『歪鬼』 ... ジャンル:ミステリ 未分類
作者:文矢                

     あらすじ・作品紹介
舞台となりますのは、歪鬼という妖怪伝承が伝わる雪山の山荘。登場するのは醜くも美しい、切断された死体。解決しますは、少々お喋りが多い名探偵。勿論、解決編の前にヒントは全て出されます。読者の皆様も是非、この奇妙な謎に挑戦してみてください――

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 登場人物紹介 ( )内は年齢

 鴨居 保彦(24)……和衣村出身者
 古淵 安江(24)……鴨居の恋人
 町田 高広(24)……鴨居の友人
 中山 信輝(24)……鴨居の友人

 長津田 剛太(56)……小屋の主人

 黒沢 信吾(26)……編集者。僕
 隣 彰吾(28)……私立探偵


「『ゆがみ』にゃあ、触れちゃならん」
 それが鴨居保彦の祖母の口癖だった。
 その『ゆがみ』とは何か幼く聞き返すと彼女はいつも同じ話を聞かせてくれた。
「『ゆがみ』っちゅうのは、歪んだ鬼さん、と書くんや。歪鬼……やっちゃんは、賢いから分かるやろう。それはそれは怖い妖怪でな、ほれ、お隣の横田さん家のお爺さん知っとるやろ。そのそれまたお爺さんの話や。その人はな、歪鬼に殺されてしもうた。そうやな、やっちゃん、ちょい待ちや」
 そう言うと、彼女は小柄な皺だらけの体を捻らせて、部屋の戸棚を漁り始めるのだ。彼はいつもその様子を、少し夢心地に眺めるのだ。しばらくして、戸棚から和綴じの日に焼けた本を取り出し、その中の一頁が慣れた手つきで開かれる。
「やっちゃん、よう見ときや。これが歪鬼や。これでゆがみ、と読むんよ。で、これが歪鬼の絵」
 そう言って指された所を見ても、彼が予想していたような恐ろしげな鬼の絵は書かれていない。ただ、縦に一本の線が引かれているのみだ。
「このな、線が、歪鬼なんよ。横田さん家のお爺さんのお爺さんはな、そん時家の座敷で書き物をしとった。しばらく書いてひと段落つけて顔を上げたんや。すると、ここにな、一本、線みたいのが見えるやんか。横田さん家のお爺さんのお爺さんはこれに触れてしもうたんや。ここらの人は勿論、歪鬼のこと知っとるから触りやせん。でもな、そん人はお婿さんでこっちに来ててな、知らんかったんよ。だから触れるどころか、腰まで入れてしもうたんよ」
 入れて、という表現に彼は微かな疑問を覚えたが口には出さない。彼の祖母の話は緩やかに続く。
「するとなあ、横田さん家に残ったのは腰より下のとこだけになってしもうたんよ。それより上は、歪鬼がいただいたんや。ぱくり、となあ。だから、末期の水やて飲ませられん」
 皺くちゃな口が大きく開かれ、彼の顔に唾が飛んだ。無垢な少年はそれは気にせず、ただ畳みの上に残ったその人の足や服を想像して震えていた。襖を開けたら、畳みの上に転がっているその肉塊はどのように見えたのだろうか。横田さんの家の人は、それを見て何をしたのだろうか。考えれば考える程、彼は恐怖に襲われるのだ。
「だからな、歪鬼にゃあ、触れちゃならん。やっちゃんの体も、食べられちまうんやから」
 彼の祖母はいつもそうやって話を締めくくった。


 1.

 その数分間はまるで物語の世界に放りこまれたかのように現実感が無く、僕自身がとった行動も夢の中の出来事を思い出すかのようで、うすぼんやりとぼけている。だけれども、一つのことだけはやけにはっきりと記憶に残っていた。
 それは、その部屋の真ん中に置かれていた彼女の死体だった。
 何か恐ろしいものでも見たかのように見開かれていた目と口に、乱れた髪。血の気が抜けてもまだ尖がっている鼻に、パラパラと崩れてしまいそうな長いまつ毛。化粧をしているのか、それとも、ただ血が抜けただけなのか、青白い頬。一つ一つのパーツは勿論、顔全体で見ても美しいとはとても言えない。醜悪、と言うべきだろう。これまた不気味な程に真っ白な首の下には、昨夜彼女が着ていた薄い茶のセーター。さらに下へと目をうつすが、下には何も無い。
 比喩でも、何でも無かった。彼女の下半身は、その場に存在していなかった。
 内臓だか、何だかは分からないものが何ミリか露出している腹はとても薄気味が悪く、数瞬も見てられるものでは無い。そして血だまりは恐ろしい程にどす黒く、僕の体に流れているのと同じだとはとても思えない。
 彼女の下半身は、何処に行ってしまったのだろう? ぼんやりと、そう思考したことも覚えている。そして、次に頭の中で続けたことだって、はっきりとしている。
 歪鬼に、食べられてしまったのだろうか――


 2.

 ――痛い。
 僕は体を震わせたが、それが痛さのせいなのか寒さのせいなのかは分からない。ただ、感覚としては寒さよりも痛さの方が勝っている。雪が突き刺さるようにという比喩をよく見かけるが、実際にそんな目にあったことは今の今まで無かった。本当に、吹雪というのは、痛いのだ。
 闇の中を白い雪が走るように動いている。スポンジのように水が行きわたった全身は信じられない程重く、一歩前へ進むだけで重労働だ。雪が積もりに積もった足下は底なし沼のようで本当に雪の下に地面があるのかと疑いたくなってくる。吐き出す息は真っ白けで空中で凍っていくようだ。何処へ向かっているのさえ分からず、僕はただ目の前の登山バッグを頼りにするのみだ。
「隣」
 僕は震えた声を出す。しかし、目の前の男は反応しない。
「おい、隣、隣。隣、隣彰吾」
 段々と声を大きくし、最後は叫ぶようにして僕は声をかけた。目の前の男、隣彰吾――読み方はちかきしょうご。隣でちかきと読む珍しい名字だ――に。
「なんだね、黒沢君」
 彼は振り返りもしない。声は叫んでいる様子も無いのに不思議とよく通る。
「今、何処に向かっているんだ」
「なんだい、そんなくだらない事か。そうやって叫んでいると体力を消耗するから気にしない方がいいぜ。方角は時々、確認しているから大丈夫さ。方向的には山を登っている形だね。そうだね。後もう少し歩けば、小屋か何かがあるところに出る筈なんだ。これで少しは落ち着いたかい。少しは五里霧中な気持ちも晴れたろう。ほら、行くぞ」
 隣は日常にいるかのようにペラペラと喋ると、再び無言となり歩を進め始めた。私は凍りかけの顔を歪ませながら、おとなしくそれについて行く。結局のところ、僕にはそれしか選択肢は無いのだ。
 風の音が段々と強まっている。雪は今にも体を貫きそうだ。
 そもそも、どうしてこんな目に合っているのだろうか。省みてみると、隣が僕を冬の登山に誘ったせいとしか言いようがない。突然に、和衣山という変な名前のこの山に登ろうと彼が提案したのだ。いつもの饒舌で知らぬ間に納得させられた僕も悪いが、そうやって誘っておいてこんな遭難しかけの目に合わす隣の方が圧倒的に悪い。和衣山なんて山、彼が誘わなければ僕は一生関わること等無かっただろう。そう思いながら僕は目の前の揺れるバッグを睨みつける。
 この男と知り合ってから、僕はろくな目に合っていないような気がする。元々、彼と僕は大学の先輩と後輩という関係だ。それだけなのに、何の腐れ縁か分からないが、彼が私立探偵というわけ分からない職業になり、僕が出版社に編集者として勤めるようになってからも交流関係が続いている。確かに、編集者という表現者の近くで働く仕事の僕にとって、私立探偵という珍しい職業の友人は役に立っているのかもしれないが、割りに合わないことが多すぎる。こうやって、命の危機にあったことも一度や二度じゃない。僕は小さく舌打ちをした。
 体がさっきよりももっと重くなっている。動くのが辛い。鼻の毛まで凍りそうだ。顔面には穴が空いているんじゃないだろうか。白銀の世界なんて美しいものじゃない。黒の中に白が飛び交っているだけで美しくも何とも無い。山を舐めていたつもりは無いが、ここまでとは思っていなかった。標高はそこまでも無い山だからという油断が何処かにあったのだろう。
 つい数時間前までは順調だったのだ。隣の饒舌はもう慣れっこなので、あまり気にせずにこの山の美しい冬の景色を堪能させてもらっていた。それなのに、いつの間にか降りだしたこの雪のせいで。こんな目にあってしまったのだ。僕は舌打ちをするが、雪の音でそれはすぐにかき消される。
 それにしても、もう何時間歩いただろうか。さっき隣に話しかけたのはどれくらい前なのだろうか。そんな感覚すら消えていく。ライト機能がついていない時計しか無いので確かめられないし、確かめる気も無い。半ばボーっとした状態で隣の背中を追い続けている。
 もう、限界かもしれない。
 そう思った瞬間だった。目の前の影が立ち止まり、僕の肩を叩いた。
「おい、黒沢君。見ろ、見たまえ。見えるかい、あれだよ、あれ」
 隣が指している先に、ぼんやりと黄色い明かりが見えた。


 3.

