『彼女は人類最強<完>』 ... ジャンル:リアル・現代 お笑い
作者:rathi                

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 一回目「彼女のクセ」

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 見上げた空はただただ青かった。四月でも、六月でもなく、『五月晴れ』という言葉しか存在していないのが何となく理解出来た。
 カチャリ、と玄関が開く音がしたので、俺は視線を戻す。二階建ての白いプレハブから出てきたのは、遥だった。俺を見つけると少し照れくさそうに笑い、
「徹(とおる)、今日もおはよー」
 そう言って、小さな階段をポンポンポン、と跳ねるように降りてきた。彼女ご自慢の腰まで伸びたポニーテールが上下に揺れ、艶やかな髪は星屑のように瞬き、俺の眼を喜ばせてくれた。スカートもまた俺の視線を導くかのようにひらひらと舞い、健康的な太ももがチラチラと見え、俺の眼を悦ばせてくれた。うむ、今日も良い脚だ。
「おはよう、遥(はるか)」
「うん、じゃあ行こっか」
 俺たちはいつものように合流し、いつものように歩調を合わせながらのんびりと登校し始めた。
 遥の家は少し小高いところにあり、閑静な住宅街……といえば響きは良いが、うっそうとした竹林やお化け屋敷顔負けのボロ屋が多く、しかも徒歩5分圏内にはコンビニもスーパーもない、いわゆる過疎地なのである。遥はここをそれなりに気に入っているが、俺は別に好きでも嫌いでもなかった。
「昨日のランキング見た?」
 遥は前を見たまま、たわいもない話を始めた。
「CDの? DVDの? それともマンガの?」
「ううん、コンビニのお菓子ランキング。何かね、四位にあった『ドリアンポッキー』ってのが凄い気になってて」
「そりゃ……まぁ、気になるわな」
 俺も激しく気になってきた。別の意味で。
「”果物の王様スティックで、キミも王様気分だ!” ってキャッチコピーでね。気になったから、その『ドッキー』を食べてみたいなぁーって思って。だからさ……ねぇ、ほら?」
 察して欲しいとでも言うように、遥は俺の顔を下から覗き込みながら言った。ちょっと困った感じの顔に、上目遣い。お願いをしてくるときはいつもコレだ。全く、そんな事で俺が易々と陥落するとでも思っているのだろうか? 
「しょうがないなー、分かったよ。そこのコンビニで買ったら、半分ずつね?」
 その通りだよ、チクショウめ。
「えっへへー、さすが徹。話が早いね。やっぱり新しいモノは、二人で分け合わないと」
 遥の言うとおりだ。二人で買えば、例えハズレだったとしてもそのダメージは半分で済む。それに……そう、自然と共通の話題が出来上がるではないか。思わず顔が綻んでしまった。分かってやっているのなら、なんていじらしい事なのだろうか。
「……やっぱり一人で食べてみようかな。美味しかったら、何か悔しいし。でもなぁ、不味かった時の保険は欲しいし……」
 遥はそう、ぶつくさと呟いた。……単に意地汚いだけだったようだ。
「そんなに食ったら、縦じゃなくて横に伸びるぞ」
「残念。ここ一年はずーっと同じ体重だもんねー。嫌味なんて通じないもーん」
「って事は、身長も伸びてないのか?」
「うん。まぁ、女の子はこのぐらいあれば充分だと思うけど?」
 遥は俺の頭一つ分ぐらい低い。このぐらいが理想だとテレビで言っていたから、確かに充分である。
「って事は、体型も?」
「へっへー、付き合ってからずーっとキープしてますよ」
「あぁ……だからなのか」
 俺は自然といつまで経っても成長しないその部分に、視線を落としていた。
「……殴るわよ?」
「……ゴメンナサイ」
 俺は平謝りした。遥に殴られたら、シャレにならない。
 遥と知り合ったのは、高校に入学して間もない頃だ。ちょっとした事件を切っ掛けに知り合い、それから度々合っている内に仲良くなり、遥の勘違いからOKを貰って今に至っている。付き合いだしてから一年と少し。クラスの中では最高記録ホルダーとなっていた。
 いろんな出来事はあったが、特に大きなケンカはせず、熱愛という程でもなく、以心伝心と言える程でもなく、可もなく不可もなく、今の状況を小説にすればとてもつまらないダラダラとした恋愛模様がそれとなく繰り広げられていると思う。だが俺はそれを気に入っているし、遥もそれを気に入っている。
「それでさ、放課後なんだけど――」
 今日の行き先について遥と相談していると、ふと、何かが近付いてくるような気配を感じ、俺は振り向いた。
 それは恐るべき速さだった。見ることが出来たのは、巻き上げられた花びらだけ。まるで、つむじ風のようだった。その速度で、正体不明の『何か』は横に居る彼女にぶつかっていった。不意を突かれた彼女は体勢を崩し、小さな悲鳴を上げながら前のめりに倒れていく。
「遥!! いったい何が――!?」
 それを見た途端、息が詰まった。『何か』の正体は、学校指定の制服を着た、俺と同じぐらいの女子だった。都市迷彩柄のバンダナを付け、その手には――。
「騒ぐな。騒げば……アンタも殺す」
 空気を切り裂き、眼前に突きつけられたのは……アーミーナイフだった。一目見ただけで殺傷性が高いと分かるそれが、俺の命を刈り取ろうとその身をギラギラと輝かせながら笑っている。俺は馬鹿みたいに両手を挙げ、凍り付いているしかなかった。
「オーケー、オーケー。余計なことを囀らなきゃ、クックロビンのように殺されはしないさ」
 バンダナ女は肩をすくめながら、映画のような台詞回しをした。軽口を叩いてはいるものの、向けられたそれは一ミリも動いていない。少しでも動いたら殺す。喋っても殺す。ナイフ越しに、そう言っているようだった。
「恨み言は便所の壁に書いてくれよ。これも任務でね。アンタの彼女を殺せ、ってさ。どれどれ、研究部に嫌みを言われないように、零れた血もきちんと回収しないと……ん、血?」
 バンダナ女は、ふと気づいたように手元を見る。それと同時に、ピシリとガラスが割れるような音が聞こえた。
「な……なぁーーー!?」
 次の瞬間にはもう、アーミーナイフは欠片となってボロボロとコンクリートの上に落ち始め、キンコンキンと調子の外れたチャイムのような音を鳴らした。
「く、くく、砕けたァ!? 鉄板だって貫くのに!?」
 悲鳴に近い絶叫を上げ、バンダナ女は柄だけを握ったまま激しく動揺していた。
 遥から血は一滴も垂れていない。つまりそれは……ナイフは、刺さっていなかったという事だ。
「アイタタ……。何なのよ、もう。あーあ、制服が汚れちゃった」
 ふてくされた様子で遥は立ち上がり、スカートに付いたホコリをパンパン、と払う。
「い、生きてる……? え? えぇ?」
 バンダナ女はあんぐりと口を開けたまま、柄だけとなったナイフと遥を何度も何度も見比べる。刺した筈なのに。そう言っているようだった。
「全くもう、朝のセットが台無しじゃない。あーあ、髪がボサボサ」
 一方遥はといえば、ポケットからコンパクトミラーを取り出し、少し悲しそうな顔で乱れた髪を直していた。ああ……良かった。いつも通りだ。ああ、全くもう。いつもいつも心臓に悪いよ。
「遥! 怪我は無いか!?」
「え? あ、うん。大丈夫。……心配してくれてアリガト」
 心配されて嬉しいのか、遥はこそばゆそうに身をよじらせた。ああ、全くもう。可愛いなぁ、チクショウめ。
「う、嘘だ……? お前は、竜の血でも浴びたのか? それとも、ゾンビなのか?」
 バンダナ女はワケが分からないといった表情で、訴えるように問いかけてきた。とても懐かしい反応だった。新鮮さすら感じられる。なにせ、俺を含めた近隣住民、並びにクラスメイト全員がそれに慣れてしまった為、たいがいの事では驚かなくなってしまったからだ。
「その前に、こっちの質問に答えてもらおうか。アンタ、誰なんだ? ウチの制服着てるけど」
 俺は真剣な顔で、一歩前に出ながら質問した。遥よりも小柄なんだ。凶器さえ無ければ、怖くはない。……まぁ、胸はそっちの方が大きいけどさ。それを凶器と呼ぶかは、人によるな。
「どうなんだ? さぁ、答えろ!」
 俺は強気で問い詰めていく。彼氏として、このぐらいは格好付けておきたい。
「徹! 手、手!」
 遥に指摘され、俺は慌てて手を下げた。どうやらバンザイしながら詰め寄っていたようだ。さっき脅されたのが、まだ残っていたのか。いろいろと台無しである。
「こ……この妖怪め! ア、アタシの使命は、お前の抹殺なんだからな!」
「もう、誰が妖怪よ! 私は、他の人よりちょーっと頑丈なだけよ!」
「ちょっとで済むか! 鉄板すら貫くアーミーナイフを折ったんだぞ!? 背中に超硬合金でも仕込んでんのか!?」
 危うく大きな胸のバンダナ女子の言葉に頷くところだった。そうだ、遥は他の人よりちょっとだけ頑丈なのだ。……まぁ、そのちょっとが『超っと』なのか、それとも『兆っと』なのかは不明だが。
「なによ、もう!」
 妖怪呼ばわりされたことが余程気に食わなかったのか、遥はその場で足を踏みならした。
 瞬間、轟音と共に道路がまるで爆心地のように大きく凹んだ。その衝撃で、俺とバンダナ女は転んでしまう。ガレキが飛び散り、破片は雨のようにバラバラと降り注ぐ。ただの通学路が、一瞬にして戦争の最前線のような有様に変わってしまった。
「バ、バカヤロウ! アタシは戦争しに来たんじゃないんだぞ!? ち、ちくしょう……! こ、こうなったら!」
 バンダナ女は恐怖におののきながらも、歯を食いしばって立ち上がる。そして、胸元に手を入れた。
「コイツをごちそうしてやる!」
 取り出されたモノに、俺は思わず息を呑んだ。
「ま、まさか……お、おっぱい手榴弾……だと……?」
「もう! 変な事口走らないでよ! 嫌味? 嫌味なの!?」
 遥に烈火の如く怒られてしまった。いくら自分が標準サイズ……よりほんの少し下だからって、そんな事で目くじらを立てないで欲しいモノだ。
「月面旅行のチケットをくれてやるよ!」
 大きな胸のバンダナ女は、おっぱい手榴弾のピンを抜き、遥に向けて転がすように投げ、すぐさま電柱の影に隠れた。カラン、カランと金属音を立てながら、クレーター中心に居る遥の方に真っ直ぐ転がっていく。
 足下まで来たそれを、遥はひょいと拾い上げ、持ったままスタスタと歩き始めた。それから、電柱の影で背を向けてしゃがみ込んでいたバンダナ女の肩を、トントンと叩く。
「へ……?」
「ゴミのポイ捨てなんかしたらダメでしょ。ほら、責任持って片付けなさい」
 そう言って、遥はバンダナ女の手にポンっと置いた。
「わっ、わっ、バカバカ! 要らねぇよ! 返却はノーサンキューだ!!」
 手に置かれたそれを、遥に突き返す。すると、ムッとした様子でバンダナ女の手を掴み取り、今度は無理矢理握らせた。
「ポイ捨てはダメ! 街が汚くなるでしょう!?」
 まさに鑑のような台詞だった。さすが俺の彼女。しかし、それをこの大きなクレーターを作った張本人が言うのか。
「痛ででで! 放せって! 腕が! 腕が引き千切れる!!」
 ギブアップとでも言うように、バンダナ女は遥の手をペチペチと何度も叩く。しかし、離さない。眉毛の角度が上がっているから、遥は珍しく怒っているようだった。
「頼む、離せ! アタシは燻製ソーセージになんかなりたくない!!」
 バンダナ女がどれだけ暴れても、遥の身体は一ミリも動かなかった。
「はな――」
 ボン、という爆発音と共に、炎と煙、そして土埃が巻き上がった。健闘虚しく、おっぱい手榴弾はバンダナ女の目の前で爆発してしまったようだ。
「ゴミが、爆発しちゃった……。花火だったのかなぁ?」
 遥はぼうっとした様子で言った。手元で爆発が起きれば、そりゃ誰だって驚くだろう。それにしても、傷一つどころか制服に焦げ目一つすら付いていないなんて、さすがとしか言いようがない。では逆に、遥以外の人が手元で爆発が起きたらどうなるか?
「ゲホッ……」
 バンダナには大きな焦げ目が付き、顔はススだらけ。衣服へのダメージは深刻で、特に上着が大きく焼けていた。
「え……? お、おい! あれって……!?」
 我が眼を疑った。こぼれ落ちる、二つの物体。そこには、夢など詰まっていなかった。カラン、カランと二つの手榴弾パッドが地面に落ちる。俺には何となく、その音が虚しく聞こえた。小学生のようなスポーツブラが、所詮現実なんてこんなもんだと語っているようだった。
「チックショーーーー!」
 膝から崩れ、俺は悔しさのあまり地面を叩いていた。
「チクショウ、世界は嘘ばっかりだ。欺瞞と虚偽ばっかりだ。でも、真実を暴き明かしたって、誰も得をしないなんて……。嘘を付くんなら……せめて最後まで通してくれよ……」
「それ以上続けるんなら、殴るよ?」
「……ゴメンナサイ」
 俺はまた平謝りした。あまりの衝撃に、我を忘れていたようだ。
 遥が倒したというべきか、自爆と言うべきか、非常に判断に困る結果となってしまったようだ。なにせ遥は、何が起こったのか分からないというように、ただただオロオロしているだけなのだから。倒したとか、攻撃したとか、そういう自覚など本人には一切無いのだ。
 そして、貧乳のバンダナ女は、直立したまま後ろにバタンと倒れてしまった。何故遥を殺しに来たのか、その理由すら話さぬまま。


 ◆------------◆


 遥には、攫われ癖がある。早い話が、しょっちゅう誘拐されてしまうのだ。それを癖というのかは疑問だが、彼女自身がそう言っているのだからしょうがない。
 初めて攫われたのは、俺たちが出会う前の事。――いや、直前と言った方が正しいんだろうな。
 それは四月下旬の、まだ長袖が手放せない時の事だった。
 黄昏時の下校途中、俺はいつものルートをダラダラと歩いていた。木の上からガサリという大きい音が聞こえ、俺は猫かな、と思って見上げたんだ。そこに居たのは……全く警戒心のない顔ですやすやと眠る、遥だった。両手は果実のようにだらしなく垂れ下がり、まるで本物の猫のように絶妙なバランスを保っていた。
 第一印象は、変人が居る、だった。関わらない方が良い。そう思って顔を背け、俺は見て見ぬ振りをして通り過ぎようと思っていたんだ。そうしたら、子猫のような儚げな声で、「ここ何処ー? 降りられないよー」と、いつの間にか起きた遥が言ったんだ。
 俺は自分自身に言い聞かせたよ。関わらない方が良い、って。俺は募金箱に五百円以上入れたことがない、心の狭い男なんだ。道ばたにゴミが落ちていても、拾って捨てるような善良市民じゃないんだ。
 でも、助けを呼んでいる人を見捨てていくほど、悪人って程でもないんだ、結局の所。
 近くの民家から事情を話してハシゴを借り、俺は遥を助けた。自力で降りてきたワケではなく、何故か裸足だったから、俺がおんぶして助けたんだ。背中が濡れていることに気がついたのは、家に帰って着替えてからだった。
 さすがにこの場でハイさよなら、というワケにもいかないので、俺は送っていくことにしたんだ。家を聞いたら、思いの外近所だったことに驚いた。
 その後でハシゴを返しに行ったら、可哀想だとサンダルを貰えたので、帰りはおんぶしていかなくても大丈夫になったんだ。
 帰り道、何があったんだと聞いても、「覚えてない」しか返ってこなかった。実は誘拐され終わった後だった、という事を知ったのはだいぶ先の話だ。
 翌日、助けてもらったお礼がしたいという事で、放課後一緒にファミレスに行き、フルコースを奢って貰った。その時にいろんな話をしたんだけど、実は結構気の合うヤツだという事が分かり、友達感覚でアドレスを交換したんだ。最初は助けてもらったという引け目があったかも知れないけど、今となってはどうでも良い話だ。
 そしてその一週間後、買い物に付き合ってくれないか、というメールを送った……と思ったら、『買い物に』の部分を打ち忘れていたんだ。慌てて送り直そうとしたら、すぐにOKの返事が来て、そのままなし崩し的に付き合うことになったんだ。アレが間違いメールだって事は、まだ遥に話していない。
 それから更に一週間後、スポーツテストが行われたんだ。ここで俺は、遥の身に起きたことを初めて知る。そして、人類が生身では絶対に越える事が出来ない記録が生み出され続ける、今世紀最大のスポーツテストが行われたのも、その日だった。
 初めにそれが生まれたのは、垂直跳びだった。彼女が「せ〜の」の掛け声でジャンプすると、まるで安っぽいワイヤーアクションのように上昇していき、指先が高さ10メートルはある体育館の天井に触れていたんだ。
 続いて外で行われた50メートル走では、隣の走者とタイムを計っていた先生を風圧で吹き飛ばし、計測不能となる珍事が発生した。
 ハンドボール投げでは、音の壁(マッハ)を突破して衝撃波が生まれ、サッカーゴールそのものと、たまたまそこに停めてあった校長ご自慢のスポーツカーが宙を舞った。
 しかし、反射神経と柔軟テストだけは、何故か平均以下だった。
 この後も、当然のようにいろんな騒ぎが巻き起こったんだ。だけど、俺はよく覚えていない。なぜなら、その二週間後――五月の半ばに、また遥が攫われてしまったからだ。
 その日も俺たちは夕食の時間まで遊び、逢魔が時の中で別れた。しばらくして、遥の家族からまだ帰ってきていないという事を伝えられ、初めて居なくなったことに気がついたんだ。その時の俺はまだ、遥の攫われ癖や、誘拐の事なんてこれっぽちも知らなかった。だから、事故に遭ったかも知れないって思って、自転車で市内を駆けずり回ったんだ。アドレス帳に載っている友達全員にも遥の所在を聞いた。だけれど、当然というべきか、遥は見つからなかった。それでも俺は探し続けた。遥の両親に、止められるまで。
 遥が帰ってきたのは、その翌日だった。見つかった場所は……なんと、遥の部屋だったんだ。もしかしたら家出かも知れないと思って、朝方、遥の母親が部屋に入ったら、まるで何事もなかったかのように遥が眠っていたらしい。起こして事情を聞いてみても、決まり文句のように「覚えていない」の一言。
 突発性の放浪癖、重度の夢遊病、統合失調症、それらを疑ったのは遥の家族も同じだった。だが結局、何も問題はなし。原因が分かったのは、更にその二週間後、三回目の誘拐の時だった。
 休日の早朝、遊びに行く為に俺たちはコンビニで待ち合わせをしていたんだ。約束の時間になって、遥が向こうからこちらに近づいてくる時、事件は起こった。窓ガラスすら真っ黒な車が遥の側で急停止し、ドアを開けたかと思えば、黒服の男が黒い袋を遥にすっぽりと被せ、荷物でも放り込むように車に載せてしまったんだ。ようやく事の重大さに気づいた俺は、助けようと車に向かって走り出したけど、急発進してあっという間に走り去っていってしまった。せめてナンバーを覚えようとしたけど、プレートは外されていた。こうして俺も遥も、抵抗する暇すら与えられずに連れ去られてしまったんだ。
 俺は、どうする事も出来なかった。行き先も、探す手段も何もなかった。自分の無力さを噛み締めながら、遥の家族に伝えるしか……俺に出来ることはなかった。
 だが、遥は、その日の夕方にひょっこりと帰ってきたんだ。「ただいまー」と、のんきな声で。何故誘拐されたのか、どうやって帰ってきたのか。それは未だに分からない。だけど、その日以降、遥は風邪も、インフルエンザも、食中毒でさえも、何一つとして病気に掛かっていないという事だけは確かだった。
 それから遥は、順調にも誘拐歴を重ねていってしまった。
 四回目の時は学校でトイレに行っている間に攫われ、帰ってきたときには一瞬で擦り傷が治るようになっていた。
 五回目の時はデートの途中で攫われ、帰ってきた時には校長が泣く泣く買った4WDをクシャミでひっくり返してしまった。
 六回、七回、八回と、まるでタチの悪いブラックジョークのようにそれは繰り返された。実は超が付くほどの金持ちなんじゃないかと疑ったこともあったが、そんな人がマックで割引券を頻繁に使うはずもないだろう。
 その後も順調に回数を重ねていき、彼女は約一年の間に二十回も攫われることとなった。そして、それが最後となった……んだと思う。なぜなら、ここ二ヶ月近く攫われていないからだ。
 栄えあるフィナーレを飾ったのは、人攫いの代名詞、待ってましたの掛け声と共に現れる真打ちのように、UFOが颯爽と現れ、謎の怪光線で彼女をアブダクションしていった。今思い出してみても、不謹慎ながら終止符に相応しい光景だったと思う。十数時間後に帰ってきた彼女は、多分また強くなっていたのだろう。小さい物差ししかない俺には、それを計る事なんて出来なかった。
 彼女は攫われる毎に強くなっていった。あの時木の上で泣いていたのが嘘のように、大きく変わってしまった。本気になれば地球だって割ることが出来るんじゃないかと思う程だった。
 だけど、俺は彼女の彼氏で、彼女の彼氏が俺という関係だけは、何回攫われても変わることはなかった。
 俺の名前は、亀井 徹(かめい とおる)。
 彼女の名前は、桃姫 遥(ももひめ はるか)。

 気が付けば彼女は、人類最強になっていた。


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 二回目「彼女の学校生活」

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 俺は保健室のベッドに、貧乳のバンダナ女――と言っても、焦げたバンダナは外したので、今はただの貧乳女と呼ぶべきなのだが、さすがの俺でもそれは気が引けた――を降ろし、なるべくスポーツブラを見ないようにして布団を被せる。それから俺と遥は、背もたれのない安っぽい丸椅子に座った。
 最初はそのまま逃げようと思っていた。しかし、遥が助けてあげようと言い出してしまったので、俺がおんぶしてここまで連れてきたのだ。多分、命を狙われたことを自覚してないんだろうな。ちなみに救急車を呼ばなかった理由は、荒れ果てた現場を救急隊員さんが見て、「また君タチか!」と怒られたくないからだ。
「う〜ん。うぅ……う、う〜ん」
 いかにも具合が悪そうな呻き声に、遥はため息をもらした。
「だ、大丈夫なのかなぁ?」
「まぁ……いつもの事だし」
 俺も思わずため息をついた。ただし、遥とは種類が違うが。
 遥の目線は、元・バンダナ女ではなく、その隣にあるベッドに向けられていた。そこで眠る、もう一人の病人。片方のベッドを占拠し続ける万年貧血の女保険医、小林先生だ。
「あぁ……徹君に遥ちゃん……先生のお見舞いに来てくれたのかしら……?」
 小林先生はうっすらと眼を開け、声と共に命の灯火すら消えてしまいそうな、か細い声でぽつりぽつりと喋った。
 スタイルは柳のように細く、肌は死に化粧を施したように純白でシミ一つ無い。間違いなく美人の部類に入る筈なのだが、俺にはどうしても美談にならない『ラスト・リーフ』を見守る患者にしか見えなかった。
「違います。怪我人が出たので、運んで来たんですよ」
「あぁ……そうなの。……グスン」
 お見舞いじゃないと知って、小林先生はうっすらと涙を浮かべてしまった。相変わらずいろいろと面倒臭い先生である。
「後は先生が見るから……ね。授業に行って……らっしゃい」
 そう言って小林先生は、起き上がろうともせず、首だけを元・バンダナ女に向けた。それは保険医として見るというよりも、同じ患者として見守っているように見えた。或いは、死期を待つ死神か。
 それでも俺と遥は、小林先生に任せて保健室を出た。あれでも一応保険医なのだ。奇跡的にもあそこで死者は出していないわけだし、多分大丈夫だろう。仮に出たとしても、間違いなく第一号は小林先生に違いない。
「う〜ん。うぅ……う、う〜ん」
 再び聞こえてくる、いかにも具合の悪そうな呻き声。もう何というか、この保健室には安心とか平穏とかいう言葉は存在していないのだろうな。

 ※

 俺たちが教室に戻ると、見計らったように二時限目終了のチャイムが鳴り響いた。授業の予定表を見ると、次は体育。落ち着いて考えをまとめる暇すらないのか。
 着替えは教室で交代制なのだが、男子たちに与えられる制限時間は十五分中たったの三分。まるで緊急出動を要請された消防隊員のように、机という名のホットベッドから抜け出し、体操着に着替えて教室を脱出しなければならない。タイムオーバーすると、女子たちが乱入してきて、強制的にストリップショーをさせられるハメになる。それが良いんじゃないか、と間違った方向に目覚めてしまった輩も存在しているが。
 グラウンドに集まると、体育の先生が先週に引き続き野球をする、と言った。
 他の所ではどうなのか知らないが、ウチの学校では男女混合で体育の授業が行われる。対決となると、クジ引きによってチーム分けがされるのだ。パワーバランスを平均的にする目的もあるが、何よりも全てがオールSランクプレイヤー・遥の壮絶な奪い合いが始まってしまうのが一番の理由だ。
「はい、亀井。次はお前だぞ」
 男のクラスメイトに促され、俺は大きなクジ引きボックスに手を突っ込む。一番最初に手に触れたモノを掴み上げると、それは青色のボールだった。俺はその色と同じユニフォームを段ボール箱から引っ張り出し、丸太のベンチに座っているサムライ・ブルーの仲間入りを果たした。
 次にクジを引いた女子は、オレンジ。相手チームのオランダ・オレンジに振り分けられた。
 青、オレンジ、青、青、オレンジと順調にチーム分けがされていく。
 そしていよいよ、大本命である遥の番がやって来た。俺の方をちらりと見た後、箱の中に手を入れる。すると、まるでそれが合図のように、みんなが自分の居るチームに来てくれるようにと祈り始めた。もちろん俺も祈った。戦力としてではなく、ただ一緒にプレイしたいから。
 ドラフト会議並の緊張感の中で引かれたのは――オレンジ色だった。片や王冠を手にしたように喜び、片や落ち武者のように俯いた。寂しそうな顔で俺を見ながら、遥は真向かいに座る。
 この瞬間に勝敗は決した……のは、先々週までの話だ。今では遥専用の特別ルールがある為、必ず勝てるとは限らなくなっていた。だがそれでも、遥が相手側に与えるプレッシャーは凄まじく大きい。
「プレイボール!」
 体育の先生が右手を掲げて言った。こうして、普通の高校ではまず味わうことが出来ない興奮と、主にスリルだらけの変則野球が始まった。



 試合は進み、三回裏ノーアウト満塁。次の打者に、自然とみんなの期待が集まっていく。ポニーテールを揺らしながら打席に立つのは、このゲームのキーを握る遥。
 特別ルールにより、大量得点のチャンスと、大量失点のピンチが同時に訪れた。
 攻撃側は打ってランナーが進めば得点を貰えるという通常ルールだが、逆に遥からストライクを取れば守備側でも得点を貰えるというシステムになっている。しかも、1ストライクにつき、塁に出ているランナー分得点が貰えるという、攻撃側にとってはなかなか厳しいルールとなっている。
 更に追加ルールとして、遥は1ストライクで1アウトとしてカウントされる。つまり、遥は一度しかバットを振るうことが出来ないのだ。ちょっと可哀相かも知れないが、このルールのお陰で普通の野球より大いに盛り上がるワケだし、遥も「私が試合をひっくり返してやる!」なんてノリノリだし、まぁ楽しければオールオッケーという結論に達した。
 ちなみに遥の成績は、だいたい三割強。空気を読んでいるのか、野球は苦手なのか、意外と空振る事が多い。……まぁ、確実に後者なんだろうけど。
「目指すはホームラン!」
 遥は太陽に向かってバットを掲げ、そう予告した。確かに当たれば絶対にホームランになるし、ボールも指した方向に真っ直ぐ飛んでいく事だろう。そのまま衛星軌道に乗るかどうかは定かではないが。
 ピッチャーが投球のフォームに入った。体育の時間とは思えない程静かになり、みんな固唾を呑んで見守っている。
「ちょっといいかい?」
 ふいに声を掛けられ、俺は反射的に振り返る。意外な人物の登場に、ギョッとなった。そこに居たのは、あの貧乳のバンダナ女。初めて会った時と同じように、都市迷彩のバンダナを付け、手榴弾パッドを胸に詰めていた。まだバレていないと思っているのだろうか? 何とも言えない悲しさが込み上げてくる。
「スト……ストライィィーック!! サムライ・ブルーに三点追加ァァー!!」
 審判の熱い雄叫びが、グラウンド中に響き渡った。
「げっ、ヤバイ!」
 俺は慌てて振り返るが、時既に遅し。チーム内が国を上げての大騒ぎをしているが、俺だけが完全に祭りに乗り遅れ、無人島に取り残されたような寂しさが襲いかかってきた。遥は遥で不機嫌な顔で睨んでくるし、踏んだり蹴ったりである。
「えっと……よく分からんけど、悪ぃ」
 バンダナ女は俺の肩をポンっと叩きながら、申し訳なさそうに謝ってくれた。……思ったより良い人なのかも知れない。
「それで、何か用? 助けたお礼なら、別に要らないけど」
 そう普通の言葉を普通に喋っただけなのに、バンダナ女は変人でも見るような顔になった。
「ウォッカが切れた中毒者のように、けたたましく怒鳴ってくると思ったけど……。まぁいい、アイツについて少し話があるんだ。こっちへ来てもらおうか?」
 こちらが返答する前に、バンダナ女はさっさと歩き出してしまった。言い方から察するに、遥には聞かれたくない話なのだろう。俺も聞きたいことは山ほどあるし、付いて行った方が良さそうだ。
 打席から「どこに行くの? なんで付いて行くの?」という、遥の質問打球ラッシュから逃げるように俺も歩き出した。



 バンダナ女はグラウンドから少し離れた所で立ち止まり、身体の向きをスッと変えて校舎の壁に背を付けた。そして横目で俺を見るなり、酷く残念そうな顔でため息をはく。
「本当に付いて来やがった……。お前はカルガモか。ったく、警戒心の欠片もねぇな」
「いや、だって、付いて行かなかったら何も話してくれないでしょ?」
「それがウソで、ターゲットをおびき寄せる罠だったらどうする、って話だよ」
 思わず絶句した。しまった。これは、罠だったのか!?
「……思いもしなかったって顔だな。平和大国の日本じゃあ、これが普通なのか?」
 やれやれつまらないな、とでも言うようにバンダナ女は呆れた顔になる。今の言い方だと、バンダナ女は日本人じゃないのか? 顔も雰囲気も、全然外人っぽくないのにな。
「まぁいいか。さて、秘密の会合を始めるとしよう。ここならトップシークレットな会話も聞かれないだろうしな」
「そうだね」
 俺は適当な相づちを打った。自転車置き場を挟んで更にその向こう側に、親指サイズとなった遥が居る。かなり距離もあるし、みんな大きな声援を上げているし、拡張器を最大ボリュームにして叫ばなければ、まず聞こえないだろう。だがそれはあくまで普通の人の話であって、本当は遥が気合いを入れればこの距離でも簡単に聞き取ることが出来るのだが、敢えて黙っておくことにした。
「お前、名前は?」
「俺? 亀井 徹だよ。そっちは?」
 俺の中では既にあだ名を付けてあるのだが、やっぱりこれも黙っておくことにした。刺殺か爆殺の二択を迫られそうだったので。
「カミラ。カミラ・神谷(かみや)。ファーストネームの漢字は神の谷だ。いい名前だろ、気に入ったか?」
「へぇ、カミラ・カミ……カミリャ……カミラ・カミラ、じゃなくて……」
「……もう、カミラだけで良いよ」
 何か気を遣わせてしまったみたいだ。気に入っている名前を噛みまくるなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。……というか、なんでこんな言い辛い名前にしたんだよ、ご両親。
「名字が漢字って事は、ハーフなの?」
「ハーフ? ……あぁ、ミックスかって事ね。両親とも日本人だよ。ドイツに移住して、そこでアタシを産んだから、名前だけがドイツ産なのさ」
 なるほど、そういう事か。どうりで顔も体型も日本人なワケだ。
「……今なんか、殺しのライセンスが貰えるぐらい失礼な考えをしなかったか?」
 カミラは眼を細め、『何か』を取り出そうと腰に手をやる。俺は全力で顔を振ってそれを否定した。危ない、危ない。この話には触れない方が良さそうだ。リアルな地雷を踏ませられるかも知れない。
「さて、本題に入ろうか。モチロン、話を聞く覚悟は出来ているんだろうな?」
 俺は躊躇いなく頷いた。本当はそんなもの全然出来ていないが、ここでごねたりして遅くなったりすると、サムライ・ブルー達が遥を筆頭に野武士となって襲いかかってくるので、早めに話を済ませたいのが本音だ。
「その前に、一つ質問がある。お前はアイツの恋人か?」
 思わず仰け反ってしまった。なんてどストレートな質問だ。彼女ではなく、恋人と言われると妙に恥ずかしくなるのは何故だろうか?
「うん……まぁ、そういえばそうなるけど……うん、彼氏だよ」
 頬を掻き、顔を赤らめ、明後日の方向を見たままそう言った。まるで中学生の告白みたいな動きに、我ながらキモイなぁと思った。
「そうか、なら心して聞け。アタシは、ドイツ軍第十七師団『ガイスターバーンホーフ(幽霊駅)』に所属している」
 カミラは、重々しい口調で自分の身分を明かした。軍人だって? アーミーナイフや手榴弾を持っていたのはその所為か。
「今回の任務、そして日本に来た理由。それが、桃姫 遥の暗殺。並びに、遺体の回収だ」
「遺体の、回収……?」
 暗殺は分かる。納得はしていないが。けど、殺して持って帰るって、どういう事なんだ?
「意味が分からないという顔だな? 良いだろう、特別に教えてやるよ。回収を行うのは、桃姫 遥の生体データを調べるためだ。来るべき、『千年王国』プロジェクトに備えて」
 ……何だって? 今何か、酷く安っぽい単語が聞こえてきたような……?
「悪いけど、もう一回言ってくれないか? いやー、マンガの読みすぎかな? ちょっと変な聞き違いしちゃったかも」
「この崇高なプロジェクトを聞き逃すとは……。まぁいい、もう一度だけ言ってやろう。プロジェクトの名前は、『千年王国』。桃姫 遥のデータを元に、最強の兵士を大量生産し、千年続く王国を――」
「わぁあ! ストップ! ストップ!!」
 俺は慌てて止めた。もうこれ以上聞いてられなかった。痛い。痛すぎる。
「何故止める? 説明をして欲しいんだろう?」
 カミラは言いたくてしょうがない様子だ。だけど、俺はもう聞きたくない。正直、耳を塞ぎたいぐらいだ。もうすぐ宇宙誕生の瞬間を見られるかも知れないという時代に、何やってんだよドイツ軍。
「……帰る」
 俺は全力で逃げ出した。しかし、回り込まれてしまった。
「何故逃げる? ははぁ、さてはプロジェクトの内容を聞かされて、恐ろしくなってしまったのか?」
「そりゃ確かに違う意味で恐ろしいけどよ。勘弁してくれよ、マジで。そんな胡散臭くて、失敗フラグしかないバッドエンドルートだけのプロジェクトなんて、もう聞いてられないよ」
 何故だが急に泣けてきて、俺は涙声になっていた。
「ってか、そんなにベラベラ喋っちゃっていいのかよ? 秘密計画なんだろ?」
「いや……誰かに話したくてしょうがなかったんだ。こっちに来たばかりで、友達も居ないし」
 カミラは俯き、手をいじいじさせながら言った。どうやら意外と寂しがり屋らしい。……ほんのちょっぴりでも可愛いと思ってしまった自分が、恨めしくなった。
「ま、まぁそう言うワケで、アタシは任務を果たすまで桃姫 遥を狙い続ける。残念だが、お前にそれを止める力は無い。計画を知ってても止められないのは、さぞかし悔しいだろうなぁ?」
 いきなりドヤ顔で俺を見下してくるカミラ。誰かに話したかったのは、多分これをやりたかっただけなんだろうな。腹立たしいを通り越して、いっそ哀れにすら感じる。
「な、なんだその眼は! アタシには無理だと思ってるな!? ええい、見てろ!!」
 怒り心頭のカミラは、ごついウエストポーチからパチンコを取り出す。続いておっぱい手榴弾を抜き取ったかと思えば、流れるような動作でそれをセットし、あっという間に発射準備が完了してしまった。道具もアイディアも子供染みているが、簡易グレネードランチャーとしては非常に合理的な考えだった。専用に作られたモノとは違い、壊れても近くのおもちゃ屋で補給が可能なのだから。
「この『リンゴ』を、頭の上に置いてやるよ!」
 打席に立っている遥に向かって、カミラは伸びきったそのゴムを放した。同時に、ピッチャーがボールを投げた。
 土煙を上げてバットを振るう遥。カキーン、と痛快な音がグラウンドに響き渡る。しかし、打たれた筈のボールは、キャッチャーミットの中に納められていた。
「スト……ストライィィーッ!! サムライ・ブルーに一点追加ァァーッ!!」
 審判は高々と手を挙げ、再び熱い雄叫びを上げた。
 バットを持ったまま、遥は首を傾げる。ピッチャーも首を傾げていた。『いったい、何を打った音なんだ?』、と。
 視界の隅で、何かが超高速で通り過ぎていったような気がした。スカイフィッシュ? そう思って振り向こうとした矢先に、チュイン、という金属を削ったような甲高い音が聞こえた。見れば、スカートの股下に拳大の大きな穴がポッカリと空いていた。その小さなトンネルからは、鍛え上げられたしなやかな太ももと、青色の『何か』が見えている。
 どうやら遥が強烈なピッチャー返しをしたらしい。
 ボールは校舎へと直進していく。またガラスか壁を割るのかと思っていたら、偶然にも開いていた窓を通過し、これまた偶然に開いていた教室の扉を通過し、そのまま奇跡的に中庭へと通過していった。しかし、ヘソクリを叩いて買ったという校長のワゴン車がたまたまそこに置いてあり、これまた運悪くサイドガラスは閉まったままだったので、木っ端微塵となってしまった。そして更に、おっぱい手榴弾は起爆し、校長のワゴン車は爆炎と共に天高く、まるで鳳凰のように空を舞った。残念ながら、復活することはないが。
 あまりの出来事に、カミラは口を開けたままへたり込んでしまった。
「……諦めたら?」
「うるさい!!」
 俺に食って掛かるが、その顔は今にも泣きそうだった。



