『小さな悪鬼』 ... ジャンル:リアル・現代 サスペンス
作者:特攻人形ジェニー                

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 誰しも自分から望んで悪事を行うことはない、とかどこぞの偉い人が言っていたらしい。小学生の頃の先生に教わったことだ。
 わたしは最初これの意味がわからなかった。故意でもないのにどうして乱暴や泥棒ができるんですかと質問してみた。先生が答えた内容はこう。『悪いことをしなくちゃいけない人は、悪いことをしなくちゃいけないような状況に追い詰められているのよ。例えば淀川さん、あなたが食べ物がなくて飢えて死にそうになってて、足元に財布が落ちていたらどうする? 取りたくなくてもとっちゃうでしょう?』
 わたしはなんとなく納得した。わたしのお父さんは借金に塗れて空き巣に手を出したし、おばあちゃんは向いの家の良く吠える犬が怖くて殺してしまった。そうせざるを得なかったのだ。
 『悪いことをするには理由があるのよ。それがどんなに些細なことであれ、何に起伏した物であれ』
 難しい言い方だったけど、でも賢いわたしは先生の言ったにゅあんすを掴むことができた。つまりは許してあげてということだろう。わたしの机に落書きした人のことを。別に怒ってはいない。先生の弁に従うなら、彼らが悪戯を起こした原因は、わたしにあることになるのだし。
 子供が起こす『悪いこと』の理由は単純で、低俗で、些細なことだ。彼らは大人のように、何かにがんじがらめに追い詰められたりしていないから。だから大人は、ふつうは頭ごなしに悪戯っ子をしかるのだろう。しかしその先生だけはそれをしなかった。
 この三月、わたしは既にもう小学校を卒業していた。
 部屋で見ていた小学校の卒業アルバムを放り出してゴミ箱に捨てた。それから、ふと気が向いてわたしは散歩にでかけることにした。時間は夜中の一時前。子供は本来寝る時間であるが、夜の散歩は知らない世界を歩いているようで、すっかり癖になってしまっていた。
 外に出ると、わたしは夜風に残った冬の残滓に体を振るわせた。いつもいつもうっかりパジャマのままうろうろしてしまうので、明日の朝には風邪を引いてしまうことも多い。
 わたしの好きな漫画とかだと、夜に一人で出歩く女の子は、そのまま髭面のおじさんに誘拐されたり、酷い事件の現場を目撃したりする。そんなこと、そうそう起こりはしないと知っているのが残念だけれど。
 しかし思う。コナンくんのアニメで起こるような凶悪犯罪は、ニュースで絶対報じられない。世の中には報道規制という言葉がある。わたしが知らないだけで、ドラマチックな殺人事件があちこちで起こっているのだとすれば、ひょっこり出くわしてしまっても、もしかしたらおかしくないんじゃなかろうか。
 そんなことを考えて歩いていた矢先のことである。
 アスファルトの臭いに混ざって、僅かに血の臭いを感じた。鼻の奥にまでつんと届くような色濃い鉄の香り。たくさんの量のぶらってぃ、つまりはこれは事件の香り。
 わくわくとしてわたしは走った。心臓がどくんどくん鳴ってて、冷たい空気で太ももがかゆかった。ばりばりつめを立てながら進んだ。血の匂いに導かれ、わたしは事件へいざなわれていく。
 で、それは起こっていた。
 まさかと思ったことが起こっていた。
 粗末な鋸を携えた男の子が一人、二十歳くらいの男性の足をぐりぐり切り離していた。殺されている方の人はわたしも知っている。体育大学に入学した町の人気者で、マラソンが得意で駅伝にも出ていたお兄さんだ。その引き締まった足には、深々とこぎりの歯が食い込んでいて、とっくに使い物にならなくなっていた。
 のこぎりの歯を扱っているのは、お兄さんよりずっと小さな男の子。へっぴりごしで、凶器の扱いもへたくそだった。全身から汗をながしては喉を鳴らし、撫で付けるようにしてのこぎりを前後させていた。もっと全身を使えば良いのにと、わたしは心の中で応援を送る。
 がんばれ! 負けるな!
 どうしてこんなところで人の足を切り離しているのだろうと、わたしにはそれが疑問だった。ここは人のいない道の物陰だけれど、それでもこんな堂々と人を解体して良い場所ではない。それにどうやってお兄さんをここに呼び出したのかが気になった。
 などと疑問をもてあまし、わたしはすっかり探偵の気分になっていた。こういう時のわたしの悪癖。空気とか状況とかそういうものが読めなくて、対応が遅れてしまうのだ。今回もそうだった。
 はっとした風に男の子が顔をあげる。あれ、気付かれたかなとわたしが思うとほぼ同時、男の子はのこぎりを捨ててこちらに向かって走りこんだのだ。
 どーしよ。
 のこぎりが地面に落ちるがらんという音がした。転びそうな足取りで向かってくる男の子の手には、なんだか髭剃りみたいな形状の武器が握られている。漫画で見たことがある、すたんがんとかいう奴だった。
 わたしはあたふたとその場を離れようとして、足をほつれさせてずでんとその場にすっころんだ。がつんと頭を地面に打ち付けることで、少年のスタンガンはわたしの頭上を通過した。
 寝転んだわたしにスタンガンを打ち当てるには、少年もしゃがまざるを得ない。咄嗟に、わたしは少年の足首をつかんで思いっきり引っ張った。へっぴり腰の少年はその場でバランスを崩して転げそうになる。わたしは少年に組み付くように立ち上がると、その勢いで少年を突き飛ばした。
 一目散にわたしは逃げた。
 「てめぇ! 待ちやがれ」
 やだよ。わたしは思った。殺人鬼の少年は思ってたよりずっととろくさく、助かったという安堵の気持ちと同じくらいに、ちょっとばかり拍子抜けしたみたいな気持ちにもなった。
 ……あんなよわっちぃ子に、あの体を鍛えたお兄さんが殺されちゃったのか。そう思うとなんだか滑稽だった。

 男の子が起こしていたその事件の詳しい概要をわたしが知ったのは、翌日の三月七日のことだった。
 その日。昼過ぎに起床したわたしが向かったのは町の図書館だった。昨日の男の子のことが知りたかったのだが、家では新聞を取っていないので、やむを得ずの出張である。
 自転車には乗れないのでたかたか歩いて図書館にまでたどり着くと、自動ドアをくぐって暖かい施設内へと繰り出した。柔らかい静けさと紙の匂いが空気に満ちて、わたしは引き締まった気持ちになった。ふふん。探偵気分復活だ。
 わたしは今日の分の新聞を読んでいる土くさいおじさんの後ろに立って、首筋を突付いてこう言った。
 「あとで代わってね」
 おじさんは最初ぎょっとしたような顔をすると、わたしの方を見て柔らかい笑みを浮かべた。
 「どうだい。難しい言葉も多いだろう。おじさんが読んであげようじゃないか」
 そういうので、わたしは優しいおじさんの言葉に甘えることにした。
 「やったぁ! じゃぁ、ここ読んでください」
 「良いとも」
 わたしが指差したのは、昨日の夜に起きた殺人事件の概要についてだった。記事を読んでいくにつれ、彼の起こした殺人が連続殺人行為であり、わたしが見たのが五人目の被害者であるということが分かった。
 ……うわっ、連続殺人だって。そんなの本当にあるんだ。わたしは嬉しくなっておじさんに捲し立てる。おじさんはいぶかしみながらもにこにこと微笑んでいた。
 「図書館には静かにね」
 たしなめられてしまう。わたしは顔を赤くした。
 ここ最近でこの町で起きている連続殺人事件。被害者もばらばら、目撃情報もなし。なのにどうして連続殺人ってことが分かるのかというと、被害者の体の一部が持ち去られているという共通点があったからだ。
 「ふむふむ。わたしたちの追っている事件はどうやらこれのようだね。ワストン……ワソスンくんだっけ? あれ?」
 わたしは有名な台詞を口にしようとして失敗した。おじさんはくすくすと笑う。
 「こんな事件に興味があるのかい? 変わった子だね」
 わたしは笑顔ではにかんだ。もう良いよというと、おじさんは手を伸ばして新聞紙を棚に戻してこちらに顔を向ける。わたしを膝の上においたままこう口にした。
 「ねぇ君。お小遣いあげるから一緒におもしろい遊びをしない?」
 「え? 良いの?」
 おこづかいをくれるというので、わたしは少し嬉しくなった。わたしを抱え込んだままおじさんが立ち上がるので、そのまま腕にぶら下がって公園まで歩く。
 人気のない児童公園の片隅。ダンボールとビニールでできた秘密基地みたいな小さな家の中で、おじさんはわたしに小銭を握らせてから、ズボンを脱いでこう言った。
 「良いかい。ちょっとこれをその……触ったりしてくれるだけ良いんだ? できるかな?」
 言うので、わたしはおじさんのくさい股座に顔を近付けて、口を大きく開けて舌を突き出した。やさしく迫るわたしにおじさんが目をつむる。わたしはそのままおじさんの睾丸をくわえ込むと、奥歯をあてがって力いっぱい噛み潰した。
 公園に絶叫がとどろいた。

