『僕らの星(微修正)【クリスマス企画】』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:天野橋立                

     あらすじ・作品紹介
クリスマスを四日後に控えた今日、その彗星は地球に最も近づくのだった。僕と彼女はその星を見るため、旧型の電車に乗って郊外へと出かける。指先に触れる冬の芝生は、ぱさぱさとした感触だった。

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「つまり、今日はその彗星を見に行こうって、そう言うことなのね」
 僕の熱心な説明の全てを、彼女はあっさりと一言に要約して見せた。
「そう言うこと」
 僕はうなずいて、氷の浮いたグラスの水を一口飲む。
「でも、この寒いのに、わざわざ電車に乗って?」彼女はあからさまに面倒そうな顔をした。「流れ星なんて、一瞬だけしか見えないじゃない。願い事一つ言うのだって大変なのに、そのためにわざわざ?」
「だからさ、彗星と流れ星は全然違うんだよ。太陽系の外側にオールトの雲ってのがあって、そこからやってきた氷の固まりが太陽風を浴びると」
 と、説明を繰り返しかけて、僕は口をつぐんだ。興味なさげに、彼女の視線がコーヒーカップの周りをさまよっている。
「ま、いいや」僕は軽く咳払いする。「理屈はとにかく、綺麗だし、彗星は一瞬で消えたりもしないんだよ。見れば分かるよ」
「ふーん。でもそんな遠くまで出かけなくたって、星ならこの辺でだって」
 彼女が目を向けた窓の外は、ありふれた地方都市の繁華街だ。午後八時を回ったこの時間でもまだ、水銀灯やネオンがあふれている。この時期はさらに、街路樹のイルミネーションの輝きまでが加わる。空は光でさぞ濁っていることだろう。
「暗いところじゃないとうまく見えないんだよ」
 そう言い張って、僕はふと不安になった。いくら僕のほうが歳下と言っても、これじゃまるで駄々っ子ではないか。彼女には彼女の、リアルな事情というものがある。
「もしかして時間、駄目?」
 僕は急にトーンを落として、恐る恐るという感じで訊ねた。
「ううん。家のほうは大丈夫。遅くなるのはいいよ」
「なら行こうよ」と僕は途端に強気に戻る。「絶対感動するって。後悔しないから」
「そこまで言うんだったら」しょうがないわね、と彼女は子供を見る表情を浮かべた。「綺麗じゃなかったら怒るわよ」
「それは、もちろん」
 僕は勢い込んでうなずき、ドーナツの残りを口に放り込むと、ダッフルコートを手に取った。

 子供の頃から、彗星が近づいたというニュースを耳にする度に、僕は夜空を見上げてきた。新聞を大きく飾る「華麗なる天体ショー」という文句と、尾を引いて輝く「ほうき星」の美しい写真は、僕の心を強く惹きつけたのだった。
 なのに二十代を半分終えた今日になっても、僕はついに一度もその姿を見たことがない。新聞の前宣伝は、毎回必ず僕を裏切った。どんなに目を凝らしてもそれらしい物は見えず、街の光で灰色がかったありふれた星空が、視界を覆うばかりだったのだ。
 結局どの彗星も、肉眼で見るには暗過ぎたのだ。六等星の明るさだなんて言われても、よほどの田舎でないと見えやしない。天体望遠鏡を使えば見えたのかも知れないが、レンズ越しに見る彗星に何の魅力があるだろう。僕が見たかったのは頭上の夜空に大きくたなびく姿だった。
 しかし、今度の彗星こそは違うはずだ。アイリス・弓桁・オルヴィス彗星と呼ばれるその星は、クリスマスを四日後に控えた今日、地球に最も接近し、予想では最大でマイナス一等級にも達すると言われている。惑星以外では全天で最も明るいシリウスと同じくらいの明るさだから、これなら違いなく肉眼で見えるだろう。もっとも、この明るさはあくまで彗星の頭に当たる部分のものであって、尾のほうはもっと暗いはずなのだが、灯りの少ない所まで行けば、それもきっと見えるに違いない。長年待ち続けていたチャンスが、いよいよ訪れたわけである。
 幸い今夜は新月で空は暗く、おまけに雲一つなく晴れ渡っている。明日は土曜で仕事は休みだ。まさに最高の条件だった。そして、僕の初めての彗星を、どうしても彼女に一緒に見てもらいたかったのだった。

