の亮だったが、大学受験になんとか成功。夢のキャンパスライフの始まり、かと思いきや理想と現実のギャップに苦しむ。そこに一通の封筒が届く。中学校の同窓会の招待状だった。亮は都会を離れ、懐かしき故郷に戻る――

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1

 あの思い出に、まだ心が燻っていた。
 東京に引っ越すことになった。父さんが本社勤務になったので、家族で東京に移り住んだ。
 東京の夜は、ピカピカ街が光っていた。俺は車の後部座席に寝頃がり、仰向けになって街明かりを浴びていた。
 皇居は光の川のようで、付近のビルは想像より高くそびえ立ち、窓という窓から無数の光を降り注いでいた。夜なのに明るい。こんなのは初めてだった。
 俺はこれまで都会に出てきたことがなく、山と綺麗な星空しかない場所に住んでいた。ずっと田舎で育ってきたのだ。
 引越しの荷物の片づけで、母さんが慌しく動き回っていた。
 俺はダンボールを畳む仕事を終えると、特に手伝うことなく窓の外を見ていた。道行く人の多さに、本当に東京に着いたんだと思った。
 ぼんやりとしていると、堪らず母さんが文句をいった。
「もうすぐ受験でしょ。ボーッとしないで、勉強しなさい。そんなだから頭が悪いままなのよ。自覚あるの? 自分のバカさ加減、わかってるの? 地の底に落ちるわよ」
 まったく口の悪い母親だなと思いながらも、確かにもうすぐ高校受験なので、勉強しないわけにもいかず俺は悲しくなった。
「自分のバカさ加減は自覚済み。まぁ誰に似たのかは知らないけど」
「あっそう。それじゃあ昼食、夕食なしで勉強しなさい。母さんに似て努力家ですもんね」
「わかったよ。やりますよ。今すぐに。だから育ち盛りに、飯なしは勘弁してください」
 しぶしぶ俺は机に向かった。田舎でも東京でも、どこにきても勉強からは逃げられないようだ。
 入学試験を、目前に控える時期になって、家に一本の連絡が入った。
 そのとき俺は机の上に数学の問題集を広げ、ひたすら睨んで顔をしかめていた。
 だけど横目で電話を取った母さんの、影に変わる表情が見えて、何事かと思った。
 俺は呼ばれて電話を代わった。
「ぐすっ……亮兄ちゃん……」
 突然、理紗ちゃんの泣きじゃくる声が聞こえてビックリした。
「理紗ちゃん。どうした?」
「お、おにいちゃんが」
「大熊が、どうかしたのか」
 田舎の親友が、事故に遭い意識不明になったらしい。
 しばらく信じられない思いで、理紗ちゃんの泣き声を、受話器越しに呆然と聞いていた。
 しっかりしろと自分にいい聞かせ、俺は理沙ちゃんを慰めたが、ずっと泣きじゃくっていたので、これからすぐに行くといって電話を切った。
 でもその日はもう遅く、東京からずっと離れた田舎には、戻ることはできなかった。
 その後、受験はしたものの手応えはなく、目指していた公立高校から、あっさりと不合格通知を受け取った。
 俺は滑り止めで受かった高校へと通うようになった。
 昏睡状態にずっといた大熊は、それから半年後、ついに海に還った。


 そこの高校では、陸上部に入りハードル競技を行った。
 走っているときは無心になれた。これ以上頑張れない感じが好きだった。
 練習に打ち込む日々を過ごした。最後の試合で県のベスト8まで勝ち残ったのは、自慢できる思い出だ。
 残念ながら勉強には、なかなか本腰を入れられず(部活終わってからの勉強は無理だ)成績は下がる一方だった。
 大学受験をどうするか、これは迷いに迷ったけれど、夏の最後の大会が終わってからは、急遽、試験勉強の追い込みをした。
 一日何時間勉強していたのか、今からは想像できないくらいにやった。
 塾通いも復活して、今度は満員のモノレールにも耐え切った。
 この三年間、暑いグラウンドで流し続けた汗は、決して無駄ではなかったみたいだ。
 粘りというものを覚えたのか、よくわからないが俺は最後までくたばらなかった。
 無事、大学に合格してしまった。やれば出来るものだ。
 大学では両親にとやかくいわれない、自由な一人暮らしになるけれど、はじめての一人暮らしに、楽しい想像が膨らむばかりだった。
 大学では今度こそ彼女を作ってやると心に誓った。
 しかし実際は、一人暮らしをした瞬間に、やれ洗濯とか、炊事とか、やることが本当に多くて、全部自由というのも大変だとすぐに悟った。親のありがたみが、このときになって初めてわかった。
 それだけならまだしも、卒業に必要な単位は、四年間で本当に、手が届く設定になっているのか疑問に思うほど、俺は最初の試験で赤点ばかり取ってしまった。
 バイトばかりやっているから、ダメなのかもしれないけれど、自分で遊ぶ金は、自分で稼がないと暮らしが厳しいのだ。
 なんにせよ、高い学費を払っておいて、留年するのは避けたかった。
 俺が大学を心底嫌に思うのは、他にもまだ理由があった。仲のよい友達が一人もできなかくて、どうして大学に入った途端、こうなってしまうのかわからないが、不思議なこともあるもんだなと思った。
 まぁそれでもいいと、今日も俺は大学の図書館にいき、苦手な教科のテキストをパラパラめくり、日が暮れるのを待って、図書館から出た。


 
 ぼんやり上の空で、コンクリの白線をなぞるように歩いていく。
 図書館から出た後、定期で電車に乗って最寄りの駅で降り、ゆっくりと歩いて家まで帰っていた。
 冷たい風が吹いて、落ち葉がカラカラと転がっている。
 早いもので、もうすぐ冬になるらしい。桜が散っていた景色が、つい先日のことのように感じられた。
 五月に行った親睦会は、もう半年も前のことになる。
 俺は、酒は大学に入って初めて飲んだという、やぶさかな人生を生きてきた男だ。しかも生中一つでギブアップして、畳に倒れこんでしまった。
 気持ち悪くなり、酔い潰れて戸棚のところにもたれ掛かって、朦朧とした意識でずっと目を瞑っていた。
 その間に、可愛げな女子大生たちに嘲笑されていたらしい。それがクラス初の親睦会だったのだ。
 俺は駅を降りてすぐのコンビニで、飲めないのにチューハイ飲料を買い、飲み干した。
 冷たい風が吹く中、徐々に体が火照っていくのがわかって、ついにどこかへ座りたくなり、川べりの道に入った。
 天然芝生が生えているところに、尻餅をついて座り込んだ。
 うす曇の向こうで星が微かに光っていた。田舎みたいに空気が澄んでいれば、もっと鮮明に綺麗に見えるのになと思った。
 川のせせらぎが耳を通っていく。
 ふと俺は、美紗子にもう一度会いたいと思った。
 そして大熊のことを思い出した。
 向こうの高架線の下、立ち並ぶ民家の残光がよく届いた。
 俺は瞼を腕でこすり、『コーポ・サン』に帰るため、またふらふら歩き出した。



