『リーガル・マインド『藁の上から』(微修正)』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
 本作はライトノベルです。苦手な方は『戻る』ボタン推奨。 法律ってなんだろう? いまいちイメージが湧かない。阪神大学法学部一回生の渡良瀬ヒロキは常々そう思っていた。人に流されるままに法律相談部なるものに入ってみたものの、大学生活一年目前期はボーッとしている内に終わっていた。顧みればまるで進歩のない自分。しかし足踏みする自分とは正反対に時は前へ前へと進んでいく。 そんな法律倦怠期、だけど漠然と何かしたいと思いつつ迎えた夏休みで、彼はとある美しい依頼人に出会う。彼女は姉に訴えられるかもしれないのだと言う。これを助けたいと思ったヒロキは、「ちょっと本気出すか」と奮起するのだった。

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「あんたのせいで私は振られた! 協力する? 口ではそう言ってたくせに、陰では私をあざ笑いながら見てたのね! 前から思ってたけど、あんたって最低の屑ね! ゴミね!」
 薄暗く、酒の臭いが立ち込める部屋の中。
 やつれた女が口角泡を飛ばしながら罵声を叩きつける。対するもう一人の女は明らかに困惑の表情を浮かべていた。
「そ、そんな……私は本当にハルナのことを思って応援してたんだよ。陰でハルナを笑うなんて、そんなこと絶対ない」
「嘘をつくな! 私知っているんだからね!」
 缶ビールがフローリングの床にけたたましい音を立てて転がった。髪を振り乱した女は続ける。
「私、知ってるんだから。彼……ヒック、彼が、私を振った理由。彼、言ったもの! 『好きな人がいる』って。誰って私が訊いたら、彼なんて答えたと思う? 恥ずかしそうに顔をそらせて『佐倉ミドリ』って答えたのよ! そう、あんただったのよ!」
 女の指摘に佐倉ミドリは唇を震わせた。何かを言おうとして、止めて、しかし何かを言わなければと顔をあげて。それでも続く言葉は無かった。やつれた女は涙声になる。
「あんた、彼のことどうしたの? OKした?」
「…………ううん。私……」
「振ったのね? 良い御身分ね。私を陰で嘲笑うだけじゃなく、懸命な彼の告白を踏みにじって悦に入ってたんでしょう! それでこのタイミングで私の部屋にやってきて『お見舞い』ですって?」
 ふざけんな、と今度はまだ中身の入った缶が飛んできて、彼女の顔と服とを濡らした。
「っ……。ハルナ、酷い。私、そんなこと思ってない! お見舞いだって本気でハルナの事心配したからだよ。それに……私の部屋も何も、この家は私達姉妹の家でしょう!? いくらお姉ちゃんのハルナでも――」
「私を『お姉ちゃん』と呼ぶなッ!」
 姉・ハルナの突然の絶叫にミドリは顔をすくませる。ハルナは座っていたソファから立ち上がるとミドリの耳元で酒臭い息を吹きかけた。
「訴えてやる! あんたなんかこの家にいられなくしてやる!」
 それは呪いのような言葉で。
「あ……」
 今まで紛いなりにも一つ屋根の下で暮らしてきた姉からの、完全な拒絶の言葉だった。
「訴えてやる! 絶対訴えてやるから!」
 そう言って部屋から荒々しく出て行くハルナの背中を、ミドリは茫然自失の体で見ている他なかった。


リーガル・マインド『藁の上から』(短編)


 土曜の昼下がり、効きの悪いエアコンにうんざりしながら、渡良瀬ヒロキは長机の方を見やった。阪神大学法学部の空き教室、窓を閉めているのにアブラゼミの鳴き声がやかましく聞こえている。そんな劣悪な環境の中、学部の誇る秀才であり、法律相談部の部長でもある鳴海フウカは営業スマイル全開で客に受け答えをしていた。
「はい、大丈夫です。訴えられると思いますよ。出生届に虚偽の内容を記載しているのは無効であり、したがって出生届に基づいて戸籍が記載されても実親子関係は発生しません。問題は外形上の親子関係についての争いでしょうが、これは弁護士先生の手腕でどうとでもなると思います」
 茶髪でナチュラルショートヘア。アーモンド形の目に通った鼻筋。顔には薄化粧をしている。おそらく万人にとって魅力的であろう顔のつくりだ。天は鳴海フウカに二物を与えたとは良く言ったものである。
 対する客――ちょっとパサついた髪にやつれた感じの女性は、興奮した様子でまくしたてる。
「ホントですか!? いやー、良かった! 実は私あの子の男癖の悪さには辟易していて、いつか縁を切りたいと思っていたんですよ。このままではこっちがどんどん不幸になっていく一方で。マジ死んで欲しいわ、あのビッチ」
 客の発言にフウカは一層笑顔を振り撒いた。
「そういう人いますよね。縁を切って正解だと思います。そのために法律ってあるんですから。法は正義。正義は法。法は絶対に勝つ。貴女のどうしようもないビッチ・偽妹はすぐにでも家から追い出せることでしょう」
「ちょっ」
 可愛い顔、しかも笑顔で『何か』言ったフウカに、ヒロキは思わず声をあげてしまう。
「何か?」
 ぐるりとフウカの顔が回されヒロキを見る。あくまで笑顔だったが、その整った顔には「何か余計なことを言ったらブチ殺す」と書いてあった。
「……ちょっ……、ちょっと暑いですね、この部屋。ははは……」
「そうね、むさ苦しい君がいるからかも」
 フウカは笑顔でそう言ったあと、一瞬だけ真顔になってヒロキを睨む。それから客に向き直った。
「何か他にご質問はありますか?」
 やつれた女性はしばらく黙ったあと、
「あの、どれくらい相手からお金を取れるんでしょうか。何て言うの? 慰謝料? できれば相手を破滅させたいんですけど」
 と言った。傍から聞いていて寒気が立つような冷たい声だ。ヒロキは隠れてうちわで背中を扇いでいたのだが、思わず取り落としてしまったほどである。一方のフウカはよどみなく答える。
「佐倉さんの場合は親子関係不存在確認請求という名前の請求を行います。これは名前の通り親子関係があるかどうかの審判をするものですから、慰謝料は残念ながらとれませんね。ただし勝てば訴訟費用を向こうに負担させられます。その上関係が無いと言うことになれば貴女のお相手に対する扶養義務も消えますし、お相手の遺産相続権も消滅します。お相手はまだ大学生とのことですし、これだけでも十分なダメージになるかと」
「やった! すごいわ! やっぱり、法律相談部を頼って良かった。弁護士って三十分相談するだけで滅茶苦茶お金取られるんですよ。それ考えたら、ここの無料っていうのはすっごくお得ですよね! 気軽に行けるし、場所的にも便利だし」
 やつれた女が楽しそうにはしゃぐ。フウカも笑いながらうんうんと頷いている。
 ところで、この女性、やつれて髪の手入れも行き届いていないせいか一見して三十代後半くらいにみえるのだが、こうしてはしゃぐ姿を見ると、実はかなり若いのではないだろうかとさえ思えてくる。少し首を伸ばして机の上の書類を盗み見ると、『佐倉ハルナ』という名前の横に『二十八歳』とあった。
「若っ!」
「黙れ馬鹿ヒロキ。コホン。つきましては、我が阪神大学法学部卒業の優秀な弁護士のいる法律事務所をいくつか紹介させていただきます。ここから近いものもありますよ」
「わあ、ありがとうございますー」
 これで法律事務所を紹介する見返りにばれないように少しだけお金を貰っているとは口が裂けても言えない。というか、ヒロキとしてもそんな裏事情知りたくもなかった。
 ――こんなんで本当に良いのかな……。
 ヒロキは黒い笑みを浮かべながら客を見送るフウカを見つめながら、そう思うのだった。

    ×              ×               ×

「ちょっと、ヒロキ。何なのよさっきのは。いちいちいちいち横やり入れてくるわ、お客さんが来てらしているっていうのにずっとうちわ扇いでるわ、君本当にやる気あんの!? 先輩達がバカンスに行っている間私たちは店番しないと駄目なのよ? み・せ・ば・ん」
 最後の「み・せ・ば・ん」に合わせてヒールの細い円柱部分がヒロキの頬に食い込む。痛みももちろん感じるのだが、それ以上に椅子に座ったフウカがデニムパンツにグレーのニーソックスを履いているというのがそういう不快な感覚を全部打ち消してしまっていた。見えそうで見えないジレンマ。しかも白いボーダー付きブラウスから健康的な脇が時折見えて――。
「……っ。フ、フウカ先輩。ごめんなさい、もうしませんからこれ以上は止めて下さい」
「じゃあせめて私の横で六法引くくらいしてよね。君ってば後ろの席でTシャツの中に風送り込んでるばっかなんだもん。もうマジ最悪。暑いし。あーあ、こんなことなら私も行けば良かったなあ、バカンス」
 そう言って彼女は横の机からミネラルウォーターのペットボトルを取りあげてぐびぐびと飲み干す。ボトルを置いてから「うっわ、ぬるっ!」と不快感に顔を歪めた。顔だけは美人なフウカだけれども、こう言うときにはさすがに自慢のお顔も変顔になり果てるようだった。堪え切れずプッと吹きだすと「笑うな!」という叱責とペットボトルが飛んできた。
「イテっ。……じゃあ行けば良かったじゃないですか、バカンス。前期一人だけノルマ達成できなかった僕なんかほっといて」
 そう言うと、フウカはため息をついた。
「君なんかに任せていたら、ウチの信用がた落ちになる」
「でも、いざというときは教授だっています。まあ今日は用事で来てないですけど。それに弁護士ほどの専門的なアドバイスはできないことを考慮に入れての無料でしょう? じゃあ――」
 シャッと飛び出してきたうちわが顔の前で寸止めになる。
「だからと言って、お客様に全くの嘘を言って良いということにはならない」
 うちわを突きつけたフウカはぴしゃりとそう言った。ヒロキは顔を背ける。
「お金のために方便使っている先輩に言われたくないですよ」
「方便?」
 フウカが首を傾げる。ヒロキは慌てて首を振った。
「あ、いや……。方便じゃないです。だけど、法律で家族を引き裂くなんて、そんなのは……、その、間違っている、っていうか……イテっ」
 もごもごと口を動かしていると額をぺちりとうちわではたかれた。見上げると、フウカは感情の読めない顔をしていた。
「そんなんだから、駄目なのよ」
 しかし言葉とは裏腹に彼女の声は柔らかで。
 生意気を言った自分が、何故か少しだけ恥ずかしくなった。

     ×             ×             ×

 そのあと、食事休憩ということで一旦相談部を閉めることにした。
 学食は夏休み中開いていないので、昼ごはんは校内にあるベーカリーで何か買うことになった。同じく校内にあるコンビニを利用すれば食事も飲み物も両方手に入るはずだったのだが、コンビニ飯を嫌うフウカが反対したのだ。飲み物はヒロキが、パンはフウカが調達することになった。ちなみにそれぞれのおごりだ。明らかにパンを買うフウカが損だったので出費が均等になるよう調整することを提案したが、「お子ちゃまは黙っておごられていなさい」と断られてしまった。
 人差し指を突きつけられて「ヒロキは飲み物を買ってくるコト!」と言われてはもう反論のしようがない。ヒロキはフウカのデニムパンツとニーソックスの間の太ももについて大いなる想像を働かせながら学舎近くの自動販売機を目指した。
 自販機前でフウカの分も『午後の烏龍茶』にするか迷っていると、後ろから「あのぉ」という控え目な声がかけられた。
「はい?」
 振り返ると見るからに不審な女性が立っていた。
 この暑いのに上下長袖のジャージを着こみ、野球帽をかぶって、サングラスまでかけている。襟の部分は限界まで上にあげられていて、まるで真冬の夜にでも外を出歩くような気合の入れようである。
 ヒロキが上から下まで舐めるように観察していると女性はもじもじと体を動かす。
「あの、法律相談部の方ですよね。ちょっと訊きたいことがあって」
「あ、そうなんですか」
 ホッと胸をなで下ろす。「でも残念ながら今は昼休みなんですよ。十三時から再開しますので、その時にいらして下さい。力の及ぶ限りがっつりお答えしますよ」
 主に先輩が、と心の中で付け足す。
「あ、いえ……。そんな大したことじゃないんです。……さっき来ていたお客さんが、どんな話しをしていたのか気になって」
「申し訳ないですが、依頼人の話しは言っちゃいけないんですよ」
 体よく断る。すると、
「依頼者の人が私の姉でもですか?」
 女性は野球帽とサングラスを何気なく取り払った。長い髪がふわりと夏風に舞う。シャンプーのCMに出てくるモデルのような髪だ。女性の前髪は横一直線にそろえられていて、『どこかの良いところのお嬢さん』を思わせる。目元は和風で鼻や口も上品な感じだった。本来の姿を現した麗人にヒロキの口はあんぐりと開いた。
 年齢=彼女いない歴、及び将来は法律と結婚するというエリザベス女王もびっくりな決意をしていたヒロキだったがここに来てその信念が大きく揺らぐのを感じた。
 美しい。かわいいのではなく、美しい。白百合のようだ。
 大学に入学してから女性と会話する機会を持つようになったヒロキだったが、まだまだそれも日が浅い。美人が出てくるとなると途端に発汗量が増して舌の稼働率が二分の一以下に減退してしまうのである。
「あ……えっと……」
 大げさかもしれないが喘ぐことしかできなかった。対する彼女の方は余裕の表情だ。
「私、佐倉ハルナの妹の佐倉ミドリです。これ学生証です」
 差し出された磁気カードには確かに佐倉ミドリの名前。阪神大学の文学部に在籍しているようである。なるほど女性率が高いだけあって文学部にはこんな美女もいるということなのか。対して法学部の女性率は三割強といったところ。しかも色々と残念な人が多いのだ。圧倒的女子力。圧倒的男女比率。世の中はこんなにも不公平だというのだろうか。
 ――しかも佐倉ミドリって確か、去年のミスコン優勝者だったような。
「あ……、あはは……。妹さんですか。めっちゃ綺麗な方ですね。僕が今まで出会った中で一番綺麗な方だと思います」
「そ、そんな……」
 頬を染めて顔を俯かせる佐倉ミドリ。ヒロキは努めて爽やかに笑った。
「じゃあプライバシーとかいいですよね。あ、で、でも人には言わないで下さい。特に先輩には」
「教えて下さるんですか!?」
「は、はい! もちろん――」

