『遙かなるニートの叫び』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木                

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 大学を辞めて一年。あっという間の一年。なにもせずに一年が過ぎ去った。


 都会に憧れて東京の大学に入ったけど友達らしい友達もできずに二年間が過ぎた。大学にはこれまで過ごしてきた小学校、中学校、高校のような自分が所属する教室というものがない。いちおう文学部国文学科という単位でクラス分けのようなものはあったけど、国文と言っても古典文学を専攻する人もいれば近代文学を専攻する人もいて履行する講義はけっこうバラバラ。講義が終わった後に集まる決まった教室というものがないからあまり会話をする機会がない。つまり親しくなる機会がないと言うことだ。国文学科の学生として入学早々のオリエンテーションで一緒に回ったクラスメイトと教室で顔を合わせれば挨拶ぐらいはするけど、元々あんまり社交的ではない僕にはその先の「こんど呑みに行こうよ」とか「講義が終わったら渋谷に遊びに行かない」なんてとても切りだせなかった。それにクラスメイトたちは自分が所属するクラブやサークルの仲間と遊ぶ方が忙しいようだ。
 大学入学した時に従兄弟から「大学に入ったらクラブやサークルに入った方がいいよ。友達をつくりやすいからさ」と言われていたのだが、取り立てて入りたいようなクラブもないし、まだ東京に来たばかりで色々と行ってみたい場所もあるから忙しいし、だからクラブに入るのは落ち着いてからでいいやと自分を騙してどこにも入らなかった。本当は知らない人しかいないクラブやサークルに入るのが怖かったのだ。
 東京を見て回ったのは初めの一週間ぐらい。一人で回っても面白くないから東京見物はやめた。かといって新入生勧誘の時期を過ぎるとクラブやサークルというものは途端に姿が見えなくなる。新入生たちとコンパだ合宿だと忙しく、入学式の時には大学の構内いたるところにあったクラブやサークルの受付も消え、クラブ棟からは仲の良い楽しそうな談笑が聞こえるだけになる。その中に今さら入るのは無理。
 しょうがない。二年生になったら改めて入部しようと引き下がった。そして二年生になった時、新入生以外がクラブに入るのはもっと難しいことを身をもって知らされた。クラブもサークルも新入生は募集しているけど在校生には興味を示さない。だから僕はクラブにもサークルにも入れないまま二年目の大学生活に入った。
 それなりの金額の仕送りがあったからアルバイトをしなくても暮らしていけた。アルバイトをするのは欲しい物とか使う予定があるからあるんだろう。でも僕は高価な物は欲しくなかったし、友達がいないからコンパだとか合宿だとか出費の予定もない。なにもやる気が起こらない。高校の時には大学に入ったら「○○に行こう」「○○をしよう」と自分の輝けるキャンパスライフを楽しみに夢想していたのに、現実の大学生となった今は大学生活というものになんの楽しさも感じられない。日当たりの良くないアパートに籠もってブックオフで買ってきた本を読んだり、ネット巡回したりしながら過ごすだけ。大学にすら行かない日々が何日も続き…………気が付けばテストも受けておらず出席日数も足りず、留年決定の通知が実家に届く。親からはどうするんだという詰問の連絡。
 友達もいないままこれから三年間を東京で過ごすべきか。
 実家に帰れば地元の友達もいる。親に仕送りの負担をかけなくて済む。なにより誰にも相手にされず惨めな気持ちで過ごす毎日から解放される。
 僕は大学を中退し、故郷に帰ることを選んだ。故郷に帰って就職するか、アルバイトして金を貯めて専門学校に入り直してもいい。とにかくこんどこそ充実した生活を送るんだ。
 …………そのはずだったのに。
 高校時代の友達は地元の大学や専門学校で新しい友人をつくったようだ。就職した友達は日々の仕事を真面目にこなしている。故郷に帰った当初は遊んでくれたけど、みんな自分の生活に忙しくて毎日毎日は遊んではくれない。
 僕だって遊んでばかりはいられない。だから仕事を探した。けど、この不況は深刻だ。新卒の大学生だって三割以上が就職できない状況だそうだ。ましてや僕は大学中退。そして就職においては大学中退という学歴はない。大学中退は高卒扱いなんだ。高卒の就職状況は最悪。東京のような都会ならまだしも田舎じゃまともな仕事はない。いやアルバイトすら選択肢が少なくなっている。時給が安くて長時間拘束されるものや、時給は高いけどやたらと重労働なものしかない。僕は肉体派じゃないから重労働は無理だし、安い金で長時間働らかされるのも嫌だ。
 いつの間にか僕は就職する気持ちも失われ家に引き籠もるようになった。


