『もうどうにでもな〜れ 後編』 ... ジャンル:リアル・現代 ホラー
作者:神夜                

     あらすじ・作品紹介
※当物語におきましては、『ニーソ成分』は一切含まれておりません。また、『萌え』といった要素も使用しておりません。関係者、並びに読者の皆様にはご迷惑をお掛け致しますが、ご理解とご協力の程、よろしくお願い致します。

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「あーした天気にな〜れ」
 学校からの帰り道、そう言って盛永(もりなが)が薄汚れたスニーカーを高々と蹴り上げた。
 「盛永のスニーカー」と言えば、この界隈では結構有名な代物である。それはつまり、「あーした天気にな〜れ」と言いながら盛永がスニーカーを蹴り上げると、その出目によって本当に天候が変化するからという訳ではもちろんなく、中学から現在の高校三年生になるまでの間ずっと履き続けたそれは、もはや大量破壊兵器に似た異臭を放ち、約10センチ以内の近距離でその臭いを嗅げば三日間は鼻の奥にこびりついて離れず、飯も満足に食えなくなることから、ダイエットを目指す女子生徒の間では禁断のアイテムとして、地味に有名なのであった。
 ただダイエットにまるで興味もなく、普段から一緒にいる戸野(との)にしてみれば、時たま注意していてもツンッと鼻を突くその臭いは不快以外の何ものでもなく、その都度盛永には「穿き替えろよ臭いんだよ」と言ってはいるものの、当の本人はニキビが三つある顔で実に素晴らしく笑い、「これがおれのジャスティス」と親指を立てるのだった。そう返される度、戸野は「死ねばいいのに」と思っている。
 そして青空の下、蹴り上げられた薄汚れた盛永のスニーカーは高々と弧を描き、十字路のアスファルトの上にぽとりと落ち、二回転だけして底を下にしたまま停止した。よく憶えていないが、確かちゃんと着地をすれば晴れ、裏返れば雨、横で止まれば雪か曇り、そして突き刺されば雹などではなかったか。後半はよく憶えていないが、ちゃんと着地すれば晴れなのは憶えている。つまりは盛永靴占いの結果は、どうやら晴れであ
 十字路に着地していたスニーカーが、左から来たトラックに踏み潰された。
 隣にいた盛永が靴下を剥き出した足をそのままに「おれのジャスティスがあああああああっ!!」と叫び、その光景に噴き出しそうになっていた戸野は隣で上がった叫び声のせいで急に冷め、「うるさいな死ねばいいのに」と思いながら、片足でぴょんぴょんと実に無様に己のスニーカーの方まで奇妙な格好で走って行く盛永の背中を見つめる。
 やがてスニーカーに辿り着いた盛永がそれを拾い上げ、少し先の信号で停止していたトラックに向かって声を張り上げた。
「こらあっ!! なんてことしやがんだあっ!! ぶっ殺すぞてめえっ!!」
 その声に反応するようにトラックのテールランプが一瞬だけ白になり、そして再び赤になった瞬間、運転席のドアが開いた。
 中から作業服を着た怖そうなおっさんが出て来た。そのおっさんを見た一秒後には、盛永はもうそちらから視線を外し、戸野を睨みつけながら人差し指を突きつけ、
「あいつです。あいつが言ってました」
 その一言によって、戸野は盛永を見捨てる決心がついた。
 あいつはもうダメだ。捨てて行こう。死ねばいいんだ。そう決断すれば後は早い。未だにスニーカーを履いていない盛永から視線を外して踵を返し、戸野は駆け出す。背後から「待てこらあっ!! いや待って!! 待ってってばねえお願いっ!! 見捨てないでっ!!」との声が聞こえるが無視をした。友達を売る奴は死ねばいいんだ。
 走りながら背後を少しだけ振り返ると、慌ててスニーカーを履こうとしていた戸野が、作業服のおっさんに胸倉を掴まれていた。ごめんなさいで済めばいいなぁ、と戸野は思う。さすがにあのまま工事現場に連れて行かれて埋められたりはしないであろう。一発か二発殴られるか、土下座して謝れば許してもらえるであろう。助ける義理はないから知らない。
 そして再び前を向き直した時には遅かった。
 目の前。黒い頭。眼鏡をしていた。ブックカバーの掛かった本を読んでいる。こっちに気づいた。視線が噛み合う。間に合わない。
 激突した。
 一瞬だけ視界が真っ暗になり、尻餅を着いたと同時に視界を取り戻す。小さな悲鳴と何かが割れるような音を聞いたように思う。ぼやけた視界で辺りを見回し、戸野より少しだけ前方に、同じように倒れ込んでいる人を見つけた。同じ学校の制服だった。ただし女子生徒用のものである。同じ学校の女子生徒と正面衝突した。思いっきり突き倒してしまった。
 申し訳ないことをした――、そう思って戸野は慌てて起き上がろうとした時、ようやく気づいた。
 自らの足の下。何かがある。ひん曲がった黒のフレームに割れたガラスが付いている。
 ――女子生徒の眼鏡。
 血の気が引いた。
「――ご、ごめんっ!!」
 慌てて踏み潰した眼鏡から足を退け、戸野は四つん這いで女子生徒へとにじり寄る。
 それまで倒れていた女子生徒がゆっくりと身を起こし、僅かに視線を上げようとしたその時、唐突に狼狽し始めた。自らの目の辺りを両手で弄り、そこにあるべきものがないことに気づいたと同時に、僅かに上げていたはずの視線をバッと下げ、きょろきょろと必死に何かを探す素振りを見せ、やがてその視線は無残にも踏み潰された眼鏡を捉えて止まった。
「あっ……」
 小さなそんな声と共に、重い沈黙が流れた。
 戸野はもはや万策尽きていた。
「あの、……………ごめん」
 女子生徒は頑なに俯いたまま、やっと聞き取れるかどうかの声で、こう返して来た。
「いえ…………その、……ごめんなさい……」

