『僕のくだらない弁明』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:おにこ                

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 思わず辞書を落としてしまった。そう、辞書を。周りの皆が何を考えているか、そして僕は周りの目にどんな風に写っているのか。そんなことに神経を巡らす日々から決別すべく、僕は携帯電話を捨てて、代わりに辞書を持つことにしたのに、思わずそれを落としてしまった。

 携帯電話を持つことをやめてから、僕がそれまで築き上げてきた砂上の人間関係は崩壊した。自分で壊しておいて何だが、今まで「友達」と呼んでいた人達が、風のようにササっと周りから去っていったのには、予想通りではあったものの、多少の動揺を感じざるを得なかった。自分に自信がない人々に幸あれ。僕はニヒリズムと共に、それまでとは別の孤独の次元に突入した。

 嗚呼、青春ごっこ。しかし、当時の僕はただ、それを前面から否定して斜に構えるしか方法がなかったのだ。間をとるなどという器用なことはできなかった。確かに、自分の中に居る魔物を解放し、それを封印している多数の人々へ叛逆するという今回の僕の試みは、世界の果てにあるであろう滝から、そこからは無いかもしれない陸地を信じて飛び降りるほどの勇気を必要とさせた。しかし、その勇気は必然の賜物であり、僕の人工的な努力というものが、それほど介在していたわけではない。

 ある人が僕に言ったのだ。「辞書を持て。携帯電話を捨てろ。そして無人島へ行って一年間帰ってくるな。そうすれば今の”つきっぱなし現象”から抜け出せるぞ」と。その人は大人のくせにこれ以上ないというほどの純真な眼光で僕の心を射抜いたので、僕は何の根拠もなしにその言葉を妄信することになったのである。

 ここで一言付け加えておくと、人はそれが妄信だとわかっていても、何にも寄りかからないよりは、何かを辛抱している方が楽なのである。

 人からどう見られるか、そればかりに関心があったあの時代の僕と、今このように辞書を持っている僕との、この絶対的対立。この折り合わなさが、僕の周りの人間関係を暴力的な形で変にねじ曲げた。「世界でベスト5に入るほどのいい人」と言わしめた僕は、今や悪魔的である。

 僕には、人の一番隠したい部分がわかるのである。そこは多くの場合、瘡蓋のように不自然に盛り上がっている。金髪の女の子は黒髪の女の子よりも、隠したいものが多いのである。その隠したい部分をこちらが了解して、会話の中で、日々の所作の中で、いかにも何もわかりませんよとばかりに、避けておいてあげれば、すぐに僕は「いい人」になれる。そこを不用意につつけば「悪魔」になれる。この簡単な仕組みに驚くほど忠実な人々に嫌気がさして、僕は悪趣味なことに、その瘡蓋部分を辻斬りしていた。その様相は、確かに悪魔なのだろうと自分でも思う。

 しかし、一度壊さなければ、そこに次に何かが生まれる可能性がなかったであろうと思ったのである。そう思ったからこそ、あの時の僕は、僕に絡み付いていた全てのツタを振り払う他なかった。僕は、それまで「仲のよかった」人々に対して、僕がそれまで故意に抱かせてきた数々の「誤解」を解く他になかった。それ以外に何ができた? とにかく、白昼夢よりも虚無で危険な「友達ごっこ」や「青春ごっこ」に無垢に身をゆだねるほど、僕の目は最早閉じていてはくれなかったのである。

 しかし、大学へ行っても誰とも話す相手がいないというのは悲しいことである。
知人が最初から一人もいないのならばまだしも、それまでたくさんの接触を重ねてきた人々と、すれ違っても見向きもされないというのは、とても、悲しいことである。

 僕はここで強がったりはしないのである。悲しいことは素直に悲しいのである。

 理性的な行為が、感情的に報われるとは限らない。感情的快楽を求めるのならば、信条など無視したほうがてっとり早い。しかし、感情的快楽に流されて生きるということも実は大変難儀なことなのだ。

 問題は単純なのだ。
 僕は、人々が日々の生活で表にこそ出さないが常に感じているであろうあの「虚無感」を、どうにか個々の人々から引きずり出して、公衆の前面に晒したいと思っているのである。僕の大部分を形成しているこの「虚無感」を、全人類と共有したいというこの我侭をかなえたい。だから、虚無の存在を一心不乱に隠蔽しようとする人々の行為は、全て僕の敵なのである。

 素直でない。

 素直でない人が僕は嫌いなのである。自分以外の何者かになってやろうとする成り上がり根性が嫌なのである。僕は人々の話し方、表情の機微にそれを遂行するテクニックを感じ取るのである。「暗い」自分が嫌だから明るく振舞おう、「ダサい」自分が嫌だからカッコ付けよう、「弱い」自分が嫌だから強く見せよう、とする全ての欺瞞が嫌いなのである。それらは傲慢である。そしてそれは無理だ。さらに、それらはかえって下品に見える。何かを舐め腐っている。

 隠蔽行為に加担している間は彼らの肩を持たざるを得なかったが、いざ自分から辞めてみると、彼らの隠蔽こそが世界を暗くしている諸悪の根源のような気さえしてくる。

 いや、しかし僕は、自分は反逆者なのだという自虐的感情、これはものすごく重いもので日々、僕の気分をめいらせるものなのだが、を自分は持っているということを自覚している。この罪悪感は僕にとって至極当然のものなので、特筆することもないと思っていたほどである。

 自分は善人なのだ、とりあえず、人に後ろ指を指されるような人間ではないのだ――と「頑張る」人に、「あなた努力は、周りの人間から生気を奪う」と言う人は島流しに合うしかないのだろう。僕はそこまでなる勇気はない。一歩足を踏み出してみたが、そこをさらにズンズンと踏みしめていく勇気はない。なぜだが、悪い予感がするのだ。僕の前方に、たくさんの死骸が転がっているような気がして、ぞっとしてしまう。信条と共に殉死する気概など僕にはないのである。

 足元に落ちた辞書を拾って、僕は埃をはらった。そこには、大地の香りがあるような気がしてならなかった。この辞書があれば、上方で空中分解して空回りしている数々の病理から、自信のない人々を解放することができるのかもしれない。人よ、僕よ、大地に還れ。

2010/09/09(Thu)01:42:41 公開 / おにこ
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