『廻る夢』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:皆倉あずさ                

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 変な夢を見た。眠る子供と戦闘機と海が出てくる夢だ。

 どこまでも真平らな場所にいる。いると言っても感覚だけが、その空っぽに浮かんでいる。地面はアスファルトで舗装されている。地平線の方はかすんでよく見えない。空は突き抜けるような青空だった。
 雲一つない。
 本当に何もないと思ったら、ベッドがあった。子供用の、上等そうな物で、ふわふわの羽根布団に埋まるように金髪の子供が眠っている。一目見て西洋人だと分かる。すやすやと、穏やかな寝息を立てている。それを見ていると、心まで穏やかになってくる。
 そのうち、どこからか音が聞こえ出す。しかしどこから聞こえるのか分からない。音は段々大きくなっていく。何かがここに近づきつつあるのだ。僕は地平線に目を凝らす。すると、線上の今まで何もなかったはずの一点に何かが現れて、段々大きくなっていく。形が徐々に明らかになる。それは飛行機だった。それも戦闘機だ。急に不穏な雰囲気が漂い出す。それなのに子供は呑気に眠りこけている。音はエンジンの唸りだったのだ。戦闘機はすぐ目の前まで近づいた。エンジンの回転数が上がり、飛行体制に入った。
 空を見上げると、もう一機がすでにはるか上空を飛行していた。ここは戦場のど真ん中だったのだということに気がついたその瞬間、目の前の飛行機が轟音を立てて燃え上がった。ミサイルが打ち込まれたのだろうと考えた。機体は衝撃と炎熱で見る見るうちにひしゃげ、崩れ落ちていく。その破片がアスファルトの地面に着いたとき、水滴となって飛び散った。
 目の錯覚かと思ったが、それは正真正銘水だった。地面はいつの間にか水面に変わって、ベッドはその中にぷかりぷかりと浮いていた。水底はあまりに深すぎて見えない。飛行機の残骸はとっくに深みに飲み込まれていた。地平線は水平線に変わった。昼が切り替わったように夜になった。
 空には細い月が浮かんでいた。上空にいたはずの戦闘機はもういなかった。子供はずっと変わらず眠り続けていた。彼は閉じた目の外でどんな恐ろしいことが起きていたのかも知らないのだ。長い時間が過ぎた。水面は鏡のように平らで、こちらにも月が浮かんでいるように見える。深海の月、美しい響きじゃないか、どうして今まで気が付かなかったのだろう……このまま逆立ちしてしまえば、逆になって見えたりするのだろうか、しかし身体がないからどうもできないらしい……そうだベッドがあるから無理じゃないか……今は風さえ吹かない、子供は身動き一つしないから息さえしていないように見える、本当に生きているのだろうかと思ったらむずがるように寝返りを打った……月が細い…………夜…… ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  ・  ・    ・      ・        ・                 ・           ・                          ・                                        ・





 あまりにも変な夢を見ていたからだと思った。しかし現実が夢の続きだと知った時の気持ちほど、わけの分からないものはない。





 目の前の猫が突然喋り出した。僕はこの猫に見覚えがないわけではなかった。時々家の庭をうろついていることのあった黒猫だ。耳がちょっと欠けているから覚えていたのだ。
 「とりあえず、落ち着くことから始めるんだな、これが意外と出来なくて困ってしまう、意外とよくあることなんだぜ」
 「そうかこれは夢だ」
 僕は口に出して言った。口はちゃんと顔にくっついていた。ということは顔も身体もちゃんとある。
 「さっきまでとは違うみたいだ」
 「その通り」
 猫はなぜか得意そうに言った。まるでこの状況を作り出したのは自分だとでも言うように。
 「ここはどこなんだ?」
 「流石はご主人、落ち着いたものだな。叫んだり取り乱したり、そういうことをして楽しんだっていいものを」
 「叫んだところでどうにかなるものじゃないだろ」
 「なるかも知れない、さあどうする?」
 「お前もう黙れよ」
 僕は立ち上がった。僕の身体の上に乗っかっていた猫はころんと床に転げ落ちた。どうやら僕がそれまで住んでいた部屋と変わりないらしい。しかし現実では猫は喋ったりしない。
 「それは違う」と猫が言った。まるで心を読まれているみたいだ。
 「ここは紛れもなく現実だし、それは今日の朝食がインスタントのカップスープだっていうことと同じくらい確かなのさ」
 「でもさっきこれは夢だって言った時お前は否定しなかった」
 「それも確かだ。しかし夢と現実は両立する。ご主人、あんたはちょっとばかり頭が固いんだ。練り消しゴムみたいにぐにゃぐにゃでなけりゃあ」
 「じゃあ夢ってのはなんだ」
 「そうだご主人、その意気だ。夢とは眠っていて頭に無意識に思い描くイメージのことさ」
 「じゃあ現実は」
 「現実とは今この瞬間あんたの目で見えていることさ」
 「それは単なる言葉のあやじゃあないのか」
 「論理とは全て言葉のあやだ。ちがうか?」
 猫はのそのそとその辺を歩き出した。畳の床に爪がくいこんで、抜け毛がばらばら落ちる。母親に叱られないか心配になる。
 待った、夢なのに?
 「ちょっと、待て。まだ質問がある」
 猫は迷惑そうにこちらを振り返った。
 「なんだ」
 「これはお前のせいでこんなへんてこなことになっているのか」
 「おれじゃない。あんた自身に聞け。ここは夢なんだからな、論理的に考えろ。そうやって論理的に考えて、このおれがお前と実は同一人物だっていう結論は、なかなか楽しくないだろう?」
 猫はそういい残して、部屋を出て行った。

