『クラゲの海から、拝啓お月様へ』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:風丘六花                

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 長いようで、短かった。矛盾しているようなこの言葉ほど、まっすぐ真理を表しているものはないと思う。だって、どれだけの時を過ごして来たところで、思い出す今は一瞬なのだから。何を思い出したって、短いに決まってる。僕が菜月と過ごした時間も、同じだ。
 菜月、君とのあの一年間が、こんなに短くなってしまったんだ。この一瞬で思い返せるほど、小さくなった。君と僕との時間の進み方は、今でもおなじだろうか。君は、僕とおなじ世界にいるのだろうか。ねえ、菜月。君は僕を覚えている?
 僕は、あの日もこの海で泣いていた。

 菜月と出会う前、僕は本当にほんとうに小さな世界の中で暮らしていた。
 僕達が住んでいたのは、コンビニより砂浜が近い、ビルの代わりに船が立ち並ぶ町。四方八方を海で囲まれた、世界からぽつんと取り残された島。あるのはその町だけ。海岸沿いにずっと歩いていたら、きっと一時間と少しくらいで元の場所まで戻ってこられる。そんな、狭い場所。当然、人間の数だって限られていたけれど。僕は、その中でずっとひとりだった。
 海は好きだった。打ち付ける波と通り抜ける潮風と、いろいろな音が僕の泣く声を隠してくれるから。砂浜に並ぶ岩と岩の間、ちょうどあの頃の僕がひとりすっぽり入れる隙間。毎日、そこで泣いていた。大声を上げても誰にも気付かれない、その場所が定位置だった。
 海は好きだったけれど、同時にむなしかった。僕がどれだけ泣いて泣いても、この海には敵わないことが一目でわかってしまう。大きくて大きくて、果てが見えない群青、遠い水平線。自分のちっぽけさに気が付いていなかった僕は、それがどうしても苦しかった。だから、僕が落とした涙が砂浜の色を変えるのを、ただひたすら見つめていた。聞こえる波の音、涙でぐしゃぐしゃの頬を潮風が撫でる。肌はからからに干涸らびて、僕は泣いていたというのに。なんだか、こうなってはもう全てが原因で。とにかく、泣く材料はそこにたくさんあった。
 ひとりには慣れていた。だって気が付いた時からそうだったのだから。じゃあ、どうして僕は泣いていたの? 多分、理由なんてなかった。泣きたかった、それだけなのだと思う。実際のところどうなのだろう、今でもわからない。ただ、もしかしたら。もしかしたら、本当は誰かに気が付いてほしかったのかもしれない。「僕はここにいるんだよ」と、主張していたのかもしれない。でも、やっぱりわからない。あの頃の僕に聞いたって、「わからない」と返ってくるだろう。だって、実際に僕はそう言った。
「どうして、泣いてるの?」
 声は唐突だった。聞こえる筈のない音、波と風と自分の嗚咽以外の音。
 僕は、座り込んでいたから彼女を見上げた。「彼女」だとわかったのは、声と長い黒髪。あとは、目の前の涙と外してしまった眼鏡とでよく見えない。だからこそ、きっと余計に褐色の肌が印象的だった。
「わかんない」
 問いが突然だったから、そう答えた。考える暇もなかった、それが本心。泣きすぎて頭がぐらぐらした。もう、ずっと泣くことそのものが目的だった、僕の頭は空っぽだった。彼女が、首を傾げる。
「悲しいの?」
 彼女は僕に聞く。僕はそれにも答えられなかった。悲しい。そうなのだろうか。僕は悲しいのだろうか。わからない。それすらわからない。だけど、きっと。
「……多分」
 確か、そう言った。自分の発した言葉はよく覚えていない。だけど、彼女の仕草一つひとつは覚えている。彼女は屈んだ。僕と同じ目線に来て、俯く僕の顔を覗き込む。
「友達と、喧嘩した?」
「してない。……僕、友達いない」
「いないの?」
「いない」
 友達。あの時、僕はその言葉に新鮮味さえ感じていた。
 気が付いた時から、そんなものはいなかった。いない。それに、出来ない。保育園から小学校に上がっても、クラス替えがあっても。周りが次々と友達を増やしていく中、僕はずっと一人だった。友達。作る方法を、僕は知らない。最初は話しかけてきてくれた子も、次第に僕から離れていく。違う子と話す方が楽しいから。僕と話をするのが楽しくない理由も、僕は知らなかった。
「ねえ。君、名前は?」
 彼女が手に持った、何か白いものを僕に近づけてくる。と、思ったらそれを目に押し当てられる。それがタオルの感覚だと、気付いた時にはもう離されていた。僕の瞳と景色の間を、遮る水滴がタオルに吸い込まれて。それでもまだよく見えなかったから、今度はガラスで遮った。そうしたら、ようやくくっきり見えた姿。
 僕は、息を呑んだ。
「……たく、み」
「たくみ? どんな漢字?」
 答える声が震えた。
 こんなのは大袈裟だと思われるかもしれないし、君はきっとそうだと言うだろう。だけど、それを承知で言わせてもらおう。あの時、僕は君の美しさに絶句したんだ。菜月、君は僕が今まで見た、どんな人より綺麗だった。君はあの頃の僕の世界の小ささを知っているから、素直に喜んではくれないのかもしれないけれど。これは本当だから、信じてほしい。
「たくは、てへんに、石。それに、海」
「だから、海が好きなの?」
「そうなの、かな」
 拓海。僕は自分のこの名前がわりと好きだった。海が唯一の逃げ場だったから、その海が入った名前。だけど、もしかしたら逆だったのかもしれない。生まれた時から、名前と本物と。両方傍に居たから、他の人より二倍特別に思っていたのかもしれない。
「拓海」
 彼女は、僕の名前を舌の上で転がした。拓海、拓海。キャンディみたいにころころ、それから彼女は笑った。とても、綺麗な笑顔だった。
「わたしは、菜月。菜の花と、お月様」
 ちょっと、似てると思わない? 彼女は、菜月はそう言った。何が似ているのか、さっぱり理解できなかった。僕がぽかんとしている間に、菜月はもう一度立ち上がる。
「友達、いないの寂しいでしょ? 拓海」
 立ち上がった菜月は、とても大きく見えた。きらきら光る海を背中に背負って、綺麗だった。海の青さに呑み込まれずに、そこにいた。僕は、彼女に見とれていた。虚しくすら思っていた海の大きさに、菜月は負けていなかった。
「わたしと、友達になろうよ」
 菜月が差し出した右手が、何だかどうしようもなく神聖なものに思えた。それを自分の右手で握り返す勇気を持てた、僕はあの頃の自分を尊敬している。あんな綺麗なものに、手が伸ばせた僕を。
 ほら、僕はこんなに鮮明に覚えているよ。菜月。

