『蛍夜』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
作者:皆倉あずさ                

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 三浦智樹は久しぶりに帰って来た実家で、甥っ子達の世話を押し付けられた。彼は大学生で、この時は夏休みである。彼の歳の離れた兄は早くに結婚していて、もう3人も子供が出来ていた。実家は代々農業を営んでいる。兄は現在両親の下で働きながら、将来は家業を継ぐことになっている。智樹は大阪の大学で商学を学んでいた。ゆくゆくはこの場所に戻って、兄の手伝いをするつもりでいた。
 兄の3人の子供の内、長男は小学3年、次に長女が1年だった。末っ子の次男はまだ4歳で、智樹が話しかけても母親の律子さんのそばから離れようとしない。
「ごめんなさいね、無愛想な子で」
「いえ、全然。かわいらしいじゃないですか」
「わたしのこと?」
 そう言って、よく律子さんは笑いながら智樹をばしばし叩いた。その度に智樹は大阪にもこんな奴が多かったように思った。後から聞くと、律子さんは兵庫出身だった。東の人間には、関西人は皆同じに見える。
 兄も、それから両親も、智樹に対してやたらと優しかった。大阪での一人暮らしは大変だったろうと言うのだ。智樹としては、慣れてしまえばそんなことはあまり感じなくなるし、いつも大学の友人達と連んでいたからあまり一人という感覚も無かったが、それを言ってしまうのも余りにも空気を読んでないように思ったから止めた。そのお陰というのか、帰省中は座っているだけで食事が出て来たり、部屋が掃除されたり、洗濯物が畳んであったり、畳に布団が敷かれていたり、そういったまるで全自動の生活に、すっかりとは馴染むことが出来なかった。
 だから、智樹は甥っ子達とむしろ積極的に一緒にいるようにした。上の二人は夏休みの宿題を片付ける絶好の機会とばかりに次々と智樹に質問や要望をぶつけ、智樹はそれらに喜々として答えた。挙げ句の果てに兄の賢介の読書感想文を書こうとして、律子さんに止められた。外に行ってはよく蝉取りをした。まだ背が低い妹の奈々実のために肩車をしてやったら、賢介は面白くなさそうな顔をして、結局交代で乗せてやることになった。
 外を子供たちと駆け回るのは楽しかった。この辺りはずっと平野になっていて、ひなびた街を出れば見渡す限りの水田である。蝉がいるのは街中にある小さな公園の桜の木だ。水田にはイナゴがたくさんいて、捕まえると茶色の液体を滲ませるように吐いた。時々カミキリムシや大きな蜘蛛を捕まえると、賢介は喜んだが奈々実はまだ怖がった。虫をその手に握って奈々実を怖がらせようと調子に乗る賢介を、智樹が無理矢理引き離す羽目になった。夕方になると帰りがけに近所の駄菓子屋に寄って、アイスを買って皆で食べた。疲れて熱っぽい体に、アイスクリームの冷たさが心地よかった。そんな生活が1週間ほど続いた。