 よくよく考えれば、地味なその女子生徒には見覚えがあった。
 二年の時に同じクラスだった、水瀬(みなせ)だった。



     「もうどうにでもな〜れ」



 水瀬と言えば、イメージはただ単純に根暗。その一言に尽きる。
 記憶を遡って水瀬の記憶を思い出せば、休み時間にはどの席にいようとも頑なに文庫本を読んでいる姿だけしか明確なものは残っていない。授業中は確か何の発言もせず、ただじっとノートを取っているだけだったような気がする。教師に質問をされた時などにだけ、本当に小さな声でそれに答えていたのを微かに憶えている。そのことを除けば、休み時間などで水瀬の声を聞いたことなどただの一度もないと思う。そもそも水瀬という苗字は憶えていたが、下の名前は憶えていない。私用で喋ったことも、一度もなかった相手である。学年が上がってクラスが別々になったことを境に、自然ともう一生関わらないであろうと思っていた。
 そんな相手とぶつかり、なおかつ眼鏡を破壊してしまったこの状況は、びっくりするくらい辛かった。
 近くにあった公園のベンチに座り込み、頑なに下を向き続ける水瀬の前に立ったまま、戸野は途方に暮れていた。どうしようもないと思う。まともに喋ったことすらない奴を相手に、この状況を打破できる術を戸野は持ち合わせてなどいない。
 しかしいつまでもこのまま放置する訳にも行くまい。鼻糞の親玉ほどの勇気を尻の奥の方から搾り出し、戸野が意を決して口を開こうとしたその時、見当違いの方向から声が上がった。
「戸野お前この野郎っ! 親友見捨てるとはいい度胸だなっ!」
 振り返れば、右の鼻の穴から鼻血を垂らしたままの盛永がこっちに向かって走って来ていた。どうやら埋めらはしなかったが、一発殴られたらしい。しかしなんてタイミングで現れるんだ、せっかく勇気を振り絞って水瀬に声を掛けようとしたのに、本当に間の悪い奴だいっそ埋められて死ねばよかったのに、と戸野は思う。
 盛永が戸野の側に詰め寄り、鼻血を垂れ流したまま口を開けて唾と一緒に罵声を吐く。
「見ろこれ! 血! 血! 鼻血! 殴られたんだぞ! どうしてくれるっ!」
 お前のせいだろ自業自得だうるさいな死ねばいいのに、と戸野は思う。
 そしてメーターを振り切ったまま、盛永は状況なんてこれっぽっちも判らないくせに、すぐそこのベンチに座っていた水瀬の方を向き、つむじが見えるほど俯いたその頭に遠慮なく唾と言葉を掛ける、
「あんたもそう思うだろ! 言ってやれよ、お前が悪いって! さあおれと一緒に! エビバディーセイッ!」
「おい馬鹿やめろっ、唾飛んでるぞ死ねお前っ」
 慌てて盛永を水瀬から引き離す。
 すると水瀬が困惑と戸惑いを絵に描いたような慌て方をした後、そっと制服のポケットから取り出したハンカチで、何気なく頭の方を拭き始める。
 そこに来てようやく、盛永が水瀬に気づいた。
「……あれ。誰だこの子」
 戸野に捕まれたまま、ぽつりとそう言う盛永。
 説明が面倒臭い本当に死ねばいい、と戸野は思う。
 ため息を吐き出しながら、
「水瀬だよ。ぼくたちと二年の時に一緒のクラスだった水瀬」
 盛永は「みなせ? みなせみなせ……」とつぶやき、やがてハッとした顔になり、
「水瀬だと!? プールで躓いた時に加藤の海パンを盛大に下げてチンコ丸出しにさせて大泣きさせたあの水瀬か!?」
 そう言われて思い出した。そう言えばそんなことがあった。どうして忘れていたのだろう。あの時、加藤の海パンを下げたのは間違いなくこの水瀬だ。なぜその印象が残っていなかったのか。加藤の大泣きの方がインパクトが強くて忘れていたのだろうか。
 そんなどうでもいいことを考えていると、目の前の水瀬が泣きそうな声で「……ごめんなさい」と言った。別にこっちに謝られても困る。むしろ大泣きした加藤には悪いが、あれはあれで物凄く面白かった気がする。だから謝る必要なんてないのに。
 そして盛永が、至極当然の疑問に辿り着く。
「で? あの伝説の『海パン下ろしの水瀬』が何でこんなところにいるんだよ?」
「その呼び方やめろよ」
 面倒だったが、水瀬とぶつかった際に眼鏡を壊してしまったのだということを簡単に話した。
 すると盛永は「ははーん」と笑い、
「女の子とぶつかって眼鏡を壊す。これはつまりあれか、朝に角を曲がった時にパンを咥えた女の子とぶつかって始まるストーリーの派生版だな」
「何なんだよお前黙ってろよ」
 しかし盛永はめげず、
「弁償すりゃいいだろそんなもん。それで恨みっこなし」
 おおたまには良い事を言うなこのゴミ屑、と戸野は感謝の念を込めて盛永の肩を叩いて笑って見せた。すると盛永は「だろ?」というような自信満々な顔で笑って親指を立てる。
 そうと決まれば話は早い。
「水瀬、さっきぼくが壊した眼鏡、弁償するよ。あれいくらくらい?」
 戸野は眼鏡を掛けていない。盛永もそうだ。だから眼鏡の値段なんて知らないが故の、愚かな言葉であった。高々数千円くらいで買えるものだと、この時は信じていた。そしてこの時、戸野は財布の中身を思い出していた。確か5千円くらいは入っていたはず。それだけあれば眼鏡の一個や二個は買えるであろうと、そう愚かしくも信じていた。
 そして水瀬は、言おうかどうしようか随分と悩んでいるような雰囲気を出した後、本当に小さく言った。
「…………えん、です」
「え? なんて?」
 この期に及んでもまだ、戸野は笑顔だった。
 水瀬が今度こそ、聞こえる声でこう言った。
「52万円、です……」
「52万円か。それくらいなら何とか――」
 ――ん?
 盛永と顔を合わせる。盛永も「――ん?」という顔をしている。
 まだ笑顔でいることが出来た。戸野は再び問う。
「ごめん、聞き間違えた。いくらだって?」
 水瀬はなおも下を向いたまま、消えて無くなりそうなほど身を小さく縮めて再度言う。
「あの、その……52万円、です……ごめんなさい……」
 戸野は笑顔のまま盛永に視線を向け、無残にも破壊された眼鏡を天に掲げた。
「ヘイ! 聞こえたかいトム! 信じられるかい? この壊れた眼鏡が52万円らしいぜ!」
「ヒュウッ! 冗談だろマイケル! 52万円もあれば牛丼何杯でも食べられるぜ!」
 HAHAHAHA!、と二人揃って笑った後、戸野はその場に膝を着く。
 見事なまでの土下座であった。
「ごめんっ!! いや、ごめんなさいっ!!」
 地面に額を擦りつけて謝った。
 52万がどれだけの価値なのかは正直よくわからなかった。ただ、親戚を駆けずり回って集めたお年玉の総額が確か7万ほど。その7万だって、戸野にしてみれば恐ろしいまでの大金であるがしかし、52万と言えばそれの7倍以上の金である。お世辞にも裕福ではなく、バイトもしておらず、普段から貯金何それ美味しいの状態の戸野にしてみれば、もはや天文学的と言って良いレベルだった。
 そんな戸野の隣では、盛永が未だに「HAHAHA!」と笑いながらくるくると回っている。いい加減に腹が立って、盛永の手を問答無用に引っ張って同じように土下座させた。唐突のことにカッとムキになって文句を言おうとした盛永の首根っこを強引に鷲掴み、水瀬に聞こえないような小声で必死に怒鳴る、
(盛永っ、お前いくら持ってる!?)
(なんだよ急にっ! それよりなんでおれまで、)
(いいからいくら持ってるか聞いてんだよニキビ野郎っ!)
「ニキッ、ニキビ野郎ってなんだニキビ野郎って!?」
「おまっ、ちょっと待て声デカイって!!」
 頑なに下を向き続ける水瀬が、突然の大声にびくっと身体を震わせておろおろしている。
 そんな水瀬に対して、「なんでもないよごめんあははははは」とだけ笑い、再度盛永の首根っこを引っ掴む、