 それから、菜月は毎日そこにいた。
 僕の居場所だった海で、僕と菜月は毎日話をした。「友達」との時間の過ごし方なんて僕は知らなかったけれど、菜月は全て知っていた。どんな話をすれば二人で笑えるか、菜月はその事に詳しかった。
 この、小学校も中学校もひとつずつしかない狭い島で、知らない人に会うなんて滅多にないことだった。けれど僕は菜月を知らなかったし、菜月も僕を知らなかった。菜月から聞いた話によると、菜月が住んでいるのは島の丁度反対側で、菜月は僕より二つ上。中学校に入る時に、この島に引っ越してきたらしい。つまり、あの時まで僕と菜月には一切の接点がなかった。だから。
 菜月は、毎日島の反対からずっとこっち側の海岸までやってくる。大変じゃないのかと聞いたら、「友達と遊ぶためだもん」と一言。その意味も、僕はよくわからなかった。友達と、遊ぶ。僕と、菜月が。なんだか、それはひどくいびつな感じがした。いびつで、無理矢理で、なんだか不自然。最後の一ピースが見つからなくて、他のパズルの似ているピースを無理矢理はめたような、そんな感覚。色は似ているのに、どうしてもそこが気になってしまう。どこが変なのかわからないけれど、もしかしたら変でもなんでもないのかもしれないけれど、気になってしまう一ピース。遠くから見たところでぬぐえない違和感。それほどまでに、僕は「友達」という言葉になじみがなかった。
 菜月は、僕にいろいろな話をしてくれた。僕は大抵聞き役に徹していた。話す方法を、知らなかったから。小さな小さな僕の世界を、菜月の話は少しずつ少しずつ広げてくれた。彼女は本当にいろいろなことを知っていた。この島に来る前のこと、都会の話。なにもかも新鮮で、興味深くて、菜月の語り口が面白くて。僕らは日が暮れるまで海岸で一緒にいた。

「拓海は、携帯電話って知ってる?」
「聞いたことはあるよ。家に居なくても、話が出来るんでしょ」
「そうそう、こんなにちっちゃな機械で」
 あの当時、この島で携帯電話を持っている人なんて誰もいなかった。なぜかって理由は簡単、使えなかったから。だから、その存在は聞いていたけれど、実物を見たことはなかったし、身近なものだなんて信じられなかった。だから、菜月が指で空気に描いた四角の小ささに、僕は驚いた。
「菜月、持ってたの?」
「持ってたよ。みんな、持ってた。ここに来たら、使えなくなっちゃったんだけどね」
「どうして?」
 ううん、そうだね。菜月は少し悩んだ顔、上を向いて首を傾げた。
「電波が、ないからかなあ」
「……デンパ?」
「私の携帯と、相手の携帯を、電波が繋げるの。遠くにいる人と人は、電波で繋がるの」
「糸電話みたいに? 絡まらないの?」
 繋げる。その言葉から連想ゲーム。みんなが小さな箱を持っていて、細い細い糸が箱と箱を繋いで、大きな街に糸がたくさん。絡まったらどうするのだろう。ぐしゃぐしゃになって、突っかかって誰か転んでしまうかも知れない。それで、デンパが切れちゃったらどうするの、繋がれない。
「糸電話の糸は見えるけど、電波は見えないから、絡まないんだよ」
「見えないのに、繋がるの?」
「見えないのに、繋がるの」
 不思議だね。そう言ったら、菜月も笑った。不思議だね。繰り返す言葉、菜月が見ていたのは遠く。菜月のいた大都会、人と人はデンパで繋がっているのなら。デンパのないこの島で僕と菜月は何で繋がっているのだろうか。
「デンパがあれば、誰かと繋がれるの?」
「そうだけど、ちょっと違う」
「どうして?」
 どうして。僕は聞いてばかり。だって知らないから。菜月の話すこと全部全部、僕にとっては知らないことだから。
「電波の繋がりは、簡単に切れちゃうんだ」
 菜月は微笑んだ。僕の方を見て、笑う。ねえ菜月、今ならわかるよその意味が。だけど、あの時の僕にわかるはずもなかったんだ。
「糸電話みたいに?」
「もっと、簡単。電波は見えないから、気付かないうちに切れちゃうの。繋がってると思っても、繋がってないの」
 拓海。僕の名前を呼んで、菜月の手が頭に。くしゃくしゃと撫でられて、くすぐったかった。
「あのね、電波のない繋がりのほうがね、ずっとずっと強いんだよ。私と拓海が、こうやって」
 右手に触れた、温かい柔らかさ。そのまま僕の手をぎゅっと握って、菜月はそれを持ち上げた。僕との手と菜月の手と、一緒になって太陽にかざす。僕の小さな手を包み込んで、太陽まで隠してしまった菜月の手は、大きかった。漏れる光、僕らはお日様を捕まえた。
「手を繋いでる、繋がりの方が強いの。これはね、絶対なの」
 拓海、覚えておくんだよ。そう言って笑った菜月が、とても大人だった。あの時の僕からしたら、菜月、君はとても大きな存在だったんだよ。知っているかい? 君の言葉は、絶対ですべてだった。だから、僕は頷いた。
「でも、デンパがあったら」
「うん」
「菜月が毎日ここまで来なくても、菜月と話が出来るのにね」
 素直に、そう思った。デンパが何かはわからなかったけれど、糸電話の糸よりもっとずっとずっと細い、見えないくらい細い、きっと触れないもの。糸とは違うのかも知れない、だからデンパという名前なのだろう。とにかく、それがあれば僕と菜月はいつでも繋がっていられる。手を繋げるのは隣にいる時、だけだから。
「そうだね、拓海とだったらいいかなあ」
 電波じゃなくても繋がってるもんね。菜月は、そう言って僕の手をもう一度握りなおした。少し色の濃いてのひら、温かい感触。繋がってる。口の中でそっと繰り返した。あの時、僕と菜月が繋がっていたのは確かだった。簡単には切れない、強い強い繋がり。
 ねえ菜月、知ってるかい? この島にもね、電波が来たんだよ。島のあっちとこっちで、今は携帯電話で話が出来るんだ。メールも打てる。インターネットだって使えるんだ。信じられる? 
 なのにさ、ようやく島の向こうの君と繋がれるはずだったのに。電波はあっても、君がいないんじゃ繋がりようがないじゃないか、菜月。島よりももっともっと遠くの人とだって、海を越えたってそこからさらに山を越えたって繋がれるのに、肝心の君とは繋がれないなんて。あの時すごいと思ったこの小さな箱も、所詮はそんなものなんだって僕は知ったよ。そうだ、君の言うとおり。手を繋ぐのが、一番強くて確実で、しかもあたたかい。
 これが、僕が菜月に教えてもらった大切なことのひとつ。他にもいろいろある。菜月が教えてくれたことのおかげで、僕は今ここにいるんだから。