「本当に、本当に、ありがとうございます」
 僕は溶けていきそうな体を震わせて、低く目の前の彼に頭を下げた。心の中は感謝の気持ちでいっぱいだ。幾らしても足りないくらい。温かな部屋の中にいる、ということがどれだけ有りがたいことなのか、僕は今初めて知った。
「いやいや、そんな感謝されることでも無いでさあ。俺もねえ……様子を見に来たらここに閉じ込められたわけで。まあ、灯油とかあ、食いもんだとかはちゃんとあるから、そこは安心してくだせえ。しばらくここから出られんからね」
 この小屋の主人、長津田剛太はそう言ってヒゲの生えた二重あごと腹を震わせた。
 僕達が見つけた明かりは、この小屋のものだった。ベルを鳴らすと彼が出てきて中に入れてくれたのだ。泊めてくれることになったので有りがたい限りだ。僕は先に温かなシャワーを浴びてきて、隣が今シャワー室に入っているところだ。服は乾かし、念の為バッグに入れていた着替えを着ている。
「兄ちゃん達は幸せな方さね。何せ、ここに入れなきゃあ、そりゃあもう。春になってミイラか骨で発見されちまってましたよ」
「うわ……そんな、ですか」
「そんなですよ。冗談じゃないからね、あんた。毎年何人もが……この山ね、標高は低いでしょ? だけど遭難者が多いことで有名なんさ。で、発見されることも無い人がそりゃあ、もう。ここ二十年で出しゃあ、凄い数になる」
 そうなると、まさしく長津田は命の恩人というわけだ。有りがたいことだ。この家ごと揺らすような吹雪にまだ放り出されていたら、本当に死んでいたわけだ。凍死かもしれないし、何処かで落下して死んでいたかもしれない。
 命の恩人は、恰幅の良い中年だ。少し寂しい頭髪と、サンタクロースのように――といっても、毛は黒だが――生えたヒゲ。穏やかな目と、大きな鼻。全体的に、好感を抱かせる姿だ。着ている服はダブダブのセーターとズボン。身長は平均より少し小さめ、といったところだろうか。
「長津田さん、どうも有難うございます。感謝の気持ちでいっぱいですよ。それにしても、こりゃあ、山小屋という言葉は相応しく無いですね。ビートルズにアイドルという名を冠するぐらいに相応しくありませんよ。一つの家ですね。別荘、というべきでしょうか。長津田さんの持ち家とのことですが、そこらへんを少し詳しく聞いてみたいかな。まあ、それにしても私は感謝の気持ちでいっぱいですよ」
 そう饒舌を利かして隣が部屋に入って来た。湯気をあたりに撒き散らしながら気障な仕草で男にしては長めの、薄く茶色がかかった髪を拭いている。鷹のような鋭い目と尖った鼻も、さすがに今は幾分穏やかだ。服は大分ラフな感じにしている。この家の中では大分暖房がきいているからそれでも寒くは無いのだろうが。
「そうだなあ。別荘、と言った方が正しいのかもなあ。といっても、俺がそんな金持ちなわけじゃありませんがね。父の代の遺産さあ。こんな山の中に建てると来るのにも一苦労で」
 隣の言葉通り、ここは小屋と言うべきでは無いのかもしれない、と僕はふと思った。二階建てだし、まだ一階しか見ていないが部屋も幾つもある。家具は少ないが、シャワーや台所などもあるかなり立派な家だ。玄関から入ると、すぐに大きな部屋に出る。真ん中に長いテーブルが置かれていて、人が集まれるリビングだ。それを中心として、部屋があり、二階への階段もリビングにある。僕達が今いるのは一階の部屋の一つだ。
「ふうむ。そうですか。お父さんは良い買い物をしたと思いますよ。少なくとも、私と黒沢君にとってはね。ここが無かったら凍死するところでした。ギャグにもなりませんよ。黒沢君が死んだら会社の人が困るくらいでしょうが、私が死んだらそれこそ、多大なる損失です。まあ、そんなことはどうでもいいですね。そうですね、少し気になったことがあるんですが、良いでしょうか。長津田さんは、ここに定住しているわけでは無いのですよね。どうして、今日はここに?」
「今年はかなり寒さが厳しい冬になるとか今朝のテレビが言っててね。だから、その前に一回点検に来なきゃな、と思ったのでさあ。したら、雪が降りだすわ、吹雪だわで」
「成程。なんとも、御不運なことで。それで、ちょっと聞いておきたいのですが、今こうやってガンガンに暖房をかけていて、電気をつけてますが、大丈夫なんですかね。確か電線はひかれていなかった筈ですから、自家発電機か何かを使っているのだとは思いますが。暖房はガスかな?」
「ええ、発電機とガスボンベで賄ってます。発電機は裏の勝手口のところ。燃料だとかは一か月前くらいに全部交換していて、それから今日まで使って無いから大丈夫でしょうよ。水は川からひいているんだっけなあ」
 それだけ聞くと隣は満足したようで、頭を下げ、近くの椅子へと腰を下ろした。
「長津田さんはここらへんの山のふもとに住んでいるんですよね」
 僕は段々と自由に動くようになった指に喜びを覚えながら彼に尋ねた。
「ああ、そうですね」
「でも、和衣山のふもとって特に町みたいにはなってませんでしたよね。確か」
「だから、車で十分ぐらいは離れたとこだね」
「へえ……」
「何でも、昔はふもとに和衣村って集落があったんだけどね。つい十何年前かくらいに過疎で誰もいない廃村になったよ。うん、それについては詳しくは知らんけどね。俺は丁度、その時東京にいたんで」
「ああ、だから標準語なんですね。それにしても和衣村、ですか。ふむ、和衣山のふもとの和衣村。どちらが先に出来たのかは分かりませんが、何とも奇妙な名前をしているものですね。わい、となると英語のYを思い浮かべますが、それが関係無いであろうことは明確です。となると、どうして、いつ頃に、そんな名がついたのか……例えば、ここらは衣料品の産地だったのか。どうにも、そういう噂は聞いてませんね。和と衣という字の組み合わせもどうかと思う。となると、当て字に思えるのですがね。わい、わい、わい……はたして、どんな意味を持つのでしょうねえ」
 少し静かになったかと思ったら、また隣の饒舌が始まった。僕は常に、彼がこんなにペラペラと喋れることについて疑問を抱いている。頭で考えていることを全て口に出しているのだろうか?
 ふと、ガタガタと揺れている窓の方へ眼を向けた。外の吹雪は大分強まっている様子だ。この壁一枚の向こう側に、さっきまで僕と隣が歩いていた世界が広がっているのだと思うと奇妙な気持ちになってくる。
「俺もそんな由来は聞いたことが無いねえ。興味を持ったことも無い。わい……ん? 待て……歪曲、という言葉がありますね。わいきょく。歪む、というあの字はわいと読むね」
 突然に思い出したかのように、長津田が腹を震わせた。
「ええ、確かに。読みますね歪むで。それがどうしたのですか?」
 隣は目を鋭くさせた。しばらくして、長津田が言葉を続ける。
「ゆがみ、というのを……ご存じで?」
「歪み? その、何かが歪んでいる、というゆがみ、ですか」
 長津田が首を振る。
 ごうごうと、外から雪が吹き付けるようで、窓と共に建物も揺れている錯覚に襲われた。
「妖怪、ですね。ゆがみ、という……文字は歪む鬼、歪鬼、でさあ」
「ほう……それは、どういう妖怪なんでしょうか。歪鬼、字が変であれば読み方も変だ」
 隣は身を乗り出した。そして、長津田が静かに、言葉を続けようと空気を吸ったその時。この瞬間を待っていたかのように、玄関から誰かの怒鳴り声とベルの音が聞こえてきた。


 4.

「おや、何でしょうかね。雪女でも来訪したかな? しかし、時刻は午後五時過ぎ。ちょっと早いなあ。ロマンが無い」
 隣は時計を気障なポーズで見ると立ち上がり、長津田の方に目を向けた。長津田も立ち上がり、この家の玄関の方へと歩き出す。妖怪の話は何処かに消滅し、まだ聞こえる怒鳴り声とベル、そして吹きつける雪が壁を叩く音が僕の耳を支配する。
 長津田は少しゆったり、隣は軽やかなステップを踏みながら玄関へと進んで行く。僕は少し不気味なものを感じるくらいなのだが、隣は何も怖がっていないようだ。
 段々と、声ははっきりとしていく。複数人の声らしい。野太い声の中に、少し高い声が混じっている。僕が感じた不気味さも取っ払われた。開けてくれ、だとか助けて、だとか聞こえてくる。先程の僕達はベルを鳴らして少し声を出した程度で長津田が出てきてくれたのだが、この人達の時は話をしていた為に気付くのが遅れてしまったわけだ。
「ふむ、まさしく動物の叫びだな。人間というのは幾ら気取っていても、死という扉が見えると動物のように恥も何もかもかなぐり捨てる、という典型だ。黒沢君、私達も長津田さんが気付くのがちょいと遅れただけでこうなっていたかもしれないね。といっても、私は知性という人間にしか無い貴重なる物を最後まで守り抜くだろうから、動物と化するのは君だけか」
 隣はわけの分からぬことを喋くっている。長津田は少し慌てた様子でドアの鍵を開ける。そして、吹雪と共に四人、飛び込んできた。彼らは倒れるようにして、中の暖気を求め、長津田はすぐにドアを閉め、鍵をかける。隣は興味深げな目で彼らを見つめていた。
 四人とも、かなり――僕と同じか、それ以下――若い。男が三人、女が一人、といった具合だ。友達で集まって、という具合だろうか? 男のうち一人だけが、登山バッグも何も持っていないのが気になる。男たちの身長は大中小と綺麗に並んでいて、女性はかなりグラマーで肉感的だ。
「ささ、どうぞ。中へ。リビングはあったまっています」
「あ、ありがとうござい、ま、す」
 中の男が枯れた声で丁寧にお礼を言い、四人共よろよろ、といった調子で中へ入って行く。靴は乱暴に脱がれ、玄関が散らかるがこの場合は仕方が無いだろう。濡れた靴下でべたべたと足跡がつく。
「黒沢君、人のふり見て我がふり直せということわざがあるね。私が見た君はこの人達と同じくらいどうにも、情けなかったよ。ほら、見たまえ。君の靴もバラバラに脱がれているだろう? 私と長津田さんの靴を見れば違いがよく分かるさ。最後の最後まで、理性というのは捨ててはいけないのだよ」
 隣はそう嫌ったらしい饒舌をきかすと、玄関の靴を全て揃え始めた。僕はため息をつきながら、リビングへと向かう。隣の話は真面目に聞いてられやしない。
 中に入るとストーブ――リビングは中央にテーブル、玄関側から見て、テーブルの左側にガスストーブがある――の周りに登山バッグを背負ったままの四人の姿があった。長津田はその後ろに。女が「あったかい」だとか「ああ」だとか、感激の声を出し、それに男が少し無愛想に返す。彼らはストーブにかぶりついているようだ。隣の言葉を肯定するわけではないが、確かに何処か理性的では無く見える。
 外の吹雪はさらに強くなったように思えた。分厚い窓と壁を挟んでいるのに、建物全体が揺れるようだ。
「あ、ありがとう、ございます。や、やっと、少し、落ちつきました……」
 しばらくして、やはり中くらいの身長の男が礼儀正しく長津田や僕らの方を向いてそうお礼をした。それに他の連中も続く。この男が彼らのリーダー格なのだろうか。
「いいや、別に礼なんざ言われるこたあ無いでさあ。で、そこがシャワー室だから、早く浴びてきてくだせえ。脱衣所もあの扉の向こう」
 長津田はそう言いながら、先程僕らも使った玄関側とは真反対のその部屋を指した。
「あ、ありがとうございます。じゃ、じゃあ、まずは安江が入ってくれ」
 中くらいの男は女――安江という名前なのだろう――の方を向いた。
「え、ええ。で、でも、か、鍵かかります?」
 安江と呼ばれたその女は長津田へそうわけの分からない質問を飛ばした。
「そ、そりゃあ、もちろんかかりますよ」
 たじろぎながらも長津田は答える。
「おい、古淵、何くだらねえこと言ってんだよ。俺達が覗くとでも思ってんのか」
 大柄な男。女の名前は古淵安江、らしい。
 確かに、この状況で普通はそんなことを気にしないだろうに。古淵は少し不服げな顔を大柄な男に向けながら、自分のバッグを持ってシャワー室へと向かった。ガチャリ、と鍵をかける音が響く。
「す、すいません……ちょっと、彼女、そういう性格なんです……」
 中くらいの男は申し訳なさそうに言う。悪いのは彼では無いだろうに。
「そうだな、本当に。あいつは海に行っても水着にすらならないんだ。へそを見せるのも嫌だってか?」
「おい、町田」
「はいはい、まあ彼氏さんの前で彼女の悪口言うのはあれか。でもなあ、今のはねえ」
「ちょっと、まあ、そこらで終わりにしましょうか。それよりも、まずはそれぞれが自己紹介をするべきでしょう。名前! その重要性は皆さんもお分かりでしょう。我々が物事を判断するには、言葉が必要です。唯名論だとかの世界に踏み込もうとは思いませんが、名前が重要なことには変わらないでしょう。私はチカキ、となりと書いてチカキ。隣彰吾です。こちらは私の友人の黒沢信吾君。私達もあなた方と同じ遭難者です。そして、こちらがこの家の主人で我々の救世主、長津田剛太氏です」
 隣の長広舌に一瞬、場がポカンとなる。僕はよくこうも舌が回るなと感心をする。
「え、ええ、そうですね。よろしくお願いします。僕は鴨居保彦といいます。あの、さっきの彼女は古淵安江……僕らはこの四人で登山に来て、遭難してしまったわけです」
 中くらいの男はそう言った。先程の会話を見ると、鴨居と古淵は付き合っているらしい。黒い長髪で、顔は整っている。だが、いかにも優柔不断の優男、といったように見えてしまう。常に自信無さげな表情をしている。
「はいはい、俺は町田。町田高広ね」
 大柄な男が投げやりな調子で言う。彼が登山バッグを持っていない男だ。茶に染めた短髪で、四角い顔にニヤついた目とでかい鼻がのっかっている。学生時代は間違いなく運動部に所属していたであろう。
「俺は中山信輝です」
 最後に、小柄な男がそう自己紹介をした。もやしのよう、と言っては悪いが、それ以外に言いようが無い。くぼんだ頬と、深いくま。暗め、といった感じに見えてしまう。
 古淵安江は前述の通り、スタイルの良い女性で、顔もキツメの美人、といった感じだ。ストレートの肩まで伸びた黒い髪、尖った鼻と、見開かれた目。白い肌。そこから彼女の性格も推察できる。
「ふむ。皆さんは大体同い年くらいに見えますが、どうでしょうね。学生さんでしょうか。おっと、女性相手ではありませんが、まあ自分から言うのがエチケットですかね。私は二十八、黒沢君は二十六です」
「全員、二十四です。大学の頃からの友人グループみたいな感じです」
 鴨居はそう少し陰を持たせつつ笑った。成程、僕より年下か。
「ほお、そうですか。まあ、災難なことで。私達もこうも雪が降るとはね。地方的にはそう寒いところではありませんよね? この和衣山の辺りは」
「ええ、そうですね。特に寒いところでは無いです。雪もこうも降ったことはあまり無かった筈……」
 長津田が答える前に、鴨居が答えた。
「鴨居さん、地元の人ですか?」
「あ、いえ、今は違います。昔、子供の頃、ここに住んでいただけです」
「ほう、子供の頃……」
「ええ、東京に出て、今回は東京から旅行、というわけで……他の皆は東京です」
 部屋の湿度が少し上がったような気がする。彼らが入って来たからだろうか。
「そんじゃあ、何処で? もしかして、今俺が住んでいる所の近くで?」
「いや、違うと思いますよ。何せ、今はもう……」
「ということは、和衣村ですか」
 隣の言葉に鴨居は頷いた。
「変な名前の村と山だなあ、それにしても。和衣、和衣。つか、鴨居。お前、その事俺らに言っていたっけ?」
「覚えてないよ」
 町田は軽く頬を膨らませ、ボリボリと頭を掻いた。服はともかく、肌からはもう大分水分が飛んで、肌の色も赤を帯びてきている。僕と隣のシャワーを浴びて濡れていた髪も既に乾きかけている。それでも、雪の中にいるような感覚があるのは外からの音のせいだろう。まだまだ、揺れている。
 それからしばらくして、ダブダブのスウェットのズボンと茶のセーターを着た古淵がシャワー室から現れた。こんな状況で化粧でもしていたのか、もう湯気はたっていない。