 すえた匂いのするダンボールハウスから抜け出して、わたしは自販機の前でちまちまヤクルトを飲んでいた。おじさんからもらった百円で買えるのが、これしかなかったからである。
 「ちぇっ。遊び相手にはなってくれないんだなぁ」
 わたしは残念な気持ちでいた。ひさしぶりに誰かと遊べると思ったのに。
 小さな頃からわたしには友達がいなかった。そりゃ、自分が汚くて気持ち悪くてどうしようもないくらい劣悪な人間であることは、わたしが一番分かっているけど。
 わたしはこの春から別の地域に転校してしまうことが決まっていた。
 転校するのはわたしのクラスで良くない事件が起こったからだ。悪いことをするには理由があるというけれど、わたしがそれを起こしたのは、本当になんとなくだったように思う。
 わたしはクラスで孤立していた。ちっちゃな頃からわたしにはそういう傾向があって、いつも大人に心配をかけていた。それでもわたしの所属するクラスではいつも楽しげな喧騒が響き渡って、教室中に笑顔が咲き乱れていた。先生はホームルームでは良く自分のクラスを大好きだと話していたし、他の先生方からの評価も高かったらしい。運動会とかの行事ごとでは、他のどのクラスよりも強い結束力を発揮して、素晴らしい成績を収めてみんな嬉しそうだった。それがムカついた。
 クラスのみんなが大好きです。クラスのみんなでがんばりました。そんな言葉を聞くたびに、わたしは自分の中の暗くて湿った何かを覗き込んだような気持ちになった。こんなにもおぞましく、気持ちの悪い存在であるわたしというものを抱えながら、このクラスは誰からも愛されて、みんな幸福で楽しげである。わたしはそこに強い欺瞞を感じていたし、誰もがその欺瞞に気付いていないように振舞っているのが解せなかった。許せなかった。
 だからわたしは、クラスメイトの中からサイコロで決めた三人にこんな手紙を送ることにした。
 『わたしはあなたのことが嫌いです。
 あなたにきがいをくわえるつもりはありません。ただ、あなたのことを心からきらう人があなたのみ近にいることを、あなたに知ってもらいたかったのです。
 この手紙を読んで、あなたはとてもいやな気もちになったと思います。それこそがわたしの願いであり、あなたに対するささやかなふくしゅうとさせていただきます。
 この手紙のことを相談するなら、お好きにどうぞ。しかし、そのそうだんした人こそが、わたしかもしれませんね』
 この手紙をもらった一人は学校に来なくなり、もう一人は不安げに先生にこのことを相談した。すぐさま学級会が開かれたが、犯人は名乗り出なかった。
 それから二日後。わたしはこのような手紙をランダムで五人の机に入れた。
 『わたしはあなたのことが嫌いです。
 この間の学級会でも言われていた手紙とにたないような言葉ですが、あの手紙を見て、どうしても同じことをあなたにゆいたくなったのです』
 その手紙のことが知れ渡ると、学級会が行われる前に、クラスでは不幸の手紙まがいのこの手紙が流行し始めた。
 休み時間には、皆が寄り添いあってだれそれに出す手紙の内容を検討するようになる。誰もかもが、自らの胸に潜んでいる嫌悪の感情をむき出しにし、正しい対象に吐き出す方法を得たのだ。
 これまでは、誰も彼もが自分の不安や悲しみを、いつ爆発してもおかしくない状態で、自分の胸に抱えこんでいたのだろう。わたしはそんな欺瞞に満ちた状態から、彼らを救ってあげられたのだ。開放されたクラスメイトからわたしは毎日殴られ踏まれたが、それでもすごく嬉しかったのだ。
 しばらくして、わたしは職員室に呼び出された。
 差し出されたのはわたしの連絡帳と、最初に出回った数枚の手紙。当然、同じ筆跡。やっぱり先生は元凶がわたしだと知りながらも、誰にも言わずに黙っていてくれたのだ。
 そしてわたしは、涙を流す先生からヒステリックな口調で転校しろと訴えられた。
 わたしは来年の春からみんなとは違う中学に通うことになった。もうその頃には、わたしがクラスメイトに階段から突き落とされても、気絶したままロッカーに押し込められても、先生は何も言わなくなっていた。

 結局公園で昼寝して夜眠れず、その翌日。四月八日。
 しっかりと中身を整理しておいたランドセルを背負い、意気揚々と通学路に飛び出たところでお母さんが走って来た。冷や汗を浮かべながらわたしに学習鞄を持たせ、ランドセルを回収しては家の中へと去っていく。わたしはびっくりするしかなかった。
 ありがとうお母さん。
 そのままだらだらと学校への道を歩み始めた。本来学区の違うところに通っているためか、やけに距離が長く感じられた。後ろからは、すいすいと同級生らしき一段がどこか得意げに追い抜いていく。
 徒歩で来ている人もいたが、その中でもわたしが一番歩みがのろく、背も低かった。ちなみに百三十二センチしかない。カモン性長期。
 やっとの思いで教室にたどり着く。淀川の姓を持つわたしの席は窓際後方二番目だ。のそりと腰掛ける。四月八日の窓から見える景色はどんよりとした灰色で、雨の降る直前で時間が停止したように曇っていた。小学生から中学生になったところで何も変わらない。わたしの精神は脆弱で自分勝手な子供そのものだ。
 ひんやりと冷たい窓に頬を押し付けて呆然としていると、唐突にわたしに声がかかった。面倒くさい気持ちにあおられながらそちらの方を見ると、めがねをかけた若い男がこちらに向かって声を投げかけていた。
 「淀川さん……淀川……ヒズミ? ……歪美さん?」
 その人物はわたしの名前に若干首を傾げると、何かを促すように首を動かした。何がなんだか分からないわたしを、背後から指で突付く人影。わたしは驚いて跳ねるようにそちらを向いた。
 「……自己紹介。前に出て」
 唐突に体に触れられて絶句するわたしに、背後の少女は引きつったような顔で答えた。ついびっくりして大げさな素振りを見せてしまった。
 もうそんなに時間がたっていたのか。
 わたしはゆっくり前に出て口を開いた。
 「淀川歪美です。中学一年生です。女です」
 わたしの自己紹介に、クラス中から失笑が漏れた。意味が分からずはてと首を傾げる。それから適当に頭を下げてその場を去った
 「もう終わり?」
 先生はわたしにそう尋ねた。わたしはうなずく。
 それから自分の席に向かっていると、わたしはふと異様な視線に気付いて立ち止まった。その視線の方向に全ての神経を傾けて睨む。視線の主は一瞬だけ萎縮したような素振りを見せると、何食わぬ顔で前を向き直った。
 それはこないだの少年だった。
 深夜の路地で、鋸をたずさえ、お兄さんの足を太ももから切り落としていた、あの少年である。偶然それを捉えたわたしを殺そうとし、間抜けにも失敗していた殺人犯の男の子。
 わたしは一瞬その場で声をかけようとした。すると背後から肩が叩かれて、後ろの席の女の子が苦笑したようにこちらを見ていた。席に戻れというジェスチャー。わたしはなんとなくそのとおりにした。また一つクラスを荒らさずに済んだ。

