『ユメノクニヘヨウコソ』 ... ジャンル:ファンタジー 異世界
作者:道詠                

     あらすじ・作品紹介
冬の国、ロンド。その国の王族が利用する情報機関で彼女は働いていた。任務により同盟国であるオールランド皇国に忍び込む事になった少女は、一人の少年と出会う。幻灯と呼ばれる美しい蝶は、魂の光を帯び儚くも凛と光を放つ。幻灯が舞い上がる覚めない夢の中、少年は選択を迫られる事となる。悪夢(ナイトメア)としての生か、それとも――? 迫り寄る悪夢の脅威、国々の意図や目的、利用される彼らの思惑が解けない糸のように絡み合い、激動する時代の流れは記憶喪失の少年を巻き込み、翻弄していく――……。

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 プロローグ

 執務用のデスクは上品で落ち着いていながらも、一目で高品質の材木が使われているのが分かる。ピカピカに磨き上げられたお蔭で、デスクはほんのりと光沢を放っていた。
 そのデスクの周りをうろちょろと徘徊する一人の青年。優男風ながらも童顔な顔立ち。母親似なのか、綺麗に整った貌だ。ウェーブを描くクリームイエローの髪の毛は一本一本が繊細な彩をしている。
「くそっ。近頃、ウェンリルスピア王国の動きが落ち着いている代わりに、オールランド皇国が活発化している。
ケテルも中々裏で軍事力を高めているようだし、侮れんな。ケテルに対する処置は変えず、一先ずは……。
ここは軍事国家であるヘクトと同盟を結び、オールランド皇国を牽制する。問題は勢いのあるヘクトが同盟に応じるかだが、そこは外交官の能力に任せる他ないとして……」
 自身の考えを纏めるべく、口に出しているのだろう。傍らに居た燕尾服を着た若い男が小声で呪文を唱え、室内の温度を上げた。イメージとしては、リモコンで暖房の温度を上げたような感じだろうか。
 男はこの世界では稀有な魔法使いだ。それに、他の分野も大変優秀である。そもそも、彼は典型的な――と言うのは少々違和感が有るだろうが――天才なのである。
 一言で言ってしまえば、世界で稀有な魔法使いの中でも、所謂感覚だけで全てを熟してしまうようなトップクラスの才能の塊なのだ。
 だからこそ、この若さにして嘗て王子の教育係を務め、今は一人の執事兼護衛を務めている。その他にも様々な事を務めているのだが、それは割愛しよう。彼がこの物語に関係する事は、実を言うと余り無いのだから。
「手配で御座いますね」
「ああ、先ずはヘクトのお飾りが出て来るだろうからな。あしらわれる前に裏で操っている軍部の連中を引っ張り出せ」
 カリカリと指の爪を歯で噛む王子の目付は険しい。父である国王が認知症に掛かってから、彼は苦労の毎日を送っているのだ。
「王子、少し休まれてはいかがですか。目の下に隈が出来て……」
 男は使用人の代わりを務める教育係だ。彼は王子の顔に手を伸ばす。目の下の隈に触れようとしたが、王子はパシンッとその手を振り払った。王族に向かって馴れ馴れしい、とその眼は物語っている。
「許可なく人の顔に触れるな。貴様と違って、俺は男色に趣味は無い」
 忌々しげにギリッと歯を噛み締めた王子に、爛々とした眸で睨まれる。教育係は傷付いた顔をしたが、瞬時に頭を下げその痛みを強引に隠した。
「申し訳ございません!」
「もういい。茶を下げて出て行け」
「はい。畏まりました」
 ぺこりともう一度深くお辞儀をすると、教育係はワゴンの上にカップを載せ、部屋を出る。カラカラと音を立てながら、ワゴンは遠ざかっていった。
 パタン、と扉が閉まる。すると、王子は社長が座るような執務用の椅子に座り、一息つくようにデスクに頬杖を付くと溜息を吐いた。
「ああ、そこのおまえ」
「何でしょうか」
「後で適当に言っとけ。あの顔で出られると面倒だ」
 ――口が悪い癖して俺の言葉には素直だからな、アイツ。
 そんな内心を盗み聞いたのか、秘書を務める脱色した髪の少女はくすりと微笑う。ちなみに王子が普段私用で外に出る際には、必ず護衛としてついている。
「言葉遣いには気を付けないと、あの方が口煩いですよ? 例えば、オールランド皇国ではなく帝国です、とか」
 仮にも教育係と名乗っているのだから、言葉遣いには口を酸っぱくして注意するのは当然だろう。王子はその姿が容易く浮かび、嫌な顔を隠しもせず頷いた。
「分かっている。一々人の心を読むな。それにしても、おまえ……昔に比べ、随分と表情豊かになったものだ」
 複雑そうな顔をする王子。どこか、苦虫を噛み潰した顔にもとれる。
「ええ……それはまあ、私にも色々有りましたから」
 ピンクブラウンの瞳がすっと窓の外に向けられた。遠くを見るような瞳に、王子は悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべる。
「さては、その顔は敵国の男でも思い浮かべている類のものだな?」
「そんな一々ラブロマンスに陥るような構造はしておりませんので」
 にこやかに営業スマイルを向ける少女に、王子はつまらなそうな顔をする。デスクについた肘にますます体重が掛かった。
「つまらぬな。少しは然程手を掛けずとも虐め甲斐のある態度をとれ」
「そんな器用な事出来ていたら、今頃私は此処に居ません」
「それもそうだな。全く、ケテルやオールランドで何をしたんだか」
「ウォッチャーとしての務め、報告は果たしたつもりですが」
「好奇心、と言うものが有るだろう。娯楽に飢えているのだ」
「それはどちらかと申しますと、井戸端会議をする主婦達のアレですね」
「爺臭いと?」
「婆臭いです」
 王子は無言で立て掛けて置いた万年筆を投げる。突き刺すように真っ直ぐ飛んでいった万年筆は、彼女の手にスッと収まった。
「ともかく、フォローは王子様御自身でどうぞ。私は情報の整理に忙しいので。その前に、星風の国の王との会食が御座いますが」
 にっこりと微笑んだ少女に、王子は溜息を吐くようにして「ああ」と投げやりな返事を寄越した。
 冬の国、ロンド。国内に在る宮殿のとある執務室では、今や秘書にまで上り詰めた年齢不詳の少女が居座っている。
 少女の容貌は、王子が話していたオールランド帝国を追放されたとある皇女の姿に瓜二つだ。勿論、今の立場上からして皇女と彼女が同一人物だとは思えないが――彼女自身の出生や経歴について深く知る者は早々居ない。
 さてはて、彼女は一体どんな人物なのだろうか。少女は窓に目線を向けた時、何を思っていたのだろうか。
 それでは、物語の始まり始まり――――…………。



「……目が覚めると、おもうんだ」
 一人の少年は、起き上がりベッドの上で呟く。その顔は、見知らぬ木目の天井を見上げていた。
「夢みたいだ、って」
 少年の傍らに居た影は、何も言わなかった。

 それは、遠くもなく、近くもなく、そんな前の話。
 彼が信じた世界は、もっと温かで柔らかで
 彼が望んだ世界は、もっと小さくて楽しくて
 彼が願った世界は、小鳥には大きくて
 彼が居た世界は、彼の手で失われた。
 鳥籠から映る世界が、どんなものだったか。
 少年はそれを、おぼろげながらにしか覚えてない。
 少年の前に現れたのは、新たな、しかも大きい檻だったのだから。

