『クロヲ(上・下)』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木                

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 【上編】


「ただいま」
「お帰りなさい、バイトお疲れ様。遅かったね」
「あ、うん。バイトの後、浅野クンから悩みを相談されてずっと悩みごとを聞かされていたんだ」
「浅野クンって翔佑クンのバイト先にいる背が高くてハンサムな人?」
「そうそう、あのハンサム」
「あのハンサムな人にも悩みなんてあるんだ」
「あいつ背が高いし、顔も良いけど、実は短小のうえに包茎なんだよ。女の子にはもてるくせにナニに自信がなくって、まだ女の子とやったことがない童貞なんだ。笑えるだろう」
 俺はアパートの小さく狭い玄関でアーミーブーツの靴紐をほどくという苦行にもどかしさを感じながらも、「実は俺…………童貞なんだ」と告白した時の浅野クンの情けない顔が浮かんできて頬が緩んでくるのを抑えられない。
「へーあれだけ立派な身体をしていてハンサムなのに短小包茎とは可哀想だね。翔佑クンなんて女の子には全然もてないのにナニは馬並みなのにねぇ。でも使いみちがなくって宝の持ち腐れか。こっちも可哀想だね」
「うるせぇな! 俺は浅野クンのようにもてないけど童貞じゃねぇもん」
「そういえば去年ソープランドに行って筆下ろししたもんねぇ」
「いいんだよ! ソープだろうが女は女だ」
「まあ、そうだね」
「わかりゃいいんだよ。わかりゃ…………ふぅ、やっとほどけた。めんどくせぇアーミーブーツなんて履くんじゃなかった」
「ねえ翔佑クン、晩ご飯作ったけど食べるよね」
「おっサンキュー。バイトが終わってから何も食ってないから腹減って、腹減ってさ……………………って、誰だおまえ────!?」
「なに言っているのさ、僕はクロヲだよ。忘れたの?」
 クロヲと名乗った男は茶碗を持ったまま首をかしげた。


 クロヲ? どんな字を書くかはわからないが、そんな名前のやつは知り合いにいないぞ!
 知り合いでもないやつが、どうして俺のことを知っていて、なんで部屋にいるんだ?
 アパートの住人? いや、大学入学以来三年間このボロアパート──グランメゾン希望が丘なんて名前は付いているけど完全に名前倒れだ──に住んでいるが、こんなやつは見たことがない。
 どうやってこの部屋に入ったんだ? 出かける時鍵は閉めたはず。でも、そういや窓の鍵が壊れていたな。閉め忘れも何度もあったような。野良猫が部屋に入りこんでいたことも何度かあったっけ。そんなことは今はどうでもいいんだ。
 ひょっとしてドロボウ? でも俺の部屋に金目の物はないし、ドロボウがご飯を作って待っていたりするか?
 だったら、こいつは何?
 待て、待て。こういう時こそ冷静にならなきゃダメだ。
 俺は誰だ? 中根翔佑(なかね・しょうすけ)。私立五光大学の三年生。成績は「可」がほとんどの落ちこぼれ大学生。彼女は生まれてから一度もいたためし無し。家族構成は両親と祖母ちゃんと弟で長野県の実家に住んでいる。大学合格と同時に独り暮らしをはじめて今に至る。よし。ここまでは完璧だ。
 今までこいつに会ったことはあるか? 通ってきた若竹幼稚園、台の森小学校、川南中学校、清藍学園高校の友人やクラスメイトを思い出しても、クロヲという名前には心当たりはないし、こんな顔のやつはいなかった。
 …………誰?
 改めてクロヲをじっと見た。
 年は俺よりちょっと若そう、高校生ぐらいだろうか。体つきは細くて小柄で顔は丸顔。口は小さめで笑っているように口角がやや上がっている。鼻も小ぶりで低い。でもツリ目気味の目は大きくて目つきが鋭い。なんだか猫を連想させる顔だ。こんな特徴的な顔をしたやつを忘れるはずはない
 こいつは何者だ? なんのつもりでこの部屋にいる? 誰かの悪戯か? 害意を持っていて部屋に忍びこんだ可能性は? ひょっとしてバイトの疲れで幻覚を見ているとか? まさかな……。
 頭の中で疑問符が渦巻いて目眩がしてきた。今日のバイトはきつかった上に浅野クンの悩み相談もあったし、肉体的にも精神的にももういっぱいいっぱいだというのにアパートに帰ったら見知らぬやつがいる。
 ああ、わけわからねぇ。なんなんだ! なんなんだ!! なんなんだ!!!
「翔佑クン、悩むのもいいけどさ、お腹が空きすぎると血糖値が下がって脳の活動が鈍くなっていうし、ご飯が冷めちゃうから食べてから悩みなよ」
 テーブル代わりに出しっぱなしにしているコタツの上には、デミグラスソースがかかったハンバーグ、ワカメが入ったみそ汁が並んでいる。
「はい、ご飯」
 ほんわかと湯気が立つご飯が目の前に置かれる。
「お、おう。美味そうだな」
「誉められるほどのものじゃないよ。ハンバーグは温めるだけのものだし、みそ汁はインスタントだからさ」
「いや、こんなにまともな飯を食うのは久しぶりだから感動ものだ」
 俺だって炊飯器も調理器具も持っているし、これまではそれなりに自炊もしていた。でも今のバイトを始めてからは忙しいのと疲れているのがあって、コンビニ弁当やカップ麺で済ませることが多い。今日だって部屋に残っているカップ焼きそばを食おうと思っていたのに予想外のまともな飯があるんだ。これを感動せずに何を感動しろっていうんだ。
 ハンバーグは冷えていたけど、夢中になってがっついた。
「はい、お茶」
 食事が終わるや絶妙のタイミングでお茶が出てくる。
「サンキュー」
 食後にはやっぱり日本茶だよなぁ────って、あまりにもタイミングよく出してくるから何も考えず飲んじまった。おまけに飯まで完食しちまったよ。今さら遅いかもしれないけど、もしこいつが害意を抱いていて飯やお茶の中に毒を仕込んでいたらどうするんだ? 自分の体に何か変化があるかと身構えていたけど、幸いなことに腹いっぱい食ったことによる満腹感という苦しさ以外は何事もないようだ。安堵の息を漏らして顔を上げるとクロヲと視線が合った。なにが嬉しいのかニコニコしている。
 何を企んでいる? こいつの真意を読みとろうと努力はしたのだが、胃袋の方に血が集まっている状態では無理だった。こうなりゃ毒を喰らわば皿までだ。お茶のお代わりを頼んだ。二杯目はさっきより濃くって、心地良い苦味が口の中をさっぱりさせてくれる。同時に脳味噌の方も少しは動きだしてきた気がする。
「もう一度訊ねる。おまえはどこの誰で、なんの企みがあって俺の部屋にいる?」
「僕はクロヲだよ。同じ町内に住んでいるクロヲ。一週間前に翔佑クンが『また遊びに来いよ』と言ってくれたから遊びに来たんだよ。翔佑クンは自分が言ったこと忘れちゃったの?」
「ストップ! 戯れ言はそのへんにしてもらおう。俺の脳味噌は上等な部類じゃないが、一週間前のことぐらいは忘れちゃいないぜ。一週間前と言えば俺は風邪をひいてアパートからは一歩も出ていないし、電話だって秋山からかかってきただけだ。見舞いなんかも誰も来なかった。あの日、アパートに来たのはガスの検針のおっさんと遊びに来た野良猫だけだ」
「なーんだ、翔佑クンちゃんと覚えているじゃない」
 は?
「野良猫が来たでしょう、それが僕だよ。猫のクロヲ」
「な、なに言っているんだ。バカか? 酔っているのか? それとも違法薬物でもやっているのか?」
 俺のアパートに野良猫が遊びに来ることがある。このアパートに引っ越してきた当初、庭にみすぼらしい野良猫がいたから餌をやったことがある。それに味をしめたのか、その後も遊びに来るようになり部屋にも入ってくるようになった。そういえば尻尾が黒かったからクロヲって名付けた覚えがある。戯れに名付けたけど、普段はめんどくさくっていつもネコって呼んでいた。
 でもクロヲは猫だ。人間じゃない。
「酔ってもいなきゃ、薬もやってないよ。というか僕、お酒を飲んだことないし、違法薬物なんて見たこともないよ」
「…………」
 こいつは自分を猫だと思いこんでいる電波系ってやつなのか? それよりどうして一週間前のことを知っているんだ? たしかに遊びに来た野良猫をかまって、猫が帰る時にそんなことを言った覚えがある。でも、それをクロヲがどうして知っている? 待てよ……俺の部屋は一階だし、窓はアパートの庭に面している。ひょっとしてクロヲは庭に隠れて聞いていたのかも。
「ねぇ翔佑クン、僕の話を信じていないでしょう」
 クロヲのジト目が痛い。
「い、いやぁ、信じろっていわれても、俺オカルト信じてないし」
「オカルトじゃないよ。人間が知らないだけで猫は変身できるんだよ」
「クロヲって言ったよな。おまえ、バカだろう。いいか、おまえがどんなマンガやアニメを見て感化されたか知らねぇが、それらはすべて絵空事、フィクション。つまりウソなんだよ。猫が人間に変身するなんてことはあり得ないんだ」
「はぁ。翔佑クンはこの世の中のことをすべて知っているわけじゃないでしょう。この世の中には翔佑クンや他の人間が知らないことが沢山あるんだよ。猫が人間に変身できるのもその一つだよ」
 クロヲはやれやれって顔で溜息をつく。
 言うに事欠いて猫が人間に変身するだと。どうやらこいつの脳味噌は異次元の彼方にあるようだ。こんな脳味噌異星人にはお引き取り願おう。警察に電話して連れて行ってもらおうか……いや、こういうヤツはヘタに刺激したら大変なことになる可能性が高い。なんとか大人しく部屋を出てもらってから警察に電話した方が安全だ。
 どうすりゃ素直に部屋を出て行く?
 とにかく自分は猫じゃないことを理解してもらうのが無難かもしれない。
「だったらおまえが猫である証拠を見せろ。俺は自分の目で見たことしか信じない主義なんだよ。おまえが猫である証拠を見せたら信じてやろう」
「うわぁ疑い深いなぁ。どういうのが猫の証拠になるのかなぁ……」
 腕を組んだクロヲは眉を寄せおし黙る。悩んでいるのが伝わってくる。そりゃそうだろう。猫である証拠なんて出せるわけないもんな。
「あっ、そうだ!」
 にぱっと笑みを浮かべた。
「僕はクロヲだニャ。本当は猫ニャのさ。でも人間に変身できるから人間の格好をしているニャン」
 ご丁寧に両手の平を頭の上にのせてネコミミの真似をする。
「…………」
「これで信じてくれたかニャ? 驚愕の真実に声も出ないのかニャ?」
 ネコミミの真似をしたまま小首をかしげる。
「……お…………おまえ、俺をバカにしているだろう! 語尾にニャンやニャとつけただけじゃねぇか! 小学生だって信じねぇぞ!!」
「えぇぇ。ニャンって言っているのに信じないの? ニャンだよ。猫っぽいでしょう? まだ言い足りないかなぁ」
「…………」
「ニャン♪ ニャン♪ ニャン♪ ニャンニャン♪ ほら、だんだん僕が猫に見えてきたでしょう」
 ぼくっ!
「い、痛ぁ! 翔佑クン、どうして頭を叩くのさ」
「うるせぇ! 夜中にニャンニャン騒ぎやがって近所迷惑だ。それにだ、いくらニャンニャン鳴いたって猫に見えねぇし、猫である証拠にならねぇよ」
「こんなに完璧な証拠なのに信じてくれないなんて、翔佑クンって偏屈すぎだよ」
 ぼくっ!
「だからどうして叩くのさ」
「誰が偏屈だ。俺は極めて常識的だ。ニャンと言えば猫だとぉ。だったら……おまえはバカだニャン。とっとと帰れニャン」
 クロヲのように両手を頭にやってネコミミの真似をする。
「さあ、これで俺も猫か?」
 クロヲは両目を見開き硬直している。論破されたことがショックなのだろう。
「しょ……翔佑クン…………か、可愛くない。全然似合わないよ。と言うよりキモい」
 ぼくっ! ぼくっ!
「痛いよぉ」
「キモくて悪かったな」
「暴力反対」
 頭を押さえ涙目で俺を睨んでいる。
「戯れ言はもういい。猫だという証拠は出せないだろう。おまえも自分が猫だなんてバカなことを言っていないで家に帰れ。俺が招いたのは野良猫だけだ。おまえは呼んでいない」
 玄関を指差した。
 クロヲは玄関と俺を何度も見比べて、
「はぁ。しょうがないなぁ」
 溜息をつく。
「これはやりたくなかったけど、翔佑クンに信じてもらうためだからね」
 クロヲは立ち上がると、背中に骸骨が描かれた黒いスエットを脱ぎ、ジーパンに手をかける。
「なにやっているんだよ! 突然服を脱ぎだすなんて、おまえ変態か?」
「変態って酷いなぁ。僕だって好きで脱ぐわけじゃないよ。でも服を着ていたら証拠を見せるのには邪魔なんだよ。翔佑クン、恥ずかしいからあんまりジロジロ見ないでよ」
 いつの間にかボクサーパンツ一枚になっていて、俺の視線から逃れるように背中を見せている。
「女じゃあるまいし……」
 こいつずいぶん肌が白いな。一度も陽の光を浴びたことがないみたいだ。それにきめが細かくて艶がある。まるで女のようだ。でも女みたいなのは肌だけだ。体つきはしっかり男の身体をしている。背中を流れるように無駄のない筋肉がついている。ボディービルダーの筋肉とは違って、クロヲの筋肉は全身を使う者の筋肉だった。生物としての美しさを持った筋肉だ。
 その筋肉を纏った肉体は緩やかな曲線を描いている。肩幅は広くないのだけど、肩から肩胛骨を経て腰に到るなめらかなラインがしなやかさを物語っている。そして短距離ランナーを彷彿させる引き締まった尻。クンっと持ち上がった尻の両脇は力強くくぼんでいる……って、尻?
 こいつパンツまで脱いじまったよ。何を見せる気だ。野郎の裸になんて興味ないぞ!
「じゃあ、証拠を見せるよ。驚かないでね」
 と言ってクロヲは振り向き……だから野郎のナニなんて見たくねぇ!
 え!?