 5.

 残りの三人もシャワーを浴び終わり、ひとまず区切りがついた。町田以外の全員が乾いた着心地の良い服で、落ちついている。リビングのテーブルの周りの椅子――左右に十脚ずつ木製のものが元からあった――にそれぞれが座っているのだ。
「お前らはいいよな、そうやって着替えられて。俺はパンツもズボンも靴下も、上も、これしか無いんだ。シャワー浴びている間ストーブの前に置いておいたのに全然、乾いていやしねえしよ」
「それは町田が登山用の荷物をなんも持ってこないのが悪いんでしょ」
 彼のぼやきに古淵がキツく答える。
「荷物を、何にも持ってこなかった、ん、ですか?」
 僕はさすがに驚く。確かに、和衣山はこんなことになるなんて思いもしない山だ。しかし、それでも最低限の荷物は持ってくるべきだろう。僕と隣は軽く予報を確認して、必要になるかもしれない、と着替えを持ってきたのだが。
「ええ、こいつったら持ってきてないんですよ。信じられない! しかも、泊まりの予定だったんですよ。泊まり」
「あのな、泊まりっつっても一泊だろ? そんなら別に着替えなんざいらねえよ。冬だから汗もそうかかないだろうしよ」
 古淵は露骨に顔を歪ませた。
「ふむ、服を貸してあげたいところですが、あいにくサイズが合いそうにありませんね。町田さんのサイズに合いそう、といえばまあ、長津田さんですが……長津田さんはそもそも、着替えを持ってきていませんね?」
「ん、ああ。そりゃあ、ね。来た時にゃあ日帰りのつもりだったからねえ」
「日帰りの筈だった。まあ、ここにいる全ての人がそうでしょうね。皆さんも泊まるといっても、ここから少しバスで行った観光地のあたりでしょう? 私と黒沢君はそのまま家まで帰るつもりでしたよ。まさしく、偶然の産物。神が起こした奇妙な出会い、というところです」
「そう思うと、運命的ですね」
 そう言う鴨居の顔には苦笑いが浮かんでいる。こんなわけの分からない男の話、真面目に返さなくても良いのに。隣は深くもたれ、茶色がかった髪を軽く掻いた。
「運命っつうのは頭の悪い女を誘う時に使うもんだぜ」
「何で私の方を見ながら言うわけ?」
 おどける町田を横目にしながら、その隣に座っている中山の方へ僕は目を向けた。さっきから見ていると、自己紹介の時やシャワー室に行く時以外、中山は一切喋っていない。その濁った陰気な目で、ぼんやりと空を眺め続けている。そういう性格なのだろうか。何にでも絡む町田とは真逆らしい。
 窓――改めて見ると、大分厚い。鍵も何やら複雑そうでどう開けるのか説明してくれないと僕には開けられそうにない――の外はもう真っ暗で、一メートル先すらまともに見られない。ただ、雪が降りつづけているだけだ。畜生、また強くなっていやがる。
「もう夜ですね……」
「ええ、そうですね。夜です。午後七時。夏ならば夕方といっても許されますが、あいにくもう許されません。確実な夜です。最近は午後四時半に鐘が鳴り、子供たちが帰りますからね。夕方がそのくらいだと考えてみると、それから二時間以上。間違いなく、夜です」
 隣は懐中時計――今時、そんなものを持っている奴がいるだなんて――を見ながらまた、そうやって長広舌をふるった。
「ああ、そうだ。部屋割りとか決めておこうか。別にここにごろ寝でもいいだろうが、お嬢ちゃんは嫌がるだろ」
 そう言った長津田の顔に一瞬、好色そうな笑みが浮かんだのを僕は何故か強烈に覚えている。そして、どうにもそれが嫌で仕方が無かった。人間の汚い部分を見てしまったかのようで。勿論、本人はそんなことも知らずに話を続けた。
「ここを中心として、えー、泊まれる部屋は全部で六つあります。分かっとるとは思うが、そこのドアは玄関への廊下のドア、その真反対はシャワー室。その横にあるのがトイレ。それ以外、六つのドアがそれぞれ部屋へと続くようになってるわけ。狭い部屋だけど、全部の部屋に暖房があるから安心してくだせえ。あいにく、ベッドは無いんだけども。毛布なら、おろしてないやつが十枚くらいあったんで、それで良ければ……で、この部屋はそこのシャワー室の隣にコンロと水道があって、二階への階段もあるわけで」
「二階には何が?」
「二階はただの倉庫。ノコギリだとか、色々工具が入ってる。それだけ。鍵はかかっとらんし、スペースはあるけど、倉庫で寝たいとは誰も思わんでしょ」
 長津田はそう言ってガハハと笑った。
「ふむ。そうですか、じゃあまずは部屋割りですが、何処の部屋も同じなんですよね? 六つ、となると相部屋になる人が何人かいますが、まあ、ここは私と黒沢君でいいでしょう。というか、黒沢君部屋なんかいるかい? このリビングでいいんじゃないかい?」
「ふざけるなよ」
「じゃあ、すいませんがお願いしますね。そこの……玄関から見て右側から町田、中山、僕、シャワー室とトイレ挟んで、安江という感じで……」
「じゃあその隣を長津田さん、さらに隣を私達で」
 部屋割りは案外簡単に決まってしまった。隣と一緒、というのがどうにも不服なのだが、それを言い出す気もでなかった。屋根の下に泊まれるだけで感謝をしておこう。
「……鴨居、宿の人に電話をしとかないと駄目なんじゃないか?」
 ここで中山が初めて発言をした。低い、かすれたような声。
「そうだな。帰れない、としないと……えっと、携帯はバッグの中か」
「そんなの圏外に決まってるじゃない、保彦。すいません、固定電話はあります?」
 長津田が玄関の廊下を指した。そういえば、そんな台があったような気もする。あまり覚えてないのだが。誰が言うでもなく、鴨居が立ち上がり、そちらへ向かう。その背中には何処か寂しげなものすら感じ取れる。随分と苦労をしているだろうな、と。
「電話、か。ああ、そうだ。俺もヒナコちゃんにテルしなきゃ」
「……ヒナコちゃん?」
「俺のコレ、だよ。コレ」
 町田は小指を立てて僕の質問に答えると、鴨居の後を追った。随分と親父くさいジェスチャーをする大男だ。僕は呆れる。彼女にそんな毎日電話しなきゃいけないものなのだろうか。僕は別に毎日連絡しようとも思わないし、今まで付き合った子達もそういう事を要求しない子達ばかりだったので、そんな気分が分からない。だからどうしても、今の町田みたいなタイプは遊び人に見えてしまう。
 遊び人――そう考えてみると、本当にこの四人は異質だ。苦労人の鴨居、ワガママ嬢古淵、遊び人町田、根暗中山……こんな四人組で、よく大学からの関係が続いているなと感心するくらいだ。
「それにしても、凄い雪だ。ひ弱な都会人の私はこんな雪、映像の世界以外では見たことありませんよ。一寸先は闇、とはこのことだ。本当に、一寸先に何があるのかすら分からない。一歩進めば、奈落の底かも」
「隣さん、ホントそうでさあ。谷やら崖やらはたくさんあるからねえ。ああ、そう、そこの……トイレの横、あん、嬢ちゃんの部屋の外が丁度崖でね。落っこちないように気をつけなよ」
「落っこちるわけないでしょ」
 ニヤニヤと、少しねちゃついた声を出す長津田を冷たくあしらう古淵。二人ともに、僕はまた嫌な感じを覚えた。ため息をつき、窓の外を見る。ガタガタと、揺れている。いつか割れてしまうんじゃないだろうか。
「ふむ、崖ですか。こんな雪の中で落ちたりなんかしたら、もうどうしようも無いでしょうね。雪が降っていなくても危ないだろうに、今この状態ならさらに、です。ケガをしただけで何とか生きていても、助けが来ない。即死の方がまだマシ、となるともう生きていて嫌になるでしょうね。気をつけましょう」
 隣は頭を掻く。
「即死の方がマシ、か。まあ、そうだな。ガンで苦しむくらいなら安楽死してくれ、って話もあるし。難しいところだな」
「難しいところ。はん、そんなことブラックジャックとキリコの時代のさらにさらに前からずっとあるぜ。森鴎外の高瀬舟よりさらに前。人類で罪というものが誕生してからか? 君はいつも難しいところ、とかいって思考停止をするね」
「いつも思うが、隣。お前は俺を馬鹿にしすぎだ」
「馬鹿に? いいや、ちょっとニュアンスが違うね。からかってるだけさ。あれだ、親愛の情の表し方の一つさ」
 隣のその言葉に、古淵が反応して、声を出して笑った。どうにも、その笑いも僕を馬鹿にしているようだ。
「宿の方、キャンセルしてきたよ」
 僕が何か言おうとしたその時、鴨居がそう言って玄関から戻って来た。すると――声は聞こえてこないが――今、町田がヒナコちゃんとやらに電話をかけているのだろう。


 6.