 ある日、菜月はいつも通りいつもの場所に来た。
 拓海。そう言って僕の名前を呼んで笑う。キャミソールから出る細い腕に、菜月は見慣れない痣を付けていた。いくつか。ひとつ、ふたつ、みっつくらい。
「どうしたの?」
 だから僕は聞いた。菜月は一瞬首を傾げて、それから僕の見ている先に気が付く。ああ、これ? 菜月は苦笑。
「クラゲに刺されちゃったの」
「クラゲ?」
「うん、海で泳いでたら」
 痛くないの? そう聞いたら、ちょっとだけ、と返ってきた。赤く腫れた肩口。もう、クラゲが出る季節なのか。海にはよく来るけれど、僕は泳がないからわからなかった。海は好きだけど、泳ぐのは苦手。だってほら、波になにもかも持っていかれそうで、どうしようもなく怖くなるじゃないか。それは今だって変わらない。変わるわけがない、と言ってしまえばそれまでだけど。
「あ、ほら」
 菜月が海を指さした。覗き込んだら、波と砂浜の間でぷかぷか。こんなに、近くに。
「こいつに刺されたの?」
「これは刺さないクラゲ。何に刺されたかは覚えてないや。痛いなぁ、って思ったらもうこうなってた」
 ひっくり返った透明なお椀が、波に揺られてゆらゆらゆら。透明なのにどうして見えるんだろう、と不思議に思った。クラゲも透明、水も透明。それなのにそいつがそこにいるのは確かに見えた。浮かび上がる輪郭、ガラスのお椀を海に入れたとしても、こんなふうに見えるのだろうか。きらり、太陽が反射する。気付かないクラゲは、ぷかぷかぷか。でも、ガラスの方がきっと綺麗だ。
「拓海、クラゲ好きなの?」
 ずっと見ていたからだろうか。首を傾げて、菜月はそう言った。何言ってるんだ、冗談じゃない。
「嫌いだよ」
「どうして?」
「だって、……菜月を刺すから」
 目を見て言うのはほんのちょっと、恥ずかしかった。だから僕はクラゲにそう言った。菜月がどんな顔をしていたのかは知らないけれど、きっと目を丸くしたのだろう。それから、笑った。
「ありがと、拓海」
 屈み込んで海を覗く、僕に菜月は視線を合わせる。しゃがみ込んでこっちを見る瞳、それがあまりに大きくて真っ直ぐで、僕は目を逸らした。菜月が近い。出会ってからだいぶ経ったというのに、未だに菜月は眩しすぎた。月だなんて、謙虚すぎる。菜月は太陽だった。
「ねえ拓海。私さ、面白いこと思いついた」
 弾かれたように菜月が立ち上がって、人差し指を一本。白いスカートが、ふわりと揺れる。
「拓海は、海でしょ?」
「え、あ……、うん」
「そしたら私は?」
「月?」
「正解」
 どういうこと? 意味がわからなかった。菜月は笑う。ほんとうに楽しそうに、笑う。
「海の月。綺麗な言葉でしょ?」
「うん」
「でもね、海に月って書いて、何て読むか知ってる?」
「知らない」
 海、それから月。砂浜に並べて指で書いてみたけど、うみつき以外の読み方なんてわからない。菜月はもう一度僕の横で屈んだ。ぷかぷかのクラゲが溜まっているそこに指を入れて、お椀の底をつんつんと突っつく。クラゲはふわりと脚を持ち上げたけど、それ以上何もしなかった。ふにふにふに。何度かそうして、菜月はクラゲに向かって笑いかけた。きれいに。
「クラゲ、って読むんだよ」
「……え」
 海の月、クラゲ。あまりに似つかわしくなくて、僕は菜月が冗談を言ったのかと思った。目の前にクラゲがいるから。だけど、どうやらその言葉はほんとうらしくて。信じられなかった。だって、おなじ月なのに菜月と海月じゃ随分違う。同じ海でも、僕と海月もきっと違う。同じであってたまるものか、だってこいつらは菜月に怪我をさせたのに。
 菜月の真似をして、そっと海に指を入れてみた。お椀に指を近付けて、冷たい感触が段々と上に上に。ぬる、とそいつに触れた。思わず水を弾いて指を引っ込めれば、隣で菜月に笑われた。怖くないよ、刺さないもん。菜月はそう言って、またそいつらに触る。
「私と拓海で、クラゲ」
「なんか変な気分」
「私も」
 クラゲ。なんかぱっとしない。海に月なんて、こいつらが月なんて。
 だけど、そう思ってみたらなんだか親近感。きっと自分達が海の月だって、そんな大層な呼ばれ方をしているなんて知らない。ただ、何を考えているのかぷかぷかぷか。いいなあ、と思った。だって、こいつらは何も考えなくていいんだから。ただ、こうやって浮いていればいい。それとも、こいつらも何か考えるのかなあ。僕と同じように、泣いたりするのかな。
 そういえば、最近僕は泣いていない。だって、泣きたくなる前にいつも菜月がここにいるから。
「こいつらは、私と拓海の特別だよ」
 そう言って菜月は笑った。お月様は、いつも太陽みたいに笑う。
「特別だね」
「うん、特別」
 秘密じゃなくて特別。なんだか、その言葉はとてもきらきらしていた。僕と菜月の、特別。
 なあ、お前たち特別なんだよ。僕と、菜月の。秘密じゃないから、好きなだけ言っていいんだ。特別。散々自慢してから、もう一度触ってみた。今度は、引っ込めなかった。菜月を刺したお前たちの仲間は嫌いだけど、特別だから許してあげる。そう思って、菜月がしたようにふにふにした。クラゲは、ただぷかぷかしていた。これから、どこに行くのだろう。特別だけど、僕らはクラゲじゃないからわからない。
 ねえ菜月。僕は今でも、クラゲをみると君を思い出すよ。君の思い出は、あろう事かクラゲと結びついてしまったんだ。もちろんあいつらだけではないけど、もっと綺麗なものとも一緒だけど。まあ、言いだしたのは君だから許してくれるよね、クラゲの月。
 いろいろな話を僕は覚えているけれど、この時の話を僕は一生忘れない。だって、君との特別だから。僕らだけの秘密なんて、そんなものはなかった。むしろ、互いに秘密ばかりだったね。特に菜月、君はさ。だから、僕らが唯一共有できた特別が、クラゲだったんだ。なんて、笑い話だろう。でも僕にとっては大切な思い出だよ、菜月。