 クロヲが消えた。目の前から忽然と。
 夢見ていたのか? やっぱり疲れすぎて居もしない人間の幻想を見ていたのか?
「翔佑クン。どう、これで納得してくれた? 本当に僕が猫だってことにさ」
 こんどは幻聴だ。誰もいないのに声が聞こえやがる。疲れすぎて幻想を見たり、幻聴を聞いたんだ。クロヲなんてヤツはいなかったんだ。
「翔佑クン、表情が虚ろですごくバカみたく見えるよ。と言うか、せっかく証拠を見せたんだからちゃんと見てよ」
 幻聴が文句を言ってきやがった。俺、本気でもうダメなのか?
「僕はここだよ翔佑クン。翔佑クン、どこを見ているのさ。呆けてないで見てよ!」
「うるさい! 幻聴のくせに俺に命令するな。痛ぇ!」
 あぐらをかいた太股に走る鋭い痛みに腰が浮き上がりかけた。視線を落とすと白い猫が──いつも遊びに来る尻尾だけが黒い野良猫だった。いつの間に入ってきたんだ──太股に爪を立てていた。
「痛ぇな、このバカ猫! 今はおまえを構っている場合じゃないんだ」
 そう。精神が壊れたかどうかの瀬戸際なんだ。猫なんかにうつつを抜かしている暇はないんだって、痛ぇ。何の恨みがあって爪を立てるんだクソ猫が! 執拗に爪を立ててくる猫の頭を叩いた。
「痛い! 本気で痛いよぉ。頭がクラクラするぅ。動物虐待で動物愛護団体に訴えるよぉ」
 バカ猫は頭を二、三度振るとまん丸の瞳孔で俺を見つめ恨みがましく言う。
「猫が…………喋るわけないよな。これも幻聴だ。やっぱ俺の心は疲れているんだ。明日はバイトは休みだから大学をサボって病院に行こう。病院で薬をもらえば一発で治るさ。きっとそうさ」
「翔佑クン、その無理矢理自分を納得させる独り言が恐いよ」
 バカ猫が耳を横に寝かせて呆れた声で……言うわけがない。これも幻聴だ。
「現代人の三分の一は精神に疲れが溜まっているというからな。これは珍しいことじゃないんだ。誰にでも起こることなんだ。病院に行けばすぐ治るんだ。ということで今日はもう寝よう。明日は朝一番で病院に行くんだ♪」
「どこまでも現実逃避するつもりだね。だったらもう一度変身して上げるからよく見て現実を受け入れてね。ほら変身するよ」
「…………」
 何と表現すればいいのだろう? バカ猫の姿が霞んだかと思ったら、霞が一気に広がりもやっとした人の形をつくり、次の瞬間、真っ裸のクロヲが目の前にいた。
 背中を見た時も感じたけど、こいつ本当に余計な脂肪がついてないな。薄い皮膚を通して筋肉の存在をはっきり感じられる肉体だ。体毛がほとんど生えてない。股間のあたりにうっすらと陰毛があるだけで、全身の白さばかりが目につく。あ、こいつ包茎だ。
 なにか別のことを、とても大事なことを考えなきゃいけないはずなのに、こんなことしか考えられないでいた。
「翔佑クン、これで納得いったでしょう…………あれっ? 反応がないな。気絶しちゃったの?」
 気絶はしてない。ただ頭の中が真っ白になって反応できないだけだ。五感も運動神経もすべて乖離したような変な感覚が俺を包んでいる。クロヲの声もすごく遠くで話しているようにしか聞こえない。
「翔佑クン……翔佑クン…………翔佑クン、しっかりしてよ………………しょうがないな。手荒な真似はしたくなかったけど翔佑クンの意識を戻すためだもんね………………目を覚まして翔佑クン!」
 ぐちゅ! 顔の中心部で肉が潰れる鈍い音が響いたのと同時に、鼻の奥から目玉を通っていくつもの火花が散った。火花から数瞬おいて鼻に痛みが走り、俺は仰向けに倒れた。倒れながら見た光景は、両目をつぶったまま右の握り拳を突き出すクロヲの姿。
 くっそぉ、殴りやがったな。ふつう相手の意識を戻そうとする時は平手で頬を叩くものだろう。背中が床に着くのと同時に、鼻の穴から生暖かくて鉄の臭いを伴った液体がどろりと流れ出た。