 少年の名前は小野瀬正義といった。
 オノセマサヨシとわたしが訪ね返すと、後ろの席の女の子は笑って机に「小野瀬正義」と書いて見せてくれた。セイギ。みょうちきりんなわたしの名前よりずっと良いと、羨ましくなった。
 「ちなみにわたしは渡部直子ね。歪美ちゃん。自己紹介聞いていなかったの?」
 後ろの席の渡部さんはいぶかしむようにそう尋ねる。すっきりとして綺麗な目鼻立ちに、薄く上品な唇。柔らかい物腰はとうてい同級生とは思えなかった。
 「ぼうっとしてて」
 「先生の話は聞くものよ? 明日、学校に雑巾と運動靴を持ってくるのを忘れずにね」
 「歯磨きセットは?」
 「いらないわ。小学生じゃないんだし」
 「小学生じゃないの?」
 「えぇ。違うわ」
 苦笑を浮かべる渡部さんから顔を逸らして、わたしは小野瀬正義の方を仰ぎ見た。少しうつさくなった教室の前方で、どこか萎縮するような態度でハードカバーを手繰っている。その姿は少しばかり鬱積しているようにも見えた。
 「……博士の作ったその怪物は強靭で、いかなる兵器も歯が立たなかった。人間への確かな憎悪をもってして暴れまわる怪物に、民は無様に踏み潰され、滑稽なほど哀れな悲鳴をあげてぺしゃんこになる。この後に及んで助かると思って叫ぶとは、なんと傲慢な生き物だろうと、怪物はますます人間のことが嫌いになった」
 「……歪美ちゃん?」
 渡部さんが驚いたように肩を突付いた。わたしはびくりとして渡部さんの方を見る。
 「な、何?」
 「ごめんなさい。突然肌に触れられるとあなた、そうなるのね」
 渡部さんはしおらしくそう言って、次いでいぶかしむようにたずねた。
 「今の何?」
 「小野瀬くんが持ってる本」
 渡部さんはびっくりしたような顔になった。
 「すごいわねあなた。こんなところからあの本の内容を音読して見せたの?」
 わたしはその場ですっと立ち上がり、小野瀬正義に向かって歩き始めた。渡部さんが後ろで苦笑する。小野瀬正義はわたしの接近をすばやく察知すると、すえたような瞳でこちらを向いた。
 「なんだよ?」
 そういった彼の声は、少しばかり虚勢が混じっていたように思う。
 年齢にしても幼げな顔立ちは愛らしいばかりではなく、少しばかりひねくれているようにも見えた。歪められた眉には迫力がなく、開きっぱなしの唇はやや酷薄そうでもある。
 「わたしと会ったことなぁい?」
 たずねると、教室の空気が僅かに固まったように感じられた。小野瀬正義はしまりのない唇をにやりとゆがめ、こう答えた。
 「さぁな。よく記憶にないけど、なんとなく見覚えがある気がするよ。そのどんより光った目、いつか思い出しそうだ」
 「……?」
 一瞬、わたしは首をかしげた。それから彼のいった意味を反芻し
 「つまり。覚えていないってこと?」
 彼は曖昧に首を縦に振った。教室から失笑が漏れる。

 その翌日。六人目の被害者が現れた。そうはいっても、今度はただの犬っころだったらしい。今度は鼻が根本からきり取られて、現場から持ち去られていたということだ。
 殺されたわんちゃんの飼い主は、前の座席に座るわたしのクラスメイトだった。御井梢さんというその人物は、泣きはらした目で学校に登校すると、後ろの席のわたしに向かって飼い犬の殺されたことを訴え始めた。しばらく話すとダムの決壊したように大泣きし始めて、それからすがりつくように正しくない日本語を幕したてる。犬との思い出、如何にむごたらしく殺されたかということ、一番強かったのは犯人への憎悪の言葉だった。
 「運が悪かったね。でも大丈夫。次からはちゃんと家の中に隠すか、ずっと見張っていたら良いよ」
 何とか慰めようと思ってそんなことを口にしたのだが、御井さんは信じられないような顔で呆然とこちらを見るだけだった。渡部さんが後ろからあわてたようにやって来る。
 犬の好きな御井さん。みーちゃんは猫なのにわんちゃんが好きなんておもしろい。
 慰めようとしたわたしの言葉に反応した御井さんの態度は、まるで人を嫌悪したかのようなものだった。わたしはただ人を慰めようとしただけで人に嫌われ、気持ち悪がられて気がつけば淘汰されている。泣きながらまくしたてる彼女は、いったいわたしに何を求めていたのだろうか。

 小野瀬正義が目に眠たげなクマを作って登校した前日は、必ず町で事件が起きていた。
 深夜にアトランダムで繰り広げられる犯行を、警察の調査はいまだ捉えられていない。あんなに大変そうにお兄さんの足を切り落としていたのだから、小野瀬の殺人にはきっと何かの目的があるのだろう。それがきちんと報われたら良いなぁと、小野瀬の疲弊しきった顔を思い出してはそう思うのだ。
 その日。体育の時間中。わたしはぶかぶかの体操着に着替えていた。
 運動場の隅っこを走り回るみんなを、砂の匂いを嗅ぎながらぼけっと眺めていた時だ。背後からは教師らしき女性がわたしをどやすような声が聞こえる。わたしはなんとなく上の空で考え事をしていた。
 小野瀬正義は本当にわたしに気付いていないらしい。確かにあの夜はどんより暗かったし、錯乱した彼がわたしの顔を覚えていないとしても不思議ではない。だいたいにおいて彼は目が悪い。最前列で授業を受けている分には良いらしいが、教室でぞんざいに行われた視力検査ではCの判定を受けていた。
 小野瀬正義の犯行について調べるたびに、わたしはとても楽しい気持ちでいられた。他の誰もが犯人を知らない不可解な連続殺人事件。愉快だがふつう遠巻きに眺めるしかできないはずの非日常の深遠を、ただ一人わたしだけが知っている。こんなにおもしろいことが他にあるだろうか。
 だからわたしは寂しかった。彼がわたしに気付かないことについて。彼の犯行に、彼の楽しい遊びに、わたしが一緒に加われないことが。
 「おい。淀川。いい加減にしろ」
 背後からわたしの首を掴む者がいた。わたしはびっくりしてその場を退いて、思わずベンチにおいてあった運動部の使うバーベルの重りを投げつけた。
 鈍い音がして、先生は血球と一緒に前歯を吐き出した。

 校長室に呼び出されてふかふかのソファに腰掛けながら、わたしはとある決意をしていた。
 手紙を出そう。
 小野瀬に伝えなくてはならない。わたしが彼の犯行を知っている事実を。それも、差出人が淀川歪美であることが、ばれないようなやり方で。
 「本当に申し訳ありません」
 そう言って頭を下げる女の人がいた。わたしのお母さんだ。
 「内の子が先生に怪我をさせてしまって」
 そういうと校長先生は渋い顔をした。それからぼけっとソファに腰掛けるわたしに視線を投げかけて、次にお母さんを向いてこう口にする。
 「お子さんは……その。少し変わった子でいるようだ」
 お母さんは少々萎縮する。校長先生はやんわりとした表情で
 「いいえ。もちろんそういう子に深い愛情を持って接するのが、わたし達の仕事です。お子さんの健やかなる成長の為に、わたしたちは協力を惜しみません。ですので、このたびはことを大きくはせず、ただお二人で田尾先生に謝りに言ってくださればそれで……」
 「お母さんも謝るの。じゃぁそれ、あなたや担任の先生は来ないの?」
 わたしが気になってたずねると、お母さんが眉を顰めてわたしの頭に手をやった。

