『生意気言うんじゃねえよばーか。死ね。』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:神夜                

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 これは不味い。
 これはどう考えても不味い。
 これはどう考えても絶対に不味いのだが、このどう考えても絶対に不味い状況を打破する術がまるで思いつかない。
 六畳半の薄汚れた狭いアパートの一室、小さな丸型テーブルの前に正座をしたまま、もうかれこれすでに二時間は経過していた。その間ずっと考え続けているのだが、自らの陳腐な脳味噌でいくら考えたところでこの状況の根本的な打開策が見つかるとは到底思えない。到底思えないのだが、他に取るべき策がどうしても判らない。こうしてずっと見つめていれば、やがて桁数が勝手に増えたりしないだろうかと、半ば本気で思う。
 丸型テーブルの上には、一冊の通帳が無造作に広げて置いてある。
 そこに記載されている残金は「¥72」だった。
 これはどう考えても絶対に不味い金額である。次の仕送りまでまだ十五日ある。まだ十五日あるのに、明後日には光熱費が引き落とされる予定となっていて、さらにその三日後には、この部屋の家賃を大家さんに支払う約束になっている。もはや八方塞で万策尽きていた。これはどう考えても絶対に不味い。
 そう深く考えずに、とっとと両親に電話してお金が無いから仕送りしてくれと、そう言えればどれほど楽だろうか。そんな古典的な手が通用する段階は、とっくの昔に終わってしまっていた。お金が尽きたから仕送りしてくれ、と言うのはもはや常習犯となっていて、前借りをし過ぎてすでにもう一年分も前倒しになっていた。そのせいで両親からは「次に仕送り前倒ししてくれなんて言ったら、二度と金は振り込まんから覚悟しておけ」と釘を刺された。刺された程度ならまだよかったのだが、実はそれがつい二ヶ月前の話で、すでに先月、泣きながら電話してさらに十日、仕送りの催促をしたばかりであった。さすがにもう泣き落としも通用しないし、連続で催促したらそれこそ命自体が危ない。
 そんな訳で、七十二円しか入っていない通帳を眺め、もうかれこれすでに二時間以上経過している。何か奇跡が起きてこの通帳の数字が一気に十桁くらい動かないだろうかと本気で思う。いや十桁は言い過ぎであるが、せめて七桁くらいは動いて欲しい。しばらくは金に困らない生活を送ってみたい。そんな生活が送れていたのなんてせいぜい小学生くらいまでで、中学生の頃から世の中は金だとつくづく実感していた。
 しかし、世の中金だとつくづく実感しているくせに、親から無駄金をせしめて無意味に大学に通い、骨の髄までしゃぶり尽くすかのように仕送りの前倒しまでやらかしている。世の中金だと判っているが、その金を稼ぐのがどれだけ大変かなんて、まるで知らない。毎日のように金が無い金が無いと喚いてはいるが、ロクに大学にも通っていないくせにバイトなんぞをするつもりは毛ほどもなく、毎月仕送りされる度、全額引き下ろしてゲームや漫画などを買い漁っていた。
 そしてそんな生活を二年続けたが、どうやらついに終止符を打つ時が来てしまったようだ。
 選択肢は次の二つだ。
 @両親に対して「金を振り込まなければ首を吊って死ぬ」と脅迫する。
 A日雇いのバイトを行なってとりあえず次の仕送りまで食い繋ぐ。
 その二つから考えるに、現実的な選択肢としてはどう考えても@であろう。が、記憶が確かであれば@の方法はすでに二回使用しているはずである。三回目が通用するかどうかは判らない。両親が「三度目の正直があるかもしれない」と思ってお金を振り込んでくれれば良しだが、「二度あることは三度ある」と考えてもし万が一に振り込まれなかった場合は最悪だ。勿論本当に首を吊る勇気なんてないから、大家さんに部屋を追い出されるまでは居座って、追い出されたらどこかの橋の下でダンボールハウスを作らなければならなくなる。そんなのは絶対嫌だ。
 かと言ってAの日雇いバイトを行なうくらいであれば、それこそ橋の下でダンボールハウスを作る方がまだマシかもしれない。何が何でも働きたくない。日雇いバイトなんて尚更だ。そんなクソみたいな労働をするくらいであれば、働かずにダンボールハウスを建設する道を選ぶ。バイトなんてどう考えても人生の負け組みの人間がやることだし、働くなら働くで、大手大企業のエリート正社員になって出世コース確実じゃなければ馬鹿らしい。
 しかし困ったものだ。働かずに金を得る方法は、やはりどう考えても@しかない。失敗する可能性があるのであれば、その失敗する要因を取り除かなければならない。そうなってくると問題は脅迫文句であろう。「金を振り込まなければ首を吊って死ぬ」は明らかにもう弱い。ならば「金を振り込まなければ犯罪を起こして一族の汚点とするぞ」くらいが妥当であろうか。だけど強盗くらいであれば特に痛手ではないのではないか。であれば「金を振り込まなければ女子小学生を拉致監禁してニュースに出るぞ」あたりがベストなのではないだろうか。性犯罪等を犯した方が一族に与えるダメージは大きいと思う。ならばそれでいこうか、いやでも実際に小学生とか興味無いし、それを真に受けた両親が精神科医なんてものを引き連れて上京してきたらそれこそ致命的だ。どうしよう。
 丸型のテーブルの上に置かれた通帳の数字をさらに見つめる。
 やっぱり二桁のままだ。七桁どころか一桁も増えていない。
 ため息を吐き出しながら仰向けで埃の転がる床に倒れ込んだ。何もせずに座っているだけで日払い時給五千円の仕事はないであろうか。それくらいであれば仕方が無い、バイトでも働いてやろうか、とか少しだけ思う。しかしそんな都合の良い話がある訳もなく、もし仮にあったとしても、そんな美味しい仕事はこっちに回って来る前にもっと別の誰かの元に落ちていっているに決まっていた。
 床の上をもぞもぞ転がりながら思う。
 手から石油でも沸き出さないだろうか。鼻から砂金でも出ないだろうか。
 さらに大きなため息を吐き出し、両親に対して何と言って脅迫しようかと真剣に考え始めたその時、突然に「ガタタッ」という物音と共に部屋のドアの郵便受けに何かが突っ込まれた。手紙か何かであろう。たぶんどっかの店の割引クーポン付きのメルマガとかそんな類のものだと思う。今にドアに突っ込まれた何かが、現金百万円だったら良かったのにと本気で考える。そんな都合の良いことがあったりしないだろうか。しないんだろう。
 仰向けの身体を半回転させてうつ伏せになり、埃に塗れた床を匍匐前進で進んで行く。黒のトレーナーが一気に白くなってしまったが、今は正直どうでもよかった。どうせ洗濯機に突っ込めばトレーナーは綺麗になるのである、ならば部屋の掃除も兼ねてこうするのも有だろう。何よりもこの状況で立ち上がりたくなかった。もう本当に何もしたくない。
 のっそりのっそりとドアに近づいて行き、芋虫のように背筋の力で少しだけ上半身を上げ、手を伸ばして郵便受けから手紙を引っこ抜いた。再びその場で半回転して仰向けになり、手紙の表を目の前に持ってくる。不思議なことに、何も書かれていない白紙であった。悪戯だろうかと思い、今度は手紙を裏向けて見る。そこには絵も色もなく、ただ無機質な黒字で、こう書かれていた。
 『助手契約書 給与:日払い時給五千円』
 目を剥いた。
 手紙を手にしたまま身動きが取れない。
 悪戯にしては早過ぎる。いやそれ以前に悪戯だとしたら心を読んだというのか。どういうことだこれは。一体誰がこんなものを郵便受けに突っ込んだのであろう。表に住所等は書かれていなかった。ということはつまり、この手紙を書いた何者かは、つい先ほど、直接にこの手紙を郵便受けに入れたことになる。果たして犯人は誰であろう。心当たりなんて一切無い。しかし日払い時給五千円の仕事が云々、なんて考えたのは先ほどの自分であるが、なるほど、実際にそれを見てみると怪しさしか感じ取れない。助手契約書って、一体何の話なんだろう。こんなに怪しい求人募集もそうそうあるまい。
 悪戯であるのは確定であろうが、しかし日払い時給五千円か。冗談で考えていたが、よくよく考えれば本当にすごい金額だ。二時間働いただけで一万円、半日働いて二万円。半日働くのを週三日で六万円。それを一ヶ月で約二十四万円。驚異的な金儲けであろう。仕送りの三倍以上の金額である。もし現実に時給五千円なんてバイトがあるのであれば、是非ともやってみたいものである。
「――本当だな蛆虫」
 ああ、本当だとも。時給五千円くれるなら、座ってるだけなんて贅沢は言わない、ほんの少しなら働いてもいい。それくらいであれば、この重い腰を上げることだってやぶさかではない。本当に時給五千円くれるというのが前提条件としてあるなら、少しは働いてみるのも悪くはないだろう。
「ならば契約は成立した。蛆虫。お前はこれからわたしの助手だ」
 しかし助手って何の助手なんだろう。医者か何かだろうか。医療の知識はないけど大丈夫なのだろうか。
「勘違いするな。お前は、天使の助手だ」
 てんし。テンシ。天資って何だろう。そんな職業あったかな、
「これからお前が死ぬまでの十日間、お前はわたしの助手だ。わかったな蛆虫」
 へー、おれってあと十日で死
 仰向けになったまま、手紙から視線を外して部屋の中を見た。
 逆さに映った視界の中、丸型のテーブルの上に、クソ面倒臭そうな顔をして、胡坐を掻いて彼女は座っていた。
「わたしはフィル・フィーフィット。天使だ。文句無いだろ。死ね」