 サンという名前だけど、実際は北向きの部屋なので、日当たりはあまり良くない。それでも、敷金礼金無し、おまけに賃料も管理費込みの四万ポッキリで、あれだけ内装は綺麗だったんだから(今はもう汚いけれど)十分、優良物件だ。
 俺はゴミ箱がある玄関口に回り込み、綺麗に飲み干したチューハイ缶を放り投げた。
 それは吸い込まれるようにして、カランカランと音を立てて、ゴミ箱に入っていった。
「ナイスシュー」
 気づけば奥の曲がり角、そこに佐藤健太が立っていた。
「よう」
 と健太はすましたいい方をして右手を上げた。
 俺は健太を無視して、横を通り過ぎようとしたが、やっぱり腕を掴まれた。
「なんだ、機嫌悪そうだな。歩き飲みか? 行儀わりぃ」
 デカイ図体でヘラヘラ笑いながらそういう健太に、俺は酔っていたからか、実直そのままにムカッときた。
 健太とは、大学の最初の少人数クラスで同じになり、知り合った。
 席が近ければ、誰だって一度は話しかけてしまうだろう。
 今ではそれを悔やまない日はないほどだ。
 こいつは俺のことを手ゴマとしか思っていない、非常に浅はかな男だったのだ。
 その証拠に、最初の親睦会を開く際、勝手に俺の名前を持ち出して、
「亮がさ、どうしても皆と飲みたいっていうんだよ。だから皆、集まれそうな日程を亮に教えてあげてくれない?」
 といいだしたのだ。
 そのおかげでさっぱり訳もわからないのに、俺はカンパの金集めから、店の予約から、日程調整等も皆から文句をいわれて、大変だったんだ。
 やっとの思いで、皆の意見を噛み合わせる努力を重ね、あの吐気に苛まれた親睦会を開いたのだ。
 だからお健太とは、もう付き合う気はさらさらなかった。
 用でもあるのか、と俺はいった。
「なんだよそのいいかた。酔ってるからってひどいぞ。友達だろ」
 ふん。勝手にいってろ。
 俺は健太を無視し、さっさとエレベーターのボタンを押した。
 誰かが乗り継いだすぐ後らしく、まだ上のほうで動かず停滞している。
 安ボロアパートなので当然エレベーターは一台しかなく、非常階段を使う気は起きないが、やはりこういうときに待たなければいけないのは煩わしい。
 と不意に、俺は後ろでなにかガサガサやっている気配を感じた。
 まさかと思って振り返ると、やはり俺の部屋の郵便受けを開けて、勝手に中を探っている非常識な男が目に留まった。
「なんか入ってるぜ」
「勝手に開けるなよ」
「にしても真っ白だなこの封筒。なんだ?」
「どうせヘンな勧誘かなにかだろ。捨てとけよ、そこにゴミ箱あるだろ」
「まぁまぁ、そういわずに取っとけって。可愛い姉ちゃんが新しく入ってるかもしれないだろ」
 そういって無理やり手渡されたその封筒は、確かに真っ白で、ほぼ毎週届くような変な勧誘チラシではないことは、一目でわかった。
 自分に便りが届くことなんて、滅多にないことだ。
 親からだろうか、と予想しながら、酔いの影響で微かに震える手を裏返した。
 差出人は、斎藤学。斎藤学?
 ……えっと、誰だっけか。
 まあいいや、と思って破り開ける。丁寧に三つ折りされた紙を広げると、今度はワープロの文面が現れた。
 招待状、と書かれている。
 そういえば、中学時代、確かに学というやつがいた。一年のときは同じクラスだったはずだ。誰に聞いたのか、よくここの住所を調べたもんだ。
 それは同窓会の案内だった。
 内容を盗み見ていた健太が、羨ましそうな顔を俺に寄越した。
「おっ、同窓会か。いいね、俺も連れてってくれない?」
「バカ。俺は行かないって」
「えっ、嘘だろ。もったいない」
 もったいないという健太の考え方はよくわからないが、俺だって皆とは久しぶりに会ってみたいさ。しかし、見逃せない問題もあるだろう。
「田舎だからな。ちょっと遠いんだ。三回も乗り換えないといけないし、電車乗るには金欠だし、それにもうすぐ試験もあるだろ」
「なにバカなこといってんだよ。試験なんていつでもできる。年に三回もあるんだぜ。それに比べて、同窓会なんて年に一回あればいいくらいだ。金なんて、日雇いのバイトでもやれば、すぐ貯まるだろ。行けよ」
 健太はわざとらしい明るさでいい放った。
 何もわかっちゃいないくせに、なにを知ったような口を吐きやがる。
 ああそうか、なるほどな。要するに、こいつはあの時と同じように考えているんだろう。俺を利用したあの親睦会で、クラスの中をうまく立ち回れたように。だから行かなきゃ損だと、もったいないと。
 なるほどなと合点がいった。わかると本当にもうどうでもよくなり、俺はいった。
「用がないなら本当に帰れよ。疲れてるんだ」
「ああそうか、わかったよ。じゃあ、これだけ伝えたら帰る」
「なんだよ」
「実は、亮に頼みがあるんだ。もう一回、クラスで親睦会みたいなの開けないかな。ここ最近どうもクラスの仲がぎこちないじゃん。これじゃディベートも活性化しないし。ここは一発、楽しくパァーとやろうよ」
 俺は呆れて聞いていた。
「そんなに親睦会やりたいんなら、お前が、自分でクラスの皆にいえばいいだろ。勝手にやればいいじゃねーか」
「俺は、無理なんだよ」
「知らん。とにかく俺はもう二度と、あんな役はごめんだからな。そんなにやりたいなら自分たちで勝手にやってくれ。じゃあな」
 そういって、俺はエレベーターにさっさと乗り込み、扉を閉めた。