 わたしのお母さんはとても優しい人だ。お父さんがいなくなってからは特に、他の誰よりもわたしのことを考えてちやほやしてくれた。
 お母さんのお仕事は毎週の土曜日にどこか遠くのところへ出かけて行われる。朝早くでかけて次の日の昼間まで帰ってこなくて、お母さんはこれが本当に憂鬱らしかった。
 水曜日までのお母さんはいつも優しい。でも木曜日あたりからだんだん不機嫌になり始め、金曜日となると些細なことでわたしを怒鳴りつけ、殴り、蹴り、生ゴミをぶつけ、キャベツの千切り機にわたしの手を突っ込んでは、ヒステリックに脅しつけた。そして土曜日になって仕事に出かけ、帰ってくると天使のように優しくなってわたしに接するのであった。
 お母さんがどんな仕事をしているのかは良く知らない。だけれど、今日は火曜日だから殴られなくて安心だ。
 「ねぇお母さん。ちょっと教室によって良い?」
 わたしがけがをさせた体育の田尾先生に謝りにいく途中、わたしはお母さんにそう問いかけた。お母さんはほんの少し考える素振りを見せた後、わたしに向かって優しげに言った。
 「良いけど。早く済ませるのよ」
 わたしはうなずいて教室に向かった。そして小野瀬正義の机の中に手を突っ込んで、彼の独自の意味不明な図やら表やらの迸るノートを一枚切り裂き、ペンを持った。どうやって筆跡を残さないようにしようかと一瞬考えて、わたしは思いつきで渡部さんからもらった明日必要なもののメモを取り出して構えた。
 彼女の筆跡を良く凝視して、わたしはペンを走らせていく。なるだけわたしだと気付かれないよう、最大限に工夫した文章を書いた。
 『俺はおまえが最近報道されている連続殺人事件の犯人であることを知っている。何故なら、おまえがあの時であった目撃者が俺だからだ。
 俺はおまえのことを警察に話すつもりはない。ただ一つ、俺とゲームをしてもらいたい。期限は一週間、おまえにクラスメイトを三人まで殺す権利を与えよう。
 来週の火曜日までに俺を殺せなければ俺の勝ち。おまえのことを警察に話す。おまえが俺のことを殺せばおまえの勝ちだ。今までどおりの殺人を続けたければ、なんとか俺にたどり着いてみろ』
 こんな感じで良いのだろうか。わたしは渡部さんのメモと自分の書いた文章を見比べて、その筆跡の合致を確かめる。そしてわくわくとした気持ちになった。
 心がなんだかぽかぽかしてきた。小野瀬くんとのゲーム。命を賭けた楽しい勝負だ。これでわたしはようやく、彼と一緒に遊ぶことができる。
 退屈な一人遊びじゃない。きちんと遊び相手がいて、お互いが真剣に取り組んでくれる。誰にも秘密の真剣勝負。それが本当に嬉しくて、わたしはえへへと笑みを浮かべた。

 翌朝。
 運動場で渡部さんがひしゃげていた。
 わたしは小さい頃にお兄ちゃんとやった遊びを思い出した。バッタだのトカゲだの子猫だの捕まえて岩で圧縮し、ぺしゃんこにすりつぶす退屈な遊びである。体液を露出させて体をバキバキにする愉悦にお兄ちゃんは手を叩いて喜んでいたけれど、わたしは何がおもしろいのかまったく分からなかった。
 渡部さんの体はそれはもう偉いことになっていた。綺麗な髪の毛は真っ赤になってむちゃくちゃだったし、体中の骨があちこち露出して痛々しかった。血液でぐしょぐしょになった運動場の砂が嗅ぐわしい。わたしは空を見上げた。そこには学校の屋上がある。渡部さんはあそこから落ちた……否、落とされたのだ。
 わたしは小野瀬正義のフットワークの軽さに感心した。手紙を出したのは昨日なのに、もう既に筆跡の照合まで済ませ、渡部さんを屋上に呼び出し突き落としている。いったいいつの間に確認して、その行為を実行に移したのだろう。
 押し競饅頭のように寄り集まる人々の中央で、渡部さんの遺骸は一メートルほどの距離を開けられていた。ふと思いついて、人だかりの外壁を形成する女生徒の背中を軽く押してみると、すぐさまドミノ倒しが起こり中央部の男子が渡部さんの死体にダイブした。絶叫があがる。
 狂乱が巻き起こる。固まっていた生徒たちの均整が崩れて、生徒たちは散り散りとなってその場を去った。わたしは広々とした運動場の真ん中を通って校舎へと向かった。
 校舎は騒ぎで満ち溢れていて、誰もが廊下の窓に張り付いていた。その背中を一つ一つ目で追いながら教室に行くと、黒板に大きく書かれたその言葉がわたしの目に入った。
 『申請。
 渡部直子は自殺。よって、カウントに入れないことを許可していただきたい』
 一見、それは意味不明な落書きに見えただろう。
 だがしかしわたしにはその意味が分かった。なのでほんの一瞬、躊躇しつつも、わたしはそれに答えてあげようとチョークを取った。すると咄嗟に気付いてわたしは後ろを向く。そこにはこんな時でもハードカバーを抱えた小野瀬正義が、ぎらぎらとした目で黒板を睨んでいた。わたしは焦ってチョークを置こうとし、次に誤魔化すようにパンダの絵を描いた。
 「何それ?」
 顔を青くした御井さんがわたしの絵を見て首をかしげた。ついつい夢中で絵描きに興じていたわたしは、興奮気味に彼女に尋ねた。
 「なんに見える?」
 御井さんは少し考えて答えた。
 「……どぶ川にいるちっちゃいカニ。……ハサミがかたっぽだけでかい奴」
 「違う。これパンダ」
 「パンダ? パンダなの! でもパンダにはそう何本も足はないよ」
 「これは足の指なの」
 「指? 体積の半分以上じゃない!」
 そういうのでわたしは自分の落書きを見直す。言われてみるとそれは不恰好などぶ川のカニだった。

 その日の学校は先生の話でおしまいになった。
 わたしは体育館に座り込んで考え事をしていた。渡部さんは本当に自殺だったのだろうか、ということ。こんなタイミングで死ぬなんて、勝負を引き受けた小野瀬正義の仕業のようにしか思えない。
 座ったままぼんやりしていると御井さんに声をかけられた。恐る恐るといった感じで、こちらに手を触れることはしてこない。少しだけ悲しくなったわたしだけれど、もう解散の命令が出ていることを知らされて立ち上がった。
 鞄を取ると、わたしは学校に備え付けられた公衆電話で渡部さんの家に連絡を入れた。連絡網を見れば番号は分かった。 
 「……はい渡部です」
 憔悴した様子の渡部さんのお母さんの声。わたしはなるだけ厳粛な声を作り、テレビドラマとかで良く見る言い方を真似してこう口にした。
 「警察のものです」
 すぐに電話が切られた。わたしは眉を顰めてもう一度だけ十円玉を投じた。
 「すいません。渡部直子さんのお友達の佐藤です。彼女からはさっちゃんと呼ばれています。直子さんが心配で連絡をさせていただきました」
 「……先生からお話はうかがっていないの?」
 「はいいません。自殺したなんてお話聞いたこともありません。直子さんは昨日からいらっしゃらないのですか? それとも今朝学校に行ってそのまま飛び降りたんですか?」
 沈黙が降りた。受話器の向こうから歯をきしませるような声が聞こえたと思ったら、乱暴な音がして電話が切れた。びっくりしてその場をのけぞる。
 わたしはめげずに三枚目の十円玉を投入した。
 「すいません。直子さんの担任の先生なんですが……」
 「直子は今朝学校に行ってから死んだわ! もう電話かけないでくれる!」
 そういって叩きつけるように電話が切られた。案外昨日の夜中にでも校舎に忍び込んで飛び降りたのかと思ったが、どうやらそれもなくなったらしい。わたしは小野瀬のメッセージにどう返事をしたものか思案し始めた。