     「生意気言うんじゃねえよばーか。死ね。」



 泥棒だ。
 こいつは絶対に泥棒だ。もしくは強盗だ。
 この日が来た。ついに来てしまった。セキュリティの甘いこのボロアパートはいつかやられるだろうとは思っていたが、ついにその日が来てしまった。やはりイマドキ一人暮らしをするのであれば、オートロックのロビー認証有くらいのマンションでなければセキュリティ上問題があるのだ。こうなってしまっては仕方があるまい、この事実を両親に打診し、こんなクソみたいなボロアパートなんぞとっとと引き払って3LDKくらいのマンションに移り住もう。
 そんなことを考えながら、仰向けの身体をまた半回転させ、もそもそと身体を丸めた。
 たぶん、全国土下座選手権なんてものがあったら、今の自分ならまず間違いなく上位に食い込めると思う。
 そんなお手本のような土下座をしたままで、こう言った。
「勘弁してください。いまマジで金ないです。何も持ってないです。警察には言いませんから、勘弁してくれませんか」
 返事はない、ならばもう一息、
「おれなんかより隣の部屋の羽山さんが狙い目ですよ。噂だと去年の年末ジャンボで三百万当たったらしいです。たぶんまだ二百万くらいは残ってるはずですから、今が狙い目です」
 小さなため息と同時に声が聞こえた。
「さっきも思ったが、清々しいほどの蛆虫だなお前。蛆虫の中でも最上級の蛆虫だ。見果てた糞だ。糞虫以下だ。死ね」
 そこまで言われると何となく逆に褒められているような気がしてくる。
「褒めてねえよ死ね」
 さっきも思ったが、どうやらこの泥棒か強盗には人の心を読む特殊能力があるらしい。何だそれは。最強か。
 土下座をしたまま、ほんの少しだけ視線を上げる。
 見慣れたはずの六畳半のボロアパートの一室、いつも使っている小さい丸型のテーブルの上に、見慣れない光景が広がっている。肩に掛けた巨大な真っ白い鎌の柄の部分に凭れるようにして、器用に胡坐を掻いて一人の少女が座り込んでいる。見る限り、彼女は本当に真っ白だった。真っ白な服、真っ白な髪、真っ白な眼、真っ白な肌、そして真っ白な巨大な鎌。頭の上には白く薄く輝く変なリングのようなものが浮いている。
 初めて見る光景であった。そこにいる彼女を含め、部屋にあるすべてが初めて見る光景のように思えた。コスプレでは、まさかあるまい。コスプレにしては完成度が高過ぎる。今に見えるこの光景に、自然と意識が飲み込まれていく。不思議な光景であった。ここまで幻想的で、ここまで綺麗で、ここまで理想的な女の子が、ここまで驚くほど面倒臭そうな顔をして胡坐を掻いて座っている。これほどまでに面倒臭そうな顔をする女の子を、産まれて初めて見た。
 さて、と一瞬だけ思う。
 さて本当に、どうしたものか。
「あー……あの。先に一つだけ、言っておきたいことがあるんですけど……」
 彼女はさらに面倒臭そうな顔を二割増させ、大きなため息と共に言葉を吐く。
「なんだ。言ってみろ蛆虫」
「本当に今、金ないです……。そこにある通帳、それが全財産です……」
 彼女の視線が丸型のテーブルの一角に落ちて、そこにあった通帳をまるで生ゴミを見るかのように一瞥した後、その生ゴミを見るかのような視線をそのままこっちに投げ捨てる。
「知ってる。だからこうしてお前のような蛆虫に仕事を与えてやったんだ。日払い時給五千円。それがお前の望んだ給与なんだろう蛆虫」
 確かにそれはこちらが望んだ給与である、給与であるが、まさかそこから考えると、この給与額というのは、
「蛆虫の癖にこういう時だけ頭が回るんだな。本当に最上級の蛆虫だなお前。しかしまぁ、せっかくだから教えといてやる。お前が望んだからこそ、この給与に設定してやったんだ。有難く思え蛆虫」
 ということはつまり何か。先ほど、もし日払い時給五千円なんてせせこましいことを思わず、日払い時給十万円がいいと思っていたら、この契約書の金額は、
「そうだな。その金額に設定してやっただろうな」
 馬鹿な、そんな馬鹿な、
「あの……やり直しとかは……?」
「すでに契約は成立している。神の承認ももう下りた。今さら変更なんて出来るわけねえだろ蛆虫。死ね」
 マジか。マジでか。何だこれは。この言い様の無い虚無感のような感覚は何だこれは。
 しかし。ここいらでようやく意識が現実に追いついてきた。日払い時給五千円とか正直もはやどうでもいい。そんなことよりも、今はもっと大事なことがある。そもそもこの状況は、一体何だ。目の前のこの真っ白な少女は一体何者だ。泥棒か強盗じゃないのだろうか。というより、それ以前にこの少女、一体どこからこの部屋へ入って来たのか。ここは二階だ。ベランダ等も特に無い。よじ登って来たとかではあるまい。それによくよく考えてみれば、どうして自分は土下座なんてしているのだろう。これは変だ。相手は強面のおっさんなどではなく、会話もそれなりに成立しているところを見ると電波ではあるが快楽殺人者ではないと思う。相手はただ面倒臭そうな顔をしている一人の小柄な女の子である。なぜか巨大な鎌のような刃物を持ってはいるが、どうせあんなのは作り物であろう。たぶん握って曲げればすぐに圧し折れると思う。なのになぜ、自分は土下座なんてしているのか。目の前のこの少女に対して恐れる必要なんてあるのだろうか。いやないだろう。下手に出るだけ損というものだ。あ。そう思ったら何か腹立ってきた。よく考えなくてもこいつ、不法侵入者じゃねえか。警察。そうだ警察。さっささと捕まえてもらおう。ただしその前に、散々人に蛆虫だの死ねだの言ったことに対する謝罪を聞かねば納得出来ない。名誉毀損で訴えるぞ。いや待て、名誉毀損。それだ。その手があった。つまり、だ。この少女を名誉毀損で訴えると何が発生するかと言うと、慰謝料が手に入るということだ。慰謝料、金である。おまけに一万とか二万とか、そんなせせこましい金額じゃない。名誉毀損の慰謝料の相場がいくらかなんて知りもしないが、きっと三百万くらいは貰えると思う。三百万。大金だ。土下座とかしてる場合じゃない。よし、訴えよう。その前に逃げられると厄介だ。せっかくの金づるを逃がしてなるものか。捕獲。そうだ捕獲、
 そう思ったら後は早かった。土下座の体勢から一転、奇声を上げて丸型テーブルの上の少女へ向けて飛び掛った。もはや少女は金にしか見えず、金の無い今の自分には絶対に逃がしてはならない獲物であって、このチャンスを逃せば最後、自分は哀れダンボールハウス行きだ。それだけは絶対嫌だ、何としても、この少女を、
 あと少しで、手が、
 天地が引っ繰り返った。一回や二回、なんて生易しい引っ繰り返り方じゃなかった。
 体感で三十回くらい引っ繰り返ったような気がした。気がした次の瞬間には埃に塗れた床に頭のてっぺんから激突していて、ものすごい音が鳴って部屋が揺れた。無意識の内に蛙が潰れたような呻き声を上げたまま、そのまま背中から倒れ込んで行く。再び部屋を揺るがすような音が鳴った時、下の階に住んでいる中村糞太郎(アダ名)二十九歳独身(推定と予想)が「うるせえぞ引篭りッ!! 殺されてえのかッ!!」と大声で怒鳴る声が聞こえた。
 何がどうなったのかが、まるで判らなかった。仰向けで床に倒れ込んだまま、部屋に舞う埃をぼんやりと見ていることしか出来ず、
 喉元に、鎌の刃先が添えられた。
「――蛆虫。次にわたしに歯向かったら、お前の寿命の前に死なせてやるからそのつもりでいろ」
 まったくの無表情で、少女がこちらを見下しながらそう言った。
 うひひひひひ、としか思えなかった。忘れていた。心の中が読まれているんだった。
「……ハイ。スミマセン。ジョウダンデシタゴメンナサイ」
 鎌が引かれる。引っ繰り返ったまま身動きが取れない。
 何この子。ヤバイよこれ。強盗とか快楽殺人者とかそんなレベルじゃなくこれヤバイよ。どうしよう。
 しかしそう思いながらも、ただ引っ繰り返っていることだけしか出来なかった。