2


 うなされた自分の声で、目が覚めた。
 ものすごく気持ちが悪い。
 なにか胃が凭れている気がするのは、昨日の飲んだチューハイのせいだろうか。
 枕に顔を乗せたまま、横目で時計を確認し、うわぁ、と声が上ずり出た。
 やはり、一日早く出るべきだった。
 あの日、健太がポストを勝手に開けて、同窓会の案内を見た日から、ずっと悩んでいた。
 懐かしい仲間には会いたいけれど、こっちの試験も死活問題であることに変わりはない。
 悩んだ末、俺は学習計画を一週間前倒し、早めの試験対策を行った。
 科目ごとに試験範囲を整理したノートも作ったので、これで電車の中でも勉強が出来る。
 というわけで、俺は準備を整え、意気揚々とその日を待ちわびていたのだったが――やっと同窓会が翌日に迫り、よし寝よう明日が楽しみだと思ったら、急に寝付けなくなってしまったのだ。
 しょうがないのでコンビニまで夜中に走っていき、チューハイを買って一気飲みしたら、この様だ。
 俺は飛び起きて顔を洗い、急いで髭を剃った。
 なんせ一本でも電車に遅れれば、玉突き的に乗り継ぎ時間に影響し、最終的には三時間くらい遅刻してしまう。
 俺はそこらにかけてあった紺色のポロシャツと、箪笥からジャケットを引っ張り出して羽織り、駆け足で部屋から飛び出した。
 なんとかギリギリ電車に間に合い、俺はホッとした気分で窓側の席に座った。後ろに人が座っていないのを確認し、座席をうんと倒して、肩肘をつく。
 暖かな日差しが車窓から差し込んでくる。車内は心地いい静かさだった。
 とても穏やかな気分になり、俺は大熊のこと思い出していた。
 
 初めてのクラスで、席が隣だった大熊とは、自然と仲良くなった。
 俺と大熊が遊ぶときは、当時流行っていたテレビゲームではなくて、だいたい外に出て行くことが多かった。
 公園に行って、話しながらひたすらブランコを漕ぐとか、バスケットボールを二人の小遣いを出し合って買い、日が暮れるまでずっとシュート勝負をしたりした。
 暑い日は河川敷まで自転車で行き、Tシャツのまま入る。帰る頃には乾くので、親にばれて怒られたことは一度もなかった。
 学校の裏庭に秘密の基地を作って、架空の秘密結社を名乗って、謎の敵を探して山を駆け回ったこともある。
 一度、大熊が調子に乗って奥まで入りすぎて迷子になり、泣きそうになって戻ってきたときには笑った。
 俺は外で待ちすぎて全身を蚊に噛まれて、一週間くらい赤い腫れが引かずに、クラス中のやつに笑われた。
 大熊の家の部屋の中は、畳のイグサが跳ね上がり座ると少し痛かった。
 灯りはついているがちょっと暗い。外で遊んで帰ってきて、汗を乾かし落ち着くのに最適だった。
 いつか遊びに行ったときに、俺は訊いたことがあった。
「お前の家、親いないのか?」
 何回か大熊の家で遊んで、遅くまで帰らなかったことがあるけど、その間に親が帰ってきたことは一度もなかった。ふと不思議に思ったのだ。
「ああ、いない」
 とあっけなく大熊はいった。
 大熊の家にいつもいるのは、無口な腰の曲がった婆ちゃんだけだった。
 その婆ちゃんは俺が遊びに来るたび、冷たい麦茶を出してくれた。
「死んだのか?」
 俺は座って畳に手を突き、暑いので扇風機の風を浴びていた。
 大熊も大してすることがなくて、ただ畳に寝転がっていただけだった。
「死んではないな」
 大熊は眠たそうに呟いた。
「小学二年のとき離婚して、どっかへ行った」
 離婚か、よくあることだなと俺は思った。
「すげぇ羨ましいな」
「ああ、楽でいいぞ」
「俺も早く自由になりたいぜ。一人暮らしするのが俺の夢だな」
「なんだその夢。案外一人暮らしは大変だぞ」
「そうかな。静かでストレス溜まらなそうだけど」
「まぁ、確かに亮の母親、あまりにも煩すぎるもんな。あれは異常だって。この前は、部屋片付けてから帰れって、本気で怒られたぞ」
 大熊のびびった顔を思い出して、俺は思わず噴き出した。
 大熊は慌てて、すぐに片付け始めたのだ。ここにいる婆ちゃんは、確かに怒ったりしなさそうだった。
「あ、亮兄ちゃんだ」 
 振り返ると、部屋の仕切りから黄色の帽子をひょっこり出し、理紗ちゃんがうれしそうにこっちを覗いている。
「もう学校終わったのか」
 理紗ちゃんは大熊の妹で、小学4年か5年の小柄な可愛らしいやつだった。
「うん終わったよ。これから遊びに行くんだ。なっちゃんたちが外で待ってるから行ってくるね」 
 そういい終わらないうちからランドセルを降ろし、ぴょんぴょんと駆けるようにして出て行く。
「おい理紗、あんまり遠くに行くなよ」
「わかったお兄ちゃん!」
 大熊は娘を嫁に出したくない親父のように、妹に注意を出しながら、見送りに玄関まで歩いていった。
 俺は大熊が帰ってくるまで、テレビを点けて大熊の婆ちゃんが淹れた、ここでしか味わえない美味い茶を飲んで、大熊が帰ってくるのを待った。
 
 大熊はデブで太っていて愛嬌のある顔をしていたけど、運動神経はいいほうで力もあった。
 俺とはしょっちゅう、喧嘩していた。
 喧嘩すると怪我するのはいつもこっちのほうだったが、俺も割合にしつこい性格をしていたから血だらけになってもやめず、だいたい先に手を止めるのは大熊だった。結局、喧嘩なんて最後まで戦意喪失してないほうが勝ちなのだ。
 しかも大熊の家で喧嘩を始めると、理紗ちゃんが泣き出すので、必ず勝てた。
 大熊には弱点があった。格好に似合わず、面白いくらいに緊張するやつだったのだ。
 一年の文化祭のとき、クラス委員の斉藤学が、
「この演劇の主役は俺で決まりだ。なぜなら俺はクラス委員だから」
 と意味のわからない主張をして、黙れアホと皆から罵倒を浴びせられているときだった。
 苦し紛れに、ふと思いついたのか、こんなことを述べた。
「じゃあ、いったい誰がこの勇者役を務めるんだよ。力の強い大熊か?」
 クラスの視線は一斉に、勇者とは正反対の風貌をしている大熊に集まった。
 間逆だから面白そう、という思いに皆なったのだろう。
 俺もそう思った。ついに俺たちの教室では拍手まで飛び出した。
 けれどその教室の騒ぎとは逆に、大熊の顔は静かに青ざめた。しょうがないので、
「大熊はカイジュウな。見た目がそのまんまだから、ぶっ飛ばしたいんだ」
 と冗談でいったら、流れで本当にそうなってしまった。
 勇者役なんて、馬鹿らしくてやりたくなかったけど、決まってしまったものはしょうがない。
 本番で思いっきり、大熊にどついてやった。
 カイジュウ役でセリフがほぼないにもかかわらず、大熊は舞台に上がり頭が真っ白になったのか、ついに無言のまま俺の剣に刺されて倒れた。
 リアクションがない、死んだのか死んでないのか、よくわからないカイジュウに、観客席からは失笑が漏れた。
 大熊とは二年になっても同じクラスになり、俺はクラス表を見た瞬間ラッキーだと思ったし、大熊の顔を見ると、きっと大熊も同じことを考えていると思った。
 

