『群神物語U〜玉水の巻〜6後半−7【完結】』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋                

     あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。◎あらすじ◎ 二千年前。神の国、神の宝の伝説を信じて、大陸から、海を越え、オホヤシマに降り立ったニニギ。己が真に求めるものを探し、その魂は、八咫鏡の中へ。そして、周りの人間たちの運命もまた、急速に動いてゆく。……一方、現代日本。浦山和也は行方不明となった妻由布子の居場所の霊視を土居龍一に依頼する。その結果をもとに九州は熊本へ旅立った和也、可南子、美子、圭吾の四人。龍一のあらたな霊視により由布子につながる入り口は菊池渓谷と分かった。龍一も合流し、五人は満月の晩、渓谷をさかのぼる。

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◎目次◎
一『夢、一』 二『課題』 三『夢、二』 四『伏流水』 五『水底』 六『玉水』 七『エピローグ』

◎主要登場人物◎
【現代編】(第二章、第四章、第五章、第六章)
★上木美子(かみき みこ)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。十七歳。O型。宮城県遠田郡涌谷町の自宅がなくなってしまったため、仙台市内の躑躅岡天満宮宿舎に居候中。特技は年齢あてと寝ること。
★ふーちゃん 初出第二章:ケサランパサランから成長した、金色の霊孤。現在は小型犬サイズ。美子の心のオアシス。
★土居龍一(つちい りゅういち)初出第二章:土居家第三十九代当主。躑躅岡天満宮宮司、萩英学園高校理事長兼務。二十六歳。A型。一見、物腰は柔らかいが、本心をなかなか明かさない。
★築山四郎(つきやま しろう)初出第二章:躑躅岡天満宮庭師、萩英学園理事長代行。六十一歳。A型。趣味の料理はプロ級。世話好きの子供好き。
★菊水可南子(きくすい かなこ)初出第二章:父は京都雲ヶ畑、眞玉神社宮司の秋男。職業は芸妓。二十三歳。B型。妄想直感型美女。
★菊水秋男(きくすい あきお)初出第四章:可南子の父。眞玉神社宮司。職業は書道家。
★菊水桔梗(きくすい ききょう)初出第五章:可南子の母。土居家先代当主、土居菖之進の妹、勅使河原椿の三女。職業は茶道の師範。
★初島圭吾(はつしま けいご)初出第二章:津軽の守護家、初島家の二男。バイクで日本中を回るのが趣味。退魔の武器は、自作のパチンコ。二十一歳。
★結城アカネ(ゆうき あかね)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。B型。好奇心旺盛な女の子。
★田中麻里(たなか まり)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。AB型。将来の夢はバイオリニスト。
★大沼翔太(おおぬま しょうた)初出第二章:萩英学園高校二年一組在籍。スポーツ推薦で入学した野球部のホープ。
★HORA‐VIA(ホラ・ウィア)初出第二章:仙台の学生に絶大な人気を誇る萩英学園軽音部の三年生バンド。タニグチ(谷口。ヴォーカル兼ギター)、ミヤマ(深山。ギター)、フウジン(風神。ドラム)、ヒムラ(火村。ベース)
★平本(ひらもと)、池川(いけかわ)初出第五章:上野署の刑事。
★綾戸(あやと)、濱野(はまの)初出第五章:東京地方検察庁特別捜査部の検事。
★浦山由布子(うらやま ゆうこ)初出第五章:東京世田谷区に住む主婦。五歳の一人息子、明を水難事故で亡くす。菊水桔梗にお茶を習っている。
★浦山和也(うらやま かずや)初出第五章:由布子の夫。

◎キーワード説明◎
★守護主(しゅごぬし)初出第二章:ヒタカミの流れを汲み、今なお東北に強力な結界をはり続ける土居家当主のこと。
★竜泉(りょうせん)初出第二章:土居家が、躑躅岡天満宮本殿にて守り、毎日の霊場視に使っている霊泉。
★東北守護五家(とうほく しゅご ごけ)初出第二章:守護主を支える五つの一族。津軽に初島家、北上に沢見家、出羽に蜂谷家、涌谷に上木家、白河に中ノ目家があり、それぞれの当主を守護者(しゅごしゃ)と呼びならわす。当初は四家のみだったが、四百年前に、土居家から上木家が分家され、五家となった。
★秘文(ひもん)初出第二章:魂の力を引き出すための言葉。唱える者の力量により神に匹敵するほどの力を呼ぶこともできる。「稲荷大神秘文(いなりおおかみのひもん)」により龍一が召喚する雷神が代表的。秘文を声に出さずに唱える方法を、暗言葉(くらことは)という。
★飛月(ひつき)初出第二章:伊達政宗が名匠国包に造らせた稀代の霊刀。三百年間、土居家と三沢初子の霊が護ってきたが、現在は美子が護持者となり保管。
★赤い石 初出第二章:美子の母咲子の形見。

六 『玉水』
(五)
                         ◎◎
 和也は、急にはっきりと目が覚めた。体を起こすと先ほどと同じように宮司が向かいに座っていた。しかし何故か着ているものが装束から藍鼠色の着物に変わっていた。しかも左手には包帯を巻いている。自分が寝ている間に宮司に何か起こったのだろうか。そして和也の体の上には宮司のものと思われるうすい錫色の羽織がかかっていた。
 和也はさらりと水のように柔らかな感触の羽織をはぎながら座り直した。宮司は微笑んで和也から羽織を受けとった。
「ぐっすりお休みになれましたか」
 和也は顔を赤くしながら答えた。
「はい。……あの、私はどのくらい眠っていたのでしょうか」
 龍一は部屋の掛け時計をちらりと見た。
「二時間ほどでしょうか。よほどお疲れになっていたのでしょう」
 和也は、どうして自分が眠ってしまったのかもさっぱり覚えていなかった。しかし夢一つみない深い眠りのおかげで、このひと月の疲れがずいぶん楽になったと思った。
「申しわけありません。何故こんなにも寝てしまったのか……。大変失礼しました。あの、ずいぶんお待たせしてしまったんでしょうか?」
「いいえ。私も霊視を終えて今ちょうど戻ってきたところですから」
 和也は身をのり出した。
「では由布子の居場所がお分かりになったのですか」
「はい、だいたいのところは」
 和也は慌てて訊いた。
「それはいったい、どこです?」
 龍一は羽織を衣桁にもとのようにかけ直すと、また席に戻った。
「残念ながら今のところ由布子さんの居場所はおおよそのところしかつかめておりません。しかもそれは警察などでは捜すことのできない場所なのです。これについては、どうしても霊力のある者の協力が必要です。つまり実際にその場に行って探す者が、ということですが」
「それは先生が行ってくださるのではないのですか?」
 和也は期待をこめて龍一を見たが、龍一は首を横に振った。
「私は何日も天満宮を空けるわけにはいかないのですよ。会わなければならない方も大勢おりますし」
 和也は、がっくりとうなだれた。龍一は言葉を続けた。
「それで、私の代わりに由布子さんを探す者をお貸ししようと思っております」
 和也は、また顔を上げた。
「その者たちを呼んでありますので、可南子と一緒にこの場に同席させてもよろしいでしょうか?」
 和也は、ほっとしたように頭を下げた。
「はい。どうかお願いします」
「それから由布子さんの書置きですが、もう少しお預かりしていたいのですが」
「もちろん構いません」
 その後、ちょっとの沈黙が二人の間を流れた。龍一は袂の中で腕を組み目をつむってめい想しているように見えた。和也はプロの目で龍一の着物を一瞥し、心の中で満足げにうなずいた。紬だが、つやつやした光沢とシャリ感、がっしりとした手ごたえを感じつつあくまで絹特有の羽のような軽やかで柔らかな風合い、青みがかった鼠色も上品で、どれをとっても一級品だった。
(大島か、結城かな。いや、もしかすると牛首かも知れない)
 先ほど和也が上にかけていた羽織の肌触りも素晴らしかった。着物は、ただ金をかければいいというものではない。帯や小物の合わせ方、季節や状況ごとの選択、着こなしなど、その者の知識と経験の度合いが、見る者が見ればすぐに分かってしまう。その点、この宮司は所作からして堂に入っていた。普段よほど着物を着慣れていないと、こうはいかない。
(若いのにたいしたものだ。やはり職業柄だろうか)
 和也は自分自身の深い悩みを少しの間忘れ、龍一の姿をさかんに盗み見ながら考えた。
(少し痩せすぎの感もあるが、全体の骨の造りががっしりしているから貧相にならない。この人をモデルにして見せたら男物の着物がよく売れそうだな)
 宮司は背も高くスタイルもいいので、現代の若者の体形にあった着物を提案するのにもうってつけだ。少し長く伸ばした髪を後ろで束ねているが、その姿も短髪より着物に合うように思えた。目鼻だちも非常に整っている。切れ長の目は和風的でもある。女性受けもいいに違いない。
(しかし着物のモデルになってくれと言っても先生は了承しないだろうな。何せ大変忙しいようだから)
 それでも和也は心の中で様々な着物を思い浮かべて龍一にとっかえひっかえ着せてみせた。
(かなり派手なものも似合うかも知れない。染めの着物も着せてみたいな。そもそも着物というのは形ではなく色や風合いの変化を楽しむものだからな。男性だって美しい色を着て悪いということはないんだ)
 ふと龍一が目を開けたので、空想に浸っていた和也はどぎまぎした。
「きましたよ」
「えっ」
 すると玄関のがらがらと開く音がして、ぱたぱたと人が建物に入ってくる気配がした。
(可南子さんたちか)
 宮司に心をよまれたような気がしていた和也は、ほっと息をついた。
                         ◎◎
「これが、初島圭吾と、上木美子です」
 ぺこりと頭を下げた二十歳そこそこの青年と、どう見ても女子高生の少女に、和也は一応挨拶を返したが疑わしい表情を隠せなかった。圭吾と美子は自分たちが何故ここに呼ばれたのかも分からなかったので、和也と龍一を不安そうに代わる代わる見ていた。美子は、龍一の左手に巻かれた包帯を見て、そっとため息をついた。
 龍一はそんな様子に気づかぬように、築山が全員の前にお茶を淹れ直して下がったあと、話し出した。
「さて、浦山由布子さんが現在いる場所についてですが、その霊視は、正直申しまして大変困難でした。私は、これは誰か強力な霊力のもち主が由布子さんの居場所を恣意的に隠しているのではないかと考えております」
 美子は、はっとして龍一の顔を見た。去年の飛月の件を思い出したからだ。龍一は美子に黙ってうなずいた。可南子が訊ねた。
「その、誰かって誰やの?」
「それも今のところ判明していない。分かっているのはまず、由布子さんが水の中にいるということだ」
 和也が悲痛な声を上げた。
「水の中ですって! では、では、由布子はもう……?」
 龍一は和也に向き直って静かに言った。
「由布子さんがもう亡くなっているかどうか、という点ですが、私は生きておられると思います」
「しかし……」
「そうです。由布子さんは生きている。しかし、その魂の在りかは深い水の底です。これは文字どおりの水の中だと思います。由布子さんは誰かの導きにより、水の道を通って水の底にたどり着き、今もその場所にとどまり続けています。その場所も由布子さんの魂の状態も、非常に特殊なものです。そして私の霊視の最中でなにかが邪魔をしたために、結局すべてをみることはできませんでした。ただそれまでの間に何とかみることができたこともあります。
つまり由布子さんのいる場所は、サクヤヒメの出身地と深いつながりがある、ということです」
 美子と可南子は驚いて息を呑んだ。圭吾と和也は、きょとんとしたままだ。可南子は咳こむようにして言った。
「サクヤヒメ? まさか眞玉か?」
「いや。眞玉は違う。もっと、さかのぼらなくては……。ただ眞玉も由布子さんの通り道になったようだ。由布子さんは、上野の不忍池から地に潜り、その後、西に向かっている。その足どりは不明なところも多いが、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)と雲ヶ畑を通る道すじだったようだ。それからさらに西に向かっているが、そこから先を追うのはより難しいものだったよ。
 だがその途中で大きな手がかりをつかむことができた。地の底の道、由布子さんがたどった道は、新しい道ではなく非常に古い道で、多くのものが利用している古代からの魂の道らしい。その道を利用したことがある者の中にサクヤヒメがいたということを私は感じることができたのだ。そして由布子さんを導いているものもサクヤヒメと深いつながりをもつものだろうと思う」
「つ、つまりサクヤヒメが由布子さんを連れていった、ゆうことなん?」
 美子はただ息をするのも忘れたように身じろぎもできなかった。
「そうとは言っていない。導き手については、その白い影しか私にはみえなかった。ただ、その意志がちらりとみえただけだ。それは由布子さんをある場所に連れていこうとしていた。その場所とはその導き手の力の源となる処なのだが、それは同時にサクヤヒメにつながりをもつ場所、つまりはサクヤヒメの故郷であろうと私は推測した。
 魂というのは、それ自体に様々な軌跡を残すものだが、それが生まれた場所というのは特に非常に強い影響を魂に与えるんだ。これは思う以上にはっきりと現れるものだ。『道』に残されたサクヤヒメの魂の残像と導き手の魂の行き先には明らかな共通点があり、それがある特定の土地を指していた。そこで問題はその土地とはいったいどこなのか、ということなのだが、日本神話における天孫降臨の地と現在いわれているのは、一つは宮崎県の高千穂町付近、もう一つは九州南部の霧島山だ。サクヤヒメは明らかに天孫降臨の地近くの出身者だからね」
 和也は慌てて龍一の話に割って入った。
「ちょっとすみません。そのサクヤヒメというのはそもそも誰なんですか?」
 龍一は、美子をちらりと見ながら答えた。
「ここにいる上木美子の母親、咲子の別名です。その魂は古代においては天孫、つまりは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とともに日本神話に登場する神の一人、木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)と考えられます」
「はあ……」
 和也は唖然として龍一を、そして美子を見やった。圭吾も驚いたように美子を眺めている。可南子は難しい顔をして考えこんでいるふうだった。
 龍一は和也の目に穏やかな視線をあてた。
「信じられませんか」
 和也はいったんうつむき、膝の上に置いた手のひらを見つめた。自分がすでに失ったものを想い、それから失いつつあるものを考えた。自分には今、いったいなにが残っているというのか? 神話の中だろうが民話の中だろうが、求めるものがそこにあるのなら、いくしかないのではないか? まっすぐに体を起こす。
「私は、先生のみたものを、お考えを信じます」
 龍一は軽くうなずくと、すでに用意していた地図を机の上に広げた。九州の地図だった。
「サクヤヒメの故郷は、天孫降臨の地からほど近い場所だったと思われますが、それとまったく同じ場所ではなかったはずです。日本書紀ではその場所を、肉のない背中のまわりの骨のようにごつごつした土地を丘続きに歩いて行った先≠セとしています。また、ニニギがサクヤヒメと会った場所は笠狭岬(かささのみさき)とありますから、近くには海もあったようです。
 サクヤヒメは明らかにニニギが来る前からその地に住んでいた土着の住民の一人だったのです。ニニギは、高千穂峯(たかちほのたけ)という高地から、よい土地を探し歩き、サクヤヒメの住む国にたどり着きました。おそらく海の幸も山の幸もある広々とした豊かな国だったのでしょう。
 私はその場所を、宮崎県の高千穂峡から阿蘇山を越えていった先の熊本平野か菊池平野の辺り、あるいは霧島山のふもとにある鹿児島県の国分(こくぶ)平野または川内(せんだい)平野のいずれかと考えております。笠狭岬というのは、霧島の西南方向にある野間岬だという説もあるので、そうすると鹿児島県が該当するかも知れません」
 龍一の地図を、周りの四人は一緒にのぞきこんだ。国分平野とは鹿児県霧島市、川内平野は薩摩川内市にあたっている。
和也は鹿児島県の辺りをふるえる手でそっと押さえた。
「ここに、由布子がいるかも知れないんですね」
「そやけど龍ちゃん。鹿児島県下の平野ゆうても広いやろ。どこら辺にいるのか分からないと探しようがないんちゃうん? それに、由布子さんがおるのは水の中というけど、何のどういう水なんかも分からないんではなあ。海なんか、川なんか、湖なんか」
「水というのは川だと思う」
 龍一が言った。
「それも霊視の結果ですか?」
 和也が訊いた。
「はい。川をさかのぼった先にその場所があるというふうに、私にはみえました」
「すると、霧島市内でいうと、この川でしょうかね」
 和也は地図に目を近づけて名前を読んだ。
「天降川(あもりがわ)」
「確かに、神話の世界にふさわしい名前ですねえ」
 圭吾が言った。和也は、はりきった口調になった。
「では、この天降川をさかのぼっていけば由布子を見つけられるかも知れないってことですね」
 圭吾は地図をなぞった。
「天降川をさかのぼった先というのは、ええと、湧水町(ゆうすいちょう)にある国見岳ですね。霧島山のすぐ隣ですよ」
「なるほど」
 和也は圭吾に相槌を打った。可南子が横から言った。
「そやけど、薩摩川内市にも川内川ゆう大きな川がありますよ。この源流は別なとこみたいやけど」
 確かに、川内川の上流は白髪岳(しらがだけ)という、もっと北の山で、そこはすでに熊本県内だった。
「うーん。どっちだろうな」
 和也がうなった。
「龍ちゃんは、どう思う?」
 可南子はさっきから黙っている龍一に問いかけた。龍一はじっと地図を見つめていたが、やがてぽつりと、
「さっきから、何かがひっかかっているんだが、それが何か分からないんだ」
と言うとまた押し黙ってしまった。可南子と圭吾は顔を見合わせた。
 和也はきっぱりと言った。
「いえ。場所がこの区域にある川の上流のどこかと分かっただけでも収穫です。さっそく明日にでも私は九州に行くつもりです」
 すると龍一が顔を上げて可南子にこう訊ねた。
「可南子。お前のこれからの予定はどうなっている?」
「私? えーと、今夜はここに泊めてもろうて、明日は京に帰ろうと思うてるけど?」
 和也は、可南子に向かって頭を下げた。
「可南子さん。今回は大変お世話になりました。あとは私が一人で何とかやります。由布子を見つけることができたら、一番にお知らせいたしますから」
 しかしその時、龍一が和也を遮るように強く言葉をはさんだ。
「和也さん。お一人で行ってはいけません。可南子、そしてここにいる圭吾と美子も一緒に連れていって下さい」
 三人は驚いて龍一を見た。和也は戸惑ったように言った。
「しかし、そうは言ってもみなさんお忙しいでしょうし……」
「先ほども申し上げましたとおり、由布子さんは非常に特殊な場所で、特殊な状態下におられるのです。つまりその場所にたとえ行ったとしても、一見してそれと分からないような閉じられた空間となっているはずです。しかもそこには由布子さんを閉じこめているものがそばにいる公算が大きいのです。ですから和也さんが一人で行かれても、無駄足になるばかりではなく、危険をともなうことも考えられます。この可南子は霊力はそれほど強くはありませんが、私がいつも霊視の際に利用する泉との親和性に優れていて、私は遠く離れていても、その泉と可南子を通してその場をより詳しくみることができます。そちらにいる初島圭吾は、まだ若いですが大変優れた退魔の能力をもっているので、いざというとき和也さんをお守りすることもできるでしょう」
 圭吾はこれを聞いて嬉しさに顔を輝かせた。そして龍一は最後に、美子に目をやった。
「それから、この上木美子も同行させてください。なぜなら、この子の母親は由布子さんの居場所の手がかりの一つである、サクヤヒメです。それにこの子自身も高い霊力のもち主です。連れていけば、きっと由布子さんを探す役にたつでしょう。……美子、いいか?」
「は、はい」
 美子は緊張して思わず背すじを伸ばしながら返事をした。龍一は、にこりとした。
「よし。念のため飛月も持っていけよ」
「分かったわ」
「圭吾はどうだ? 行けそうか?」
 圭吾はやる気まんまんという感じで答えた。
「もちろんです! 龍一様、お任せください。きっと和也さんを守って、由布子さんを探し出してみせます」
 可南子が訊いた。
「圭吾。あんた、沖縄行きはええんか?」
「沖縄? そうか、圭吾には予定があったのか」
 圭吾は慌てて手を振った。
「いえ。沖縄なんて、いつでもいいんです」
「でも、もう明日のフェリーの予約もしてるって、さっきゆうてたやん」
 圭吾は、怖い顔になって可南子をにらんだ。
「可南子さん。余計なことを言わないでくださいよ。せっかく龍一様が退魔のお仕事をくださったのに」
 龍一が圭吾に重ねて訊く。
「圭吾。本当にいいのか?」
「はい! ぜひ行かせてください」
 圭吾の顔は生き生きと輝いている。龍一は可南子を振り返った。可南子は手帳をくった。
「はい、はい。私やな。まあ夏はそんなに書き入れ時でもないといえばないのやけど、明日の夜は前々から大きなお座敷の予約が入っていて、これはどうしても京に帰らなあかん。あさっては七日か……。うーん」
 ちらっと思いつめたような和也の顔を見る。そして、ぱたんと手帳を閉じた。
「ま、ええか。こっちは人命がかかっておることやしな。和也さん。私も協力させてもらいます。もしよろしければ、あさっての夜から九州でご一緒させてもらいますわ」
 和也は、涙ぐんで深々と礼をした。
「本当ですか。ありがとうございます。圭吾さんも美子さんも、よろしくお願いします」
 可南子は急にてきぱきした様子になって、地図をもう一度のぞきこんだ。
「ほんなら、どうしようか。やっぱり第一候補としては鹿児島県の湧水町かねえ。そんなら鹿児島空港まで飛行機で行くのが一番ええやろね」
 圭吾も一緒に地図を見つめた。
「あ、空港は霧島市内にあるんですね。であれば湧水町とも割に近いですね」
 美子は遠慮がちに言ってみた。
「でも、天孫降臨の場所としては、どちらかというと宮崎県の高千穂峡のほうが有名ですよね。そうすると由布子さんの居場所も、鹿児島ではなく熊本かも知れないってことですよね」
 可南子と圭吾と和也は、思わず顔を見合わせた。美子は、はっとした。
「あ、ごめんなさい」
 和也が腕組みをして考えこんだふうになった。