 『今日は仏滅で日が悪いから、また明日にする』、そう言ってカミラは逃げるように学校から去っていった。ドイツ育ちのクセに俺より吉日に詳しいって、どういう事なの?
 どうせまた来たところで大した事にはならないだろうと思っていたら、カミラは去り際に気になる事を俺に告げていった。
 『今アイツには、裏社会で莫大な賞金が掛けられている。それも、デッドが好ましいってな。しかも、とある軍事国家から強力なバックアップを受けられるようになるペッツのおまけ付きだ』――と。
 聞けば、命令を下したのは『ガイスターバーンホーフ』の師団長で、一石三鳥になると考えてカミラを派遣したそうだ。血は日本人だから、ターゲットに近づきやすいだろうという理由で。
 そしてその情報が回り始めたのは、つい一ヶ月ほど前だとも教えてくれた。
 ここで俺は初めて違和感を覚えた。遥が人類最強――といっても、俺がそう思っているだけなのだが――になったのは、もう何ヶ月も前の話だ。今更になって脅威に感じ、排除命令が下されたという事なのだろうか?
 一ヶ月前……。何だろうか? その数字に、何かが引っかかる。俺に何か重要な事件が発生したような気がする。そりゃ事件は日常茶飯事に起きていたけどさ、そういうんじゃなくて、遥じゃなくて俺が切っ掛けで何かが起こった筈なんだ。けれど結局、思い出すことは出来なかった。
 カミラは最後に、『他のヤツらに絶対渡すんじゃないぞ』と、強い口調で言い残していった。残念、カミラにも渡さないよ、と俺は心の中で呟く。……いや、ちょっと待てよ? 他のヤツらに渡すなよ? つまりそれって、カミラみたいなぶっ飛んだヤツらが沢山来るって事なのか……?
 そう考えるだけで気持ち悪くなってきた。何だか吐き気もしてくる。ついでに『ドッキー』の味も思い出してしまい、より一層吐きそうになった。アレは……本当に不味かった。何をどう混ぜたらあんな味になるのか、後ろの成分表を見てもサッパリだ。
 何にせよ、遥に言える内容ではない。カミラが俺だけを呼んだのもよく分かる。命を狙われてますよ、と教えられて喜ぶ女子高生など居ないだろう。……まぁ、いくら話し相手が欲しかったとはいえ、ターゲットの彼氏にそれを話すなんてのもどうかしているが。
 でもそのお陰で、カミラが遥の命を狙った理由は分かった。だがしかし、スポンサー側の意図が見えてこない。莫大な賞金を掛け、友好関係まで約束してくれるほどのメリットがあるのか、どうしても分からなかった。
 考え飽きた俺は、グラウンドに戻ることにした。だが、代わるようにして俺の所に来たのは、バットを持ったままの遥。抜き身の刀で迫ってくる剣豪並に怖かった。
 結局、ごまかすのに三十分。賠償金として映画館+ジュース+チュロス、更にランチのおごりが科せられることとなった。

 ※

 そして訪れた日曜日、いよいよ刑が執行されることになった。執行を待つ拘置所は、『ほ乳瓶から墓石まで』がキャッチコピーのショッピングモールの中にある、映画館前だ。時間が来れば、俺の財布が十三階段を昇ることとなるだろう。
 約束の時間は十時。俺はその十分前に到着したが、それよりも早く遥が来ていた。白のブラウスに、黒のロングスカート。いつもとは違い、大人びた雰囲気を纏っている。遥にはまだ早いかなぁと思ったけど、少し背伸びしている感じがまた愛らしい。
 しかし、その両手には、大量の映画チラシがあった。俺が近くに寄っていっても、遥は全く気が付かず、興奮気味にチラシを凝視している。
 遥曰く、『映画は予告編が一番面白い』との事らしい。その延長で、残り数十分でチラシだけを見て今日見る映画を決める、というタイムリミット・ドラマのようなギリギリ感が一番好きなのだという。その後の映画本編はマックのオマケみたいなモンだと言うのだから、何とも理解し難い好みである。
 それはともかく、せっかく来たのにお約束のやり取りも発生せず、依然として気づかれないままというのは何とも面白くない話だ。だから俺は、
「はーるかぁ!」
 両脇の秘孔を、思いっ切り付いてやった。
「ふぁっほーい!」
 驚きのあまり、妙な声をあげながら跳び上がる遥。脇を締めていたお陰か、チラシは一枚しかこぼれなかった。
「な、な、何てことすんのよー、もう! あービックリしたー! もうービックリしたー! もう!」
「もーもー言うなよ。ホルスタイン(乳牛)じゃあるまいに」
 俺がそう言った瞬間、遥の表情が凍り付いた。そして、ゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちない動きで俯いていく。つられて俺も見ると、自分の胸を悲しそうに見ていた。
「どうせ私はホルスタインじゃないわよ、もう!」
 怒られてしまった。非常に理不尽である。
「それで、今日は何を見るんだ?」
 落としたチラシを拾いながら、俺は遥に質問した。映画を見た後は意見交換しながらのランチにする予定なので、あんまり遅くなるとマナーモードに出来ない腹の着信音が鳴り響くハメになる。
「じゃあ、それ」
 遥は俺が拾ったチラシを指差した。
「へ? これ?」
 いきなり決められてしまった。もっと悩むと思っていたのに。それにしても、何を見る気なんだろう? 俺はチラシをひるがえして確認する。
 タイトルは、『死か生か』。それだけを聞けば、さぞかし重くて哲学的な話なのだろうと思う。しかし、その内容はアクションモノであり、一言で纏めるならグラマーな姉ちゃん達がただただお色気を振りまいているだけの男限定娯楽映画なのだ。決して彼女と一緒に見る映画ではない。遥に察して欲しいから心の中でもう一度言うけど、決して彼女と一緒に見る映画ではないのだ。
「本当にこれを見るの? 多分、遥には合わないと――」
 遥は俺の手からサッとチラシを奪い取り、言葉を遮った。
「ダーメ。もうこれに決めたの。偶然にも一枚だけが落ちて、その偶然を二人で見るなんて、運命的で良いでしょ?」
 他のチラシを背中に隠しながら、遥はニシシと少し意地悪そうに笑った。……ああ、全く。可愛いなぁ、チクショウめ。場所が場所なら、抱きしめていたかも。
「分かった。見よう。思う存分見よう。二回でも、三回でも」
 この時点で、今日はもう最高のデートだと思った。例え、意見交換で微妙な雰囲気になったとしても。
 俺たちチケット売り場に行き――チラシはその途中で全部戻した――販売機から『死か生か』の券を買った。封切りから少し経っていたお陰で、ほぼ真ん中というSクラスの席をゲット出来た。
 俺は遥に財布ごと渡し、
「遥、二つだけと言わず、欲しいもんは全部買ってこい!」
 そう、最高の笑顔で言ってやった。今日で財布の中身を全部使ったとしても、もはや何の悔いも無い。
「うわぁお! さすが徹! うん、じゃあ期間限定『特大ドリアンポップコーン』も一緒に買うね!」
 遥も最高の笑顔で応え、そのままカウンターへと走っていった。
 おい、どうしてこんな所にも『ドリアン味』があるんだよ……? どんだけ好きなんだよ、商品開発者。



 映画館からの物体Xが作られている間、俺は二枚のチケットをピラピラとさせながら待っていた。
 その時だった。二枚のチケットが突然グイッと引っ張られ、俺の手から離れてしまった。最初は何かに引っかかったのかと思った。しかし、周りに尖ったモノはない。
 変なの。首を傾げながら下に落ちたそれを拾おうとしたら、シュルッと動いて俺の手から逃げ出した。俺は一歩前へ進み、もう一度屈んでそれを拾おうとする。案の定、シュルッと動いて再び俺の手から逃げ出してしまった。
 ふー、やれやれ。このまま俺が追い続けると思ったか? お金が勿体ないからって追うと思ったか? 残念だが、今日の俺はひと味違う。もう財布の中身は全部使う覚悟は出来ているんだ。このまま追い続けて変な事件に遭遇するぐらいだったら、諦めて買い直すさ。
 俺は逃げるチケットに背中を向けた。
「――と見せかけて!!」
 諦めたと見せかけて捕まえる頭脳プレー。チケットの分際で人間様を舐めるなよ!
「って、アレ? どこに行った?」
 さっきまで足下にあったチケットは、跡形も無く消えていた。顔を上げて辺りを見渡すと、既にチケットは出口の向こう側に居た。
「ウッソ!? ヤベッ! 逃げられる!!」
 俺は慌てて走り出した。おのれ、チケットのクセに。この作戦に引っかからないとは、なかなかやるじゃないか。



「きゃっ!」「うわ!?」「何だ何だ?」
 映画エキストラのような安っぽい驚きを掻き分け、ヒラヒラと舞うチケットを追い続ける。たまに手を伸ばして掴み取ろうとするが、まるでこちらの動きを分かっているかのようにヒラリとかわしてくるのだ。紙にここまで舐められたのは初めてだ。
 追い続けること数分。チケットは飛び込み選手のような動きを見せ、ショッピングモールの二階から一階へと消えて行ってしまった。俺も後を追いかけ、二階の柵に掴まって消えたチケットを視線で追う。
「あった!」
 二階と一階の真ん中ぐらいで、チケットはヒラヒラと舞っていた。来られるもんなら来てみな、と言っているようで一層腹が立ってくる。
「くそっ、どうする?」
 手は届かないし、下り階段までは結構な距離がある。あちらから回ってきたら、今度こそ見失ってしまうかも知れない。
 よく見れば、チケットのすぐ側にはハンモックのような垂れ幕があった。長さ、強度的にも申し分ないように感じる。アクション映画の神様が、耳元で「ゴー!」と叫んだような気がした。
「よし! 行くぞ!」
 俺は……下り階段を目指して走り出した。無理です、神様。俺がやったら、NGシーンしか出来上がりません。



 何とか見失うことなく追い続け、ショッピングモール内の小さなコンサートフロアでようやくチケットは停止した。ただし、少女の指の間で。
 背は小さく、髪はツインテール。ズボンは短いスカートにニーソックス。真っ黒なゴスロリ……というより、雰囲気的に言えばビジュアル系バンドが一番近いと思った。よく見ればそれは男物のジャケットであり、少し大きいのか袖を余していて、用途不明なベルトが無数にあるのが特徴的だった。どこかでインディーズライブでもやっているのだろうか?
「ふぅむ、演目が『死か生か』とはな。面白い。皮肉が効いていて実に楽しいのう」
 ビジュアル系少女は、チケットをマジマジと見ながら言った。確かに、その体型では皮肉以外の何ものでもないな。……まぁ、カミラよりは胸がありそうだが。
「返して欲しいか? んん? 返して欲しいのか?」
 Sっ気たっぷりの表情を浮かべ、ケッケッケッ、とおおよそ風貌には似合わない笑い方をした。完全にこちらをバカにしているようだ。全く、親はどういう育て方をしたんだか。
 ともあれ、ここで怒鳴り散らしては大人げないというもの。
「ほらほら〜、良い子だからお兄さんに返しましょうね? パパとママはどこかな? 悪い事をしたのは黙っていてあげるから、ね?」
 身体を屈めて、ビジュアル系少女と目線を合わせる。特に根拠は無いが、子供をあやすのには自信があった。
「本当!? わ〜い!」
 天使のような笑顔を浮かべ、とててて、と愛らしい足音を立てて走ってくる。ふふん、どうだ。ちょろいもんだ。
「どっせい!!」
「アウチッ!!!!」
 突如放たれる、黄金の右腕。強烈な痛みがほとばしる、黄金の――。
 膝に力が入らない。上体を起こすことが出来ない。身体が痺れたように動かない。声なき絶叫を上げながら、力なく崩れていく。
「これだけ悪い事をしても、まだパパとママに黙ってもらえるのかい? のう、おにぃーちゃん? いや、もう『お姉さん』と呼ぶべきかのう?」
 俺を嬉しそうに見下しながら、ケッケッケッ、とビジュアル系少女は高らかに笑う。
 マジか? ダメか? もうダメなのか? 再起不能なのか? 起ち上がることは出来ないのか? 就職先は新宿二丁目なのか?
 見上げるとそこには、ある種の純粋な笑顔があった。これこそが本物だと身をもって感じた。多分これが、正真正銘混じりっけなし――真性のドSなのか。
「と、徹!? 大丈夫なの!?」
 特大のドリアンポップコーンを抱えた遥が二階の柵から身を乗り出し、一階に居る俺たちを見下ろしていた。
「待ってて! 今行くから!」
 遥は、何の躊躇いもなくそこから飛び降りる。周りの観衆から息を呑む声が聞こえ、俺の肝が瞬間冷凍された。しかし、ハンモックのような垂れ幕に落下し、何とか事なきを得た……かに見えたが、なんと布の弾力性で大きくバウンドしてしまう。だがそれでも、ドリアンポップコーンを一粒もこぼすことはなかった。
「うわわっ!? 待って待って!!」
 空中でばたつく遥。またしても周りの観衆から息を呑む声が聞こえ、俺の肝はフリーズドライと化していた。しかし、跳んでいった先に張り巡らされていた天井ロープを掴み、事なきを得た……かに見えたが、なんと今度はロープが切れてしまう。
「えぇ〜!? そんなのアリー!?」
 ロープは振り子の原理で――早い話がターザンのような状態で、よりにもよって俺の方に向かって飛んできている。言うまでもなく、直撃コースである。
「ど、退いて退いて〜!」
 それが出来るのなら、最初からそうしている。息子の死で、全身が悲しんで動けないんだ。
 もうどうにもならないと思っていた。しかし、遥は意外な行動を取った。なんと、自らロープから飛び降りたのだ。
「わっわっわっわ〜!」
 体勢を崩しながらも、遥は何とか着地する。しかも、ドリアンポップコーンを一粒もこぼすことはなかった。さすがは遥。だがしかし、空から地上に変わっただけで、遥がこちらに向かってきているという状況は変わらなかった。エネルギー保存の法則で――早い話が『遥は急に止まれない』という事である。
「徹、ごめーん!」
 遥の言葉で、俺は覚悟した。……まぁ、彼女に踏み台にされるというのも、案外悪くはないのかも知れない。
 次の瞬間、俺の視界が暗くなった。顔を踏んづけられたのかと思った。しかし、違っていた。見上げればそこには、白とピンクのスプライト。
 ジャンプして飛び越えていったんだと気づいたのは、遥が着地した後。先に謝ったのは、跨いでいく事を許して欲しい、って事なのだろう。……ということは、今日の遥はロングスカートなのだから、もしかして俺が目撃したモノは……。
 連想ゲームのように、それは繋がっていく。
「格好良いー!」「映画見るより面白かったぜ!」「アクション映画顔負けだな!」
 周りの観衆からひゅーひゅーやんややんや、とはやし立てられ、小銭やお札のおひねりが飛び交う。近くに居た大道芸人が、妬ましそうにハンカチを咥えていた。
「あ、どうもどうも。どうもどうも」
 歓声に応え、遥はあちこちの方向に何度もお辞儀をした。照れながらも、悪い気はしないといった顔である。
「……じゃなくて、徹、大丈夫!?」
「あぁ、平気だぜ。この通りピンピンしてるぜ」
 遥が心配そうな顔で振り返る頃には、俺はもう立ち上がっていた。
「えぇ!? さっきまで死にそうな顔をしてたのに……」
 そりゃ今では息子の復活を祝って全身が喜んでいるからな。遥のお陰で。主にスプライトのお陰で。
「それで……何かあったの? こちらはどちら様?」
 呆れ返っているビジュアル系少女を見て、俺は我に返った。
「そ、そうだ! 気をつけろ、遥!」
「気をつけろ……って。どこ叩かれたのか分かんないけど、子供なんだし、そんな目くじら立てる程でもじゃないでしょ? もう、大げさなんだから」
 遥は出来の悪い子供でも見るように、しょうがないなぁという顔をした。 
 いやいやいや、その叩かれた場所が大問題なんだが。『タマ殺(と)ったらぁー!』っていう気合いの入れようだったし。
「で、どこを叩かれたの? まだ痛むの? アザが出来てるかも知れないから、ちょっと見せてみて?」
 思わず咳き込んでしまった。知らないってのは怖いな。手を繋ぐのでさえ恥ずかしがる遥が、臆面も無くそんな事を口にするのだから。というか、こんな公衆の面前で出せだなんて、どんな羞恥プレイだよ。悪いがその境地まで達していないぞ。
「おねーちゃん。あくしゅ、あくしゅ」
 ビジュアル系少女はワザと舌っ足らずに喋り、急に手を差し出してきた。何だ、その母性本能をくすぐる喋り方は。卑怯だぞ!
「うん? 握手握手ね」
「遥! 待っ――」
 天使の笑顔に誘われるがまま、遥は慈愛に満ちた眼差しでその手を握ってしまった。
「ワシに本名は無い。仲間内からはルシュと呼ばれておるが、フルネームは『レッド・ルシファー(赤い堕天使)』と登録されておる」
 うって変わって、ルシュは低い声で自己紹介をした。
「その名の意味を、存分に教えてやろうぞ」
 ルシュがそう口にした途端、熱波が俺に襲いかかってきた。あまりの暑さに、俺はその場から身を引いてしまう。なんだ……? ルシュの身体が揺らいで見える。まるで……そう、蜃気楼のように。
「来たれ、赤き蛇よ」
 ルシュの袖の下から姿を現したのは、独特な模様をした赤い蛇――いや、違う。それは、蛇の形をした炎の塊だった。握手を交わした手から、遥の腕へとするすると昇っていく。
「きゃっ、何これ!?」
 それに気づいた遥は、空いている手で払い除けようとする。しかし、炎の蛇に手が触れた瞬間、それは爆散して遥の全身を覆った。
「遥!」
 助けようとしたが、炎の勢いが激しく、近寄ることすら出来なかった。
「チクショウ、お前はいったい何者だ!?」
 いつの間にか距離を取っていたルシュは、炎に包まれている遥を見て、ケッケッケッ、と満足そうに笑った。
「ワシはESP機関、『ゴスペル・チャペル(福音聖堂)の子供たち』の一人さ」
「ESP? ……うわっ、エスパーか!」
 カミラ以上に胡散臭い所から刺客が来たようだ。もうその言葉を呟くだけで恥ずかしくなる死語なのに、まだ現存していたなんて。殺し屋ってのは、こんなヤツらばかりなのか?
「それよりも、いいのか? ワシのパイロキネシス(燃焼能力)で作られた赤き蛇に、お主の連れが喰われておるぞ?」
 ルシュの言う通り、うねる炎は捕食する蛇そのものだった。まるで腹の中に納められてしまったかのように、赤い壁で遥の姿すら確認できない。
「他愛もないのう。これが人類最強と噂された女なのか? 弱すぎて笑いが止まらぬわ」
 肩を大きく揺らし、ケッケッケッ、と笑い続けるルシュ。
 遥にはナイフも効かなかった。手榴弾でも焦げ目一つ付かなかった。しかし、炎に包まれるというのはそれらと意味合いが違ってくる。火は酸素を消費して燃え続ける。いくら耐火服を着ていても、酸素が無くなれば――それは死を意味している。
 そう思った矢先に、遥を包んでいた炎は、不自然なまでにフッと消えてくれたんだ。
「ケッケッ……ゲッー!」
 驚きのあまり、カエルのような鳴き声を上げるルシュ。俺も予想外の事に、ポカンと口を開けているしかなかった。
「もう、何なのよ! いきなり目の前が真っ赤になるなんて、誰のイタズラ!?」
 遥はその犯人を捜そうと、怒り心頭で辺りを見渡す。服には焦げ目一つ無く、それどころか炎に包まれたという認識すらないようだ。
 ふと、辺りに香ばしい匂いが漂った。火事のような嫌な臭いではなく、夕方に民家から漂ってくる食欲をそそるあの匂いだ。
「あっ、ドッキーが焼きドッキーになってる!」
 特大ドリアンポップコーンに、なんとうっすらと焼き目が付いていた。遥は嬉しそうに手に取り、それを頬張った。熱いのか、口の中でハフハフとさせる。どうやら美味しかったらしく、満足そうな笑みを浮かべていた。先ほどの怒りは何処へやら。
「こ、小癪な……! 来たれ来たれ、つがいの赤き蛇よ!!」
 ルシュは声高らかにそう唱えた。すると今度は、両手の袖の下から二匹の赤い蛇が現れる。一応オスとメスがあるらしく、左の袖下から現れた赤い蛇には青い炎のリボンがちょこんと乗っていた。
 ついにルシュが本気を出した……と恐れる暇も無く、またしても炎は不自然なまでにフッと消え去った。
「くっ……! 来たれ、赤き蛇よ! 来たれ、来たれ!!」
 ルシュが何度唱えても、ガスの切れたライターのように、ポッと火が出てすぐに消え去るだけだった。精神力が切れたんだろうか?
「この気持ち悪い感触は、いったい何なのだ……? 力が発動する直前で消える、この手応えのない感じは……!? ……まさか、お主! キャンセラーなのか!?」
 意味不明な事を悲鳴に近い声で叫び、ルシュは大きく動揺した様子で数歩後退っていく。どこか怯えたその表情は、まるで幽霊でも見てしまったようだった。
 キャンセラーって何だ? そんなに怖いモノなのか? しかし、その単語に反応したのは、俺でも、遥でもなく、
「白い鳩が終末を知らせに来た気分だな……」
 観衆の中に紛れ込んでいた、カミラだった。
「よぉ、カミラ」
 俺はさりげなく近寄り、軽く手を挙げながら挨拶をする。嬉しそうな顔をしたのは一瞬だけで、すぐに苦い顔をして出迎えてくれた。何とも気難しい性格だな。
「またお前か。それにしても、いい加減呆れてくるよ。撃墜王の『エーリヒ・ハルトマン』じゃねぇんだからさ、どんだけ最強なんだよお前の恋人は」
「そりゃ俺の彼女ですから」
 俺は誇らしい気持ちに……なって良いのかな、これは? 彼女の評価として合っているんだろうか? ……まぁいいか、褒められたことには間違いないんだし。
「ところで、キャンセラーって何なんだ?」
 その質問に対し、カミラは苦虫を噛み潰したような顔で応えてくれた。反応から察するに、知っているが言いたくないのだろう。でも多分、カミラだから喋ってくれるに違いない。
「言葉通りだよ。発動する筈の力を、キャンセルするんだ。仕組みが仕組みだから、噂じゃ実験は失敗したと聞いていたんだが……」
「実験が……失敗した?」
「キャンセラーは、対エスパー用として研究された、いわばエスパーを殺す為だけの能力だよ。そこに居るルシュと同じ機関――『ゴスペル・チャペルの子供たち』によって立ち上げられたプロジェクトの一つだ。仕組みは、相手の力と全く同じの力をぶつけ、相殺するというシンプルなモノ。つまり――」
「まさか、遥もエスパーって事なのか?」
「その通りだ。それは同時に、全てのESPを使える最強のエスパーでもある事を意味している。だからこそ実験は失敗し、プロジェクトは一年も経たない内に凍結した筈なんだが……」
 しかし、成功例が目の前に居る。存在していない筈の成功例が。ルシュからすれば、幽霊そのものなんだろうな。
 それにしても、まさかの事実が発覚した。遥もルシュと同じ、エスパーだったなんて。
「恋人のクセに、気がつかなかったのか?」
「いやぁ、だってスプーン曲げも、透視もしたことがないもん」
 まぁ、仮にスプーンを曲げたとして、単なる怪力によるものだと勘違いしただろうけど。
「なるほど。恐らくだが、多くのエスパー予備軍がそうであるように、自分がそういった力を使える事を自覚していないからだろうな。ESPは、『この力を使いたい』と念じることで発動するんだ。だから、キャンセルは防衛本能でやっているんだろうが……寒気でウォッカでも呷りたくなるよ、この魔人め」
 妖怪から一気にクラスアップされてしまった。そっち方が響きが格好良いから、良しとしよう。
「パイロキネシスがダメなら……これではどうかのう!?」
 ルシュは両手を高々と挙げた。
「来たれ、透明な天使よ!」
 そう唱えると、二階ぐらいの高さがある街灯の一本がカタカタと動き出した。根元のコンクリートに大きな亀裂が走り、やがてガラガラと破片を落としながらフワリと宙に浮いていく。
「ポ……ポルターガイスト!?」
「お前はアホか! これはテレキネシス(念動力)だ!」
 素で間違えてしまった。これはかなり恥ずかしい
「徹底的なダメ押しじゃ!」
 ルシュは片手だけを先ほど遥が切ったロープに向ける。すると、持ち上げた街灯にロープがぐるぐると巻き付いていく。更に、仕上げと言わんばかりにプラスチックの容器から何かの液体をそれに降り注がせた。
 漂ってきた臭いに、思わず眉をひそめてしまった。この匂いは……。
「ガソリンか。商売敵ながら、良い考えだ」
 カミラは頷きながら、感心したように言った。街灯に、ロープに、ガソリン。いったい、何をする気なんだ……?
「来たれ、赤き蛇よ」
 ルシュが合図した瞬間、熱を帯びた赤い光が周囲を照らした。パイロキネシスによって着火されたそれは、さながら巨大な炎蛇のようだった。しかし、先程のような綺麗な赤さはなく、憎悪を含んだかのような黒さを帯びていた。
「キャンセル出来るものなら、してみるが良い!」
 放たれる巨大な火矢。スピードも、炎の勢いも弛まることなく遥に向かって飛んでいく。
 もしかしたら、一定の距離に近付いた時点でキャンセラーは発動したのかも知れない。しかし、一度動き始めてしまえば、化学反応的に燃えてしまっているのならば、もはやESPなど関係ない。キャンセラーとしての能力は、無意味と化していた。
 無意味……。そう、無意味なのである。
「わっとっと」
 飛んできたその巨大な炎蛇を、遥は片手に焼きドリアンポップコーンを持ったまま、もう片方の手でいとも簡単に掴み取り、これ以上悪さしないようにと地面に突き立てた。
 降りかけたガソリンは、当然無限ではない。周りに燃える物が無くなれば、パイロキネシスと違って火は自然に消えていく。もはやそれは、巨大な炎蛇ではなく、ただの焦げた街灯に成り果てていた。
「馬鹿な!? そんな……物理攻撃も、効かぬじゃと……!?」
 あまりの出来事に、ルシュは大きくよろめく。自分の最強攻撃が効かなかったんだ。ダメージを受けたのは、むしろルシュの方だろう。
 一年付き合ってきた俺は、それをよく知っている。遥は、物理的にもキャンセルが出来ることを。
 そう、『ダブル・キャンセラー』なのである。
「もう、危ないでしょ! 誰かに当たったらどうするの!?」
 まるでソフトボールでも投げてきたような物言いだった。そもそも、遥に当てるつもりで投げたのだから見当違いな怒りである。……それにしても、いつまで焼きドリアンポップコーンを持っているつもりなのだろうか?
「……当たれよ」
 ぼそりと、ルシュは低い声で呟いた。何の前触れもなくベンチや植木鉢が浮かび、それらは遥目掛けて飛んでいく。質量でダメなら、物量で。しかし、遥は同じようにキャッチしては壊れないようにそっと下に置いて行く。結局、先程の再現にしかならなかった。
「当たれ……当たれ当たれ当たれ当たれ!」
 ルシュは呪詛のように何度も言い繰り返した。今度は近くの屋台から、大量のスプーンやフォークが凶器となって飛んでいく。
「おっとっと」
 数が数なので、遥はキャッチするのを諦めてひらりとかわした。ひたすら直進を続けたそれは、誰にも当たることなく、失速して地面に落ちていった。
「あったれーー!!」
 最後は、屋台そのものが飛んできた。重さで言えば、街灯よりも倍以上もある。しかし、スピードは先程の半分以下だった。
 まるで紙飛行機のようにゆっくりと飛んでくるそれは、遥が受け止めるまでもなく、届く直前で地面に落下してしまった。多分もう精神力が限界なんだろう。言葉使いはジジイでも、まだ子供だもんな。
 さぞかし悔しがっているだろうと思ってルシュに眼を向けると、いつの間にかその場から消えていた。
「消えた? いや、逃げたのか?」
「上を見ろ、トオル」
 カミラの指示通りに見上げると、そこには真っ黒なジャケットをはためかせながら空を飛んでいるルシュが居た。
「まさか、テレポーテーション? 超能力を三つも持っているのか?」
「いや、屋台を掴んだまま自分ごと飛ばし、その勢いで空に跳んだみたいだ。……もはやヤケクソみたいだがな」
 カミラはため息混じりそう言った。確かにその通りだった。接近したところで、お得意のESPが封じられたままでは勝算など万に一つもない。それどころか、落ちてくる途中で捕獲されて終わりだろうな。
「……あれ?」
 遥はキョトンとした顔で、棒立ちのままだ。上空からルシュがどんどん高度を下げてきているというのに。
 まさか、気づいていない? あの遥相手に、ルシュは完全な死角に入ることに成功していたのか?
「遥ー! 上を見ろ! 今すぐに!!」
 俺の叫び声に気づいた遥は、こちらを見た。見てしまった。その余計なワンアクションの間に、ルシュの奇襲は成功し、遥の肩に舞い降りてしまう。いったい、何をする気なんだ?
「何で……何で当たんないんだよ!? 何なんだよ、お前は!? 鍵付きバリヤーなんてズルい! そんなの反則だ!  嫌い……嫌い嫌い嫌いだー!」
 肩車の形のまま、ルシュは遥の頭をポカポカと叩き続ける。口調はうって変わり、外見通りのワガママな子供そのものになっていた。
「うぇぇーん! ぶっ殺してやるー!」
 物騒なことを言いながら、大声で泣き始めてしまった。ヒックヒックと嗚咽を漏らしながらも、ポカポカと叩くことだけは止めない。それは奥の手でも、反撃でもなかった。勝ちが欲しい勝ちが欲しいと、駄々をこねているだけだった。
「なーんだ、肩車をして欲しかったのね。ほらほら、高い高ーい」
 ポカポカと叩かれているにも関わらず、遥はルシュの膝を片方だけ押さえ、楽しそうにゆっくりと歩き始めた。その姿は、まるで母親と子供だ。……まぁ、内情はどうであれ、美しい光景であることには間違いない。
「ほらほら、ルシュちゃん。一緒に遊びたかっただけなんだよねー。焼きドッポ食べる? 美味しいよ〜」
 ルシュはそれに、否定も肯定もしなかった。ただ、ポカポカと叩くのだけは止めていた。
 遥にとってあの猛攻撃は、単にじゃれてきた程度の認識らしい。その発言は世界一頼もしくもあり、時折その天然っぷりが無性に不安になってくる。じゃれ合いと称して、ライオンのように襲いかかってきそうだ。
「アイツの前じゃ、泣く子も形無しか。スーパーマンだって弱点があるってのによ」
 カミラは苦虫を噛み潰したような顔になった。多分また一つ、弱点候補が消えていくのが嫌なんだろうな。ナイフも、炎も、エスパーも効かない遥に通じる『何か』。その『何か』を見つけられない限り、誰も遥を倒せない。
 唯一の弱点は、絶対に隠し通さないと。
 ルシュは鼻水をすすり、袖で涙を拭いた。遥の肩をトンッと蹴り上げ、鳥のようにふわりと下に降りた。
「……帰る」
 それだけを告げて、ルシュはこちらに背を向けたままトボトボと歩き出してしまった。
「バイバーイ、ルシュちゃん。いつでも遊んであげるからね〜」
 敗者の背中に向けて、遥はあどけない顔で手を振る。その言葉で、更に傷を深めているとも気づかずに。
「いつでも遊んであげる……か」
 余程シャクに障ったのか、ルシュはピタリと立ち止まった。しかし、ケッケッケッ、とまたあの笑い声が聞こえてくる。
「あい分かった。いつでも遊んでやろうぞ。だが、ゆめゆめ忘れるでないぞ? 例えコンビニであろうと、公園であろう、そして学校であろうとも、ワシはいつでもお主に襲いかかるからな」
 カミラに続いてまたしても不吉な言葉を残し、ルシュは一度も振り返らずに去っていった。何なんだ? 殺し屋は去り際にそう言わなきゃダメってルールでもあるのか?
「勘弁してくれよ……」
 思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。戦ったのは遥だけど、あまりに濃厚な展開の所為で俺も酷く疲れてしまった。それが毎日のように続くなんて言われたら、俺は登校拒否しかねないぞ。
 『類は友を呼ぶ』の類――つまり核である当の本人はといえば、聞こえたのか聞こえていないのか、平和そうな顔で焼きドリアンポップコーンに舌鼓を打っていた。全く、美味そうだな、チクショウめ。
「学校でも……か。商売敵ながら、良い考えだ」
 ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべるカミラ。そして、俺たちに別れを告げることなく、観衆の中にフェードアウトしていった。
 嫌な予感がした。すっごく嫌な予感がした。行きたくない。明日から俺、学校に行きたくない。やだよー、マジで。登校拒否したいよー。
「あれ? そういえばチケットは?」
 遥に言われて、ようやくその存在を思い出した。そもそもこの事件は、『死か生か』のチケットが盗まれた事が切っ掛けだったっけ。しかし、辺りを見渡してもそれらしいモノはない。もしかして、ルシュが持って帰ってしまったんだろうか? 見たとしても、劣等感が募るだけなのに。
 ふと、西部劇でよく転がっているあの丸いヤツ――コットンツリーのように、焼けた紙がくるくると回りながら視界の中に入ってきた。……いや、そんなまさかな。先程の騒動で、チラシが燃えてしまっただけだろう。きっとそうだ。そうに違いない。だから、俺は確認しないぞ。
「徹、それってもしかして……?」
 遥がそれを指差してしまった。ああ……確認したくないのに。もう見なきゃダメになっちゃったよ。
 近寄って拾い上げてみると、そこにはうっすらと『死か生か』の文字が。これが誰のチケットなのか、もはや確認するまでもなかった。

 結局、俺の財布は絞首刑になり、天使の輪っかと羽を付けて全部飛んで行ってしまった。

 ※

 それから六日後、嫌な予感はものの見事に的中してしまった。
「アタシはカミラ・神谷。……名前を噛んだヤツには、軍仕込みの拷問をするからな?」
「ワシの名はルシュ。キル・ゾーンに踏み込まぬよう、せいぜい足下に気をつけて生活するがよい」
 一人はいきなり脅しを掛け、もう一人は腕を組んで年上たちを見下していた。
 トラブルメーカー兼、怪しげな団体の刺客兼、転入生の二人が、よりにもよってこのクラスに来てしまった。人工甘味料のような甘い青春が終わりを告げ、今日から苦い毒薬を飲み続ける日常が始まるのは目に見えていた。
 ……転校手続きって、どうやるんだっけ……?


◇-----------------------◇
 
 三回目「彼女と彼女」

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「……それで、どうしてこうなったんだ?」
 カミラとルシュが遥の命を狙って、ここに転入してきたのは分かる。明らかに年下のルシュが何故ここに居るのかも、この際どうでもいい。最優先事項で聞きたい疑問は、どうして一緒にお弁当を食べようとしているか、という事だ。
 お昼休みになった途端、二人が何となく近寄ってきて、俺と遥がお弁当を出したら二人も何故か持ち寄ってきて、今に至っている。
「はてさて、それが時代の流れというヤツじゃ」
「知らんのか? ドイツ軍人が一人で飯を食うのは軍法モノなんだぞ?」
 一人は意味不明な答えを出し、もう一人はこれが規律だと言い張った。ルシュはともかく、カミラは軍人ってカテゴリーで何でも済ませようとするな。
 いやね、別に二人のことが嫌いなんじゃないんだよ。ただ単に、邪魔なんだよ。俺は彼女である遥と、二人きりでランチタイムを楽しみたいんだよ。そこのスウィートタイムだけは毒さないで欲しいんだよ、マジで。
 遥も俺と二人っきりでご飯を食べたいよな? 俺はアイコンタクトで同意を求める。遥はそれに、モチロンだよとゆっくり頷く。
「徹もオッケーって言ってるし、机寄せてみんなで食べよっか」
 ダメだった。いくら心が通じ合っていても、口で言わなければ伝わらないこともあるんだなと実感した。……あれ? それって心が通じ合ってなくね?