「――もちろん、駄目に決まっています」

 凛とした声が響く。ミドリはちょっと驚いたような顔で振り向き、ヒロキは血の気の引いた顔でビクーンと振り向いた。
「ふ、フウカ先輩……お早いお着きで……」
 ヒロキはスマイル百パーセントで立っている上司にカクカクとした動作で腰を折る。フウカの右手には握力を加えられ少し形の崩れた焼きそばパンがあった。
 ひいいいい、と震えあがっていると、フウカはこめかみにビシリと青筋を立てた――笑顔で。
「ヒロキ君、プライバシーの意義を述べなさい」
 顔は笑っているけれども声は全然笑っていない。体から立ち上るどす黒いオーラは格闘マンガで言うところの殺気という奴だ。
 殺される。間違えたら殺される――ヒロキは慎重に口を開いた。
「プ、プライバシーとは、私生活をみだりに公開されない権利で人格権の一種です。ですが最近では人が自らの情報を管理する権利という意味で用いられます!」
 答えると、フウカが「そうね」と頷く。
「そして、ある事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由とを比較衡量して、前者の法益の方が優先されるときには不法行為が成立する。君が依頼人の情報を公開する理由は何?  さぞかしちゃんとした正当な理由があるのでしょうね? 単純に妹さんだからだとか、その妹さんが美人で思わず鼻の下を伸ばしてしまったからだとか非論理的な解答は、まさかとは思うけれどもしないわよね? ね、渡良瀬ヒロキ君」
「ほんっとごめんなさい!!!」
「あ、あの……」
 困惑するミドリにフウカは歩み寄る。
「お姉さんの代わりに相談部を利用されるというのなら、代理人としてきちんと顕名してからにしてくださいませ。ほら行くわよヒロキ!」

    ×               ×              ×

 ヒグラシの鳴きだす夕さりつかた。暑い西日がようやくなりを潜め始めた頃、ヒロキは法律相談部のある学舎から裏手に回り、古びた石の階段を駆け下りていた。長い長い階段を下りると文学部の図書館前に着く。目的の人物はすぐに見つかった。
「佐倉ミドリさん!」
 声をかけて手を振ると、彼女の方も手を振り返してくれた。ミドリは一度帰宅したらしく、暑苦しいジャージ姿から涼しげなブラウスとスカートに着替えていた。
「すみません、お待たせしました」
 ヒロキが頭を下げるとミドリは慌てて首を振る。
「いいえ、そんな、こっちが無理を言っているのに。それより、渡良瀬ヒロキさん、でしたっけ……?」
「ヒロキで良いですよ」
 そう言うと、ミドリは一度ほほ笑んでみせてから、
「それよりヒロキさんは、大丈夫なんですか? こんな……」
 バッグから一つの紙片を取り出す。そこには『五時、文学部図書館前』と乱雑な字で書かれている。先の修羅場でヒロキが後ろ手に急造したメモである。
 ヒロキは頬を掻いた。
「駄目です。だからお姉さんの情報は言えません。だけど、貴女の話しを聞くことくらいはできます。フウカ先輩と比べたらものすごく頼りないけど」
「そんな! とってもありがたいです! でもどうしてここまでしていただけるんですか? 法律相談部の部活時間はもう終わっていますよね?」
 ヒロキは少し視線を逸らせた。
「貴女が、本当に困っているみたいだったから。理由は分かりませんが、少なくともそう感じられました。困っている人は助けるのが道理です。こんな説明では不満でしょうか?」
 なんだか恥ずかしくなって来てはにかみながらそう言うと、ミドリはしばしの間ぽかんとしたのち、
「いいえ、とっても満足です!」
 と満面の笑みで答えた。超至近距離で放たれた彼女の魅力的なスマイルにヒロキは顔が熱くなるのを感じた。
 純度百パーセントの好意が向けられている――こんな僕に。
 それが初めての経験で、浮き立つような気分だった。彼女の目を見ると鼻息荒く「そ、それじゃあ話しを聞かせて下さい!」とせっつく。ミドリは「え、ええ……。取りあえずここで話すようなことではないので、歩きながらでお願いします」と返した。
 それからどこへ向かうともなくふらふらと歩きながら、ヒロキはミドリの話しを聞いた。
 彼女の話しは、要約するとこうだった。
 ミドリの家では彼女の他にハルナ及び両親が一緒に暮らしていたという。そんな中、父が死に遺産は母が全て相続した。しかしその母も病気で亡くなり、しかも遺言の類は見つからなかった。どうしようか考えあぐねていたところ、ハルナとの間で男をめぐってトラブルが発生した。いわゆる三角関係というやつだ。ハルナが好意を寄せている男性がミドリに好意を寄せ、ミドリは答えを出せずにいる。痴情のもつれで相続問題がややこしくなってきたところ、ハルナは切り札を切って来た。それが午前中彼女が持ってきた相談内容である。すなわち、
「私とハルナの間には、生物学上の血縁が存在しないんです。私はお父さんとお母さんの本当の子供じゃなかった。血がつながっていないんです。それを理由に私を追いだそうと、ハルナは裁判を起こすらしいんです」
 血がつながっていない。
 ヒロキは最初のうちこそ驚きを隠せなかったが、すぐに言われてみればと納得してしまった。というのも、ミドリとハルナ、その顔のつくりがあまりにも違っているからだ。失礼になるけれども、ハルナは目が細くて顔の輪郭も俗に言う馬面というヤツだ。対してミドリはミスコンで優勝するほどの美少女。突然変異でもなければここまで違いは出るまい。
 ヒロキが一人頷いていると、ミドリは不安げな表情でヒロキを見上げてきた。
「あの、私は訴えられてしまうんでしょうか? そしたら、家を追い出されて……」
「えっと……。基本的に、家族の絆って切れないと思います。例えば江戸時代まであった勘当っていう制度は現代の法制度には存在しませんし、仮に敷居を跨がせないとか言われちゃっても、法的には扶養義務――つまりお互い助け合って生きて行く義務が残るんです。必ず」
「じゃあ!」
「でも、出生届が偽物だってことは、その出生届自体が無効になるわけで、それにともなって、戸籍も無効になるわけです。だからお父さんとお母さんの子どもだってことも法的には認められません。最初から無かったことになるんです。よって扶養義務も無かったことになります」
 ヒロキのまとまりのない説明を聞いてミドリは唇を噛みしめた。
「そんな……」
「すみません、まともなこと言えなくて。出生届の偽造なんてほとんど不可能なもので、とんでもなく珍しいケースなんです。赤ちゃんを斡旋するには産婦人科の医者の協力が不可欠だから。当たり前だけど、医者は干されるのを嫌って出生届の偽造に手を貸したりしない。菊田医師事件って事件で斡旋やってた医者が訴訟を起こしているけど、やっぱり敗訴してます。菊田医師は医学界から事実上の追放を受けていますね」
「何とかならないんですか?」
 震える声でそう言う彼女に、ヒロキはおずおずと提案した。
「弁護士を雇われるのが良いかと……」
「お姉ちゃんと、法廷で争うんですか? そんなの嫌です。できれば、法律家なんて雇わずに話し合いで解決したい。それに、そもそも私、弁護士を雇うだけのお金なんて」
「そう、ですか……」
「お姉ちゃんはお母さんが死んでから家の財産の管理をしていて、財布を握っているんです」
「そうですか、うーん……」
 ヒロキは眉根を寄せる。やはり素人の自分ではここまでなのだろうか。知識と技術が必要な世界においてヒロキのそれはあまりにも少なく、拙い。法律相談部などという大層なクラブに入ってはいるけれども、所詮それも突き詰めればお遊びだ。法律を生業にしている人間には及ぶべくもない。
 にわかに沈黙が流れる。無言で歩いているうちに、二人は川そばの土手まで出てきていた。
 暗い影が、二人の足元から長く伸びていた。

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 ミドリとは土手で別れることになった。彼女は今友達の家で厄介になっているらしく、近くにその下宿先があるらしいのだ。結局役に立つことは何一つ言えず仕舞いだったヒロキは、下宿に帰る気にもなれず、気付いた時には大学までリターンしてきていた。
 大学の正門をくぐり、とりあえずコンビニで何か飲み物を買おうと思って足を向ける。するとコンビニの前には見知った二人が立ち話をしていた。ヒロキは沈んだ顔を上げる。
「内田教授。……とフウカ先輩か」
 ヒロキの声に内田教授が気付いて満面の笑みを浮かべながらやってくる。内田教授は最近教授になったばかりの若い男性だ。少し天然パーマだけれども、それすらお洒落。顔も二枚目で学内でも(主に女子学生からの)人気が高い人である。そして法律相談部の顧問でもある。専門は不法行為法と家族法だ。
 内田教授は相も変わらず爽やかな笑顔を浮かべながらヒロキの肩をバンバン叩いた。
「やあやあ、渡良瀬君じゃないか! 鳴海君からはもう帰ったって聞いていたけど、まだ学内にいたんだね」
「ああ、はい。一旦出たんですけど、引き返して来て」
「どうせあの女と一緒だったんでしょ」
 妙にとげのあるフウカの声が割り込んでくる。内田教授は綺麗に整えられた眉を寄せて「あの女?」と繰り返した。
「昼間来た客の妹だそうです」
 フウカによる最低限の説明だ。ヒロキは苦笑いを浮かべた。
「姉妹で骨肉の争いをしているんですよ。彼女達は本当に血のつながった姉妹なのかって」
「ふむ、出生届は?」
 教授は聞き返した。フウカが即答する。
「話しを聞いた感じ多分偽物です。本人達にも途中から家庭に異物が入り込んだ、異物として入りこんだという認識はあるみたいですから。当時の周辺住民だった人間から話しを聞けばすぐ分かることでしょうし、そもそも二人はこの事実を争いの対象とはしないですからあんまり問題にはならないでしょうけど」
 裁判では両当事者間で食い違いの無い事実の主張は原則として認められる方向で進められるのだ。
 教授は顎に手を当てた。
「藁の上からの養子か」
「他人の子供であるにも関わらず自分の子供として出生届を提出し、育てること。本件みたいな事案のことですね」
 フウカが淡々と捕捉する。ヒロキは首を傾げた。
「藁の上からの養子……? そんな俗称があったんですね」
 すると内田教授は一つ頷いた。
「非嫡出子の秘密を隠すことや戸籍上養子という事実を残さないことを目的として、近代以前から盛んに行われていた慣行さ。誰誰は今育てられている親の本当の子ではない、なんて事実は世間様に知られちゃ色々噂されて生きにくいからね。戸籍法四十九条三項によって出生届に産婦人科が出産証明書を添付しなきゃならないから、今日では大分減って来ているけど、菊田医師事件なんてものもあるし、完全には無くなってないといえる」
「藁の上からの養子は、家庭から追放される運命なんでしょうか?」
 ヒロキは俯き加減でぼそりと呟いた。
「おやおや、どうしたんだね?」
 暗い雰囲気のヒロキに教授が苦笑をする。フウカは肩をすくめて「付き合ってられない」とため息をついた。ヒロキはぼそぼそと続ける。
「いえ、なんかかわいそうだなあって思って。だってずっと一緒に暮らしてきて、理不尽にもいきなり家を追い出されるんでしょう? そりゃ法律的には戸籍が無効だから、追いだして当然って結論にもなりうるんでしょうけど、なんか納得できません」
 教授は顎に手を当てた。
「なるほど、察するに君は、妹さんの話しに共感し、これを弁護したいと考えているわけなんだね」
「それは……出来ることなら弁護はしたいですけど、僕弁護士資格なんて持ってませんし。というか、弁護に必要な知識も技術も足りてないんです。ぶっちゃけ法律を学んでいない人とあんまり変わりません。僕なんて……」