 引き籠もりが辛いというのは聞いていた。でも、僕は仕事もせず学校にも行かずフラフラしているのが辛いなんて、そんなのは甘えだろうと思っていた。
 自分自身がその状況になるまでは……。
 なにも資格もない大学中退の僕が本当に就職できるのだろうか? このまま就職できなかったらどうなるんだろうか? テレビで観た派遣社員の苦境、派遣切りにあった人たち恐怖が我が身のように感じられる。就職もできず、結婚もできず、貯金もない。そして両親は老いていく。その時僕は……そんな痛くて苦い感情がいつものしかかってくる。ベッドの中にいても、自分の部屋でテレビを観ていても、本を読んでいても、パソコンに向かっていても、ゲームをしていても、いつも頭の隅に不安があって楽しくない。楽しくないからイライラする。背中に張りつく焦燥感が苛立ちを加速させるけど、どうやれば解消するのかわからない。でもなにもしていないと嫌なことばかり考えてしまうから、無理矢理にでもゲームや本に没頭するふりをする。
 つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。
 引き籠もって二ヶ月目になると他人の目が怖くなった。昼間に外を歩くのが苦しい。周りの人が「どうして学校に行かないのだろう?」「平日なのにフラフラしていて働いていないのかしら?」と囁いているような気がする。変質者か犯罪者を見るような視線を送ってくるようで痛い。いつの間にか夜にしか外出できなくなった。
 三ヶ月を過ぎると他人との会話がなくなった。地元の友達だって自分の生活が忙しくって昼夜逆転した生活をしている僕には付き合えない。僕だって友達の邪魔はしたくないから電話もかけない。両親も三歳下の弟も僕を気遣ってか会話がぎこちなく、それが嫌で話さなくなった。他人との会話がなくなるとメールも少なくなってくる。時たま友達から「○日に高橋たちと呑むんだけど、一緒に呑まないか」かとか誘いはあったけど、仕事もバイトもしていない僕には金がない。親が小遣いをくれるけど古本を買ったりすればすぐになくなる。親にだってこれ以上は金銭的な迷惑をかけられないから「ゴメン。都合が悪いんだ。またこんど誘って」と返信メール。それを繰り返していたら半年後には誰からもメールも電話もこなくなった。
 三度の食事は親が用意してくれる、雨風をしのぐ家もある、たいした額じゃないけど毎月小遣いももらえる、テレビだってパソコンだってゲーム機だってある。だけど人生がつまらない。絶えずつきまとう将来への不安、誰とも話すことがなくなり湧いてくる社会との隔絶感、社会に僕は必要とされていないんじゃないかと思ってしまう絶望感。これらがいつも僕の心を占めていて何をやっていてもつまらない。
 引き籠もりを始めて一年が経つ頃には、夕方に起きて夜通しネット巡回し、普通の人が活動を始める時間になると惨めな自分の存在を隠すようにベッドに潜りこむという生活になっていた。ネット巡回だって単なる時間潰しでしかなく、僕の唯一の楽しみは深夜二時頃に出かける散歩だけ。誰もいない、車もほとんど走らない県道を歩き、国道そばにあるコンビニで買い物をして、遊具もなければ深夜のデート場所にもならない小さな公園で休憩。そして自宅に戻るわずか一時間の散歩だけが平穏な時間だった。
 この時間なら僕を見て訝しがる人の目もない、同い年のくらいの人たちが学校や職場に向かう姿を見なくてもすむ、親や兄弟がすぐそばにいて息苦しい実家からも離れられる。散歩の最中は小走りに近い速度でひたすら歩く。そうしていれば歩くことに精神を集中でき、余計なことは一切考えないですむ。この一時間だけは恐怖や不安から解放されていた。




