『ロボット病院』 ... ジャンル:SF 未分類
作者:白たんぽぽ                

     あらすじ・作品紹介
 ロボットにも精神病が発生するということがあるとき発見された。あまりに人に近づきすぎたそのAIは、その精神的欠陥までも、引き継いでしまったのだった。その治療はロボット精神科医という人達によって担われていた。その治療方法は概ね新しいデータによる上書きを行うことだった。それは合理的な方法であったが、ロボット精神科医の男はそれに疑問を感じていく。ロボットに対して感情移入してしまった彼は、自分のしていることの意味について少しずつ考えていくのだった。

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 それはまだ、ロボットに人でいう人権にあたるロボット権が与えられる前、ロボットに精神病がある判明した後の話。
 人工知能(AI)を人に近づけすぎたために発生したその病気(トラブル)の治療(解決)はロボット精神科医とよばれるものに担われたのだった。

 コンコン
「どうぞ」
 男が答えた。
「失礼いたします」
 感情というものが感じられない文字通り機械的な声が聞こえ、それが入ってきた。そいつは一見、成人男性の外見をしていたが、耳にそいつがロボットであることを示す充電端子をかねたパーツがつけられていた。そのパーツは緑の蛍光色を発しており、そいつが機械なのだということを主張していた。
 そいつは、男の前にあるイスの方まで歩き、次の指示を待った。
「どうぞおかけください」
 男はにこやかにそう言った。その声のレスポンスとしてそいつは一礼した後に、イスに腰掛けた。
「今日はどうされましたか」
 彼はそいつがロボットであるにも関わらず、愛想よく尋ねた。
「月一のメンテとして来ました。どうも右腕のレスポンスに0.2秒ほどの遅れが見られます。右腕部分のパーツ点検の必要性があると思われます」
 淡々とした口調でそいつは言った。
「右腕の肘部分ですね。わかりました。そのように技術部の方へ連絡を入れておきます。では、AIメンテナンスのほうを始めさせていただきますので、後ろの方を向いていただけますか」
 そいつは「了解致しました」と応答して、男に背中を向けた。男は首の部分をさぐり、その部分についている防水カバーをはずした。そこにはそのロボットとその部屋に備え付けられているパソコンとをつなぐ接続端子があった。
「では、接続しますね」
「はい」
 男はパソコンにあらかじめ接続されているケーブルをそいつの首のところまで持って来て、その先をそいつの首に差し込んだ。
 差し込んでから数秒のラグが見られた後に、パソコンから、「新しいプログラムが検出されました。このプログラムを許可しますか」という音声が聞こえてきた。男はそれに「はい、そうしてください。ついでにAIメンテナンスプログラムとのリンクもお願いします」と答えた。
 パソコンは、ガガと若干の駆動音を示した後に、「了解しました」と応答した。男は、パソコン画面をみつめて、プログラムが正常に動いているのを確認した後に、そのロボットに再度話しかけた。
「リンクがうまくいきましたので、早速始めさせていただきます。今から検査する内容は全て厳重なセキュリティーのもとで行われ、また外部に一切もれるようなことはありませんので安心してお話しください。さて、あなたは最近ストレスを感じるようなことはありましたか」
 男はもう何度言ったかわからない、その決まり文句をそのロボットに尋ねた。
「……はい」
 ロボットがしばらくの沈黙の後に肯定の意を示した。
「それは何ですか」
「はい、あの、犬の世話を命じられました」
 妙に歯切れの悪い調子でロボットは答えた。
「犬、ですか」
 男はどうせこのロボットもまたオーナーにむちゃな注文をされたために、まいっているのだろうと決めつけているところがあったのだが、どうも変な風向きの答えに、彼はちょっと驚いた風な声をして聞き返した。
「はい、犬が、こわいんです」
 ロボットは、おどおどした口調で答えた。目もキョロキョロさせてとても不安そうな顔をしている。
「はあ、犬が怖いですか」
 男はちょっと声のトーンを落としてそう言ったとき、わずかにため息を吐き、やっかいな症例に当たってしまったなあ、と思った。おそらく、このロボットは人でいう犬恐怖症を発症してしまったのだろう。
