『魚と彼と下半身』 ... ジャンル:恋愛小説 童話
作者:早/林健太郎                

     あらすじ・作品紹介
いちおう18禁で、童話と官能小説の融合です。時制がややこしくて、リアルタイムな記述です、だからリアルタイムで主人公になっていただければと思います。あまり関係ないかもしれないけれど、お酒の神様ディオニュソスは両性具有の人魚だぜ! 楽器の珊瑚礁からどんどん、深海までいきましょう。深く。地底の海賊船へ。

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 私は水槽で二匹の魚を飼っている。何ヶ月か前、数年付き合っていた彼とも別れ、独身で安いマンションの一室で一人暮らしをしている私にとって、ペットというのはこの三十路の近づいた言いようのない孤独感の慰めになる存在。癒しと愉しみ、……そして支配欲の充足。猫も一匹飼っているのだけれど、水槽で飼っている2匹の魚の中の大きい方の魚の方が、なぜか猫より気になってしまう。暖かい哺乳類より、冷たい魚類の方が気になっている、それは私の孤独が行くとこまで行ってしまったことを暗示しているのかもしれない。とにかく大きな魚の方ばかり意識が奪われるのだ。愛している、可愛がっているのは、どちらかといえばやはり、ふわふわした毛の長い白い猫の方かもしれない。でも、この魚のほうが、どうしても気になり、家にいて起きている時間の半分くらいは、この魚を眺めているのだ。丁度腰骨くらいの高さの台の上においた120センチの水槽で、最低限以上にはある程度きれいな環境、ポンプにより水中の酸素だけでなく水流までつくり、淡水に水草が彩られている私の心の水中箱庭空間……、そこで飼っている40センチくらいのこの魚の、尾鰭は、かなり大きくて体長の1/4を占めていて、その10センチくらいの尾びれには、古代エジプトか何処かにあった象形文字のような模様がある。この魚を眺めていると、不思議なことがよく起こる。正確にいうと未だれっきとした事件として起こったことはないのだけど、何かが起こりそうな漠然としたでも強い直感を伴う予感がするのだ。それに、白昼夢を見ているときか今から眠ろうとしているときの夢と覚醒の間にあるような意識によく迷い込み、不思議な印象がまるで外からたぶんこの魚からこちらの脳髄へ侵入してくるような感覚も、この魚を眺めているときによく起こる。
 そして何より不可思議なのが、この魚を眺めていると、何故か一緒に飼っている一回り小さい魚の顔が目の前に見えたりすること。他にも、水の中にいるような水流が肌を打つような印象がしたり、エアーポンプの音が耳元すぐ近くで聞こえたり、水草が肌に触れる感覚がしたり。

 今日は、さっきからご飯も食べずに5時間くらい私は、一人でほとんど冥想しながら……このエジプト的な魚を眺めている。なんて痛い女……。今はたぶん午後の9時くらいだろう。たまに、なにか懐かしいような太古の印象がするような変な感覚が襲ってくる。この感覚はきっと、尾びれの象形文字と関係しているらしい。なんとなくそんな気がする。マンションの4階のベランダから見える風景、外では月も星も見えない雲空のもと、生暖かい大雨が降り続いている。でもその風景と雨の音が意識されることはないくらい、ずっと、この哀れな三十路寸前女の脳内はこの魚の世界だけが占めていた。
 突然、窓が青白く光ったかと思うと、そんな魚の世界への耽溺さえもかき消してしまうくらいの、大きな雷鳴が轟いた。ほとんど同時だから近くに落ちたらしい。その光と音が激しかったからか、私は気絶した。

……………
………


(つづきは下品です。不潔です。性糞尿有。)