 ドーナツ・ショップを出た僕と彼女は、電球の色をしたイルミネーションが続くメインストリートを、手をつないで歩いた。すれ違う人々は、みんな襟に顔を埋めてうつむき加減で歩いている。空を横切ろうとしている星のことなど、誰も気にしてはいないようだ。
 彼女は時折空を見上げては、首を傾げた。
「ねえ、彗星ってどの辺りに出てくるの?」
「本当は、今も見えてるはずなんだ」
 市街地とはいえ、さすがにマイナス一等級なら、正しい方向を狙って目を凝らせば、ぼんやりとした雲のような姿が見えるはずだ。しかしそんなものが見えても仕方がない。
「町の中は明るすぎるんだよ。彗星はうっすらとしか見えないからね、ここじゃ駄目だ。普通の星だってほとんど見えないだろ」
「あそこに見えてるのは?」
 彼女が指さす先には、確かに明るい星が輝いている。
「あれは、火星じゃないかな。赤いし」
「へえ、詳しいね。色で分かるんだ、星が」
「多分だけどね。惑星は近いし、太陽の光で光ってるから明るいんだよ」
「ふーん。よく分からないけど、でもきれいに光ってるよね」
「こうしてたまに星を見るのも、悪くないだろ」
「うん。そうだね」彼女は素直にうなずいた。「ちょっと楽しみになってきたかも」

 メインストリートは駅に突き当たって広場となっている。正面の駅舎は七階建てのビルで、鉄道会社が経営するデパートが入っていた。ここから三本の路線が郊外へと向かっていて、地方私鉄にしては豪華な駅である。広場を取り囲むビルの屋上では色とりどりのネオンがにぎやかだった。
 デパートはすでに閉店していて、ツリーが飾られたショウ・ウインドウのみが明るい。この大きなビルの中でまだ機能しているのは、駅の部分だけだった。
 ラッシュ・アワーをだいぶ過ぎた改札前コンコースは静まり返っていて、並んだベンチに座っているのは、ほんの数えるほどの乗客だけだ。明々とした照明が、まるで無駄遣いに思える。時刻表によれば、次の電車は十分後だった。この時間になると電車の本数はかなり減るから、これはなかなか良いタイミングだ。
 券売機で二人分の切符を買い、僕は彼女の待つベンチに戻る。その後ろ姿は、まるで子供のように見えた。小柄でショートカットのせいもあるが、それだけではない。ベンチにもたれた白いコートの肩の辺りから漂う、なにか頼りない、あやふやな空気がそう思わせるのだ。そしてその空気を肌に感じるたびに、ああ離れられないなと思う。そんな僕に気づいたのか、彼女は振り返ってほほえんだ。
 ベンチに並んで座り、時間を待った。コンコースの人々はみんなそれぞれに思い思いの行動を取っていた。どこかで拾ったらしいぼろぼろのスポーツ新聞を読む中年のサラリーマン。うろうろと意味もなく歩き回る銀髪の紳士。さもうまそうに細いたばこを吸う、派手な服装の女性。ごみ箱に頭を突っ込んでうめく、学生らしい若者。
 そこに漂うお互いへの投げやりな無関心は、僕の心に安らぎを与えた。誰も、僕らのことなど気にしていない。彼女は僕のコートのポケットに手を突っ込んだまま、黙って路線図を見上げていた。