(いいからいくら持ってるんだっ!)
(うるせえなっ! 28円だよ!)
「28円ってなんだ!! お前は小学生か死ねっ!!」
「死ねってなんだてめえっ!! さっきあのおっさんに金取られたんだよっ!! 元はと言えばお前がおれを見捨てるからだろうがっ!!」
「お前が先に友達売ったんだろうが!!」
「お前なんて友達じゃねえよっ!! 上等だやってんやよっ!! 掛かって来いこらあっ!!」
 あんまりのことに殴り合いをおっぱじめようとしたその時、
「――っ、あの……っ!」
 予想外のところから上がった声にハッと我に返った。
 互いの胸倉を掴んだまま、戸野と盛永が水瀬を見つめる。
 すると水瀬は更におろおろとし出し、やがて膝の上に置いた両の手をぎゅっと握り締め、
「……あ、いえ、……ごめんなさい……」
 毒気を抜かれた、というのが本音だった。
 幾分か落ち着いた頃合を見計らい、互いにどちらからともなく手を離す。
 しばらくの間、沈黙だけが場を支配していたが、やがて一世一大の意を決したかのような雰囲気を漂わせながら、水瀬が口を開く。
「……だいっ、……だいじょう、ぶ、ですから……」
 何が大丈夫なのかさっぱりわからない。
 戸野と盛永が互いに顔を見合わせていると、水瀬が肩を強張らせつつ、
「い、家に……その、……もうひとつ、あるので……あの、だいじょうぶ、なんです……」
 もうひとつってなんだろう、と戸野が首を傾げそうになった時、状況的に考えてそれは眼鏡のことだと思い至る。
 が、ちょっと待って欲しい。52万の眼鏡がもうひとつある? ということはつまり何か。水瀬は個人資産として、52万の眼鏡を二個も所持していたということか。52万×2個で104万である。104万である。104万であるのだ。一端の高校生が104万もする眼鏡を持ってるというのか。どういうことだ。社会は格差社会だとどこかで聞いたことがあるが、まさか高校生でもすでにその格差が蔓延しつつあるということか。
 先に思考回路がショートしたのは、戸野ではなく盛永だった。
「伝説の水瀬っ!! うそつくなお前っ!! 52万の眼鏡が二個ってお前それ牛丼だぞっ!!」
「いやちょっと待てそれは意味がわからないっ」
 今にも水瀬に対して食って掛かりそうな盛永の肩を必死に掴むと、水瀬は本当に怯えた小動物のようにベンチからじりじりと距離を離しながら、
「……あ、いえ、その、ごめんなさい……っ、でも、だから、いいんです……」
 弁償しなくていい、と水瀬は言っているのだと思う。
 しかし、52万の眼鏡である。弁償しなくていいと言われれば死ぬほど助かるのだが、このまま「あ、そう? じゃあお疲れ様でした」とだけ言って帰れる訳はまさかあるまい。盛永ならやってのけそうであるが、生憎として戸野にそんな厚かましさはなかった。ただ、弁償しろと言われたらお父さんお母さんに黙って臓器を売って眼鏡にしなくてはならないのではないかと不安ではあったため、その一言で少しは落ち着いた。
 盛永の肩を押さえながら、水瀬に視線を向ける。
「いや、でもさ……、」
 苦肉の策を思いついた、
「じゃ、じゃあ! 眼鏡壊れて見えないでしょっ? だったらせめて家まで送ってくよっ! そ、それに水瀬の親にも謝らないと……っ!」
 口から出た勢いが最後に要らないことを言った。
 それはちょっと困る。いや、筋として謝らなければならないことは確かであるが、心の準備も覚悟もない。娘さんの眼鏡を壊しましたごめんなさい、と謝って、素直に許してくれる両親なら問題はないが、そこでぶち切れられて親に連絡されたら堪ったものではない。52万も弁償する羽目になったことが親に知られたら、たぶんぶっ飛ばされるどころの話で納まるとは到底思えない。
 戸野が人知れず冷や汗を掻いていると、水瀬が小さく首を振った。
「あの……、見えるん、です……」
 意味がよくわからない。
 盛永が「見えるってなんだ! おれのチンコでも見えんのかお前は!」と訳のわからないことを叫んでいる。戸野が慌てて盛永の口に手を突っ込み、この薄汚い口を塞ぐことに神経を集中させていると、水瀬がさらに続けた。
「伊達、なんです……」
 だて? だてって何だろう。
 手を口に突っ込んでいる盛永に対し、戸野は小声で、
(だてってなに?)
(ぶべばへばあびびばあ)
 なんだこいつ頭狂ったのか、と戸野はびっくりしたが、口に手を突っ込まれていたらそうなるか、と冷静に対応した。
 口をようやく解放された盛永が、憤怒の形相で戸野を振り返る、
「おれが知るかっ!! ていうかお前の手しょっぱいんだよ!! 手洗えよっ!!」
 カチンと来た、
「うるせえよお前はっ!! お前こそその靴洗えよ臭いんだよっ!!」
「あ。お前いまおれのジャスティス馬鹿にしたな。知らねえぞ。本当に知らねえぞ」
 盛永が今まさに自らの靴を脱いで戦闘態勢に入ろうとしたその瞬間、水瀬が言った。
「目はっ……! その、……悪く、ないんです……。だから、あの、だいじょうぶ、なんです……」
 その一言で戸野はふと疑問を抱く。
 だて。そう言われて思い出した。だてって、つまり伊達ってことか。伊達眼鏡、というやつか。戸野や盛永とは遥か彼方のところにいる貴族風情のお洒落連中が、見栄えのために装備するアイテムである。つまり、水瀬もその部類であり、もともと目なんてこれっぽっちも悪くなかったと、そういうことだろうか。いや後者は兎も角として前者は有り得ないだろう。こんな根暗な水瀬がお洒落貴族だったなんてことがある訳がなおえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
 盛永のスニーカーが、鼻先にあった。
 大量破壊兵器を無防備で食らってしまった。その場に膝を着き、毎朝洗面所で歯ブラシを喉に突っ込んで「おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」と繰り返す父親の如く悶えながら、戸野は胃から逆流してくる汚物を必死で堪えていた。胃液に喉と鼻をやられてポロポロと涙が溢れて来た。まさか高校三年生になって人前で大泣きするとは思ってもみなかった。
 涙で滲む視界の中で、水瀬が目を点にして呆然とこちらを見ていた。
「わははははははっ!! 馬鹿めっ!! おれ様に逆らうとどうなるか、我がジャスティスの前に跪ついて懺悔しろッ!!」
 頭の上から遠慮なく降って来る唾と一緒に響く盛永の声を聞いた時、恐ろしいまでの羞恥心と屈辱感が湧き上がり、ズタズタにされたプライドが「こいつぶっ殺せ」と叫んだ。
 尽き欠けていた力を怒りによって振り絞る。戸野は瞬時に立ち上がり、高笑いをしながら油断を全開にしていた盛永の手からスニーカーを奪い取った。
「しまっ――」という盛永の言葉は、最後まで紡がせない。
 遠慮など一切しなかった。「こいつぶっ殺せ」と叫んだプライドに従った。至近距離で嗅がせるのではなく、思いっきり押しつけた。スニーカーの足の入れ口を鼻に押し当て、そのまま思いっきり張り倒す。地面にスニーカーと共に倒れ込んだ盛永が一瞬の後に状況を理解し、阿修羅のような顔でこちらを見た時、臨界点を突破した。が、それはこちらも同じであった。すでに限界を突破し続けていた鼻が我慢を超えて爆発する。
 二人揃ってその場に膝を着き、「おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」と悶えた。
 その光景を見ていた水瀬が、本当に引いた顔をしながら少しずつベンチから遠ざかって行くことに、二人はまだ気づかない。