  
 二年の二学期になり、突然、大熊が学校を休んだ。
 俺はその少し前に、屋上で一緒に飯を食べていたときに、気がついた。
 大熊の首筋に紫色の腫れが覗いて、最初はでかい虫に刺されたのかと思った。
「これが虫刺されにみえるか」
 と大熊は目を細めて、笑いながらいった。
「ひどい腫れだな」
「まだ痛いぜ。やられたときは首の骨が折れたかと思った」
「喧嘩か? お前も負けるんだな」
「親子喧嘩した」
 俺は驚いた。大熊の口からそんな言葉が出るなんて信じられなかったからだ。
 大熊は大きく腫れている所を手で覆った。
「親いないんだろ。前にそういってなかったか」
「なんか最近、親父が来るようになってな」
「その親父にやられたのか」
「心配するなよ。俺だってただやられてるだけじゃないから」
 それを聞いた瞬間、珍しく血が上ってくるのがわかった。
 実の子に怪我をさせるまで、手を上げる親がいるか。俺の母さんも罵倒はきっと、どの親より激しいが、一度も手を上げたことはない。
 いくら力の強い大熊でも、大人に腕力で勝てるはずがないのに、本気で殴ったらどうなるかくらい、誰だってわかるだろ。
「どうして殴られたんだ?」
「あいつ、今更なんだと思ったら、どうやら妹が目当てみたいでな」
「理紗ちゃんか」
「ああ、最近金が手に入って養えるからと、婆ちゃんに迫ってるのをみた。でもな、あいつは酒飲みだし、暴力もふる。今まで親なしで普通に暮らしてたんだ。今更、無理だろう。理紗も嫌がってる。嫌がってるのに連れて行くのか。行きたくないって泣くんだぞ」
 俺は柄にもなく熱くなり、理沙ちゃんが泣き叫んで、腰の曲がった婆ちゃんが困っている映像が勝手に頭に浮かんで、親父に歯向かう大熊も全てがわかるような気がした。
「大熊」
「そんな顔するな。大丈夫だって」
 大熊は強くいい切った。絶対に理紗ちゃんを守ると、自分にいい聞かせるようだった。
 俺たちはしばらく、お互いの背中にもたれ掛かって黙っていた。
 大熊はこのとき何を考えていたんだろうな。
 雲がゆっくり流れていった。
「亮」
 ふいに大熊がいった。
「あそこ、いるぜ」
 大熊は視線を下ろし、いつもの温和な表情で、指を差した。
 見ると、校庭の木影で、何人かの女子が昼食をとっている。
「あそこだって」
 そのうちの一人に、美紗子がいた。細身の体に、ブレザーの制服がよく似合っていた。
 大熊が俺の顔を見て、わざとらしくニヤけた。
 きっかけ、というほどのものではないけれど、ただ、音楽の授業で俺と美紗子が隣になったときがあった。
 美紗子の教科書がなさそうだったので、親切心で横に差し出したところ、不意に体をくっつけられた。
 皆は等間隔に並んで合唱の練習をしているのに、俺と美紗子の間隔だけ異様に狭かった。
「ありがと」
 と屈託なく笑いかけてきて、すぐ隣で大口を開けて歌を歌うので、美紗子の息遣いばかりが耳に入ってきた。恥じらいというのが、この女にはないのかと思った。
 そのことを大熊にいったら、なぜか笑われてしまった。
 大熊は小学校が美紗子と一緒だったみたいで、色々昔のことなんかを教えてくれた。
 聞くと、美紗子は昔から変わらない性格をしているらしい。少し天然なところがあるみたいだ。
 俺は大熊の昔話を聞いて、さらに美紗子が好きになった。
「最近は、よく一緒に喋るぜ」
 俺がまじめにそう口にしたら、また大熊に大笑いされた。
「本当だって。今日だって、廊下でたまたま会って、そのまま休憩時間終わるまで話し込んだんだ」
「へぇ。亮と美紗子がどんな話するんだ」
「猫の話だな。あいつ猫とか、そういう動物が好きらしい」
「ああ確かにあいつ、生物係ずっとしてたし、好きなのかもな。でもお前、猫は嫌いだったろ」
「ああ、だから猫のどこが可愛いのか訊いてみた」
 そういうと、大熊が突然頭を抱え込んだ。
「それは訊くなよ。心無い人間だと思われて、嫌われるかもしれないだろ」
「そうなのか?」
「そうだろ」
 確かに、それを訊いたとき、美紗子の表情が一瞬固まったような気がする。
 俺は少し後悔した。人に合わせて言葉を選ぶっていうのは、なかなか難しいものだ。
 それにどこからどうみても粗暴で、荒々しいこの男が、俺よりも女心に詳しい口ぶりをしているのが、なんだか悔しかった。
 翌日からも、大熊と一緒に遊んで、話をした。けれども親父との諍いは、あれから話題に一度も上らなかった。
 大熊はなかなか気の利く男で、美紗子を呼び寄せて、俺と三人で昼食をとった。
 大熊が昔の写真を持ってきていて、そこで寝癖のひどい美紗子の顔写真を披露した。
 俺がその写真のパスを受けると、美紗子がなぜか叫んで、顔を真っ赤にしながら追いかけてきた。怖かったので俺は必死に逃げた。
 大熊は笑いながら、その隙に俺と美紗子の弁当を半分食いつくした。
「大熊くんのバカ!」
 といって力をこめた美紗子の蹴りが、大熊の腹にヒットし、大熊はしばらく息もできない状態だった。
 俺たちはそのときまで、よく笑っていた。
 