 *               *              *




 今日も深夜の散歩をしていた。四月もそろそろ終わりだというのに妙に肌寒く、コンビニで買った肉まんの温かさが手の平から伝わってくる。でも僕の心には冷たい塊が居座っていて、その温もりを打ち消していた。それは、コンビニに行ったら高校時代の文芸部の後輩だった魚沼君に出会ってしまったから。
「木原先輩じゃないですか。お久しぶりです。木原先輩、東京の大学に行ったんですよね。いいなぁ。東京は楽しいでしょう。俺も東京に行きたかったなぁ。まあ、俺の頭じゃこっちの大学に入るのが精いっぱいだったんですけどね。
 木原先輩、小説の方はどうですか? 東京なら刺激も多いからガンガン書けるでしょうね。俺もまだ書いているんですよ。といっても推理小説はやめてラノベのコメディに変更しました。俺の頭じゃトリックを考えるなんて無理でしたから。でも、この前の電流大賞に応募したら一次選考を通過できたんです。二次選考は無理でしたけどね。木原先輩も投稿しているんでしょう? どうでしたか?」
 三年前の僕の幻影しか知らない魚沼君は無邪気に尋ねてくる。
「う、うん…………てきとうにやっているよ。そ、それじゃ僕は用事があるから……」
「あ、引き留めちゃって済みません。先輩のデビュー楽しみにしてますから」
 魚沼君の言葉から逃げるように、いつもより早足で公園に向かう。
 僕は高校の時、小説家を目指していた。地方都市の小さな高校の文芸部で小説を書いて、周りからは「上手い」とか「先輩ならきっとすぐにデビューできますよ」なんて言われて天狗になっていたんだ。東京大学を受験したのも作家になるチャンスが多いと思ったからだったはずなのに、友達もいない孤独の中で小説を書く気力も失い単なるクズになった。
 魚沼君はまだちゃんと小説を書き、一次選考とはいえ通過したのに、僕の有様はなんだ……胃袋が焼けるように痛い。まだ吐き気にまで育っていない不快感が喉の奥から次々と湧いてくる。まだ一口も食べていない肉まんをゴミ箱に投げ捨てた。
 せっかく忘れかけていたのに。
 あれだけ好きだった小説すら書けない惨めな僕。
 仕事もない。なにも見えない未来しかない僕。
 僕を必要とする人なんているんだろうか? いるわけないよ。社会は僕を必要としてないんだ。僕なんて存在していないんだ。そうなんだ。そうに決まっている! だって僕自身が生きている実感を持てないんだから。
「死のうかな……」
 呟いてみた。
 本当は死ぬ気もないのに口に出してみた。死なんて実感がない。単なる言葉遊び。
「死にたいの? だったら私が手伝おうか?」
 誰もいないと思っていた深夜の公園で、不意にかけられた女性の声に心臓が跳ね上がるほど驚いた。「ひゃっ」情けない声を出してベンチから転がり落ちてしまった。
「だいじょうぶか?」
 無様に地面に転がる僕を見たことのない女性が見下ろしていた。
 ゴシックロリータというのだろうか、フリルを幾重にも重ねた真っ黒なワンピースを着た女性が、人形のように整った白い顔に呆れの表情を浮かべている。公園の街灯のせいだろうか、女性の瞳は金色に光って見える。おまけに一般的に美人という範疇に入るんだけど、マンガに出てくる死神が持っているような大鎌を肩に担いでいる。
 死神の格好をしたコスプレイヤー?
 僕は夢を見ているんだろうか? そうだ! 夢に違いない。秋葉原ならともかくこんな田舎にコスプレイヤーがいるわけがない。たとえいたとしても、こんな夜中にこんな場所にいるはずがない。そうだ、そうだ。これは夢なんだ。
「さっきから夢とかなんとかブツブツ言っているけど、頭でも打っておかしくなっちゃったの? それとも元々おかしかったのに拍車がかかっちゃった?」
 死神コスプレ女は小馬鹿にした口調で言う。
「ゆ、夢のくせに生意気な言い方だな。夢なんだから早く消えてくれ」
「夢? 私を夢だと思いたいわけ。ふーん、だったらこれでも夢だと言い切れるかしら」
 冷たい笑みを浮かべた死神コスプレ女はスーッと滑らすみたいに大鎌を振り下げる。
 僕の頬にひんやりとした物が触れたと思ったら、次の瞬間生暖かい液体が頬を濡らす感触。何? 頬にやった指を見るとどろりとした赤黒い液体。血? 血を認識した途端、頬に嫌な痛みが走る。
「血! 血! 血だぁ!」
「夢で血が出るかしら」
「血! 血! 死んじゃう! 死んじゃう!!」
「黙れ! そんなかすり傷で死ぬわけないだろう。黙らなければ今すぐその首叩き落とすぞ」
 喉元に金属が当たる触感に全身が硬直する。
「よろしい」
 死神コスプレ女はにぃぃと笑む。