 短いチャイムの音が鳴って、改札口の上で「3番線」のランプが点った。電車が来たようだ。コンコースにいた乗客達が一斉に改札口に向かい始める。
 線路を渡って三番線ホームに上がると、いま着いたばかりのはずの電車が止まっていた。かなり古ぼけた車両で、何度も塗りなおされた塗装のせいか、車体の表面はでこぼこしている。この型の電車はマニアに人気らしく、巨大なレンズをつけたカメラで写真を撮る人たちを時折見かける。
 先にホームで待っていた人もいたのだろうか、車内は思ったよりも混み合っていた。通路をはさんで向かい合った二列の座席は、どちらもほとんどふさがっている。僕らは身を寄せ合うようにして、狭い隙間にかろうじて座ることができた。
 車内はかなり暗かった。油が染み込んで真っ黒になった木製の床が、光を吸い込んでいるようにも思える。この車両は昔、都会の大手私鉄で特急電車として使われていたはずだ。その頃もこんなに車内は暗かったのだろうか。
 スプリングのきしむ座席に腰掛けながら、僕は弱々しい車内灯を見上げる。しかし考えてみれば、むしろ今の世界が明るすぎるのかも知れない。街では星も見えないのだから。
 床下でため息のような音がした。ホームでブザーが鳴り出す。鳴り終わると同時に、大きな一枚ドアががらがらと音を立てて閉まった。やがて旧式モーターのどすの効いたうなり声を上げながら、電車はゆっくりと走り始めた。
 駅を出てからしばらくの間、電車は市街地の真ん中を走る。線路の両側にはビルが並んでいるが、もちろんどれも裏口をこちらに向けている。表側は綺麗なビルでも、裏側は意外に薄汚れていたりする。だから、この路線に乗っていると町の内臓をのぞき込んでいるような気分になるのだが、今は窓の灯りが見えるだけだった。
 ごみごみとした街なかには小さな停車場がいくつもあり、電車は一つ一つ丹念に、短いホームに止まってはまた走り、を繰り返した。停車の度に数人の乗客が降り、けばけばしいネオンがまだ明るい飲み屋小路や、駅とは不釣合いに巨大なマンション群の中へと消えていった。
 郊外へ出るまでに、乗客の数はたちまち半分にまで減った。空席だらけになった心細い車内で、座席のクッションから伝わってくるヒーターのぬくもりが頼もしく思えた。彼女は僕の手を握って離そうとしなかった。
 町を出ると、電車は何かから解き放たれたように全速力で疾走し始めた。モーターのうなり声が一段と高まり、車体が左右に激しく揺れる。窓のかなたにぽつぽつと浮かぶ灯りだけが、冷静にゆっくりと流れていく。古い電車独特の揺れとモーター音はむしろ心地好く、揺りかごに体を預けているような気分になった。
 彼女は頭を僕の肩にもたせかけ、寝息を立て始めた。周囲の乗客達も、次々と眠りの中へ沈んで行く。決して静かではない、むしろやかましいと言ってよい車内は、奇妙な静寂感に満たされていた。踏切の警報機が、時折かんだかく近付いては、悲しげに去っていく。
 僕はそっと彼女の髪を撫で、長い睫に触れる。閉ざされたまぶたの向こうに見ている夢に、僕の出番はあるのだろうか。

 全ての始まりは、決してロマンティックとは言い難い、法律専門学校の廊下だった。「行政書士・夏季特別講座」のテキストを手にした彼女は、白に青い水玉のカルピス模様のワンピースを着ていた。髪は今と同じく短め。彼女の視線の先には教室の割り当て表があるのだが、目的の講義をなかなか見つけることができないようだった。
 彼女が向かうべきなのはA-3教室なのだと言うことを、僕は知っていた。なぜなら僕もまた、彼女と同じテキストを手にしていたからだ。思い切って、それでも幾分ためらいがちに、僕は彼女に声をかけた。
「あの、その講座なら」
 振り向いた彼女の顔を、僕は今でも鮮明に思い出すことができる。綺麗に焼けた肌、どこか幼さの残る表情。しかしその瞳には、大人の落ち着きが感じられた。結婚して関西に住んでいる姉と同年代、大体それくらいの歳ではないかと僕は思った。
 週三回、五週間続いた夏季特別講座の間、僕と彼女はほぼいつも隣り合った席で授業を受けた。行政手続法や住民基本台帳法なんて、この前の試験が終わるのと同時にみんな忘れてしまったが、彼女の美しかったことは忘れない。
 なぜ法律を勉強しようと思ったのか、訊いてみたことがある。出逢って間もない頃のことだ。学生時代は体育学部だったと言う彼女は、どちらかというと頭より先に足が走りだすというタイプだった。本当は体育の先生になるつもりだったのだが、教職課程を取り損ねてOLになり、そこで出会ったのが今のご主人だったのだという。瞬発的判断力には優れていたが、地道に法体系の知識を積み上げるのに向いているとは思えなかった。
「だってこれからは実力の時代よ。履歴書に資格の一つも書けないと、社会には認められないと思うわ」
 彼女は学校の宣伝パンフレットそのままに受験の理由を語った。
「でも、認められなくたって、別に困らないんじゃないですか? 家庭の平和さえ守ってれば、安泰なんだから」
 と当時の僕は訊ねた。
「そんな簡単なものじゃないのよ」
 子供ね、と言わんばかりの口調だった。僕はその言葉に、ただどきどきしただけだった。しかし僕は実際、まるで子供だったのだ。彼女のその言葉の裏には、シビアな思いが隠されていたのだ。仕事の関係でとりあえず受験することになった僕なんかより、それはずっと切実な動機なのだった。