 数日後、皆勤を続けていた大熊が学校を休んだ。
 次の日も次の日も学校に来なかった。
 俺は風邪でも拗らせたんだろうと気楽に思っていたが、頭をよぎる悪い予感を拭えずにいた。
 そんな折に、こんな噂を耳にした。
「大熊、暴力事件起こしたらしいよ」
「それで施設に送られたって」
「しかも大熊が暴力を振るった相手って」
「お父さんでしょ。ひどいよね」
「後ろから金槌を持って頭をドンッて。血だらけになったらしいよ」
「そんなことするやつだったんだな」
 馬鹿げた噂話をするやつに、俺は怒鳴ってやろうかと何度も考えた。
 だけど大熊に直接話しに行ったほうが早いと思って、学校を休んだ四日目の放課後に、家に会いにいった。
 チャイムを鳴らしても反応がないので、勝手に玄関を開けた。
 電球が切れ掛かっていて、暗い玄関だった。しばらく待っていると、大熊の婆ちゃんが出てきた。
「大熊は?」
 婆ちゃんは首を振った。それからしわがれた声で、教えてくれた。
 大熊が暴力を振るったというのは、どうやら本当のことみたいだった。理紗ちゃんは今、母親のところにいるらしい。
 大熊は……ひどく酔った状態でチャイムを押した父親に肩を貸し、部屋まで上げた。
 あまりにひどい酔いかただったので、酒は飲むなと婆ちゃんが忠告した。すると父親が暴れだした。手のつけようがないくらいの暴れかたで、部屋中のモノを壊し始め、家具などを叩き倒して、大きな音が響いた。
 理紗ちゃんは怖がって、奥の部屋に隠れていた。父親は理紗ちゃんを大声で呼び、探し始めた。理紗ちゃんが泣き叫んでしまい、居場所がわかってしまった。
 大熊は父親に抱きついて、動きを止めようとしたが、どうしても押さえられなかった。ついに奥の部屋の襖を開けようとしたときに、大熊は金槌を持ってきて、自分も泣きながら振り落とした。その後、救急車と警察がきて、大熊はまだ帰ってこない。
 やっぱり、大熊は理紗ちゃんを守ろうとしたのか。
 そう思うと、何もできなかった自分がわかって、悔しかった。



3


 長い旅だったがようやく戻ってきた。小さな地元の駅に着いた。
 遠かったけれど、ドアが開いた途端、涼しい風と濁りのない空気が、胸の中に入ってきて、疲れも一気に吹き飛んだ。
 改札が自動改札に変わっていて、時代が進んだんだな、という思いを新たにかみ締めた。
 駅から歩いて十分くらいの、この町唯一の飲み屋が、今日の同窓会の会場になっている。
 俺は懐かしい景色に胸を躍らせながら歩いた。
 神社の境内の細道を通ったほうが、早く大通りに出る。この地域の人ならだれでも知っている近道だった。
 神社で遊んでいた子供たちが帰っていく。昔はよくここで日が暮れるまで遊んだものだ。
 日が沈んでいき、町は徐々に夕焼け色に染まっていった。
 飲み屋の灯かりは、もうすでに点いていた。いざとなると、緊張するものだな。
 俺は息を呑んでゆっくり近づき、暖簾を片手で手繰り上げた。
 中に入ると、その瞬間、ワァと大きな歓声が聞こえた。
「おお! 今度は誰の登場だ? みんなー来たぞー」
 ずらっと懐かしい面々がカウンターや、座席にびっしりと並んでいて、もう頬を赤らめているものもいれば、立ち上がって高歌を熱唱している猛者もいる。
 うるさいったらありゃしない。
 俺はもう少ししみじみと、ゆっくり昔話を語る雰囲気を想像していたものだから、こんなに大騒ぎしているものとは、面食らってしまった。
 どうしたらいいのかわからず突っ立っていたら、空いているカウンター席に、促されるがまま座らされた。
 ビールが運び込まれたのでとりあえず、横の席にいたやつらと乾杯した。
 どうやら細かいことは関係ないようだ。誰が誰なのかを思い出す暇もないくらいに、入れ替わり立ち代わり、話し合った。最近の近況をいい合ったり、思い出したことを語って大いに楽しんだ。
 次々に暖簾が上げられ、また一人、また一人登場して、その度に会場は大興奮で、一斉に沸き上がっていた。
 同窓会開始の合図はないままに、いつの間にやら宴会は始まっているらしい。早くも一人、ぶっ倒れていた。
 俺がカウンター席で隣のやつと話していると、不意に肩を叩かれた。
「亮!」
「おお、学か! 元気そうだな」
「そりゃもう、元気がみなぎり過ぎて。悪い、そこいいか」
 そういって、斉藤学が俺の隣に腰掛けた。
「お前の住所わからなかったからさ、両親のところに電話して、勝手に教えてもらったけどよかったよな」
「うん。問題ない」
「で、どうよ。久しぶりに会った俺は」
「なんだよいきなり」
 突拍子がないので、俺は笑った。
「この美男ぶりをみて、なんとも思わないのかってことだよ。以前にも増して、目立つ存在になっちゃってるだろ。なんせ学級委員だからな」
「あはは。確かにな」
「まぁ、そういうお前も、かなりいい男になってると思うぜ。そうだ、いま向こうでゲームやってるから、お前も参加しろよ」
「ああ、なんか盛り上がってるみたいだな。何やってるんだ」
「ジャンケン!」
 斉藤学は拳を突き上げて、一気に勢いだった。
「俺、一気飲みとかは無理だぞ。酒、弱いから」
「違う違う。そんなんじゃないって。ジャンケンで負けたやつが、恥ずかしい思い出を暴露するんだよ」
「恥ずかしい思い出?」
「要するに初恋の人の名前だな。だいたい皆初恋は中学だろ。忘れられないあの人の名前を、本人の前で打ち明けようっていう、気分爽快なゲームをやってるんだって。どうだ、初恋の人もう来てるのか」
 俺はいわれるがまま、ぐるっと会場を見てみたが、まだその姿はない。
 というか、たとえ来ていても参加などしないぞ。
「そのゲーム、今まで何人撃沈した?」
「まぁ、ざっと四、五人かな。田中なんて、三年間ずっと思い続けていたのに、愛ちゃんからは誰なのかわからないってさ。ショックで、飲みすぎて倒れてたな」
「あはは」
「教えろよ、お前の初恋の人、来てるのか?」
 斉藤学が真剣な面持ちで、俺の表情を伺った。
「うーん、いや、どうかな」
 と俺は言葉を濁したつもりだったが、斉藤学はきっぱり断言した。
「やっぱ、まだ来てないよな。大体わかるぜ、お前わかりやすいもん」
 嘘だろ。俺ってそんなバレバレな、わかり易い人間だったのか。
「昔からわかりやすいくらい素直なんだよ、亮は」
「それは、知らなかったなぁ」
「俺は委員長である関係で、その人のアドレスも、番号も知ってて教えてやりたいところなんだが、まぁ、そういうのは自分で聞き出さないと、意味ないよな」
 といって学は笑った。
「頑張れよ。彼女も東京だから、ちょっと遅れるらしいけど、もうそろそろ来るだろうよ」
「東京? 東京なのか?」
「ホント、わかり易いなお前は。まぁ知らなくてもしょうがないか。彼女、高校はこっちの進学校にいって、大学は東京だぜ」
「そうか。そうだったのか」
 斉藤学はニタッと笑い、俺の肩をポンポンと叩いた。
 それから学は置いてあったビールを、綺麗に一気に飲み干した。ゆっくりと席を立った。
「さて、俺も告白してこようかな。本人が来る前に」
 その言葉に意味もわからず、俺はドキッとした。歩いて行く学に向けて、
「同窓会、開いてくれてサンキューな。楽しいよ」
 と正直な気持ちをいった。
「ああ、そりゃよかった。同窓会、楽しめよ」