 夢だからこそ論理的に、という言葉ほどナンセンスなものはない。しかし現実という言葉が夢の中で通用してしまっている以上、ナンセンスという言葉は撤回するべきなのかもしれない。僕は布団の上に腰かけて、たっぷり十分間もこの問題について考え込んだ。考えれば考えるほど、抜けられない深みにずぶずぶと音を立てて沈みこんでいるみたいだ。急にここは夢だということを思い出して、不安になる。いつ畳の床が底なし沼に変わるとも知れないのだ。しかし心配のしすぎだったのか、そんな事は起こらなかった。夢の取捨選択の基準が分からなくなる……猫は喋ってもいいけれど、床が沈むのはだめらしい。
 階下に降りて、まず顔を洗い、歯を磨く。テレビを点けると、ちょうど朝のニュースが始まっている。

 ……お早うございます、11月12日、7時のニュースです。さて、本日の東京は朝から霧が出ていまして、後ろの映像は皇居なんですが、もう白くぼんやりとしか見えなくなっていますね、ドライバーの皆さんは是非ご注意の上、ライトを点けての走行をおすすめします……

 台所に行き、カップにスープの素を入れ、お湯を注いで飲む。食パンを一枚、オーブントースターで焼いて、バターとマーマレードを塗ってかじる。もう一度洗面所に戻って、歯を磨いて、前髪をチェックする。一介の男子高校生として、ここは気になるポイントだった。何だか髪が伸びているような気がする。夢の中に床屋はあるんだろうか。それどころか、学校というものはちゃんと機能するものなんだろうか。部屋に戻って学生服に着替えながら、そんなことに気がついた。僕はズボンのベルトを締めるのももどかしく、再び一階に駆け降りた。
 縁側に出た。庭は普通の地面がむき出しになっていて、隅の方には雑草が勝手気ままに生えている。家族は僕も含めてあまり庭仕事には熱心ではなかった。庭の隅にある物置には、芝刈り機も、シャベルも、その外土いじりに必要なものは何一つとして入っていない。
 僕はさっきの猫を呼ぼうとした。しかし、ちゃんとした名前をつけていたわけでも、そもそも仲が良かったわけでもないから、どうやって呼ぶべきか迷ってしまった。
「おーい、その、猫さん、ひょっとして学校ってあるんだろうか」
返事はない。どころか庭にいる気配もない。どこかへ行ってしまったらしい。街の猫たちと一体、何かを喋り合うのだろうか。それにしてもただの猫に真面目に「さん」をつける日が来るなんて。物を喋る相手に対して、何となく人間扱いしてしまうのだ。
 両親は共働きで、いつもこの時間にはもう仕事に出ていて家にはいない。だから一人っ子の僕は台所で一人で簡単な朝食を摂り、学校に行く時は、家中の窓がしまっている事を確認してから、玄関の鍵を二つかける。ここまでは、全く僕の記憶のとおりに進んでいる。目覚めていた時の記憶、夢を見ていない時の記憶だ。あの黒猫が喋る以外は。
 家の前の通りは、拍子抜けするくらいいつもと変わりなかった。猫が居なくなってしまうと、僕はこの世界が夢だとは信じられなくなってくるのだった。猫が喋っていたのだって、単に寝ぼけていただけだったのかもしれない、それとも夢の続きかも。どこでその夢が途切れたのか知らないが、やはり論理的に考えることは重要ではないか……猫は目に見えていることが現実だと言った、確かにそうだ。だけど、それは僕が日頃から常々考えていたことだ……そうだ、僕はこういう問題を考えることが好きだった。夢と現実、空想と論理、一見相反するように見えるそれらを一つにしたとき何が起きるのか。あの猫が考えたことじゃない……そうだ、これは僕の夢なのだから。……それに大切なことが抜けている、目の見えない人にとっては、聴覚や触覚が現実となるということ……全く、差別主義者じゃあるまいし、言葉のあやなんて、それこそナンセンスというものだ……