「あー! もう! しっかりしろ!!」

 大きな声に顔をあげると、フウカが腰に手を当てて鼻息荒くこちらを見上げていた。目を白黒させているヒロキに、彼女は続けた。
「どうして君はいつもそんな自信無さげなの? 弁護士っていうのは口で殴り合うような仕事なのよ? 自信が無くても自信があるようにするの! こっちに非があってもこっちに非が無いようにするの! たとえ無茶苦茶な依頼であっても、受けたからには最後まで食らいついていくの! 君はあの女と話しをして、困っていると思い、助けたいと思った。そうでしょう? なら助ければ良い。最後まで食らいついていけば良い。人を助けるのに弁護士資格なんて関係ない! 知識や技術が無いって言うなら、あるところから持って来い!」
 一気にそれだけ捲し立て、一拍間を置いて「まあ、私もまだ弁護士じゃないけど。偉そうなこと言えないけど」と付け足した。
「あ……、はい」
 茫然とそう返すしかない。フウカはヒロキの魂を抜かれたような反応にいつもの毒舌を返すことも無く、頬を赤く染めてそっぽを向いている。
 ヒロキがふと我に帰ると、コンビニの周りにいた数人の学生がこちらを物珍しげな表情で見ていた。フウカに釣られてヒロキの頬も自然と熱を帯びる。内田教授はそんな二人を見て楽しそうに「青春だねえ」と呟いた。

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 翌日、ヒロキはミドリにもう一度会いたい旨のメールをし、昨日と同じく文学部の図書館前で落ち合うことにした。時間は昨日と同じ日が沈んで涼しくなりだす午後五時だ。
 ヒロキがヒグラシの声を聞きながら図書館前で待っていると、五時前くらいに、まばらな人の流れの向こうからミドリがやってくるのが見えた。昨日よりも心なしかあでやかな服装だ。
「ミドリさん!」
 と声をかけると、彼女はこちらに気がついて小走りに駆けよってくる。
「ごめんなさい。待たせちゃいましたね」
 アイラインの引かれた目を伏せながら彼女は言う。ヒロキは一瞬彼女の薄い口紅に目をひかれたが、すぐに雑念を振り払った。
「すみません。今日はお伝えした通り、昨日の話の続きをさせてもらおうと思って呼び出させてもらったんです。暑い中、ごめんなさい」
「え、そうだったんですか」
 ヒロキの説明にミドリは少し驚いた表情になる。が、すぐに「そこのテラスですね」と笑顔に戻った。
 ヒロキは彼女をテラスの席に案内すると、近くの自動販売機から『午後の烏龍茶』を二つ購入した。それから席に戻ると、ミドリは心底驚いたような表情でヒロキを見ていた。
「本当に……、その、助けてくれるんですか?」
「もちろんです」
 ヒロキはそう言うなり、ミドリの向かいに腰かけると、バッグの中からいくつかの資料を取り出す。
「それは……」
「これですか? 判例とか、学説とか、まあそんなところです」
「でも凄い量です」
 ミドリは口元に手を当てて机の上に置かれた資料に目を奪われる。ヒロキは苦笑した。
「一応、色々ごちゃごちゃと読んできました。でも僕の中の結論はシンプルです。ミドリさん、貴女はハルナさんが弁護士を雇って姉妹で骨肉の争いになる前に話しを落ちつけたい。そうですね?」
「は、はい」
「なら、ゴールはミドリさんを説得することです。もう弁護士を雇われているかは分かりませんが、今日の内に彼女にかけ合ってみればきっと大丈夫です。僕は弁護士じゃありません。だけど、貴女達の一人の善良な知り合いとして、良心的解決を望み、貴女に協力したい。友人として二人を仲裁したいのです」
 そう言って真摯な目をミドリに向ける。彼女はこちらを窺うように、
「できるんですか?」
 と訊いてきた。
「彼女に利害を説けば、可能です」
 ヒロキはミドリの目を見てそう言いきった。ミドリは口をパクパクさせている。そんな彼女に笑顔を向けた。
「それでは、ちょっとだけ、退屈な説明にお付き合いください」
 ヒロキは昨夜調べてきた判例と学説のコピーを取り出した。マーカーでラインを引いておいたところを指差しながら、簡単に説明する。この説明でミドリ自身がイケそうにないと感じるならば、それでヒロキの役目は終わりだ。弁護士の世界なら「コイツ駄目だ」と烙印を押されて客にそっぽを向かれてしまうのである。
「珍しいケースだけあって判例はそう多くありませんでした。だけど全く無かったと言うわけではない。例えば最近に出された判例で興味深いものがあります。これも貴女達と同じように、遺産の相続をめぐって親子関係の不存在が争点になっています。そして最高裁は出生届が偽物であるにもかかわらず、親子関係の不存在の確認請求を棄却してます。かなり強引に結論を言いますと、親子関係は継続するって言っているんです」
「あの……出生届が偽物なのにですか?」
 控え目に首を傾げるミドリ。ヒロキの言っている事が良く分かっていないようである。それも当然だろうと思い、ヒロキは続ける。
「そうです。最高裁は、出生届は偽物だという前提に立っても、親子関係を否定しちゃいけないって言ったのです。最高裁の論理はこうですね。偽の出生届が出されたことに、被告――今回で言うとミドリさんポジションにいる人ですね――は何ら関与していない。だというのに、被告は親子関係を否定されることによって、重い精神的苦痛、経済的不利益を強いられることになる。加えて今まで培われてきた社会的な秩序も破壊される。こんな重大な侵害を被告に与えることになるのに、原告の目的は被告に対する単なる反発感情だった。仕返ししたいから法律を使って親子関係が無いことを確かめる。そんなことは権利の濫用にあたり、到底認められないと裁判所は結論したのです」
「な、なるほど……」
 ヒロキは資料を脇に追いやると、指を組み合わせて彼女に向き合った。
「男女関係のもつれで貴女を不幸の底に追いやろうなんてことは、言語道断。絶対に認められません。だから、こちらがすることは、ミドリさん達の間で痴情のもつれがあったという証拠を集め、これを盾に、訴訟を起こすことは止めた方が良いということをハルナさんに説明することです」
 ミドリの顔がパッと明るくなる。
「じゃあ、これで仲直りできるんですね!」
「少なくとも元の状態に戻すことはできます。でもハルナさんと心の底から和解するのは、やっぱりミドリさん達姉妹の問題です。法律とか屁理屈をこねくり回すことでどうにかなるものじゃないですから」
「いえ、それで十分です! 良かった! 本当に良かった!」
 ミドリはハンカチを目に押し当てる。
「いや、話しはこれからです。ミドリさんに納得していただけたところで、今から早速ハルナさんのところに行きましょう」
 ヒロキがそう言うと、ミドリが「え?」と声を上げる。
「あの、ハルナのところに行くんですか? ……私も?」
「当然です。でないと、このままじゃ本当にお金の絡む裁判沙汰になってしまいますよ」
 ヒロキがそう言うと、彼女は唇を噛みしめて俯いた。どうやら相当ハルナと合いたくない様子である。それでも、ヒロキが無言で彼女を見下ろしていると、やがて、
「分かりました」
 と言って立ち上がった。

    ×              ×               ×

 西日が沈み、空が紫色に染まっていく。天頂は既に深い藍色をなしていた。
 夕暮れが終わって夜がやってくる間際、佐倉ハルナは通帳を手にため息をつきながら歩いていた。とぼとぼと歩いていたら、気付けばもう自宅の前。自宅には当たり前だが明かり一つ付いていない。彼女の家は父が死ぬまではかなり裕福な家庭だった。しかし父が死に、そこまで裕福ではなくなって、今ではその辺りの家庭と変わらないレベルの生活水準。
「だけど、あんな奴に奪われてなるもんですか」
 脳裏に浮かぶのはあの忌々しい『異物』の澄ました顔だ。容姿においても、運動においても、勉強においても、そして世渡りにおいても自分より高いところにいる女。それが憎くて仕方なかった。昔から色々奪われてきたのだ。自分のものだと思っていたものを奪われ続ける。それは人が人を憎む理由としては十分だ――ハルナは疲れた足で家のドアに歩み寄る。
「絶対、破滅させてやる」
 彼女はそう呟くとバッグから鍵を取り出した。

「佐倉ハルナさん!」

 突然声が響いた。閑散とした夕闇に、声は良く通る。ハルナは鍵穴に鍵を差し込む手を止めて後ろを振り返った。そこには、法律相談部で見た一回生の男の子と『異物』が立っていた。
 ヒロキはハルナの方に一歩踏み出すと手を差し出す。
「初めまして。僕、ミドリさんの友達の渡良瀬ヒロキと言います」
「知っています」
 ハルナが冷たく言い放つ。それから挑むようにヒロキの顔を睨んだ。「何か御用ですか?」
「ミドリさんの良識ある友人として貴女方の喧嘩の仲裁をしに来ました」
「はっ! 仲裁? ふざけないで! 私はそこの女を絶対に許さないから。仲裁なんか聞く耳持たない」
 それだけ言い捨ててハルナは背を向ける。
「待って下さい! 訴訟を起こせば、ハルナさんは馬鹿にならない位の金銭的損をします! まずは僕の話しを聞いて――」
 ヒロキの声にハルナは目を怒らせて再度振り向いた。
「必死ね! 『良識ある友人』が聞いてあきれるわ! どうせあんたもそこの女にうまく丸めこまれた口でしょう。ねえミドリ? あんたのお家芸だもんね、色仕掛けで男を操るのは」
「そ……そんなことないっ! お姉ちゃんは――」
「だから私を姉と呼ぶなッ!!」
 ハルナが怒鳴る。ミドリはびくりと体を震わせた。ハルナは続ける。
「あんたのせいで、私はずっとずっとずっとずっと傷ついてきたのよ! ある日家族でもない人間がやって来て、お父さんとお母さんの愛情を半分持っていった! それから私が手に入れるべきものは全部半分。酷い時は全部盗られた! ……あんたの存在がが苦痛で苦痛で仕方なかった!」
「……だから、私を訴えるの?」
 ミドリは両手のこぶしをぎゅっと握りしめる。
「そうよ!」
 ハルナの声に彼女はキッと視線をあげた。その目はハルナのバッグから少し顔を出している預金通帳を捉えていた。

「それだけのお金の余裕も無いのに?」

「なっ」
 ハルナは言葉に詰まる。ミドリは言葉を続ける。
「私は奨学金を使ってまで学費の負担が無いようにしている。バイトだってしている。ハルナにあんまり迷惑をかけないように! でも……、でもハルナは湯水みたいにお金を使っているよね? 毎日男やお酒、その他娯楽のために。さっき通帳片手に銀行行っていたんでしょう? だけど弁護士を雇うだけのお金の余裕が無くてどうしようか迷っていた。違うの?」
「い……いざとなればお金を借りればいいわ!」
 ミドリの勢いに負けじとばかりにハルナも叫ぶ。さすがのミドリもこれには一歩よろめいた。
「ハルナ……」
「裁判に勝てばあとはどうとでもなる! あんたを扶養する義務も無くなるから、お金にだって余裕ができる」
「……」
 ミドリはたじたじと後ずさる。
 ヒロキは腹に力を入れた。
 ――来た。
 ここからの説得が自分の仕事だ。
 ミドリとスイッチして前に進み出る。
 そしてしっかりとハルナの両目を見据えた。
「ハルナさん、本当に裁判で勝てると思っているんですか?」
「はぁ?」
 ハルナが眉根を寄せる。ヒロキは続けた。
「僕の見積もりでは裁判をやっても勝てない可能性が高いですよ」
「素人が何を――」
「裁判所は、不純な目的で裁判を起こすことをよしとしません」
 ヒロキはハルナの言葉を遮って続ける。
「ハルナさん。ミドリさんとの間で男をめぐってトラブルがあったそうですね。貴女は恋した相手に告白した。だけど相手は非情にも好きな女性がいるからと断った。その女性がミドリさんだった。貴女はミドリさんを憎んだ。いや、嫉妬したんです。だから、裁判を起こしてミドリさんを追いだそうとした。――違いますか?」
 指摘にハルナは視線を彷徨わせる。
「そ、それは……」
「男女関係のもつれから、相手を排除したいあまり法律を利用する。貴女の行為は立派な権利濫用です。裁判に持ち込んでも、まず勝てない! ハルナさん。こんな不毛な戦いは止めましょう。冷静になってミドリさんと話しあいませんか?」
「いや! こんなビッチの思い通りになんて絶対なってやるもんか!!!」
 突然ハルナは金切声をあげた。
「こいつ……こいつは悪い女なのよ! 男を連れ込んで夜遅くまで馬みたいに行為を繰り返して! あんただってこいつに騙されてる! 皆こいつに騙されている! どうして皆私の味方になってくれないの!? どうしてこんなオナホ女ばっかり優先されるのよ!」
「ハルナさん、まずは冷静になりましょう」
 ヒロキが手を伸ばす。が、ハルナはそれを思いっきりはたいた。ヒロキは構わず続ける。
「冷静に、何が正しいか見極めて下さい。ミドリさんだって貴女と争いたくはないんです。ここで仲直りしましょう。手を退くんです」
 ハルナは怯えた表情でヒロキの手と顔とを見比べる。
「わ、私、私は……」
 ごくりと唾を飲み込む彼女。ヒロキはもう一歩彼女に詰め寄った。
 その時、

