『黄昏の森へ【輪舞曲】』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
小説投稿サイトとか知らない。甘い恋物語とか知らない。学園パラダイスって何? 空気を読まない作者がついにやらかしてしまった。味は炭酸水、後味はコーラ飲んだ後のゲップ並、こんなの誰が読むんだ馬鹿野郎。イベント用作品始動。ていうか完結? これで終わったら色々投げっぱじゃない?(笑)

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黄昏の森へ【輪舞曲】




 場所が夕日に照らされた屋上という時点で期待しない男なんていないだろう。屋上と言えば名だたる告白スポットだし、そこが夕日に染まっているなら雰囲気なんかも抜群だ。
 とある夏の日、その屋上に来いと女の子に呼び出しをくらった。女の子に呼び出されるなんてことは、彼女いない歴=今まで生きて来た年数の自分からしてみればとんでもない出来事だった。
 今、自分――長谷川タクムの両手にはじっとりと汗がにじんでいる。耳には遠くでカラスの鳴く声が聞こえてきていた。そして鼻をくすぐるのは彼女――渡瀬アヤの甘い香りだ。彼女の制汗剤の匂いが分かるくらい、タクム達は接近しているのだ。
 夕暮れの屋上、風に長い黒髪をなびかせながら、渡瀬アヤはアーモンド形の目をタクムに向けた。
 心臓がどくどくと波打っているのが分かる。彼女の唇がゆっくりと開かれる。
 ――来た。
 告白の言葉が。
「――――」
「え?」
 彼女の言葉は風にさらわれて消えていく。小さな声だったと思う。自分の心臓の音が大きすぎて、彼女の言葉拾いきれずにいたくらいなのだから。
「だからね、長谷川君」
 改めて口を開く彼女。タクムはごくりと唾を飲み込んだ。屋上に立ち込めていた風の音が不意にぴたりとやんだ。
「どうして、分かったの?」
 ――――――は?
「だから、どうして私が幽霊だって分かったのって訊いているのっ!」
 何かを振りきったような、そして挑むような目で彼女は半ばキレ気味にそう叫んだ。ユウレイってなんだろうという思考を経由して、ユウ・レイ(中国の人の名前?)とかが思い浮かんだけど、どう考えても妥当な線ではなかった。ユウレイと言えばあの幽霊だろう。
「えーと」
 そもそも長谷川タクムにユーモアのセンスなんて無いし、こんなぶっ飛んだこと言われたら真面目に返すしかないわけである。清少納言も真っ青な当意即妙な返答は思い付かず、とりあえず日ごろからよく利用しているとあるスレの常套句を口にすることにした。
 すなわち、「日本語で、オッケー?」である。
 彼女の顔が夕日と同じくらいに赤く染まるのと、首のあたりがダー○・ヴェイダーのフォース・グリップを受けたときみたいにぎちりと絞めつけられるのはほとんど同時だった。
 本当に訳が分からない。分からないまま首を絞められている。ちょっと待ってほしい。呼び出されて、電波なこと言われて、訊き返したらいきなり不可思議な力で首を絞められたとか正直笑えない。目の前がくらくらしてきて両手から力が抜けていく。のどからは潰れたカエルのような声しか出て来ず、しかし依然として首元の圧迫は緩まる気配がない。
 どこか遠くで、ひぐらしが鳴いている。ああ、これこそ夏の夕暮れなんだと良く分からない感傷に浸って、タクムの意識はブラックアウトした。

        ×               ×

 憧れの人の言葉と言うのは結構耳に残るものらしい。
 何のことはない。ただの経験談である。私立高校の特権とも言える冷房完備の教室で机に顔をうずめて寝ていた時のこと、唐突にタクムの耳に渡瀬アヤの言葉が飛び込んできたのだ。
「最近は『作家魂』っていう小説サイトにはまってるの」
 カクテルパーティー効果よろしく聞こえてきた台詞である。その瞬間は、彼女の意外な一面を知れて得したくらいにしか思わなかった。
 しかし再びまどろみの中に落ちていく直前に、
「えー! アヤって小説書いてるんだ!」
 爆弾が投下された。それはもうビッグバン級のものである。自分の憧れの人が小説書いているとか聞いたら普通は心臓が二センチほど飛び跳ねるものだろうと思う。
 ――うわー、めっちゃ読みてえ。
 純粋にそう思った。その小説を読めば、彼女の色々なことが分かるに違いないと思ったからだ。なにせ彼女が趣味で書いた私的な小説である。そこには欲望とか自己主張とかが赤裸々にぶちまけられているわけであり、それは彼女を暴く秘密の儀式のように魅力的に感じた。ついでにそこまで考えてしまう自分には変態性を感じた。
 それで、小説サイトで彼女の小説を探す片手間に――むしろ若干逆になっていたかもしれないが――お遊びで自作小説を投稿したのが昨日の話である。それで今日、呼び出されて首を絞められた。彼女との接点と言えばこのくらいであり、どう考えても変な恨みは抱かれてはいないと思う。
「意味が分からない」
 真っ暗な中呟いてみる。
「意味が分からん」
「ごめんなさい」
 すると暗闇の奥から答える声があった。あれ、なんでこの声は自分に謝っているんだろうとぼんやりと疑問に思ったところで再びその声が、
「あの、気が……ついた?」
「あ」
 一瞬にして意識が戻ってきた。そのまま上半身だけ起こす。タクムは周囲の闇を見渡し、それから彼女の姿を認めて硬直した。目の前に渡瀬アヤの白い顔が浮かんでいたのだ。目覚めたら自分の首を絞めた女が目の前にいるとかどんなホラーだ。
「あの、ごめんなさい」
 渡瀬はいきなり平謝りしてきた。下げられた頭の下からちらりとブラジャーが見える。ちなみ色は白である。黒だったらもっとよかったのに。
「いきなり首絞めちゃって、ごめんなさい」
「あー……、えっと」
「あの、墓穴掘ったって分かったんだけど、ついカッとなって目撃者は消すしかないと思って、それで首を絞めたんだけど」
 ――……。
 ノーコメント。ノーコメントである。
「今、何時くらいかな? ここ、屋上だよな」
 なんとか声はふるえずに言えた。周囲を見回すにどうやらとっぷり日は暮れてしまっていた。七月の下旬とはいえ夜の屋上と言うのは肌寒さを感じる。涼しい上に風が強いのだ。
「八時ちょうどです」
 渡瀬が敬語で答える。向こうもどうやら緊張気味らしい。
「あのさ、渡瀬さん、自分が幽霊だって言ってたよな。あれ、マジ?」
 虫のさざめきとカエルの鳴き声とが風に乗って聞こえてくる。近くの田んぼからは水の匂いが漂ってきていた。目が暗闇に慣れてきたおかげか、渡瀬の体の向こうに広がっている夏の星空が鮮明になってくる。
 じっと難しい顔をしてこちらを眺めてくる渡瀬だったが、結局観念したようにため息をついた。
「その通りです。私は幽霊。おまけに私は意気地なしなので目撃者一人消せませんでした」
「な、なるほど……」
「黙っていてくれる?」
「渡瀬さんが幽霊だってことか? 分かった。言わない」
「え? 本当?」
 信じられないといった様子だ。
 こくりと頷く。すると渡瀬はまた「ありがとう」と猛烈な勢いで謝ってきた。女の子の謝罪って安い。渡瀬は後ろから缶コーヒーを取り出して「もし良かったら飲む?」と勧めてきた。正直な話し、ここで缶コーヒーを飲むような気分ではなかったけど、一応礼義として受け取っておいた。
「訊いていいか? なんで渡瀬さんは僕を屋上に呼び出したんだ?」
 渡瀬の長い黒髪が揺れる。彼女は何かを考えるように薄い唇に手を当てた。
「小説を読んだの。多分貴方が書いたものだと思う。『作家魂』に昨日投稿された作品で『叶わぬ私の恋』ってやつ。作者は秋色空太郎。これ、長谷川君のハンドルネームだよね?」
「え? ええええええ! な、なんで! ど、どうして分かったんだ!」
 図星に言い当てられて泡を食う。ちゃんとハンドルネーム使ったし、主人公の名前もきちんと長谷川タクムから別の名前に変えておいたのに。
「だってあの小説に出てくるヒロインの幽霊、明らかに私だよね? 三日前の私の行動を多分に詳しく書いてたし。おまけに舞台の高校は明らかに私たちが通っている高校だし、体育教師の体格から名前まで一緒だしね」
「み、三日前の行動? そそそうなの? ぐ、偶然だぞ。僕はストーカーじゃないからな!」
 実は無意識にストーカーしてましたごめんなさい。
 ……今思い返せば確かに自分の高校生ライフを結構参考にして書いちゃっていたのだと恥ずかしくなる。小説を書くって難しい。
「その驚きようからして本当に偶然みたいね」
 渡瀬はまたため息をついて、続けた。
「私、これは絶対誰かにばれたなって思ったの。どう考えてもあれだけ私の行動と一致するはずがなかったもの。書いた奴が私を誘っているんだなって思った。それで誰が書いたのか、何か手掛かりはないかもう少し読んでみたわけ。でね、主人公の瀬川君が窓の外の様子を物想いにふけりながらかなり詳細に描写するシーンがあったでしょ? あの描写は、私のクラスの窓際の席に座っている人じゃないとまず書けないものだと気付いたわけ。休み時間にチラ見してた程度じゃ絶対にかけないくらいの重みがあった」
 重みってなんだろうか。
「で、私のクラスで窓際って言ったら、六人しかいないでしょ。それで、休み時間とか頻繁に私に視線を送っている、一番怪しい男子君に声をかけたの。長谷川君、何て言うか、大人しそうだし、小説とか書いてそうじゃない?」
「酷い偏見だな、おい」
 というか休み時間授業中問わず渡瀬をチラ見していたのばれてたのか。本能的に視線送っちゃうんだよなあ。仕方ないとはいえ穴があった入りたい気分である。
「だって窓際で他の子って言ったら、運動部のガチムチ連中ばかりでしょ」
 なおも弁明するように渡瀬が続ける。タクムはそれを制した。
「分かった。かなり恥ずかしいけど確かにその小説は僕が書いた物だ。だけど僕は渡瀬さんが幽霊だなんて知らなかったし、さっきも言ったように誰かに言いふらすつもりはない。安心してくれ」
「本当にありがとう。私今まで長谷川君のこと誤解してたみたい。めちゃいい人だね」
「そうでもないよ」
 照れ隠しに彼女から背を向ける。ヤバい夕陽もびっくりなくらい今の自分は赤い顔をしている。
「そ、そうだ。純粋な疑問なんだけど渡瀬さんはどうして幽霊なんかになったんだ?」
 照れ隠し半分、好奇心半分で訊いてみる。すると彼女は言葉に詰まったように沈黙し、やがて答えた。
「――体をね、どこかに置き忘れちゃったの」
 金魚の吐く泡のようにぽつりとした言葉だった。



 一日中家の中でじっとしていたら。
 反実仮想の話しなんて滅多にしないのだけれども、そう思わずにはいられない。覚えているのは、当てもなく暗い森の中を歩き回ったこと。闇の中を木々の合間を縫ってひたすら出口を探した。月も星も見えない真っ暗闇で、不安を置き去りにするようにひたすら走りまわった。暗闇は今や自分の全身を包み込んでいる。まるで何かが闇の中から、自分を仲間に引きずり込もうとしているかのようで、薄気味悪かった。
 事の発端は弟が森の中に入ったきり帰って来なかったことだ。心配した母親が自分を迎えによこしたのである。しかし、探している途中で野犬に追われて迷ってしまい、今は当てもなく出口を探して駆けまわっているのだ。
 近くにあるよく知っている森だと思って油断していた。弟を探すどころか自分が迷子になってどうするのというのだろう。焦燥する気持ちを抑えて周りを見回す。木の葉が不気味に揺れているだけで他には何も見えない。
 こんなところでまさか死ぬことはあるまいと思う反面、もし誰も助けに来てくれなかったらどうしようという不安が際限なく大きくなっていく。
 立ち止まってその場にへたり込む。父と母、弟の顔が次々と頭に浮かんできて、どうしようもなく寂しくなってしまう。 そうして気が付いたら両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
 もうどうすれば良いのか分からない。
 誰か、誰でもいいから私を助けてとそう願った。
 そう願ったけど、私は――。