「そうだ、長津田さん。和衣村、和衣山という地名についての話の続きを聞かせてくれませんか?」
 隣がそう言ったのは、インスタント食品だらけのわびしい夕食の後だった。片付けを分担して済ませ、やることも無いのでここにいる全員がリビングにとどまっている時だ。雪はまだまだ降っていて、家も揺れているようで、クラシック音楽の代わりにそんな音がBGMとなっていた。
「ああ、何処まで話したっけ」
「そうですね、歪鬼という妖怪のところまで……」
 そう僕が言った時だった。向かいの鴨居の表情が変わった。驚きと、その他のよく分からない感情が混ざったような顔で、ぎこちなく凍っている。動きが止まった手に握られている空のコップ――食事の時に水を入れていた――が小さく震えている。
「おや、鴨居さん、どうしたのです。歪鬼と聞いて、驚いたようですね。ああ、そうか。もしかして、ご存じなのではありませんか? あなたは和衣村出身だと言っていましたよね」
 隣も彼の様子が変わったことに気付いたのだろう。調子を変えた鋭い声だ。
「ゆがみ? 俺は知らないな。鴨居、知ってんの? 説明してくれよ。妖怪?」
 町田の茶化す声。
 ガタガタと、窓が揺れる音が大きくなった。いや、そんな気がしただけ、かもしれない。ただ、僕には大きくなったように思える。ガタガタ、ゴトゴトと、あの分厚いガラスが風と雪で。
「あ、ああ……知って、るよ」
 震えていた。
「歪む鬼、と書いて、ゆがみって読むんだ。うちの婆ちゃんがよく話してくれたよ……」
 こわばった笑み。
「へえ、変な妖怪ね。ゆがみ、だけなら歪だけで十分じゃない。読みが。歪鬼、か」
 町田も古淵も、気付いていないのだろうか? 確かに、彼らは鴨居の横に座っているのだから表情が見られない。しかし、どうにも、信じられない。あまりにも変わりすぎて僕はわずかに恐怖を感じているくらいだというのに。
 窓枠が外れるんじゃないかというぐらいに、窓の揺れが大きくなった。ガタガタ、ゴトゴト。吹雪はさらに強くなっているようだ。
「それは、どんなことをする妖怪なのです?」
 隣。彼の質問の対象は既に長津田から鴨居にうつっている。長津田も鴨居に説明を任せた様子だ。隣の声は鋭く、まるで尋問をしているようだったが、意外にも鴨居はすぐに答えた。
「歪鬼、というのはやはりこの和衣村を中心としたところに伝わる妖怪の伝承です。妖怪というと座敷わらしだとか河童とかの遠野の妖怪をイメージするでしょうが、そんなメジャーではありません。多分、ここらだけに伝わる妖怪でしょう。歪鬼……婆ちゃんは、何度もこんな話をしてくれました。婆ちゃんはいつも、この言葉からその話を始めてたなあ。歪鬼にゃあ、触れちゃならん――」
 鴨居の語りは、そこから始まった。先程までの震えが嘘のように、それを話している時の彼の顔は穏やかだった。楽しげでもあった。歪鬼という妖怪は歪みそのものなのだ、という話。近所の人が消えてしまった話。猟奇的でもあり、童話的でもあるその物語。警句のような「歪鬼にゃあ触れちゃならん」という言葉。
 語りの天才、というものが世界にはいるが、彼も一種のそれだったように思う。彼のその話だけで、聞いたことも無かった歪鬼というその妖怪は鮮烈なイメージを持って僕の脳に刻みつけられたのだから。
「不思議な、話でしょう?」
「ええ、大変に奇妙な話でした。成程、歪鬼……触れたら食べられてしまう。体が分断されてしまう。子供にはショッキングな話ですね。もっとも、妖怪というのは子供へこういうことをしてはいけないという注意の意味ですることも多いですから、ショッキングな方が良いという面もあるでしょう。しかし、いや、何とも。歪みには触れてはならない、ですか。魅力的! 大変に、魅力的ですよ! 食べられてしまう。体が分断されてしまう! いやあ、素晴らしい!」
 隣は立ち上がり、今にも踊りださんばかりであった。鷹のようなその目は欄欄と輝き、手はお手玉を操っているかのように動き回る。僕がなだめなければ、本当にそこでマイケルジャクソンばりのダンスを一つ披露していたくらいだったろう。
「いや、成程ねえ。で、隣さん達。俺はねえ、この歪鬼の歪の字で、わい、でしょ? そこから和衣村、和衣山になったんじゃないかってわけでさあ。それにしても鴨居の兄ちゃん、うん、俺もそこまでは知らなかったよ。凄いねえ。」
「ええ、和衣村が基本的にこの話の舞台のようですからね」
「食われちまう、か。ふーん……」
 感心したような、呆れたような声を出す町田に対し、鴨居はあることを言った。
「僕はね、大人になってからこの話について考えたんだ。で、一つ思った。もしかしたら、歪鬼は食べるわけでは無いんじゃないかって」
「ほう、つまり?」
「その、食べるんじゃなくて、ワープですよ。ワープ。歪鬼は妖怪ではなく、一つの空間の出入り口、みたいな感じじゃないかって考えてみたんです。だから、歪鬼に触れてしまったその部分は、何処か別のところへ飛ぶんです。歪鬼に突っ込んだ腕は、きっと誰か他の人の腕になるんじゃないか。そこに飛ばされるんじゃないか、みたいな感じに考えだしたんです。そちらの方が、どうにも、魅力的でした。フランケンシュタインのような、つなぎ合わせ、のような。ロマンというか。いや、違うかな。恐怖も混じっています。怖いんです。それでも、それでも。そう、例えば話に出た横田さんの胴体だって……」
 鴨居の顔は、さらに変わっていた。恐怖は微塵と見られない。何かに酔っているかのような顔。陶酔しているのだ。彼は、歪鬼の幻影に。僕はゾクリとするものを感じた。そして、その時。唐突に、古淵が立ち上がった。
「私、もう寝る」
 怒ったようなぶっきらぼうな口調で、彼女はトイレの横の割り当てられた部屋へと歩き出した。乱暴にドアと鍵を――わざとらしいくらい大きな音を出して――閉めて。しばらく、僕らはポカンとしていた。
「はは、妖怪に妬いたんじゃなえの? あの女」
 町田がそう軽口を叩いたが、誰も笑う者はいなかった。


 7.

「鴨居さん、ギリシア神話はお好きで?」
 隣は気障にコップを傾けた。
「ギリシア神話……ですか。ええ、かじりましたね」
「あれは中々面白いですね。先程の歪鬼の話で思い出しましたよ。どの国の神話もそうですが、血縁関係がごちゃごちゃになるのが難点ですがね。それに、それぞれの神が何をつかさどるのかについても複雑です。そう……鴨居さん、ヘルメスは何の神だか分かりますか?」
「富の神でしたっけ」
「正解。富と幸運、ですよ。では、アフロディーテは?」
「……愛と美の神です」
 一瞬、鴨居の答えが詰まったが、すぐに答えられた。僕にはさっぱり分からないし聞き覚えの無い話だったので、素直にそんなことが分かる彼は凄いと思う。ヘルメスといったらブランド名しか思い浮かばない。
 それにしても、鴨居の表情がまた変わった気がするのは僕の気のせいだろうか? 少し深刻そうな顔になっている。隣の話のせいか、それとも古淵が消えたせいか。
「正解。よく分かりますね。さて、そんなギリシアの神々ですが、英雄と悪役を彼らは激しく行き来しますね。この話では彼は正義で、一方の話では悪などしょっちゅうです。それがまた面白い。そして、登場する化け物達も魅力的だ。さて、そこで考えてみましょうか。今回の歪鬼のような妖怪はそんな化け物と同じかどうか? 答えは限りなくノーです。歪鬼のようなタイプの化け物は主に民間伝承……つまり、庶民が作りだしたもの。だから、本当にいるのかもしれない、と思うのは私としては日本の妖怪なのです。というのは、浅学の私の意見ですから、あまり信用はしないでくださいね」
「何言ってるのやらさっぱりだ」
 町田は僕の気持ちを代弁しながら大きな声で笑った。釣られて、長津田も笑う。
「いや、しかし、大変貴重な話を聞かせてもらいましたよ」
「そう言う隣さんも随分と色々なこと知ってるね。聞いてると。職業は何ですか? 学者さん?」
「はは、そんなものじゃありませんし、先程の話もほとんどが出鱈目ですよ。職は私立探偵ですがね」
「探偵!」
 町田は大げさにリアクションをとった。それからその二人の間で話が盛り上がるが、僕はどうにも興味が持てず、それよりも古淵の部屋の方に視線を向けてしまう。
 彼女はどうしたというのだろうか? 急に怒ったように立ち上がり……どうかしている。何か気に入らないことがあったのだろうが、自分の彼氏やその友達、ほとんど初対面の人達に対してあの態度はさすがにどうかと思う。何の理由があって? どうにも分からない。分かりやしない。
 雪はさらに強くなったようで、建物全体を叩いている。明日に止んでくれるだろうか? この家にはテレビが無い。後でラジオを探すと長津田が言っていたが……
「あー、それにしてもムカつくねえ、あの女。古淵」
「おい、町田」
「いんやさ、皆もどうかと思うでしょ? あの態度」
「確かに生意気だねえ。あの嬢ちゃん」
 町田の陰口にニヤニヤと嫌ったらしい笑顔を浮かべながら長津田が答える。
「確かに、態度は良いといえないでしょう。しかし、見たところ彼女は生まれた時からあんな性格でしょうね。女性というのは大体二種類に分かれるものです。生まれた時から自分勝手な者と、生まれてから自分勝手になる者。彼女の板のつき方は前者です。だから、鴨居さんも分かって付き合ってるんでしょう。それにしても、陰口は感心しませんね」
「はっ、俺はあの女の前でもはっきり言ってやるぜ。それに、今も彼氏の前ではっきり言っているくらいだからな」
「あのなあ……僕だって、安江を愛してるんだから本当はお前にムカついてるんだぞ」
「……鴨居さんと彼女の付き合いは大学から?」
「え、ええ……」
 僕の質問に彼は恥ずかしそうにポリポリと頬を掻きながら答えた。
「大学、そう大学。俺達はあいつと大学からの付き合いだけどねえ。海にも何度も行きましたよ。それでも、あのガードの固さ! 水着姿になったことが無い! ナイスバディなのに。そしてあの高飛車な態度! 本当にムカつく」
 ふざけているのか真面目なのか分からない調子で彼は大柄な体を揺らす。
「いい加減にしろよ……」
 鴨居のため息。
「別にいいじゃねえかよ。それにこの和衣山に登ろうっつったのもあいつなんだよなあ。いや、和衣山とは指定しなかったけどよ」
「でもこの山は良い所じゃないですか。雪さえ降らなければ」
「そう。雪が強いですね、本当に……いつ止むのやら……」
「ああ、ラジオを探すの忘れてたなあ」
 長津田はそう言って、ドスドスと足音をたてながら上がって行った。脂肪のたまった腹を振るわせて。僕はその後ろ姿を何となく眺める。
「それにしても、なんだか……こんな状況なのに、皆落ちついてますね」
 ぽつりと、鴨居が呟いた。
「まあ、そうですね。理由は簡単です。命の危険を感じていないからですよ。何せ、あったかい部屋の中にいて、燃料も食料もある程度あると来ている。それならば、死の恐怖を味わうことは決してありません。二日や三日、ここにいたままでも何とかなるのですから。もし、これが誰もいない、寒い無人の山小屋でそこに私達が集ったのなら、パニックになったでしょうよ。しかし、今はなんとなく、ホテルにでもいるような気分になっている……」
 隣はつまらなそうにそう言うと疲れたような目で部屋の隅に目をやった。何も無い部屋の隅に。
「ホテル、ホテルねえ。確かに、そんな感じだな。ペンションみたいな?」
「布団は無いけどな。あ、そうだ……毛布も多分、二階にあるんでしょうね。ちょっと、長津田さんに言ってきます」
 鴨居は立ち上がり、二階へ向かう。気がきく、というか損な性格だ、本当に。彼がいるからこそ、彼ら四人グループはまとまっているのだろう。うるさい程ぺちゃくちゃと喋る町田と古淵、何も喋らない中山。彼はかすがいだ。
「……これじゃ、晴れても下山するのは危険かもな」
 僕は窓の外へ視線を向けた。雪は止むどころかどんどん勢いを増している。僕の生涯でこんなに雪を見たのは初めてかもしれない。
「雪崩とか起きそうで危ないな。救助を呼ぶか?」
「まあ、止んでから考えるべきなんでしょうが」
 そこで毛布を抱えた鴨居と長津田が降りてきた。
「ラジオはどうだったんでしょうか」
「それがなあ、見当たらなくてなあ……」
「ふむ、後でもう一回探すべきでしょうねえ」
 隣はそう言って二人が持ってきた毛布をポン、と叩いた。