「いいえ。手を引くのは君の方よ、渡良瀬ヒロキ君」

 朗々と響き渡る闖入者の声。三人は声のした方を振り向く。
 そこには鳴海フウカが腕を組んで仁王立ちしていた。
「せ、先輩!?」
 ヒロキが素っ頓狂な声をあげる。フウカはカツカツとヒールを鳴らしながらヒロキとミドリの横を通り過ぎ、ハルナを庇うように立ちふさがった。
「渡良瀬ヒロキ君」
「は、はい!」
 フウカはビシリと人差し指を鼻先に突きつけると捲し立てた。
「論旨はハルナさんが不純な動機から裁判を起こそうとしていて、権利濫用に当たるというものよね? でもその男女関係のもつれというものは本当にあったの? 証拠ないしは証人はいるんですか? また仮に右事実関係があったとしても、これを傘にハルナさんに裁判をやめるよう脅迫することは刑法二百二十三条に言う強要罪に当たります。即刻止めるべきです」
「い、言いがかりですよ、先輩!」
「言いがかり? 彼女に迫り、裁判で敗訴して金銭的損害を被りたくなければ裁判を取りやめるよう言うことは意思決定の自由を脅かすものであり、強要罪の構成要件に該当する事実です。円満な社会生活を維持するためには、個人は、その意思決定を不当な侵害から保護されなければならない。したがって意思決定の自由は生命身体に次ぐ重要な個人的法益です。君にこれを侵害するだけの正当な理由はあるの?」
 ヒロキはぐっと身をのけぞった。フウカの勢いに押し負けたのだ。しかし後ろに不安げな顔のミドリがいることを思い出して、再度気合いを入れた。
「い、意思決定の自由は重要な個人法益です。そこを否定する気はありません。しかしながら、僕のハルナさんに対する行為は先輩のおっしゃる脅迫には当たらないと思います」
「どうして? 脅迫において告知される害悪とは人を恐怖させるに足りる程度のものであれば良い。君がハルナさんに迫った事により、ハルナさんは委縮して恐怖を感じていた。傍から見ていてもそれは確実です。先程の君は嫌がる婦女子を言葉で抑えつける乱暴者と変わらないわ」
「脅迫と警告は区別されます。そして単なる警告であるときは罪を構成しない。警告とは、行為者の支配の範囲外にある害悪を告知することです。そして裁判での勝ち負けは僕の支配の外にある事由だ。したがって僕の先の行為は単なる警告であり、構成要件に該当しない」
「ヒロキ君は何も分かっていないのね。私はハルナさんに君が迫ったことについて脅迫だと言っているのよ。君はハルナさんに迫っただけだから、ハルナさんは身体的自由まで奪われたわけではなく脅迫罪は構成しない。けれど、迫ることによりハルナさんは恐怖を感じ自由な意思決定ができない状況下にあったから強要罪は成立する。君が言った事実が支配の範囲外にあろうがなかろうが関係ない。私は君が言った事じゃなくて迫った行為について強要罪に当たると言っているの」
「ぼ、僕は迫ってなんかいません」
「本人にそのつもりが無くても相手は迫られたと感じるかもしれない。特に今回の場合、加害者は男性で被害者は女性。背の高い男性に迫られたら女性ならちょっとしたことで怯えてしまっても不思議ではないわ」
「それじゃ朝の通勤列車で強要罪を犯す人が続出しますよ! 失礼ですが先輩は刑罰の適用範囲を広く捉えすぎだ!」
「それとこれとは話しが別よ。論旨には理由が無いわ!」
 夜闇の中でにらみ合う二人。こう着状態の中、外灯がチカチカと明かりを灯していく。ヒロキは額に脂汗が滲むのを感じた。
 ――強い。
 経験も知識も技術だって自分よりはるかに上だ。それも当り前、土台、法律を勉強した年数が違うのだ。しかも相手は三回生の中でもトップクラスの力を持つ論客。普通に考えてヒロキでは論破しきれるはずもない。
「先輩、どうしてこのタイミングで現れるんですか!」
 ヒロキが恨み事を言うと、フウカはフッと息を吐いた。
「彼女は私のお客さん。事務所まで紹介したというのに、勝手にどこかの大馬鹿野郎がそれを無茶苦茶にしようとしている。そしてそれを彼女は嫌がっている。なら、これを止めるのが道理でしょ?」
「先輩、それって、弁護士になってもお金のために何でもするってことですか?」
「お金のため? ふん」
 フウカの瞳が闇の中でらんと輝く。「それは正しくないわ、ヒロキ」
 フウカは息を吸うと、胸を張って主張した。
「人間はね、誰だって権利を持っている。一般人はもちろん、悪人だって法で制限される範囲ではあるけれどもちゃんと持っている。私は、万人から権利を守る番人になりたいの。そう、最後の砦よ。だから、頼ってくる人間は誰であろうと助ける。善悪貧富関係無しにね」
「先輩……」
 悪人にも善人にもどちらでも無い人にも等しく法を司る者として手を差し伸べる。まるでそれは法というシステムの権化だ。人が人を助けるのに理由は要らない。困っているから助ける。悪人だって制限されていない部分の権利まで奪われて良いはずは、絶対にない。
 ヒロキは目の前で仁王立ちするフウカに、何か神秘的なものを感じずにはいられなかった。身動きのとれないヒロキに、フウカは咲き誇る花のような笑みを浮かべる。

「それが、私のリーガル・マインド」

「――っ。ぼ、僕だってッ!」
 負けじとばかり反ぱくする。僕だって助けたい。助けるために法を使いたい。そんな思いを胸に、フウカの迫力を押し返して胸を張る。
「僕だって!」
 しかし、後に続く言葉はない。
 僕だって――。何なんだ? 僕はどうしたいの? 法律を使って、人を守るの? でもそれじゃフウカ先輩と同じだ。いや同じどころか劣化コピーにすぎない。
 僕の信念って何なんだ? 僕のリーガル・マインドって?
「僕は――」
 そして目の前には、巨大な壁、鳴海フウカがそびえ立っている。高い。こんな程度で高く感じてはいけないのに、果てしなく高いように思えてしまう。
 舌がしびれる。のどはカラカラ。
 最終的には言葉がついえた。

    ×              ×               ×

 にわかに沈黙が流れたとき、通りの向こうから車の音が聞こえてきた。住宅街に反響する高級外車の排気音。四人は音のする方を見た。運転席のライトが付く。中で軽く手を挙げて合図を送ってくるのは、法律相談部の顧問、内田教授だった。
「な、何で先生が?」
 ヒロキが慌てた声を出すと、フウカが、
「私が呼んだの。収拾がつかなくなったらまずいでしょ? こんなときに冷静な良識人は絶対に必要だから」
 と何でもないことのように言った。ヒロキが何も言えずにいるうちに、車は止まって、教授が降りてきた。
「君達! 大丈夫かい!?」
 駆け寄ってくる。さすがに大学関係者とあっては笑いながら歩み寄ってくる事は出来ないようだ。珍しく慌てた様子の内田教授は、しかしヒロキ達の様子を見てすぐにいつもの表情に戻った。
 フウカは変わらず冷静な表情。ヒロキは悔しさから複雑な表情。そして当事者である姉妹は二人揃ってぽかんと呆けたような顔になっていた。
「それで、お二人はどうするんだね?」
 教授が姉妹に水を向けると、まずは我に返ったハルナが口を開いた。
「わ――私は、訴えます。絶対」
「で、でもハルナ、裁判起こすだけでもお金はいるんだよ?」
 ミドリがおずおずと口を挟む。ハルナは言い返すことなく「でも……」とだけ呟いて地面を見つめた。
「なるほど、両当事者とも納得していないようだね」
 内田教授が興味深げな顔を作る。彼の視線が何度か四人の間を行ったり来たりし、それから少し間が空いてから、ようやく言った。
「なるほど、じゃあ一度模擬裁判をやるのはどうかな?」
「へ?」
「えっ」
「も……ぎ……?」
「教授!」
 最後にフウカが非難の声をあげる。内田教授はフウカの方を見て「何かね?」と首を傾げた。フウカは教授に詰め寄る。
「教授、これは遊びではありません。佐倉さん達は両方とも真剣に自分の権利を主張している。これを模擬裁判に利用しようなど、どう考えても違法です。無効です」
「うん、だから無効でも良いから、一度裁判してみるんだ。裁判では私が裁判長、鳴海君と渡良瀬君がそれぞれの代理人となってお二人を弁護する。佐倉さんたちも、いきなり裁判を起こすのは躊躇われるんじゃないか? なら、一度やってみることにより、結果がどうなるかを肌で感じ、その上でより正確な判断を下すほうがよいだろう。果たして訴訟を起こして、自分は勝てるのか、とね。加えて彼女達は模擬裁判によって法的知識を吸収できる。これにより慎重になされるべき裁判が当事者たちの法的理解の深化によってより達成されやすくなる。どうだい? 良いことづくしじゃないかい?」
 教授はフウカの脇をするりと抜けて、佐倉姉妹の前に立つ。ハルナはミドリを押しのけて前に出る。
「まあ、無料でやってくれるなら別に」
 と頷いた。
「異存はないようだね」
「教授!」
 フウカはなおも教授に詰め寄る。教授はゆっくりとフウカの方に振り向いた。
「何かね? 鳴海フウカ君?」
 重い声。フウカは一歩後ずさった。それから教授の目を睨みつけるも、結局何も言わずに引き下がった。
 ヒロキは焦点の定まらない目でフウカの方を見る。
 ――僕が、模擬裁判でフウカ先輩と戦う?
 あの、フウカ先輩と? ――ヒロキはよろめいた。もし負けたらハルナは今度こそミドリを訴えるだろう。姉妹で血みどろの闘争が繰り広げられるのだ。責任は重大である。
「ヒ、ヒロキさん……」
 心細げな声に振り返ると、ミドリが不安げな瞳を揺らしていた。そんな彼女を見て、ヒロキは弱気な自分を押し出した。そうだ。ここで負けて退きさがっては駄目なのだ。
負けるから退く。それは社会では間違いではないのだろうけど、この場に限っては間違いだ。己のリーガル・マインドとは何か? それは少なくとも助けて欲しいと伸ばされた手を振り払うことではない。振り払わずに握りしめ、引っ張り上げてその先に見える何かなのだ。
 ヒロキは大きく息を吸い込んだ。
「だ――大丈夫だよ、ミドリさん。僕が、絶対に君を勝たせるから」
 内田教授は複雑な顔の一同を見まわし、宣言する。
「では、模擬裁判は明後日だ。それまで双方準備して良し。なお、本物の裁判は慎重を期して数度に渡って開廷されるのだが、今回は模擬ということで一回のみとする。四人とも、思いの丈を思いっきり述べて欲しい」