 体をどこかに置き忘れたとか悪い冗談だ。しかし、目の前にいる女の子が幽霊であるという時点で色々一線を越えてしまっているのでこの際気にしたら負けなんだろうとも思った。
 それっきり彼女とは別れて(渡瀬は塾に行かなければいけなかったらしい)、タクムは家に帰ってきていた。父はまだ仕事から帰ってきておらず、母はパソコンにかじりついてオンラインのゴルフゲームに没頭していた。台所のテーブルに並べられた生温かい料理をさっさと食べ終え、タクムは自室に引きこもった。鞄を置いてからの一連の動作でパソコンのスイッチを入れる。それから『作家魂』にログインして、自分の小説にコメントが来ていないか確認した。
 ……予想はしていたが、誰も感想は書いてくれていなかった。代わりに、自分の小説の一個上と一個下の作品に感想が三つほど入れられている。人生そんなに甘くないと言うことだろうか。でもそれにしたって感想の一つや二つくらいは入れてくれたっていいじゃないかと思う。面白くないなら、面白くないとか、どの辺で読むのを止めたのかとか、それくらいは書いてくれてもいいじゃないかと。
 そんなやるせない思いを持てあましてだらだらとしていると、軽い音とともにメールが送られてきた。誰からだろうかとクリックしてみると、『作家魂』でかなり有名な作家名義だった。チロルケーキというのが彼女のハンドルネームで、主に推理小説を書いている人である。推理物が苦手だったタクムはこの人の作品を嫌煙していた。
「スカイプ名:tiroru」
 メールにはそれだけ書いてあった。ちなみに何故彼女がタクムのメールアドレスを知っているのかというと、タクムが自己紹介文掲示板に自分のプロフィールと一緒にさらしているからである。
 さて、である。普通ならこんな不躾なメールは無視するに限るが、何となく思い当たる節があったので、別段ためらうこともなくスカイプでコンタクトを要請する。すると、それはすぐに受諾された。チロルから発信が飛んでくる。タクムはまごつきながらもパソコンにヘッドホンを取り付けた。
「ハロー、長谷川君」
 案の定、つい三時間前まで間近で聞いた声が耳元に響く。
 ――おお、ジーザス……。
 ヤバい。感動のあまり心臓がバクバク言っている。ついでに下半身はびくびく言っていたが努めて紳士的にふるまう。
「渡瀬さんじゃないかと思ったよ」
 とさわやかに言うのだ。ほら二秒後に言うんだ。一、二。
「わ、わわわわわわわわたんじゃなったYO」
「ん? 何? こんばんは?」
 ――軽くスルーされた!
「それより、今日は本当にごめんなさいね。首、あとが残って無い?」
「……ちょっと赤くはれただけだ。問題無い」
「そっか良かった。実は、今日連絡したのは貴方のあげた作品をできたらさげてもらえないかなあってお願いしたくて」
「ん、なんで?」
 一応訊き返してみるも、下げること自体に抵抗は無かった。どうせ感想は来ないのだ。
「私の周りでもサイトが結構有名になっているの。誰かに読まれたらちょっと問題でしょ、お互い」
「あ……。そういえばそうだな。渡瀬さんにばれたくらいだから、皆に読まれたら一瞬で僕が作者だってばれそうだし。渡瀬さんだって、自分が幽霊だって疑われる要因は消しておきたいわけだ」
「その通り。私にばれたくらいだから皆にもばれるって論法が気になるけど、ここは置いとくわ。私が幽霊だなんて思う空想好きな奴なんていないとは思うけど、一応、ね。自分の作品を消せなんて、酷いお願いだけど、お願いするわ」
「別にいい。どうせ誰からも感想来ないし、あんなの載せてても意味無いだろ。もとからこっそり消すつもりだったし、ちょうどいいよ」
「なんかすごく悲しいこと言ってるね。載せてても意味無いってことは無いと思うけど。まあ感想来てないみたいだし、ネガティブにもなるよね」
「――」
 そんな憐みのこもった声で言われると、面と向かって「お前の小説は面白く無い」と言われる方がましだと思えてくる。相手は自分が密かに憧れていた渡瀬アヤだと言うのに段々腹が立ってきた。
「それで、なんでスカイプなんだ? このくらいの話ならメールで十分だっただろ」
「ああ、違うの。これまでの話はおまけでね。本題があるの。坂木さんって知ってるでしょ。『作家魂』の管理人さん。彼が現役高校生にインタビューしたいことがあるって言ってね。それで良ければスカイプつなげないかなって思って」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。インタビューって何を訊かれるんだ? それに現役高校生なら僕じゃなくても渡瀬さんで十分じゃないか」
「男の子に訊きたいらしいの。どうやら、同人でゲームを作るらしいんだけど、それの主人公が男子高校生だそうなのよ。それで現場のリアルな空気を再現したいらしくて。話を聞いてみるだけでもいいから、お願いできないかしら。実は坂木さんは私のお師匠様で、結構懇意にしてもらっているの。それでむげにもできなくて」
「僕なんかが満足に答えられるとは思えないけど……。まあ、スカイプつなぐだけなら、別に構わないぞ」
 お願いされて断る理由なんて強いて言えば面倒くさいくらいで特にないし、彼女の顔を立てる程度はしても良いと思った。
「ありがと。じゃあつなぐね」
 言うが早いかすぐに会議通話に『坂木』が追加される。次の瞬間には「あー」とかいう野太いおっさんの声が聞こえてきた。
「どうもどうも。『作家魂』の管理人、坂木です」
「あ、ども……。秋色空太郎です」
「悪いね。無理言っちゃって。話しは聞いていると思うけど、同人作品の舞台をこの町にしたくてね。作品で描きたいのが夏の田舎とそこに住む高校生でな。ちょっと協力してもらいたいんだ」
「えっと、同人って、その、やっぱり大々的に売り出すんですか」
「一応、俺たちの予定ではコミケで千本ほど売ろうかなと」
「それ、僕なんかの話を参考にしていいんですかね? 僕は一応高校生ですけど、別に青春とかしているわけじゃないし、あんま参考にならないと思うんですが」
「大丈夫さ。簡単なことしか訊かないから。それに高校生の心情もさることながら、青葉茂る田舎の風景を特に強調したいと思っているんだ。だから、比率的に考えてその辺はうまく編集して出す余地があるから、ありのままを答えてくれればそれでいい。俺が重視しているのはあくまでプレイ中にふとした瞬間に感じることができる現場の空気なんだ」
「はあ」
 良く分からないが、まあ自分は適当に質問に答えれば良いということなんだろう。
「『作家魂』に投稿されていた君の作品、読ませてもらったよ。とてもみずみずしい感性で書いているね。とても楽しませてもらった。今度感想を入れさせてもらうから」
 坂木さんがあっはっはっはっはとさわやかに笑う。
「ほ、本当ですか?」
「ああ、俺にもこんな時期があったんだなとしみじみと思ったよ。是非これからもうちのサイトで書き続けてほしい」
「は、はい!」
 自分の作品に対する感想をもらえるとこんなにも嬉しいものなんだろうか。思わず意気込んでしまう。
「坂木さん、本題を……」
 渡瀬が遠慮がちに、しかし、しっかりと横やりを入れてくる。坂木さんは「そうだったそうだった」と言って真面目な口調になった。
「じゃあ一つ目の質問だけど……」
 坂木さんの質問は簡単なものから始まった。高校に入る前は学生ライフにどんなイメージを持っていたかとか、実際に高校に入ってからつらかったイベントや、楽しかったイベントは何かとかだ。質問に答えれば答えるだけいかに自分が面白みの無い高校生活を送ってきたのかが分かってきた。来年は受験勉強で満足に青春という奴を楽しめないというのに、自分はこのままでいいのかと真剣に考えさせられる内容だった。同時に結構根掘り葉掘り詳しく聞いてくる坂木さんにはものすごい情熱というか、執念にも似たゲーム作りに対する熱意を感じた。若さにあふれているのはこちらだというのに、精力は向こうの方がはるかに上だった。毎日をよく生きている人というのは坂木さんのような人を言うのではないだろうか。
「最後の質問。彼女ができたら、どうする?」
「ぶっ。で、できたらも何も僕なんかに彼女なんてできるわけがないです。そんなわけで想像すらできないというか……」
 この会話を渡瀬が黙って聞いていると思えば不用意に答えられるわけがなかった。いや答えたくなかった。
「例え話しだよ。ははは。まあいい。想像もできないっと。これでいいだろう。ありがとうとても参考になったよ」
「あ、いえ、こっちこそまともなこと言えないで恐縮です」
「ははははは。それにしても君は最近の子には珍しいくらい良い子だな。質問をさせてもらうだけで終わろうと思っていたんだけど、今度リアルで会わないか? コーヒーくらいはおごるよ」
「え」
「次の日曜日に君の学校の近くの森にフィールドワークに行くつもりなんだ。どうだい? 森を探険してから、喫茶店で小説について語り合わないかい?」
 どこまで本気なのか、坂木さんがそんなことを提案してくる。
「もちろん君の都合がつけばの話だけど」
「まあ、僕は暇ですから別に構いませんが」
「じゃあ決まりだね。集合は九時に駅前と言うことでどうだい? 森を探検した後、午後からはおいしいケーキ屋に入ろう。俺の一押しだから覚悟しとけよ」
 体育会系のノリの人かと思っていたが、ケーキ屋とか結構かわいい趣味のおっさんなのかもしれない。
「森を歩くから動きやすい恰好で来てくれよ」
 そう言う坂木さんに頷いてから、タクムは二人に別れを告げて通話を切った。