 少年は、曖昧だ。脳も手足も首も腰も目も唇も耳も鼻も五感も言葉も魂も衣服も靴も皮膚も血肉も骨も髪も爪も性別も臓器も生態も生死も種族も生物かも――そう、何もかもが曖昧。不明瞭。不透明。
 一言で纏めてしまえば、肉体が曖昧なのだ。そう、人間の言葉では少年をたった一言に纏められる。恐ろしいことに。
 だが、しかし、少年は灰色の領域(グレーゾーン)に位置している。ソレではなく、少年だと形容出来る領域に在る。
 少年は、ごく普通の少年だった。だが、今の少年にはその極普通の少年だった記憶はなく、微かな記憶だけが自分を自分だと認識させてくれるだけだ。
 少年は、男であるか女であるか、子供であるか大人であるか、人間なのか他種族なのか、そもそも生物なのか、物なのか、全てがよく分からない。
 その残った僅かな記憶と誰かの影が少年は少年だと繋ぎ止めているに過ぎない。
「シャドウ。シャドウの名前って、何?」
「名前?」
『シャドウと呼びなさい』
 少年はそう言われただけで、それがシャドウと言う名前かどうかは知らない。そんな風に考える少年は、少し変わっているようにも思えたが、少年は何も気づいていない様子だった。
「……朱影」
「シュカゲ? へんなの」
 無邪気な子供の言葉に、シャドウは顔色を曇らせたようだ。その様子を見て、少年は慌てて手を振った。
「ええと、おもしろい名前だ」
「……桜花」
 少年はその言葉に、シャドウが何を言っているのか分からず口を開いたまま固まる。だが、桜花と言う言葉から連想した人物を思い出し、合点したように少年は一人頷いた。
「オウカ? 皇女様の名前といっしょだ。あ、だからシュカゲって言ったの?」
 シャドウは少しの間悩んだように黙ったが、やがて小さく頷いた。少年はその答えに満足そうな様子を見せ、笑った。
「気にすることないよ。名前は、親からもらったタイセツなものだって、おじいさん言ってたもの」
「……親。大切な、もの」
 少年の言葉を反復するように紡がれた言葉。少年はシャドウの言葉に大きく頷き、その言葉を更に反芻した。
「体の次にタイセツなんだって。親がアイジョウこめてつけてくれたものだから、いちばんさいしょにじぶんがじぶんだって分かるものだからなんだってサ。こせいとかアイアンディティってヤツ?」
「…………親が居なかったら、どうするの?」
「じぶんか、他の人につけてもらえばいいよ! 家族みたいな人とか」
「大事な、ひと?」
「うん」
「……じゃあ、つけて」
 か細い声だった。心なしか、シャドウの頬は淡い桜色に染まっている。小さな唇から紡がれた言葉は、影自身なりの甘えだったのだろう。
「え?」
「……私の……名……」
 気恥ずかしそうに言うシャドウを可愛らしく思ったのか、少年は柔らかに微笑んだ。
「いいよ。んーとねえ……どうしよ」
 急に言われてもすぐに浮かぶものではない。浮かんだとしても、人の名前と言う大切なものなのだから、即断するのもどうだろうか。そんなことを考える性格の少年だからか、中々シャドウの名前は決まらなかった。
「後日! 決まったら、言うよ。それまで、シュカゲって呼ぶね」
 朱影はこくんと頷き、萎んだ花を思わせるような憂いの目で少年を見下ろした。少年は小首を傾げつつ、朱影の名前を考えていた。
 ――それにしても、シュカゲって不思議だなあ。最初の頃と、全然違う。
 少年は心中に呟いたその言葉を区切りに、終わりと始まりの時を思い出していた。回想する少年は、未だ気付いていない。
 己が、イットに成り始めていることに。