「そういえば、天孫降臨の伝説の地といえば、まずは高千穂峡だよなあ」
「いやでも、霧島山にも高千穂峰という地名がありますよ」
 そう言う圭吾に向かって、可南子は手を振った。
「しかしそれは、神話が最初にありきであとからつけた名前かも知れんやないの」
「それは、そうっスけど……」
 圭吾も和也も、それで何も言えなくなって黙ってしまった。可南子は少しぼんやりと宙を見上げていたが、急に、
「あ、そうや」
と、地図の上にかがみこみ、さかんに何かを探しているふうだった。圭吾が不思議そうに訊ねた。
「どうしたんスか、可南子さん」
「いやな、そういや熊本に『菊水』ゆう地名があるって、うちのお父さんが言ってたな思うてな。そこが菊水家発祥の地なんやて。もし熊本に行くことになったら、ついでに行ってみようか思ってな」
「なに、のんきなこと言ってるんスか。そんな観光をしている場合じゃないんですよ」
「そやから、由布子さんが無事発見された、そのあとの話やって」
「まったく……」
 しかし、みんなの視線は、自然に『菊水』という文字を探すように地図の上に集まった。
「あった。これじゃないですか」
 圭吾が指さした先に、確かに『菊水』の文字があった。
「行政区分としては、和水町(なごみまち)という町の中にある地名みたいですね」
「和水町は、菊水町(きくすいまち)と三加和町(みかわまち)が合併してできた比較的新しい町だよ」
 龍一が、わきから説明した。
「なんや。菊水は、町の名前やなくなってもうたんや」
 可南子が残念そうに、つぶやいた。
「そうすると、この辺りがククリヒメがいたところでもあるんですね」
 美子の言葉に、和也は目を白黒させた。
「ククリヒメって、今度はどんな方ですか?」
 可南子は笑って和也に説明した。
「私の実家は京都にある眞玉神社ゆうとこですけど、その祭神が菊理媛神(くくりひめのかみ)いいますんどす。菊水家の伝承では、もともと九州は熊本にいた菊水家が、その氏神である菊理媛神と一緒に京都に移ってきたといわれてますのや」
「ほう。すると熊本県は、可南子さんのご先祖の故郷ということですね」
「そやけど千年以上も前の話やよって、嘘か真か、今となっては誰も分からんのですがね」
 圭吾は、なおも地図を見続けていたが、
「ククリヒメの名前には『菊』の字が使われていましたね。よく見ると熊本には結構『菊』ってつく地名が多いですよ」
「ほんま?」
 可南子は、もう一度地図に目を戻した。
「……ほんまやなあ。菊池市、菊陽町、それから菊池川か」
 美子も言った。
「『玉』がつく場所もありますね。玉名(たまな)市、玉東町(ぎょくとうまち)」
「へえ、そうすると『眞玉神社』の名前の由来も何となく分かる気がしますね」
 圭吾がちょっと感心したように言った。和也も地図の熊本周辺を見始めた。
「宮崎県の高千穂峡はここですね。ここから西に山を越えていくと、阿蘇山にぶつかる。私は学生時代に阿蘇に旅行に行ったことがありますがね。山の形が非常に変わっているんですよ。つまり、外輪が高々と盛り上がっていて中がくぼんでいるので、ちょうどドーナツ状になっているんです。そしてそのドーナツの輪の中心部分にいくつか火山口がぽこぽこと浮かんでいるんですね。輪の中には人も住んでいて一面の草原になっていてきれいですよ。それから一か所だけ輪が途ぎれているところがあって、そこから阿蘇山に降った水が川になって流れ出ているんです。それがこの白川です」
 見ると白川は阿蘇山を源流とし、そこから西に流れ、菊陽町を通って熊本平野を潤したあと、島原湾にそそいでいた。和也は腕組みをしながら言った。
「こう考えると、熊本というのも案外有力かも知れませんねえ。さっき土居先生が、サクヤヒメの国は背まわりの骨のようなごつごつした土地を越えて行ったところ、とおっしゃいましたよね。阿蘇の外輪山というのが、まさに肋骨みたいに火口を丸く囲んでいるんですよ」
「すると問題の川というのは、この白川のことっスかね」
「白川っていうのは、ずいぶん暴れ川らしくて過去にずいぶん水害をもたらしたそうです」
「へえ」
「しかし反面、熊本というのは大変水に恵まれていて、今でも熊本市周辺の水道はすべて地下水からまかなっているそうですよ」
「なんか京の町みたいやな。ところで和也さん。あんたさん、旅行に行っただけの割には、ずいぶん熊本に詳しいみたいやねえ」
 可南子に訊かれて和也はちょっと頭をかいた。
「いや……。実は学生のころにつき合っていた彼女が熊本出身だったんですよ」
 それを聞いて可南子は思わずくすりと笑った。圭吾もにやにやした。
「なるほどな。そういや外国語を覚えるにも、恋人から習うんが一番早道や、ゆうしなあ」
「でもそれは、由布子と会う前の話ですからね」
「それは分かっとりますがな。……さて、どないしようね。鹿児島か、熊本か」
 そう言うと可南子は龍一のほうを見た。ほかの三人も同様に視線を送る。龍一はじっと目をつむっていたが、はっとしたように顔を上げた。そうして順々に目の前の四人の顔を見たあと和也のところでとまった。
「そうですね。確かに熊本というのは可能性が高いように思います。水の力も鹿児島より強いものを感じます。……たいへんあいまいで申しわけないのですが」
 和也はそれを聞いて心を決めたようだった。
「分かりました。では第一候補は熊本県の白川上流としましょう。困難は承知です。私は、どんなことをしても由布子を探すと決めたのですから。ここが駄目でも、また次をあたればいいだけの話です。とにかく手をつけなければ始まりませんしね」
 和也の強い意志を感じ、ほかの三人も意欲をあらたにした。
 圭吾は地図を確認した。
「これで行き先は決まったわけですね。すると飛行場は、阿蘇くまもと空港か。確か仙台空港からは熊本への直行便はないはずだから、東京か大阪で乗り継がなくちゃいけないっスね」
 可南子は携帯電話で飛行機の時刻表を調べながら、言った。
「ほんなら伊丹で落ち合おうか? あ、和也さんはどうされますか。私は明日の朝の便でいったん京に帰って、あさっての夜に伊丹から熊本に出発するようになると思いますが。もしよろしければ、この圭吾たちと一緒に、あさって、仙台から出発されてもいいですし」
 和也は、ちょっと考えたあと答えた。
「いえ。そうであれば、やはり私も明日は一度東京に戻ります。警察の捜索の状況も確認したいですし、実家の両親も心配しているでしょうから。羽田から熊本に飛びますよ」
「そんなら圭吾たちと羽田で待ち合わせしなすったらええかも知れませんね。……あ、だめやん。仙台空港からは成田便しかあらへんわ。羽田行きはないで」
「マジっスか?」
 圭吾が呆れて声をあげた。
「ほんまや。なら仙台からは大阪経由で行くしかないなあ。大阪には伊丹と関西空港があるけど、伊丹行きのほうが本数も多いし、私も伊丹のほうが都合がええから、あんたらも伊丹にしたらええんちゃうか?」
 和也もうなずいた。
「では、私は東京から直接熊本に行きます。みなさんとは現地で落ち合うようにしましょう」
「そうどすね。それなら到着時間や詳しいことは、あとからケータイでやりとりしましょうか」
 それで圭吾と美子も和也と電話番号やアドレスの交換をおこなった。和也は手をつき、龍一に頭を下げた。
「土居先生。大変ありがとうございました。これで少しは希望がみえてきました。また、可南子さんたちのような心強い応援もつけていただき、何から何までありがとうございます。あさってからは、こちらの圭吾さんと美子さんもお借りしますが、よろしくお願いします」
「いえ。こちらこそきちんとした霊視ができませんで心苦しく思っております。私も引き続き霊視を続けますので、何か新たに分かったことがあればすぐにご連絡いたします」
 和也は目を輝かせた。
「そうですか。それを聞いてあらためて勇気が湧いてきました。では今夜はこれで失礼します。遅くまでお邪魔いたしました」
 可南子が言った。
「和也さん。よろしければ、これから一緒に夕食をいかがですか。天満宮で用意しはっているようですから」
「しかしご迷惑でしょう?」
「遠慮は無用やないですか。私らは、これから何日間か行動を共にする同志やねんから」
 それで和也はにっこりした。
「それではお言葉に甘えまして、ご馳走になりましょう」
 とたんに圭吾の腹の虫が大きく鳴ったので、美子たちは声をたてて笑った。可南子はくすくす笑いながら龍一に訊いた。
「龍ちゃん、どうする? ここで食べるか、美子ちゃんのところで食べるか」
「私はまだやることがあるので、和也さんたちと先に宿舎で食べていていいよ」
「そうか……。ほんなら和也さん。あちらの建物へどうぞ」
「はい。では先生、失礼いたします」
 四人は、龍一に玄関口まで見送られながら宮司舎を出た。
 雨はすっかりやんでいた。水をたっぷり吸った玉砂利が歩くたびにきゅうきゅうと生きもののように鳴いた。
 美子が振り返って見ると、宮司舎はしんと静まり返り、縁側の軒下にかけられた簾が奥の部屋の明かりをぼんやりと映していた。そしてその黒い屋根の上に、上弦の月が流れる雲の中に浮き沈みするように金色に光っていた。
                         ◎◎
「可南子さん。遅いッスよ」
 伊丹空港の出発ロビーに駆けこんできた可南子に向かって、圭吾は大きく手を上げて合図をした。可南子は息をきらしながら、美子と圭吾と一緒に搭乗口の機械にチケットを通す。圭吾はちらりと時計を見た。十九時五十分。熊本行きの最終便出発まで、あと五分である。美子と圭吾は、はらはらしながら一時間もロビーで可南子を待っていたのだ。
 客室乗務員がせかすように三人を真ん中の列の指定シートに押しこみ、シートベルトをつけたとたんに離陸のアナウンスが始まった。
「はあー、やれやれ」
 可南子は中央の席で足を伸ばしながら大きく息をついた。圭吾が右側から話しかける。
「やれやれは、こっちのセリフですよ。ケータイは通じないし」
「ごめん、ごめん。電池きらしとったんや。でも、これを逃したらどっちにしても今日はあかんのやから、間に合うか間に合わんかの、二つに一つやったしな」
「まったく」
 圭吾は言ったあと、ちょっと顔をしかめた。
「可南子さん。酒くさいっスよ」
 可南子はミントタブレットを二粒口に放りこんだ。
「仕方ないんや。何せ今日は、昼間っからずうっと接待続きやったんやもん」
「えっ。昼から飲んでたんですか?」
 可南子は、にんまりして指を繰って数えた。
「お昼はイタリアンやったから当然ワインを飲むやろ、それから二時、四時と続いて、最後の座敷が終わったんは六時半すぎ。そのあとタクシーに飛び乗って、ようやっと間に合ったんや」
 圭吾は呆れたように首を振った。
「なんでまた、そんな無茶なスケジュールを組んだんですか」
「ほんまは、このあとにも約束はあったんやで。そやけど、これは内輪の集まりやったから、ぬけさせてもろうたんや」
 美子はびっくりした。
「可南子さんって、いつもそんなに忙しいんですか?」
 可南子は美子にウインクをしてみせた。
「京一番の売れっ子をなめはったらあかんで。……とはいえ今日は特別なんや。実は私の誕生日やってん、それでお客さんが色々誘ってくれはってたんや」
「あ! ほんとですか。おめでとうございます!」
「おおきに」
 可南子は美子ににっこりした。
「すると可南子さんって、何歳になったんスか?」
「何歳に見える? 圭吾」
「うーん」
 圭吾は非常に難しい顔になって可南子をじろじろと見ながら、うなったままなかなか答えない。可南子はため息をついた。
「あんたに訊いてもしょうがないよな。……二十四や」
「そうするとオレの四歳上ってことッスね」
「いちいち確認せんでもええがな。……美子ちゃんは誕生日はいつなん?」
 可南子は美子をのぞきこんで優しく訊いた。
「四月二日です」
「そんなら、もう十七歳になったんやな」
「はい」
「一応訊くけど、圭吾。あんたの誕生日は?」
「十二月一日です」
「へえ」
 可南子は宙を見上げて小さくあくびをした。美子は、さりげない口調で訊ねた。
「そういえば、龍一の誕生日って、いつなんでしょうね」
「龍ちゃんの?」
 可南子が目をこすりながら繰り返す。
「ええ」
「そういや、いつなんやろなあ」
「可南子さんも知らないんですか?」
「知らんなあ。圭吾。あんた、知っとる?」
「可南子さんが知らないものを、オレが知っているわけないじゃないですか」
 美子は内心がっかりした。可南子は宙を見上げたまま、ぼそりとつぶやいた。
「あの男に、誕生日なんかあるんかなあ」
 圭吾は唖然として可南子を見た。
「何言ってるんスか、可南子さん。ないはずがないじゃないスか」
 可南子は首をもとに戻し、いたずらっぽく笑った。
「そやかて考えてもみい。龍ちゃんは確か今年、二十六やけどな。あないな二十六歳があると思うか? どう見つもっても、精神年齢は七十歳くらいやで。きっと誕生日なんかに無関係の年のとり方しとるんや」
 美子は思わず笑ってしまった。圭吾も顔をゆがませたが無理に表情を引きしめた。
「そりゃ、龍一様は、ほかの人間とは違いますからね」
「違う、違うって、圭吾、あんたはしょっちゅう言わはりますけどな、違うにも限度があるやろ。今どき、どんな爺さん婆さんかて、ケータイの一つも持っとるのに、あの男は頑としてもちよらん。どころか、自分の家にすら電話をつけてないんやで。浮世離れしとるのにもほどがあるんちゃうか。麻雀かて誘ってもやらへんし。ほんま、つまらんわ」
「えっ、麻雀? なんで麻雀のことなんか急に言い出すんです?」
「圭吾。あんた麻雀できる?」
 圭吾は目をぱちぱちさせた。
「まあ、できますけど」
「美子ちゃんは?」
「はあ。いえ、やったことないですね」
「今度教えたるよ。麻雀は大人の教養やからな」
「あ、そうなんですか」
「美子ちゃん。違うよ。可南子さんが麻雀狂なだけだって」
「こらこら、圭吾。人聞きの悪いこと言わんといてや」
「しかし可南子さん。ほんとに龍一様を、麻雀に誘ったりしたことがあるんスか」
 圭吾が信じられないように言った。可南子は平然と答えた。
「何回もあるよ。天満宮に行ったときは、築山さんと三人でやろうゆうてな。いっつも断られるけど」
「どっちにしろ、三人じゃ麻雀はできないんじゃないですか?」
「三人打ちでも麻雀はできるんや。むしろ三人のほうが面白いこともあるんやで。高い役が出やすいからな。そや。もう龍ちゃんなんか誘わんで、今度この三人で麻雀やろうや」
「まあ、機会があったら、いいスけど。でも可南子さん。京都でも麻雀なんか、いくらでもできるんじゃないんですか?」
 可南子はため息をついた。
「ま、しょっちゅうやってるけどな。ほんまは今日かて、仲間同士で麻雀する予定やったんや。お茶屋で美味しいもんとりよせながら、入れ替わり立ち替わりの徹夜大麻雀会やったんよ。ああ、今ごろみんな楽しんどるやろなあ」
 可南子は、そう言って天を仰いだ。圭吾は苦笑いした。
「なんだ。さっきから麻雀のことばかり気にしているのは、そのせいだったんですね」
 可南子は、ぺろりと舌を出した。
「それもあるな。ま、ええわ。この旅行が終わったら今日の分もとり返すさかい」
「なんか、可南子さんと麻雀するの怖くなってきたな。絶対に帰してくれなさそうだ」
「おや、圭吾。よう分かったな。麻雀する場合は、必ず明るくなるまでやるんが京の流儀やで」
「それは、京じゃなくて可南子さんだけのルールでしょ」
「美子ちゃんは未成年やから、ちゃんと夜中になったら寝さすけど、あんたは駄目や。成人しとるから」
「勘弁してくださいよ」
「あかん。大人の世界は厳しいんや」
 圭吾は大きくため息をつき、美子は二人のやりとりが面白くてくすくす笑った。
 少し経つと、可南子はシートを倒してすやすやと寝入ってしまった。美子はその上に毛布をそっとかけてやった。美子は、龍一と、可南子と、圭吾との四人で、麻雀をする光景をちょっと想像してみた。そうして首を横に振った。とうてい、あり得べかざることのように思えたのである。圭吾のほうを見ると目が合った。圭吾は、にやっと笑って肩をすくめた。
                         ◎◎
 阿蘇くまもと空港へは一時間で到着するので、可南子は寝たと思ったらすぐにまた起こされた。が、少し寝ただけで酒はすっかりぬけ、生まれ変わったように元気になった気がした。
 一階の到着ロビーに出ると、和也が大きな荷物を持って正面出口のすぐ前で待っていた。その顔を見て可南子は気が引きしまる思いがした。
(そや。ここで由布子さんのことを何としても探してあげな、あかんのや)
 和也は伸びっぱなしだった髪をすっかり刈りこんでほとんど坊主のようにしていた。三人を見つけるとすぐに近より微笑んだ。
「お疲れ様です。レンタカーを借りてあります。こちらです」
 そうして三人を外に案内する。外にはレンタカー会社の送迎車が待っていた。四人はそれに乗りこんだ。
「空港内でレンタカーの乗り降りができないので、レンタカー会社の駐車場までいったん行かなくてはいけないようです」
 空港からレンタカー会社までは二、三分ほどで着いた。そこで車を乗り換える。和也が運転席、可南子が助手席に乗り、美子と圭吾は後部座席に乗りこんだ。
 和也はエンジンをかけ、ナビゲーションシステムを作動させた。行き先のホテルは事前にレンタカー会社にセットしておいてもらったので、ボタンを押すだけですぐにルート検索が終わった。ナビの案内どおりに車を走らせる。夜の九時をとっくに回っているので、もちろん辺りは夜道だ。太い幹線道路を通るとはいえナビがなければだいぶまごついただろう。和也は文明の利器に感謝した。
「これから、どこへ行くんですか」
 圭吾が後ろの席から訊ねる。
「今夜はもう遅いので、このままホテルに直行します。夕食を食べてあとは寝るだけですよ。ホテルは阿蘇の国立公園内にあります。場所的には、この間お話ししたドーナツの縁の少し内側に入った辺りですね。ドーナツの中のくぼんだ地域は、大昔の火山活動でできた、いわゆるカルデラですが、真ん中の火口付近以外は広大な農地や牧草地になっています。白川水源というのが、このカルデラの中にありまして、明日はそこに行こうと思っています。ホテルからもそんなに遠くありません」
「そこが、例の場所かも知れないってことですね」
 圭吾が緊張した口調になった。和也はちょっと眉をよせた。
「しかし私の調べたところ、白川の本当の源流というのは、そこではないようなんです。そこからもっと先の、根子岳(ねこだけ)という中央の火口群のうちの一つから水は発しているらしいんです。しかも根子岳は非常に険しい場所のようで、特に源流地点は登山道からも離れているようです。一応簡単な登山の用意はしてきたのですが」
 そして心配そうに口を閉じた。圭吾は元気をつけるように言った。
「登山ならオレに任せてください。今は夏ですし、登山ルートがあるような山なら何とでもなりますよ」
 可南子はじっと考えこんでいたが、やがて口を開いた。
「龍ちゃんは由布子さんがいる場所を、『川をさかのぼっていった先にある場所』と言うとりました。そやからそれは、必ずしも源流地点をさしているとは限らないと思います。それにその場所は『閉じられた特殊な空間』であり、そこに行けば入られるものでもないということです。由布子さんは東京から不思議な道を通って、その場所にたどり着きはった。おそらくそれは、時も距離も飛び越えるような特別な道なんでしょう。つまり、そこへの入り口を見つけさえすればええわけなんです。そやから私らが探すのは『その場所』そのものやのうて、『入口』なんです。そして、その入口をみ極め、それを開ける能力をもっとるんは、おそらくこの世に龍ちゃんしか、おらへんのです」
 車内は静けさにおおわれた。カーナビゲーション・システムの音声案内だけが時折響いた。
――次を左折です。
 由布子へたどり着く道は果たして示されるのだろうか。和也は暗い道をライトもなしで運転し続けているような気がしていた。

(六)
                         ◎◎
 ホテルに着くと、すでに十時近かったので一行はすぐにレストランに入り、用意された夕食を食べ始めた。食べながら明日の予定を話し合う。
「何時ころに出発しましょうか」
 和也は朝一番にでも白川水源へ行きたい様子だった。しかし可南子は言った。
「龍ちゃんの霊視ができる時間に合わせなあかんと思います。あの子はいつも明け方に床について、昼すぎに起きるゆうサイクルやから、やはり午後に行くようにしたほうがええんちゃいますやろか」
「そうですね」
 和也はがっかりしたようだったが、すぐにそれもそうだと思い直したふうだった。
「では、明日はチェックアウトぎりぎりの十一時ころに出ることにしましょう。今夜はみなさん、ゆっくりと休んでください」
「確かに、だいぶ時間に余裕がありますね」
 可南子が腕時計をのぞく。圭吾は、可南子がこれから麻雀でもやろうと言い出すのではないかとひやひやしたが、それは杞憂だった。
 部屋はツインが二つで、美子と可南子、和也と圭吾が同室となった。同じ階の向かい側同士である。
「じゃあ、おやすみなさい」
 互いに挨拶をして、それぞれの部屋に入る。可南子は自分のスーツケースを開いたあと、美子に声をかけた。
「ここ、温泉が出るらしいで。入りにいってみようか?」
「いいですね」
 それで二人は連れだって大浴場に向かった。浴場は広々としていて、手入れもゆき届いたきれいなものだった。夜もだいぶ更けてきたせいか入浴客もまばらだ。
「ああ、気持ちええな」
 美子と可南子は、外の露天風呂にのんびりと漬かった。こちらには二人のほかは誰もいないので貸し切りのようだ。露天風呂は、阿蘇の山や森を高い場所から望むように設計されていて、ふちが外ぎりぎりまでにせり出しているため、まるで宙に浮いているような感覚になる。可南子は風呂を囲む岩に腕を預け、少し霧がかった景色をぼんやりと眺めていた。なみなみと満たされたお湯が、動くたびにふちからこぼれ出し、ざざーっという音をたてて滝のように下へ落ちていった。
 美子はちらっと可南子のほうへ目をやり、慌てて自分の体をタオルで隠した。ひそかにため息をつく。美子の胸はちっとも成長しない。
(可南子さんは、着やせするタイプなんだなあ)
 可南子は、
(ここは、ずいぶん霧が出るんやな)
と思っていた。夜とはいえ真夏にしてはずいぶんと気温も低い。
(やっぱり山やからやろか)
 霧のせいか月もほとんど見えない。眼前には墨絵のような黒の濃淡による景色が漠と広がっている。
(確かに京とは違うな。山も、空も、全部大きく感じる)
 外の空気を大きく吸った。湿った草の匂いがした。耳を澄ます。点在する虫の声。あの山のすぐ向こうには、まだ活動を続ける火山があるのだと思うと不思議な気がした。ここには水も火も、同じ量だけあるのだ。