 日曜日、九時前に駅前に着くと、そこにはもう渡瀬と坂木さんと思しき男性が立っていた。坂木さんは予想通り恰幅の良い赤ら顔のおじさんで、おしゃれなポロシャツを着た優しげな人だった。坂木さんの後ろには坂木さんと同じく山歩きの格好をした上品な感じの女性が立っている。なんとなくこの人が坂木さんの奥さんなんだなと思った。
「どうも、坂木ケイスケです。長谷川タクム君だね」
 朝の陽ざしに負けないくらいさわやかに笑って坂木さんが右手を差し出してくる。
「こっちは俺の嫁さんだ。名前はミナコ。ミナコ、こっちは長谷川タクム君」
「妻のミナコです。ごめんなさいね。私たちのわがままに付き合ってもらって」
 上品な女性がぺこりと頭を下げる。
「ども。私たちのわがままって……?」
「同人作品は三人で作っていてね。絵を描くのが妻。話を書くのが、今日ここには来ていないけどボアっていう子。音楽とかプログラムとかが俺の仕事なんだ」
「なるほど、奥さんも参加なさっているんですね」
 つまり夫婦そろってコミケでゲーム売るつもりらしい。なんかすげー夫妻である。
 渡瀬がタクムにほほ笑みかける。
「おはよう、長谷川君」
「お、おはよう、渡瀬さん」
 駄目だ。声が微妙に震えている。リアルで会うとまだ緊張が抜けきれないでいるのだ。
「ボアちゃんに言っとかないとね。今から現地調査に行く、と」
 坂木さんがスマートフォンを取り出して操作する。
「ボアさんは『作家魂』の重鎮なの。ずっと昔からいるみたいで、二人のゲーム作りには毎回シナリオ担当として参加しているらしいわ」
 渡瀬が耳打ちしてくる。なんだか距離がすごく近いような気がする。本当にこいつは幽霊なのかと疑問に思うくらいリアルな女の子の甘い香りが鼻腔をくすぐる。しかも胸元からは黒いブラジャーがちらりと見えているときた。いとエロし。
「俺たちのゲーム作りの議論は『作家魂』の雑談掲示板でやってるから、興味があったら見てくれ。書き込みももちろんオッケーだ。どんどん突っ込んでくれると嬉しい」
「またブックマークしておきます」
「第三者的な意見はのどから手が出るほど欲しいんだ。よろしく頼むよ。それと、もし友人に小説に興味があるって子がいたら『作家魂』を紹介してほしい。優秀な物書きがうちで増えてくれるのは願ったり叶ったりだから」
「了解です」
 タクムが頷くと坂木さんは満足そうに笑った。それから渡瀬の案内で高校の裏の森を目指して歩き始める。タクムも神社までは昔からよく遊びに入っていたので渡瀬に案内されるまでもなく道のりはよく知っていた。
 道中は坂木夫妻からは色々と森についての質問を受けた。
 中学校の頃総合学習の時間で調べた地域の民俗の知識を総動員して一つ一つ答えていく。話していると渡瀬も目をまん丸にして聞いていた。坂木夫妻はともかく、渡瀬はこれくらい知っていて当然のはずなのに、初耳みたいな顔をしていた。……まあ総合学習なんてものを真面目にしていたのは自分くらいだったんだろう。
「君は物知りだなあ。大変ためになるよ」
 近くにある二つの薬師寺についての説明を終えると、坂木さんが感心したように唸った。
「よくお勉強している証拠ね」
 ミナコさんも口元に手を当てて上品に笑っている。
「本当、長谷川君って物知りだよね。私も同じ中学だったはずだから知っているはずなんだけど、目からうろこ」
 渡瀬が尊敬の眼差しで見てくる。エロゲーで言うと好感度上昇中である。フラグ構築くらいはできているかもとか何アホなこと考えているんだろう自分は。
「あそこが森の入口です」
 渡瀬が農道の先にある木々の茂りを指差す。
「あそこにちょっと見える鳥居はなんだい?」
「神社があるんですよ」
 タクムが答える。
「八幡天満宮だよね」
 渡瀬が口を挟む。坂木さんが目を細めて「ほお」と声を漏らした。まだ知りあって間もないが、これは坂木さんが興味を示したときにとる癖だと分かるようになった。坂木さんの隣を見るとミナコさんも同じような表情をしていて思わず口元が緩んでしまう。やはりこの二人は夫婦なのだ。
 タクムの頭にふと自分の両親の姿が浮かんだ。いつも仕事ばかりで夜遅くにしか帰って来ない父。彼は休みの日も家にいるのが苦痛だと言わんばかりに通常出勤している。この前父と出会ったのが、三日前の午前四時くらいのことだった。トイレに行く途中にシャワーを浴びた彼と遭遇したのである。その時も軽く挨拶しただけで二人はすれ違っただけだった。母は母でただ母親としての義務を果たすだけだった。タクムも母に多くを求めようなどとは――もしくは愛情など求めようなどとは――一切思わないのだが、これはこれで悲しいことだった。仕事しか頭に無い父。いつ見てもテレビがパソコンにかじりついている母。親子らしい会話なんてタクムの家族にとっては遠い国のお話だと言っても過言ではなかった。そんな自分の家庭の状況と比べて、坂木夫妻の仲の良さは少しうらやましい。
「何の神様を祀っているんだい?」
「学問の神様ですよ。オリジナルの八幡天満宮のコピーみたいなもので、本来は大宰府にあるはずのものをこっちに移行させてきているんです。学問の神様を祭ってはいるんですが、秋には収穫を祝って古くからお祭りがされたりしてます。昔は季節の節目ごとに子供達を集めて相撲大会を開いたり、おにぎりを配ったりと色々していたみたいですよ。僕が小さい頃はそういうのは全部無くなっていましたけど」
「ミナコ、この辺は是非作品に反映させたいところだ。写真写真」
 坂木さんに応じてミナコさんが手にしたデジカメで鎮守の森の端から覗く鳥居を撮る。
「市のホームページでは霊場として紹介されていたみたいだけど?」
「ええ。恐れ山みたいに硫黄が立ちこめているとか、神聖な湖があるとかはないですけど、一応この地域では霊が集まる場所とされています。昔、この辺りにいた貴族のお姫様があの森に入って亡くなったらしいんです。それでそのお墓とごっちゃになってできたのが、今の八幡天満宮だと言われています」
「なんだかすごくアバウトね。昔の人たちって」
 ミナコさんが右頬に手を当てて言う。
「ですね。でもやっぱり、地域の伝承や気質っていうのはそういう何でもない、下らないことから始まっているんだと思います」
「君の将来は民俗学の研究者だな」
「そんな。ちょっと中学の頃かじった程度ですよ。こんなの全然大したことありません」
 タクムが恐縮して言うと、坂木さんは鷹揚に笑った。

        ×                  ×

 神社に寄ったあと、さらに森の奥へと歩を進めて行く。目指すのは森の奥にあるもう一つの神社である。こちらの方が貴族のお姫様のお墓の跡地と言われていて、祖霊が集まる場所だとされている。また近くに広場があるので、ハイキングにはおあつらえ向きの場所だったりする。
 ミナコさんの持ってきた手作り弁当を皆で食べたあと、しばらくの間自由行動となった。夫妻が仲良くデジカメを構えて辺りの風景を写真におさめているのを見て、タクムも少し周りを歩き回ってみることにした。
渡瀬を誘ってみようと思ったが、彼女の姿は既になかった。
「彼女、先に森の中に入って行ったわよ。この先にある池を見に行くんですって」
「どわっ!」
 ミナコさんに後ろから囁かれた。
「な、ななななんなんですか、いきなり!」
「あら、アヤちゃんを探しているんだと思ったんだけど、違った?」
「ち、ちがががががが、違い、ませんけど」
「じゃあすぐに追いかけないと。場所は神聖。雰囲気は荘厳。周りには人がいない。完璧なシチュエーションじゃない。ファイトよ、タクム君っ」
「ぼ、僕はただ一緒に散歩しようと誘うつもりだっただけでありましてですね、そんな下心とかはないです、誤解です。変なこと言わないで下さいよ」
「あらそう。青いわねー。うらやまけしからんわねー。神様はいつだってお見通しだからねー。決行は迅速によ若人」
 さすがは同人でエロいゲーム(多分)の原画担当である。思考回路はエロゲー脳とはこのことである。上品な大人の女性というミナコさん像がガラガラと音を立てて崩壊していくのを感じながら、タクムは森の奥へと分け入っていった。
 森の中は夏にも関わらずとても涼しかった。
 先に入っていったという渡瀬を探しながら奥へと歩いていく。森の中は生命にあふれていて、鳥がさえずり、虫がさざめいていた。草木の呼吸音すら聞こえてきそうな中、木漏れ日をかき分けて先に進む。
 不意に右前方の方から枯れ葉を踏みしめる音が聞こえてきた。
「渡瀬さん?」
 呼びかけてみると、果たして彼女は妖精のようにひょっこりと顔を出した。
 ――あれ?
 確か彼女は今日ジーパンにポロシャツという格好で来ていたはずだ。しかし今の彼女は、いつ着替えたのか、白いワンピースに麦わら帽子、しかも足にはミュールといういささか場違いな格好になっている。
 渡瀬が軽い足取りでこちらに近づいてくる。
「着替え、持ってきてたんだな」
 木漏れ日の中を踊るようなステップでこちらに向かってくる彼女の顔は心なしかいつもより白いような気がした。
「着替え?」
 歌うような口調だった。渡瀬は好奇心に満ちた目でタクムの全身を舐めまわすように観察している。タクムはそんな彼女の視線にわずかに赤面した。
「なんていうか、はしたないぞ。女の子がそんなジロジロ男を見るもんじゃない」
 タクムが顔をそむけると、彼女はくすりと笑った。
「そんなことより、遊びましょう」
 それは小悪魔のように、妖艶な笑みだった。



 家族が死ねばお墓を作ってその中に骨を埋める。死んだ家族は祖霊となって子孫を守る。子孫は死んだ祖先を祖霊として祀る。そこに愛情なんてものは無いに違いない。きっと、皆がそうしているから習わし的に続けているのだ。死者は霊となり、霊は風となって生者に語りかけるという歌が最近はやったが、タクムにしてみれば、そんなことを自分の父や母がしてくれるとは全く思えなかった。
 じゃあ逆はどうだろうか、とも思う。自分が死んだら、自分は父や母を見守るというのだろうか。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 そもそも死者の話し云々を真剣に考えること自体が間違っている。死んだら死んだでそれで終わり。祖霊なんて非科学的なモノはこの世には存在したりしないのだ。
 ところで何故自分は今自分が死ぬことなんて考えているのだろうか。
 全く、場違いじゃないか。
 今は憧れの渡瀬と森の中で追いかけっこをしているというのに。
「ふふっ。ふふふっ」
「わ、渡瀬……さん! 待てよ……!」
 自分のことをうわあキモイと思いながらもきゃっきゃっうふふと追いかけっこを続ける。口の端がだらしなく歪んでいるのが自分でも分かる。なんという痛い&気持ち悪い表情をしているのだろう自分はと思うがそんな理性はまとめて本能が塗りつぶしてくれていた。
「渡瀬なんて呼ばないでぇー」
「じゃあ何て呼べばいいんだぁー?」
 彼女のステップは軽い。こちらは本気で追いかけていると言うのに全然追いつけない。ミュールを履いているくせにどんな魔法を使っているというのだろうか。
「アヤ」
 ――うわ。
 なんだこのあんみつもびっくりの甘々な雰囲気は。
「あ、アヤ……!」
 ――うわキモイ。
 でも楽しい!
 いやっほー、最高にハイだぜ、イェーイと叫びたいくらいに気分が高揚している。もう変態でいいや、今が楽しければオールオーケーという気分だ。糖蜜に全身を浸しているような気分を満喫しながら渡瀬を追いかける。
 まるで手を鳴らすご主人様を一心に追いかける犬のようだと思った。ただそのご主人様はとても速かった。全速力で走っても全く追いつけない。時折こちらをからかうように彼女は立ち止まるけれども、追いついても風に舞う羽毛のようにひらりと手の間をすり抜けてまた逃げ始める。
 いたちごっこも良いところだ。
 全身が汗だくになった頃、ふと視界が開けた。うっそうと茂った木々は途絶え、急に目の前に青い色をたたえた池が広がった。これは森の中央付近にある千ヶ池だ。
「おーにさーんこーちらっ。てーのなーるほーうへっ」
 彼女の歌声が水の向こうから聞こえてくる。見ると彼女は池の水面に波紋すら立てずに立っていた。そうか彼女は軽いから水の上に立っていられるんだ、すごいなと麻痺した思考の中でぼんやりと考える。
 ぎゃあぎゃあと、近くでカラスが鳴いて飛び立つ音が聞こえた。
「おーにさーんこーちら。てーのなーるほーうへ」
「これ以上進んだら、水の中に入らなきゃいけないんだ……。僕は、そっちへはいけない」
 虚ろな意識の中そう言うが、渡瀬は手を鳴らすのを止めなかった。
 鬼さんこちら。
 手の鳴る方へ。
 そう言って、青い水面へとタクムを誘う。
「でも」
 タクムは呟いて青い水面を見やる。
 耳鳴りのように続く渡瀬の声に頭がくらくらしてくる。
 ――あ、足が……。
 ぐらつく。
「っ。何言ってんだ。池に飛び込むとかできるわけないだろ」
 そう弱々しく抗いながらも、自分の体が徐々に飛び込みの姿勢を作り始める。
「嘘だろ……ッ」
 鬼さん、こちら。
 手の鳴る、方へ。
「やめ、ろ……ッ!」
「何やってるの、長谷川君」
 不意にがしっと手を掴まれた。冷たい水のような手に一瞬にして意識が鮮明になる。
 後ろを振り返ると、先程まで水面に立っていた渡瀬がいつの間にやら山歩きの格好になってこちらをまじまじと見つめていた。



「ご迷惑をお掛けしました」
 深々と頭を下げる。
 気付けば自由時間の一時間を余裕でオーバーしていた。で、おまけに自分は森の中にある千ヶ池に滑り落ちる瞬間だったらしい。そんな危ういところを渡瀬に救われたのである。
「いいの、いいの。とにかく無事でよかったわ。もし貴方の身に何かあったら親御さんになんて言えば良かったのやら」
 ミナコさんは先程からこのセリフをひたすら繰り返していた。
「うん。君が無事で何よりだ。渡瀬さんを探していたんだろう? すまんな、アヤちゃんは森の中に入ってすぐに戻って来たみたいなんだ」
 坂木さんもしきりに頷くばかりだ。
「ごめんなさい。私、途中で気分が悪くなって、広場まで戻って来て、木陰で休んでいたの。それでミナコさんに貴方のこと聞いて、慌てて探しに行って」
「俺たちも探したんだが渡瀬さんが一番見つけるのが早かったんだ。まあ、君が無事で本当に良かった」
 坂木さんはそう言うとタクムの肩を元気づけるようにポンポンと二回たたいた。
「いえ、僕も不注意でした。高校生にもなって本当に申し訳ありません」
「もう十分に反省しているみたいだし、これ以上気にしちゃいかん。若いうちはこういうこともあるってことさ」
 坂木さんはそれだけ言うと、暗い雰囲気を断ち切るように手を叩いた。タクムは一瞬それにぴくりと反応してしまったが、慌てて首を振った。
「さて、長谷川君。もう一度渡瀬さんにお礼を言おう。これでこの話題は終わりだ。忘れよう」
「はい」
 タクムは頷くと渡瀬に向き直った。
「ごめん。助けてくれてありがとな。――アヤ」
「あら」
「おお?」
「――へ?」
「あ」
 ちなみにミナコさん、坂木さん、渡瀬、タクムの順である。渡瀬はしばらくの間硬直したあと、見る見る間に顔を真っ赤にした。
「おおー、二人の仲はそこまで発展していたのかー」
「やるじゃないタクム君。さては森の中でアヤちゃんを口説き落としたのね」
「ち、違います! ま、間違いです。ミスって言っちゃっただけで別に他意は無いんです。わ、渡瀬、ごめんな。悪気はなかったんだ」
「う、うううううん。き、きききききき気にしてないから」
 それから何となくお互い気まずくなってしまって二の句が継げなかった。坂木夫妻はそんな二人を眩しげに、しかし十分にニヤつきながら眺めていた。
 それからは午後の部ということで、駅前の喫茶店に入って皆でケーキを食べた。坂木さんは自分の小説論と言うのを高校生相手に本気で説教し続けた。相づちを打つので精いっぱいだったので内容は全く頭に入っていなかったが、坂木さんの小説に対する愛情は存分に伝わって来た。
 あとで振り返ってみれば、なかなか有意義な時間だったと言えた。



