『夢限軌道(『空蝉軌道』を改題)』 ... ジャンル:ファンタジー リアル・現代
作者:バニラダヌキ                

     あらすじ・作品紹介
現し世も夜の夢も、みな誠――いつもの狸の腹鼓、広義のファンタジーです。ところで、ここに書くべき話ではないのですが、皆様からいただいたご感想へのお返しの中で、超ネタバレを思うさま披露してしまいました。これから目を通される方がいらっしゃいましたら、なにとぞ本編を先にお読みいただくよう、お願い申し上げます。

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    1

 ひと雫の冷たい雨が頬を濡らし、邦夫は目覚めた。
 雨やみを待つうち、いつのまにか眠りこんでしまったらしい。
 はっ、と身を強張らせて、恐る恐る隣をあらためる。
 悠子は安らかな寝息をたてていた。
 寒さを気遣い、自分のレインジャケットもかけてやったので、小柄な妻は寝顔までフードに隠れてしまい、朽ちかけた長椅子でただ穏やかに息づいている、ひとつの雨具の膨らみのようだ。
 夢に怯えてつい慌てふためいた自分と、そんな悠子の寝姿に苦笑しながら、邦夫はひとりごちるように、妻に話しかけた。
「……俺たちって、何年たっても成長しないよなあ」
 眠りの中まで声が届いたのか、雨具の頭が、邦夫の右腕にもたれてきた。
 悠子も同じ夢を見ているのかもしれない。
 邦夫は微笑して、軽く腕を揺すりながら、低い軒先のささくれからしたたる幾条もの糸のような光跡を見つめた。
 廃線となった森林鉄道の駅舎は、すでにガラス戸も倒れ朽ち、雨上がりの山の大気を恣《ほしいまま》に孕んでいる。
 雲間から漏れる午後の陽射しは、さほど傾いていない。
 今し方、驟雨の名残りに起こされるまで、邦夫は長い夢を見ていた。
 二十年も昔の、つらい、しかし懐かしい夢だった。

     ◇          ◇

 この風薫る五月の良き日――。
 遠足前の訓辞で校長先生がそんな言葉を口にしたとき、六年生の生意気盛りだった邦夫は、これはまたずいぶん陳腐な決まり文句だなあ、などと子供心に呆れた記憶がある。だがそれは、知ったかぶりの小僧が斜に構えていただけで、確かに風は薫っていたのである。
 喧噪に包まれた市街地の小学校でも、東北の地方都市のこと、校庭は豊かな樹木に縁取られていた。等間隔で整然と植樹されていたのが銀杏《いちょう》とポプラ、そして裏庭のいくぶん深い雑木林は主に椚《くぬぎ》や木楢《こなら》であったと、邦夫は記憶している。
 昭和四十四年、五月の朝。
 乾いた風の中、透きとおったせせらぎのように顔を洗ってゆく木々の薫り。
 しかし、同じ日の午後遅く、道に迷った山中に密生する雑木たちは、底冷えのする湿気の中に、静かな悪意を漂わせはじめていた。
「……やっぱり、いないね」
 邦夫の背後に従いながら、悠子がつぶやいた。遠足の帰途、級友たちとはぐれてから、二時間も過ぎたろうか。当初は精神的に震えていた悠子の声が、今は肉体的にも震えているようだ。
「心配ないよ」
 邦夫は、ぶっきらぼうに虚勢を張った。
 ふだんから虚勢を頼りに級長など務めている邦夫だが、副級長である悠子は、とうに見透かしているはずだ。通知表こそ同じレベルでも、いわゆる感受性は、ときに邦夫が怖じ気づいてしまうほど、悠子のほうが深くて鋭い。それが、この年頃にありがちな一般的性差であることを、邦夫はまだ悟っていなかった。
 眩しい。幼い頃から同じ町内に育ち、常に自分が護る側であったはずの彼女が、去年の夏あたりから、妙に眩しい。幼稚なおかっぱ頭を洒落たショートカットに変えただけ――初めはそう思いこもうとしてみたが、やっぱり眩しさは消えない。それまで呼び捨てにしていた名前を、わざわざ姓で呼ぶようになったのも、その頃だ。
 今、背後で小犬のように震えていてさえ眩しいのだから、ふだんの学校生活では、眩しすぎて思わず敬遠に近い態度をとってしまったりもする。そして敬遠すればするほど、より近づきたいという想いが内心で膨れあがる。その悠子と、こんな状況でふたりきりになってしまった邦夫は、徒に虚勢を張り続けるしかなかった。
「とにかく西に下っていれば、麓に出られる」
 しかし、いつのまにか垂れこめた厚い雲の下では、自分の下っている先が確かに西なのか、邦夫にも判然としないのである。
 今さまよっている山林は、いささか深すぎるのではないか。朝の校庭から見上げた晴朗な蔵王山塊の、ほんの裾野にすぎないはずなのに、いくら歩いても視界が開けない。
 あまつさえ、とうとう雨が降りだした。あわててビニールの合羽を着こんでも、刻々と激しくなる風で、顔から首筋に雨が吹きこみ、中の衣類を冷たく濡らしてゆく。
 頭上の群葉を伝い流れるうちに、森そのものを溶かしこんだ大粒の雨は、明らかに冷酷な敵意を含んでいた。
 ほの暗い林の荒れた踏み分け道を、さらに小一時間も上り下りしたころ、足を滑らせたのか、悠子が邦夫の合羽の背中を掴んできた。
 振り返り、大丈夫か、と訊ねかけて、邦夫は口をつぐんだ。
「大丈夫……」
 そう自分で言い訳する悠子の濡れた顔は、蒼も白も通りこしていた。まるで長患いの末に去年逝った、邦夫の従姉の顔のようだ。邦夫は、雨のせいではない悪寒に震えた。できればまるまる負ぶってやりたいところだが、子供相応の体力しかない自分に、人ひとり背負って山道を進む自信はない。
「つかまって」
 悠子の脇に手を回し、せめて半身の重みを引き受け、先をめざす。かねがね触れてみたい触れてみたいと思っていた膨らみかけの胸を、思いきり抱きかかえる形になってしまったが、自分も、おそらくは悠子も、どうこう感じている場合ではなかった。
 幸い悠子の脚が萎えきる前に、下り道の視界が開け、山間をささやかに切り開いた鉄道に行き当たった。細々とした単線が、なにか雄渾の、たとえば去年映画教室で見た『黒部の太陽』のような偉業の産物に見えた。
「――駅だ!」
 駅舎なのか作業場なのか、とにかくほど近いカーブの端に、赤茶けたトタン張りの屋根が覗いている。
 悠子は口を開く余力もないらしく、微かに頬笑むだけだった。
 邦夫は悠子を引きずるようにして、懸命に軌道をたどった。駅ならば人がいる。火の気もあるだろう。そこから家に電話すれば――。
 ホームというのもおこがましい、低い土盛りの段差を上がり、風雨を逃れて転げるように屋根の下へ。そして土間の長椅子に悠子を座らせ、あらためて駅舎の中を見渡した邦夫は、愕然とした。
 ひと坪ほどの寒々とした暗い土間には、期待していたストーブも何もない。外に面したガラス戸も、ほとんど桟だけになっている。駅員どころか、改札も時刻表も時計もない。もとよりマッチやライターは見当たらない。よく見れば土間の中央に、ストーブを設置していたらしい、コンクリの台座だけが残っていた。
 廃線かよ――邦夫は思わず、ぺたりと長椅子に腰を落とした。
 昔は好景気に沸いていた地元の林業会社が、外材に押されて事業を閉じたのは、確か二三年前だ。ここがその森林鉄道なら、永遠に列車も人も来ない。
 忘れていた寒気が蘇り、邦夫は震え上がった。しかし、すぐに怯えている場合ではないと奮起し、隣で半身を横たえている悠子の容態を探った。
「寒い……」
 悠子は目を閉じたまま、それだけつぶやいて、瘧のように震え続けている。
 とにかく乾いた何か――衣類や毛布は無理でも、せめて町のオモライさんたちが冬場に重宝しているような古新聞古雑誌とか――邦夫は駅舎内に見切りをつけ、とりあえず自分の合羽を悠子に被せると、外に走り出た。
 軌道の向こうには、すぐ山の斜面が迫っていた。広場も道もない。ならばと裏手に回って、細道の跡を見つける。それは平坦な藪を縫って、かなり大きな建物の影に続いているようだ。邦夫は泥水を跳ね上げながら駆けに駆けた。
 しかし、見えてきた木造官舎のような平屋は、すでに半壊していた。駅よりも遙かに古いらしく、庇の落ちた玄関先に大きな表札が傾いており、『峰館林業第四宿舎』、そんな筆書きがかろうじて読めた。
 邦夫は土足のまま、玄関から奥に伸びる長い廊下に駆け上がり、何度も床を踏み抜きながら、両側に並ぶいくつもの引き戸を開けてまわった。どの小部屋も窓が破れ雨が吹きこみ、腐った畳しか残っていなかったが、それでも廊下の奥の納戸らしい板の間から、まだ乾いている古新聞の束と、汚れた大型のビニールシートを一枚、調達できた。
 いっこうに衰えない雨の中を、全速力で駅舎に駆け戻り、ちょっと逡巡した後、思いきって悠子の濡れた衣類を脱がせにかかる。
「寒いよ……邦ちゃん……」
 朦朧となった悠子は、幼い頃の呼び方で邦夫に訴えた。もう自分がされている行為も判らないらしい。
「今、あったかくなる。たぶん、ちょっとは……」
 とうとう素肌の胸まで見てしまい、こんな場合なのにときめきをこらえきれない自分を恥じながら、邦夫は悠子の着替えを進めた。
 濡れた体を拭いてやり、聞き覚えの知識でごしごしとこすり、皺を寄せた新聞紙で幾重にもくるみ、引き裂いたビニールシートや雨合羽で仕上げる。さすがにショーツにまで手を出す度胸はなかったが、それは羞恥心だけでなく、古新聞でどう折紙すればいいものやら、算段が浮かばないからだった。邦夫は独りっ子なので、赤ん坊のおむつを見たことがなかった。
「どう?」
「……ちょっと……たぶん……」
 実際暖かくなったのか、鸚鵡返しに反応しただけか、それでも悠子の体の震えはだいぶ治まり、不規則な寝息をたてはじめた。
 ひとまずやれることはやったが――邦夫は次の対処に悩んだ。
 どう考えても、三択問題である。
 その一。悠子とともに、ここで朝を待つ。
 その二。悠子を置いて、助けを呼びに出る。
 その三。悠子を背負って、麓をめざす。
 悠子の一段落で気が緩んだせいか、芯まで濡れた自分のほうが激しい寒気に襲われ、邦夫は土間で屈伸や反復横跳びをしきりに繰り返しながら、次を模索した。
 この北国では、高山なら真夏でも凍死者が出る。麓近くでも、真夏以外は深夜に向って気温が急降下するから、凍死の報が皆無ではない。つまり、その一とその二は、なるべく避けたい。しかし、けして屈強ではない自分が悠子を背負って、この風雨の中をどこまで進めるか。途中で行き倒れになるくらいなら、まだ屋根のある場所にいたほうが安全なのではないか。とすれば、その三も怪しくなる。
 迷いながら兎跳びをしていると、長椅子の悠子が、急に咳きこみはじめた。
「お、おい」
 肩を揺すっても返事はなく、眠ったまま体を折り曲げ、激しく咳きこみ続けている。
 焦って背中をさすり続けると、咳はいったん鎮まったが――ふと悠子の額に手を当てて、邦夫は硬直した。
 熱がある。ただならない熱だ。
 その一、却下。一刻も早く医者に診せるか、せめて薬を飲ませたい。
 ならば――医者か薬をここに調達してくるか、こっちから訪ねて行くか。
 こんな容態の悠子を、これ以上雨にあてたくない。けして見捨てるわけではなく、自分ひとりで探したほうが、早く大人を呼べるのではないか。しかし、人家が近くにあるとも限らないのである。行ったり来たりしているうちに、もしも悠子が――。
 邦夫は、熱いくせに蒼い悠子の寝顔を見つめながら、寒気も忘れて思い惑った。
 悠子を置いて、ひとりで助けを呼びに出るか。
 悠子を背負って、麓をめざすか。
 その二択だ。