 下半身がぬるぬるする。上半身には冷たい感触。私が私ではなくなったような気がする。呼吸には何故かコツが必要らしく、苦しい。前を見ると、小さい方の魚の顔がある。ヒレを微妙に動かし口をパクパクさせながら、同じ位置を保ちつつ、こちらを縦長い顔の左右についている目で凝視している。またあの不思議な感覚、なんとなく目の前にうちの大魚の子分が見えるあの現象かな、て思ってみたけど、なんどかいつもよりリアル。怖いほどに。怖いものなんて、この私になんてあるはずない、私はそれほど気の強い女だったのに。今の私は女? とりあえず後ろを振り返るとエアーポンプの気泡が鮮明に見えた。呼吸にはやっと慣れた。肺や食道が冷たい。常になにかが流れ込んできている。……そう、つまり私は水槽の中でエラ呼吸していた。下半身を見てみると、例の象形文字みたいな模様のある尾びれが見える。私は目の前の小さい魚や水槽の大きさから推測するに、40〜50センチくらいらしい。下半身は、大きいほうの魚のもので、上半身はエラ以外は私のもので、胸が露わになっている。人魚……幼いころに童話の中で見たあの人魚に私は変身したの? この哀れな独身女にうってつけの皮肉じゃない。それともロマンティックな気持ちになってみるべきなの? 遠くにいってしまった彼、夢の海で逢えるというの?
 そんなおかしな幻想はやめにして、とりあえず水槽の外を見てみると、茶色いフローリングの床の上には、私の着ていたグレー系のグラデーション服や黒い下着が落ちていて、水に濡れて湿っていた。あたりは水たまりのようになっていて、水の足跡みたいなのが見える。その足跡を辿っていくと、冷蔵庫や食器棚があるほうへ続くようだ。そして食器棚の手前あたりにいた白いチンチラ猫のほうに目をやると、猫はなにか見てはいけないものをみてしまったように驚いたらしく、詳しく言うと、背中をアーチ状に丸くして垂直に飛び上がり、全身の毛は逆立ち、尻尾は立った毛のせいで2倍くらいの太さになっている、そんな感じで別の生き物になったような格好で驚いて、ちょっと開いていたガラス窓からさっと逃げていってしまった。一体何があったのだろう? ほかにもいろいろと水槽の中から自分の部屋を眺めていると、突然、……気持ち悪い生き物が、冷蔵庫の方からこちらへやってきた! キモチワルイ。さっきのロマンティシズムは撃沈した。夢の海は干からびてヘドロだけが残った。この生き物、前がちゃんと見えないらしく、壁にぶつかりながら、よろよろと、でもすごい勢いで、こちらへ向かってくる。がに股の、細い人間の脚。でもがに股であることを除けば、いつも見ている脚だった。見慣れた脚。下腹部には恥毛がある。この部分もいつも知っている、色と形と陰影。そこを見ていると、見られているような恥ずかしい感じがした。うずくほどに。そんな下半身の上、おへそから上は、大きな魚。だから、上を向いていて、なかなか前は見れないらしい。