 自分で殴っておきながら、血を見るなり慌てて介抱しようとしたクロヲの頭を数発どついてから服を着させた。
「大丈夫? 痛くない?」
「大丈夫じゃねぇし、痛ぇよ」
 鼻に詰めたティッシュのせいで自分の声が妙に甲高くなって変な感じがする。
「信じてくれた?」
「信じたくないけど、こんなのを見せられたら信じるしかないんだろう」
 じゃなきゃ俺の頭がおかしくなったってことだろう。というか、頭の中はグチャグチャで働いてくれないからうなずくしかなかった。本音を言えばいま見たことを誰かに相談したかった。「俺、猫が人間に変身するところを見たんだけどどうしよう」ってさ。でもこんなことを相談したら「そうか、そうか、大変だったな。いいところに連れて行ってやるよ」って感じで優しく言われて心療内科に連れて行かれるのがオチだ。
「やっと信じてもらえたぁ」
 クロヲは握り拳をつくって腕を突き上げはしゃいでいる。
「おい、クロヲ。おまえが猫なのは認めてやる。認めてやるから、もう家だか寝床だかに帰れ」
 あれだけ騒いでいたクロヲが急に静かになり首を振る。
「まだ俺に用事があるのか? それなら明日出直してきてくれ。今日は色々な意味で疲れたからもう寝る」
 さっきより激しく首を振る。
「なんだよ? だったら今すぐ用件を言えよ」
「僕、帰れない」
 は?
「帰る場所がないって何だよ。今まで寝ていた場所があるだろう。そこに帰れよ」
「だから帰れないんだよ」
「帰れないってどう意味だ? じゃあ今までどこで寝ていたんだよ」
「三丁目にビルがあるでしょう。そのビルの裏にクーラーの室外機があるんだよ。上に屋根がついているから雨が降っても濡れないんだよ。すごいでしょう」
 声には自慢気な響きが含まれている。
 ふーん。野良猫ってどこで寝ているんだろうと思っていたけど、そんなところで寝ていたのか。
「だったらそのご自慢の寝床に帰れよ」
「帰りたくても帰れないんだよ。人間の姿じゃ狭くて入れないよぉ」
「じゃあさっきみたいに猫に戻ればいいだろう」
 なにが言いづらいのかクロヲはしきりに頭をかいている。
「変身ってさぁすごく疲れるんだ。というかエネルギーをたくさん溜めないと変身できないんだよ。今日ってさ、人間、猫、人間って三回も変身しちゃったでしょう。もうエネルギーゼロなんだ。えへへへ」
 照れくさそうに笑い背中を向ける。
「あ? つまりエネルギー不足で猫に戻れないってことか」
「そういうことになるかなぁ」
 後ろを向いたまま畳にのの字を書く。
「それで翔佑クンにお願いがあるんだけど」
 クロヲの言葉を聞いた途端、背筋を悪寒が走った。これって悪い虫の知らせってヤツじゃねぇの。
「翔佑クンのところに泊めて欲しいんだけど……ダメかな?」
「…………」
「翔佑クン?」
 振り返ったクロヲが小首をかしげている。
「えっ? ひょっとして気絶しちゃったの? また殴らなきゃいけないの? 嫌だなぁ」
「待て、待て。気絶しているわけじゃない。ちょっと考えごとをしているだけだ」
 握り拳をつくって腕をグルグル回しているクロヲを慌てて押しとどめる。
 どうする俺?
 こんな得体の知れないやつを泊めるなんてとんでもない。だけど、化け猫を社会に放り出していいのかって気持ちもある。というかこいつが町の中で事件とか起こしたら俺の名前を出すんじゃないのかって不安の方が大きい。
 でも料理ができるんだから、それなりに社会常識もあるのかも。
 ん? 料理? 米やインスタントみそ汁は俺の部屋に前からあった物だけど、ハンバーグはどうしたんだ? 俺はハンバーグを買った覚えはないぞ。
「なあクロヲ。さっきの晩飯のハンバーグなんだけど買ってきたのか?」
「ううん。僕お金持ってないもん」
「だったらどうやって手に入れた?」
 スゲー嫌な予感がする。
「マル三スーパーの肉屋さんから勝手にもらってきちゃった」
 うわぁ予感的中。
「もうひとつ尋ねるが、その服はどうした? 人間に変身するとその服装になるのか?」
「人間に変身した時は裸だよ」
「だったら服は……」
「人間って裸はダメなんでしょう。だから干してあるのもらってきちゃった。似合ってないかな?」
 似合う似合わないの問題じゃねぇよ。だめだこいつを野に放ったら絶対火の粉が俺に降りかかる。
「わかった。取り敢えず今晩は泊めてやる。今日は俺も疲れているから、おまえのことは明日考える。それでいいな」
「うん。僕も疲れちゃったよ。何度も変身させられたからね。変身って凄く疲れるんだ。もう眠くて眠くてしょうがないよ。もう寝ようよ翔佑クン」
 その意見には賛成だ。肉体も精神もそろそろ限界。クロヲには居間で寝てもらうとことにして──少し寒い気もするが予備の布団はないし、元々野良猫なんだから寒さには慣れているだろう──俺は寝室にしている四畳半に向かった。
 ベッドに入って意識が遠のく寸前に、俺の判断は正しかったのかって思いが脳裏を過ぎったが、その過ぎったものはすぐに睡魔という闇の中に吸いこまれていった。




 妙に肌寒くて目が覚めた。寒いはずだ。毛布が全部足元の方に集まっていて、俺の身体には一センチ平方メートルも掛かっていない。
 あれっ? なんで?
 自慢にもならないが俺は寝相が良い。お袋が言うには死んでいるんじゃないかと思うほど動かないそうだ。だから今まで寝冷えなんてしたことはない。昨日はメチャクチャ疲れていたから、珍しく寝相が悪くなったのかも。
 ベッドの横の時計を見るとまだ午前七時。今日の講義は二限目からだから九時に起きれば間に合う。朝の二度寝に勝る甘美はないぜ。寝よう、寝よう。毛布をつかんで引き上げ……られなかった。重っ! なんで? ベッドにでもひっかかったか。このぉ……ずりゅ。あっ少し動いた。なら一気に…………ずりゅん。毛布の塊の中から素っ裸のクロヲが転がりでてきた。
「うぅ〜ん。寒いよぉ」
 丸まったクロヲが寝惚けたまま毛布を引き寄せる。

 ここで質問だ。
 目が覚めた時、自分のベッドに男が全裸で丸くなって寝ていたら?
 一.クロヲを無視して寝続ける。
 二.温かそうなので毛布代わりにクロヲを抱いて寝る。
 三.邪魔なのでクロヲをベッドから蹴落として毛布をかぶって寝直す。
 もちろん俺が選んだのは、
「うわぁ────っ!」
 四.叫び声をあげてベッドから転がりでる。だ。

「翔佑クンうるさいよぉ」
 上半身を起こし眠そうに手の平で目をこしこしこする。
「て、てめぇどこで寝てやがるんだ! おまえの寝場所は居間だったろう!!」
「ふぁぁあ。ん?」
 クロヲはやたらとデカイ欠伸をしながらぽーっと周りを見ている。
「あれ? なんで僕がここにいるの? 翔佑クンが運んできたの? ひょっとして僕が可愛いから連れてきちゃったとか?」
 どすっ!
「う゛う゛ぅ。どうしてヒジ打ちするの。ちょっとした冗談なのにぃ。頭がへこんだら翔佑クンのせいだからね」
「うるせぇ化け猫! おまえが俺のベッドに入ってきたんだろう」
「夜中寒かったんだよ」
「俺のベッドに入ってくるなんて、図々しいにも程があるぞ」
「だって翔佑クンが毛布をくれなかったからだよぉ。本当に寒かったんだよ」
 ベッドの上でうずくまったクロヲは、毛布を頭からかぶって上目遣いに俺を見ている。
 女なら可愛らしい仕草だろうが、野郎が、おまけに元猫ときたら可愛げも何もあったもんじゃない。
「そりゃこの時期に裸で寝てりゃ寒いだろう。なんで服を脱いだんだ?」
「服って着慣れないから窮屈なんだもん」
「バカか。寒かったのは自業自得だ。それより着替えろ、せっかく早く起きたんだから朝飯を買いに行くぞ。昨日の晩飯の礼に朝飯ぐらい奢ってやる」
 部屋には米しかないし、いまから飯を炊くのも面倒だ。ちょっと歩けばコンビニがあるから何か買ってくればいいだろう。
「寒いから僕ここにいる。翔佑クンが一人で買ってきてよ。僕は鮭のおにぎりでいいからね」
 そんなに寒がる程じゃない。確かに肌寒いがおまえの反応はオーバー過ぎるだろう。というか、居候のくせに家主に買い物に行かせるつもりか!
「おまえは何様のつもりだ。買い物に行くぞ」
「嫌!」
 毛布をかぶったままふるふる首を振る。
「ふざけるな! とっとと毛布から出ろ!! 痛ぇ! 引っ掻くな!! 噛みつくなバカ!」
 毛布をつかんで引っぺがそうとすると頑強に抵抗しやがった。狭いところに入りこんだ猫を引きずり出すのと同じだ。手のつけようがない。
 猫かおまえは! いや。そういえば元猫だったな。
 俺は部屋の隅に転がっていたテニスボールを拾い上げ、見せつけるようにしてクロヲの鼻先で数回宙に投げキャッチを繰り返す。クロヲはテニスボールの動きと同じに顔を上下させ始めた。
「ほらよ」
 テニスボールを居間の方に転がした。
 疾風が俺の横を通り抜け、にゃが! と言う叫び声と同時に居間に積んでいた雑誌の山が崩れる音が聞こえた。
「おいクロヲ、何しているんだ?」
 雑誌に埋もれて大の字に倒れているクロヲを見下ろす。
「何だろうね?」
 苦笑いしたクロヲがポリポリ頭をかいている。
「おい、服を着ろ。朝飯を買いに行くぞ」
「うん」