 次の日、午前の授業をぼんやりと過ごした。
 結局、渡瀬とはいまだに(昨日の今日だが)気まずいままである。休み時間ごとに例によって例のごとくチラチラと彼女を盗み見てみる。彼女はいつも通り友達と明るく笑っているのだが、こちらと目が合うと途端に態度がよそよそしくなった。
 もしかして嫌われてしまったのだろうか。確かに昨日のあの失言はなかった。とは言ってもそれだけで嫌われるとかやっぱり女心って難しい。
 昼休みになっていつものように購買であんバタートーストを買い、屋上へ出る。この時期の屋上は絶好の食事スポットなのだ。暑いから誰もいないのである。冷暖房が完備されているこの学校では、屋上に人気が出るのは春と秋の限られた期間だけなのだ。
 屋上の扉を開くと、予想もしない先客がいた。
「渡瀬……」
「長谷川、君」
 思わず見つめあってしまう。
「あ、あはははははは……。長谷川君、ここでお昼なんだ? き、奇遇だねー。わ、私も今日はなんか静かに食べたいなって思って」
「あ、ああ」
 渡瀬の手にはいちごミルクのパックとスマートフォンが握られていた。タクムはあんパターの袋をいじりながら次の言葉を考える。
「あ、あんバターおいしいよね」
「あ、ああ。あんこの甘みにバターの濃厚さが加わって食パンのぱさぱさ感を見事にカバーしているよな。ちなみに購買のパンの中では一番安くて、何故か一番人気が無いってのがポイントだ。争奪戦に勝ちぬかなくても安価で簡単に手に入れることができるというすぐれもだよなっ」
「あは、あははは……」
「はははは……」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………じゃ、じゃあ、私、長谷川君のお邪魔しちゃ悪いし、この辺で」
「邪魔なんかじゃない!」
「え」
「あ、いや……。その、先に屋上で飯食ってたのは渡瀬なんだろ。僕こそお邪魔だった」
 そう言って渡瀬に背を向ける。
「じゃ、邪魔だなんて思ってないよ。私はただここでぼーっとしてただけだし」
「そ、そうなんだ?」
「そ、そうなんです」
 それからしばらくの間二人は見つめあったあと、どちらからともなく吹きだした。
「じゃあ、ご相伴に預かります」
 タクムはそう言って渡瀬の立っているフェンスまで近寄って、あんバターの袋を開けた。
 最初こそぎこちない会話だったけれども、次第にいつも通りに話せるようになった。話題はイギリス人よろしく天気から始まって、自然に渡瀬本人の話になった。
「体をどこかに置き忘れたって言ってたよな。あの時は良く分かんなくてスルーしたけど、今さらになって気になってきた。お前の体には手を伸ばせば触れるし、お前だって教科書とか鞄とか、普通に持ち上げているじゃないか。匂いだってリアルだし」
「臭い?」
 そう言って渡瀬がクンクンと制服の袖に鼻を近づける。
「いや、甘い香りだよ。別に変な臭いじゃない」
「長谷川君、それセクハラよ? まあ、私の体は確かに実体があるわ。幽霊って言ったら触れないものだけど、私の場合は触れるし、私から触ることもできる。だけど、この体は多分、人間のものではないのよ。鏡に映った私の姿はね、木の人形なの。霊感の強い子なら、鏡に映った私の姿が一瞬木偶人形に見えるらしいわ。私の場合、鏡に映る自分はいつも木偶の坊」
「へえ」
「驚かないんだ?」
「あんま実感わかないし……。でも、自分の体が木の人形だなんて、嫌じゃないのか? 僕なら多分我慢なんてできないぞ」
「まあね。だから、暇があれば自分の体を探しているわ。今も、こうして」
 渡瀬は屋上から見える深い森――この前坂木さん達と行った森を眺める。その表情はまるで昔を思い出すような、忘れている何かを取り戻そうとしているような、倦怠と苦悶に満ちたものだった。
「体をどこで無くしたのか覚えていないのか?」
「ありえないよね、覚えていないなんて。でも本当に覚えていないの。思い出せるのは、あの森に入って、神社を通りこして、その先に入っていったってことだけ。それも昨日坂木さん達と森に入ったときに思い出したの。……あそこに入ったときから不思議な感覚がしていた。なにか、どこか懐かしいような」
 渡瀬はそこで言葉を切ると、ふうと息を吐いた。
「体を探すなら、僕に何かできることはないか。なんつーか、これも縁だ。できれば手伝いたい」
「ありがとう。……私、自分の体を探しているくせに、結構のんびりやっているのよね。長谷川君が手伝ってくれたら、サボらずに頑張れるかも」
「サボらずにって、自分の体だろ」
「実は言うとね、このままでもいいかなって」
「いや良くないだろ。色々とやりにくいだろ。その……ほら、親御さんにばれそうになったりとか。実の娘が木の人形でした、なんてことが分かったら、普通の親は発狂するぞ」
「私の親は普通じゃないし」
 なんの感情もこもらない声で渡瀬が言う。
「お父さんは単身赴任で家族のことはそっちのけ。お母さんは、綺麗な人だったけど、精神的に脆弱な人でね。この前発狂して死んじゃった。夫が相手にしてくれないからって、娘のことはそっちのけで毎日ウジウジと物想いにふけって」
 タクムはわずかに目を見開いた。渡瀬の口から他人の悪口が出て来たことに対して驚いたのだが、その対象が他でもなく彼女の肉親だったことが驚きに拍車をかけた。確かに、渡瀬は普通じゃないと言うことは薄々感じていた。しかしそれは彼女が幽霊だからであって、それ以上の理由は無いと思っていた。――が、それは違ったのだ。
 彼女は、きっと、壊れているのだろう。
「……まあ、渡瀬さんの親御さんの話は、僕としては何とも突っ込めないかな。だけど、渡瀬さんがいつまでも自分の体を取り戻せないのは絶対に駄目だって思う。やっぱり、木の人形なんかより、自分の体があった方がはるかにいい」
「そうね。……だけど体を失ってからこっち、全く手掛かりは無し、はてさてどうすればいいのやらしらん」
「……あのさ、下らないけど、少し足しになればと思って、したい話しがあるんだ。いいか?」
「何ー?」
 渡瀬がいちごミルクをちゅーと吸いながら尋ねてくる。
「いや、誰にも信じてもらえないと思って。ていうか渡瀬さんにだけはしたくない話だったんだけど」
「?」
「昨日、さ。すげー分かりやすい白昼夢を見たんだ。えっと、確認したいんだけど、渡瀬さん、昨日は白のワンピースなんて持ってきてなかったよな」
「は……? そりゃそうよ。昨日はずっと山登りの格好だったじゃない。長谷川君、何言ってんの」
「出会ったんだよ。白いワンピースで、麦わら帽子かぶって、ミュール履いた渡瀬さんに」
「えっと、それは、何て言うか、ご愁傷様」
「いや、本当だって。それで渡瀬さんを追いかけて森の中駆けずり回ってさ、気が付いたら千ヶ池に出てたんだ。それで、渡瀬さんが水の上を歩いて、ここまで来いって」
「うーん……」
「ごめんなさいやっぱり僕の気持ち悪い白昼夢でした忘れて下さい」
「でも、夢にしてはかなりリアルよね。白のワンピースに麦わら帽、で、足にはミュールねえ。およそ山歩きに来る格好じゃないわね。おかしいし、怪しい」
「だ、だよな」
「それにホイホイついて行っちゃう長谷川君も長谷川君だけど」
 渡瀬は『ド』の音を強調して、心底呆れたような表情になる。それを言われると弁解のしようもなく、タクムはうなだれた。
「それ、確かに私の体かもしれない。でも長谷川君の話しが本当なら、その体動いていたみたいだから、誰かが使っているってことなのかな」
 ぞっとするようなことを平然と言ってのける渡瀬。タクムは眉をひそめた。
「誰かが、使っている?」
「君の悪い話だけど、私以外の幽霊が、そこら辺に転がっていた私の体を見てこれ幸いと入り込んでいたずらしているとか」
「――もし今までの仮定が正しいなら、ありゃいたずらなんてかわいいもんじゃなかったぞ。こっちはもう少しであの池に飛び込むところだったんだ」
「飛び込んでいたらそのまま中に引き込まれていたかもね」
 渡瀬が考え込むようにそう言った。それから急にぐすりと鼻をすすった。タクムが訝しげに彼女の顔を覗き込むと、渡瀬はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「え、ええええ!? ちょ、どうしたんだよ!? いきなりそんな泣かれてもマジ困るよ。なんか僕悪いことしたか?」
「ううん」
 渡瀬が首を振って続ける。
「想像したら怖くなって、それで」
 ――それで泣いたんかい。
 なんつー女だ。やっぱり渡瀬は只者ではなかったのだった。
「まあ、その、なんだ。午後の授業もあるんだからあんまり泣かない方がいい。ほれ、あんバターあげるから泣きやんで」
 とりあえずそう言って渡瀬をなだめる。彼女はしばらくするとあんバター効果(?)もあり、泣きやんでくれた。そのまま何事も無かったかのようにスマートフォンを操作して、タクムに画面を見せつけてきた。それを覗き込むと、画面に映っていたのはスカイプのチャットだった。
「ボアさんって覚えてる?」
「ああ、確か坂木さん達が作る同人ゲームの……」
「そう、シナリオ担当の人ね。この人の小説をいくつか読んでたんだけど、やたらとこの町を舞台にした作品が多いうえに、得意で扱っているのが伝説や伝承みたいなの」
「へえ」
「それで、この人なら何か知らないかなって思って、長谷川君が来る前にアポとっていたの」
なんだ、結構やる気じゃないかと思う一方、そりゃ自分の体がかかっていりゃこれくらいして当然かと納得した。渡瀬は続ける。
「彼女、あの神社の巫女さんなんだって」
「昨日行った時は姿が見えなかったけどな」
 というか、常時姿を見たことが無い。あの神社はどちらも無人なんだと勝手に思っていたほどだ。
「うん。私もあの神社に巫女さんがいるとは思わなかった。初詣のときすら誰もいないもんね」
 それは巫女としてどうなんだろう。
 チャットを見るに、夕方ならいつでも空いているとボアさんは言っている。夕方。夕方なら、部活に入っていない渡瀬ならきっと時間がとれるだろう。
「僕にも何か手伝えることあるか?」
「早速今日会ってみるつもりなんだけど、ボアさんの話し聞いてから、日が暮れるまでの間、一緒に私の体を探してくれたら嬉しいかも。あ、でももちろん強制じゃないよ。もし長谷川君が暇だったらの話で」
「もちろんいいぞ」
「よかった。あの神社、一人で行くのちょっと怖いんだよね」
「え?」
 ぼそぼそと渡瀬が何かを言っていたがよく聞こえなかった。
「なんでもない。それより、ありがとう。これは私の体が見つかったら何かお礼しないとね」
「お礼か。まあそんな大したものはいらないよ。好きでやってんだ。まあ自分の気が済む程度にしといてくれ」
「好きで、やってる……?」
「あ……」
 ――しまった。墓穴掘った。
「と、とにかく! なんかあったら僕を呼んでくれ。喜んで力になるから。その……友達として!」
 捨て台詞のようにそう言い残して渡瀬に背を向ける。
 ……タクムが去ったあと、屋上には、顔を赤く染めた渡瀬が棒立ちになっていた。