 まず最初、掃除道具入れで時間をつぶした。
 すえた匂いのする真っ暗な掃除道具入れで縮こまっていると、気が付けばまぶたが下りて眠ってしまっていた。浴槽一杯のイチゴシェイクと戯れる恍惚の夢を見終わったあと、わたしは寝起き眼をこすりつつ教室に向かった。
 校舎は既に閉鎖されている。中に残っているのは隠れていたわたし一人くらいのものだろう。あくびをかましつつ教室の窓を外して中に侵入した。
 小野瀬正義のメッセージは既に先生によって抹消されていた。わたしは彼の机からノートを一枚切り離し、今度は御井さんの筆跡を真似して一言『認めない』とだけ記入して机の中に放り込んだ。
 渡部さんが本当に自殺だったのか小野瀬正義によって殺されたのか、考えてみたがやっぱりそれは分からない。だけれど実際に死亡した以上、一応カウントに入れておかなければゲームが成り立たなくなる恐れがあった。
 廊下を進み、トイレの窓を開けて校舎を脱出した。これで明日には彼にメッセージが伝わるだろう。あくびをしながら校門をくぐり、家に帰ろうと思ったその時。
 小野瀬正義の姿を発見した。
 わたしはぎょっとした。物陰に潜み、何やらノートらしきものを手にしてこちらを覗くその姿は、目がぎらぎらしておぞましいものにも見えた。彼はわたしの姿を確認すると、腕時計を覗き込んでから何やらノートに記入する。
 足取りの止まったわたしをいぶかしげに覗きこむ小野瀬正義。ただしこちらが向こうを見ていることには気付いていないらしかった。こいつはいつもそうだ。いよいよこちらが行動を起こすまで、自分のしていることが誰かに気付かれているなどと考えもしない。
 わたしはぞっとしてその場を引き返した。そして再びトイレの窓から校舎に侵入し、教室で小野瀬に当てたメモを回収すると、びりびりに引き裂いて自分の口の中に放り込んだ。塩辛く少し香ばしい。
 小野瀬正義の狙いはおそらくこうだ。
 自分を脅す手紙の主が自らのクラスメイトだと睨んだ彼は、黒板にメッセージを残すことでこちらの出方を待った。そして手紙の主が何らかのレスポンスを寄越すことに期待し、校門の前で潜んで待機した。
 おそらく小野瀬は、ノートに記入して校舎から出てくるクラスメイトの名前をメモしていたのだろう。ことがことだけに、小野瀬のメッセージに返事ができるのは教室から誰もいなくなった時間帯に限られる。誰よりもすばやく校門の前で待機し、出て行ったクラスメイトの名前をメモしていれば、最後に遅れて出てきた人物こそが手紙の差出人ということは明白だ。面倒だが確実な方法だと言える。カーテンの所為で外から教室は覗けないようだったし。
 しかし一つだけ疑問点がある。それは、どうして彼が教室内や付近の廊下に潜まなかったのだろうということだ。
 少し考えて、わたしはそのたわいない理由に気付いて少し笑った。校舎は放課後すぐに閉鎖される。その前には教師の見回りもあるし、見付かってしまうことを恐れたのだろう。 ためらいもなく人を殺す連続殺人犯であることと、大人におびえる力ない臆病な中学生であることは、彼の中では共存可能なのだったのだ。
 夜道で隠れもせずにあんなに堂々と人を解体する小野瀬正義が、見回りの大人など気にするちぐはぐさが、わたしにはなんだかおかしかった。

 翌日の朝。今度は町のお医者さんが殺されたことがニュースで報じられた。
 体の一部が持ち去られたという内容も報じられていたが、具体的にどこを持ち去ったのかは分からなかった。わたしだったら指先を持っていくかなと曖昧に思う。あの聴診器を操る時の、繊細で理知的な手つきに良く風邪を引くわたしはいつも関心していた。逆に嫌なのは眼球。患者の前で看護士を怒鳴る意地悪な目つきはいやらしく醜悪だ。
 ニュースを見終えて学校に行くと、その日の黒板には『応答を求む』と大きく書かれていた。おそらく小野瀬からのメッセージだ。昨日の答えを寄越せといっているのだろう。
 すぐに返事をしようと思ったが、どうせどこかで小野瀬正義が監視しているだろうと思ってやめた。
 小野瀬正義はわたしのことを見付に来ているらしい。それだけ一生懸命にゲームを受けてくれることに、わたしはなんだかうれしくなった。
 後ろの席の渡部さんのいない一日は少しばかり勝手が違った。机で眠りこけていても声をかけられないし、先生に当てられそうになっていても何も言われない。お陰で三度ほど先生を本気で怒らせた。
 「……歪美ちゃん。あなた勉強大丈夫?」
 前の座席の御井さんにやけに心配されてしまった。
 「だいじょーぶ」
 「そうは思えないんだけれど……得意科目は?」
 「うーんとね。算数」
 「…………」
 そんなやり取りがあって、御井さんは頭を押さえて軽く笑った。

