『失恋』 ... ジャンル:恋愛小説 恋愛小説
作者:たっちゃん
あらすじ・作品紹介
付き合っていた佳奈ちゃんに振られてしまったケンちゃんから僕のところに電話がかかってきます。その電話のやり取りを描いたものです。よろしくお願いします。
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「ごめん、こんな時間に電話して」
ケンちゃんから電話がかかってきたのは、僕が塾のアルバイトを終え、一人暮らしのアパートに帰り着いた夜の十一時前だった。一言目のごめんで、あれ? 変だな、ケンちゃんは普段、自分からごめんと謝ることはないのに、と気がついたのも束の間、ケンちゃんは切り出した。目の前のグラスが揺れた。
「俺、振られちゃった」
ケンちゃんの声は、怒っているようにも、呆れているようにも、悔しがっているようにも聞こえたけど、ほんの少し、湿ったような、震えたような、泣き出しそうな声になっていたようにも、僕には聞こえた。ケンちゃんは続ける。
「他に好きな人ができたんだってさ、何だよ、それ、だよなあ。佳奈ちゃん、あんな可愛い顔して、意外に薄情だと思わない? 他に好きな人ができました、だから別れてください、だってよ。何だよ、それ。おかしいじゃんよ。なあ、お前もそう思わないか? ふざけんなだよなあ。何だよ、マジで」
ケンちゃんは一気にまくしたてて、さらに怒ったような声を続ける。僕は黙って、うん、うんとケンちゃんの話を聞く。ケンちゃんにいくらでも話をさせてあげたい。気持ちの整理をつけさせてあげたい。強がりで、意地っ張りで、それでいてまっすぐなケンちゃんだ。だから分かる。ケンちゃんは今でも、佳奈ちゃんのことが、大好きなのだ。そのやり場のない気持ちをどう表現していいか分からなくて、戸惑って、気持ちのまま気持ちを言葉にできない、そんな状態なのだろう。悲しいのに、泣けない。悲しいことだと認めるのは、あまりに残酷で、悲しくて、辛いことだから。
「俺、本当に佳奈ちゃんのこと好きだわ」
ケンちゃんは、いつもそうやってのろけていた。授業中に急ににやけ始めたと思ったら、佳奈ちゃんからメールが来たと嬉しそうに笑うケンちゃん。大学の食堂で僕とご飯を食べているときも、きょろきょろと佳奈ちゃんを探しては、佳奈ちゃんがいないことに残念そうにため息をつくケンちゃん。たまたま廊下で佳奈ちゃんと会ったときの満面の笑顔のケンちゃん。お前には世話になってるから報告しないとな、なんて無理やりな理屈をつけて、僕に日曜日のデートを幸せそうに話してくれるケンちゃん。
本当に大好きだったのだ、ケンちゃんは佳奈ちゃんのことが。
ケンちゃんが佳奈ちゃんと付き合い始めたのは、大学一年生の春休みのことだった。今から一年半前のことだ。
ケンちゃんと佳奈ちゃんは、同じバスケットサークルの友達で、ケンちゃんの猛アタックの末、付き合うことになった。ケンちゃんには初めての彼女で、佳奈ちゃんも誰かと付き合うというのはケンちゃんが始めてだったそうで、不器用なケンちゃんがうまくお付き合いをできるか、僕は少し不安だったけど、ケンちゃんの恋が実って、すごく嬉しかった。
二人でいる姿を僕は何回も目にしたことがあるけど、僕の目からは二人はすごくお似合いに見えた。ちょっと強引なケンちゃんと、少し控えめな佳奈ちゃん。照れ屋で素直になれないケンちゃんと、素直で正直な佳奈ちゃん。だけどまっすぐで優しい二人。
すごくいいなって、思っていた。幸せそうだなって、もしかしたらこのままずっといっしょにいられるんじゃないかな、なんて思ったりもした。もしかしたら、結婚――という言葉も頭をよぎった。
付き合って一年が過ぎた頃、ケンちゃんは言っていた。
結婚とか、そんな大それたこと、まだ考えられないけど、ずっといっしょにいられたらいいなって、ずっといっしょにいたいなって、思うよ。いつまでも、そばにいられたらって、うん。そうだな、ずと佳奈ちゃんのそばにいられたら、な。
自転車を二人で漕いでいるときに、照れくさそうに、だけど、すごく嬉しそうにケンちゃんは言っていたのだ。
十一時半。ケンちゃんの素直じゃない愚痴は、まだ続いている。佳奈ちゃんは、ケンちゃんにこう言ったのだそうだ。