 つまり、私が40センチくらいの人魚になって、大きい方の魚が160センチくらいの逆人魚になったのだ! その逆人魚の哀れというか無残な見た目の怪物の下半身は、前の私の下半身。そんな生き物が、水槽の中に監禁されたこちらへ、哀れな人魚のもとへやってくる。さっき冷蔵庫に頭をつっこんで、袋や容器ごと食べ物を漁ったのだろう、そしてチンチラはその狂態を見て驚いていたのだろう、その狂態の続きに違いない逆人魚は、ぬるぬるしたビニールやプラスチックの欠片を嘔吐しながら、がに股で壁にぶつかりながら、ぶつかるたびに棚にあったCDや本を散乱させ、こちらへ向かってる。ジャニス、椎名林檎、マリア・カラス、私の青春にとって女神であった歌声たち、太宰治、ドストエフスキー、夏目漱石、中原中也、私の青春の涙をともにした言葉たちが、モンスターの汚らしい下半身に踏み潰されてゆく。嗚呼悲しきかな、孤独な女の人生は。
 そういえば最近ずっとあの魚を眺めていたわりに、一週間くらい餌をやっていなかった。餌を忘れるくらい眺めることに没頭していた……。おなかがすいていたのだろう。冷蔵庫の中の野菜や冷凍庫の中の冷凍食品だけでなく、人魚の私や小さい方の魚も、この私の夢の箱庭だった120センチの水槽に頭をつっこんで、あの肉界はがぶがぶと無造作に食べちゃうのかな、とか思って天上をぼおっと眺めて虚しい気持ちになっていると、いきなりその逆人魚が怪物が自分の吐き出した汚いペットボトルを踏んで滑って前へ転んだのが見えた。そして今度は……怪物はうつぶせの格好で、脚は平泳ぎのように動かせながら、水溜りや汚物でぬるぬるした床を這ってこちらへ向かってくる。キモチワルイ。蟹股で天井に顔を向けて走り回るよりは、こっちのねとねとした床の上での平泳ぎほふく前進の移動方法のほうが、この生き物にはずっと向いてるみたいだ。
 そして目が合った。何故か私は混乱していなくて冷静だ。が、その惨めな姿の怪物の顔を見た感想は、どういっていいかわからない。怖い気もしないし、笑いたくもない。小さい魚は、親子の魚のように私と平行に並んで、怪物をただ眺めている。私の可愛い子魚ちゃん。あのキモチワルイ怪物からは目をそらしましょう。見なかったことに。人間の部屋でのたうつその哀れな逆漁人は、ほふく前身にはあきたのか、それとも水槽の中の私達を食べたいのか、立ち上がりたいらしく、水槽の横にある壁に頭をこすりつけながら、脚をじたばたしだした。約3分、やっと立った。とにかく本能のまま行動しているような感じで、食欲を満たすべく荒々しく食べ物を探し暴れているような感じだった。さてこのキモチワルイ生き物はこっちへやってきて水槽に顔を突っ込んで私を食べるのかな、べつに変な体験をしながら死ねるならそれはそれでおもしろいな、とか諦め混じりに思っていると、これはまた突然……、私の未提出の職場の書類が散乱した机の角に、恥ずかしい部分を擦りだした。なんて悲惨なの。これが現実? 椅子を見つけるとがに股のまま座って、今度は椅子の底に下腹部を擦りつけながら前後に動いている。見るも無残な姿だった。私も自分で慰めるときはこんなことをしているのかな、と思うと、絶望的なほど惨めな気持ちにさえなった。絶望、それは孤独な女の下半身。それとも下半身を失った女? でもやはり、他人からみるとこの逆人魚の方が惨めな姿をしているには違いない。とにかくこいつを脳内で罵倒することで自分の惨めさを誤魔化すしかないのだ。だから言ってやる。ずたずたに。これが女の本能よ。キモチワルイお前。がに股をした細い人間の女の脚に、上半身は魚。ギョロっとした目は常に横と上方を向いていて前後が分かっていない。痴態を晒す醜い生き物。吐き気さえ出てこないわ。意味不明な挙動。わあほんとキモチワルイ。割れ目からは淫らな液体が出てくるし。そして肛門からは排尿、脱糞、汚い。幸い、匂いだけは水中なのでこっちまでこない。