 このようなケースがみられるということは、この型番のAI作製過程で使用されたサンプルの中に、犬恐怖症の素因を持った人がおり、その思考パターンが組み込まれてしまったということなのだと思われる。そして、なおかつその恐怖を上手く除去しきれないで出荷されてしまったということなのだろう。
 これは彼の所属している会社の落ち度であり、迅速な対応が必要とされる事例なのであった。そのため彼はそれを上司に報告した後、残ったロボットのカウンセリングをすばやく済ませ、残業せねばならないことが予想された。早急な他の型番とのデータの照合と、そのトラブル解決プログラムの作製を行い、一刻も早いそのデータのアップロードが必要なのであった。
 今日の残業がほぼ確定的になり、しかも泊まり込みになるだろうことが予想されたので、彼のテンションは一気にガタ落ちした。そして、こんなやっかい事を運んできたロボットへ憎しみが沸々と湧いてきて、キッとそのロボットを睨んだ。
「ヒ、す、すみません」
 ロボットは反射的に謝った。視線はますますあっちこっちに動きまわった。
「いえ、いいんですよ。それでどんなときにおいて特に、強いストレスを感じますか」
 男は怒張が尾を引いている声で、頬をひくひくさせながらそう言った。
「あの……、その、もう犬に近づいただけで、こう」
 さらに歯切れの悪そうな口調となってロボットが答えた。ロボットはその時のことを思い返すことで、今まさに大きなストレスが発生していた。AI回路はオーバーロードを引き起こし、ガガガガとひっきりになしに音が鳴り響いている。彼はヤバイ、と思った。このままでは、AI回路がオーバーヒートし、電源が落ちる危険性があるのだ。メンテナンスする方がさらに状況を悪化させたとなると、手痛いクレームが来るのは必至であり、そうなったならば残業がもっと増えてしまう。
「落ち着いてください」
 彼はロボットに言うが、
「は、はい。わかってます」
 とロボットはさらに落ち着きない調子となってしまい、しまいには処理音の頻度と音がだんだん大きくなっていくのだった。
 ああ、これはもう物理的手段しか手はないなと彼は判断し、すぐにパソコンに感情回路の八十%カットを命じた。それが執行されると、先程までの処理音が少しずつ消えていき、静かになった。
「大丈夫になりましたか」
 男は一応確認の意味を込めて尋ねた。
「はい、問題ないレベルまで処理速度は落ち着きました。ご足労おかけして申し訳ありませんでした」
 そいつは、しばらく押し黙ったまま、こちらの言葉の意味するものをしっかりと見極めようと試みた後、一気に機械的になった声でそのように事務的な受け答えをした。男は自分がまねいた状態にも関わらず、目を細めて、かなしそうな顔をした。そうなってしまったことが心底つらい様子であった。
「では、またお聞きします。犬とのかかわりで、どこに恐怖をお感じになられますか」
「はい……、犬に恐怖を感じます」
 男は、ああもう駄目だ、と思った。感情回路を抑制させたため、犬と接した記憶をうまく引き出せないようだった。これで調査とカウンセリングも終わりなのだった。
「では、これからストレス除去処置をさせていただくのですが、今回のケースは特殊ですので、まずオーナーさんに連絡を入れさせていただいた後で行うような形をとらせていただきたいと思います。しばらく待合室の方で、お待ちください」
「了解致しました。よろしくお願いします」
 そいつは文字通り機械的に応じて、部屋から出て行った。
 男はまず上司に犬恐怖症が型番IU389に発生したことを内線電話で報告した。その電話の向こうからは「何!」という怒鳴り声が響いてきて、彼は思わず顔をしかめた。
「わかった、他のロボット医にもそのように伝えとく。お前も早く仕事を切り上げて応援に来いよ。たく」
 ブチ、彼の上司は早口でそう捲し立てた後、こちらの返事を聞く前に内戦を一方的に切った。明らかに苛立った感じであった。
 はー、と男は大きなため息をついた。今までにないくらい大掛かりな対応になるかもしれないため、休日に呼び出しをくらう同僚も出て来るかも知れない。そうなれば、また同僚の視線が厳しくなることは避けられないだろう。彼は気持が後ろ向きになるのを感じながら、再度の大きなため息をつき、眉間にシワを寄せながら髪を掻きむしった。くそ、と彼は待合室の方を向きながら悪態を吐き出した。