 逃亡しそうになっていた水瀬を捕獲し、ようやく落ち着いた物事をまとめると、こうなる。
 水瀬の眼鏡はやはり伊達眼鏡であり、目はまったく悪くない。ならばお洒落貴族に憧れて伊達眼鏡なんてものをしているのかと言うと、どうやらそれも違うらしい。何でも特別な理由があり、伊達眼鏡を掛けていたそうだ。その理由については頑なに言おうとしなかったが、盛永が隣に座り込んでニキビが三つある顔で実にいやらしく笑い、「水瀬ちゃん、最近どう? 心配事とかない? 大丈夫、おれ口堅いよ」とずっと粘っていたら、遂にその気持ち悪さに負け、本当に小さな声で水瀬が言った。
「…………見えるん、です」
「おれのチンコが?」と口を開いた盛永を本気で戸野が殴り飛ばすと、再び取っ組み合いの喧嘩に発展したが、それが落ち着いた頃合を見計らったように、水瀬がやはり下を向いたまま、言葉を紡ぐ。
「……あの、その、…………が、ですね、」
「え?」と、戸野と盛永が声を揃える。
 どうにも水瀬の言うことは、重要なところが聞こえ難い。元々喋るのが苦手なのか、あるいは普段から物静かで誰とも話さないせいでコミュニケーション能力が絶対的に不足しているのか。いつもであればもっと強気に「聞こえないちゃんと言ってくれ」と注意するところではあるが、こっちは52万の眼鏡をぶっ壊している身であるため、偉そうなことは言えないからあくまで丁寧に聞き返す。
「ごめん、聞こえなかった。なんて?」
 俯いた頭が小さく揺れ動く。
 どうしよう本当にこいつらに言っていいのかなこれでも言わないと帰れそうにないしどうしよう、というような雰囲気が見ていて伝わってくる。そんな姿を見ていると、水瀬をいつまでも捕獲している罪悪感もそろそろ出て来るが、ここまで来たら最後までいかないとこっちも納得出来なくなりつつあった。
 そしてようやく、水瀬が核心を言った。
「…………あの、その……ゆーれい、が、ですね……見える、んです……」
 ユー・レイ? 中国人だろうか。
 そう思ったのも束の間、戸野の隣で鼻糞を豪快に穿っていた盛永が馬鹿丸出しの顔で、
「誰だそれ。何組の奴だよ」
 範囲が狭いんだよなんでユー・レイって名前で同じ学校を想像できるんだよていうか鼻糞穿るなよ気持ち悪い死ねばいいのに、と戸野は思ったが言葉にはせず、水瀬に問い掛ける。
「ええっと。その人が見えることと、伊達眼鏡が何の関係があるの……?」
 また随分と時間が経ってから、言葉を選びに選んだような気配を漂わせつつ、水瀬が口を開く。
「人、っていうか……わたし、その……。ゆーれいが、その、見えるので……それで、あの、……ちょっと特殊な、眼鏡を掛けてて……。そうすると、その、……ゆーれいが……見えなく、なるん……です」
 どうやら水瀬は核心を言っているようだが、戸野にしてみればますます意味がわからない。
 特殊な伊達眼鏡をしていると、ユー・レイなる人物が見えなくなる、と水瀬は言っている。何だそれ、と戸野は思う。ユー・レイなる人物は、特殊な伊達眼鏡を通すと見えなくなる性質を持っているのだろうか。何者だユー・レイって。そんな人間いたらまず全世界的なニュースになっているだろう。びっくり人間ばっかりの中国でも、まさかそこまでびっくり人間なんているはずがなかろう。いくら中国と言えども、まさか透明人間みたいな人間がいるなんてことはあるまい。それならまだ、死んだ中国人が廃棄汚染にやられてゾンビになって復活したということの方が有り得
 ――ん?
 盛永に視線を向けると、盛永も「――ん?」というような顔で人差し指を鼻に突っ込んでいる。
 だから鼻糞穿るなよ気持ち悪いって待て待て。いやまさかそんな馬鹿な。
「……あのさ、水瀬」
 そんなことはないだろう。そんなことがあるはずない。
 でも。いやまさかでも、
「その、ユー・レイってさ……人間、だよね……?」
 重々しい十秒が過ぎた時、水瀬が弱弱しく首を傾げ、
「……人間、っていうか……その、人間、だった……? って、いうか……」
 頭が痛くなってきたのは気のせいではないと思う。
 つまり何か。ユー・レイって名前の中国人じゃなくて、それってつまり、
「……それって、死んだ人間の、……幽霊、ってこと?」
 頑なに俯いたまま、水瀬が小さく、頷いた。
 やべえ水瀬って電波だったのかどうすんだこれっていうかこいついつまで鼻糞穿ってんだ穿り過ぎて鼻血出てんぞお前死ね、と戸野が思ったその時、鼻に突っ込み過ぎて鼻血の垂れる指をそのままに、盛永の頭の上で電球が灯った。
 盛永が「ははーん」と素晴らしく笑った。
「つまり水瀬は、幽霊が見えるんだな!」
 今更何言ってんのこいつ馬鹿なんじゃないのか死ねばいいのに、と戸野は思った。