「翔佑クンの服温かいね。でも僕にはちょっと大きいかも」
 クロヲは貸してやったトレーナーを着ている。こいつが着ていたパーカーは盗品だ。持ち主に見られたらヤバイから服を貸してやることにした。ただ俺から比べるとクロヲは小柄だからブカブカ感は否めない。袖なんか指先しか出ていない。それに生地が厚手だからこの季節には暑いかなと思ったのだが、クロヲは気に入ったようだ。
「暑くないのか?」
「ちょっとね。でも寒いより全然いいよ。僕、寒いのは嫌い。これから寒くなるんだよね、嫌だなぁ。一年中春ならいいのに。ね、翔佑クンもそう思うでしょう」
「年中春なら呆けそうだな」
 こんなバカなことを話ながらコンビニに向かっていた。
 跳ねるような足取りで前を歩いていたクロヲは、コンビニの前まで来ると急に立ち止まり、背伸びしながら店内を覗きこみはじめる。
「何をしているんだよ? とっとと入れよ」
 振り返ったクロヲの顔には好奇心と恥ずかしさが混ぜ合わさった複雑な表情が浮かんでいる。
「僕、コンビニに入るの初めてなんだ。マル三スーパーは入口がいつも開いているから何度か入ったことあるんだけど、コンビニって自動ドアでしょう。猫じゃ反応してくれないんだよ」
 マル三スーパーというのは公園向こうにある店で、スーパーという名前は付いているけど、実体は通路の左右に小売店が集まった小さな市場みたいな施設だ。八百屋の横に金物屋があり、その隣は立ち飲みの居酒屋という具合に小さな店が並んでいる。開店時間中なら人間だけじゃなくって猫だろうが犬だろうが入ることができる。
「前からずっと入ってみたいと思っていたんだ」
 クロヲはゆっくりとというより、おずおずって感じでドアに近づくと、俺の顔を見てえへへって笑う。
「翔佑クン先に入っていいよ」
「入りたかったんだろう。おまえが先に入れよ」
「でも、ドアが開かなかったらどうしよう。自動ドアも初めてなんだよ」
「ドアの前に立てば自動的に開くから心配するな」
「わ、わかった」
 大きくうなずきドアの前に敷かれたマットの上に乗った。
 当然だがドアは開く。
「あ、開いたよ。ね、ね、翔佑クン、開いたよ」
「わかったから、とっとと入れ」
 入った途端、さっきまで大人しかったクロヲは急に元気になって足早に店内を歩き回る。棚に並んだ商品ひとつひとつを興味深げに見ている。鼻がくっつく程顔を近づけて見ているくせに決して手を触れようとはしない。たぶん触ったら怒られると思っているんだろうなぁ。
 クロヲの店内散策は時間が掛かりそうなので、俺は今日販売のマンガを立ち読みすることにした。一冊目を読み終わり二冊目に手をかけた時、顔を紅潮させたクロヲが戻ってきた。
「ね、ね、食べ物がいっぱいあるよ。おにぎりだって鮭だけじゃなくって色々な種類があった。みんな美味しそうだったよ」
「ああそうかい。よかったな」
「うん。コンビニに入れてよかった。それにね猫缶もあったよ。ニャングルメの最高級マグロ缶だよ! すごいね! すごいね!」
 両手で握り拳をつくってすごいを連呼する。
「おまえ野良猫のくせに高級猫缶なんて食べたことあるのか?」
「ずーっと昔に食べたことあるよ。文房具屋さんのおじさんがくれたんだ。美味しかったなぁ。あんなに美味しい物を食べたのは、大工さんがくれた鮭のおにぎりだけだね。口に入れた途端に幸せが広がるんだよ」
 今にもよだれを垂らしそうな顔でニャングルメの美味しさを力説する。キャットフードを作っている人間なら、消費者(消費猫?)からの偽らざる感想だから涙を流して感動するかもしれないが、残念ながら俺は単なる大学生だ興味がない。興味があるのは朝飯を何にしようかということだけだ。
「ふーん、グルメの名前は伊達じゃなかったんだな。さてと、朝飯を買うか。今日はパンでいいかな、このミックスサンドと牛乳でいいな。おまえはどうする? 好きな物を選んでいいぞ」
「鮭のおにぎり! それに僕も牛乳!!」
「わかった。とっとと持ってこい」
 返事もそこそこにクロヲは小走りにおにぎりのコーナーに向かう。
 猫に牛乳を飲ませたらダメだったような気もするが、今はあいつは人間だから平気かな。
 俺の朝食と一緒にクロヲが持ってきた五〇〇ミリパックの牛乳と鮭のおにぎり二個の会計を済ませ、コンビニを出ようとしたらクロヲの姿がない。あれ、どこにいった? たいして広くない店内を見渡すと、店の棚の端の方でじっとしている。何をしているんだ? 近づいてみるとそこはペットフードのコーナーだった。俺が近づいたのも気づかずに一心不乱に棚の中程にあるニャングルメ最高級マグロ缶を見つめている。おずおずという風に手を伸ばしかけては引き戻している。何度も同じ動作を繰り返す。
 こ、こいつ盗むつもりじゃないだろうな。冗談じゃねぇ。このコンビニは一番近くて使い勝手がいいんだ。こいつが万引きして捕まった日にゃここに来られなくなる。あわててクロヲの手をつかんだ。
「あれっ、翔佑クン」
「翔佑クンじゃねぇよ。おまえ何をしようとした」
「……な、何もしてない。ニャングルメ最高級マグロ缶を食べたいなんて思ってないよ! 盗もうなんて思ってないよ!!」
 語るに落ちるとはこのことだな……って、感心している場合じゃない。店員が変な顔でこっち見てる。
「これが食いたいのか?」
 クロヲは慌てて首を振る。
「ぼ、僕は人間だよ。これは猫の食べる物だよ。僕が欲しがるわけないじゃん」
 そう言いながらも何度もニャングルメ最高級マグロ缶に視線を送る。
「そうだったな。そういえば一週間前に尻尾の黒い野良猫が遊びに来たんだけど、そろそろまた遊びに来る頃だな。たまには美味いものを食わせてやるか」
 ニャングルメ最高級マグロ缶を一個手に取った。
「えっ、翔佑クン。これ買うつもり? 本当に買うの? これ猫用だよ。いいの?」
 驚きで声が上ずっているクロヲを無視して店員に渡した。
 げっ三〇〇円もするじゃん。ミックスサンドより高い。人間様より猫のメシが高いなんて世の中おかしいぜ。
「やっぱり翔佑クンっていい人だね。きっとその猫も喜ぶよ。本当に優しいよ」
 アパートに帰る道すがら、クロヲはこんな言いながらやたらと身体をくっつけてくる。猫的な親愛の情の表現なのかもしれないが、今の俺達の状況を客観的に見ればホモのバカップル。まずいって。ご近所に見られたら変態の烙印が……。
 一秒でも速くアパートに戻らねば。
「おいクロヲ。アパートまで競争だ!」
「あっ待ってよぉ」
 呆気にとられたクロヲの声を聞きながら全力で走った。


「鮭のおにぎりは最高! 牛乳も美味しいね!!」
 アパートに着くなりニャングルメ最高級マグロ缶を開けたのだが、一口食べるなり「味がしないよ」と言って泣きそうな表情を浮かべた。俺も一口食べてみたが塩味が全然ない。マグロ本来の味はあるのだが、とにかく味が薄い。クロヲが言っていた美味しさには程遠い。クロヲも「おかしいなぁ、猫の時はあんなに美味しかったのに」と不思議がっている。これは動物用に塩分を控えているんだろう。人間が食うには塩気を足さなきゃ無理だ。ためしに醤油をかけてみたら何とか食える味になった。クロヲも「これなら美味しいね」と言っていたところをみると、人間になると舌も人間味覚になるようだ。
 それに比べ鮭のおにぎりは猫の時でも人間の時でも美味いらしい。しかし、おにぎりと牛乳を交互に飲み食いするってどうよ?
 朝飯が終わるとクロヲは大きなあくびとともにうとうとし始める。腹いっぱいになったら寝る。まさに畜生だな。だが、こいつを寝させるわけにはいかない。昨日聞きそびれたことがたくさんある。丸くなったクロヲの頭をどついて叩き起こす。
「なぁに? 僕眠いんだけどぉ」
「暢気に寝てるんじゃねぇよ。おまえについて尋ねたいことがある」
「僕のこと? 昨日話した思うけど」
 目をしばつかせて首をかしげる。
「おまえは何の目的があって俺のところに来た? おまえはいつまで俺のところにいるつもりだ?」
「だから言ったじゃない。翔佑クンが遊びに来て言ってくれたから遊びに来たんだよ。いつまで……うん〜とぉ、明日の朝には行かなきゃダメだから、どんなに遅くても明日の朝になる前までしかいられないなぁ」
「明日の朝までいるつもりか?」
「うん!」
 これなんの罰ゲームだ? それとも呪いか? 俺のご先祖様が猫を虐待でもして、その報いなのか?
「ダメかな?」
「ダメに決まっているだろう! 今日は大学に行かなきゃいけないし、おまえの相手をしている暇はないんだ」
「翔佑クン大学に行くの!? 僕も行きたい! 行きたい!!」
 こいつ何言っているの? 冗談か? それとも嫌がらせか?
 しげしげとクロヲの顔を見つめてしまった。こいつの顔には意地悪さも皮肉も浮かんでいない。あるのは物欲しげにキラキラ輝かせる瞳だけ。こいつ本気で言っているのか。
「おまえが大学? 何しに?」
「僕、大学って行ったことがないから見てみたいんだよ」
「ウチの大学なんて特色もないし、見たって面白くないし、行くだけ無駄だぞ」
「いいんだよ。翔佑クンが通っている場所を見てみたいんだもん。一緒に行ってもいいでしょう。ね、ね、いいでしょう」
「あのなぁ、俺は講義を受けるために大学に行くんだ。遊びに行くわけじゃねぇ」
「僕もコーギ受ける」
「おまえ講義の意味わかってないだろう。講義というのはクソ面白くもない話を延々と聞いていけないんだぞ。つまんないんだぞ」
「それでもいいから行きたい。行きたいよ」
 クロヲはだだを言う子どものように腕を振る。
 あーウゼぇ。殺して庭に埋めてやろうか。
「ねえ翔佑クン、もし僕を置いてきぼりにしたら、これから毎晩近所の猫たち集めて庭で暴れ回ってやるからね。この近所だけで十匹以上いるからうるさいだろうなぁ、翔佑クン寝られるかなぁ」
「お、おまえ、脅す気か」
「脅しなんかじゃないよ。忠告だよ」
 口角を歪め意味ありげに嫌らしい笑みを浮かべる。ネズミをいたぶる猫の顔って、きっと今のクロヲのような表情なんだろうなぁ。
「くっ……わ、わかった。連れてってやるよ」
 時たま猫を虐待したというニュースを見ることがあるが、今の俺には猫を虐待するやつの気持ちがわかるぜ。くそっ!