 家を出ると、まず交通量の多い道路を隙を突いて渡り、川沿いの細い道に入る。車は一方通行で、まず入ってこない。川沿いには桜の木がずっと向こうまで植えられていて、春にはそれが美しく咲いているが今は葉っぱも散ってしまって味気ない。小学校のそばを通って、橋を渡り、そこからまっすぐな道をずっと歩いていく。ここも歩道がないような細い道だ。僕の自転車通学が許されなかったのにはこの道の責任が大きい。車が通ると道の横幅のほとんどを埋めてしまって、危ないからと両親は通学用の自転車を買ってくれなかったのだった。道沿いに小さなコンビニエンスストアがある。こんな場所に建っていて売れているのだろうかと思ったら僕の通う高校の生徒がよく通学時に利用していた。それから橋を渡り、まっすぐな道をずっと歩く。道沿いにはコンビニエンスストアがあって、中を覗き込むと同じ制服を着ている誰かが雑誌を立ち読みしている。その道を抜けると、高校に到着するのだが、校門は反対側にあるのでぐるっと回らなければならない。校門では校長先生や学生指導の横田先生がいつも立っていて、制服や髪型のだらしない生徒を捕まえようと手ぐすね引いて待っている。僕は一時期彼らと出くわさないようにすごく早い時間に登校したことがあったのに、一度偶然同じ時間に車で到着した横田先生に見つかって、その時から僕は彼のお気に入りになっている……
 ……おや?
 今同じ通りを二度通らなかっただろうか……コンビニエンスストアは二つもない、同じ真っ直ぐな道を二回……なるほど、夢だから時間がぐるりとループしても構わないというわけのだろうか……つまり夢は時間を採ったのだ……ほら、その証拠に地面は相変わらずしっかりしているじゃないか……しかしこれではますます色々な物事が信用できなくなってしまう。
 しかし、と僕は思いなおした。あることに気がついたのだ。記憶は常に一貫しているらしいということ。僕はコンビニの前の道を二度通ったことを覚えていた……それなら、記憶と照らし合わせる限り、物事の前後がごちゃごちゃになったり、今がいつなのかと考えたり、そういう無駄は省けるということだ。そうだ、そんな事は無駄以外の何物でもない。目覚めていさえすれば、こんなことに思考を煩わせる必要はない。夢の中でも、出来ればその習慣は残しておきたい。これは僕の夢なのだから、最終的には、全ての事象が僕の思い通りになってもおかしくはないのだ。なにしろ全ては頭の中で思い描いていることなのだ。今眠っている僕にいわせれば、頭に思い描く僕の、思い描くイメージ。……不可能ではないはずだ…………
 「お早う」
 急に声をかけられて、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。クラスメイトの鹿野だった。もちろん目覚めていた時のだ。その声をかけた主も、僕の過剰な反応に少々驚いていた。身体が一歩引いた。
 ぼんやり考え事をしている間に教室まで辿り着いていた。
 「お、お早う」
 「おう、大丈夫か?」
 「まあ一応……」
 鹿野は、ちょっと不思議そうな表情を浮かべた。
 「何かあったか?」
 「いや、別になんでもない」
 「そうか、でも顔色良くないけどな」
 「あー、寝不足かもしれない」
 「なんだ、勉強かよ」
 「まあそんなもん」
 鹿野は何とも思わないような表情で笑っていた。しかし僕は鹿野がどういう存在なのか疑っていた。鹿野が突然人間でない何かに変身して襲い掛かってくる、というようなことではなく、あまりにも人間らしすぎると思ったのだ。受け答えが自然だし、真っ当すぎる。それなら、夢は鹿野に対して「夢らしさ」のような物を全く認めなかったということなのだろうか。受け答えというのは、相手の言おうとすることが分からないから成り立つのだ。僕には鹿野の考えていることが普通に分からない。夢はまた「夢らしさ」を認めなかった……これが夢の中だから、ややこしくなるのだ。夢を見るなら、それが夢だと気付かない方が余程気楽だ……それなのに僕は最初からこの世界が夢だと気がついてしまっている。これは一体どうしたことだろう?

