『真夜中』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:黒みつかけ子                

     あらすじ・作品紹介
ねえ、君。君は今どこで何をしている。何を考えて、何を思っている。君は街を出ようと言った時、どういう気持ちで言ったのかな。それが僕と一緒にこのうつくしい世界を見るために言ったのならさ、僕はもう最高だよ。それ以外に、本当になにもいらないと思うんだ。 

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 君が来ないから、僕はもう自転車に乗って行くことにした。
 一緒に逃げよう、こんな田舎町から出ていくんだ。そんな漫画みたいなありきたりの台詞が、付き合ってから間もない君の口から出て来るなんて僕は正直思いもしなかった。安っぽいJポップみたいだと言うと、君は苦しそうに下唇を噛んでから俯いた。そんな顔今までに見たことがなかったから、頷いてしまった。それ以上に、どこかへ君と逃げるという言葉のうつくしさに酔いしれてしまったのかもしれない。
 僕達は学校の門の前で待ち合わせをした。きみは新品のダッフルコートに黒いタイツなんて履いて「あと二時間後に」なんて言って笑って大きく手を振った。その笑顔が眩しすぎたから、本当は逃げなくていいからこのままずっといようって言えたらよかった。勿論、そんな機点が効くはずもなかったけど。
 急いで自転車で家に帰って、ほんの少しのお金をいれた財布と携帯と漫画やらお菓子やらトランプをリュックサックにつめこんだ。リュックはおかげで僕の期待みたいにぱんぱんに膨らんでしまった。コートを羽織りマフラーをぐるぐる巻きにして準備完了。母親がうしろから追いかけるようにどこ行くの、なんて声も放っておいてさ。
 心臓がばくばく行くたびに自転車は速度を上げる。坂を上がりそして、下った。先について君を待っているつもりだったんだ。冬の夜の風は冷たくて、マフラー一つじゃ耐えきれなかったけど、きみが遠くから自転車に乗ってくるのを想像すれば、こんな寒さへっちゃらだ。だから歯がガチガチ言いそうになるのをぎゅっと食いしばっていた。
 待ち合わせ場所には三十分前についた。周りは暗くて誰もいない。それから時間になっても来ない君におそるおそる電話をかける。寒さで手はかじかんでいて、正直何を掴んでも一緒だ。何度目かの呼び出し音の後で、突然電話が切られた。もう一度、と思って掛けなおしたけどやっぱり出ない。それから少しして、君からはメールがくる。「ごめん、やっぱり無理。」と。
 だから、僕はもう行くことにするよ。どこにって、どこかに。僕は猛烈に悔しいのだか情けないのだか悲しいのだか嬉しいのだか、よく分からない感情がごちゃまぜなんだ。このままでいると、涙が出そうなんだ。このままでいたらきっと気がおかしくなってしまうから、兎に角自転車を走らせることにしたよ。
 君が今どんな顔しているのかなんて想像しながら、僕は必死にペダルをこぐ。こぐ、こぐ、こぐ。指は寒くて感覚がないし、さっきから鼻水が止まらなくて顔はぐしゃぐしゃだ。きみに会うためにセットした髪も風で台無しになっている。なんて夜だ、なんて思うんだけど不思議と君を恨むような気持ちはわかないんだ。不思議だね。
 街灯がぽつぽつ頼りなさそうに立っている。その間を僕の少し前をライトで照らして走る。真っ直ぐな道で、一体もうどこをどう行ったのか分からないんだ。もう戻れないかもしれないなんて考えると、ふっと荷が下りたような気がした。戻れないならもうどこまでも行けるかなんて。そんなことまで考えたりしたんだ。
 ねえ、君、本当に今夜はたぶん明けることがないと思っていたんだ。いつもよりも、夜の紺色が今にも飲みこまれそうなくらい深くて濃くていし、風も信じられないくらいに冷たい。おまけに、僕の足といったら疲れなんて全くしらなくてビュンビュン自転車をかっ飛ばしていくんだ。
 今、君はどんな顔してどこにいる。きっとお父さんに叱られて顔はぐしゃぐしゃなんだろう。手元にはタンスの奥から引っ張りだして来たリュックサックなんかあるといいな。少しパンなんかも入れてるにちがいない。それで真っ暗な部屋で体操座りして僕のことを考えててくれたら、最高だよ。それ以外に何もいらないよ。
 ぽつぽつあった街灯も間隔をあけてしばらくすると、道がなくなった。その途端に僕の足はずしんと鉛みたいに動かなくなった。ずっと頭のなかを支配していた心臓のドクンドクンが消えて、かわりに波音が体の隅から隅まで流れた。息を思いきり吸い込むと、潮のかおりがした。
 僕は自転車を降りてブロックの上に座ったんだ。下にはいっぱいテトラポッドが敷き詰められられていた。はるか遠くのほうに灯台が建っていてちっぽけな明かりがくるくる回っている。夜の空と夜の海の境界線がないから、目の前に暗闇が横たわってざぁざぁ言っているみたいだ。空の部分に星が散らばって、その間を赤い点の飛行機が音もなく横切って行く。
 ここが世界の終わりだなんて言われたら頷くしかなかった。僕の足は死体みたいにつかれて動かなかった。目の前の闇と動く赤い点とざぁざぁだけが、この時の僕の世界のすべてで、それはあまりにも寂しすぎた。
 だから、突然「きみ」なんて男が声をかけて来たからびっくりして声も出なかった。その人は、どこにでもいるような剥げたバーコード頭のオッサンで、汚れたスーツを着ていた。オッサンからは汗の匂いがむんとした。