     ◎

 どうやらフィル様は、天使であらせられるらしい。
 天使である。子供の姿形をしてラッパとかの楽器を持っていたりハート型の弓矢を持っていたりするあの裸族である。だから「でもフィル様は服を着ていますよね」と口答えしたら散々に蹴り倒された。フィル様曰く、「それはお前ら蛆虫の勝手なイメージだ。調子に乗るな死ね」だそうだ。ただ、そんな蛆虫連中でも一部は正解のイメージを持っていたらしい。天使は白を好むようである。フィル様は服も髪も瞳も肌も鎌も何もかも真っ白だ。天使は白、悪魔は黒、という一般的なイメージは強ち間違いではないのだろう。
 しかし。白いのはいいのだが、鎌って何だろう。鎌。鎌ってどちらかと言えば悪魔、それこそ死神とかが持っているものなのではないだろうか。が、それもまた蛆虫連中の勝手なイメージであって、本当ならば天使が持っているのはラッパとかの楽器とかハート型の弓矢とかではなくて、鎌なのかもしれない。裸族に似合うのはラッパとハート型の弓矢だな、と先人の蛆虫が安易な考えで勝手に持たせただけなのだろう。死ねばいいのに。
 そしてそれはともかくとして、なぜその天使のフィル様がこんな所にいるのか。
 疑問はそれであった。
 丸型のテーブルの上で胡坐を掻いたまま、フィル様が本当に面倒臭そうに説明する。
「天使にも階級や職種、管轄とかいろいろあってな。わたしも元は違う管轄だったんだが、ちょっと前に神から異動の命が下った。それが今のこの討伐特務。階級上がっても碌なことが無い。面倒臭い仕事ばっかりだ。それもこれもお前ら蛆虫共のせいだ。死ね。絶滅しろ。二度とこの世界に湧き出るな蛆虫」
 フィル様は酷くご立腹であるらしい。が、討伐特務。討伐特務、って何だろう。それってなんか格好良い響きだ。
 丸型テーブルの前で正座をしながら、姿勢良く手を上げる、
「はいフィル様! 質問があります!」
 本当に嫌そうな顔でフィル様がこっちを見てくる。構わず質問する。
「討伐特務って何するんですか! 天使って人を天界へ連れて行くのがお仕事じゃないんですか!」
「うるせえな蛆虫。死ね。説明してやるから黙ってろ」
「はい! すみませんでした!」
 フィル様が大きなため息を吐き出しながら、
「基本的にはお前ら蛆虫のイメージは間違っちゃいない。わたしたち天使の仕事は、お前ら蛆虫の魂が迷わぬよう、天界へ連れて行くことにある。ただな、お前ら蛆虫は死に過ぎる。そのせいでいろいろ面倒なことが起きてるんだ。本当に迷惑だ。死ね蛆虫。天使も数や管轄が限られるし、お前ら蛆虫が後先考えずに無駄に繁殖しやがるせいで、こっちもいろいろ対策を考えなくちゃならない。そのせいで神にもわたしたちにも負担が掛かる。お前らが死滅すればそれだけで事足りるっていうに、いらねえ仕事ばかり増やしやがってよこの蛆虫共が」
 まったくだ、とフィル様の話を聞きながら憤る。
 世間では後先考えずに淫らな性欲に溺れて子供を安易に作る馬鹿の存在が多いこと多いこと。そんな馬鹿共のせいで無駄に人口は増え、環境問題まで発展しているのだ。もう少しお頭が足りれば抑えられるのであろうが、所詮蛆虫である連中にはそんな抑制は出来ないであろう。まったくもって同じ蛆虫として恥ずかしい限りだ。自分の性欲も抑えられない奴が、自らの子孫を残したところで碌なことにはならない。本当に遺憾である。おまけに性欲に負けて子孫を残した奴に限って、親に援助して貰えばいいと安易に考えてやがる。本当に馬鹿丸出しな考えばかりを持ったやつで呆れ返るくらいだ。
 まったくまったく、と頷いていると、フィル様が本当に呆れたように、
「……わたしは蛆虫が嫌いだ。大嫌いだ。ただ、……お前はその蛆虫の中でも本当に別格だな。清々しいほどの蛆虫だ。ここまで最上級の蛆虫を見たのは、わたしも初めてだ。お前、誇っていいぞ」
 フィル様に褒められた。びっくりするくらいに嬉しい。
「それで話を戻すが、お前ら蛆虫は簡単に死に過ぎる。そのせいで、お前ら蛆虫の魂を天界に連れて行けなくなるケースが存在する。そうなった場合、どうなるか、お前の腐った脳味噌で判るか蛆虫」
 魂を天界に連れて行けなくなる、ということはつまり、この世界に残ってしまうということだ。そこから考えると、結論は一つしかない。
 これでもかという表情を作って返答する。
「幽霊になる、ですねフィびゅッ」
「んな訳ねえだろ蛆虫が。死ね」
 鎌の柄の部分で思いっきり横っ面を殴られて吹っ飛んだ。
 鼻血を垂れ流しつつも体勢を立て直し、鼻にティッシュを詰め込みながらしょぼくれる。
「魂がこの世界に留まると、それは空間を漂いながら、やがて他の魂と結合し合う。それを繰り返す度、その純度は下がり、幾つもの蛆虫の思考が撚り合わせって穢れ、より多くの魂を欲するようになる。そうなるともう手遅れだ。その魂はそのままでは天界へは連れて行けない。かと言ってそのまま放っておくわけにはいかない。なぜならそうなった魂は、生きている蛆虫の魂を食らうからだ。だからこその、討伐特務。その穢れた魂を、汚れた悪循環の渦を、わたしたちが狩ることで、穢れを浄化する。それが、討伐特務の仕事。……ただし、それには一つ問題がある」
 フィル様が腕を組み替えながら、
「穢れた魂は、その存在位置の補足が天界からは不可能になる。そのせいで、態々討伐特務はその穢れた魂が『いるかもしれない』場所の近くに行かなくちゃならない。おまけに、だ。穢れた魂は、生きている蛆虫の魂を捕食する時しかこの世界に具現化されない。わたしたちが穢れた魂を狩れるのは、その一瞬だけだ」
 さっきからずっと、鎌の柄がテーブルを一定間隔で「こん、こん、こん」と叩いている。
「しかし、穢れた魂は誰彼構わずに蛆虫を捕食する訳じゃない。穢れた魂は、『死が近い蛆虫』の魂を捕食する。だからわたしは今日、ここへ来た。そして、『ちょうどいい』お前と、面倒ながら助手契約を結んだ。以上が討伐特務の仕事で、わたしがここにいる理由。お前の足りない糞みたいな脳味噌でも理解出来たか、蛆虫」
 フィル様の話を聞いていて、何となく判った。
 つまり、漫画みたいなものだ。死んだ人の魂が生きている人を襲う。つまり悪霊とかそういう類のものであろう。それをやっつけるのがフィル様の仕事。本当に漫画そのものである。少年漫画とかでよくある設定だ。何かで見たことがあるような気がする。しかも、やはりいろいろお約束とも言える制約もあるときた。その悪霊を倒せる瞬間が、死が近い人間を捕食するために出て来る一瞬しかないなんて、
 ……ん?
 何かさっきもそんな話を聞いた気がする。聞き間違えだろうか。
「……あの。フィル様?」
 鎌の柄が「こん、こん、こッ」と止まった。
 恐る恐る、
「……死が近いって、まさかぼく、死んだりしないですよね?」
 フィル様が、本当に嬉しそうに笑った。思わず悶え死にそうになるほど可愛い笑みだった。
 その笑みを見てもじもじしていると、フィル様が天使の笑顔のまま言った。
「言っただろ蛆虫。お前は、十日後に死ぬ。良かったな」
 我に返る。危うくフィル様の笑顔に魂を持って逝かれるところだった。
「ですよね、そんな訳ないですよね。ぼくが十日後に死ぬなんて、嘘に決まって、……………………………………嘘ですよね?」
 フィル様が、思わず抱き締めたくなるほど可愛い笑顔をする。
「本当だ。お前は、十日後に死ぬ。正確には十日後の午前三時二十四分四十五秒、大賀大橋の下のダンボールハウスの中で眠ったまま凍死する。運が良かったな。睡眠状態での凍死は特に苦痛も無く楽に逝けるぞ。確かここの管轄の天使はなかなか話の判る奴だ。せいぜい楽しみにしておけよ蛆虫。ただし死ぬまではお前はわたしの助手だ。近々、お前のその魂を捕食しに穢れた魂が現れる可能性がある。その時まで、お前は餌だ。死ぬまでにせいぜい死の予兆を、辺りに振り回しておけよ蛆虫」
 嘘だ。冗談だ。
 嘘に決まっている。冗談に決まっている。決まっているのだが。十日後にダンボールハウスの中で凍死する。その表現が変にリアルで逆に怖い。今日から十日だったら、金も尽きて大家さんに部屋を追い出され、橋の下でダンボールハウスを作るくらいの時間の猶予は十分にある。最悪のケースと考えていたその状態であるが、まさか実現すると、そう言うのか。
 ヤバイ。死にたくない。まだやりたいことはいっぱいある。ゲームもまだ五本くらい未開封だし、今期のアニメも幾つか気になるのが放映されている。パソコンのHDDの中身だってどうにかしなくちゃならないし、そもそもネタで掲示板に「死ぬまで童貞でいいや」とか書き込んでいたが、そんなのはやっぱり嫌だ。どうしよう。どうしたらいいんだろう。意地を張らずに一回でいいから風俗にでも行っておけば良かった。なんで死ぬことになるんだ。自分が一体何をしたと言うのだろう。人様にも迷惑なんて掛けて無いのに。善良な一般市民であるはずなのに。死ぬべき人間なんて他にいっぱいいるじゃないか。それなのになんで自分が。どうして自分ばっかりこんな目に遭うんだろう。
 悔しくて、悔し過ぎて、思わず泣き出そうになった時、フィル様が笑顔を消して、本当に感心したようにこう言った。
「……お前、本当に別格な蛆虫だな……。蛆虫に感心したのなんて、初めてだ」
 フィル様の褒め言葉が、今はどうしてか、余計に悲しくなった。