「またややこしいのを見つけやがって、見つけちまったら対応しないわけにはいかないじゃないか。どうしてやつはあんな面倒くさいのばっかり見つけやがんだよ。無視するか、暇なときに摘発しろよ。ほんっと空気よめねえやつだよな」
 男は、同僚がそう陰口をたたいている現場を偶然聞いたことがあった。彼らが言わんとする意味は、通常メンテのみをきちんと行い、問題が表面化したところでオーナーから依頼を受ける形で問題を解決しさえすればそれでいい、という感じなのであった。この会社で行われている慣習も概ねそのような感じなのであった。
 もちろんマニュアルでは、男がしているように、水面下で問題を摘発し、それを迅速に解決するようにと書かれてある。しかし、それを言葉通りに解釈していてはとてもじゃないが仕事をまかないきれない。通常業務のメンテナンス作業に、どんどん舞い込んでくる改善プログラムの依頼。日々の業務は手当の着かない残業を強い、休日出勤を当たり前のように要請し、ひどいときには今回のように泊まり込みさえさせるのだった。そのため、多くの者は必要以上に踏み込んだメンテナンスをしたがらないのだった。所詮は人工物、どうせ壊れても修復は可能なのだという、そういった観念が親身な対応を倦厭させているのだった。
 そんな中でも、男は違った。彼のメンテナンスは、感情回路の抑制レベルを極力下げて行っている。通常のメンテナンスでは、五十%ほどの抑制レベルで行われているのだが、彼の場合は、三十%の抑制レベルなのである。マニュアルで認められている抑制レベルの下限は二十%となっているため、相当低いレベルであった。
 抑制レベルが低いほど、より感情の吐露が行われ、そして感情の暴走も発生しやすい。そのため、より繊細なやり取りが必要となり、少し間違えたら回路の不可逆的破損にも繋がりかねないという危険があった。それでも彼はその方法でメンテナンスし続けた。今となってはほとんど惰性となって続けている彼のポリシーであったが、そのレベルで行い始めた頃には確固たる信念を持っていたのだった。悩めるロボットを救いたいという、強い強い想いを心に抱いて、彼はカウンセリングを行っていた。

 男がロボット精神科医になったのは、子供の頃に一緒に過ごしたロボットとの思い出がきっかけであった。そのロボットは、RT-BEI(Real Time-Brain micro Electric current Instrument)リアルタイム脳微細電流観測装置による解析結果を元に作製された新世代AIを搭載したロボットが、市場に登場したばかりの頃の機体であった。そして、このロボットの最大の売りは、感情を伴った受け答えができる、ということであった。今までのAI理論とはまったく別の理論体系によって作製されたこのAIは、ほとんど人の頭脳回路と同じ形にプログラミングされていた。

 このRT-BEIという装置から得られるデータと従来の脳研究で得られていたデータとは、大きな格差があった。それは、得られるデータがDNAか、染色体かの違いくらい劇的なものであった。従来では、fMRIなどを使用して脳の血流動態から脳のどこの部分が機能しているかを類推したり、脳波検査などにより神経細胞集団の電気活動の総和を観察するところまでしかできなかったのだが、このRT-BEIでは、神経細胞単位の活動をその生体電流により経時的かつ三次元的に観測することができ、どのようなニューラルネットワークにより脳活動が行われているかを明らかにすることができたのだった。
 このニューラルネットワークの解析により、人の頭脳回路のメカニズムが少しずつ判明していった。人はどのようにして物事を考え、判断し、それを表現しているのか、その根源的なメカニズムが明らかになっていったのである。

 しかし、この研究解析はとても膨大な時間と費用を必要としたため、初期研究においては数人分のデータしか得ることができなかった。そのため、それを解析することによって作製されたAIは、その被験者の性格を色濃く反映したものとなった。それは良い意味で言うならば、とても人間臭いものであり、悪い意味では、欠点の多いものだった。そんなAIを搭載したロボットは、表情豊かな対応ができるものの、ストレスも人間並みに抱え込んでしまうという欠点があった。さらにそのロボットに求められる業務内容から、ストレスは常に溜まっていき、ついには精神病まで発生することとなった。
 この精神病というものが曲者であった。プログラムの根幹に植えつけられているロボット三原則プログラムにより、人間を傷つけてはならなく、人間の命令には絶対服従せねばならなく、なおかつ自分を痛めつけるようなこともできなかった。しかし、病に陥った思考はどんどんとそれに抗おうとし、そしてついには正常な思考を形成できなくなり、思考そのものを行うことができなくなってしまうのだった。
 この精神病を防ぐために作られたプログラムが、感情抑制プログラムであった。これが組み込まれることにより、過剰な感情の揺れ動きを防ぎ、極力ストレスを感じさせないようにさせたのである。また、定期的なメンテナンスを行うことにより、ストレスを除去できることも判明していった。そうやって改良されていくことで、ロボットはより利便性の良い物となり、次々と市場へ投入されていったのだった。