(由布子さんは今ごろ、どこでどんな気持ちでおるのやろ)
 水の底でじっと眠っているのだろうか。そしてその上には火が燃え盛っているのだろうか。
 考えにふけっている様子の可南子の横顔を、美子はそっと眺めていた。髪はくるくると上のほうでまとめ、おくれ毛がふたすじほど細い首にかかっている。その肌は湯気でつややかにうるおい、まるで磨きあげられた白い玉のように美しく光っていた。息を吸う度に胸が上下にふくらんだ。美子は可南子から目をそらした。ふと、狐の言った言葉が思い浮かんだ。
『龍一様は、けして誰のものにもなりませんよ』
 何故、急にこれを思い出したのだろう。龍一が誰かのものになろうがなるまいが、美子にはなんの関係もないのだ。どちらにしても、その誰かとは、美子以外の誰かであることは分かりきっているのだから。それでも、もしその相手が美子の大好きな女性だったら、愛する人と愛する人が互いに一緒にいるのを見ることができたら、美子にとって大きななぐさめになるだろう。きっと二人を同時に愛し続けることができるだろう。
 振り返ると可南子がじっとこちらを見ていた。何故か可南子は、驚いたような悲しいような表情をしていたので、美子はちょっとびっくりした。
「可南子さん?」
 可南子は、はっとしたように微笑んだ。美子も、微笑み返した。
「美子ちゃん、大丈夫? のぼせないうちにそろそろあがろうか?」
「そうですね」
 二人は同時に湯から立ち上がった。

                         ◎◎
 あくる日の阿蘇は快晴だった。霧は太陽が昇るにつれあとかたもなく蒸発し、あとにはただひたすらにさわやかな夏の風が吹きわたった。
 阿蘇のカルデラの平らな部分は水田が広がり青い稲穂がゆれている。それ以外の部分は山の急斜面に至るまですべて青い海原のような見事な草原であった。白川水源に向かう途中のレストランで昼食をとったあと、四人は外に出てこれらの景色を眺めた。
 美子は感嘆して言った。
「とってもきれいなとこね。こんなに一面の草原って見たことないわ」
 圭吾は、視力のよい目であちこちを見やっていたが、
「これはとても自然の風景とは思えないよ。人間の手が入らないと、こんな草原地帯に日本の山がなるはずがない」
「え、そうなの?」
 美子は、驚いて訊き返した。和也もうなずいた。
「確かに、この草原は牛や馬を放牧するためのものらしいですよ。阿蘇の野焼きは有名ですしね」
「え! じゃあ、これ全部、人間が作った風景ってことですか?」
「と、いうことになりますかね」
 確かに遠くには茶色の牛馬らしき点々が見えるが、その数にしては草原の面積が広すぎるのではないかと美子は思った。可南子は日傘をくるくると回しながら遠くの山々を眺めていたが、美子に話しかけた。
「ほんま、面白い地形やなあ。おんなじ高さの山が一直線にずうっとつながっとる。あれが、和也さんの言うドーナツの輪なんかな。いうなれば、うちらは一つの大きな山の中におるということなんやな」
 白川水源は、白川吉見神社という神社の敷地内にあった。というよりも水源を神社が護っているということなのだろう。
石造りの鳥居をくぐると、木立に囲まれたひやりとした空間となる。右に左に豊富な量の水が流れている。木漏れ日の中、水源に向かって参道を歩いてゆく。さらさらという水音が心地よい。神社の拝殿の前に立ち、立札を読んだ可南子はつぶやいた。
「罔象(みずはのめ)を祭ってはるのか。ははあ、なるほどな」
 美子が訊ねた。
「ミズハノメって、どういう神様ですか?」
「竜や蛇と同じように水の神様や。イザナミ神は火の神を産んだときに負った火傷がもとで死んだんやけど、その直前に流した尿(ゆまり)から生まれたのが、ミズハノメと言われておる。水が走るとか、水が這うという意味があるようや。神の姿としては女神で、水は命を育み、よみがえらせることから、子授けや安産の母神として考えられる場合もあるようやね」
「母神ですか……」
 和也は深く感じるものがあったようだった。美子は心の中で繰り返した。
(水は、命を育み、よみがえらせる)
 白川水源は感動的なほどに美しい湧き泉だった。水が湧いている部分は空豆状の池になっている。水深はずいぶんあるようだが、あまりに水が澄んでいるので底との距離感が分からない。長い間水に洗われた清らかな砂を舞い上げるようにして、ふつふつと水が湧き出し、青い水草をゆらしながら水面に丸い輪を無数に描いている。
(砂の中から水が湧き出しとるんは、竜泉と同じやな)
 可南子は思った。水源の水は誰でも好きなだけ汲むことができるとあって、大きな容器を持っている人が何人もいた。可南子はかがんで水をすくい一口飲んでみた。美子や圭吾も続いて飲んでみる。可南子は立ち上がって美子や圭吾を振り返った。
「水の味はどうやった?」
 圭吾は何度もすくって飲んでみたあと、ようやく言った。
「冷たくて美味しいですね」
「美子ちゃんは?」
 美子は少し考えたあと、答えた。
「はっきりした味ですね。それに、ちょっとしょっぱいみたい」
 可南子はうなずいた。
「そやな。軟水は軟水みたいやけど、ずいぶん色んな味が含まれているようやな。森を通ってきていない味がする。岩の味や。火山から生まれた水やからやろな。若干塩辛いのもそのせいやろ。でも、これほど澄んで雑味のない湧き水はやっぱり珍しいな。この水量もたいしたもんや」
 そしてちょっと考えてからつけ加えた。
「原始の水や」
 和也が小声で可南子に訊いた。
「由布子の件はどのようにするんですか?」
 白川水源は観光地の一つであり、夏休み中とあって周りには大勢の人々が入れ替わりに出入りしている。可南子は腕時計を確認しながら答えた。
「龍ちゃんとは夕べ電話で打ち合わせしまして、午後三時きっかりに霊視を始めることになっています。私が水源付近に立って、龍ちゃんが躑躅岡天満宮の本殿内から霊場視をおこないます。龍ちゃんは私を通じて、由布子さんにつながる入口がこの場所にあるかどうかを探るゆうことです」
「この場で霊視ですか? 大丈夫ですか、こんなに周りが騒がしくて」
 和也は水源がこれほど賑やかだとは思っていなかったのでひどく心配そうだった。霊視がうまくいかなければ由布子を見つけることもできない。可南子は和也を安心させるように落ち着いた声でゆっくりと言った。
「私らは周りがどんなにうるさくても、集中する訓練くらいはしとります。それに、実際に霊視をするのは、私ではなくて龍ちゃんですから」
 そうしてもう一度時計を見た。
「今、二時四十五分ですよって、あと十五分ですね」
 三人は緊張した面持ちで可南子を囲むようにして池のそばに立ち、時間がくるのを待った。
待っている間、可南子は腕時計の竜頭を回して時計のねじを巻いた。きゅるきゅるという音が、かすかに響く。可南子は池の底をじっと見つめながら、ねじが巻ききる感触が伝わるまで回し続けた。と、突然、不思議な感覚に襲われた。ねじの音が時そのものであるような感覚。ねじがひと巻きするたびに一つ時を飛び越えていくような感覚。これと同じような感覚を可南子は以前にも感じたことがあった。
(そうや。龍ちゃんが白河に行っているときに竜泉の前で秘文を唱えていたときのことや)
 可南子は、ねじを巻き続けながら目をつむった。すべてがつながり始めているのだ。
『可南子……』
『うん』
 龍一の声が心の中できこえた。いや、それは声という音ではなく、むしろ意志の映像といってもいいのだが。
『準備はいいか?』
『いつでも』
 和也は可南子の異変を感じて声をかけようとしたが、圭吾がそっと肩をつかんで首を横に振ったので、うなずきじっと見守るだけにした。
 可南子は目を開けた。しかしそれは龍一の目だった。視線が可南子の意志とは関係なく、何かを探るように鋭く水の中をのぞいてゆく。屈折する光、ゆらめく水藻、かすかな水音。それは可南子が先ほど感じたものと同じようで、同じではない。そこに重なり合う別の世界を確実にみていた。
 龍一は、躑躅岡天満宮の本殿の中で竜泉をとおして、はるか南の白川水源を面前にあるのと同じようにみていた。自分の後方で、美子と圭吾そして和也がかたずを呑んで見守っているのも分かる。
(ここにいるのは瑞鳳殿の泉と同じく、ミズハノメ神だな……)
 それで龍一は座を正し秘文を唱え始めた。
『恐(かしこ)みも この地を領(うしは)き座(ま)す弥都波能売大神(みずはのめおほかみ)に 謹(つつし)みて勧請(かんじょう)し奉る
 古き御社(みやしろ)に 降臨鎮座し給ひて
 神祇(じんぎ)の祓 可寿可寿(かずかず)を 平(たいら)けく 康(やす)らけく 聞食(きこしめ)て
 願ふ所 感応納受なし給へと 
 誠恐誠惶降烈来座(せいきょうせいこうこうれつらいざ) 敬白(うやまってもうす) 大哉(おおいなるかな) 賢哉(けんなるかな) 乾元享利貞(けんげんこうりてい) 如律令(りつりょうのごとし)
 御身専心にて護り給ひける この清浄の水処(みずどころ)の底地に
 浦山由布子との名をもつ魂の有るや無しや 願わくは我が魂の泉に照らし示し給へ』
 龍一はじっと待った。すべてがゆらぎ、ばらばらになり、そうしてまた形をむすぶまで。やがて、透明でぬるりとした感触のものが現れた。
『弥都波能売大神か?』
 それは、わずかにうなずく。
『浦山由布子と申す魂の在りかをご存じか?』
 ミズハノメは全体をふるふると震わせたが、はっきりとは答えなかった。龍一は重ねて訊いた。
『古き水の道を、東の京、西の京を通って、浦山由布子を導き給うたのは、あなたではないか?』
 ミズハノメの体はつかみどころがないように、大きく熱く広がったり、つまって固く冷たく小さくなったりした。
 龍一は訊ねるのをやめて、ミズハノメをよくみることにした。
(この神は何かを隠している。なんだろう。由布子の魂か? 何を隠しているにしろ、その中にあるのならみえるはずだが。ミズハノメは水の神だ。水は流れ、形のないのが、本性。弥都波能売とはすなわち罔象だ。罔象とは象(かたち)が罔(ない)の意。罔は欺罔(きもう)の罔……)
 龍一は、はっとした。
(そうか。ミズハノメが隠していたのは、有ることを隠しているのではなく、無いことを隠していたのか)
『可南子』
『はい』
『この場所は違ったようだ。ここには由布子さんに通じる入り口はない。白川の水は違う水だ』
 龍一の目は閉じられた。可南子は急に視界が狭くなって思わずふらついた。圭吾が慌ててそれを支えた。
「大丈夫ですか、可南子さん」
 可南子はめまいと戦いながら、なんとか焦点を合わせようとした。現実がひどく色あせて見えた。あまりに多くのものがみえすぎていたことへの反動だ。圭吾と美子が、可南子を近くの茶店の椅子に座らせてくれた。出てきたそば茶を一口飲み、バッグからミルク飴を一粒口に入れる。体が糖分を必要としていた。ようやく心と体の統一がとれると、真剣な表情で自分を見つめている和也に言った。
「ここは違ったようです」
 和也の顔が暗く曇った。圭吾が言った。
「それじゃあ、やっぱり根子岳まで行ったほうがいいんじゃないスか?」
「そうやない。この、白川自体が違う水やったんや。上流に行っても同じことや」
 圭吾も重いため息をついた。美子が訊いた。
「すると、これからどうしたらいいんでしょうか。この白川が違うとすると?」
 可南子は熊本県の地図を広げた。
「そうやな。熊本にはほかにも何本もの川がある。特に白川の南の緑川と、北の菊池川が大きなものみたいや。どちらにしてもこれからのことは龍ちゃんと相談しながら決めなあかんやろけどな」
 そこへ可南子の携帯電話が鳴った。躑躅岡天満宮の築山からだった。
「可南子様。お疲れ様でございます」
「おおきに。龍ちゃんは?」
「龍一様は四時からのお客様とお会いになる準備をされております。代わって私が龍一様からの伝言を申し上げます。今日は熊本市内のホテルに泊まってくださいということです」
「熊本市内の?」
「はい。予約は私がいたします。場所はあとでメールでお送りします。今後の方針は龍一様より追って伝えるそうですが、どちらにしても次の霊視はあさってにおこなうとのことです」
「あさって? なんで明日じゃないん?」
「それは可南子様の疲労が先ほどの霊視で思いのほか大きかったので、一日おいたほうがいいだろうという龍一様の判断がおありのようです」
「…………」
「可南子様のお疲れがきちんととれませんと、龍一様の霊視もうまくいきません」
「うん。分かったわ」
「それでは、みなさまによろしくお伝えください」
 可南子は築山との電話を切って、その内容を三人に伝えた。
「なるほど。それじゃあ、しょうがないっスね」
 圭吾と美子は納得したようだったが、和也は落胆の色を隠せないようだった。口では何も言わなかったが『こんなことで、本当に由布子が見つかるのか?』という疑念の気持ちでいっぱいになっているのが分かった。しかし可南子とてそれをどうしようもなかった。ここまで来た以上、龍一の指示に従うしかない。駐車場へ戻る途中で築山からメールが入り、ホテルの所在名称と電話番号が送られてきた。
「圭吾さん。申しわけないですが、車の運転を代わってもらえませんか」
 和也は、とみに気力を失ったようだった。そこで圭吾が運転席に乗りこみ、可南子と美子が後ろに座った。和也は助手席のシートを少し倒して、熊本市内へ向かう移動中ずっと目を閉じていた。しかしまったく眠っていないのが身じろぎの仕方で分かった。
 可南子も、頭を窓ガラスにもたれかけさせ、流れる阿蘇の景色をぼんやりと眺めながら車内の重苦しい雰囲気を味わっていた。確かに龍一の言うとおり二日続けての霊視に耐えられる自信がなかった。体の疲れ方は、去年の竜泉での霊場視の訓練のときのほうが、ひどいように思えたが、今はまた違った疲労感が可南子を襲っていた。それは一種、孤独感に似たものだった。この場所では可南子は誰からも護られておらず、誰ともつながっていないという気がしていた。京では生まれたときから慣れ親しんできた山や水が可南子の力の源だった。竜泉は可南子から奪いもしたが、それ以上に与える存在でもある。しかしここは、可南子のみ知らぬ土地で、空も山も水も、少しずつ知っているものとは違い、彼らもまたよそよそしくただ遠くから眺めているだけなのだ。
 ふと、可南子は腿に柔らかな感触を感じて目を下ろした。美子の霊孤が可南子の足に頭だけをのせている。尻尾は長くのばして隣の美子の腿をぱたぱたと猫のようにはたいていた。可南子は霊孤の頭を撫ぜ、美子と目を合わせてにっこりした。霊孤の金色の毛は重さをもった光のように暖かかった。可南子は、美子がこんなにもこの霊孤を愛し大事に思うわけが分かった気がした。霊孤は心そのものだった。いのちといってもいい。あやふやで、今にも消えそうで、それでいて、なによりもあたたかい魂の働き。人はこんな弱弱しいものから生きる力を得ているのだ。
「ありがとな、ふーちゃん」
 ふーちゃんはちらりと目を上げ、それからまた気持ちよさそうに可南子の手の中で目をつむった。
                         ◎◎
 ふーちゃんのおかげで、ホテルに到着したころには可南子自身はだいぶ楽になった気がしていたが、一方、和也はすぐに『疲れたので』と言って、むっつりと自分の部屋に引き籠もってしまった。夕食もいらないという。
「まあ、和也さんの気持ちも分からないではないですがね」
 ホテル内の中華レストランの席に着きながら圭吾が言った。和也以外の三人も繁華街まで食べに行く元気がなかったのでホテルの中で夕食をとることにしたのである。ホテル自体は熊本市内でも最高ランクのもののようで内装や設備は豪華だったし、中に入っているレストランもみな高級だった。しかし今日は圭吾でさえもあまり食欲がないようだった。メニューを開きながら言う。
「何を頼みますか。コースじゃ多いですしね」
「私は、何か一品料理でええわ」
「一品スか? じゃあラーメンとか?」
「熊本まで来て、ラーメンというのもな……」
「それでしたら、太平燕(たいぴーえん)は、いかかがでしょうか?」
 そばに控えていた店員が勧めた。
「もともと中国は福建省の郷土料理だったものを華僑が伝えたものらしいのですが、次第に地元でアレンジされるようになって、今では熊本独自の料理になっています。春雨の入ったスープに、五目炒めと揚げ卵がのっています。とても美味しいですよ」
「春雨か。ええな、それ」
「あ、じゃあ、あたしも同じものを」
 美子も言った。圭吾が続く。
「オレも。……と、それから焼き餃子」
「かしこまりました」
 店員はにっこりしてメニューを下げると去って行った。サービスの鉄観音茶を注いで飲みながら、圭吾は話を続けた。
「夕べ、オレは和也さんと同じ部屋だったんですがね。ずうっと由布子さんの話ばっかりしているんですよ。見合いだったけど一目ぼれしたとか、ヨーロッパに新婚旅行に行った話だとか、美人の上に料理がとってもうまいとか。正直へきえきもしましたけど、やっぱり奥さんを愛しているんですね。明君の事故のことでも、由布子さんのつらさをもっとよく分かってあげればよかったと、しきりに気に病んでいましたよ。もし由布子さんに会えたら強く抱きしめてあげたいって言ってましたね。何回も、白川水源で由布子さんが見つかるだろうかって訊くんで、オレも、龍一様ならいつか必ず探してくださいますよと答えたんですがね……」
 そうして圭吾はため息をついた。三人分の太平燕と一人前の餃子が運ばれてきて、三人は箸をとった。太平燕は、鶏がらの上品なスープに、つるつるとのど越しのよい春雨と海鮮と野菜の炒めものがたっぷりと入り、確かに熊本名物というだけあって美味しかったが、三人はただ黙々と食べた。可南子は自分のせいで明日の霊視ができないことを気にしていたし、美子は今のところ自分がさっぱり役にたっていないことで和也にも龍一にも申しわけなく思っていた。おまけに由布子の行方不明に、サクヤヒメ、つまり美子の母の咲子がかかわっていると龍一が言ったことがひどく引っかかっていた。
(お母さんの生まれ故郷に由布子さんが連れていかれたって、どういうことなんだろう。由布子さんが通った道は、昔、お母さんが通った道でもある。由布子さんは誰かに導かれて、その道を通ってお母さんの故郷と同じ場所に行った。由布子さんを導いた誰かって、いったい誰なの? まさかお母さん? 龍一は違うと言ったけど、龍一は竜泉でみえたことを本当に全部話したのかしら……)
 圭吾は香ばしく焼き上がった餃子を食べながら、
(和也さん、腹減っていないのかな)
と思うにつれ、こうして食事をしていることにも罪悪感を覚えるくらいだった。しかし今夜は和也と同じ部屋でなくてよかったとも思った。築山はシングルを四つとっていたからである。
 静かな夕食が終わると、三人はテーブルから立ち上がり店を出た。そして各々の部屋に散らばっていった。それぞれの思いを胸に抱えて。
                         ◎◎
 次の日の朝、可南子はぱちりと目が覚めて、勢いよく起き上がった。すぐに由布子の捜索が昨日の時点で不調に終わったことを思い出したが、夕べよりも気分は沈んではいなかった。もともと快活で楽天的なたちなのでそういった感情が長続きしないのである。それに体調も上々で今から霊視を始めてもいいくらいだった。
(そやけど龍ちゃんはうんと言わへんやろな。あの子は一度言ったことは変えへんから)
 しかし一日中何もしないで、ぼんやりしていることは可南子の性質に反していた。可南子はシャワーを浴び、化粧をしたり身支度を整えながら、目まぐるしく頭の中で考え続けていた。
(そや、そや。そうしよう)
「和水町にドライブに行きたいですって?」
 朝食の席で、圭吾は可南子に呆れたように言った。美子もいるが和也は相変わらず姿を見せていない。可南子は、かき卵をたっぷりとのせたクロワッサンをほおばりながら答えた。
「ドライブゆうのは語弊があるなあ。いうなれば敵情視察や。つまり和水町は旧菊水町やろ。ということは、千二百年前、我が菊水家のそもそもの根拠地であった、かも知れん処や。一方、サクヤヒメが生きておった神話の時代はそれよりは数百年はさかのぼると思われるけれども、千二百年前に人が住んでいた土地なら、サクヤヒメの時も、そこに国があった可能性があるんやないのかな」
「つまり、菊水家とサクヤヒメがいた場所は、同じ土地かも知れないってことですか?」
 美子が少し興奮して言った。
「そのとおり」
 そうして可南子は、小さく折りたたんで持ってきていた地図をとり出すと、テーブル上のティーポットに立てかけ、ソーセージを突き刺したフォークで和水町辺りをさし示した。
「菊水の町には、菊池川ゆう比較的大きな川が流れていて、この上流には山鹿(やまが)盆地や菊池平野があり、一方下っていけば玉名平野があって、最後は有明海につながっている。また、背後の北には、筑肥山地(ちくひさんち)や阿蘇のふもとの山々がある。山、川、平野、そして海。どうや? 国作りにぴったりの条件がそろっていると思わへんか?」
「なるほど……」
 圭吾もうなずいたが、
「じゃあ、龍一様に連絡をして、この菊池川の上流が由布子さんのいる場所に通じているかどうか、霊視をお願いしたらいいんじゃないですか?」
と言った。可南子はグリーンアスパラをぽりぽりとかじりながら首を横に振った。
「あかん。龍ちゃんは今日一日は私を通した霊視をせえへんゆうたからな。そもそも竜泉だけの霊視ではっきりしたことが分からへんから、私らが直接ここに来たわけやろ」
「だったら、明日まで待ったらいいじゃないですか」
「いやや、そんなん。龍ちゃんの言うとおりで、つまらんやないの」
 可南子はきっぱりと言った。圭吾が困惑したように、
「つまる、つまらないの、問題じゃないと思いますけど。それに、明日の霊視に備えて可南子さんには十分休んでいただく必要がありますよ。どうしても行きたいなら、一応、龍一様に断ってから……」
と言いかけると、可南子は手のひらでぱちんと勢いよくテーブルを叩いた。
「それが気にくわんのや! 私はあの男の部下でもなんでもないんやで! なんで外出するのに、いちいち龍ちゃんの許可をとらなあかんねん」
「だ、だからそれは、霊視に関しては、やっぱり、守護主様の指示に従わないと……」
 可南子はつんとした。
「私は守護家やないもん。守護主なんて関係あらへんわ」
 圭吾はがっくりうなだれた。
「美子ちゃん。君も、可南子さんに何とか言ってやってくれよ」
 美子は、じっと地図を眺めていたが、
「あたしも、菊水の土地を見てみたいな」
と言ったので、圭吾は慌てた。
「ちょっと、ちょっと。美子ちゃんまでそんなことを言い出さないでよ」
「だって、もし明日の霊視を菊池川でするとしても、もっとずっと上流でしょ。和水町には行けないと思うわ。そしたら今日しか機会はないし」