     ◎

 フィル様には十日後に死ぬと、そう言われたが、よくよく考えたらそれは回避出来る可能性のある未来であった。
 なぜならば。死因はダンボールハウスの中での凍死だと言った。逆算していく。なぜダンボールハウスの中になんているのか。それは今日から五日後に大家さんに家賃が払えなかったため、部屋を追い出されてしまったからだ。なぜ家賃が払えずに部屋を追い出されてしまうのか。それはお金が無く、おそらく親に泣きついても仕送りを送って貰えなかったからだ。ということはつまり、お金があれば家賃が払えて部屋を追い出されることもなく、ダンボールハウスの中で一晩を過ごすなんてこともなくなるのではないか。そうすればフィル様の言った死因は矛盾となり、死を回避出来るのではないか。
 ならば金を作ることが第一となる。しかし仕送りはおそらく無理であろう。だったらバイトしかないのではないか――、死ぬこととバイトすることを天秤に掛けて真剣に悩んだが、そこでようやく思い至る。自分は、フィル様と助手契約を行なったのだ。ということは、日払い時給五千円が手に入ることになる。事実、フィル様は本当に、言った通りの金を支給してくれた。
 投げ出された通帳に、フィル様が鎌で一振りすると、「¥72」と表示されていた金額が、一気に「¥30,072」まで増えた。幻を見ているかのようだった。信じられなくてネットバンクでも確認したが、確かに今しがた、自分の通帳に三万円が振り込まれたことになっていた。おまけにこの助手契約のバイト、穢れた魂が出現するまでは契約が破棄出来ない代わりに、二十四時間体制であるが、傍にフィル様がいるだけで、他はいつも通りにしていればいいそうだ。ということはつまり、一日が二十四時間だから二十四×五千円で十二万、それを十日だから百二十万。五日後の家賃を払う段階でもすでに六十万前後は振り込まれていることになる。一ヶ月分どころか、半年分くらい先払いしてもまだまだ余裕が残るほどである。楽勝であった。これであれば、死ぬなんてことは絶対に起きない。フィル様さまさまである。
 ――が。その僅か二日後、電気とガスと水道が、止まった。
 何の前触れも無かったはずである。テーブルに胡坐を掻いて転寝をしているフィルの隙を突き、パソコンでネットからエロ画像を収拾していた時、本当に唐突に、「バッチン」という音と共にパソコンの電源から部屋の電気まで、何から何まで一瞬で沈黙してしまった。停電かと思った。ブレーカーを見に行っても異常は無く、どういうことかと考え、ある可能性に気づいて蒼白となった。
 持っているだけ無駄な携帯電話から慌ててネットバンクに問い合わせると、通帳の中身が「¥302」となっていた。
 信じられなかった。少なくとも二十万前後は貯金があったはずだ。なのになぜ、通帳の中身がいきなりこんな悲惨なことに、
 呆然と暗い部屋の中で立ち尽くしていると、急にドアが大きくノックされた。
「宅配便でーす」
 扉を開けるといつも利用する配達員のおっさん推定年齢三十五歳くらいのがいて、満面の笑顔で「今日も荷物大量ですなー」と馴れ馴れしく話し掛けて来た。おっさんが判子をくれと言うので、部屋の中から判子を取って戻って来ると、玄関先に大量のダンボールが積み上げられていた。それら一つ一つに判子を押していく。全部押し終わると同時におっさんが「ありーしたー、またお願いしますわー」と帽子をふりふりしながら去って行く。
 部屋の中が、ほとんどダンボールで埋まってしまった。身動きを取ることすらままならない。
 急に騒々しく、そして狭苦しくなってしまった部屋の中、丸型のテーブルの上にいたフィル様が面倒臭そうに、「なんだこれは蛆虫。ゴミか」と言った。
 ゴミなんてとんでもない。ここにあるのは約二十万分の漫画とゲームと同人誌とDVDBOXとブルーレイBOXと、その他諸々の前々から欲しいと思っていたいろいろなグッズである。ゴミなんてとんでもない、これは宝の山である。素晴らしい。夢にまで見た、本当の意味での大人買い。おまけに贅沢にも、速達便で注文した。普段ならそれだけで別途料金が取られるため絶対にしないが、金に余裕があったから速達便にした。まさか注文した僅か一日後にすべて届くとは、何たる優良なサービスだろうか。これからは絶対に速達便で、
 すべての事象が直線で繋がったことにより、小便をちびり出しそうな勢いで絶望した。
 勢い余って、光熱費の引き落し額まで使い込んでしまっていた。そこでさらに、思い出したことがあった。携帯電話をポケットから慌てて引っ張り出し、通販サイトにアクセスして状況を把握する。把握した瞬間、もはや手遅れとなっていることを知る。それからさらに三十万分近くの商品が出荷済みとなっていて、すでに取り消しは出来なくなっていた。おまけに代金引換であった。もう逃げ道は、どこにも無かった。
 ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイ。調子に乗って頼み過ぎた。電気が消えた。ガスが消えた。水が消えた。ライフラインがすべて遮断された。ヤバイヤバイヤバイ。このままでは三日後と迫った家賃支払いの前に、続々とやって来る宅配便の群れに息の根を止められてしまう。どうしよう、どうすればいいんだろう。金。どっかに金は、
 親。いや親はダメだ、もうそれは無理だ。ならばやはりここは、
「――先に言っておくが、給与を支給するのは零時きっかりだと説明したはずだ。それ以外の特例は認められないからな蛆虫」
 胡坐を掻くフィル様の前にジャンピング土下座をした。
 たぶん姿勢に加点してジャンプ力が評価されるほど見事なジャンピング土下座であったはずだ。
「フィル様お願いしますっ!! 一日、一日分でいいですからっ!! 給与の前借りをお願いしますっ!!」
「諦めて死ね」
 もう一回その場で飛び跳ねてジャンピング土下座をする。着地をすると同時に、下の階に住んでいる中村糞太郎(アダ名)二十九歳独身(推定と予想)が「うるせえっつってんだろ引篭りッ!! 何回言やわかんだてめえッ!! マジで殺されてえのかッ!!」と大声で叫ぶ声が聞こえた。うるせえな糞が、てめえこそ一日家にいる時点で引篭りかニートじゃねえかボケカス、こっちはまだ大学生だ、人生の負け組みが吼えるんじゃねえ耳が腐る、と心の奥底で思いながらも、床に額を擦りつける、
「そこをっ、そこを何とかっ!! お願いしますっ!! 靴でも何でも舐めますからっ!! ほらこの通りに舐めぇぶッ」
「触るな蛆虫がッ!! 死ぬ前に殺すぞッ!!」
 鎌の柄でバッキバキにシバキ倒されながらも、それでも必死にフィル様の足元に縋りつく、
「お願いっ、お願いしますっ!! 一日っ!! 一日だけでいいんですっ!! 本当に靴でも舐めぇびッ」
 散々鎌の柄で殴り倒され、もはや起き上がる気力も突きかけ、しかしそれでも最後の力を振り絞って手を伸ばそうとした時、丸型テーブルの上に立って肩で息をしていたフィルが大きなため息を吐き出した。
「…………今回だけだぞ蛆虫。もうお前を殴る気にもならん。……誇って死ね。お前は、わたしの予想以上の蛆虫だった」
 そこに、本当の天使を見た。いや、天使どころか女神だった。さすがフィル様である。
 その場でよろよろになりながら土下座をして、しかし僅かに頭の中で計算した後、こう言った。
「……フィル様、あの。…………二日分の前借り、お願いします……」
 フィル様が、汚物を見る目でこっちを見下しながら、本当に大きなため息を吐き出した。