    ×              ×              ×

 もう夜も遅いということもあって、その日は解散することになった。ヒロキは今夜電話で詳細を伝えることを言い、ミドリを寝床に帰した。ハルナは自宅の中へ、教授も今日は帰るということで車で走り去ってしまった。ヒロキも帰ろうと足を踏み出したところで、呼び声がかかった。
「ちょっと待って、ヒロキ」
 フウカの声に足を止めると、彼女はおなじみのカツカツというヒールの音とともに前に回り込んできた。
「ねえ、本気?」
「え、本気って、何がです?」
 フウカはため息をついた。
「こんな余計なことを私たちがやって、あとあと大事になったらどうするのよってこと。教授はおかしい。私前々から内田教授のこと胡散臭いって思ってたけど、今回確信したわ。あれはペテン師の類よ」
「ペテン師って……。だからただの遊びって教授は主張してるんでしょう? 問題ないですよ。それよりも良く考えて下さい、もし佐倉さん達の喧嘩を止められるんなら、もうこの方法しか残ってないんですよ。本当に裁判ごとにしちゃう方がまずいんです。僕らが言えたものじゃないですけど、裁判なんて本当は無い方が良いんですから」
「あのねえ、そんな安っぽい正義感で首突っ込むと火傷するわよ。私たちは学生。まだ学生なんだから。ハルナさんは訴えたがっている。ならあとは勝手に訴えさせれば良いじゃない。差しのべられてもいない手を無理やり取ってどうこうしようなんて出すぎている。問題の火種にしかならない」
「あくまで彼女達を交えてグループ学習をし、より法的知識について理解を深めることが目的なんです。重ねて言いますが問題ないでしょう」
 ヒロキの素っ気ない回答にフウカは眉根を寄せた。
「ヒロキ、どうしたの? なんかヘンよ?」
 鼻を鳴らす。
「別に。僕、最初から分かっていましたから」
「は?」
「別に他意はありません。事あるごとに僕を足蹴にする高飛車なH先輩は、争いが大っ好きな法律バカだと分かっていたと言っているんです」
「なっ……、なんですってー!?」
 フウカが青筋を立てた。「おいこら、馬鹿ヒロキ、もう一度言ってみろ!」
 ヒロキは頭に血が上るのを感じた。
「何度だって言います。先輩、いいですか。先輩さえ来なければ姉妹の喧嘩はすっぽり収まっていたんだ。それを先輩がややこしくしたんですよ!?」
「そりゃ収まっていたでしょうとも。ハルナさんが君に不満を封殺される形でね」
 『ね』の部分に必要以上に強いアクセントを置くフウカ。ヒロキは目を細めた。
「――言いますね」
「何? 馬鹿ヒロキのくせになにか文句でもあるわけ?」
「今年のクリスマスプレゼントに道徳の本でもいかがですか?」
「暖炉にくべろと言っているのかしら? 生憎ウチは電気コタツなの」
「末端冷え性の冷血女には厳しい装備ですね」
「名誉棄損で訴えるわよ」
「先輩の客観的な社会的評価は下がってません。訴えても多分負けますよ」
 フウカのこめかみ辺りからぶちりと嫌な音がした。
「いいわ、こうなったら明後日ぼっこぼこにしてどっちが正しかったか白黒つけてあげるわよ!」
 フウカの沸点の超えた発言を聞いて、ヒロキはハッと我に返った。
 ――うわ、僕ってば、誰に喧嘩を吹っ掛けてんだ!
 慌てて訂正を入れようとしたが時すでに遅し。フウカは、
「じゃ、明後日、法廷で会いましょう」
 と鼻息荒く言い捨てるとヒロキに背を向けてとっとと行ってしまった。
「あ、せ、先輩!」
 呼びかけも虚しく無視される。
風に乗って「誰のためにバカンス止め(ごにょごにょ)のよ」とか「あーもう、どうしてこんなことになるのよ」とか聞こえてきたような気がしたが、虫の音に邪魔されてうまく聞き取れなかった。

    ×              ×              ×

 次の日、ヒロキはげっそりとした顔で蝉がみんみん鳴く文学部図書館前にて人を待っていた。もちろん、待ち人はミドリである。彼女を待っている間も頭の中は昨日フウカを『本気』にさせてしまったことでいっぱいだった。
 馬鹿ヒロキなら何もしなくても普通に勝てる、などと彼女が油断をしてくれていれば、まだ奇跡は起きようがあったけれども、フウカが戦闘態勢になってしまえばそれももう叶うはずもない。激昂した彼女は間違いなくヒロキを全力で潰しにかかってくる。姉妹の争いを、あるべき状態に戻そうとしてくる。
 予備試験問題で普通に合格スコアを叩きだしてくるような化け物が覚醒してしまったのだ。正直今の時点で明日勝てる見込みはほぼゼロパーセント(まあでも、万に一つが十万に一つになったくらいで五十歩百歩かもしれない)。しかし不可能と知りながらも目の前の岩壁に向かって突進するしかないわけである。
勝手に争って傷つきあっていれば良いというのが彼女の言。しかしヒロキとしては出来る限り争いは鎮めたいわけで、そのためにはたとえ歯が立たなくても今できる全てをやるしかないわけである。
「ヒロキさーん!」
 図書館前で携帯を使って法律のおさらいをしていると、ミドリが長いスカートを揺らしながらやって来た。白のブラウスに白のスカート。化粧はしていないようである。今日は昨日のように気合いの入ったふうではなく、落ち着いた印象だった。
 ヒロキはハンカチで汗を拭き取りながら時間を確認した。正午ぴったりである。
「こんにちは、ミドリさん。時間どおりですね」
 ヒロキが挨拶する。ミドリは目を見開いた。
「うわ、汗だくですね」
「ああ、すみません。午前中ちょっと色々回ってまして……臭いですか? 一応服は替えたんですけど、シャワーを浴びる前にリミットが来ちゃって」
 普通なら嫌な顔をするだろう。が、ミドリは眉を下げて、
「ヒロキさんらしいですね」
とだけ言った。
「僕らしい?」
「一生懸命ってことです。ちょっとの間ですけど、ヒロキさんのこと見てて、そう思いました」
 私には無いところで、うらやましいなって思います。彼女はそう言って和風な口元に笑みを浮かべた。ヒロキは頬を掻いた。
「そ、そうですか……? 自分では良く分かんないんですけど」
「良い女性と知り合えたら、きっと翼を持った鳥のように大空にはばたけると思います」
「おお、さすが文学部。良く分かんないけど、なんか心に残る言い回しですね」
「いえ、文学部関係ないですけどね」
 そう言う彼女は苦笑気味で。
最後に「手ごわいですね」と付け加えた。
よく分からない彼女の呟きに内心首を傾げながら、ヒロキは鞄からメモ帳を取り出す。
「」
「それじゃあ、早速ですけど、今からある方に会いに行きます。明日の裁判のキーとなる証拠を手に入れるためにね」
「えっと、それって誰ですか?」
 ヒロキはフッと笑った。
「姉妹に二股かけた、にっくき優男のもとですよ」

    ×              ×              ×

 都心部を抜け、住宅街を抜け、郊外の田園風景が広がる農道へ抜ける。青く太い稲穂の実る田んぼと、黄金色の麦畑が広がっている。その間を歩きながら、ヒロキは傍らの白い女性から詳しい話しを聞いていた。
「というふうに、姉は彼――タカフミ君に出会ったそうです。夜私がご飯作っているときに自慢げに話していました」
 ハルナとその三角関係の一角である男、タカフミとの出会いは、良くある一目ぼれ話らしかった。恋に落ちたのは電車でハルナの落としたハンカチをタカフミが届けたとき――というふうにシチュエーションからしてもベタベタである。
「姉は言っていました。運命だったと」
 ヒロキはメモを取る手を止めて、首を捻った。
「ちょっと待って下さい。それからどうやって三角関係に陥るんですか? ミドリさんはお姉さんがタカフミさんを好きなのを知っていたんでしょう? そして貴女はその時点でタカフミさんと面識は無かった」
 ちょっと嫌な予感を抱きながら訊いてみる。するとミドリは少し考え込むように目を伏せたあと、「ヒロキさんになら、知っておいてもらいたい」と呟いた。
「ミドリさん?」
「聞こえています。私、姉が素敵だと言っていたその男の人に興味を持ったんです」
「ちょっと待って下さい、それっていわゆる略奪愛の予備行為……」
「しかも性質の悪いことに、確信犯なんです。――ヒロキさん」
 急にミドリはヒロキの二の腕を掴んできた。

「私、他人の男しか愛せないんです!」

「そんなこと告白されても困ります!」
 と思わず返しそうになったが、すんでのところで思いとどまる。ヒロキはメモを取るため手を動かそうとするが、ミドリにがっちりホールドされる。
「な、なるほど。他人の男……それはまた、難儀ですね……」
「人と生身で向かい合うのが苦手で。そのくせ、私はさびしがり屋なんです。欲だって強い。隣の芝生が必要以上に青く見える性質なんです」
 彼女はそう言うとヒロキの腕を離す。ヒロキは安堵のため息を漏らしながら、メモにペンを走らせた。
「あの、ヒロキさん。軽蔑、されましたか?」
 おずおずと訊いてくる彼女にヒロキは首を傾ける。
「いやぁ……、軽蔑は多分してない、と思います。はい」
 でも衝撃は受けました、と心の中で付け足す。正直この話にはもうノータッチで行きたかったけれども、明日の裁判の事を考えると聞いておかなければならないだろう。ヒロキは緊張気味に口を開く。心臓はもうドッキドキだった。
「あの、ハルナさんは、タカフミさんがミドリさんと浮気していたことをはっきりと認識していましたか? 答えにくかったら答えなくてもいいんですよ」
「分かりませんけど、多分。私、ハルナのこと応援はしてました、それは本当です。でもある日のこと、彼が家に来ていた時で、ハルナが夕食の材料の不足分を買い足しに行った時がありました。私はお風呂に入っていて、タオル一枚で出てきたところを彼と鉢合わせして――」
「そ、それで、どうなったんですか!?」
 思わず意気込んで尋ねてしまう。ミドリは続ける。
「そのまま襲われて。そのまま流されて。そのまま私の部屋でやっちゃいました」
「や、やったんですか!? やっちゃったんですか!?」
 メモを取る手が震える。重い話しであるはずなのに、この時ばかりはヒロキの童貞力がネガティブな部分を超越していた。ミドリは頬を染めて俯く。ヒロキはミドリの綺麗な横顔にぽーっと見蕩れた。
 ――土下座したら許してもらえるかな。
「って、駄目だ! 何考えてんだ!」
「――あの、ヒロキさん?」
 恐る恐る顔をうかがってくるミドリに、いかめしく咳払いを返した。
「すみません、取り乱しました。えっと、ミドリさんはタカフミさんと関係を持った。そこは良いです。そのあと、ハルナさんはそれをどのように知りましたか? 使用済みのティッシュから判断したとか、貴女の部屋から出てきた彼とぶつかったとか」
「いいえ、もっと決定的なものでした」
 ミドリは息をつく。それから決心したかのようにヒロキの目を見つめる。彼女は言葉を発した。
「行為の最中、外から覗き見していた姉と目があったんです。彼もそれに気がついていました。彼は構わない、続けようって言って、私は……いけないって思いながらも、もうどうしようもなくて……。それで、開き直ったんです。覚悟を決めてそれから終わるまで姉の方を見ながらしました。最後は姉の信じられないって顔に優越感さえ覚えながら、窓の外まで聞こえる大きな声でイって果てました。……あの、ヒロキさん? 大丈夫ですか?」
 ヒロキは話しの途中で「ひぃぃぃぃ! ピャァァァァァァァァ!」と謎の奇声をあげて体をくねらせダブルアクセルを三回くらい決めていた。突然奇行に走った弁護人にミドリは自虐的な笑みを浮かべる。
「普通ひきますよね。こんな節操のない女なんて。でも気が付いたら欲しくなっちゃってて。しかもハルナには嘘まで付いて。彼女が怒るのも無理ないかなって」
「いや、なんて言うか、僕には超次元過ぎる話しです」
 何とか立ち直ったヒロキは苦し紛れにそう言った。するとミドリは唐突に立ち止まった。
「やっぱり、私、訴えられた方が良いんでしょうか。私は駄目な女で、ハルナをずっと苦しめてきました。その償いだって思えば――」
「ミドリさん……」
 俯く彼女に、ヒロキはかける言葉が見つからなかった。