 鼻糞男と電波女の間に立ったまま、夕暮れの迫った公園で、戸野は途方に暮れていた。


     ◎


 鼻糞男のことはさて置きとしても、どうやら電波女は正常であるらしいと判ったのは、それから約三十分後のことであった。

 とりあえずいつまでも公園にいる訳にも行かず、最低限の礼儀として水瀬を家まで送ろうとのことになった。水瀬は最後まで遠慮していたが、盛永が鼻糞を穿っていた手で「まぁそう言わずに行こうぜ」と肩を叩こうとした時、恐るべき速度でそれを避けて立ち上がったのを切っ掛けに、ようやく帰る決心がついのか、三人で揃って歩き出した。
 先頭を音痴な歌を歌いながら歩く盛永の後に、戸野と水瀬が続く。
 歌う盛永に対して「死ねばいいのに」と思いながらも、戸野は隣で下を向いたままの水瀬に声を掛けた。
「ねえ、水瀬」
「はい……?」
 やはりこちらに視線を合わせようとはしない。
「本当に、幽霊が見えるの?」
 頷く水瀬を見ながら、戸野は気づかれないようにため息を吐く。
「じゃあ、幽霊を見ないようにずっと下を向いてるの?」
 再度頷く水瀬を見ながら、戸野はもうちょっとだけ大きなため息を吐く。
「見たら怖いから見ないの?」
 水瀬は頷かなかった。代わりに、答えが返って来た。
「その……怖い、のもあるんですが……その、幽霊って、あの……誰かに、『認識』されてる、ってわかると、あの……力が、その、……発現、して……それで、その……人に、憑いて、しまうんです……。それで、その、憑いてしまうと、……あの、いろいろ大変、で……。だから、あの、あんまり……見ない、ように、……してるんです……」
 ふーん、と戸野は頭をポリポリ掻いた。
 正直な話、どうでもよかった。高校三年にもなって「わたしはー幽霊がー見えるんじゃー」と他人に言い放つ奴の言うことなど、信じられるはずがなかったのだ。ただ、自分達は高校三年である。それなりの知恵を持っている年齢である。だからもうちょっと面白い「設定」があって、水瀬はそれに従って動いているのかと思ったのだが、案外普通で正直つまらなかった。
 盛永の歌がアニメソングから最近流行のヒップホップにシフトした。それをぼんやりと聞きながら、思う。
 破壊してしまったあの眼鏡が52万だと、水瀬は言った。だからこそ謝罪の意味も込めてこうして家まで送っているのである。しかし仮に、水瀬が正真正銘の電波女だったとするのであれば、そもそもその話自体が嘘なのではないだろうか。どこぞの100円ショップで買ってきた玩具の眼鏡を52万だと言い張っているだけなのではないのか。むしろあんな眼鏡がやはり52万もするなんて、よく考えればそれは絶対におかしい。掛ければ幽霊が見えなくなる眼鏡なんてあるはずがない。絶対に、水瀬が嘘をついているに決まっていた。
 そして、そうと判ってしまえば、もう何の罪悪感も浮かんで来なかった。それどころか、逆に腹が立ってきた。もしかしたらまんまと口車に乗せられて52万を弁償してしまうところであった。幽霊が見えるとかそういうのは若気の至りとして見逃すことが出来るとしても、金が絡んできたら話は別だ。これは、立派な詐欺である。犯罪であるのだ。許せるはずなんか、ある訳がなかった。
 未だに俯いたまま隣を歩いていた水瀬に対し、戸野が口を開いて文句を言おうとしたまさにその時、
「――ん〜ッ、YOッ!!」
 歪なピースの形をした盛永の手が、力任せに真横から戸野の顔に突っ込んで来た。
 たまったものではなかった。急なことに何の抵抗も出来ず、受身も糞もなくアスファルトの上に引っ繰り返った。
 どういうことなのかまるで状況が理解できず、倒れ込んだまま呆然としていると、上の方から盛永の声が唾と一緒に降って来た。
「YAーッYOッ!! HEYッYOッ!!」
 盛永に対し、今まで「なんだこいつ」と思ったことは数知れない。しかしこの時ほど強く、「なんだこいつ」と思ったことはなかった。頭がおかしいとは思っていたが、どうやら本当に狂ったらしい。「死ねばいいのに」とかそういう以前に「どうか死んでくださいお願い致します」と頭を下げたいレベルである。
 戸野を突き飛ばした盛永は、狂ったように身体を揺らしながら、先ほどまでと同じように口ずさむ音痴なヒップホップに合わせて「YOッ!! YOッ!!」と言い続けている。
 本気で気持ち悪かった。普段から気持ち悪かったが、それに輪をかけて更に気持ち悪い。なんだこいつマジで何があって狂ったんだ本当に死んでくださいお願い致します、と戸野は思いながらも、しかし状況を理解すると事態が一変する。盛永に突き飛ばされたのである。意味もなく。訳のわからないテンションで。ふっざけんな足臭鼻糞野郎、と戸野は怒りに任せて立ち上がろうとして、
「YAーHAーッYOッ!!」
 白目を剥いた盛永が突っ込んで来た。
 本当に、たまったのものではなかった。
 18歳の男が二人、アスファルトの上に転がって絡み合う。
 気持ち悪くて死にそうだった。
「ちょっ、盛永ッ! おまっ、どけってッ!! いい加減に――、」
 違和感。
 上に覆い被さるように倒れている盛永の身体が、まるで電気を流されたかのように「びくんっびくんっ」と大きく痙攣していた。うっわなにこれマジで気持ち悪いんだけど死ねこいつ、と戸野が慌てて盛永の下から脱出しようとした瞬間、
 それまで隣に立っていた水瀬が、急に動いた。
 どこからともなく取り出した一枚の紙切れのようなものを手に、今までの水瀬からは想像もつかないような真剣な表情で力いっぱい、盛永の背中に叩きつけた。刹那の一秒、盛永が「ぅぇえぃびゃッ」みたいな気味の悪い声を発してそれまで以上に大きく痙攣した後、まるで何事もなかったかのように沈黙してしまった。
 ぐったりと倒れ込んだままの盛永の下敷きになったまま、戸野は呆然としていた。
 荒く肩で息をする水瀬の身体がゆっくりと落ち、戸野の側にしゃがみ込んで来る。
 この期に及んで初めて、水瀬の顔を真っ直ぐに見た気がする。
 状況が理解できない。
「……ええっと。………………なに、これ?」
 水瀬の視線がゆっくりと盛永の背中に落ちて行く。
 その視線を追うと、先ほど水瀬がそこに叩きつけたものが目に入った。
 大きさは大体15センチくらいの、長方形の薄汚い紙だった。四隅に何かミミズのような赤い模様が書いてあり、中央に三文字くらいの文字のようなものがあるが、何と書かれているかは理解不能だった。そんな紙切れが盛永の背中に貼り付けられていて、当の本人は気を失っているのか身動きひとつしない。
 水瀬が、小さく言った。
「……盛永くん、……さっき……あの、幽霊に、……その、……わたしが、さっき、あの、……間違って、その……『認識』、しちゃって、それで……、盛永くんに、その、幽霊が……」
 何言ってんだこいつ、と戸野は思った。
 盛永も狂ってるし水瀬も狂ってる。馬鹿ばっかりだった。
 いつまでも上に覆い被さっている盛永を蹴飛ばしながら立ち上がる。仰向けにアスファルトへ転がった盛永が、鼻水を垂らしながら本当に小さくぴくぴく動いていた。やべえこいつマジで死ぬんじゃないのかいやそれならそれで別にいいけど、と戸野は思いながらも、大きな大きなため息を吐いた。