 僕は菜月といろいろな話をした。たくさんたくさん、話した。話すことが苦手だった僕に、ちゃんと返事なんか出来ないのに、菜月は付き合ってくれて。僕は菜月の話を聞くばかりだった。最初は相槌さえろくに打てなくて、黙ったまま聞いていることもあって。それでも、菜月は嫌な顔ひとつしなかった。笑って、僕の隣にいてくれた。僕は、それが不思議だった。
 どれだけ僕の言葉が少なくても、どうしようもない話でも。菜月は、僕が口を開けば僕の話を全て聞いてくれた。僕は少しずつ君と会話が出来るようになったんだ、菜月。一方通行じゃない、会話。菜月が持ちかけた話題に、僕が答えて。僕の質問に菜月が返事、その逆も。そんなことを繰り返していくうちに、僕は僕から話題を持ちかける術を覚えたんだ。これは、本当に大きいことだった。だってあれまでの僕と言えば、みんなの輪っかから外れて体育座り、話しかけてもらうまでずっと一人で踞っている。そういう、奴だったんだから。
 君と一緒にいたこと、それそのものが僕にいろいろなことを教えてくれた。僕はね、僕がどうしてひとりだったのかも知ったんだ。受け身だったから。理由はそれだけ。でも、そんなことにも僕は気付いていなかったんだよ。だって、ひとりだったから。ひとりだった僕の世界は、とてもとても小さかったから。だから、気付きようがなかった。教えてくれる人もいなければ、それを捜す術も僕は知らなかったんだから。
 菜月が、受け身でつまらない僕を見捨てないでいてくれたから。菜月と話をするようになって、僕はいろいろなことを知った。人が僕をつまらないと思う理由も知った。菜月と出会った、ただそれだけのことが僕を、僕の生活を大きく変えてくれたんだ。僕は、菜月以外の人とも、話が出来るようになったんだ。それまでにかかった時間は随分あった。菜月と出会ったのは初夏、その時は一周回ってまた夏だった。僕らはその一年間、ほとんど毎日話をしていた。びっくりだろう? 住んでいる場所も年齢も違うのに。
 その夏、僕はようやく菜月以外の「友達」を作ることに成功した。

 始まりは簡単だった。総合の授業でどうしても二人組にならなきゃいけなくて、僕はそれがとても嫌いだったのだけど。幸いクラスの人数は偶数。僕は、ある男の子とペアになった。最初はほとんど会話なんてなかった。それこそ必要最低限、先生が指示したことだけ。その子は仲のいい他の友達の方をちらちら見ていたし、僕も居心地が悪かった。
 気が付いたら、僕は貰ったプリントの端に落書きをしていた。何も考えていなかったけれど、書いていたのはあのぷかぷかしたアイツら。そろそろまた、奴らの季節だ。そういえば、菜月のあのクラゲに刺された痕は秋になっても消えなかった。それからずっと長袖だから、今はどうなのかよくわからないけれど。菜月を刺した奴らは本当に許せない。
「お前、クラゲ好きなの?」
 いつのまにか、その子が僕の手元を覗いていた。話しかけられてびっくり。でも、不思議と怖くなかった。今までは誰かに話しかけれても怖くてこわくて、何を返せばいいかわからなくて黙ってしまった。だけど、僕は声を出せた。菜月のおかげだ。菜月と、話をしていたから。
「嫌いなのもいるけど、これは好き」
「これ?」
「この、丸いの」
 お椀を逆さまにした、あの時の波打ち際にいたやつ。僕はあれ以来、あいつらにどうも親近感を覚えてしまっていた。僕と菜月の、特別だから。
「嫌いなのって?」
「刺すやつは嫌い。こいつらは、刺さないから」
「ああ、わかる。クラゲに刺されると、痛いよな」
「僕は刺されたことないんだけど、友達が」
 友達。そんな言葉が、自分の口から出てくるだなんて。自分でもびっくりしたけれど、僕と菜月は友達だから。菜月が言ったんだから、間違いない。
「なあ、拓海。お前知ってる?」
 拓海。家族と菜月以外の口から、その言葉を聞くのは不思議な気分だった。目の前の彼は、僕を見て悪戯っぽく笑う。
「クラゲって、漢字で書くとさ」
 彼が一呼吸置く。その隙に僕も息を吸った。喉を震わせる、タイミングを見計らって・
「海の月」
 重なる声、二人分。彼は目を丸くして、その後の言葉を飲み込んだ。今度は僕が笑う番。悪戯っぽく。菜月以外の人の前で笑ったのなんて、どれくらいぶり。だけど、上手くいったうまく笑えた。彼も、僕と一緒に笑う。
 菜月以外に、初めて出来た友達だった。そのきっかけも、菜月。変わった僕の全てが、菜月だった。だけれど、馬鹿だなああの頃の僕は。どうして、そのことに気が付いていなかったんだろう。新しく出来た友達に舞い上がっていた僕は、それが菜月のおかげだとは考えなかった。ほんとうに、馬鹿だった。ごめんね、菜月。謝っても謝りきれない。小さくて小さくて、何もわからないほどだった僕の世界を、丸ごと掬い上げて抱きしめてくれたのは、菜月。君だっていうのにね。