            ×                    ×

 影が濃くなってきた頃、タクムと渡瀬は八幡天満宮に辿りついていた。天満宮は相変わらず人の気配というものが全くなく、ひぐらしの鳴き声だけが寂しげに響いていた。二人の影が黒く伸びる。神社の片隅に置かれている目の無いだるまはじっと自分達のことを観察しているように思えた。
「ぼ、ボアさん、遅いね」
 渡瀬が若干裏返り気味の声でそう言った。
「何時に会う約束だったんだ?」
「四時」
「今は三時五十分だぞ」
 タクムが携帯を開きながら言う。
「いや、そうなんだけど、なんていうか、その」
 なんだろうか。渡瀬が足をもじもじとさせている。日も陰って来たし、半袖では少し肌寒かったりする。男のタクムでもそう感じるのだから、もしかしたら渡瀬にとっては結構寒かったりするのかもしれない。しかし、冬服ならともかく今は夏服なわけで、ワイシャツを貸せばタクムはランニングシャツ一枚になってしまうという非常によろしくない状況に陥ってしまう。そもそも男の汗臭いワイシャツなんて渡瀬の方から願い下げだろう。
 そういえば渡瀬の両目は先程からせわしなくタクムの後ろに注がれている。何かあるのだろうかと思って視線をたどってみると、その先には神社に備え付けられた崩れかけのトイレがあった。女性用の扉に使用禁止と書かれてある。
 なるほど、事情はよく分かった。エロゲーならここで(自主規制)だが、ここは紳士的に接することにする。うん。
「えっと、そこら辺の草むらでやってきたら? 僕はここで目と耳とをふさいで瞑想してるから」
「――――っ」
 渡瀬の頬に朱が差す。が、やはり生理現象には勝てないらしく、「覗いたら、一生軽蔑するからね」というありがたいお言葉を残して神社の奥の林の中にそそくさと消えていった。
「覗いたらって絶対振りだよな」
「振りじゃないから!」
 林の中から声が響いてくる。どれだけ地獄耳なんだ。
 それにしても、幽霊も尿意を催すものなのか。それって人間と変わらないのではないだろうか。今なら、このままの体でも別にいいと言った渡瀬の言葉が理解できるかもしれない。日常生活にはあまり支障をきたさないのなら、別にそこまで必死には探さなくても――良いわけないか。
 下らんことは考えずもっと建設的なことを考えようと思ったところでタクムの頭にイケナイ妄想が入り込んでくる。渡瀬のスカートをたくし上げた姿とか、事を終えたあとにつく艶めかしいため息とか――。
「うおおおおお! 色即是空、空即是色。色即是空、空即是色ぃぃぃぃッ!」
 煩悩よ鎮まりたまへー。
 ふとひぐらしの合唱が止んだ。タクムはごくりと唾を飲み込む。
「……音は聞こえないな。随分奥まで入っていったんだな……って、煩悩よ消えろぉぉぉぉぉ!」
「煩悩がどうしましたか?」
「はえ?」
 急に背後から響いた声に振り向く。いきなりのことにびっくーんと気をつけをしてしまう。恐る恐る振り返ってみると、そこには綺麗な女の人が立っていた。ふわふわの茶色い髪の毛は肩下まで。白い顔にややつり目がちな黒い瞳。人形みたいな人だった。
 女性は巫女服を着ていた。
「あ、いえ、なんでもありません。……あの、もしかして、ボアさんですか?」
「そうです」
 淡白に女性は頷くと、その怜悧な瞳をタクムに向けて来た。
「貴方は?」
「あ、僕は、チロルケーキさんの連れで、最近『作家魂』にやって来た秋色空太郎です」
「ああ――確かついこないだ投稿されていた……」
「『叶わぬ私の恋』です!」
「ああ、そうそう。そうでした」
「あの、もし読まれていたなら、感想とかもらえませんか。今後に活かしていきたいんです」
「かなりきついことを言うことになりますが」
 初対面の相手――しかも会ってまだ数秒――に言いたくないと目で訴えてくるボアさん。しかしここは聞いておきたかった。タクムが頷くと、ボアさんは少し逡巡するように口を閉じ、やがて話し始めた。
「私は冒頭の四行で真面目に読むのを止めました。その後は流し読みしかしていません。だからあまりたいしたことは言えませんが、それはご容赦ください。まず、語彙を活かしきれていないという印象を受けました。どんな小説でもいいですから、一冊の小説をしっかりと読み込んでみて下さい。表現、文章のテンポ、会話の流れ、それを意識して体感すること、それが大切です。また、実体験をもとに書かれているという印象を受けましたが、事象を羅列しているだけで登場人物の心情に突っ込めていないように思えました。心理描写を必ず入れるということを執筆時には意識して下さい。意識しすぎて逆に悪いということは今の貴方にはありませんがらどんどん心情を入れていって下さい。あとちゃんとプロットを作って小説を書いて下さい。簡単なものでいいですから、ググりながらやってみたらいいと思います。貴方の小説を読んでいると、展開やお話の運び方にかなりの粗が目立ちます。プロット一つでだいぶん改善されると思いますよ」
 ここまで彼女は一本調子でしゃべり終えた。タクムはというとあんぐりと口を開けたままボアさんの言葉に聞き入っていた。出会ってそうそう感想を求めたのは自分だが、これだけしっかりとしたことを言われると放心せざるを得なかった。
「あ、ありがとうございます! とても勉強になりました。……あの、全部覚えきれなかったかもしれませんから、今度またしっかりとお話を聞かせてもらっていいでしょうか?」
「私程度で良ければ。いつでも『作家魂』の雑談掲示板に来て下さい」
 ボアさんはそう言ったあと、その鋭利な表情をふっと緩めた。
「失礼なことを言いましたが、私は貴方には光るものがあると思います。人への愛と言いましょうか、冷たい現実を知りながらも、それを描き出そうとする貴方の姿勢はとても良いと思いますよ。すみません、人への愛とか大仰ですが、そこは優しい物語とでも言い換えてもらえれば」
「いえいえ」
 タクムは首を振った。
「ボアさんに感想をもらえてよかったです。実は、僕の投稿した小説、誰からも感想が来なくて、どうしてだろうってずっと考えていたんです。多分、ボアさんの言うように色々なところが甘かったんだと思います。また一から練り直して、今度は感想もらえるように頑張ります」
 タクムが意気込んでそう言うと、ボアさんは薄く控え目にほほ笑んでくれた。思わずどきりとなってしまうが、いかんいかんと自分をなだめる。
「さてと、それでチロルケーキさんはどこにいらっしゃるんですか?」
 ボアさんが話題を変えて辺りを見回す。
「用を足しにそこの林の奥に入っていったんですが、まだ帰ってきませんね」
「ああ、だから煩悩だったわけですね」
「ぶっ」
「そういうプレイは感心しないですね。やるなら真正面から正常にやるべきです」
 そうだった。この人はこんな常識人な皮かぶっているがエロゲーのシナリオライターだったのだ。巫女服で可愛い顔しているからといっても中身はエロゲー脳なのである。
「いっぱしのレディがそんなこと言わないで下さい!」
「あら。ごめんなさいです」
 全く悪びれる風もなくそう言うボアさん。
「それよりも、ボアさんってこの神社の巫女さんだったんですね。僕、この神社にはしばしば来てますけど、巫女さんがいるなんて全く知りませんでした」
「私はここが苦手でしてね」
 ボアさんはさらりとそう言った。
「はあ、巫女さんなのに神社が苦手なんですか」
「この奥にもう一つ古い神社があるのは知っていますか?」
「はい。昔、貴族の娘さんのお墓だったっていう」
「そうです。お墓から神社になったというものです。こんなことを言うと笑われてしまいそうですが、きっとあそこには良くないものが住んでいると私は考えています」
 ボアさんは感情のこもらない声で言葉を選ぶようにそう言った。
「良くないもの?」
「秋色空太郎さん。貴方は人の怨霊は信じますか? 非科学的な話だとは思います。ですが――」
「いる、と思います。幽霊でしょ? 多分いるんじゃないかなと」
 ボアさんの言葉を遮ってタクムはそう言った。実際渡瀬という幽霊は知っているわけだし、怨霊なんておっかないものも存在するのかもしれない。
「ここに住み着いているのは、怨霊といってはいけないでしょうが、まあ、怨霊なんです」
「と、言いますと?」
「日本において神様というのは善悪以前の存在だからです。したがって、それを悪と決め付けるのはどうかと思うわけです。しかし結果として人を惑わすのならそれは、便宜上怨霊と呼ぶべきでしょう」
「奥の神社には神様が住んでいるって言うんですか?」
「死者の霊は最初穢れを帯びていて周囲に災厄を及ぼしかねませんが、祀られることにより、日々浄化されていき、やがて三十三回忌を経て先祖という一つの強い霊体に融け込むと言います。簡単に言うと、一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を捨てて融合して一体になるのです。人格を捨てた祖霊、これが神です。その神と呼ばれるものがある方向性に向かったとき、あるいは人に害をなしたりします。つまり、私が言いたいのは」
 荒唐無稽なことを言っているという自覚があるのか、ボアさんの言い方はかなり回りくどい。
「つまり、奥の神社の周辺にはその貴族の娘の霊がさまよっていると」
 タクムが簡潔にまとめると、ボアさんはためらいがちに頷いた。
「なるほど」
 にわかに沈黙が流れる。ごう、と一陣の風が二人の間を駆け抜けた。
「あの、チロルケーキさんはいつごろトイレに行かれたんですか?」
「そう言えば少し遅すぎますね。どうしたんでしょう」
「私が少し様子を見に行ってみます」
 ボアさんはそう言うと足早に林の中へと消えていった。
 ――貴族の娘の怨霊か……。
 タクムは鎮守の森の奥にそびえる、もう一つの神社の屋根を見た。
 とすぐに、ボアさんが行きの二倍のスピードで戻ってくる。その手には高校の補助バッグが握られていた。
「え……」
 ボアさんが胸の前で手を小さくクロスして首を振っている。
 ぴしり、と。何かに亀裂が入る音がした。
「っ。探しましょう!」
 一瞬で状況を把握して歩きだす。
「警察はどうしましょうっ?」
 ボアさんが足早についてくる。
「とりあえず僕たちで探して、近くにいなかったら警察です。もしかしたら、その辺りからひょっこり出てくるかもしれませんし」
「そうね」
 ボアさんと二人で渡瀬の名前を呼ぶ。勝手だが、ボアさんには渡瀬の本名を教えた。
 無事でいてくれと願いながら、大声で奥の木立に呼びかける。
 夕暮れのオレンジ色の光が強くなって来て、段々と視界が悪くなっていく。
 逢魔ヶ刻。
 嫌な単語が頭の中に浮かんでくる。
 それらを振り切るように、森の奥へと足を踏み入れていく。