 とにかく前まで自分の下半身だった肉が、そんなことをしている。鳩を両手で捕まえてそのまま握力で殺そうとしたらこんな泣き声を出すだろうな、というような形容しがたい泣き声で唸りながら。私は、前に戻りたいというよりはむしろ、自分があんな下半身だったことをなかったことにしてもともと人魚だったことにしたい気持ちになった。私は半分魚。私は半分夢の国。私は美しい。また彼は私を愛してくれるかしら?
 そういうおセンチなことを思っていただけでなく私は、この悲惨な私の部屋、一人の女が住んでいるはずだったマンションの8階の2LDKの異様な光景を眺めつつも、妙に冷静に哲学をしてもいた。私は人間の知能のままだ。それで下半身は魚になっている。目の前にいる怪物は、魚の知能のままだ。人間と魚なら、知能も食欲も肉欲も、人間の方が圧倒的に上だろう。繁殖期にしか魚は交尾をしようとしないから、私の魚になった下半身は欲情しない。一方、あらゆる生き物を食べつくす人間の食欲、年中発情期のような20代女の肉欲で、魚の知能しかもたないこの生き物は、本能を制御できないのだろう。圧死寸前の鳩の鳴き声のような、しかもそれを数十倍に増幅したような音を立てながら、下半身から汚物を垂れ流している。モノが恥部に触れる感触では満たされないらしく、また本能が外には交尾の相手がいると察知したらしく、がに股のまま腰を前後にゆらして椅子をなぎ倒して立ち上がると、例の挙動と歩き方で壁にぶつかりながら部屋から出て行った。男の子が犯され、ニュースになるのだろうか。その子が小中学生や童貞でないことを祈った。切実に。
 そのグロテスクな肉塊が視界から消えると、とつぜん人間らしい冷静さが私に蘇った。今までおこったことは夢なのではないだろうか、いったい何が起こったのだろう、私はもとにもどれるのだろうか、不安と恐怖に襲われながら、とりあえず頭の中を整理しようとする。独身だから、だれも此処へこない。この水槽で隣に泳いでいる小さな可愛い魚、しっかり観察したことはないのだが10センチちょっとの大きさで綺麗な筋が入った魚と一緒に、水槽の中で餓死するのだろうか。郵便の書留や宅配便が来れば、異変に気付いて警察に連絡するかもしれない。警察に発見されたら、どうなるのだろうか。そういう考えが、人間の知能を保っている私の頭の中を高速で巡る。数ヶ月前に別れた彼のことや、遠くに住む両親のことが思い出された。もう会えないのだろうか。大好きだった……。もうそんな感傷は辞めにしよう。そんなことしてる場合ではない。
 やがて想念が頭を駆け巡る速度や不安感は治まっていって、冷静さを取り戻しながら、いろいろと考えて、そして2、3時間くらいたっただろう、不意に、……大好きだった彼の驚いた声が聞こえたのだ! マンションの4階の一番奥にあるのだけど、扉は怪物が開け放ったらしく、廊下からも荒らされた冷蔵庫や汚物や服や散乱したCD類が見える。それはもう、驚いたに違いない。しかし一体なぜ彼がここに?
「おい、恭子、どうした!?」
 私もなぜ彼がここへきたのか、尋ねたいくらいだった。とにかく二人は驚いていた。でも、このまま孤独と混乱の中で誰にも会えずに死んでいくのかもしれない、とか思っていたし、数時間前に悲惨な生き物の痴態を観察したときの記憶が脳にこびりついて一人でいるとそのヴィジョンに全神経が強姦されそうだったので、彼がきてくれてとにかく救われた。今この場所がどれだけ惨めであれ……。でもやはり、こんな自分の下半身が撒き散らした汚物を見られるのは嫌で仕方なかった。でもでも絶望していたところに来てくれたのは本当に救いの王子様、大好きな彼、突然やってきた彼、私はやはり夢の国の人魚なの?