     ◇          ◇

「――まったく、ありゃ究極の選択だったな」
 邦夫は、またひとりごちた。
 それほどなまなましい夢だった。
 あれから二十年、同じ廃駅が、より古びながらもここに残っているのは、人跡がまったく途絶えていたからだろう。人の住まなくなった木造建築は傷みが早いというが、人に潰されるよりは長持ちする。もっとも例の宿舎ほど古いと、崩れ尽くして藪に覆われてしまったようだが。
「邦ちゃん……」
 昔の呼び名が、微かに聞こえた。やや不安げな声だった。
 やはり悠子も、同じ夢を見ているらしい。
 朽ちた庇から滴る驟雨の名残りは、光の錦糸の帷から、まばらな光の珠へと変わりつつある。
「おい、そろそろ起きろよ」
 邦夫は、肩にもたれているフードを、軽くたたいた。
「明るいうちに下りて、染太で鰻でも――」
 言いかけて、邦夫は絶句した。
 手応えがない。
 ともに三十路を過ぎてもまだ可憐な、ショートカットで瓜実顔の、小ぶりな頭の手応えがない。空のフードが、肩に張りついただけだ。
「――――」
 呆けている邦夫の横で、妻の形のレインジャケットは、風をはらんだ洗濯物が吊り紐を失ったように、長椅子にくずれ落ちた。
「悠子……」
 邦夫の手と視線が、徒に宙を泳いだ。
「……悠子?」