 幽霊になっても実態に憑依しているせいか生理現象には囚われたままという自分がこういうときだけは恨めしかった。神社の境内に帰った時、自分は一体どんな顔をして長谷川と会えば良いのだろうと困惑する。
 渡瀬アヤとしたことがとんだ失態だ。もうこうなったら仕方が無いのでここは堂々と戻っていくしかないだろう。そう思って近くに置いておいた補助バッグに手を伸ばそうとして――。
 がさり、と奥の草むらから物音がした。
「――あの、変態……!」
 夕日のせいでチラリとしか見えなかったが、確かに人影が木立の向こうで動いていた。これは長谷川が良からぬ欲望に負けて、覗きに来たに違いなかった。
「信じられない。こうなったらとっちめてやる!」
 渡瀬はそう独りごちると先程視界の端から消えていった人影を追った。
 森の奥へと影を追う。
「長谷川君! 待ちなさーい!」
 前方の影に呼びかける。長谷川は信じられないくらいに足が速い。制服のままここに来ているはずだから、革靴を履いているはずなのにそれを感じさせないくらい軽やかな足取りだ。
 そう言えば、軽やかな足取りって、おかしくないだろうか。
「待ちなさい!」
 とりあえず口をついて出て来たのは、そんな焦りに満ちた自分の声だった。
 と、唐突に前方の影が立ち止まる。その間に渡瀬は一気に距離を詰め――。
 渡瀬は目を見開いた。
 なんと、目の前の影は長谷川のものではなかったのだ。眼前にすらりと立つ細身の女性。今さらのようによみがえってくる、長谷川が遭遇したという、自分に良く似た女――いや、自分、と言った方が良いだろうか。
 何故なら、目の前で笑っていたのは、他ならぬ、自分自身だったのだから。
 長谷川が昼間言っていた白いワンピースに麦わら帽、ミュールという出で立ちだ。
「わ、私!?」
 すっとんきょんな声が出てしまう。それからなんとか理性を総動員して目の前の状況を整理する。
「あ、貴女は、誰?」
「私は渡瀬アヤ」
 人影がくすくすと笑う。
「そ、そんなわけない! 私が渡瀬アヤだもん」
「でも貴女、体が無いじゃない」
「……」
 そこで、渡瀬は確信した。あれは、あの目の前にあるのは、間違いなく自分の体だと。
「……ッ」
 すると自分の中に今まで感じたことが無いようなどす黒い感情が渦巻き始めた。
「返してッ! それ、私の体ッ!」
 人影はくすりと笑うと、再び渡瀬に背を向けて逃げ出した。
「ま、待って!」
 慌てて彼女のあとを追いかける。こちらは革靴だが、それでもミュールなんかよりは速いはず、と思ったのが間違いだった。少しずつ引き離されていく。そう、実際先程まではこちらが全く追いつけなかったのだ。それは今になっても変わらない。向こうは渡瀬を嘲り笑うかのように時折立ち止まっては、こちらに笑いかけてくる。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へ、と。
 夕闇に沈む木立の中、ひたすら前方の影を目指して走る。
 まるで手を伸ばせば指の間をすり抜けていく羽毛のような先駆者をひたすら追跡する。
「うふふふ、うふふふふ。おいしそうな子」
「食べちゃいたいわぁ」
 気付けば自分の周囲に煙のように渦巻く白い靄が漂っていた。その中からくすくすとこちらを笑うような声が響いてくる。
 心臓なんてものはないけれども、生命が止まりかける。
 白い靄は、まるで自分を仲間に引きずり入れようとしているかのように自分の周囲にまとわりついている。
「おいで、おいで」
「こっちに」
「おいで」
「私たちと、遊びましょう」
「っ!」
 靄を振り切るように目をつむってさらに加速する。
 いやだ。やめてほしい。あんなのの中にはなりたくはない。私はあそこに入ったらきっと後悔する。後悔なんてできないことになってしまう。いやだ。あそこに行くのだけはいやだ。あそこに連れ去られるのだけはいやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。
「いらっしゃい」
 不意にそう耳元で囁かれたような気がした。
「あ――」
 ずるり、と。
 足が滑った。急に視界が開けて、目の前に赤く染まった大きな池が広がる。まずいと思って踏みとどまろうとするが、それもむなしく、殺しきれない運動エネルギーとともにまっさかさまに赤い水面へと落ちていく。反転した視界の中で、水面にたたずむ自分の姿があった。
「いらっしゃい」
 そう言って彼女は、その顔を醜く歪めた。
 助けてと伸ばした右手から着水していく。いつもは澄んでいる水も今日に限ってはどうしたのか、ドロドロに濁りきっていた。
 ――でも、水に入ったくらいなら、すぐに外に出――。
 出ようとして、足に絡まるものがあった。反射的に足首を見やると、そこには白い、死人のような手が絡みついていた。恐怖に目を見開く。赤い水面に助けを求めるように手を伸ばす。今度は腰に何かが絡みついた。
「――ッ!?」
 水の中だったからか、叫び声は出ない。口からはいくつもの気泡が水面に立ち上っていく。
腰には骨ばった誰かの体がしがみついていた。
 一緒になりましょう。
 私たちとここで永久に朽ち果て続けましょう。
 あら嬉しいな、仲間が増えた。
 ――いや……!
 叫び声は虚しく、両手は水面に遥か届かない。駄目だ、このままでは、私は。
 ――助けて、誰か……! 長谷川君……!
 目の前がゆらりと揺らめき、長谷川の照れ隠しの笑顔や、学校の友達、無愛想な父の顔がナラタージュのように映し出される。
 最後に、ついぞ自分に対して目の焦点を合わせてくれなかった母の顔が。
 ――お母、さん……!
「      」
 おかあさん、と、叫び声を上げる。
 自分がいつしか嫌いになってしまった人のことを死の間際に思い出すというのはどんな皮肉だろうか。自分は女々しくも、あんな母親のことを未だによすがにしているというのだろうか。
「          」
 おかあさん、たすけて、と口が勝手に動き出す。
 ――そうだ。
 それはとても唐突だったけれども。
 こんなときに、ようやく自分の気持ちに気が付いた。
 自分は、多分愛されたかったんだと思う。
 こんなのはかたはら痛い願望なのだけれども、きっと人が皆原初に抱く願望なのだろう。
 ――私は。
 涙が泡となって遠い水面に浮かび上がる。その一つ一つの丸い水滴に、母に抱かれて喜ぶ幼い自分の姿が映し出される。 これは走馬灯というやつなのだろうか。自分が消える前にみるという思い出の数々、記憶の結晶。
 だとすれば、自分にもこうした時期があったというのだろうか。
 だとすれば、自分は、へそを曲げて、ただ目を逸らし続けただけだったのかもしれない。
 ――私は。
「    」
 一声叫んだ。きっと、それが断末魔の叫びだったのだろう。


                              ――――――ああ、沈んでいく。



           ×                 ×

 アヤ……! アヤ……。
 呼び声に目を覚ます。まるで羊水に浮かんでいるような感覚に茫然自失になる。
 アヤ……! アヤ……。
 誰かが自分を呼んでいる。
 ――うるさいな。もう少し、静かに。
 そこで、視界に懐かしい女性の顔が映った。
「お母、さん……?」
 アヤ。
 女性は優しく渡瀬に笑いかけてくる。
「……ッ」
 色々な感情が奔流となってあふれ出てくる。憤り、諦め、悲しみ、悔しさ、後ろめたさ。でも最後に残ったのは、喜びだった。
「お母さん?」
 母が何も言わずに右手をあげる。指し示すその先に目をやると一つの古びた祠が見えた。小さな小さな、人の背よりも小さい、小ぢんまりとした祠だった。
「……あそこに行けばいいの?」
 母は何も言わずにこくりとひとつ頷いた。それから、再び渡瀬にやわらかく微笑みかける。
「お母さん……」
 母が水に溶けるように輪郭を薄れさせていく。
 アヤ、ごめんなさいね。
 水からの体が薄れて行く中、母の唇がわずかに動いてそう言う。
「お母さん!」
 母に伸ばした手が虚しく水を掻く。ただ謝罪の言葉をこだまさせて、渡瀬の母親は、水に消えていく。
 貴方はこっちに来ては駄目。ほら、光さす方へと戻りなさい。
「光……?」
 後ろを振り返ると、まばゆい光。白い白い、白々しいほどに白い光だった。その光が段々大きくなり、やがて誰かの声が小さく聞こえだした。
「……た……ろ」
 ――長谷川、君?
「たせ! 渡瀬! 渡瀬しっかりしろッ!」
 大きく鮮明になっていく彼の声、次の瞬間、渡瀬の体を眩い光が包み込んだ。
「ぷはっ」
 水から濡れた顔が引き上げられ、体の中にたまった水を吐き出す。
「渡瀬、渡瀬さん!」
 強く揺り動かされる。うっすらと目を開けると、自分は無数の懐中電灯の白い光に照らされて、水面に浮かんでいた。そしてすぐ隣には自分を捕まえて一緒に浮かんでいる長谷川の姿があった。
「渡瀬さん……! 気が付いたんだな!」
 長谷川が必死な声で自分に呼びかけてくる。そんな必死な彼の様子がとてもおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「大丈夫だよ、長谷川君」
 周囲から歓声が上がった。同時に激しい雨音のような音が響き渡る。
 目を眇めて見ると、坂木さん夫妻を先頭にした地域の人たちが惜しみない拍手を送ってくれていた。
「渡瀬さん、無事でよかった!」
 坂木さんが懐中電灯を震わせながらそう言っている。若い男の人たちが自分たちを引きあげてくれる。
「さ、タクム君もアヤちゃんも体を拭きましょう」
 水から上がると早速ミナコさんが大量のタオルを体に押し付けて来た。
 雨音のような拍手は止まない。
 ――あとで皆にお礼を言わなきゃ。
 ぼんやりとした思考の中それだけを考えた。
 雨音はいつまでも止まない。
 温かい、雨だった。



 渡瀬は再三捜索に協力してくれた地域の人たちにお礼を言っていた。渡瀬には目立った外傷もなく、病院に直送するといった状況にはならなかった。水につかりすぎたことによる疲労と体が冷え切っていたくらいだったらしい(とは言っても渡瀬は救急隊員の人たちに耳から血が出ていないかとか色々検査を受けた)。ひとしきり状況が落ち着くと、地域の人たちは帰っていった。
 坂木夫妻はボアさんの『作家魂』への書き込みを見て急きょ他市より駆けつけてくれようだった。本当に人の良い夫婦である。
 タクムと渡瀬は、とりあえず神社の近くにあるというボアさんの家でシャワーを貸してもらうことになった。ボアさん――本名小坂ルリさんはこのかなり大きな家に一人で住んでいるらしい。家には私以外いないから遠慮しないでと言われたが、互いに今日が初対面なわけだし、ものすごく緊張した。
 風呂からあがって、ボアさんの家の居間に向かう。着替えは池から上がったときに済ませていた。
 それにしても驚いた。
 まさかとは思って駆けつけた千ヶ池に渡瀬のスカートが浮いていた時は心臓が止まるかと思った(別に変な意味ではない)。とにかく、そんなわけでタクムは待ったなしに水に飛び込んだのだった。
 警察や地域の消防団への連絡は全てボアさんがやってくれた。事が大きくなりすぎて、ひょっこり渡瀬が出て来たときは皆にどう示しをつけようかとどきどきしたが、結果的にこれで大正解だった。
 居間に入ると、先に風呂から上がった渡瀬と、その向かいにはボアさんが正座して向かい合っていた。そのボアさんの後ろには白い布をかぶせられた何かが寝かせてある。布は長方形で、縦五十センチ、横百六十センチといったところだ。
「湯加減はどうでしたか?」
 ボアさんが尋ねてくる。
「あ、いい湯でしたよ」
「そうですか。貴方の家にはこちらから何度か連絡を入れようとしたのですが、留守のようで……」
「ああ、たまにあるんですよ。親父はあんまり家に帰ってこないから電話は母が取るんですが、その母も夜中に外出しちゃうことが」
「そうなんですか」
 ボアさんはわずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
「渡瀬さんのお父様には先程連絡を入れました。なんでも単身赴任中ですぐには帰ってこれないとか」
「父には後で私から連絡を入れます。本当に何から何までありがとうございました」
「そうですか……」
 ボアさんはやはりそれ以上は言わなかった。
「それより、今日は本当にご迷惑をおかけしました」
 タクムが頭を下げる。
「ところで、その布から――」
 なんか茶色いやわらかそうな糸が出ていませんか? と尋ねようとしたところで、
「長谷川君」
 タクムに渡瀬が向き直った。
「助けてくれて、本当にありがとう」
 そして深々と頭を下げる。タクムはポリポリと頭を掻いた。
「いやいいよ。僕はなんつーか、当然のことをしたまでだし、とにかく渡瀬さんが無事でよかったっていうか」
「それでも、お礼の言葉を受け取ってほしいの。ごめんなさい、ありがとう」
 彼女はそう言ってもう一度頭を下げた。
「あ、あー。そ、それで、どうすんだ渡瀬さん。こんなごたごたしちゃったら肝心のことボアさんに聞けないよな。また日を改めて……」
「いいえ。彼女から話しは聞きました。渡瀬さん、幽霊なんだそうですね」
 タクムはあんぐりと口を開けた。
「話したの?」
 渡瀬はこくりと頷いた。
「まだ長谷川君に話していないことも含めて全部。聞いてくれる? 長谷川君」