 8.

 目を開けると、馴染みの無い木の天井が目に入った。一瞬、混乱し、それから今の状況を思い出す。そうだ、ここは家では無く、和衣山の中の別荘なんだ。落ちつくと僕は部屋を見渡した。僕が寝ている横に、隣が使っていたと思われる毛布が綺麗に畳まれている。彼は既に起きているようだ。
 僕達が寝ていたこの部屋に家具は一切なく、端にポツンと暖房があるだけだ。そのスイッチも切られている。隣がやったのだろう。大きく伸びをして立ち上がり、窓の外を見る。明るくなったのに加え、雪がかなり弱まっている。白い世界が広がってはいるが、明るい気分にはなる。
 昨夜、毛布を配分して――そういえば、古淵の部屋に誰も毛布を渡してこなかったが大丈夫だろうか? 暖房があるから凍死することは無いと思うが――その後もしばらく話をして解散となったのだ。僕は隣のうるさい話を無視しながら眠りについたわけだ。
 毛布を畳み、頭を掻きながら僕は外へ出た。リビングには既に二人いた。
「おや、黒沢君、三番目かい。私が起きた時はかなりボケた顔で眠っていたからもう一時間は起きないと思ったのだが、三十分後か。ほら、さっさとその顔を洗って来なさい」
「朝からお前は元気だな」
 片方は隣、もう一人は中山だった。二人がどれくらいの時間に起きたのかは分からないが、今までどんな話をしていたのだろうか? 隣は一人、演説をかましていたのだろうか? 疑問だが、質問する気も無い。僕はノロノロと洗面所――シャワー室の脱衣所のところにある――へ向かった。
 リビングへ戻ると、鴨居が起きていた。挨拶を交わし、彼は入れ換わるように洗面所へ入る。
「雪は大分弱くなったようだな、隣」
「ああ、そうだね。今日の午後には止むらしい。さっき、電話で確認したからね。こういう状況で電話がつながっているのはありがたい。そうなると、下山するとしたら明日になるかな……まあ、そこは話合いだろうね。この位置からなら私達の若い足なら二時間程度で降りられるかもしれないが、雪がこれ程積もっているからねえ。あ、そうだ。黒沢君、インスタントコーヒーを淹れてくれないか?」
「あいにく、何処に何があるのか分からないんだ」
 身勝手な私立探偵さんの要望は無視して僕は椅子に座る。昨夜とは違い雪のBGMが無いから誰の言葉も無いと恐ろしいくらい静かだ。
 鴨居が戻って来て数分後、長津田が起きてきて、人数分のインスタントコーヒーを淹れてくれた。目が覚めて、体もあったまっていくようで有りがたい。
「それにしても、すげえ雪だったなあ」
「……そうだ、ドア、ちゃんと開きますかね? 雪が積もってドアが塞がれているかも……」
「黒沢君、何をくだらないことを言っているのだね? 君はこの家に入る時に家全体が地面より何メートルか高くなっていることに気付かなかったのかい? 階段を上ったのを覚えていないのかい? こういう時の為にそうなっているんじゃないか。見たところ、今の積もり具合だとこの家の床と同じくらいの高さ程度までは積もっていないから、ドアは開くだろうね。ただ、それから移動できるかどうかは別問題だが」
 隣はコーヒーを飲み干した。成程、そうなっていたか。しかし、それだと雪に足が沈んでやはり動けないのでは? 何も持ってきていない町田程ではないが、そういう時に対応できる靴なんて無い。
「うは、おはよう。皆朝早いなあ」
 そこで町田が起きてきた。顔も洗わずに大柄な体を震わせて席に座る。
「別に早くないよ……一番早く起きたのは隣さん? 中山?」
「私だね」
 隣はいつの間にかおかわりをしていたコーヒーを啜りながら答える。
「私が起きてから少しして中山さん、その後二十分ぐらいでそちらの黒沢君、で鴨居さん、長津田さん、町田さんの順番さ。さて、残るは古淵さんのみだねえ。朝食は一応、全員揃ってからが良いだろうから、彼女が起きるまで待たなくてはならないということさ」
「ほんっとうに、迷惑な女だよなあ、あいつ。俺は腹が減って仕方ねえよ」
「この中で一番遅く起きたお前が言う台詞では無いぞ」
「別にいいじゃねえか。言論の自由だよ言論の自由」
 町田はそう言って鴨居のコーヒーを飲み干した。鴨居は呆れた調子でため息をつく。
 一時間程だろうか、そうやって僕達は雑談を交わしていた。しかし一向に古淵は起きてくる気配が無い。
「鴨居さん、古淵さんはいつも起きるのが遅い方で?」
「……いや、そういうわけでは無かったと……」
「昨日のままキレてるのか? 何でキレたんだか。無視して飯食おうぜ」
「今の時刻は九時半、まあ遅いとは言いませんが外出先と考えると遅い方ですね。彼女の意向を確かめて、朝食をとることにした方が良いでしょう。ということで、鴨居さん。呼んで来てくれませんか?」
 隣はパタン、と懐中時計の蓋を閉めた。鴨居は「そうですね」と頷いて立ち上がり、トイレの横のその部屋へと向かう。
「安江、起きてるか?」
 ノックの音に返事は無い。鴨居はノックの仕方を強め、声も大きくする。しかし、それでも返事は無い。
「こりゃあ、爆睡してるかマジギレのどちらかだな」
 ケラケラと町田は笑い、体を震わせる。長津田は下卑た面でニヤニヤしている。
「おい、安江、安江」
 鴨居は左手で頭を掻きながら、強くドアを叩いた。声もかなり大きい。しかし、それでも返事は無い。彼のため息が部屋に響く。
 力のこもっていない手で彼はドアノブに手をかけた。すると、ドアノブは小さく音をたてて、回った。
「え? 鍵が……」
 その言葉を聞いた時、僕は何やら不吉なものを感じたのだ。昨日、あんな状況でもシャワー室の鍵があるか聞いた彼女が、しっかりと鍵を閉めて部屋に閉じこもった彼女が、鍵を、かけていない――
 僕の横に座っていた隣も何かを感じたようで、姿勢を正した。目も鷹のような、鋭い目になっている。
「開けるぞ……」
 鴨居は小さく呟いてから、ドアを開いた。
 瞬間、彼の動きが止まり、小さく悲鳴が漏れた。
 立ち上がる僕と隣。僕らはすぐに鴨居の後ろに立ち、部屋の中の状況を確認したのだ。
 ――そして、僕の現実味の無い数分間が始まった。


 9.