 ――――――それは、まだ、彼が人だったころの物語――――――

『君は、どうして此処に居るのかな?』
 優しげな初老の男性。杖を持ち、華美にならないような彩色や物の装飾品を身に着け、過度にならないよう目立つものは最低限度にしている。
 その日は夕立だった。ばしゃばしゃと水溜まりの上を走り、跳ねた水のせいなのか降り注ぐ雨のせいなのか、少年が履いているジーパンはずぶ濡れだった。
 薄い青が、深い青に染まる。ぐっしょりと濡れた不快感を物ともせず、少年は走り続けていた。元は白だったのだろうが、薄汚れて黄ばんだワイシャツも濡れ切っており、浅黒い肌が透けて見えている。
 街は薄暗い闇に包まれており、激しい雷雨が街中を襲っていた。轟音が轟く度、少年は身を竦ませる。しかし、臓物が竦み上がろうとも、少年は走り続けている。
 右手には濡れてインクが滲み、絵だったであろうものや文字だったであろうものの判別はつかず、ただその色から判断するしかない。
 闇に染まった髪は、雨粒を弾く。だが、容赦なく降り続ける雨は少年の毛根にまで侵入し、少年は芯の底まで冷え切っていたのだ。
 少年がレンガを蹴り、水が跳ねる音は強雨の音に掻き消される。少年は顔面に一杯の雨粒を受け止めながら、その足を緩めることはなかった。
 迫りくる風に、雨が勢いを増す。少年に激しく当たる雨は風の影響で、殊更少年の身体を激しく打ち付けた。
 道の隅に、鼠が通る。どぶ鼠かは少年の目には視認出来ない。又、鼠に目を配る余裕もなかった。だが、少年の目前に黒ずんだ鼠が現れる。
 とたとたっ、と意外にも軽快に走る鼠は開いたマンホールの穴へと飛び込む。この雨粒は、小動物にとって命を脅かすほどのものだろう。そんな中を走り、しかもぽっかりと開いた真っ暗闇の穴へと飛び込むとは、大分常軌を逸している。
 だが、濡れ鼠となった少年には関係ない。少年はマンホールの穴を覗き込むと、備え付けられた梯子に手を伸ばす。
 地下水道内に身体を入れると、マンホールの蓋を閉める。完全に閉まったかどうかは、この暗がりでは少年には分からない。
 カンカンカンカン、と梯子を降りる音が地下水道内に響いた。しかし、後もう少しと言ったところで、少年は手を滑らせる。
 雨で濡れた手、豪雨の中を走った疲れ、早く早くと焦った結果、集中力か何かが切れたのか、少年はどうすることも出来ず地面に落ちていった。
 どてん、と床に尻を打ち付けた音、それにグチャ、ぬちゃあ、と何かの下敷きになった音と感触が広がる。
 少年はその気持ち悪い感覚に、顔を顰めた。歪んだ口元や眉間に寄せられた眉から、その不快感がリアルに伝わる。
 少年は臀部の痛みに堪えつつ、立ち上がる。ジーパンの上から手で払うと、少年の肌は粟立った。何かの毛、その下の柔らかなものを触った感触。流石に、その嫌な感触をフェイクファーだのマスコットだので誤魔化せる状況下ではない。
 少年は、振り返る。だが、真っ暗闇の中では何も見えない。足元ですら、暗くて何も見えなかった。
 すぐそばを流れる下水の音と閉まり切らなかったマンホールの蓋から聞こえる雷雨の音だけが、少年の鼓膜を叩いてくる。ごくり、と唾を呑み込んだ音すら曖昧だった。
 まるで、聴覚が支配されたようだ。そう思うと、少年の心は急激に恐怖に包まれた。
 寒さで縮み上がった心臓は、今は別の意味で縮み上がっている。ドクン、ドクン、ドクドクドクドク、と心臓の鼓動は気付けば激しさを増していた。
 冷えた臓腑は、ぞぞぞと寒気を立てる。震える臓腑は、果たして寒さのせいなのか。
 冷え切った爪先が、冷気を帯びる。張り付くように、恐怖が皮膚に伝染していく。カサカサの唇は青褪め、腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。
 がちがちと震える歯をやり込める。だが、腕の鳥肌はどうしようもない。鳥肌が立った腕は、雨のせいで冷え切り、全身は凍るように冷たかった。
 ひんやりと冷気が足元を通る地下水道。何も見えず、狭い道幅にその道に挟まれた川は、少年の脳にダイレクトな恐怖を与えた。
 前が見えない。何かが、居そうな雰囲気。足元に居る何か。そして、その正体に検討のついてしまった自分。変わらず、轟音を響かせる雷。
 道、未知、未知。知らぬ道に見知らぬ何か、未知からの恐怖が、不安が、喉奥からせり上がってくる。
 少年は、静かに後ずさる。物音を立てぬよう、道(未知)の先に居るものに見付からぬよう、慎重に、真剣に……。
 ぴたり。少年の踵が止まる。ぴちゃり、と少年の顎を伝い雫が垂れ落ちたためだ。そんな音すら、怖がる自分に気付く。だが、全身を覆う恐怖は最早どうしようもなかった。
 ぶるぶると震える身体が、寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、どちらでもよかった。ただ、この恐怖や寒さから抜け出したい思いが、少年の心を占めていた。
 ガッシャァァアアアアンッ!
 一心に思う少年に、地上で雷の落ちた音が地下にまで響き渡る。ビクッと肩を跳ね上がらせた少年は、息を呑んだ。
 雷の光が、一瞬にして少年の目を釘付けにした。光に照らされ、映し出されたのは紛れもなく生き物だった。
 飛び散った血痕、散らばったピンク色の肉片に、腸らしき臓物、濡れた毛皮、柔らかな皮膚、小さな白い骨、だらしなく垂れ下がった足、吹き飛んだように離れた所にある千切れた手、窪んだ眼窩、眼窩から繋がれた赤い糸、糸の先にある萎んだ眼球、潰れた眼球のようなもの、そう、全てはあの鼠のものだった。
 鼠の死体に、少年は声を失くした。言葉もなく、悲鳴もなく、恐怖故に動かない身体は、ガチコチに固まり切っていたのだ。
「鼠が居るぞ」
 雷に浸食されてしまい消えたマンホールをどける音。そのせいで、見えてしまった骸に、少年は言葉を失くしたまま、立ち竦んでいた。
 だが、鼠と言う単語に少年の頭の中は新たなる恐怖や不安で一杯になる。鼠とは、自分のことなのか。鼠は隠語に入ることを思い出し、少年の肝は更に冷えた。
「……あの鼠なら、この高さから落ちても死なないだろ。どうせ、鼠の空似だ。ほっとけ」
「なら、どうしてマンホールが少し開いてたんだ」
「ストリートチルドレンが急いで雨宿りしに来たか何かだろ。いいから、行くぞ」
 そして、マンホールはまた締められ、地上の僅かな光すらも消えた世界は、また真っ黒に近い何も見えない世界となった。
 後退りしたいせいか、その声の主には少年の姿が見えていなかったようだ。とは言え、彼らは本当に鼠を探していたのだろうか。普通に考えるのならば隠語だろう。だが、今の少年には二人目の男が言った内容は死んだ鼠のことを指していたように思えた。
『……あの鼠なら、この高さから落ちても死なないだろ』
 少年が見付かっていないのだから、あの男が虚言を吐く道理もない。あの男の言葉が勘違いでもなく本当だとしたら――――そこまで浮かび上がった答えに、少年は吐き気を催した。左手で喉に触れ、あまりの気持ち悪さにぎゅうと目を瞑る。ただ、ひたすら気持ちの悪い感覚が臀部に集中していた。
 少年の心を占めるのは罪悪感ではなく、気色悪いと言う嫌悪感だ。どうしようもなく、どうにかしたいのに、きっとこの感覚は一生取りついて離れない予感が、少年の脳裏を過った。それこそ、どうしようもない。
 それでも少年は、下水道の壁にジーパンを擦り付ける。尻に付着した、血液や他の何かを落とす為に。その何かは、考えたくもなかった。
 鼠の死体は、胴体部分の肉や骨が異様に少なかった。その部分のパーツが飛び散っただけとは、少年には思えなかった。そのパーツは、今……そこまで考えてしまい、少年は気持ちが悪くなった。
 少年がジーパンの尻に付着した何かを擦り終えた後、脇目も振らず走り出す。鼠の死体からも、擦り付けた何かからも、何もかもから逃げ出したい離れたい見たくない。そんな思いから、必死に。
 ズルッ。
 だが、それが失敗だった。少年は走ったことのない狭い道を駆け抜けると言う愚を犯し、足を滑らせたのだ。濡れた地面を走り続けていたのだから、当然靴の裏どころか足首までもぐっしょりと濡れていた。
 ドボォンッ!
 凍えるように冷たい水が、一気に服の中まで入っていく。尋常ではない冷たさが、痛みとなって全身を貫いた。ビリビリと、電流が流れ込むような痛みが指先から頭のてっぺんまで突き抜けていく。
 少年の目が、カッと見開かれる。青くなっていた唇は、紫に変色していた。青白いなんてものではない、最早黒い顔が真っ青に染まっている。
「ごぼ、がぼぉっ!?」
 あまりの冷たさと痛みに、口を開いてしまった少年は、水を口の中にたらふく入れてしまう。口腔にまで押し入る冷たさに、少年は溺れながら叫んだ。
 少年の身体は、冷たい水の奥底へと沈み込む。酸素不足に喘ぎ、また水を飲み込むといったサイクルを繰り返す少年は咄嗟に左手を伸ばす。すると、左手に握られていた紙は水の勢いに流されていった。
 少年が、懸命に紙へと手を伸ばす。だが、もう遅い。何とかして、泳いで浮き上がろうとするが、冷え切った手足はろくに言うことを聞いてはくれない。ただ、必死で伸ばした利き腕だけがばしゃんと水の上へいってくれた。
 浅黒い手が、水面に浮いている。傍から見れば恐ろしい光景以外の何物でもないが、本人は必死だった。だが、本人の意識は段々と遠くなっていく。
 苦しみだけが、少年の途絶えそうな意識を支配する。水を飲み込むしかない少年の肺は、一気に水が溜まっていく。
 徐々に沈んでいく手。手首が水に入り込み、手の甲まで水に浸食されていく。そうして、微かに指先が見えるほどになった頃、少年の意識はぷつりと途絶えてしまう。
 成す術もなく、少年の身は流れに委ねられ、濁流に呑まれていった。

 ギーン、ゴーン、ゴーン。銀色の時計台から、鐘の音が響き渡る。
 少年の生命を心配する者は、誰も居ない。死にゆく命に気付く人間は、誰も居なかった。
 ――そう、ヒトは。
 生物研究所から脱走した生物を探していた彼らは、苛立ち紛れに煙草を吸おうとして、この雨の中煙草が濡れて使い物にならないことに気付く。そうして、数時間前も同じことをしていたことにも、気付いた。
「チッ。ったく、なんで逃げたネズミ捕まえんのに我々が駆り出されなきゃならんのだ」
 一人の男が、しけった葉巻を見て舌打ちをする。隣に居た男は、火の出ないライターを見て毒づく。
「ですよねえ、先輩。このライターみたく、役立たずの糞共に扱き使われるなんて冗談じゃない」
 会話内容から察するに、舌打ちをした男が先輩、ライターを比喩した男が後輩のようだ。
「我々が奴等研究員と警備員の不始末を片付けるなんて、おかしいじゃありませんか。今度、給料明細の時に訴えてやる」
 と、ぶつぶつと愚痴を話すトレンチコートを着た女。先程舌打ちした男は、煩わしいと言わんばかりに女を睨め付けた。男の隣の男は、構わず女の話に同調しているが。先輩の前でその態度とは、彼女に気が有るのだろうか。
 三人の男が葉巻や煙草、ライターを取り出して吸おうとしたところを見て、煙草を嫌う素振りを見せた四十手前の男性は、煙草を吸えないと愚痴を零す三人に安心したのか、彼らをにこにこと笑顔で諌めた。
「まあまあ、せっかくのクリスマスなんですから、皆さんもったいないですよ」
 そう言い、時計台を見上げる。そんな男を「悠長だな、おっさん」とまだ二十代後半の先輩が噛み付いた。
「本当、クリスマスが台無しですね」
 後輩はがっくりと肩を落とし、女は静かな目で空を見上げる。灰色よりも黒い雲に覆われた空は、巨大な雲とたまにピカァと光る雷しか見えなかった。
「これじゃあ、ホワイトクリスマスなんて訪れそうにないですね」
「止まない雨、か」
 ざあざあと壁や地面、屋根に落ち続ける雨に向けて、女は呟く。屋根から滴り落ちる雫とは違い、その独語は放たれても滴ることはなく、空気に入り混じった。
 雨は止まず、希望も灯らず、ただ倦怠感だけが彼らに残っている。止まらず降り注ぐ雨のように、彼らの心にも疲労や不安が降り注いでいた。
 どこか、ノスタルジックな空に溶け込むように、その暗さと黒さを身に纏う彼らは、またレンガの地面へと足を踏み入れる。
 未だ、雨は止むことなく、いつまでも、どこまでも、降り続いていた。