「でも、可南子さんの体力の問題が……」
「圭吾。あんたに私の体のことを心配してもらう必要性はまったくありませんな。私は絶好調なんやから」
 圭吾は、可南子の前に並んだ空の皿に目をやり、不承不承うなずいた。
「確かにお元気みたいですね。……どうしたんスか。朝は食べないんじゃなかったんスか?」
 可南子はデザートのヨーグルトをすくいながら答えた。
「なんや、今朝はやけにお腹がすくんや。ま、いつもは昼近くにしか起きへんゆうこともあるけどな」
 美子が加えるように言った。
「どう? 圭吾君。可南子さんは元気みたいだし、車で行けばそんなに疲れないんじゃない? それに、霊視は体力じゃなくて、霊力の回復が問題なんだと思うわ。むしろ可南子さんの行きたいところに行って、気分転換をしてもらうのもいいんじゃない?」
「うーん」
 圭吾はうなったが、可南子は言い放った。
「圭吾。あんたが悩もうが悩まんが、私の行動にちいっとも影響ないんや。ええから、さっさと車の手配をしてや。これからあとすぐに出かけるんやから」
 圭吾は頭痛がするように額を押さえたが、しまいに言った。
「分かりました。オレがとめたって結局は行っちゃうんでしょうから、お供しますよ」
 可南子は満足そうに、にんまりした。
「分かればええねん」
                         ◎◎
「和也さんも、どこかに出かけちゃったみたいです」
 菊水行きに和也を誘いに行った圭吾は、美子と可南子が待つロビーに戻って来ると、こう報告した。美子はびっくりした。
「どこかって、どこに?」
 圭吾は、向かいのソファに腰を下ろしながら首を横に振った。
「分からない。部屋にはいないし、フロントに訊いたら、今朝早くルームキーを預けて外出したそうなんだ。念のため駐車場を確認したら、昨日のレンタカーもなかった。車でどこかに行っちゃったんだよ」
「和也さんのケータイにかけてみたら?」
「かけてみたけどドライブモードになっているんだ。一応、連絡をほしいって伝言を入れておいたけど」
「霊視が思うように進まないんで、腹たてて東京に帰ったんやないやろな」
 可南子が言ったので、美子と圭吾はぎょっとした。圭吾は無理に笑った。
「まさか。一日くらいで和也さんは根をあげたりしませんよ。レンタカーだって一週間、借りていますし」
「それこそ、気分転換にドライブでもしに行ったんじゃない?」
 美子は言ってみた。
「私らになんも言わずに?」
 可南子が眉をひそめた。圭吾はぽりぽりと首の後ろをかいた。
「まあ、いずれは連絡がくると思います。昨日は和也さんもだいぶ落ちこんでいたようでしたから、美子ちゃんの言うとおり気分転換をしに行ったのかも知れませんね。どうしますか? こっちはこっちで出発しちゃいますか?」
「そやな。留守電に行き先を入れておいたら、あとで合流できるかも知れへんし」
「了解しました。じゃあ別のレンタカーをフロントで手配してきますよ」
 圭吾はもう一度立ち上がり、フロントへ向かって歩いていった。それを見送ったあと美子は可南子と顔を見合わせた。
「和也さん、どこに行っちゃったんでしょうね?」
 可南子は肩をすくめた。
「つまりは私と同じ考えなんやないの?」
「同じ考えって?」
「一日だって時間を無駄にしたくないってことや。むろん、和也さんのほうが私らなんかよりも由布子さんを探す気持ちがずっと強いわけやから、そう思う理由だって大きいやろ。霊視ができないんなら、せめて自分の目で探しに行きたい。たとえそれで見つかる可能性が零に近いとしても、彼女に少しでも近づきたい。そう思って自分の心あたりの場所でも回っているんちゃうかな?」
 美子は黙ってうなずいた。
 しばらくして圭吾が、車の鍵をくるくる回しながら帰って来た。
「ちょうど別の客が返却してきた車を借りることができました。すぐにでも出発できますよ」
                         ◎◎
 和水町菊水へは、可南子の提案で、菊池川をさかのぼる形で行くこととなった。
「熊本市内から国道三号線を北上して、途中で二〇八号線に入ると玉名市や。ここで右に折れれば菊池川沿いに菊水に行けるな」
「分かりました」
 圭吾は、もう可南子に意見することをあきらめた。心の中では、
(熊本から菊水に行くなら、高速を通れば楽なのになあ)
と思ったが、可南子は、下の道路で川沿いに走ることにこだわっているようだったので何も言わずに車を走らせた。
 熊本市内から玉名市までは一時間程度の道のりだった。熊本市内から二〇八号線に入ると、とたんに辺りは畑が多い景色となる。ゆるやかにカーヴを描く道路をひたすら西に向かうと玉名市に入る。すぐ面前に、真夏の太陽を受け白く光る大きな流れが見えてくる。菊池川だ。その菊池川にかかる橋を渡り、すぐに北へ進路を変える。道は川に近づいたり少し離れたりしながら、菊水へ向って北上してゆく。菊池川は確かになかなか大きな川だった。といっても玉名の町も菊池川も、見たところ何の変哲もない典型的な地方小都市であり、日本中どこにでもある川の一つのように思えた。しかし可南子も、そして美子も、何かを期待するようにじいっと外の景色を眺めていた。
(いや、そうじゃない。この二人にとっては、まさにここは自分の血の根源となる地なんだ。いわゆるアイデンティティーの確認ってやつだな。自分はいったいなにもので、どこからきたかを知ることは、精神の安定に絶対に必要なことなんだ)
 圭吾は、可南子が菊水に行きたがった理由がようやく腑に落ちた気がした。霊力の安定は精神的安定を土台とすることを、圭吾は自分の退魔の経験から身にしみて知っていた。いくら霊力を高めても、その発現が不安定であれば相手の霊につけこむすきを与えてしまう。
 圭吾は、自分の精神が動揺していると感じるときはいつも津軽の実家である蛇木神社のことを考えた。仙台の土居家は確かに数千年前から東北に君臨していたヒタカミの王の正統な血の流れをくむといわれているが、そのヒタカミ王がもともといたヒタカミの都は津軽の地にあったのだ。そして初島家は、ヒタカミ王に一番そば近く仕えていた重臣の血をひく由緒正しき一族なのである。守護家の中でも、いや数百年前に仙台に落ち着いた土居家と比べても、血と地がもっとも一体となっている一族こそ初島家であるのだと、圭吾は小さいころから父親に言い聞かされていた。
『もしお前が迷ったり不安になったりしたときは、津軽の地を思い出すがいい。津軽はお前がどんなに遠くにあっても、お前の力の源になってくれるだろう。お前はここで生まれ、お前の祖先もここで生まれてここで死んでいった。お前の中にはやむことのない津軽の血が流れ、お前を形づくっている。お前がどこに行くべきか自分自身の中に答えを見出すことができなくなったら、一度津軽に問うことだ。津軽はいつのときもお前が帰るべき場所なのだから』
 圭吾が日本中の霊場を回りに行く旅に出ると告げた時、父親はこう言った。この言葉が、今でも圭吾の心の護りとなっているのだった。
 急に道の両側に小高い山が迫ってきたかと思うと、そこが菊水だった。菊水は、山あいの菊池川沿いにある小さな町だった。町の作りは雲ヶ畑に似ているが、雲ヶ畑ほど険しい山に囲まれてはいない。川自体も上流ではなく中流の比較的大きな流れを保っているせいか、空も近く広く感じた。町の規模も空の大きさも雲ヶ畑と涌谷の中間くらいの印象だ、と美子は思った。
 菊水の最大の目玉は、何といっても江田船山古墳(えたふなやまこふん)ということになっている。これは、五、六世紀にこの地に築造された古墳で、豊富な副葬品があることで有名だ。古墳の周辺は広々とした公園になっていて、古墳はもちろんのこと古代から近代までの復元住居や歴史民俗資料館が建てられ、全体が歴史を感じることができる一大広場となっているのであった。
 美子たち三人は車を降りて、まず江田船山古墳そのものに行ってみた。小高い古墳を上ると半分地面に埋まったようにして石室への入り口がある。そこは保護のために頑丈な石のレンガや鉄製の扉が設けられていた。しかし管理人はなく、自分で扉を開けて、照明の点灯消灯もすべてセルフサービスとなっているところが面白い。国指定の史跡にしてはそっけないほどの設備であるが、古墳はまぎれもない本物だ。中に入ると曇ったガラスの向こうに、ぼんやりと家の形をした石棺を見ることができ、美子は、この中にかつての豪族が眠っていたのだと思い感動した。ちらりと横を見ると、可南子も息をつめて石棺に見入っている。この場所が自分の祖先の墓かも知れないのだ。美子はふと考えた。
(あたしのお母さんのサクヤヒメは、これよりももっと古い時代に生きていたとすると、ここにいた人はその子孫ってことになるのかな。なんか変な感じ……)
 その後、公園内の施設の一つ、肥後民家村に入った。この中にある歴史民俗資料館に、江田船山古墳から出土した品々が展示されているはずなのだ。資料館はまるで町内会の集会所と見まがうかのような小さな建物だった。入館料はなんと無料である。縄文時代から古墳時代までの出土品がここに展示されているということだ。美子たちは、江田船山古墳から出土されたという華麗な副葬品の数々を期待していたが、出土品は国宝指定され、現物はすべて東京上野の国立博物館に収蔵されており、菊水にあるのはレプリカのみと知ってがっかりした。
「国宝なら、タダで観られるわけないわな……」
 可南子がつぶやいた。しかしレプリカといっても、なかなか精巧なもので鑑賞に十分耐えるものである。不思議な神獣の文様がつけられた鏡や、青黒く光る玉の首飾り、金と銅で作られたというきらびやかな冠、そして銀で文字や絵が象嵌(ぞうがん)された鉄の太刀などが、所せましと並べられている。美子は特に太刀に惹きつけられた。ほんの数ミリの峰の部分に彫られた漢字は驚くほど細かく、刀身の根もとに描かれた馬や鳥や魚の絵は、実にかわいかった。馬は『天馬』という説明があるが、前脚のつけ根と尻辺りに二つの渦巻きのようなものがあり、体全体に波のような毛なみが描かれているだけで、ほかは普通の馬と変わりないように見えた。
「これのどこが天馬なんスかね?」
 圭吾が疑問を声に出した。
「天馬っていうと、つまりはペガサスでしょう。翼があってよさそうなものだけど」
 可南子も首をひねったが、
「たぶん、この足のつけ根の渦巻きが翼を意味しているんちゃうかな」
と言った。
「えっ、これが、ですか? ずいぶん頼りない翼ですねえ。こんなんで空を飛べるんスか?」
「さあ。でも、たとえば龍でも翼竜なんかは、同じように足のつけ根に翼を生やした姿で描かれているけど、それもなんや、カマキリの羽みたいなちんけなもんのことが多いしな」
「このぐるぐるが翼ですか……」
 圭吾は何だか納得いかないようにつぶやいた。美子は思い出して言ってみた。
「そういえば龍一が、神獣には巻き毛があることが多いって言ってたよ。獅子の毛もカールしているのが特徴なんだって」
 すると圭吾は俄然、信用するふうになった。
「なるほど! 確かにこれは巻き毛みたいにも見えるな。よく見ると、このたてがみも、なんだかパンチパーマかリーゼントみたいに見えるぞ」
 可南子は噴き出した。
「天馬がパンチパーマかいな。えらい悪いやつみたいやな」
 美子も笑った。
「でもこうしてみると、これが一五〇〇年前に描かれた絵だなんて信じられないですね。本当にこの場所にあたしたちと変わりない人たちが住んでいて、絵や文字を書いたり色々なものを作ったりして生活していたんですね」
「ほんまやなあ」
 可南子も感慨深げにうなずいた。
 肥後民家村にはほかにも江戸時代の民家が移築され見学できるようになっている。可南子は施設を出るとき募金箱に五千円札を投げこんだ。
「何といっても、ここは私の名前のついた土地やからな」
 駐車場への道を進みながら、
「さて、これからどうしますか?」
と、圭吾が訊いた。可南子は日傘の下から答えた。
「そやなあ。菊水の土地をみるゆう目的はたいがい達したしな。美子ちゃんは、ほかに行きたいとこある?」
 美子はハンカチで汗をふきながら言った。
「そうですね。正直、ちょっと休みたいですね」
 そうして空を見上げた。太陽は高く昇りひどくぎらぎらと照っていた。遮るものがない広い公園の中を歩き回って、美子はかなりばて気味だった。可南子も扇で顔をあおいだ。
「そやな。だいぶ暑うなってきたな。さすが火の国や。京の夏の蒸し暑さに慣れとる私ですらこたえるんやから、美子ちゃんはもっとしんどいやろ。圭吾も北の生まれやから暑さは苦手かな?」
 圭吾はTシャツの上から腹をさすりながら答えた。
「オレは、暑さでというよりも空腹で目まいがしそうですよ」
 可南子は腕時計を見て笑った。
「そういや、もう十二時を回っているわ。圭吾の腹時計は、さすが正確やな。そんなら、どこかで昼ご飯にしようか」
「もう菊水はいいんですか?」
「そやね」
 すると圭吾は急にはりきったようになった。
「じゃあ隣の町の山鹿に行きませんか? そこにある店で馬肉のカレーを出すらしいんスよ」
 三人は駐車場の車にたどり着き、圭吾は運転席、美子は助手席、可南子は後部座席に乗りこんだ。
「カレー? ここまで来て、またカレーが食べたいん? あんたそういや京でもカレーを食べてたな」
「でも馬肉ですよ。馬肉カレーなんて、きっと熊本でしか食べられませんよ」
「いつの間にそんな店を調べたんや。食べ物に関しては、ほんま、まめなやっちゃな。私には、これは観光じゃないなんてゆうときながら」
 圭吾はもぐもぐと口の中で言った。
「いや、一応熊本の本を持ってきていましたので、さっき出かける前にちらっと見てみたら目についただけなんですが……」
 美子は圭吾が持ってきたガイドブックを広げて見てみた。
「山鹿って温泉町なんですね」
 可南子も本をのぞきこんだ。
「温泉があるん? ええな。食事のあと温泉に入るゆうのも、アリやな。汗をだいぶかいし」
「じゃあ山鹿に決定ですね」
 圭吾が嬉しそうに言った。可南子と美子は一緒に笑った。可南子が言った。
「そんなら運転手さん。お願いしますわ」
 山鹿は菊水と同じく菊池川流域の町だったが、山間にある静かな菊水と違って温泉場らしくなかなか賑やかだった。圭吾念願の馬肉カレーを食べたあと、三人でぶらぶらと町を散歩する。江戸時代には参勤交代の大名行列が通る宿場町として栄えたそうで、今でも古い商家が道の両側に立ち並び昔の雰囲気を伝えている。人力車が行き交い、足湯を楽しめる場所が整備され、旧家を改装した土産物屋があるなど、観光地としてもだいぶ力を入れているようだった。町の見物をしたあと街道近くの温泉旅館によって訊いてみると、ちょうど開いていた個室を借りることができた。三人はすっかりくつろいで、そこで温泉に入ったり、料亭料理をつまんだりと、二時間ばかりもそこで遊び、元気いっぱいになって旅館をあとにした。
 外に出るとすっかり日も傾き始めていたので、三人は熊本のホテルに戻ることにした。山鹿市から熊本市内へは国道三号線を通って一直線で行くことができる。熊本へ南下している最中に圭吾の携帯電話が鳴った。圭吾が運転中だったので美子が代わりに出た。
「はい」
 相手が、男性の声で言った。
「もしもし、浦山です」
「和也さん?」
 美子驚いたような声に、後ろの席で眠っていた可南子も目を覚まして耳をそばだてた。
「今、どこにいらっしゃるんですか? ……あ、もうホテルですか。……はい。あたしたちも戻る最中です。六時すぎには着くと思います。……ええ、じゃあ六時半にホテルの中にある和食店ですね。分かりました。失礼します」
 そうして美子は電話を切った。
「和也さんは、どこに行っとったって?」
 美子は振り向きながら答えた。
「そこまでは聞きませんでしたが、ホテルで一緒に夕食をとる約束をしましたので、そのときに話ができると思います」
「そっか」
 可南子は、またシートにもたれたが、もうぱっちりと目が覚めたようだった。じっと宙を見つめていた。圭吾は黙ってどんどん車を走らせている。美子は今の和也の声の調子を思い出していた。昨日よりも声に力が出てきていたように思ったのは気のせいだろうか。
(和也さんも気分転換ができたのかな)
と思った。
 ホテルに着いて、すぐに三人で指定された料理屋に入ると、和也はすでに個室の中で待っていた。
「すんません。遅うなりまして」
 可南子は謝りながら座敷に入って和也の向かいに座った。和也はにこりとした。
「いえ。私こそ、みなさんに何も言わずに出かけたりしてすみませんでした」
「どちらに行っておられたんですか?」
「実は、菊池渓谷というところに行っていたんです」
「菊池渓谷?」
「はい。菊池川の上流にあたる場所です」
 美子は圭吾と顔を見合わせた。可南子が訊いた。
「つまりそれは……」
 和也は、こくりとうなずいた。
「ええ。白川の次のことを考えましてね。もちろん、次の場所については土居先生のご指示を仰ぐことになってはいましたが、熊本県内で第二候補として考えられるのは、やはり菊池川じゃないかと思ったんです。土居先生も、先日、菊池平野のことをおっしゃっていましたから。まあ、私が行ってもどうにもなるわけじゃないでしょうが、じっとしていられず、今朝早く衝動的に出発してしまったのです。ご心配をおかけして申しわけありませんでした。それに昨日はみっともない様子をお見せしてお恥ずかしい。困難は承知で出発したはずなのに、一日目でへこたれるなんて本当に情けないです」
 和也はぺこりと頭を下げた。可南子は慌てて言った。
「そんな。私のほうこそ、霊視を続けてすることができませんで申しわけないと思っていますのに……」
 圭吾と美子も、きまり悪そうに下を向いた。二人とも山鹿温泉では由布子のことをいっとき忘れて、観光気分でいたことを思い出したのだ。
 和也は頭を上げてにっこりした。
「菊池渓谷では電波が入りませんでしたので、ホテルに戻ってから圭吾さんの留守番電話をようやく聞いたのですが、あなた方も菊池川に行かれたそうですね」
「え、ええ、まあ、そうどすね。菊水と……、山鹿というところに行きました。上流ではなく、中流付近ですが……」
 可南子は少し顔を赤くした。
「つまりそれは、私と同じく、菊池川が怪しいとお思いになったからでしょう?」
 和也が身をのり出す。可南子はちょっと目を丸くしたがうなずいた。
「はい。そもそも菊水は私の家系が千二百年前に出自した土地でもありますし、そうであれば、古代のサクヤヒメの時代にも国があった可能性が高いのではないか思いました。菊水には菊池川という川も通っていますし、龍ちゃんの言った条件に合うてるようでしたので」
 和也は目を輝かせた。
「やはりそうですか。私たちの考えは同じだったみたいですね。そして、どうやら土居先生も、そうお考えのようなのです」
「えっ。といいますと?」
 和也は一枚のメモをとり出し、三人の前に広げた。
「私がホテルに戻りましたら、フロントに土居先生からの伝言が届いていたのです」
 可南子と美子と圭吾は、そのメモの上に額をよせた。そこには、
『明日の夜、午後十二時ころに、菊池渓谷上流にて、由布子さんの霊視をおこないます』
とあった。
「菊池渓谷!」
 美子が思わず声を上げた。和也の頬が紅潮した。
「そうです。菊池渓谷です。土居先生もやはり、菊池川の上流を次に考えておられたようですね」
「明日の夜中ですか……。菊池渓谷の入り口ってどうなっているんスか? 夜は入れないようになったりしないですかね?」
 圭吾の問いに和也が答える。
「たぶん大丈夫だと思います。一応入り口に営業時間の記載がありましたが、それは併設されている事務所や店に関するものだと思います。どうせ夜中は無人になるでしょう。たとえ入口が閉まっていたって入りますよ。渓谷は逃げませんからね」
「そうっスね」
「菊池渓谷って、どういうところなんですか?」
 美子が和也に訊ねた。
「素晴らしくきれいなところですよ。原生林がそのまま残っていましてね。大小いくつもの滝がところどころにあります。滝壺の水が深いブルーで印象的でしたね。川沿いに遊歩道も整備されているので、上流に行くのにも不便はないです。ただ、たぶん照明などはないので、夜でしたら懐中電灯を持って行く必要はあると思います」
「じゃあ、明日、買いに行かなきゃなりませんね」
「二本はあります。山歩きの準備にと思って持ってきていましたから。もっと必要であれば買い足しますが」
 可南子が何かを考えているように、ゆっくりと訊いた。
「……明日の夜は、晴れるでしょうか」
 和也が即答した。
「さっき電話の予報サービスで確認したところ、快晴のようです」
 可南子はしきりに腕時計を見ていたが、やがて言った。
「それなら懐中電灯は二つで間に合うと思います。明日の夜は満月ですから」
「よく、明日が満月だと知ってますね」
 圭吾が言うと、可南子は自分の腕時計を見せた。
「私の時計にはムーンフェイズ、つまり月相表示機能がついているんや」
 確かに、可南子の腕時計の文字盤には、金色の月が少しだけ欠けた形で表れていた。和也は感心したように時計の月を眺めた。
「満月ですか。であれば夜道も少しは楽ですね。……それにしても、なぜ土居先生は、わざわざ真夜中の十二時という時間を指定なさったんでしょうね。お仕事のご都合ですかね」
 それに答える可南子の声は、若干緊張したように震えていた。
「おそらく、龍ちゃんは、明日の夜、この菊池川で必ず由布子さんへの道をみつける、その決意があって、この時間をあえて指定したんやと思います」
「そ、それは、どういうことですか?」
「この時間に、満月が正中の位置、つまり子午線における真南を通り、かつ一番高く天に昇るからです。そして、私らの力は、この日この時が、もっとも強くなるのです」
「つまり、本番ってわけですか……」
 和也の声も、おのずからはりつめたものになる。可南子はうなずいた。
「満月は、ひと月に一日しかきません。そしてその日のうちでも、満月の正中は、この一瞬間のみです。龍ちゃんが何も考えずにこの時間を指定するわけはありません。この時間、この場所に、龍ちゃんはかける気なんやないでしょうか」
「明日、菊池川で由布子への道が開ける……」
 和也は夢をみるようにつぶやいた。
 そこへ料理が運ばれてきた。『さくらコース』というのを四人前頼んだのだが、どうやらそれは馬肉料理のコースだったらしい。馬肉刺しから始まって、馬のレバ刺し、馬ホルモン焼き、馬肉しゃぶしゃぶ、馬握りと、まさに馬づくしの料理が続く。
 可南子は和也に勧めた。
「さあ、和也さん。たくさん食べて精をつけてください」
 しかし和也は手を振った。
「いや。私はなんだか胸がいっぱいですので。それよりも可南子さんこそ明日のために力をつけておいてください。私の分もどうぞ」
「それでは、お酒はどうどすか? 最近あまり寝ておられないんやないですか? 明日はよる夜中の出発ですし、今日はきちんと寝ておかなあかんですよ」