 小学校の夏休みが終わりに近づいた。しかし奈々実の絵日記がまだ一枚残っていて、それに蛍のことを書きたいと言い張って聞かない。父親である智樹の兄は何で今更なんだと尋ねたが、奈々実は何故か今にも泣きそうに顔を歪めてしゃくりあげ始めたから、律子さんが後を引き取った。追い払われた格好となった兄は当惑した顔で智樹に言った。「俺、泣かすようなこと言ったかな」
 そうじゃないだろと智樹は言った。多分だけどな。兄は腕組みして考え込んでいる。
「もう蛍の盛りは過ぎてるしなあ」
 蛍はこの辺りでは6月から7月の初夏にかけてよく見られた。智樹は昔父親に連れられて兄弟で蛍を捕まえに行ったことを思い出した。
「俺連れて行ってみるよ。もしかしたらまだいるかもしれないし」
「ああ頼む。俺も行こうか」
「いやいい、休んでろよ」
 兄が疲れからか少なからずほっとした表情を見せたのを智樹は見た。外は墨を流したように真っ暗で、部屋の中からはまだ奈々実のしゃくりあげる声が聞こえてくる。とりあえず落ち着くまでは出かけられないだろうなと思って、智樹は玄関の段差に腰を下ろした。タイル張りの床と頭上の蛍光灯の明かりが、夏にしてはひんやりと感じられた。
 しばらく経って、ようやく落ち着いた奈々実を連れて家を出た。蛍を見に行くと聞くと、賢介もついて行くと言った。蛍を見たことあるかと尋ねたら、賢介は毎年見てると答えた。深夜の外出が物珍しいんだろう。
 近所を流れる小さな川まで歩いて行くことにした。智樹が小さい頃に蛍を見たのも、その辺りのはずだった。小さな住宅街を抜けるといよいよ辺りは真っ暗になった。弱々しい街灯が50mおきくらいに立っている他は、月明かりくらいしかない。右手ににぶら下げて来た懐中電灯のスイッチを入れた。旧式で、とても大きくて重い。しばらく歩いて腕が少し疲れてきた頃、賢介が僕も持ちたいと言ったので、喜んで持たせてやった。賢介は大きな懐中電灯を抱え込むように持って、先頭を堂々と歩いた。奈々実は智樹の横にぴったりくっついて手を握っていた。
 怖いか?
 全然。
 蛍、見たことないのか。
 ある。お父さんに連れてってもらった。
 この分だと聞けるかな、と智樹は思った。一番気になっていたことだ。
「じゃあどうして絵日記のことを今の今まで黙ってたんだ」
 急に奈々実は照れたように口を噤んだ。
「……何となく」
 智樹は驚いた。全く、嫌な言葉である。一体誰が教えたんだろうか。智樹はそう考えながら、賢介の持つ明かりについて行った。川縁の土手に出た。
 川は真っ黒などろどろした液体になって流れ、懐中電灯の光を瞬くように反射している。昼の川とは全く違う風に見えて、賢介も尻込みしたようだった。智樹は昔のことをもう少し鮮明に思い出していた。蛍を見たのは確か遅い夕暮れ時だった。まだ周りが見えるくらいは明るかったはずだ。
土手の一番高いところまで登って川の方を眺め回したが、蛍のような光は見つからない。前方で賢介が振りかえって、懐中電灯の光がこちらを照らした。奈々実はまた泣きそうな顔になって俯いている。大丈夫だぞ、と言うと、奈々実は小さく頷いた。それから、賢介にもっと上流の方に行ってみようと合図した。
 しばらく歩くと、賢介が疲れたと言ってきたから懐中電灯を再び持った。土手の上は下草が短く刈り込まれて歩きやすかった。しかし川への斜面には背の高い草が密生していて、風が吹くたびにざわざわと気味悪く揺れる。中に鹿か狸でもいるのか、小枝の折れるようなピシッ! という鋭い音がして、全員同時に震え上がった。しばらく立ち止まって耳を澄ませたがもう何も聞こえない。暗い中でも先を歩いていた賢介でさえ、智樹のそばに戻って来て影に隠れるようにした。それを感じて、智樹は急に自分がすごく頼りないものに思えて来た。自分の体は、暗闇と同調してまるで自分のものではないみたいに無感覚だった。そのくせ、腕や足の内側にはむずがゆいような感覚がはち切れんばかりに詰まっている。体は今にも逃げ出したがっているのだ。一人で来たのは無謀ではなかったか。兄と一緒に来ればよかったのでは。しかし智樹はそんな考えを追い払った。子供たちに、不甲斐ない大人の姿なんか見せてはいけない。自分に言い聞かせるように、大丈夫だと言った。大丈夫だ、多分鹿か何かだよ。それから勇気づけるように懐中電灯を振った。懐中電灯は相変わらずオレンジ色の真っ直ぐな光を発し続けていた。
 その時、奈々実が「いた!」と大声を上げた。指差す方向を見る。何も居ない。
「本当かよ」と賢介が言った。
「さっきちょっとだけ光ってた」と奈々実は言い返した。
「また光るんじゃないか」と智樹が言った時、一筋の黄緑色の光が、対岸の空中を通り抜けた。一秒ほどの短い発光だった。今度は全員が見た。
「おお」と賢介が嘆息した。奈々実を振り返ると、今し方光った場所をじっと見つめている。また光ったが、その光はどんどん遠ざかって行くようだった。どんなに目を凝らしても光はその一つしか見つからない。
「一匹だけ」と奈々実が言った。その声から感情を読み取るのは難しかった。むしろ眠そうに聞こえた。今までの緊張の糸が切れたみたいだった。「帰るか」と言うと、奈々実は頷いたが、一方賢介は不承不承といった感じで「しゃーねえなあ」と言った。
「あれ捕まえらんないのかよ」
「ちょっと遠すぎるし無理だな。危ないからお前も行くなよ」
「えー」
 と言っている内に奈々実はこっくりこっくり船を漕ぎ始めたから、智樹は背中におぶってやった。
「ほら、奈々実も寝ちゃったし、遅くなるとお父さんやお母さんが心配するだろ」
「寝てないもん」と奈々実が弱々しく抗議した。元来た道を歩き始めると、賢介は割と素直について来た。
 帰り道で、奈々実は完全に眠ってしまったようだった。懐中電灯は賢介が持つと言い張ったから任せたが、行きのように先を歩くことは無く、智樹の右隣を妙にしおらしく歩いていた。智樹が眠いかと聞くと、蚊でも追い払うように首を横に振った。懐中電灯を抱えているせいで、賢介の顔が何だか亡霊のような恐ろしいものに見えて智樹は小さく笑った。下から照らされて浮かび上がる、蝋燭の炎で炙られているような顔。それを見ていると、急に神秘的なものを信じたい気持ちになった。妖怪、幽霊、神様。さっきの蛍を思い出した。あれは本当に蛍だったんだろうか。時期外れの蛍の光は、暗闇と相まって霊的な想像を妙に引き起こした。しかし先ほどのような手足が強張るような感覚は無かった。後は家に帰るだけだったから。
「孝宏にも見せてやりたかったな」と智樹が言った。孝宏は末の弟である。
「うん」
「来年も来ようか」
「うん」
 賢介の持つ懐中電灯の明かりが眠たげにふらふらと揺れていることに気付いた。智樹は少し心配になったが、賢介はまだしっかりとした声で続けた。
「お父さんがいいって言ったら、行きたい」
「そっか」
 智樹は自分の後ろ姿を見た気がした。二人の子供を連れて歩く姿。例えば10年後、自分もこんな風になれるのだろうか、それともなるのだろうか。帰り道で迷わないかを一番心配していたが、賢介は土手に上がった場所まで正確に覚えていて、行き過ぎようとした智樹をシャツの裾を引っ張って引きとめた。智樹はごめんごめんと軽く振る舞いながら、内心では動揺した。帰り道くらい覚えていなくて何が親だ。背中で眠る奈々実が小さくもがいて、背中に爪を立てた。
 家に戻ると11時を過ぎていた。兄はすでに眠っていたが、律子さんは起きていて、子供たちを出迎えた。
「すみません、遅くなっちゃって」
「そんなの構いませんよ、結構遠くまで行って来たのかしら」
「そうですね、割と……」
「蛍は見れたの?」
「ええ、一匹だけですけど」
「そうですか、それは良かった」
 そう言って律子さんはにっこり微笑んだ。奈々実を抱っこして、寝室に入って行く。賢介もかなり眠そうに後について行った。智樹は懐中電灯を元あった倉庫に戻すと、2階の客間に上がった。一晩でどっと疲れが溜まってしまったように感じた。この日はシャワーだけ浴びて、敷いてあった布団に倒れこむように眠った。