 ――――悪夢の始まりに、誰も気付くことはなく。

「…………」
 ごぽり。少年の顔色は悪く、具合が悪そうだ。水の中に居て、ふわりと浮いている。両手は水中に放され、気絶しているのが目に見えた。
「…………」
 こぽ。少年の唇から、水泡が零れ落ちる。唇は青褪めていた。睫毛がぴくりと動き、閉じられた瞼が、瞬きをした。
「…………」
 少年はゆっくりと瞼を開き、ぼんやりと虚ろな眼で見上げた。見上げると、少年の眼にはキラキラと光り輝く水面が映る。
「……ここ、は……」
 意識がはっきりしてきたのか、少年の眼に活気が戻ってくる。そして、少年の眼は何時の間にか居た少女に注がれた。
 真っ白い長髪。ピンクブラウンの瞳。新雪のようにまっさらな肌、肌のように白いワンピースを着ており、素足が眼に入る。目鼻立ちが整っており、桜色の唇は緩やかな弧を描いていた。
 何ら感情を読み取れない両眼を見た後、上体を起こした少年は周囲を見渡す。見下ろした眼界からは、大きな桜の樹が咲き誇っている。水中に咲いた花は、白く花びらを散らせながら綺麗に舞っていた。
 水に紛れ、白い花びらがくるくると舞う風景は幻想的で、美しかった。柔らかに咲く桜の花をぼんやりと眺めながら、少年は眠っている人に気付く。
 白髪の人だ。少女よりも年上のようで、少女の近親か何かだろうか。木の根元に隠れていて遠目からでは、髪の色しか判別出来ない。
 緩やかに流れる水は、少年を押し出し、少女の下へ運んだ。少女は少年の腕を掴むと、ぐいっと引き寄せた。
 なされるがまま、ゆるゆると流れる身体を優しく抱き留め、少女はにこっと笑う。
「いけない子ね。どこか、遠い未来からやってきたのかしら」
 歳幅は十代後半ほどだろう。大人びた顔立ちをしているが、その瞳は清純で子供っぽく光っている。
「ねえ。貴方は、何処から来たのでしょう?」
「……ど、こ?」
 少年の意識はまだぼんやりしているのか、少女の言葉を繰り返す。
「ふふふ……まだ、覚醒していないのね」
 艶っぽい微笑を見せると、少女は少年を介抱する。少年の瞼が、段々と下がってくる。抵抗するように上げるが、すぐまた下がった。
「……此処に繋がったと言うことは……あなた」
 少女は哀れむような目で、少年を見つめた。少女はにこりと微笑む。憐憫の色は、もう見えない。少年の瞼が閉じられ、最後に少女の声だけ聞こえる。
「これだけは教えてあげましょう。
此処は、夢と繋がりやすい世界。夢幻に囚われれば、もう戻れない……」
 少年が最後に感じた温もりは、頬に触れた柔らかな手の感触だった。
「でも、貴方が諦めなければ……」
 耳元に囁かれた言葉は、少年の心に届いたのだろうか。
 暗闇の中、おぼろげな意識の中、その言葉と頬を撫でる指の感覚だけが温かに伝わる。少年は、僅かに口元を緩めた。
「……忘れないで。あなたなりの幸福を掴んでね」
 少女は、仕方なさそうに苦笑した。その苦笑は、子供に贈る母親のような温かいものだった。
「……あら? そういえば、あなたは……貴方なのかしら? 貴女だったのかしら?
最後に会ったのは彼ではなくて……いいや、誰だったのでしょう。
子供か、大人か。そもそも、女性なのか男性なのか……」
 小首を傾げながら、顎に指を添える。思い出しだそうとしているのだが、何も思い出せないらしく、やがて諦め、やれやれと溜息を吐いた。
「……ああ、そうなのでしょうね」
 少女が憂いに満ちた瞳で、地面に転がる小石を拾い、見つめる。憐憫の眼差しだった。
「あなたは、イットになるのかな」
 少女は悲しげに微笑みながら、それでも上を見上げた。遠い先には、空が在る。空が見える日は、少女にも少年にも、遠い先のことに思えた。

「…………っ」
 少年は眼を覚ます。全身が冷え切っており、痛みで意識を取り戻したようなものだった。少年は咳き込み、水を吐き出す。
「ゴホ、ゴホゴホッ」
 ビチャ、ビチャッ、と水が地面に落ちる。落ち着くまで待つと、少年は周囲を見渡す。少年の近くに水溜まりがあることと少年のびしょ濡れの身体、それと奥に伸びる細長い水溜まりしかない。
 薄暗い地下水道内に映る景色は、トンネルの中に似ていた。先程の落ちた場所より比較的広い。濡れた水が道となって、一本に伸びている。
 誰かが這いずったせいか、あるいは引き摺られたせいでなのか、そんな跡に見えた。
「……ゴホッ」
 口元に手をやり、苦しげに咳き込む。少年は吐き出した水を反射的にジーパンに擦り付けたものの、びしょ濡れのジーパンでは何の意味もなかった。逆に、ぐしょ、と気持ちの悪い感触が伝わっただけだ。
「……よく生きてたな」
 我ながら吃驚だ、と言わんばかりの顔で胸元に手を当てる。どくどく、と心臓の音が聞こえた。
 確かに、どこからどう見ても生きているのが不思議なくらいだった。少年はどうして此処に居るのか、記憶がないらしくきょろきょろと目を動かしている。
「……ドコ?」
 指先から足の爪先までジンジンとした痛みが響く。凍え切った寒さは、異常な痛みを自身に訴える。手足は冷え切っていて、臓腑も冷え冷えと冷め切っていた。
 髪先一本一本が水に濡れており、シャツはぐじゅぐじゅに濡れており、気持ちの悪い感覚と冷え過ぎて逆に熱く感じる脳に、少年は吐き気が込み上げてきた。
「……吐きそう」
 ぐっと顔を上げ、少年は思い切り立ち上がる。ひんやりと冷たい地下水道内は、少年の肉体を余計凍えさせた。
 少年は寒さに体を震わせ、両腕で身体を抱き締めながら歩き始める。時折、壁に手を這わせながら一歩一歩慎重に歩く。
 精神は摩耗しきっており、肉体の疲労もピークに達していたが、生憎少年の心や心が休まる場所は何処にもない。
「……つかれた……ねむい……さむい……」
 唇からか細く小さな声が漏れ出る。言葉に出すのすら億劫だったが、無言のままだと先の見えない暗闇に気が狂いそうだった。
 少年は疲れ果てた顔をしているが、本人に気付いた様子はない。足が棒のようだったが、彼はひたすら歩くしかなかった。
「はあ……はあ……はあ……」
 ただ歩いているだけなのに、息が荒くなっていく。呼吸が乱れ、足の痛みに顔を歪めないよう、力を入れていた。言葉は最早、唇から滑り落ちることすらない。
 ぽたぽたと髪先や顎、指先から雫が滴り落ちていく。歩けば歩くほど、足の裏に付着した水が地面についた。足跡のように水は道に残される。
 何分、何十分、何時間経ったのだろう。少年には皆目見当もつかないが、そろそろこの見えない暗闇の中を歩き続けるにも、精神体力共に限界が近付いてきた。
 水に体温を急速に奪われた体は頼りなく、足元は既に覚束無くなっている。少年は心臓の冷たさと真っ白な指先に危機感を抱きながら、如何する事も出来なかった。
「……し、しぬう……」
 少年は壁に背を預け、凭れ掛かる。苦しげな顔からは、一見暢気に聞こえる声だったが、その顔色は真っ青で状況は明らかに悪い。死人のような顔色だった。
「…………」
 少年の腕から力が抜けていき、ずるずると身体が落ちていく。膝は崩れ落ち、少年はゆっくりと瞼を閉じていく。
「…………ごめん、おじさん」
 少年はぽつりとつぶやき、走馬灯のように流れる記憶を振り返っていた。
 少年は、記憶を失くしている。覚えがあったときは、既にホームレス暮らしをしていた。
 少年は知り合いのホームレスの手伝いをしながら、生活のイロハを学んでいたのだ。ホームレスは少年に色んな話を語ってくれた。
 その中でも特に、ある子供を拾った話が印象的だった。特殊な力を持ったその子供は、深い濃淡のある赤い長髪を一本に括り付け、左右に不思議な魅力を放つ色違いの瞳をしていたと言う。
 今頃、元気にしているかなあ、と繰り返し言うホームレスの言葉を少年ははっきり覚えている。そして、その言葉を言うホームレスの遠い目を見て、その何処の子かも知らぬ子供が羨ましかった。子供ながらの嫉妬心だったのかもしれない。
 少年にとって、ホームレスは日常の一部だった。特別親しい訳ではなかったが、それでも少年に関わる人が少ないので、ホームレスはそれなりに特別な存在だったのだろう。