 人の、他人に対する意識というものは、非常に微妙で曖昧なものをその奥に隠している。果たして、よもや自分以外の人間が、自分と同じような複雑極まりない自意識を持っているのか? その中に隠れているのは本当に本物の人間か? 実は精巧に人間に似せた機械人形に囲まれて暮らしながら、彼らの正体を突き止めることは本当に可能なのだろうか? あらゆる前提が成り立たない世界では、必然的に他人の存在すら疑ってかかるべきだ。しかし普通ならばこれらの問いはほとんど意味さえ持たないのだ。なぜならそんな事を考えてみたところで、全く関せず社会は上手く廻っているからだ。

 「数学予習してきたか?」
 「ああ、まあ一応」何だかしているような気がしていた。
 「昨日二時間分とかもう徹夜する勢いだったし、俺も実は眠いんだよね」
 この日の午前中は数学が三時間も入っていた。僕が通う高校では、理系クラスだと時々こういうことがあった。最初の二時間は授業を進めるために充てられて、残りの一時間はひたすら問題の演習をする。一年生で習ったことをもう一度復習するのだ。授業の最初に、今日の課題の簡単な解説があって、それから終了までずっと配られたプリントの問題を解き続けるだけだ。その間先生は小テストの答え合わせをしたり、時々教室の中を机の列を縫うようにして歩き回って、進みのはかばかしくない生徒にアドバイスしたりする。
 「まあ予習の後にゲームしてたから、自業自得なんだけどさ」
 「はあ? 何だそれ」
 「お前ってさ、ゲーム何かやるの」
 鹿野の目は何か期待している。夢の中だとそれが何倍も気味悪いものに映る。
 「いや、あんまり……テトリスとかは一時期はまってた時期があったっけ」
 「そっか」
 「鹿野は?」
 「俺は……あれだよ」何だかはぐらかそうとする。「お前はあんまり興味ないんじゃないかな」
 「多分興味ないな」
 試しに笑ってみた。口の端を曲げて、からかうような表情をつくる。鹿野はつられたように、にやっと笑った。それからため息をついた。
 「お前分かってて言ってるだろ?」
 「多分だけど」
 「本当は隠れてやってるんじゃないのかよ」
 「まさか、お前じゃあるまいし」
 「何の話?」
 割り込んできたのは吉田だった。鹿野の彼女で、そのつながりで僕ともわりと仲が良かった。
 「鹿野のシュミの話」
 「何それ」
 吉田が鹿野を探るような目で見た。鹿野はばつが悪そうに頭をかく。
 「何でもないって」
 「隠し事かなあ、んん?」
 「だから、あれだよ、あれ」
 それを聞いて、僕にとっては驚いたことに、吉田は納得したような表情を浮かべた。
 「ああ、あの本棚の裏に隠してある……」
 「言うなよ」
 「高校生の女の子がいっぱい出てくるあのゲームのこと?」
 吉田は鹿野の制止を振り切って全部言ってしまった。しかもクレッシェンドを一気に掛けた大声だ。クラスの騒ぎ声が一瞬止まったかと思うと、明らかに聞こえたのは馬鹿笑いを始めたし、事情がよく分からないのもつられて笑った。
 「バッカみたい、私が知らないとでも思ってたわけ?」
 鹿野は形無しで、吉田はというとこらえきれないようにクスクス笑っている。僕もつられて笑っていた。何気なく視線をめぐらせて、窓の外を見た、その瞬間だった。
 朝の黒猫が、窓枠のところにいた。
 欠けた右耳をぴんと立てて、窓の外側の、僅かな出っ張りに座っている。長い尻尾を時折揺らしている。外で風が吹こうが、中で誰が騒ごうが、全く超然とした様子で座っている…………
 時が止まったような気持ちだった。クラスの中のことが皆灰色になってしまって、視界の隅に押しやられた。意識が総動員して窓の外の猫に押し寄せた。あいつは何をしに来たんだ? そもそもどうやってここまで来たのだろう、ここは三階だというのに……立ち上がった。ゆっくりと歩いている、しなやかな手足はこそりとも音を立てない。こちらを全く見ない。何を見ているのだろうか、何も見ていないのだろうか……どうしてこちらを見ない? 窓の近くまで行きたいと思った。それなのに身体が動いてくれない、意識が全部目に集まって、身体を動かしている暇がないからだ……やっと足の裏が地面から離れた。靴底がまるで粘着テープみたいだ……空気も水あめのように絡み付いて、喉に引っかかる……その時、猫がぐるり、と首を回した。黄色い目が、僕の目を見た。
 油断した、と思った。
 猫はそのまま跳び降りていった。跳んだ。