「明日、友達と遊ぶんだ」
 僕は、菜月にそう報告した。夏の初め、菜月はまたキャミソールになっていた。去年には片腕だけだったクラゲの痕が、今年は両腕になっていた。まだ夏も始まったばかりなのに、菜月はもう泳いだのだろうか。僕は、去年はまったく泳いでいないし、今年もきっと。こればかりは、菜月に誘われたって嫌だ。
「拓海、友達出来たの?」
 菜月は目をまん丸くして聞いてきた。だから、僕は大きく頷いて見せた。友達になった経緯を話して、「明日遊ぼうよ」と声をかけられたところまで細かく細かく。菜月は頷きながら聞いてくれた。話し終わればにっこり笑って、「よかったね、拓海。私も嬉しいよ」と頭を撫でてくれた。
 僕は浮かれていた。だから気が付かなかった。別れ際、「明日は拓海と会えないんだね」と言った時の、菜月の表情に。夕暮れに隠れて見えなかった、では言い訳にならない。僕は、自分から話すことの出来なかったあの頃の方が、菜月の表情に敏感だった。嫌われたくない、菜月が何を考えているか知りたい。いつもいつもそう思っていたから。相手の反応が怖かったあの時は、僕が一番相手のことを考えていた時だった。

 友達は、段々と増えていった。友達の友達が友達になって、さらにその友達も友達になる。そんな、文字にしてしまうと嫌になるような感じで増えた。男友達と体を動かして遊ぶのは、楽しかった。僕が知ってる友達とすること、といえば海辺で二人、ずっと話をすることだけだったから。なにもかもが新鮮だった。それは、初めて菜月と出会った頃のような。
 気が付くと、僕は海辺に行かなくなっていた。友達に遊ぼう、と言われればすぐに返事、それから今日は何をするんだろう、野球かなサッカーかな。とか。菜月と話をするより、そっちの方が大切になっていた。そんなものじゃない。今思い出すととてもとても言えないのだけど、僕は菜月を忘れていた。菜月が居なくたって大丈夫だったから。最低だ。ほんとうにそう思うけれど、後悔したって仕方ない。
 暫くは、何も言わないで行かなかったことに後ろめたさも感じていたけれど。それも次第に薄れていった。毎日が楽しかった。それが幸せだった。僕は、ひどい人間だ。けれど、言い訳をするわけではないけれど。問題が解決したら、感謝なんて忘れてしまう。よくある話だ。けれど、当然許されることではない。
 ごめんね、菜月。僕は知らなかったんだ。僕が海辺に行かなかった数週間。――君が、毎日そこで僕を待っていたことを。