 四つの机を合わせ、小さな食卓を作る。左手にカミラ、右手にルシュ。そして、正面には遥。空気を読めないのかワザとなのか、ルシュが正面に陣取ろうとしたが、断固として阻止した。彼氏として、この席だけは絶対に譲れなかった。
 それぞれが、それぞれのお弁当を食卓に置いて行く。
 俺はシンプルな銀色の弁当箱。遥は黄色とピンクのカラフルなお弁当箱。カミラは……カミラのは何なんだ?
「カミラちゃん、それ何?」
 遥はカミラの前にあるいぶし銀の巨大な缶詰を指差した。飲食店に置いてある業務用の缶詰にしか見えない。
「なんだ、これを知らないのか? 食にうるさい日本人なら知ってて当然だと思ったのだが。まぁいい、ちょっと待っていろ。見て驚くなよ」
 そう言ってカミラは、十字マークが刻印されたやけに高そうな十徳ナイフを取り出し、キコキコとその缶詰を開けていく。学校で缶詰を開けるヤツなんて初めて見た。
 そして中から出てきたのは、
「……丸太の輪切り?」
 確かに驚いた。そうとしか言い様のない、円形の茶色い物体が出てきたのだから。ホームセンターで見かけたことがあるな、これ。
「何言ってんのよ、徹。どう見たって鍋敷きでしょ?」
「あぁ、そっか」
 そっか、ではない。鍋敷きを缶詰なんかにしてどうするっていうんだ? ……いや、マジで鍋敷きを食うつもりなのか? アグレッシブ過ぎるだろ、ドイツ軍人。
「お前らは何を言っているんだ? どう見たってパンだろ、パン。ドイツの軍用パン」
「軍用パン? ……えぇ!? これってミリ飯!?」
 ミリタリー飯(軍人用の携帯食料)、略してミリ飯。昔から不味そうだというイメージが絶えず付いて回っていたが、前にゲーセンの景品で取った軍用カレーピラフ――お湯を注ぐだけのフリーズドライ食品だった――は結構美味しかったので、俺の中では『ミリ飯は美味しい』というイメージに変わっていた。しかし、だがしかし……ある意味本場のミリ飯、軍用パン。携帯食料の基本は、長持ちすること。だからだろう。ふっくらとした様子は一切無く、口に含めば水分がギュンッと吸収されてしまいそうな乾きっぷりである。一言で表すなら、旧来のイメージ通り、非常に不味そうだった。
 俺が食ったのは、多分美味しく作られたそれっぽいミリ飯擬きだったのかも知れない。
 いや、待て。偏見はダメだ。俺の主観だけでこれが不味そうかどうかを決めるのは独裁過ぎる。ここは民主主義に乗っ取って、他の二人にも……って、ああ、満場一致だった。俺と同じ顔をしている。眉をひそめ、口を『へ』の字に曲げ、顔全体で食べることを拒否している。しかし、それを口に出してはいけない。この軍用パンへの評価は、
「お主はゲテモノ好きなのか? そんなマズそうなモノを好んで食べようなどとはな。気が知れぬわ」
 あっさり言っちゃったよ、この人。前に聖堂出身とか言っていたが、本当は悪魔崇拝している秘密結社の間違いなんじゃないのか?
「『セブン』のように銃突きつけて腹パンクするまで食わせてやろうか? 全く、『お願い、欲しいの』とねだってもあげてやらんからな」
 席を立ち、カミラはカバンから密閉度の高そうなガラス瓶を二つ取り出す。その中には、それぞれサラミとチーズが入っていた。勉強じゃなくてサバイバルしに来てるのか、コイツは。
 カミラは瓶を開け、十徳ナイフを取り出し、それらを空中で器用に切り分けていく。軍用パンの上にパラパラと乗せていくと、鍋敷きのようなそれは彩り豊かになり、あっという間に美味しそうなパン料理になっていた。
 そして最後に、何故か俺の目の前に置いた。……食べろって事なのかな? 胸はともかく、女の子らしい気配りに俺は感心した。ご両親の教育が良いんだろうな。
「おっと、コイツはまだ一つ星料理だ。三つ星料理にする為に、強火で焼かないとな」
 ……今なんつった? 焼く? いったいどこで? 
「ヘイ、ルシュ。ウェルダン(焦がす程度)で」
 カミラのオーダーに、ルシュはあの時見せたある意味純粋な笑顔で応えた。その意味を瞬時に理解した俺は、必死で止めに掛かる。
「ちょっ、まっ――」
「来たれー、赤き蛇よー」
 いやに間延びした声で呼び出された炎の蛇は、ためらうことなく俺の机に置かれた軍用パンに喰らいつく。
「ああ! バカ! うわっ、へやっ、うぉぉうーー!?」
 ゴウゴウと火柱が上がり、ジュージューと香ばしい匂いを漂わせる。こんなの、本場ナポリも裸足で逃げ出すわ!
「あっはっは、面白ーい!」
 何が楽しいのか、遥は手を叩いて爆笑している。カミラもルシュもゲラゲラと笑っている。俺の周りにはドSしか居ないのか?
「帰りたまえ、赤き蛇よっ、と。ほれ、こんがり焼けたぞ」
 抑揚のない声でルシュがそう唱えると、火柱はまるでロウソクのようにフッと消え去った。どうやら念じれば簡単に消すことも出来るらしい。
 それにしても……。焼き上がった軍用パンを見て、思わず生唾を飲み込んだ。チーズは溶けて全体的にまんべんなく広がり、サラミは少し焦げている所がますます食欲をそそる。誰がどう見ても、立派なピザに仕上がっていた。
 よし、美味そうだから、俺の机でキャンプファイヤーした事は許してやろう。
「じゃあ、いただき――」
「アタシらの主食をバカにしたお前らなんかに、一ピースもくれてやらないからな」
 俺の机に置いたそれを、カミラはサッと回収してしまう。残ったのは、皆既日蝕を逆にしたような跡。そして、中途半端に温まった俺の弁当だけ。……どういう教育したらこうなるんだよ、ご両親。
「さて……ワシはごちそうさまじゃ」
 カミラのお弁当が出来上がると同時に、ルシュが食べ終えてしまったようだ。あの大騒ぎの中でも冷静に食べ続けていたのか、と妙な感心をしたが、そもそもお弁当箱らしきモノが見当たらなかった。唯一置いてあるのは、袋タイプのバナナヨーグルト・ドリンクだけ。もしかして、それが昼食なのか? カミラのインパクトに隠れて気づかなかったが、こちらもなかなかの片よりっぷりである。
「コラ! 子供なんだからもっと食べる! ダイエットなんかしたらダーメ!」
 あまりの偏食っぷりに、急にママ遥が顔を出した。
「元々小食なだけじゃ。それに、必要な栄養素はだいたいこれで摂取出来ておる。さすがは日本。そこな軍用パンよりも、よほど優秀な携帯食料じゃな」
 カミラは軍用ピザを頬張ったまま、ルシュをギッと睨んだ。まぁ確かに、いろんな意味で軍用パンよりは断然良いだろうな。
「いいから食べなさい。ほら、私のを分けてあげるから」
 そう言って遥は、お弁当箱の蓋に自分のおかずをどんどん置いていく。
「わっ、わっ、よせ、要らぬわ。敵からの施しなど受けぬ。もうそれ以上置くでない」
「ほら、みんな大好きウインナーもあげちゃう! タコさんだよ!」
「ワシ、ウインナーが嫌いなんじゃが……」
「いいから食べる! 好き嫌いはダメ!」
「うう……勘弁して欲しいのう……」
 遥の強引な優しさに戸惑い、オロオロと狼狽えるルシュ。意外な一面が垣間見え、思わずにやけてしまう。
「骨まで焼くぞ、貴様」
 ルシュは顔を真っ赤にしてそう脅してきた。正直全く怖くないな。むしろ子供っぽくて微笑ましいぜ。カミラの言うとおり、遥の前ではみんな形無しか。
 それはともかく、これ以上遥の食べる分が少なくなるのはマズいので、俺からもお裾分けをする事にした。『巨人・大鵬・玉子焼き』にならって、甘めの玉子焼きを進呈しようと思った。
 箸で掴んでお弁当箱の蓋に置こうとしたら、玉子焼きが箸の間からするりと抜け、フワリと空中に浮かび上がってしまった。ルシュの仕業か? そう思った矢先、玉子焼きは風を切りながら俺の口に突撃してきた。
「ぐわぁは!?」
 出かかったそれを、俺は無理矢理飲み込んだ。喉ちんこにダイレクト・ダメージは反則だろ。
 何をするんだよ、と抗議しようとしたら、逆にルシュから鋭い目付きで睨まれてしまった。その眼は、「貴様の食いカスなど要らぬわ」と俺の厚意を全力で否定しているようだった。そうですか。遥は良くて俺はダメですか。男女不平等とはよく言うけど、世の中女子が有利なように出来ている気がする。
「じゃ、アタシが代わりに一つ貰おうか」
 ピザという主食があるにも関わらず、カミラがフォークで俺の弁当を奪いに掛かって来やがった。もうどうにでもしてくれ。食いたいのなら食えばいいさ。
 カミラが鶏の唐揚げを刺そうとした瞬間、急に正面から光の速さで箸が延びてきて、あっという間にそれを奪い去っていってしまった。
「え? え? 何で遥が?」
 遥はゴクン、と喉を鳴らして飲み込んだ後、
「別に。食べたかっただけよ」
 頬を膨らませ、そっぽを向いてしまった。……何なんだ、いったい?



 ちなみに、案の定食い足りなくなった遥は、こっそりと学校を抜け出し、往復二十分は掛かるスーパーに五分ほどで行って戻ってきた。
 内訳は、行きが十秒ちょっと、買い物に五分近く、そして戻りが十秒ちょっとである。買ってきた物は、発売からまだ一週間も経っていないのに、半額まで値段が暴落した『ドッキー』こと『ドリアンポッキー』だった。
 そんな彼女がいじらしくもあり、懲りないなぁと呆れもした。

 ※

「……だから、なんでこうなるんだ?」
 下校時間になり、俺と遥はファミレスに行って甘いものでも食べようか、という話になった。昇降口で靴を履き替えていると、たまたまなのか待ち伏せしていたのか、ルシュがどこからともなく現れて来たんだ。何故か一緒に歩き出し、何故か付いてくることになった。更に校門を出ようとすると、今度はカミラが追いかけてきた。何故か俺たちを捜していたようだ。アタシも行くと急に言い出し、無理矢理付いてくる事になった。
 結局、お昼と同じメンツで、席の配置も同じで買い食いをすることになり、今に至るというワケである。
「知らんのか? ドイツ軍人が一人で甘いモノを食うと脱退モノなんだぞ?」
 一人も何も、無理矢理付いてきたクセに何を言ってるんだか。どうせ転校したてで誘う友達が他に居ないんだろうけどさ。……それにしても、軍人のクセに寂しがり屋とはどういう事なのだろうか?



 オーダーしてから数分後、全ての品がテーブルに並べられた。
 俺はベーシックにコーヒーフロート。苦さの中にある甘みがたまらない。カミラはチョコパフェ。ルシュは抹茶アイス。そして遥は、普通のパフェだった。……本当はドリアンパフェなるものが存在していたが、どうやら衛生上に問題があったらしく、メニューにはお詫びのメッセージと発売中止のシールが貼られてあった為、泣く泣く普通のモノを頼んだのだ。どうやら地域ぐるみでドリアンを流行らせようとしているみたいだ。商品開発部の無駄で地道な営業努力が実を結んだ、という事なのだろうか? テレビでよく見るサクセス・ストーリーは生まれそうにもないが。
「それにしても、呑気なものだのう。狙う者、狙われる者、相反する者たちが茶会(マッド・パーティー)を催しておるとはな」
 ルシュは呆れ返ったようにため息をはいた。その言葉に反応したのは、無関係の俺だけだった。残る二人は何処吹く風か。カミラはチョコパフェを美味そうにがっつき、遥は未だにドリアンパフェを引きずっているのかどこか不満げな顔をしていた。
「そういえばさ、カミラは最強の軍団と、資金と、他国の協力を得るために遥を狙っているらしいんだけど、ルシュはどうなの?」
「ぬっ、ワシか? ワシに聞いたんじゃな?」
 ルシュはスプーンを置き、ケッケッケッ、と嬉しそうに笑い出した。その様子から見るに、話したくてしょうがなかったようだ。……どうしてこうも刺客ってのは秘密を喋りたがるんだか。
「まずは事の顛末を話してやろうかのう。随分と前にな、ウチの機関から一人の被験者が脱走したそうじゃ。そやつは希望して入団した者でもなく、かといって機関生まれの者でもない。工作員が、外の国より攫ってきた者じゃった。……それが誰なのかは、言うまでもないじゃろ?」
「攫った、って……」
 つまりそれは、誘拐されてきたという事。俺の眼は、自然と遥を見ていた。衝撃的な言葉だった。遥を誘拐した関係者が、ついに俺の前に現れた。
「なんで……遥を誘拐したんだ?」
 ずっと思っていた疑問が、頭より先に口に出た。三回続けば、それは偶然ではなく必ず意味ある連続の筈。二十回も攫われたんだ。遥には、何か重要な秘密があるに違いない。そう……例えば、人類最強になる素質が備わっていたとか。実は遺伝子操作によって生み出された悲運のヒロインだったとか。
「理由か? それは……」
「それは?」
 俺はつばを飲み込み、大きく喉を鳴らした。
「たまたま目に付いたから……と言っていたような気がするのう」
 えぇっ、出鼻を挫かれた気分だよ。つまり、『逆宝くじ』の一等が二十連チャンで当たった、という事なのか。……遥が不憫すぎて泣きたくなってきた。
「……いや、確か他にも理由があったような……」
 ヨシッ、折れた鼻が復活した。そうだよな。それだけで済ましていいような問題じゃないもんな。人類最強になった理由がそれでは、アンラッキーなのかラッキーなのか、もうワケが分からなくなる。
「確か……」
 真剣な顔付きで思い出そうとするルシュ。場は急に緊迫感を増し、俺は固唾を呑んでそれを見守る。
 ついに遥出生の秘密が明かされるのか? それとも、実はやっぱり金持ちだったのか? 悪の組織? 正義のヒーロー? 宇宙生物? 何だ? いったい何なんだ?
「確か……そう、ポニーテールがプリティーだったとか何とか……。こんなキレイな脚を見たことがないとかもほざいていたような気が……」
「もういいです、はい……」
 鼻が根本から引っこ抜かれたような気分だった。そんなフェチな所で誘拐されるなんて、ある意味シャレにならない話である。……まぁ、遥のポニーテールと美脚が世界に認められたのは嬉しいけどさ。
「で、だから追って来たって事なの? 連れ戻しにとか、始末する為とか」
 よし、さっきの話は聞かなかったことにしよう。
「四分の一正解じゃ」
 うーん、なんとも微妙な正解率だな。
「実験の段階から既に、こやつは機関のナンバー1……事実上、最強のエスパーになると噂が流れておったからな。まったく、後輩が、それもワシを差し置いて最強を名乗るとは、おこがましいにも程があるわ。いつか捻り潰してやろうと思っていたのじゃが、お披露目になる前に脱走してしまってな。仕掛けるタイミングを失ってしまってのう。だがつい一ヶ月前、こやつを倒せば賞金が出るとの朗報が舞いこんできたのじゃ」
 カミラも同じ事を言っていた。半信半疑だったが、どうやら本当のようだ。
 一ヶ月前……か。そのキーワードに俺の記憶の何かが引っかかってしょうがいないのだが、やっぱりダメだ。どうしても思い出すことが出来ない。
「『ゴスペル・チャペル』は表向き学校となっておる。だからワシは社会見学という名目で日本へと派遣されたのじゃ。顔は知っておったから、見つけるのは簡単だったぞ。……それにしても、どれだけ強いのかと思っていたら、まさかアンチエスパー……キャンセラーだったとはのう。まったく、一杯食わされたものよ」
 ルシュは悔しそうにため息をもらしながら、溶けかかっている抹茶アイスを何度も刺した。
「知らなかったの? 同じ機関内なのに」
「調べようと思ったが、情報が制限されておった。特Aランクのトップシークレットじゃ。担当者と所長だけにしか知らされておらん。……恐らくは、ワシらのような実験体のエスパー達が反逆した時の切り札じゃったんだろうなぁ……」
 ルシュは遠い目になり、グチャグチャになった抹茶アイスを見つめていた。研究所とはいえ、故郷であることには間違いない。そこに裏切られたとなれば、相当なショックを受けた筈だろう。心なしか、落ち込んでいるようにも見える。……ふいに、頭を撫でて慰めてやりたい衝動に駆られた。
「まぁ、これでもう隠し札がない事が発覚したワケじゃし、安心して賞金を着服できそうだのう。ざまぁみろ」
 ケッケッケッ、としたり顔で笑うルシュ。……どうやら最初から裏切る算段だったらしい。さすがというべきか、これぞドSというべきか。全く、うっかり目覚めてしまった父性を返して欲しいよ。
「これで分かったか? ワシの目的は、賞金と、生意気な後輩をとっちめる為だったのじゃ」
 ルシュは参ったかと言わんばかりの得意顔だ。何というか……機関の為だとか使命感を帯びた顔をされるよりも、自分の為だと言ってのける方が子供らしくて俺はホッとした。
「何の話をしてたの?」
 パフェを食べ終わった遥が、今更になって会話に参加してきた。
「あぁ、実はルシュがエスパーだって話」
「えぇ、本当に!? ルシュちゃんってエスパーだったの!? へぇ〜、エスパーって本当に居るんだ〜」
 遥は子供のような純真無垢な瞳で、何かを期待するようにルシュをジッと見つめる。
 ルシュは困った顔で俺をぐいっと引き寄せ、小さな声で、
「おい、こやつは何を言っているんだ? 自分がエスパーだとは気づいておらんのか? というか、さっきの会話をまるで聞いていないのはなぜじゃ?」
「まぁ……そういうことなんです」
 俺の答えに、ルシュは頭を抱えた。それにしても、我ながら何てテキトーな答えだろうか。まぁ、適切な答えは一応あるが、言ったところで反応は同じだろう。なにせ、『天然物』だから。
「ねぇねぇ、ルシュちゃん。スプーン曲げって出来るの?」
「ぬっ、まぁ……出来るには出来るが……」
 遥のお願いに、ルシュは渋い顔をした。エスパーの代名詞ではあるが、今となっては安っぽいし、場合によっては単なるマジシャンにしか見えないからだろう。
「お姉ちゃん見てみたいな〜。ルシュちゃんの良い所〜」
 俺には分かる。ルシュ云々じゃなくて、ただスプーン曲げが見たいだけという事が。
「……分かった。一度だけじゃぞ?」
 そう言って、ルシュは自分のスプーンをグニャリ、といとも容易く曲げて見せた。俺と遥は思わず、小さな歓声をあげてしまう。目の辺りにしてみると、意外と凄かった。
「ルシュちゃん、凄い! 本当に凄い! いいなぁ、そんな力が使えて」
 心の底から羨ましそうな眼でルシュを見つめる。自分は、それ以上の力を持って居るとも気づかずに。
「……ワシは、こんな奴に負けたのか……?」
 ルシュはがっくりと項垂れる。曲げられたスプーンが、涙の代わりに落ちていった。



 全員アイスを食べ終えたので、みんな席を立ち上がり、財布を片手にレジへと向かう。
「お会計はご一緒で?」
 若い女性の店員が、俺だけを見てそう言った。個性派勢揃いの女子軍にたかられていると勘違いしているらしい。お金に余裕があったら『もちろんだぜ』と格好付けて言いたいところだが、あいにく日曜のデートで財布は死んでしまっている。
「……別々で」
 俺はコーヒーフロートの分だけ支払い、レジの横にそそくさと避けた。
「私はパフェ。あと……抹茶アイスの分も払うね」
 思わずギョッとなって遥の顔を見た。おいおい、なんで急にルシュの分まで払うって言い出したんだ?
「な……待つのじゃ、遥! 敵にそこまでされる義理などないわ!」
 ルシュが慌ててそれを制した。ごもっともである。ましてや、彼女が奢って彼氏が奢らないなんて、まるで俺がケチ臭いヤツみたいじゃないか。
 遥はルシュの顔を覗き込むように腰を曲げ、
「こーら、遥『お姉ちゃん』でしょ? 今日は歓迎会みたいなもんだから、遠慮しないの」
「う……あ、ありがと……遥」
 こういう事に慣れていないのか、ルシュはばつが悪そうに、そっぽを向いたままお礼を言った。
「お・ね・え・ちゃ・ん!」
「むぅ……遥……ネェ」
 顔を真っ赤にし、服の裾をギューッと掴み、やっとの事で遥をそう呼んだ。どうやらルシュにはそれが限界らしい。
「そうだな、じゃあルシュの分は俺と遥でワリカンって事で」
 俺は遥よりも先に、代金の半分をカウンターに置いた。そして、肩をすくめながら笑う。欲しかったマンガは諦めるとしよう。心で泣いて顔で笑うとは、まさにこの事だ。
「ほら、徹『お兄ちゃん』にもお礼は?」
「う……うぅ……ううー」
 ルシュは子犬のように呻り続ける。顔を更に真っ赤にして恥ずかしそうに……ではなく、眉をひそめ、頬は引きつり、心の底から嫌そうな顔をしていた。
「徹……ニィ」
 百匹の苦虫を噛み潰したような顔で、ようやく俺の事をそう呼んでくれた。ようやく俺のことも認めてくれた筈なのに、一つも嬉しくなのは何故だろうか?
「よろしい! さっ、次はどこに行こっか?」
 遥も代金を支払い、ルシュの手を無理矢理握って外へと連れ出していく。もうどうにでもしてくれ、という諦め顔で引きずられていくルシュ。久々の休日に、はしゃぐ母親とそれに付き合っている娘みたいで、何だか微笑ましかった。
 ごちそうさま、と呟きながら俺も外へと出て行った。
「……おい、アタシに奢りは無いのか? なんかアタシだけ扱い酷くないか!?」

 ◆

 転入してきてから早三日、あれだけ濃い存在にも関わらず、カミラやルシュはすっかりクラスに馴染んでいた。遥という下地があったからこそだろうけど、みんな順応性高過ぎだろ。宇宙人が来ても、異文化交流ぐらいにしか思わないのかも知れない。
 その日の放課後、遥の席で今日はどこに行こうかと相談していると、ブブブというバイブレーション音が俺の机から聞こえてきた。
「おっと、メール……かああぁ!?」
 俺が振り向いたときにはもう、ケータイは飛び降り自殺していた。ゴッ、と鈍い音を立て、パタリと灰色の床に横たわる。それを見たクラスメイトたちが手を合わせ、ご愁傷様でしたとでも言うように頭を垂れた。
 無事か? 無事だよな? 慌てて拾い上げ、ケータイを開く。電源は……入る。液晶は……ヒビは無し。俺はホッと胸をなで下ろした。うかつにも机の隅に置いていたようだ。危ねぇ、危ねぇ。
「なんじゃ、つまらんのう」
 安心した俺に、ルシュは舌打ちしながら吐き捨てるように言った。少しでも仲良くなれたと思った俺がバカだったよ。
 全く、俺のケータイに紐無しバンジーをさせたのは誰だ? 差出人は……メールアドレスのまま。どうやらアドレス帳に登録していない人からのようだ。十中八九、盗撮だとか無修正だとかの言葉が飛び交う迷惑メールだろうな。二重の意味で迷惑だよ、全く。……まぁ、話のタネに一応見ておこうか。
「うげげっ」
 うわ、なってこった。残りの一割が、最悪なタイミングで送ってきたようだ。……というか、何で俺のアドレスを知っているんだ?
「どうしたの?」
 当然のように訪ねてくる遥。今開けるんじゃなかったと、大後悔した。ある意味最大の迷惑メールだよ、全く。
「えっと……」
 どうする、俺? 正直に話せばきっと、死ぬほど面倒な事になる。
「なんか田中が間違って女子トイレに入っちゃって出られなくなってるらしいから助けに行ってくる」
 ワンブレスで早口にそう言った後、疑問に思われる前に俺は行ってきますと手を振りながらその場を後にする。
「えっ、あっ、行ってらっしゃい?」
 勢いに負け、?マークが浮かんだまま見送る遥。よし、何とか乗り切ったようだ。
 スマン、田中。許せ、田中。変な噂が流れたら、俺が温かい眼で見守ってあげるから。



 『放課後、音楽室で待ってます』
 見知らぬアドレスから送られてきたメールの内容は、たったこれだけ。しかし、俺は覚えている。一ヶ月前、これと一字一句同じ文章の手紙が下駄箱に入っていたのを。
 一ヶ月前。そう、一ヶ月前だ。ずっと気になっていたキーワード。今、完全に思い出した。
 それは、俺にとって大事件が発生した日だ。



 ここの軽音部はサボってばかりなので、音楽室はいつでもフリースペースになっている。だから、こうした密会に使われる事の方が多い。
 俺は音楽室の前に立ち、大きなため息を一つ吐いた。これからやらなければならない事を思うと、気が重くて重くてしょうがなかった。俺みたいなヤツには、非常に贅沢な話だと思う。だからといって、オーケーを出すワケにはいかなかった。しょうがない。しょうがないんだ。そう念仏のように唱えながら、俺は扉を開けた。
 そこには、一ヶ月前と同じ光景が広がっていた。
 眼を惹くのは、海を彷彿させるような透明感のある青い髪。そして、つららのような特徴的な髪飾り。待ちわびていたというように、女子生徒は軽いターンをして俺の方を見る。肩胛骨まで伸びたストレートの髪が、さざ波のように揺らいだ。
「また……君か」
「はい、またワタシです」
 俺のイヤミに、笑顔で応える女子生徒。全く懲りてないといった様子だ。
 一ヶ月前、俺はここで初めて女子から告白された。今目の前に居る、この外国人女子生徒――クリスチーネ・ブリジウッドから。

 □---------------------□

 事の始まりは、俺がクリスチーネを助けてしまったことからだった。人を助けたのに『しまった』なんて言うのは変かも知れないが、そうとしか言い様がない。
 遥が攫われて十二回目と十三回目の間だから……だいたい十月末ぐらいか。
 その日は休日で、何となく一人でぶらぶらとしていると、背広を着たサラリーマン風の男たちが「わっせわっせ」と何かを運んでいるのを目撃したのだ。掲げているのは、サンタクロースの袋の汚いバーョン。ウゴウゴと動くそれは、巨大なサナギのようで少々気持ち悪かった。
 何となく男たちの行く先に眼をやると、そこには窓ガラスまで真っ黒な車が一台あった。おや、と思い、俺は視線を戻した。心なしか、運んでいる袋の形が人のように見えてきた。耳を澄ますと、鳥の鳴き声に混じってくぐもった声が聞こえてくるような気がした。
 まさか、な。そんなバカな。シチリア島や禁酒時代じゃないんだ。まさかこんな白昼堂々、誘拐なんてあり得ないだろう。そんな運の悪いヤツなんて――、
「……遥!?」
 思い当たる人が、一人だけ居た。
 さりげなく男たちに近寄り、俺はもう一度耳を澄ました。……くぐもっていて遥かどうかは判別出来ないが、女子である事には間違いなさそうだ。
 俺はしゃがみ込み、靴紐を結ぶ振りをした。サラリーマン風の男達が横を通り過ぎるのを待ってから、俺はクラウチングスタートの体勢から走り出し、そのまま後ろからタックルをした。
「うおぉ!?」
 ふいをつかれた男たちは体勢を崩し、大きくよろける。その拍子で、大きな袋は宙を舞った。
 俺は落下地点まで全力疾走し、その袋をキャッチ……することが出来なかった。そのまま下に落ちて、ゴンッと鈍い音がした。サナギが生まれんばかりに激しくうごめいた。
「ごめん! すまん! だから今はちょっと我慢してくれ!」
 平謝りしながら、大きな袋をお姫様抱っこで拾い上げ、がむしゃらに走り出した。
 やった! 勝った! 十三連チャンは無いんだよ! ざまぁみやがれ! ついに誘拐を阻止してやった! と、俺は大喜びだった。
 だが、甘かった。当然サラリーマン風の男たちは取り返そうと全速力で追いかけてくるワケだし、重い袋を抱っこしたままではまともに走れるわけもない。……いや、それにしても随分と重かった気がする。
「た、助けてー!!」
 悲痛な声で助けを求めても、誰も来なかった。隣の民家は警察よりも遠い、って言葉をふと思い出した。
 そうだ、確かマニュアルに書いてあった。襲われている時に助けを呼んでも、怖がって人が来ないと。一番良いのは、
「か、火事だー!!」
 慌てふためいた声で叫んでみても、誰も来なかった。世間の冷たさが身に染みる思いだった。
「くそー! 鬼ー! 鬼攫いー!!」
 もはや自分でも何を叫んでいるのか分からなかった。そうこうしている内に、サラリーマン風の男達はどんどん距離を詰めてきて、手を伸ばせば届きそうな距離にまで来ていた。
 また……ダメなのか? 俺には止められないのか? そう悲観していた矢先のことだった。
「鬼攫いだと!?」
 曲がり角から怒鳴るような声が聞こえてきた。俺のワケの分からない叫びが興味を引いたのか、数人の屈強な男たちが前方から走って現れた。
 一瞬ヒヤッっとした。挟み撃ちかと思ったからだ。だが屈強な男たちは、状況をすぐに理解し、追いかけてくる男達を押さえに掛かってくれた。
「少年! そのまま逃げろ!」
 その声に後押しされるように、とにかく走って走って、その場から全力で逃げた。地元住民しか知らない裏道を通り、小さな森を抜け、知らない民家の庭先を駆け抜けていった。
 安全と思われる場所まで逃げた俺は、近くにある竹林に逃げ込み、そこで大きくて重い袋をよっこらしょっと降ろした。
「遥……大丈夫かぁ……?」
 ついに、ついに助けられたんだ。全身に襲いかかってくる疲労感も、今は心地よく、満足感に満たされていた。そして俺は息も絶え絶えに、袋を開けた。しかし、その中に入っていたのは遥ではなく、青い髪の外国人女子――クリスチーネだった。
「う、嘘だろ……?」
 俺はがっくりとなって崩れた。せっかく遥を救出出来たと思ったのに、人違いだなんて。ああ……もう嫌だ。疲労は精神までもを蝕んでいく気がした。
「ア、アリガト……」
 クリスチーネはカタコトに喋った。まだ日本に来て日が浅いのだろうと思った。……まぁ、結果的に人助けをしたのだから良いか、と思い直すことにしたんだ。
「エット……」
 袋から出てきたクリスチーネは、まず頭をペタペタと触り、次に服をごそごそと探し始めた。しかし、見つからなかったのか顔をしかめた。今思えば、あの時は特徴的な髪飾りを付けていなかったな。
「オレイ、ナマエ」
 お礼? 名前? ……あぁ、お礼をしたいから名前を教えてくれって事なのか?
「別にいいよ。警察から表彰されるのも、目立ってヤダし」
 それに、間違って助けただけなんだ。お礼なんか貰ったら、後ろめたくてしょうが無いよ。
「……日本語分かる? オレイ、イラナイ」
 俺の言葉に、困ったように顔を振った。どうやら少しは日本語が分かるらしい。
「オレイ、スル。ゼッタイ、スル」
 クリスチーネはキョロキョロと辺りを見渡しながら立ち上がり、
「ウェイト。プリーズ、ウェイト。オーケー?」
 クリスチーネは極力簡単な単語を選ぶようにして言った。俺がそれに頷くと、クリスチーネは満足そうにニッコリと笑い、どこかへと走り去っていった。
 別にお礼は要らなかったが、帰ってきたときに俺が居なかったらさすがに気分が悪いだろうから、取り敢えず待つことにした。しかし、一時間、二時間、三時間……。待てども待てども、結局その日、クリスチーネが戻ってくることはなかった。
 ちなみにその日、遥は別の場所で攫われていた。罪滅ぼしにバッグをプレゼントしたのは内緒の話だ。



 そして一ヶ月前、俺は手紙で音楽室に呼び出され、約半年ぶりにクリスチーネと再会した。ただし今度は、後輩として。聞けば、留学生として今年からこの高校に通うことになったらしい。なんという偶然だろうかと、この時まではそう思っていた。
「長くお待たせしてごめんなさいです。あの時、アナタの所へ帰ろうとしたんですが、一緒に来た者が離してくれなくて……」
 随分と勉強したのか、見違えるように日本語が巧くなっていた。
「あの時のお礼を、受け取って欲しいです」
 そう言って、クリスチーネは特徴的な髪飾りを俺に差し出した。今付けているモノと同じかと思ったら、鏡合わせのように対になるように作られているモノだった。
「気持ちは嬉しいんだけど……悪い。日本男児はね、髪飾りを付ける習慣はないんだ」
 たまにテレビでそういう人を見かけるが、あいにくと趣味ではない。
「ふふ、知っていますよ。日本の文化は沢山勉強しましたから。でも、それでも、貴方に受け取って欲しいんです」
 クリスチーネの顔は、真剣そのものだった。……そんなにこのお礼を渡したかったのか? 未だに何処の国出身かは分からないが、随分と義理堅いんだなと思っていた。
 これ以上断るのは、相手にとっても失礼だろうな。三顧の礼という言葉もあるし、受け取るか。そう思った俺は、その髪飾りに手を伸ばした。
 その時だった。クリスチーネの顔が、花咲くように綻んだのだ。
「あぁ……これでやっと、やっと貴方と結ばれるんですね……」
 ギョッとなって、俺は思わず手を止めた。途端、花開いたクリスチーネの顔がしぼんでく。
「……どうしたんですか?」
 結ばれる? お礼を渡す時の表現としては変だと思った。加えて、その喜び方も異常だった。何というか……嫌な予感がした。とっても嫌な予感がした。
「一つ、聞いてもいいかな? お礼以外に、この髪飾りを渡す意味はあるのかな?」
 この髪飾りは、クリスチーネと種類が同じだ。しかも、対になるように作られてある。それが何を意味しているのか?
「ふふ、おかしなトオルさん。決まってるじゃないですか。もちろん、貴方と婚約する為ですよ。日本にも同じ文化がありますよね?」
 嫌な予感が的中した。対になるような特別なモノをお礼としてあげるのは、親友か、婚約者のどちらしかない。……というか、付き合うを三段跳びして婚約するって、どういう神経をしているんだ? 故郷ではそれが当たり前なのか?
「……あれ? 今、俺の名前……?」
 俺の名前はまだ名乗っていない筈なのに。……いやいやいや、知っていてもおかしくはないだろう。同じ高校に通っているんだし、たまたま俺の顔を見つけて近くに居る人から聞いただけかも知れないのだから。……だけど、何だろ? 何か……怖い。
 恐怖心から、思わず一歩身を引いてしまった。
「どうしたんですか? さぁ、トオルさん。受け取って欲しいんです」
 俺の心情を知ってか知らずか、クリスチーネは一歩前進した。
「ワタシを……受け取って下さい」
 その言葉に、かなりクラリとした。スタイルの良い美人に言われたのなら尚更だ。愛するよりも愛されたい。その言葉の意味が、今なら分かるような気がする。だけれど、俺にはもう心に決めた人が居る。隣に用意した席は、もう埋まっているのだ。
「俺にはもう……彼女が居るんだ。だから、ごめん」
 苦虫を噛み潰したよう顔で、俺は勢い良く頭を下げた。そう、俺には遥が居る。クリスチーネが入ってくる隙間なんて無いんだ。
「……え? だってそんな……え? ふふ、まさかそんな……」
 彼女が居るなんて、少しも想像していなかったのだろう。面食らったその表情は、酷いものだった。泣き顔に驚き顔、そして笑い顔。三色が上手く混ざり合わず、まだら模様のような表情だった。
「アナタなら……アナタならきっと、ワタシを選んでくれると思っていたのに……。どうしてですか? いったいワタシの何が、ハルカより劣っているって言うんですか……?」
「そうじゃないって。そうじゃないんだってば。確かに君の方が胸は大きいかも知れないけど、別に優劣の問題じゃ……?」
 弁解している途中で、強烈な違和感を覚えて俺は止まった。ちょっと待てよ。クリスチーネは、遥を知っているのか? 選んでくれるって、もしかして……まさか、彼女が居ると分かっていて告白してきた? 絶対に、自分を選んでくれるだろうって信じて?
「とにかくゴメン!」
 怖くなって、俺は逃げ出した。文化の違いなのか、思考回路がまともじゃない。彼女が居ると分かったら、普通は諦めるんじゃないのか?
 音楽室から出る直前、俺は振り返ってクリスチーネを見た。俺に渡そうとしていた髪飾りを見つめたまま、茫然自失になっていた。どうしようもない事だった。手紙を受け取った時から、こうなることは分かっていた。
 後ろ髪を引かれる思いのまま、俺はその場を後にした。

 □---------------------□

 あれから一ヶ月、クリスチーネは俺の前に一度も姿を現さなかった。だから、もう俺の事は諦めて忘れているんだろうと思っていた。しかし、また同じように呼び出した。
 つまりそれは、
「残念だけど……俺はまだ遥と付き合っているんだ」
 俺は凛とした態度で断った。これは絶対に崩れないよ、とでも言うように。
「知っています……」
 クリスチーネは俯いたまま答えた。
「お礼ならジュース一本で良いよ。ちょうど喉が渇いているし」
「そんなの、嫌です……」
 クリスチーネは俯いたまま首を振った。本当のお礼は婚約だが、もちろん受け取るつもりはない。他のお礼なら受け取ると言うと、クリスチーネが嫌だという。これでは堂々巡りである。
「あれからワタシ……ずっとショックで寝込んでいました」
 だから一度も姿を見かけなかったのか。まさかそんなにナイーブだったとは。どうしようもない事とはいえ、もう少しショックを和らげられたんじゃないかと反省した。
「その間、ずっとずっと悩んでいました。どうしたらいいかなって……」
 クリスチーネはとつとつと喋った。まだ心の整理が付けられないでいるようだ。もしかしたら……自惚れかも知れないが、義理やお礼なんかではなく、本気で俺を好きなのかも知れない。嬉しかった。性別に関わらず、どんな理由にせよ、人に好かれるのはやはり嬉しかった。ただし、その先にあるのが必ずしも幸せとは限らないが。
「ワタシ……やっぱり諦めるのは嫌です」
 諦めない。高校のスローガンのように立派な言葉だけど、今だけは聞きたくなかった。
「それでワタシ……決めました」
 クリスチーネは顔を上げ、決意を秘めた眼で俺をしっかりと見つめた。決めた? 何を?
「あ……」
 あ?
「愛人でも可!」
 言うに事欠いて何て発言をしてるんだ、この子は。
 自分でも失言だったと思ったのか、今にも火が出そうなほど顔が真っ赤になっていく。
「すいませんでしたーーー!」
 恥ずかしさに耐えられなくなったクリスチーネは、音楽室から猛ダッシュで逃げていった。その場に取り残された俺は、ただポカンとしていた。そして、返答できなかった事を少し悔やんだ。
 愛人。良い響きである。彼女が居るからこそ得られる、男のロマンの結晶だ。……まぁ、俺には必要ないものだけどな。遥が居るだけで充分さ。本当だよ。嘘じゃないよ。……本当に本当だからな?