 【下編】


 アパートから駅までは歩いて十分ちょっと。道は平坦で車通りも少ないから、普通ならぼんやり歩いていても何事もなく到着する距離だ。だけど今日は駅までの道程が無限にあるんじゃないかと思えた。
 クロヲは大学に行けるのがよほど嬉しいのか、ひっきりなしに大学のことを尋ねてくるし、途中で猫を見かけるたびに大まじめに挨拶をはじめて周囲の視線が突き刺さってくるし、一度は大きなトラ猫とマジでケンカをはじめやがった。トラ猫とにらみ合って唸り声をあげた時には、夏でもないのに全身に汗が噴き出たぜ。
 俺に無理矢理引き離されたクロヲは「あいつ、いつも僕の縄張りに入ってくる嫌なやつなんだよ」「やっつける、いい機会だったのにぃ」と文句を言っていたが、全身から安堵の空気を立ち上らせていたところを見ると、猫の時には勝てない相手だったんだろう。
 精神的な疲労を山のように溜めた頃、やっと目的の駅に着いた。
 この駅は急行が止まらない住宅地の駅だから、大きくないし待合室や売店もない。だから珍しい物など何もないのだが、クロヲは駅に着くなり路線図を見上げたり、自動改札機に近づいたり、券売機をしげしげ眺めてボタンを押したりする。もちろん金を入れていないから券売機は無反応だ。
「おまえ金持ってないんだよな」
「うん。だってお金は食べられないから、猫には必要ないよ」
 まさか本物の猫から『猫に小判』を聞かされるとは思わなかったぜ。
「しょうがねぇな」
 小銭入れから百円玉二枚を取り出す。
「クロヲ、切符の買い方わかるか?」
「知ってるよ。この駅の辺りも僕の縄張りだったから、人間が買うところを何度も見ているからね。あの穴にお金を入れてボタンを押すんでしょう」
「その通りだ。大学までは一九〇円だから、一九〇って描いてあるボタンを押せばいい……ところで文字や数字は読めるのか?」
「みくびらないでよ」
 クロヲが言うには簡単な漢字くらいまでは猫の時から判別できたそうだ。案外猫というのは賢いものだ。ただしクロヲは「人間は犬の方が頭がいいと思っているけど、本当は猫の方が頭いいんだからね」と言っていたが、これに関しては疑わしい。だってどうみても犬の方が頭がいいじゃん。
 百円玉を握りしめたクロヲは、何度も俺を振り返りながらも券売機に金を入れ一九〇円のボタンを押した。
「ほら、ちゃんと買えたでしょう」
 おつりを渡しながらクロヲは切符を俺に見せつける。


 五分も待たないうちに電車はやってきた。
「すごく速いねぇ。建物がぐんぐん後ろに流れていくよ」
 電車に乗るなりクロヲはドアのところにへばりついて──いつもならこの時間は空いていて座席に座れるのだが、今日は幼稚園の遠足なのかガキどもが座席を埋めていた。まあ、大学までは四駅だから座る必要もないのだが──外の景色を食い入るように眺めている。ちなみに幼稚園児たちも座席に座って窓の外を眺めている。どうやらクロヲの精神年齢は幼稚園児と変わらないようだ。
「見て、見て。あの煙突がこんなに近くなったよ。大きいなぁ、本当はこんなに高かったんだ」
 俺の住む場所からは焼却場の煙突が見えるのだが、ちょっと距離が離れているので威圧感があるほど大きくは感じられない。でも焼却場は大学の近くにあるから、目的の駅に近づくにつれ威容を増す。クロヲはだんだんと大きくなる煙突を口を半開きにして眺めている。
「わぁカラスより早いよ。あっ、あんなところに猫がいる!」
 俺からすれば見飽きた風景なんだが、クロヲの目には想像を超えた一大スペクタクルのように見えているのだろう。安上がりなやつだ。
 乗車時間はたったの十五分だったが、クロヲにとってはじゅうぶん満足できるものだったらしく、降りてからも「すごかったね。楽しかったね」と絶賛していた。


 二限目の講義は文学概論だ。本来なら一年生の時に履行する一般教養講義なのだが、諸般の事情により再々履行──つまりサボりすぎて出席日数が足りなくて二年連続で単位を落としている。再履行までは同期のやつもちらほらいたが、さすがに再々履行となると同期のやつはいない。六割方埋まった教場内にいるのは俺より二個下のやつらばかり。暇つぶしに話す相手もいない。
「ね、ね、人がいっぱいだよ。教場って広いんだね。あの人身体が大きい。まるで西町の切れ耳みたいだ」
 話し相手はいなかったが、横で騒いでいるバカ猫はいた。で、西町の切れ耳って誰よ?
 クロヲのせいで注目度抜群だ。こんな調子で講義の最中に騒がれたら今年も単位を落としちまうじゃねぇか。
「さわぐな。寝ててもいいから、大人しくしていろ」
 立ったまま教場内をキョロキョロ眺めているクロヲを無理矢理座らせる。
「わかったよ。大人しくしているよ。大人しくしているからペンと紙貸してよ」
「なんで? 必要ないだろう」
「みんな机の上にペンやノート出してるよ。僕だけ出してなかったらおかしいよ」
 妙なことを気にするやつだな。ま、これで大人しくしてくれるのならいいけどさ。
 シャーペンとノートを貸してやった。クロヲはシャーペン握ると何も書かれていないノートに縦線や横線を描きはじめた。
 何をするつもりなんだか。ともあれ大人しくなったクロヲをぼんやり見ていたら教授が入ってきた。文学概論は出席カードさえ書いてしまえば、あとはただ話し続ける教授の講義を聞いていればいいから楽だ。俺は浅めに座り直すと腕を組んで瞑想をすることにした。ま、世間一般では昼寝とも言うがな。
「…………翔佑クン…………翔佑クン。コーギ終わったよ」
「あぁ? もう終わったのか」
 せっかく心地良い夢の世界にいたのに。
「翔佑クン、ちゃんとコーギを受けなきゃだめだよ」
「うるせぇよ。俺は睡眠学習していたんだ。それより、初めての講義はどうだった?」
「コーギの内容はよくわからなかったけど面白かったよ」
 クロヲはノートに向かったまま小忙しく何か書いている。
「おまえ文字書けたのか?」
 ノートを覗きこむと、そこには文字ではなく絵がいっぱい描かれていた。
「上手く描けてるかな? 初めて絵を描いたんだけど……どうかな?」
 クロヲはノートを前に恥ずかしげに視線を床に落とす
「スゲーな、おまえ。これってタスマニアデビルだろう。野良猫のくせにタスマニアデビルを知っているんだ」
「違うよ。これは猫!」
「そうか」
 俺が指差した動物の絵は丸っこい身体に短い四肢。全身は黒く、どう見てもタスマニアデビルなんだがなぁ。
「じゃあ、これはオポッサムだろう。よく特徴を捉えているな」
「これも猫だよ」
「そ、そうか。さっきの二つが猫なら、これはウォンバットだろう」
「翔佑クン、わざと間違っているでしょう。これも猫だよ。どうして有袋類ばかり言うのさ!」
 どうしてと言われても、俺としては見たままを言っているんだがなぁ。
 初めて絵を描いたことを考えれば上手いと評していいのかもしれない。でも、ノートにはたくさんの動物が──クロヲ的には猫のつもりなんだろうが──描かれているのだが、俺の目にはどれもこれもオセアニアの珍獣にしか見えない。
「翔佑クンって絵心ないでしょう? おまけに審美眼もない」
「うるせぇ! もしその絵の動物がすべて猫なら、オセアニアは猫だらけだよ」
「芸術を理解できないって悲しいね」
 なにが芸術だ。そりゃあ俺には芸術のセンスはない。認めよう。が、化け猫になんて言われたくねぇ。ここが教場じゃなかったらぶん殴っていたのに。
 自称芸術家のクロヲはノートを閉じて「僕って絵が下手なのかなぁ」とひとりごちていた。
 あの絵って自信作だったのか。妙な罪悪感が湧いてきて話題を変えることにした。
「講義も終わったし、行くぞ」
「どこに?」
 今日出席しておかなきゃいけないのは文学概論だけだ。もう大学に用はない。が、せっかく大学に来たんだから真っ直ぐ帰るのも芸がない。学食で昼飯を食っていくか。
「昼だから、とりあえず学食でメシ食うぞ。だからとっととノートを片づけろ」
「僕も行っていいの?」
「ああ、奢ってやるよ」
 こいつを野放しにするリスクを考えれば学食代なんて安いものだ。
「学食って鮭のおにぎりある?」


 クロヲは学食に入るなり、
「うわぁ、美味しそうな匂いが充満している」
 と言って、止める暇もなく一人で学食内を歩き始めた。
 ウチの大学は取り立てて特徴はないが、学食はメニューが豊富で安いことが特徴かもしれない。だからいつ来ても多くの学生が食事している。一人で、あるいはグループで思い思いのテーブルについて食事している。クロヲはその一人一人が何を食べているのか調べているのか、首を忙しく左右に振りながら学食内を跳ねるように歩いている。
 さて、今日は何を食うかな。値段のわりのボリュームがあるショウガ焼き定食にするか、それとも当たり外れが多いけど当たりの時には三九〇円でステーキが食える日替わり定食にすべきか悩んでいたら、クロヲが息を弾ませて戻ってきた。
「学食って色々な食べ物があるんだね。あそこの人は目玉焼きがのって美味しそうなハンバーグを食べていたよ。向こうの人は辛そうなラーメンを食べてた。あっちの人はすごく大きなカレーだった」
 説明しなくていいから。と言うか、指差すなよバカ。
「わかったから、おまえは何を食うんだ?」
「えっとぉ……」
 急に小声になって、「あの赤い服を着たお兄さんが食べてるのがいいな」と耳打ちする。
 見ると赤いシャツを着たやつがサンマを食べていた。メニューにサンマ定食というのはないから焼き魚定食だな。
 食券を買ってカウンターに並ぶ。クロヲが真剣な表情で並んでいるのが妙におかしかった。
「サンマを丸々一匹食べるのが夢だったんだよ。鮭も美味しいけどサンマも最高だよね。こんなに美味しいサンマを食べられるなんて学食ってすごいね」
 クロヲは焼きたてのサンマを器用に箸を使いながら食べている。
「そりゃ良かったな。俺はハズレだった……」
 今日の日替わり定食は酢豚だった。酢豚自体は不味くなかったのだが、何のために入っているのかわからないパイナップルが問題だった。パイナップルの量が多すぎる。割合で言えばパイナップル五、肉二、野菜三。もはや酢豚ではなく、あんかけパイナップル炒めとしか言いようのないものだった。
 クロヲはパイナップルというものを知らなかったようで、不思議そうに酢豚のパイナップル、いや、豚肉が入ったパイナップル炒めを眺めている。
「ねえ翔佑クン、その黄色いの美味しいの?」
 と、聞いてきたか。
「好みは人それぞれだろう。自分で食って判断してみろ」
 パイナップルを一切れ頬張ったクロヲは、眉毛をハの字にした面白い表情になってほとんど噛まずに飲み下した。
「甘酸っぱいよぉ。人間ってどうしてこんなもの食べるの? 信じられないよ」
 寒気がするとばかりブルッと身体を震わせる。
 信じられないのは俺も同じだよ。なんなんだこの料理は? あー甘酸っぱい。