「そうですね。では、いただきましょうか」
 可南子は『鴨の舞』という古酒の米焼酎を頼んだ。樽で熟成されたというだけあって、極上のウイスキーのような深い味わいである。可南子は、
(米焼酎で、こんなお酒があったんやな)
と感心して飲んでいたが、和也は酒の味などろくに分からぬようだった。圭吾と美子はウーロン茶を飲んでいる。圭吾は、和也が手をつけない料理を片はしから胃袋に納めていっていた。
 最後のマンゴーのシャーベットが出た直後、和也が顔を赤くしてばったりとテーブルの上にうつぶせになった。圭吾は驚いて和也をのぞきこんだ。
「和也さん。大丈夫っスか?」
「大丈夫や。寝てはるだけや。気ィはってたんが少しほぐれたんやろ」
 可南子は、平然としてシャーベットを口に運んで言う。
「というよりも、可南子さんにつぶされただけじゃないスか?」
 圭吾は焼酎の瓶を振ってみせた。七五〇ミリリットルの瓶がほとんど空になっている。
「まさか。そんなくらいでつぶれる人もないやろ?」
「そうですかねえ……」
「ま、これで和也さんも今夜はぐっすり眠れるやろ。明日は午後に起こしてやっても十分間に合うやろし。圭吾。あんた、あと和也さんを部屋まで連れて行ってやってな」
「分かりました」
 可南子は名残惜しそうに焼酎の空瓶を眺めた。
「これ、店にいうて寝酒用に一本分けてもらおうかな。私もよう眠れるようにな」
「まだ飲み足りないんスか?」
 圭吾は呆れて言った。
「圭吾。あんたもつき合うか?」
「めっそうもない。可南子さんにつき合っていたら朝になっちゃいますよ。菊水先生のときで、こりごりですから」
「お父さんは私よりもお酒が弱いんやで。うちで一番お酒に強いんはお母さんやな」
「桔梗さんと飲むなんていうのは、オレの人生の中でもっとも避けたいシチュエーションですね。……さ、和也さん、こんな恐ろしい場所からはさっさと帰りましょう」
 圭吾は、むにゃむにゃと寝言をつぶやいている和也を抱えて起き上がらせると、支えながら店を出た。
「じゃあ可南子さん、美子ちゃん。おやすみなさい」
「ほんなら明日な」
「おやすみなさい」
 美子も手を振った。

(七)
                         ◎◎
 次の日朝食の席に姿を現したのは、案の定圭吾と美子だけだった。
「二人とも、まだ寝ているのかな?」
 中華がゆをすすりながら美子が言うと、圭吾はにやりとした。
「だろうね。可南子さんはあれから、また部屋で飲み直していたみたいだしね。まあ二人ともしばらく寝かせておこう。午後になれば起きてくるだろうから」
 圭吾の言ったとおりだった。
 午後の二時を回ったころようやく可南子と和也が現れ、四人はホテルの一階にあるカフェテラスで会った。
 和也が頭をかいた。
「どうも夕べは飲みすぎたようです。ご迷惑をおかけしませんでしたか?」
 可南子が、にこやかに微笑みながら答える。
「いいえ。まったく、そんなことありませんでしたよ。ご心配なく」
 圭吾は何か言いたそうだったが、美子に向かってちょっと眉を上げてみせるだけで我慢したようだった。
 四人分のサンドウィッチとお茶を頼む。可南子と和也は遅い昼食、圭吾と美子は早目のお茶の時間だ。
「いよいよ、今夜ですね」
 和也はさすがに腹が減ったのか、夕べよりも食欲があるようだった。スモークサーモンのサンドウィッチを美味しそうに食べている。
「車はオレが運転していきますよ。朝から地図を見ていましたからばっちりです」
 圭吾の食欲はむろん和也にも負けない。二つ目の厚切りハムのサンドウィッチに手を伸ばす。
「菊池渓谷といっても広いんでしょう? どこまでさかのぼればいいんでしょうか」
 美子は甘く煮たイチゴをはさんだサンドウィッチを食べながら訊いた。可南子はつけ合せのピクルスをぽりぽりとかじっていた。
「その場に行けば、たぶん分かると思うんやけど、でもこの店を出たら龍ちゃんに電話してみますわ。渓谷内では電波が通じないんですよね」
「ええ」
 和也がうなずいた。
 食事が終わり、四人はテラス席を立った。店の会計カウンターで和也と可南子が支払いを済ませている間、美子は先にホテルのロビーにぶらぶらと歩き出した。
 ふと、何かを見つけないうちに、どきりと心臓が鳴って、美子は立ちどまった。ロビーの半分を占めるラウンジのソファの間に目をさまよわせる。誰かが、ゆっくりとこちらを向いた。
「龍一……」
 間違いない。龍一だった。美子を真っ直ぐに見て微笑んでいる。そうして、立ち上がって、こちらのほうへ歩いて来る。美子はあまりに思いがけなくて呆然としたままだった。
「あっ! 龍一様だ!」
 代わりに後ろから来た圭吾が頓狂な声を上げた。
「え? なんやて?」
 可南子もあとから走って来た。
「あっ、ほんまや。龍ちゃん、あんた、いつの間に熊本に来たんや!」
 ぽんぽんという詰問口調に返す龍一の声は、いつものように落ち着いた低いものだ。
「昼ころだよ」
「なんで、すぐに連絡をよこさないんや! いやそれより、来るなら来ると出発する前にいってよこせばええのに。ほんまになんにも言わん男や!」
 そこへ和也も目を丸くしながらやって来た。
「土居先生!」
 龍一は和也に軽くお辞儀をした。
「和也さん、こんにちは。今夜は私もこちらに来たほうがいいと思いましてやって参りました。……とりあえずお座りになりませんか?」
 それで四人は、龍一がいた席のそばのソファにそれぞれ座った。龍一が頼んでいた紅茶がそのままテーブルに置かれていたので四人も同じものを頼む。美子は、龍一の雰囲気がいつもと違うと思ったが、それは服装のせいだった。うすい白の麻生地で作られたゆるやかなシャツを着て、わきにポケットのたくさんついたモスグリーンの綿ズボンを履いている。髪も結えておらず、さらりと肩にかかっていた。そのせいかひどく若く見え、美子はちょっとどきどきした。
 紅茶が運ばれウエイターが去ると、和也が待ちかねたように口を開いた。
「土居先生は、今日こちらに来られたんですか?」
「はい。昼に熊本空港に着きまして、真っ直ぐ菊池渓谷まで行きました」
「もう、渓谷に行かれたんですか?」
「ええ。むろん、霊視自体は今夜におこないます。しかしその前に現地をこの目でみておきたかったのです。和也さんも昨日あそこへは行かれたんですよね」
「そうです。可南子さんからお聞きになりましたか?」
「いいえ。仙台からの霊視でそれがみえましたので。実は和也さんが菊池渓谷に行ったおかげで、私は由布子さんがあの場所にいると確信することができたのです」
「それはどういうことですか? いえそれよりも、本当に由布子はあの場所にいるんですか?」
 和也は勢いこむ余り早口になった。龍一は、変わらずゆっくりと説明する。
「和也さんは菊池渓谷に行き、川をさかのぼって、長い時間由布子さんのことを想いながら上流におられました。その瞬間、私ははっきりと由布子さんの存在を、和也さんの本当にすぐそばに感じたのです。由布子さんがさかのぼった道は菊池川であったこと、由布子さんがいる水の底は菊池川の水であることが、突然鮮明に分かったのです」
 和也は深いため息をついた。
「由布子さんが菊池川の水底にいることは分かりましたが、そこへの扉を開けることはさらに困難をともなうものでしょう。その扉を管理するものは、おそらくその地に住まう神の一人と思われます」
「神の一人!」
 可南子がぴくりとして繰り返した。龍一がうなずく。
「この神と交渉し、由布子さんへの扉を開き、そして由布子さんを地上にとり戻さなければなりません」
「神と、交渉をするのですか?」
 和也が不思議そうに訊ねた。
「はい。神とは、元来交渉すべきものなのですよ。人間が神に対して何かを願うとき、供物をそなえたり、強い念のこもった祈りをささげたり、ときには命を投げ出して、それをかなえてもらうことが必要です。何を神に提示すべきかは、その神が何を望んでいるかをみ極めるとともに、その神に私たちが用意できる範囲の供物で満足してもらう必要があります。願いを神に伝え、供物の種類を交渉するための手法が、我々の唱える秘文なのです。ところが、由布子さんを閉じこめている神の名前も、詳しい性質も、いまだに分かってはおりません。私は、仙台からの霊視だけではこの神と交渉することは難しいと判断しました。どうしても、私自身が直接神のいる場所に行く必要があると思いましたので、急きょ、こうしてやって参ったのです。ちょうど今夜は満月となっております。可南子から聞いたとは思いますが、月が真円を描くとき、私どもの力も最大となるのです」
 和也の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ああ、土居先生が直接由布子を助け出していただくというなら安心です」
「しかし、和也さんにも今夜私と一緒にご同行願いたいのです。由布子さんを探しあてるのに、和也さんの由布子さんを想う気持ちがきっと役にたつと思うのです」
「もちろんです。だめだとおっしゃられても行くつもりでしたから。由布子が帰ってくるかどうかの瀬戸際に、ホテルでのんびり寝ていられるわけがありません」
 そこへ可南子が割って入った。
「ちょ、ちょっと。龍ちゃん。私も当然一緒に行くからな。あんたが来たからゆうて、私はお役御免なんてことは言わへんやろ」
 龍一はにっこりと笑った。
「もちろん、可南子にも今それを頼もうと思っていたところだよ。私の足りない部分を補ってもらう必要があるかも知れないからね」
 可南子が『足りない部分って、どういうとこや?』と訊こうとしたところで、圭吾が身をのり出した。
「龍一様。オレも、いや、私も、ご一緒してもよろしいでしょうか」
 美子も慌てて言う。
「あ、あたしも!」
 龍一は、ちょっと黙っていたので、美子は断られると思った。可南子がとりもとうと思った瞬間、龍一が口を開いた。
「よし。じゃあ二人とも、ついて来てくれるかい」
「ありがとうございます、龍一様」
 圭吾は深々と頭を下げた。龍一は、美子の驚いたような顔を見て微笑んだ。
「美子。飛月が必要になるかも知れないんだよ。飛月は美子しかもつことができないからね。頼んだよ」
「うん!」
 それから、龍一は圭吾に向かって言った。
「圭吾。私は、お前の退魔に関する潜在能力は、祥蔵と同じくらい素晴らしいものだと思っているんだ。しかし退魔には経験が必要だ。これからも少しずつ、お前に退魔の仕事を与えようと思っている。これはその第一歩だ。実際に今夜、退魔が必要になるかは分からない。むしろ、そんなことにならないほうが望ましいことだ。しかし、霊や神と相対するとき、なにが起こるかを本当に予測することはできないのだ。私は霊視に集中しなければならない。そのとき、ほかのみんなを守るのはお前の役目だ。いいな」
「はいっ」
 圭吾の目は嬉しさと誇らしさと緊張で赤く染まっている。
 龍一が四人を見わたした。
「では、菊池渓谷に行くのはこの五人でということになりましたが、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
 和也がうなずく。
「人数も多いので私は別に車を借りてそちらに乗って行きます。渓谷の入り口で午後十一時に待ち合わせましょう」
「分かりました。一応、先生の携帯電話の番号をお聞きしておいてもよろしいでしょうか。すれ違いなどあると困りますので。確か、渓谷の中に入るまでは電波も通じたと思います」
「いえ。私は携帯電話をもっていないのです」
「あ、そうでしたか」
 和也はちょっと驚いたようだった。可南子がぴしりと言う。
「ほら、龍ちゃん。そやから私がいつも言うとるやろ。ケータイをもたなあかんって。今夜みたいな大事なときに連絡が互いにとれんかったら、どうすんのや」
 龍一は澄まして一口紅茶を飲んだ。
「私は電話なんかなくとも、みんなのいるだいたいの場所くらいは分かるから大丈夫だよ」
 可南子はたちまち憤慨した。
「ええい、あんたには分かっても、私らは分からんのや。ちっとは周りのもんのことも考えんかい! だいたい自分の家にも電話をつけよらんゆう料簡もあかん。山ごもりしとる仙人やないんやから、電話の一つや二つもっといてもらわんと不便で仕方ないやろ!」
「しかし、これで今までも何とかなってきたからね」
「何とかなっているんやない、築山さんやらのフォローがあって、ようやく何とかしてもらっているんやないの。そんなことやから、時代錯誤の年よりと言われるんや」
「そりゃ、可南子が言っていることだろ」
 圭吾の頬がひくひくとする。来たときの飛行機の中での会話を思い出しているのだろう。美子も思わず笑い出しそうになる。和也がとりなすように口をはさんだ。
「まあ、先生が大丈夫とおっしゃるなら間違いないでしょう。時間も場所も打ち合わせ済みですし、電話番号はあくまで念のためにお訊きしただけですから。……今、四時ですね。先生は夕食はどうされますか。よろしければ、私たちとご一緒にいかがですか?」
「せっかくですがご遠慮します。といいますのは、霊視の前には満腹にならないようにしているのです。先ほど軽食をとりましたので、今夜はもう充分です。これから失礼して自分の部屋に戻らせていただきます。時間がくるまで少し準備をしておきたいので」
 そうして龍一は立ち上がった。四人も立ち上がる。
「では、菊池渓谷で十一時にお会いしましょう」
と言うと龍一は礼をし、ラウンジを抜けロビーを横ぎって、エレベーターの中に消えていった。
 和也はそれを見送ったあと振り返った。
「十一時に菊池渓谷に着くには十時に出れば大丈夫だと思いますが、少し早めの九時半にロビーで待ち合わせましょう。夕飯は、各自適当にとるということでいいでしょうか。私もさっき食べたばかりでそんなに減らないと思いますし」
「分かりました」
 可南子が三人を代表して答えた。
                         ◎◎
 美子は部屋に戻ったあと、シャワーを浴び新しい服に着替え、スーツケースを開けた。奥に手を入れ布で何重にもくるんだものをとり出す。布を外すと飛月の黒い鞘が現れた。美子は、すらりと飛月を抜いてその刀身の輝きを確認したあと、またしまった。それから飛月を持ったままベッドに行き、真っ直ぐ上を向いて横になった。出かけるまでにあと六時間ほどもある。美子はいつとなく目をつむった。ふーちゃんが美子の頭のそばに夢を護る守護獣のようにぴたりとよりそった。
                         ◎◎
◎◎◎◎………………………………………………………………………………………………………◎◎◎◎
                         ◎◎
 ふーちゃんの柔らかい舌の感触を頬に感じて、美子は目を覚ました。顔を横に向けると、ふーちゃんの黒い瞳と目が合う。サイドボードの時計を確認すると二十一時だった。
「ありがと、ふーちゃん」
 美子は、ふーちゃんにお礼を言うと、起き上がり、リュックに飛月を入れ、準備を整えると部屋を出た。
 九時半ぴったりにホテルのロビーに着くと、すでに、和也、可南子、圭吾の三人がそろっていた。そのまま四人はホテルの地下にある駐車場に行きレンタカーに乗りこんだ。予定どおり圭吾が運転役になり、和也が助手席、あとの二人は後部座席に乗る。車は流れるように出発した。
(もう、龍一は出かけたのだろうか)
 熊本市内から郊外へ向かう国道を走る車の窓の外の暗い景色を眺めながら、美子は考えた。ロビーにも駐車場にも龍一の姿は見あたらなかった。たぶん、もうすでに、そっと出発したのだろう。可南子の口癖ではないが、龍一はめったに自分の考えを口に出さない。それでもこの車の中にいる四人は龍一のことを固く信じているのだ。それは、龍一がいつでも自分以外の誰かのことを自分よりも真剣に考え護ろうとしていることが分かるからなのだ。美子は、龍一の左手の白い包帯のことを思い出した。端然として一見涼やかな龍一の奥底に、激しく燃えるような意志が潜んでいるのを、美子はもう知っている。
 菊池渓谷の入り口前の駐車場に圭吾が車を乗り入れると、一台だけ車が停まっていた。中には誰も乗っていない。しかし、渓谷をさかのぼる遊歩道へと向かう赤い吊り橋の真ん中に、満月の光に照らされながら立つ人影があった。はっとするほどに、けざやかな瑠璃色の装束をまとっている。その人は上流をじっとみていたが、四人が橋の手前にたどり着くと、振り返って微笑んだ。片側のみ月に照らされたその顔は、まるで古代からよみがったなにものかのようだった。四人はその姿に気おされたかのように黙って橋を渡った。
「さあ、参りましょう」
 龍一は静かに言って、先頭に立って歩き出した。
                         ◎◎
 月がうそのように明るい晩だったので、遊歩道の両側には木が生い茂っているにもかかわらずその間からこぼれ射す光で歩けるほどだった。もちろん夜道には変わりなかったが、和也ですら持ってきた懐中電灯をつけようとはしなかった。人工的な光はこのような夜にそぐわないと誰もが本能的に感じとっていた。和也は、昼間に比べてあまりに水音が大きく響くのに驚いていた。何度も川のほうに目をやる。川の面は月の光に照らされて金色の三角の波がいくつもたっていたが、日の光と違ってその奥まで透すことはできず、流れは黒くて長い生きもののようにその大きさも深さも分からぬままに横たわっていた。和也は、また前を進む龍一の後ろ姿に目を戻した。龍一は真っ直ぐに頭を起こして、まるで滑らかな長い廊下を進むかのように足もとなどまったく確認せずに歩き続けている。しかし特別に早足ではなかったのでついていくのに苦労はなかった。
(この人は、後ろの僕たちが見えているかのように歩いていくな)
 四人の誰もが遅れないほどの速さを彼は知っているようだった。宮司が進むたびにひらひらと舞う瑠璃色のうす絹の狩衣の背には、見たことのない二つの丸い紋が織りこまれている。その袖の先では、これまた夜目にも華やかな唐紅色の紐の房がゆらゆらと揺れていた。こんなにも美しい装束姿を和也は見たことがなかった。祈りの場で、人が美々しく装い、歌い、舞うのは、神がその美しさを愛でて降りてくるようにするためだ。どこかで聞いた言葉を、今、和也は思い出していた。
                         ◎◎
 美子は、一歩一歩進むたびに、ここ数ヶ月間にみた夢を一つ一つ思い出していっていた。それは二千年にもわたる壮大なものがたりだった。主人公は一人の男だ。その名はニニギ。長いそのものがたりには、たくさんの人々が登場し、消えていった。その中には美子の母親であるサクヤヒメもいた。父の祥蔵もいた。龍一も美子も、彼のものがたりの登場人物の一人なのだ。そしてニニギのものがたりは、まだ終わってはいないのだ。美子は、今、はっきりとある一つの予感をもっていた。この旅の終わりに、またニニギのものがたりと出会うことになるだろうということを。美子は、それを龍一に言おうとして少し足を速めた。すると龍一はちらりと後ろを振り返り、すぐに前に向き直った。そのときほんの少しだけうなずいたように思えたので、美子はもとの位置に戻った。龍一はもう知っているのだ。美子にももう分かっていた。ニニギの偉大さがどんなものであるかを。それは、たゆまず戦い続ける魂の姿だった。そしてそれを誰よりも理解しているのが、龍一という人だということも、ようやく分かったのだった。
                         ◎◎
 可南子は、美子の横顔をちらりと見て驚いた。美子は静かに涙を流し続けていた。
(この子の心の中には、今いったいなにがあるのだろう)
 可南子は美子を本当に不思議な子だと思った。龍一と初めて会ったときもそう思ったが、しかし二人はまったくタイプの違う人間なのだ。龍一は今も昔も固く自分を閉ざしていた。その力と決意があまりに強いので、龍一自身にすら崩せないほどにその護りは堅固なものになっていた。一方、美子の心は危ういほどにあけっぴろげだ。それは、良いものも悪いものも、へだてなく受け入れるような無防備さをもっている。龍一は、美子は霊媒の素質があると言っていた。霊媒とは、まず受け入れることから始まる。そこに善も悪もない。あるのはただ魂の存在を認めるということだけだ。可南子は、いつも龍一のことを心配してきた。しかし今では美子のことも同じように心配していた。
(この子は、ちゃんと生き残れるやろか)
 多くの魂を受け入れすぎて美子自身の魂がいつか食いつくされてしまうのではないか。そんな恐ろしい考えに可南子は震えた。龍一が過剰なまでに美子を護ろうとしてきた理由がようやく分かった。しかし今夜、龍一はこれまでにない危険で重要な霊視の場に美子を連れてきていた。
(そうやな、龍ちゃん。危険から遠ざけるだけでは、この子を本当に護ることはできんのやな)
 可南子は雲ヶ畑でのことを思い出した。
(強さを、自分で自分を護る強さを身につけさせてやらないとあかんのや。一生この子を護ってやり続けることは、誰にもできないのやから)
                         ◎◎
 圭吾は、列の一番後ろにいて油断なく四方に気を配りながら緊張しつつ歩いていた。一帯は絶え間ない水音のほかは虫の音すら聞こえず、今のところ何の気配もしないようだ。圭吾は後ろポケットにさしたパチンコを何度も手探りで確認した。
圭吾は、古い家柄に生まれた誇りと、二男として兄の後塵を拝しているといういらだちの双方を、常に感じて生きてきていた。初島家に伝わる秘文や霊視の方法の数々は、長男であり初島家次期当主の指名を受けている兄、正見にのみ、父の正道から伝えられる。たとえ同じ自分の子であっても圭吾に教えることはない。それが初島家伝来の崩すことのできない厳しい掟であると分かっていても、圭吾はいつも寂しかった。圭吾が自己流のパチンコでの退魔をしたことが知ったとき、父は激しく叱った。それは圭吾の身を心配してのことだと分かってはいたが、圭吾はそれを不満に思った。父は圭吾からパチンコをとり上げただけで、それに代わる何かを圭吾に与えることはなかったからである。だから圭吾はパチンコを作り続けた。父は最後には何も言わなくなった。父は圭吾が旅に出る前『いつでも、津軽に帰って来い』と言った。それが初島の当主として、父が圭吾にできる精一杯の愛情表現なのだ。しかし本当は、圭吾は、父に自分の力を認めてもらいたかったのだ。『お前を、誇りに思う』という一言が欲しかった。『お前を、必要としている』と言ってほしかった。そして今、父の上にたち父がもっとも尊敬する人物が、父の代わりに圭吾にそれを与えてくれるかも知れない機会が訪れたのだ。圭吾はそのためにならどんなことでもしようと決意していた。
                         ◎◎