 そんなある日のこと。
 少年は汚らしい身なりの男を見付け、その男に駆け寄る。その男が、ホームレスなのだろう。やけに親しそうに話している。
 五分ほどしてから、少年は手を振り、男と別れた。男は苦笑しながら手を振っている。
 二時間後。少年は広場に居た。
 周囲に居るこの街の住人は、少年を汚いものとして見ているようで、広場に居る母と子の会話には「おかーさん、あのこきたない!」「しっ。見ちゃだめよ」といった少年に関する内容が混ざっていた。
 井戸端会議をする奥様方、もといおばさんたちもこそこそと少年をちら見しながら話している。少年の近くのベンチに座っていた老人は、少年を見るなり席を立ち、休憩を止め散歩に戻っていた。
 だが、少年はそんな気持ちの悪いものを見るような目をちっとも気にしていないらしく、るんるん気分で両腕を思い切り振り上げながら歩き出した。
 しかし、興奮が抑えきれなくなったのか、徐々に歩く速度が増している。そうして、少年は堪え切れずに走り出した。
 少年は嬉しそうに息を弾ませ、土埃の舞う地面を走り抜ける。快活そうに走る足音がダダッと響く。
 段ボールで出来た住処に戻ると、持ち歩いていたボロボロのポーチからガマ口の財布を取出し、用心深く左右を見渡す。
「……もうすぐだ」
 へへ、と得意気に笑う少年の顔は、煤けてはいるものの子供らしく無邪気だった。財布をポーチにしまい、煤で薄汚れた鼻を水道の水で洗う。
 にへらと笑いながら少年はポーチを外して両手に抱えると、秘密基地のような段ボール住居に入り、一度も洗ってないであろう毛布に包まり、大切そうに抱えながら眠りについた。何枚も敷かれた新聞紙の上に寝て、毛布の上に更に新聞紙を掛けていると、大分暖かそうに見える。
 少年の横顔は安らかで、過酷な環境で生きているようにはとても見えない。身を縮め、身体を丸くして眠るのは少年の癖だろう。
 たまたまそこを通りかかった初老の男性は段ボールの中を覗き――知り合いなのだろうか――すやすやと眠る少年の横顔を見てくすりと微笑んだ。

 パチリ。少年は寒さで目が覚めた。ぶるっと身を震わせ、少年はゆっくりと起き上がる。天井が低いので、気を付けなければならなかった。
 台風どころか、雨風がくる度に建て直しているのだろうか。それとも、耐水性の段ボールを選んで建てているのか。
 残暑残る秋とはいえ、夜は寒くなる。ひゅう、と冷たい風は容赦なく少年から体温を奪うのだ。
「服、チョータツしないと……」
 そろそろ、この季節には厳しくなってきた。昼間はともかく、夜は寒いだろう。服を調達しなければ、と今更ながら判断した少年は、何時もの習慣なのかまず初めにポーチを装着する。これで準備は完了だ。
 くしゅん、と可愛らしいくしゃみをしつつ、少年はのそのそとダンボール屋敷を出た。
 少年は慣れた様子で夜の道を歩く。歩き慣れた道なのか、進む足には躊躇や迷いは見当たらない。途中で時計を見付け、時刻を確認した。時計から解放されると逆に規則正しい生活を送ると言うが、それにしたって一般人から見ればホームレスらしくない行動に思えるだろう。
「……なんなんだ」
 少年はぼそりと独語を呟く。一本の街灯だけが、暗い道を照らしている。街灯の下で黙って立つ少年は、最初は無表情だったものの、時間が経てば経つほど仏頂面になり、不機嫌さが増していく。
「……あー、もうっ! ゼッタイ、見つけたらシバく」
 少年はがるる、と獣のように唸りながら歯を剥き出しにして怒る。黄色い歯だ。全体的に不衛生だが、本人が風邪を引いたことは運の良いことに一度もない。
 艶を失ったボサボサの髪は、櫛が何本有っても梳けないだろう。爪に詰まった汚れや汚れた身なりから、少年が満足に身体や頭を洗っていないことが分かる。身なりのいいホームレスもこの街には多く居るので、少年はまだまだと言ったところなのだろう。
 痺れを切らした少年は、待ち合わせた人を探しにその場を離れる。約束の場所、だったのだろう。ぽつん、と独りでに立つ街灯は寂しそうだった。
「くそー、みつからんないよー!」
 ムキになって走り回るが、当てもなく走ったところで見付かる筈もなく、少年は走り疲れて地面に座り込んだ。
 少年は呼吸を整えると、だるっと足を崩し完全にリラックスモードに入り始める。静かにしていると、周りの音がクリアに聞こえた。
 その時、少年の道に人の声が届く。男の声だ。少年はハッとして、立ち上がった。聞きなれた声の正体、それは恐らくあのホームレスだ。
『幻や魔を破るって言ってなあ……』
 ホームレスが、子供に名付けた名前とやらが少年の脳裏に浮かぶ。少年は歯噛みして、小さく毒づいた。
「そういうあんたがやられてんじゃねーよ……!」
 少年は声のする方向へと、全力で走る。ホームレスの声は、悲鳴にも似ていた。だが、突然パタリと声が止む。
 声が途絶えたことに、少年は不安を覚える。心の片隅からゆっくりと迫り、侵入していく不安。少年は軽く舌打ちをして、目を付けたところへと向かった。
 深夜の並木道は、何か居そうな雰囲気が出ている。おどろおどろしい気配を感じ、内心怯えながらも足に力を籠めた。
「はあっ、はあっ、ぜぇっ……」
 荒い息が漏れる。それでも、走った。すると、少年の眼にバッとあのホームレスが映った。視界に映るその姿は、間違いない筈だ。だが、黒い何かに遮られていまいちよく見えなかった。
 少年はじりじりと近寄る。警戒しているせいか、近寄る速度は遅い。ホームレス狩りだとしたら、少年には勝ち目がないだろう。逆に、少ない所持金すら根こそぎ奪われる可能性がある。
 よーく眼を凝らして見ると、黒い何かはやはり黒い何かのままだった。ホームレスは項垂れ、諦めたようにへたり込んだままだった。地面に手をつき、諦めた様子を見せるホームレスに、少年はムッとする。
「なんだよ、こっちがシンパイしてやったのに」
 ぶつくさ文句を言いながら、近寄る。こんな状況だと言うのに不平不満が口から出たのは、恐怖を紛らわす為だった。
「……なんなんだよ」
 少年はそう独り言めいた問いを投げ掛けるしかない。近寄ってみると、ホームレスを取り囲む者達は異形にしか見えない。
 黒尽くめの何か。人間にも見えるが、纏った黒いローブから覗く素足は真っ黒だった。いや、黒と言うより闇だ。夜闇の色。手もそんな色で、最早衣服どころの問題ではない。
 しかし、一番右奥の黒いローブの人間だけは違った。手足は雪のように白いが、ちゃんと人間の色をしている。
 その事に少年は少しだけ安堵の色を顔に浮かべつつ、警戒の色を濃く表していた。右手を前に構えつつ、少年はホームレスを見る。
 少年の声に気付いたホームレスは、顔を上げ少年を凝視していた。幻とでも思ったのだろうか、口をぽかーんと開け茫然としていたが、正気に戻ると「ダメだ! 危ない!」と叫んだ。
「い、いまさらかえれっかよ……」
 ホームレスの前ではつっけんどんの少年の言葉も張りがない。頼りない虚勢に、黒尽くめが振り返ってジッと少年を見る。
 少年は後退りをした。フードを被っている黒尽くめの顔面に当たる部分、そこはただ闇に包まれていた。真っ黒で、何も見えない。
「ひっ……」
 喉奥から引き攣った声が零れる。震える声が、感じた恐怖の度合いを指し示していた。
「な、なんだあんたら……」
 上擦った声。だが、それに注意する元気はない。少年は黒尽くめから目を逸らせず、ただただ注視しているしか出来なかった。
 遂に、黒尽くめが前を見る。ホームレスを真っ直ぐに、見る。少年は口を「あ」の形にした。
「すまんなあ、ボーズ」
 そんな言葉が、少年の耳に届いた。その言葉を境に、少年は飛び出す。だが、全ては遅かった。
 ザ ク ッ 。