     ◎

 フィル様が、いつだったかにふと話してくれたことがある。
 蛆虫は、何十年、何百年前から同じ過ちを繰り返し続けている、と。その過ちの連鎖を止めるため、フィル様たちはいろんなことを試してきた。それでも連鎖は止まらず、今もなお、過ちを繰り返し続けているという。それを聞いて、フィル様が何を言いたいのかは、何となく判った。
 争いである。蛆虫は何百年も前から蛆虫同士で争いを続けてきた。
 喧嘩。戦。戦争。時代が変わろうが世代が変わろうが、それは止むことなく繰り返され続けてきた。過去があるのにも学ばない。過去があるのにも成長しない。だからフィル様は、蛆虫は絶滅するべきだと、そう言った。間違いではないであろう。自分もそう思う。ただし、それでもフィル様はどこか遠い目をして、こうも言った。
「わたしは蛆虫共が大嫌いだ。でも、……神は蛆虫が好きだった。神がそう言うなら、わたしは不本意だがそれに従うしかない。……いつか、神が理想とする蛆虫が産まれる、その時まで、ずっと」
 フィル様は優しい。本当に優しいのだと思う。特に何があった訳ではないが、この数日間、ただ一緒にいて、何となく判った。口は荒いしすぐ殴るけど、それでもそれはきっと、蛆虫共のためを思ってのことなのだろう。本当に天使であった。今までの人生の意味はきっと、フィル様に会うためだけのものだったのだと確信した。だから、フィル様なら判ってくれると、そう、思っていた。
 ――が。現実は、そんなに甘くなかった。
 何とかアパートの家賃と光熱費は払ったが、通販の注文がどうしても止められなかった。気づいた時には欲しいものを全部まとめて速達便の代金引換で注文してしまっていた。まるで中毒であった。酒やニコチンの中毒者がなぜそれらを欲するのかがよく判った。誰に何と言われようともやってしまう。一度やったあの快感の虜となってしまい、もはや引き返せなかった。
 毎日鳴らされるインターホンの音と毎日叩かれる扉の音、それと呼び掛けを続ける宅配便のおっさんの声に、ついに耐え切れなくなった。ノイローゼになり掛けていた脳味噌が、最終的にほとぼりが冷めるまで姿を眩ませようという結論に至る。夜逃げ同様にアパートから逃げ出して、二日間は近くにあった高級ホテルに泊まって豪遊の限りを尽くした。フォアグラが最高に美味しく、マッサージサービスでは天にも昇る気分を味わった。
 そして、その豪遊生活がすべての終止符を打つ引き金となる。
 ホテル代がかなりの額に達してしまい、僅かに戻っていた通帳の中身をほとんど使い果たす結果となったが、支払いは滞り無く終わった。しかし、その後が予想外の展開となった。零時になっても、フィル様からの給与支給が無かった。どういうことかとフィル様に問うと、本当に蔑んだ目で見られながら、当たり前のことを言われた。
「忘れたのか蛆虫。お前は、給与の前借りを二日分しているんだ。諦めて、死ね」
 すっかり忘れていた。もはやこれ以降、給与の入金は受けられなかった。だけどそこはフィル様である、何だかんだ言いながらもさらに給与を支給してくれると、そう、信じていた。だから靴を舐めながら「お願いしますあと一日分だけお願いしますっ!!」と言おうとした時、フィル様は、鎌の柄で殴ることさえ、してくれなかった。
 ただ一言だけ、笑顔で、言った。
「死ね蛆虫」
 それは、正真正銘の、拒絶の笑顔であった。そこに入り込む隙間は、微塵も無かった。
 フィル様の女神の笑顔を見ながら、ふと唐突に、ここにきてようやく、死を覚悟した。
 その日の夜は、最後の金を使ってネットカフェに逃げ込んだ。食事を頼む金が無くて、ドリンクバーにあったコーンスープにクルトンを目一杯入れて空腹を満たす。個室のソファーに寝転がって目を閉じるフィル様の横で、泣きながら人生最後のエロ画像収拾をした。次の日の朝一にネットカフェを出て、行く当ても無く周囲をクラゲのように漂う。
 今までの人生を振り返りながら、「まだいろいろやりたいことあったのになぁ」と漠然と思う。そう思うとやっぱり死にたくなくて、こそこそと自分のアパートに逃げ帰ることを決意する。宅配便のおっさんに出くわさないように細心の注意を払いながら帰路に着き、アパートの部屋の前に誰もいないことを確認してから近づいて行く。
 部屋のドアの前に辿り着き、鍵を開けようとして、
 それは、郵便受けから溢れ出し、最終的には扉の至る所に満遍なく張り巡らされていた。数え切れなかった。無数の数であった。目に飛び込んで来たのは、扉を埋め尽くすかの如くに存在する、大量の不在届けであった。その不在届けに記載されている名前はすべて、あの配達員のおっさんであった。狂気を感じた。幾ら荷物が大量にあったからと言って、普通、ここまでするだろうか。この不在届け一枚一枚が、あのおっさんが憎悪を込めた呪いの札に思え、あまりの恐怖に部屋へ帰らず逃げ出した。
 日が暮れる。
 寒さが身に染み始める。
 行く当ても無く、金も無い。もはや引き返せなかった。フィル様の言った通りの事態へと物事は発展する。夜の迫った空の下、絶望に打ちひしがれながらふらふらと漂っていると、最後には大賀大橋の橋の下へと辿り着いてしまった。まるで導かれたかのよう。まるで「お前はここに来るべくして来たのだ」と言われているよう。
 驚いたことに、大賀大橋の下には先客が居た。それなりの大きさのダンボールハウスがすでにそこにはあって、その外で薄汚い爺が野良猫二匹と一緒に焚き火をしていた。その光景を呆然と見ていると、その爺がふとこちらに気づき、しばらく何事かを考えた後に手招きをして来た。散々迷った挙句、爺に近づいて行く。
 焚き火を挟んで爺とは反対側の大きな石の上に、無気力に座り込む。すると爺は、そっと何かを差し出して来た。コンビニ弁当であった。賞味期限が、二日前に切れていた。ふざけんな糞爺、と心の中で悪態をつく。こんなものを誰が食うか、とコンビニ弁当を地面に叩きつけてようとそれを掴んだ瞬間、昨日からクルトン入りのコーンスープしか飲んでいないことを思い出し、思い出したと同時に泣きたくなるくらいの空腹感が身体を襲った。
 迷った。迷ったが、もう、引き返せなかった。
 コンビニ弁当を食った。薄汚い爺と野良猫二匹に見守られながら、コンビニ弁当を、ただひたすらに、食った。
 少し味が変だった。ただ、それでも。たぶん、今まで食ったコンビニ弁当の中では、いちばん、美味かった。
 焚き火を挟んで向かい合っていた爺が、口を開く。
「君は、あれか。人生にでも迷ったか」
 うぇっはっはっはっは、と爺が汚く笑う。
 数日前までは考えもしなかった事態。この自分が、橋の下に家を構えるホームレスにコンビニ弁当を分け与えてもらい、なおかつ身の上の心配までされている。落ちるとこまで落ちてしまったのだということに、ようやく気づいた。もはや、引き返せないのであろう。フィル様に笑顔で拒絶されたあの瞬間に、退路は完全に絶たれてしまったのだ。
 そのフィル様は今、焚き火から少しだけ離れた石の上に、面倒臭そうに胡坐を掻いて座っている。ちなみに言うと、フィル様は自分以外の人間には見えていなかった。誰も彼もそうだった。誰一人として、フィル様の存在に気づく者はいない。しかしここにはどうやら例外がいたらしい。野良猫二匹が、いつの間にかフィル様の近くをくるくると回りながら、地面に着いている鎌の柄の部分を互いに突っつき合って遊んでいた。その様子を呆然と見ていると、爺もそれに気づいたのか、「タマにミケ。どうした、そこに何かおるんか」と不思議そうに首を傾げる。が、薄汚い爺にはやはりフィル様の高貴な姿は見れないのであろう、結局は諦めてこちらに視線を戻してきた。
 焚き火から、何かが折れるかのような「パキッ」という音が響いた。
「少年、人生に迷うのは仕方が無いことだ。でもな、迷ってばかりだと、わしみたいになるぞ。わしのように、君はなっちゃあいかん」
 うぇっはっはっはっは、と爺はまた汚く笑う。
 そして「よっこらしょお」と重たい腰を上げつつも、
「今日一日は、ここを少年に貸してやろう。明日になったら、ちゃんと決めれば、それでいいんじゃ」
 薄汚い爺が歩き出すと、フィル様の近くにいた野良猫二匹がそれに付いて行く。
 取り残されたダンボールハウスの前で、焚き火を見つめながら、どうすることもできずに座り込んでいた。