 ◆----------------------◆

 音楽室から出たクリスチーネは、顔が真っ赤のまま、泣きながら廊下を走っていた。
 恥ずかしいからではない。何てことをやってしまったんだと、後悔していたからだ。それは、徹に変な事を言ってしまったからではない。愛人でも側に居られれば良い、と思ってしまった事だ。
 クリスチーネは上履きのまま外に出て、人が寄りつかない体育館倉庫に入っていった。そしてケータイを取り出し、登録されているアドレス帳から『公安11課』を選んで通話ボタンを押す。
「もしもし、ワタシです。クリスチーネです。……ええ、その件です。事情が変わりました。倍額お出し致しましょう。更に、レアメタルの輸出も優先的に行う事をお約束致します。……ええ、期待しております。世界が恐れる『インビシブル・イレブン(存在しない11課)』の実力を」
 クリスチーネはケータイをパチンッと閉じ、ポケットにしまった。代わりに髪飾りを出し、握りしめながらそっと口に触れさせる。まだ自分の手の中にあるのが、悲しくて堪らなかった。
――トオルさん……ワタシは貴方が欲しい。だから……力尽くで奪う! 例え、人類最強が相手でも!
 欲しい物は奪い取れ。それが、彼女が代々受け継いできた家訓だった。


◇-----------------------◇
 
 四回目「彼女と体育授業」

◇-----------------------◇


 急遽体育はドッジボールに変更された。謎の校長車爆破事件が発生したため、被害者の要望により、授業のスケジュールを一週間ほど早める形となった為だ。
 野球ならともかく、さすがに今回は男女別となった。男から女には投げづらいし、ましてや顔なんかに当たってしまった日にはもう『傷物にした』という噂が巨大な尾びれを付けて学校中を走り回ることになる。
 そして今回も、また新しい遥専用の特別ルールが作られた。
 遥が一回シュートを投げるためには、チーム内のメンバーが三人アウトになるか、シュートのキャッチを五回しなければ投げることが出来ない。カミラが『援護射撃(ストライカー)システムだな』と言ったら、いつの間にかそれが定着してしまった。また、最後に遥が残ってしまった場合は、その時点で試合終了となる。逆に、遥に当てることが出来たのなら、三人復活させる事が出来るボーナスチャンスもある。
 きちんとルールが決まったところで、まず最初に女子チーム分けのクジ引きが行われることとなった。
 すると、何とも面白い結果となった。
 遥が率いる『ディープ・ブルー』こと青チーム。そして、カミラとルシュが率いる『機械仕掛けのオレンジ』ことオレンジチーム。奇しくも、狙う側、狙われる側とキレイに別れたようだ。
 2年A組の大魔神VS謎の転入生二人、という注目カードは周囲を大いに湧かせた。
 ちなみに、男子のチーム分けは細々と行われ、一切騒ぐことなく、慎ましく終了となった。

 

 チーム分けが終わり、後は別々の場所で試合を開始するだけなのだが、一つ問題が発生した。それは、審判が足りないという事。そこで急遽、もう一人の体育教師が呼ばれることとなった。
 それを聞いた途端、ざわめき始める男子たち。それもそうだ。出来ることなら、俺もこの教師とだけは一緒に授業をしたくないと心底思う。
「おい、来たぞ……!」
 一人の男子が悲鳴に近い声で言った。指の差す方向に現れたのは、ダビデ彫刻のような整った顔付きをした男子体育教師。短い髪に無精ヒゲ。そして、鍛え上げられた肉体美。一見するとそれは、映画俳優のようでもあった。
 しかし、
「ンはぁーい! ピーンチヒッターで駆け付けてあげたわよぉ。ヨロシクねぇー!」
 いきなりハイテンションで挨拶をし、バチコーン、と殺人ウィンクをかました。それにやられた何人かの男子が、ギリギリな呻き声を漏らす。
 通称、オカマッチョのご登場である。みんなオカマッチョと呼ぶもんだから、本名は誰も覚えていなかった。
「いきなり試合を開始するなんて……んもぅ! ケガなんかしたらどーするのよぉ! ほらほら、準備体操も兼ねてシュート&キャッチの練習よぉ!」
 オカマッチョは肉体美をグネングネンとくねらせながら、そう指導した。顔は羨むほど格好良いだけに、尚更気持ちが悪い。加えて、基本的には生徒想いな先生だから、尚更始末が悪い。
「先生ー! オカ……先生ー!」
 女子生徒の一人がオカマッチョの元に走ってきた。手には凹んだボールを持っている。
「空気入れってどこですかー?」
「あぁ、それなら体育館倉庫の一番上の棚だ。黄色い箱に入っている筈だから、すぐに分かるだろう。あまり空気を入れすぎると、固くて突き指をし易くなるから注意しろ」
 凛々しい声で、ちょっと頼もしさすら感じる口調で喋るオカマッチョ。女子生徒と話すときは、何故か男に戻るんだよな。
 分かりました、と言って女子生徒は戻っていき、オカマッチョはこちらに視線を戻した。再び肉体美をくどいまでにグネングネンとくねらせながら、
「ほらほら、みんな立ってぇ! 準備体操、準備体操よぉ!」
 まるで教育番組のお姉さんのような手振りで俺たちを指導し始めた。……どっちが素なのか、もうワケが分からん。



 シュート&キャッチ練習は一対一で行われる。男子は全部で16人だから丁度割りきれる筈なのだが、オカマッチョが来たことにより突然体調を崩した生徒が一人居て、結果一人余ることになってしまった。
 嫌な予感がした。かつてないほど嫌な予感がした。
「おい! 誰か俺と組まな――」
 ガシッと腕を掴まれた。手錠でもされたかのような、固くて、絶対に逃げられないという事を直感的に思わせる感覚だった。
「ンはぁーい。トーオールちゃーん。ほぅら、あたしと組みましょうねぇ」
 俺の耳元で、地獄のお釜から甦ってきたような声で囁いた。
「ひ、ひぃぃー!」
 嫌だ! 絶対にそれだけは嫌だ! しかし、ジタバタと暴れても、その肉体美はビクともしなかった。ちくしょう、この無駄筋肉め!
「お、お前ら! 助けてくれ! マジで! 早く!!」
 俺は救いを求めて手を伸ばした。しかし、既に全員ペアを作っており、ゲットされてしまった俺に生暖かい視線を送っていた。中にはご臨終様とでも言うように、手を合わせているヤツまで居た。
「は、薄情者ー!」
 俺はズルズルと引きずられ、嬉々としてお持ち帰りをされていく。今ならドナドナの気持ちが痛いほどよく分かる。ああ……今の俺は、きっと悲しそうな瞳をしているんだろうなぁ。
 もう、オカマッチョからは逃げられなかった。



「いくわよぉー! トオルちゃーん!」
 バレーのような掛け声の後、オカマッチョは片足を高々と上げていく。
「ぬふぅん!」
 野太い声と共に力一杯投げられたボールは、ギュルギュルとうなり声をあげながら俺に迫ってくる。スピードもさることながら、妙な回転まで加わっているようだ。当たったら死ぬと思った俺は、サッと避けた。後方のフェンスに当たったかと思うと、威力のあまり金網に食い込み、地面に落ちてこなかった。
「避けたらダメよぉ、トオルちゃーん! シュート&キャッチの練習なんだからさぁ!」
 さっきケガをしないように、って言ってたのはどこのどいつだ。あんなもんを取ったら、肋の2、3本を持って行かれるわ。
「しょうがないわねぇ。トオルちゃんから投げていいわよぉ」
「はいはい……」
 俺はニヤリと笑った。見てろ、逆にオカマッチョにケガをさせてやる。フェンスからボールを引っこ抜き、
「うおぉーりゃぁーー!!」
 渾身の力で投げ放つ。だが、オカマッチョはそれを片手で易々と受け止めてしまった。……ですよねー。まぁ、ほら、俺は頭脳派だから。
「ダメダメねぇ。投げ方が全然ヘタだわぁ」
 そう言うと、オカマッチョはおもむろに俺の方に近付いてきて、いきなりケツを触ってきた。
「うぉうッ!?」
 背筋にゾゾゾっと寒気が走り、全身に鳥肌が立った。えっ、もしかしてヤバイ!? いきなり貞操の危機なのか!? 
「投げるとき、お尻にキューッと力を入れるのよぉ。そのプリティーなお尻をキューッとねぇ」
 オカマッチョは執ようなまでに俺のケツを撫でてきた。キューキューしてきたのは胃の方である。
「ほらっ、お尻を触っててあげるから投げてみなさい」
 言っていることが意味不明だった。コイツ、単に触りたいだけじゃないのか? パワハラで訴えたら勝てるかも知れない。……でも、同性からの、しかも先生からのセクハラって立証できるんだろうか……?
「ンふーん、本当に良いお尻だわぁ……」
 恍惚するオカマッチョの顔も気持ち悪ければ、俺の尻をなで回すようにソフトタッチしてくるのも最高に気持ち悪かった。早く投げてしまおう。そして、オカマッチョがボールを拾いに行ったら地平線の向こうまで全力で逃げよう。
 そう決めて、俺はボールを投げた。触られていた所為か、自然とケツにキューッと力が入ってしまった。
 すると意外な事に、先程とは見違えるほど投球スピードが上がっていた。距離も飛躍的に上がっていた。
「さっすがトオルちゃん。飲み込みが早いわねぇ」
 俺の尻から手を離し、オカマッチョはいやに速い女の子走りでドタバタとボールを拾いに行く。
 偶然……じゃないんだろうな。認めたくないけど、やっぱりオカマッチョのお陰なのか。尻を触っていたのは、そうする為だったんだろう。褒めたくはないが、教え方自体はやっぱり上手だな。……触りたくて触っていたような気もするが。
 オカマッチョはボールを拾い上げ、しなを作って親指の爪を噛んだ。それは……そう、甘えるポーズだった。
「トオルちゃんがもっともっと上手になれるように、身体にみっちりと教え込んでア・ゲ・ル……」
 俺は、地平性の向こうを目指して全力で逃げ出した。

 ※

 草むらの陰に隠れ、何とか魔の手から逃げ延びた俺は、仰向けになって休んでいた。怖かったよぉ。マジで恐かったよぉ。何で女の子走りであんなに速いんだよぉ……。
 大きなため息を吐くと、それに呼応するようにカサカサと木の葉が擦れ合った。心地良い風がピュイと吹き、俺の火照った肌を冷やしていく。疲れが、俺を眠りへと誘っていく……。


 急にワッと騒がしくなり、ウトウトしてた俺はビクンッと飛び起きた。何だ何だと草むらから覗いてみると、体育館の中で女子たちが楽しそうに試合をしているではないか。男子は校庭で、女子はそこから少し離れた体育館で試合をしている筈なので、結構な場所まで来てしまったようだ。
 騒ぎの中心となっているのは、案の定と言うべきか、遥だった。特別ルールの『ストライカーシステム』が発動したのか、遥がボールを持っている。それでお祭り騒ぎなのかと思ったが、どうも微妙に違うようだ。コート内に残っているのは、遥とカミラだけ。つまり、一対一で睨み合っている状況なのだ。これでは盛り上がらない方がおかしいというものだ。
「……あれ?」
 しかし、何か変だと思った。こんな状況には絶対ならないような、そんな気がしたのだ。……あぁ、そうか。思い出した。特別ルール上、遥が一人残った時点で試合終了となる筈なんだ。なのに、一対一で残っている。
 やる気なさそうに外野で休んでいるルシュを出入り口まで呼び出し、なんでこうなったのかを聞き出した。
「カミラが遥に挑戦状を叩きつけたからじゃよ。戦況は、五対一でカミラが圧倒的に不利。逆転する為に、カミラは遥にこう提言したのじゃ。『アンタの全力シュートをキャッチ出来たら、五人復活させろ』……とな」
 言われてみれば確かに、キャッチした時のメリットは何も無かった。……まぁ、誰も遥のシュートをキャッチするだなんて考えもしなかったからだろうな。或いは、キャッチ出来ないというより、キャッチはするなという暗黙の了解みたいなのが出来ていたのかも知れない。メリットがあれば、必ず誰がケガ覚悟でキャッチしに行くからだ。そう、例えば今挑戦状を叩きつけている、あのカミラとか。
「さぁ、投げてこい! 『アルマゲドン』級のメテオ・ストライクをキャッチして、アタシの方が上だって証明してやるよ!」
 カミラは自信満々に言い放ち、遥にビシッと人差し指を向けた。ホント、どこからその自信が来るのやら。
「よーし! じゃあ本気でいっくよー!」
 遥はそう宣言すると、調子を整えるようにその場でピョンピョンと跳ね始めた。
「あ……マズイ」
 俺は大慌てで十歩ほど下がった。
「なんじゃ、この臆病者め。遥ネェのシュートがそんなに怖ろしいのか?」
「下がった方が良いと思うけどなぁ、マジで」
「ふん、ならワシはもう五歩近付いてやろうぞ」
 体格の割には意外とある胸を張りながら、スタスタと近付いていくルシュ。十歩と言わないあたり、心のどっかでは怖がっているんだろうな。まぁ、その怖がりは正解なんだけどさ。
「せーの!」
 一歩、二歩、三歩目で放たれる、遥の全力にして必殺シュート。
 突然だが、宇宙ロケットが発射されるとき、周囲五キロが立ち入り禁止になる理由を知っているだろうか? 煙が大量に出るから? 事故が起きたら大変だから? それもあるだろう。だがしかし、立ち入り禁止にする最大の理由は、周囲に強力な真空波が発生する為だ。
 遥が全力で投げるということは、つまりそういうことなのである。
 最初に被害に遭ったのは、一番近かったカミラ。真空波を纏ったボールを取ろうとした矢先に、下着を除く体操服がスパッと全て破けた。バンダナで纏めていた髪はハラリと落ち、二つのおっぱい手榴弾もポロリと下に落ちていく。
「な、なぁーー!?」
 カミラは慌ててしゃがみ込み、露わになった下着を両手で必死に隠そうとする。そのお陰で、必殺シュートは頭上を掠めていった。
 少し遅れて、その余波がこちらに向かってきた。
 第二の犠牲になったのは、五歩も近付いてしまったルシュ。上着が一瞬にしてボロ切れになり、おへそやらピンクのブラジャーやらが丸見えだった。……それにしても、カミラよりルシュの方がサイズが上ってどういうことなのだろうか?
「ば、馬鹿者! こっちを見るでない! ええい、この不埒者め!」
 ルシュに見るなと言われ、俺は慌てて視線をそらした。
「キャーッ!」「こっち見ないで!」「ヘンタイ!」「あっち行ってよ!」
 しかし、周囲のどこを見ても、眼のやり場に困る惨状ばかりだった。
「えっと……これって勝ちってことなのかな?」
 オロオロした様子の遥が呟いた。まぁ、ある意味戦意喪失しているから勝ちには間違いないが。
「何が勝ちだ! この大馬鹿者め!」
 そう言って、怒り狂ったルシュは何故か明後日の方に手を向けた。そこにあったのは、出席簿。遥の真下にスッと移動し、そして急上昇した。服の隙間からそれがサッと入り、遥の上着をバサッと捲り上がらせる。
「うぉ、青」
 可愛らしいデザインの青いブラジャーが、丸見えになっていた。遥に似合うナイスデザインである。
「え? えぇ!? もう、やだぁ!」
 上着の裾を思いっ切り下に引っ張りながら、地面にへたり込む遥。それを見たルシュが、手でブラジャーを隠しながらケッケッケッと笑う。
「お主だけ見られないというのも、不公平であろう?」
「そうだそうだ! いっそひん剥いちまえ!」
 一番被害の大きかったカミラは、壇上にある幕にくるまって野次を飛ばしていた。
 幸いだったのは、男子は離れた場所で試合をしているという事。不幸だったのは、ギャラリー全員が遥の全力を甘く見ていたという事。そして、幸せだったのは俺だけという事。今夜は眠れそうにもないぜ。
 ドカンと、遠くの方で黒煙が上がった。どうやら不幸がもう一つ追加されたようだ。校長の軽乗用車が、青い空を舞っていた。

 ※

「全く、酷い目に遭わされたわ。このような羞恥は初めてじゃ」
 制服に着替えたルシュは、両腕を組んで憤慨していた。
 遥を除く女子全員が続行不可能となり、急遽体育の授業は中止になった。女子は逃げるように教室に戻り、着替え終わってから男子も戻ってきて、今に至っている。代わりに自習時間となり、最も被害の大きかった二人――カミラとルシュが遥に詰め寄っているのが現在の状況だ。
「アタシなんて、遥の所為で二回もコイツに下着を見られたんだ!」
 仁王立ちして同じく憤慨するカミラ。実は三回も見られている事に気づいていないようだ。あまり得したと思えないのは何故だろうか?
「何よ、もう! 私だって見られたんだから、おあいこでしょう!?」
 二人の怒りに対し、遥は頬を膨らましてそっぽを向き、自分も被害者であると主張した。……そういえば、遥のそれを目撃できたのは、二回ともルシュのお陰なんだな。後でこっそりと甘い物でも奢ってやろう。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着きなって」
 この三人がケンカを始めたらシャレにならないので、俺はやんわりと仲裁した。しかし、邪魔をするなとでも言うように、三人同時にギロリとこっちを向く。
「徹は黙ってて」
「軍仕込みの拷問で眼を見られなくしてやろうか?」
「いっそお主の海馬を燃やして忘れさせてやろうかのう?」
 俺は身を引き、手で口を塞いで『もう二度と何も言いませんよ』とアピールした。三人寄れば姦しいとはよく言うが、この三人が寄れば小国滅ぼしいという感じだな。
 急にルシュがハッとした顔になり、
「……そういえば、何でお主はあそこに居ったのじゃ?」
 グングニル級の矛先を俺に向けてきた。ああ、バカバカ。そこは突っ込んじゃダメな所なのに。
「そういえばそうだね。男子はあっちに居た筈なのに、徹だけこっちに居たね」
「おいトオル、目的は何だ? 視察か? 戦力調査か? 怒る前に言ってみろ」
 そう言ってカミラは、何故か腰の方に手を下げる。カキン、という無機質な金属音が聞こえた。だから、そういう物騒な脅し方は止めて欲しい。ルシュはルシュで袖の下から赤い蛇をちらつかせているし。ああ、もう。仲裁なんかするんじゃなかった。
「いいか、俺は――」
 ただ単にオカマッチョから逃げてきただけ、と説明しようとしたら、急に遥が泣き顔になってしまった。
「まさか……徹、そんな趣味があったの……?」
 趣味? 何だ? 何のことだ?
「男の子はブルマ好きってよく聞くから……。徹は違うって思ってたんだけど……やっぱりそうなの?」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと待てって!」
 発想が予想外すぎる。それに、ブルマは俺の趣味じゃない。というか、そもそも女子は短パンだろうが。ブルマなんてどっから出てきたんだよ。
「フンッ、男の本性など所詮こんなものか。浅ましいものよのう」
「こ、こ、このケダモノ三等兵め! 貴様なんぞ男しか居ない僻地に飛ばされてしまえ!!」
 遥の発言で、急に女子全員がざわざわと騒ぎ始めた。視線も集まり始め、もはや完全に女子の敵として見られていた。……一部の男子は、僕も好きですよとでも言うように生暖かい視線を送ってきているが。
「待て待て! 誤解だ! 俺はたまたまそこに居ただけで……!」
「犯罪者は判子を押したようにみな同じ事を言うのう。そうか、ついにお主もそっち側か」
 野良犬でも追い払うように、手をシッシッと振るうルシュ。そっち側ってどこなんだよ?
 勘弁してくれ。えん罪だよ、こんなの。俺は何もしていないのに、何でこんなに非難されているんだか。誰か一人でも良いから俺を擁護してくれる人は居ないのか?
「そうだそうだ、そなたは男の敵でござる!」
 ついには西部劇の強盗みたいな覆面を被ったクラスメイトにまで、ヤジを飛ばされる始末である。
「って、誰だお前!?」
 こんな見るからに怪しいヤツがクラスメイトなワケがない。
「しまったでござる! あまりにも楽しそうにしているから、つい……」
 てへへ、と照れたように頭を掻く不審人物。……それにしても、いかにも怪しげな格好をしているが、一言で現すならかなりの美少年だ。想像上で描かれる新撰組の沖田総司のような、線の細さと芯の強さを感じられる。既に何人かの女子は魅了され、うっとりとした表情を浮かべていた。
 ヤバイかも、マズイかも。心配になって遥を見てみるが、キョトンとした顔をしているだけで、特に何も思ってはいなさそうだった。俺はホッと胸を撫で下ろす。勝負になったら、俺が一千万単位で顔をフルチューンナップしたとしても、まるで勝てる気がしない。
 美少年な不審人物はゴホンと咳をして場を取り直す。そして、マフラーをひるがえしながら、
「誰と聞かれたのならば、答えるのが正義の役目。拙者は『インビシブル・イレブン』が一人、煙 巻(けむり まき)。お命頂戴につかまつった! ……でござる」
 お決まり文句のような口上を述べた後、顔の前でチョキを閉じたようなポーズをビシッと決めた。どこからともなく、ババーンという効果音が聞こえてきたような気がした。
 全く、また変なヤツが遥を狙ってやって来たのか。格好もそうだけど、自分を正義だなんて名乗るヤツはほぼ九割方悪党だって法則があるんだよ。
「『インビシブル・イレブン』……! まさか日本最高峰の暗殺部隊が動いたのか!?」
 カミラは驚きの声を上げ、大きく動揺していた。何だ? この変人はそっちの業界では有名なのか? 一方ルシュはといえば、
「ニンジャだ、ニンジャ! うわぁ、本物だぁ……」
 まるで子供のような、ある意味外見通りのはしゃぎっぷりをみせていた。というか、俺的にはコイツを忍者と呼びたくないし、認めたくもない。
「なぁ、その何とかイレブンって強いのか?」
 二人の反応からして、相当な実力者であることには間違いないようだ。不安になった俺は、耳打ちしてそっと聞いてみた。
「お前はバカか? あの伝説のニンジャだぞ? 強いに決まっているだろ。軍の中でも、一人の忍者に一個小隊がやられたのは語り草になっているぐらいだからな」
「そうじゃ。お主、日本人なのに知らんのか? 全く、愛国精神が無いのう。火を吹き、木の葉を自由に扱い、カエルを巨大化させるその技術は、是非とも見習いたいものよ」
 二人からここまで惜しみない賛辞を聞いたのは初めてだ。それにしても……なんというか、忍者って響きだけで強いって決めつけているような感じがするんだが。まぁ確かにアメリカでは、忍者が出た、って噂が流れただけで臨時休校するぐらい意味もなく恐れられているからなぁ。不思議な話だよ。拳銃よりも爆弾よりも、忍者が怖いだなんて。
「へぇ〜、今の忍者ってこんな感じなんだ」
 遥は巻の顔ではなく、その衣装に興味を示したようだ。
「それは違うぞ、遥。隠密するのが忍者であって、こんな目立つ格好をするのは時代錯誤なヤツか、コスプレなヤツだけだ」
「拙者のアイデンティティを否定しないで欲しいでござる……」
 その格好をよほど気に入っているのか、巻はしょんぼりとなった。てめぇなにウチらのアイドルを虐めてるんだよ、と周りの女子からの視線が痛い。ちくしょう、イケメン補正が憎い。
「ねぇねぇ、何か忍法見せてよ」
 遥は甘い声で、興味津々な顔でお願いを始める。むぅ、俺以外の男にそれをやられるのはちょっと悔しいな。
「その前に一つ、聞きたいことがあるでござる」
 巻は真剣な目つきでそう言った。
「学生である事、そして今まで実害が無い故に関与する事は無かったでござるが、力の均衡が破られようとしている今、お主の存在をは見過ごす事を出来ない所まで来ているでござる。そして上層部が出した答えは……」
 巻は遥に向かって手を差し出す。それが意味するところは、全世界共通だ。
「遥殿、お国の為に働く気はござらんか?」
「ヤダ」
 即答だった。友好の証は、バッサリと切り捨てられてしまったようだ。
「だって、ねぇ……ほら?」
 何故か遥は俺をチラチラと見てくる。その眼は、言葉にしなくても分かるでしょ、と言っているようだった。つまり……お国より俺が大事って事なんだろうか? ……ヤバイ。人目を気にせず抱きしめてしまいそうだ。
「い、良いでござろう。遥殿の要望に応え、拙者の忍術をお披露目するでござる」
 けんもほろろだったというのに、巻は胸を叩いて快く了承してくれた。顔に似合わず、器がでかいようだ。
「さて……アレは何でござるか!?」
 突然、巻が勢いよく上を指差した。
「え!?」
 俺はつられて上を見た。ブランコのように垂れ下がった蛍光灯があるだけで、他には何も無い。……おい、まさか!? 急いで視線を戻すと、みんなつられて上を見ていた。エサを求める鯉のように、あんぐりと大きな口を開けて。
 その間に巻は極端に姿勢を低くし、影のようにスルリと遥の後ろに回り込む。
「お代の六文は、まけておくでござるよ」
 覆面で隠れた口元が、ニヤリと大きく歪んだ。遥の首元に、鎌のような歪な形をしたクナイが添えられる。遥は気づかない。何があるのかな、といった顔で上を見続けている。
「遥ァ、後ろ!」
 俺の声は、事が終わってから発せられた。クナイを振り切った巻は遥に背を向け、それを腰に仕舞い、顔の前でチョキを閉じたようなポーズを決める。
「仲間に出来ないのなら、暗殺せよ。それも、上層部が決めた事でござる」
 そして、任務終了とでも言うように、ゆっくりと窓に向かって歩き出した。
「徹、呼んだ?」
 平然とした様子で、俺の呼びかけに応える遥。その声を聞いた巻は、もんどりを打つように飛び上がって驚いた。それもそうだろう。なにせ、首をかっ切ったと思ったら、傷一つないのだから。大丈夫だと分かっていても、毎度毎度心臓に悪いよ。
「ななな、なんで? なんで無傷なの!?」
 巻は『ござる』を忘れるほど動揺していた。やっぱりその語尾はキャラ作りか。そんな安易なモノじゃ誰も食いつきはしないってのになぁ。
「ねぇねぇ、何もないよー? 何があったのー?」
 もう一度上を見て確認する遥。どうやら騙し討ちされた事も気づいていないようだ。恐るべき天然。敵ながら同情せざるを得なかった。
「お、おのれー! しからば地獄の火炎で燃やしてくれる! ……でござる!」
 カミラと同じ攻撃の次は、ルシュと同じ攻撃に移るのか。何というか、もう先の展開が丸見えだなぁ。
「忍法……」
 そのフレーズが出た瞬間、全員が巻に注目した。遥とルシュに至っては、ヒーローショーを見つめる子供のようだ。巻は服の中に手を入れる。ざわ……と教室が騒がしくなった。ついに出てくるのか、秘伝の巻物が。思わずゴクリと生唾を飲んだ。俺もまた、巻の一挙一動に釘付けになっていた。
 取り出された筒状の物体。それは……蚊撃退スプレーだった。
「火遁の術!」
 巻は更にポケットからライターを取り出し、スプレーを発射すると同時に着火した。霧状のそれが全て激しい炎となり、遥にゴウゴウと浴びせ掛けられる。ダメージがあるかどうかは、既にルシュが実証済みだった。
「ななな、なんで効かないのーー!?」
 さっきのバカが見る攻撃といい、今回のパチモン火炎放射器といい、これでは忍法というよりただのヤンキー殺法だ。ルシュも、炎に包まれている遥でさえも、ヒーローの中の人を目撃してしまったような、そんなガッカリした表情を浮かべていた。
「やめてー! そんな眼で見ないでー! これだって立派な忍法なのでござるよー!」
 自分でもしょうもない攻撃だと感じているのか、攻撃している筈の巻が精神的なダメージを負い、涙目になっていた。
「あ……」
 急に遥が眼を閉じ、辛そうな顔になった。……これは、まさか。
「ハッ……ハッハッハッ! そ、それ見たことか! じわじわとなぶるように焼き尽くす! これが忍法・火遁の術の恐ろしさでござるよ!」
 優勢になったと見るや否や、巻は火炎放射をしたまま反り返って高笑いを始めた。さっきまでの泣き顔はどこへやら。
 遥は更に辛そうな顔になっていく。ヤバイ。マズイ。このままでは、非常に危険だ。……俺たちが。
 俺は慌てて大きく一歩下がった……が、気づくのが少し遅かった。
「くしゅん!」
 遥のクシャミ。それは、空気の爆発を意味していた。
 炎は一瞬で消え去り、遥を中心に机、イス、人、全てのモノが壁際まで吹っ飛んでいく。ダメージは減らせたものの、俺も例外なく吹っ飛んでいった。
「痛ててて……」
 ケガをチェックしながら、俺は上体を起こす。どうやら打ち身だけで済んだようだ。遥と付き合いだしてから、危険を察知する能力が野生動物並になったなぁ。
「よいしょっと」
 立ち上がるために、俺は床に手を置いた。ガチン、と固いモノがそこにあった。
「何だこりゃ?」
 下を見てみると、そこにはカミラが倒れていた。そして俺の手は……カミラの胸をガッチリと触っていた。うわわっ……って、これおっぱい手榴弾の感触だろ。嬉しくも何ともないがな。
「き、きき、貴様! アタシの胸を触るとは良い度胸だ! 顔を引き締めろ!」
「えぇ!? ちょっと待てって! 胸って言っても、これって――」
「ふざけるな! 顔を引き締めろ!」
 何を言っても無駄だと悟った俺は、諦めて歯を食いしばった。普通、こういうハプニングは得あってのお仕置きなんじゃないのか? これではただのアンラッキーだよ、ちくしょう。
「こぉのドアホ!!」
「グハァッ!?」
 ビンタかと思ったら、まさかのボディーブローだよ。俺は悶絶しながら、朝食と昼食のメニューを口の酸っぱさと共に思い出していた。
「それで、あのニンジャはどこへ行った? 身代わりの術で逃げていったのか?」
 あんなヘッポコ攻撃を見ておきながら、カミラはまだ警戒しているようだ。
「あのニンジャ、いざとなったら死なばもろとも、木っ端微塵の術を使ってくるやも知れぬ。巻き込まれぬよう、せいぜい気をつけることだな」
 近くに居たルシュも同じだった。確かに自爆は怖いが、とてもそんな事をやるタイプには見えなかった。せいぜい爆竹が関の山だろ。しかし、カミラの言う通り、辺りを見渡しても巻は居ない。教室の真ん中では、爆心地である遥が鼻をかんでいるだけだ。最後の最後で、忍者らしく忍法を使って逃げていったのだろうか?
 ふと、遥がまた顔を上げた。つられて俺たちも顔を上げた。
 そこには、ブランコのような蛍光灯にぶら下がっている巻が居た。どうやら気絶しているようだ。爆心地の近くに居た所為で、ロケットのように一人だけ飛び上がってしまったのだろう。
「徹ニィ。アレは何て忍法なのだ?」
「強いて言うなら……高飛びの術……かな?」
 カミラとルシュから、さすがニンジャだ、ニンジャマスターだ、という声が聞こえてくる。ボケたつもりが、そのまま信じられてしまった。
 重さに耐えかねた蛍光灯がブチリと切れ、巻はボトリと床に落下した。その拍子で、口元を覆っていた布がハラリと取れてしまう。
 その下から現れたのは、淡い桃色の小さな唇。口紅を塗っている……ワケではないようだ。スッピンでこうなのだろう。寝顔は女の子そのもので、男の学生服を着ていなかったらまず間違えていただろうな。
 気絶しているのをいいことに、何人かの女子が集まってきて巻の顔をマジマジと観察し始めた。黄色い声を上げる者、舌なめずりをする者、ピロリロリンと嬉しそうに写真を撮る者と様々だ。男子も何人か集まってきて、興味深そうにジロジロと見始める。忍者として……というよりは、その容姿に惹かれてといった感じである。その内の一人が満足そうに頷き、「これならイケそうだ」と感慨深そうに呟いた。……どこに行くつもりなんだろうか?
「ふぁ〜……ふぁあ!? な、なんだこりゃ!?」
 眼を覚ましたと思いきや、巻は怯えながら飛び起きた。そりゃそうだ。十人以上がぐるりと周りを囲んで、巻をジッと見つめているのだから。下手なホラーより怖い光景だよ。
「リ、リンチでござるか!? それとも拷問に掛けられるのでござるかー!?」
 拷問という言葉に、カミラではなくルシュが反応した。そして、ニヤリとドSな笑みを浮かべる。……意味もない拷問すら、ルシュは喜んでやりそうだな。
「……んん?」
 何かに気づいた巻は、自分の顔を触った。ペタペタと、あるべき筈のモノを確かめるように。触れる回数が重なるにつれ、顔色は徐々に青ざめていく。周囲に居る全員が、覆面として使用していた布を指差した。
「……見ちゃったでござるか? 拙者の素顔を」
 全員が頷く。見ちゃったも何も、写真として残したヤツまで居るのだが。
「あわわわ……」
 急にわたわたと慌て始め、巻の顔が真っ赤に染まっていく。
「ダメでござる。見ないで欲しいでござる。ダメなんでござるよぉ……」
 素顔を見られるのが恥ずかしいのか、巻は片手で両眼を隠し、もう片方の手でさぐりさぐり布を探し始めた。……男の筈なのに、この妙なエロさは何なんだろうか?
 それを見守る女子たちの顔は恍惚に満ちていて、今にもよだれが垂れそうだった。遥、カミラ、ルシュの三人は平然としていたが。
 ようやく探し当てた巻は、急いで覆面を付け直した。そして、再びマフラーをひるがえしながら、顔の前でチョキを閉じたようなポーズを決める。
「おおお、おのれ! 拙者の覆面を剥ぎ取るとは卑怯な! 普通の覆面忍者だったら、今頃恥ずかしさで切腹モノでござるよ!?」
 正体がバレたからではなく、恥ずかしさで切腹なのか。最近の忍者はシャイなんだな。
「きょ、今日の所は出直すでござる! 忍者の本分は隠密! ゆめゆめ夜道の背後には気をつけるのでござるな!!」
 夜襲だから今までで一番忍者っぽくはあるが、どうにもただのヤンキー戦法な気がしてならないんだが。
「ニンニン!」
 巻は囲んでいた生徒たちを掻き分け、勢い良く三階の窓から飛び降りる。教室内はざわめき、みんな窓際に走っていく。危ない、と思ったからではない。最後の最後にアレが見られるのかと、全員が期待しているからだ。しかし、その期待とは裏腹に、巻はそのまま自由落下を続けている。それに、何だか必死にもぞもぞと動いているように見える。……まさか、風呂敷が上手く取り出せないのか?
 ようやく風呂敷を取り出して広げたかと思えば、もう地面はすぐそこだった。
「ヨッ! ハッ! オリャッ!」
 巻は何とか体勢を整えるが、滑空することなく、まるで出来損ないの紙飛行機のように、地面をズザザザ……と悲しくなるような砂埃を巻き上げていった。教室内は、失望のため息で溢れかえっていた。
 巻はスクッと立ち上がり、パンパンと丁寧にホコリを払った後、片腕で両眼を隠しながら、物凄いスピードでどこかへと走り去っていった。