 

 その後、俺は調子に乗ってビールを三本も開けてしまった。
 頭が重くなったが、相変わらず気分は良かったので、昔の仲間と語り合っていた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、開始から二時間が早くも経とうとする頃に、ガラガラと入り口が開き、誰かが入ってきた。
 瞬間、白のワンピース、ロングの黒髪が綺麗に風に流れた。
 俺はたぶんお酒のせいだけではなくて、宙に浮いたような気分になった。
「きゃー美紗子ちゃんだ!」
 美紗子と仲の良かった女子グループが真っ先に叫んだ。
「髪がロングになってるかわいー!」
「ありがとー!」
 といって美紗子は女子たちと大袈裟に抱き合った。
 登場してものの数秒で、すぐにこの会場の雰囲気に慣れたようだ。女の適応力は凄まじいな。
 美紗子は女子グループに熱い抱擁を交わされ、さらにおしゃれな服装などを褒めちぎられている。
 俺はそこまでやるかと若干呆れたが、久々の邂逅なのだし大目に見てやるかと思った。
 しかし、こんな状態では近づけそうもないな。しょうがないけれど。
 少し夜風に当たろうと思い、しばらく仲間と談笑してから店を出た。
 店の外の、商店街のベンチに俺は座って、夜風を浴びた。
 店の中は騒ぎが凄かったけど、一歩外を出れば、やっぱりこの町は本当に静かで穏やかだ。
 満点の星が輝いていて、とても綺麗だった。
 そろそろ店に戻ろうかというときに、誰かの近づいてくる足音がした。
 誰だろうと思って顔を向けると、薄闇から美紗子の姿が見えた。こっちに近づいてきた。
「いたいた。久しぶり、亮くん」
「びっくりした。美紗子か」
 近くにこられると、改めて可愛くなっているなと俺は思った。
「びっくりするな」
 そういって美紗子は俺の隣に座った。
「大人気だったのに、店から出てきて大丈夫なのか」
「うん。すぐに戻るっていってきたから、大丈夫。こんなところで、なに一人で黄昏てるのよ」
「黄昏てるって。単に酔ったんだよ。頭痛くて」
「へぇお酒、弱いんだ。意外。わたしすごく強いよ」
「なんか、そんな感じするよ」
「あはは。なんか、ここいいね。涼しくて」
「そうだな」
「みんな、元気だったね。ビックリしちゃった。わたし、大学行ってからは、あんまり皆と連絡取り合ってなかったから、浮いちゃうかなと心配してたんだ」
「美紗子が浮いたら、俺なんてどうなるんだ。中三からだぞ」
「あはは、そっか」
「美紗子、大学、東京らしいじゃん」
「そうだよ。お嬢様学校。あんたみたいなのは立ち入り禁止だから」
 なんだか若干口の悪さがレベルアップしているみたいだが、まあいっかと俺は思った。
「お嬢様ねぇ。それだったら美紗子も、早めに退学したほうがいいんじゃないか?」
「うるさいわ!」
 といって、ヒールで足を踏まれた。加減というものがわからないのか、本当に痛かった。
 一頻りの笑い声がした後、涼しい風が二人の間を通った。
 俺は星が綺麗だなと思った。
「俺も東京だぜ」
「知ってる。私はすぐに馴染めたけど、上手くやれてるの? 一人で購買のベンチに座って、猫に餌とかあげちゃってんじゃないの?」
 うーむ図星だ。女っていうのはなんでこうも鋭いのか。
「なにをいうか。東京歴は俺のほうが長いんだぞ」
「へえ、まぁ、じゃあいいんだけど」
 本当に美紗子はいま東京にいるんだな。それがなにか嬉しかった。
 俺は美紗子が話すのを待っていた。自分から色々と話しかけるのは、あまり得策ではないと思ったのだ。
 しばらく待っていると、美紗子がやっと思い切ったように口を開いた。
「亮くんと話したいことがあるんだ」
 俺は不思議に自然と、ああ、大熊のことだなとわかった。
「いいやつだったよ、大熊は」
「……仲良かったもんね」
「あんなに気が合うやつとは、もう二度と会えないと思うな。美紗子は好きだったんだな、大熊のことが」
 横を見ると、美紗子は俯き、少し赤くなった頬を横髪で隠した。
「……ちょっとビックリしたな。わかってたの?」
 いや、わかってなかったんだ、ずっと。
 もっと早く気がつけていれば良かったのにな。
 ねぇ、と美紗子はいった。
「まだ覚えてる? 大熊くんのこと」
「ああ。覚えてるよ」
 もちろんだ。君を忘れはしない。
 大熊が学校に来たのは、三年に進級してすぐのことだった。
 そのときクラスは分かれてしまっていたが、話が伝わってきて俺は休憩時間になるとすぐに、大熊がいる教室に全力で走った。
 少し痩せて、髪が伸びた大熊がそこにいた。
 俺は鼻の奥がツンとなるのを感じながら、ゆっくり大熊に近づいた。
「よう」
 大熊は何もいわなかった。
「大熊?」
 大熊はじっと真っ直ぐ、黒板を見つめていた。
 聞こえなかったのかと思い、俺はもう一度声をかけた。
 しかし、大熊は返事をしなかった。
 俺のほうを見ようともしなかった。
 周りの人間が俺たちを遠ざけて、離れたところで密かに眺めていた。
「無視か」 
 ここまで頭に血が上ったのは久々だった。まるで馬鹿みたいだ。
 無性に腹が立って、その場で大熊を殴ってやりたかった。だけど俺は大熊を殴れなかった。
 大熊は、なにもできなかった、助けられなかった俺をまだ恨んでいるのかもしれないと思った。
 あのときの悔しさが、また生き生きと蘇ってきた。
「ごめんな」 
 それだけポツリといって、俺は教室を出た。
 窓から校庭を眺めながら、いつも通り授業を受けて家に帰った。
 家に帰ると電話が鳴るんじゃないか、そうしていつもの調子で笑いかけてくるんじゃないかと思ったが、いつまで経っても鳴りはしなかった。
 次の日からも大熊は学校に来た。廊下ですれ違えば、大熊は平然と俺の目の前を通り過ぎていった。
 なにかの拍子で元通りになるんじゃないかと思っていたけれど、最後の最後まで、そんな日々は戻らなかった。
 理由は明白だった。俺が大熊を殴ったのだ。
 そのときには、もう東京への引越しが決まっていた。クラスの連中にも知らせていた。
 最後くらい掃除当番をしないでいいとか、そういうサービスをしてくれてもいいだろうにと思いながら、しぶしぶ両手いっぱいにゴミ袋を握った。俺は掃除当番に選ばれ、ゴミを廃棄場所へ持って行っていた。
 前から、なにふり構わないといった感じで、走ってくる人がいて、誰だと思ったら美紗子だった。
 美紗子は涙をいっぱいに溜めて走ってきて、俺と目が合った瞬間に立ち止まった。
 なんだなんだと思って、俺は驚き目をパチパチさせながら美紗子を見た。
 なにかいうのかと思ったら、なにもいわないので、しょうがなく俺が話しかけた。
「ど、どうした、大丈夫か?」
 美紗子は急いでシャツの裾で涙をぬぐった。
 そのあと、なぜか恨めしそうに、無言で俺を睨んだ。
 俺は胸が締め付けられたようだった。こういうときは、本当に、どうしたらいいのだろうと思った。
 好きな女の子が泣いているときに、慰めの言葉一つかけてあげられないのは、とても情けないことだった。
 美紗子は目を真っ赤にしたまま、鼻をすすると、俺の元から走り去った。
 どういうことなのか、ぜんぜんわからなかった。
 でも何かあったに違いないと思った。ますます混乱しながら俺は前を見た。
 そこに俯いていた大熊がいた。大熊は顔を上げると、すぐに俺の姿に気がついて、遠くからでもわかるくらいに微笑んだ。
 俺は両手のゴミをパッと離していた。自然と早くなる歩みを止められず、すぐに大熊の前に来た。大熊は俺を見るでもなく、
「あいつ、なんか泣いてなかったか」
 とはじめて喋ったのだ。こればっかりは許せなくて、
「大熊!」
 俺は思いっきり拳を握りしめて、大熊を殴った。
 大熊は吹き飛んだ。倒れて、驚いたというように、殴られた頬を片手で押さえながら、目をしわしわさせていた。
 俺は情けなくなって、ゴミ捨てのことなんか忘れて、教室に戻った。
 殴った拳が赤く腫れあがり、相当な勢いで殴ったんだな、ということがわかった。
 もう、このまま東京に行ったほうがいいんだろう。そう思ったから最後まで、大熊には東京に行くことを告げなかった。
 少し寂しい気持ちになり、俺は真っ直ぐ前を向いて、美紗子に尋ねた。
「やっぱりあの日、美紗子は告白したんだな、大熊に」
 美紗子は、
「……したよ」
 とゆっくり俯いて、ポツリといった。夜の静けさにその言葉が浸透していった。
 俺はなんとなくわかったんだ。あのとき美紗子の涙を見て、ずっと大熊が美紗子を好きだと思っていたことが。
 あの瞬間まで気がつけなかったんだ。情けないことに。
「帰ってきてから元気なくて、どうしたのかと思って、あの日あそこに呼び出したの。でもぜんぜん素っ気無くされて、悔しくて思わず私、好きだっていっちゃった。ぜんぜんダメだったけど」
「……大熊も美紗子が好きだったよ、ずっと」
「うそだよ」
 だって、と美紗子は言葉を急いだ。
「大熊くん、いったもん。俺なんかにそう思うなよって。もう近づくなって。もっといいやつは他にもいるだろって」
 俺は珍しくとても素直になれた。
「大熊はずっと美紗子が好きだったよ」
「なんでそんなことがいえるの?」
「大熊が泣いている人をみて、笑ったりするか? しないよ。あいつは馬鹿だから」
 俺が心の底からそういうと、やっと美紗子は観念したみたいに、グッと背筋を伸ばした。深くゆっくりと深呼吸して、ちょっとだけ悲しげに笑った。
 あーあ、といいながら足をつま先まで伸ばし、空を見上げたらいくつも星が流れていた。
「……亮くんも相当バカだよね」
「ああ、うん」
「なにそれ。ねぇまだ私のこと好きなの」
 直球もいいところだ。俺は笑った。
「いや、どうかな。まぁ好きかな。好きでなくてもいいけど」
「うーん、男ってバカでわかんないわ」
 美紗子はぐすんと鼻を鳴らした。
 それからあの時と同じように、恨めしそうに俺を見た。でもやっぱり俺は、今でも美紗子が好きだなと思った。
「そろそろ戻るか?」
「うん、もう戻ろう! 飲もう! 付き合え!」
 いや、だから俺は酒に酔ったから夜風を浴びてたわけで。しかし、そういっても、やけに元気になった美紗子は、聞く耳を持ってはくれないだろう。
 潔く諦めて、美紗子に腕を引っ張られるがまま、またあの灯りの中に俺たちは入っていった。