 夜が来た。
 フィル様が言った日の夜が、ついに来た。
 フィル様の言った通り、その日の夜を、大賀大橋の下の、ダンボールハウスの中で迎えることとなった。
 ダンボールハウスの中は三畳分くらいのスペースが確保されていて、思っていたよりは頑丈そうであった。これを一人で作るにはそれなりの労力と時間が必要になると思う。あの薄汚い爺は、これを一人で作って、そして住んでいるのだろう。ダンボールハウスの中には、ゴミにしか思えないようなタンスなどの家具が少しだけあり、どこかのゴミ捨て場から拾って来たのか、その表面には子供用のキャラクターシールなどが貼られているものもあった。
 あんな爺に施しを受けることになるとは、思ってもみなかった。まさかこの自分がそうなるとは、本当に、夢にも思っていなかった。ただし、あんな爺でもきっと、自分よりはまともな人間なのだということをダンボールハウスの中、酷い匂いの毛布に包まれながら考える。
 親の金を頼りに今まで生きてきた。それが当たり前だと思っていた。誰かに言うと「それはクズだろ」と馬鹿にされたこともあったが、世の中には自分よりももっとクズな人間が大量にいる訳で、そこから考えたら誰にも迷惑を掛けていない自分なんてクズと呼ばれるほどでもないと信じていた。
 本当に、クズの考えだ。親の金を、骨の髄までしゃぶり尽くしているくせに。
 寒い。毛布一枚では、何の役にも立たない。身体をさらに丸めながら、寒さに耐える。が、寒さに耐えたところで意味はあるのだろうかと思う。こんなクズに、生きている価値なんてあるのだろうか。生きていても両親の金を使うだけの害虫なのではないか。今まで親孝行なんて一度もしたことがない。ならば、こんなクズであるのなら、死ぬことが親に取っての一番の親孝行になるのではないか。どうせフィル様にも、あと数時間後にここで凍死すると言われたのである。そうであれば、このまま寒さを受け入れて眠ってしまうのが、最善であるような気もする。そうすればもう、何も考えずに済む。何も心配せずに、済む。それが、一番楽なのではないだろうか。何となく、そう思う。
「…………フィル様」
 返事は無かった。ただ、そこにいるのだということは、判っていた。だから、質問をした。
「……ぼくが今日、ここで死んだら。ぼくみたいなクズでも、……天国へ、逝けますかね……」
 鼻で笑うかのような声が聞こえる。
「知らねえよ蛆虫。わたしは管轄が違う、それが知りたきゃ死んでから迎えに来た天使に聞け」
 それはそうだ。フィル様は管轄が討伐特務だと言った。穢れた魂を狩るのが仕事だ。しかし結局、最後まで穢れた魂とやらは現れなかった。
 ――いや。
 もしかしたら。
 そこで、ある可能性に気づく。
 もしかして、穢れた魂というのは、そもそもこの自分のことだったのではないか。この自分が、フィル様が狩るべき、穢れた魂だったのではないか。そう考えればいろいろ説明がつく気がしてくる。フィル様が話してくれたあの内容は、半分が嘘で半分が本当だったのではないか。穢れた魂が死ぬその直前になって、フィル様が狩ることによって罪を浄化し、天界へと導く役目の天使に引き渡すのではないか。フィル様の本当の役目と言うのは、もしかしてそういうことなのではないか。だとすれば。
 だとすれば、フィル様は自分の穢れを浄化するために来てくれたのだ。そのためだけに、来てくれたのだ。だったら最後くらい、人に迷惑を掛けないでおこうと思う。ここで死ぬことを抗えばフィル様に迷惑が掛かる。そうであれば、今ここで、何も考えずに大人しく死んで、フィル様に魂を狩ってもらって死を迎えようと思う。たぶんきっと、それが最善であると、そう、
「――よくやった蛆虫。お前にしては上出来だ。もう役目は終わった。安心して死ね」
 唐突に、フィル様がそう言って、
 毛布から少しだけ出していた視界が、何かを捉えた。
 ダンボールハウスの床から、何かが出て来ていた。黒い、おたまじゃくしみたいなもの。拳ほどの大きさの黒いもやもやしたおたまじゃくしが一匹、うねうねと動きながらダンボールハウスの床から出て来る。なんだろう、これ。そう思いながら、ぼーっとそれを見続ける。それがすーっと三十センチくらい飛び出して来たところで、おたまじゃくしの身体だと思われるようなその箇所が、突如として開き、中から何かが覗いた。
 眼だった。たぶん、眼。それがこっちをジッと見つめ、状況が理解出来ず、
 真っ白な縦一線が、その眼ごと、おたまじゃくしを切断した。
 ダンボールハウスの床に白い鎌が深く突き刺さり、
 地震が来た。地震かと思った。
 毛布を剥いで立ち上がろうとした瞬間、ダンボールハウスが雪崩れを起こして崩壊し、上から降り注ぐダンボールに気を取られ、
 床が傾いた。バランスが崩れて倒れ込みそうになり、下から一気に突き上げられる。轟音と共に身体が吹っ飛んで、ダンボールハウスの雪崩れの中に叩き込まれた。状況はまったく判らず、身体に覆い被さったダンボールを必死に掻き分け、ようやっと視界が確保出来たと思った時にはすでに、大賀大橋の下の河川敷の中、真っ白い鎌を構えたフィル様がそれと真っ向から対峙していた。
 なんだあれ、と漠然と思う。
 さっき見たおたまじゃくしみたいなものの、親玉のようなもの。地面から生えているかのような感じで、巨大なおたまじゃくしがそこいた。大きさはたぶん二トントラックくらいで、その周りからさっき切断されたおたまじゃくしが大量に湧き出ている。おまけにその先端すべてに眼が開いており、辺りをきょろきょろと見回していた。本体にも無数の眼が開眼していて、目玉の化け物のような見た目であった。
 そんなものと、フィル様が真っ向から対峙していた。
「……蛆虫。そこを動くなよ。邪魔だ」
 鎌が横一線に空を切り、
「討伐特務、フィル・フィーフィット。これより討伐特務の権限を行使し、浄化を開始する。権限行使許可申請――、」
 鎌の柄が、地面を叩く、
「――……承認。……すぐに終わらせる。だから、その後に安心して死ね、蛆虫」
 辺りから無数に生えていたおたまじゃくしが、突如としてフィル様に突っ込み、
 真っ白い一線がそれを拒絶する。
 目玉の親玉が呻き声のような声を上げる中、フィル様が本当に面倒臭そうな顔をして、
「蛆虫の集合体風情が調子に乗るんじゃねえよ。――死ね、蛆虫共」
 フィル様が地面を蹴る。
 鎌の刃を地面すれすれで構えながら、驚くべきスピードで目玉の親玉に突っ込んで行く。途中に向かってくるおたまじゃくしを一本残らず切断し、勢いを止めることなく突き進む。鎌の間合いに入ると同時にフィル様が再び地面を蹴り上げ、空中に飛び上がった次の瞬間には、鎌を頭上に構えていた。
 夜に射し込む白い一線が、目玉の親玉を切断する。が、