     2

 きっと悠子は、俺が眠っているうちに散歩にでも出たのだ。寝息やつぶやきは、俺の空耳だったのだ――。
 邦夫は無理に気を鎮め、駅舎の周囲を隈なく探した。
 しかし、悠子の姿はなかった。
 何度か大声で名を呼んでみても、谺が返るだけだ。
 もしかしたら、ひとりで車に戻ったのかもしれない――ありえないとは思いつつ、念のためその場に悠子宛のメモ書きを残し、邦夫は二時間ほど前に車を停めた麓近くの集落に向かった。昔のように市街地から歩いて来たわけではない。あの頃は広大無辺に思えた郊外の山も、あくまで小学校の遠足に選ばれる程度のハイキング・コースである。道にさえ迷わなければ、小一時間で集落に着く。
 気が急いていたためか、ほんの四十数分で、麓の県道に接する登山口の看板が、木の間隠れに見えてきた。来るときには気づかなかったが、昔のような木杭と板ではなく、妙にハイカラな金属製だった。
 その看板を行き過ごし、アスファルトの道路に下りて、邦夫は立ちすくんだ。
 ――また迷ったのか?
 目の前に、道路と同様アスファルトで整備された、小綺麗な駐車場がある。出入り口の横には、見慣れぬ自動販売機のような黄色い機械が鎮座している。しかし邦夫の記憶では、朝、ハイキング・コースに入る前、そこにあった小さな食料品店で飲み物を買い、店番の老婆に頼みこんで、地固めしただけの小さな前庭に車を置かせてもらったはずなのである。
 邦夫は当惑しながら周囲を見渡し、ますます当惑を深めた。
 道筋に点在する民家や商店のすべてに見覚えがないなら、単に道を誤っただけなのだろうが、その内の何軒かは、確かに今日の朝と変わらぬたたずまいの、鄙びた茅葺きや瓦屋根である。
 邦夫は、駐車場前の機械をためつすがめつし、それが無人の自動料金所らしいと判断した。都会のほうではそうしたシステムがあるのかもしれないが、峰館に設置された記憶はない。もしやと思いながら、駐車中の数台をあらためてみたが、案の定、自分の車――去年ローンを組んだばかりの、最新型のベレットはなかった。
 ならば、もう一度、山の駅へ――。
 登山口に戻り、邦夫は目を疑った。先に続く山道が、整然とした石畳と、同じ石質の階段になっていた。今し方下りてきた道ではない。邦夫は木材で補強された土の細道を、左右の藪から伸びる枝々に注意しながら下ってきたのである。
 ――とにかく家に一報入れてみよう。
 不吉な違和感を振り払おうと、邦夫は電話ボックスを探した。あの食料品店の赤電話以外にも、確か近場にボックスが立っていたはずだ。
 幸い、電話ボックスは記憶どおりの場所にあった。動転している邦夫は、そのボックスもまた朝と形を変えていることに気づかなかったが、いざ電話機そのものに向かうと、首を傾げた。コイン投入口以外に設けてある水平のスロット――『カード』とは、何を意味するのだろう。
 ともあれ、邦夫は焦る指先でボタンを押した。
 ――この時間なら、おふくろは趣味の合唱教室から戻っているはずだ。
 呼び出し音より先に、機械的な女の声が返った。
『この電話番号は、現在使用されておりません。番号をご確認の上――』
 あわてるんじゃない馬鹿、と自分を叱咤しながら、邦夫は受話器を取り直し、入念にボタンを押した。
 しかし、結果は同じだった。
 ――いや、きっと古い番号にでもかけちまっただけだ。俺は昂奮しすぎて、少々頭がおかしくなっているのだ。
 邦夫は何度か深呼吸すると、リュックから愛用の手帳を取り出して、自分の現在のアドレスを見ながら、ひとつひとつボタンを押し直した。
『この電話番号は、現在使用されておりません――』
 それから数分、邦夫は虚しい努力を続けた。
 悠子の実家――同じ町内の洋品店にかけても、結果は同じだった。
 自分の職場――県庁の福祉課は、もとより休日なので繋がらない。
 唯一の係累である母方の伯母の家には、繋がることは繋がったが、まったく噛み合わない会話の果てに、
「変な悪戯はやめてください! それともあなたオレオレ詐欺?」
 母親そっくりの聞き慣れた声で、そう憤然と叫ばれてしまった邦夫は、それ以上電話を試す気力を失っていた。
 邦夫は、上の空で電話ボックスを出た。
 ――オレオレサギって、なんなんだ?
 ――悠子は、どこに行っちまった?
 ――そもそも……俺は誰だ?
 さきほど山道を駆けるように下ってきた汗と、それ以降の冷や汗で、喉がからからになっていた。
 路傍に清涼飲料の自販機を見つけ、小銭が足りず、千円札を入れる。
 紙幣は途中で押し戻された。
 二度三度くりかえしても、新札に近い紙幣を、自販機は受けつけなかった。
 とにかく何か飲まなければ――干涸らびそうな頭を潤し、なんとか正気に戻らなければ。
 うろ覚えの郊外の道を、邦夫は老人のような足取りで市街に向かった。
 途中の電柱に地番表示があるのに気づき、自分の知っている町名であることを確かめ、とすればやはりおかしいのは世間よりも俺のほうなのか、などと、かえって自棄の念に囚われたりもする。
 郊外と市街を隔てる峰館川は、この季節らしく、蔵王からの雪解け水を豊かに湛え、県北の庄内に向かって滔々と流れていた。峰館大橋に近い堰の横手には、毎年の秋口、職場の同僚やその家族と芋煮会を開く河川敷公園が、いつに変わらず広がっていた。去年も一昨年《おととし》も、悠子の味付けする鍋が、いちばん美味かったはずだ。
 橋を渡ったところで、ようやく地元スーパーのチェーン店を見つけ、邦夫は見慣れない商品ばかりが並ぶ飲料の棚から、かろうじて馴染みのあるコーラのボトルを選び、レジに運んだ。
 南洋の鳥のように色とりどりの髪をしたレジ係の娘は、邦夫の差し出した千円札を見ると、楽しそうに目を見張った。
「あらあ、懐かしいお札。ピカピカじゃないですか、えーと、この人、イトウ……ヒロフミさんでしたっけ」
 邦夫は言葉を返す気になれず、うやむやにうなずいて釣り銭を受け取った。五百円札がなく、代わりに奇妙な大振りの硬貨が混じっているのに気づいたが、あえて問い質す気にもなれなかった。
 袋詰め台の前で、砂漠の旅人のようにボトルを干す。
 ふと、近くの壁にある『警察官立寄所』の表示に目を止め、邦夫はレジに戻り、おずおずと娘に訊ねた。
「……この近くに、交番はないかな」
「はい? ありますよ。店を出て右の、えーと、二つめの四つ角の角」
 そう、初めから公僕仲間に頼れば良かったのだ。人捜しも、迷い道も。
 信頼できそうな他人に疑問を丸投げしてしまおう――そう決めたとたん、いくぶん頭が冴えてきた。
 同時に、今の自分の状況をありのまま伝えてしまうと、狂人扱いされかねないことにも思い当たった。
 邦夫は、教わった角に小さな交番を見つけると、ひとりで詰めていた初老の警官に、慎重に言葉を選びながら事情を打ち明けた。
 そこの山でハイキング中に、妻とはぐれてしまった。自分も道に迷ったらしく、車を停めた場所に戻れない――。
 警官は邦夫を奥の机に導き、お茶を出し、懇切に話を聞いてくれた。峰館あたりの公僕は、大都会ほど時間に追われないせいか、邦夫を含め、たいがい立場をわきまえている。
「なるほど、それはお困りですなあ。もう日も暮れそうですし、急いで探しに出ないと」
 邦夫自身の問題などは、当然、伝わっていない。今は、それで充分に思えた。
「でも、きっとすぐ見つかりますよ。あの山もずいぶん宅地化してますから、多少遊歩道から外れても、迷いっぱなしってことはない。心配なのは、急なご病気とか、お怪我ですね」
 ――あの山に、宅地?
 実直そうな警官に齟齬を上塗りされ、邦夫の胸に、電話ボックスでの懊悩が蘇った。
「それでは旦那さん、もう一度お名前とご住所、それから、何か身分証のようなものをお持ちでしたら」
 邦夫は、やや逡巡しながら、免許証と職員証の入ったパス・ケースを差し出した。
「ほう、県庁にお勤めですか」
「はい」
 警官は、ふたつのカードをためつすがめつするうち、なにか気になったように訊ねてきた。
「長岡邦夫さん――ご住所は、峰館市城南町一丁目六番四号」
「……はい」
 警官は怪訝を露わにして、
「おかしいな。あのあたりは再開発で、一昨年、まるまる新しい駅のロータリーに……ちょっと待ってくださいね」
 備品の住宅地図でも持ち出すのか、立ち上がって後ろの棚に向かう警官の姿に、邦夫は怖気を震った。
 ――再開発? 新しい駅?
 確かに家は、昔から駅のすぐ裏手にあるが――そんな話は聞いたこともない。
 本能的に、これ以上ここにいてはいけないと悟り、邦夫は卓上のパス・ケースを手に、そっと交番を出た。
 裏道に逃れたところで、途惑った警官の、方向違いの呼び声が微かに聞こえた。
          *
 中央市街に入ると、道筋の光景は、ますます既知に未知が混淆してきた。
 行き交うバスも、色こそいつもと同じ桃色がかった肌色だが、丸みがなく、妙に刺々しい。
 悠子とふたりでしばしば通ったロードショー館は、薄汚れた廃ビルと化していた。
 しかしその隣の老舗茶舗は、今朝と変わらない店構えで営業していた。
 行きつけのオーディオ・ショップの隣、やはり行きつけの写真屋があった街角には、白い背広を着こんだ肥満体の老人が、小ぶりのバケツを手に笑っていた。フライドチキン専門店の、販促用等身大人形らしい。
 そのあたりまで来ると、邦夫は、すでに当惑する気力さえ失っていた。
 今日、山で悠子と撮ったフィルムは、どこに現像に出せばいいだろう――。
 しかし鳥の唐揚げだけを売る店なんて、商売になるのかな――。
 そんな枝葉末節を、虚ろな頭で慮っただけである。
 それでも、少し先の大型書店に行き着くと、邦夫は己を鼓舞し、入店して奥の棚を探った。子供の頃から、ずっと贔屓にし続けている店である。この書店なら、邦夫が職場でも使っている、東北各県庁所在地の詳細な住居地図を扱っている。自分が狂ってしまったことを確信するのはいかにも怖いが、ひとりで見るだけなら、狂っていることを他人に悟られる気遣いはない。
 しかし、つい先月も住居地図を見かけた棚には、ありふれたマップ類しか揃っていなかった。
 通りかかった壮年の男性店員を呼び止め、どこに移したのか訊ねると、
「あいすいません。あれはもう、当店では扱っていないんですよ。近頃は、なにかと個人情報にやかましいものですから」
「……それは今月から?」
「いえ、もう十年近くになりますね」
 なるほど、あくまで実地に確かめろと言うのだな。誰がそう言っているのか定かではないが――。
 邦夫は、昂然と店を出た。
 ままならぬ思いが困惑を凌駕し、反撥心に変わっていた。
 もうしばらく進めば、邦夫の職場がある。大正五年に建てられた、イギリス・ルネサンス様式の、堂々たる煉瓦造りの建物が。定年退職した父親と入れ違いで、数年前から邦夫も通うようになった県庁舎だ。
 ――ほら、あった。県庁も、筋向かいの県民会館の噴水も、その向かいの市役所も、いつもどおりだ。
 勇んで交差点を渡り、親しみ深い重厚な門をくぐり、整った花壇を縫って入口に急ぎ――邦夫は憮然として歩を止めた。
『重要指定文化財・峰館郷土記念館』、そう掲げられた木製銘板の横に『料金所』の窓口、そして『本日閉館』の立て札。
 俺の職場は蝉の抜け殻か――。
 ただ腹が立った。
 邦夫は踵を返し、暮れなずむ街を侵食するありとあらゆる矛盾に立腹しながら、さらに数百メートル南西の駅に向かって、ひたすら足を速めた。
 これは夢だ。
 理不尽な夢だ。
 夢なのだから、いつかは覚める。
 そう、きっと、我が家に帰り着く頃には覚める。
 家の居間では、腹を空かした親父が、いつものように台所に向かって、やくたいもない催促じみた声をかけているのだろう。台所では、近頃すっかり丸くなったおふくろと――きっと妻の悠子も、いっしょに夕飯の支度をしているに違いない。
 邦夫は、もう脇目も振らず、大筋ではけして誤っていない家路を、競歩のようにたどり続けた。
 いつもの四つ角が、目前に迫った。そこを西に折れれば、アーケード街に出る。戦後の面影を色濃く残した、峰館駅前商店街だ。その商店街の、ちっぽけな焼鳥屋の横の路地の奥に、住み慣れた我が家がある。
 息を切らしながら交差点を折れて――邦夫は絶望した。
 眼前に、広大なロータリーが広がっていた。
 そしてその彼方、二階建てのありふれた地方駅があるはずの場所には、二十階を越えそうな高層建築が、残照の空の暗赤色を背に、黒々と聳え立っていた。
          *
 それから夜半過ぎまでの時間を、どこでどう過ごしていたか、邦夫自身にも判然としない。
 駅に近い城址公園の、懐かしい土手や見知らぬサッカー場の間を、腑抜けたように彷徨っていたのかもしれない。
 どこか馴染みの居酒屋で、馴染みのない女将に一見扱いされ、酒を呷りながら思わず落涙してしまったような気もする。
 ともあれ、次に正気に戻ったとき――狂気なのかもしれないが――邦夫は『花小路』と呼ばれる古い酒場通りの路傍にうずくまり、長々と嘔吐をくりかえしていた。
「大丈夫ですか?」
 後ろから女の声が聞こえ、柔らかい手が邦夫の肩に触れた。
「……すみません」
 なお二度三度吐き続け、ようやく胃袋が空になった邦夫は、涙目をこすりながら背後を振り仰いだ。
 同年輩の、この土地にしては都会的な女が、中腰になって、迷子でもあやすように邦夫を見下ろしていた。髪は茶色を通りこして琥珀色に近いが、化粧は薄い。
「いくらお酒を飲んだって、これじゃ、ちっとも意味ないですね」
 愚かな男たちの酔態も、とうに愛翫物のひとつ――そんな年季の入った水商売風の苦笑いが、無性にありがたく見えた。
 邦夫が恐縮していると、女は、なぜか邦夫の顔をしげしげと覗きこみ、やがて、思いきったように訊ねてきた。
「あの……もしかして、邦夫君?」
 面食らう邦夫に、女は畳みかけた。
「あの、えーと、一小の五組にいた長岡君?」
 呆然となって、すぐにはうなずくこともできず、邦夫は女を見つめ続けた。
 愛嬌のある丸顔なのに、日本人離れして彫りが深く、化粧を割引いても白すぎるほど白い。
 頭の中で、古い記憶の糸が繋がった。
 この琥珀色の髪が、染めたのではなく、地肌同様の天然だとすれば――。
「……片桐さん?」
「おう、やっぱり邦夫君だあ!」
 女は気取りのない歓声を上げ、邦夫の手を掴んで振り回しはじめた。
「そう、多佳ちゃんだよ! 片桐さんちの多佳子さん!」