4


 東京に向かう日だった。
 突然家のチャイムが鳴ったので、お別れ会は済ませたのに、また誰かクラスのやつが来たのだろうと俺は思った。
 特に何も考えずに扉を開けたら――
 そこに、大熊が立っていた。
 俺はビックリした。ダラダラに汗をかいて、息を切らしている大熊がいた。
「はぁ、はぁ。聞いてないぞ」
 死にそうな表情で大熊がいった。
 聞いてないぞ、とは引越しのことだろう。
「いってなかったからな」
「いえよ。普通、いうだろ!」
「あはは」
 俺はなんだか笑ってしまった。ここまで慌てている大熊を見たのは久しぶりだった。
「そんなに可笑しいか。もう会えないかもしれないんだぞ」
「大袈裟だって。なぁ、ちょっと出るか」
 大熊は自転車に乗って、十五分で家まできたらしい。その速さだと、明日太ももが筋肉痛になること必死だろう。
 俺たちは近くの神社まで歩いていった。境内の石畳に座って、出発までの間、少し話をした。
 やっぱり長い間、絶交状態になっていたので、お互い不安はあったんだろうけど、不思議となんでもなかったかのように俺たちは話し合えたのだった。
「色々と悪かったな」
 大熊がひどく穏やかにいったので、俺はちょっと泣きそうになってしまった。
「なんだよ、いきなり」
「戻ってきた日から、お前のことずっと無視してただろ。あれは悪かったと思って。謝りたくてな」
「ああ、別にいいって。大変だったんだろ」
「あれはな、いい訳だけど、お前に迷惑をかけたくなかったんだ。学校中の噂になってただろうし、親父に怪我させたのは事実だし、俺と話すとお前まで悪いと思われるとおもったんだ」
「そうか。うーん、わかるけど、やっぱり話してほしかったな。俺は大熊とバカな話をしたかったんだ、ずっと」
 正直にいった後、やっぱり照れくさくて、俺は急いで話題を変えた。
「理紗ちゃん元気?」
「ああ元気だよ。実は、親父とも和解しちまって、なんだかんだあったけどいまは一緒に住んでんだよ」
「嘘だろ。凄いな」
 信じがたいことではあったけど、やっぱり家族だからそういうことも不可能ではないんだろう。
「酒さえ飲まなければ、そこまで悪い人じゃないんだ。今は俺に殴られて頭のネジでも外れたのか、飲むのを止めたみたいだし」
 そういって大熊は、ちょっと恥ずかしそうに含み笑いをした。
「親父を怪我させてしまったこと悩んでたけど、病院に見舞いにいったら、親父のほうはぜんぜんで、よく俺を止めたって笑ってて、なんだか悩んでるのがバカらしくなったよ」
「あはは。そうか、変わるもんだな、人って」
「理紗とも仲良くなってしまいやがってさ、親父っていうか、最近はもう一人兄弟が増えたみたいだ」
 そういって大熊が笑ったので、とにかく俺は安心した。大熊は少し大人になったように見えて、頼もしくなったみたいだった。
「東京行きは誰から聞いたんだ?」
「それが驚いたよ。今日いきなり電話が鳴って、誰かと思ったら女の声でさ。もうあれは罵声だったな。今日東京行くの、知ってんの! って。怖かったぜ」
「……美紗子か?」
「うん。知らなかったっていったら、急げバカって」
 俺は深呼吸して空を見上げた。胸がいっぱいになって、素直にいった。
「大熊、殴って悪かったな」
「いや、いいよ。確かに痛かったけど」
「思いっきり殴ったからな。もう泣かせるなよ」
 俺がそういうと大熊は訊いてもないのに、恥ずかしいことを真っ直ぐいった。
「ああ、俺は美紗子が好きだ」