 ◆---------------------◆

 巻は太い梁(はり)の上を、中腰のままスタタタと足音を立てずに走っていく。
「ニンニン」
 天井の梁から梁へと移り、目的地の最短距離を駆け巡っていく。あの敗北から二日経ち、巻は今、遥の家の天井裏に忍び込んでいた。目的はモチロン、忍者の本分である暗殺だ。
――確か、この辺でござるな。
 真下の部屋を確認するために、巻は天井の板を外そうとする。しかし、どこを見ても切れ目がない。どうやら一枚板のようだ。
――これだから現代の建物は! 全く、忍者に優しくない設計でござる。
 仕方がないので、巻は細い錐(きり)を取り出し、天井に穴を開けることにした。ゴリゴリと削り、ピンホールから中を覗き込む。
 部屋の中はかなり質素だった。ベッド、タンス、テーブルと最低限の家具しか見当たらない。唯一女の子っぽいモノは、UFOキャッチャーで獲ったと思われる巨大なウサギの人形一つだけだった。
――ここではござらんのか?
 巻にはここが遥の部屋だとは思えなかった。女子高校生らしいファッション雑誌の一つも転がっていないのだから。しかし、
「はい、上がって上がってー」
 学校から帰ってきた遥が、巻の見ている部屋に入ってきた。スムーズな動作でカバンを壁に掛けていることから、ここが遥の部屋である事には間違いないようだ。
「おじゃましまーす」
 続いて入ってきたのは先日学校でも会った、ターゲットの彼女、徹だった。特徴の無いその顔は隠密向きでござるな、と巻は思った。
「相変わらずモノが少ないなぁ。前に買ったMP3コンポ、また壊れたの?」
「そーなのよ! ちょっと聞いてよ、徹! 再生しようとしたら何かダメで、故障かなって思って軽く叩いたら、煙を上げて壊れちゃったのよ! もう、何で最近の機械は軟弱なんだろうねぇ?」
 遥の言葉に、徹は乾いた笑いを返していた。
 巻は心の中で舌打ちをする。一般市民を巻き込むわけにはいかないし、何よりも二人居ては不意打ちがし辛い。仕方がないので、しばらく様子を見守ることにした。
 ふと、遥が顔を上げた。かと思えば、ゆっくりとこちらの方を向き、何の脈絡も無く、巻と視線が重なった。ゾゾゾと背筋に寒気が走った。曲がりなりにも、巻は忍者。気配は殺していた筈だ。にも関わらず、完全に油断しきっていた筈なのに、遥は部屋に入ってほんの数秒で巻の存在に気づいたのだ。
 身の危険を感じた巻は、急いで隣の梁に移った。息を殺し、気配を更に殺し、心臓までもを殺してしまうように。
「どうした? 虫でも居たの?」
「う〜ん、分かんない。多分気のせいかも」
 その言葉の後で、巻の身体がフッと軽くなったような気がした。ここからの位置では穴を覗くことが出来ないので、ハッキリとは分からないが、どうやら視線を徹の方に外したようだ。
――恐るべし、遥殿。まさか、見られただけでここまでプレッシャーを感じるとは……。さすが人類最強と噂されるだけはあるでござるな。くくく……。これ程の実力者を倒せば、拙者の評価も、ひいては忍者の評価もうなぎ登りでござるよ。きっと給料も……。
 クナイも新調して、風魔手裏剣も買ってしまおうかと夢想していたら、巻は気づかない内にニヤニヤと笑っていた。
「ん?」
 再び襲い来るプレッシャー。ほんの少し笑っただけで、遥は勘付いてしまった。
――あわわ……これもダメでござるか!
 再び気配を殺し直す。すると、身体がフッと軽くなった。安堵から、じっとりと汗ばむ。
――今日はもうダメでござるな。一時撤退して、体勢を立て直すでござるよ。
 一度でも気づかれると、何かが居るという意識が生まれてしまう。すると、無意識の内に警戒をするようになる。相手は人類最強。完全な不意打ちでなれば、倒すことは出来ないだろう。そう考えてのことだった。
 巻はこの場を離れようと、最大限に気配を殺しながら、カメよりも遅い歩みで後退を始める。
「んん?」
 三度襲いかかってくるプレッシャー。鉄のように重く、今までで一番強かった。完全にこちらの存在に気づいているようだ。
――これもダメなんでござるかー!? 拙者にどーしろっていうんでござるかー!?
 慌てて気配を殺してみても、身体が軽くなることはなかった。きっと、こちらをジッと見つめているのだろう。
「遥、何か居るのか? 気になるなら、俺が見てみようか?」
 ダメ押しの言葉だった。巻は、いざとなったらこの爆竹で木っ端微塵の術……っぽい事をしようと覚悟を決めた。
「あっ、ううん。いいよいいよ。屋根裏に居るのはネズミって相場が決まってるし」
「それか、忍者だな」
 心臓がギュッと縮まった。
――よ、余計なことは言うなー!
 それから、数秒間の沈黙が訪れた。その間、巻は生きた心地がしなかった。
「まっさかー」
「だよなー」
 あっはっはっ、と二人の笑い声が聞こえてきた。それと同時に、プレッシャーもなくなっていた。どうであれ、徹の言葉に助けられる形となったようだ。
――かたじけないでござる、徹殿。
 しかし、事態が好転したワケでもなかった。笑うのもダメ。後退するのもダメ。奇襲を掛けるなんてもってのほか。もう、ハシビロコウのように、チャンスが訪れるのをジッとしている他になかった。
「そうだそうだ、これを見てくれ」
「あー、この間の。写メ貰ったの?」
「面白そうだから貰っておいた」
「可愛い顔してるよねー、この男の子」
 もはや巻は、薄暗い天井を見つめたまま、二人の会話を聞いてる他になかった。
「あぁ、やっぱり遥もそう感じるんだな。女子に人気ありそうだもんな、この顔」
「……ヤキモチ?」
「……ちょっとだけ」
 二人の間に、暖かい沈黙が訪れた。
――なんで拙者は、この空気の中に居なければならないのでござろうか……?
 そう疑問に思ったところで、どうにも出来ないのが現状だった。
 その後も何気ない会話は続いていく。コンビニのラインナップがどうだとか、面白いテレビがどうだとか、端から聞いていてこれほど面白くない会話はないだろう。巻の緊張感はどんどん無くなっていき、動けないという退屈さも加わって、知らぬ間に微睡んでいた。

 ※

「……ふぁ、寝ていませんよ!?」
 意味不明な寝言で飛び起きる巻。ゴンッ、と頭上の梁に思いっ切り頭をぶつけた。
「――――ッ!」
 天井裏に侵入していたことを瞬間的に思い出し、口を手で塞いで叫びを飲み込んだ。
――痛いでござる! 痛いでござる! 痛いでござるー!
 絶対に音は立てられないので、巻はエア地団駄で悔しさを発散した。
――不覚。つい眠ってしまったでござる。
 何とか落ち着いた巻は、ケータイで時刻を確認する。
「ッ!?」
 驚きのあまり、また声を出しそうになった。
――帰投時間ギリギリではござらんか!
 時刻は既に、日が変わる十分前だった。巻が所属している課では、指示がない限り必ずその日の内に、事務所に直接出向いて報告をしなければならない絶対規則がある。迅速な情報の統括目的もあるが、一番の理由は裏切りを防ぐためである。これを破ってしまうと……三ヶ月の減給、並びに毎日事務所内全ての掃除という、地味で地獄な罰が科せられるのだ。
――まずいでござる! 急いでここから脱出せねば……!
 帰投しようと一歩踏み出したところで、巻は立ち止まった。普通であれば、高校生はもう寝ている時間である。そんな時にでもカンが鋭いのか、せめて確認しておこうと思ったのだ。
 ピンホールから覗き込むと、警戒心の欠片もない遥の寝顔が見えた。軽く殺気を送ってみても、まるで反応が無い。
――チャンス……なのでござるか?
 迷っている暇はなかった。千載一遇のチャンスだと信じて、突き進むしかなかった。錐を取り出し、もう一つ穴を空けていく。遥の口に、真上から糸で毒を垂らす為だ。
――空いた!
 覗き込んで位置を確認すると、惜しいことにこの位置からでは上手く入らないことが分かった。巻は悔しがる時間すら惜しみ、急いでもう一つの穴を空ける。
――今度こそ!
 しかし、また微妙に位置がずれていた。ここから垂らしたら、寝耳に水で飛び起きるだけだ。
 また一つ、もう一つ、おまけに一つと、どんどん穴は増えていく。最終的には蜂の巣のようになっていた。
 やっとの事で口の真上に穴を空けられた時にはもう、時間は23時58分になっていた。遅刻が確定したからといって、開き直るわけにはいかなかった。遅れれば遅れるほど、減給と掃除の期間が延びていくのだから。
 急いで糸を垂らし、震える手で小ビンから毒を流し込んでいく。
「あっ……!」
 慌てるあまりに、二、三滴垂らすどころか、ドボドボとほぼ一瓶を遥の口の中に流し込んでしまう。
――ああ……! もうダメでござる!
 どれだけ熟睡していようと、大量の水が口に入れば誰だって起きる。巻は身を竦めながらそう思った。しかし、遥はまるで水溜まりのようなそれを、眼を覚ますこと無くゴクリと飲み込んでしまったのだ。
 予想外の成功に、巻は呆気にとられ、眼をパチクリとさせた。
――や……やったでござる!
 遅れて勝利のガッツポーズを取った。しかし、勢い余って肘が梁にぶつかり、電気でも流れたようにビリビリと痺れる。
――あわわ……痛いでござる。しかし、勝利には痛みが付きもの。さて、効果が現れるのは翌朝ぐらいでござるな。見届けられないのは残念でござるが……。
 巻は、遥に気づかれる前に、そしてこれ以上減給と掃除の期間が延びないように、来た道を戻り始める。
――さらばでござる。人類最強よ。
 閉じたピースで、巻は別れを告げた。

 ◆---------------------◆

 朝、俺はいつものように遥の家まで迎えに行っていた。しかし、玄関で待ち続けて早十分。一向に出てくる気配がない。ケータイで時間を確認すると、いつもなら出てくるはずの時間をとうに過ぎていた。
「遥ー?」
 二度目の呼びかけにも、全く反応が無かった。単なる寝坊だったら、家の中から慌ただしい物音が……というか、まるで工事中みたいな音が聞こえてくる筈なのに。
 既に登校してしまったのだろうか? 先生から急な呼び出しがあって? ……それなら、メールの一通でも寄越すはずだ。どんなに忙しくて緊急な時でも、遥は約束をすっぽかすようなタイプではない。暑中見舞いのメールを送ってくるほど筆まめなのだから。
 しばらくの間そう言った自問自答を繰り返していると、玄関がキィ、と心許ない音で開いた。
「あっ、おはようハル……カ?」
 そこには、俯き加減でお腹を押さえている遥が居た。全然元気が無く、いつもは跳ねるように降りてくる階段を、仕事に疲れたサラリーマンのようにトボトボと降りてくる。心なしか、ポニーテールもしなびている気がする。
 どうやら答えは、朝食を食べられなかった、のようだ。遥の両親は朝早く出勤するので、いつもは作り置きしていくのだが、たまに忘れていく時がある。そういう時は買い置きのパンやら朝っぱらからカップラーメンを食べたりするのだが、今日はそれもないらしい。
「今日もおはよー、徹……」
 今にも消えてしまいそうな声で挨拶をする遥。……なんだか保険の小林先生が乗り移ったみたいで怖かった。
「ごめんねー、徹。なんか、朝からお腹の調子が悪くってね……。薬飲んでも効かないし」
「えぇっ!? ま、マジですか!?」
 朝っぱらから大声を上げて驚いてしまった。今年で一番の大事件だよ。遥がお腹を壊しただなんて、初めての事だ。まさか、対人類最強のウイルスでも誕生したのか?
「だ、大丈夫なのか? 案外、お腹出しっぱなしで冷えたとか?」
 そうは言ったものの、例え遥が北極でお腹を出しっぱなしで寝たとしても、冷えるなんて事は絶対に無いと思うが。
「もう、失礼だよ徹。私は子供じゃないんだからね。たまたまよ、たまたま。随分と久しぶりの腹痛だったから、ちょっとビックリしちゃったけど。うーん、何か悪いモノでも食べたのかなぁ……?」
 遥はお腹を押さえたまま、首を傾げた。普通の人なら、そう考えるだろう。しかし、二人で行った飲食店が集団食中毒に遭い、俺が穴という穴から液体がだだ漏れている中でも、遥だけは無事だった。だからこそ、腑に落ちなかった。仮病でなければ、遥が腹痛になる原因など存在していない筈なのだから。
「私は大丈夫だから……ね。学校に行こうよ」
「あ、あぁ……」
 俺はその事で頭が一杯で、生返事を返すしかなかった。



 なだらかな下り坂を抜けると、天高くそびえ立つコンビニの看板が見えてきた。
「ゴメン……ちょっとスッキリするモノ買ってくる。すぐ戻ってくるから、徹はここで待ってて」
 そう言って、遥は力無い足取りでコンビニに向かっていった。普段なら一緒に付いていくが、今は一人で考えたかった。それにしても……何故なんだろうか? 遥が腹痛になる原因が全く分からない。なぜ? なぜだ?
「なぜなんでござるか……?」
 つい口に出してしまったのかと思ったが、俺は『ござる』なんて語尾に付けない。
「なぜピンピンしているでござるか……?」
 いつの間に来たのか、すぐ近くに巻が居た。しかし、何故か酷く動揺しているようだった。
「瓶一本飲んだのに、腹痛で済むなんておかしいでござる!」
 巻は悔しそうに地団駄を踏む。飲んだ? ……いや、
「遥に……何か飲ませたのか?」
「そうなんでござるよ! 毒を飲ませたのに、ピンピンしてるんでござるよ! あの娘、怖いでござる!!」
 まるでゾンビでも見てしまったかのように、巻は恐怖におののきながら簡単に白状してしまった。
 それにしても、毒……か。毒を飲んで腹痛になった。普通じゃ考えられない話だけど、遥ならあり得る考。つまり、遥の毒を中和する力が、巻が盛った毒がそれを上回った、という事なのかも知れない。ということは、遥は毒にも弱いのか……?
 にわかには信じがたい話だった。まさか、人類最強になったと思った遥に、『もう一つの弱点』があるだなんて……。
「……あ」
 いや、違う。思い出した。昨日、屋根裏に何かが居たことを。忍者じゃないか、と冗談で言ったが、アレは当たっていたのか。となると、もしかして、偶然にもそれに当たったのか……?
「それは……何時ぐらいに?」
 慎重に、それとなく聞いてみた。
「深夜でござるよ。もう、日付が変わるまで頑張ったのに……ただでさえ少ない給料が減って、更に今日から毎日掃除とは……」
 巻は涙声で要らぬ事まで語ってくれた。よく分からないが、何かしらの罰があったらしい。
 ちくしょう、やっぱりそうなのか。巻の証言で、ようやく全てのつじつまが合った。それなら、合点がいく。だが、巻の様子から見るに、その弱点はまだバレていないようだ。不幸中の幸いとはこの事か。
 ……いや、ちょっと待てよ? 深夜に毒を飲ませたから……遥は腹痛になった? それは毒を中和しきれなかったから? ……違う。中和する機能が働く前に、毒を飲ませられてしまったからだ。つまりそれは……その事実に気づいた途端、全身に粟立った。
 危なかった。本当に危なかった。あと数分、いや数十秒でも毒を飲ませるのが早かったら、遥は本当に……死んで……いたかも知れない。
 遥は間違いなく人類最強だと思う。だけど、俺の知る限りでは唯一無二の……弱点があるんだ。最強ではあるけど、無敵じゃない。どうせなら無敵彼女になって欲しかったけど、そうもいかないようだ。
 遥の弱点……それは、日付が変わる三十分前だけは……普通の女の子に戻ってしまうという事。

 それに気づいたのは、二十回目に――最後に攫われてから一ヶ月後の事だった。

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 今年の春休みに、俺たちは学年が上がる記念にと、電車で遠出をしていた。
 番組で紹介された汚くて美味しい店とか、街をぶらぶら歩いてモヤモヤしている場所にツッコミを入れたりとか、なんだかよく分からないデートだった。だけど、とにかく楽しかった。そう、時間も忘れるほどに。
 気が付けば、もう終電は出発していた。俺たちは仕方なく、マンガ喫茶で始発の時間まで暇を潰すことにしたんだ。
 二人で座れる部屋を借り、俺はインターネットを始め、遥はその隣で俺の操作を見ていた。本当は遥もやりたかったそうなのだが、さすがにパソコンを弁償できるほどの甲斐性は持ち合わせていなかった。なので、遥の分も俺が操作していたんだ。
 11時半を過ぎた頃、夜食に二人ともナポリタンを頼んだことから、その事件は起こった。
 二人とも相手のことを気遣って、飲み物を用意しようと同時に立ち上がってしまったんだ。肩がぶつかり合い、バランスを崩した俺たちは、もつれ合いながら倒れた。俺は積み重ねていたマンガ本に頭をぶつけ、声を殺して悶絶していた。しかし、すぐ目の前に遥の顔があったと気づいた瞬間、その傷みは忘れてしまった。どうやら後から倒れた遥が、俺に覆い被さってしまったようだ。俺は息をするも忘れ、唇が触れそうな距離に居る遥から眼を離せなくなっていた。
 ……まぁ、この辺までは思い出さなくて良いか。とにかく、倒れた衝撃でフォークが床に転がり、それが運悪く遥の指先に突き刺さってしまったのだ。
 遥は痛いと声を上げ、涙目になって指先をさすっていた。ちょっと血が出た程度で、普通なら軽傷中の軽傷で誰も騒ぎはしなかっただろう。だが、俺にとってそれは付き合いだしてから最大の事件だった。あの遥が、血を出すケガをしたんだ。何か不吉な事が起こる前兆じゃないかと、本気で不安になっていた。
 だけど、本当の大事件はこの後に起こったんだ。
 傷が、なかなか治らなかったんだ。本来であれば瞬間的に治る筈なのに、今回のケガは完治するまで実に二日も要したんだ。それが気のせいや偶然であれば、どれだけ良かったことであろうか。遥には悪いと思ったが、本当にケガをしたのかどうかの実験を既にやっているんだ。だけど、針で刺すなんて俺にはとても出来ないから、つまようじでチクリとやる程度だけど。
 それから一週間後、同じく春休み中に、楽しかったからもう一回行こうと誘ったんだ。そして今度はわざと終電を逃し、また同じマンガ喫茶で、同じ席で実験することにした。
 結果は……俺の予想通りだった。11時から12時の間に、20分置きに計5回こっそりと刺してみたが、11時半から12時の間だけ痛がっていたんだ。医者のような精密検査をしたワケじゃない。だけど、絶対に間違ってはいないと胸を張って言える。これでも、遥の彼女なのだから。
 あと、傷がなかなか治らなかった件については、俺が推測するに日付が変わる三十分前は何もかもが普通の女の子に戻ってしまうのだと思う。そして、その三十分の間に負ったケガは、恐らく『遥の身体的特徴』として処理され、回復されないのかも知れない。それでも傷が治るのは、通常より時間が掛かってしまうのは、普通の人が持つ治癒能力で治しているからではないだろうか? もし完璧な形で回復されるのなら、遥が欠点と思っている場所すら治ってしまう筈だからだ。その証拠に、遥の体型は付き合いだしてから良くも悪くも何一つとして変わっていなかった。

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 そして今回、遥が腹痛だけで済んだのは、少しだけしか毒が回らない内に、日付を越えたからだと思う。残りは外敵と見なされ、ほとんど駆逐されていったのだろう。本当に、運が良かったとしか言い様がない。
 マズイな。へっぽこ忍者だからと油断していた。寝室に忍び込んでの暗殺なんて、忍者の十八番ではないか。深夜に本領発揮する巻と、夜だけ普通に戻る遥。あまりにも最悪な噛み合わせだ。
 予想だにしなかった、遥の――人類最強の天敵が、出現してしまったようだ。
「かくなる上は……商売敵を見習って……」
 何やら巻がぶつくさと独り言を喋っている。かなり不吉なワードが聞こえた気がするが、きっと空耳だろう。嫌な予感だけは、消えてくれなかったが。
「ごめーん、お待たせー」
 買い物袋をぶら下げた遥がコンビニから出てきた。気が付くと、巻はいつの間にか消えていた。たまには忍者らしいこともするようだ。
「スッキリするもんは買ってきたの?」
 俺の質問に、遥は袋からペットボトルを出して答える。それを見て、思わず眼を疑った。ペットボトルの中には、濁ったピンク色のような液体がうごめいている。もう、商品名は見なくても分かった。この街を侵略しつつある、二度と飲みたくない飲料水殿堂入りの、ドリアンジュースだ。
「これでバッチリ!」
 これでスッキリ出来ると思った遥の思考回路の方が、二十回も攫われた理由よりも理解不能だった。

 ※

 それから数日が経ち、休日明けの月曜日、再び巻が俺たちの前に姿を現した。
「今日から勉学を共にさせて頂く、煙 巻でござる。皆様方々、宜しくお願いするでござる」
 案の定という気持ちと、予想外過ぎるという気持ちがごっちゃになり、中腰のような気分のまま俺は固まっていた。
 巻が着ている制服は……スカート。上着も、女子生徒のモノだった。



「……で、結局どっちなんだ?」
 体育の時間、俺は巻だけを呼び出して説明を求めた。他の三人は、今頃ポートボールで勝負していることだろう。今回ばかりは平和な体育となりそうだ。……それにしても、せっかく特別ルールを決めたドッジボールも一回で中止となってしまって非常に残念だな。まぁ、理由は言うまでもないが。
「何がでござるか?」
「性別。男女なのか? それとも女男なのか?」
 或いはオカマなのか、という質問は飲み込んだ。これ以上その手が増えるのは勘弁して欲しい。
 俺らのクラスだけは、巻が男子の制服を着ていたのを目撃していた。さっきは、女子の制服を着ていた。そして今は、急遽用意された女子用のスパッツを履いている。疑問に思わない方がおかしい。
 問題なのは、女子の制服を、女子用のスパッツをまるで当たり前のように着こなしている事。そしてそれが似合っているからこそ、疑問が出てくるのだ。もし仮にオカマッチョが着ていたとしたら、誰も判断には迷わないだろうな。むしろ、警察に電話することを即決するかも知れない。
 俺の質問に対し、巻はいつものポーズを取り、
「両方でござる」
 と言って、はぐらかした。
「よし、分かった。今日からお前はオカマッチョとご同類という認識でいいんだな?」
「そ、それだけはご勘弁を!」
 巻は本気で嫌そうな顔をしていた。両方という扱いは良くても、オカマとしては扱って欲しくないらしい。……というよりも、オカマッチョが嫌なだけか。
「本当に両方なんでござるよ。拙者の主な任務は、潜入、並びに暗殺でござる。場合によっては、男子校や女子校に生徒として転入することも珍しくないでござる。その方が現地調査をしやすいでござるからな」
 なるほど。忍者と言えば潜入。そして潜入に欠かせないのが変装。巻は、性別を変装して潜入任務を行っている、という事か。
「……って、ごまかされないぞ俺は。本当の性別はどっちなんだよ?」
 そう、どれだけ変装しようと、必ず変装する前が存在している筈だ。しかし、巻はいつものポーズを取り、
「それは秘密でござる」
 とキッパリ言った。どうやら聞き出せそうもない。俺は思わずため息を吐いた。
「分かったよ。それでいいよ、もう。最後に確認するが、お前は女子として扱った方がいいんだな?」
 女子の制服を着てきたのだから、当然女子として転校してきたのだろう。恐らく、遥に近付きやすい為に。
「何ででござるか?」
 しかし巻は、何のことを言っているのか分からない、といった様子で首を傾げた
「……へ? いやだって、女子の制服着てきたし、遥に近付く為に女子として……」
「ここは共学でござろう?」
「いやまぁ、そうだけどさ」
「だったら、両方でも構わない筈でござる」
「う、うん?」
 理屈的におかしいような、合っているような。……いや、やっぱりおかしいだろ。共学=おかまだらけの学校だったら、俺はとっくに登校拒否してるわ。
「というわけで、性別はその日の気分によって変えるでござる」
「なんか……ナメクジみたいだな」
「そんな例えも止めて欲しいでござる……」
 これで一応、性別に関する疑問は解決……出来たんだよな? ますます分からなくなったような気がしないでもないが、まぁいいか。最終手段として、ブツを掴めるかどうかで確認出来なくもないが、ハズレたら巻ではなく遥に殺されかねない。そんなロシアンルーレットはお断りだよ。
「さて……」
 俺は気合いを入れ直した。巻を呼び出した本当の理由は、ここからだ。
「巻がここに来た理由って、遥に協力を求める為なんだよな?」
「そうでござる。日の本に生まれた者は、日の本の為に尽力する義務があるのでござる。ただ最近は、遥殿の命を狙う輩が増えたので、保護する目的もあったのでござるよ?」
「その割りには問答無用で殺しに掛かっていたような気がするけど……」
「あ、あれは……上司の命令だから仕方がなかったのでござるよ。協力を求められなかったら、他の者の手に墜ちる前に始末せよ、と」
 それを保護とは言わないだろ。
「だから昨日、深夜に遥の寝込みを襲ったのか?」
「ひ、人聞きの悪い言い方をしないで欲しいでござる! 暗殺と言って欲しいでござるよ、暗殺と!」
 自分で言っておきながら、全くその通りだと思った。これでは性的な意味の方にしか聞こえないではないか。俺は咳払いをして場を取り直す。
「とにかく、深夜に攻撃するような事は止めて欲しいんだ」
「何ででござるか?」
「だって、卑怯じゃないか。他の二人は真っ昼間から正々堂々勝負を仕掛けているのに、巻だけが深夜に寝込みを……ゴホン、暗殺を仕掛けるなんて」
 嘘も方便。本当は卑怯だなんてこれっぽっちも思っていない。結局、勝てれば方法や過程など、どうでも良いのが真剣勝負である。しかし、遥が普通に戻る時間から遠ざけることが出来るのであれば、何だってやるつもりだ。
「忍者のアイデンティティを否定しないで欲しいでござる……」
「それが正義のヒーロー、忍者のする事か?」
 俺の言葉に、巻は揺らいでいた。自分だけが卑怯なことをしても良いのか、と。日本を代表する者として恥ずかしくないのか、と。……まぁ、カミラは容赦なく不意打ちしてくるけど。
「いやしかし、しかし……! 忍者とは、耐え忍ぶ者。任務を遂行するためならば、例え……例え卑怯者と罵られようとも、それにすら耐えるのが忍者でござる!」
 頑とした決意を秘めた眼で、俺を真っ直ぐ見つめてくる。ちくしょう、変な方向に開き直ってしまったようだ。こうなると厄介だな。何を言っても、もう動じないだろう。
「……分かった。そこまで覚悟があるのなら、仕方がないか……」
「そうでござる! 拙者は忍者! どんな試練にも耐えてみせるでござる!」
 肩を落とした俺を見て、正義は我に有り、とでも言うように巻は両腕を組んで増長する。
「それは丁度良い」
 俺は、ニヤリと笑った。
「へ?」
 言葉がダメなら、物的に攻めるのみだ。俺は体操着のポケットからケータイを取り出し、一枚の写真を巻に見せつける。
「そ、それは!? なぜ徹殿が持っているのでござるか!?」
 驚きのあまり、巻は後退った。どうやら効果はバツグンのようだ。
「どうだ? 良く撮れているだろう?」
 写真は、気絶している巻の素顔を撮ったもの。既に結成されつつあるファンクラブの女子から、写メして貰ったヤツだ。
「あわわわ……」
 急にわたわたと慌て始め、巻の顔が真っ赤に染まっていく。やはり弱点はこれのようだ。
「深夜には攻撃しないと約束してくれるのなら、この写真は捨てよう。どうだ?」
 覆面を付けているにも関わらず、巻は自分の顔を両手で覆い隠す。……それにしても、何で恥ずかしいんだろ? 俺ですらハッとするような美形なのに。これで恥ずかしいと言われたら、俺はガスマスクを被って生きて行かなくちゃならんのだが。
「なぁ、素顔を見られるのがそんなに嫌なのか?」
「当たり前でござる! 忍者の素顔は裸を晒すのと同じ! そんな……裸の写真を見られたら……誰だって恥ずかしいでござるよぉ……」
 耳まで真っ赤になった巻は、身体を縮こませ、子猫のようにぷるぷると震える。分かったような、分からないような。……まぁ、弱点であることには変わりないか。
「そ、それでどうするんだ? 約束するのかしないのか、どっちなんだ?」
 ちょっと可哀相な気もしてきたが、約束してくれるまでは止めるワケにはいかなかった。
「うぅ……」
 巻は恥ずかしさから膝が笑い始め、ついにはしゃがみ込んでしまった。
 ついに折れたか。これでもう大丈夫だろうと、天敵は消え去ったと俺は思った。だがしかし、巻の意志は想像以上に固かった。顔を隠すのを止め、気丈にも俺をキッと睨み付けてきたんだ。
「そ、それがどうしたでござるか!? だ、だだ、誰に見られようとも、拙者の意志は変わらんでござる! 変わらんのでござるよー!」
 一度折れた筈の心と共に立ち上がり、自分を奮い立たせるように巻は叫んだ。
 その毅然とした態度に、俺の方が折れそうになった。ヘッポコでも忍者は忍者。我慢のエキスパートを屈服させる事なんて、俺には……出来ないかも知れない。
 そう諦めかけたとき、巻の言葉が頭に引っかかった。誰に見られようとも、変わらない……? 果たして、その言葉は本当なのか?
「よーし、言ったな」
 試してみる価値はあると思った。俺はケータイを操作し、とあるアドレスにその写真を添付する。後は、送信ボタンを押すだけだ。
「さて、俺はこれから写メを送ろうと思う」
「だ、誰にでござるか?」
 巻はビクビクとしながら、俺にそっと尋ねた。
「さぁて、誰だろうねぇ……?」
 更なる恐怖心を煽るため、俺は勿体振った言い方をした。きっと俺の顔は、ルシュのようなドSに満ちた笑顔をしていただろうな。
「知りたいのなら、教えてあげよう。ほぅら、見てご覧……」
 俺は、ゆっくりとケータイの画面を見せた。その瞬間、巻の顔が赤から青へと変わっていく。
「あわわ……あわわわ……」
 あまりの恐怖に、巻は腰を抜かしてへたり込んでしまった。
 そう、送り先の主は……オカマッチョである。たまたま緊急連絡網に書かれてあったのを登録していたのだが、よもやこんな形で役に立つとは思わなかった。
「この写真を手に入れたら、オカマッチョはどんな反応をするだろうなぁ……」
 これだけの美少女……いや、この時は美少年か。オカマッチョなら待ち受け画面にするほど大喜びするだろうな。……まぁ、他の使用目的は考えないでおこう。
「わ、分かったでござる! 約束するでござる! もう二度と深夜には襲いかからないでござるよ!」
 巻はさめざめと泣きながら、遥には深夜襲いかからないことを約束してくれた。奇跡の逆転劇に、俺は感無量のガッツポーズを取った。恐るべし、オカマッチョ。今だけはこの学校にオカマッチョが居て本当に良かったと思う。……本当に、今だけは。
「よし、じゃあ戻ろうじゃないか!」
 説得に成功した俺は、意気揚々と歩き出す。もしかしたらスキップすら踏んでいたかも知れない。一方言い負かされた巻は、トボトボと肩を落として歩いていた。
「……そういえば、『インビシブル・イレブン』ってどういう意味なんだ? 見えない11課? 透明な11課?」
 俺は振り返って、ふと思い出した疑問をそのままぶつけた。カミラやルシュがやけに驚いていた事から、かなり有名で、強い組織なのかも知れない。
「違うでござる。正しくは、『見ざるの11課』でござるよ。現・官房長官の千道氏が趣味で設立した、忍者チームの事でござる」
 官房長官の千道? ……あぁ、テレビで『まだ慌てるような借金じゃない』と言って世間を賑わせたあの人か。金が無い、金が無い、と増税を繰り返しているのに、設立した理由が趣味というその11課が明るみになれば、また世間を騒がせるんだろうな。
「きっと、拙者のような影に生きる存在を、国は認めたくないのでござろうなぁ……」
 巻は自己陶酔しながら言った。見ざるの意味を、そう捉えているらしい。
 俺には何となく分かる。国が認めたくないのは影の存在では無く、税金の無駄遣いなんだろう。多分、『インビシブル・イレブン』の本当に正しい意味は、『臭い物には蓋をしておけよ11課』って事なんだろうなぁ……。

 ◆---------------------◆

 その日の放課後、以前来たファミレスで、秘密裏に会合が行われていた。メンバーはカミラ、ルシュ、巻の三人。全員が遥の命を狙ってここに集まり、そして失敗していった者たちだ。
「ワシを含め、この体たらくは何なのであろうな? 機関、軍隊、組織……。それぞれの代表として遥に挑み、誰一人として傷一つ付けられず、無様に敗れ去った……」
 ルシュはもう何度目か分からない深いため息を吐いた。ここに着いてからずっとこの調子で、注文した宇治金時アイスは既に液体となっていた。
「ナイフは効かない。爆弾も効かない。炎も効かない」
 カミラは飲み残った氷をストローでガシガシと突きながら、ヤケクソ気味に言った。
 覆面の下にストローを通し、器用にコーラを飲んでいる巻が、
「ついでに毒も効かなかったでござる」
 そう付け足した。
 それを聞いたカミラとルシュは、呆れ顔で深いため息を吐き、ぐったりと項垂れる。
「あとは何が効かないんだ? スタンガン? 液体窒素? もう死の司祭すらお手上げだな」
 カミラは言葉通り戯けてバンザイをする。
「ふむ……悔しいが、ワシ一人ではどうにもならないのが現状じゃ。今日集まって貰ったのは、その相談でな」
「断る」
 ルシュが本題に入る前に、カミラは即拒否した。
「どうせ『三国同盟』みたく共同戦線を張ろうって話だろ? アタシはごめんだね。頑張って遥の血を入手出来ても、賞金が山分けじゃ研究開発費に足りないのさ」
 カミラはアンケート用紙の裏に円で賞金額を書き、3で割って見せた。
「アンタらは、これっぽちで満足なのかい?」
 カミラの言動、そして書かれた賞金額を見て、ルシュと巻は首を傾げた。
「もしかして、お主……賞金が倍になったことを聞いておらんのか?」
 ルシュの言葉に、カミラは凍り付く。
「……え? だって、本国からはそんな連絡なんて一つも……」
 カミラは慌ててケータイを取り出し、着信履歴や新着メールが無いかを確かめる。しかし、どちらも0件。諦めきれず、メールセンターに問い合わせても結果は同じだった。大きく肩を落とし、しゅんとなってしまった。
 それを見たルシュが、巻にそっと耳打ちをする。
「これが今、日本で問題になっている派遣難民の実体か?」
「あながち間違っていないから、何とも否定し難いでござる……」
 空気が重く、耐え難い沈黙がこの場に訪れる。それを破ったのは、巻の着メロだった。
「巻でござる。……はい。……また増えたんでござるか!?」
 次いで、ルシュの携帯も鳴り始めた。
「ワシだ。……何? 三倍じゃと……!?」
 他の二人の反応を見たカミラは、もう一度ケータイを取りだし、いつ鳴っても良いようにと通話ボタンに指をセットした。高鳴る心臓に、はやる気持ち。焦って通話ボタンを押しそうになるのを、何度も耐える。しかし、二人の通話が終わっても、カミラのケータイは一度も鳴らなかった。
 悲しさのあまり、カミラは設定している着メロを口ずさんでいた。こちらに来てすぐこのケータイを購入し、すぐにこの着メロを設定したが、まだ一度も鳴っていない。
「ま、まぁ……これで賞金について揉めることはなさそうじゃな」
 また重くなりそうな空気を振り切るように、ルシュは立ち上がって手を差し出した。
「そ、そうでござるな。異論はないでござる」
 巻も立ち上がり、その手を握った。そしてカミラは無言で立ち上がり、両手で二人の手を覆った。仲間はずれは許さないよ、とでも言うように。軽く怨念めいたものを感じ、ルシュと巻は寒気を感じて身を竦めた。
「さて、御三家の出陣と参ろうかのう」

 ◆---------------------◆

 何の前触れもなく、ある日突然、カミラ、ルシュ、巻の三人が学校に来なくなった。
 無断欠席が丸一週間も続き、担任が事情を聞こうと自宅に電話をしたが、全員嘘の電話番号を教えていたらしく、結局連絡は付かなかった。クラスメイトも同じで、電話はおろかメールアドレスすら誰一人として知らなかったようだ。
 周りがえらいこっちゃ、えらいこっちゃと騒いでる中、俺はそれを傍観していた。なぜなら、実を言うと俺だけが三人の電話番号とアドレスを知っているからだ。ケータイに不慣れな彼女たちに操作を教えたとき、いざという時の為にこっそりと控えて置いたんだ。これなら確実に連絡を取ることが出来る……が、いろいろと面倒なので黙っておくことにした。理由の一つとして、何だかんだであの三人の人気は高いので、連絡先を教えて欲しいとストーカー一歩手前の連中が俺の所に殺到してしまうからだ。
 当然というべきか、巻は男女ともに大人気である。時に美少年、時に美少女と来たら食い付かない人は居ないだろう。
 ルシュの支持者は偏ってはいるが、意外にも人数が多い。小さいは正義だと間違った拳を振り上げる人たちに、あの毒舌に罵られたいと願うお犬様体質な人たち。そして、その両方を兼ね備えた完璧超人な人たち。
 カミラは……なんか良く分からんが、それなりに人気があった。それも、ルシュと同じS側の人たちに。理由を聞くと、『見ているだけで無性にいじり倒したくなる』、だそうだ。……何となく分かってしまうあたり、俺も隠れSなんだろうか?
 まぁ俺から連絡すればそういう問題は起きないのだが、あの三人の事だ。俺がアドレスを知っていると分かったら、多分変えてしまうだろう。緊急時以外は、使わないと俺は決めたんだ。



 そして休日明け、無断欠席が八日目を向かえ、一部のファンクラブが金を集めて探偵を雇おうとしていた時、遥の下駄箱に一通の手紙が置かれていたことから事態は急転した。
「とと、徹ー! どうしよう、これ? アレだよね? これってアレだよね!?」
「まぁまぁ、落ち着けって」
「もう、無理だよ! だってラブレターだよ!? あぁ……ダメだ。ゴメン、私は怖くて見られないや。ねぇ、一生のお願い。徹が読んで、断りの返事を入れてちょうだい!」
 まるで風船ゲームのように、遥は仰け反りながら俺に渡し、眼をつぶって耳を塞いだ。断りの返事も何も……。手紙の表紙には、筆ペンでデカデカと『果たし状』と書いてあるんだが。これにすら気づかないって、どんだけ動揺してるんだよ。
 中に入っているのは紙一枚だけで、場所と時間だけが簡潔に書いてあった。差出人は無記名。まぁ、こんな手紙を出すのはあの三人以外に居るワケがないが。
「ねぇ、何て? 何て書いてあった?」
 遥は明後日の方向を向いたまま、聞かざる見ざるのまま質問した。これでは答えを聞く気があるのかサッパリだ。取り敢えず俺は……一番掴みやすいポニーテールを引っ張った。
「ちょわ!? な、なにすんのよ、もう!」
 驚いた遥は、耳から手を離した。少し照れているようにも見える。俺はその隙に、
「話題のあの三人からだよ。今日の午後5時、前にドッジボールをした場所でサプライズ・パーティーをしてくれるってさ」
 ラブレターじゃないと分かったからなのか、あの三人を心配していたのか、遥は心底ホッとした様子で深いため息をはいた。
「なんだ、ただの招待状だったのね。でも、サプライズ・パーティー? 何かの記念日だっけ? って、言っちゃったらサプライズにならないじゃない。もう、おっちょこちょいなんだから」
 そう言って、遥は苦笑した。本当は単なる果たし合いなのだが、まぁパーティーと似たようなものだろう。サプライズだけなら、豊富にありそうだしな。
「そっかそっか、なるほどね。無断欠席したのは、この為だったんだ。なんか悪いなー。まともな歓迎会もしてあげてないのにさ」
 なんだかんだ言いながらも、遥はご機嫌だった。軽やかなステップを踏みながら、指定された場所に歩き始める。
「って、ちょっ、遥、まだ四時! あっちで一時間も待つつもりか!?」
 俺の静止する声などどこ吹く風か。ついには鼻歌まで始める始末だった。
 ……しまった。変な嘘をつくんじゃなかった。まさか信じるとは。なんだかガラスの欠片を水晶と信じ込んでいる子供を騙しているようで、俺の良心がチクチクと痛むんだが……。
 頼む。パーティーみたいな決闘であってくれ。