     3

 多佳子は邦夫の手を引いて、すぐ前のスナックに導いた。
 店先の看板はすでに灯が落ちていたが、新しい光沢を保ち、『hey,say! 01』、そんなピンク色のPOP体が、下品ではない程度にデフォルメされたキス・マークに重なって、陽気に踊っていた。『遠慮なく話して行けよ・一号店』くらいの意味だろうか。
 鰻の寝床のような、心地よく狭い店のカウンターに邦夫を座らせ、多佳子は内側に収まった。
 アンドレ・ギャニオンのピアノが、たゆたうように流れはじめた。
 奏者も曲名も知らないながら、いい曲だな、と邦夫は思った。心が凪ぎわたるようなこの旋律は、リチャード・クレイダーマンの新機軸だろうか。
「いやはや、懐かしや懐かしや。せっかく故郷に錦を飾ったのに、どうでもいいような奴しか飲みにこないんだもん。ようやく初恋の人に会えたわ」
 多佳子が喜しそうに言った。
 お世辞なのか本音なのか、邦夫には判らない。
「でも、なんか『初恋の人のなれの果て』って感じ。――お水? それとも迎え酒?」
「……水」
「おう、やっぱし」
 酔い覚めの水千両と値が決まり――落語の枕そのままに、邦夫は夢中でグラスを干した。
「はいはい、お代わりね」
 多佳子はミネラル・ウォーターのボトルを傾けながら、日向の猫のように目を細めた。
「でも、泥だらけでヨレヨレの邦夫君ってのも、なんかいいよね。あの頃は、まんま級長さんって感じで、ちょっと畏れ多かったもん。やっぱりアレと釣り合うのは三浦さんくらいじゃないとだめかな、みたいな」
 三浦さん――悠子の旧姓だった。
 邦夫の酔いが、一瞬に醒めた。
「……覚えてる? 悠子」
「そりゃ覚えてるわよ。ぶっちゃけ初めての恋仇だもん。なんちゃって、別に嫌ってたわけじゃないよ。てゆーか、むしろ超大好きだったかな、みたいな」
 多佳子は、遠い目をして言った。
「ここの一小に転校してから、あたし、ほんとに楽しかった。あんたと悠子ちゃんがいたからね」
 意味をはかりかねている邦夫に、多佳子は続けた。
「いや、何かと色々あったんよ。幼稚園とか、前の学校じゃ。なんせこのナリで片親で、おまけにその母親が、なんつーかアレな商売でしょ。おまけに気まぐれで、あっちこっち流れ歩いて、そのたんびにあたしも転校させられて」
 そうか、と邦夫は悟った。
 えてして幼児は、本能的に異質な存在を忌避する。そして思春期前の子供の多くは、大人たちの気風に疑問を抱かない。昭和四十年代前半、大阪万博を控えた高度経済成長真っ盛りとはいえ、田舎では、まだまだ旧弊な気風が残っていた時代である。もしガキ大将なり級長なりがそちらの気風に染まっていたら、花街の母を持つ混血児は、児童集団の中で恰好のスケープゴートになりかねない。
 いっぽう邦夫や悠子は、確かにほとんど違和感なく多佳子に接し、結果的に学級全体の違和感を払拭したが、それは性格や意識というより、あくまで育った町の気風からだった。古い商家の町や農村とは違い、戦後、旧練兵場跡に拓かれた峰館駅前商店街は、初めから寄せ鍋のような世界だったのである。
「まあ、その後もなんかあっちこっち、横浜から神戸まで母親に振りまわされたけど、もう吹っ切れてたからね。それに高校上がるあたりから、どこ行ってもモテモテになっちゃったし」
 多佳子の遠い目が、悪戯な猫の目に変わった。
「と、ゆーわけで、あたしがこうしてグレもせず立派な経営者に育ったのは、邦夫・悠子のおしどりコンビと、ゴールデン・ハーフのおかげなんよ。でも、なんで邦夫君、そんなヨレヨレになっちゃったの? 悠子ちゃんに捨てられた?」
 この旧友なら、なんでも話せる――邦夫は信じた。もとい、信じなければ二度と立ち上がれない気がした。
 邦夫はグラスを握ったまま、顔を上げずにつぶやいた。
「……頭がおかしくなった」
「はあ? 誰の?」
「俺の」
 多佳子は邦夫の顎に手を伸ばし、くい、と上向かせた。
 冗談か本気か探るように、まじまじと邦夫を見定め、
「……なんでも聞いたげるよ。そーゆー店だから」
 邦夫は堰を切ったように、今日の変事を洗いざらい打ち明けはじめた。
          *
「ちょっと――ごめん」
 話のなかばで、多佳子は語り続ける邦夫を制し、オン・ザ・ロックを作りはじめた。
「飲まなきゃ、ついて行けないわ。邦夫君も、やる?」
「うん」
 多佳子とは違う意味で、邦夫も、そろそろ迎え酒が欲しくなっていた。
 話が終わっても、多佳子は邦夫を狂人扱いしなかった。
 邦夫が出してみせた財布の中身を、しげしげと眺めながら、
「確かに、伊藤博文さんや聖徳太子ばっかしってのは……まだ使えるこた使えるけど……」
 カウンターの奥のレジスターから、何枚か紙幣を取り出し、
「ちなみに、ふつう、これ」
 邦夫は、今さら驚きも失望もしなかった。
 多佳子に全てを打ち明けて、だいぶ気が落ち着いていたし、夏目漱石や福沢諭吉が襟を正している紙幣も、経験的な違和感はともかく、感情的には充分説得力があるように見えた。新渡戸稲造だって、知名度に疑問を抱いただけで、歴史的には異議がない。
「陳腐なセリフだけど、あたし、人を見る目はあるんよ。飲んだくれの母親の葬式も、あたしが立派に出した。この店もパトロン抜きの自前で出した。つまり修行時代にありとあらゆるお客さんをだまくらかして――いや、もちろん詐欺とかじゃないけどね。お客の中には、マジ妄想狂の人なんかもいたのよ。それもひとりやふたりじゃなく。立派な大学の教授さんまでいたよ。実は何度も空飛ぶ円盤に乗ったんだって。うんうんって話を聞いてあげるだけで、ボーナスあらかた飲ませちゃったり。でも、あんたは同じ種類の人に見えない」
「――うん」
 邦夫自身も職業柄、福祉現場で様々の人間に接している。一見狂気だが実は正気過ぎるだけの人間、またその逆の人間。九割九分の正気と一分の甚だしい狂気を、なんの疑問もなく共有する人間も多い。
 多佳子は、あらたまって言った。
「とってもモノホンの邦夫君っぽいあなたに、ズバリ、お訊ねします。なんだかちっともよくわかんなくなっちゃったんで、どうか正直にお答えください」
「う、うん」
「今日は何年何月何日?」
「昭和六十四年五月二十一日――いや、もう二十二日か」
「…………」
 多佳子は顔を顰め、カウンターの下から、読みさしの新聞を取り出した。
 ここを見て、と指で欄外の日付を示す。
 1989年5月21日・日曜――太いゴシック体が、邦夫の目に入った。
「合ってる」
 邦夫が安堵して言うと、
「昔から近視気味だったもんね、邦夫君。マジメに勉強しすぎて」
 多佳子は、西暦の横の細々とした明朝体、つまり元号を指さした。
 今度は、邦夫が絶句した。
「…………」
 目を丸くして見入り、また目をすぼめて活字を見入る邦夫に、多佳子はおずおずと、
「昭和天皇、この一月に、お亡くなりになったよ」
「……確かに入院してたけど、先月には公務に戻って……」
 多佳子は、濃いめのウイスキーを水のようにあおり、頭をひと振りすると、奇妙なほど明るい声で言った。
「そもそもこの店の名前だって、新しい元号からもらったんだもん。『hey,say! 01』。いいでしょ? こうしとけば、五年もシャカリキで稼いで、良さげな女の子めっけてじっくり仕込んで、駅裏あたりに暖簾分けしたら『hey,say! 06』。まだ二号店なのにまるで六号店!」
 お互いこれ以上暗くならないように、そんな心遣いなのだろう。
 しかし邦夫は、驚きはしたものの、けして消沈してはいなかった。
 横の席に置いていたリュックから手帳を取り出し、多佳子に渡す。
「これを見て」
 多佳子は、おっかなびっくり手帳を受け取り、表紙の年号を確かめ、
「……去年の暮れに買ったんじゃない?」
「違うんだよ」
 邦夫は手を伸ばし、手帳のカレンダー部分を開いた。
「仕事用にも使う年度手帳だ。ほら、今年の四月から」
「うわあ……昭和六十五年の三月まで」
 多佳子は、何か貴重品でも扱うように、手帳をためつすがめつしている。
 邦夫は、この世界、あるいは自分が必ずしも『狂っている』のではなく、単に『違っている』だけなことに気づいていた。
「消えたのは悠子じゃなくて――俺のほうなのかもしれない」
 多佳子は、ぱたりと手帳をカウンターに置いた。
「こりゃダメだ。頭がウニになりそう」
 ポケットから、邦夫の知らない厚めの木札のような小型機械を取り出すと、蝶番式に開き、その内側の文字盤を、ちまちまと押しはじめる。
「あたしひとりじゃ、どうにもなんない。助っ人を呼ぼう」
「それって、電話の子機?」
「ちょっと黙ってて。――やあ、こんばんわ! かわいい年増の多佳ちゃんだよ! ――こんな夜中? 何言ってんのよ、いっつも看板過ぎてもうだうだうだうだ帰ってくんないくせに、日曜だけ休もうなんて甘いってのよ! ――はい、すぐいらっしゃい。――期待するんじゃない! また変なとこ触ったら叩くからね。――いやね、ちょっとワケアリの人が来てんのよ。うん、あんたもたぶん知ってる人。――誰? いや、そこんとこがちょっと微妙っつーかなんとゆーか――とにかく激しく委細面談希望!」
 邦夫は自分の悩みも忘れ、少々心配になった。もう午前三時を回っている。こんな狂騒的な声に突然叩き起こされたら、相手も災難だろう。
 言いたいだけ言うと、多佳子は機械を元の形に折り畳んだ。
「ふう。――明日、ランチ食べに寄るって」
「誰?」
「知らないかな。隣組にいた沖坂紘一。別名、図書室のカバトット。うちの開店広告見て、まっさきに飛んできたの。ほら、あたしもなんでだか図書係やってたから、そっちでけっこう仲良くしてたのね。覚えてない?」
 邦夫は目を見張っていた。
「いや……幼稚園から知ってる」
 邦夫は、手帳のアドレス部を開いて、多佳子に見せた。
 沖坂紘一――もし午後に麓の電話ボックスで、あれほど精神的に打ちのめされていなかったら、次に掛けていたかもしれない町内の友人である。
「へえ、そうだったんだ」
「うちのすぐ前の通りで、稼業の不動産屋を継いでる」
「三十過ぎてもまだチョンガー?」
「うん」
「おおむね合ってる……のかな。今じゃこの近くに、結構なビル持ってるけど」
 多佳子は、微妙な顔でうなずき、
「あいつ、昔からジュニアSFだのスリラー全集だの、変な本が大好きだったでしょ。こーゆー話も通じそうじゃない?」
「ああ――俺の知ってる紘一なら」
 多佳子はしばらく考えこんでいたが、やがて、また頭をひと振りすると、
「とにかく、続きは明日にしましょ。今日できることは明日でもできるってね。さあ、もう寝よ寝よ」
 邦夫は、到底眠れる気がしなかった。そもそも帰る家がない。
 とまどっている邦夫に、
「酔いつぶれる、とも言う」
 多佳子は、まだ半分残ったボトルを、どん、とカウンターに据え直して見せた。