 じゃあ、またな、最後にはそういって別れた。
 だいたい大熊とはそういう話をして、解散した。東京に着いたら必ず電話することを約束した。
 引越しを終えて、俺は東京での暮らしをスタートさせた。人の多さや、街の広さに頭がくらくらして、なかなか慣れないことばかりだった。
 だから夜になると大熊に電話して、懐かしい気持ちになり、色々と近況を伺った。あれから大熊と美紗子は、なかなか上手くいっているようだった。
 今日美紗子と買い物にいった羨ましいだろ、などと電話の度にからかってきたので少しムカついた。ただ、まだ告白はしておらず、デートを繰り返している最中らしかった。
 なんせ大熊はバカな理由で一回、美紗子を泣かしているわけだから、告白に至るには時間がかかるのだろう。でも、ゆっくり付き合っていけばいい。優しい大熊と明るい美紗子は、お似合いだと思った。
 大熊は朝、新聞配達のバイトを始めたらしい。小遣い稼ぎに、せっせと頑張っているみたいで、俺はよくそんな早起きができるもんだと感心していた。
 ある日、電話がかかってきて、理紗ちゃんが大熊が事故にあったことを教えてくれた。
 新聞の配達中に車に跳ねられたらしい。どうして大熊が車の前に飛び出したのかはわからないけど、傍で子猫が泣いていたという話だから、もしかして大熊はその子猫を守ってやったのかもしれないと、俺は思っている。
 だけど本当のことはわからずじまいで、大熊は半年間も生死の境をさまよい頑張ったけれど、ダメだった。
 大熊の葬式に出たとき、美紗子と久しぶりに再会した。美紗子が葬式で一切涙を見せなかったのは、大熊が死んでもなお、美紗子を支え続けているからに違いないと俺は思った。大熊は約束を守ったわけだ。


 同窓会を打ち上げて、俺は楽しい余韻に浸りながらも、さすがにへとへとになってターミナル駅にたどり着いた。夜は明けて朝になっていた。
 疲れも心地がいいもので、バスに乗り込んだらすぐに熟睡できそうな気がした。おそらく、次に目を覚ましたときには、東京に戻っているだろう。
 同窓会に来て、懐かしい仲間にも会えたし、学の好きな人もわかったし、美紗子とも久しぶりに話せてよかったと思った。それに大熊のことも、たくさん思い出に触れて優しくなれた。
 帰りは高速バスを予約していた。節約のためだ。帰りくらい、ゆっくりバスのほうがいい。
 頭は少しグランとして重かったけど、お酒に強くなったのかもしれなかった。あの後の、美紗子の酒飲みについていけたのだ。美紗子は今日は泊まるといって、田舎の実家にタクシーで帰っていった。
 しばらくするとバスが到着して、俺はその中に乗り込んだ。座席にもたれ、駅のコンビニで買ったスルメを齧りつつ、色々なことを考えていた。東京に帰ったらまず試験がある。それをとにかく頑張ろう。そして、試験が終わったら、何か新しいことに挑戦してみるのもいい。サークルか、大学内にないならば地域のクラブ活動か、何でもいいから面白そうなことを探そう。同窓会のどさくさに紛れて、美紗子の携帯もゲットしたから、今度どこか東京観光に誘ってみようか。
 そんな楽しい想像を巡らせていたら、ぐっすり眠ってしまっていたみたいだった。
 気がつくと、また夜になっていた。俺は東京駅でバスを降りた。人が溢れんばかりで、ごった返していた。見上げると立ち並ぶビルが明るく優しく光って、なんだかとても綺麗だった。まるでイルミネーションだ。キラキラ光る街を、俺はしばらく眺めていた。
 初めて東京に来た日のことを思い出して、ちょっとだけしんみりなった。あのときは、こんなに綺麗な街だとは思えなかったんだ。でも今は、眩く光る街を歩いていける。
 ふと俺は思い立って、携帯を手に取った。三回目のコールで、そいつは電話に出た。
「よう健太、前にいってた親睦会、どうなった?」
「亮が電話してくるなんて、珍しいな。でも、あれね。もう止めたよ。やっぱり俺には集められないんだって。皆の前で提案とか、無理だし。キャラじゃないんだ。情けないけど」
「そんなことだろうとは思ってたんだ。しょうがねぇ。もう一回、俺が皆にいってやるよ」
「マジ? ホントか? どうしたんだよ、あれだけ嫌だっていってたのに」
「その代わり、条件がある。可愛い女の子の番号を、できるだけたくさん教えろよな」
「あ、なるほど、そういうことね。さすが亮だ。一緒に頑張ろうぜ。よっしゃ、なんかやる気出てきた」
 まったく、簡単というか単純なやつだと思った。なんだか楽しくなった。
 俺は電話を切り、二回目の親睦会を、どうやって上手く開催させようか、眩い街を歩きながら頭を悩ませていた。 



2012/09/10(Mon)04:19:30 公開 / こすみ
■この作品の著作権はこすみさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ペンネーム変更しました。
そして完成致しました。
最後まで読める代物となっているか不安ですが、
アドバイス頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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