「…………あ」
 少年の唇からは、そんな間抜け声しか零れ落ちなかった。少年の脳が、現実を拒否する。拒絶しか、選択肢のない現実に、少年は今度こそ言葉を失った。
 少年の眼に、光り輝く光が見える。それは、蝶の形をしていた。黒尽くめが、ぬっと手をホームレスに突き出した瞬間、その手は突き刺さり、そしてその光る蝶が抜き取られていく。
「げ、げんとうが……さ、さわんなっ!」
 少年は駆け出す。恐怖よりも焦燥感が彼の心を支配していた。幻灯、それは人の魂と言っても差し支えないものだ。
 少年が黒尽くめに体当たりをかます。だが、そのタックルは黒尽くめの体躯を擦り抜けるだけだった。
 どてん、ごろごろ、と地面に落ちて転がる少年。そんな少年に、他の黒尽くめが近寄る。少年の目は、映す。
 ぱっくりと裂かれた唇が、大きく弧を描いている。ギラギラと三角形の闇色の歯が、少年を喰おうと光る。ソレらは少年の面前にまでやってきて、ぐいっと少年を喰らおうと突っ込んできた。
 スローモーションの世界。少年は、死を覚悟した。そして、ゆっくりと流れる世界で少年は気付く。
 黒尽くめの顔には、目が有ることに。ぽっかりと開いた空洞、眼窩見える何もないものに、今更ながら少年は恐怖の念を抱いた。
 それが、喰われる直前に気付いたこと。