 浅い、というのがフィル様の表情を通して漠然と伝わる。腹に響くような呻き声を上げながら、身体の一部を切断された目玉の親玉が動き回る。その本体がぐるぐると動き回った末、地面に着地したフィル様に向かって襲い掛かる。それを鎌で受け止めたと思った時にはすでに、左右から無数のおたまじゃくしがその身体を狙っていた。
 鎌で巨体を後方に押し退けながら、フィル様がその場から離脱する。瞬間、それまでフィル様が居た場所におたまじゃくしが一気に突っ込んで地面を粉砕した。距離を取ったフィル様が鎌を真横に構えながら、いつものように面倒臭そうにため息を吐き出し、目の前に存在する目玉の親玉を見据える。
「……大人しくしてろ蛆虫。すぐに、……死なせてやる」
 そう言った後、フィル様が小さな深呼吸をして、
 その姿を見失った。どこへ、と探した時にようやく、もすうでに目玉の親玉の頭上に移動していることに気づき、真っ白い鎌の一線が再びその巨体を狙い、
 巨体が真っ向からフィル様に突進する。その突進に気づき、フィル様が振り抜いていた鎌の向きの途中で変えることによって受け止め、一瞬の静寂が訪れたと思った瞬間には、空中にいるフィル様の真下の地面から、三匹のおたまじゃくしが飛び出して来ていた。その接近に対して、フィル様が身体を反らして避けようと、
 二匹を回避したところで、体勢的に完全無防備となっていたその脇腹に、三匹目のおたまじゃくしが直撃した。嫌な音が空中で鳴り響き、フィル様の華奢な身体が空を舞う。その身体を目掛け、さらに無数のおたまじゃくしが空間を走る。空中で何匹かのおたまじゃくしを切り裂くがしかし、その数についに耐え切れなくなり、突っ込んだ一匹のおたまじゃくしの直撃を再びその身体に食らった。そこから先は一気だった。残っていた数匹が次々とフィル様に襲い掛かり、最後の一撃によって吹き飛ばされ、大賀大橋の鉄橋に激突する。衝撃によって弾かれた鎌が、こっちのすぐ傍の河川敷に突き刺さる反面、フィル様は鉄橋に凭れるように座り込み、俯いたままピクリともしなかった。
 ようやっと目の前の光景に対して思考が追いつき、状況を理解すると同時に「フィル様ッ!!」と声を上げて駆け寄ろうとした瞬間、目前におたまじゃくしが湧き出してくる。おたまじゃくしからは眼が覗いており、その眼球に反射した自らの姿がはっきりと認識できた。
 恐怖によって動くことができない。動くことが出来ないくせに、思考回路だけが勝手に暴走する。ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイ。死ぬ。いや死ぬのはいい。さっきまで本気で死ぬことを意識していたのだ、だから死ぬのはいい。だがこれはヤバイ。フィル様がやられてしまった。自分がここで死んだらフィル様に迷惑が掛かる、それだけは何としても避けたい。ここまでクズな人生、最後の最後まで人に迷惑を掛けたまま終わるのはダメだ、せめてフィル様の迷惑にならないように死のう、フィル様の
 視界の端に、真っ白い鎌が目に入った。
 決断する。せめて、フィル様の近くに、
 己を奮い立たせるために無様この上ない叫びを上げ、おたまじゃくしの群れの前から走り出す。すぐ後ろからおたまじゃくしが近寄っているのが音で理解出来て、しかしでも止まることなく走り続け、河川敷に突き刺さっていた鎌に、必死の限りに伸ばした手が触れ、その柄を目一杯の力で鷲掴み、
 振り向き様に、鎌を出鱈目に振るった。
 鎌の刃が、迫っていた一匹のおたまじゃくしを、偶然にも捕らえて、切断し、
 瞬間、
 脳髄を揺らすかのような、ノイズが、響いた。
 一瞬で脳味噌が空白に染まった。そしてその空白を塗り潰すかのように、ぐちゃぐちゃな雑音が一気に脳内に溢れ込んで来た。何が何だかわからない。思考回路が焼き切れるかのような情報量。声だった。たった一人の、声。その声が、何かを言っている。つぶやいている。喋っている。泣いている。叫んでいる。怒鳴っている。一人の声が幾重にも重なり合い、それは不協和音となって頭の中で反響する。声が声を潰し合って明確な声が一つとして無い。発せられたそれらが脳味噌から完全に消えずにいつまでも残響となって残り続け、それに重なって次の不協和音が迫り、
 鎌を地面に落としてその場に膝を着く。
 胃の中にあったものを、その場にぶちまけた。
 判ってしまった。理解してしまった。今もなお頭に残り続けるこの声の正体を。怨嗟を吐き出し続ける根源にあるその何かを。判ってしまった。理解してしまった。そう、これはおそらく、――かつて、人であったモノの声。何処にも行くことが出来ずに彷徨った果てに、同じようなモノ同士が絡み合い響き合い、そして最後には生きることも死ぬことも出来ない何かになってしまったモノ。それが、この声の正体。そして、このおたまじゃくし一本一本が、そうした、かつて人であったモノの、成れの果て。
 その時、頭の中の声が、まったく同じ台詞を伝え続けているのだということを、悟った。
 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
 かつて人であったモノは、ただひたすらに、そう言い続けていた。
 悪循環の渦。苦しいから安らぎを求める。だから、同じ考えを持っているモノを取り込んで緩和しようとする。それがつまり、死ぬ間際の魂。苦しく悶えた末に息絶える、同族の魂を食らうことによって、自らの苦しさを緩和する。しかしそれは、さらなる悪循環を産み出す。誰かがその悪循環の渦を断ち切らない限り、この苦しみはきっと、未来永劫、存在し続ける。
 これが、フィル様が狩ろうとしているモノ。これが、フィル様が浄化しようとしているモノ。
 ふらふらになりながらも必死に歯を食い縛る。
 ダメだ。これを放っておいたら、ダメだ。クズな自分でも、それくらいは判った。
 これは、「狩らねばならないモノ」ではない。これは、「死なせてやらねばならないモノ」だ。
 手を力の限りに握り込むと、河川敷に散らばっていた砂利も一緒に巻き込んだ。その中にガラスでも混じっていたのか、拳の隙間から僅かに血が滲む。その血を拭うこともせず、嘔吐感を吐き捨てるかのように絶叫する。絶叫したまま身体に力を込めて立ち上がる。足元に転がっていた鎌を手に取り、地面に柄を着いて支えとする。
 自分にはたぶん無理だ。こんな糞みたいな自分では、到底不可能だ。これ以上、この『声』を受け止めることは出来はしない。この『声』たちを、死なせてやることなんて、出来やしない。だけど。だけど、だから、こそ、
 この鎌を、フィル様に――、
 おたまじゃくしの一匹が走り出し、その一撃が身体を襲った。
 意識が遠のくかのような衝撃。さっき吐き出したばかりなのにも関わらず、さらに嘔吐物が込み上げて来て、衝撃の反動で鎌が空を舞い、目前に迫ったおたまじゃくしの一匹が、苦しみを緩和するために獲物を食らおうと、
 まだ、――……死にたくない、と最後の意識が願い、
 投げ出された視界が天を仰ぎ、