 
 以前ドッジボールをしたコートの真ん中に、果たし状を出したあの三人……ではなく、カミラとルシュだけがこちらに背を向け、しゃがみ込んでいた。作戦会議中なのか、膝が触れるような距離で熱心に話し合いながら、木の枝で図を地面にガリガリと書いている。
 辺りを見渡しても、巻は居なかった。てっきり三人同時に襲いかかってくるものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。
「やぁーやぁー、ご苦労様」
 すこぶる上機嫌の遥が、二人に向かって労いの言葉を掛けた。
「げげっ!? もう来たのか!? まだ一時間前だっつーの!」
「消せ! 急いで消すのじゃカミラ!」
 まるで喫煙がバレた生徒のように、二人は足下にあるそれを慌ててもみ消す。そして、こちらを振り返り、嬉しそうな顔で手招きを始めた。
「おぉ、早かったな! ほらほら、こっちだこっちだ!」
「遥ネェ! 早く早く!」
 清々しいまでに白々しい笑顔だった。こちらに罠がございます、と大声で言っているようなもんだ。頼むから遥、そんなのに引っかからないでくれ。幼稚園児でも警戒するレベルだぞ。
「はーい、今いっくよー!」
 そんな怪しさ大爆発の二人に、一切警戒心を抱くことなく、遥は溢れ出す嬉しさを抑えきれず走り出してしまった。ああ……純粋無垢という言葉が今は恨めしい。
「来た来た。悪いけど、ここに立ってくれるか?」
 カミラが指差す先には、立ち位置の線――テレビ用語でいう場ミリ線が引かれてあった。遥は、やはり疑うことなく素直にその場所に立ってしまった。罠だ。絶対に罠がそこに仕掛けてあるんだ。
「遥ー。危ないよー。戻っておいでー」
 俺は一応そう忠告してみたが、これから何が始まるんだろう、という期待一杯胸一杯の顔をしており、俺の声が入る隙間は無かった。……彼氏としての立場がなさ過ぎて、ちょっと泣きたくなった。
「出番じゃ、巻ィ!」
 ルシュが叫ぶように号令を掛けた。クソ、やっぱり罠だったのか! しかも、罠のエキスパートである忍者――巻が仕掛け人なのか。
 俺は改めて周囲を見渡す。しかし、その影すら見当たらない。腐っても忍者。一般人に見つかるようなヘマはしないのか。どこだ? どこから来るんだ? 緊迫した空気がこの場を包み込む。……しかし、待てども暮らせども、巻は現れない。これも作戦の内なのだろうか?
「巻! とっとと出て来んかい! 燻し殺してしまうぞ!」
 再びルシュが怒鳴り散らすように号令を掛けた。どうやら想定外の事らしい。
 次の瞬間、土の中からボコッと両手が生えてきた。そして、遥の両足をガシッと掴む。ひえぇ、と遥が短い悲鳴を上げた。
「忍法・土遁の術でござる! ……うぐぅ、口に土が……」
 くぐもった声と、ぺっぺっ、と土を吐き出す音が地中から聞こえてきた。土遁の術……っていうより、これじゃただのドッキリだ。
「いやはや、申し訳ない。意外にもここが心地良くて、ついウトウトしてしまったでござるよ。拙者ではなく、この暗さとジメジメ感が悪いのでござる」
 巻がそう弁解した。忍者になると、キノコっぽくなるのだろうか?
「いやーー!! ゾンビーー!!」
 足を掴まれた遥は、完全にパニクっていた。サプライズ・パーティーなら、ここで完全成功で終わっていたことだろう。しかし、これは果たし合い。そして、三人による攻撃はまだ終わっていなかった。
「離してよーー!! もう、お願いだからゾンビさーーん!! いやーーーー!!」
 本当ならいとも簡単に振り解ける筈なのに、遥は驚きと怖さで立ち竦んでしまい、その場で騒いでいるだけだった。
「今じゃ、カミラ!」
 ルシュの号令で、カミラが一歩前に出た。
「随分と勿体ない事をしたなぁ、ハルカ。あと一時間は長く生きられたってのによ!」
 カミラはニィッ、と口端を歪め、両手をクロスするように胸の中に手を入れる。久々のおっぱい手榴弾が出るのか。だが、たったの二個だけでは、遥の服すら焦がせないぞ。そう思っていた矢先に、ズルリと、ベルトのようなモノが服の中から引っ張り出された。そこには、大量の手榴弾が数珠繋ぎになっていた。その数、実に二十個以上。
「『ジャガー・ノート』も腰を抜かす、爆弾の嵐を喰らえ!」
 両手に持ったベルトを、まるでムチのようにしならせる。一気に手榴弾と安全ピンが外れ、その全てが遥の足下に転がっていった。
「仕上げはアンタだ、ルシュ!」
「分かっておるわ!」
 ルシュは勢い良く両手を掲げる。すると、校庭の隅にあった校長の像と、校長のバイクが天高々と浮かび上がっていく。米粒大にしか見えないほど、高々と。
「来たれ、来たれ! つがいの赤き蛇よ!」
 袖の下から二匹の炎蛇が放たれ、まるで龍のように空へと昇っていく。恐らく、前と同じように炎を纏わせるつもりなのだろう。
「落ちる前に祈れ! これでトドメじゃ!」
 ルシュが手を振り下ろすと、それを合図に二匹の巨大な炎蛇は高速で落下し始めた。確かに高く上げれば上げるほど、落下時の威力は増していく。だがそれは同時に、回避できる時間も増えるという事だ。……だけど、何らかの方法で遥をその場に留めることが出来れば、これ以上の攻撃はない。
 俺は一気に不安になった。アレでは……まるで隕石ではないか。如何に遥が人類最強だとしても、人が生み出した最強の凶器――爆弾と、生物を滅ぼす最大の天災――隕石のコンボを受けて、果たして無事で居られるモノなのだろうか?
 遥は巻に掴まれたままだ。動揺している所為か、キャンセラーの力も働かず、炎に包まれた二つの隕石が遥に降り注ごうとしている。
「遥! 避けろ! 上だ!」
 遥自身が騒ぎ立てている所為で、俺の声が届かない。例えそれ以上の大声を出せたとしても、無駄で終わるに違いない。どうしたら良い? どうしたら俺の声が届く? どうやったらアレを避けられる? ……考えろ。そうだ、考え方を変えろ。俺の声を届けようとは思うな。遥が俺の声を聞きたいと思わせるようにしろ。足下の手ではなく、俺の方に興味を向かせろ。そうすればきっと、動揺も収まるし、アレを避けられる筈だ。どうやって興味を向かせる? 簡単だ。一番興味が湧く言葉を、大声で言えば良い。
 その言葉とは。それは、それは――。
「遥! す、すすす……好きだぞーーーー!! 人類で、一番!!」
 俺はあらん限りの声で叫んだ。突然の告白に、その場に居た全員が呆気に取られた顔になった。未熟なリンゴから成熟していくように、遥の顔が真っ赤に染まっていく。興味が、こちらの方に向いた。よしっ、成功だ!
「きゅ、急に何よ……! 大声でそんな事を言わないでよ! もう、恥ずかしい!!」
 一番恥ずかしいのは俺の方だ。遥の前でハッキリと好きだと言ったのは、実はこれが初めてだった。もっとロマンティックで大事なシーンで言いたかったのに、まさかこんな所で言うハメになるなんて。しかも、ギャラリー付きで。全く、死にたくなるよ。
「もう……しょうがないなぁ、徹は。しかも人類で一番だなんて……うふふ」
 あれだけ怖がっていた遥の顔が、完全に蕩(とろ)けていた。
「待っててねー。今そっちに行くからねー。……って、あれ? 歩けない? もう! 邪魔しないでよ、このゾンビ!」
 ついにパニックよりも怒りが勝り、遥は掴まれている右足を無理矢理引っこ抜き、その足で地面を踏みならした。その瞬間、地面には大きなクレーターが出来上がり、軽い局地型地震を発生させた。埋まっていた巻は当然モロにその衝撃を受け、地面から出ていた両手がピーンと伸びきったかと思うと、次にはブルブルと震え始め、最後にはグッタリとしな垂れてしまった。……今、地面の中は見たくないなぁ。
 更に地面を踏みならした衝撃で、遥の足下に転がっていた手榴弾は四方八方に飛び散っていった。そのほとんどが、ルシュとカミラの方に飛んでいく。偶然にしては最高のカウンター攻撃だった。しかし、最悪な事に、俺の方にもポロリと一個だけ転がってきてしまった。
「ヤバッ、うわわわ!」
 慌てて反対の方に走り、草むらの中に思いっ切りダイブした。
「ぐぼぅ!!」
 腹をしこたま打ち付け、俺はのたうち回って悶絶する。少し離れた場所で手榴弾は爆発し、何とか直接的なダメージは避けられた。……なんで俺って無傷で避けられないんだろ?
 草むらの中からこっそりと状況を確認すると、カミラとルシュは共に手榴弾の爆発に巻き込まれ、制服を黒こげにして気絶していた。自業自得、因果応報とはこのことか。
 一方遥はといえば、頭上から降り注ぐ隕石に気づいているのか居ないのか、上機嫌な様子で俺の方に近付いてくる。何はともあれ、危機は無事脱出出来たようだ。俺はホッと胸を撫で下ろ――。
「きゃっ!?」
 そうとした瞬間、地面から出ていた巻の足先に引っかかり、遥は転んでしまった。
「だ、大丈夫か遥!?」
「あいたた……。うん、大丈夫……じゃなかったみたい」
 遥の足を見てみると、右足の靴が無くなっていた。どうやら転んだ拍子に脱げてしまい、靴だけが先程の場所にトンボ返りしてしまったようだ。
 迫り来る隕石。もはや一刻の猶予も無かった。
「遥、走れ! 走ってくれ!」
 俺は悲痛な声で叫んだ。
「ダメダメ、靴下汚れちゃうよ。あのさ徹、ちょーっと肩貸して貰えると嬉しいんだけど。もしくは……うん、やっぱり肩でいいや」
 だというのに、遥はその場にちょこんと座り込んだまま、頬を赤らめて俺にお願い事をしてきた。肩どころか、俺の命を貸すハメになるのに気づいていない。
 隕石は本当にもうすぐそこだ。このままでは手遅れになってしまう。もう、迷っている暇なんてなかった。
「う、うおおぉぉおおーーー!!」
 惚れた弱みとはこのことか。俺は全速力で遥の所に行き、お姫様抱っこでひょいと持ち上げた。どこにあんな力や頑丈さがあるのか分からないぐらい軽かった。
 遥は胸の中でヨッシャとガッツポーズを取っていた。そんな場合ではない。そんな場合じゃないんだ。とにかくここから全力で離れなければ、確実に俺だけが死ぬ。俺は脚が千切れる思いで走った。遥の重さなんて一切感じなかった。
 ようやくさっきの場所まで戻ってきた頃には、俺の足は生まれたての子羊のように震えていた。半ば崩れ落ちるようにして、遥を地面に降ろす。
 その直後、つい先程まで遥が立っていた場所に、二つの隕石が落下した。その威力は凄まじく、クレーターが更にえぐれ、校長のバイクが爆発してより一層激しく炎上した。
「あー! 私の靴ー!」
 遥が絶叫した。悲しいことに、遥の身体から離れると普通の強度に戻ってしまう。脱げた靴は、今頃炎の中だろう。もう無理だと思ったのか、遥はガックリと項垂れた。非常に珍しい姿だった。
「……あー」
 ふとそれを思い出し、思わず苦笑いした。マズイ。非常にマズイ。ゾンビこと、地面に埋まっていた巻のことを完全に忘れていた。残念なことに、腕どころか先程の場所がほとんど地盤沈下してしまった為、生死の確認はおろか遺体を発見できるかどうかすら怪しい状況だった。……短い付き合いだったが、愉快なヤツだったなぁ。あんなヘッポコ忍者は見たことがない。最後に遥をビックリさせられたのが、唯一の救いか。
 俺は、成仏しろよと手を合わせて拝んだ。
 その時だった。いきなり地面がモコモコモコ、と膨れあがった。次の刺客は地底人か、と驚いたが、土を激しく掻き分けながら出てきたのは、
「生きてる……。拙者生きてるでござるよ……! し、死んだと思ったでござるよーー!」
 余程恐かったのか、今にも泣きそうな巻が顔を出した。助かったという安堵からか、巻は下半身が埋まったまま、パタリと気絶してしまった。
 結局、カミラ、ルシュ、巻の三人が組んだとしても、遥には到底適わないようだ。むしろ、一人で襲ってきたときよりも三倍酷い目に遭っているような気がする。



 これ以上面倒ごとが起こる前に帰りたかったが、さすがに気絶している三人を放置するワケにはいかなかった。
 保健室へ連れて行こうにも三人同時は無理だし、カミラとルシュに至っては焼けた制服の下から下着が露わになってしまっている為、迂闊に助けてしまうと後で何を言われるか分かったものではない。頼りの遥は片方の靴が無くて動けないしな。……そうなると、助けが必要なのは四人なのか?
 どう考えても無理だと思った俺は、遥にすぐ戻ると言い残し、職員室に助けを求めに行く事にしたんだ。



 保健室の前を通りかかったとき、まるで俺を待っていたかのようなタイミングで扉が開けられた。反射的に横を向くと、そこに居たのは、
「あらン? 徹ちゃんじゃないのぉ」
「でで、出たーーー!!」
 俺は飛び上がって後ずさった。ゾンビよりも恐ろしいオカマッチョが、ぬぅっと保健室から出てきやがった。
「ンはぁーい。どうしたの、こんな時間に? 先生の家に来たいなら、もうちょっと待ってねぇん」
 囁くような甘い声。発ガン性のある、顎が外れるぐらい甘い甘い甘味料をガロン単位で口に流し込まれたような気分だった。
「どうしてオカ……先生がここに?」
「あらあら、ヤキモチかしらん? こばチーは体調を崩しやすいから、たまに手伝ってあげてるのよぉ」
 こばチー? もしかして小林先生のことか?
「いつもいつも……ごめんね……オカッチ」
 保健室の中から、隙間風のような声が聞こえてきた。どうやら小林先生はいつもの定位置に居るようだ。
 それにしても、意外な事実が判明しちゃったな。まさか、お互いがあだ名で呼び合うような仲にあるなんて。たまに手伝いをしている内に親睦が深まった、って所か。むぅ、意味も無く悔しいな。まぁ、小林先生は美人だし、オカマッチョはイケマッチョでもあるから、外見上だけでいえばハリウッドセレブみたいで凄くお似合いだと思うが。……本当、外見上だけは。というか、オカッチのオカは本名から? それともオカマッチョから?
「ハハッ、お気になさらずに。生徒が協力し合うように、先生もまた協力し合っていかねば、模範とならんでしょう?」
 白い歯を見せ、二カッと笑うオカマッチョ。これでオカマじゃなければ、どれだけモテたことだろうか。
「……じゃなくて、あっちの方で女子が倒れているから、手を貸して欲しいんです」
 オカマッチョの圧倒的存在感の所為で、本題をうっかり忘れるところだった。
「あらあら、モチロンオッケーよぉ、徹ちゃん。アナタの為なら、何本でも手を貸してあげるわぁん」
 三本も四本も手を貸されても、困るだけなのだが。しかも、全部俺の尻を触ってきそうだから尚更困るし、かつ怖いし。
「徹君……ケガ人は?」
 薄いカーテンをめくり、小林先生が這い出てきた。一番の病人がケガ人の有無を気にしているなんて、なんか変な話だなぁ。
「えっと、多分大丈夫な筈。ただ、ちょっと服がボロボロだから、替えの服か大きいタオルがあると助かるかも」
「服が……ボロボロ? あらまぁ、徹君」
「なんですか?」
「ついムラムラして……襲っちゃったの?」
「違います! 人を変人みたく言わないで下さい!」
 何を言っとるんだ、このウスバカゲロウな先生は。
「そんなに性欲を持て余してるんなら、いつでも発散させてあげるわよぉ?」
「だから違うっつってんだろ!! チョン切るぞ!?」
 オカマッチョからただのオカマにしてやろうか、このヤロウ。



 現場の状況を見たオカマッチョと小林先生は、まず気絶している三人を見て驚き、次に呆れ返ったようなため息を吐いた。毎度の事とはいえ、今回は特に大きなクレーターが出来ているのだから、当然の反応だろうな。
 まずは小林先生がよろよろと近寄っていき、カミラとルシュに大きなタオルを掛けて下着を隠した。……失礼ながら、そのまま顔に掛けて魂でも持って行きそうな雰囲気だった。
 次いで、オカマッチョが半分埋まっている巻を引っこ抜き、セメント袋でも持つように肩に担ぐ。同じようにカミラも担ぎ上げ、ある意味両手に花状態だった。まぁ、オカマッチョからすれば三本の花なのかも知れないが。
 俺は一番軽いルシュを――多分、オカマッチョがそうなるように残したんだろうけど――お姫様抱っこで持ち上げた。身長通りというか、とても高校生とは思えない軽さだった。寝てしまった親戚の子供を運んでいるような気持ちになってくるよ。
「徹! ルシュちゃんでも、それはダメ!!」
 唐突に遥が大声を上げた。見ると、頬を膨らまし、口を尖らせている。お姫様は私だけ、そう言いたいのだろうか? 
 しょうがないので、俺もオカマッチョのように肩に担ぎ上げた。……なんというか、事情を知らない人から見れば、親分と子分が人攫いしているような光景なんだろな。
 エッホ、エッホ、と運んでいると、普通に歩いているだけの小林先生がフラリと貧血で倒れてしまった。何しに来たんだ、アンタは? 俺もオカマッチョも、手が塞がっているからこれ以上持つのは無理だ。遥と同じように、この三人を置いてくるまで待ってもらう他にないだろうな。
 そう思っていたら、オカマッチョは二人を担いだまましゃがみ込み、
「こばチー、乗れ」
 言葉少なく、そう命令した。それは、漢の背中だった。思わずアニキと呼びたくなるほど格好良かった。小林先生は遠慮することなく、その背中に向けてフラフラと歩き出し、首に手を回しておぶさった。背中にはさぞかし良い感触が伝わっているのだろうが、生憎それはオカマッチョ。こうかはイマイチどころか皆無である。
 オカマッチョは難なく立ち上がり、三人分の重さなどものともせず、まるで散歩でもするように悠然と歩き始める。その姿は、まさにビッグ・ダディ……じゃなかった。ビッグ・オカマだった。



 後の事は小林先生とオカマッチョに任せ、俺は走って元の場所に戻っていく。遥は、まだかなー、まだかなー、と呟きながら、暇そうに手をパタパタとさせていた。まるで保育所で父親を待つ子供のようだな。
「悪い悪い。さっ、帰ろうか」
「ああ、やっと来た。うん、帰ろう。って事で、じゃあ、はい」
 そう言って、はにかみながら遥は手を差し出した。
「畏まりましたよ、お嬢様っと」
 俺は手をぐいっと引っ張り上げ、遥を立たせてあげる。
「おっとっと……うむ、よきに計らえ」
 自分の偉さをアピールするかのように、ふんぞり返ってみせる遥。……なんか、ルシュの影がちらついたような気が……。
「ねぇ、今度は肩を貸してよ」
「ん? お姫様抱っこはもういいのか?」
「いやぁー、さすがに街の中でそれはちょっと……。バカップル認定されちゃうよ」
「まぁ……そりゃそうだよな」
 そう考えると、あの勇者はよっぽど勇気があったんだなぁ。まるで見せつけるように、ホテルにまで突入してったし。そりゃ店主もそう言うわ。
 遥は俺の肩に重心の一部を預け、試しにケンケンで数歩進んでみる。
「……うん。なんとか行けそうな感じ」
「本当に大丈夫か?」
 いくら家が近いとはいえ、十分以上ケンケンし続けるのはさすがに辛いと思う。何か代わりになるものは……。
「あっ、だったらさ――」
 上靴でも良いんじゃないか、そう言おうとして、俺は止めた。きっとそれは、最高にヤボな台詞だ。俺たちはいつも恥ずかしがって、手を繋いだまま帰ったことすらない。たまにはこうしてずっと繋がったまま帰るのも良いだろう。
「……疲れたら、ちゃんと言ってな」
「うん!」



 あれこれとやっていたら、いつの間にか夕日はほとんど沈んでしまい、辺りは僅かに薄暗くなっていた。小高い丘の道路を、遥はケンケンをして、俺はその速度に合わせてゆっくりと進んでいく。部活帰りの同級生たちが、こちらを気にしながら自転車で追い越していった。夕飯を買いに来た親子は、子供は不思議そうな顔をして、母親は懐かしいアルバムを眺めているような顔で笑っていた。恥ずかしいというより、こそばゆかった。
「結局、サプライズ・パーティーって何だったのかな?」
 遥がそんな事を口にした。どうやら俺が言ったことを今も信じているようだ。……というか、さっきの戦いは果たし合いと気づかれないままに終わってしまったのか。うわぁ、さすがに同情するわ。
「最初のゾンビがそうなんじゃないか?」
 俺は適当なことを言ってはぐらかした。サプライズという意味では、アレが一番だったと思う。
「えぇ〜、たったあれだけの為に呼び出したの? 一週間も準備して?」
 我を失うくらい驚いていたのに、どの口が言うんだか。まぁ、そういう意味では今までで一番遥にダメージを与えられたのかも知れない。
「あとさ、徹は計画に加わってなかったの?」
「へ? 急にどうしたんだよ?」
 いきなりの質問だった。実は一連の事件の首謀者は俺だった、とでも言いたいのか?
「いや……だって、徹のが一番ビックリしたから……」
 そう言って、遥は急に立ち止まった。必然的に、俺も立ち止まる形となった。遥は俯いたまま喋らない、進まない。俺はどう返事したら良いのか困り果て、気まずくなって意味もなく頬を掻いた。
 ゴトンゴトン、と電車の通る音が聞こえる。チリンチリン、と自転車のベル音が聞こえる。ワンワン、と犬の鳴き声が聞こえる。それでも沈黙はまだ終わらない。こんな時、どんな台詞を言えば良いのやら。
「私も……私も、サプライズ・パーティーに参加するわ」
 沈黙を破ったのは、そんな言葉だった。遥は顔を上げ、俺に向かって決意表明をした。
「待った待った。ゴメン。白状するけど、そもそもサプライズ・パーティーなんて開催すらして――」
 俺の懺悔は、何の前触れも無く、遥の唇で塞がれた。ただ触れ合うだけではなく、まるでお互いの愛情を確かめるかのように、少しだけ長い時間を。
「……これが、私からのサプライズ」
 いつもの距離に戻った遥は、意地悪そうにニヒヒと笑う。
「ビックリした?」
「……うん、ビックリした……」
 今起こった事を確かめるかのように、俺は自分の唇に触れていた。ああ……ビックリした。驚きのあまり、頭がボーッとする。全く、そりゃビックリするよ。何にビックリしたかって?
 俺たちのファーストキスは、
「遥、さっきドリアンジュースを飲んでたな……」
「あー……今回ばかりは、レモンジュースにしておけば良かったかなぁ……?」
 俺たちのファースキスは、ドリアンの味がした。

 ◆----------------------◆

 二つの影が重なるのを、一人の少女が遠くで見ていた。怒りもせず、悲しみもせず、ただ呆然としたまま涙だけがほろほろと落ちていく。
――何故? どうしてなの?
 あそこに居るのは、あそこに居るべきなのは、
――どうしてワタシじゃないの?
 徹が受け取ってくれなかった髪飾りを、血がにじみ出るほどに握りしめる。
――これを受け取れば、全てが手に入るのに。
 この髪飾りを手に入れるという事は、つまり全てを得たのとほぼ同意義だった。これには、それだけの力がある。
 彼女は、十歳にして二つの髪飾りを受け継いだ。一つは自分が、もう一つは心に決めた男に渡すのが彼女の国の習わしであった。元は一つだった髪飾りをわざわざ二つに分けたのは、二人で一つの国を守っていくという意味と、『世界の半分を任せる』という二つの意味を込めているからである。ただ彼女は、いずれ徹にその全てを捧げようと考えていた。残りの半分を――彼女自身を徹のモノにして欲しかったから。
――なのにどうして……徹だけが手に入らないの?
 彼女が望めば、全てが手に入った。地位、名誉、お金に宝石。それでも手に入らないようなら、家訓通り力尽くで奪ってきた。だが、遥という存在が――彼女という存在が――人類最強という存在が、それを阻んでくる。望んでも手に入らないなんて、初めての事だった。
――本当に……本当に欲しいのに……。この髪飾りを捨てても良い。徹だけが……本当に欲しいのに……。
 全てを捨ててでも、彼女は徹が欲しかった。側に居たかった。助けてもらったあの時からずっと、彼女の心は徹に誘拐されたままだった。
――本当に欲しいモノは……手に入らないの……?
 髪飾りを握る力が、自然と緩んでいく。徹に彼女が居ると分かっても、諦められなかった。殺し屋の力を借りてでも、その望みを叶えたかった。本当に、心の底から、徹が好きだから。……だが、先程のが決定的となり、彼女の心に諦めが芽生えてきた。もはや自分が入る隙間は無いのか、と。隣の席が空くことは……もうないのか、と。
――……違う。違う、違う、違う違う!!
 彼女はすぐさまその芽は引っこ抜いた。諦めるなんて、最も家訓に反したことだ。そして何よりも、徹を手に入れられない事の方が、死ぬよりも恐ろしいと感じたからだ。
――力尽くで奪う! そうワタシは決めた! 例え……どんな手段を使ったって!!
 手に入らないなら、全力で奪い取るだけ。入る隙間が無いのなら、こじ開けるまで。
――人類最強が立ち塞がるというのなら、世界最強の部隊をぶつけるまで!
 彼女は頭に付けていたつららのような髪飾りを外し、もう一つの髪飾りと組み合わせる。そうして一つになった髪飾りを、『逆さま』にして髪に付けた。二つの突起物が、神が定めた運命に逆らうように、天に向かって伸びていた。それは、彼女の決意と怒りの表れだった。
 彼女の母国はレアメタル出荷量世界一位であり、小国ながらフランスとほぼ同格の軍事力を有している。中でも有名なのは、軽火器、重火器を一切使わない『808・ブルータヌキ部隊』である。暴徒鎮圧や犯人拿捕のスペシャリストであり、高額な特殊装備を取り揃えた異色の部隊だ。特殊な音を聞かせることによって暴徒を追い払ったり、特殊な光線を浴びせ掛けることで犯人を無力化するなど、普通ではない手段で任務をこなしている。
 世界最強の部隊と言われる由縁は、その特殊性にある。例えば他の部隊と戦った場合、ブルータヌキ部隊は通常の武器に対する戦略を組み立てられるが、他の部隊はその特殊さに対応できる戦略を組み立てられず、手間取っている内にあっさりと敗れてしまうからだ。対抗して同じ装備を取り揃えようとすると、小国ならば簡単に傾いてしまう金額が掛かるだろう。
 それだけの部隊を日本に連れてくるということは、当然外交問題へと繋がっていく。世界連合からは強い非難を浴び、全ての貿易を取り止めになる可能性も強かった。だからこそ、殺し屋の力を借りていたのだ。だが、失敗が続き、果てには大事な大事な最初を奪われてしまった。これ以上仲が進展してしまうのを、彼女はもう我慢出来なかった。
 だから彼女は、髪飾りを逆さに付けた。彼女自身の手で、決着を着ける為に。
 国の名は、ブリジウッド。彼女のフルネームは、クリスチーネ・ブリジウッド。そして歴代の女王を、逆さまの王冠を被った者を、皆はこう呼ぶ。
 『オーガ・プリンセス(鬼姫)』――と。

 ◆----------------------◆

 俺たちが重ね合ってから、早三日。そうしてからは恋の進展が早い……と誰かが言った気がするが、ほとんど変わらないってどういう事だよ。――いや、むしろ後退しているような気がするんだが。
 その理由は、カミラ、ルシュ、巻の三人がこの三日間、なぜか一緒に下校までし始めたからだ。甘いムードは苦手だが、こうも邪魔されると意地でも二人っきりになりたくなってくる。
「随分と不満そうな顔をしておるな、徹ニィ」
 遥の右隣に居るルシュが、ニヤニヤと笑いながら言った。今はそのポディションだが、隙あらば割って入ってこようとするのはマジで止めて欲しい。
「察しているなら自然にフェードアウトしてってくれ」
「ケッケッケッ、イヤじゃ」
 遥と一緒に帰りたいと言うより、俺への嫌がらせ目的で来ているような気がする。しかも、遥は喜んでいるから被害者は俺だけ。無関係な俺だけ。……ちくしょう、ただの憂さ晴らしじゃないか。
「これだけの花束を抱えて、そんな贅沢を言うのかい、トオル? アルジャーノンも草葉の陰から羨ましがっているだろうに」
 右端に居るカミラが、肩をすくめながらそんな事を口にした。そういえば、ほとんど同じ台詞を他の男子にも言われたな。ハーレム状態で羨ましいな、と。ついでにリア充爆発しろ、とも。しかし、遥以外全員殺し屋だわ、俺が一番立場的にも実力的にも下だわと、ドンペリ呷りながらゲヘヘと笑う余裕なんて一切無い。気を抜けば、言葉通り爆発しかねないのだから。
「……まぁ、一名どっちつかずなヤツも居るが」
 カミラの言葉で、俺の左隣に居る巻に視線が集まる。昨日は男子の制服だったが、今日は女子の制服を着ていた。その度に二つのファンクラブが『今日は男子バージョンだ』『今日は女子バージョンだ』と騒ぎ立てるもんだから、うるさいったらありゃしない。
 しかし、当の本には、
「そんなに見つめないで欲しいでござる」
 そう言って、本気で恥ずかしそうに顔を隠してしまった。こんな調子なもんだから、いつまで経っても本当の性別は不明なままだった。……まぁ、それが良いんじゃないかと熱弁する輩も多数居るワケだが。
「ねぇ、これからどっかに行く? カラオケとか?」
 唐突に、遥がそう提案してきた。正直なところ、俺はそんなにカラオケは得意じゃないので――最近の曲を知らないだけで、別に音痴というワケではない――あまり行きたくないのだが、それ以上にこの三人が何を歌うのか、歌は上手いのか、そっちに興味が湧いてきた。
「行こう。是非とも行こう」
 俺は大きく頷いて賛成した。ちなみに遥は、そこそこ上手で、歌うジャンルはJ−POP。だけど、そのほとんどがいわゆる懐メロと呼ばれるモノばかりで、『あずさ666号』を歌われたときなんか、てっきり別れ話でも切り出してくるのかと思う程の熱唱ぶりだった。
「う〜む……」
 気乗りしないのか、ルシュは渋い顔をしている。カミラも巻も、同じ顔をしていた。
「じゃあ、無難にボーリングでも行くか? それなら全員大丈夫だろ。なぁ、遥?」
 妥協案を言ってみるが、遥は遠い目をしていて、何故か返事をしてくれなかった。心ここにあらず、といった様子だ。急にどうしたんだ?
「遥? おーい、遥?」
 俺の呼びかけに対し、
「……いっぱい、ヘリコプターが来る……」
 遥は、そうぽつりと呟くだけだった。
 ヘリコプターが来る? 俺も空を見上げてみるが、僅かに雲があるだけで、鳥すら飛んでいない青い空が広がっているだけだった。
「この鉛のような重苦しい空気……ワシの国の空軍でも雇い入れたのか? ……いいや、これは……」
 ルシュも何かを感じ取ったらしく、何も無い空を見つめたまま、渋い顔から苦虫を噛み潰したような顔に変わっていった。
「決まってるさ。鬼が来るんだ。鬼ヶ島から飛んできた本物の鬼が、桃太郎を退治しに来たんだ」
 カミラは茶化すように言った。鬼が来る? それはモノの例えなのか、それともそういう名前なのか。どちらにしろ、良い物が来るような雰囲気ではなかった。

 俺がそれを感じ取れるようになったのは、もう少し後の事だった。

 最初は、空から音が聞こえてきた。何て表現したらいいのか分からないが、それは音の竜巻が近付いてくるような感じだった。次に見えたのが、黒い点。それも一つや二つではなく、遥の言う通り『いっぱい』だった。
「さて、ワシらはここで退散させてもらうとしよう」
 急にルシュがそう切り出した。
「そう……だな。ここに居たら、猿か犬か雉に間違えられて、一緒に退治されちまう」
「致し方なし、でござるな。ここから先は当人同士の問題と、国同士の問題でござるよ」
 カミラもルシュも、まるで逃げるようにここから立ち去ろうとしていた。
「いったい……誰が来るっていうんだ?」
 俺のうわごとのような質問に対し、三人は、
「鬼教官が来るのさ」
「クライ・ミー・オーガ(泣いた赤鬼)が戻ってきたのじゃよ」
「鬼道衆(きどうしゅう)の参上でござる」
 そう、三者三様の答えが返ってきた。だが共通しているのは、『鬼』というキーワード。そして、頭の上で両手の人差し指を立てた、角のようなジェスチャー。
「質は量に勝る。軍事の基本だ。……だが、一つのSランクと、百のAランクでは、それもひっくり返る。そして、ヤツらはただ百人ではなく、一個中隊という一つの塊だ。お前らなんか、狐のように狩られてしまえばいいさ」
 カミラは吐き捨てるように言った。だけど、声は涙で震えていた。
「達者でな、遥ネェ。生きていたのであれば、また会おう。徹ニィとは……どこか違う国でまた会うやかも知れぬな。ワシに出来ることは何もない。だが、一つだけアドバイスをするのならば、全力で逃げろ。あとは時間が……何とかしてくれるじゃろう」
 しんみりとした様子で、ルシュが忠告してくれた。遥を見る眼が、遠かった。俺を見る眼は、怒っているのか悲しんでいるのか、よく分からなかった。
「ニンニン」
 巻は何も言ってくれなかった。覆面をぐいっと上げ、目元まで隠してしまった。



 そうして三人は、この場から去って行ってしまった。
 まるでそれが、今生の別れのように。
 まるでこれから始まるのが、お葬式であるかのように。
 遥はただ、迫り来るヘリコプターをボーッと見ているだけだった。俺もただ、ボーッと見ているしかなかった。これから何が起ころうとしているのか、全く理解出来なかったから。
 まだ野球ボール程度の大きさで、ヘリコプターが止まった。すると、糸のようなモノを垂らし、そこから小さな塊が次々と落ちてくるのが見えた。それが開戦の知らせだと気づいたのは、随分と後のことだった。

 こうして、俺たちの長い長い戦いが、始まってしまったんだ。


◇-----------------------◇
 
 最終回「彼女のために」

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 映画やテレビでよく、こんな光景を目にしていた。立て籠もる犯人と、それを囲む警察と沢山のパトカー。だが、それとは大きく異なる点が三つもあった。
 一つは、周りを囲んでいるのは警察ではなく、軍隊であるという事。特徴的なのは、変わった形のガスマスク――まるで鬼瓦のような顔――を付け、一本角が生えたようなヘルメットを全員が被っている。車も装甲車のような頑丈そうなモノばかりだ。
 もう一つは、持っているのが拳銃などではなく、まるでSFに出てくる光線銃のような武器だという事。光線銃にはケーブルが付いており、それは背負っているバッテリーのようなモノへと繋がっていた。他にも、マンガからそのまま飛び出してきたようなモノから、趣味の良いオモチャのようなモノまであちらこちらにあった。
 最後の一つは、俺たちは視聴者ではなく、当事者であるという事。そして、犯人側の立場に居るという事。
 今俺たちに向けられているのは、百人の視線と、百個の武器。もしこれが警察なら、罪を犯していなくても自首したくなるような怖さだった。……それにしても、百人も居るのに、誰も何も言ってこないのは何故だ? まるで彫刻のように、その鬼瓦のような顔でこちらをジッと伺っている。
 遥が、ギュッと俺の服を掴んできた。まるで子犬のように、震えながら俺に寄り添ってくる。衝撃的だった。あの遥が……怯えている。カミラの言葉が脳裏を過ぎった。『一つのSクラスでも、百のAクラスではそれもひっくり返る』、と。いかに人類最強と言われる遥でも、この数には勝てないという事なのだろうか?
 静かな睨み合いが、しばらくの間続いた。
 沈黙を破ったのは、相手側のざわめきだった。突然俺たちの前に陣取っていた人達が、まるで逃げるように慌てて横に避けていく。
 その中から現れたのは……。
「ク……クリスチーネ?」
 一ヶ月半前、そして先々週にも付き合えないと断った、あのクリスチーネが唐突に現れたんだ。周りと同じ軍服を着ていて、逆さに付けた髪飾りはまるで角のようで、さながら本当の鬼のように見えた。
「どうして君がここに……?」
 クリスチーネは答えない。それどころか、こちらに一瞥もくれず、クリスチーネは遥をジッと睨んだままだった。何なんだ、この状況は? 分かんないことだらけだ。俺たちが軍隊に囲まれている理由も。クリスチーネがここに居る理由も。そして、そして……クリスチーネがこの軍隊を率いているような素振りを見せている理由も。
「ここからはワタシが指揮を取る。だが作戦に変更はない。優秀なる我がブルータヌキ部隊よ。ワタシに忠誠を誓う者は、構えろ」
 クリスチーネの言葉で、百人が同時に光線銃を構えた。今俺たちに向けられているのは、百人の視線でも、百個の武器でも無かった。一つの目標を目指す、百人分の殺意だった。カミラの言ったことが、今ならよく分かる。百人ではなく、百という一つの塊であることを。
「ちょっと待てって! 怒ってるんなら謝るから! 俺がフッたのが、そんなにショックだったのか……?」
 しかし、クリスチーネは何の反応も示さない。逆に動揺が走ったのは、隣に居る遥と、ブルータヌキ部隊と呼ばれた隊員たちだった。
「ブルータヌキ部隊よ」
 クリスチーネの呼びかけで、隊員たちの動揺はピタリと止んだ。そして、
「ワタシの怨敵を……討ち滅ぼせ!」
 その号令で、百人が一つとなって同時に動き出した。
「遥! 逃げ――」
「ヤ、ヤダぁ! もう、こっちに来ないでー! なんでそんなにいっぱい恐い顔があるのよー!」
 俺が言うまでもなく、遥は明後日の方向に逃げ出していた。片方の靴が無くても、相変わらずの速さだった。……武器でも、人数でもなく、顔が恐いだけだったのか。遥らしいと言うか何というか……。
 少なくとも、これで遥は大丈夫だろう。本気を出せば、誰も追いつけやしない。仮に追いつけたとしても、誰も傷つける事なんて出来ないのだから。
「第一小隊、足下照射!」
 クリスチーネの号令で、十人が同時に光線銃を発射した。ブラックライトのような青い光が、遥のふくらはぎを照らす。
「……え?」
 思わず我が眼を疑った。今……信じられないことが起こっている。僅かだが、遥の走るスピードが……落ちたんだ。どういう原理なのかは知らないが、つまり、これは……遥に効果があった、という事なのか? 僅か十人でこの威力。もし……もし百人同時に発射したら、遥はどうなってしまうんだろうか?
 俺は不安になって、遥を追いかけようとした。しかし、一人の隊員が俺の前に立ち塞がり、青色の光線銃をこちらに放ってくる。
「やめっ……うぅ!?」
 眩しいと思った瞬間、いきなり身体中に力が入らなくなり、俺は前のめりになって地面に崩れていった。立ち上がる事はおろか、まるで脱水症状のように舌も回らず、唸ることしか出来なくなっていた。何だこれ? 痛くもないし、苦しくもない。ただ、力を入れようとしても、穴の空いたバケツのように水が抜けていってしまうんだ。この光線銃の……所為なのか?
 意識すらもまどろんできた頃、もう一人の隊員が俺の方に近付いてきた。手には、銀色の棒のようなモノを握っている。身体にくっつけてきたかと思えば、次の瞬間、目の前が真っ白に弾けた。

