『愛しの金魚』 ... ジャンル:ショート*2 リアル・現代
作者:塩ろく                

     あらすじ・作品紹介
「金魚なんて、金魚なんて。そんなのどうだっていい」 ――本当はいつもと同じはずだった、ある朝の物語。

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 ぶくぶくぶく。水槽に入れたエアポンプが、低い振動音と共に空気を吐き出す。三匹の金魚たちは普段と変わらず、楽しそうに泳ぎ続けている。時刻は午前五時。金魚を飼い始めてから、もうすぐ一年と半年だ。
「今日も元気そうだね」可愛らしい、わが愛しの金魚たちにエサをやりながら微笑む。水面に上がってぱくぱくとエサを食べるその姿が可愛くて、思わずじっと眺めてしまう。水槽の隣に置かれた時計に目をやると、時刻は午前五時十分になろうとしていた。
 五時半には家を出なければならないのに、このままでは大遅刻だ。私はもう一度金魚たちが泳ぐ姿をきっちり確認してから、慌ててキッチンへ向かった。

 そんな覚えはないのに、キッチンは隅々まで掃除されていてとても綺麗だった。まさしく埃一つ無いくらい。
「誰が片づけたんだろう」薬を飲むための水を用意しながら考えていると、テーブルの上に置かれたメモと鍵を発見した。メモは昨日別れたばかりの恋人からだった。
 最後の最後で余計なことしていきやがって――そう思ったが口には出さず、薬と一緒に飲み込んだ。そしてろくに読みもせずに、メモを丸めてゴミ箱に投げた。残念なことに入らなかった。
 時刻は午前五時十五分。どうやら朝食をゆっくり食べることはできないみたいだ。いや、朝食を口に入れるだけの時間があるだけまだマシだろうか。昨日買ってきたサンドイッチを頬張りながら考えたが、すぐにやめた。
 ゆっくり朝食を食べるなんて仕事を辞めない限り不可能だし、私はまだ仕事を辞める気はない。サンドイッチを一緒に買ってきたレモンティーで飲み込んで、私は着替えるために部屋へ戻った。

 あらかじめ昨日のうちに選んでおいた服をクローゼットから取り出し、すぐに着替えて部屋を出る。時刻は午前五時十八分。なんだまだ余裕じゃないか。脱いだパジャマを洗濯機へ放り込みながら、洗面所の鏡に向かって微笑んだ。
 笑顔は大事、母親に言われた言葉を思い出しながら軽い化粧を済ませ、玄関へ向かう。ジャケットを羽織り、二十歳の誕生日に貰った(誰に貰ったかは忘れてしまった)腕時計をはめる。時刻は午前五時二十四分。まだちょっとだけ時間がある。
 家を出る前にもう一度金魚の様子を見て来よう、履いたばかりの靴を脱いで私はもう一度部屋へ向かった。

 薬は飲んだし、着替えも化粧も完璧だ。それに、まだ家を出る時間まで五分もある。まずいことなんて何一つない。それなのに、なぜだか嫌な予感がする。それに妙に部屋への道が長いような気がした。腕時計に目をやると、まだ二十五分を指していた。
「大丈夫、大丈夫」まじないのようにそう唱えてから部屋のドアを開けた。水槽に目をやると金魚が水面に浮いていた。それも四匹ぜんぶ。手足が震えて脳がパンクしそうだった。私は崩れるように床へ座り込んだ。
 どうして、どうしてどうして? さっき見たときは何もなかったし、水質も環境も問題なかったはずだ。怪我も、病気も、さっききっちり確認した限りでは――そして今も――見当たらなかった。
「現実が受け止められなくてパニックになったとき、人ってのはホントに酷い顔で笑うんだ」ふいに、亡くなった父の言葉を思い出した。そして私も例に違わず笑っていた、それもかなりヒステリックに。
 きっと別れた恋人が見たら笑うだろう。「たかが金魚だよ?」彼に言われた言葉が蘇る。誇り一つ持ってないくせに、偉そうに言いやがって。悲しみと怒りと混乱が混ざり合って心の中はどろどろで、彼が作ったコーンスープみたいだった。彼は料理がとてつもなく下手だった。
 けど、彼の言葉だって一理あるのかも――私は金魚に入れ込みすぎた。
「たかが金魚、たかが金魚」ゆっくりと復唱しながら、床に手をついて立ち上がる。自分だって、飼い始めたときはまさかこんなに愛してしまうなんて思わなかった。
「金魚なんてどうだって――」けれど、やはり水面に浮いたままぴくりとも動かない金魚を見たとき、涙があふれてきた。それと同時に強烈な眩暈がして、目の前の景色が徐々にフェード・アウトしていく。
 額を抑えようと腕を上げたとき、はめていた時計が目に入った。

 時刻は午前五時。ベットから飛び起きると、冬だというのに体中が汗でびしょびしょだった。
 私服に着替えながらカレンダーに目をやったとき、あれから今日で三年になることを思い出した。
 テーブルの上に置かれた広い水槽で、一匹の金魚が泳いでいる。エアポンプだけが今も変わらず動き続けている。ぶくぶくぶく。

2011/09/07(Wed)22:53:02 公開 / 塩ろく
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■作者からのメッセージ
はじめまして、塩ろくという者です。
数年ぶりに金魚を飼い始めて数日、毎日金魚を溺愛しているうちに完成したのがこの小説です。……溺愛?
感想・指摘・批判などなど、思ったことがありましたらビシッとよろしくお願いします。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

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