     4

 店の二階が多佳子の住居になっていたが、居室はワン・ルームだった。
 邦夫は、店に四卓ほどあるボックス席の、長椅子で『酔いつぶれる』ことになった。
 体も心も疲れきっていたせいか、夢も見ずに昏々と眠った。
「はーい、お早うさん! お早くないけど、お早うさん」
 からりと明るい多佳子の声に起こされ、つかのま混乱する。
「……お早う」
 すべてを思い出した邦夫は、多佳子に頭を下げた。
「ありがとう」
 多佳子は、なんのなんの、と手を振って、
「そろそろ奴が来る頃だから、顔洗って、髭そって。凶と出るか吉と出るか、どのみちヨレヨレじゃまずいでしょ」
 店内も洗面所も綺麗に片付いていたが、開店した気配はない。
 邦夫は洗面所から、カウンターで調理を始めている多佳子に声をかけた。
「開けないの? お店」
「いや、なんか今後の展開が読めないんで、臨時休業にしちゃった」
「ごめん」
「だから初恋の君は、へこへこへこへこ頭下げないの」
 身繕いを終えて店内に戻った邦夫を、多佳子は嬉しそうに眺め、
「おう、いい男。これなら『なれの果て』じゃなくて、立派な社会人だわ」
 邦夫が苦笑していると、店のドアが僅かに開いた。
「――おーい、やってる?」
 昔から河馬に見立てられた体格相応、鷹揚で太い声は、まぎれもなく邦夫がつい先日挨拶し合ったばかりの、懐かしい声だった。
「はい、お入り」
「よかった。夜中にあんな電話よこしといて、臨時休業はないもんなあ」
 雑多な商店街の古い店舗でも、中央市街の立派なビルでも、まともな不動産業者なら、身なりは同様に整っている。
「紘一……」
 邦夫は、つい、いつもの呼び名を口にした。
 しかし紘一は、反射的に商売人の笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げ、それからカウンターの多佳子に、助けを求めるような視線を流した。
「えーと……こちら、どちら様?」
 多佳子は、失望している邦夫を、まだまだ、と無言で制し、拡一に向かってさりげなく言った。
「一小の長岡君だよ。五組の級長の、長岡邦夫君」
 紘一の顔に、不審が浮かんだ。
「……悪い冗談はやめてくれ」
 不審は怒りに達していた。
『変な悪戯はやめてください!』――邦夫の耳に、昨日の電話で叔母から浴びせられた罵倒が蘇った。
 自失している邦夫に代わって、多佳子は訊ねた。
「冗談って、どういうこと? 邦夫君だよ?」
 紘一は猜疑に満ちた顔で、ふたりに視線を彷徨わせていたが、やがて多佳子の真摯さと、邦夫の悲痛を読み取ったのか、
「……確かに似てる。あの頃の親父さんそっくりだ。けど……」
 怒りの口調が、不審に戻っていた。
「……あんた、腕をまくって見せてくれ。左の肩口まで」
 邦夫の顔が輝いた。
 こいつも『違って』はいるが、やはり近所の紘一なのだ。
 邦夫はうなずきながら、シャツの袖を、ぎりぎりまでまくりあげた。
 低学年の頃に受けたBCG接種が咎めてしまい、ほとんど上腕全体が腫れ上がり、半月近く寝こんだことがある。腫れが引いた跡には、大きな硬い引きつれが残った。医師の不手際か邦夫自身の体質か、今なら賠償責任を巡って裁判になるところだろうが、昔は万事が緩やかだった。幼い邦夫は、むしろ自慢で友達に引きつれを見せびらかし、紘一も羨ましがっていた。その跡は、今でも消えていない。
 紘一の不審が、驚愕に替わった。
「……邦夫なのか?」
 食い入るように邦夫を見つめ、
「邦夫!」
 紘一は、いきなり両手で邦夫の肩を鷲づかみにすると、荒々しく揺さぶりはじめた。
「……どうしてたんだ! 何があったんだ! いったいどこで何してた、二十年も!」
 無数の異なった激情が一度に吹き出たような、悲鳴に近い叫びだった。
 答えられないまま、邦夫は涙を流した。
 多佳子も、何も解らないまま、目頭を熱くしていた。
          *
「NHK少年ドラマシリーズ……じゃ、ないよなあ」
 窮屈そうにボックス席に収まり、大量の水といっしょに特盛りのピラフを掻きこみながら、紘一が言った。
 あの叫びの後、気を鎮めた紘一は、自分の叫びに対する邦夫や多佳子のそれぞれ異なった疑問に、あえてすぐには答えなかった。まず、聞き役に回ることを望んだのである。
 向かいに座った邦夫は、まだ食欲がなく、ほとんど形ばかりピラフをつつくだけだったが、こんな話を聞きながらも健啖ぶりを発揮する紘一に、全幅の信頼を覚えていた。どんなに混迷した局面でも、酒に逃げるより、黙々と飯を食う男なのである。昔から――きっとここでも。
「おう、さすが、うまいこと言うね」
 隣の多佳子が、紘一のグラスに水を追加しながら言った。
「ほんと、城達也さんのナレーションが聞こえてきそう。『タイム・トラベラー』だったっけ」
 多佳子は、同世代の多くが記憶している、例の寒々としたテーマ曲を口ずさみはじめが、彼女の声だと、さほど陰鬱には聞こえなかった。
「ちょっと違うだろう」
 紘一が、スプーンを止めて言った。
「ん? こんなメロディーだったよ?」
「いや、設定が違うってこと。あれはあくまで筒井康隆原作『時をかける少女』、タイム・リープの話だろう。この状況は、むしろ『その町を消せ!』なんだよ。原作は光瀬龍の『その花を見るな!』と『消えた町』。つまり並行世界《パラレル・ワールド》」
「……おたくだ」
 多佳子が紘一に向けた言葉の意味を、邦夫は理解できなかった。軽い揶揄らしいと推測できただけである。しかし紘一の話は理解できた。昔から現実家の邦夫だが、紘一の影響で、それらのジュブナイルを読んでいる。
「でも、現実なんだよ。今、ここにこうしてる俺にとっては」
 邦夫は言った。
「仮に、ここがその並行世界だとしたら、今ここにいる片桐さんも、紘一、お前も、俺の知ってる片桐さんや紘一とは、まったくの別人ということか?」
 多佳子が、唇を震わせてうつむいた。
 大皿を綺麗に平らげた紘一は、グラスの水を干してから、おもむろに異を唱えた。
「少なくとも、小学校の高学年までは、同一人物なんじゃないか?」
「そうよね。そうだよ!」
 多佳子が、嬉しそうに顔を上げた。
「確かに――そうかもしれない」
 うなずく邦夫に、紘一は続けて言った。
「話に水を差したくないんで、とりあえず最後まで黙って聞いてたけど、今度は俺の番だ。気を悪くしないで聞いてくれ」
「ああ」
 紘一は、いったん隣の多佳子に目を移し、
「多佳子は知らなかったんだな。遠足の遭難話。六年の春の」
「うん。あたし、六年に上がる前に転校しちゃったから。あなたたちといっしょにいたのは、四年から五年生まで」
 三人の通った第一小学校は、低学年から高学年に上がるときの一度しか学級替えがない。
 紘一は、邦夫に視線を戻し、
「お前、さっき言ったよな。あの廃駅に悠子を残して、お前はひとりで助けを呼びに出たって」
「ああ」
 あの夜、邦夫は迷いに迷った末、最も現実的な道を選んだ。幸い、すぐに山中の測候所に行き当たり、大人を連れて引き返し、悠子も無事に助かったのである。
 紘一は続けた。
「お前には辛いかもしれないが、俺の知ってる限り、測候所は山ひとつ奥にしかない。そして俺の知ってるお前――ちょっとおかしいか――つまり、さっきまでの俺が知ってた長岡邦夫は、あの日から、一度も帰ってきてない。ずっと行方不明のままなんだ」
 邦夫は悄然とうなずいた。再会したときの紘一の言葉から、おおむね推測はしていた。しかしこの際、『違っている』世界の自分の運命に、さほど未練は感じない。大切なものは別にある。
 邦夫は訊ねた。
「じゃあ、悠子は……」
 多佳子も、固唾を飲んで紘一を見つめた。
 紘一は答えた。
「翌朝、捜索隊が見つけてくれた。昏睡状態だけど、息はあった。今も生きてる」
 邦夫と多佳子は安堵した。
 しかし紘一は、痛痒を隠さず、
「ただ――あの日から昏睡状態のままなんだよ。脳の一部が、凍えて壊死しちまったんだそうだ。つまり、頭の中以外は健康体に戻ったけど、ずっと眠りっぱなしなんだな。この二十年、一度も目を覚ましてない」
 邦夫は、膝の拳を震わせた。
 紘一は続けて言った。
「昨日、お前が自分の家や悠子の実家に電話しても繋がらなかったのは、再開発のためだけじゃない。お前の親御さんは、十年くらい前かな、川沿いの新県庁の近くに引っ越しちまったし、悠子のほうは、あの夏には天童の施設に移ってる。親御さんも、そっちに引っ越した」
 邦夫は無言で耐えていた。
「……知らなかった……あたし……」
 多佳子が、嗚咽を漏らしはじめた。
「……こんなことなら……帰ってきて、すぐに…………」
 それができなかった多佳子の心も、昨夜話を聞いた邦夫には解る気がした。
 紘一も、含むところがあるように、
「ごめん。言っとけばよかったな。辛い話だし、わざわざ俺から切り出すこともないと思って」
 多佳子は、テーブルの紙ナプキンで顔を拭いながら、
「……逢ってくる。紘一、悠子ちゃんのいるとこ、詳しく教えて」
「あ、ああ。ちょっと待って」
 紘一は自分の携帯を開いた。
 持ち合わせのメモに電話や住所を写し、多佳子に渡す。
「サンキュ」
 多佳子は立ち上がり、邦夫の腕を引いた。
「邦夫君も行こうよ。すぐ車出すから」
「俺は……」
 邦夫は逡巡していた。
 逢いたい。悠子に逢いたい。しかし――それは俺の悠子なのだろうか。
「……紘一」
「おう」
「お前の車、出してくれないか」
「どこへ?」
「あの駅に戻りたい。俺ひとりじゃ、また道に迷う」
 多佳子は目を丸くした。
 邦夫は続けた。
「俺の女房は、あそこにしかいない気がする。あの駅で、今も消えた俺を探してるような気がするんだ」
「送ってもいいが……俺があの駅まで案内するのは無理だ」
「忙しいのか? じゃあ、車だけ貸してくれ」
「違うんだよ。今のお前にも、戻れるかどうか」
 邦夫が怪訝な顔をすると、紘一は目を逸らして言った。
「あの駅舎は、春先に撤去した。宅地造成中なんだ。線路も全部はずして、遊歩道に整備中だ。親父の会社で、俺が担当してるんだから間違いない」
 家どころか、あの場所まで――。
 暗澹とする邦夫の腕を、多佳子は強く引いた。
「そんなことより、悠子ちゃんに逢おうよ! ちゃんといるんだよ! あの悠子ちゃんだよ!」
 そのとき、紘一の開いていた携帯が鳴った。
 渦巻いていた三者三様の情動が、ふと鎮まった。
 紘一は、息を整えて電話に出た。
「――はい。ああ、久保君? ご苦労様。何かあったの?――え? ……本当か? 警察には連絡した? ……わかった。すぐそっちに行く。三十分――いや、一時間くらい。――うん。じゃあ、それまでよろしく」
 紘一の声は、平静から驚愕へ、さらに動揺へと変わっていった。
 紘一は携帯を閉じ、力なく顔を伏せた。
「まいった……よりによって、今かよ」
「何?」
 多佳子が不安げに訊ねると、紘一は、うつむいたまま答えた。
「……子供の骨が見つかったそうだ。あの山の藪の中で」
 邦夫と多佳子は、愕然として顔を見合わせた。
「でも、まさか、そんな……」
 祈るような多佳子の言葉を、
「子供の行方不明なんて、あれ以来、峰館じゃ一度も起きてない」
 紘一はそう否定しかけたが、ふと顔を上げ、
「いや待て。それ以前かも……土地の子供とも限らないな」
「そうだよ!」
「行ってくる」
 紘一は足早に店を去った。
「……先に進むしかなさそうだな」
 邦夫は立ち上がり、多佳子の肩に手を置いた。
「お願いするよ。死んだ自分より、生きた悠子が見たい」
 多佳子は、邦夫にしがみついた。
「大丈夫……まだいる……邦夫君も……」
 存在を確かめるように、震える手で、多佳子は邦夫の背中をまさぐった。