 久しぶりに海辺に行くのは、やっぱり少し気まずかった。だけどその日の放課後は遊ぶ相手が居なくて、やることもなくて。そうしたら、ふと思い出したから。菜月。どうせ菜月だって、僕のことなんか忘れてる。そう思いながらも、気になってしまったから海辺に向かった。そうしたら見えた人影。心臓がどくりといった。キャミソール姿、褐色の肌。
「拓海!」
 足音に気付いて、振り返った菜月は目を丸くした。それから、菜月は笑った。泣きそうな顔で、笑う。「よかった、来てくれた」。菜月の声が震えていて、僕は動けなくなった。
「菜月、ごめん」
「ううん、いいの。……いいの」
 菜月が、僕の方に駆け寄ってくる。拓海。菜月は僕の名前を呼んだ。僕は、菜月、と呼び返せなかった。菜月の細い腕は、もう赤と青の痕だらけ。ねえ、それは本当にクラゲなの? 問えていたら、何か変わっただろうか。
「ねえ、拓海」
 菜月に促されて、僕らは前と同じ場所に二人で並んで座った。菜月は膝を抱えて僕に話しかける。僕は、何も言えなくなっていた。
「拓海はさ、もう私がいなくなっても平気だよね?」
 唐突だった。けれど、きっと菜月にとっては突然でもなんでもなくて。僕がここに来なかった間、ずっとずっと考えていたこと。そうだったのだと思う。僕はその時まで考えたこともなかったこと、菜月はいっぱいいっぱい考えたこと。
 そんなこと。返そうとした言葉を、菜月は遮った。「いいの」。そうやって、一言。
「平気だよ。だって、拓海には友達が出来た。私に会わなくても、元気でいられる。……だから、私はもういいの」
 なにがいいんだよ、菜月。聞きたかった。けれど何も言えない。友達が出来るほど、ちゃんと話せるようになったというのに。こんなときにばっかり、昔の僕に逆戻り。どうして。
「あのね、拓海」
 言わないで、菜月言わないで。菜月の言いたいことが、なんとなくわかってしまった。だけど、止められない。僕には、なにも。いやだ、菜月いやだよ。謝るから、ごめん、だから。
「……バイバイしよう?」
 菜月は、そう言ってふんわり笑った。
「どうして、」
「だって、私がいると拓海は他の友達と遊べないでしょ?」
 大丈夫だよ。菜月が笑う。大丈夫じゃないよ。なんとか出した声は、ひどく震えていた。大丈夫なんかじゃ、ない。あれだけ菜月と会わないでいたくせに、僕はそんなことを言っていた。バイバイする、と言われてからわがまま。ほっぽり出していたおもちゃを、いざ捨てると言われたらだだをこねる子供みたいな、そんな独占欲。僕はまだまだ幼かった。ただの、親を困らせる駄々っ子だった。大きくなったはずの世界も、やっぱり小さかった。
「拓海に、渡したい物があるの。ずっとずっと、渡したくて持ってたの」
 菜月は、スカートのポケットに手を入れた。手を出して。言われたから、菜月の前で掌を広げる。ぽとり。乗っかったのは、冷たい丸い。
「……ビー玉?」
 透明の、ビー玉。菜月はそれを僕に渡す。それから、ポケットからもうひとつ取り出した。
「ビー玉を通して海をみるとね、ほら」
 目の前にそれをかざして、片目をつぶって。菜月がやるように、僕も真似してみた。親指と人差し指で掴んだビー玉、左目を閉じて海を。――閉じこめた。
「こんなちっちゃいビー玉にね、海は閉じこめられちゃうんだよ」
 丸い透明なガラス玉。その中で、海が泳いでいた。僕は、右手と人差し指で海を捕まえた。広くて広くて、果てしなく広くて虚しかった海が、僕の手の中にある。小さな僕よりも、海の方がちいさかった。
「だからね、辛くなったらこうやって海を見るの。そうしたら、わかるでしょ? こんな大きな海だって、拓海は掴まえられちゃうんだから。……他のことだって、きっと何でも出来るよ」
 菜月。僕は名前を呼べなかった。立ち上がった菜月を見て、ただ右手のビー玉を握りしめた。菜月は、笑う。右腕が伸びてきて、僕の頭を撫でた。
「大丈夫、拓海は強いよ。会った時から、ずっと強くて優しかったよ。……ありがとう」
 気が付いたら、僕は泣いていた。あふれ出す涙が止められなかった。菜月、菜月。菜月の指が僕の眼鏡を外す。それから、「泣かないの」と菜月の指が涙を拭った。君だって、泣いていたくせに。あの時はレンズ越しじゃなかったから、気が付かなかったんだけど。今ならわかるよ。だって君の声は、聞いたこともないくらいぐらぐらだったんだから。
「台風が、来るんだって。……早く帰ろう?」
 そう言って、菜月は僕を立たせた。二人で途中まで一緒に歩いて、言葉はなかった。分かれ道。僕はまだ泣いていた。菜月が笑う。大丈夫だって、と笑う。僕達は、そこでバイバイをした。またね、じゃなくてさようなら。バイバイ、拓海。菜月が手を振る。僕は言えなかった。バイバイ菜月、って、僕は。
 それが、菜月に会った最後だった。――たったの三日後、菜月は海に飲み込まれた。

 菜月が言ったとおり、夕方から夜にかけて、大きな雨粒が島を打った。吹き荒ぶ風、がたがた揺れる家。嵐は怖い。なにもかもひっくり返して吹き飛ばしてしまう。なにか大切なものまで、なくなってしまう気がするんだ。いつも。
 嵐は何日か続く。学校は休み、風の音と風景が怖くて、僕はずっとカーテンの内側にいた。確か、菜月も台風は嫌いだ。泳げないから。怖いから、なんてそんな理由じゃないのが、なんだか格好良かった。
 菜月。バイバイしたから、僕たちはもうああやって一緒に話は出来ないのだろうか。同じ、こんなに小さな島の中にいるのに。
 お母さんが台所で油をジュージューさせていた、三日目の夜。滅多にならない家の電話が、思い出したように声を上げた。ジリリリ、ジリリリ。お母さんのジュージューを打ち消して、半日遅れの新聞を読んでいたお父さんが受話器を取る。――はい、金沢。少しだけ、声が聞こえた。――ええ、……なんですって? わかりました、すぐ行きます。不明瞭でもこれくらい聞こえて、こんな天気なのにどこかに行くなんて、何が。部屋を出て、リビングに向かった。
「山岡さんちの娘さんが、行方不明になったらしい。捜索隊を作るそうだから、少し出てくるな」
「まあ、こんな日に? どうしたのかしら、無事だといいけど……」
 お父さんとお母さんの話し声。山岡さんちの娘さん、行方不明。背中に寒気が走った。僕は山岡さんなんて知らない、そんな知り合い、いない。僕には関係ない話だ。その子が見つかって、お父さんも無事に帰ってくればそれでいい。なのに、なにかが。
「山岡さんちの、子って……?」
 後ろから問いかければ、二人ははじめて僕に気付いた。拓海、いたのか。お父さんはそう言って、体ごと振り向いて。
「拓海は何か知らないか? 山岡さん、ってお宅の娘さんが、見あたらないんだそうだ。名前は、確か」
 どくんと心臓がなった。浮かんでしまった顔、違うちがう、そんなわけ。だって女の子なんて、もっともっといっぱい、この島にだって。
「――……菜月ちゃん、っていうんだけど」
 予想は、悪い方にばかり当たる。あまりにショックだと、本当に目の前は真っ暗になるんだ。
 僕は何も言えなかった。声が出ない。ナツキ。ナツキって、君のこと? ねえ、菜月。行方不明? それ、どういうこと。こんな天気なのに、なにやってるの。台風嫌いだっただろ、菜月。
 いろいろ浮かんでは消えて、真っ暗になった視界に色が戻った時には、頭が真っ白だった。
 菜月? なにを、してるの?