 ざわめきを感じてまぶたを開いた。かすんだ目で車内を見回す。乗客達が目を覚まし始めたようだった。本を読んだり、伸びをしてうめいたりしている。大きな駅が近付いているようだった。
「おはよう?」
 彼女が僕の顔をのぞき込む。
「起きてたよ」
 と僕は答える。
 やがて電車は鉄橋にさしかかった。曇ったガラスを手で拭いて外をのぞいてみる。向こう岸には、灯りの列が並んでいた。町だ。長い鉄橋を渡り切ると、電車は市街地に飛び込んだ。線路沿いの道路を車のライトが走っていく。照らし出された歩道に、人影はなかった。
 速度が落ちた。向かいの席の乗客が、読んでいた本をかばんにしまった。気の早い何人かがドアの前に立った。車内のほとんどが降りる態勢に入っている。沿線では一番大きな町であるはずだ。とは言え、都会とは程遠い。町の名に、辛うじて「市」がついているというだけのことである。
 僕が星を見る場所として選んだのは、この町の外れにある「古城公園」と呼ばれる大きな公園だった。その名の通りかつて城があった、その跡だ。そこなら十分に暗いはずだったし、芝生の広場もあるから楽に寝転がって空を見られるはずだった。
「次の駅の方が近いわよ、古城公園なら」
 降りよう、と腰を浮かせた僕のコートの裾を、彼女は引っ張る。
「そうなんだ。良く知ってるね?」
「一度来たの、結婚してすぐのころに。あの人、お城とか好きだから」
 彼女は、窓の向こうに目を向ける。電車は駅の構内に進入しつつあった。床下でポイントががちゃがちゃと音を立てる。
「楽しかった?」
 僕は訊いてみた。
「良く覚えてないわ、そんなの」
 と彼女は冷めた声を返した。
 駅はそんなに大きくはなかったが、狭いながらもホームが二つあり、屋根もついていた。案内板によれば、駅の近くには法務局や職業安定所や税務署が集まっているようだった。残る乗客のほとんどが降りたせいでホームはかなりにぎやかになり、いかにも主要駅の感じになった。
 再び走り出した車内にはもう数えるほどの乗客しか残っておらず、いよいよ地の果てが近づいてきたかのようだった。いくらも走らないうちに、次の駅に着いた。
 こちらで降りたのは僕ら二人だけだった。柱の上の裸電球に照らされた僕と彼女の影が、カステラのような形をした狭いホームに長く伸びていた。駅舎などはどこにもなく、ホームの端に切符を回収する箱が置いてあるだけだった。僕たちはそこにたたずんで、電車が走り去るのを見送った。二つの赤い灯が遠ざかり、やがて見えなくなると、ついに僕らは二人きりになった。僕は彼女を抱き寄せて軽く口づけした。

