『おにんぎょう』 ... ジャンル:ショート*2 ショート*2
作者:目黒小夜子                

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 “記憶”と呼べる記憶がついたのは、いつの頃からだったのでしょうか。私はあの人の隣に座り、ただただ電車に揺られていたのです。どこへ行こうとしているのか、どこから来たのか、ここがどこなのか。私のもたれかかるこの肩は誰のものなのか。私の腕にからみつく温かい腕は誰のものなのかすらも、私にはわかりません。

 ただただ、彼と一緒に。ただただ、電車に揺られて。
 それはとても不可解な出来事でしたが、同時にとても安らぐ時間でもあるように、私は感じたのです。そう、私は、“感じた”のです。せめて、この安らぎを与えてくれるあなたの顔を見たい。私は願うこともできたのです。しかし、まるで長い間眠りについていたかのように、或いは強いまどろみが今も襲いつづけるかのように、身体を動かせないでいたのです。そう、“動かせないで”、いたのです。
 ぎ、く、しゃ、く、と。音をたてるかのように瞬きをひとつ。一度、二度、……三度目は眼を閉じようとするだけでも困難で、まるで睫毛の一本一本が瞼に張り付いてしまったかのように、動かせないのです。

 たたん、たたん、と一定の間隔で電車は音をたて、同時に窓を染める闇にも一定の間隔で外灯が光の世界を切り開きます。不思議ですね、その音ですらも、徐々に徐々に膜を張ったかのように鈍く不鮮明な音へと変わり、私の世界から遠のくのです。

「……ぶ……から……ね、だいじょうぶ……しんぱいいらないよ」

 頭上にふりかかる声は、彼のものでしょうか? 絡み付いた腕の先では、ゆっくりと優しく撫でられる手。手、手、手。私の手。それは蝋人形でできたように白くまろく、どこまでも“人”でないようでした。だってほら、彼の手をごらんなさい。指の付け根の関節は大きく突っ張り、肉眼で見てとれるほどに浮かび上がった血管は青く、その上を幾重にも幾重にも包んでいるだろう皮膚には茶色いシミが浮かんでいる。これが“人”の手ならば、お世辞にも“人”と呼びづらいこの私の手は何なのでしょうか。これではまるで、まるで……まるで、幽霊のようではないですか。

 しかし私は、安堵のために息を吐くことができたのです。ああ、このまま、ずっと電車に揺られることができるのなら。それは、海底深くに沈む貝殻がころころと揺れるように、非常に静かでどこまでも孤独な世界。それでも私には、彼が居る。彼さえ居れば、“き”から始まり“ふ”で終わる“恐怖”は、恐ろしくも怖くもないものになれるような気がするのです。すなわち安堵、と呼んでもよいのでしょうか?

 このまま、かれといっしょに、いつまでも。

+++

 でんしゃにゆられるでんしゃをおりるかのじょといっしょに、てをとりかたをささえ降りたさきでのわたしのあせりははかりしれない。早くしなければはやくしなければはやくしなければかのじょのいのちがとだえてしまう。にんぎょうにつめこんだこころのせいげんじかんがおとずれてしまったのだ、いそがなければかのじょのこころがきえてしまう。

 いえにはいる地下にいくかのじょのこころをつめこんだにんぎょうをだいにのせる。こころほぞんきをとりだすでんきょくをのうとむねとにあてるでんりゅうをながすかのじょのこころをほぞんきにいちじほぞんする。人形をすてるにんぎょうをさがすにんぎょうをだいにのせる、でんきょくをつなぐでんりゅうをながす。

+++

「……のぞみ……るかい? ……たら……てをあげて……」

 聴こえる声に眼を開き、右手を動かします。それは私の手のはずなのに、まるで別の何かのように不可解な動きをするのです。しかし、一度、二度、三度と動かすうちに私の手になってくれたようでした。高く高くあげると、“ああ”と先ほどよりも高い声が聴こえたのです。


「良かった、間に合った」
 視界に入る男性は、白髪の混じった黒髪というよりも、黒髪の混じった白髪といったほうがしっくりときました。同じ様子の髭や、目尻と口元に深く刻まれる皺から推察するに、年配の男性のようです。しかし四角く縁の目立つ眼鏡の奥では、穏やかで柔らかい光の宿る瞳が私を捉え、まなじりが優しく垂れています。それだけが唯一、私の中での彼の年齢を若いものと感じさせます。