 ※

 ジャバジャバという水の音が聞こえる。俺は今……三途の川でも渡っているのだろうか? それにしても、三途の川を渡るというのはこんなにも苦しいことなのか。そして、こんなにも深いものなのか。口の中に次から次へと激しい勢いで水が――。
「ゴボバァッ! ゲホッ、ゲホッ! ……ゲホッ!」
 死ぬかと思った。マジで危なかった。本当に三途の川を渡るところだった。何だ? 何が起こった? ……ってか、なんで俺はこんなにビショ濡れなんだ?
「やっと起きよったか、このウスノロめ。四本目の水責めで起きるとは、なかなか根性があるのう」
 犬のように這いつくばっている俺に向けて、この有頂天から見下すような物言いは……。
「ルシュ……?」
「どうしてここに居るのか、じゃろ? 安直なヤツめ。貴様の反応など、言わずとも分かるわ」
 いや、それよりもなによりも、ルシュの足下に転がっている大量の2リットルペットボトルは何なのかを聞きたかったんだが。
「そうじゃな……まずは先に、辺りを見渡してみるが良い」
 顔から滴り落ちる水を払いながら、俺はルシュの指示通りに辺りを見渡してみる。
「誰も……居ない?」
 あれだけ居た軍隊も、あれだけあった車も、何もかもが消え去っていた。陽の傾き具合からして、そんなに時間は経っていない筈なのに。
「おい、どういう事だ? クリスチーネの狙いは……俺じゃないのか? どうして俺だけをここに置き去りにしていったんだ?」
 疑問が泡のように、次から次へと膨れ上がってくる。ほとんど自問自答に近かった。その質問に対しルシュは、ケッケッケッ、と肩を揺らして笑う。
「おめでたいヤツじゃな、今になっても気づかないとは。それがハズレだとしたら、残りの答えは?」
「じゃあ、ルシュたちと同じで狙いは……遥だけなのか?」
「八分の一正解じゃ」
 かなり低い正解率だった。
「遥ネェに賞金を掛けたのは、間違いなくあやつじゃ。理由はただ一つ、遥ネェが邪魔だったから。ワシらはある意味、遥ネェを必要としていたから、同じとは言い難いのう」
「邪魔だったって……。遥が居ると、クリスチーネに何か不都合があるのか? 政治的な問題とか、軍事的な問題とか?」
 俺の答えに、ルシュはまたして、ケッケッケッ、と大きく笑う。
「不都合も不都合じゃ。考えてもみろ。遥が居ることによって、クリスチーネは何の願いが叶わなくなると思う?」
 願い? 遥と言えば……人類最強。人類最強と言えば……クリスチーネにとって邪魔者? 
「……世界征服?」
「二分の一正解じゃ」
 これでもまだ半分なのか。分からない。いったい何が本当の正解なんだ?
「……本当にマヌケじゃな、徹ニィは。よし、特別ヒントをくれてやろう。イス取りゲームは知っておるか?」
「おいおい、知らなかったら非国民だぞ?」
「宜しい。では、一つの『席』があるとする。ゲームに参加しているのは、二人。そして賞品は、取れた『席』そのものじゃ」
「ずいぶん変な賞品だな」
「ワシも……そう思うよ。だが、二人にとってそれはどうして欲しい『席』なのじゃ。趣味の悪い事に、な」
 ルシュはどこか自嘲気味に笑った。それにしても、ボロクソな言われようだな。思わずその二人に同情したくなってきた。
「だが困ったことに、ゲームの主催者が参加者の一人を気に入ってしまい、その『席』に先に座らせてしまったのじゃ」
「え? それって、ルール上いいのか?」
「無論じゃ。ルールブックはその主催者じゃからな。例え参加者が金を握らせてルール変更したとしても、何ら問題は無い。これは、そういうゲームなのじゃ」
 なんか……それってズルいような気がする。不公平としか言い様がない。
「本来であれば、ここでゲーム終了の筈じゃった。じゃが、もう一人の参加者はそれで納得がいかなかった」
「そりゃまぁ、そうだよなぁ」
 俺だって納得がいかない。きっと声を荒げて言うだろうな。もう一度やり直せ、って。
「……まだ気づかんのか、馬鹿者め」
「え? どういう事?」
「最後のヒントじゃ。イス取りゲームは、何をするゲームかのう?」
「そりゃ、言葉通りイスを取り合うゲームだろ? 先に席に座った方が勝ちで、同時に座ってしまったら、その邪魔者を無理矢理お尻で押し出したり……」
 席に邪魔者……? 二人で、一つの席を奪い合う……? 邪魔者は遥……? 先に、先に『席』に座っていたのは……?
「あ……あーーー!?」
 信じられなかった。現実に……現実にそんな事が起こりえるのか? 馬鹿馬鹿しいとテレビを見て笑ってきたそれが、今、俺の周りで本当に起こっているのか? 
「ようやく気づいたか、この大馬鹿者め」
「う、嘘だろ? 遥が邪魔って……彼女だからか? 俺の彼女だから……邪魔なのか?」
 ようやく分かった。先に彼女としての『席』に座っていたのは、もちろん遥。後になって参加したクリスチーネにしてみれば、不公平以外の何ものでもない。
「なんで……なんでそれが俺なんだ?」
「だから言ったじゃろう? 趣味が悪い事この上ない、と」
 自分で言うのも何だが、確かにルシュの言う通りだった。何の変哲もない俺を巡っての争いなんて、不毛でしかない。
「じゃあ今は……クリスチーネは、俺の彼女になるために、遥を殺そうとしてるってことなのか?」
 ルシュはばつが悪そうに視線をそらし、小さく頷いた。
「あやつの名は、クリスチーネ・ブリジウッド。ブリジウッド帝国の女王にして、最高権力者の一人じゃ。代々受け継がれている家訓は、『欲しい物は奪い取れ!』という、ごうつくばりで、はた迷惑なものじゃ。既に痛感していると思うが、本当に……遥ネェを殺してでも貴様を奪っていくぞ?」
 思わず頭を抱えた。そんなんで良いのか? 血まみれの『席』を手に入れて、満足なのか? それを……恋愛って言えるのか?
「そうだ、遥は? 逃げ切った……んだよな?」
 もう既に何もかもが終わってしまった後、というのは考えたくなかった。
「恐らく掴まってはいないが、そう簡単に振り切れる相手でもない。特殊なセンサーを使えば、コンクリートの上に残った砂粒から、遥ネェの足跡を浮かび上がらせることだって出来るような連中じゃ」
 それはつまり、単純な身体能力の問題ではない、という事か。
「今はどこに?」
「さぁな。ワシが遥を追跡してしまうと、クリスチーネに怨敵として見なされかねん」
「じゃあ……どうしてここに来たんだ?」
 最初に質問に戻ってしまった。ここに居るだけでも、その危険性は充分あるのに。
「なァに、お主のマヌケ面を最後に拝んでおこうと思っただけじゃ」
 ケッケッケッ、と肩を揺らして笑うルシュ。俺への嫌がらせの為なら、例え火の中水の中でも来る気なのか?
「……先程も言ったように、ゲームの主催者はお主じゃ。そして今このゲームは、ルールがおかしくなりつつある。ルールを直すことが出来るのは……徹ニィだけなのじゃ」
 急に少しだけ優しい顔で、そう言った。そしてルシュは、サヨナラも言わずにこの場を去って行ってしまった。



 残された俺は、どうするべきかを考えた。ルシュの言う通り、ルールを直すべきなのか? しかし、どうやって?
「……いや、最初にすることは決まってる。まずは遥を助けに行かないと……!」
 しかし、どこに行けば良いのか皆目見当も付かない。だがそれでも、この場から動かずには居られなかった。俺の気持ちが、収まらなかった。適当な目星を付けて走り出そうとしたとき、レーサー仕様の立派な自転車が眼に入った。これは……見たことがあるぞ。そうだ、校長先生の自転車だ。不用心なことに、鍵は付けっぱなしのままだった。
「……すいません、借りていきます!」
 大事な生徒の危機なんだ。校長先生なら、きっと笑って許してくれるだろう。……例え、壊れたとしても。

 ※

 急な坂道に差し掛かり、自転車は一気に加速していく。向かい風が火照った肌を冷やしてくれるが、俺の心は安まることはなかった。
 どこだ? どこに居るんだ……?
 自転車を漕ぎ始めて早一時間は経っただろうか。遥どころか、軍隊がそこを通っていったような痕跡すら見つけられなかった。今居る場所を聞き出そうと、もう一度ポケットからケータイを取り出す。
「くそっ……やっぱりダメか!」
 アンテナマークの代わりに表示されているのは、『圏外』の二文字。探し始めてからすぐにケータイで場所を聞けば良いんじゃないかと思ったんだが、その時からずっと圏外のままだった。どこに行っても、それは同じだった。俺のケータイだけではなく、道行く人たち全てがケータイを見ては首を傾げていた事から、恐らく……ジャミング(妨害電波)で連絡を取られないようにしているんだろう。まるで映画の世界だ。そうまでして、俺に来させたくないのか?
 坂道が終わり、今度はなだらかな上り坂になった。つかの間の休息が終わり、俺は気合いを入れ直して立ち漕ぎを始める。しかし、もう既に太ももはパンパンで、休め休めと悲鳴を上げている。知るか! たまには黙って言うことを聞け!
 坂を上がりきる頃にはもう夕日が沈み、既に辺りは薄暗かった。ケータイで時間を確認すると、もう六時を過ぎていた。ただでさえ何も見つからないのに、完全に暗くなってしまったら、もう探しようがない。
 どうする? 考えろ。どうしたら見つけられる? どうしたら――。
「うわぁっ!?」
 唐突に、電柱が目の前に現れた。しまった、考え事に熱中しすぎた。咄嗟にハンドルを曲げて回避行動を取る。しかし、電柱の下に不法投棄されてあったアナログテレビに引っかかり、自転車だけが急停止し、俺は道路に放り出されてしまった。
「――ッ!!?」
 受け身なんて取ることも出来ず、思いっきり背中を打ち付けてしまう。痛みのあまり、身体はブリッジのように反り返り、声すら出なかった。
 ああ……立たないと。早く自転車に乗らないと。遥を……遥を探さないと。俯せになって道路に手を付け、足に力を入れる。いきなりフッと力が抜け、今度は腹を打ち付けてしまった。はは……立てないや。痛みの所為じゃない。分かってる。さっきので……心がポッキリと折れてしまったんだ。
 空はもうダークブルーで、電柱の外灯がいやに眩しく感じた。気絶する前の記憶がフラッシュバックし、思わず顔をしかめた。あの青い光が、網膜にこびりついて取れない。恐ろしい光だ。ただ当てられただけで俺は無力化され、人類最強の遥にすら効果を見せた。ダメージは無いかも知れないが、百人同時に照射すれば……捕獲も可能になるのかも知れない。
 それだけは止めなければならない。分かっている。分かっているのに、立ち上がる気力すら湧いてこなかった。ただただ、ぼんやりと外灯を眺めているのが精一杯だった。



 陽は更に落ち、羽虫たちが光を求めて外灯に集まりだしてきた。ふと、生物の先生が昔、こんなことを言っていたのを思い出した。
『羽虫が外灯に集まる理由ですか? 決まっていますよ。まず、悪人たちは死ぬと、輪廻転生して羽虫に生まれ変わるのです。だから、外灯に集まるのです。外灯の光を、お釈迦様と勘違いしているからなのです』
 その生物学らしからぬ発言が、俺は印象に残っていた。人も虫も、本質は同じ。光を目指して進んでいく。そう、生物の先生は言いたかったのかも知れない。
 暗闇の中で闇雲に探す辛さは、もう充分味わってきた。だから、たった一粒でも良い。俺に……俺に光を。遥の元へと導いてくれる、光を。
「……光?」
 身体の疲れなど忘れ、俺は跳ね上がるように立ち上がり、そして再び自転車で走り出した。
「ビル……。ビルはどこだ!?」
 少し離れた場所に一際高いビルを見つけ、俺は全速力でそこに向かった。
 辿り着くと同時に自転車から飛び降り、エレベーターに乗り込んで一番上の『5』のボタンを押す。扉が閉まる途中、ガシャンと激しい音がしたが、俺は気にも留めなかった。
 最上階に辿り着いてすぐ、俺は窓に駆け寄った。しかし、高さが足りないのか、角度が悪いのか、何も見えない。
 もっと高くて良い場所は……?
 そんなものは、一つしかない。俺は非常口の扉を開け、階段から屋上を目指す。途中にあった関係者以外立ち入り禁止のロープを跨ぎ、屋上への入り口を開け放った。
 広がる夜景。それはきっと、いつもと同じ光景なんだろう。俺たちとは関係の無い人たちが、いつもと同じ灯の下で、変わらない日常を送っているのだろう。その温度差に、強い違和感を覚えた。
 フェンスまで駆け寄り、ジッと眼を凝らす。ここからでは何も見えない。悔しいまでに、平和な日常があるだけだ。ここからでも見えないのか……?
 俺は最後の望みを掛け、振り返った。
「……ハハ、やっと見つけた。……光を」
 学校からほど近い公園で、無数の青い光が闇夜を切り裂き、空に向かって伸びていた。

 ※

 公園に近づくにつれて、遥とクリスチーネの部隊が争ったような形跡が見られるようになってきた。道路やガードレールのあちこちが凹んでおり、時折何かのパーツも道ばたに転がっていた。空を見上げれば、無数の青い光がまるで手招きするように動いている。それはまだ、遥が掴まっていない証拠だった。
 T字路に差し掛かり、俺はそこを左に曲がる。
「いっ!?」
 思いっきりブレーキを掛け、慌ててT字路に引き返す。危ねぇ。見つかるところだった。一般人を来させない為か、二人の隊員と二台の装甲車が道路を封鎖している。こっちに背中を向けていなかったら、呆気なく見つかっていたな。
 完全に手詰まりだった。この……自転車がなかったらな。
 俺は大きく深呼吸し、そしてゆっくりと吐く。
「……よし!」
 もう一度T字路を左に曲がり、音を立てないよう静かに、ゆっくりと近付いていく。さすが校長ご自慢の自転車だ。タイヤの回る音が全く無い。そろりそろりと近付いていき、残り10メートルを切ったところで、俺は大きく息を吸い込んだ。そして、息を止め、全速力で自転車を漕ぎ始める。
 アスファルトを擦る音が激しくなっていく。そこでようやく二人の隊員は俺の存在に気づき、
「止まれ!! この銃は脅しではないぞ!!」
 振り向きながら、銃口を向けての警告。しかし、トップスピードの自転車に照準を合わせるのは容易な事ではない。ましてや、不意を突いたのならば尚更だ。俺はそのまま二台の装甲車の隙間を縫うようにして通っていく。自転車だからこそ出来た芸当だった。
「あった……!」
 封鎖を抜けると、すぐに公園の入り口が見えてきた。ようやくだ。目標まで、あと少し。壊れそうになる太ももに活を入れ、トップスピードを保つ。こちらは警備が薄いのか、数台の装甲車が置いてあるだけで、周囲に隊員は見当たらない。
「よし、このまま!」
 そう確信した矢先の事だった。壁の影に隠れていた四人の隊員たちがいきなり現れ、透明な強化プラスチックの盾で入り口を完全に封鎖してしまった。その内側で、光線銃を構えているのが見える。透明だから、光を遮ることがないのか。
 どうする? どうすれば良い? 考えろ。考え……なんて、もう捨ててしまえ!
「ええい、ままよ!」
 俺は最後の力を振り絞って加速していく。どうせ止まるだろうと高をくくっているのか、隊員たちはその場に立っているだけで、光線銃は撃ってこない。ただのガキだろうと、甘く見ているな?
 入り口の20メートル手前で、俺はサドルに両足を乗せ、サーフィンのような形で突っ込んでいく。そこでようやく隊員たちは、俺が本気で特攻する気だと分かったのか、光線銃を降ろし、両手で盾を押さえ、腰を据えて盾を構え直した。
「行くぜ!」
 盾にぶつかる瞬間、俺はサドルを蹴って隊員たちの上を跳び越す……筈だったが、距離が足りず、一人の隊員の頭を思いっ切り踏んづけてしまう。悪いと思いつつも、今度はその隊員の頭を蹴って、更にジャンプした。靴の跡がハッキリと残っていた。
 着地してすぐに後ろを振り返ると、透明な盾越しに自転車が激しくひん曲がっていたのが見えた。ご苦労様。そしてさよなら、校長の自転車。
 早く公園の中を探そうと、俺は駆け出した。しかし、急に足に力が入らなくなり、膝がカクンとなって転んでしまう。
「くそっ、やられた……!」
 ついにあの青い光を当てられてしまった。そう思って辺りを見渡してみるが、誰も俺に向かって光線銃を撃ってはいなかった。
 何て事は無い。ただ単に、体力の限界が来てしまっただけの事。
「ハハ……全く」
 四人の隊員たちは透明な盾を構えたまま、俺の周りをゆっくりと囲んでいく。そして、光線銃を構えた。
 何を、勘違いしていたんだか。最近凄い人ばっかり見ていた所為か、自分までそうなんじゃないかと思い込んでしまっていたようだ。凄いのは遥だけで、俺は普通なのに。何もかもが、普通な高校生だと言うのに。
 ただただ、悔しかった。あと少しで……あと少しで、辿り着く筈なのに。
「やめて!」
 悲鳴に近い叫び声。……あぁ、辿り着いた。やっと……君に辿り着くことが出来た。
「ゴホン……止めなさい。私の夫になるべく人に、これ以上の狼藉は許しません」
 この事件の発端である、クリスチーネに。



 一際大きな装甲車の中に、俺は引きずられるようにして入っていく。無理矢理ではない。もう歩く気力すらないんだ。
 中に入ってまず驚いたのが、その内装の豪華さだった。まるでリムジンのような白い本革ソファーに、いかにも高そうな装飾をあしらったデザインテーブル。でも外観の割りに狭いなぁと思ったけど、窓ガラスの厚さを見て納得した。弾丸どころか、ミサイルにも耐えられそうだった。王族専用車なのだろうか?
 俺をソファーに降ろした後、隊員はクリスチーネに敬礼をしてから出て行ってしまった。車中に居るのはたった二人だけ。人質に取られるとは思わないのだろうか? ……まぁ、そんな体力も気力も残ってないけどさ。
「トオルさん、何か飲みますか?」
 クリスチーネはニッコリと笑いながら聞いてきた。まるで、何事もなかったかのように。
「いや……それよりも、聞きたいことがあるんだ」
「なんでしょうか?」
 途端に、クリスチーネの顔が強張る。ついにその質問が来た。そんな様子だった。
「……どうして俺を捕まえなかったんだ? 気絶してたんだ。簡単だっただろうに」
 何となく、いきなり核心に触れてしまうのはイヤだった。クリスチーネも同じ気持ちだったのか、少しだけ表情が緩む。
「それは……まだ、トオルさんを捕まえたくないからです。先にハルカを……捕まえなければ、ワタシは何も手にする事が出来ない気がしたんです……」
 クリスチーネは俯き、ズボンをギュッと掴んで苦しそうに言葉を吐いた。悲しくなるほどのひたむきな気持ちに、俺の心がズキリと痛む。だけれど、一瞬言い淀んだのを俺は見逃さなかった。その真意は……捕まえる気など無いという事。
「あっ、そうだ。部下に代わって謝ります。本当にごめんなさい。スタンガン、痛くなかったですか?」
「まぁ、それは大丈夫だよ。痛みを感じる前に気絶したから」
 俺の返答を聞き、クリスチーネはホッと胸を撫で下ろした。
「あぁ、良かったです。安心して下さい。不始末をした部下には、キッチリとお仕置きをしておきましたから」
 そう言って、クリスチーネは何の心配もありませんよというように、ニッコリと笑った。ルシュとはまた違った種類の笑みだった。
「じゃあ、もう一つだけ。どうして遥を……殺そうとするんだ?」
 もう全て知っている事を明かす為に、俺は敢えてそう言った。別に何かの意図があったワケじゃ無い。ただ、これ以上何かを伏せても意味が無い事だけは分かって欲しかったんだ。
 それに対し、クリスチーネの反応は薄かった。顔が強張るだけで、動揺した素振りは一切見られない。
「理由は……トオルさんの推測通りです」
 ズルい言い方だ。俺が何を言っても、それは正解とされてしまうだろう。あくまで自分の口からは語りたくないらしい。
「この作戦は、明日の夕方まで続きます。いかに人類最強と言われるハルカでも、所詮は一人。百人の猛攻撃を24時間も続ければ、いずれ体力は尽きるでしょう。そして作戦が終了したら、ワタシは……トオルさんを迎えに上がるつもりです」
 クリスチーネは俯いたまま、そう決意表明した。……待った。今、何て言った? 作戦は、明日の夕方まで……続く? つまりそれって、それって――。
 ちくしょう、計算式は間違っているのに! 何で、何で答えだけは合ってんだよ!
 遥が普通に戻る、魔の時間帯――23時30分から0時の間も、当然のように攻撃は続けられる筈だ。それは、それでは――。
「今すぐ中止命令を出してくれ!!」
 俺は半ば怒鳴るようにして言った。ダメだ。それだけはダメだ。それでは、本当に遥が……死んでしまう。
「頼む……頼むよ……」
「いくらトオルさんのお願いでも、それだけはダメなのです」
 クリスチーネは寂しそうな顔で断った。何を想っての顔なのか、俺には理解出来なかった。
「これは、ワタシとハルカの戦いなのです。それは、あと21時間続きます。ですが、ワタシたちはトオルさんだけには一切手出しを致しません。いかようにもお好きにお過ごし下さい。ただし、作戦の邪魔だけは許しません。次は……拘束させてもらいます」
 それは現場の指揮官として、そして女王としての決断だった。
「本当に止める気は無いのか? 他に方法があるんじゃないのか!?」
「ありません」
 クリスチーネはキッパリと言い放った。そこには、迷いの微塵も感じられなかった。
 もう止められない。もう……。俺は力無く首を振りながら立ち上がる。
「あっ……もう少し、もう少しだけ休んでいっても……」
 クリスチーネの引き留める声を無視して、俺は重い足を引きずりながら出口を目指す。それが、せめてもの抵抗だった。



 俺は隊員に押し出されるようにして、公園の外に出た。自転車は壊れてしまっているから、トボトボと歩くほかになかった。
 必死で自転車を漕ぎ、ケガをする覚悟でダイブをしてみても、結局、何一つとして変わることはなかった。何も……出来なかったんだ。
 どうする? 考えろ。どうすればクリスチーネは、あの作戦を止めるんだ? 考えろ。考えろ。考えてくれ。
 しばらく悩んでみても、何も思い付きはしなかった。代わりに浮かんでくるのは、嫌な想像ばかり。その度に、自分で頭を殴ってその考えを吹き飛ばした。
 どうして……こうなってしまったんだろう?
 一つの席を、二人が取り合っている。軽快なBGMに合わせて、イスをぐるぐると回りながら、音楽が止まるのを今か今かと待っている。しかし、俺が一人を気に入って、ルールを無視して先に座らせてしまった。その所為で、もう一人の参加者は不公平だと怒りだし、イスの奪い合いが始まってしまった。音楽は掛かったままだ。やめろやめろと言っても、その音楽に掻き消されて届かない。それが鳴り止むのは、全てが終わった後。
 遥が勝てば、何も問題は無い。だがこのままでは、遥は……確実に殺されてしまう。甘く見ていた。心のどこかでは、遥なら大丈夫だと、何が起こっても平気だと信じ込んでいた。実際は……この様だ。
 どうする? 考えろ。考えてくれ、俺の頭よ。お願いだ。今だけで良い。シナプスに焼き切れるほどの電流を流し込んでくれ。クリスチーネはもう止められない。なら、どうすればいい? 遥を殺されないようにする為には、どうしたらいいんだ?
「痛ッ!?」
 いきなり目の前に電柱が現れ、俺は真っ正面からぶつかってしまった。また周りが見えなくなるほど考え込んでいたらしい。
 俺は電柱に額を押しつけ、そのまま考え事を続行させる。気が狂ってしまったワケじゃ無い。コンクリートの冷たさが、心地よかったんだ。このまま、俺の熱暴走を冷ましてくれ。
 一度原点に戻ろう。問題点はなんだ? どうして人類最強と言われている遥が、殺されそうになるんだ?
 敵が百人という大人数だから? 違う。遥に通用する武器を持っているから? それも違う。
 そう、魔の三十分間が存在しているからだ。その間だけ、遥は普通の女の子に戻る。恐らくその間に死ぬような大怪我を負ってしまったら、治る見込みは……ほとんどない。
「じゃあ……」
 俺が、俺が守ればいいんじゃないか、その間だけでも。
「ハハ……その発想は無かったな」
 人類最強の遥を、普通平凡の俺が守るだなんて。間違っていた。クリスチーネを止めるのではなく、遥をその間だけ守りきれば良いのだ。
 ルシュは言っていた。ルールを直せるのは俺だけだと。――いいや、違う。主催者が俺なら、ルールどころかゲームそのものを変えてしまったって何の問題もない筈だ。ただし、不公平なルールであってはならない。
 そうだ。今から行われるのはイス取りゲームではなく、三十分間耐久の鬼ごっこだ。最初に遥を見つけて、その後百人の鬼から逃げ切れれば……俺たちの勝ちとなる。
「ハハ……ハ……クソッ、どうやって逃げろっていうんだよ!?」

 ◆----------------------◆

 ルシュはいつものレストランに一人で入る。すると、若い女性の店員が慌ててルシュの元に走ってきた。
「あのね、ここは大人の人と一緒じゃないとちょっと入れないかなぁー」
 この台詞を言われるのは何度目か。もはや説明するのも面倒になり、ルシュは呆れたようにため息をはく。店員を無視してキョロキョロと店内を見渡すと、片や頬杖を付き、片や面白くなさそうに本を読んでいる二人が目に入った。
「あぁ、お姉ちゃんたちと待ち合わせしてたの。ごめんねー」
 店員はしゃがみ込み、ルシュと視線を合わせて謝った。これもいつものことである。だが、今日ばかりは虫の居所が悪かった。
「来たれ、赤き蛇よ」
 ボソッと、そう口の中で呟いた。
「……ん? 何か温かいような……」
 店員は何かを感じ、後ろに振り向く。その間に、ルシュは二人の元に歩き出す。
「……気のせいかしら?」
 店員は首を傾げながら立ち上がり、腑に落ちない様子で厨房の方に戻っていく。お尻に、大きな穴を空けて。
「よぉ、遅かったな。お土産にハラキリセットでも買ってたのかい?」
 ルシュに気づいたカミラが、頬杖を付いたまま気怠そうに言った。巻は本を広げたままで、何も言わず、視線だけをルシュに合わせる。
「フンッ、置き土産ならしてきたがのう」
「そうか。まぁ、こっちはご覧の通りさ。まるで失敗したドラッグ・パーティーみたいだ」
 カミラは自嘲気味に笑いながら、肩をすくめた。
「……なんか、厨房の方が騒がしいでござるな」
「さてな。ナチュナル・エネミーでも出現したんじゃろうよ」
 そう言いながら、ルシュは巻の隣に座る。メニューに眼を通してみるが、何も食べる気にはなれなかった。
「本国に連絡はしたのかい?」
「ケータイが使えぬ。メールは辛うじて大丈夫なようじゃが、生憎とアドレスを知らん。……それにしても、かなり大規模なジャミングのようじゃな。警察への無用な連絡を防ぐ為なのか、はたまた徹ニィから遥ネェに連絡を取らせたくないだけなのか……」
 カミラは深いため息をはきながら、「そうかも知れんな」と呟いた。
「巻、アンタはどうなんだ? 電車で直接行けるだろ?」
「現場待機。それが拙者に下った命令でござる」
「それだけ? 何か情報はもらってないのか?」
「お国の為に、蟻と成れ。余計なことを知らず、ただ働けば良い。それが上層部の本音でござる。全く、アルバイトは肩身が狭いでござるよ……」
 巻は大きなため息をはきながら、テーブルに突っ伏した。
「ただ、退去命令や逮捕権を発生させるために、上がいろいろ動いているのは確かでござる。早ければ明日の夕方にでも実行に移されるとか何とか」
「つまり、それがタイム・リミットというワケじゃな」
 ルシュに言葉に、全員が項垂れる。失敗の二文字を背負わされて母国に帰るのは、何よりも辛いことだった。
「アタシもハラキリセットをお土産に買って帰ろうかな?」
「いや、待て。遥ネェがそれまで耐えきれば、作戦は失敗となり、ワシらはそのまま任務続行となるのでは?」
「忘れたのか? 相手は鬼教官率いる『808・ブルータヌキ部隊』だぞ? 作戦成功率は90%を越えるモンスター軍隊だ。これがどれだけ大変な事か……分かるか?」
 ルシュは何かを言おうとして、その言葉を飲み込んだ。今、希望的観測を語るのは、あまりにも虚しいと思ったからだ。ついには全員黙り込んでしまい、巻の本を捲る音が嫌にハッキリと聞こえるようになった。
 突然、みんなのケータイが同時に鳴り始めた。
 一人は眉をひそめ、一人は驚いて本を落とし、もう一人は初めてメールが来たと歓喜していた。各々がケータイを取りだし、届いたメールを確認する。それは、同一人物からアドレスで、そして全員全く同じ内容のメールだった。

『俺だ。亀井 徹だ。迷惑メールじゃないから、消さないで読んで欲しい。単刀直入に言おう、どうか助けて欲しい。俺の力じゃどうにもならない。既に知っていると思うけど、クリスチーネが軍隊を使って遥を殺そうとしている。説得したけど、無理だった。これは止められないと思った。
 だから俺は、遥を守ることに決めたんだ。
 作戦終了まで、なんて無理なのも分かっている。1時間。1時間だけ一緒に遥を守って欲しい。遥に1時間の休憩を与えてあげれば、きっと復活してくれるはずだ。
 クリスチーネと遥は今、学校近くの公園で戦っている。多分このメールが着くのは、9時過ぎだと思う。確実に成功させたいから、余裕を見積もって11時丁度に作戦を開始したいんだ。クリスチーネが雇い主なのは知っている。でも、助けて欲しい。1時間だけ、遥の味方になって欲しいんだ。俺は公園から少し離れたコンビニで待っている。
 どうかお願いします。』

 メールを読み終わった三人は、思わず顔を見合わせた。
「鬼教官を説得しに行ったとは、ずいぶんと根性があるな。肝の一つも食われてなければ良いけど」
「ふん、ワシらを頼ろうなどとは……浅ましい考えじゃな。いくら同情を煽ったところで、動きはせぬ」
 冷徹に言い放つルシュ。しかし、表情はどこか苦しそうだった。
「曲がりなりにも、拙者は公安の人間。国家問題に発展しかねないので、絶対に無理でござるよ」
「アタシもだ。下手すると、ウチの軍隊を潰しに掛かってくる可能性が高い。ウィル・オ・ウイプス(鬼火)を呼び寄せるような真似事だけはごめんだね」
 カミラは二人の顔を交互に見た後、
「決まりだな。満場一致で、徹の手助けはしない。……それで良いな?」
 その確認に、ルシュと巻は歯切れの悪い返事をした。単に申し訳ないという気持ちがあるだけで、決めかねているというワケではない。彼女たちは得を求めてここに来たのだ。損をするだけの事に、動くわけにはいかなかった。
 気まずい雰囲気の中、今度はルシュのケータイだけが鳴った。かと思えば、やや遅れて巻のケータイも鳴った。カミラのケータイは……鳴らなかった。――と思っていたら、だいぶ間を置いてカミラのケータイも鳴った。ホッと胸をなで下ろす。
 それは、またしても同じアドレス――徹からだった。しかし、内容は全員異なっていた。

 カミラのメールには、
『俺だ。亀井 徹だ。前に遥の生体データが欲しいって言ってたよな? 少量で良ければ、遥の血をあげるから助けて欲しい。彼氏として絶対に約束する。』
 
 ルシュのメールには、
『俺だ。亀井 徹だ。前に遥が、組織の切り札だったって言ってたよな? じゃあ逆に、ルシュの切り札にもなるって事なんだよな? もし組織に反逆するときは、遥に手伝いをさせるから助けて欲しい。彼氏として絶対に約束する。』

 そして巻のメールには、
『俺だ。亀井 徹だ。前に遥に、国の為に働いて欲しいって言ってたよな? ずっとはダメだけど、遥に何回か協力させるから助けて欲しい。彼氏として絶対に約束する。』

 三人はメールを見つめたまま、唸りだしてしまった。目的のモノが労せず手にいられる。これ程美味しい話はない。だが、クリスチーネに逆らうのは、それと同じぐらい大きなデメリットであった。どちらに付いても、得と損が発生する。
 三人の天秤は、完全な水平となっていた。
 悩み始めてから一分も経たない内に、今度は三人同時にケータイが鳴った。

『なお、先着二名までです』

 三人は思わず見合わせ、そして三人同時に立った。
「ヤボ用を思い出した」
「ワシもじゃ」
「拙者もでござる」
 肩を押し合いへし合い、三人は出口を目指して走り出す。
「お主らは会計がまだじゃろ? ワシは水しか飲んでおらんからな。ほれ、早うレジに行くがよい。それとも、誇り高き軍人様が食い逃げをするのかのう?」
「くそ……! 巻、ワリカンだからな! さっさと千円を寄越せ!」
 逃げられないよう、カミラは巻の腕を鷲掴みする。しかし、感触がほとんどなかった。
「忍法・空蝉の術でござる。ニンニン」
 残っていたのは、男の学生服だけ。スカート姿の巻は、いつの間にか店の外に出ていた。
「あー! 逃げやがった! こんな時だけ忍者っぽい事するんじゃねぇ! 食い逃げだ! 汚い食い逃げ忍者だ!」
 カミラは罵詈雑言を浴びせかけるが、巻はこちらに背を向けたまま耳を塞いで逃げていく。
「じゃあの」
 それを尻目に、ルシュは外に出て行ってしまった。
「くそっ! 待ちやがれ! ほらっ、釣りは要ら……って、あれ!? お札が無い!? もしかして足りない!?」
 助けを求めようと店の外を見てみるが、もう既に二人の姿はなかった。
「こォんの薄情どもーー!!」

 ◆----------------------◆

「よし……何とか全部送れた」
 ケータイの画面には、送信完了の文字。俺はホッと胸を撫で下ろす。
「それにしても、ずいぶんと離れたな……」
 振り返ると、もう公園は見えなかった。電話は無理でも、メールなら圏外並の電波状況でもたまに送れることがある、とどこかで聞いたのを思い出し、俺は実行に移してみたんだ。結果は、見事成功。しかし、送信エラーの度に数十歩ずつ歩いていたら、ここまで来てしまったというワケだ。
 もちろん遥にも送ったが、ジャミングの中心地に居るのだから、メールと言えども望み薄だった。やはり、直接見つける他にないのだろう。
「あとは、あの三人が乗っかってくれれば良いんだけど……」
 やれることは全てやった。俺は高校受験の時よりも強く祈りながら、合格発表場所のコンビニへと急いだ。