 その真上に、天使を見た。

 真っ白な服。真っ白な髪。真っ白な眼。真っ白な肌。頭の上に白く薄く輝くリング。そして、その背から生える、二枚の巨大な真っ白い羽。夜空に浮かぶその光景が、まるで幻想世界のように思え、それに向かって無意識的に手を伸ばそうとして、
 弾き飛ばされていた鎌を空間で手に取り、
「……忘れるなよ、蛆虫。お前が無駄に生きてるこの世界に、帰りたがってる蛆虫がいることを」
 そして、地上に存在する目玉の親玉に向かい、フィル様は、言った。
「遅くなって悪いな蛆虫共。こっちにもいろいろ順序があるんだ。だがそれも終わった。いま、楽にしてやる」
 小さな視呼吸の後、真っ白な巨大な鎌が、真上に構えられる。
「……討伐特務。権限……――執行」
 遥か上空から、真っ白い一線が疾り、
 世界が、空白に染まった。
 意識があったのは、そこまでだった。

     ◎

 いつからだったっけ、と何となく、思う。
 幼稚園からだろうか。小学校からだろうか。中学校からだろうか。高校からだろうか。大学からだろうか。それとも、生まれながらだったのだろうか。いつから錯覚していたのだろう。金は湯水のように溢れてくるものだと。使えど使えど、何処かから勝手に湧き出て来るのだと、そう思うようになってしまったのは。
 大富豪、という訳では無かったと思う。それでも、裕福な家庭であったのは間違い無いと思う。だから今までの人生で、金銭面で不自由に思ったことなんて一度も無かった。欲しいものは何でも買ってくれたし、食べたいものは何でも食べさせてくれた。自分が望めば何でも思い通りになった。我侭は何でも叶った。自分は、特別な存在なのだと、いつからか、そう、思うようになった。
 それが愛情表現であったのにも、気づかずに。
 一人っ子だった。両親に出来た、初めての子供だった。だからきっと、目一杯に愛情を注いで育ててくれた結果だったのだと思う。ただし馬鹿で愚かでクズな自分は、それにまったく気づかず、ただ尽くされていると自惚れ、自らは特別なんだと勘違いしてしまった。その勘違いを訂正できないまま、ここまで育ってしまった。
 いつからだったっけ、と思う。
 自分が欲すること以外のことで、両親と最後に会話したのなんて。
 何を思って両親は、自分を未だ養ってくれているのだろう。何を思って両親は、こんな自分に対して仕送りを続けてくれていたのだろう。何を思って両親は、仕送りをもう二度としないと、そう言ったのだろう。そして、何を根拠に自分は養ってもらって当たり前と思っていたのだろう。何を根拠に自分は一人暮らしなんだから仕送りしてもらって当たり前だと思っていたのだろう。何を根拠に自分は、自殺するぞ、と脅せば最後には仕送りをしてもらえると、そう、思っていたのだろう。
 笑えるくらいのクズだ。
 これ以上のクズも、そうそういないと思う。
 糞虫以下の、本当の蛆虫だ。本当に笑ってしまうくらい清々し
「起きろ蛆虫」
 そう言ったフィル様に、頭を鎌の柄でシバキ倒されて意識を取り戻した。
 ぼんやりと目を開けると、いつも使っている丸型のテーブルの上で胡坐を掻いて面倒臭そうに座っているフィル様が見えた。呆然と起き上がろうとすると、頭のてっぺんにびっくりするくらいの痛みが走った。無意識の内に手を持って行って触ると、笑えるくらいのたんこぶが出来ていた。フィル様にシバキ倒されたせいだろうか。なんか漫画みたいなたんこぶで、
 見慣れた部屋だった。
 いつもと変わらない、薄汚れた六畳半の部屋だった。
 あれ、と思った時、意識の中に霧が滲むような感覚に陥る。違和感。喪失感とでも言うべき何か。意識の中に何かがスーッと入って来る。それは自然に、何の抵抗も無く意識を覆っていく。何だろう、これ。というかさっきまで何かあった気がするんだけど、あれ、何だっけ、この違和感、
「糞虫以下の蛆虫にしては上出来だった。契約はこれで終了だ。もう二度と会うこともないだろ。わたしの目の届かない所で、思うように死ね蛆虫」
 意識に霧が流れ込む。
 丸型テーブルの上で、フィル様が立ち上がる。いや待て。フィル様? フィル様って、――誰だ?
「わたしが言ったこと、忘れるなよ蛆虫。そしてせいぜい蛆虫らしく惨めたらしく生きて、蛆虫らしく惨めたらしく死ね」
 目前の視界の中、丸型のテーブルの上に立っていた少女の背中から、真っ白な巨大な羽が広がる。
 部屋を包み込むかのようなその真っ白い巨大な羽は、今まで見たどの光景よりも、美しかった。これほどまでに綺麗な光景を、他に知らない。どんな絵でも、どんな映画でも、きっとこれを超えるものなんて作り出せない。これは何だろう。まるで透き通っているかのようなこの羽は、一体なんだろう。そしてこの少女は果たして、――誰、なんだろう。
 霧が意識を満たす。その一瞬、ふと自然と、口からその言葉が転がり出た。
「……あのっ、フィル様っ!」
 フィル様。この少女は、フィルという名前なんだっけ。
 少女がこちらを見つめ、面倒臭そうな顔をする。
「なんだ蛆虫」
 なんだと言われても正直、自分が何を言おうとしていたのかは思い出せない。
 でも、おぼろげに残っているこの記憶が、この感覚が確かであれば、あの時、自分は、
 だから、
「……格好良かったですよ、フィル様」
 少しだけ意外そうな顔をした後、少女が、ほんの少しだけ、笑った気がした。
 思わず抱き締めたくなるような、そんな感じ。
 しかしそれも一瞬で、少女は再び本当に面倒臭そうな顔をして、こう、言った。

「生意気言うんじゃねえよばーか。死ね」

 そして少女は、真っ白な巨大な羽を
 意識が反転する、霧が晴れ渡る、ふとした拍子に視界の焦点が合う。
 気づいた時にはすでに、そこにいた。
 いつもと変わらない部屋。いつも使っている丸型のテーブルが目の前にある。その上に無造作に広げられた通帳が目に付く。何となく手に取って数字を眺める。残金は「\72」と表示されている。そこで何もかも思い出した。ぼんやりしていた思考が一気に働く。これはどう考えても絶対に不味い金額である。確か二日後には光熱費の引き落としが、そしてさらにその三日後には大家さんへの家賃の支払いが控えている。仕送りはまだまだ先の話である。ということはつまり、何とかして金を稼がなければならない。このままではどっかの橋の下でダンボールハウスを建設することになってしまう。それは避けなければならない。こんなところで、まだ死にたくない。こんな理由で死ぬのなんて、絶対にダメだ。
 だったら、選択肢は一つしか有り得ない。これ以外に、取るべき方法は無い。
 通帳を丸型のテーブルの上に戻す。
 さて、と自分に気合を入れる。

 日雇いのバイトでも、探そうか。












2012/02/25(Sat)20:16:55 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれている方はどうもどうも、どうにかこうにか生きております神夜です。
知っての通りトンズラこいておりました。ふと思い返せば三年か四年ぶりにここに復帰して「うるせえばーか。死ね。」を投稿したのが「2010/10/19(Tue)19:59:30」だそうです。それから幾つか短編書いて、「Fetish Shout!」で長編ぶち上げて、そして「トルヴァータ」の前編だけ投稿して姿を眩ましていた。いやすんません、あれも上げないとダメですねすんませんすんません。しかし、ここに復帰からすでに一年以上経ってんのかよ……おいマジかよ……自分、この一年何やってたんだろう……記憶全然ないんだけど大丈夫かな……。
さて、そんなこんなで「生意気言うんじゃねえよばーか。死ね。」でした。知っての通り、いや知らないと思いますけど「うるせえばーか。死ね。」の派生というか番外というか続編と言うか。先々週くらいに仕事がまったくやること無くて、短編を途中まで5本くらい書いて、長編も「その3」くらいまで書いて、「さあ復帰を盛大にやるぜっ!!投稿一覧神夜の名前で埋め尽くしてやらあっ!!」とか思ってたら、先週からいきなりデスマーチが始まった。もうダメだ。というわけで、空き時間を何とか捻出して最後まで書けたのがこの作品だけ。前回とは毛並みもほとんど変わって、フィルはニーソじゃないけど、それでも何とか書けたから、「神夜はまだ生息してるんだよ」という意味合いも込めて投稿。
最後が「うーん……?」となる可能性は極めて高いですが、誰か一人でも楽しんでくれることを願いつつ、またふらっと現れてふらっと消えるのであろう、とか何とか思いながら、神夜でした。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。