「ひとまず、皆さんこの部屋から離れていてください。ショックでしょうが、落ちついて。私と黒沢君がとりあえず、ざっと調べてみます。大丈夫、私は慣れていますからね。ほら、黒沢君、何をボーっとしているんだ」
 僕の幻想的な時間は、その声で覚まされた。隣は白い薄手の手袋を僕に投げつける。自分は既にはめている。
「あ、ああ……そ、そうだな」
「気分が悪くなったとか言うなよ? 吐きたいのなら出ていってくれ。ただ、誰かを代わりにここに寄来してね。君は私の助手であり、私が変なことをしていないことの証人にもなっているんだ。ほら、冷静になって、客観的に眺めるようにしておくれよ」
 隣はこの事態にまったくもって動揺していないらしかった。とんでもない野郎だ。彼の目は獲物を捉えた鷹のように鋭い目で、いつもと変わらぬ口調のままだ。そもそも、こんな手袋何処に用意をしていたんだろうか。隣を馬鹿にするようないつもの気分でいると、僕もなんとか気を静めることができた。死体はまだ非現実的に見えていて、だからからか吐き気は湧いてこなかった。
 彼女の部屋は基本的に僕らの部屋と同じだった。ただ、暖房の他に家具が一つ置いてあることが違う。窓の下に小さな机が一つ、置かれているのだ。その上には彼女の手鏡と文庫本が一冊置かれている。ドア側に暖房が設置されていて、後は綺麗に閉まってあるバックのみ。そして、部屋の中央に彼女の上半身、といった具合だ。下半身は、やはり無い。豪雨の後の水たまりのように、血は床にたまっている。
 場をざっと確認してみると、僕の心はある疑問に取りつかれた。どうして、彼女の下半身がここに無いのだろうか、という疑問だ。
 やはり、僕の脳に浮かんでしまうのは昨夜の鴨居の話――歪鬼だ。空間に現れる歪み。それに触れると、触れた部分は何処かにいってしまう。それは歪鬼に食べられてしまったのかもしれないし、鴨居の想像のように何処かに飛ばされ、誰かのものになってしまうのかもしれない。その歪鬼が昨夜、ここに現れたのではないだろうか。寝転がっていたか何かした彼女は、それに気付かなかった。なんかの弾みで、触れてしまった。だから、下半身が消えてしまった……
 その光景は、実際に見たかのように鮮烈に僕には想像できた。茶色のセーター、ダブダブのスウェットを着た彼女は、怒りながら部屋の中にいる。持ってきた文庫本も読む気にはなれない。机の上に放り投げ、彼女は寝転がる。暖房はきかせてあるものの、床はひんやりとしていて寒い。しかし、今さら毛布をくれとリビングの者に言う気にはなれない。そうやって寝転がっているうちに、彼女の足元が歪んだ。彼女はそれに気付いたかもしれない。熱源があるわけでもないのに、ぐにゃりとねじ曲がって見える机の足。何だろう、これは、と足を伸ばし――
「間違いなく、彼女の体を分断したのはこれらだろうね、黒沢君」
「え?」
 はっとして、隣の指の先に僕は視線を向かわせる。そこには、血にまみれた二つの刃物があった。包丁と、ノコギリ。隣の体で見えなかったところに、丁度あったらしい。
「ぶ、分断したのって……え? ゆ、歪鬼じゃ……」
「歪鬼? 何を言っているんだ、君は。アホらしい。いいかい、まずこの包丁とノコギリを見たまえ。包丁にこびりついた肉片を、血を。犯人は肉をこの包丁で切ってから、ノコギリで骨を断ったわけだね。かなり冷静な判断だと言える。包丁だけだと骨を断つことは困難だし、ノコギリだと肉を切っているうちに刃が駄目になって骨を断てないかもしれない。本当に、冷静だよ。この二つがそのようにして使われたことは間違いない。歪鬼なんて入り込む余地は無いさ。それに、だ。彼女の死因は分断されたからじゃないことは明白じゃないか」
 彼は一瞬手に持った二つの刃物を床に置くと次に死体の顔の方へ向かった。さすがの隣も躊躇して、一瞬動きを止めたがすぐに冷静に、やさしい手つきで彼女の顔を掴む。
「まず、この顔。苦痛に歪んでいない。それだけでも、分断されたことが死因じゃないことは分かる。生きながら切られたら、それは地獄の苦しみだろうからね。では、彼女は何故死んだのか? 表情から見て、これは突然の死だったと思われる。そう……二時間ドラマみたいで陳腐だが、彼女の後頭部を見てみたまえ。陥没している。恐らくは、そこの机の角にぶつかったことによるのが原因だろうね。そして、犯人は彼女の死後に、彼女の体を分断し、下半身を何処かへ持って行った……これが事実だ。歪鬼なんて、何処にも入る余地が無いことは今の説明で分かったね?」
「じゃ、じゃあ……犯人は、何で、そんな、ことを? 机の角ってことは不慮の、事故だろうに……彼女の体を分断になんて……猟奇的というか、なんというか」
「それを考えるのはこれから、だ。考察は後からでいい。服は昨夜のままで変わっていないね。さて、下半身はどうしただろうか……恐らく、犯人は外へ捨てたんだろうが」
 彼は窓の方へと歩き出した。そして、机の上の文庫本に触る。
「はん、新潮文庫の星新一『マイ国家』ねえ。こんなもの読むようには見えないが、意外といえば意外だね。マイ国家か、この中で私のお気に入りは『儀式』だね。あれも一種の謎解きミステリーだ。さて、濡れている様子も無いのだが……後は手鏡、か。これもごく平凡なものだ。蓋の裏には鴨居とツーショットのプリクラか」
 隣はそう言いながら、窓を開いた。鍵を開けて実にスムーズな動作だ。窓の大きさは僕の肩幅より少し小さい幅で、縦は一メートル弱といった程度の窓だ。ここから、死体の下半身を捨てることは可能だっただろう。鍵を開けて実にスムーズな動作だ。僕もそちら側へ移動をする。すると、雪が軽く外から吹き込んできた。風も冷たい。
「ほう、見ろ、確かに崖だ。これは深いね」
「あ、ああ。そうだな……」
 窓の下には、地面がほとんど無い。少し目で地面を辿ったら、後は奈落の底だ。向こう岸まで地面は見えない。今、積もった雪が崩れ落ち崖へ消えていったが何の音もしないくらいだ。暗く、深い、崖だ。何処まで続くのだろう? ここに落ちたら間違いなく帰ってこれない。僕はゾクリとするものを感じ、視線を逸らす。隣もしばらくしてから窓を閉じた。
「おや、本が濡れてしまったね。新潮文庫の紙カバーは弱いんだよなあ。創元推理文庫の方がちょっとマシだけど、あれも紙だね」
 隣はぶつくさと言いながら一度掴んだ本を放り投げた。
「確かにそうだな。古本屋とか巡っていても古いそれらとなるとカバーは破けまくりだ。いや、昔は講談社とかも同じように紙だったけどさ。ただ、なあ」
「でも最近の講談社文庫は気に入らないんだよね。文字が大きすぎる。しかし、これであることが分かったね」
「……あること?」
「昨夜、この窓は開けられていない。一瞬、この窓から古淵の下半身を捨てたんじゃないかと思ったんだけどね」
「何故だ? お前はいつからシャーロックホームズになったんだ」
「観察をしてみたまえ。ワトソン君、君にはそれが足りない」
 観察と言われても、僕にはどうにもできそうにない。さっきから頭の中がごちゃごちゃだ。今でも心の何処かでは歪鬼が強烈な印象を持って巣食っている。昨夜遭難してここにやって来たことから何もかもがごちゃごちゃになっているのだ。
「いいかい、さっき窓を開ける前のことを思い出してみたまえ。この星新一の本は一切、濡れていなかった。それは良いかい? しかし、窓を開けると濡れた。これは当然だ。雪が降っているんだからね。さて、ここで考えてみよう。今ぐらいの雪でも中に入り、本のカバーを濡らしたんだ。昨夜の豪雪で濡れなかっただろうか? 風向きも何もかも、昨夜から変わっていない。濡れなかった筈が無いだろう。しかし、この本には何の跡も無かった。これは新潮文庫だぜ? 雪なんか降ってる中で窓を開けたら濡れて、今朝までにそれが乾いて変形してるさ。僕は旅行中、雨に濡らしてしまった新潮文庫を一冊持ってるけどね。次に、犯人がこの本をわざわざここに出した可能性はあるだろうか。死体を捨てた後に。それが考えにくいのは明白だし、アホらしいとしか言いようが無い。『マイ国家』が何のメッセージだというのだ。机の上からどかした可能性も否定できないが、死体を外に出す時に踏み台にする程度なら机から落とすまでもいかないだろう。以上の理由によって、犯人は窓を開けていないことが推定される。ほぼ確実さ。証明終了、クイーン風に言えばQ.E.D」
 隣はそう言うとやれやれとため息をついた。僕はどうにも馬鹿にされた気がいて嫌になる。確かに、今の彼の話は実に論理的だ。恐らくは正しいのだろう。それがまた悔しい。
「さて、次に調べるべきは……彼女のバッグの中だろうね」
 隣はそう言うと躊躇もなく彼女のボストンバッグを開いた。
「成程、よく整理整頓されているよ。ん、このビニール袋の中には他にも本があるね。『午後の恐竜』『妖精配給会社』『未来イソップ』……どれも星新一だ。彼女がその『マイ国家』の持ち主であることは確実だね。星新一が好きなようだ。懐かしいな、そういえば最近呼んでいない。今度読み返してみようか。他は服だが、何だ、彼女は何泊の予定だったんだい? こんなに大量に、ねえ。こりゃあ、誰も触れていないな。彼女の荷物に」
 隣は女性の荷物を見ているのに何の感情も込めない口調でそう言い終るとボストンバッグを閉めた。
「そして、だ。死体の分断は間違いなくこの部屋で行われたんだろうね。こんなに血がたまっている。なんとも、グロテスクだ。彼女の茶色のセーターもどす黒くなっているしな。とりあえずはこれで良いか……指紋だとかルミノール反応を調べてみたいところだが、あいにくその道具は持ち合わせていない……」
隣はそう呟くと、ドアを開いた。彼の一連の行動は恐ろしくスムーズで、理性的だった。そして僕は――彼に言わせてみれば――動物的な反応をしていたのだろう。
「黒沢君、君は足に血を一切つけてないね?」
 僕が部屋を出ようとした時、隣はそう問いかけてきた。僕は慌てて足の裏を確認する。血だまりは踏まないように気をつけていたので、ついてはいない。そのことを伝えると隣は満足げな顔をした。
「で、こちらの床も綺麗だ。本当に、綺麗なものだ。ちょっと、玄関で確認したいこともある」
 リビングでは鴨居達が何かを聞きたそうな顔をしていたが、隣はそれを一切無視して玄関へと向かった。隣が床とうるさいので僕も床を見るが、血痕などついてはいない。一切、だ。玄関も同じく。
「黒沢君、この靴を見てくれ」
「靴?」
 玄関に着くと、隣はそう言って僕に目の前の光景を見せた。そこには、ぐちゃぐちゃにされて、ずぶぬれになっている僕らの靴があった。隣のも、僕のも、誰のも例外では無い。この家にいる七人分、全員の靴が濡れている。
「これは雪か何かで濡らされたわけだね。しかも、私が丁寧に整えてやったというのに、こんなにグチャグチャになっている! ああ、なんて酷いことを! さて、これで私のさっきの説は補強されたようだ。犯人は、玄関から出た。死体の下半身を捨てに行く為に。窓からでは無い。それはもう、確実だ。そして、誰が出たのかを隠すために、濡れていたのが犯人だと分かってしまうからね。こういう工作をしたんだ。一応、家の中を捜索して彼女の下半身が無いか調べてみるが、見つかる可能性は無いと思うね」
 隣は――こんな状況下で!――満足げな表情を見せるとくるりと後ろを向き、リビングへと歩き出した。
「さて、皆さん、お待ちかねでしたでしょう。これから、今の状況を説明いたします」
 隣はそう言うと大げさな身ぶりをして話し出した。


 10.