 その日の放課後。わたしは誰よりも先に校舎を後にした。そうはいっても、廊下で派手にずっこけたので、結局は遅れてしまったのだが。
 校門付近の物陰では、やはり小野瀬正志がノートを持って構えていた。
 「何してるの」
 わたしは彼の背後に回り話しかけた。小野瀬はびくりとこちらを振り向いて、恐る恐るといった調子でこう答えた。
 「おまえには関係ねぇよ」
 「嘘だね」
 わたしは胸を張った。小野瀬はびっくりしたような表情を取り、すぐに済ました顔に戻った。全然クールじゃない。これが巷を騒がす殺人犯なのだと知ったら誰もが興ざめだ。
 「どうしてそう思う?」
 「だってそれ。わたしの名前がかいてあるじゃん」
 小野瀬正義はびっくりしてノートをしまいこんだ。そして背後を振り替えり、クラスメイトが何人か固まって出てくるのを目で追いかけると、これ以上記入するのは諦めたようにこちらを向き直る。
 「ばれたか」
 小野瀬は照れたように微笑んだ。
 「何してたの?」
 「別に。おれの勝手だろ」
 「そうだね。だけど気になるじゃない」
 なんていじめるようなことをいってみる。小野瀬正義はあからさまに困ったように顔を赤らめた。なんだか少しかわいい。小野瀬はうつむいたようにノートを隠すと、再びすねたような口調で言った。
 「……関係ねぇだろ」
 おちょくりがいのありそうな子だ。
 「分かった。これ以上聞かないよ」
 わたしが答えると、小野瀬はあからさまに安心したような顔をした。
 「いつも教室で本読んでるけど。どんなの好きなの?」
 「さぁな」
 「誰も知る者のいない人ごみを、一人で通り抜けていく時の孤独ほど、つらく寂しいものは存在しない」
 わたしが口ずさむと、小野瀬は驚いたようにこちらを覗き込んだ。口数少ない割、表情豊かで愉快な男だった。
 「君が読んでいた本の一説」
 「……なんで知ってる」
 「見えるもん。わたし目が良いし」
 「そりゃすごい」
 小野瀬はけたけた笑った。
 「ねぇ。君はいつも一人で本を読んでいて、寂しくない?」
 「寂しいさ。だけどつらくはない。友達いないのは昔からだからな。それに、おれにはおれの楽しみがある」
 「楽しみって?」
 「だからだ。その……」
 小野瀬は一瞬、思案顔でそっぽを向いた。しばし考え込み、それからしまりのないにやにや笑いを伴ってこちらを向いた。
 「友達がいないってことはだな、おれのことを好いている奴がいないってことだ。つまり何をしたって愛想つかされる心配はないし、非難される筋合いはないってことになる。だからおれはおれのしたいようにさせてもらってるのさ。窮屈なのはまっぴらだ」
 小野瀬の歪んだ唇からは虚勢と傲慢さとがにじんでいて、その言葉には彼の人となりが込められているようだった。
 「でも一人でいるのは、つらくない?」
 「つらくない。おれはもともとそういう人間だ」
 「でも寂しいんでしょう?」
 「寂しいさ。でもしょうがないだろ。誰だって多かれ少なかれ、ポケットの中に孤独を隠し持っているものさ。それに怯えてこびへつらって暮らすか、開き直って好き放題やるかっていうだけの違いさ」
 「そうかな……。でもわたしは、あなたが開き直れているようには、とうてい思えないんだけれど」
 わたしは少しばかり空虚な気持ちで言った。小野瀬はぎょっとしたようにこちらを見る。
 「一人で萎縮して、どうにかやり過ごしているように見えるよ? だから嫌いなんだ、自分以外の人間のことが」
 わたしがそういうと、小野瀬は乾いた笑いを口から漏らした。
 「ぞっとするようなことを言うな。おまえ」
 はき捨てるような言い方だった。
 「そりゃそうだ。おれだって、おまえのように飄々とはしてられないよ。参考までに訊くが、おまえは他人のことは好きなのか?」
 小野瀬が妙ちきりんなことを尋ねるので、わたしは首を傾げてからこう返事をした。
 「好きだよ」
 「本当か?」
 「好きだよ」
 「嘘付くなよ」
 「嘘なんて付いてないよ。嫌いでも良いけど。ただ別に、どっちでもどうでも良いってだけだよ」
 「ほれみたことか」
 小野瀬は得意がった様子でそういった。
 「おまえは本当にどうでも良いんだろ? 他人がどんな目にあうかとか、他人にどう思われるかとか。きっと人が殺されてるのを見てもなんとも思わないに決まってる。ひょっとして最近起こってる連続殺人の真犯人、おまえだったりするんじゃねぇの?」
 指を突きつけ、幼げな顔を目一杯酷薄にゆがめて繰り出されたその質問に、わたしはたわいのない笑みを浮かべるだけだった。
 「それだけはないよ。分かってるでしょ?」
 わたしが言うと、小野瀬は何がおかしいのかけらけらと愉快そうに笑った。
 「すごい事件だよね。わたしそういうの好きなの」
 「へぇ……意外だな。おまえがそんなことに興味持つなんて」
 「意外はこっちだよ。あなたがわたしのことそんな風に知ってるなんて気付かなかった」
 「人は意外と見られてるってことさ。っていうかおまえ、学校じゃ結構有名な変人なんだぜ? 知らない?」
 「……実は。ちょっと知ってた。……けど」
 「だよな。あれで気付かないでいられたら魔性っつーか。ただの愚か者だ。おまえは愚かとかそういうんじゃないだろ? ただちょっと超越してるっていうか、クラスの連中と同じ次元で生きてないだけだ。ようするに、天然で人と違うんだよ」
 わたしは強い胸騒ぎを感じた。そして睨むようにして小野瀬の方を見る。
 「そうでもないよ」
 わたしは小野瀬を注視しながら言った。
 「わたしは結構みんなと同じような考え方してるよ。知ってることでも、酷いこと言われたら悲しい。わたしは自分がすごく気持ち悪い劣悪な人間だって知ってる。だからって、人と違うとか、そんなこと言われたらつらいし、腹が立つよ」
 「そうか。そうかもな。けどさ、そう思われてるの分かってて、だけど言われなきゃ言われなきゃで欺瞞を感じるんだろ? ってことはようするにさ。それはおまえの問題なんだよ」
 彼の言葉に、わたしは漠然と立ち尽くすだけだ。わたしが完全に閉口したのを見て取ると、小野瀬は心底愉快そうな酷薄な笑みを浮かべる。せせら笑うように鼻を鳴らし、そのまま背中を向けてその場を去った。
 「どこ行くの?」
 「これから九時まで塾の掛け持ち。週三日」
 「……あっそう」
 「おまえは塾とか行ってないのか? 部活もしてないようだけど?」
 「……行く必要ないもん」
 「そうかいそうかい。さすが学年トップは言うことが違うね。じゃぁな」
 手をぴらぴらと振りながら、小野瀬正義は勝ち誇ったようにその場を去っていった。からかってやるつもりが、気がつけばすっかり見透かされてしまっていた。わたしは眉を顰め、その場で座り込む。そして髪の毛をかきむしると、人目も憚らず悔しくて泣いた。

 その日の夜わたしは強い決意の元に家のベッドを立ち上がった。
 まず最初電話機の前に立つと、電話帳を手繰ってこの近所の塾の名前を全て調べた。そして片っ端から電話をかける。
 「すいません。わたし小野瀬正義の妹なんですけど、兄は今そちらにおりますでしょうか?」
 「はい?」
 最初の二件は『小野瀬正義というものはここにはいない』という応答だった。しかし三件目に出た壮年の男の返事は違っていた。
 「ああ。正義くんね。ちょっと待ってね、今お兄さん呼んで来るか……」
 わたしは受話器を置いて、すぐに出かける準備をし始めた。
 小野瀬正義は本当に塾にいるらしい。ということは、九時まで学校に見回りに訪れることはないだろう。
 メッセージの返事をするなら今だ。
 なんとしてでもゲームで小野瀬正義を屈服させてやる。わたしはほとんど意地になっていた。
 夜のニュースではまた一人被害者が出たという報道がなされていた。学校から塾に向かう途中にやったのか。驚くべきは小野瀬のフットワークの軽さ、報道の速報具合だった。それはわたしのクラスメイトの男の子で、体の一部を持ち去る儀式は行われていない。ひょっとしたら、小野瀬とたまたま道が同じだったのを、付けられていると勘違いして殺させたのかもしれない。いずれにせよ、これでチャンスはあと一回きりになった。
 学校に着くと、わたしは砂のにおいのする運動場を突っ切って校舎に向かった。運動場は野球部の男子が馴らしておいたようで、足跡一つなく丁寧なものだ。
 わたしは空けておいたトイレの窓から、校舎の中へ侵入した。土足のまま校舎内へと侵入する。教室にわたしの足跡がつくことが一瞬、懸念されたが、履いているのは学校指定のスニーカーなので心配もない。運動場の足跡もこれに同じ。
 すぐさま教室へと向かい、窓を叩き割って中に侵入する。
 御井さんのノートを机の中から引っ張り出して、その筆跡を真似て黒板にメッセージを書き綴った。ただ一言、『認めない』と巨大な文字で。どうせ奴は朝一番に来るだろうから、これで十分伝わるはずだ。
 しかし不思議だ。わたしは思った。校門前で張り込みをしてまで、わたしの尻尾を掴もうとした小野瀬正義が。わたしがここに訪れるのを知っていて律儀に塾なんかに通うとは。あいつは殺人者の癖してただの気弱な中学生でもあるから、親の目の手前サボっている訳にはいかないのだろう。その辺のちぐはぐさがなんでかわたしに似ている気がして、気に入らなかった。むちゃくちゃにしてやりたい。
 わたしは少し考えて、さらにとびっきり焦らせるような激しい字体で、『あと一人!』と大きく記す。
 今現在の彼の焦りようを考えると、せせら笑いたくなって来る。彼が後一人、誤って的外れな奴を殺したら、その時はとびっきり嘲弄的なゲームオーバーの手紙を出してやろう。そしたら彼はどうするだろうか。やけくそになって、狂ったように無差別にクラスメイトを殺すかもしれない。わたしはその様子を想像して、飛び切り愉快な気持ちになった。
 それはまったく、あくまでもまるで自分の方が優位な立場にあるという、驕りのような心境に他ならなかったのだけれど。