 ここは、どこなのでしょうか。私が寝そべっていたこの台は、寝台でしょうか。彼は私に起き上がることを望んでいるように感じます。慣れない私の手を台にかけます。ぎ、く、しゃ、く、と。音をたてるように立ち上がると、目の前に広がる世界に息を呑みます。
 灰色よりも白に近く、それにもう少し蒼を加えたような色合いの壁がぐるっと一周しています。どうやら円形の部屋だった様子で、おうばん焼きを彷彿とさせます。その中央に、私の寝台があったのです。ぱちり、ぱちり、ぱちり。音をたてるように瞬きを幾度か。

「のぞみ、どこまで憶えているか、教えてくれるかい?」
 彼は私にそう聞きます。のぞみというのが私のようです。
「…………」
「…………」
 答えたくないのではありません。声が、出せなかったのです。声というものは、いかにして発せられるものなのでしょうか。しかし、私は不自由などしません。彼の話していることがわかるということはすなわち、彼の意思が汲み取れるのですから。

 しかし彼はとことこと私の寝台の周りを歩くのです。ゼントウヨウに障害が起きてしまっているのだろうか、それとも声帯が上手く作動していないのだろうか……彼の呟きのほとんどは理解できませんでしたが、彼の呟きのひとつなら理解ができました。彼は、濁点を濁点として発音できていないようです。それが可笑しくて、かわいらしくて。私は微笑むことができたのです。


 彼はそれに驚き、私を抱きしめてくれました。そのまま、私を抱きかかえるようにして、この部屋にある唯一の出口から階段を登っていきました。広がる部屋には、観葉植物やら大きい液晶テレビやら暖炉やら、それらに加えてたくさんの人々が映る写真立てが飾ってありました。私にとってそれは、まるで宝石のようです。これらのひとつひとつを見ることは、彼を知ることにつながるのですから。

 私が手にとった写真は、彼に似た顔をした若い男性と、穏やかに微笑む女性が映っています。女性は白い布でくるまれた何かを抱きかかえ、先ほどの彼のように、優しくまなじりを垂れさせているのです。
「これが若い頃の僕。隣に居るのは君だよ」
 驚いて、写真立てを落としそうになりました。写真に写る女性は黒髪が似合って、鼻が少し低いです。眼もどこか細いようです。それに比べて、写真立てのガラスに映る私はどうでしょうか。おおよそ同一人物などとは思えない容貌をしているのです。ブロンドの髪が明るく輝き、睫毛はお人形のように太く長く、鼻筋は鉄の棒でもいれたかのように高いのですから。
「君が抱きかかえているのは、僕たちの子ども。男の子だった。名前はケンだよ。君は、“鼻が僕に似てるね”、と言って微笑んでくれたんだ。もう二十年も前の話だからきっとそこまでは憶えていないと思うけどね」

 私は首を傾げてしまうのです。これが二十年前の写真であり、彼はそのまま二十年の歳月を経て変わることができたのです。それなのに何故、私はこのように全く違う容貌になったのでしょうか?

「もういいんだ、あまり多くを知ろうとしなくていい、僕らにはそんな時間が無いんだからね。今から大事な話をしよう。君はこの写真を撮った翌日、事故で亡くなったんだよ。青信号に変わった横断歩道を歩いたら、右折してきた車に突っ込まれたんだ。すぐに救急車が来たんだけどね、車と電柱の間に挟まれてしまっていて、もう血管がボロボロで下肢の切断どころじゃ間に合わなかったんだ。ケンは……即死だった。僕は急いで博士のところに行った。当時、科学研究室で助手をしていたんだ。人の心を人以外のものに一時的に移植する機械、こころほぞんきの完成間近だった。僕は博士に頼み込んだよ。君の心とだけでも、ずっと一緒に居たかったんだ」

 あまり多くを語る彼を前に、私はまた瞬きを一つ。抱きしめてくれる彼の腕が温かかったことだけがせめてもの救いでした。

「ごめんねのぞみ。僕はそうして、君の心を何十回といろんなものに入れ替えていったんだ。近年になって、博士が新しい機械を発明してね。声帯と脳をもった人形だよ。脳といっても、心はないんだ。こころほぞんきで、亡くなった者の心を移植させるためにつくられた人形だ」