     5

 天童に続く国道13号線は、邦夫の知っている四車線のバイパスとさほど変わっていなかったが、峰館市の北端あたりに、高速道路に繋がるらしい立派なインターチェンジが見えた。
「あれは……」
 邦夫が助手席から訊ねると、多佳子は前を向いたまま、さりげなく応えた。
「峰館自動車道。宮城の東北道から、鶴岡のほうの日本海高速に繋がってるの」
「便利になったなあ」
 長い旅から帰ったような邦夫の口調に、多佳子は共感の微笑を浮かべた。彼女も今年帰郷したばかりである。
 紘一に教えられた施設は、天童市をほぼ縦断し、東根市に入る少し前の乱川《みだれがわ》沿いにあった。
 果樹の香りが漂いはじめた車内で、路傍の方向指示を兼ねた案内板を見定めた邦夫は、
「ここなら安心だ」
「え? 知ってるの?」
「少し場所がずれてる気もするけど、同じ病院が経営母体になってる。戦前から良心的な経営で有名な、地元の精神病院なんだ」
「そっか。邦夫君、そっち方向のお役人だったね」
 多佳子も安心したように、
「あの悠子ちゃんだもん。何十年たったって大切にされてるよ」
 邦夫はうなずいた。
 たとえ稼業の維持に忙しく、自宅で介護できないとしても、あの人の良い義父と義母が、悠子を無責任な施設に委ねるはずはないのである。
 やがて、林檎や桜桃の果樹園に囲まれた広々とした敷地に、特養から有料のケアハウスやグループホームまでを含む、総合介護施設が見えてきた。老人以外を対象とした介護施設も併設されている。悠子はそこにいるはずだった。
 北に乱川を見下ろすロータリーの駐車場に車を停め、車外に出た多佳子は、吹きつける風に身を震わせた。
「わ。この辺は、まだ寒いね」
 それほど北上したわけではない。多佳子は店での薄着のまま、車を出してしまったのである。
 眼下の乱川は細々とした流れだが、峰館川同様に最上川の支流で、河原自体はかなり広い。周囲が峰館のように開発されていないぶん、芦や葦の繁みを渡った川風は、そのままの涼風で果樹園を吹き抜ける。
 邦夫は、リュックに突っこんでおいたレインジャケットを引き出し、多佳子の肩に被せた。
「……サンキュ」
 多佳子が面映ゆそうに笑った。
 目的の施設に向かいながら、
「面会予約とかしてないけど、大丈夫かな?」
「ああ、会えると思う」
 紘一に聞いた話から、邦夫には推測できた。その『違った』悠子が、単に目を覚まさないだけで、それ以外は健康体なら、外部からの主立った介護は、おそらく経腸栄養法――PEG(経皮内視鏡的胃瘻造設術)、褥瘡を防ぐための頻繁な体位変換、排泄物処理を含む清潔の維持、去痰、あとは肺炎に極力注意するくらいか。つまり寝たきり老人介護の延長である。面会謝絶ということはない。むしろ親しい縁者による外部からの刺激は歓迎されるはずだ。
 小綺麗な和風ホテルと、事務的な病院の窓口をないまぜにしたような受付の奥には、白シャツ姿のやや年輩の男性職員がひとり、ジャージ姿の女性職員がふたり詰めていた。そこが事務室を兼ねているのだろう。
 ふたりが来意を伝えると、予想どおり、なんの問題もなく面会記録簿のノートが差し出された。
 若い小柄な女性職員は、ふたりをねぎらうように、しきりに頭を下げながら、
「小学校時代のお友達ですか? もしかして沖坂さんとも?」
「はい」
 多佳子が応えた。
「あの、私たちは長く峰館を離れておりまして、つい最近戻ったばかりなんですけど」
「それはご苦労様です。ご案内しますね」
 廊下も病院のような無機質さはなく、ベージュを基調にした柔らかい色に統一され、そう新しい建物でもないらしいのに、エレベーターの隅々まで清掃が行き届いていた。
「こんなことを言うと、おかしいかもしれませんけど、悠子さん、幸せだと思いますよ」
 女性職員は、なぜか声を潜めて言った。
「ここには何年も寝たきりの方が多いんですけど――ご両親やお友達の方々が、こんなにたびたびお見舞いに来てくださるんですもの」
 人間は、なかなか綺麗事だけでは生きられない。
 水商売でも役所勤めでも、どんな職場でも、長く働くほどそれを痛感する。邦夫と多佳子は、女性職員に深々と頭を下げた。悠子の両親や沖坂に対する感謝も、同時にこめられていた。それぞれの内心の葛藤に関わらず、結果の形だけで美しい行為は多々ある。
「こちらです」
 三階の、窓の多い通路に並ぶ個室のひとつを、女性職員は示した。
 扉横の名札には『三浦悠子』とあった。
 それが『長岡悠子』ではないことに、邦夫は、もう失望しなかった。ただ懐かしさだけが心を満たした。
 通路に面した扉は開け放たれ、ベージュのカーテンだけが閉じられていた。
「お邪魔します、三浦さん」
 朗らかな声をかけながら、女性職員がカーテンを引いた。
 どんなに完璧な施設でも避けられない排泄臭は、邦夫が予想していたより、驚くほど微かだった。
 南に面した明るい窓の、白いレース越しの穏やかな陽光の下で、悠子は眠っていた。
 奥の側へ横向きになっているので、顔ははっきり見えないが、毛布の下で胎児のように身を縮め――いや、胎児よりもずいぶんのびのびと、しかし胎児のように安らかに眠っていた。
 部屋の隅にあったふたつの布張りの丸椅子を、女性職員が引き出し、邦夫たちに勧めた。
「どうぞ」
「いえ……」
 ふたりが遠慮すると、女性職員は、じゃあ、とベッドに向きなおり、
「三浦さん、お休みのところ、ごめんなさい。そろそろこちらを向きましょうね」
 小柄な体をかがませ、自分よりも大柄な悠子に、流れるような動作で楽々と寝返りを打たせた。
 それから、頭だけでなく腰や足元にも添えた枕の形を入念に整え、
「それじゃ、私、お茶をお持ちします」
「あ、おかまいなく」
「おかまいするのが仕事なんですよ」
 親しげな笑顔を見せて去っていく女性職員を、多佳子は感心して見送った。
「プロだねえ」
 邦夫はうなずきながら、悠子の枕辺に歩みよった。
 今は、はっきりと顔が見えた。
「悠子……」
 そのものだった。
 無論、髪の形や眉の生え際などは、悠子自身の手入れとは違う。しかし、大きめの目を思わせるふくよかな瞼、弥勒像のように柔らかく閉じた口元――昨日の朝の寝顔と、なにひとつ変わらなかった。
「悠子……」
 多佳子も歩みより、邦夫の肩越しに、悠子の顔を覗きこんだ。
「……綺麗になったね、悠子ちゃん。まあ昔から、超かわいかったけど」
 声が潤んでいた。
 邦夫は、抑えきれずに叫んだ。
「悠子!」
 顔を見るまでは、現在の夫ではなく『違う邦夫』あるいは福祉課職員として、褥瘡や胃瘻などの状況もチェックしようと思っていたのだが、それらの理性は、どこかに飛んでしまっていた。
「俺だ! 俺だよ、悠子!」
 悠子の肩を揺さぶりはじめる邦夫を、多佳子はあわてて抑えた。
「ちょ、ちょっと、ここは見るだけで――」
 しかし邦夫は、揺すり続けながら、能う限りに叫んだ。
「悠子! 悠子!」
「だめだってば!」
 多佳子は力任せに、邦夫の腰を引いた。
 邦夫の手が止まった。
 揺すられても閉じていた悠子の唇が、微かに動いていた。
「あなた……」
 蚊の鳴くような声だった。
 しかし確かにそう聞こえた。
「え?」
 多佳子は強張った。
 邦夫も固まっている。
 と、多佳子の両手が、宙を泳いだ。
「――え?」
 数瞬後――多佳子は、悠子の枕辺に、自分ひとり佇んでいるのを悟った。
          *
 多佳子は丸椅子に座りこみ、赤子のように眠り続ける悠子の顔を、静かに見つめ続けていた。
 不思議に涙は流れなかった。
「失礼します」
 背後から、あの女性職員の声が聞こえた。
「あら、あの方は?」
 室内に響き渡るような邦夫の叫び声も、職員たちの耳には届かなかったのだろうか。
 そもそも、どこからどこまでが本当の出来事だったか、多佳子には解らなかった。
「……先に帰りました」
 思ったより、落ち着いた声が出た。
「たぶん、家に」
「あら、気がつきませんでした」
 女性職員は首を傾げながら、それでもお茶をひとつ、置いていってくれた。
 多佳子はそれからも小一時間、悠子の寝顔を見守り続けた。
 ときどき、ほんのわずかだが、唇の端を緩ませるように見えるのは、自分の気のせいだろうか。
 ポシェットの中で、何度か携帯が震えたが、話す気にも読む気にもなれなかった。
 やがて立ち上がり、戸口のカーテンを引き開けながら、多佳子はベッドをふりかえって、ぽつりとつぶやいた。
「……幸せなんだよね、悠子ちゃん」
          *
 とぼとぼと車に戻り、キーを回した頃、多佳子は本来の多佳子に戻っていた。
「――ふん!」
 声を出して、下腹に気合いを入れる。
 なんであれ、自分も自分の砦に戻らなければならない。
 ようやく携帯を見る気になり、いくつも溜まっていた同じ着信先を、思いきって呼び出す。
「や、紘一」
『何やってんだお前! 俺は心配で心配でお前!』
 怒号のような声が、反対側の耳まで響いた。
 私に怒鳴ってくれる人もいるんだよな、と多佳子は思った。
「鼓膜が破れるよ」
『――ごめん。今、どこだ?』
「お見舞い終わって、そこの駐車場」
『どうだった? 邦夫は?』
「悠子ちゃんは、ぐっすり寝てる。邦夫君は――消えちゃった』
『……マジか?』
「うん。悠子ちゃんに逢ったとたん、消えちゃった。ハットリ君みたく、ドロンって」
『……そうか』
「あれ、驚かない?」
 紘一の応答が、つかのま途絶えた。
 向かった山の現場らしい、遠い人声や風音が続いた後で、
『……近くで子供のリュックが見つかったんだ』
「え? お骨じゃなかった?」
『いや、そっちの後で。俺が着いてから。一時間くらい前だな』
「……うん」
『ぼろぼろだけど、縫い取りの名前が残ってて――多佳子、気をしっかり持てよ』
「大丈夫。もう何があっても驚かない」
『――「長岡邦夫」』
 双方で長い沈黙が続き、やがて、多佳子が口を切った。
「幽霊……だったのかな」
 紘一は、少し言い淀んだ後、
『――こっちが落ち着いたら、店に寄る。委細面談』
「うん。貸し切りにしとく」
『あと、帰りの運転は止めとけよ。天童駅までタクシー、いや、そのあたりじゃ拾えないか。ハイヤー会社の番号は――』
「大丈夫だってば。じゃあね」
「おい、飛ばすなよ」
 通話を終え、車を出そうとしたところで――多佳子は、あることに気づき呆然となった。
 男物のレインジャケットを、肩に羽織ったままだったのである。
「……土産置いてくか、ふつう、幽霊」
 多佳子は、笑いながら泣きはじめた。