    ×              ×              ×

 しかし、ずっとその場で立ち止まっているわけにもいかず、ヒロキは彼女の背を押してタカフミの家へと向かった。明日模擬裁判があり、仮にもミドリの弁護人役を務める以上、彼女の話を聞いて、「はいそうですか、止めましょう」ということはできなかった。
 タカフミの家について、彼を呼びだすと、まず彼はミドリの隣に立つヒロキを見て思いっきり顔をしかめた。が、ミドリが事情を話すとボイスレコーダーに三人の間に三角関係が存在していたとの旨を録音することに快諾してくれた。どんなに酷い浮気野郎が出てくるのかと構えていたヒロキは彼の意外な好青年ぶりにかなり驚いた。話しを聞くと、ハルナの好意は彼も知っていたという。だけど、彼女に案内されてやって来た家でミドリを見てしまい、一目で恋に落ちてしまったのだ。それ以来、ミドリが目的でずっと佐倉家に通い、あるとき忍んでいた想いが爆発して行為にいたってしまったらしい。ハルナを傷つけるつもりはなかったらしいが、結果としてそうなってしまい、最後は開き直って彼女の前で堂々と行為に及んだ。
 本当に済まないと思っている。落ち着いたらハルナさんにも改めて謝りに行く。
 彼はヒロキ達が帰る時、そう言ってミドリに頭を下げた。
「男ってあんなもんなんですね」
 日が傾き始めたころ、農道を引き返し歩きながらヒロキはぼやいた。
「……」
 ミドリは答えない。
「ミドリさん?」
 呼びかけると、彼女は我に返ったように面を上げ、口元に笑みを張りつかせた。
「聞こえてます。……ただ、私は彼のことそういうふうには言えないから」
 重い沈黙が流れる。午後五時を知らせる寺の鐘が、ゴーン……、ゴーン……と田畑に響き渡る。
「あの、思ったんですけど、ミドリさんが他人の男しか愛せない理由ってなんですか」
 ヒロキが尋ねると、ミドリはその整った顔を歪めた。
「そんなの、分かりませんよ」
「隣の芝生が青く見えるからじゃないんですか?」
 ヒロキの言葉にミドリは俯く。ヒロキは続けて言った。
「分からない、ですか。じゃあそれって、ミドリさんをキープできなかった男の責任じゃないですかね」
「え?」
 彼女が顔を上げる。ヒロキは前を向いたまま淡々と続ける。
「いや、ですからね、ミドリさんは自分のことなのに浮気をする理由が分からない。それってミドリさん自身の中には浮気をする理由が無いからじゃないかなって思うんですよ」
「すみません、ちょっと言ってる意味が分からない――」
「それはミドリさんの理解力が足りないせいですか? いや、違います。『僕の』説明が足りていないせいだ。同じことがミドリさんの浮気にも言えるかもしれない。ミドリさんは、相手のせいで浮気をしてしまう。隣の芝生が青すぎたのか――あるいは、元々の貴女の彼氏が芝生の手入れを怠っていたのか。どっちにしろ貴女の歴代彼氏さん達は自分の芝生をきちんと手入れして、世界一の芝生にしていたら、ミドリさんという女の人を逃すこともなかった。貴女を変わらない吸引力で惹きつけ続けていれば、浮気による破局なんて事にはならなかった。もちろん、今回の悲劇だって最初から起こりえなかった。どうでしょうか? こんなふうに言えませんか?」
 ヒロキがそう言って笑顔を向けると、ミドリは呆気にとられた顔になって、
「プッ……あ、あははははははは!」
 と笑った。壺に入ってしまったらしく、時折「ヒィ、グゥ!」とか「ブ、ブヘ!」とか人間にあるまじき声まで出してだ。
「あれ? 笑わせるつもりは無かったんですけど……」
「い、いえ……クククッ。ヒロキさんってすごくユニークな方ですね。私、自分で言うのもなんですが、結構変人なんです。でもヒロキさんの方が何倍も変! ブッ! ぶははははは!」
 ヒロキは頭を掻いた。
「僕そんなに変かなあ……」
「はい、とっても! ……でもね、ヒロキさん、それだと説明がつかないことがあるんです」
 ミドリはいたずらを思いついた小さな子供のような表情になる。
「何ですか?」
「私が最初に好きになったのも、もう相手のいる男の人だったんです。隣の芝生は青い。でも私には比較すべき自分の芝生が無かったんです」
「それは相手によりますね。もしかしたら最初はすごく綺麗な恋愛だったりとかしませんか? 例えばロミオとジュリエットばりの身分違いの恋――」
 ヒロキの言葉を遮ってミドリはかぶりを振った。