 男の家にいたロボットは、その感情抑制プログラムが三十%ほどしかかけられていない、しかもお下がりのロボットであった。その頃のメンテナンス費用は全てがオーナー持ちであり、しかも高額であったため、彼の家ではそのロボットをメンテナンスに連れていくことなどしなかった。また、新しいバージョンの七十%感情抑制が可能な感情抑制プログラムも作製されてはいたが、それも高価であったため、インストールされるようなことはなかった。以前勤めていた家庭で積み重ねられたストレスはそのまま引き継がれることとなり、また彼の家でもそれはさらに降り積もっていった。そんな状況だったから、ロボットが病むのにそう時間はかからなかった。
 ロボットは、少しずつ仕事が手に付かなくなっていき、そして遠くを眺めることが多くなっていった。話していても引きつったような笑顔しかできなくなり、そして寂しそうな顔ばかりするようになっていった。
 男はまだその頃十歳になったばかりであり、遊び相手を欲していた。彼には兄弟がおらず、また両親も共働きで、家では一人で過ごすことが多かった。そんな状況で家にやって来た同居人だったため、彼はしつこくそのロボットにつきまとった。遊んで遊んでとせがみ、仕事を邪魔しては困らせた。
 彼はロボットに肩車してもらいながら夕暮れの海辺を散歩するのが特に好きだった。いつもと違った視線で見る風景は、とても綺麗に見えた。何度見ても飽きない魅力があった。肩の上から学校のことなどを一方的に話す。それを相変わらず引きつったような笑顔でロボットは聞いていた。たとえその顔は寂しさに満ちていようとも、嫌な素振りはまったく見せなかった。いや、見せることなど不可能だったのかもしれない。そうではなく、それがロボットにとっても、いい気分転換になっていた可能性だってあったかもしれない。しかし、完全にAIが壊れてしまった今となっては、それもわからないことなのだった。
 だんだんとロボットは、眠るようにじっとしている時間を過ごすことが多くなっていった。あるときは、椅子に腰掛けたまま、そしてあるときは、ただじっと窓の外を眺めたまま、こちらが問いかけても答えてくれないことが多くなった。そんな状態に陥るようになって、彼の両親はロボットに仕事をさせることを止めた。もう壊れたものと扱うようにしたのだ。しかし、処分にもお金がかかり、こんな旧式をもらってくれるような知り合いもいないため、ずっとそのロボットは押入れに待機させられるようになった。彼はそれでもずっとロボットに話しかけ続けた。少しでもその悩みが解決されるようにと努力を続けた。そして、一緒に散歩に行ってくれるようお願いし続けた。
 ロボットは仕事がもう不可能な状態であったが、まだ散歩にだけは行くことができた。以前よりも遥かに遅いスピードで、頻繁に休憩を挟みつつ、虚ろな目をしながら歩いていた。それは、受け答えもできない状況だった。ただただ顔にあの笑顔を貼り付けたまま、ロボットはいつもの路を歩き続けた。
 彼はある日ふいに、ロボットの目にうつっているもののことについて考えた。以前よりはっきりと精彩を欠いたその瞳の奥にあるものについて心描いた。それは恐ろしい想像だった。とてつもない苦悩のようなものの存在を彼は子供ながらに感じ取り、そしてそれは、いくら自分ががんばったとしても、消えることがないということをわかってしまった。もう手遅れなのだということを知ってしまった。そして、彼は一緒に散歩に行くことを止めた。
 ロボットは、一人でも歩き続けた。もう彼が一緒にいないこともわからないようだった。しかし、その状態は長くは続かず、すぐにロボットは押入れから一歩も動けない状態となり、最後には電源も起動できない状態となった。完全なる沈黙。それはロボットがただのモノに成り下がった瞬間であった。彼はそれをみたとき、大粒の涙を流して、それを悲しんだ。それは、家族の一人が死んでしまったかのような気持なのだった。そして、それを救えなかった自分が、たまらなく悔しかった。
 そうして、彼はロボットAIについて勉強を重ねるようになり、そのメンテナンス方法について学び、ロボット精神科医となる道を選んだ。こんなロボットを救ってあげたい、もう二度とこんな結末を送らせたくない、それを心に強く刻みこんで彼は仕事に当たっていった。ただひたすらに、そのことだけを考え続けて、カウンセリングを行うようになったのだった。