     6

 会社や警察に片をつけ、私服に着替えた紘一が『hey,say! 01』の扉を叩いたのは、夜の九時を回った頃だった。
 ジョージ・ウィンストンのピアノが流れるカウンターから、多佳子が軽く手を上げた。
 いつもはラフな出で立ちの多佳子が、黒い紗のドレス姿をしているので、紘一は、何か不思議な物を見るように足を止めた。
「……違う店に来たかと思った」
「あんたのは、不謹慎すぎるんでない?」
「お通夜は、これでいいんだ」
 本当の長岡邦夫の通夜は、無論まだ先である。両親の意向によっては、営まれないかもしれない。
 カウンターに座った紘一に、多佳子はいつものジン・フィズを出した。
 間近に見る紘一の目には、充血が残っていた。
「何か食べる?」
「ああ。腹に溜まるものがいいな」
「あんたはお通夜でも大飯かっ食らう気かい」
「昼から何も食ってないんだぞ。だいたい峰館の通夜振る舞いなら、酒も肴も飯も飲み放題食い放題。常識だろ」
「まあね」
 紘一が大盛りのスパゲティを食べ終えると、多佳子は紘一に並んでカウンターに座った。
 消えた大人の邦夫の話も、二十年を経て発見された子供の邦夫の話も、眠り続ける悠子の話も、お互い、あえて口にしなかった。
 あの遠足以前の、四年から五年にかけての思い出話を、とりとめもなく、尽きるまで続けた。
 夜半を過ぎた頃、数分の静寂を経て、どちらからともなく、今日別行動に移った後の話が始まった。
 紘一は、殺伐とした経験なので簡略に切り上げたが、多佳子は違った。
「……そうか。『あなた』か。確かに言ったんだな?」
「うん。間違いないよ」
 多佳子は続けた。
「あたしね、思うんだ。きっとあの邦夫君は、悠子ちゃんの夢の中の人だったんだよ。悠子ちゃんがずっと見続けてる夢の中から、なんかの拍子に、こっちに紛れこんじゃったの。それが、今はちゃんと夢の中に戻ったの」
「ああ」
 紘一は優しくうなずきなら、カウンターの奥の棚に掛かっている、男物のレインジャケットに目をやった。
「ずいぶん念の入った夢だったけどな」
 それから自分の札入れを取り出し、新札に近い伊藤博文翁をちらつかせ、
「昼間、邦夫に見せられたとき、一枚替えてもらったんだ。さっき知り合いのコイン商に見せたら、精巧な偽札じゃないかと言われた。どう見ても本物だけど、番号がありえないそうだ。こいつがもし本物なら、昭和六十二年から六十三年あたりに刷られた勘定になる。でも本物は、五十九年に刷り終わってる。夢の中から本物の上着や金――ちょっと無理があるかもな」
「でも、それじゃ今の悠子ちゃんは……やっぱり、ひとりぼっち?」
 哀しげな多佳子に、
「そうは言ってない」
 紘一は大らかな笑顔を向けて、
「だって、邦夫を『あなた』と呼んだんだろ。夢の中の邦夫は、ずっと悠子の中で暮らしてたんだよ。まあ、ちょっと雲隠れくらいはしたかもしれないけど」
「それじゃ、あの邦夫君は……」
「ああ。当然、昭和が終わっていない世界から来たんだろう」
 紘一は立ち上がり、カウンターの端の隠し戸を潜った。
 あのレインジャケットに手を触れ、
「土台、並行世界って概念をつきつめれば、そこで起こる無数の局面がどっちにどう転ぶか、そのあらゆる可能性を掛け合わせた数だけ世界がある。つまり時間の経過と共に、世界が無限に枝分かれして増えていくわけだ。俺だって今までは本気で信じちゃいなかったが――現にあの邦夫は、こっちにない代物を残していった」
 ジャケットを放すと、紘一は冷蔵庫からグレープ・ジュースを取り出し、
「でも……夢、なのかな」
「どっちやねん」
「そういう意味じゃない」
 紘一は棚の酒瓶を見つくろいながら、続けて言った。
「夢の中の出来事が、実は別の世界の現実だった――そんな話は、けっこうあるだろ?」
「うん」
「並行世界が夢を媒体としてとっちらかる、なんてのも、小説から自称ノンフィクションまで、よくある話だ」
「うん」
「たとえば、こっちの悠子は、そのもうひとつの『昭和』――自分が無事に助かった世界を、夢を通して見ていた。見ていたっていうか、夢だって見ている間は実感があるわけだから、主観的には共有だな。でも何かの拍子に、あの遠足のときの不安が蘇って、悠子の夢の中から邦夫が消える。それがもうひとつの『昭和』に干渉して、そっちの邦夫がこっちにとっちらかる――あくまで空想だけどな」
 言いながら、紘一はシェイカーを用意し、自分でカクテルを作りはじめた。
 多佳子は訊ねた。
「じゃあ、消えちゃったのは?」
「それも空想でよければ」
「うん」
「なんぼ別世界の人間だって、同一人物が同じ世界にふたりいるってのは、どう考えても無理があるだろう。こっちの邦夫が、ああいう形で現れちまったら、あっちの邦夫は、当然こっちにいちゃおかしくなる。だから自動的に強制送還――そんなとこじゃないか? きっと今頃は、あっちの『昭和』に戻って、染太で鰻でも食ってるのさ」
「悠子ちゃんといっしょに?」
「ああ」
「夢の中でも?」
「笑ってたんだろ、悠子」
「……うん」
 多佳子は頬笑んだ。しかし、まだ哀しげな微笑だった。
「でも……こっちの邦夫君は……」
 紘一はシェイカーを振りながら、
「若い身空で骨になって、かわいそうだってのか? 俺は断じてそうは思わない。あいつはできるだけのことをやった。悠子のために死ぬまで走った。あの大人の邦夫と、どう違うってんだ。測候所の場所が、ちょっと違ってただけじゃないか」
 ふだんと同じ紘一の穏やかな声に、多佳子は蒸留酒のような見えない精《スピリット》を感じた。
「俺はこっちの子供の邦夫を、誰がなんと言おうと、力いっぱい褒めてやるね。あんなに馬鹿正直なガキなんて、邦夫以外、見たこともない」
 紘一は、仕上がったムーン・リバーを、ふたつのグラスに注いだ。
「――ま、何もかも、俺の勝手な夢かもしれないけどな」
 片方を手に、もう片方を多佳子に差し出し、
「夢って奴は曲者だよ。『予知夢』とか、あるだろ。『既視感《デ・ジャ・ヴュ》』なんかも、よく考えたら昔夢で見た情景だったとか。もちろん精神医学的には、あーじゃこーじゃ合理的に説明されてるけど、本当のところ、宇宙論と同じで全部仮説だ。俺たちだって、実は、誰かの夢の中で飲んでるのかもしれない」
「……うん」
 多佳子のグラスに紘一のグラスが当たり、涼しい音をたてた。
 紘一は言った。
「ところでさ。――片桐多佳子さんは、沖坂紘一君の夢の中に、いっぺん入ってみる気はないか」
「……誰かさんの後釜なんじゃない?」
「お互い様だろう」
 多佳子は、グラスに口をつけ、
「……ちょっと甘すぎ。糖分を控えて、夏までに十キロ痩せなさい」
 紘一はグラスを手にしたまま、悩ましげに訊ねた。
「クリスマス・イブじゃ、だめか?」
「うーん。――ま、いいか。ところで今、あんた正直に何キロ?」
「……八十五」
 多佳子は紘一の腹を見定め、納得すると、壁に掛かっていた懐古調の日めくりを繰り、最後に近い一枚に、なにやら赤ペンで書きつけはじめた。
『紘一ダイエット 75s厳守!』、そう手書きされた丸文字の上には、【12月24日】【日曜】【平誠1年(1989)】と印刷されていた。