 翌日。遅くに目を覚ましたわたしは、お母さんにたたき出されるようにして家を出た。
 黒板のメッセージを見て慌てふためく小野瀬を想像すると、昨日は興奮して眠れなかったのだ。中途半端な彼をせせら笑う。のんびり塾になんかに通うから負けるのだ。自分の殺戮を止められたくないのなら、どうして日常生活の全てを犠牲にして取り組めないのだろう。
 そんな風に考えていた矢先だった。
 学校に到達し、校門をくぐったわたしは一種異様な光景を見た。それは、踏み荒らされた運動場に散らばる生徒たちの足跡だった。当然そのほとんどが学校指定のスニーカー、皆一様な足跡に見えいて、一つ明確な違いがあった。
 それは、足跡の中央付近に記された四桁の番号だった。見覚えがある。これは『2134』こっちは『1108』それが何を示しているのかに気付き、わたしは戦慄してその場にうずくまる。周囲から奇異の目で見られながら自分の足の裏を確認すると、そこにはわたしの学年クラス出席番号を示す四桁番号が記されていた。
 咄嗟に、家に戻るかどこかに隠れるかを迷い、運動場に設置されたすぐ傍のトイレの中へ飛び込んだ。
 個室に入り、わたしは便器の前で吐き出しそうに喘ぎ、咳き込んだ。脂汗を流して息を整えると、自分の愚作を嘆いて顔を覆った。
 いつの間にこんなことを……。
 学校中のスニーカーにマーキングをするだなんて。なるほどそれなら塾に行っている間でも、学校に誰が侵入したかが分かるはずだ。他の誰の足跡が付けられるよりも先に、運動場の足跡を確かめに行けば良い。
 素晴らしい作戦だ。恐るべき手間と忍耐力があれば、の話であるが。
 「くそっ。……くそ、くそっ」
 どうして気付かなかったのだ。わたしは自分の不覚を嘆く。そもそもあんなメッセージに殊勝に答えてやろうというのが間違っていた。あんなもの看過して放っておけば良かったじゃないか。そうすれば気付かれずに済んだ。あの気持ちの悪い殺人鬼に、わたしのことを気づかれずにすんだのにっ!
 わたしがそう考え、嘆いていると、ふとトイレの扉が開く音が聞こえて来た。咄嗟に体をすくませる。ぺたぺたといった足音が近付くにつれ、わたしは息の詰まるような心境で身構えた。まさか……。
 しかし検討は外れ、足音はわたしの個室の前を通り過ぎると、奥の個室に入ると衣擦れの音を響かせ始めた。ふつうの生徒だ。わたしは力が抜けたような気持ちで息を吐き出すと、ふと思いついて個室を離れた。
 わたしはトイレの出入り口から手を出して砂を一掴み手に入れると、自分の靴下の中にねじ込む。そして人の入っている奥の個室の前で構えると、ぴしゃぴしゃという音が聞こえ始めると同時に、個室の扉をよじ登って中へ飛び込んだ。
 少女は信じられないような顔をしてこちらを見た。咄嗟の状況でまったく動けない女生徒を思い切り殴りつけ、そのまま便器の中に何度も何度も顔を打ち付けて気絶させる。そして倒れた少女のポケットの中をまさぐり携帯電話を取り出すと、すぐさま110を呼び出した。
 「もしもし。警察ですが」
 「紙斬町動堂中学一年の淀川歪美です。最近起きている連続殺人犯のことでお話があります。っていうか現在進行形で追われています」
 なんのことかと面食らう警察官にかまわず、わたしは今の状況を捲し立てた。
 「わたしは今学校に備え付けのトイレの中に隠れています。わたしはある時偶然殺人犯……小野瀬正義の殺人現場に遭遇しました。体育大学所属の久能雅治の事件です。あれを見てわたしはある一通の手紙を出しました。わたしのことを見付けて始末してみろと。そして彼は本当にわたしのことを見つけ出し、わたしはこうしてトイレの中で隠れているという次第です。分かったっ?」
 わたしがそれに気付いたのはその瞬間だった。
 トイレの個室の上から、わたしのことを覗き込む二対のぎょろりとした瞳がある。透明な瞳は中のわたしを正確に捉え、つりあがった唇はあざけるように酷薄だ。
 そこにいたのは小野瀬正義。わたしを負かした殺人鬼。
 「おい君……君、聞いているのか? 悪戯だったらただじゃすまないぞ。だいたいそんな訳の分からない遊び……おい君っ。どうした? 聞いているのか?」
 うるせぇ。わたしは警察機関への望みを捨てて、持っていた携帯電話を小野瀬正義の顔面に向かって投げつけた。ミラクルヒット。顔面を覆って喘ぐ小野瀬に向かって大きく扉を蹴って開けると、わたしは砂を詰めた靴下を小野瀬に向かって振りかぶった。
 突如として開かれた扉に体を打ちつけ、肩を殴打された小野瀬正義は、すぐにその場でうずくまる。わたしが止めをさそうと凶器を振りかぶると、思わぬ存在に後ろから羽交い絞めにされた。
 「ちょっとっ! 何をしているのっ?」
 わたしを受け持っている体育教師の、確か田尾という女だった。おそらく女子トイレに入っていく小野瀬正義を見て、いぶかしいものを感じたのだろう。まったく小野瀬も間抜けな男だ。
 小野瀬はその場でにやりと酷薄に笑んだ。終わった。わたしは思う。小野瀬はポケットからぎらりと光るナイフを振りかざし、こちらに向けた。田尾が険しい声を張り上げて小野瀬を制止する。無駄だ。わたしは思った。この男をおまえみたいな奴が止められる訳がない。わたしはこのまま刺されて死ぬ。
 「ちくしょうっ! 余計なことをしてぇ、もうっ! バーカバーカっ! アーホっ!」
 シリアスな場面に相応しくないほどに、わたしの罵倒は間抜けてしゃれがなかった。小野瀬はそれがツボに入ったように大きく笑う。そしてナイフをきらめかせると、こちらに向かって突進してきた。
 田尾が信じられないような目をして小野瀬を睨み、そして出血する胸を抑えてうつぶせに倒れこんだ。
 彼女の腕から開放されて、わたしは信じられない面持ちで小野瀬の方を見た。小野瀬はわたしの視線の意図を察して、にやにやとたくらむような目をしてこちらを見詰め返す。
 「付いて来い。早くしろ。もうすぐ警察が来るんだろう?」
 そう言って促すように背中を見せるので、わたしは何がなんだか分からなくなった。
 「ゲームはおれの勝ちだが、しかし今となってはおれはおまえを殺さない。殺す理由がない。変わりに、一つ見せたいものがあるんだ」
 わたしは首を傾げつつ、しかし彼についていくことにした。なんとなく、この少年はこんな時に嘘をつかないような気がしたのだ。