 由布子は、いつからこの場所にいるのか思い出せなかった。思い出せるのは、何度も明の夢をみたということだ。夢の内容は細部は少しずつ違っているがほとんど同じだ。もやの漂う早朝の不忍池、様々な形をした石像。ときには輝く太陽の形のようで、ときには聖マリアのような女神像、あるときには恐ろしい形相をした鬼の姿もあった。やがて明の歌が聞こえる。そのときどきによって違う歌だ。『かごめかごめ』、『赤い花白い花』、『花いちもんめ』、『とおりゃんせ』……。そののち赤いとさかをもった大きな雄鶏が時を告げる。
『そのときがきた。用意せよ、用意せよ』
『用意? 用意って、なんの用意なの?』
 由布子は不安な予感に辺りを見回す。雄鶏のはばたきが小さなつむじを巻き起こす。由布子はまばたきをする。
『お前の子の死に対する用意をせよ』
 由布子は雄鶏の足もとにひざまずく。
『お願いです、待ってください。その用意はまだできていません。明を連れていかないでください!』
『では、いつになったらその用意ができるのか』
 由布子は言葉につまる。
『時は待たぬ。死も待たず、生もまた待たぬものよ。さあ、お前の子の死をその目でみるのだ』
 気づけば由布子は、水の中に半身を浸し、固く目をつむった明を抱きかかえている。明はどうしようもなく死んでいる。辺りは満開の蓮の花でおおわれている。
 そうだ、明は何度も由布子の夢の中で死んだ。あんなにも生き生きと生命力にあふれ、力強く輝いていた明の命が、こんなにも今は死と同じようであるのだ。誰がこんなことを教えてくれただろうか? 生と死が、こんなにも近く、まるでコインの表と裏のように簡単に入れ替わるなどということを? そして由布子は、これからも無数の夢の中で、無数の明の死をみ続けていかなくてはならないだろう。それが由布子の罪に対する罰なのだ。生のみを享受し、死に対してなんの危機感も心構えもしてこなかったことに対する罰なのだ。
 由布子は、誰もいない不忍池のほとりで、乾ききった目から涙を流し、声にならない叫びをあげ続けた。
(だれか、助けてください。明を、私を、助けてください! 私はもう、耐えられない)
 そのとき、霧が集まるように渦を巻いたかと思うと、池の上に浮かぶ一つの白い影をつくった。それは、白い着物を着、白い髪をもった女の姿だった。女は由布子のほうを見た。その眼はひどく青く、うつろなほどに澄んでいた。
『われを呼んだのは、おぬしか』
 由布子はびっくりして女を見た。女は続けた。
『我が名はククリヒメ。おぬしが望むものは子の魂と再びめぐりあうこと、それに相違ないか』
 由布子は思わずククリヒメににじりよった。
『そ、そのとおりです。間違いありません。あの、明に、本当にまた会わせていただけるのですか』
『おぬしの子の魂はすでに深い水の底に沈んでおる。その魂のいる世界へ通ずる道を示してやることはできよう。しかし子の魂を探しあてることはお前自身がしなければならない。道は長く、魂の世界は広い。子の魂とあうまでに、お前自身の魂が擦りきれ、消えてしまうかも知れぬぞ』
『構いません。明がいる場所にいけるのなら……。どうか私を導いてください。私はあの子の母親です。どんなに長い時をかけてもあの子を探し出します』
『では、ついてくるがよい』
 女はくるりと後ろを振り返ると歩き始めた。由布子はそのあとに従った。女の姿は見えない階段を下りるように次第に水の中に沈んでいく。同時に由布子の足もとの池の底も一歩ごとに沈んでいき、気づくとそこはククリヒメの目と同じ深い藍色をした水の中だった。由布子は上を見上げたが、どんなに目を凝らしてもどれほどの深さにいるのか分からなかった。下も同じようだった。
 ふと前を見るとククリヒメの姿はなかった。由布子はきょろきょろと周囲を探した。目の端に、ふっと白い影が通りすぎたので振り返ったが、誰もいなかった。
 次に、反対方向に影が見えた。由布子はすばやくそちらをみた。今度はとらえることができた。小さな白い姿が遠くに揺らめいている。由布子は早足でその影のそばに向かった。影は逃げもせず由布子を待っているようだ。しかし近づいてみると、それはククリヒメではなかった。空豆の形にも似て繭のようにうずくまり横たわっている。由布子はしゃがんでそれをのぞきこみ、息を呑んだ。大きな目と小さな尾をもち、まるで古代の魚のようでもあったが、それは確かに人間の胎児の姿である。胎児は、きょろりと由布子をみ上げた。由布子がおそるおそる指を伸ばすと、胎児はそれを不完全な手でしっかりと握った。由布子は哀れさでいっぱいになったが強いてそれを振りほどいた。胎児はまぶたのない目で、じっと由布子をみつめていた。
『ごめんね。私はあなたのお母さんじゃないの』
 由布子は立ち上がると、あらためて水の中を見わたした。よくみれば、頭上にも足もとにも無数の白い影が漂っている。これらがすべて一つ一つの魂ということなのだろう。由布子はこれを知って絶望よりも希望を抱いた。
(この中にきっと明の魂もあるのだわ。明がいるのなら、母親の私に探し出せないはずはない)
 魂の世界は上にも下にも横にも限りなく広がっているようで、目に見えないいく本もの道すじがあるようだった。ある方向に行こうとしてまっすぐ進んでいるつもりでも、いつの間にか曲がりくねった軌跡を描いていたりするのだった。由布子はその果てしなく続く水底の世界をひたすら歩き続けた。不思議と疲れも渇きも覚えなかった。あらゆる形をした、あらゆる種類の魂に出会った。時間と空間の感覚はほとんどなくなっていた。一つの魂を訪れるたび希望と失望の両方を味わった。
 しかしついに、ひどく曲がりくねった長い長い道を通ったあとで、由布子は一つの入り口に立ち、これが正しい場所であることを直感した。
 その道は少しずつ下りながら、まっすぐに延びていた。由布子は胸を高鳴らせながら進んだ。
遠くにぽつんとあった影が、次第に大きく近づいてくる。それは、しゃがみこんだ小さな子供だった。由布子はたまらず駈け出した。
『明!』
 回りこんでみると確かにそれは明だった。由布子の目からどっと涙があふれ出す。
『明。おかあさんよ。迎えに来たわ。さあ一緒に帰りましょう』
 だが、明はじっとうつむいたまま顔を上げようとしない。由布子は明の体を抱きしめようとした。しかし由布子の腕は明の体を素通りして何の手ごたえも感じられない。由布子は驚いて明の顔をのぞきこんだ。明の目はククリヒメや周りの風景と同じ藍色に染まっていた。
『明、明。おかあさんよ。分かる?』
 そう何度も呼びかけても、明は下を向いたままだった。由布子は明の手もとを見下ろした。明の小さい手は見えないなにかをつかむように動いている。
『なにをしているの?』
 由布子が明の足もとをさぐってみても、やはり明の体同様何もない。しかし明には確かになにかがみえているのだ。由布子はじっと明の手の動きをみた。明はなにかを拾い上げては一つずつそれを積み上げているようだった。由布子は愕然とした。
(この子は積み石をしているのだわ……)
『やめなさい、明。あなたは石なんて積まなくていいのよ。こうしておかあさんがあなたを迎えに来たんだから』
 由布子は明のみえない石をくずすように手を払った。すると明はぴたりと手をとめた。そうしてまた石を積み始める。それは途中からではなく最初の一段から始まっているようだった。
(私がこの子の石を崩してしまったのかしら)
 そう由布子は考え、今度は明の邪魔をしないようにしようにと思った。
『ごめんね。おかあさんがあなたの邪魔をしてしまったのね。これからは邪魔をしないようにするわ。その石を積み終わったら、そうしたら、おかあさんと一緒に帰れるでしょ?』
 由布子は息をつめて、明の様子をみ守った。明は慎重な手つきで、ゆっくりと石を積んでいく。由布子にその石の塔はみえなかったが、明の手の動きでだいぶ高くまで積まれていくのが分かった。
(もうすぐ、もうすぐよ。この塔が完成したら、明は私に気がついて、そして二人で家に帰ることができるのよ)
 ところが、明が自分の目の高さまで石を積もうとしたとき、その手がとまり明の視線がまた下に下りてきて、そうして、また一段目から石を置く作業が始まった。石が崩れたのだ。それから、また一つ、また一つ。
 由布子はただそれをみつめるしかなかった。
(明はどこまで石を積めば私に気づくのだろう。この石が積み終わることがあるのだろうか。いいえ。始まりがあれば終わりがないことなんてない。私はこうして明と再び会うことができたのだから、明を連れて帰れないなんてこともあるはずがないわ)

(八)
                         ◎◎
 菊池渓谷の流れの音の変化で、一つ、また一つと滝を通りすぎていくのが分かった。ときおりふいに現れる案内板でその滝の名前が知れる。黎明の滝、紅葉ヶ瀬、竜ヶ淵、天狗滝、四十三万滝。
 『広河原』と標識が出たところで、龍一が川のほうへ曲がった。どうやらここが目的地らしい。広河原はその名のとおり渓谷の上流とは思えないほど広々とした河原で、黒いつるりとした大きな岩が川全体の底をおおっている。流れは激しいが水深はそれほどでもないようだ。
 龍一は四人を川べりで待たせると、自身は白い袴を濡らしながら川の中央へ入っていった。そして川の真ん中に立つ大きな岩の正面に向かう。袖の中で手を組み合わせ岩の上の宙を見上げ、そのままぴたりととまった。時を待っているのだ。
 美子はそっと背負っていたリュックの中から飛月をとり出し鞘から抜いた。圭吾はパチンコと弾を用意した。可南子はちらりと時計を確認した。和也は息をするのも忘れたかのように龍一の姿を凝視していた。
 龍一が、大きく息を吸い、そして秘文を唱え始めた。最初は低く、徐々に波うつようにそれは響き渡り、水音と混じり合って川の生む水蒸気とともに天高く昇っていく。
「阿蘇の大山(おおやま) 高天原(たかあまはら)に坐(ま)し坐せる 御禊(みそぎ)祓へ給ひし時に生座(あれませ)る 大神達(おほかみたち) 天津神国津神 八百萬の神達
 願わくは 御もとの菊池の川の湧き立ちのぼる泉の水の 諸々の枉事(まがごと) 罪穢れを拂(はら)ひ賜い
水面(みなおもて)を真(まこと)の鏡と磨き賜いて 深淵(ふかふち)に住み座す御使いの竜王河伯(りゅうおうかはく)に聞食(きこしめ)せ
 竜王は大宇宙根元の御祖(みおや)の御使(みつかい)いにて 一切を産み一切を育て 萬物(まんぶつ)の母とあらせる王神なれば
 一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)の十種(とくさ)の御寶(みたから)を 己が姿と変じ給ひいて 自在自由に 天界地界人界を治め給ひ あらたな命を生み給ひし 竜王神なるを 尊み敬う由
 我らが愚かなる心の数々を祓い給ひ 岩戸を開き 衣を脱ぎさらしめ給ひて 御身のうちに 隠し給ふ 姿を明らかにし給へと恐(かしこ)み恐み申す」
 龍一は深々と礼をし、そうしてまた頭を上げた。
 一瞬の静けさのあと、ふいに、月で金色に照らされた岩の上に、白い着物を着た女神の姿が現れた。女神は龍一にその藍色の瞳を向けた。
「われを呼んだのは、おぬしか」
 その声は平坦ではあったが、まるで天から降ってくるかのように美子たちのいる場所にもよく通って聞こえた。龍一は一礼をした。
「そうです。私の名は、東北はヒタカミ国国主の末えい、土居家三十九代当主、土居龍一と申します。あなた様の御名をお教えください」
「我が名はククリヒメ。このククリ川の化身神じゃ」
「菊池川の古代名はククリ川でしたか。ククリヒメ様。私どもは浦山由布子という人間の魂を求めて、ここまでやって参りました。あなた様がこの人間の居場所をご存知かと思い、こうして勧請し奉ったのです。どうか、浦山由布子へ渡る道すじをお示しください」
 龍一はそう言って、もう一度深く礼をした。しかしククリヒメは言った。
「確かにわれは浦山由布子の魂の在りかを知っておる。が、これへ通ずる道を示すことはできぬ」
 龍一は頭を上げて、ククリヒメの茫漠とした深い目の奥を見つめた。
「それは、なぜでございますか」
「なぜなら、かの女(おんな)の魂は二重の鎖でしばられておるからじゃ。一つは己自身の魂。もう一つは別のものの魂」
「別のものとは?」
「ニニギと申すものじゃ」
 龍一の肩がぴくりと動いた。
「なにゆえ、由布子の魂がニニギにしばられているのですか」
「女は死んだ我が子の魂のもとにゆくことを願ったので、われはその道への入口を教えてやった。女は長い道のりの末に子の魂を探しあてたが、子は母の念にしばられそこを動けず、母もまた子への想いによりそこから一歩も動けないでおる。おそらく二つの魂は永遠にその場より放たれることはないであろう。母と子は互いに異なる世界にいたままであるから、互いに同じものをみることもまたできないのじゃ。われにもそれをどうすることもできぬ。そこへニニギが女の魂を譲り受けたいと申し出てきた。それゆえ、浦山由布子と申す女の魂は今ではそのニニギの手の内にある。よって、われに女の魂がある場所を示すことはできぬ」
「どうすればニニギから由布子の魂をとり戻すことができますか」
「それはニニギに直接おぬしから訊くがよい」
 ククリヒメは左の腕を水平に上げ、何もない空間を示した。すると、ぐいとその部分の闇が濃くなり、月の光が折れ曲がった。そして次第にある形をとってゆく。同時になにかが共鳴するようなりんりんという甲高い音が徐々に響き始めた。
 美子は、はっとして手もとの飛月を見た。その音は飛月から出ていた。飛月が目で見えぬほど細かく震え、輪のような共鳴音を奏でているのだ。美子は次に、明るく熱い光を感じてそちらを見た。それは、ふーちゃんだった。ふーちゃんは今までよりももっと一回り大きくなりながら、毛を逆立て全身から金色の光を発していた。
「美子! 飛月をこちらへもってきてくれ!」
 龍一が闇の空間にひたと目をあてたまま大きな声を上げた。美子は飛月をしっかり握りしめたまま川を渡って、龍一のもとへ走った。その間にも空間はゆがみ、ある一つの黒い影をとりつつある。美子の心臓は大きく波うった。
(ニニギだ!)
「美子。飛月で、あれに向かって五芒星を描いてくれ」
「五芒星?」
 美子は飛月を構えたまま、まごついて龍一を見上げた。龍一は左手で美子の肩をつかむと自分の近くに引きよせ、後ろから右手を伸ばして飛月を支えた。ニニギの影に視線を当てたまま小さく素早く言う。
「五芒星というのは星型のことだ。魔を封じる力がある。ニニギの形が定まる前に、ニニギを星の中に閉じこめるんだ。私が教えるからそのとおりに描くんだよ」
 美子はうなずいた。龍一は自分の手を添わせたまま、ゆっくりと美子の手を導いた。そして美子がそれに従い飛月で宙に五芒星を描いている間、静かに秘文を唱えていく。
「きのえ きのと ひのえ ひのと つちのえ つちのと かのえ かのと みずのえ みずのと 木は火を生じ 火は土を生じ 土は金を生じ 金は水を生じ 水は木を生ず 水は火に剋(か)ち 火は金に剋ち 金は木に剋ち 木は土に剋ち 土は水に剋つ 五行萬物はこれ流転し陰陽をおのずからめぐりくる 五つの星に宿るものは 五つの光と五つの影 五つの種と五つの花 われとかれは同じものなれば かれはわれのうちにあるべきものなり われとかれは同じものなれば かれはわれのうちにあるべきものならん」
 五芒星の軌跡をなぞるたび、満月の光がそこに凝縮するように、五つの角を持つ星の形をとって輝き始めた。五回目を終わった時、パチンッ! という音がして、美子は飛月が軽くはじかれたような感触を覚えた。封印が完成したのだ。
と、その瞬間、金色に輝く星の中にニニギの姿がはっきりと現れた。ニニギはきょろきょろと自分の周りを見わたし龍一と美子の姿を見つけると、苦笑いをして腕を組んだ。
「また、お前たちか」
 川の外でこれらを見ていた可南子は我慢できずに水の中に入って龍一と美子のそばに駆けた。圭吾と和也もこれに続く。
龍一はちょっと振り返ったが何も言わなかった。ニニギは完璧に五芒星に閉じこめられている。去年、南湖で龍一がつくった結界は外部からの侵入を防ぐためのもので、中にいるニニギを封ずるものではなかった。いや、できなかったのだ。あのときニニギという巨大な力を封じるためには、龍一自身をその器とするしかなかった。しかし今は一時的とはいえ完全にニニギを封じることに成功したのだ。龍一は自信があったとはいえ内心驚いていた。自分の力が増したのか、それとも飛月や美子の力のおかげなのか。ともかく、たとえ和也であっても今の場でニニギが手を出すことはできない。
 龍一は五芒星の力が持続するよう陰陽五行の封印秘文を暗言葉(くらことは)により心の内で唱えながら、ニニギに話しかけた。
「みてのとおり、お前は完全に封じられている」
 ニニギは何ということもない様子で返した。
「そのようだな」
「お前の生殺与奪は、今、私の手の内にある」
 ニニギが、にやりと笑う。
「一年前にできなかったことを今ここで遂げようというのか。わざわざご苦労なことだ」
「いや。私が望んでいるのはお前を滅ぼすことではない。お前がもっている浦山由布子という女性の魂を返してほしい」
「うらやまゆうこ?」
「明という子供の魂を追って生きながら魂の世界に沈んでしまった女性の魂だ。お前がククリヒメから譲り受けたという魂だ」
「ああ、あの女の魂か。確かにあれは俺がククリヒメより譲り受けた。なかなか高価についたぞ。今まで集めた数百万の黄泉鬼(よみおに)の魂と引き換えにしたのだ。だから完全に俺のものだ。それをほしいというのならそれ相応の対価が必要だぞ。なにと取引をする気だ」
 龍一はニニギをにらみつけた。
「なにと取引するかだと? お前と取引などしない。由布子さんは、そもそもお前のものになどなるべきものではない。まだこちらの世界にいるべき人なのだ。しいて交換するものといえば、それはお前自身だ。由布子さんをあくまで返さぬというのなら、このまま星を縮めて、お前を永遠に小さい闇の玉の中に閉じこめてもいいのだぞ」
 そうして龍一は左手を美子が持つ飛月の上にかざした。飛月の輝きがいっそう大きくなり、同時にニニギの周りを囲む五芒星もぎらぎらと光を増す。
 ニニギは、くっ、くっと笑った。
「ずいぶんと強気に出るな。しかしお前が自分に自信をもつのも分からないではない。一年前のお前も信じられぬほどの大きな力をもっていたが、いまや、人間というわくをはるかに超えてしまったようにみえるな。いったい、どこまでお前は大きくなるのだ? ……お前の親は、いったい誰だ?」
 龍一の手が、ほんの少し、たじろぐように震えた。
「むろん、土居家三十八代当主の土居菖之進だ」
「ほう!」
 ニニギはじろじろと龍一をなめまわすようにみたが、やがて肩をすくめた。
「ヒタカミめ。国が滅びてからもなお俺の邪魔をすることをやめん」
「さあ、由布子さんの魂を返すか、それともこのまま滅ぼされるか?」
 ニニギはあごひげをしごいてうそぶいた。
「ふーむ、どうするかな。せっかく手に入れ途中まで磨いたものを手放すのも、惜しい気もするしな」
 龍一は美子の手が下がってきたのをちょっと直した。
「磨く? お前は由布子さんの魂を使って、いったい何をする気だ?」
 ニニギの指が、腕組みをした自分の腕をとんとんと規則正しく叩いている。
「俺が何をしようとしているか、知りたければ教えてやろう。俺は鏡をつくろうとしているのさ」
「鏡だって?」
 龍一は繰り返したが、その顔に多少動揺した表情が浮かんだのをニニギは見逃さなかった。
「そうだ、鏡だ。一年前にお前が教えてくれたではないか。ヒタカミがつくった八咫鏡の本質とはなにかを。そしてそれは、今でもそこにある」
 そして真っ直ぐに龍一の胸を指さした。
「残念ながら、俺はお前のもつ鏡に手出しすることはできん。しかしあらたにつくることならどうだ? ヒタカミにつくれたものなら、俺にもつくれぬはずはない。むろん材料は吟味せねばならぬ。鏡が魂からできていることは明白だ。俺は黄泉の国にいて、様々な魂をより分け鏡になり得るかどうか試してみた。しかしどれもこれも鏡として磨くに足り得る質をもっておらなんだ。あるものは濁り、あるものは脆い。俺がふれるだけで、ほとんどは消え失せ残りは黄泉鬼に変わり果てる始末だ。そこへあの女の魂の存在を知ったのだ。黄泉にはごくまれに死を経ずにやってくるものもいる。生と死の双方を映す鏡には、このようなものの魂がふさわしいのかも知れぬ。それでククリヒメに大枚を払ってあの母親の魂を手に入れたのよ。結果はなかなか有望だった。あれは俺がふれても厳として輝きを失わない。今は子供の影しか映さぬが、長い時をかければ様々な光を映すことができるようにもなるだろう。俺には時間だけはたっぷりとあるからな」
 ニニギは笑った。龍一はきっと目を光らせた。
「ニニギ。彼女の魂をお前の勝手にさせんぞ。今すぐ由布子さんの魂を渡してもらおう」
「……でなければお前を滅ぼすぞ、か? よかろう。今、力の分はお前にあるのだ。しかし面白いではないか。一年前と立場が逆転しているようだな。俺は、お前に鏡を渡せと言い、力も俺のほうが上回っていた。だが俺は、お前に勝てなかった。なぜならお前が、俺の欲しがっているものを握っていたからだ。さて、あのときお前が俺に言った言葉をそのまま繰り返そう。俺を殺せば、お前の手に入れたいものは永久に手に入らぬぞ」
「…………」
 龍一は伸ばしたままの左手を強く握りしめた。美子はその巻かれた包帯に血がにじむのを見た。可南子が龍一に近づいて小声で言った。
「どうする気や、龍ちゃん」
 圭吾も背後からささやく。
「龍一様。こいつの言うことなど、はったりです。もっと結界を強くしてしめつければ、根を上げてきっと由布子さんを手放しますよ」
 和也が不安そうにつぶやいた。
「しかし、それで由布子の身になにか起こりませんか?」
 これらの会話を面白そうに聞いていたニニギは、どっかりと結界の中であぐらをかいて五人を見下ろしながら言い放った。
「はっ、はっ、はっ。まあ、好きなだけ議論するがよい。俺はいくらでも待つぞ。待てぬのはお前たちのほうではないか? 月は沈みつつある。女の魂は時が経てば経つほどそれだけ黄泉の底に沈んでゆき、しまいには二度と浮かび上がることができなくなるだろう。そうなれば俺が放とうが放つまいが、関係なくなるからな。それに、俺もいい加減、存在し続けることにうんざりもしてきたころだ。ここらで一つ、無という存在になってみるのもいいかも知れぬ。しかし、二千年の時も黄泉の国も消すことができなかった俺というものを、お前たちが本当にどうにかできるのかは俺自身にも分からぬがな」
 美子は不安な目を龍一に送った。飛月の共鳴音が、さっきから少しずつ小さくなっているのだ。それに従って五芒星の輝きもわずかにうすれてきているように思うのは気のせいだろうか?