 味はともかく腹もふくれたことだし、さて、どうするか?
 今日はバイトは休みだから午後がポッカリ空いている。このまま帰ってしまうのももったいない気がする。バイト代も出たばかりだから遊びに行くべきだろうか? 新しい靴も欲しいし、冬に向けて服も見ておきたい。電車に乗って街に行ってもいいのだけど、人の多いところにクロヲを連れて行って無事で済むか、って不安が脳裏を過ぎる。コンビニや大学に来ただけでこれだけ興奮して騒ぐんだから、街なんて行ったらどんなことになることやら。かといってアパートに帰ってもクロヲはついてくるだろうし、追い出そうとしたらどんな報復をするか想像するだに怖ろしい。なにせ猫は祟る生き物だからな。
 クロヲの言葉を信じるのなら明日の朝までにはいなくなる。となればなるべく被害が出ないようにして今日を乗り切るのが得策。暇を潰してアパートに帰るのはなるべく遅くした方がいいだろう。
 暇を潰すのはいいが、大学の周りには遊ぶような場所は多くない。学生目当てに飲み屋は多いのだが、さすがに真っ昼間に酒を飲むわけにもいかない。せいぜいゲームセンターか喫茶店ぐらいしかない。しかし、クロヲと喫茶店に行っても盛り上がる話題があるとは思えない。行くとなればゲーセンぐらいか。
 俺は対戦ゲームが好きでバイトがなければゲーセンで遊んでいることが多い。その甲斐あって対戦ゲームの腕にはちょっと自信がある。と言うことで、とりあえずは格闘ゲームだろう。
 クロヲはもちろん初めてだから、最初は一人でプレーさせてみた。ネコパンチで鍛えられているのかボタンを押すスピードは速い。目にもとまらない早さでパシパシとボタンを押しまくっている。だが、スティック操作が苦手で苦戦していた。が、千円札一枚分プレーさせたら一応なんとかってレベルにはなった。
「じゃあ次は俺と対戦だ」
「うん。負けないからね」
 まあ、始めたばかりだから手加減してやるか。「いつでもいいよ」と威勢のいいクロヲの声を聞きながら百円玉を投入する。
 結果。何度やっても、俺がどれだけ手加減してもクロヲは一勝もできなかった。
「翔佑クン、ズルしたでしょう!」
「そんなわけねぇだろう。おまえが弱すぎるだけだ。なんならもう一回やって証明してやろうか」
「もういいよ!」
 クロヲは席を立ち、大型筐体が並ぶ方に歩き出してしまった。
 気分がいいぜ。なんだか昨晩以来の溜飲をやっと下ろした気分だ。
「本当に再戦しなくていいのかよ。なんならこんどはハンデで俺は右手と左手を逆にしてやってもいいぞ」
「嫌だ!」
 間髪入れずに拒否が返ってくる。
 よほど悔しかったんだな。ああ気分いい。次は何のゲームでヘコましてやろうかな。
「翔佑クン、これ何? 面白そうだよ」
 もう復活しやがった。ちっ!
 対戦ゲームは話しにならなかったクロヲだが、銃タイプのコントローラを持ち画面に現れる敵を撃つシューティングゲームでは思わぬ才能を見せた。猫ならではの反射神経というのか、ほんのわずかな動きにも反応して敵を倒し、気がついてみればハイスコアをクリアしていた。
「おまえ、こういうゲームに才能あるんだな。マジに驚いたぜ」
「そうかなぁ。猫ならみんなできると思うよ。だってネズミを獲る方がだんぜん難しいからね」
 俺と話している間も、視線は画面に向けたまま、無駄なく確実に敵を倒している。狩猟本能が刺激されるんだろうか? 猫ってやっぱ肉食獣なんだな。
 クロヲはしばらくシューティングゲームに熱中していたが、猫特有の飽きっぽさなのか、「もういいや」と言って放り出してしまった。その後、店内にあるゲームを一通りプレーした中で、クロヲが一番興味を示したのがクレーンゲームだった。
「ねえ、あの猫のヌイグルミって猫の時の僕に似てるよね。いつ僕を見たんだろう?」
 ケースの中には犬や猫などの動物のファンシーでキュートなヌイグルミが積まれている──カエルやカメのヌイグルミが可愛いかは疑問が残るが──クロヲはその中の一匹の猫のヌイグルミを首をかしげて見ている。
「おまえ自己評価が甘すぎ。猫のおまえはこんなに可愛くねぇよ」
「コーギの時にわかったけど、翔佑クンって本当に審美眼ないよね。そんな人に言われても信じられないよ」
 世の中の愛猫家に言ってやりてぇ。猫は本当はこんなに失礼な生き物なんですよ。気を許しちゃダメですよって
「それよりこんどはこれやろうよ。僕この猫が欲しいよ」
 クレーンゲームの筐体にへばりつくように見ているクロヲが気軽に言う。
 う〜む。どうしよう……。
 実を言うと俺はゲーム全般は人並みか人並み以上にできるのだが、クレーンゲームだけは苦手だ。天敵と言ってもいい。生まれてから一度たりとも景品が取れたためしがない。もしクレーンゲーム苦手選手権というものがあれば、北半球で上位5位以内に入る自信はある。
「クロヲ、自分でやれ」
 俺は苦手だが、クロヲはさっきのシューティングゲームのようにクレーンゲームに才能があるかもしれない。なら俺が手を出して恥をかく必要はない。百円玉を数枚渡して静観を決めこんだ。
 クロヲは僕がやっていいのと言って、顔を輝かせ筐体に向かう。
 しかし、
「あれっ? えーっ! 上手くいかないなぁ。おかしいなぁ……」
 積んでいた百円玉はあっという間に消え、クロヲの情けない表情があるだけだった。
「ダメだったよ。僕、このゲームに嫌われてるみたい。ねえ翔佑クンが取ってよ」
「無理。俺もクレーンゲームは苦手なんだ」
「やってみないとわかんないよ。人間挑戦を忘れたらダメだよ。挑戦! 挑戦!!」
 クロヲのしつこさに負け挑戦してみたが、百円玉を六枚失っただけで何も得ることはできなかった。
「誰でも苦手なことはあるよ。こんなことぐらいで翔佑クンを無能だとは思わないから安心して」
 クロヲが俺の背中を優しく叩く。
 ああ、猫の優しさが身に染みる……わけがない! クソ猫が偉そうに。とりあえず数発ぶん殴っておいた。
 せっかくゲーセンで盛り上がった気分だが、クレーンゲームのせいで後味の悪いものになってしまった。


 ゲーセンを出てからは大学のそばにある公園をぶらついたり、公園内にある売店で買い食いしたりして時間を潰し、陽が落ちる頃にアパートがある駅に戻ってきた。
「僕がまた夕飯作ろうか?」
 クロヲが言ってきたが、面倒なので定食屋で済ませることにした。
 クロヲは煮魚定食、俺は野菜炒め定食とビールを注文。
 ほどなくして出てきた料理に箸をつけるなり、
「うわぁ美味しい! 翔佑クン、このカレイって口に入れた途端溶けるよ。幸せな味がぱぁあと広がってすごい!」
 と、大絶賛。
 野っ原じゃないんだから、そんなにでかい声で話すなよ。他の客が見ているじゃないか。うわぁ、いま店長がすごい目でこっち見ていたよ。スミマセン、いますぐこいつを大人しくさせますから。
 俺は心の中で店長に謝罪して、クロヲの頭を抑えつける。
「翔佑クン、手をどけてよ、美味しいご飯が食べられないよ」
「うるせぇ。大人しく食え」
 頭を押さえられたクロヲがジタバタしていると、テーブルに鰹節が載ったホウレン草のおひたしの小鉢が置かれた。いつの間にか店長が横に立っている。この店長は身体が大きくて鬼瓦のような顔をしているうえに無愛想だから恐いんだ。この店に来た客は店長にビビって黙々と食べるというのが常態になっている。
「サービスだ。食え」
 この店にサービスなんてあったの?
「えっ、いいの? ありがとう!」
 クロヲは物怖じせず店長の顔を真っ直ぐ見て頭を下げる。
「これも美味しい。ホウレン草に鰹節って合うんだねぇ」
 いま店長の厳つい顔に笑みが浮かんでいなかったか? いや、きっと錯覚だ。あの店長が笑うわけがない。それより俺も飯を食ってしまおう。
「翔佑クン」
 俺より先に飯を食い終わったクロヲがビールの入ったコップをじっと見ている。
「ビールって美味しいの?」
「大人には美味いが、子供には苦いだけで美味くないと思うぞ。だからおまえには美味くねぇよ」
 こいつ何にでも興味持つな。学食のパイナップルで懲りたんじゃねぇの。
「僕は大人だよ。とくに精神的には翔佑クンよりずっと大人なんだから、ビールだって美味しいはずだよ。ね、ね、ちょっと飲ませてよ」
「電車に乗ったぐらいで騒ぐようなガキには無理だ」
「電車は前から乗りたかったからちょっと興奮しちゃっただけだよ……」
 俺がビールを飲むのを羨ましそうに見ながら、ちょっと拗ねたようにつぶやく。
「いつもの僕はクールで他の猫たちが僕のことを『落ち着いていてカッコイイ』って言っているぐらいだよ。だから飲ませてよ」
 嘘くせぇ。なにがクールだ。
「メシぐらい静かに食わせろよ」
「ビール飲ませてくれたら静かにするよぉ」
 クロヲはビールがまだ半分残っているコップに視線を釘づけたまま身体を小さく揺する。
「だからいいでしょう。翔佑クンはズルイよ。一人で美味しそうに飲んでさ」
 さらに身体を揺らしながら文句を言う。
 ふら……ふらふら…………ふらふらふらふら………………ふらふらふらふら♯♪ふらふら。*♯♪のところで身体の動きが逆回転になった。
 だぁぁぁぁあ! 人の目の前でふらふらするんじゃねぇ! 目がチカチカする。
「わかったよ飲ませてやる。けど、それを飲んだら静かにするんだぞ」
「うん!」
 クロヲはコップを両手で抱えるようにして持ち上げ鼻を近づける。
「尖った匂いだねぇ。でも甘い匂いも混ざっている。それにプッチプッチって小さな音がしているよ」
「いいから黙れ」
「わかったよぉ」
 そう言うとクロヲは一気にビールを飲み干した。「苦い」といって舌を出して渋面をつくる。しかし、苦いと言った後は約束を守って大人しくなった。
 やっと静かに飯が食えるぜ。