 それから3日ほどして、智樹は大阪に帰った。また帰って来いよというようなことを皆から何度も何度も言われた。
 あの後、奈々実は素晴らしい絵日記を書いた。晩夏の蛍は珍しいんだということを智樹の兄が吹き込んだらしく、たった一匹の蛍を見たことをとても誇らしげに書いていた。
 帰りの飛行機の中で智樹はふと、奈々実がどうして蛍を見たいということを夏休みの終わるぎりぎりまで黙っていたんだろうかと考えた。律子さんは奈々実が蛍を見たがったことについて、お友達に自慢されたんじゃないのと言った。あの子、負けず嫌いなところあるから、何回でも見たくなっちゃうんじゃないかしら。しかし、智樹にはそれだけだとは思えなかった。奈々実に尋ねた時は「何となく」と言った。まさにそれなんだろう、と智樹は思った。飛行機が徐々にスピードを上げ、今にも飛び立とうとしている。爆音が耳をつんざくほどになって、座席に体が押し付けられるような感覚が全身を包んだ時、智樹は自分が今運ばれて行く場所の事を思った。願わくは、決して手の届かない光がこれからの行く手を照らさんことを。上昇を終えた機体が安定し、機内放送が流れた。今、大阪は曇りらしい。

2010/08/28(Sat)22:03:01 公開 / 皆倉あずさ
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■作者からのメッセージ
前作に続きまたSSです。
もう8月も終わりということで、それらしいのを書いてみました。タイトルは何とでも読んでください。
お暇でしたらコメントお願いします。

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