ごめんなさい、好きな人ができました。まだケンちゃんのこと、好きだけど、ケンちゃんよりも好きな人ができちゃったの。だから、もうケンちゃんとは付き合えない。別れてほしいの。私の一番は、もうケンちゃんじゃなくなっちゃたの。ごめんなさい。本当に申し訳ないとは思っているんだけど、どうしようもないの。その人のこと、好きになっちゃたの。だから、別れて、お願い――。
分かる。ケンちゃんの気持ちが痛いほど分かる。僕も昔付き合っていた女の子に、そう言って別れを告げられた。別れを告げられる側は、一方的にそれを受け入れるしかない。一人だけの気持ちでは、恋愛は成り立たない。それに、心変わりは、誰にでもあることだ、仕方がない。そう自分に言い聞かせて、受け入れるしかないけど、自分の心にそう言い聞かせられるまで何ヶ月もかかった。
「あいつ、馬鹿やろう。その好きになった男って誰だよ。連れて来いよ。ちくしょう。佳奈ちゃんの馬鹿やろう」
ケンちゃんは、最初の「馬鹿やろう」のところで声が滲み、「佳奈ちゃんの馬鹿やろう」のところで完全に涙声になった。それでいい。それでいいんだよ、ケンちゃん。僕は心の中でゆっくりと頷く。泣けばいい、泣けばいいんだよ。泣いてくれよ。
「悲しいよな、別れてくれってお願いされたんだぞ。お願いなんかするなよなあ。別れるならもっと言い方あるだろ……。一年半もいっしょにいて、その一年半をもっと大事にしてほしかったよ。あんな言い方されたら、まるで俺といた日々が無駄だったみたいじゃんかよ。なあ、だって、そうだろ? せめて、今までありがとうくらい言ってくれよ。ごめんとかじゃなくて、なあ……」
受話器越しに、洟をすする音が聞こえる。そうだろ? と聞く声に涙が混じる。
僕は大きく息を吸い込んで、言った。
「無駄なんかじゃないよ、ケンちゃん」
少しの沈黙のあと、うん、というケンちゃんの、涙がぽとりと落ちる音が聞こえた。
「佳奈ちゃんを好きになったことは、佳奈ちゃんと付き合えたことは、無駄なんかでも間違いなんかでもない、絶対にない」
うん。ケンちゃんの嗚咽が、揺れる。
愛したことは間違いなんかじゃない。絶対、絶対間違いなんかじゃない。だから、胸を張っていいんだよ。大好きだったって、思い切り胸を張って、泣けばいいんだよ。大好きだったって、いっしょにいれて幸せだったって、ありがとうって、忘れられないよって、忘れたくないよって、泣けばいいんだよ。
「ごめんな、こんな時間まで。何言ってるか分からないよな」
「謝るなよ、ケンちゃんらしくないぞ」
ケンちゃんの、ふふっと笑う声にずずっと泣く音が、混じる。
「俺さ、大好きだったんだ。佳奈ちゃんのこと、大好きだった」
「うん」
「今も、忘れられないよ、振られたって、好きだよ。そんなすぐに嫌いになれないよ」
「うん」
それでいいんだと、僕は思う。忘れられなくたっていい。嫌いになんかなれなくても、前を向けなくても、いいんだ。
もしかしたら、幸せを知ってしまうということは、不幸なことなのかもしれない。それでも、幸せだったって、そう泣けることは、不幸なことではないんだと、幸せなことなんだと、思いたい。
「でもさ、俺、幸せだった。嬉しかった。楽しかった。全部、忘れたくない。いっしょに水族館に行ったことも、佳奈ちゃんが作ってくれたハンバーグも、誕生日のケーキも、今年の初日の出も、全部、忘れたくない。大好きだった。大好きだったんだ」
ありがとうの涙が、一粒だけ落ちて、受話器越しに、ぽとりと泣いた。床に落ちた涙は、蒸発して、いつか雨となって佳奈ちゃんのそばに落ちるだろう。そのときに、どうか気づいてほしい。ぽつりと落ちる雨音は、ぽとりと落ちるケンちゃんの涙の音なんだと。ザーっと降る雨音は、ケンちゃんの、ありがとうの嗚咽なんだと。
佳奈ちゃんは、こんなにも、ケンちゃんから愛されていたんだと、ケンちゃんは、こんなにも、佳奈ちゃんのことが好きだったんだと、気づいてほしい。知ってほしい。
「ありがとう」
ケンちゃんは言った。たぶん、僕に向けて言った言葉だけど、ケンちゃんは佳奈ちゃんとの思い出を胸に抱きながら言ったはずだ。だから、そのありがとうは、佳奈ちゃんに向けて言った「ありがとう」と同じことなんだ――だから、僕はその「ありがとう」を泣きたくなるほど大切にかみ締めて、うんと目蓋を閉じた。
2012/05/03(Thu)20:13:05 公開 /
たっちゃん
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