 付き合い始めて1年くらいは、順調で、友達からもいいカップルだと見られていたし、二人の間でなにかトラブルになることもなかった。そう、あのころが一番幸せだった。カフェでのデート。買ってくれたシルバーのリング。彼の大学のキャンパスを歩き、不法侵入した大学の授業。海へのドライブ……。しかし2年目へ入ると、二人とも一人暮らしなのでお互いの部屋にとまって、だらだらしていることが多くなった。ひどいときは、二人とも一週間大学や職場へ行かず、シングルベッドに二つの裸体を横たえ、文字通り24時間べたべたしているようことが多くなった。二人とも生活だけでなく、性格も乱れ始め、身体だけは仲がいいものの、くだらないことで喧嘩するようになった。性格が乱れてくるにつれて、お互いの交情はドロドロを超えてオドロオドロしだし、精神に異常の萌芽がみられ、二人ともの病んだ心の中では自己嫌悪感が増殖し、慰めが欲しくて相手の身体を求めてしまう。悪循環が続いていく。それでその地獄絵図のような底なしの肉体的共依存と乱れた自我同士の傷つけ合いという関係が数ヶ月続いた。そして話し合った結果、別れるのがお互いのためだろう、ということになった。生きていくためにはそうするしかなかった。でも大好きには違いなかった。なぜ愛はここまで汚くなってしまったの? あの汚い下半身のせい?
 二人とも、相手の人生のことを想っている面もあったから、できれば生活を更正してもとの仲のいい二人に戻りたい、と思っていることは二人ともお互い知っていたのだけど、交際生活の最後の一週間の間はもう完全に二人とも仕事や大学をサボって淫らな生活ばかりしていて、さすがにうんざりしていたので、こんな生活が続くのなら別れるしかない、精神病にもなりかねない、そういうことで意見は一致し、別れた。大好きだったのに。もっともっと愛してほしかった。綺麗な愛のカタチを実現したかった。でも所詮私たちは人間。以来、二人とも誰とも付き合わず、別々に一人暮らしをして、お互いが会うことはなかった。そんな彼が、何ヶ月も経って、突然きたのだ!
「だいじょうぶか? なにかあったのか? 恭子、いたら返事して!」
 数ヶ月ぶりくらいに聞いた彼の声は、私が別れた後も心の片隅では愛しくてしかたない気持ちを忘れていなかったことを強く自覚させた。でも、もともと私は強い感傷に浸っているのが嫌いな冷たい性格の孤独な女だったし、今は、なにからなにまでがそんな感傷に浸っていられる状況ではない。過去の彼との関係がどうこうより、今起こっている荒唐無稽な現実をどうするべきかが問題なのだ。荒唐無稽、夢の海が干からびた後に残った、ヘドロ。
 彼は、スリッパをはいて、恐る恐る私の部屋の中へ入ってくる。私の昔の下半身が垂れ流した汚物を避けながら……。いくら彼と昔淫らな関係にあったからといって、半分自分のものでもある排泄物を見られるのは恥ずかしすぎるし屈辱にも近い。でも彼はその悪臭と悲惨な光景にもかかわらず、私になにか大変なことでも起こったのではないかと心から心配したのか、真剣な顔で探してくれている。水槽を見たらどんな反応するだろう。私は水槽の中にあった流木と水草の陰にかくれ、彼に姿を見せるべきか隠れておくべきか迷っていた。それにしても、彼の、こんな気違い染みた部屋の様子を気にも留めずに私のことを必死に心配してくれている、その姿を見ていると、感傷嫌いの私にも、過去の恋愛、今も片隅に強い想いを秘めながら残っている恋愛感情が、胸の中で動きだすのを感じる。なんだかとても悲しくなってきて、とりあえず彼にこの姿を見せてしっかり説明しよう、そう思った瞬間のこと……、彼は踏んではいけないもの、私にとっても踏まれては困る物体……を踏んでしまった……。さすがの彼も、一瞬顔色を変え、ぞっとしたように吐きそうな格好をする。一端玄関扉まで引き返し、スリッパを脱ぎ自分の靴に履き替えた。またこちらへやってくる。私は、水草の陰から、出て、目立つように泳いでみる。胸が露出しているので恥ずかしい気がしたが、部屋の床に比べたらまだ全然ましだ。
 彼は私に気付いた。
 文字通り目が点になっていた。8秒、彼は静止する。そして足元を注意しながら、恐る恐るこっちへ近づいてきた。
「……。……え」
「……」
「……恭子?」
「……」
 答えようと思ったが、水中では声が出ないらしい。とりあえず頷いた。
「人魚?」
 彼がそんな質問をしたので、またうなずいた。
「……って一体なにがどうしたんだ?」
 今度は頷くか首をふるかの質問じゃなかったので、水面まで浮上し、顔を出して私は言った。彼は、こんな顔今まで私に見せたことない、というような顔で私の半裸の姿を眺めている。
「えっと……、私の上半身と、私の飼っていた魚の上半身が入れ替わったの」
「……」
「それで、ここにある汚いのは、」
「続けなくていいよもう分かったから……」