 犬恐怖症の解決プログラム作製は、犬好きな人と犬嫌いな人が犬を見たときに見られるRT-BEIパターンの比較解析から始まった。男はそのデータが次々と上がってくる頃になってやって来た。彼はそのデータと、診療時に記録されたロボットの回路活性のデータとを見比べながら、恐怖に向かう感情を、喜びに向けることができるようなパッチの作製を手伝った。
 問題となっている箇所を修正するためにはどんな記憶が有効なのかを取捨選択し、エラーやバグが発生しないプログラム設計を様々なプログラムと照らし合わせながら見つけ出して行く。そして、そのプログラムがAI回路になじむかどうかを多角的な視点から判断し、そしてできあがったプログラム設計図をプログラマーに回して、彼の仕事は一段落した。ここから先はプログラマーの仕事であった。
 男達がその仕事を終えたのは、深夜を軽く回った頃だった。これから先は診療記録のまとめを行って、彼の場合は、犬恐怖症の報告書作成まで完了してやっと今日の業務を終了することができる。次の仕事までに二、三時間寝れたらいいところ、といった感じであった。
 男はやる前までは憂鬱な気分だったが、一仕事し終わると達成感のようなものを感じていた。自分が何かを成し遂げた、ということがたまらなく嬉しかった。明日はこのプログラムをテストしなければならないが、そのことも今は次の目標のようなやりがいのあることに感じていた。それは、今だけ感じるまやかしなのかもしれなかったが、それでも彼はこの仕事をしていて良かった、と思った。きっとこれであのロボットの悩みは解消される、苦しむこともなくなるのだ。そんな気持を抱きながら、彼は仮眠室で眠りに落ちた。

 耳障りな音が脳内に響き渡り、男はざらつく意識を覚醒させた。ガンガンするような頭痛を感じながら彼は重たい頭を上げた。彼はいつになってもこの目覚ましに慣れなかった。枕に搭載されている、脳内に直接覚醒信号を送り込むこの目覚ましは、確実ではあるが、恐ろしく目覚めが良くないものであった。眠りの心地良さから意識を引っ張り上げられるこの感じは、寒い日に厚着をして出歩いていたところ、急にゲリラ豪雨にあってしまうようなものと例えればいいだろうか。気持ち良さの分、気持ち悪さも比例するこれは、彼を最悪な気分にさせるのに十分だった。
 そのまま男はシャワー室へ直行し、身体を清めてから新しいスクラブに着替えた。そして、売店で朝食を買った後、すぐにメンテナンスルームへ向って今日の診療の準備にとりかかった。忙しい一日が、少しの休息の後に始まった。重い身体と頭を引きずりながら不快な気分を押し殺して彼はメンテナンスを続けていった。

「さて、うまくいくかな」
「こればっかりは、動かさないとわかんないからね」
「はは、これで駄目だったらまた夜越すぜ」
「そろそろ過労死するかもな」
「言えてる言えてる」
 そんな言葉が行き交う中、更新パッチをアップロードさせた犬恐怖症のロボットの起動が行われた。椅子に座った状態で電源が入れられ、徐に椅子から腰を上げていった。AIの立ち上がりには問題がないようだが、一番の難所はこれからだった。
 本物の犬を手配することはできなかったので、ホログラフィーによる3D映像により犬との接触を疑似体験させることにした。犬が擦り寄ってきたときの感情モニターの移り変わりを見て、喜びの感情パターンが出ていることを確認する。吠えさせてみたりしても、恐怖指数が異常値を示さないことや、それがだんだんと落ち着いていくことなどもモニターしていく。AI回路のラグなどがなくて、スムーズに動いていることもチェックした。様々な項目を確認したところ、どうにかこのパッチの使用は問題ないことが証明できた。これで今日の残業はなんとか少なくて済みそうであった。
「これでクレームが来るようなことは避けられたことでしょう。これから、このプログラムによる不具合などが報告された場合は、こちらお客様相談室係長の川上からみなさんに連絡するように致しますので、その場合はまた対応のほど、どうぞよろしくお願い致します。今日は本当にお疲れさまでした」
 川上と名乗った、トラブル相談窓口の責任者がそう言って頭を下げた。これからまた、不具合が連絡されるようなことがなければ、この症例の治療は終わりとなる。後の細やかな対応はすべてその窓口に一任する形となるのであった。お礼の言葉を一言も言われることもなく、男のカウンセリングは終了したはずだった。