 ああ、それがこの身体なのですね。そう言いたかったけれど、私の口からは声にならない声しか出せませんでした。私は、彼を優しく抱き寄せます。そうして、白髪に染まりきりそうな頭を優しく撫でるのです。ああ、かわいそうな人。あなたはそうやって、きっと何度も何度も、私が目覚めるたびに、その話をしてきたのですね。私が姿を変えても形を変えても、それを私と思い、変わらぬ愛情を注ぎ続けてくれたのですね。

「でも、最近徐々に君の心が弱ってきているんだ。昔は一年と保てたはずなのに、……この前の人形では、二週間しかもたなかった。きっとこれからも、君の心は弱り、その身体にいられる時間も短くなってしまうのだろう」
 あなたは、この二十年間、私でない私を私と思い、何度も何度も同じ話をして、ただの人形をあなたの私にしてくれたのですね。
「それでも、君さえよければ、また違う人形に心を入れ替えさせてほしい。君と一緒に居たいんだ。これから先も、ずっとずっと」
 でもね、それはいけないことなのです。何故なら、こころほぞんきという物さえ無ければ、あなたはこの二十年間を違うことに使えたはずだから。そうすれば、私に縛られない幸せが、あなたにも訪れたのではないですか? いつまでも私に縛られない幸せが。新しい誰かが。あなたを愛してくれたのではないですか?


 私の眼から、一筋の光が流れ落ち、彼は慌ててティッシュを引き抜いて頬に当ててくれました。
 ああ、私はこの彼の想いを、私だけのものにしたかったのでしょう。きっと彼は、私が姿を変えるたびに次の身体への移植の許可をとったのでしょうから。そうすれば、彼と一緒に居られると思った私は、今まで頷いてきたのでしょう。それはいけないこと。彼を縛ることだから。
ああそれでも私は、彼と一緒に居る時間を願うのです。笑い合った日々がまた訪れることを願っているのです。ずっと一緒に、温かい光の中で、彼の腕の中で微笑んで。彼の中で微笑む私を忘れてほしくなくて。それは二十年も前に絶たれたはずの夢だったのに。色褪せて埃を被った夢に、彼をつき合わせているなんて。

 彼の手をとります。見つめます。首をふります……よこに。

 彼は眼鏡の奥で、瞳を不安そうに揺らします。ごめんなさい、もっと早く、あなたを解放してあげられれば良かったのに。ねえ、大好きなあなた、どうかお願い私のことを忘れないで。それでもどうかお願い、私に縛られることだけはしないで。


+++


 あれからどれほどの時間が流れたのでしょうか。私は毎日、お家の庭から見えるすすき野や空を彼と見ては、彼の話を聞いて微笑みます。彼は私に言いました、“君の心は弱っている”と。この世の者でない私の魂がいつまでもこの世に居てはならないから、機能が奪われていったのでしょう。話せなくなったのも人形の欠陥などではなく、私の心の問題だったのです。すると、これから先は、彼の話すことも聴こえなくなったりわからなくなる日が訪れるのではないでしょうか? それでも彼は、私を愛してくれるのでしょうか。彼ならしてしまいそうですね、そのうち、心があるのか無いのかすらもわからない人形を相手に“のぞみ”と私の名前を呼び続けてしまう。それは、辛いのです。

「ずっと一緒に居よう」
 彼の言葉に嬉しくなった私は、まるで年端もいかぬ女の子のように微笑み、頷くのです。ずっとずっと一緒にいましょう。そうして、一日に少しずつ彼に内緒で手紙を書き、それを一つの封筒に収めて、私が居なくなった後に見つけてもらいましょう。

 その日は穏やかな空が広がり、その下で黄金色に輝くすすき野が風になびいていました。太陽の光に彩られる緑は濃淡さまざまであり、秋の日差しの美しさを感じさせます。彼が後ろから私を抱き寄せてくれました。私は微笑もうとするのですが、顔が動かせないのです。ぎ、く、しゃ、く、と。音をたてるように首を動かしますが、彼の顔を見ることができません。嬉しいことに、彼の方から私を覗き込んでくれました。