 座り込む水瀬を見つめる。
「……で。これ、どうすればいいの?」
 水瀬はあたふたと視線を彷徨わせながらも、
「その、えっと、……幽霊を、その……、盛永くんから、あの、……出して、おかないと、その……」
 つまり何か。
 盛永に幽霊が憑依したから、それを追い出せと、水瀬はそう言いたいのだろうか。
 意味がわからない。ため息しか出ない。
「……どうすればできるの?」
 それでも解決方法を一応聞いておくあたり、自分は本当に律儀なんだな、と戸野は思った。
 すると水瀬が言葉を返してきた。
「あの、その……強い、刺激を、……その、与えれば、……あの、たぶん……」
 強い刺激ってなんだろう。具体的に言ってもらわなければまったくわからない。
 先ほど狂った盛永に強引に突き飛ばされたのも相まって、いい加減に水瀬のぐだぐだした喋り方にもイラついてきた。強い刺激って本当になんだよこいつを蹴り倒せばいいのか、と少しだけ思案した後、そうかこいつを蹴り倒せばいいんじゃん、と戸野は一人で納得した。
 そうと決まれば話は早い。未だに鼻水を垂らしてぴくぴくしている盛永に対し、戸野が全身全霊を込めた蹴りを見舞おうとしたまさにその時、急に水瀬がしがみつくように割って入ってきた。
「いえ、あのっ……! そう、そうじゃなくって、その……! にく、肉体的な、刺激じゃなくて、……あの、精神的、じゃないと、その……っ!」
 えーもう何なんだよこいつ等面倒臭い死ねばいいのに、と戸野は頭をポリポリと掻き、しかし再度閃いた。
 肉体的じゃなくて精神的な刺激。そう言われれば、最適なものがちょうどあるではないか。
 戸野は自らの鼻を指で全力で摘んだまま、ゆっくりと移動していく。やがて盛永の足の辺りでしゃがみ込み、そこに装着された大量破壊兵器へと手を伸ばした。自分の意志でこれに触れるのは初めてであった。ただ、肉体的ではなく精神的な刺激と言えばこれ以外には思いつかない。蹴り倒すこともしたかったが、これはこれで憂さ晴らしにはちょうどいい。
 盛永の足からスニーカーを剥ぎ取ると、必死に鼻を摘んでいるのにも関わらず、鼻の奥底にツンッとした臭いが伝わってくる。さっきの公園で食らった後遺症が蘇る。それらを涙で滲む視界の中で我慢しながらも、戸野は手に持ったスニーカーをゆっくりと動かしていく。その途中、後ろからその光景を眺めていたと思わしき水瀬が「うっ……」と小さく喘いだ後、結構な距離を取るような気配を見せ、「……あの、……ごめんなさい……」と言った。うるさいよお前も死ねばいいんだ、と戸野は思いながらも、スニーカーをさらに移動させる。
 やがてそのスニーカーが、鼻水を垂らしてぴくぴくする盛永の鼻先に到着した。
 最初の一秒は何の変化もなかった。次の一秒でぴくぴくがびくんびくんに変化した。更に一秒で身体全体が小刻みに痙攣し始めた。追加の一秒で唐突に「ぶべぁびぃやッ」と叫んで盛永が飛び起きた。おまけの一秒でその場を転げ回りながら「おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」と悶えた。最後の一秒でその背中に貼りつけてあった薄汚い紙が一瞬で燃え上がり、俯いて悶える盛永の両耳から紫色の靄みたいなものが噴射した。
 四秒までは腹を抱えて腹筋が捩れるのではないかと思うくらい爆笑していた戸野であったが、最後の一秒の出来事に思わずドン引きして悲鳴すら上げることができなかった。
 盛永の上空に、紫色の変な靄がふよふよと浮いている。スモッグガスのようなものであるが、決定的に違う。それはまるで意志を持っているかのようにその空間にただ漂い、時折その形を大きく変化させながらうねうねしている。よくよく見れば、その靄の中に人間の顔らしきものがあるような気がする。
 うっわなにこれ気持ち悪っ、と戸野がドン引きしていると、悶えていた盛永が急に立ち上がった。
 ニキビが三つある顔を凛々しく引き締め、盛永が靄を振り返る。
「……やってくれたな、この野郎……ッ!!」
 どうやら憑依されていた時の記憶があるらしく、盛永はこの靄に自らの身体を支配されていたことを自然と理解していた。ただ、気持ち悪いニキビ野郎が「……やってくれな、この野郎……ッ!!」と凛々しく睨んでも何も格好良くないし、どちらかと言えば「どうか死んで頂けませんかニキビ野郎様」と土下座するレベルであった。
 盛永と靄のやり取りをドン引きしながらも戸野は見守る。気づけばいつの間にか隣に水瀬がいた。こいつもこいつでぼーっと見てやがって原因はお前なんじゃないのか、と思いながらも、敢えて何も言わなかった。別に言ったところで水瀬のことである、「あのーそのーごめんなさいー」と言って終わるに決まっていた。どいつもこいつも本当に死ねばいいのに、と戸野は思う。
 そして、対峙していた二人(?)の均衡が遂に崩れる。
 行動に移したのは、盛永であった。
 唐突にしゃがみ込み、アスファルトの上に転がっていた己のスニーカーを手に持ったと同時にすぐさま立ち上がり、西部劇のガンマンよろしく真っ直ぐに大量破壊兵器を構えた。
「一時期陰陽道を極めようとしていたこのおれに喧嘩売るとはいい度胸だ。我がジャスティスの前に跪いて、――懺悔しな」
 やがてスニーカーを持つ手が明確な意志の下に揺れ動く。
 縦と横にスニーカーを動かしながら、鼻糞男が言葉を紡いだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在……――前ッ!! 悪霊ッ!! 退さッ、ッぎゃああああああああああああああああああああああああああああ」
 漂っていた靄が、瞬間的に盛永の耳に流れ込んでいった。
 直後、盛永の身体が再びびくんびくんと痙攣した後、白目を剥いた顔で「HEYッYOッ!!」と言い始めた。
 戸野はその光景を見て予想外の事態に一人で爆笑していたが、白目を剥いて「YOッ!! YOッ!!」と迫って来る盛永に対して唐突に我に返り、うわマジでこっち来んな死ねッ、と退避しようとした時、それまでぼーっと眺めていただけだった水瀬が動き出し、再びあの薄汚い紙をどこからともなく取り出して、迫り来る盛永の顔面に叩きつけた。「ぅぇえぃびゃッ」びんくびん、と沈黙した盛永をじっと見つめたまま、水瀬が小さく安堵の息を吐いた。そして戸野は、誰に言われるでもなく、アスファルトに転がっていたスニーカーを手にし、盛永の鼻先に近づけるのであった。
 それから同じようなことを五回ほど繰り返した後、薄汚い紙切れを盛永の尻に叩きつけた水瀬がぽつりとこう言った。
「あの、その……これで、その……最後、です……」
 盛永をびくんびくんさせることに対し、びっくりするくらい面白がっていた戸野は、その一言で大きく落胆しつつも「そろそろ真面目に考えるか」と決意する。
 しかし真面目に考えると言っても、どうすればいいのかさっぱりわからない。盛永のなんちゃって陰陽道は鼻糞ほどの役にも立たないし、かと言ってどうやら水瀬の方はあの薄汚い紙で動きを止めることはできるが、お払いや除霊などと言った特殊なことは出来ないらしい。どいつもこいつも使えないなぁ、と自らのことを棚に上げて戸野は大きくため息を吐く。