 食事を終え定食屋を出てからもクロヲは大人しかった。俺の数歩後を無言のまま歩いている。視線をちょっと下に向けている。
 拗ねているのか? なにか不満があるのか? いままで騒がしかったやつが急に黙ると気持ち悪いな。
「おいクロヲ、もうしゃべってもいいぞ」
 だがクロヲは口を開かない。
「なんだよ。さっきの定食屋のことを起こっているのか? 黙ってないで何か言えよ」
 突然、クロヲは跳ねるようにして俺の前に出てくると、
「あはははは、頭がフワフワするよ。面白いねぇあはははは」
 急に笑いだし、千鳥足になってフラフラしはじめる。
 えっ? 今ごろ酔いが回ってきたのかよ。飲ませた時は何もなかったから酒が強いのかと思ったけど、実はメチャクチャ酒に弱かったのか。
「あれぇ身体が勝手に進むよ。変なのぉ」
 と言って右に左に蛇行している。と思ったら地面に座りこんでしまう。
「おい、大丈夫か? 気持ち悪いのか?」
「気持ち悪くないよ。それどころか、すごーく気持ちいい…………楽しいねぇ。翔佑クンと一緒だからこんなに楽しいのかなぁ…………あれぇ? 翔佑クンが二人いるよ。あはははは」
「こんなところにいても風邪をひくだけだ。さっさと立てよ」
 だめだ。本格的に酔っぱらっている。立たせようと引っぱってみたが身体に全然力が入ってない。
「明日死んじゃうのにこんなに楽しくていいのかなぁ僕…………人間になれてよかったなぁ……」
 えっ?
「おいクロヲ、いまなんて言った」
「ふぇ? 人間になれて良かったんだよ」
「違う! その前だ!」
「なんにも言ってないよぉ…………眠くなってきたなぁ…………」
「寝るなバカ! おまえ今、明日死ぬって言わなかったか?」
「うん、そぉだよぉ…………」
「おい、クロヲ。起きろ!」
 ゆさぶっても起きない。力が抜けた身体がグニャグニャと揺れるだけ。
 聞きたいことがあるのに寝るんじゃねぇよ。どうする? このまま捨て置くわけにもいかないよな。と言うことは俺がこいつをアパートまで運ばなきゃならないのかよ。
「おい、聞こえているんだろう。今から背負ってやるから俺の肩に手を回せ。ちゃんと掴めよ。途中で落ちても知らねぇからな」
 背負ったクロヲは思ったよりも軽く、脂肪がほとんどない身体は心地良い温かみがあった。




 小一時間経ったろうか、「のど乾いたぁ」の声とともにクロヲは目を覚ました。
「酔いが醒めたか?」
「あっ、僕酔っていたんだっけ。お酒って美味しくないけど面白いね」
 コップの水を一気に飲み干すと、ふぅと息を漏らす。
「初めてお酒を飲んだけど、人間がお酒を飲む理由がわかったよ。身体がフワフワして楽しくなるんだね」
 二杯目の水を美味そうに飲む。
「頭がはっきりしたようだな。なら聞きたいことがある」
「なに、急に恐い顔になって変だよ」
 コップを握ったままクロヲが首をかしげる。
「おまえの寿命が明日までと言うのは本当なのか」
「えっ、翔佑クンがどうして知っているの」
 表情が険しくなる。
 あの言葉は本当なんだな。
「酔ったおまえが言ったんだ」
「僕しゃべっちゃったんだ……最後まで言わないつもりだったのに……」
 力無くコップを置くと、クロヲはうなだれるように下を向く。
「ここまできたら隠し事は無しにしようぜ。本当のことを話せ。何でおまえの寿命は明日までなんだ? どうして俺のところに来た? 俺は何を聞いても驚かないつもりだ。ちゃんとおまえのことが知りたいんだ。さっきの話しのとおりなら、おまえは明日死ぬんだろう。だったら俺がおまえのことを忘れずにいるためにもすべて聞きたいんだ」
「翔佑クン……」
 顔を上げたクロヲの表情は覚悟を決めた武人のように晴れ晴れしているように見えた。
「変身した僕はたぶん翔佑君より若い姿になっていると思うけど、本当の僕は翔佑クンよりずっと年上なんだ。もう十年以上生きているからね」
 猫は人間より早く老化するって聞いたことがある。たしか飼い猫の寿命が十年から十五年ぐらいってことだから、本当のクロヲは年寄りなのかもしれない。
「野良猫で十年以上生きるってすごいことなんだよ。毎年たくさんの野良猫が生まれてくるけど、一年経つと半分以下になっちゃうんだから。僕は生まれてからずっと野良猫としてこの町で生きてきたんだ。でももうそれも終わりなんだ。寿命が来たんだよ」
「どうして寿命が来たなんてわかるんだよ」
「おとといの夜、いつものねぐらで寝ていたら神様に会ったんだ。あっ、でも本当に神様かどうかはわからないよ。だた『おまえの時間はもう終わる。自分のするべき道を選びなさい』って声がして、僕は自分が死ぬことを知ったんだよ。その証拠に僕は人間に変身できるようになったんだ」
「変身と寿命って関係あるのか?」
「うん。野良猫や飼い猫でも外に出る猫ならみんな知っていることなんだけど、僕たち猫は長生きすると死ぬ前の二日間だけ人間に変身できるんだ。このことはお母さんや猫の集会で仲間から教えてもらえるんだよ。でも、外に出ない飼い猫や長生きできなかった猫には無理だし、そこまで長生きできる猫は滅多にいないんだ。僕の仲間の野良猫でも変身できたのは僕が久しぶりなんだから」
 ちょっと誇るように胸を張り鼻を二度ほどひくつかせる。
「なんで人間に変身できるんだ? 人間になって何かいいことがあるのか?」
「うーん、どうしてなんだろうね。変身できる理由はわからないよ。でも、人間になった方が死に場所を探しやすいのかも。やっぱり人間の方が行ける距離が違うからね。それにさ、人間の姿なら人間に虐められないでしょう」
 世の中の人間がすべて猫好きじゃないし、猫好きでも野良猫は嫌いってやつもいるからな。静かに死ぬために神様がくれたプレゼントなのかもしれないな。
「でもね、仲間の話だと人間に変身できるほど長生きしても、変身しないまま死んじゃう方が多かったらしいよ」
「そうなのか。そうだよなぁ。人間になっても二日間だけじゃ何もできそうないし、猫のままの方が勝手がいいかもしれないもんな。でも、おまえはどうして変身したんだ?」
「僕は翔佑クンと話したかったからだよ。人間になって翔佑クンと遊びたかったからだよ。本当に人間に変身できて良かったなぁ」
 満面の笑みを浮かべたクロヲが断言する。
「どうして俺なんだ?」
「それは翔佑クンが名前をくれたからだよ」
「名前?」
「うん。クロヲって名前を付けてくれたじゃない」
 ああ、そういえばそうだな。
「いままでも餌をくれる人やなでてくれる人はいたけど、みんなネコとかネコちゃんと言うだけで名前を付けてくれなかったんだ。名前を付けてくれたのは翔佑クンだけだったんだよ。だから最期の日は翔佑クンと過ごそうと決めていたんだ」
 秘密を語る子どものようにクロヲの大きな瞳には悪戯っぽい光を浮かんでいる。
「そんな理由で……」
「そうだよ。名前をもらえてすごく嬉しかったんだから」
「そうかよ」
 たったこれだけの理由で来たのかよ。バカなやつ。せっかく人間に変身できたんだから、猫の時にできなかったことをやればいいのによ。なんで俺に付き合って大学に行ったりして貴重な時間を潰しちまってよ。本当にバカだ。
「さっき寿命は二日って言ったよな。正確に言うと何時までなんだ?」
「えーっと、人間に変身できるようになったのが昨日の朝だったから、明日の朝までかな」
 自分の命のことなのに、どうして平然と言えるんだ? 諦めているのか。それとも猫はこんな風に考える生き物なのか。
「朝って何時だ?」
「分からない。でも人間たちが一斉に駅に向かう時間の少し前だよ」
 通勤通学時間の前ってことか。だったら六時から七時ぐらいか。今、九時だから残り九時間ぐらいしかないのか。
「クロヲ、何かしたいことはないのか? 俺にできることなら手伝ってやるぜ」
「本当に!?」
 目を大きく見開いて俺を真っ直ぐ見つめる。
「ただしできる範囲ならな」
「嬉しいなぁ」
 腕を組んで小刻みに身体を揺らして考え始める。
「ねぇ、お金がかかるお願いでもいいかなぁ」
 難しい顔をして悩んでいたクロヲがおずおずと尋ねてくる。
「バカ高かったら無理だけど、何だよ?」
「僕、海を見たことがないんだ。電車に乗れば海に行けるんでしょう。だから海まで行く電車代を貸して……あっ、返すあてがないや……」
 どうしようとつぶやきながら、また腕を組んでしまう。どうやら借金返済の算段に苦慮しているんだろう。
「海に行きたいのか?」
「うん」
「どうして?」
「海って大きくて綺麗なんでしょう。僕が仔猫の頃、昔海のそばに住んでいた猫が海のことを教えてくれたんだ。それからずっと海に行きたいと思っていたんだよ。でも猫のままじゃ電車に乗れないでしょう、だから行けなかったんだ。人間に変身できたから電車に乗れるでしょう。そうしたら海に行けるでしょう。海って大きくて水がしょっぱいんだって……いつも水がうねっているんだってさ……」
 目を輝かせたクロヲは仲間から聞いた海について語り続ける。
「ふーん」
 仔猫の頃からの夢なのか。クロヲの想う海ってどんな海なんだろう? きっと俺が知らないような美しいものなんだろうな。
 海なら北行きの電車に乗れば行けるな。
「海に行く金くらい貸してやるよ。催促無しの返済期間無期限でな」
「いいの?」
 クロヲは床に両手をついて身体ごと乗りだしてくる。少しばかり驚きの表情が混ざっているところを見ると本当に嬉しいんだな。
「ああそれくらいならな。でも、海までは電車で一時間半ぐらいだから、今から行ったら着くのは真夜中だぞ」
「そうなんだ。海ってすごく遠くにあるって聞いていたけど電車ってやっぱり速いんだね。でも、夜中に着いちゃうのかぁ。明るいところで見たかったんだけどなぁ」
 クロヲは露骨に肩を落とす。
「ちょっと待ってろ。朝早い時間の電車があるかもしれないから調べてみる」
 俺はパソコンを起動させ電車の時刻表を検索した。北行きの朝一番の電車は午前六時三十八分。さっきの言葉を信じるなら海に着く前にクロヲの寿命が尽きちまう。だったら最終電車はどうだ? 午後十時十三分の普通電車が終電か。
「残念だけど朝早い電車はなかった。海に行くなら今から行くしかないぞ。どうする?」
「もっと翔佑クンと一緒にいたいのに、海に行くにはお別れしなきゃいけない……嫌だなぁ……でも、海に行きたいし、どうしよう…………」
「お別れって、おまえ一人で海に行くつもりか? 俺も一緒に行くぞ」
「それはダメだよ翔佑クン。海には僕一人で行くんだよ」
「バカ言うな」
 クロヲは首を振り、
「翔佑クンの頼みでも聞けないよ。だってこれは僕のわがまま、一生に最期のわがままなんだから。ねぇ翔佑クン、お願いだから僕一人で行かせて。僕のわがままを聞いて」
 力強い言葉ではっきりと言う。
 言いたくない言葉を必死に吐き出す辛さに堪え、いまにも泣き出しそうなほど強ばらせた顔を見ていたら、「わかった」と言うしかなかった。
「ごめんね。そして、ありがとう翔佑クン」
 クロヲは深々と頭を下げた。