            ×                ×

 森の中で自分に良く似た人影に出会ったこと、それを追いかけていたら、霊に周りを囲まれたこと、最後は池に落ちてしまったこと。
 そこで、母親の幽霊に助けられたこと。その彼女が池の対岸の方を指さしていたこと。
 どれも眉唾な話だったが、もうタクムの感覚は色々と麻痺していたので結構すんなりと話が頭に入って来た。
 ひとしきり渡瀬が話し終わったところで、ボアさんが口を開いた。
「森の奥の神社は、昔ある貴族の娘のお墓でした。それについてちょっとした昔話があるんです」
 タクムと渡瀬が浅く頷いて先を促す。
「貴族の娘といっても、その娘の母は夫にあまり愛されていなかったそうです。ある日その娘の弟が近所の子たちと一緒に森へ入ったきり、帰って来なかった。娘の家にはお金が無くて女房に逃げられていたわけですし、母は足腰が弱かったので、娘を探しにやりましたが、途中で道に迷った娘は、途中足を滑らせて池に落ちて死んでしまったと、そういう話しです。死んだ娘はセンと呼ばれていたそうです。千ヶ池という名の由来ですね」
「なるほど、あそこに住み着いているのはそのセンの幽霊だと」
「いえ、あそこにいる霊は様々です。何せ祖霊が集まる場所ですから。ただ、そう言った霊的なエネルギーの方向性として、センという存在があるのです」
「難しいですね」
「でも、大雑把に言うと、そのセンから私の肉体を取り返せればいいんですよね?」
 渡瀬が口をはさんでくる。ボアさんはちょっと首をかしげた。これは考え事をするときのボアさんの癖なのかもしれない。
「そうですね。まあ、それができれば苦労はしないのですが……」
「とりあえず池の周辺にあるっていう祠を見つけ出せばいいんでしょう?」
 タクムが横やりを入れる。
「大勢人をやって、祠を見つけて、しかるべき場所に戻して、供養してやれば成仏してくれるかもしれない」
「……長谷川君って私以上に大雑把よね。すんごいインドア派草食系男子の顔しおきながら全然似合わないよ」
「うるさいわ。ボアさん、ここは祠を神社に移して盛大に供養してやるべきじゃないでしょうかね」
「そうですね、それも一つの手かもしれないですけど」
 ボアさんが右頬に手を当てる。それから考えがまとまったようにキッと二人を見据えた。
「でも、それでは渡瀬さんの体が帰ってくるか分かりません。――体を取り戻すには、もっと真っ向から行かなければいけないのではないかしら」
「というと?」
「簡単です。霊の操る渡瀬さんの体を物理的に捕まえてしまえばいいんです」
「は?」「へ?」
 思わず二人は間抜けな声を出してしまう。
「でも、センを追いかけたら池ポチャですよ? 追いかけること自体がNGなのにどうやって捕まえるっていうんですか」
「そうですね」
 ボアさんは目をつむった。
「私に策があります」

       ×                ×

 ボアさんの家を出たのは午後十時過ぎだった。
 渡瀬と二人並んで道路を歩く。お互い何となく無言になっていた。
 空には明るい月が出ていて、なかなか風流な夜だったが、こうも会話が無いのではいささか居心地が悪い。とりあえず会話したい一心で、タクムは渡瀬の方へ向き直った。
「あの」「あの」
 見事にシンクロする。車道を一台車が通り過ぎていった。
「あ……長谷川君から、どうぞ」
「いや、別に何でもないんだ。ただ何となく声をかけたくなって。あの、渡瀬さんこそなんかあるのか?」
「私は、もう一度、今日のお礼を言いたくて」
「ああ、そんなこと? いいよいいよ。助かったんだし、もう忘れちまおう」
 タクムが笑って渡瀬に背を向ける。
「あの!」
 背を向けた矢先、強い口調の渡瀬の声に、足を止められてしまう。知らず、無言で振り返っていた。渡瀬は俯いて月明かりの下こちらにも分かるくらいに頬を染めていた。
「どうして、かなって」
「何が?」
「長谷川君の小説のヒロインが、どうして、私にそっくりだったのかなって」
「それは――」
「それは、何?」
「君が、理想のヒロインだったからさ。僕は、僕は君以上にすばらしいヒロインなんて知らないから、だから」
 ばんと何かが体当たりしてきた。一瞬何が起きたか分からずに目を白黒させる。目線をゆっくりと下げてみると、渡瀬がタクムの胸に抱きついていた。
「ずるいよ、長谷川君。状況が都合よすぎるんだもん。あんなときに助けに来られたら、好きになるしかないじゃない……ッ!」
「渡瀬さん……」
 彼女は、タクムの胸の中で深呼吸すると、トンとタクムの胸をついて距離を取った。体を離した渡瀬は、もう一度大きく深呼吸すると、タクムを見上げた。
「待った! 言うの待った!」
「な、なんでよ?」
「古来より告白は男からするもんだって相場が決まってんだ。僕から言う」
「そ、そうなの? まあ、なら、お願いします」
 尻すぼみにそう言う彼女を抱きとめる。
「好きだ、渡瀬さん」
「渡瀬なんて呼ばないで」
「じゃあ何て呼べばいいんだ?」
「アヤ」
 彼女――アヤはひっそりとタクムの耳元で囁いた。
 その日、長谷川タクムは人生初めてのかけがえのない体験をしたのだった。



 若いというのは良いことだ。
 つくづくそう思う。
 窓の外には抱き合う二人の男女がいる。全く、場所をもう少し選んでほしいところだ。
「……うらやましいですね」
 そしてほほえましいと思う。雨戸を閉めようと二階の窓に手をかけたのだが、私は手を止めてしまっていた。
「本当に、仲がいいことで……」



 結局渡瀬と付き合うことになった。
 リア充爆発しろとかネットでは散々言われているけど、だからどうした、である。エロゲーやってニヤニヤしてればいいやとか、一生独身結婚相手は二次元ですとか言っていた自分が馬鹿馬鹿しくなるくらいに楽しかった。お金は減る、時間は浪費すると一見良いことが無いかのように見えた彼女アリの生活は、その実それ以上のものがリターンとして帰って来たと言って良かった。
 そう、これが恋愛小説ならこのまま幸せになりました、めでたしめでたしでおわるところだったのだけれど、あいにくこちらは普通じゃないわけである。
 僕の彼女は幽霊少女――などといかにもラノベチックな箔が付いてしまっている以上、やはりやるべきことをやるまでは終われない。

        ×                  ×

 日曜日の朝は、いつもはゆっくり寝ているのだが、今日は朝日とともに目を覚ました。
 そう、今日は渡瀬の体を取り戻しに行く日なのだ。気合いを入れる意味で念入りにシャワーを浴び、身支度を整える。それからまだ寝室で寝ている母を起こさないように静かに家を出た。
 家の外には、もう渡瀬がやって来ていた。渡瀬はマラソン選手よろしくジャージで固めてきていた。――まあ、これから本当にマラソンをするわけだが。
 ドアを閉めると、渡瀬が無言でバナナと菓子パンとを押し付けてきた。お礼を言って受け取り、もしゃもしゃと咀嚼する。
「準備は、出来てる?」
 緊張した声の渡瀬。それにタクムは一つ頷いた。背中には大きめのリュック。前開きのポロシャツ。そして若干大きいサイズのジャージ。
「できる限りのことは全部した。あとは出たとこ勝負だ」
 互いに無言で朝の街をジョギングする。気休め程度の準備運動である。
「タクム」
 渡瀬がぽつりと言う。「何?」と先を促すと、彼女は決意に満ちた目をこちらに向けて来た。
「私、絶対に体を取り返すから」
「当り前だ」
 短く答える。
「タクムのためにも、取り返すから。彼女が幽霊だなんて、そんなかわいそうなことにはしないから」
「僕は渡……アヤが幽霊でも構わないけどな。でも欲を言うなら、人間であってほしいよ」
「うん」
 それきり、お互い無言になる。雀が平和にチチチチと鳴いている。
「でも、約束して。無理だけは絶対にしないで」
「ああ。分かってる」
 再び会話は途切れ、二人は無言で走り続けた。
 やがて二人は森の入口までやって来た。入口には巫女服姿のボアさんの姿があった。ボアさんがこちらの姿を見とめてか、キビキビとした足取りで近寄ってくる。
 互いに挨拶をして、早速本題に入った。
「長谷川君、体調はどうですか? もし走れそうになければ私が代わりに走りますが」
 レモネードの入った瓶をこちらによこしながらボアさんが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですよ。僕、帰宅部ですけど結構足には自信があるんですよ。クラスで真ん中くらいの速さです」
「うわ、微妙……」
 渡瀬がこぼす。
「こういう荒事は男の仕事です。ボアさんは自分の役目をきっちり完遂することに全力を注いで下さい。大丈夫、絶対アヤの体は捕まえてみせますよ」
「本当に気をつけて下さいね」
「もちろんです。さあ、行きましょう。今日一日森をさまよったとしても向こうから出て来てくれるとは限らないんです。探す時間は長い方がいい」
 タクムがそう言うと渡瀬とボアさんが頷く。三人は神社を越えてその奥の木立へと足を踏み入れた。いつもは鳥や虫の鳴き声で騒がしいというのに、今日は森の中は水を打ったようにシンとしていた。しばらく歩いていると古びた神社に出た。もう一つの八幡天満宮である。
「ここに、彼女たちの魂を連れ帰らないといけないんですね。しかしこのような神社に果たして祖霊達をとどめておくことができるのでしょうか。現に今、霊たちは森に帰り、森をさまよっているというのに」
 ボアさんが風化した屋根の瓦を見上げながらぽつりと言った。
「――さて、ここでお別れですね」
 タクムが明るい声でそう言った。
「十分に繰り返しますがお気をつけて下さい。私は所定の場所にいます。赤信号の場合は有無を言わせず計画は中止ということで」
「了解です。でも赤信号にはなりません。きっと、僕が捕まえてみせます」
「タクム」
 渡瀬が静かな声を発する。「何だ?」と彼女を見ると、彼女はタクムの視線に自分の視線を絡めて言った。
「がんばりましょう。お礼は、終わってからたっぷりさせてもらうわ」
 タクムはそれに薄く笑って返し、一人木立の奥に駆け込んでいった。

          ×                 ×

 森は依然として静かで、まるで生命の鼓動というものが感じられなかった。空気が違う――人間に野生の勘なんてものがあるのかは分からないが、少なくとも今の自分にはそれが働いているような気がする。何かがいる。何かが潜んでいる。侵入者を品定めしている。そう思わずにはいられなかった。
 手に持ったレモネードの瓶を正眼に構えてじりじりと木立の深部へと潜り込んでくる。
 頭の中にあの白いワンピース姿の渡瀬の姿が思い浮かぶ。まるで森に迷い込んだ旅人をたぶらかす妖精だ。気を強く持たないと、きっと呑まれてしまうに違いない。
 渡瀬の体を取り返さないのならこんな危ないことをする必要は無かった。要は山にさまよっている祖霊を鎮めれば良いだけなのだから、祠でもなんでも見つけたあとに神社に移動させ、そのあと専門家を呼んで魂鎮めでもなんでもすればよいのだ。だがその場合は、最悪渡瀬の体が見つからない可能性があった。幽霊が自分の使っている体をどこに隠しているのか。そんなものは予想が付くはずもなく、体を取り返すには向こうが体を取り出しているときに、無理やり奪いかえすしかないのである。
 周囲の温度が急に下がって来たような気がした。今日はかなり薄着で来ているので、寒いくらいだ。タクムは瓶を握る手に力を込めた。
 ――来る……!
 果たして、がさりと前方で物音がしたかと思うと、木の影からワンピース姿の渡瀬――いや、センが顔を出した。
 ワンピース。彼女は冬もあのままの格好なのだろうか。さすがにそこまでいくと場違いを通り越して異常というレベルになりそうだが、幽霊にはそんなもの関係ないのだろう。あるいは、彼女は夏の間だけこうして姿を現し、仲間になる人間を探しているのかもしれない。
 夏が終われば消える幻想――それは彼女にとても合っているような気がした。
 センが妖艶に笑った。
「ねえ、遊びましょう」
「いいぜ。付き合ってやる」
 そう言って手に握ったレモネードの瓶を近くの岩に叩きつける。
 それから彼女に向かって飛び込むように飛び出した。
 それをワンピースの少女がひらりとかわす。そのまま彼女はもう何年も森で遊びなれたような足取りで木立の奥へと踊るように進んでいく。
「待ちやがれッ!」
 タクムは吠えると勢いよく地を蹴った。