 私の下半身が排泄した物体をさっき踏んでしまった彼、そしてたまに不思議なことを言ってしまっていた私の心のほとんどを昔は深く理解してくれていた彼は、どこまでもものわかりがよかった。私がどういう状況にあって、この部屋がなんでこうなっているのか、一瞬で察してくれた。もちろんのこと何故こうなったかは彼にもわからなければ、私にもわからない。原因をかんがえるより、とりあえず今の現状を受け入れなければならない。
 私は何故彼がここへやってきたのか気になっていたので尋ねた。
「なんで、ここ来たの? 何かあったの?」
「ちっちゃい人魚と話する、っていくらお前でも、なんか緊張するな……」
「……」
 でも、もうあまり怖がっていなくて私を私だと見做してくれていることがわかったので、少しほっとした。
「さっき、俺のマンションの屋上に雷が落ちて、火事になった」
「さっきの雷。そうだったんだ」
「死ぬかと思った。俺の部屋は最上階だったから直撃はしなかったものの、一瞬窓枠とかケーブルとか金属のとこに青白い光が走って、壁とか床が燃え出して」
「怪我はないの?」
「うん大丈夫だった。下への階段は無事だったし、5階より下は無傷だったから、消防車来る前には降りれた」
「よかった……ほんとあの雷すごかったよね。近くに落ちた、って思ってた」
「いやその直後にもう一発すぐ傍にきたから、恭子のマンションに落ちたかとおもって心配になったんだ」
 そうだったの……ほんとにありがとう。
 雷が落ちたときのことを私は思い出した。
「そういえばその時なのよね……」
「何が?」
「雷落ちたときに、私気絶して、目が覚めたらこうなってたわけ」
「夢か童話みたいな話だよな」
「うん。そうよね。そうなんだけど、こうなってるからには、この滅茶苦茶な現実を受け入れなければならない、とか考えたのよ。受け入れるとかの前に、とにかくもう、混乱して意味不明なの」
「うん。俺も、この部屋見た瞬間も意味不明だったけど、お前のその姿見た瞬間の方がもっと意味不明だった」
「ほんとに目が点になってて、おもしろかったよ」
 私は微笑んだ。汚物の散らばった部屋での、支離滅裂な彼との再会……。
「そういえばありがとうね。こんなキモチワルイ部屋、イミフメイな状況なのに、私の心配して探してくれて」
「いやこんな汚いから何かあったんだろうとおもって焦ってたんだよ」
「ありがとう」
「礼はいいから。とにかくどうすればいいのか……」
「そうねぇ……」
「……」
「とりあえず俺掃除するよ」
「え」
「いいよ。気にしなくて。この部屋このままにして管理人が警察呼んだりしたらお前こまるだろ」
「ごめん」
 彼にゴミ袋、ごみ手袋、新聞紙などの場所を教えると、彼は何も言わず悪臭の中、もくもくと掃除をする。意外と20分以内に、洗剤で床を拭くのも含め、全ての掃除が完了した。
「ありがとう。ほんと助かったよ」
「芳香剤と消臭剤買ってくる」
 そういうとすぐに、彼は、鍵をしめて、傘をとり、出て行く。なんとなく、付き合い始めて数ヶ月くらいの一番仲がよかったころの二人にもどれたような気もした。とにかく心の中で、私のこの絶望的な状況を一時的にでも和らげてくれた彼に、とても感謝。実際この感謝の気持ちがどれほどの大きなものだったか! 私は言葉にはこの程度でしか表していないが、身もだえして今にも絶叫しそうなほどの不安と恐怖で混乱していたのだもの。ありがとう。涙は見えない、ここは水の中だから。
 外ではまた大雨が強く降り出した。雷もさっきほどのではないけど、結構頻繁になっているみたい。暴風や洪水になっていないか心配した。すぐ近くにホームセンターがあったので、彼は10分もたたないうちに帰ってきた。傘は射していたようだけど、かなりぬれている。
 私は、なんとなく自分の尾びれのあたりが変に気になりだした。そう思っていると、彼がこちらへ寄ってきて、
「その尾びれの模様なに?文字みたいだけど。」
「たぶんこれが悪いのよ。この文字が魔力かなにかもってるみたいで、わたしはこうなったんだと思うの」
「魔力……、ね。半年前の二人なら、そんなもの信じてなかったし、何の興味もなかったけど、いやお前はたまにそういうおかしなこと言ってたかもしれないけど、少なくとも俺には微塵の興味もなかった、でも今、こんなお前の姿見たらね……」
「なんかさっきよりこの尾びれ気になるの。なにか変わってない?」
「うん、気付かなかっただけなのかもしれないけど、さっきより今の方が、その文字光ってるような気がする」
「……」
 なんとなく嫌な予感がする。
「なんか不思議な感覚がする。俺がお前になってるような。そのお前なりにリッチな水槽の中にいるような。たまに目の前にそのお前の横にいる小さい魚が大きく見える気がするし」
 あのときの私と同じだった。それに私も感じている。尾びれに不思議な感覚、どこか太古の印象を感じさせるものを感じただけではない。彼になったような気がする。水槽を見ているような、芳香剤を置いたばかりでまだ匂う部屋の空気をすっているような。嫌な予感。
 そして、案の定、窓が青白く光り、鼓膜が破れそうなくらいの大きなおとが、光とほぼ同時に鳴った。