 少しだけ考えた後、戸野は水瀬を振り返りながら尋ねる。
「こういう場合って、いつもどうしてるの?」
 すると水瀬はおろおろとした後、
「その、いつもは……叔父さん、に、あの……。連絡、して……それで、その……」
 水瀬の話を要約すると、どうやら水瀬の叔父さんはお寺の住職らしい。
 その家系の問題か、あるいは水瀬単体が原因なのかは不明なのだが、水瀬が幽霊を見れる体質だと判った後は、そういうことに関しては全部その叔父さんが面倒を看てくれていたとのこと。戸野がぶっ壊した眼鏡も、今現在盛永の尻に叩きつけてある薄汚い紙も、全部その叔父さんから貰った物だそうだ。
 そして過去に何度か、こういう状況に陥ったことがあるらしい。その度、水瀬は薄汚い紙――つまりはお札で憑依した霊を抑え込みつつ、すぐさま叔父さんに連絡を取り、現場に急行してもらって憑依された人をお払いしてもらっていたと言う。しかしそうと判れば話は簡単で、その叔父さんに連絡を取って盛永をお払いしてもらえばいいだけである。
 あまりに簡単な解決方法に落胆しながらも、戸野は水瀬に言った。
「じゃあ、その叔父さん呼べばいいんだ?」
 しかし水瀬は首を振った。
「あの、……叔父さん、いま、その……旅行で、あの……アメリカ、に……その、行ってて、それで、その……」
 お寺の住職がアメリカ旅行なんてしてるんじゃねえよ、とはさすがに言えなかった。
 だがそうなると困った。つまり頼みの綱である叔父さんがいないということは、盛永はずっとこのままなのだろうか。別にそれはそれで構わないのだが、動かない盛永を家まで運ぶのは御免被りたい。どうにかして打開策は無いのかと水瀬と話し合うのだが、それ以外の対処方法は知らないし教えられていないのだそうだ。
 どうしよう、と二人揃って途方に暮れた。
 夕日が落ち、夜が迫っていた。
 正直なところ、そろそろお腹が減ってきていた。盛永を捨てて帰ろうかと戸野が半ば本気で思った時、水瀬が恐る恐る、最後の提案を提示した。
「……あの、逃げれば、……もしかしたら、その……何とか……」
 盛永を捨てて逃げることを提案するなんて水瀬も酷いことを言うなぁ、と戸野が水瀬を見つめていると、その意図の気づいた水瀬がぶんぶんと首を振った。
 どうやらその逃げるというのは、盛永を捨てて逃げるのではなく、一回幽霊を外に出した後、再度憑依される前に逃げる、という作戦らしい。そうならそう言えばいいのに紛らわしい、と戸野はため息を吐き出しながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「それ、幽霊は平気なの? 他の誰かに憑依しない?」
 盛永だから別にどうなってもいいが、他の人が「HEYッYOッ!!」とか言いながら狂い出すのは不憫でならなかった。
 しかしその心配は徒労らしく、一度幽霊が憑依した場合、再度力を蓄えるまでは同じモノにしか憑依できないらしかった。つまり、ここで盛永が再度憑依される前に逃げ切ることができたのであれば、この訳のわからない状況を抜け出せると同時に、減ったこの腹を満たせるという寸法だ。
 そうであれば、早速行動に移そうと思い立つ。
 盛永のスニーカーを手に取り、水瀬を方を一度だけ振り返った。水瀬はすでに15メートルほど離れた所で待機して、胸の前で小さく両手を握って「うん」と頷いた。うんじゃねえよ何で一人だけそんな退避してるんだ死ねばいいのに、と戸野は思いながらも、鈍臭そうな水瀬は近場にいても邪魔になるだけしいいか、と納得もしていた。
 そして、大量破壊兵器であるスニーカーが遂に、盛永の鼻先に到達した。
 最初の一秒は何の変化もなく、次の一秒でぴくぴくがびくんびくんに変化し、更に一秒で身体全体が小刻みに痙攣し始め、追加の一秒で唐突に「ぶべぁびぃやッ」と叫んで盛永が飛び起き、おまけの一秒でその場を転げ回りながら「おえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ」と悶え、最後の一秒で尻に貼りつけてあった薄汚い紙が一瞬で燃え上がり、俯いて悶えるその両耳から紫色の靄みたいな幽霊が噴射した。七回目となるともう慣れたものである。
 悶える盛永の頭を張り倒し、戸野は言う。
「逃げるぞ盛永! 急げ!」
 話は全部聞いていたはずなのだが、盛永はなぜかそれに同意しなかった。
 自らのジャスティスに強姦されながらも、盛永は決して屈しない顔で、こう言った。
「おれは……絶対に、逃げん」
 何言ってんのこいつ死ね、とばかりに戸野が声を張り上げる、
「馬鹿言うな! お前の鼻糞陰陽なんて何の役にも立たなかっただろ!」
「はなっ、鼻糞陰陽ってなんだ!?」
「いいから来いって!! 逃げるぞ!!」
 強引に盛永の腕を引っ張ろうとしたら、驚くべき力でそれを払われた。
 突然の出来事に呆然と盛永を見ていると、当の本人はニキビの三つある顔で、笑った。
「……そうじゃねえんだ、戸野。おれはさ、あいつの……あの幽霊の気持ちが、少しだけ……わかっちまったんだよ……」
 狂ってる場合じゃねえだろ鼻糞!、と声を張り上げようとした時、盛永の手がバッとこちらに向けられた。
 ――何も言うな。盛永の掌が、そう語っていた。
「おれの中に入って来たあいつが、言ってるんだ。……寂しい、って。悲しい、って。へへっ。少し情が移っちまったのかもしれねえな……。でもさ、困ってる奴を見捨てられないのが、おれだろ……?」
 いや知らないけど、と戸野が返そうとすると、再度掌がバッとされる。
「みなまで言うな! ……わかってる。お前と離れ離れになるのはおれも辛い。けど、……あいつを、見捨てられないんだ……すまねえな、戸野……」
 いやお前の言ってる意味がさっぱりわからないんだけど、と戸野が返そうとすると、盛永が叫んだ。
「だから!! ……だからここで、少しだけ、お別れだ。……いろいろあったけど、お前と一緒にいて、おれは……すげえ、楽しかったぜ」
 え、あ、うん……そうだね、と戸野が言おうとしていたのにも関わらず、盛永はそれを遮って続けた。
「じゃあな親友ッ!! 少しの間だけ、いってくるぜッ!!」
 その叫びと同時に、盛永は前方を向き直して両手を広げた。
「――お前と一緒にいってやんぜ!! さあッ、来いッ!!」
 空間に漂っていた紫色の靄が、まるでその声に反応するかのように大きく輝き出した。
 それは瞬く間に空間を侵食し、夜が迫っていた世界を一瞬だけ、真っ白の光で包み込んだ。
 あまりの閃光に目を開けていることができず、腕を顔の前に翳し、どういうことなのかを必死に探ろうとした。しかしまともに世界を認識することが遂に出来ず、目の前にあるはずの腕さえもが真っ白の光に包み込まれるその時、
 紫色の靄に包まれ、満足そうに笑う盛永を見た気がした。
 そして世界から真っ白の光が消え、夜が戻って来た時、そこにいるのは戸野と、15メートルほど離れた所にいる水瀬だけだった。
 どこを探しても、盛永の姿はなかった。
 意味がわからない。ため息しか出ない。
「……もう……どうにでもなれよ……」
 鼻糞男が消え失てしまった場所を見つめながら、戸野は一人、途方に暮れた。