 速い。やはり速い。先行する少女はこちらが本気で走りに来ているというのに依然として軽い足取りである。
 ――だけど。
 全くこちらを振り返ることはなかった。前回はこちらを嘲り笑うかのように立ち止まっては振り返っていたというのに。 その事実に気付いて、自然に口の端がつり上がる。なんだ過去最高スコアじゃないかと自分を褒めてやる。
 しかし、ここではいくら彼女に迫ろうと関係ない。例えその差が百メートルだろうが、二メートルだろうが変わらない。彼女を捕まえたという事実だけが重要なのであり、それ以外は全てが無駄なのである。いかに迫ろうとも、捕らえきれなければ切れなければ負ける。捉えても捕らえなければ全てが荼毘にふす。
 ――それを考えると、ここでの勝負はすでに負けている。
 追いつけないという事実。
 その一点に尽きる。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 手を鳴らさなくても分かる。こちらはお前を捉えている。だが――。
「……ッ」
 体の周囲を白い靄が包みだす。視界が遮られる。
「愚かな」
「愚かな」
「坊や」
「おいで」
「おいで」
「こっちに、おいで」
 言霊が飛んでくる。この森にさまよう祖霊達だろう。耳鳴りのように反響する彼らの言葉に、三半規管が麻痺し、平衡感覚が鈍る。
 ――駄目だ。気をしっかり持つんだ。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 手を打ち鳴らす音。あれが寄る辺だ。彼女は幸運にもまだ自分と遊びたがっている。
「私たちと」
「遊びましょう」
 息吹すら感じそうな声。
 それを振り払うようにタクムは絶叫した。
 そのままの勢いで前へ飛び出す。霧が一気に晴れ、視界が急に開けた。
 ――ここで踏ん張る……ッ。
 結末はもう分かりきっている。視界が開ければそこは千ヶ池のはずだ。ならば全力で勢いを殺し、水に落ちる前に踏みとどまる……!
 ざりざりざりざりと運動靴が小石と腐葉土をかき分ける。
 そして前方には青い色をたたえた千ヶ池と、その中央に水面に立つかのように浮かんでいるセンの姿がある。
「な……ッ」
 立ち止まった。確かに勢いを殺しきったというのに、両足が、砂地獄にのまれるように池に引き込まれる。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 打ち鳴らされる音。
 それを聞いて今さらのように一つの事実に気が付いた。
 あの音は寄る辺などではない。あれは愚図な追跡者を強制的に引き寄せる魔性の合図なのだと。勢いは止まらない。踏ん張っても少しずつ水面に引っ張られる。態勢が万全ならまだしも、勢いを殺すために無理な姿勢になっている今では抗いきれない。
「だけどッ」
 両手を前開きのシャツのボタンにかける。ひとつひとつボタンをとるなんて面倒だ。全てを一気に引きちぎる。
 カモフラージュのためのリュックサックを脱ぎ捨てる。ぼそぼそのジャージから練習通りにするりと抜け出る。
「こっちはちゃんと準備してんだッ!!!」
 服を文字通り剥ぎ取るとタクムは水着一枚の姿になっていた。胸にはビート版を背中にはヘルパーをくくりつけてある。自ら水の中に飛び込む。そうだ。もとよりこちらは水の中に飛び込む算段だった。対岸にあるはずの、祖霊の集まる祠を目指して。水に落ちる。しかし心構えはすんでいる。そのままノータイムでバタフライを開始する。
 ツーキックののちに両腕と背筋を使って水上にとび出る。足に何かが絡みついてくるがバタフライの力強さでなんとか振り切る。息継ぎを基準にして一定のリズムを刻む。ワンストロークツーキックを必死で繰り返す。
 目の前の水面には渡瀬の体が立っている。足に冷たい何かが絡まりこちらの推進を妨害してくる。
 ――あと、一歩……。
 そこでいよいよ足に絡みつくものがいよいよ力を入れてきた。まるで両足を引きちぎらんばかりだ。
 ――一体……!?
 ちらりと振り返って、タクムは息を詰まらせた。白い手は今や池中からあふれていた。その先頭の一組がタクムの両足にしがみついていたのだ。そして、その手に引っ張り上げられるかのように白い、白い顔が水面に突き出てくる。女のものだったが、眉毛は無く、目は鮮やかな黄色をしていた。
 思わず声にならない絶叫をあげる。その拍子に水を飲んでしまう。そしてそのまま、水の中へ――。
 ――駄目だ……! 引き込まれ……!
 光を水中から仰ぎ見て、歯を食いしばる。
「おーにさーん、こちら。てーのなーるほーうへ」
 水の中でも鮮明に聞こえる遊び歌。
 ――ここまでか……!
「捕まえたッ!!」
 その時、水の中までも届いてくるような大きな声が辺り一帯に響き渡った。不意に両足から力が抜ける。
「――ぷは」
 水面に浮かび上がる。すると目の前には水の上で硬直したように突っ立っているセンがいた。そのはるかに向こうの対岸には古びた祠と、それに手を触れている渡瀬アヤの姿があった。勝ち誇ったような顔でこちらを見ている。
 タクムは口の端を釣り上げると、そのまま水面に浮かんでいる渡瀬アヤの足に抱きついた。
「捕まえたぜ」
 そう言うと同時に、渡瀬アヤの体がぐらりと揺れる。それから今まで水の上に立っていたのが嘘だったように着水した。
 タクムは慌ててそれを脇に抱え、対岸の渡瀬に向かってガッツポーズをした。
 渡瀬もまた、対岸からガッツポーズを返した。



「御苦労さまでした」
 タクムが対岸に引きあげてもらってから、一呼吸置いて、ボアさんがそう言ってにっこりと笑った。
「いえ……、うまくいってよかった……」
 体を拭いて服を着たものの、若干息を乱したままタクムがほほ笑む。
「二人とも、本当にありがとう!」
 渡瀬が感極まって涙をぼろぼろこぼしながら再三タクムとボアさんに頭を下げる。その両腕には渡瀬の体が抱えられていた。
「本当にありがとう……!」
 タクムとボアさんはそんな渡瀬にやわらかく微笑むのだった。
 作戦はシンプルかつ単純だった。というか作戦と呼べるようなものではなかったのかもしれない。囮にタクムが霊の意識を引き付け、その隙に別ルートで渡瀬が先回りし、池から上がってきたタクムと挟み撃ちしようというものである。子供だましみたいな作戦のくせに意外にうまくいったのが驚きである。ただ、タクムが途中本当に沈みかけたので、渡瀬が機転(?)を利かせて祠にタッチして叫んだというわけである。ボアさんの役目は全体的なサポートである。森の別道を渡瀬に案内したり、もしタクムが沈んでしまったときは池に飛び込んで助けるという役割である。ちなみに先程はもう腰まで水につかっていたらしい。
「とにかく、みんな無事だった」
 タクムはそう言って二人の顔を交互に見た。
「そうですね。一時はどうしようかとも思いましたが、皆無事でよかった」
「このお礼はいつか必ずします!」
「僕は別にいらんが、アヤの気が済むのなら」
 タクムが、そう言うと、ボアさんが無表情で渡瀬に近づいて耳打ちする。
「体で返してあげればいいんですよ」
 真っ赤になる渡瀬。タクムは抗議の声を上げた。
「まあ、せっかく体を取り戻せたんです。これからは楽しまないと損ですよ。お幸せに」
「は、はい……」
 しおらしく答える渡瀬に、タクムはうまい言葉が見つからずもごもごと言い淀んでしまう。縺れる舌をなんとか動かして、
「じゃ、じゃあ帰りましょうか」
 と言った。
 渡瀬から体を受け取ろうと手を伸ばす。
 その途端、それまで和やかな表情で二人を見ていたボアさんが急に鬼気迫る顔で突っ込んできた。
「ガッ!?」
「きゃ」
 いきなりのことに受け身も取れずに二人して後ろへ弾き飛ばされる。あまりのことに意味が分からず、混乱しながら、タクムはボアさんを見上げた。
 見上げて、血が凍った。
 ボアさんは無数の人影にがんじがらめされていた。その人影の一つ一つが半透明で、後ろの木立が透けて見えている。
「な……な……」
 驚きのあまり声も出ない。
「逃げてください!」
 ボアさんが叫ぶ。
「逃げて!」
 そう言いながらもボアさんの体は刻一刻刻一刻と池の方に引きずられていく。周りを見回せば、森の中や池の中から、大量の死霊たちが闇に滲むように現れていた。
 叫んでいたボアさんの声が途絶える。見ると水面には浮いた茶色の髪と、気泡、そして苦しげに空気を掻く右手だけが出ていた。
「ッ! 逃げるぞ、アヤ!」
 傍らの渡瀬の右腕を引っ張る。渡瀬は目を見開いたまま、叫び声をあげた。
「ボアさんが、ボアさんが……!」
「彼女は……ッ! 逃げるんだッ! いいから、走るんだッ!」
「でも、私の体がッ!」
「諦めるんだ! じゃないと捕まる!」
 有無を言わせず力任せに渡瀬を引っ張る。そのまま、半透明の人影を避けるように二人は駆け出した。

         ×                ×

 昼間だというのに暗い森を駆ける。とにかく一方向に走り続ければ、この悪夢のような迷路から抜け出せると信じて。
「どうして……ッ、どうしてこんなことに……ッ」
 懺悔するように繰り返す渡瀬。タクムは歯を食いしばった。
「甘く見てたんだ。僕たちも、ボアさんも。だからきっと、しっぺ返しを受けたんだ」
 渡瀬が息を乱しながら鼻をすする。
 ――どうして、こんなことに。
 心の中は後悔でいっぱいである。もしも今から時間を巻き戻すことができたら? そんなことばかりを考えてしまう。
「――ッ」
 急ブレーキをかけて立ち止まる。後ろから続いていた渡瀬の体が背中にドスンと当たる。
「タクム……?」
「……囲まれた」
 暗い森の中、前方から白い人影が立ち上がる。横からも。後ろからも。
 タクムは近くに落ちていた丈夫そうな木の枝を拾い上げた。
「た、タクム……!」
「こうなったら、突破するしかない。いいか、僕が前にいる奴らに殴りかかる。僕の横を離れるなよ。――行くぞッ!」
「う、うん」
 渡瀬の手を握りしめて前方の人影に殴りかかる。全部で四人。なんとかして、渡瀬だけでも逃がしてやりたい。
「うわああああああ!」
 殴りかかる。木の枝を振るうと、半透明の霊たちはまるでそこに実在していなかったかのように消えていった。しかし次の瞬間にはすぐ前方に再び像を結んでくる。
「くっ」
 無我夢中で足元のこぶし大の石を拾い上げる。それをそのまま前方に投擲した。人影が消える。しかし今度は先程のように再び像を結ぶことは無かった。
「しめたっ」
 よかった。これで活路が開けた。後ろを振り返って恐怖におびえる渡瀬に笑いかける。大丈夫、まだ先に進めると。
 渡瀬の顔が安心を示す泣き笑い顔になり――信じられないというように目を見開いた。
「え――?」
 疑問符を発するのと、頭に何かが直撃するのとは同時だった。ビチャリと血が飛び散り、その場にがくりと膝をつき、側に転がっている見おぼえのあるこぶし大の石を朱に染まる視界の中確認して、ようやく状況を理解した。つまり、投げ返されたのだ。
 どすりと。
 胸に何かが刺さる。見るとそれは折れた木の枝の先だった。
 何も考えず、条件反射のように、かよわい手を握りしめていた左手を前に振るう。タクムの血でべったりと汚れた渡瀬が前につんのめるように進み、それに入れ替わるように半透明の霊たちがタクムの周りに出現した。
 逃げろ! と。
 叫んだと思う。
 それが彼女に届いていれば良いのだが。
 遠のいていく意識の中、両肩に冷たい手が絡みつくのを感じた。
 そして脳がシャットダウンする瞬間、渡瀬は逃げられるだろうかと心配した。
 何か、神仏の加護でもあれば彼女はこの森から逃れ切れるかもしれない。
 そんな都合の良いことが、あれば、いいな、と、思っ、た。


                      ―― Ouvertüre End ――

2011/03/31(Thu)19:11:42 公開 / ピンク色伯爵
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■作者からのメッセージ
 一番槍はこのピンク色伯爵がいただきました。

 ていうか、僕のような作家が投稿してよかったのだろうか。なんかすげーお目汚ししちゃいそうです。でも一番最初になれると思ったら我慢できなくて気がついたら投稿していました。
 さて、初めましてピンク色伯爵というものです。駆け出しの青二才ですが、何を思ったのか分不相応な暴挙に出ました。無視、叩き。すべて受け入れます。
 相手にして下さるのなら、全力でこたえていきます。皆様ご指導のほどよろしくお願いします。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。