 ガシッ。バクッ。ガリッ。ガッ。

 柔らかな皮膚を噛み、咀嚼しようとする音。ホームレスは既に事切れており、だらしなくその肉体は地面に倒れ込んでいる。
 少年は、美しく綺麗な光を灯し輝き続ける蝶を見た。七色に光り輝く、幻灯。
「……なん、で」
 その言葉を区切りに、黒尽くめは吹っ飛ばされた。
 ドンッ! ドサッ。並木にぶつかり、ずるずると地面に落ちる黒尽くめ。他の黒尽くめは危機を察知し、するすると足音を忍ばせて去って行った。夜闇と同化した色のせいで、少し離れれば黒尽くめは見えなくなる。
「……今回の騒動の因果の一つとは言え、貴方はこの世界の住人。他の影に殺される道理は皆無」
 黒尽くめのローブを纏う女性が、少年を見下ろしながら話をする。フードから零れた白い髪の毛が、風で舞う。顔はこの暗闇で見えない。
「インガ? カゲ? ドウリ?」
 クエッションマークがひたすら頭上に浮かぶ。だが、少年の眼は黒尽くめの白い腕にいっていた。そう、先程黒尽くめに喰われた腕だ。
 彼女は少年を喰う黒尽くめの口に右腕を出し、少年の居る位置とは逆方向に腕を振るい、少年に攻撃が届くことを阻止したのだ。その代償に、右腕には噛まれた痕から少量の血が滴り落ちている。
「血を流しっぱなしでは、ヴァンパイアが来るから、止血」
「あ、うん」
 ずいっと右腕を出され、少年は思わず頷く。気心知れた同性の仲ならいざ知らず、名も知らぬ少女に啖呵きる勇気なんてものは少年にはない。
 彼女がローブの内側から出した包帯を使い、丁寧に右腕に巻き付けていく。素人ながらもなるべく綺麗に、と念じたお蔭か時間は掛かったが綺麗に巻くことが出来た。
「遅い」
「ごめん」
「けれど、ありがとう。感謝するわ」
 彼女は少年の右腕を掴み取り、立ち上がらせる。少年は足をもつれさせながら立ち上がり、彼女に引き摺られながら歩いた。
「ちょ、ちょっと!」
「何でしょう?」
「ドコ行くんだよ? ていうか、君ってナニモノ?」
 少年が勢いよく尋ねられたのは、唐突な非現実的な光景を見せられ、恐怖心が麻痺しているのだろう。ホームレスが殺された現実もまた非日常的で、少年の中にはすんなり入って来なかった。
「シャドウ。取り敢えず、空き家に行くつもりですけど何か異議でも?」
「大ありだよ! いきなり、いみわからないって。大体、知らない人についてくなってジョーシキだから」
「私はあなたを助けました。恩を仇で返すつもりですか?」
「う……で、でも、あんた……」
 くるり。彼女が振り返り、言い淀む少年に鋭い眼光を浴びせた。少年は、思い切って本心を吐き出す。
「だって、あんたはあのおっさんをやっちまったじゃないか!」
「それは、あなたのせい」
 一言で片付け、彼女はそそくさと歩く。腕を引っ張られ、少年は前のめりになりながらも頑張って立ち止まった。
 どうも、現実感が湧いてこない。それは彼女の死に対する淡白な態度のせいでもあったし、少年が生きてきた環境のせいもあった。
 何時自分達ホームレスを見下してくる連中に殺されるか、それは彼らにとって身近な事だ。戦争でいきり立つ国民や兵士は、国がずっと行ってきた洗脳工作によって、国の奴隷と化している。表面上は平気に見える首都でも、その裏は倫理的・道徳的な意味で既に荒れ果てていた。
「どうしておれのせいだって言える!? おれはみとめないぞ!」
「その説明も、家でするから」
「しんじられるかっ!」
「……あなたの力が無自覚に作用して、そのせいで二人の人間が巻き込まれた」
「え?」
「一人はあの男。もう一人は、あなたを何時も気にかけてくれる白髪で初老の男性。心当たりは有るでしょう?」
「……そんな、おれのせいって……」
 少年は戸惑っている。根が素直なのか、不審人物の言葉に踊らされていた。
「あなたは強力な力を持っている。夢が教えてくれたわ、平行世界ではあなたが……あなたが、刹那の花の始まりだったことを」
 シャドウは冷淡な目で、少年を見下ろす。無表情だった。その淡々とした語り口が、寧ろ真実味を帯びてくる。とても虚言癖があるようには見えなかった。
 何を言っているかは分からないが、少年は確かめたい事が増えて来た。具体的に知りたいと思うようになったのは、少年の知り合いの事を聞いたからだが。
「……あの、さ。その力ってなに?」
「それは、此処では教えられない」
 好奇心渦巻く眸が、思い悩む。少年は顔を俯かせ悩んだ素振りを見せたが、意を決したように顔を上げる。
「わかった。いくよ」
 少年の了承の言葉は浅慮だった。シャドウはその言葉を聞くと、前を見て歩き始める。少年はとたとたとシャドウに着いて行く。
 暫く歩いていると、シャドウが一軒家に足を止める。少年は目を見開き、感嘆の息を漏らした。シャドウは暗闇でも光る金色のドアノブを握り回す。
 シャドウは濃い茶色の扉を開く。ギギィ……という音に、少年は唇を固く引き結ぶ。
 シャドウが家の中に入り、少年もおずおずと歩く。
 中は暗い。パチリ。魔法の人工的な明かりが点くと、木製の床の廊下が見渡せた。一本道に真っ直ぐ伸びている廊下だ。真白の壁が両横に広がっており、玄関口から四つの部屋のドアが見えた。
「ひ、ひろ……」
 唖然とする少年を気にも留めずに、ささっと少年を置いて行くシャドウ。手前のドアより一つ奥の右にあるドアへ向かうと、ガチャリとドアを開け入る。少年も慌てて続いた。
 シャドウが部屋のスイッチを押して明かりを点けると、彼は驚嘆から目を見開く。
「な、なにもんだ……」
 少年はシャドウを凝視する。ホームレス暮らしの少年では、到底理解し得ない状況なのだろう。とは言え、一般常識を持つ一般人にも理解出来ない状況だろうが。
「だからシャドウ」
 前にも言ったでしょ、と言外に含まれた言葉に、少年はバツが悪そうに顔を顰める。
「……そういうイミじゃないよ。こーんな、金持ってそうな家」
「家は金を持たないでしょう?」
「両親が金を持ってるんだね」
「……さあ」
「だって、こんな家持ってんならそうだろ?」
「……」
「だんまりかよ」
 シャドウはベッドに座り、少年を机の椅子に座らせる。少年はきょろきょろと室内を見ている。だが、部屋は殺風景でベッドと簡素な机しかないものだ。
「で、なにを話してくれるの?」
「あなたの能力。知りたい?」
「うん」
 少年は特に気負いもせずに言う。襲われた時と比べると、随分とリラックスしている。案外、能天気な性格なのだろうか。それとも、少女と自分の力量の差から諦観しているのか。
「貴方は、人を交換することが出来る」
「交換?」
「平行世界の人間を」
「へいこーせかいって?」
「パラレルワールド。具体例を挙げるならば、あなたは今此処に居る。
けれども、あの時私の誘いを断る可能性だってあった」
「おねーさん、アヤシイもんな」
 こくこくと頷く少年。思ったことをそのまま言う性格の持ち主らしい。シャドウは顔色一つ変えない。
「その可能性の世界。それが、平行世界」
「ほへー。イマイチわかんね」
「もしかしたら〜の可能性を持つ異世界。数多くの可能性の一つが、この世界」
「ええっと、話を纏めると……俺がさっきあの黒いのにパクッとくわれていた世界とか、俺が生きていて、それからおねーさんのおさそいをことわった世界、イロイロあるってことかな?」
「ええ。見目の割に、賢いのね」
「なんかバカにされてね?」
 むっと唇を尖らす少年に、シャドウは相も変わらず無愛想な態度を取り続けている。少年がこういう性格でなかったら、シャドウとの対話はここまでスムーズに進まなかっただろう。
「あ、でも、そしたらもしかすると、俺のセーカクがすんげー変わってる世界もあるってこと?」
「そうね。行動の一つで、人生観や人生そのものがガラリと変わることもある。人間の変化と言うものは大抵が今までの積み重ねから徐々に、もしくは或る日を境に一変してしまうもの。
本人が気付いていないだけで日々、人は数多の分岐点に立ち、選択しているのでしょう?」
 つまるところ、平行世界とはIFの世界なのだろう。もしかしたら、の可能性を持つ世界。どこか、その存在は不老長寿や不死と似ていた。
「ふーん……」
 少年は相槌を打ちながら椅子の背凭れに肘をつき、頬杖をついている。
「じゃあ、さ。もし、あの時こうしていたら〜ってコーカイやソウゾウしたことが、ゲンジツになってる世界があるんだよな」
「そうね。たら、ればを言えばきりがないと言うけれど、その先の世界は確かに在るでしょう。とは言え、不毛な考えには違いないでしょうね」
「人って、折り合いつけて生きてんのに、ヘンなハナシだよ。そんなアマイ考え持ってたら、人のセイチョーってモンが止まるって」
 少年は現実を受け止めて、前を見据えて歩くべきだ、と言っているのだろうか。少年の言葉は雑然としていて、シャドウには上手く飲み込めなかったらしく、適当な言葉を繕われた。
「娯楽文化にはあるから、そういう意味ではいいんじゃないかしら。どちらにしろ、平行世界に触れることは出来ないのですから」
「え、なんで?」
「殆ど同じで似ている世界だからこそ、触れられないのよ」
「ソックリだから……ドッペルゲンガーみたいな?」
 自分の分身、ドッペルゲンガーに会えば死んでしまう。そういった話は有名だ。あくまでも、魔法的検証はとられておらず都市伝説や噂の範疇に入るが。
「小説や映画では、平行世界の自分と会うと死んでしまうと言う説もあるから、あながち間違いでもないでしょう。例えば、タイムマシン物で未来の自分に会うとかね」
「なんで、みらいとパラレルワールドが同じアツカイなんだ?」
「不確定要素を孕むから。必ずしもそう確定されている訳ではないのよ。確定されているのならば、平行世界は生まれないから」
「イ、イミがわからん」
「例えば、此処に二つの道があるとして。運命と言うものがあって、定められているのだとしたら、二つの道があったとしても関係はない、ただの一本道に成り下がるでしょう?」
「あー、イミないもんな。もうこっちの道行くって決められてんだから」
「右側の道を行くと決まっていたら、左側の道を行く未来は存在しない。だから、運命が有れば平行世界は存在しないの」
「でも、おおまかなところではサダメってやつがあったら? コマカイとこだと、きめられてないみたいな」
「そう言われても、私には分からない。そういう専門の人に聞きなさい」
「へーい」
「占い師が見る未来は、個人にとって一番可能性の高い未来。それを見て、言っているに過ぎないから、未来を見ることの出来る占い師自身、占いは外れることもあるでしょうね」
「そーいうもんは、ガンガン外してくもんだぜきっと」
「……要するに、未来は平行世界の類に入るの。いいわね?」
「リョーカイ」
「ところで……何の話だったかしら?」
「おれの力の話だっつの!」
「ああ、そういえば」
「あ、あんた……わすれないでくれよ」
 少年はがっくりと肩を落とした。
「あなたの力は平行世界の人間を交換することが出来る。特殊な、タイムトラベルにも負けない能力。使い方を誤れば……」
 そこで、少女が瞳を伏せた。睫毛の長さと少女の醸し出す雰囲気に、少年は見惚れながらもごくりと唾を呑む。
「……なんだ?」
「誤らなければいい話よ」
「……ふうん」
 少年はつまらなさそうに相槌を打つ。
「つまんないのー」
「不謹慎なものね。あなたは、二人の人間をも交換させたと言うのに」
「…………」
 少年はしゅん、と沈んだ表情になる。少年は相当落ち込んだらしく、顔を曇らせ俯むいていた。追い打ちを掛けるように彼女は少年を糾弾する。
「嘘だと思うのなら、シャドウに回収された幻灯を思い出してみなさい。通常の人間は幻灯で構成されている。けれども、標的(ターゲット)のものは違ったでしょう?」
 人間はたくさんの幻灯で構成されている。それも、幻灯は通常一色にしか光らない。人が死ぬときは、美しい数多の光を出しながら消えていくのだ。肉体は残らない。
 だが、あのホームレスは違う。蝶の形をした七色の幻灯が煌めいていたのだ。柔らかな生の命を帯びた光。
「……どう、して」
「まだ施設に居た頃」
 少年はパッと顔を上げ、あんぐりと口を開く。どうしてそれを、と言いたげな顔だった。同時に、脳の片隅でピシリと痛みが突き走る。
「うっ……」
「憶えていながら、此処に居るのね」
 憐憫の籠もった表情。少年は首を左右にふる。唇が無意識の内に形作っていた。
 ちがう、ちがう、ちがう……そう、何度も繰り返していた。
『――……――……――ッ!』
「おもい、だせ……ない……」
 罅割れるような痛みがピシリピシリと脳の真ん中辺りを走り抜ける。ズキズキと頭の片隅まで痛み始め、少年は頭を抱え出す。
 少女が、ゆっくりと雪の様に真っ白な手を伸ばす。人差し指が、少年の額に触れた。
「がっ、があっ、ぐあぁぁ……!」
 それは、突然の出来事だった。急に痛みが大きくなり、少年の耐えられる容量をオーバーした。
 カッと瞳孔を見開き、少年は激しく頭を振って椅子から転げ落ちる。床にもんどり返りながら、少年は何度も頭を床にぶつけた。
 狂人の様な行動に、少女は慌てた様子もなく後ろに下がる。それから、顎に細い指を添えると少年を見下ろしながら呟く。
「……拒絶されている。これは、魔法? けれど、精神的な面が大きく作用されているようね……」
 喘ぎ喘ぎの少年は暴れ回る。彼女は少年の動きを避けながら、少年の背中に乗り動きを制限させると、右腕を掴んで無理矢理拘束した。
「これで痛みは治まった?」
 彼女がもう一度人差し指を額に触れ、今度は指先を押し付ける。そうして、彼女はじーっと少年の顔色を窺った。
「うぅ……いでぇ……し、しぬかとおもった……」
 土気色の顔をしつつも、痛みは呆気なく消えたらしい。呻きながら少年は額をコンコンと叩いた。
「あなたが触れて欲しくないこと、そういうことでしょう。
記憶を取り戻すのは、一端諦めた方が良さそうね」
「つーか、あんた腕大丈夫か? そしておれにさわっちゃっていいの?」
「痛覚は鈍い方だから気にしないで。後者はどういう意味かしら」
 少年は心配そうに彼女の腕に巻かれた包帯を見る。先程、暴れた少年を諌める為に実力行使に出たせいで包帯が緩んでいる。
「それは、その……おれって、よごれてるから。さわったらバイキンつくから、あいつにはさわるな言われんのも慣れてるし」
 躊躇いながらも一度言ってしまえば、言葉はするすると出てくる。自身の自虐的な言葉に、少年は顔を伏せた。
「それなら、もっと最初に躊躇していると思うわ。これを巻いてもらった時にね」
 少年の目線に気付き、彼女が包帯を片手で巻き直す。手馴れているのが一目でわかった。
「シャドウ、って言ったな。シャドウは一人で手当てすんの、慣れてんだ」
「ええ。任務の都合上、一人で潜る事は多いから」
「任務?」
「まさか、私みたいな怪しい人間が仕事をしてないとでも思った?」
「いや、なんも考えてなかった」
 シャドウは呆れたように溜息を吐く。ただし、その顔はあくまでも無表情だったが。
「この先、何も考えてないのなら生きていけないでしょうね。寧ろ、何故今まで生きて来れたのかが不思議です」
「ええっと、この生活はまだ一年そこらだからさあ」
「あら、そうなの」
 淡々とした相槌。文章にすると人間味が有るように見えても、その実彼女の声色からは無機質の一言しかない。まるで、機械のようだ。
「それで、これからどうする?」
「これから?」
 オウム返しに問い返す彼女に、少年はうんと頷いて説明する。
「そう、これから。おれは家に帰ってもいいのか、そっちはどうするつもりなのか」
「そうね。あなたのせいで、面倒なモノに喧嘩を売ったから暫く単独行動をとる予定よ。
あなたには、私の言う事に従ってもらう。そうでないと、あなたも私も困る」
「ってことは、仲間がいるんだ」
「私はサポートだから」
「へえ、いかにもそんなカンジだよ。なんか、あぶなっかしいもん」
「あなたに言われたくない、と返しておきましょうか」
「むー、そうか? あ、それで面倒なモノって?」
「黒衣。解り易く言えば、死神のようなものね」
「死神!? おれら、死神から命狙われてるってことかよ!?」
「平たく言えば、そうね。ただ、狙われているのは私だけだからあなたが気に掛ける必要はゼロよ」
「いやいやっ! 助けてもらっておいてそこまで恩知らずじゃねーよ!」
 少女は少しの間無言だったが、少年の焦った顔を見て口を開いた。
「ありがとう。オールランドの人間も優しいところが有るのね」
「んな一を見て十を知ってるみたいなこと言われてもさ……」
「国から洗脳を受けているから、てっきりね」
「そんなこわいこと……」
「義務教育に組み込まれているカリキュラム。マスメディアの報道規制に書籍の検閲活動。
流石にこのありさまを見て、自由な教育方針だと言う人間は居ないと思うけれど」
「……むずかしいな。言ってること」
「自由に色んなことを学べない。国の方針に反したら処罰を受ける。自由に雑誌を読めない。本を書けない。
それってとても、退屈なことでしょう?」
「うん、すげーいやなんじゃないかな。おれにはカンケーないけど」
 学習環境もろくに整っておらず、娯楽に手を伸ばす余裕もあまりない。そんな少年にはいまいちピンとこない話だったらしく、彼女は押し黙る。
「それって、自由じゃないってこと? それなら、おれもそうだよな。
自由にうまいもん食えないし、ベッドで寝れないし、家ないしさ」
「ううん、違うわ。洗脳は、例えばそうね、ある考えを刷り込むこと。その考えが正しいと思い込ませることよ」
「ある考えって?」
 押し問答は延々と続いていき、そんなこんなで夜は明けていく。好奇心旺盛な少年は彼女の言う事をどんどん吸収していきながら、身近な人の死から逃げるように、頭の中から立ちはだかる冷徹な現実を打ち消していった。