     ◎


 盛永が再び戸野の前に姿を現したのは、それから一週間も後だった。

 あんな奴でも一応は友達であるからして、さすがに一週間もいないと面白くないなぁ、と戸野が思い始めた頃、何の前触れもなく、盛永が帰って来た。
 盛永が消えてからしばらくは、学校や近所で大騒ぎだった。都会でもなく田舎でもない中途半端な地域のせいで、誰それが失踪した、というのは大きな興味対象となり、瞬く間に噂として広まった。盛永の両親は戸野が引くくらい放任主義な性格で、「一ヶ月帰って来なかったら捜索願を出そう」とのんびり構えていたが、盛永を溺愛していた母方の祖母が大激怒し、盛永が家に帰らなかった翌日には警察に捜索願を届けに行った。
 そうなれば、普段から一緒にいる戸野に対して警察からの聞き込みがあるのは当然のことであり、授業中に校長室にまで呼ばれて話をする羽目になった。しかしまさか「盛永は幽霊に連れ去れたんですーぼくは見たんですー」なんて馬鹿正直に白状して精神科に放り込まれるのは嫌だったため、平然と「あの日は盛永、先に帰ったから知らないんです」と押し通した。もちろん怪しまれたが、元来盛永はああいう性格であったため、突然ふらっといなくなるのも有り得るかもしれない、と結論づけされ、特に深い疑りはなかった。
 水瀬のことについて言えば、あの日にまずは状況説明を要求したが、水瀬自体もあのような出来事は始めてらしく、何が何だかさっぱりわからないと首を傾げていた。頼みの綱である水瀬の叔父さんが帰って来るのが二週間後であり、それまでは連絡のしようがないという手詰まり状態だったため、それまではとりあえずこの件に関しては誰にも言わず黙っていようと決めた。
 そして最初は大きく騒がれていた盛永失踪事件であったが、三日も経てば大半が飽き、一週間もすれば誰もそのことを口にしなくなっていた。
 そんなある日、よく晴れた午後の授業中、戸野が窓の外をぼーっと見ていると、不意に空から何かが落ちて来た。グラウンドに落ちたそれに対し、必死に目を凝らしてようやく、何が落ちて来たのかを理解する。
 薄汚れたスニーカーであった。それが底を下にしたまま、グラウンドのど真ん中にぽつりと存在する。
 見覚えがあった。まさか、と戸野が椅子から尻を浮かした時、気づけばそこに、盛永がいた。
 本当に前触れもなく、消えたと同じくらい唐突に、グラウンドのど真ん中に、スニーカーを履いた盛永が、そこにいた。
 誰かがそのことに気づいて、「おい。あれって、盛永じゃね?」という声を切っ掛けに、一週間前のような騒ぎに発展する。授業そっちのけで窓から身を乗り出す者もいれば、野次馬根性を剥き出して教室を飛び出して行く者もいた。それはやがて学校中に伝染し、続々と生徒が校舎からグラウンドへ集まり出して行く。
 流れに身を任せて戸野もグラウンドに出た時にはすでに、野球部の筋肉馬鹿共に「もーりながっ! もーりながっ!」と胴上げされていた。当の本人はその状況に照れ臭そうに笑いながらも、「帰って来たぜ皆!! 待たせたなっ!!」となぜかヒーロー気取りになっている。その調子が死ぬほどうざく、嗚呼やっぱりこいつ死ねばよかったのに、と戸野が思った時、ふと違和感を覚えた。
 盛永の笑顔。何かが違う。戸野の知っている笑顔と、何かが決定的に違う。
 そして胴上げ中の盛永が、離れた場所にいる戸野に気づいた。
 盛永が、親指をグッと立てて、素晴らしく笑い掛けて来た。
 その瞬間、違和感の正体が判った。盛永の顔に、あるべきものがない。
 あの気持ち悪い三つのニキビが、盛永から消えてしまっていた。
 どういうことだなぜ盛永のニキビが消失している――、そう戸野が冷や汗を流した時、いつの間にか隣に水瀬がいた。
 水瀬は例の伊達眼鏡越しに盛永を見つめたまま、小さく笑った。
「あの……その、よかった、ですね……。……その、盛永くん、……あの、帰って、来て……」
 ちっともよくなかった。
 ニキビのない盛永なんて油揚げのないきつねうどんのようなものである。
 ニキビがなくなるくらいであれば死ねばよかったのに、と戸野は思った。


 いつも通りの日常が、こうして帰って来る。


 そして、この出来事を発端し、水瀬の叔父が帰って来る一週間後、
 また訳のわからない状況に戸野は途方に暮れることになるのだが、

 それはまた、別の物語。












2011/04/19(Tue)19:43:11 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり。
神夜です。

更新が遅くなってしまい、誠に申し訳ありませんでした。
先週の木曜日から風邪を引きまして、金曜日会社ばっくれたら余裕で治るだろwって思ってたら一気に悪化して、小説云々って状況ではありませんでした。今にようやく落ち着いてきましたが、未だに鼻水と咳が凄いです。咳のしすぎで声が出ません。体中が筋肉痛です。落ち着いた描写を目指したよ!とか勘違いして調子乗った罰かもしれません。ごめんなさい。

そんな訳で、後編です。
どんな訳やねん。おそらく皆様の想像よりはるかに酷い終わり方だと思います。……だってここまで書いて、実は初期構想段階の「プロローグ」なんだ。。。ここより先の展開はいろいろ考えているのですが、大きさと時間の無さから何とか読み切りに……!そう、その流れはまさに「サンライト・モノローグ」と同じである。危険な匂いがプンプンする。だから一応、神夜の中ではここで一度区切ります。消化不良にお付き合いさせる形となっていたら、本当に申し訳ないです。こ、ここで区切っておけばほら、こう、なんていうかな!世にも奇妙な物語風にゾクっとした終わり方になってんじゃないのかな!とかそう思ってんだけど!だ、ダメかな!
しかし「サンライト」も何とか回していける可能性がちょっと出て来たし、これで後の心残りは輪舞曲だけである。
いつか落ち着いたらこれの続きも日の目を見るかもしれません。その時はどうか、再度お付き合いを。

読んで頂き、誠にありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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