 お父さん達は必死で菜月を捜した。暴風雨の中、島中を歩き回って。家を一軒一軒訪ねて、いろんなところを捜した。だけれど、結局その日も次の日も、菜月は見つからなかった。狭いこの島のどこにもいないのなら、可能性のある場所なんてひとつ。それは、ひどくひどく信じたくない。でも、誰もがそう思った。だって、どこにもいないんだから。
 五日目、ようやく島の空が戻ってきた。海が青空を映して青い、だけど菜月は戻ってこない。大波の収まった海を、船が走り出した。菜月を、探しに。それはとても絶望的な作業。菜月、みんな必死になって君を捜しているよ。かくれんぼしているだけなら、はやく出ておいで。今なら、ごめんなさいで間に合うよ。なんて、そんな。
 六日目、菜月が見つかった。案の定だった。菜月は、大好きな海の中にいた。見付けてくれたのは島の漁師さん。船に乗って菜月は帰ってきた。予想していた結末だった。見つかっただけ、奇跡のようなものだと誰かが言った。そうだと思う。あれだけ荒れた海、この島からそんなに流されていなかったことは奇跡だ。それでも不幸中の幸いなんて、言えない。何が幸いだ、これのなにが。
 菜月が帰ってきた時、僕は泣けなかった。居なくなったと知った時も、泣けなかった。どうしてだろう、悲しいという気持ちすらわからない。僕は今悲しいの? ちゃんと言葉には出来るんだ、理解もしてるんだ。――菜月は、死んだ。あまりにあっけない、一言。
 菜月はどうして海に飲み込まれたのだろうか。その事については、僕は考えたくなかった。違う、逃げていた。だって理由なんてわかっている。僕は、目を逸らし続けていた。知ってる、そんなこと知ってるんだ。菜月がどうして毎日のように僕に会いに来られたのか、どうして僕に話しかけたのか、あのクラゲの刺し痕はなんだったのか。なんで、菜月は死んだのか。考えてしまえばわかることだった。だけど、僕は考えなかった。これ以上押しつぶされるのは怖かった。卑怯だよ、わかってる。僕は卑怯な人間だ。
 つまるところ、菜月の世界だって僕のと同じように小さかったんだ。ただ、小さすぎた僕がそれに気が付かなかっただけ。そして、菜月は大きくありたかった。だから、自分より小さい僕に声を掛けた。僕は菜月のことを大きいと思った。菜月はそれが嬉しかった。僕らの関係は、そんなものだった。互いが互いを必要としていた、僕がもらってばかりだと思っていたけれど違った。菜月も、僕が必要だった。彼女が大きくあるために、地面に足を着くために。そして、僕はそんな菜月を裏切った。そういうことだ。だから菜月は、海に。
 綺麗にお化粧をされて、白い服を着せられた菜月の体が、細長い箱に入ってみんなの真ん中に居た。お花をあげに行くのよ、と言われて母親に付いていった先、泣かずにいられる自信なんてなかった。だって、バイバイした時の菜月は笑顔だったのに。
 覗き込んだ箱の中、僕は息を呑んだ。胸の前で組まれた指、袖から伸びる腕。こんなに、細かっただろうか。褐色だと思ってた肌は、良く見たらそんなに焼けてもいない。白くて、細い体。これは、誰? 僕の知っている菜月はもっと強くて、元気で、太陽みたいで。ねえ、これじゃあ本当に月になってしまったみたいじゃないか。月。そんな、幻想的で儚げな存在だっただろうか君は。花を握る、指が震えた。僕は、まだ泣けない。どうしてだろう。
 ただ、どうしようもなく体が震えた。気付きたくなんてない、わかりたくなんてない。でも、それは事実。僕が、僕が気がつけなかったから。あれだけ一緒にいたのに、僕は知らなかった。菜月の思い、菜月が苦しんでること。菜月が、僕といることをこれほどまでに大切に思っていたこと。菜月は確かに、僕を通して自分を救おうとしたのかもしれないけれど。僕は、それ以上に自分のことしか考えていなかった。自分が幸せになれればそれでよかった。僕が菜月を見捨てた、僕が裏切った。――だから、菜月は。
 きっと耐えきれなかったんだ、こんなに細い腕だから。菜月はずっと我慢してたんだ、僕の前で笑ってたのに。ごめんね、ごめんなさい菜月。僕のせいだと言われても何も言えない、だってその通りだから。押しつぶされる感覚、何にだろうか。罪悪感。そんな言葉をあの頃の僕は知らなかったけれど、きっとそれだろう。
 結局、僕は最後まで泣けなかった。だって、菜月の顔を真っ直ぐ見られなかったから。眼を開けないのはわかっていたけれど、組んだ指より上には視線が向かなかった。怖くて、こわくて。
 ごめんね菜月。僕は卑怯者で臆病者だ。

 菜月が死んでから数日。菜月のお母さんが、菜月の部屋から一枚の紙を見付けたと聞いた。巡り巡ってその内容が僕に伝わってきた時。狭い島だからそれが出来た、その事にはほんとうに感謝したい。――僕は、ようやく泣いた。
 みんなこぞって、意味がわからないと頭を捻った文面。コピー用紙に、たった一言。僕はそういえば菜月の字を見たことがなかったけれど。友達が持ってきた写真には、しっかり写っていた。本物じゃないけれど、それは。
 ――『ありがとうごめんなさい。あなたのせいじゃないよ、クラゲの海へ』
 大丈夫だよ、菜月。伝わった。僕は最後まで君の言葉に救われてばかりだね。どうして君は知っているんだろうか、僕が一番欲しい言葉、欲しかったのは免罪符。最低だと、今でも思うよ。今でも君のことを考えると辛いんだ。だって、君は僕が。この先は、言えない言いたくない。卑怯なんだ、今だって。君はあれだけ優しかったというのにね、クラゲの月。
 僕は海に行った。僕たちが出会った海で、さんざんに泣いた。どれだけここで待っていても、君は二度と来ないんだね。通りかかることもなければ、僕を見付けて声をかけてくれることもない。バイバイしたって、同じ地面の上にいればもう一度出会えるのに。菜月、君は違うところへ行ってしまった。菜月、菜月。僕が君を、この世界から追い出してしまったのだろうか。菜月。
 海はいつまでも広かった。菜月からもらったビー玉を握りしめる。ねえ菜月、君はこんな僕が強いと思ったの? 君の形見のこれを、まともに見ることすら出来ない僕を。僕はただただ泣いた。菜月、菜月。失ってから気付くのは遅い、って。誰もが言うけど、その言葉の大切さに気が付くのも、やっぱり失ってから。