……………
………


 幸い、このマンションに落ちたわけではなかった。足元には彼が来ていた服や下着が落ちている。ここは床の上。自分の足の体毛は濃く、下腹部には彼のそれがあった。うん。予想していた通り。前を見ると、私の孤独の夢の箱庭水槽の中には、彼の上半身が小さくなって魚の下半身の上にくっついている、かわいらしい男人魚。まだ呼吸のコツをしらないらしく苦しそう。一度自分の姿をしっかり確認したくて、全身がうつる鏡のところまで歩く。
 やはり下半身は彼で、上半身は私のものらしい。全裸の姿の妙な身体が映っている。自分の胸を眺めていると、今までに感じたことの無い興奮が、私の下半身に襲ってきた。そして自分の胸を自分の胸で揉んでみる。気持ちいい。今までやったことのある自慰行為より、もしかしたら彼に揉まれたときより気持ちいかもしれない。いや、彼の愛撫は幸せだった、あれとこれとでは種類が違う。次元がまず違う。この次元の違う未知の快楽に浸っていると、彼の、いや今は私の、それが立っている。もうがまんできない。衝動は抑えられない。こんな感覚は始めて。うう。彼はいま、泳ぎやえら呼吸の練習をしている。そっとその場を離れて、鏡に近寄り、男人魚の彼の視界には入らないところで、握る。3分くらいこすって、やっと今まで味わったことのない種類の快楽が、絶頂に達し、白いものがどばっと出た。女の快楽にくらべて短いあっさりしたものだったけれど、なんとなく痛快ではあった。これが男ってやつか! ひとつの人生で、女のオルガズムだけでなく男のオルガズムまで味わえるなんて、私は幸せなのかもしれない。でも男のそれは一瞬に過ぎなかった。糸を引く手を眺めてみる。そして体中、力が抜ける。自分がやったことの馬鹿さ加減に失望し、ティッシュで床に零れたものをふき取ると、もうなにがなんだかわからなくてただぼおっと、彼が必死に泳ぐ練習をしている姿を、眺めてみた。そしてどうしようもない虚無感とため息が私を襲う。

 今日はいろんなことがあった。
 排泄物の散らばる部屋で数ヶ月ぶりに再会した男女。
 男人魚の前で手淫するオトコオンナ。
 水槽の中の彼を可愛がりながら、私はここでオトコオンナのまま暮らしていくのかな。
 こんな下品な夫婦、救いようがない、童話にもならない……。
 私のこの身体、誰にもバレないかな。更衣室やトイレは、どっちに行けば?
 ああもう誰にも会いたくない。このまま彼と隠居していたい。
 せめてさっき逃げ出した猫、帰ってきて欲しい。
 そういえば、私の前の前の下半身、そろそろ捕まったかな。

       完

2011/09/02(Fri)03:34:30 公開 / 早/林健太郎
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