「やはり、やはり、や、やはり、や、や、安江は……」
 鴨居の体と声は、震えていた。信じられない、といった何処かぼんやりとした眼。相当なショックだったであろうことが窺い知れる。安江は、の次の言葉を彼は中々発さない。隣はごく平然とした、感情のこもっていない顔で鴨居のその様子を見つめている。
「ゆ、歪鬼に、古淵は歪鬼に、やられたというこ、ことで、ですね」
 中山が細い体を震わせながら言う。この男が発言したところを僕は久々に見た。
「いや、そうではありません。中山さん、今の話を聞いていましたか? 間違いなく、古淵さんは殺されたのです。人間に、です。に、ん、げ、ん、に。歪鬼などいう妖怪が出てくる筋合いはありません」
「だ、だが、隣の兄ちゃん、お、おかしいだろう。人の体を、真っ二つに、だ、な、な、んて」
「ええ、その理由は問題です。大変なる、ね。ああ、そうだ。忘れていました。長津田さん、ちょっとついてきて下さい。包丁とノコギリがこの家にあったものかどうかを見てもらいたいのです」
 隣はそう言って、おどおどと腹を揺らしている長津田をさらうように死体の部屋へ誘い入れた。
「体を、真っ二つ、か。はは、マジにそうだったんだな。さっき、少しだけ見たけどよ」
 町田も多少は動揺している様子だった。でかい体を僅かに震わせている。
「歪鬼、歪鬼、歪鬼……」
「おい、中山、やめろ」
「歪鬼、歪鬼、歪鬼、歪鬼、歪鬼……」
 鴨居の言葉も聞かずに、中山はただひたすらその名を呟いていた。彼の心は、とらわれてしまっている。歪鬼という妖怪に。さっきまでの僕のように、今はそれしか考えられないのだ。確かに、信じられるわけが無いと思う。人の体が、しかも彼らにとっては長年の友人が、体を真っ二つにされて死んでいる。それは人間じゃない何かがやったと現実逃避したって仕方が無い状況ではあるのだ。
 丁度、そこで顔色を変えた長津田と隣が部屋から現れた。
「やはり、ここのものらしい」
 隣はまず、台所へ行って包丁のある場所を確認し、長津田を連れて階段を上って――恐らくは、ノコギリのあった場所を見に――しばらくして下りてきた。
「さて、包丁もノコギリも、私達は簡単にとることができた、ということも証明されました。夜に上に行っても、気づく人はいなかったでしょうしね。包丁だってそうです。そして、私達は全員、上に工具があることも知っていました。そのことについては確実です。昨夜の話で出てきましたからね。そこから誰かを特定することはできません。後、上の倉庫から何のものも盗まれていないことを長津田さんが証明してくれました。棚の中にあったごみ袋まで無くなっていませんでしたよ」
 隣はそう喋りながら、席に着いた。
「安江は殺されていた……後頭部をぶつけて、で、その後に体を切られた……そういうこと、なん、です、ね?」
「ええ、そうです鴨居さん。辛いでしょうがパニックは起こしてもらいたくない。ここはなるべく、冷静にいきたいところです。そうではありませんか?」
「あ、ああ、ギャーギャーと、騒ぐのは、な」
「では、まず皆さんに一言、呼びかけたいと思います、犯人の方、どうか名乗り出て下さい」
 ――誰も、手を挙げたりだとかをしない。
 隣はその様子を見て頭を振り、ポリポリと額を掻いた。
「名乗り出て、くれないようですね。ならば、仕方がありません。しかし、放っておくことも私達にはできないのですよ。今から警察には通報しますが、警察が来るまでにはかなりかかることが予想されます。その間に、殺人犯がこの屋根の下にいるとなると心の平静に関わりますからね」
「さ、殺人犯って……そうだ、兄ちゃん、事故の可能性はこ、頭を転ぶか何かして……」
「あるでしょうね。私も傷のつき具合から不慮の事故である可能性は高いと見ています。しかし、今回は異常です。下半身が切られているのです。皆さんも分かる通りに、これは非常に猟奇的です。殺人犯、といっても構わないでしょう。死体が勝手に自分の体を切るなんてことはできっこないのですからね。誰かの手が介入して、彼女を殺してしまった。そして殺した男は彼女の体を切った。では、その彼とは誰なのか、という問題なわけです。彼が間違いなくこの中にいる、というのも説明しなくて良いですよね? それではまず、長津田さん、通報を」
 クローズドサークルもののミステリでありがちなように、電話線が切られてはいなかった。長津田は警察に事情を説明し、そう早くは行くことができないという情報を静かに伝えた。隣は分かりきっていたことのようにその情報を流し、話を続けた。
「それでは、警察が来るまでに情報をなるべくまとめておくのが私達の役目であることは良いですね? 皆さん、昨夜のアリバイはあるでしょうか。もしくは、昨夜何かに気付いた人。何でもいいので、どうぞ」
「そんな、アリバイなんてあるわけねえだろ。俺達は全部、バラバラの部屋で寝ていたんだからよ。例外は隣さんと黒沢さん? だけどさ、あんたらも片方が寝ているうちに片方が出ても気づかないだろうし、どうしようもないって」
「ええ、町田さん。その通りです。他、誰か意見などは? ありませんね。では、次に、古淵さんを憎むような動機がある人は、ということにうつりましょうか。勿論、これは場が荒れること必至な話題でしょうがね。なるべく、冷静にお願いします」
 そう言う隣の顔には人を小馬鹿にしたような笑みが浮かんでいた。
「動機、ねえ。そりゃあ、一番近かった鴨居だろうな。俺は歯に衣着せぬぜ? 鴨居、本当はあの女にイラついていたろ? あんな自分勝手な奴だもんな」
「ふ、ふざけるな、町田!」
「そうだ、後さ、あの野郎が部屋に受け入れたってのも怪しいよな。鍵を開けて」
「そ、そんな……!」
「ふむ、中々面白い意見ではあると思います。的を得ているような部分もありますね。しかし、彼女が部屋に入れさせた、というのを一つの根拠にするのはどうでしょう。そりゃあ、あの時の彼女は部屋に誰もいれないような様子でした。しかし、多少口が回る人ならば彼女に部屋に入れさせることは可能できたでしょうよ。口実はいくらでもあげられますし、「毛布を渡しに来た」とでも言えば一発です。その程度で、犯人特定とはいたりません」
 激昂しそうな鴨居とは違い、隣はかなり冷静に意見を言っていた。
「な、成程、隣さん。さすが私立探偵……」
「それにだ、町田。動機ならお前にだってあるじゃないか。お前が安江を嫌っていたのは誰の目にも明らかだ……」
「あ、そ、そりゃあ、まあ、な。で、でもよ、古淵にイラついていたのは俺だけじゃないぜ? 中山だってイラついていた筈じゃないか。あの女は散々に、人を馬鹿にしていたからな!」
 そう指された中山は、何も反応をしない。ただ、その陰気な顔を下に向けて、ひたすら歪鬼と呟いている。取りつかれている。歪鬼の亡霊に。
「ふむ、あなた方全員に動機はある、と」
「いいや、ま、待てよ。俺達だけじゃないぜ。ああ、そうだ。動機というか、殺すまでの流れなら長津田さん、あんたにだって思いつく! あんた、古淵をいやらしい目で見ていたよな。おっさんらしく。それで、口八丁で古淵に部屋のドアを開けさせた。そして、中に入り込み、犯そうとしたってのはどうだ! レイプしようとしたんだ!」
「な、何言いやがる」
「言いがかりでも何でもないじゃないか。ああ、そうだ。それなら、全部説明がつく。どうして古淵の下半身を切ったのか。そりゃあ、あんたが犯して、果ててしまったからだ。精液からDNAかなんかで判定できるんだろ? そこであんたはあいつの下半身を切って隠すことによって、それを逃れようとした! ああ、そうだ。そうに違いない。どうだい、隣さん」
 町田は自信ありげだった。長津田はわなわなと怒りに震えている。そして、僕としても一瞬、彼の意見に納得しかけた。特に、どうして下半身を何処かへやったのかという理由づけとして秀逸だ。精液を、摘出されたくなかったから。
「面白い意見だとは思いますよ。しかし、です。精液から判定されるのが怖いのであれば、下半身を切るなんて面倒なことをしなくても良いでしょう。性器だけを切り取れば良い。性器のみを切り取る、というとあまりにも異常ですが、猟奇犯罪にはよくありますね」
 彼は、実に平然としている。何処か、達観している。
「いや、確かに、そうですが……慌てていてそこまで考えられなかった、という可能性もあるでしょう? そうです。今、あなたと黒沢さんは容疑者外にいるようですが、あなた達だってどうしようとしたかは分からない。町田の今のレイプしようとした、という意見はあなた達にだって当てはまるっちゃあ当てはまりますよ」
「ええ、私も黒沢君を容疑者外とはしませんよ。さて、他に意見は?」
「知らないね! それにしても、気違いの犯行だってことは俺にも分からあ。人の体を切り取るなんてよ。狂っちまってんだ」
 投げやりに長津田は腹を震わせた。
「……それも、良い意見だとは思いますよ」
 隣のその冷たい返しで、場の温度が一気に冷えた。しんしんと降りしきる雪の音が今にも聞こえてきそうなくらいの静けさが場に現れた。
「ひとまず、解散といきましょうか。皆さん、自分の部屋へ。昼食をとろうとも思わないでしょう。なるべく早く、警察が来てくれると良いのですが……」
 隣はそう言うと一人、立ち上がって自分の部屋へと歩き出した。


 11.

「……隣、皆、部屋に戻ったぞ」
 僕はそう言って自分達の部屋に帰った。静かとはいえ、険悪なムードだったので、僕は殴り合いでも起きるんじゃないかと内心ビクビクしていた。幸いに、喧嘩は起こらなかったが、誰もがバタンと大きな音でドアを閉める状況だった。
「ああ、そうかい。黒沢君、一つ頼みがあるんだが……」
 隣は懐中時計を取り出した。
「頼み? 何だ?」
「今から二十分したら、私が呼び出す人をここに連れて来てくれないか? なるべく、静かに、他の誰にも気づかれないように頼むよ」
「そ、それは……待てよ、何だ、その言い草、まるで、そいつが……」
「ん? ああ、それはこの事件の犯人だよ」
 ケロリとした顔で隣は言い、懐中時計を僕にパスした。
 この事件の犯人? 隣は、もう、分かったというのか? さっきまでの話合いやら、調査で、全て分かったとでも? 信じられない! 僕はそう叫びたかった。しかし、声には出さない。いつもの経験で分かっている。彼は、分かっているといったら分かっているのだ。
「私には全て、分かっている。ほら、三十分だ。そう厳密に守らなくても良いが、ちゃんと時計を見ててくれよ。ああ、今から十分程度、私は部屋にはいないからね。三十分まではこの部屋でゆったりしていていいよ」
 そう言う隣は何故だか、少し憂鬱そうだった。


 12.