 菜月。僕は、今でも海を見ているよ。君のおかげで広がった世界で、僕はいまでも生きているよ。それはひどく勝手なことなのかもしれない。君は世界から逃げ出してしまうほど辛かったというのに、一番そばにいた僕はこうやって、今を普通に生きているのだから。ねえ菜月。僕の世界は少し大きくなった。この島の外にだって、世界はあったんだよ。君はそれを知っていたはずなのに、どうして。菜月、君は何から逃げようとしていたの? なにから、逃げてしまったの? 答えは聞けない。聞く権利もない。ああそうだ。電波だってちゃんとここにあるのに、君と僕はもう繋がっていないね。
 君がいなかったら、僕の世界は小さなままだった。僕の中の「友達」って言葉は君から始まったんだよ、菜月。あの頃の僕の世界は、君の細い腕が抱え上げて丸ごと包み込んでしまえるほど、小さくて軽かったんだよ。ねえ菜月、今ならちゃんとわかる。君は、君より小さな僕を見付けて嬉しかったんだろう? 僕が相手なら、大きな自分になれると思ったんだろう? だけどね、菜月。君がどんな思いで僕に近付いたんだとしても、君が僕より大きかったことに変わりなんてないんだ。僕の小さな小さな世界を、広げてくれたのは確かに君なんだよ、菜月。
 夜の道をひとり歩きながら、空を仰いだ。冷たい風が目に染みて、すぐに俯いたけれど。君の周りに、いくつもいくつも広がる白い光。またたきとまばたきは同じ字を書くんだ。僕と君を表す二文字が、ガラスのお椀になるみたいに。恨んじゃってごめんね、この季節にはもう見れないけれど謝った。あいつらは、何にも悪くなかったんだ。
 ねえ菜月、今の僕は君より大きくなれたかな。僕の中での君は、いつまでも大きいままだよ。だって大きいままいなくなってしまったんだから、小さくなりようがないんだ。僕より大きい君が君だから、僕がいくら大きくなっても、君の存在は、いつでも僕より大きいんだ。おかしいだろう? 君はもう、大きくなれるわけがないのにね。君の大きさは、あの時で止まってしまったというのに。要するにだ。僕にとって君は、そう言う存在だった。ずっと、ずうっと。
 思い出すまでもない、なによりも知ってる道を進んで、辿り着いたいつもの場所。目をつぶってだって歩ける、それはきっと君だって同じだろう? 暗くてよく見えないけれど、何があるかだってわかる。君と初めてであったときに僕が居た、あの岩陰に僕はもう収まらない。あんなところにすっぽり入れたんだ、あの頃の僕は。黒い岩に手をついて、潮風を胸一杯吸い込んだ。君と何度も一緒に吸った空気、当たり前だった匂い。どこもかしこも真っ暗だけど、ざぶんざぶんと音を立てる海は確かに見える。いつも通り眼鏡はかけているけれど、なくたって見えるとわかってる。全部全部、この海から始まってこの海で終わったんだ。一番、なによりも近くにいた。
 夜になると、僕はここに来ることにしている。君がどこから波に飲み込まれたかなんてしらないよ、随分流されただろうから。でも、僕はきっとここだと思ってる。ううん、ここ以外あり得ない。僕らが出会った場所、僕らの約束の場所。ねえ菜月、僕は君を飲み込んだ波を見ているよ。僕にだったら、もしかしたら君を見付けられるんじゃないかと思って。だってほら、僕は海なんだ。
 夜の海は暗い、暗くて冷たくて、君をやすやすと飲み込んでしまった大波に、僕は勝てる気なんてしないけれど。僕は、海にならなくちゃいけない。だって、そうじゃないと僕の頭の上で菜月が光れない。太陽から月になった、ううん、最初から月だったのかもわからないけれど。君は、太陽なんかじゃないよと言うのだろうね。太陽になりたかった、君はやっぱりお月様だった。僕が、知らなかっただけ。だから君は太陽であろうとしたのだろうか。菜月、ようやく僕は見られるようになったよ。ビー玉越しの海は、やっぱりとても広かった。詰め込まれてもなお、広かった。
 見上げた空、満点の星空にひとつ、ほらまた今日もそこに君を見る。手が届きそうだとはよく言うけれど、やっぱり月は遠いよ。だってほら、眼鏡越しだっていうのにこんなにぼやける。ねえ、菜月。知ってるかい? 君が強い人だと言ったから、僕は涙を零さないのに必死なんだよ。海も月も君も、ビー玉よりも僕よりも、いつまでだって大きいというのにね。
 泣いていた僕を助けてくれた君を見上げながら、僕は今でもこの海で泣いているんだ。

2011/05/03(Tue)17:23:07 公開 / 風丘六花
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。風丘です。
本作は、以前別所に投稿した物です。
よくないことなのは存じていますが、そちらでは推敲の後の再投稿が出来なかったため、推敲したものへの感想も頂きたいと思い、向こうのログから消えてからこちらに投稿させていただきました。
失礼をお許し下さい。

クラゲの話、です。かなり語弊がありますが。
優しくて柔らかい、それでいて心臓を締め付ける。そんな話を目指しました。
実際の菜月がどんな子であったか、きちんと伝わっているかどうかが不安です。いかがでしたでしょうか。
苦手な情景描写も、克服するよう努力したつもりです。
感想、ご指摘等、お聞かせ願えれば幸いです。

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