 「しっかしおまえもちぐはぐだよな」
 人気のない田舎道、どぶ川の端を両手を頭の後ろに回して歩きながら、小野瀬は僅かに弾んだ声でそういった。
 「自分からあんなゲームを提案しといて、それで殺されそうになると警察に頼ると? まっとうすぎてむしろ意外だよ」
 「そりゃ……死ぬのが怖くなきゃ、スリルを求めてあんなゲーム提案しないし……それに…………。……負けると思っていなかった」
 「あはははっ。そりゃまぁ確かに、ふつうはそうだな、人間はっ。あはは」
 そう言って小野瀬はけらけら笑う。得意げなその様子が目障りで、ムカついた。
 「おまえのそういうところが、ふつうの奴には気持ち悪いんだろうな。自分とはまったく違うと軽蔑していた奴ばらが、ともすれば人間の本質を裸にしたような行動も取る。それはもはや、本能的な忌避といって良い」
 わたしは頬を膨らませてうつむくしかない。腹の中が煮えくり返るような想いでいて、それでいて復讐するだけの気力も浮かばない。
 「そんな風にいじましく黙り込むなよ。それは似合わない。おまえはもっと飄々としていろよ。一度はおまえに負けた人間として恥ずかしいぜ」
 「一度は負けた?」
 わたしは意味が分からなかった。
 「ゲームに勝ったのはあなたでしょう? それが、どうして?」
 「ああ。それはだな……」
 小野瀬はその場で振り返り答えた。
 「おれはその……必要なだけの殺人を誰にも見付からずに成し遂げたかったんだ。それが目標で、一人ぼっちのおれの唯一の矜持だったんだ。それを最初に打ち崩したのが淀川、おまえだ」
 そう言って唇をつりあげて、こう続けた。
 「だから嬉しかったよ。おまえからゲームに誘われた時は。これでようやく、おまえとの敗北を帳消しにして復讐するチャンスがめぐって来たんだってな。なんとなくおまえがそうなんじゃないかとは、思っていたよ。だけれどゲームに勝つには、もっと論理的におまえであると証明しなくちゃいけなかった。そしておれはそいつを成し遂げた」
 得意げに何度も強調する小野瀬に、わたしは歯噛みするより他なかった。睨むようにして彼を見詰めるだけだ。
 それからしばらく歩くと、わたしは林のようなところに案内された。光を遮断する木々の内側は薄暗く、葉っぱの匂いは香ばしい。小野瀬は枝木の中から粗末な棺おけ染みた木箱を取り出すと、わたしに向けて開帳して見せた。これを見てくれと得意げに。
 現れたのは鼻を突くような異臭だった。箱の蓋を開くと同時に、あふれ出した瘴気が林全体を覆い、禍々しく歪めたようにさえ感じられる。中にあったのはつぎはぎにされた人々の死体だった。犬の鼻、中年の男の頭部、女性のものらしい長い髪の毛、しなやかな長い腕、繊細で細い指先、勇ましく俊敏そうな足……それらが一つの箱にプラモデルのパーツのように並べられている。わたしは思わず中を覗き込んだ。
 「フランケンの怪物を作りたかったんだ」
 と、小野瀬は言った。
 「町中から有用なパーツを集めてね。究極の化け物を作り出そうとした。おもしろい遊びだろう? だけどそれには苦労したさ。おまえはマラソンの選手だから足をくれ、なんてお願いしたところで誰も寄越しちゃくれないからね。必然、殺してから奪い取ることになる。かれこれもう八人と一匹さ」
 前に報道された分よりずっと増えている。おそらく警察も気付いていない殺人があったのだろう。
 「鼻のパーツは、人間のものよりずっと優れた犬のものを特別に採用した。それくらいのほうが、怪物っぽいちぐはぐさが出ておもしろいと思ったんだ。胴体は臓物が入ってる重要なものだから、健康が一番健康が一番と毎日のように口にしているおれのおじさんのをもらってきた。腕は町を散歩してておっ、と思った綺麗な人のものだし、髪の毛の持ち主は美容院の前で張り込んでようやく選んだ。指先は手芸の名手さ。おれの小学校の頃の先生」
 「……ふぅん」
 わたしはうつむいて言った。
 「だったら。あの時わたしを殺さないといったのは、そういうことだったんだね」
 拗ねたように口にするわたしに、小野瀬は意外そうな顔をする。わたしは続けた。
 「わたしには取り上げるよな優れたパーツがない。だから殺さないんだ」
 そういうと、小野瀬はせせら笑うような声を漏らした。
 「いやいや……そんなことはないよ。君は本当に、自分の振る舞いに無頓着で、本当にまるで無敵のように見えるのに、根っこのところじゃ我意が強くて繊細だ。君は本当におもしろいよ」
 「ほっといてよ」
 わたしはうつむいていった。
 「ごめんごめん。誤るよ。それに……別に君のパーツがほしくないって訳じゃないんだ」
 彼がそう口にすると、わたしはその場で顔をあげた。
 「君の目が欲しい」
 小野瀬は陶酔ように言った。
 「その真っ黒に輝いた目が欲しい。どんな人間のものを抉り出したところで、それ以上のものはないってくらいの黒真珠だよ。……初めて見た時から、目のパーツはこれって決めていたんだ」
 そう言って小野瀬は照れたように笑う。そしてポケットからおずおずナイフを取り出した。
 「おれは君に事件の現場を目的された。だから君はおれのことを通報する権利がある。そして、君はおれとのゲームに負けた。だからおれは、自分の遊びを最後までやり遂げる権利がある。君が警察におれのことを通報しちゃった所為で、おれの時間にもう限りがあるんだ。だからせめて、その目玉をおれにおくれよ」
 そう言って小野瀬はこちらに近付いてくる。わたしはその場に釘を打たれたように動けなかった。
 わたしの目玉を陶酔したような表情で凝視しながら、小野瀬はナイフを振りかざした。わたしにはそれをかわすことができたかもしれないし、岩でも振りかざして相手を迎撃することができたかもしれない。けれどわたしはそれをしなかった。
 小野瀬のナイフがわたしの瞳に叩き込まれた。小野瀬は興奮した面持ちでナイフを手繰り、わたしの目玉をえぐり取ろうとする。わたしはその場で絶叫をあげ、力の限り不恰好な抵抗を続けた。だがしかし、そんなものが無意味であることを小野瀬は知っていた。わたしにも分かっていた。

 誰しも自分から望んで悪事を行うことはない。誰か偉い人がそういったらしい。
 わたしはその意味が分からなかった。どうして故意でもないのに乱暴や略奪を行えるのだろうと。しかしそれについての先生の答えはこう。『悪いことをしなくちゃいけない人は、悪いことをしなくちゃいけないような状況に追い詰められているのよ』
 大人の言うことはいい加減だ。小野瀬をあんな強行に駆り立てた理由を、いったい誰に理解できるというのだろうか。
 退屈な世界の向こう側が見たかった。両親の庇護の元、何不自由ない孤独に押しつぶされる生活の中で、自分が自分であることを示すモニュメントが欲しかっただなんて。おそらく、彼が他の誰かに理解されることは、これから一生ないように思われた。
 目が見えなくなったわたしは、しばしばとある山奥へ出向く。光のない世界だけれど、そこにいたるまでの道のりは完全に記憶している。
 そこには棺おけ染みた木箱があって、中には小野瀬が血道注いで作り上げた怪物が眠っていた。
 警察が事件の事後処理を始めた時、この奇怪な怪物のことだけは見付けられなかった。小野瀬が隠していた訳ではない。これを山奥に持ち込んだのは他でもないこのわたしだった。
 棺おけの中に体を押し込み、わたしは腐臭を発する小野瀬の作品と抱擁を交わす。腐敗しきったどろどろの怪物は、わたしにとってどうしてか温かく、とても安心するものだった。
 小野瀬は事件後、これが見付かり世間に公表されることで、世界に自分の存在を知らしめようとしたのだろう。だから、これを隠したことは彼への復讐であり、彼に対する独占欲でもあったかもしれない。彼の作った作品をわたし一人がひとりじめできると思うと、わたしはとても気分が良かった。
 彼は十二歳の子供でしかないから、少年法の元すぐに形だけの施設から出てこられるはずだ。こうして木箱の中で眠っていれば、いつか小野瀬が、わたしを探しに来てくれるだろうか。わたしは光のない世界にその日の景色を移しこみながら、腐った腕に抱かれて静かな眠りについた。
 わたしが本当の優しさに包まれることができるのは、抉り取られた自分の目玉と一緒に眠る、いまやここだけだ。

2012/03/14(Wed)21:11:47 公開 / 特攻人形ジェニー
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■作者からのメッセージ
 最低で愚かなヤツを描きました。
 小さな子供というのは、創作の世界において、もっとも無敵に近い存在だと思います。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。