龍一は、先ほどから黙って立っている岩の上のククリヒメのほうを向き、なにごとか言葉を発した。しかしその声は、すぐそばにいる美子にも息づかいすらなにも聞こえなかった。しかしククリヒメにはきこえたようだ。短く龍一に問う。
「後悔せぬか」
 龍一が、また、なにかを言った。ククリヒメはうなずき、再度左手を上げかけた。美子は、何故か分からぬまま瞬間的にせっぱつまった気持ちに襲われた。その時、
「お待ちください!」
という、鈴を振るような、りんとした声が響きわたった。美子ははっとして、声のしたほうを見た。いや、体がなにかに引きよせられるように自動的にそちらを向いた。胸の中が日に照らされたように温かく染まっていく。
 ククリヒメをはさむようにして、ニニギの反対側に、一人の女性の姿が川面の上に現れたのである。ククリヒメと同じような白い服を着ている。しかし顔は生き生きと豊かな表情にあふれ、目は黒い真珠のように美しく輝いていた。美子の目から自然に涙があふれ出す。
「お母さん……」
「なんやて?」
 可南子たちが驚いたように白い服の女性を見上げた。
 女性は、優しい微笑みを美子に向けた。
「美子。本当に大きくなったわね。お母さんは嬉しいわよ」
 美子は、黙って小さくうなずいた。口を開けば大きな声で泣き出しそうだったからだ。涙で曇らないよう目をできるだけ大きく開く。飛月を持つ腕がぶるぶると震えているので、龍一は美子の手を飛月ごとつかんで支えてやった。
 サクヤヒメは美子をじっと見つめたあと、呆然として目をみはっているニニギのほうを向いた。
「お久しぶりですね、ニニギ」
「サクヤヒメ……」
 ニニギの声はしぼり出したように震えていた。
「二千年ぶりでしょうか?」
「……いや、そうではない。お前は覚えておらぬのか? 十五年前の、あの泉でのことを」
 サクヤヒメはにこりとした。
「ええ、確かに。あのとき、私は人間の身と精霊のみのはざまにあったので、こちらに戻ってきて、しばらくしてから、ようやく当時の記憶がはっきりしてきたのでした。そうですね。十五年前にも私たちは会っていましたね。あなたと、私と、私の夫と」
 それを聞くと、ニニギはぴくりとして、まるで籠の中の鳥のようにびくびくと周りを見回した。
「お前の夫には悪いことをしたと思っている。あの、右腕だが、つい力が入りすぎて……」
 サクヤヒメはそれを遮った。
「先に手を出したのは祥蔵のほうです。私が黙っていこうとしたので彼はなにも知らなかったのです。ですから現れたあなたの姿を見て、てっきり私が襲われると勘違いしたのでしょう」
 ニニギはうつむき、小さな声で言った。
「しかし確かにあのときの俺は、お前をこちら側に引き入れようともしていたからな」
「それは違います。私は帰るべき時がきたから帰ってきただけです」
「帰るべき時?」
「ええ。私は二千年前、この場所で身を投げました」
 ニニギの体がぐらりと大きく揺れる。サクヤヒメはククリヒメのほうをちらりと見た。
「私の故郷には言い伝えがありました。ククリ川にお住まいになる女神様に捧げものをすれば、どんな願いごともかなうという言い伝えです。それで私は、この身を捧げ、我が願いをかなえていただこうとしたのです」
 ニニギの次の言葉はしぼり出すようだった。
「……それで、お前の願いは、かなったのか?」
 サクヤヒメは穏やかにほほ笑む。
「ええ。かないました」
 それでニニギはがっくりとうなだれた。
「そうか。いや、俺には、とうに分かっていたはずなのだ……」
 サクヤヒメは不思議そうにニニギを見た。
「あなたは、私の願いをなんだと思っていらっしゃるのです?」
 ニニギの声はうつろだ。
「お前が望んでいたのは、俺を滅ぼすことだ。しかしお前がそれを望んだのも無理はない。俺は、お前の兄を殺し、お前の国を滅ぼし、お前の護っていた宝を奪い、その上お前を犯そうとした。俺はお前に永遠に呪われても仕方がないのだ」
「それは違いますよ、ニニギ。ええ、まったく違います。私はむしろあなたを憎みたくないがために身を投げたのです」
 ニニギはわずかに顔を上げた。
「それは、どういうことだ?」
「あなたは確かに、私の兄を殺し、私の国を手に入れました。ですが兄は国主として、あなたと一対一で戦い、国主として死んでいったのです。それは誇り高き死であり、自ら選びとった死でした。それに対し私が何を言えるでしょうか。そして国主を倒した者が、次の国主となろうとすることもまた避けられぬ運命(さだめ)。あなたは民に選ばれ、八尺瓊勾玉にも選ばれました。
 そのとき私は悟りました。私の国は、あなたという存在を受け入れたのだと。でも私はどうでしょうか。私があなたを憎まなかったといえば、うそになります。とはいえ同時に私は、国の巫女です。あなたが言ったとおり、巫女は国主に従わなければなりません。その二つの思いに私は引き裂かれました。あなたを憎む気持ちと、あなたを受け入れる気持ちとに。私は巫女として、自分のこのような不浄の思いを祓わなければなりませんでした。そうでなければ、私の国に、私自身が災厄をもたらしてしまう危険があったのです。
 ですからククリヒメ様に、私のみを清らかに洗っていただき、私の愛するこの国が、いつまでも生命に満ち溢れた豊かな地であり続けることを願ったのです。ククリヒメ様は願いをききとどけてくださいました。しかしそれには二千年の時がかかりました。
 私は身を投げたあと、とても長い間眠りについていました。それが私が次に目覚めるために必要なことだったのです。私の魂があなたへの憎しみを浄化し、次の出会いへの準備を整えるために。
 それから私は、時が満ち実から芽が吹くように目覚め、ククリヒメ様の導きで、水の道を通り、泉の出口から地上に再びよみがえりました。記憶を失った咲子という名の一人の女性として。そして、私の故郷と出自を同じくする菊水家の方々に拾われ、優しく受け入れていただきました」
 ここでサクヤヒメは可南子のほうを見て、にっこりとした。可南子は真っ赤になった。
「しばらくして、私は、私の夫とめぐり会いました。私は愛し愛される女の喜びを初めて知りました。それから、彼との間に娘を授かりました。私は、その子に『美子(みこ)』と名づけました。花のように美しく、実のように豊かに育ってほしいという想いをこめたのです。
 と同時に、私が地上に出てきた理由もはっきりとしました。私は、美子という子をこの世に生むために、再び人間の体を与えられたのです。それは、私の本当の生まれ変わりの瞬間でもありました。いのちは洗われ、そして別のいのちにつながってゆくものなのです。それを知った時、私は真に救われました。
 しかし地上での咲子の役目が終わった時、それは私が本来の場所に戻るべき時でもあったのです。愛する人たちと別れるのはつらいことでした。ククリヒメ様は二年の猶予を与えてくださいました。それは私にとって、今でも永遠に黄金のような時間です」
 サクヤヒメの輝くような笑顔が、順々にみなの顔を照らし、そして美子の前でとまった。
「あなたには、つらい思いをさせてしまったわね。でも私は、永久にあなたの母であり、いつのときも、あなたを誰よりも愛しているわ。それが私の力の源になっているのよ。それを忘れないで」
「うん」
 サクヤヒメの優しい視線が美子の首もとに向けられる。
「その真珠を身につけていてくれているのね。その真珠は、もともとは白色だったのだけれど、私が咲子として地上によみがえった瞬間に赤く色を変えたのです。私はその理由が最初分からなかった。でも、またこちらの世界に戻ってこなければならない時がきたとき、気づいたのです。その色は私の魂が石に映りこんだ印なのだと。
 咲子は、サクヤヒメとは姿かたちは同じようでしたが、その魂のありようは少し違っていました。咲子は、サクヤヒメよりももっと、愛し愛されることに素直で貪欲でした。自分のことは名前しか知りませんでしたが、自分の求めるものははっきりと分かっていました。咲子は、サクヤヒメに欠けているものを得るために出現したのです。いうなればサクヤヒメは白い真珠であったのですが、咲子の存在がその色を赤に変えました。石の本質は変わらないのですが、しかし確かに今までとは異なったものになりました。だからその色は私の魂の一部なのです。
 私はこちらに戻ってきてからも、その真珠をとおしてあなたとあなたのお父さんの存在をすぐ近くに感じてきたのよ」
 美子はどうしても訊きたかったことを訊いた。
「お母さん。お母さんは、お父さんと、そっちで会えたの?」
 サクヤヒメがにっこりとうなずく。それで美子の奥から深い安堵のため息が震え出てきた。
「私が今ここに、このように姿を現すことができたのは、場と、時のすべてがぴったりと合わさり、この地の力が極限まで高まったためです。そしてそのおかげで、私の魂の力も真に解放されることができました。私の力はこれから安定したものになるでしょう。
 美子。もしあなたがまた私と会いたいと思うなら、一年後、また月が満ち高まる晩、この地にその真珠を持ってお越しなさい。それまでの間に真珠の力もたまり、私の姿をまた現せるまでに回復するでしょうから」
「ほんとう?」
 美子は嬉しさのあまり叫んだ。
「本当です。お父さんは私のように出現することはできないけれど、やっぱりお母さんと同じように、あなたのことをいつでもみ守っているのよ。それでもお母さんと話がしたいときは、一年に一度、この場所にいらっしゃい。」
「ありがとう、お母さん」
 美子は幸せのあまりぼうっとなった。サクヤヒメはそれを愛おしそうに眺めた。
「でも、あなたは、お父さんとお母さんがいなくなってからも、色々な人に愛され護られているので私たちは心配はしていないのよ。みなさん、美子を愛してくれて本当にありがとう。これからも、この子をよろしくお願いしますね」
 そう龍一、可南子、圭吾にゆっくりと視線を送り、最後に和也のところで目をとめた。
「ああ、あなたの奥様のことで、みなさんはこの場に来られたのでしたね」
 そうして五芒星の中に閉じこめられているニニギのほうを振り返る。
「ニニギ。あなたは、あの方の奥様の魂がいる場所をご存じなの?」
 ニニギは、まぶしそうにサクヤヒメから目をそらした。
「すでにさっきから、女の魂は俺の手から離してある。しかし女の魂は相変わらず子どものもとから離れようとせず沈んだままだ。俺にはこれをどうすることもできない」
 サクヤヒメはうなずき五人に向き直った。
「魂の世界の奥深くに自ら望んで沈んでしまったものは、自分でその場から離れようと決意しない限り、またこちらに戻ってくることはありません。ですが、もしここにいる人たちのうち、誰かが魂の世界に入って彼女を探しあて、そしてその魂に呼びかけて眠りから覚ますことができれば、あるいは由布子さんを連れ戻すことができるかも知れません。
 魂の世界への入り口は、ククリヒメ様のお力を借りてこの場に開けることができるでしょう。由布子さんは深くには沈んでいますが、ここからそれほど遠い場所にいるわけではないので、探し出すこと自体はそんなに難しいことではないと思います。
 しかし反対に、あちらから戻ってくるときの帰り道は、自分で探さなくてはなりません。こちらから出口を開けることはできないからです。道も、入るときとは異なる道になります。ゆくときは広く、かえってくるときは、狭く困難であるのが、魂の通る道なのです。もし帰り道を探すことができなければ、そのまま由布子さんと一緒に永遠に魂の世界にとどまり続けることになります」
 一同はしんとなった。可南子がおそるおそるサクヤヒメに訊ねた。
「あの、サクヤヒメ様が、由布子さんのところにいっていただくわけにはいきませんか?」
 サクヤヒメは申しわけなさそうに首を横に振った。
「そうしてさし上げたいのですが、由布子さんに語りかけ、由布子さんを生きた人間の世界に連れ戻すことができるのは、やはり同じ生きた魂をもつものでないといけないのです。私は由布子さんをもっと別の世界に連れていくことはできるかも知れませんが、そこはあなた方がいる場所と同じではありません」
「では、私がいきましょう」
 龍一が、きっぱりと言った。美子は、はっと息を呑んだ。サクヤヒメは、じっと龍一を見た。
「本当によろしいのですか?」
「はい」
「待ってください! 由布子の迎えには、私が、いきます」
 和也が身を乗り出してきたので、龍一は驚いて振り向いた。
「和也さん、いけません。由布子さんは、魂の世界、つまり黄泉の国におられるのですよ。いけば戻ってはこられないかも知れないのです」
 しかし和也の口調は断固としたものだった。
「それでは、ますます土居先生をゆかせるわけにはいきません。そもそも由布子は、私の妻です。私の妻は、私が迎えにゆくのが道理です。
 お願いです。私をいかせてください」
 最後の言葉はサクヤヒメのほうに向かって放たれた。なおもとめようとする龍一に対しサクヤヒメが言った。
「土居殿。あなたの霊力は、確かにこの五人の中でもっとも優れております。ですが由布子さんを連れ戻すのに必要なのは、この場合、霊力の高さではありません。いかに由布子さんに語りかけ、由布子さんの心を揺り動かせるかどうか、つまり由布子さんへの想いの大きさが重要なのです。そうであれば、適任なのは、やはりその方かも知れませんよ」
 龍一の表情が曇る。
「しかし……」
 サクヤヒメは諭すように重ねて言う。
「あなたが、ほかの人を護りたいと思う気持ちはよく分かります。でも、もし目的を達しようというなら、もっとも可能性が高い方法にかけることも大切なのではありませんか」
 龍一はまだ完全に納得していないようだったが、和也はすでにククリヒメの前まで出ていた。
「お願いします。私を由布子のもとへ連れていってください」
「和也さん!」
 龍一が和也の腕をつかんで引きとめる前に、ククリヒメが右手でそれを制したため、和也の背後に見えない壁ができ、龍一はそれ以上進むことができなくなってしまった。
 ククリヒメの冷やかな声が、谷中に響きわたる。
「では、浦山由布子のもとに通ずる道を示してやろう。浦山和也の全存在と引き換えだ」
 ククリヒメの指が真っ直ぐに下を示す。
 すると、ククリヒメの立つ岩の真下の影が急に暗くなり、ぽっかりと黒々とした大きな穴が現れた。穴はゆるい傾斜で、底知れぬ地下へと続いているようだった。川はその穴を避けて通るように両側に分かれて流れていく。
「和也さん!」
 龍一はもう一度、和也に向かって叫んだ。和也は振り返った。
「土居先生、心配しないでください。由布子は私が必ず連れて戻してみせます」
 それから前に向き直って、永遠につながっているかのような穴を見つめ、ごくりと唾を呑みこんだ。思いきってその穴の中へ体をさし入れる。一歩、足を踏み入れた途端に、周りがすっぽりと闇におおわれた。和也はまばたきをして立ちどまった。ちらりと後ろを見たが、渓谷の景色はあとかたもなく消えていた。もう一度前を向くと、うす闇の中に広々とした空間が開けているのが分かった。ここが由布子のいる世界なのだ。あと戻りはもうできない。和也は思いを前にだけ集中させ、進み始めた。
 和也の姿が見えなくなると、川底の岩はぱたりと閉じ、水はまた何事もなかったようにその上を流れ始めた。
 サクヤヒメがみなに言った。
「さあ、これで由布子さんのことは、彼女の夫の手に任されました。あと私たちができることは彼らを信じて待つことだけです」
 そうして龍一のほうを見やる。龍一はふいと横を向いた。サクヤヒメは微笑んだ。
「土居殿。あなたは、私を怒っていらっしゃるのですね」
 龍一は、ちらりとサクヤヒメを見上げ、また下を向いた。
「ええ……」
 美子は恐る恐る龍一を見た。龍一は美子からも顔をそむけていた。しかしサクヤヒメは、美子ほどには龍一の怒りを恐れていないようだった。
「土居殿。あなたはまだお若くて、結果を求めるあまり、つい性急になりがちですね。しかし、ときにはゆっくりと待つことも必要です。あなたは待つこと、そして他の人の力を信じることを学ばなくてはなりません」
 龍一はもう一度サクヤヒメを見たが、黙ってうなだれただけだった。
 サクヤヒメはさらに龍一になにかを言いたげだったが、悲しく優しげな視線を送るのみにとどめた。それからニニギのほうを見た。
「ニニギ。ここでの私たちの役目は終わりました。さあ、私と一緒に魂の世界に戻りましょう」
 ニニギは困惑したような目をサクヤヒメに向け、そして漠然と目の前にいる五人を見やった。
「しかし……」
「土居殿。いかがですか? ニニギは由布子さんの魂をすでに自ら解放しました。今までの経緯も互いにあるでしょうが、ニニギを赦してあげてはいただけませんか。私からもお願いします」
 そう言うとサクヤヒメが深々と頭を下げたので、龍一は驚いたようになったが、一番驚いたのはニニギだった。衝撃の余り、むしろ怒ったようにサクヤヒメに向かって言いつのった。
「サクヤヒメ。なぜ俺のためにそこまで言えるのだ? 俺のために頭など下げるな! 俺にそんな価値はない。お前は俺を憎んでいないと言ったが、その俺はといえば、二千年の間、あらゆるものを呪い続けてきたのだ。呪いこそ俺の力の源、存在理由そのものなのだ。そうだ。この力で俺は人間どもの魂にとりつき、欲望を煽り、互いに争わせ、戦争すら起こさせたこともある。俺はこの国の地下に巣くう最大の祟り神なのだ」
 ニニギは現れたときと同じような黒い炎をその瞳の中に燃えたたせながら、龍一をにらんだ。
「土居の当主よ。お前には分かっておろう、俺の本質を。今、俺を解き放てば、また俺はお前たちの前に現れるぞ。一年前、そして今回と、二度も鏡を手に入れることをお前たちに阻まれたが、俺はけしてあきらめることはしない。鏡への俺の執着をお前は誰よりも知っているはずだ」
 サクヤヒメは黙って龍一を見ていた。龍一はニニギのゆがんだ顔をしばらく見つめていたが、つと美子の腕をつかんで飛月の切っ先を下げさせた。するとニニギの周りの五芒星の光がすっと消えた。ニニギが唖然としたように龍一をまじまじと見る。
 龍一は川の中にさっとひざまずき、拱手の礼をとりながら奏上した。
「ニニギ様。どうか、これまでの私どもの無礼をお許しください。あなた様は、まさしくこの国を生み、この国を育て、この国とともにこれからもあるべき、偉大なる神でございます。神とは、恵みをもたらすものであると同時に、祟るもの。扶桑の日がときに大きな渇きをもたらし、竜神の水がときにすべてを押し流すのと同じです。力にはすべて陽と陰の働きがあり、陰があれば、陽も必ずあるものです。我が土居一族は今後子々孫々にいたるまであなた様を敬い、祭神として永劫にお祀りいたすことをお誓いいたします。どうか、その御身にある恨みを祓い、我々地上に生きるものたちすべての護り神として、末長くこの国にとどまりくださいますようお願い申し上げます」
 そうして龍一は深々と水にうずめるほどに頭を下げた。可南子はようやく気づいて自分も水に浸りながら膝をついた。美子と圭吾も慌ててその場に座りこんで手をつく。
 ニニギは結界のあった位置に座ったまま、困惑したように頭を下げている眼下の四人の姿を見、そしてサクヤヒメに視線を送った。サクヤヒメはにっこりと笑った。
「ニニギ。いかがです? あなたの民の願いをきいてさし上げては?」
「しかし、俺は、俺の鏡は……」
 ニニギは、弱弱しく、言った。
「あなたの鏡は、もうあなたのものではありませんか?」
 ニニギははっとしたようにサクヤヒメの顔を見た。サクヤヒメはうなずいた。
「三種の神器とは魂の力を具現化したもの。八咫鏡は真実を映し出す澄みきった心、八尺瓊勾玉は再生と創造をつかさどる命の力、そして天叢雲剣は何にも傷つけられない強き誇り。あなたがこの国で、求め手に入れようとしたものは、これら美しき魂の力だったのではありませんか。
 あなたの内なる目でごらんなさい。あなたのきた道、ゆく道をごらんなさい。あなたの望むものは、すべてあなたのものです。あなたほど、長い距離を歩き、永き時をすごし、地の上も下も治め、多くの魂を惹きつけたものが、いるでしょうか? あなたほど深く苦しみ、あなたほど熱い涙を流し、あなたほど赤い血をもち、あなたほど真っ直ぐに求め続けたものが、あるでしょうか? 
 さあ、あなた自身を、よくごらんなさい。あなたは、この国そのものです。この国の魂は、あなたとともにあり、すでに分かちがたく、同じものとなっています。神器の力が、この国にもしまだあるとすれば、それは、あなたの力でもあるのです」
 サクヤヒメの言葉が終わった時、ニニギは自身の中に非常な力が湧き出てくるのを感じた。それはかつてあった力……いやおそらくはすでにもってはいたが、み失っていた力かも知れない。
「この国の力は、俺の力か。そうだ。俺は、この国に怒り、失望していた。それは結局のところ、俺が俺自身に感じていたことだった。今、ようやくスクナヒコの言ったことが分かった。俺は、俺自身に選ばれねばならん。サクヤヒメ。俺が二千年間、お前を探し続けていたことは無駄ではなかった。礼を言うぞ」
 ニニギの声は、サクヤヒメが初めて会ったときと同じように、尊大で、力強く、そして生き生きとしていた。
「龍一よ。俺はこれから確かにお前たちの護り神になってやろう。むろん、お前たちの祈りと、俺の気持ちが続く限りだがな」
 そうして高らかに笑った。
「祟り神は護り神か。そうだ、そのとおり。どちらも神には違いない」
 そう言うと、ニニギはくるりと後ろを向き、宙を踏んで森の奥にすたすたと歩いていった。金の月の光に照らされた葉の影がニニギの影と一体となり、やがてその姿はすうっと消えた。
 四人の目の前で、さらにククリヒメの姿がかげろうのように揺らぎ消えていこうとしていた。ククリヒメが最後に右手を軽く振ると、サクヤヒメの体が急速に周りの空間に溶けこんでいく。美子は思わず立ち上がった。
「お母さん!」
 サクヤヒメは愛情のこもった目で美子に微笑んだ。
「美子。強くなりなさい。あなたには、お父さんとお母さんの力がすべて備わっているのよ」
「ありがとう、お母さん。お父さんにも伝えて。あたしは大丈夫だって」
 サクヤヒメはにっこりした。そして龍一のほうを最後に見た。龍一ははっとして顔を上げた。
「土居殿。どうか私がニニギに言ったことを忘れないでください。私は、ニニギとともに、あなたにも話していたのですから……」
 サクヤヒメの声が小さくなり、ついになにもなくなった。三人の神々の姿が消え、辺りはまた人間たちだけになった。
四人は水から岸に上がった。神との交渉は終わったが旅はまだ終わっていない。和也と由布子が黄泉から戻ってくるのを待たなければならないのだ。可南子と美子と圭吾は、河原の苔むした石のベンチの上に腰かけた。龍一は一人離れて川辺に立ち、だいぶ傾きかけた月の光を浴びながらじっと和也が消えた岩の影のほうを見つめている。
 美子はそっと飛月を鞘に納めた。ふーちゃんが美子の膝に前足をかける。美子はびっくりした。
「ふーちゃん!」
 それで両わきに座っていた可南子と圭吾も振り返った。ふーちゃんはすごく大きくなっていた。もう大型犬と同じくらいといってもいい。顔もほっそりと狐らしく、尾はさらに太くたっぷりとし、金の毛並みはつやつやと今まで以上に美しく輝いている。黒く濡れた瞳は以前と変わらず美子をじっと見つめていた。圭吾は圧倒されたようにつぶやいた。
「……こりゃ、押しも押されぬ立派な霊孤だよ」
「ほんまやなあ」
 可南子はおそるおそるふーちゃんの頭に手を乗せてみた。これが二日前、自分の膝に頭を乗せていた小さな霊孤と同じものだろうか? しかし手のひらに感じるふーちゃんのさわり心地は、以前と変わらず温かく柔らかいものだった。
「こいつ、いったいどこまで、でっかくなるんだろうな。美子ちゃん。そのうち、ふーに乗れるようになるんじゃない?」
 圭吾が冗談めかして言った。美子はちょっと笑った。
「まさか」
「でも最初は、手のひらに乗るくらいだったんだろ? 一年の間に、このくらいになるってことは、来年になったら牛くらいに成長するかもしれないぜ」
 美子は、ふーちゃんにまたがっている自分を想像してみた。なんだか楽しそうだ。
「和也さん。由布子さんに会えたやろか」
 可南子がポツリと言った。それで美子と圭吾も、また川の真ん中に黒々と鎮座している大岩に目をやった。
 渓谷内は、水の音、虫の音、風の音に満ち、月の光もさやかに、夏の美しい夜でいっぱいだった。しかしあの岩の影の奥には確かに、通常の人間が足を踏み入れることのない未知なる異世界が広がっているのだ。そこに今、和也は一人、由布子を探してさまよっている。
 美子は龍一のほうをそっと見た。龍一はぴくりとも動かず岩のほうを向いている。横顔がちょうど陰になっているので、どんな表情をしているのかは見えないが、誰からも話しかけられるのを拒絶しているのが遠くからでも分かる。
(このまま和也さんが戻ってこなかったら……)
 美子は考えたが、それ以上考えが進まなかった。美子は、今夜、この渓谷の中で語られた様々な言葉を一つ一つ思い返してみた。ククリヒメの語り、ニニギと龍一の会話、龍一の秘文、そして母が美子やニニギや龍一にそれぞれ伝えたこと。どれも重要な言葉ばかりだった。その中には音ではきこえない言葉もあった。しかしすべて忘れてはならない言葉なのだ。
(この世界ってなんだろう。あちらの世界ってなんだろう。そこにいるあたしたちって、なんだろう)
 言葉にはきっとその謎を解く鍵が潜んでいる。美子は龍一の長く伸びる影を見つめながら考えていた。
                         ◎◎
 和也は、自分が、すでにかなり深くまで下に降りてきていると感じていた。一歩進むごとに、階層を一段降りていった。和也は確かに真っ直ぐに歩いており、道も水平に延びている。しかし同時に空間は確かに曲がり、和也を下へ下へとらせんを描きながら導いていくのだった。辺りには誰もいない。和也は降りていくにつれ、視界がはっきりしていくのを感じていた。不思議な感覚だった。世界は目でとらえる分には何も変わりないが、意識のレベルでは、抽象的で鮮明になっていくのだ。
(確かにここは、僕らの世界とは違う世界だ)
 世界と同時に、和也の意識も明瞭になっていた。和也は由布子の姿を見る前に、その存在のある場所を知っていた。あとどのくらいの時間どのくらいの距離でたどり着くか、正確に分かった。
 そうして本当に、和也は彼女のそばに立ったのだ。
 由布子はぺたりと座りこんで、背を向けていた。和也は由布子の前に回りこんだ。由布子はひどくうつろな目をしていた。しかしその目で一心にある一点をみつめている。和也は由布子がみているものをみようとした。しかし和也には何もみえなかった。和也は由布子と目を合わせようと努力したができなかった。肩をそっとゆする。由布子の体は揺れたが、視線はそのままだった。
「由布子、由布子」
 何度も名前を呼ぶ。
「帰ろう、うちに一緒に帰ろう」
 そう言って強く抱きしめた。由布子の体をつかんで立ち上がらせようとした。しかし由布子の体は根が生えたようにぴくりともしない。和也はあらゆる言葉をかけ、渾身の力をこめて由布子を連れて帰ろうとしたが無駄であった。ついに和也は疲れ果て、その場に座りこんでしまった。
「由布子。どうして僕の言葉を聞こうとしないんだ? なぜ一人でこんなところに閉じ籠もってしまったんだ」
 和也は悲しみにうちひしがれて由布子の顔を見つめた。由布子の目は相変わらず、和也の知らないものを凝視している。和也はふいにククリヒメの言葉を思い出した。
『母は子への想いにより、そこから動けないでおる』
「由布子、由布子。君がみているのは、明の姿なのか?」
 和也はあらためて、由布子の視線の先に目を凝らした。すると、その空間が次第にある形をとり、やがてそれは小さな男の子の姿になった。和也は思わず涙ぐんで叫んだ。
「明!」
 すると明は和也に微笑んだ。明は膝を抱えて由布子の前に座っていた。和也は明に駆けよって抱きしめようとした。しかし和也の腕は明を素通りし、かげろうのような明の体は水面の影のように頼りなくゆれてばらばらになっていく。和也ははっとして、手を引っこめた。するとやがて明はまたゆっくりと形をとり戻した。明は和也を見上げると、そっとうなずいた。和也もそれで悟った。
「そうか。お前はやっぱり生という形ではなくなってしまったんだな。おとうさんやおかあさんとは違う世界にいってしまったんだな」
 明は悲しそうに、由布子を指さした。由布子は確かに明を見つめている。しかしそれは明の動きを追ってはいない。人形のようにその視線は固まっていた。
 和也は由布子に大きな声を出して話しかけた。
「由布子。目を覚ますんだ! 君がそんなにみつめるから、明もここから動けないでいるんだ。明を解き放ってやってくれ。明を、明がいくべき世界にいかせてやるんだ。由布子、しっかりするんだ。君が追っているのは、本当の明とは違う姿なんだ!」
 だが、由布子に和也の声はまったく届かなかった。和也は途方に暮れてまた明を見た。明はあきらめきったような表情で、由布子をぼんやりと見つめている。
(僕は、いったいどうしたらいいのだろう)
 しかし、和也にこの二人をこのままこの場に置いていくことはできなかった。もっとも愛する二人を放り投げて、もとの世界に帰ったところで和也になんの未来があるだろうか? 和也は決心した。由布子の後ろから手を回し、その体をそっと抱きしめた。包帯の巻かれた左手首をそっと撫でる。胸が切り裂かれるように痛んだ。
(由布子。僕は、君になにもしてあげられないのか?)