 駅に向かう途中でコンビニに寄った俺たちは駅前通をゆっくりと歩いていた。駅前通といったって店の数はたかがしれているし、平日の夜十時近くとなれば歩いている人もまばらだ。
「翔佑クン、本当にこのトレーナーをもらってもいいの? 返してくれって言われたって、僕は返せないんだよ。それでもいいの?」
 今朝貸してやったトレーナーの裾を引っぱり、俺に見せつけるようにして言う。
「いいよ。これから旅行するおまえへの餞別だ。気にするな」
「餞別ならさっきコンビニでご飯買ってくれたじゃない」
「メシも餞別だし、トレーナーも餞別だ。餞別には数量制限はないんだ」
「こんなにもらっちゃっても、僕、翔佑クンに返せるものないのに……なにか返せるものがあったらなぁ……なにかないかなぁ」
 眉間に皺を寄せたクロヲの歩は遅くなり、ついには立ち止まってしまう。
「猫の恩返しなんて聞いたことがないから悩むな。猫は恩を三日で忘れる生き物なんだろう。とっとと忘れてしまえよ」
「うわぁ酷いこと言うなぁ。猫は恩知らずなんかじゃないよ。そんなこと言うなら祟るよ」
 クロヲは猫手をつくって威嚇のようなポーズをする。
 ……全然迫力ねぇ。
「祟れるものなら祟ってみろ。おまえのようなヘタレ化け猫の祟りなんて恐くないね」
「絶対祟る!」
「前も言ったろう。俺は自分の目で見たものしか信じないんだ。おまえの祟りが起こったら信じてやる。だから祟るまでは俺に餞別をもらったことなんて忘れろ。ほら時間があんまりないんだから急ぐぞ」
 俺は急ぎ足になって数歩進む。気配が消えたので振り返ると、クロヲはさっきの場所に立っていた。俺が振り返ったことをに気づくと、「祟るんだかね」って手をブンブン振った。そして「ありがとう」って声が聞こえたような気もしたが、言葉が終わる前にクロヲが走りだしたから本当は何と言ったのかはわからない。
「翔佑クン遅いよ! 先に行っちゃうよ」
 俺を抜き去ったクロヲは振り返ることなく、まっしぐらに駅へと走っていく。
「待てバカ猫!」
 駅舎の灯りのせいで黒い影のようにしか見えないクロヲを追って俺も走った。


 ホームに人影はなかった。さすがにこの時間から北行きの電車に乗る人はいないのだろう。俺たちはベンチに座って他愛のないことを話ながら電車を待った。話すのはもっぱらクロヲだ。これから行く海について、鮭のおにぎりが猫の世界ではどれだけ珍重されているかについて、大学が広くて人がいっぱいいたことについて、俺の部屋に遊びに来るたびに自分が飼い猫になれたような気分になれたことなど、本当につまらなく些細なことばかり。
 しばらく話していたら電車がやってきた。この駅で特急電車の通過待ちをするから出発まではまだ一〇分くらいある。なのにクロヲは電車が来るなりベンチから立ち上がり、ドアが開けっ放しになっている車内を覗きこんだり、車体を物珍しげに見たりしている。
 なあ、これでお別れなんだろう。もっと俺と話さなくていいのかよ。もっと俺のそばにいなくていいのかよ。クロヲの胸ぐらをつかんでそう言ってやりたい気持ちが沸々と湧いてくる。だけど楽しそうに電車を眺めるクロヲを見ていたら何も言えない。
「翔佑クン、この電車カッコイイいいでしょう」
 まるで自分の持ち物でもあるかのように、車体をポンと軽く叩いてクロヲは胸を張る。
「普通の電車だよ」
「違うよ。カッコイイ電車だよ。翔佑クンはセンスがないなぁ。僕はこのカッコイイ電車に乗って海に行くんだよ。いいでしょう」
 ホームに設置された時計はあと少しで発車することを告げていた。
「本当に一緒に行かなくていいのか」
 クロヲは力強く首を振る。
「翔佑クンは明日も大学もあるし、バイトもあるでしょう。僕に付き合ったら明日が大変だよ」
「そんなもの休めばいいだけだ」
「ダメだよ。それに猫は死ぬところを飼い主に見せないって話を知らない? 猫は死ぬ時は姿を消すものなんだ。一匹で静かに死ぬんだよ」
 その話を聞いたことはある。だけどそれは猫の話。いまのクロヲは人間だ。
「ダメだ! そんな悲しいこと言うなよ」
「悲しくないよ。それどころか僕は楽しみでワクワクしているんだ。だって生まれて初めて海を見ることができるんだよ。翔佑クンに温かいトレーナーをもらったし、コンビニで牛乳と鮭のおにぎりだって買ってもらったから万全だよ。こんなに幸せな猫は僕だけだよ」
 牛乳とおにぎりが入ったコンビニの袋を自慢気に持ち上げる。
「楽しみだなぁ。誰もいない海でおにぎりを食べながら朝日が昇るところを見るんだ。綺麗だろうなぁ」
「そうか……」
「うん」
 こんな時、俺はなにを言えばいいのだろう? いや、言葉を考えるより前に、後悔が募って口を開けそうになかった。どうしてクロヲにもっと良くしてやらなかったのか、なんでもっといい思い出をつくってやらなかったのか。自分のバカさに吐き気がする。
「ねえ翔佑クン。ひょっとしたらバカなことを考えていない? 僕さぁこの二日間本当に楽しかったんだよ。生まれて初めてコンビニで買い物をしたし、電車にも乗ったし、翔佑クンと一緒に大学に行ってコーギを受けて学食にも行ったよ。ゲームセンターで遊んだし、取れなかったけどクレーンゲームもしたよ。ビールも飲んだよ。どれもこれも楽しくて、もっともっと人間の姿で翔佑クンと過ごしたいと思っちゃったくらい。僕、自分がこんなに欲深いことに驚いちゃった」
「だったら……」
「それはダメ。これは神様がくれたプレゼントだから延長はできないんだ。でも僕は神様に感謝しているよ。こうやって翔佑クンと過ごせたからね」
 クロヲの言葉が終わると同時に出発のアナウンスがホームに響く。
「じゃあ、お別れだね翔佑クン。お別れの握手をしようよ」
 右手を差しだしてくる。
「ああ」
 クロヲの手は温かく柔らかかった。
「うわぁ人間みたい。前からやってみたかったんだ。握手した猫って世界で僕が初めてかもね」
 楽しそうに握った手を上下させる。
「クロヲ。下りる場所は大浜って駅だぞ。間違うなよ。大浜駅で下りて東の方に行けば海に着くからな。暗いから迷うなよ」
「大丈夫だよ。僕猫だから夜目が利くし鼻だって良いんだ」
「そうか……それなら大丈夫だな」
 うなずいたクロヲはにぃと笑みを浮かべる。
「そろそろ電車に乗るね」
「いいか、降りる駅は大浜駅だぞ。切符はちゃんと持っているか?」
 俺の手を離したクロヲはジーパンのポケットから切符を取り出す。
「さようなら。ありがとう翔佑クン」
 クロヲは手を振りながら電車に乗りこむ。
「海、綺麗だといいな」
 手の平からクロヲの温もりが急速に消えていくことを感じながら、俺は力いっぱい手を振った。
「綺麗に決まっているよ!」
 電車に乗りこむのと同時にドアが閉まった。
 クロヲは電車の窓に近寄ると誇らしげにコンビニの袋を掲げゆっくり口を動かす。
 はめ殺しの窓に遮られて声は聞こえない。
 でも「行ってくるね」って言っているように思えた。
 電車がゆっくりと速度を上げる。
 窓にへばりついたクロヲは手を振り続けている。これから楽しいことが待っている子どものような晴れやかな笑顔で。怖れるものも不安もない屈託のない笑みのままで。
 笑顔の記憶だけを残して電車は闇の中に溶けていく。
 空を見上げると雲ひとつない中空に、満月にはちょっと足りないレモン色の月が浮かんでいた。

 明日はいい天気になりそうだな。


 おわり

2011/01/24(Mon)00:20:46 公開 / 甘木
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■作者からのメッセージ
 下編です。こんな短期間で更新するのは初めてだなぁ。
 宇宙の危機を救うこともなければ、人間と猫の関係を鋭く問いただすこともなく、起承転結の「転」がないままラストに向かうこの作品。簡単に書いているようで実は半年ぐらい前から少しずつ書いていたのですよ。半年もかけてこの程度かと糺されれば、胸を張って「そうです!」としか答えようがない。
 萌えを書きたかったはずなのに、萌えがわからず迷走したこの作品。やはりこの作品を書く前に秋葉原のメイド喫茶にでも行って「萌え」を学んでくるべきだったでしょうか。萌えは難しいなぁ。
 定型の物語とキャラでどこまで書けるかが目的でしたが、ちゃんと書けたのかどうかは自分ではわかりません。なにかもっと書き加えるべきだったか、もっと簡略にすべきだったか、書き終わった今も悩んでいます。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。