「きみ、どうしたんだ」
 僕は答えなかった。オッサンは「どっこいしょ」とか言いながら隣に腰掛けた。きつい汗の匂いがむんとするものだから、少しだけ息を止めた。オッサンはずっとだんまりで僕も何にも言わなかった。二人でぼんやり、動く赤い点を見たりざぁざぁを聞いていたんだ。
「わたしはね、借金抱えててさ。女房と子供にも逃げられるし、会社は倒産したんだ。ドラマみたいにありがちな話だろう」
 酒くさい息が流れて来て、もう一度息を止める。僕は頷きも否定もしないで黙ってオッサンの話を聞いた。オッサン、途中で何度も声が上ずっていたから途中はなに言ってるのか全然わからなかった。でも、この寂しい景色なんかより、オッサンの声がなんか温かかった。
「きみは、どうしてここに?」
 オッサンが聞くから、僕はなんか恥ずかしかったけど素直に答えたよ。
「あの子がこなかったから、待ち合わせに」
 顔を見ないでそう言うと、オッサンは下品に鼻水をかんでから「ごめんね」って言った。
「わたしも昔、そういうことがあったよ。そういうときはよく海に来たさ」
 赤い点が見えなくなって、闇とざぁざぁだけになる。それから、オッサンは煙草に火をつけた。隣に橙色の点がぽっつり灯って煙が流れて来る。
「オッサンはどうしてここにいるの」
「さあ、どうしているのかな。おじさんにもよく分からないや」
「僕もよくわかんない」
「そうか、わたしたちは一緒だね」
 僕はオッサンと一緒にされるのが本当は嫌だったけど、何も言わないでいた。煙も苦手だし目に沁みるから本当は嫌だった。
 その間もきみのことをぼんやり考えたんだ。きみは、僕がこんなところに居るなんて思わないだろう。知らないオッサンの身の上話なんて聞いているなんて思っちゃいないだろう。こんな寂しいところで波の音なんて聞いていると思わないだろう。でも、君が来なかった。それだけで僕はここにいるんだよ。
「むかし、わたしが君くらいの年のとき、同じような経験をした覚えがあるんだ」
 オッサンの声は暗いところから聞えて来た。顔はぼんやりとしか見えなくてどんな表情しているかなんか分かりっこなかった。
「なあ、もし将来がどうしようもないものだって分かっていたとしたら、きみはどうする。ろくでなしの上司に毎日頭を下げて、満員電車に乗れば痴漢に間違えられて、家では娘が口をきいてくれなくて空気みたいに扱うんだ。そういう未来でも、きみは満足してうけいれるか?」
 オッサンの言っていることは支離滅裂でよくわからなかった。オッサンは僕じゃないし、僕はオッサンじゃない。ただ、夜がざぁざぁ言うのが悲しすぎて、僕は答える。
「わかんないけど、それはいやだ」
「そうか」
「でも、それでも僕はいきたい」
 僕は一体どこへ行くのかと思ったけど、もう黙っていた。オッサンのほうの闇が一層濃くなった気がした。オッサンがまたハンカチをだして顔を拭った。
 それから、どれくらい経ったかな。煙草の煙にも慣れて来て少しだけ眠くなってきたころ、頬をうつみたいに冷たい風が吹いたんだ。水平線のむこうがわに太陽がかすかに頭を出していたんだ。オッサンが煙草を吹かして煙を吐き出す度に、少しずつ空と海が明るくなっていくんだ。なんだか、オッサンが夜を吸い取って煙にしているみたいだった。
「オッサン朝だ。朝がきたよ」
 僕がそう言うと、オッサンは黙って煙を吹きだした。ちゃんと見たオッサンの顔は、目が泣きはらしたみたいに腫れていた。煙がこっちに流れてくるのに、僕は目を細める。空が太陽に向けてグラデーションしているのを眺めていた。怖いくらいにきれいな空だったんだ。この時ほど横に居るのがオッサンじゃなかったらって願ったことはないよ。
「もうやめようと思ったんだけどな。今夜も来ちまったか」
「なにをやめるの?」
 僕は尋ねたんだけど、オッサンはマンガみたいに「はは」って笑うばかりで答えてくれない。
空は次第に赤味をましていく。僕は自分の足が軽くなっているのに気がついた。オッサンは「よっこいせ」とか言いながら、立ち上がって尻を軽く叩いた。
「きみは、名前なんていうんだ」
「ショウタだよ」
 そう言うと、オッサンは「そうか、わたしも同じ名前だよ」って言ったんだ、だから、僕は振り返ったけど、そこにオッサンの姿はもうなかった。吸いさしの煙草だけオッサンのいたところに落ちている。
「オッサン?」
 僕はうすぐらい闇に向けて尋ねたんだけど誰も答えなかった。オッサンはもういなかったんだ。僕はなんだか、海の向こうのほうでゆっくりじわじわ太陽が昇るのがもどかしくて、煙草を口にしたんだ。それはまだ温かくてしめっていて、酒臭かった。
 この日、僕ははじめて煙草を吸ったよ。はやく太陽が昇るようにって、夜の闇がはやく明けるようにって。そうして煙を吐き出すと、肺がむせて目の前がにじんだ。その時僕は、少しだけ大人になった気がしたんだよ。
 ねえ、君。君は今どこで何をしている。何を考えて、何を思っている。君は街を出ようと言った時、どういう気持ちで言ったのかな。それが僕と一緒にこのうつくしい世界を見るために言ったのならさ、僕はもう最高だよ。それ以外に、本当になにもいらないと思うんだ。本当だよ。

 

2011/03/22(Tue)16:57:49 公開 / 黒みつかけ子
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