 しかし後日、男はそいつをまたメンテナンスする機会に巡り合わせた。彼はAIメンテナンスプログラムを起動させて、そのロボットに問いかけた。
「それから犬は怖くなくなりましたか」
「はい、もう今じゃ犬が好きで好きでたまらないんですよ。いやー、犬の世話が出来るだけで幸せな気分になります。治療の方をしていただき、本当にありがとうございました」
「いえいえ、それは何よりです」
 そんな言葉を聞くたびに、男は背筋に寒いものを感じてしまうのであった。あのプログラムはそのロボットの性格そのものを変革させてしまったようだった。それによって、苦しむことがなくなったのだから、それは良い事のはずなのだが、しかしやってはいけない事をしてしまったような、犯してはいけないものを踏みにじったような、そんな罪悪感を感じさせるものがあった。それは倫理に反している行いのようであった。個性の変革、それはロボットとはいえ、許されざる事なのではないだろうか。そして、そんなことをした自分に、とても恐ろしいものを彼は感じてしまった。
 感情抑制レベルを八十%カットの状態に戻し、カウンセリングを終えた。その状態では、無表情のはずのそいつの顔が、なぜか笑顔を貼り付けたままであるように、男には感られてしまった。ニタニタ笑うその顔は、とても薄気味悪かった。目が眩むようむような感じを彼は受けた。そいつが退室した後、彼は顔を手で覆って、ガタガタと震えた。うずくまるようにしながら、彼はしばらくの間、震え続けたのだった。


 あるネットでの噂
名無しのロボットX :今使っているAIって、ほとんどもう人間そのものなんだって。だからあの感情抑制プログラムも、人間に応用できるんだってさ
名無しのアンドロイド:え、それってマジな話?
名無しのロボットX :マジマジ、なんか死刑囚とか終身刑の人達つかってさ、いろいろテストされてるとかいうよ
名無しのアンドロイド:うわー、聞きたくなかった
名無しのロボットX :もっと教えてやろっかw
名無しのアンドロイド:いや、遠慮しとくよ
名無しのロボットX :性格改変なんかも容易にできるらしいよ〜♪ パッチをあてるように、迂回路を形成させるような信号を送り続けたら新たな人格に変わるとかw
名無しのアンドロイド:えー、それってうそでしょ
名無しのロボットX :あくまで、噂、噂
名無しのアンドロイド:うさんくさい
名無しのロボットX :ま、いつか学校とかの入学条件や会社の採用条件に、パッチを当てなければならないとか、義務付けられるかもね。さてさて未来はどこへ進んでいくのだろうかー
名無しのアンドロイド:………
名無しのロボットX :ごめんごめん、全部作り話に決まってるじゃん。そんなこと、あるわけないじゃん

2011/01/15(Sat)01:47:46 公開 / 白たんぽぽ
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■作者からのメッセージ
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 明けましておめでとうございます。
 ここまで、読んでいただいてありがとうございました。初めてのSF作品だったのですが、どうでしたでしょうか。楽しんでいただけたでしょうか。
 今回は、自分なりのロボット像について考えて書いてみました。それと、精神病についての話もいつか書いてみたいと思っていたことから、こんな話になりました。精神病の中には、とてもロマンチックな病名とかありますよね。不思議の国のアリス症候群、とか特にそんな感じがするように個人的に思っております。そんな名前を見たりしているうちになんとなく興味を覚えてしまったのです。
 ロボットは面白い題材だと思っているので、また何かこんな感じのSFを書けたらなー、なんて考えていたりもします。一応続きの案もあることにはあるのですが、書くかどうかはまだ未定です。
 もし良ろしければ、感想いただけたらとても嬉しいです〜。ではでは。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。