 後ろ足が、バネのようにたわみ、力を蓄えて……それを一気に開放する瞬間、足の裏の肉球の球面がステンレスの足場から離れる、


      その瞬間……尻尾の毛の一本一本が風にそよぐ瞬間……


                                          跳んだ。

  目に凝縮された意識が、押しつぶされたような





               跳んだ。                      衝撃が走る、視界が、




               鮮やかな色を

 取り戻して、                           

                                      跳んだ。




                                   










                                    それを通り過ぎると、もう
                        色が色だと分からない……






       …………何もかもあの猫のせいなのだ、という直感が、確かなものになったと感じた。目が使い物にならなくなった。


 真っ暗だった。当たり前だ、目が見えないのだから。そのまましばらく手探りしていると、何かが手に触れた。固くて平らなもの、机だろうか。僕はまだ制服を着ているらしかった。首のカラーが慣れた苦しさを伝えてくる。それから上履き、足をこするときゅっと鳴る床。ここは学校でいいのだろうか。目を閉じたまま、腕を前に突き出して、そろそろと歩きだしてみる。
 「……何やってるんだ、おい」
 しわがれた声、数学の島田先生だと思った、もう授業が始まっているんだろうか。さっきまで鹿野や吉田と喋っていたはずなのに……
 「ちょっと目の調子が悪いんです」果たして本当に通じるものか不安だ、と思いながらも言った。
 「……保健室に行くか」
 「そうしたいんですが……前が見えなくて……」
 僕は反応を待った。しかし今度こそ声は真っ暗闇に吸い込まれるように消えてしまった。もう誰もいなくなってしまったのだ。唐突に訪れた失明……まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。僕の現実は今や触覚だけだ……この事実は僕を空しくしてしまった。少し前に考えていたことじゃないか、だったらこうなることは予想できていたのだろうか……予想さえ出来れば、実際に起こることも防げるような気がするのだ。しかしどうしてかは分からない。
 やはり油断してしまった。
 僕は手探りで、教室の外に出た。学校の建物は、触覚として残っていたのだ。転んでも構うものかと思った。階段から落ちようがどうでもいい。どうせ何かが変わるわけでもないのだ……踊り場にある点字ブロックに、生まれて初めて感謝した。手すりにすがりながら階段を降りて、保健室に向かった。他にどこへ行こうとも思いつかなかった。目は相変わらず開かない。ずきずきと痛んで、血が流れているような気がするが、目の辺りを触ってもそういった感触はない。……保健室のある廊下に辿り着いたことは分かったが、一体何番目のドアがそうなのか分からない。授業中でも空いているだろうと思って、手に触れたドアは片っ端から引いてみた。3番目のドアには鍵がかかっていなかった。多分この部屋だ。
 「……失礼します」
 答えはなかった。分かっていたことだが、実際にそうなってみると嫌気が差してしまう。手探りでベッドを探し当てた。寝転がろうとも思ったが、もう油断するわけにはいかない、ベッドが不意に消えてしまったら。結局そこの床に座り込んで、ベッドの側面に凭れることにした。やっと保健室まで来たのに、ずいぶん無理矢理な体勢だった。全くどうかしてるとしか思えない。
 …………
 しばらく、そのままでじっとしていた。耳がすごく敏感になっていて、今度は耳の神経が潰されるような気がして嫌だった。時々手を叩いたりして気を紛らわせた。好きだったバンドのドラムライン。…………
 ……。
 ……。
 ……。

2010/11/26(Fri)21:41:14 公開 / 皆倉あずさ
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■作者からのメッセージ
まだ短すぎるかなあとも思ったのですが、投稿します。
初めての長編にしようかと考えています。何となく電波……
コンセプトとしては、「出来る限り長く!」週一での更新を予定。

「意味不明」「読者にもっとやさしく」等、コメント、批判、お願いします。出来れば具体的に。

11月26日 一回目更新。まだ何も始まらなかった……来週までには何とかします。
コンセプト追加、色んな手法を使ってみること。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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