『鬼火』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
作者:皆倉あずさ                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
やたらとぬかるんだ地面を歩いている。一足歩くごとに履いている運動靴が地面にめり込み、じわりと吸いつくような感覚があって、引き抜くと泥の球が幾つかズボンの裾に跳ねかかってくる。そんなことを繰り返しながら、裾はすっかり泥だらけになる。靴のほうは言うまでもなく、もう元の色が分からないくらい汚れている。歩いているのは下草の疎らな雑木林で、歩きやすいが見通しはそれほど良くない。空は厚い雲が立ち込めているのか、それとも日暮れが近いのか、薄暗い。恐らく両方だろうと思った。
地面は徐々に緩やかな上り坂になった。辺りはどんどん暗くなっていく。霧が出てきて、空気を吸い込むたびに細かい水滴が肺を刺す。地面は相変わらずぬかるんでいる。一歩一歩に普段以上の体力を使う。
ふと気が付くと、右側に男が一人並んで、一緒に歩いている。丈の長い白の服を羽織っているから薄暗い中でも目立つ。顔を見ると、眼鏡をかけて短い顎髭を生やしている。男がこちらを見た。にこやかに微笑んでいる。
「今晩は」
「今晩は」
「今晩は」
後ろからも声がした。歩きながら振り向くと、男が一人ついてきていて、やはり白の服を羽織っている。不安になって、自分の服の色を検めた。普段着としてよく着ている、緑地に黒のラインが入ったTシャツと、ブルージーンズ。彼らが白衣の下に何を着ているのか分からないが、これではまずいのかもしれないと思った。思い切って、右隣の男に尋ねた。
「この服はあまりよくないんだろうか」
眼鏡の男はしばらく考え込むように腕組みした。それでも口元の微笑みは崩れない。それを見ていると、何だか女の口元を見ているような気になる。
男はゆっくりと歌うように
「雨が降る、槍が降る、大きな大きな蜘蛛が降る」
と言った。
「そうだ」
後ろの男も同意した。彼はこれで分かるらしい。「雨はさっき降ったろう」と言うと、後ろの男がまた「そうだ」と言った。眼鏡の男も微笑みを崩さず頷いている。それで何となく分かったような気になった。後ろの男が肩を叩いてきて、振り向くとどこから取り出したのかきちんと折りたたまれた白衣を持っていた。
「貸してやる」
礼を言って、歩きながら袖を通し、前のボタンを四つ留めた。布はとても薄く、軽かった。着心地はとてもいい。
「どうだ」
「すごくいいね」
ふと、俺は死ぬのかもしれないな、と考えた。二人の男たちの何でも見知っているような感覚が、そうさせるのかもしれなかった。それにもし本当に槍が降ってくればひとたまりもない。あっという間に串刺しになってしまうだろう。
歩き続けて、急に視界が開けた。霧は突然晴れた。雑木林はそこで途切れていた。しかしなだらかな斜面はまだ続いている。地面もまだぬかるんでいる。どこまでも続く平野のような場所だった。雑木林を背にしているとそれに頼もしささえ感じて、離れて行く毎に不安も増大した。突然周りに何も無くなったせいで、気分までが空っぽになったような気がした。空を見上げるとすっかり夜になっている。月の出ないとりわけ真っ暗な夜だが、自分でも驚くくらい夜目が効いた。三人の着ている白衣が、あまりの白さに光っているように見えた。よく見ると、二人の長い裾には泥が少しも付いていない。自分のも確認したが、同じようにきれいなままだった。これには何か不思議な力が働いているのかもしれないと直感した。上を目指していると言うより、その辺りを散歩でもしているみたいに歩いた。まるで目的地も無さそうなのに、歩く方向は三人とも申し合わせたわけでもなく奇妙に一致していた。
 そのうちに、ようやく地面が乾きだして、さらさらと砂のようになった。今や周囲の景色は異常なものになっていた。永遠に続くように見えるなだらかな上り坂と空に挟まれた奥には、まだ何も見えない暗闇がある。左右には斜めに傾いた地平線が見えて、その向こうに広がる空には夜空の暗闇を喰らい尽くすように寒気がするほどの数の星が瞬いている。月が出ていないと星がよく見えると、以前誰かから聞いたのを思い出した。どうしてかは教えてくれなかった気がする。
 そんな全く見蕩れてしまうくらいの景色の中を、三人は黙々と歩いた。しかし長い間歩いてきたことで、全身に疲労が溜まっていた。首の後ろに楔でも打ち込まれたみたいだった。全身の筋肉が強張り、締め付けられるように痛んだ。頭の中は色んなことを考えているような、そうでないような、不安定な場所にだらりと引っかかっていた。意識が徐々に褪せるように減退して、そのうち何も分からなくなった。ただ歩き続ける。
「なあ、お二人さん」と後ろの男が言った。ぼんやりとその声を聞いた。
「ここに来る前、火の玉を見たろう」
 はっとした。頭の中の色々なもやもやが、さっきの霧が消えた時のように一気に晴れ渡った気がした。右隣の男は終始微笑んでいる。後ろの男の話は続いた。
「あれは鬼火と言うんだがね、そんじょそこらの人間には見えない、時々見える奴がいるんだが、それが見えた人間は雑木林を通って丘を登って、俺はそれを送り届けにゃならん。それがまあ俺の仕事でこれでも長いことやってるんだが、もとい、お前」男はぐいと背中を突いてきた。「お前みたいなのは珍しいな」
 男はそれで話を打ち切った。それからも三人は無言で歩き続けた。しばらくして、右隣の男はまた「槍が降る」と呟いた。空を見ると星が水で濡れたようになって、その光は無残に滲んでいる。何事だろうと思った。それから、槍が降って来るのだと了解した。一本一本の槍が、それぞれ針の先のように細い星の光を遮って反射させる。散乱させる。それほど途方もない高さから落ちて来る。頭上の星は一つ一つを認められないくらい膨大である。それだけの槍がもうしばらくすれば次々降ってくる。それまでに峠を越え、家に帰りつくことが出来るだろうか、いや出来なければならないのだ。全てをはっきりと知ってしまえば、志の変化は迅速だった。疲れは全く気にならず、二人を無視して歩く速度を早めた。これから向かう先は分かっている。月と星の話をしてくれた誰かに、戻って教えてやらなければならない。槍が降る夜に星は滲んで見えることを。そしていずれは世界を飲み込む巨大な蜘蛛が、我々を捕らえにやって来るということも。

2010/08/31(Tue)22:21:25 公開 / 皆倉あずさ
■この作品の著作権は皆倉あずささんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
皆倉です。またまた、またSSです。
今回は寓話仕立てでお送りします。
お暇でしたら読んでいただけると嬉しいです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。