 ◆----------------------◆

 クリスチーネは王族専用車両の中で、この公園の上空写真をテーブルに置き、ジッと見つめていた。
 写真の上にあるのは十個のマグネットで、それぞれに1〜10の数字が書かれてあった。ブルータヌキ部隊は十個の小隊で構成されており、数字はそのまま小隊番号を表している。そして一つだけ、その辺から拾ってきたような石が置いてあった。表しているのはもちろん、遥だ。
 この公園には出口が東西南北とあり、第六小隊から第九小隊までが出口の封鎖にあたっていた。第十小隊はクリスチーネの警護、並びにケガをした隊員の救護に振り分けられている。
 そして、他の第一小隊から第五小隊――計50人が遥への追撃にあたっていた。……いや、捜索活動を行っていた。
――探す場所が多すぎてイヤになるわね。
 この公園は、県内で最も敷地面積が広い場所だ。四季全てを楽しめるのがこの公園の最大の売りであり、その分植樹の数も群を抜いて多い。探す側にしてみれば、これ程最悪な場所もない。
「1と3、北に400メートル程進んで。いい加減見つけ出すのよ」
 クリスチーネはイラついた様子で指示を出し、同時に1と3のマグネットを北に進めた。
 作戦開始から既に六時間近くが経過していたが、軽傷者はいるものの隊員は誰一人として欠けていなかった。理由はブルータヌキ部隊が優秀だから、ではない。どれだけ遥に攻撃してみても、反撃どころか恐がってすぐに逃げてしまうからだ。当然追跡するが、逃げ足も人類最強で、あっという間に姿を消してしまう。そして今と同じように周囲を探し、血まなこになってやっと見つけたかと思ったら、また逃げ出す。この六時間近くは、それの繰り返しだった。
――ヘリを返したのが仇になったわね。
 いくら広い公園と言えども、ヘリからならばこの上空写真のように、常に全体を監視することが出来る。高感度の赤外線スコープを装備していたから、尚更簡単に見つけることが出来ただろう。しかし、制空権侵犯し続けるのはかなり厳しい事であり、場合によっては更にタイムリミットが縮まってしまう危険性も高かった。なので全隊員が赤外線スコープを装着し、地を這うように探し続けているが、あまり成果は上げられていないのが現状だった。
≪こちら第二小隊。こちら第二小隊≫
 耳に付けた通信機から連絡が入った。
「見つかったの?」
≪いえ……付近一帯を調べ尽くしましたが、居ませんでした≫
「なら南に600メートル進んで探しなさい!」
 クリスチーネは声を荒げた。イラつきのあまり、マグネットを動かすのを忘れるほどに。
≪りょ、了解しました!≫
 第二小隊長は逃げるようにして通信を切った。まるで代わるように、すぐさま次の通信が入る。
≪えー……こちら第七小隊。第七小隊です≫
――第七? 封鎖部隊が何故?
「どうしたの? 西出口にターゲットが出現したの?」
≪いえ、それが……先程の少年がこちらに戻ってきました。今は銃を向けているだけですが、どうしますか?≫
 その連絡を受けたクリスチーネは、思わず頭を抱えた。
――どうして戻ってきてしまったの? そんなにハルカが大事なの? ……フフ、馬鹿な人ね。
 クリスチーネの表情は、強張るどころか綻んだ。こんなにも遥が大事という事実にはショックを受けたが、それ以上に自分が惚れた男はこんなにも思いやりがあるのだと、逆に誇らしくなったからだ。
「拘束してちょうだい。ただし、手荒なマネは一切許さないわ。もしすれば、アレ以上のお仕置きを覚悟する事ね」
 通信機の向こうで、生唾を飲み込む音が聞こえた。
≪りょ、了解です! 蝶を捕まえるように、そっと確保します!≫
「……いえ、待ちなさい。ワタシもそっちに行くわ。トオルさんを捕まえて良いのは……ワタシだけです」



 クリスチーネは第十小隊――護衛と共に徒歩で西出口を目指し始めた。徹を捕まえられるという、奇妙な背徳感に心を躍らせながら。
 五分後、現場に着いたクリスチーネは唖然とした。そこに広がっていたのは、大量に割れた植木鉢と、全員気絶している第七小隊だった。
「これは……どういうことかしら?」
 何が起こったのか、それはすぐに分かった。だがクリスチーネは、引きつった顔で誰に言うでもなく呟いた。徹はただのオトリで、注意を引いている間に上から植木鉢を落として気絶させたのだろう。問題は、誰かが手を貸しているという事。
 クリスチーネは通信機のチャンネルを全オープンした。
「各小隊に告ぐ。ワタシの夫となるべき人がこの公園内に侵入した。その人への攻撃は一切許可しない。だが、他に手助けしているであろうネズミを見つけたら即発砲せよ。それから、6、8、9から二名ずつ選出して西出口に向かわせなさい。それを臨時第十一小隊とする。以上よ」
 各小隊からの了解の返事を聞いた後、クリスチーネは通信を切った。そして、倒れている第七小隊に眼を向けた。
 クリスチーネが一番気にくわなかったのは、世界最強と呼ばれた軍隊がそんな簡単な手に引っかかってしまったという事だ。本国に帰ったら、SASも裸足で逃げ出すような地獄の訓練をしようと思った。
「公園の地図を」
 護衛の一人が、車中からそのまま持ってきた地図を手渡す。
――ここから入ったのならば……。
 西出口から指をなぞって進行ルートを推測してみる。今現在、部隊は地図で言うところ右上と右下に多く配置されてある。
――左上……?
 普通であればそうだろう。少数精鋭で侵入するならば、敵の少ないルートを選ぶのが定石だ。しかし、侵入者は徹。目的はもちろん、遥の救出しかない。そう、救出が目的なら、戦場のド真ん中を探す方が効率が良いのだ。
――だけど……それは身動きの取れない負傷兵の場合のみ。
 遥はかなり体力を消耗しているかも知れないが、それでも動きは隊員たちより何倍も速い。空いている左上から徹が大声を出せば、遥は全力でそこに行くだろう。そうすれば、北出口に配置してある第九小隊のみ突破すれば脱出出来てしまう。
「1はその場で待機。2は1と合流、3は9と合流せよ。4、5は時計回りに北東を目指せ。周囲の警戒を怠るな!」
 クリスチーネの取った作戦は、空いている左上で挟み撃ちの形にすること。そして――。

 ◆----------------------◆

 まるでそこに障害物などないかのように、速度を落とすことなく茂みを跳び、木々の間をくぐり、疾風の如く駈けていく。人はこんなにも速く走れるものかと、驚きを隠せなかった。
 俺は今、巻におんぶされたまま目的地を目指している。何故こうなったのかと言えば、理由は二つあった。
 一つは、俺の体力も足もとっくに限界を超えているということ。まぁ例え全快したとしても、スピードが売りの忍者と、毎日走り込んでいる軍人について行けるわけもないが。意外だったのはルシュだ。今も平然とした顔で併走しており、他の二人と同じぐらい速かった。
 もう一つは、さすがに女子におぶってもらうのは気が引けたので――変な言い方になるが――男に戻った巻が俺を背負っていくことになったんだ。巻は、『男の友情でござる』とかよく分からんことを口走っていたが、今はそれに甘えることにした。……ただまぁ、つい三十分前まで女子だった巻と密着しているというのは、どうにも変な気分である。うなじは妙に色っぽいし、香水なのかほのかに甘いが漂ってくるし。いろんな意味で、気をしっかりと保たないとな。
「それにしても、まさかあんなので上手くいくとは……」
 俺がオトリになって、ルシュがサイコキネシスで植木鉢を降らせるだけの超単純作戦。拍子抜けするほど簡単に成功してしまった。
「不意を衝けば、軍人と言えどもだいたいあんなものじゃ。のう、カミラ?」
「言ってろ、魔法使いのロリババアめ。徹が居なかったら、隙も作れないわ」
 確かにカミラの言う通りだ。作戦通りに俺一人だけが隊員たちの前に歩いていくと、初めて襲われた時とは別人のように、光線銃を中途半端に構えたまま酷く動揺していた。どことなく怯えているようにも見えた。そして、連絡が終わった瞬間を見計らって、植木鉢の雨を降らせたワケだ。
「おわっ!?」
 大きな石があったのか、いきなり巻が高くジャンプした。その所為で俺は激しく揺れ、思わず強くしがみついてしまった。
「へ、変なところを触らないで欲しいでござる!」
「うわわっ!? す、すまん!」
「ハッハッハッ、冗談でござるよ。男同士の触れ合いに変なところはないでござる」
 そう言っている割には、耳が真っ赤になっているのを俺は見逃さなかった。
「ルシュ、そろそろ目的地に着くんじゃないか?」
「うむ、少し待て」
 走りながらルシュはケータイを取りだし、サイコキネシスで空に飛ばす。そのまま高く高く上げると、ケータイは星のように光を瞬かせた。ルシュの手元に戻ってくると、その画面には公園の上空写真が写っていた。そこにはもちろん、俺たちも、周囲の隊員たちも写っていた。しかし、遥だけがそこに写っていなかった。
「目的地はすぐそこじゃ。じゃが……こちらの作戦に気づいたのか、北出口の防御が厚くなっておる。加えて、隊員たちがこちらに集まりつつあるようじゃな」
「なァに、この三人と遥が居れば、イージスの盾だって簡単に突き破れるさ」
 カミラは不敵な笑みを浮かべた。なんとも頼もしい言葉だ。
「見えたでござる! あの看板が目印でござるな?」
 巻の言う通り、前方に公園の案内板が立っていた。予想通り、周りに隊員の姿は見えない。
「徹ニィ、最後の仕上げを頼むぞ」
「分かってる。この馬鹿げたゲームを終わらせないとな!」
 時刻は11時10分を過ぎた所。合流して逃げるには、充分な時間だ。あとは俺が遥の名前を大声で呼べば、俺たちの作戦は成功に終わる……筈だった。
 それは、唐突に聞こえ始めた。静寂に満ちた時にしか聞こえない、あの例えようのない耳鳴り。それが今、頭の中でうるさいほどに響き渡っている。
「なんだこれ……!? 気持ち悪い……」
 俺は頭を抱えるように両耳を閉じた。しかし、音は鳴り止まない。まるで脳みそ自体が震えて音を出しているようだった。
「この感じ、『ゴッド・ボイス(暴徒鎮圧用音響兵器)』か! くそっ! 威力は抑えているが、本当になりふり構ってないな!」
 カミラが大声で叫んだ……んだと思う。耳鳴りがうるさすぎて、あんまり聞こえなかった。
 俺はハッとなった。この距離で、声が聞こえづらい?
「あ……遥! 聞こえるか、遥! 助けに来たぞ! 早くここに来い! 俺が……俺がここに居るぞ! 遥! 遥ァーー!!」
 俺は目的地に着く前に、あらん限りの声で叫んだ。しかし、木の葉一枚すら揺れることはなかった。
「無駄じゃ。いくら遥とはいえ、これは防ぎようがない。……やられたのう、さすがブルータヌキ部隊じゃ」
「むぅ、ここは一度撤退して、体勢を立て直した方が良いかも知れぬでござるな」
 目的地の手前で、巻が立ち止まった。カミラもルシュも立ち止まり、曇りがちな表情を浮かべる。嫌な諦めムードが漂い始めていた。
 出来ることなら、俺もその意見に賛成したかった。作戦は失敗したんだ。このまま遥の救助を続行するのは、あまりにも無謀だ。しかし、しかし……時刻は11時14分。本当のタイムリミットが、もうすぐそこまで迫っているんだ。
「ダメだ! このチャンスを逃がしたら……もう、次はないんだ! 頼む! 何とか遥を助けてやってくれ!」
 俺は祈るように手を合わせ、深く頭を下げてお願いをした。
「しかし、遥が居るのは恐らく北東か南東じゃ。無論隊員たちは待ち構えておるし、何より後方から別働隊が迫っている。挟撃されてしまえば、一巻のお終いじゃ」
 ルシュは困った顔で正論を説いた。自分も助けたいのはやまやまだが、分かって欲しい。そう言っているようだった。
「頼む……頼む……!」
 間違っているのは自分でも分かっている。だけれど、無謀を、俺のワガママを突き通すしか無かった。もう……それしか方法が無かった。
 カミラがやれやれ、といった様子で肩を竦め、ルシュの肩をポンと叩く。
「なら……アタシが殿(しんがり)を努めよう。なァに、撤退戦ではよくやっていたことさ。死体が見つかるまでは、勝手に葬式なんかするなよ?」
 意外だった。最初に命を狙ってきたカミラが、まさか遥の為に命を張ってくれるなんて。涙が出そうになり、俺はグッと堪える。
 感動している俺にカミラはそっと近付き、
「先着二名って言ってたけど、これで遥の血を分けて貰えるよな?」
 そう、耳打ちをしてきた。……どうやらそれを期待しての行動らしい。それは発破を掛ける為だけの嘘だから、助けに来てくれた時点であげようとは思ってたけどさ。全く、感動して損したよ。このヘタレ軍人め。全く……カミラらしいよ。
 カミラは俺たちに背を向け、今来た道を戻っていく。そして俺たちは、遥が居る可能性が一番高い場所であり、同時に一番の激戦区である、北東を目指すことにした。

 ◆----------------------◆

 去っていく徹たちの背中を見て、カミラは内心ホッとしていた。殿を努めようと言い出したのは、もう一つ理由があったからだ。
――噂通りなら、必ず現場で指揮を取り、そして自分の手で殺しに掛かる筈だ。
 カミラは今、徹たちが目指している場所――つまりクリスチーネは、北東で待ち構えている筈だと推測したのだ。
 軍人の間で最も有名かつ最も恐れられているのは、名高いブルータヌキ部隊ではなく、クリスチーネの方だった。『鬼教官』、『地獄の扱き屋』、『ラムスキン・クリエイター(子羊の皮を剥ぐ者)』、などなど、数多くの異名を持つほどである。だからカミラは、この場に残った。『オーガ・プリンセス』と戦うより、ブルータヌキ部隊を一手に引き受けた方がマシだと思ったからだ。
 だが数分後、カミラは殿なんか努めるんじゃなかったと大後悔した。現れたのは、鬼教官率いる第十小隊。本物の鬼でさえ裸足で逃げ出すような怖さだった。
「……アナタはどちら様で?」
 クリスチーネは、カミラを見て首を傾げた。
「まぁ、誰でもいいわ。知っているかしら? 恋路の邪魔をする人は、鬼に殴られて死んでしまうそうよ?」
 背筋が凍り付く思いだった。いろんな軍人と睨み合ってきたカミラだったが、クリスチーネのそれは他と一線を画している。まがい物ではない鬼瓦が、そこにあった。
「ワタシに武器を」
 エスコートされるように手を差し出すと、隊員の一人が手押し車で大きな何かを運んで来た。それは、荒々しいトゲの付いた金棒だった。隊員が二人掛かりで渡そうとするが、重すぎて持ち上がらないようだ。それに痺れを切らしたクリスチーネは、自力でひょいと持ち上げ、肩に担ぎ上げる。
――文字通り鬼に金棒、か。ジミー・ヘンドリックにギターを与えるようなもんだな。
 ブリジウッド帝国歴代の女王が、オーガと呼ばれるもう一つの理由がこの金棒であり、
「存分に抵抗しなさい。この世に未練を残さないように」
 まるでバッドのように軽々と振り回す、その人間離れした剛腕である。
 ナイフを握る手が、ジットリと汗ばむ。
――大丈夫だよな? 今じゃ、これは生存フラグなんだよな? 巻が持っていたジャパニーズマンガには、そう書いてあったぞ!?
 だが、そんな淡い期待は、金棒を振るう風切り音で掻き消されていった。

 ◆----------------------◆

「……今、何か情けない悲鳴が聞こえたような……?」
「舌を噛むでござるよ!」
 巻の忠告に、俺は慌てて黙った。その直後、高さが腰ぐらいの木を飛び越え、身体が大きく上下した。そのまま深い茂みを抜けると、そこには地面に膝をつき、透明な盾と光線銃を構えた二十人もの隊員たちが待ち伏せしていた。
「まずいでござる!」
 巻は咄嗟に左に曲がり、ルシュは右に曲がった。すると何故か、全ての銃口がルシュを追い始めたんだ。
「クッ……どうせ撃つなと言われたのじゃろ!? この愚鈍な青ダヌキ共め!!」
 隊長らしき人が、俺でも知っている射撃の合図を送った。光線銃の青い光は透明な盾を通し、ルシュの全身をくまなく照らす。
「ぬっ……!」
 苦しそうな表情を浮かべ、ルシュは膝から崩れていく。
「ルシュ!」
 絶体絶命だと思った。しかし、ルシュは声を上げて笑っていた。いつものように、ケッケッケッと。その笑い声の中に、サァ、と木の葉が擦れ合う音が聞こえた。次の瞬間、大量の木の葉がルシュに降り注いだ。それは大きな障害物となり、青い光を遮っていく。木の葉カーテンの向こうで、ルシュがゆっくりと立ち上がるのが見えた。
「行くのじゃ、徹ニィ! ここはワシが引き受けた!」
 カミラに続き、ルシュまでもがここに残ると言い出した。命を張ってくれるのは嬉しいが、子供にまでそんな事はさせられない。しかし、こちらの気など知らず、ルシュは花壇を囲んでいる大量のレンガを浮かし、俺たちと隊員たちの間に大きな壁を作り上げた。
「かたじけないでござる!」
 巻は躊躇うことなく、先に進み始めた。
「お、おい、巻! ちょっと待てって!」
 俺の静止する声など聞かなかったかのように、巻は先程よりも速く駆けだした。
「さぁ、めくるめく炎のショータイムへようこそ。いくらでもアンコールに応えてやろうぞ!」
 積まれたレンガの向こうで、赤い光と青い光が激しく交差していた。



 そして数分後、また新たな部隊と遭遇し、今度は最後の砦である巻が食い止めることになってしまった。俺は巻の背中から飛び降り、今度は自分の足だけで北東を目指し始める。かなり厳しいが、それでもだいぶ休んだお陰で走れるようにはなっていた。
 ケータイを見れば、時刻は既に11時26分。本当の意味での救出作戦が、今始まろうとしていた。
 たった、俺一人で。

 ※

「遥!」
 もう何十回もその名前を呼んでいた。音の発生源に近付いているのか、進めば進むほど耳鳴りが強くなっていく。だが、どんなに邪魔されようとも、俺の声は絶対に届くはずだ。遥がそれを待っている筈だから。
 どれだけ遥が強くなろうと、忘れられないことがある。初めて会ったあの日、子猫のように泣いていたあの遥を。だからきっと、今もどこかで、あの時のように降りられなくて困っているのではないだろうか?
「遥ァァァァーーーー!!」
 俺は木の上に向かって、ありったけの声で叫んだ。一瞬……一瞬だけだが、俺の声が耳鳴りを上回った。ガサリ、と木の葉が揺れる。
 まるであの時の再現のように、木の上から姿を現したのは……遥だった。遥の声は聞こえない。だが、口の動きだけで俺の名前を呼んでいるのが分かった。木の枝に服を引っかけたのか、あちこちが裂け、肌を晒していた。
 遥は、感動のあまり身を乗り出す。俺はハッとなってケータイを確認した。時間は……既に11時34分。魔法が……解ける時間帯だった。
「ダメだ、遥! そこから――!」
 嬉しそうな顔のまま、遥はそこから飛び降りた。遥は気づいていない。自分が、普通に戻っていることを。
 俺は落下予想地点に向かって全力で走り出した。間に合う、間に合わないの問題ではない。間に合わせなければならないんだ。そうでなければ、ここまで来た意味が無い。
 だが、既に分かっていた。この距離では、俺の速度では……届かない。誰か、誰か頼む。他人に頼ってばかりで情けないけど、誰か頼む! カミラ、ルシュ、巻、この際オカマッチョでも良い!
「誰か……誰か受け止めてやってくれ!」
 俺の悲痛な叫びが届いたのか、ガサリと草むらの影から救世主が、
「あ、お、お前は!? やっと見つけたぞ、この野郎!」
 無情にも、現れてはくれなかった。
「ちくしょう! あの時はよくも踏んづけて行きやがったな! 姫様にはバレないように、たっぷりとお返しを――!?」
 遥は寸分の狂いなく、俺の靴跡を踏むようにして隊員の頭に着地した。隊員の膝が崩れ、まるで衝撃吸収マットのように大きく沈む。そのお陰で衝撃はほとんど吸収され、遥へのダメージは最小限に済んだようだ。……意外な事に、本当に救世主が来てくれたようだ。ただし、本人には助ける気なんて更々なかっただろうが。
 解読不能な絶叫をあげながら、隊員は前のめりに卒倒していく。
「わっ、わわ!」
 当然、その上に乗っていた遥も前のめりに倒れていく。最後に受け止めるのはもちろん、
「ああ、遥! やっと、やっと見つけた……!」
 彼氏である、俺の役目だ。
「徹……! 恐かったよー! もう、何か鬼の仮面を被った人たちが山のようにやって来て、もう、もう恐かったよ−!」
 すんすんと泣きながら、俺にしっかりと抱きついてくる遥。身体は少し冷えていた。初夏とはいえ、まだ夜は肌寒い。キザったらしくて本当はやりたくないけど、俺は上着を脱いで遥に被せた。
「さぁ、脱出するぞ!」
 遥の肩を抱えながら走り出そうとして、ふと気が付いた。現在この公園は、クリスチーネの部隊によって閉鎖されている。そもそもの脱出計画は、あの三人か、遥の力を借りてその封鎖を突破するものだった。今の戦力は、普通の高校生ペア。警察の関門すら突破できないような有様だ。脱出どころの話ではない。
 いや、待て。脱出する必要はないかも知れない。そうだ。うっかりしていた。日付が変わるまで逃げ切れば、遥は再び人類最強に戻る。その後であの三人を助け、脱出すれば良いだけの話じゃないか。しかし、正直なところ、逃げ切れる自信が全く無かった。俺の足は限界に近いし、普通に戻った遥では付いてこられるかどうかすら怪しい。
 そうか。簡単な話じゃないか。さっきの遥と同じように、隠れれば良いんだ。遥が今まで無事だったのも、隠れていたからこそに違いない。だが、それでも見つけられてしまった時は……。
「徹……」
 遥が俺の腕に寄り添い、そっと身体を預けてくる。心地良い重さだった。
「ありがとう。本当に……本当に恐かったんだ……」
 潤んだ瞳で見上げ、俺に感謝の言葉を送ってくれた。今すぐ抱きしめたいぐらい嬉しかった。だけれど、まだ何も終わっていないんだ。
 俺は気合いを入れ直し、ケータイで時間を確認する。今は11時40分丁度。残り20分逃げ切れば、俺たちの勝ちとなる。この関係も……まだまだ続けられる。
「行こう、遥。あと20分間だけ辛抱してくれ。そうすればきっと、宇宙に帰ったヒーローが戻ってきてくれる」
 遥と手を繋ぎ、俺は来た道を戻り始める。その時だった。まとわりついていた蚊が消えたように、急にフッと耳鳴りが止んだんだ。
「ごめんなさい、トオルさん。アナタのヒーローは、もう戻ってきませんよ?」
 抑圧からの開放感と相まって、その声はより一層クリアに聞こえた。暗闇の中からゆっくりと姿を現したのは、声の主であるクリスチーネと、三十人は超える隊員たちだった。いざという時の為に、遥を俺の後ろに隠して射線上から外す。
「アレをここに」
 クリスチーネがそう言うと、ガラガラという音と共に、鬼火のような光がこちらに向かってきた。また新しい兵器かと思って身構えたが、それは網目の細かい鉄格子だった。中に入れられているのは、
「ルシュちゃん!? ヒドーい! 小さな子供にこんな事をするなんて!」
 食って掛かろうとする遥を、俺は慌てて止めた。
「カミラも巻も、全員無事か?」
 それにしても、遥言う通り酷い有様だった。これではまるで動物園の檻だ。三人には頑丈そうな拘束衣を着せられ、巻の覆面すら外されていた。天井には光線銃の小さいバージョンのようなモノが取り付けられており、三人を照らし続けている。鬼火の正体は、これのようだ。
「すまぬ、遥ネェ、徹ニィ。力及ばすとはこの事よ……」
「あわわ……見ないで欲しいでござるよ……」
 ルシュは床に突っ伏して悔しそうな顔をしており、巻はダンゴ虫のように丸まって顔を隠していた。カミラに至ってはよほど怖かったのか、体育座りでこの世の終わりでも見てきたかのような絶望に満ちた顔をしていた。
 扱いはかなりぞんざいだが、正直俺はホッと胸を撫で下ろしていた。誰も大きなケガはしていないようだ。
「愚かな協力者たちはこの通りです。更に、先程全ての小隊をここに集まるように指示しました。円を縮めるように距離を詰めていますから、逃げ道はありませんよ?」
 クリスチーネはニッコリと笑う。ワガママな子供が散々ごねて、ようやく欲しい物を手にしたような、そんな笑顔だった。
「それとも、トオルさんを置いてまた逃げ出しますか? ねぇ、ハルカ?」
「逃げるわけないでしょ! もう、べーっだ!」
 クリスチーネの挑発に、遥は舌を出して応えた。俺は見逃さなかった。クリスチーネが、してやったりという顔になったのを。これ以上隠れんぼしないように、言葉で封殺してしまったようだ。だが、どうやら俺以外は気づいていないらしい。今の遥に、そんな事など出来る筈もない事を。
「……あれ? どこかで会いましたっけ?」
「いいえ、初対面よ。でも、どうでも良いじゃないですか。どうせ、すぐに終わるんですから。トオルさん、もう少しだけ待ってて下さいね。……構え!」
 クリスチーネの号令で、茂みに隠れていた隊員たちが姿を現す。前後左右、360度全てに光線銃を構えた隊員が配置されていた。クリスチーネの言う通り、全員がここに集合しているようだった。
「トオルさん、そこをどいて下さい」
 逆に俺は遥を引き寄せ、背中に密着させる。少しでも、あの青い光に当たらないように。
「大丈夫、大丈夫だから、徹。そこをどいても、私は平気だよ? ほら、私ってば他の人よりちょっぴり頑丈だから、ね?」
 遥は気づかない。気づくはずもない。自分の事は、自分が一番解らないモノなのだから。
「……よく聞け、遥」
 耳打ちするように、俺は小さな声で言った。
「日付が変わる30分前、遥に掛かっていた魔法は解けてしまうんだ。分かるか? ナイフで刺されれば血が出るし、炎を浴びれば火傷をするし、毒を飲まされたら……死んでしまう。今は、そういう身体なんだ」
「意味が……言っている意味が分からないよ、徹……」
 遥は小さく首を振った。どこか怯えているようにも見えた。
「簡単な話さ。今だけは……俺の方が遥より強いって事。今だけは……俺が、遥を守ってやらなくちゃダメなんだ」
 俺は、鬼よりも恐いクリスチーネを睨み付けた。絶対にここをどかないぞ、という強い意志を込めて。
「……なぜ、ですか? なぜ、どいてくれないんですか……?」
 現場に激しい動揺が走った。クリスチーネが……ほろほろと泣き出してしまったんだ。そこで俺は思い知らされた。今の遥と、何ら変わりないことを。ただ俺に恋をしてしまっただけの、普通の女の子であることを。
「ワタシに……ワタシに武器を!」
 こぼれ落ちる涙を拭こうともせず、クリスチーネは見るからに重そうな金棒を軽々と担ぎ上げた。
「トオルさん……もう一度だけ言います。そこを……どいてください。お願いです。ワタシに恩を返させて下さい。どうか、どうかワタシを……選んで下さい」
 それは、脅しではなかった。お願いでもなかった。クリスチーネの、切なる希望だった。
 どんな言葉で返したら良いのか、俺はもう分からなかった。何を言っても、間違っているような気がしたから。だから俺は、俯き、小さく首を振ることしか出来なかった。
「あの日から、ワタシの心はアナタに誘拐されたままでした。ワタシも、アナタの心を誘拐したかった……。ごめんなさい。手に入らないアナタを見続けるのは……ワタシにとっては辛すぎます。ごめんなさい。恩を……仇で返す事になってしまって」
 クリスチーネは涙を流したまま、金棒を大きく振りかぶる。その時、ポケットの中でケータイが震えだした。設定していたアラームが鳴りだしたようだ。つまり、今は――まだ、11時50分。残り10分が、宇宙の果てのように遠く感じられた。
「さようなら、ワタシの初恋」
 涙はもう止まっていた。心を鬼にして、クリスチーネは全力で振り下ろす。もう何もかもが間に合わない。彼女を30分すら守れない自分を、先に殺したくなった。
 思わず眼をつぶった次の瞬間、俺の後頭部に激しい衝撃が走った。視界が真っ白になり、一瞬にして天国に辿り着いたのかと思った。しかし、違っていた。眼を開けると、遥の背中が見えた。そして、遥の頭に、既に振り下ろされた……金棒が見えた。
「ああ……ああ、遥ァァーーーーーーー!!!」
 守るどころか、守られてしまったなんて。どうしてだ? どうしてこうなってしまったんだ? どうして俺は守ることが出来なかったんだ? 力が無いからなのか? 情けないからなのか? あんなにも……あんなにも一生懸命やっても、俺は……ダメなのか? どうして俺は……人類最強じゃないんだ?
 俺は……俺は、彼女を守ることも出来ない、最低の彼氏だ。
「遥ァ……」
 俺は泣きながら最愛の人の名を呼んだ。返事などない。遥はもう、もう――。
「徹を、徹を誘拐なんかさせないぞーー!!」
 遥の怒号が、辺り一帯に響いた。それは衝撃波となり、クリスチーネの金棒を弾き、隊員たちの光線銃を破壊していく。
「くっ、まだそんな余力が!?」
 クリスチーネはもう一度振りかぶり、身体が浮き上がるほど思いっ切り振り下ろす。遥はかわすことなく、なんとおでこで受け止めてしまった。辺りに打ち損ねた鐘突ような音が響き渡る。
「生きてる……? 遥が……生きてる?」
 俺はクラクラとする頭を抑えながら、ケータイを取りだした。時間は――11時52分。……どういうことだ? まだ日付を越えていないのに……人類最強に戻っている?
「ハハ……生きてるよ。生きててくれたよ……」
 遥が生きている。その事実さえあれば、そんな疑問なんてどうでも良くなった。なにせ、遥は人類最強なんだ。そんな些細なことだって、きっと弾き飛ばしてしまうのだろう。
「そんなの、そんなの認めない!」
 クリスチーネは金棒を横薙ぎに振るう。だが、遥はハエでも追い払うように雑に腕を振るっただけで、その金棒は豆腐のように脆くも壊れてしまった。
「もう、もう!! 私は怒ったよーーー!!」
 その怒号だけで、周囲の木の葉が全て吹き飛び、何人かの隊員が吹き飛ばされてしまった。マズイ。あの温厚な遥が、初めてキレている。止めなければ。もう大丈夫だと、もう危険は去ったんだと、教えてあげなければ。
 俺は遥を、後ろからソッと抱きしめる。
「もういい、もういいんだ。ありがとう、遥。大丈夫だ。俺は誘拐されないし、危険も……去ったんだ」
 怒りで強張っていた身体が、徐々にほぐれていく。もう大丈夫だ。作戦が明日の夕方まで続いたとしても、負けることは無いだろう。これで、何も問題は無い。
 俺たちの長い長い戦いは、これで――。
 遥がクンッとお尻を上げたかと思うと、俺の身体がふわりと浮かび上がり、気が付くと空中で逆さまになっていた。あぁ、これ知ってる。痴漢に遭ったときの、合気道の一つだ。受け身なんて取れるわけもなく、そのまま地面にしこたま背中を打ち付けた。今日何度目か分からない、声にならない叫び。マズイ。痛みのあまり、意識がもうろうとしてきた。
「もうーーーー怒ったぞーーーー!」
 遥は完全にブチキレていた。俺が分からないぐらいに。
「徹ーーーー! 今、助けるよーーー!!」
 助けるって、今さっき投げたのがその本人ですよ。
 隊員たちは残った光線銃で遥を一斉射撃するが、最初の効果はどこへやら。今となっては、ただ照らすだけのペンライトと同じになっていた。
「徹を、帰せーーー!!」
 遥が手を振り払うだけで、巨大な真空波が発生した。周りの木々を薙ぎ倒し、残りの光線銃を全て壊していく。そして三人が捕まっていた鉄格子までもを破壊尽くしていった。
 そう、衣服でさえも。
「貴様はどれだけアタシを脱がしたいんだ!?」「遥ネェのバカー!!」「あわわ……裸だけは勘弁でござるのにー!!」「見ないでー! ……でも、トオルさんだけだったら……」
 カミラも、ルシュも、巻も、クリスチーネでさえも、そしてブルータヌキ部隊全員すらも、辛うじて布きれが残っている程度にまで破けていた。毎度毎度、器用に服だけを壊すなぁ。それにしても意外だったのは、ブルータヌキ部隊全員が女性だったということ。性別不明な一人を除いて、男は俺だけだった。
「徹ーーーー! どこに居るのーーー!?」
 遥の暴走は止まらない。手を振るっては真空波を起こし、残った布きれでさえも切り取っていく。
 薄れゆく意識の中で見たのは、多くの肌を晒して敵味方関係なく逃げ惑う、俺にとっては極楽のような光景だった。

 ※

 後日、ニュースであの公園事件が大きく取り上げられていた。相当広かった公園が一夜にしてハゲ山になってしまったのは、世間の興味を強く惹いた。
 原因は……不発弾による爆発事故という形で隠蔽された。それに対して報道アナリストたちがテレビで喧々囂々としていたが、それもやはり仕組まれた騒ぎだったんだ。そしていつの間にか悲恋を遂げた兵士の話にすり替わっていき――無論それも作り話なのだが――不可解な点についてこれ以上追求する者は居なくなっていた。その一部始終を巻から聞いた俺は、政治って恐いなぁと改めて思った。
 今回クリスチーネが起こした騒動は、全て不問とされた。その背景には、もちろん外交的理由が絡んでいる。ブリジウッド帝国が公園の全修理費、並びにレアメタルを最優先で格安に輸出するという約束したからだ。結局の所、免罪符を買ったというワケである。それでもさすがに、国外退去だけは命じられたが。
 ちなみに、あの御三家――カミラ、ルシュ、巻についてだが、何故か未だに遥の賞金が取り消されていないので、そのまま狙い続けることになったらしい。全くもってはた迷惑な話だ。俺たちの日常が戻る日は、まだまだ遠そうだな。
 それともう一つ、重要な事が増えた。……いや、増えてしまった。



 一週間も経たない内に、俺の日常はいつも通りに戻っていた。公園はズタボロだが、誰もケガをしていない所為か、そんな事もあったなぁと思ってしまうほどに平和だった。
「もう……二人きりになれる時間は朝だけか」
 俺は嘆きながら、遥を迎えに行く為に小高い丘を登っていく。昼と下校時間はあの三人が強制的にくっついてくるから、本当の意味でのいつも通りは朝だけになってしまった。
 遥の家に着いた俺は、玄関口でボーッと待っていた。時間が来れば遥は出てくるから、呼ぶ必要はないんだ。
 準備を終えた遥が、扉を開けて出てくる。それとほぼ同時に、隣の家からもガチャリ、という音が聞こえた。珍しい事に、遥の家と、左隣の家の扉が同時に開いたようだ。決まりの挨拶をするのも忘れ、俺と遥は思わず眼を向けた。するとそこから、
「な、な、なななー!? なんであんたがここに居んのよー!?」
 本国へ帰った筈のクリスチーネが、さも当たり前のように左隣の家から出てきたのだ。
「おはようございます、トオルさん。今日も良い朝ですね」
 そう言って、クリスチーネは優雅に微笑んだ。呆気に取られた俺は、生返事をするしかなかった。
「無視すんなー!」
「朝からウルサいですよ、ハルカ。そんな些細な事はどうでも良いことです」
 いやいや、全然些細でもないしどうでも良くないぞ。俺は慌てて左隣の表札を確認した。そこには、『田中』の文字が掲げられていた。
「ここに住んでた田中君は……?」
 記憶違いでなければ、昨日まではここに住んでいた筈だ。
「引っ越しして頂きました。……昨日の内に」
「昨日の内に!? じゃあ、じゃあまさか……?」
「えぇ、昨日の内にこの家を譲渡して頂き、昨日の内にワタシが引っ越して来ました」
 クリスチーネは照れながら答えた。開いた口が塞がらなかった。まさかの現代版一夜城がここに出来るなんて。さらば田中。転校した先でも強くやれよ。……まぁ、一度も会話した事なんてないけど。
「よりにもよって、何でここなのよ! 普通は徹ん家の隣なんじゃないの!? ……あ、やっぱ今の無し。徹の隣もダメだからね!」
 それは俺も気になる所だった。なぜライバルである遥の隣に来たんだ? ……殴り合って友情でも芽生えたのか? ほとんど一方的だったけど。
「ふふ、今日からトオルさんが迎えに来るのはアナタじゃないわ。ワタシと、アナタの二人になるのよ!」
 クリスチーネはどうだ参ったか、とでも言うようにどや顔で遥を見下した。
「なっ……なにそれ!? ズルい!」
 何がズルいのかよく分からないが、まさかそれだけの為にここへ引っ越してくるなんて……。どう考えても間違った行動力だよ。
「帰れ帰れ! ヤンキー、ゴー・ホーム!!」
「ふふふ、お断り致します」
「もう、何よ! 徹、もう行こう!」
「あっ、ワタシも。一緒に行きましょうか、トオルさん」
「アンタはダメ!」
「ふふふ、お断り致します!」

 ああ……遥と二人っきりになれる時間は、もうどこにも無いようだ……。



 そうそう、最後にもう一つ。後で調べてみたら、遥が普通に戻る時間が10分も短くなっていた。
 どうやら俺の彼女は、本当の意味での人類最強に、また一歩近付いたようだ。


<終>

2011/06/04(Sat)22:16:16 公開 / rathi
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■作者からのメッセージ
 ども、rathiです。というわけで直し終わりですが、やっぱりギャグは向いてないなぁと改めて痛感。
 ここ最近は狙った物を書いているのですが、尽く失敗。やっぱだめね、合わないことをするのは。そして最近気づいたのは、自分にはもしかした主観は合わないかも知れない、という事。なので、次はほぼ三人称でチャレンジです。
 というわけで、久々の中二病全開なモノを書こうかと思っています。
 かなりディープなネタが入るので、果たしてどれだけの人が付いてこられるのか結構不安です。しかしながら、分かり易くてライトなモノを書こうとするとまた失敗する気がプンプンするので、まぁいいか。

さぁ〜て次回は、

 ▼静まれ、俺の右腕!
 ▼お前は……組織の……!?
 ▼それが世界の選択か

の三本でお送りします!

ではでは〜

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