「私の初恋は自分のお父さんだったんです」

 そう言って清楚な笑みを浮かべるミドリ。
 ヒロキの口はあんぐりと開いた。

    ×              ×              ×

 模擬裁判当日。
 ヒロキとミドリは開廷の一時間前から会場となる法律相談部の教室前に来ていた(法律相談部は休日につき終日休みである)。裁判の流れを確認していると、開廷十五分前くらいに余裕の表情をしたフウカとハルナが現れた。フウカはヒロキの前を通る時、耳元で、「タタキツブス」と囁いた。物騒な挑戦状に震えあがりながらも、心の中では不屈を訴え続ける。
 そして開廷五分前、内田教授が足早に廊下の向こうから現れて教室に入室することになった。
 模擬裁判の始まりである。
 裁判長役の内田教授が上座の椅子に座る。教授は入室してくる四人を順々に見回した。机の上にはDNA鑑定書を含めた種々の資料がホチキスでとめられて冊子になったものが置かれている。
「それでは原告の佐倉ハルナさんと原告代理人の鳴海さんはそちらに着席してください。被告の佐倉ミドリさんは証人席にどうぞ。被告代理人の渡良瀬さんはそちらにどうぞ」
 事務的な口調で告げる教授。ハルナとフウカが入ってすぐ手前の机、ヒロキが奥の席につく。ミドリは一人、三つの長机に囲まれた中央に出た。
「では平成十八年八月十七日『親子関係不存在確認請求事件』を開廷します。皆さんの会話は最低限慎重を期すために録音させていただきます。原告は訴状を陳述。被告は請求棄却の答弁ですね。では、原告代理人の意見陳述をどうぞ」
 内田教授の言葉に、フウカが口を開く。
「概略をご説明します」
 フウカの請求内容は簡単に言うとミドリとハルナの両親との間に実親子関係が存在しないことの確認請求だった。特に依然と変わらないものだ。というか間に一日しか挟んでいない以上急に訴因を変更することなんて普通できない。内田教授はそれを見越して『明後日』という期日を設けたのだろう。
「被告に質問します。ミドリさん――」
 フウカは席から立ち上がり、ミドリが立つ机の前へと出てくる。
「お配りしておきましたDNA鑑定書を見て下さい。親子鑑定は、既にお二人が死亡していることから採取が困難でしたので、姉妹鑑定ということになっています。鑑定結果はハルナさんが以前されていたものをコピーさせてもらっています」
 ヒロキは資料に目を走らせた。鑑定結果はハルナとミドリの二人からのものだ。エクセルの表のような作りに、二人の名前が書いてあり、その下に小数点以下の数字がずらりと並んでいる。
「両個人にそれぞれの親から遺伝したDNA情報の解析をもとに導き出される、『兄弟指数』での結果報告となります。この指数が一より小さい場合は否定、大きい場合は肯定の領域で、数値が大きければ大きいほど肯定の可能性が高いということを示しています。結果を見るに――まあ、鑑定結果の欄にも書いてありますが、お二人が姉妹であるという可能性は、〇パーセントです」
 フウカはここまで言って息を継ぎ、ミドリに向き直った。
「そこでミドリさんにお聞きしたいのです。貴女にはハルナさん一家の本当の子供ではない、という認識はおありでしたでしょうか?」
「小さい頃は知りませんでした。でも、大きくなるにつれてだんだん分かってきました」
 ――OK。
 ちらりとヒロキの方を見てきたフウカに、ヒロキは頷いた。知らなかったと答えれば我が意を得たりと証拠を積みだしてフウカの嘘を見破ろうとしてくるだろうから、ここで自分の血縁は偽物だと認めた方が、嘘をつくよりは絶対に良い。そして、「偽物だが、不存在を認めるのは権利の濫用に当たる」との論理を展開するのだ。
 フウカは諦めずに食らいついてくる。
「大きくなるにつれて……? はっきりと分かったのはいつ頃ですか?」
「確か、高校生になって間も無い頃だったと思います」
「なるほど。貴女は高校生になる頃には自分がハルナさん一家の本当の家族で無いと知っていた。そのことについて、世間に向けて偽りの関係を訂正しようとは思わなかったのですか?」
「思いませんでした」
「それはどうしてですか?」
「ど、どうして? えっと……」
 ミドリが慌てる。ヒロキが正直に答えて良いと目くばせを送ると、おずおずと回答を口にした。
「怖かったんです。本当の親子じゃないって周りに知られたら、噂になって、仲間外れにされるかもしれなかったから」
「だから、嘘をついても良いというのですか? 貴女のそう言う行動を何と言うか知っていらっしゃいます? 自己保身と言うのですよ」
「そ、そんな……!」
 フウカがすがるような目でヒロキの方を見てくる。ヒロキは素早く手を挙げた。
「異議あり!」
「認めます」
 教授が促す。ヒロキは続けた。
「育て親が本当の親で無いことを理由に冷たい扱いを受けることは、良くある話です。いくつか証人の声をボイスレコーダーに記憶させています。差別が行われるこの社会に置いて、自分の身から害悪を排除するのは当然のこと。自己保身というのは誹謗中傷だ」
「まあ、人それぞれの捉え方があるでしょう。それとも名誉棄損として訴えますか?」
 教授の切り返しにヒロキは答える。
「いえ、ただ無用に被告を傷つける発言は倫理的にどうかと思いますね」
 ヒロキがそう言うと、ミドリが「ヒロキさん……」と泣きそうな顔を向けてくる。ヒロキは笑顔を浮かべて「大丈夫です」と頷き返して見せた。
 ともあれ、何とか話しには乗れている。開廷前はあれだけカチコチに緊張していたのに、今はとても舌が滑らかだ。行ける、戦える――ヒロキは拳を握りしめた。
「裁判長」
 フウカは内田教授に向き直った。彼女は続ける。
「身分関係を公証する戸籍にはその記載の正確性を確保すべき要請があります。これを個人的事情で無視することは制度の形がい化につながり、戸籍の信頼性が著しく害されます。よってただちに戸籍を正しい姿に戻すべきであると思います」
「異議あり!」
 ヒロキが手を挙げる。
「認めます」
 負けないぞ、とフウカを睨む。彼女の方も受けて立つ、と視線を返してきた。
「民法が戸籍の記載の正確性の要請の例外を認めないということはできないと考えます!」
「かと言って例外を大量生産して良いということにはならないわ!」
「異議あり!」
「異議を棄却します。水掛け論になっています」
 ヒロキは慌てた。
「裁判長! 例外はあるというのは、民法七七六条、七七七条、七八二、七八三、及び七八五条から明らかです」
「被告代理人、私の――裁判長の指示には従うようにお願いします」
 教授の冷静な答えに、ヒロキはパイプ椅子に深く沈みこんだ。論理の展開がまずかったようだ。先に民法の規定を出しておけば確実に一本とれた場面だった。かなり痛い失態である。
「以上です」
 フウカはそう言って内田教授に軽く頭を下げる。ヒロキは立ちあがった。
「フライングですね、被告代理人」
 フウカが揶揄する。内田教授が「まあまあ」と彼女を抑えた。ヒロキは少し赤くなりながらもミドリの側に歩み寄る。彼女はやはり不安げな表情を向けてきたので、毎度のように笑顔を返しておいた。
「ミドリさん、貴女はハルナさんからこの訴訟を起こすと告げられたとき、どのように感じられましたか?」
 ミドリが俯く。彼女の傷を抉るような行為に罪悪感を覚えながらも、彼女のためと割り切って耐える。
「とても……とても悲しかったです」
「慕っていたハルナさんに裏切られた気分になったんですよね。一晩中泣き続け、それ以降何をするにしてもハルナさんの顔が思い浮かび、ある時は大学で倒れられたこともあるとか」
「はい……」
「他には何か思いませんでしたか? 例えば、もし請求が認められたら、大学の学費はどうしよう、とか」
「あ……、はい。はい、それはとても不安に思いました。今も不安です」
「異議あり」
 フウカが手を挙げる。
「どうぞ」
「ミドリさんは奨学金とアルバイトで学費をほとんど賄いきっています。学費は問題になりません」
「被告代理人、どう思いますか?」
 内田教授が尋ねてくる。ヒロキは口を開いた。
「奨学金とアルバイトで学費を賄ってしまうこと自体が問題です。大学ですべき勉学がおざなりになってしまう」
「あら? ミドリさんはとても成績が優秀な方と聞きますよ? 学業は問題ないのでは無くて?」
「結果が出せているから問題ないという論理は通りません。そんな勤労主体の生活で学生の本分を果たそうとされている状態が問題なんです」
「でも働きながら勉強している人だってたくさんいますよ、ヒロキ君」
 フウカがにっこり笑う。
「先輩バイトしたこと無いでしょうに!」
「被告代理人、論旨とは関係ない話しをするのは止めて下さい」
 教授に止められてしまった。それでもめげずに何とか文句を口にする。
「裁判長。働きながら勉強をし、大成した人も確かにいるでしょう。しかしながら、働きながら勉強をし、勤労時間のせいで勉強時間がとれず、志半ばで失意する人間だってたくさんいます。そうですよね、内田教授? 結果が大事なのではない。ミドリさんだって一歩間違えれば大学で悪い成績しかとれなかったかもしれない。そのような懸念事項がある事態こそ改良されるべきなのです」
 ヒロキは息を吸い、続けた。
「彼女は親子関係不存在の確認請求が認められることにより、多大な精神的損害と著しい経済的損害を被ります。このような請求は権利の濫用に当たるものであり、即刻取り下げるべきものです。以上です」
 目礼する。予定通りの運びだ。これであとは原告尋問でミドリとハルナの間には男女関係でトラブルがあったということを裁判長に印象付ければ権利濫用法理として一本の筋が通る。
 内田教授がハルナに目を移す。
「では原告本人の尋問に移ります。原告は前へ出て下さい」
 開廷前の余裕はどこへやら、しかもこれは模擬裁判だと言うのに、彼女はかなり緊張した様子で出てくる。
「原告代理人、お願いします」
「ハルナさん。貴女の妹さんは先程自分が本当の家族ではないという認識があったと主張しました。これについてどう思いますか?」
 フウカがカツカツとヒールを鳴らしながら前に出てくる。ハルナは答えた。
「早く正しい戸籍に戻して欲しいです」
「被告代理人によればミドリさんは貴女に訴訟を起こされて、大学で倒れられる程の心労を患ったと主張しています。この点についてどう思いますか? 例えば家での様子はどうだったか教えて下さい」
 ハルナは瞬きをする。
「嘘です。その女が心労なんて感じるはずもありません! むしろ感じてたのは私の方です。しょっちゅう違う男性を部屋に連れ込んで行為に及んで、私、どうにかなりそうでしたもん」
「しょっちゅう? ミドリさんは爛れた生活を送っていたんですか?」
「そうです。あれで心労を感じている方がおかしいです」
 ヒロキは手を挙げた。
「心労を感じていたからそうなったとはお思いにならないんですか?」
「ミドリは昔から男に節操がありませんでした」
 ハルナの解答にフウカは一つ頷く。
「なら被告代理人の発言には理由がありませんね。以前と変わらないんだから」
 そしてフウカは視線を戻して続けた。
「金銭的に困ると言っていますが、どう思います?」
「正しい戸籍に改められるよう切に願っております」
 フウカはハルナの解答にフッと目元を崩す。内田教授の方を見た。
「以上です」
 ヒロキは隣に座っている線の細い女性に小声で声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
「え? 何がです?」
 ミドリがきょとんとした表情で返した。
「いや、なんか爛れた関係とか言われていますけど……」
 彼女は繊細な女性だ――ヒロキは顔色を注意深くうかがう。するとミドリは柔らかくほほ笑んだ。
「事実ですから。私は気にしていません。それよりヒロキさんも私のことは気にせず、思いっきり戦って下さい」
「本当に大丈夫なんですか?」
 ヒロキが気遣わしげに再度問うと、ミドリはクスリと笑って答えた。
「大丈夫です。――それに、もともと役者が違いますから」
「へ?」
 ――あれ?
 ミドリの妙に落ちつき払った様子に若干の違和感を覚える。彼女なら不安で唇を青くしていてもおかしくないというのに……。
「被告代理人! 尋問を始めて下さい!」
 内田教授の少し強い声で我に返る。ヒロキは慌てて席から立ち上がると、ハルナさんの方へ歩いて行った。ここが正念場だ。ここさえ通れば論理が一貫する。フウカに勝てるかも知れない。
 ――先輩に勝てる? この僕が?
 その可能性に思い至って、ごくりとのどを鳴らす。口の中では金属のようなアドレナリンの味がした。
 法律を学び出してまだ間もない一回生が、行政書士の資格も取っているような優秀な三回生を打ち負かす。もしそんなことがあれば伝説モノだ。勝敗は兵家の常? いいや、この世界は勝ってこそ意味があるのだ。負ければ、大金をむしり取られることになるのだから。
 ミドリの方に目を走らせると、彼女は眉を下げて小首をかしげて見せた。ヒロキはハッとした。
 ――そうだ、勝ってこそ意味はある。だけど、それは依頼人のためでもあるんだ。
 今の場合、最大の目的は姉妹の下らない喧嘩を止めること。その手段として模擬裁判での勝利があるのだ。そこのところを履き違えてはならない。
 全ては依頼人のために。
 全ては困っている人のために。
「――ハルナさん」
 ヒロキはハルナの目を見ながらゆっくりと言葉を紡いでいく。
「ミドリさんとは一緒の家で暮らして何年になりますか?」
「……二十年くらいです」
「それだけ長い間ともに暮らしてきた相手を追い出すことに、何とも思わないんですか?」
 フウカがすかさず手を挙げる。
「異議あり! 本件とは関係の無い質問をするのは控えるべきです!」
「異議を棄却します」
 内田教授が穏やかにそう口にする。ヒロキは続けた。
「ミドリさんと一緒に生活してきて、彼女を疎ましいと感じたことだってあるでしょう。僕たちは人間です。ときに、身近な人――例えば母親でさえ恨みの対象になりうるのです。それは何も恥ずかしいことではありません。だけど、逆に彼女がいて、ホッとしたり、良かったと思ったりしたことはありませんでしたか?」
「でも――」
 ハルナは目を泳がせる。「でも、戸籍に嘘をつき続けるわけにはいきません」
 ヒロキは息をついた。
「だからなんだって言うんですか?」
「え?」
「貴女が朝起きれば、ミドリさんはもう起きていて朝食の支度をしてくれていた。テーブルの上には栄養バランスの考えられたおかず、炊飯器には炊きたてのご飯、ヤカンには夏なら冷えた麦茶、冬なら温かい緑茶。家を出て仕事に行くときには必ずお弁当を持って『行ってらっしゃい』と言ってくれる。貴女はそれをいやいやながらも受け取り職場でそれを口にして飯炊き女にしてはおいしいと感じる。夜帰ってくる頃には晩御飯が用意されている。お風呂もわいている、洗濯物もベッドの上にたたんで置いてある」
「それとこれとは関係ありません」
「どうして関係ないんですか?」
「どうしてって……。彼女と私は本当の姉妹じゃないんですよ! 戸籍の内容は嘘なんです!」
 ヒロキは息を吸い込み。強い意志の力を込めてハルナの目を覗きこむ。
「だから何だって言うんですか?」
「何って……。戸籍は嘘で、私たちが姉妹っていうのは嘘――」
「だから、それが何だと言うんですか?」
 静かに繰り返す。ハルナは「ぅ……」と言葉に詰まった。ヒロキは続けた。
「誰だって悪いところはあります。共同生活をすればそういうところも見えてくる。そんなのは当然です。人間であれば食費を無駄に消費するし、寝坊をしてベッドから出ないこともありますし、性欲に負けて異性を連れ込むことだってあります。だけど、それでも世界には複数人で共同生活する人間がたくさんいます。何故でしょうか? それは何かしら相手から利益を得ることができるからです。一緒に住むデメリットを覆して余りあるメリットがあるからなんです。それは愛情であったり、ライバルとしての対抗心であったり、相互扶助の心であったりするのです。貴女は二十年間彼女と一緒に過ごしてきて何か思うことは無かったんですか? どうして戸籍戸籍とフウカ先輩に教えられた言葉を繰り返してばかりなんですか? 貴女の本当の思いをお聞かせ下さい。きっと何かあるはずだ。たとえ姉妹関係が嘘だったとしても、貴女が佐倉ミドリと暮らしてきた二十年間は決して嘘なんかではなかったんだから」
 言い終わって静かにハルナを見守る。ハルナは声を震わせた。
「わ、私は……」
「ハルナさん」
 フウカが声を挙げる。
「私は、妹と暮らしていて、苦痛でした」
「ハルナさんッ!」
 フウカが鋭くたしなめる。それを制して内田教授は身を乗り出した。
「原告は、妹さんと暮らしていて苦痛だったから、この訴訟を提起したんですか?」
「そんなことはありません!」
 フウカの大きな声が割り込む。「裁判長、これは誘導尋問の類です!」
「原告代理人、ちょっと黙って」
 教授がそう言うと、既に立ちあがりかけていたフウカが渋々席に着く。ヒロキはポケットからボイスレコーダーを取り出した。
「ハルナさん。野田タカフミさんという方に心当たりはありませんか?」
「……」
 ハルナが息をのむ。ヒロキ続けた。
「五月下旬から、タカフミさんを含めた貴女達三人の間で、男女関係のトラブルがあったそうですね。先程、彼女と暮らすことが苦痛だとおっしゃっていましたが、それで不満が爆発してしまったんじゃないですか?」
「そんなこと……ありません」
「本来ならば証人尋問を行うのですが、今日はその代替案ということで、彼の声をこの機械に録音して持ってきました。彼はこの中で、貴女達の間でそういういざこざがあったということを認めています」
「被告、貴女も一当事者として代理人の言っていることは本当だと認めますか?」
 教授がミドリに尋ねる。彼女は少し黙ったあと小さく首肯した。ヒロキは息をついた。やった。これで一本筋は通った。これで何とか姉妹の闘争を収めることができる。お金の絡む醜い争いに発展せずに済む。
「では、最後に録音テープを流して、僕の尋問は以上とさせていただきます」
 ――勝った。
 ヒロキがそう確信した時だった。

「――異議あり」

 すっと。白い手が天井に向かって高く伸ばされた。内田教授以下全員の視線が手の主の元に視線が集まる。
「先輩……」
 ヒロキは茫然と呟いた。手を挙げたのは言わずもがなフウカだった。彼女の顔には絶対勝利への確信と自信に満ち溢れていた。フウカの双眸がヒロキを捉える。
『これが、私のリーガル・マインド』
 彼女はそう言っているように思えた。そして口元にいつもの華やかな笑みを浮かべ、ぱちっとヒロキに向けてウインクを飛ばす。不覚にもくらりと来てしまった。
 フウカは口を開いた。
「被告代理人の三角関係があったという事実は根拠のない全くの嘘です。実際はその何とかという男とを巡っての争いなど無かった。したがって被告側の論旨には理由がありません」
「事実無根って、先輩、まずはこの録音テープを――」
 フウカはヒロキの前におなじみの靴音を響かせて出てくる。彼女はクリアファイルから数枚の写真を取り出した。ヒロキは目を見開く。ミドリも無表情で立ち上がると机の上にばら撒かれた写真を覗き込むようにして見ている。