「のぞみ……眠いかい?」
 違うのよ、愛しいあなた。ついに、本当に本当の意味で私はあなたにお別れをしなくちゃいけないのよ。口元を動かせないでいる私を見て、事態に気づいた彼は私を強く抱きしめます。
「……これからも君と居たいけれど、こころほぞんきを使うことはもうできないんだね……」
 そうよ、愛しいあなた。だから、いつまでも私を追わないでね。ついてきちゃいやよ? あなたはあなたの道を歩んでね。
「のぞみ……、……ょ……」

 何? 何て言ったの? ……あなた……。


+++


「のぞみ、これからもずっと、愛しているよ」
 彼女はどこまで聞き取ってくれたのだろう。少なくとも、最後まで聞き取ることは不可能だったのだろう。僕は、彼女の抜け殻を抱きかかえたまま、出会ってから今日までの彼女の思い出に色をつけていく。

 初めて出会った時は、何て可愛げの無い女だと腹を立てていた。大学の先輩が紹介してくれた友人が、彼女を連れて来たのだ。僕と恐ろしく意見が食い違うその姿に、若い僕は思い通りにいかない憤りを感じていた。

 彼女を可愛いと思うのには、意外と時間がかからなかった。「あ」と声をあげた彼女と僕が、同じ行動をとっていたのだ。それは霊柩車が通った後に、親指を仕舞い込む行動。親の死に目に遭えなくなるとか、そういう言い伝えだったのだけれど。まさかこの歳になってもそれを信じる人が居たなんて、と思い、可笑しさにお互いに声を出して笑い合った。

 結婚、出産と時は流れて、僕は確信した。彼女と一緒に居られる時間こそ、僕が幸せで居られる時間だと。僕は、昨日まで続いた幸せが明日もその次の日もずっと続いていくことと思っていた。まるで関数の線のように。範囲を規定しなければ宇宙の果てまで続くとものだと。ある意味それは正しかったのかもしれない。僕とのぞみは、たまたま範囲が短く規定されてしまっただけなのかもしれない。

 その範囲を無理矢理広げようとしたのはやはり僕だった。こころほぞんきの使用で、亡くなった彼女を無理矢理延命させようとしたのだ。移植後は「信じられない」「どうして私は死んでいないの」と生前の記憶を持ち込めていたのぞみが、徐々に記憶を失くし始めていった。しまいには、僕の顔を見ても誰なのかわからずに微笑み続けてしまった。僕が生前の話をすると、だんだんとのぞみは生前の記憶を持てるようになった。

 ……しかし。衰えが止まることなどなかった。やがて、自分の名前すらも憶えきれない彼女は、なおも僕を愛しく想ってくれる気持ちだけは変わらずに保ってくれていた。僕はそれが申し訳なくて、しかし嬉しくもあった。だが、声を発することも出来なくなってしまった。これからもずっとずっとこの衰えがきたら……彼女は本当の意味で死ぬのだ。


 のぞみはきっと、そうなる前に死ぬことを選んだんだ。僕はそう解釈しても良いのだろうか。これは君の優しさであると。まだ温かい、彼女の心が入っていた人形から身体を離し、僕は地下室へそれを運ぶ。円形の部屋の隅の扉を開けて、人形を放り込んだ。一体、この扉の奥に、何体の人形が居るのだろう。彼女でなくなった人形の数を見て、僕は胃の中の物を吐き出しそうになった。妻の死を受け入れきれない男が作り出した部屋の気味の悪さに。人形たちの淀んだ瞳を見て思った。これが僕のしてきたことなのだ、と。
 秋の空に、うっすらと飛行機雲が絵を描く。僕は人形の部屋に油を撒き、火を放った。たくさんの、彼女の抜け殻が、抵抗される間もなく燃えていく。抜け殻たちがつくった細い煙が飛行機雲の模様に交差する頃、僕は小さく呟いた。さようなら。


おわり。

2010/09/22(Wed)23:47:56 公開 / 目黒小夜子
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■作者からのメッセージ
まず、読んでくださった方、ありがとうございます。

多分、2年ほど前に書き上げて、いまいちよくわからなくてずっとここにあげられなかった作品です。心ってなんだろーとか、どうして人は死んじゃうんだろーとか、死んだ人に生きてほしいって思うのはエゴなのーとか、重たいことを考えていた時期の作品であることだけは、明らかです。

秋は嫌いです。辛いことばっかり思い出しますから。世間的には夏の思い出の方が辛いのかもしれないけれど。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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