『この家は好きに使って頂戴。私は連絡を取らないといけないから、少しの間留守にします』

「……あっやしいよなあ」
 少年は腕を組み、ベッドの上に座り込んで考えていた。しかし、幾ら熟慮しようが少女の正体は皆目見当もつかない。
 少年の根が幾ら単純だとは言え、易々と怪しい少女の家かもどうかも分からぬ家に上がり込み、あまつさえ一緒に居る事を約束してしまっている事は非常に異常な事なのだが、生憎少年の頭にはそれを疑う要素が何故か湧いてこない。
 言ってしまえば、少年は極度の馬鹿だった。スラム街には世渡り上手で計算高い子供が生き残り易いが、少年はその例より百八十度程ズレている。つまり、成績でもそういった意味でも馬鹿な子供なのだ。
「……飯、有るかな」
 少年は腹の音にも素直だった。いそいそと起き上がり、リビングを探す。広いとは言え、何処ぞの豪邸と言う訳ではない。
 リビングに辿り着いた少年は、早速冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の構造は知らないが、魔力を秘めた鉱石が使われていることは周知の事実だ。その鉱石はあらゆる物に使われており、分かり易く言えば「エネルギー」の役割を果たしている。
 魔力には属性が有る。その属性毎に最大限利用し尽くしているのが彼ら人類なのである。例えば、冷蔵庫に在る物が冷凍保存出来るのはそういった力を持つように魔術師が加工しているからなのだ。
 魔術師と魔法使いは異なる。魔術師は魔力を含む物に手を加える事が出来、ただの人間でも努力を積めば可能性が有る。後者は完全に先天性なもの、要は才能が必要だ。
 しかし、魔法使いの数は少ない。遺伝子ならぬ魂の突然変異と言ってもいい、それほどまでの偶然が起きなければ通常は生まれる事が無いのだ。
 勿論、こうして温めたシチューを食べる少年が魔術師や魔法使いに属する訳もなく、特殊な能力を持つ以外は極々平凡な子供だ。







2012/08/08(Wed)01:41:40 公開 / 道詠
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■作者からのメッセージ
歴史云々のことは苦手なので、おかしいところが有るかもしれません。その時は、なるべく優しく指摘して下さると嬉しいです。(幾分、チキンハートなもので、すみません!)
設定を説明文に入れると(ただでさえ悪い)テンポがますます悪くなるので、ファンタジーな世界の事も有って分かり辛いかもしれません。世界観や設定は主人公と一緒に少しずつ探っていけるような、そんな文章に出来るよう頑張ります。長々と書きましたが、よろしくお願いします! 読んで下さった方、ありがとうございます^^

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