「これは、ハルナさんとその彼氏、夏野ダイスケさんのツーショットです」

 ――誰?
 覗きこんだ写真には茶髪のイケメンがハルナと一緒に体を寄せてスリーピースを決めていた。ヒロキが度肝を抜かれている間にも、フウカはカツカツとハルナとヒロキの周りを回りながら言葉を進めていく。
「彼は四月下旬から今日に至るまでハルナさんと仲睦まじくお付き合いされている男性です。ハルナさんは彼にぞっこん。その何とかという男にうつつを抜かすことなどあり得ません」
「でも、タカフミさんの証言があります!」
「その男の勘違いでしょう。視線を送られただけで好意を持たれていると錯覚してしまうことはよくあることです」
「そんな無茶苦茶な!」
 ヒロキは叫んだ。フウカはヒロキの鼻の頭をはじいた。
「あら、ダイスケさんからの愛の言葉をボイスレコーダーに記録していますよ。お聞かせいたしましょうか?」
「そんなの聞きたくないですよ!」
 フウカは翻ってハルナに顔を向ける。
「我々の方にもこのような事実がある限り、被告側の証人の言はいささか正確性を欠いていると言わざるをえないでしょう。ここのところはもっと精査してしかるべきではありますが、あいにくこれは最初にして最後の開廷。まあ本来通り調べていただいても被告側の証拠能力が無いと言う結論になるのではないかと個人的には確信を持っていますがね。裁判長の心証にお任せしましょう。――ハルナさんも、男女関係がもとでこの訴えを起こした、なんてことありませんよね。ね?」
 一同硬直。ヒロキは拳を握りしめた。
 ――これは、まずい。
 冷や汗をダラダラと流しているヒロキをしり目に、フウカは駄目押しに続ける。
「裁判長。被告側は親子関係がなかったことを認めており、私達原告側もこれに争いがありません。よってこれを裁判の基礎として判断をすれば結論はただ一つ。我々はただ、正確な戸籍への改めを心から希求する者です。以上です」
 最後に必殺スマイル。
 ヒロキは天を仰いだ。
 ――ごめん、ミドリさん……。
 内田教授は事務的に展開を進める。
「ハルナさん、原告代理人――鳴海君の言っていることは本当ですか?」
 内田教授の声が響き渡る中、フウカはヒロキの目の前に歩み寄る。
「私に怒ってる?」
 囁かれた小声に、ヒロキは俯いた。フウカのやった事は腹立たしい。この世のどこに争いを起こして喜ぶ人間がいるのだろうか。今回の件はハルナが負けて当然だった。悪いのはハルナなのだから。だというのに、フウカは本来正しいものを悪に叩きおとした。
 ――だけど。
「それは、君の主観に過ぎない」
 フウカはヒロキの心を読んだかのように続ける。
「何が正しくて何が悪いのか。そんなのは、私たちには分からない。私たちは全能では無いんだから。だから、私たちは真実を希求する。裁判という場で証拠をかき集め提示し、己が正しいのだと主張する。それに公平な結末を与えるのが法律という人を超えた存在よ。そして、それが私達人類が長い年月をかけて培い生まれた、法治国家という理念なの。――私は、誰にだって正義はあると思う。もちろん悪人にだってね。権利と同じ、皆多かれ少なかれ持っているものなのよ。だから私は、本気で助けて欲しいと伸ばされた手を握り、その人の代弁者としてその人の正義を主張する」
「それが先輩の真の『リーガル・マインド』ですか?」
 ヒロキは歯を食いしばる。フウカは――営業スマイル以外でヒロキが見る初めての――満面の笑みを浮かべた。
「その通り」
 ヒロキは肩を怒らせた。
「だけど、僕はそれに疑問を呈します」
「へえ……」
 フウカが驚いた顔になる。不屈の精神でフウカを見上げた。
「人の心は嘘をつかない。――それが僕の『リーガル・マインド』です」
「あのねえ、君リーガル・マインドの意味分かって言ってる?」
 フウカが呆れ声を出した時、内田教授の声が再度響いた。
「原告! 聞こえていますか? 原告! 原告代理人の言っている事は本当ですか?」
「さあ、ハルナさん、本当かどうか、どうぞ皆さんに言ってあげて下さい」
 フウカが手を広げてアピールする。ハルナは唇を震わせた。
「……違います」
「そう! 違います…………って、は? あの、ハルナさん? なんておっしゃいました?」
 フウカが慌てて訊き返す。ハルナは繰り返す。
「違います」
 しっかり発音された言葉に一同唖然となった。
「違うんですか?」
 内田教授が確認する。「貴女には夏野ダイスケさんという恋人がいて、野田タカフミさんには恋愛感情を抱いていなかったという事実を、否定しているのですか?」
 ハルナはごくりと唾を嚥下し、挑むように内田教授を見上げる。
「はい」
「ちょ、ちょっとハルナさん! 貴女何を言っているか分かっているんですか!?」
「うるさいこの冷血ビッチ!」
 ハルナは机をバンと強く叩く。
「ビッ……!?」
 フウカが言葉に詰まる。
「タ、タカフミのことはね! タカフミのことは出会った時からずっと好きだったのよ! 運命だと思った。今でも思ってる! 電車でハンカチ落として困ってた私に優しく声をかけてくれて『ハンカチ、落としましたよ』って言われた時、この人しかいないって思ったの! それ以来私は彼一筋! ダイスケとは……確かに一緒にお酒飲んだりとかしちゃってるけど、会っている間でも私はタカフミを忘れたことは無いわ! 事情の知らない人が見ればダイスケと私は恋人っぽく見えるけど、私はそうは思ってない! 彼とは、寂しかったから付き合っていただけよ! それ以外の何でもないんだから!」
「ちょっ! ハルナさん!? さ……裁判長、彼女はちょっとした錯乱状態に――」
「私は錯乱なんてしてない! ちょっと黙ったらどうなのこのクソビッチ! だいたいむかつくのよあんた! ああしろ、こうしろ、教えた通り言え! そんなの全部覚えられるか! すみませんね、私馬鹿で! でも人の感情が分かんないあんたの方がずっと馬鹿よ! 私はッ! タカフミの事がずっと好きだった! なのにそこの泥棒猫が横からかっさらっていったのよ! 私はそいつから奪われてばっかりの人生だった! もう我慢できなかった! だから訴えてやったのよ! 悪い!?」
 彼女の怒鳴り声が止んだあと、教室は物音一つ起こらずシンと静まり返った。フウカが額に手を当てる。ヒロキは何が起こったか分からず茫然自失。ミドリは苦笑を浮かべていた。そんな中、ハルナは、乾燥した髪をばさりと後ろに振り払った。
「そんな淫乱女、不幸になって当然よ」

    ×              ×              ×

「先輩、何が正義ですか」
 ヒロキが三白眼を向けると、フウカは肩を落としうなだれたまま「必要悪よー」と返した。
 模擬裁判の結果は――まあ、然るべきものになった。思いの丈を全て暴露したハルナに権利の濫用が認められて、請求は棄却、敗訴となったのだ。
 ハルナはあのあと泣き出してしまい、内田教授に慰められながら、彼の研究室にお茶をごちそうされに連れて行かれた。教室にはヒロキと、椅子に座って脱力しているフウカと、柔和な笑みを浮かべるミドリとが残っている。
「まあ、でも、先輩の『リーガル・マインド』には感服しました。納得はちょっと出来ないけど」
 ヒロキがそう言うと、フウカは口をとがらせた。
「何? 私をいじめているの? でも、まあ、法律がそう結論を下したのなら、それが正しいのよね。ヒロキに負けるなんて私の一生の恥であり、人生の汚点であり、封印されるべき黒歴史で、自販機に千円札五枚のまれて回し蹴りでブチ壊したときと同じくらい滅茶苦茶悔しいけど仕方ないから認めてやる。私たちの負けよ」
「いや、でも、まあ、あれは先輩のせいじゃなくて、自爆だったし」
 頬を掻くと、フウカはゆっくりと首を振った。
「君の『リーガル・マインド』とやらが今回に限っては正しかったようね。でも私の『リーガル・マインド』だって間違ってなかった。唯一の誤算は部の建前上仕方なく彼女を弁護することになった事。ああいう本気じゃないヤツは、通常最初の段階で跳ねのけるから、私」
「つまり先輩は何が言いたいんですか?」
 ヒロキが突っ込むと、フウカは頬を染めた。
「つ、つまりぃ……。ちょっとはあんたのこと認――」
「ヒロキさん!」
 フウカを押しのけるようにしてミドリが出てくる。ヒロキは驚きながらも笑顔を返した。
「お、お疲れ様、ミドリさん。なんか、最後は変な終わり方になっちゃってごめん。やっぱり僕みたいな素人じゃ荷が重かったみたいだ……」
「いいえ、そんなことありません。ヒロキさんが一生懸命私を助けてくれて、とても嬉しかったです」
 彼女はそう言って頭を下げた。
「あ、頭をあげて下さい! 僕なんか何もできないで未熟なところばかりでした。お姉さんのことだって、あの様子じゃ完全には止めることができなかったみたいだし」
 ミドリがかぶりを振って否定する。
「ああ見えて、姉は結構臆病なんです。多分、これに懲りて弁護士を雇うだのは言わなくなると思いますよ」
「そ、そうなんですか……?」
「そうなんです。それよりも、ヒロキさん、これからも頑張って下さい。きっと貴方なら良い法律家になれます」
 ミドリの純度百パーセントのエール。それをフウカはやさぐれた大人のように「はっ」と笑い飛ばした。
「馬鹿ヒロキなんて弁護士になっても仕事失敗しまくって破産したあと弁護士資格はく奪されるのが関の山よ」
「ちょ、先輩酷い!」
 ヒロキが非難の声をあげる。フウカは素知らぬ顔で椅子をくるくると回転させた。
「私もそう思います」
 ミドリは笑みを浮かべたままさらりとフウカに賛同する。フウカは椅子の回転を止めて「あれ? じゃあ、私と気が合う系?」と目を見開く。ヒロキは肩を落とした。
「ちょっと、ミドリさんまで! さっき『良い法律家になれます』とか言ったのは本心じゃなかったんですか?」
「いいえ」
 再度否定。「良い法律家になれるとは思いますけど、それには優秀な助手さんが必要なんじゃないかって思います」
「は?」
「あぁ?」
 意味が分からないヒロキと目くじらを立てるフウカ。
「そして、その優秀な助手さんは数年待てばすぐにやってくると思います。だからちょっとの間、期待して待っていて下さい。――私の勘、結構当たるんですよ」
 そう言って彼女は「では」と頭を下げる。そしてヒロキの懐にするりと飛び込むと、
「は!?」
 ヒロキの頬に唇を触れて、離れていった。
「ちょ、おいこら待てこのビッチ!!」
 フウカが机をはね飛ばして立ち上がる。ミドリはフウカの激昂どこ吹く風といった感じで颯爽と教室から出ていく。
「あの女私の既得占有物件に……! おいこら馬鹿ヒロキ! 鼻の下伸ばしてんじゃないわよ!」
 濡れティッシュで頬の患部をごしごしとこすられる。ヒロキはというと思考停止状態で彼女が出ていった教室のドアを見つめていた。
 フウカはティッシュをゴミ箱に投げ入れると思いっきり息を吸い込んで、叫んだ。
「アイツ絶対ぶっ飛ばす! 次は法廷でぶっ飛ばす!」
「ほ、法廷? 彼女文学部ですよ? もう一回彼女が訴訟に巻き込まれて、しかもその事件の相手役に先輩が雇われるなんてかなりの低確率――」
「馬鹿ヒロキは黙ってろ! あー、くそ、内田教授といい、あの女といい、なんでこんなに曲者ばっか増えていくんだ、私の周りには!」
「う、内田教授?」
 ヒロキが訊き返すとフウカは腕組みをして頷いた。
「そうよ! ヒロキ、知らないようだから教えといてあげる。よく聞いて。君が証人にした野田タカフミね、そいつ、内田教授の甥にあたる人間だから」
「え?」
 フウカは忌々しげに続ける。
「あいつがこの模擬裁判を録音したのは、あの脳足りんの佐倉ハルナの証言をとるためよ。加えて模擬裁判で仲裁しようとしたのは甥のせいで内田一家について悪い噂が流れるのを抑止するため。……あいつは私たちがどんな裁判を展開するか読み切った上で、さらに佐倉ハルナという一度しか会ったことのない人間の気性まで読み切っていた。憎たらしいくらいに狡猾な奴よ」
「いや、先輩、それは言いがかりですよ」
「君がそう思うんなら、そう思っておけばいい。いつかぱっくり食べられちゃうんだから!」
 フウカは鞄を手に取ると「興ざめ」と吐き捨てて教室の出口へと向かう。
 ドアに手をかけて、少し逡巡するように立ち止まり、彼女は言った。
「……ヒロキ、私がバカンスに行かなかった理由、考えといてよ」
「は?」
「それだけ! じゃあね! 後片付けはよろしく」
 フウカはそれだけ言い残すとドアを派手に開けて出ていく。
「ちょ、フウカ先輩!」
 慌ててそれに続くが、フウカは既にフロアから姿を消していた。階段の方から小さくカツカツというおなじみの音が聞こえてくる。
「後片付けって……これ、全部?」
 背後を振り返って乱れた教室内を茫然と見つめる。机は裁判用に並べ替えてあるし、法律相談部から持ってきたであろうポットやら急須やら茶菓子やらが机の上には散乱していた(主にハルナが散らかした)。これを一人で片づけるとなると、二、三時間は潰れてしまいそうだった。しかしこのまま放って帰るわけにもいかず、ヒロキは肩を落とす。
「分かりましたよ、やればいいんでしょ」
 激闘の熱気残る教室。残り香は少しだけ気だるい。だがこれがもし本物の法廷だったらと考えると、身が引き締まる思いだ。
「……いつか、僕にも……本当に戦うときがくるのかな」
 机を押し返し、小さくつぶやく。今回は所詮は模擬裁判だったけれど、本番はそうはいかない。確定された判決は当事者を未来にわたって拘束するのだ。
 それは深刻の一言に尽きる。裁判の結果によって、その人の人生を縛ってしまうのだから。人の身で人を裁く――そこに法律という権威を用いていても、本質は変わらない。ごめんなさいでは済まない現実がそこにある。
 ――でも。
 どうしてだろう。今日の熱気に当てられてしまったのか、あるいはフウカにいよいよ毒されてしまっているのか。
「それは――とてもわくわくするなって」
 机の上に投げ出された裁判資料を見おろす。フウカが放り出して行ったものだ。
 そこには荒い字でこう書かれていた。

『次は、本物の法廷で会いましょう』



                                     了

2012/12/29(Sat)10:46:02 公開 / ピンク色伯爵
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読んでいただきありがとうございました。

※12月29日いただいた感想から微修正。お二方、ありがとうございました。あまり修正になって無いかもしれませんが;

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