「黒沢君、ありがとう。では、ちょっと、そこへ腰を下ろしてくれますか? 椅子も無くて申し訳ないのですが……ちょっと、ね。あなたに話をしてみたかったのですよ」
 隣がそう言うと、彼は部屋の壁にもたれかかるようにして腰を下ろした。
「それでは、始めたいと思います。私なりに、この事件について考えてみたのですよ。まず、この事件で一番強烈なことは何でしょうか。それは、死体の切断であることは言うまでもありませんね? ええ、古淵安江は何故、上半身と下半身に分断されていたか。しかし、それについて考えることはあまり得策では無い。そう思いませんか? 何故なら、ありとあらゆるパターンが考えられるからです。先程のレイプをしたから精液を採取されない為、というのも論理的な意見です。気違いだったから、というのもある種の説得力はあるでしょう。他にも、逆にナイフや包丁に血をつけたかった為、というのだって良い。別な理由でついてしまった自分の血を誤魔化す為、だとかね。皆を怖がらせる為、だとか。歪鬼に見立てて場を混乱させる為、だとか。あまりにも多くのパターンが考えられます。だから、私は思うのです。それについて考えることは無意味だとね」
「無意味?」
 彼が言う。
 僕も同じ質問をしたい気分だった。無意味、だというのか。それについて考えることが。あれ程に、僕や中山の心を捉えた歪鬼がやったかのような犯行状況。それについて考えることが、無意味だと? そう言いたいのを僕はぐっとこらえた。今は、隣と彼の時間だ。
「だから、私は一旦切り捨てるのです。では、何から考えましょうか。例えば、どうして彼女は犯人を部屋に引き入れたのか、だとか? しかし、それについても無意味です。先程言った通り、まさか殺されるなんて考えていないのだから、誰だって入ろうと思えば入れたことは間違いありません。他に、科学的な捜査が出来ない今では現場からそこまでの証拠を見つけることはできません。指紋もとれませんしね」
「なら、どうやって考えるんだ。隣」
 思わず、声を出してしまった。隣はそれも冷静に受け流す。
「黒沢君、そう、どうやって考えるのか。例えば、こんなことからではどうだろうね。どうして犯人は、窓から死体の下半身を捨てなかったのか。犯人が死体の下半身を玄関から出て捨てたのは明白です。ああ、黒沢君が呼びに行く二十分以上前に、私があなたの部屋を訪れたでしょう? あれは一応、死体の下半身が無いかを確認する為でしてね。全ての部屋を調べましたが、この家には無いという結論に達したわけですよ。だから、玄関から犯人は死体の下半身を捨てた。それは何故か?」
 隣はギラリと、その目を光らせた。
「窓から捨てた方が良いのは明らかですよね。だって、窓の外は崖なんですから。崖の奥底へ捨ててしまえば、グチャグチャで、隠せます。外に出て、遠くに捨てるのよりもよっぽど簡単でしょう? なのに、犯人は何故そうしなかったのか。これはとっかかりになりそうです
「まず、犯人は窓を開けられなかった。この可能性はどうでしょうか。まず、窓の開け方はどうでしょう。これは誰にでもできます。簡単ですよね、窓を開けるなんて。だからその理由も無し。手が震えて開けられなかった。いいや、これは考えにくいです。窓を開ける用事が出来る頃には犯人は死体の解体を終えているのですよ。今さら何が? 犯人は手がふさがっていた? 何で? それは無い。ですから、窓を開けることができなかった、というのは無いでしょう。
「次に、犯人は雪で濡れたくなかった。これも無いでしょう。犯人はそれから最も濡れる選択をしています。外に出たんですから。服も相当濡れていることでしょうが、まあ暖房とかである程度乾かしているとは思いますから今、それを確認しようとは思いません。皆、昨日ここに来るまでで大分濡れてますからね。ある一点を超えたらそういう区別はつきません。だから雪で濡れたくなかったというのもアウトです。
「それでは、何故? 私はあることを考えてみました。犯人は、窓を開けて外に捨てるよりも玄関から出た方が楽だと判断したのです。それは何故か。考えられるのは一つだけです。犯人は、窓の外に崖があることを知らなかった。だから、窓の下にはやはり地面がずっと続いていて、窓から投げ捨てるだけだとすぐに下半身は見つかってしまう。犯人は何らかの理由でどうしても下半身を人に見られないようにしなければならない。だから、玄関から出た。窓は死体は通るだろうが、自分が通れるとは思えないと判断した。これならどうでしょうか? 説得力あると思いませんか?」
 彼は、何も言わなかった。しかし、僕には彼の手が震えているのが見えていた。
「さて、犯人は窓の外に崖があることを知らなかった。あり得ることでしょう。犯行後の土壇場に犯人が崖があることに気付いた可能性も少ないと思います。何せ、窓の外は闇です。闇の中に崖の闇があることを判断することは不可能です。さて、その崖を知らない、そんな人物はどれだけいるでしょうか? まず、窓の外に崖があることを知っていたのは? 長津田さんは間違いなく知っていました。この家の主人なのですからね。そして、ここに初めて来る私達は知らないことになります。しかし、私は死体を発見した時、崖があることを知っていました。何故か? 長津田さんが教えてくれたからです。いつ? それはリビングに皆が集まっている時でした。そう、丁度、鴨居さんと町田さんが電話に出かけていた間でした……私、黒沢君、中山さんは、その時に彼女の部屋の外に崖があることを知っていたのです。だから、容疑者は一気に絞られます。鴨居さんと町田さんのどちらかです。というのは、どうでしょうか?」
 ゴクリ、と僕は唾を飲み込んだ。一瞬、僕は隣に圧倒された。その論理的な道筋に、だ。震えるものを感じたのだ。
「さて、これで一挙に二人に絞れました。では、そのどちらが犯人でしょうか? さて、ここであることを考えてみましょう。犯人は死体の下半身をどう運んだでしょうか? そこで、犯人の行動を想像してみましょうか。犯人は、古淵を殺してしまった。その死体がその場に投げ出される。彼は慌てます。そして、ある理由から上半身と下半身を断たなければいけないことに気付きます。彼は台所から包丁、二階からノコギリを持ってきて、分断しました。この作業はもしかしたら全裸でやったかもしれません。服に汚れをつけたくはありませんからね。何とか分断できた。次は捨てなければならない。彼は、今の服を濡らしたくないので昨日山を登っている時に使った服を使う事にします。町田さんは持ってませんから、そのままですがね。では、死体を運びます。さて、その時、犯人は下半身をそのままで運んだでしょうか?」
 彼の体が、ピクリと反応をした。そして、ブルブルと震えだした。
「そうでないことは、現場が示しています。だって、床に血の跡が無いんですから。一切の血の跡が、床にはありません。犯人は、自分が持ち運びやすいように何か袋に入れたのです。そして、その袋は犯人自身のもので無くてはありません。彼女の荷物は荒らされていなかった。上の倉庫のごみ袋も元のまま、となれば犯人が袋を調達できるのは自分から、しかないのですから。良いですか。犯人は、自分で何かの袋で死体の下半身を運んだのです。では、ここで一つ思い出していただきたいことがあります……町田さんは、自分の荷物が一切無いのです。それは、何を指しているのか分かりますね?」
 隣はそこで、一呼吸置いた。そして、静かにその言葉を伝える。
「鴨居さん、あなたしか犯人の条件に合う人はいないのですよ」


 13.

「は、はは……僕が犯人? そ、そんな、何を……」
 鴨居はそう言って空笑いをした。
「鴨居さん、いずれは分かることなのですよ。良いですか? あなたの服だとかには確実に血痕がついているのです。色々な所にも、ね。ルミノール反応を調べられたら一発ですよ。指紋だとかも、です。警察の捜査には勝てません。あの部屋にはあなたが立ちいってない筈のところに髪の毛が落ちていたりもするでしょう。認めて下さい」
 隣は静かに、そう続けた。その目は鷹のように鋭く、冷たかった。鴨居はしばらく空笑いを続けたが、何処かでプツンと何かが切れたようで、ガクンと頭を垂れた。そして、認める。
「そうです……僕が、犯人、で、す」
 震える声だった。何処か、解放されたような感じもあった。そのまま彼は続ける。
「違うん、です。どうして、あんなに怒ったのかを問い詰めようと、し、してて、もみ合いになって……そして、気が付いたらかなり強く彼女を押していて……そのまま、動かなくなって……」
 今にも涙を流さんばかりに、鴨居はそこまで続けた。そして、そこから先は声にならない嗚咽となる。僕は何か苦い実を食べたかのような顔を浮かべる。なんだか、嫌な感じだ。
 隣の目に、初めて憂鬱げな色が浮かぶ。
「そうでしょうね。そして、あなたは彼女を切った……その理由について、私は想像がついているので、それが合っているかだけ聞いて、良いですか?」
 鴨居は目を丸くしてゆっくりと首を上げ、それからしばらくして頷いた。
 彼女を切った理由―― それについては、僕も気になって仕方が無かった。それが想像ついている? なんて恐ろしい、としか僕には思いようが無い。歪鬼の仕業ではなく、どうしてそんなことをしたのかが説明つくなんて。
 隣は鴨居の方を見ながら続けた。
「あなたは、彼女を最後まで愛していたのでしょう。愛していたからこそ、あなたは彼女の秘密を隠したかった。その為に、彼女の体を切った……そうではありませんか? そう、あなたが彼女を切ったのは、彼女の下半身にはとある秘密があったから……」
「そう、で、す……」
「それは、刺青だったかもしれない。何でも良い。彼女にとって不利益なもの。秘密にしなければならなかったものだったのでしょう。彼女がどうして海に行っても、水着にならなかったか? シャワーに入るのにあんなに鍵を心配したのか? それは、彼女は自分の下半身をどうしても見られたくなかったからです。私は、事件が起こる前の夜から何となく、ある予想を立ててみました。そして、あなたにある事を聞いて、あなたがスラスラと答えられたことからある想像をたてたのです。良いですか?」
 鴨居はやはり、涙を流しながら頷いた。
「あなたは、ヘルメスとアフロディーテという二つの神様について知識を持っていた。普通の人は、あまり知りもしないでしょうことを。さて、その二つの神様にはあるエピソードがあることを、あなたは知っていた。この二つの神様から生まれた子供の神、ヘルマフロディトスです。そして、ヘルマフロディトスは古淵さんと同じだった……そうでしょう?」
「……そうです」
「おい、隣……意味が、分からないぞ」
「黒沢君、ヘルマフロディトスはね、両性具有の神なんだよ」
「……え?」
 その時、僕はガツンという衝撃を受けた。世界が崩壊するかのような、わけの分からぬ衝撃を。まさかと叫び出したかった。だが、その衝動を何とか抑える。
「ヘルマフロディトスはサルマキスという妖精と合わさって、両性具有になるんだ。女の乳房と、男性の性器を持った、ね。そして、古淵さんはそれだった。一種の障害者、両性具有者だった。それを彼女はずっと隠し通していた。そして、その秘密を彼氏であるあなただけが知っていた。そして、あなたはそれをどうしても守り抜こうとした。そうでしょう?」
「そう、です……そう、なん、です……彼女があの日、歪鬼の話を、僕が、した時に怒ったのも、それについて、なんです。僕が、歪鬼で飛ばされた男の下半身がついている女だから彼女のことを好きになったのだ、と彼女は、誤解をしていた、らしいんで、す……だから、だから、あの時に、怒って……僕が、僕が、悪い、のです。決して、そんな、そんなことではなかった。確かに、僕は歪鬼に飛ばされて、両性具有者が生まれる、だとか、想像をしたことも、ありました。しかし、しかし、違うんです。彼女を好きになったのは、そういうわけでは、そういうわけでは、そういうわけでは……」
 ――鴨居は、僕らの部屋でしばらく泣き続けた。


 14.

「歪鬼、か……」
 二日後、和衣山からの脱出、警察からの事情聴取の二つを終えた僕達は帰りの電車に揺れていた。雪はもうしばらく降らないそうだ。町の道路はもうアスファルトが現れている。僕がそんな光景を眺めていた時に、隣は誰に言うでもなく、そう呟いたのだ。
「どうしたんだ、隣」
「いいや、私にしては少々センチメンタルな気分に襲われてね。歪鬼だよ、歪鬼。今回の事件は……歪んでいたんだ。なんとも、奇妙にね。もし、鴨居があの時にあんな話をしなければ、事件は起きなかったわけさ。だから歪鬼という伝承が引き起こしたと言っても別にいいんじゃないか、という気分に一瞬、ね。ただ、それだけさ。非論理的だったね。ただ、そう考えてみるのも人間的ではあるかな。どうだい、黒沢君」
 隣はそう言って、少し陰のある顔で笑った。

2011/01/09(Sun)12:22:39 公開 / 文矢
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■作者からのメッセージ
べったべたな本格ミステリを目指しました。
とにかく、「謎」とその「解決」に重点を置いたつもりです。
ディクスン・カーよりエラリー・クイーンが好みなので、探偵役もごくありがちな感じのベタな変人探偵、舞台も今時あるか?ってくらいの雪の山荘で御座います。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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