     7

 廃駅の屋根を揺るがすように叩く雨脚は、いっこうに治まる気配がない。
 昭和四十四年、あの遠足の夜。
 意識を失った悠子の高熱に気づき、焦りで寒さを忘れていた邦夫だったが、思い惑ううちに、また体が勝手に震えはじめていた。自分の雨具も悠子に着せてしまったので、大人ほど厚みがない邦夫の濡れそぼった体は、すでに芯まで冷えきっている。
 それでも、一刻も早く悠子を医者に診せなければならない。せめて薬を飲ませたい。
 邦夫は逡巡していた。
 悠子を置いてひとりで人家を探すか、悠子を背負って麓をめざすか、選択しなければならなかった。
 自分も相当に弱っている。もともと頑健な体でもない。悠子を背負って、どこまで歩けるか自信がない。ならば自分だけのほうが、早く大人を呼べるのではないか。
 ――まずは、ひとりで探そう。
 悠子に施した即席の防寒処理をもう一度あらためると、邦夫は踵を返して、駅舎から走り出そうとした。
 そのとき、悠子の声が聞こえた。
「あなた……」
 蚊の鳴くような声だった。
 しかし確かにそう聞こえた。
 ――あなた?
 邦夫は足を止め、長椅子に引き返し、悠子の顔を覗きこんだ。
 悠子は眠ったまま、蒼白い顔で微かに頬笑んでいた。
 やはり空耳だったのかもしれない。さっきまで邦夫は『邦ちゃん』と呼ばれていた。
 しかし、熱に浮かされたうわごとだとしたら、悠子はいったいどんな夢を見ているのだろう。
 嫉妬とも焦燥ともつかぬ、奇妙なためらいを邦夫は感じた。『あなた』という大人言葉が、テレビや漫画で見る夫婦の呼び合いや、その手の流行歌を連想させたからかもしれない。
 悠子が『あなた』と呼ぶ相手は、やはり男なのだろうか。
 夢の中で、その男を呼んでいるのだろうか。
 その男は――。
 それは、俺であってはいけないだろうか。
 邦夫は、最前の選択を覆した。
 悠子をひとりにしては行けない。
 いや、俺がひとりになりたくないのだ。
 邦夫は意を決し、眠る悠子を背負い上げると、滝のような雨に煙る夜の廃線軌道を、麓に向かって走りはじめた。

     ◇          ◇

「――まったく、ありゃ究極の選択だったな」
 邦夫は、つい、ひとりごちた。
 それほどなまなましい夢だった。
 眠りの中まで声が届いたのか、邦夫の右肩に、雨具の頭がもたれてきた。
 その奥から、なにかくぐもった寝言が聞こえた。
 邦夫を呼んだような気がしたが、定かではない。
 ――俺たちって、何年たっても成長しないよなあ。
 邦夫は、肩にもたれているフードを、軽くたたいた。
「おい、そろそろ起きろよ」
 レインウエアの塊から、ゆっくりと手脚が生えた。
 フードが下がり、顔も覗いた。
「ふああああ」
 なかなか大きな口である。ショートカットの小ぶりな瓜実顔は、三十路を過ぎてもまだ可憐なのだが、欠伸のときだけは下半分が全部口になるような気がする。
「……おはよ」
 しかし口さえ元のサイズに戻れば、やはり可憐なのだ。多少厚ぼったい瞼が、まだ半眼の半睡状態でも。
「……変な夢、見ちゃった」
「どんな?」
「小学校の遠足のとき、あなた、あたしを置いて逃げてっちゃうの」
 邦夫は虚を衝かれた。やはり昔の夢を見ていたらしいが、肝腎の結末が違う。しかし、誰にも話したことはないが、いったん置いて行こうとしたのも事実である。
「俺は、よっぽど信用されてないな」
「でも、戻ってきてくれたみたい。たぶん」
「たぶんかよ」
「だって、そこで起こされちゃったんだもの」
「ちょっとはましか。――雨、上がったぞ」
 邦夫が駅舎の庇を見上げると、悠子も見上げ、目を見開いた。
「わあ……」
 塗り直された駅舎の庇から滴る驟雨の名残りは、光の錦糸の帷から、まばらな光の珠へと変わりつつある。
「……綺麗」
 邦夫は、悠子の大きな丸い瞳に映る光の珠を、横目で追いながらうなずいた。
「うん」
 ほどなく駅舎には、邦夫たち以外にも、家族連れとカップルのハイカーが、ひと組ずつ集まってきた。
 偽古風とでもいうのだろうか、いかにも昔からそうだったように修繕されたこの小さな無人駅は、あくまで物好きなハイカーを拾うための、ついでのような存在になっている。日曜でも利用客は多くない。
 列車到着予定の数分前、大きなビジネス用のショルダーバッグを下げた、森林鉄道にはきわめて不釣り合いな背広姿の男が、駅舎に入ってきた。肥満体だが、いわゆる硬太りなので不健康には見えない。
「おい!」
 邦夫は驚いて手を上げた。
「よう」
 紘一は破顔すると、ふたり分の幅をとりながら、邦夫の隣りに腰を下ろした。
 邦夫を挟んで、悠子が紘一に訊ねた。
「沖坂さん、日曜なのにお仕事?」
「うん。土日関係なし。この上に建ててるペンション、うちの物件なんだ。何かあると、すぐ呼び出される」
「大変ね」
「そう。大変なの」
 ショルダーバッグの中から、単調な電子音が響いた。
「うわ、またなんか来たよ」
 紘一はバッグから、煉瓦ほどもある携帯電話を取り出し、どこそこの建売で配管がどうのこうの、そんな会話を数語交わしただけで、すぐにしまいこんだ。
 邦夫は苦笑して言った。
「便利なんだか邪魔なんだか、わからないな」
 邦夫も仕事柄ポケベルは持たされているが、小さいし、直接しゃべらない。
「お前らみたいなお役人と違って、こっちはお客様が神様だ。奴隷は常にどでかい御神体をぶら下げて歩く。今年中に小さくなるなんて噂もあるけどな」
 昔から先進アイテムの好きな紘一は、嬉しそうに言った。
「でも良かった。もう済んだ。今夜はゆっくり飲める」
 邦夫は訊ねた。
「片桐さんの店?」
「まあね」
「進展してるのか?」
 紘一は、女性が聞いてるとこでその話はよせよ、そんな顔をして見せた。
 邦夫は平然と、
「悪いけど、女房のほうが詳しいと思う。片桐さんとはツーカーだから。でも、俺には教えてくれないんだよ」
 紘一は、観念したように、
「とりあえず、冬まで十キロ痩せないと」
「……飲んでる場合じゃないだろう」
 悠子は、澄まして聞かないふりをしている。
 彼方から、列車の音が響いてきた。
 邦夫たちは他の客に混じって、コンクリートのホームに出た。
 終点の展望公園で遊んできたらしい、かなりの観光客を乗せたトロッコ列車が、新緑の木漏れ日を浴びながら近づいてきた。
 軌道も車両も古くなく見えるが、実は二十年以上昔の林業用鉄道を、修復再利用している。カラフルな屋根付き客車の底を支えているのは、昔木材を運んだ車両のシャーシそのものである。それでも赤ペンキで厚化粧された機関車の正面には、真新しい銀色のプレートが光っていた。
 紘一が言った。
「『平成号』――安易なネーミングだよなあ」
「まったく」
 邦夫が同意すると、
「そう? 私は好きだな」
 悠子は五月の風の中で、木の葉に揺れる光の雫のように笑った。
「とってもすなおで、わかりやすいじゃない?」
 




                             〈了〉
 

 
 

2012/06/16(Sat)23:43:17 公開 / バニラダヌキ
■この作品の著作権はバニラダヌキさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
星猫さん物件も未更新のまま、こんな世界に逃げてしまいました。狸の腹鼓を聞き慣れた方々は、登場人物の名前に著しい既視感を抱かれると思われますが、これもまた『たかちゃんシリーズ』と同じ実在のモデルへの懐旧から生まれた物語ですので、『よいこのお話ルーム』ならぬ『疲れた大人のお話ルーム』だと思ってやってください。
なお、主人公のみ、モデルとは性別が変わっております。ごめんね、くにこちゃん。

2012年6月7日、初稿投降。
6月9日、修正。彩様のご感想を参考に、昭和サイドを少々平成寄りに動かしました。また、天野様のご感想を参考に、冒頭の描写を修正しました。
6月10日、中村様のご指摘を受け、頭をかきつつ一語修正。
6月16日、脱字等、細部の修正。また神夜様のご感想を参考に、『2』の冒頭(と、それに関連して『1』も少々)を修正。さらにママンのご感想を参考に、遠足の日の朝と午後の流れの急転換を少々緩和(でも悠子のエピソードはまだ増えてません。ごめんなさいごめんなさい)の上、季節感を考慮して改題。やっぱり『空蝉』だと、遠足というより夏休みですもんね。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。