 駅の体をなしていないような駅だが、駅前は一応広場の形になっていた。とは言え電話ボックスや自動販売機の他には特に何もなく、自転車が何台か止めてあるだけだ。広場の向こう側から伸びる通りに並んだ街灯には、「古城駅前商店街」の文字があった。古びた民家の並びに、それが恐らく商店なのだろう、シャッターの降りた建物がいくつか混じっている。これを商店街と言い切る勇気に、僕は少し感心した。こっちよ、と言って彼女は、迷わず通りを歩き始める。
 まだシャッターを降ろしていない店が、一軒だけあった。まるでリゾート地の別荘のような、駒形屋根を持つレンガ造りの建物で、どう見ても辺りの雰囲気には合っていなかった。
 金色のモールで縁取られたショウ・ウインドウには、バベルの塔に似た大きなケーキが飾られていて、背後には大きな文字で「Merry X’mas」とあった。この「商店街」の中で、ここだけがクリスマスを待っていた。彼女は立ち止まって、じっとその文字を見つめた。僕はうつむいて、足元の影を見る。
「ごめんね」
 彼女が言った。
「何のこと?」
「来週、クリスマス。会えなくて」
「気にしなくていいよ、そんなの」僕は笑って見せる。「そもそもクリスマスは家族で過ごす行事だし。別にカップルがホテルに泊まるための日じゃないよ」
「何でわざわざ帰ってきたりするのかしら、あの人。今までそんなことしたことないのに。向こうの彼女が、寂しがるじゃない。そんなことしてみたって、どの道わたしたちはもう、どうにもならないわ」ため息が、白い雲になって暗闇に流れる。「どうせお正月にはまた帰ってくるのよ、こっちに。それなのに」
「クリスマスに帰ってくるなんて、いいところあるじゃない。そう悪く言うもんじゃないよ」
 彼は、ご主人はあくまでも家族であり、それ以上ではない。だから、嫉妬したりする必要はない。僕は、嫉妬しない。
 わずかに微笑んだ彼女は、気を取り直したようにケーキ屋の店内をのぞき込んだ。
「ちょっと中、見て行っていいかな?」
「いいよ。じゃあ僕はここで待ってる」
 僕はうなずいた。
 古い住宅が連なるひと気のない通りで、僕は一人きりになった。ケーキ屋の向かいにある、蔵を従えた造り酒屋の軒先で、僕は格子戸にもたれた。城跡に通じるこの道は、昔の街道筋なのだろうか。
 ふと空を見上げかけて、しかし思いとどまる。ここまで来れば、彗星は多分綺麗に見えるだろう。しかし、一人で中途半端に見てしまいたくはなかった。最後まで、彼女と一緒に公園に着くまで待とう。
 ドアが開いて、彼女が出てきた。手には紙袋を持っている。暖かい空気が、一瞬だけ僕の顔を撫でた。
「うわ、やっぱり寒いね」彼女は左手を僕の冷えきった頬に当てる。「中で待ってれば良かったのに」
「何か買ったの?」
「うん、クッキー。後で食べようね」
 そう言って、にこっと笑う。
 通りを再び、公園に向かう。ここから先にはもはや「駅前商店街」の街灯はなかった。電柱に取り付けられた蛍光灯が、ちらつきながら道を照らしている。僕らはまた手をつなぎ、時が止まったような通りを黙って歩いた。
 行く手の薄暗がりに、「古城公園」と書かれた矢印が現れた。その看板が指し示す方向へと街道を外れ、坂道を上ると、間もなく石垣が見えてくる。かつては濠の一部だったのであろうと思われる池に掛かる橋を越えると、そこが公園の入り口である。
 中に入ってすぐに、一本だけ水銀灯が立っていたが、その向こうにはただ闇が広がるばかりである。辺りは怖いくらいに静かで、風の音一つしない。思わず躊躇する僕を尻目に、彼女はどんどん歩いて行く。僕のほうが後ろから付いていく形になった。
「なあ、気をつけろよ」僕は前を進む足音に向かって声を掛けた。「そんな急がなくていいんだから」
「別に、何ともないわよ」闇の向こうから、自信ありげな声だけが返ってきた。「見えてるもん、前」
 目が慣れるに従って、次第に辺りの様子が浮か上がってきた。前を行く彼女の姿もぼんやり見える。無数の星明かりが地上を照らしているのが感じられた。その星々の中には、あの彗星の姿もあるはずだ。もうすぐ芝生にたどり着く。はやる気持ちを抑えて、いくぶんうつむき加減で、砂利を踏み締めながらゆっくりと歩く。
 間もなく前方が開け、靴の下が柔らかい感触に変わった。目指していた、芝生の広場だった。僕らはただっ広い広場の真ん中辺りで足を止め、地面に腰を下ろした。頭の上を巨大なドームのように、星の夜空が覆っていた。
 僕は目を閉じて、寝転がった。指先に触れる冬の芝生はぱさぱさとした感触だったが、横たえた体には十分クッション代わりになった。ズボンの生地越しに伝わってくるちくちくとした感じがくすぐったくて、僕は少し微笑んだ。全身が、とても暖かかった。まぶたの向こう側、星空の頂には、ついに巡り会った星の姿があるはずだった。光をたっぷり含ませた刷毛で、夜空をさっとこすったような、その淡い輝き。僕らの星。
 ビニールを破る音がして、甘い香りがかすかに広がった。唇に彼女の指と、クッキーのざらっとした肌が触れた。
「メリー・クリスマス」彼女は言った。「一応、ケーキの代わりね。これ」
 クッキーをくわえた僕は、もごもごと「メリークリスマス」を返す。クッキーもケーキも、成分に大差はない。僕にはこれで十分だった。
「貸切だね、この空」彼女の身体が、僕の隣に静かに横たわる。「あ、見て! あそこで光ってるのって、もしかして」
「そう、あの星がね」
 僕はそう言って、まぶたを開いた。
(了)

2012/11/19(Mon)23:46:17 公開 / 天野橋立
■この作品の著作権は天野橋立さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
クリスマスに向けて何か書こうかと思ったんですが、新しい話がうまく思い浮かばなかったので、以前書いたものに手を入れて投稿してみました。
一応恋愛小説としましたが、ストーリーも何にもないものすごく地味な小説です。しかしストーリーはないけど、読んだ方がそこにドラマを感じていただければ……と願ってやみません(無茶言うなって)。
前作、前々作を楽しんで読んでくださった皆さんには、何だかごめんなさい。また、ああいうのも書きますので。

12/18 いただいた感想を基に、微修正。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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