 そして由布子の肩越しに、明をみた。明は、父と母を交互にみつめていた。和也は思った。自分にできることは、きっと本当に少しだ。それから静かに語りかけた。
「由布子。そんなに明のそばから離れることができないのかい? 分かったよ。じゃあ、ここに三人でいつまでも一緒にいよう。どんな場所だって、家族が一緒にいられるのなら構わない。僕も君たちを誰よりも愛している」
 由布子の目から静かに涙が流れ出た。それは頬を伝って和也の顔をも濡らした。和也は由布子の顔を見た。
「由布子……」
 由布子は、ゆっくりと和也を振り返った。
「あなた……」
「由布子。やっと僕に気づいてくれたんだね」
 由布子は、また明を見た。明はもう積み石をしていなかった。ただ黙って微笑んでいるだけだった。
「あなた。明は本当に死んでしまったのね。もう、私たちの手もとには二度と戻ってこないのね」
「違う。それは違うよ、由布子。明は本当に生きていた。あんなに生き生きとして、僕たちの前にいたじゃないか。それを忘れちゃいけない。そして、昔も今も、明は僕たちのかけがえのない子供だ。僕たちは明を愛していた。明も僕たちを愛していた。その事実がある限り、明はけして僕たちから失われやしない。僕たちはこれからもずっと一つの家族なんだ」
 和也は由布子をそっと立ち上がらせた。すると明もすっと立った。
 由布子は、おそるおそる明に手を伸ばした。手ごたえは相変わらずない。しかし明にふれた瞬間、由布子の胸の中にさあっと温かいものが流れこんできた気がした。明は背伸びをして、自分に向かってかがみこんでいる両親の頬に一つずつキスをした。それから一歩下がって、じっと二人をみつめた。
「明!」
 二人は強く抱きしめ合いながら、両の目をひたと息子の姿にあてた。明との間の空間が次第に伸び、互いの姿が徐々に小さくなっていく。そしてついに、明は一つの小さな光となり、最後に周りに溶けていった。
 由布子は涙に濡れた目を和也の胸にうずめた。和也は由布子の頭を支えて抱きしめてやった。しばらくして由布子は顔を上げた。
「ありがとう、和也さん」
 和也は由布子の涙をぬぐってやったあと、彼女にキスした。
「君にまた会えて嬉しいよ」
 由布子は和也に体を預けた。懐かしい、あまりに懐かしい彼の感触。それは悲しい生の匂いがした。
「私はもう、なにも見ず、なにも聞きたくなかったの。このみが朽ち果てるまで明のそばにい続けようと思っていたの。でもあるとき、とても温かいものを背中に感じて振り返ってみたら、あなたがいた。あなたは私がこんなに遠くきてしまっても、私を忘れないで、私を探して、そして私をみ続けていてくれたのね。本当にありがとう」
「君を忘れるなんてできるわけがないじゃないか……。さあ、由布子。うちに帰ろう。僕たちはまだ生き続けなきゃいけない」
「ええ」
                         ◎◎
 菊池渓谷の朝は明けかけていた。月はその光を失い、太陽に空の座を譲ろうとしていた。早起きの鳥たちが動き出す気配が漂い始めた。しかし和也と由布子は戻ってこなかった。
 龍一は、やはり自分が和也たちを探しに行かなくてはいけないだろうと思っていた。和也は由布子と会えただろうか。おそらく会えただろう。しかしサクヤヒメは言っていた。魂の道は、ゆくときは広く、かえるときは狭く困難だと。和也をも黄泉の国に閉じ籠めることになったとしたら、龍一はけして自分を許すことはできないだろう。ここに和也を導いたのは、ほかならぬ自分なのだから。もし和也を助けることができないのなら、この霊視そのものを引き受けてはいけなかったのだ。この身に換えても和也を助け出さなければならない。もう一度ククリヒメを呼び出してまた入口を開けてもらい、自分も黄泉へ下りていこう。
 そう決心して龍一は三時間立っていた場所からふたたび川の中に入った。それを見てベンチに座っていた三人も立ち上がった。可南子が龍一に声をかける。
「どうしたんや? 龍ちゃん」
 龍一は黙って左手を上げ、三人にその場にとどまるよう指示した。それから岩の奥をみつめた。
 美子は不安な気持ちを抑えられなかった。龍一は何をしようとしているのだろうか。和也たちが帰ってくる気配を感じとっているのだろうか。それとも……?
 辺りの闇が払われてきて、空気にも水にも光と影が混じり合い、泡立つような気配が満ち満ちている。龍一の装束も、龍一が見つめている岩も、同じ色に染まっていた。
 龍一は口を開こうとして息を吸ったが、そのままはっとして動きをとめた。可南子も異変を感じて、ぱしゃぱしゃと音をたてて川に足を踏み入れ龍一のそばにやって来た。美子と圭吾もそのあとに続く。
 四人が見つめる前で、岩の影から白い光がさしてきたかと思うと、するりと細長い出口が開いた。そしてその中から、和也と、さらに由布子が姿を現した。二人はしっかりと手を握っていた。彼らが川の中に降り立つと、岩の出口はその背後ですっと閉じた。
「和也さん」
 龍一が和也に声をかけた。和也はちょっと目をしばたたかせたあと、龍一に焦点を合わせ、にっこりした。
「先生。ただ今戻りました」
 龍一は思わず安堵の息を吐いた。
「由布子さん、よう戻ってきはりましたな」
 可南子が由布子のもとに駆けよった。由布子は驚いたように可南子を見た。
「可南子さん? どうしてここに? ……あら、ここはどこかしら」
 不思議そうに辺りを見回した。和也は笑って由布子の肩を抱いた。
「由布子。ここはどこだと思う? 熊本県の菊池渓谷ってところだよ」
「熊本? まあ、本当?」
 由布子は、おっとりと目をみはった。和也は由布子が滑らないように支えてやりながら川岸に移動した。そして石のベンチに並んで座った。
 和也は、自分たちの周りを囲むように立つ四人を見上げた。不思議だった。何故なら自分が由布子を探しに暗い穴に入った時と、四人が何ら変わらぬ服装、様子をしていたからである。和也は自分が一年も由布子とともにあの魂の世界を彷徨っていた気がしていた。いや、実際そうなのだろう。時や空間が、どこでも同じようであるというのは幻想にすぎないのだ。確かに和也は和也であるが、同時にもとの和也には戻れない。そして由布子も……。
 だが和也はそれを口に出して四人に伝えようとはしなかった。これは自分たちだけの時間なのだから。
 和也は愛おしそうに何度も由布子の髪を撫でた。
「君につながる道をみつけることができたのは、ここにいる四人の人たち、特に土居先生のおかげなんだよ」
 由布子は龍一を見上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「また、お会いしましたね、先生。二度も私を助けていただいて、ありがとうございました」
「いえ。私が助けたのではありません。すべて、あなたと、あなたのご主人がなさったことです。それに一度目は、私はなんのお役にもたっておりませんよ」
 由布子は首を横に振った。
「いいえ。先生は私に真摯な態度で接してくださいました。何もみようとしない私をさとそうとしてくださいました。先生の言葉の正しさは、ずっと私には分からなかったのですが、今はようやく理解することができるようになりました。命の流れは水のようにもとに戻すことはできないのです。しかし命は次につながって途絶えることはないのです。私は自分の罪をけして赦すことはないでしょう。それは私の命と一体になっています。しかしそれと同時に、明の命もまた、私の命の中に生きているのです」
 和也は由布子の体をさすった。
「君も疲れただろう。しばらくゆっくり休んだらいいんだ」
 可南子が気がついて言った。
「ほんまですね。ともかくまずは由布子さんをホテルまで連れて帰らなあきませんわ」
「由布子、君、歩けるかい?」
「ええ」
 それで一同は、広河原の上流にかかる橋を渡り、来た道とは違う南側の遊歩道を通って下流へ向かって歩き始めた。南の道は川から離れているが、北のものよりも平たんで歩きやすいからである。
 由布子は、ゆっくりとだが、しっかりとした足どりで進み、三十分ほどで駐車場までたどり着いた。駐車場にはもとのまま二台の車が停まっていた。和也が借りたレンタカーには和也と由布子が、そして龍一が運転してきたほうに残りの四人が分かれて乗ることになった。
 和也は助手席に由布子を乗せたあと、四人に向かって頭を下げた。
「みなさん。本当に、ありがとうございました。おかげさまで、こうして由布子とまた巡り合うことができました」
 可南子は思わず涙ぐんだ。
「ほんまに、ようございました。和也さんも由布子さんも、ご無事で帰ってこられて」
「ホテルに帰ったあとは、お二人はどうされますか?」
 圭吾が訊いた。和也はちらりと車内を見てから答えた。
「何日か熊本ですごして、由布子の体調をみてから東京に戻ろうと思います」
「そうですね。それがええと思いますよ」
「みなさまは、どういたしますか」
 龍一が言った。
「私たちの役目は終わりました。あとは、それぞれの場所に戻ります。由布子さんによろしくお伝えください」
 和也は、再度礼をした。
「分かりました。本当にお世話になりました。これから先も、由布子を支えて二人で生きていきます。みなさまも、どうかお元気で」
 そうして和也は由布子が待つ車に乗りこみ発進させた。二人の乗る車は曲がりくねった山道を走ってゆき、やがて見えなくなった。
 それを見届けると、可南子が振り返って、はきはきと三人に言った。
「さ、そんなら、私らも帰ろうか」

七 『エピローグ』
                         ◎◎
 生まれたばかりのきらきらした朝日の中、圭吾の運転する自動車は一路、熊本市内に向かって走り続けている。
 しばらくして圭吾が興奮が冷めやらぬ口調で話し出した。
「オレ、今回はすごい経験をさせてもらいましたよ。なにせ神様を直接目撃したわけですからね。うちの兄貴だって聞いたらきっと驚くんじゃないかな」
 後ろから可南子が、
「私かて、あんなにはっきりと見たのは初めてや。正見君もこんな経験はないやろ」
と言うと、圭吾はひどく嬉しそうになった。
「それに、まさか美子ちゃんのお母さんに会えるとは思わなかったなあ。仙台で、サクヤヒメがお母さんだと聞いたときは半信半疑だったけど、いやあ、ほんとに美子ちゃんは、女神様の娘だったんだねえ」
 美子は赤くなった。
「でも、あたしを生んだときは、お母さんは咲子っていう人間だったしね」
「しかも、ふーは、急にでっかくなるし……。あれ、あいつ、どこに行ったんだ?」
 圭吾が美子のほうにちらりと視線を走らせる。美子は笑った。
「ちゃんとこの中にいるよ。でも姿を消してるの。大きくなって場所が狭いからかな」
「ふうん。霊孤っていうのは、少しずつ大きくなるんじゃないんだね。何かの機会に、突然成長するものなんだな。初めて知ったよ」
「そうね。前もそうだったし、やっぱりそういうものなのかもね」
 美子は一年前の瑞鳳殿や南湖のことを思い出した。あのときは雷に反応しているのだと思っていたが、今回は雷は鳴っていない。三人の神に遭ったせいだろうか。ふーちゃんの成長の糧は霊力ということなのかも知れない。
「それにその赤い石は、やっぱり真珠だったんだね」
「そうね……」
 美子は革ひもの先についた石を見つめた。そして胸がわくわくするように波たつのを感じた。そうだ、母は約束してくれた。
(一年後にまた、お母さんに会える!)
 美子の心のうちを分かったように圭吾が声をかけた。
「よかったな、美子ちゃん」
「うん」
 圭吾はほうっと息をつく。
「それにしても、由布子さんってすごいよなあ。子どもに会いたいがために神様を呼びだして、自分も黄泉の国に行っちゃうなんて。普通の人でもそんなことができるんスね。オレ、龍一様のようなすごい霊力のもち主にしか、降神の術は無理だと思っていましたよ」
 龍一はなにかをじっと考えこんでいたが、圭吾の言葉に気がついたように顔を上げた。
「そうだな……。母親の一念というやつだろう」
 圭吾はそれを聞いてうなずいた。
「ほんとに母親って、すごいもんなんですね。オレも津軽に帰ったら、もう少し親孝行しなくちゃなあ」
 可南子が咳払いをした。
「そやけど、和也さん、かっこよかったなあ。私の妻は私が迎えにいきます、なあんて、私もいっぺん言われてみたいわ」
「それにはまず結婚しないと、ダメでしょうね」
 可南子は、ふんと鼻を鳴らした。
「言うときますけどな、圭吾。私は、結婚できんのやなく、結婚しない≠や。プロポーズしてくれる男の人は掃いて捨てるほどおるのを、ことごとく断り続けて今まで独身を貫きとおしているんやから」
 圭吾が急いで言いつくろう。
「分かってますってば。なにも、そんなに怒らなくたっていいじゃありませんか」
「怒っとらん」
「怒ってますよ」
「いーや。とにかく、ほんま、あんたは、なんもかんも、さっぱり分かっていないんや」
「はあ……」
 圭吾は憮然とした。
「圭吾はこれからどうするんだ? 沖縄に行くのか?」
 龍一がふいに圭吾に訊ねた。圭吾の背がとたんに伸びる。
「はいっ。……ええと、そうですね。バイクを躑躅岡天満宮に置いたままにしていますので、一度仙台によらせてもらってから、当初の予定どおりフェリーに乗ることになると思います」
「そうか。津軽に戻るのは、いつころになる?」
「えっ。といいますと……」
 圭吾は、わくわくして、ちらりとバックミラー越しに後ろを見た。可南子が澄まして言う。
「圭吾は西日本の主な霊場を回るから、来年の春くらいまでは戻ってこないゆうてたで」
「ああ、そうなのか」
「可南子さん! 勝手に答えないでくださいよ。……龍一様。オレ、龍一様に戻って来いと言われば、どこにいようと、すぐに飛んで参りますので。いや、最初っから旅になんか行かなくても、別に構わないんです」
 龍一はそれでくすりと笑った。
「いや、特別に今、圭吾に何か頼みたいことがあるわけじゃないんだ。しかし、お前にもそろそろ退魔の方法を正式に教えてやりたいと思ってね。霊場を回ってくるのか。それはいいことだ。旅はお前を成長させてくれるだろう。そして来年の春にまた天満宮に来なさい。美子と一緒に、退魔の仕事を少しずつ、やってもらうことにする」
「あたしも?」
 美子は驚いた。
「いやかい?」
 美子は慌てて言った。
「ううん、いやなんてことはないわ。……本当に、あたしにも退魔をやらせてくれるの?」
「ああ。今回の旅で私も色々考えたよ。美子にもやはり、きちんとした霊力の使い方を教えてやらなければならないとね。それには実地で退魔にあたってみるのが一番だ。私は全部の退魔につき合うことができないから、しばらくは圭吾と二人ひと組でやればいいと思う。もちろん、二人には新しい秘文も色々教えてやるからね」
「本当ですか! ありがとうございます、龍一様!」
 圭吾は大声を出したが、その直後、思いきりブレーキを踏んだ。可南子は危うく助手席のシートに頭をぶつけそうになった。
「ちょっと、圭吾。気いつけてや!」
「す、すいません。赤信号に気づくのが遅れまして」
「やれやれ。龍ちゃん。あんまり圭吾を喜ばせんといてや。私はまだ黄泉の国にはいきとうないからな」
 龍一は軽く笑った。
 美子が訊く。
「龍一。秘文の数って、いくつくらいあるの?」
 龍一はちょっと考えてから答えた。
「普段、私がよく使っているのは百くらいかな。しかし、今まで私が唱えたことのあるもの、土居に伝わるものなどを数えていったら、数千単位になると思うね」
「数千?」
 美子は呆然とした。そんな数を果たして覚えることができるだろうか? 龍一は微笑んだ。
「秘文の全部を覚える必要はないんだよ。いくつか基本のものを勉強すれば、あとは自分で考えて唱えればいいんだ」
「秘文を自分で考えるの?」
「そうさ。秘文というのは魔法の呪文などではない。相手に語りかける言葉の一種なんだ。相手が、神なのか、悪霊なのか、人間なのか、そのほかの魂なのか、それによって言葉を変える必要はあるがね。要は、その場にふさわしい言葉をいかに選び、いかに相手に届けることができるかが重要なことなんだ。相手に何を伝えたいかが分かっていれば、秘文というのは自分の中から自然に湧き上がってくるものなんだよ」
「ふうん」
 ちらと横を見て、来年の春から一緒に退魔の仕事をすることになるという圭吾の横顔をうかがう。圭吾は運転と龍一の言葉に耳を傾けることの両方に専念するため、息すらするのを忘れているかのようだ。
「夕べ、ククリヒメを呼びだすのに唱えた秘文も、龍一が考えたものなの?」
「あれは、もともと昔から伝わる竜神降来秘文を少し応用したものだよ。菊池川の化身神の名が分からなかったので、竜王河伯と仮に名をつけて勧請したんだ。あそこにいるのが水神であることは確かだったからね」
「竜王河伯?」
「竜王は水の神、河伯は川の神を指す一般名称だよ」
 美子はため息をついた。
「やっぱり、秘文を自分で考え出せるようになるまでは、ずいぶん勉強しきゃいけないみたいね」
 圭吾がついに我慢できなくなって口を開いた。
「美子ちゃん。大丈夫さ。オレ、学校の勉強は苦手だったけど、秘文の勉強なら寝ないでやるよ。龍一様。美子ちゃんの分も私が覚えますので、どんどん秘文を教えてください!」
 それで美子も負けじと言った。
「あたしだって、がんばるもん。ね、龍一。圭吾君と同じように、あたしにもちゃんと教えてね。退魔のときも圭吾君と平等に扱ってくれなきゃいやよ」
「そうはいっても、やっぱりオレのほうが年上だし、いざというときに美子ちゃんを守ってやらなくちゃならない責任はオレにあるよ」
「そんなの、不公平じゃない」
「そういう問題じゃないよ。それに君は女の子じゃないか」
 美子は憤慨した。
「それこそ偏見よ。ねえ、龍一、そうでしょ?」
 圭吾の口ぶりは頑としたものだ。
「龍一様は、オレの言うことを分かっていらっしゃるよ。ですよね、龍一様」
「まさか。龍一は、あたしを女だからって差別するようなことは、しないわよ」
「だから、これは差別なんかじゃないって、言ってるだろ」
 突然、可南子が、ぷっと噴き出し、そのあと高らかにけらけらと笑い出したので、圭吾は面くらった。
「どうしたんです、可南子さん」
「いや、あんたらを見ていると、面白くてな。つい」
「は? どこがスか」
「何もかも、ぜーんぶや」
 可南子は涙をふきつつ、圭吾と美子に言った。
「まあ、ともかく二人とも仲よくやりいや。退魔は生半可な気持ちじゃやれん仕事や。どっちがどうやない。二人の力を合わせて初めてやり遂げられるものやないの。龍ちゃんが二人でやれゆうたのは、そういう意味やろ」
「わかってますよ」
 圭吾は気をとり直すように、美子に笑顔をつくった。
「美子ちゃん、来年の春からよろしくな」
「うん、こちらこそ」
 美子も少し照れたように圭吾に笑いかけた。可南子は龍一の横顔をちらりと見た。龍一は気がついたように、可南子に、にこりとした。それで可南子はほっとした。
「ともかくこれで、とりあえずは一件落着やな」
 ふと、美子は思い出した。
「京都の伏流水の味が変わったというのも、今回のことに関係あるんでしょうか」
 可南子は、はっとした。そして龍一をもう一度見た。美子も前の席から龍一を見ている。龍一は宙をじっと見つめながら、ゆっくりと言った。
「違うな。京の水が変わったのと、由布子さんのことは、無関係だと思うよ」
 可南子と美子は、それで互いに目を合わせた。時という道の先は、いつでも見通しがきかず、一つの角を曲がれば、次のさらなる角がある。
 龍一はまた窓の外に目を移し、そして自分の考えの中に深く沈んでいった。

――『玉水の巻』完。『閃剣の巻』につづく――

2012/03/04(Sun)09:38:08 公開 / 玉里千尋
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■作者からのメッセージ
 明鏡の巻に続く第二巻目となりますが、一巻目を読まない方でも大丈夫なように(一応)したいと思っております。
 二重カッコが気になると思いますが、今巻は現在と過去が入り交じる構成になっているため、区別の意味で、過去の部分は、全部二重カッコを使わせて頂いておりますので、ご了承ください。
 超長編になる予定ですが、多角立方体のように、世界は、見る角度で様々な姿をもっていると思っているので、一つ一つのエピソードが互いにつながりながらも、やっぱりそこに固有の物語がある、というふうに書いていけたら、と思っております。
 つたなく読みづらい点が多々あるかと思いますが、よろしければ目をとおしていただき、ご感想・ご批評などいただけると、大変嬉しいです。
 よろしくお願いいたします。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。