「質問がある。君の名前は木原駿士で間違いないか?」
「ひゃい」
 はいと答えたつもりだったけど、僕の喉から出た声は上ずって弱々しいものだった。
「木原駿士。君は学校にも行かず、仕事もせず、日々自室に籠もって自堕落な生活を送る所謂ニートという存在であることは間違いないか?」
「は、はい」
 この人はどうして僕のことを知っているの? 初対面なのに酷いことを言われなきゃいけないんだ? 僕は文句を言ってやりたかったが、喉元の刃がそれを言う勇気をすべて奪い去っていた。
「木原駿士!」
 死神コスプレ女は大鎌を大鎌を引き戻すと、ブーツの踵を合わせ直立不動の姿勢をとる。
「私の名前はウヘフ・ヘレー。これよりツァヒルガーン王国テンギス大将軍の言葉を伝える。『ツァヒルガーン王国は木原駿士を戦士として迎える』以上だ」
 ぼ、僕が戦士? ツァヒルガーン王国って? 何? 何? 何がどうなっているの?
 ファンタジー小説とかで冴えない主人公が世界に召喚されて勇者となって活躍する物語は幾つか読んだ。この世界じゃなくても他人に必要とされて英雄になれる主人公を羨ましいと思った。けれど、そんなことが現実にあると思うほど僕はメルヘンな性格じゃない。
 この人は精神に不自由をきたしている電波な人なの? あんまり関わり合わない方が懸命だよね。
 僕はウヘフと名乗る女性が視線を離したすきに気づかれないように立ち去ろうと……
「どこに行くつもりだ」
 大鎌が喉元に引っかけられる。一歩でも前に出たらセルフ斬首だ。
「え、えっとぉ……もう夜も遅いし帰ろうかなと思って。ほ、ほら、僕は戦士なんて柄じゃないし……ツァヒルガーン王国って外国でしょう、僕パスポート持ってないから行けないしさ。僕なんかより戦士に向いている人なら他にたくさんいるだろうから、これ以上ここにいてもウヘフさんのお邪魔かなと思って……」
「君は私の言葉を信じてないだろう。ま、学びもせず働きもしないクズには理解できないだろうけど、これは本当のことさ。というか、君を連れて行かなきゃ私がスーデル特務曹長に怒られるんだよ。百聞は一見に如かずだ、今すぐ行くぞ」
 背中に柔らかい物が押しつけられる。
 こ、これは、オ、オッパーイ!?
 初めて味合う弾力のある物体が押し潰されるような触感に腰が砕けそうになった瞬間、世界が揺れた。足元から地面の感覚が消失して眩しい光に包まれる。
 太陽の光?
 えっ、えっ、いま夜なのに太陽?
「木原駿士、下を見ろ。あれが我らのツァヒルガーン王国の城都ツァガーン・ハルシだ。凄いだろう」
 下?
 テレビで見たヨーロッパの城塞都市のようなものが見えた。四方に塔がそびえ立ち、町の中央には尖塔を持つ建物がある。城塞都市の周りには畑地が広がり農家なのか家が点在している。小さな集落のようなものもある。さらに遠くには黒い緑の森や碧々とした湖も見える。
 見える? えっ、なんで風景が下に見えるの? ひょっとして僕、空の上にいるんじゃ……
「うわぁ飛んでる、飛んでる! おち、落ちる。助けて!」
「暴れるなバカ。私の翼じゃ一人が精いっぱいなんだ。これ以上暴れるなら手を放すぞ!」
 お腹の方を見ればウヘフさんの両手が回っている。さらにその先を目で追うとウヘフさんのものと思われる真っ黒で大きな羽が見える。ウヘフさんって鳥人間なのか……って、感心している場合じゃない。僕は慌ててウヘフさんの両手を補強するつもりで手を重ねた。
「大人しくなったな。だったらゾルグイ駐屯地まであと少しだからじっとしていろよ」
「ゾルグイ駐屯地? そ、そこに行くんですか僕」
「そうだ。ゾルグイで戦士たる君を待っている人がいるんだ。さあ降下するぞ。私の腕をしっかりつかめよ」
 羽音が風切音に変わり、まともに呼吸ができないほどの風が僕の顔に当たる。
「木原駿士! ようこそ地獄に!!」
 ウヘフさんの笑い声が聞こえたような気がした。




 *               *               *




「貴様らは本日付をもって補助第三〇二中隊に配属された」
 ゾルグイ駐屯地という場所に着いた途端、僕は着ていた服を脱がされ緑色と黒色と深緑色の混ざった迷彩服に着替えさせられ、切れ味の悪いバリカンで坊主頭にされ、さらには槍のように長くて重たい銃を持たされグラウンドのような場所に集められた。
 文句を言うヒマも、説明を求めるヒマもない。迷彩服を着たおっかない軍人にせき立てられなされるがまま。「整列!」という言葉ではじめて僕と同じように当惑しきった表情の人たちが二十人程いることに気づいたぐらいだ。その二十人の年齢はバラバラ。年齢だって十代っぽい少年もいれば四十歳ぐらいのおじさんもいる。でもみんな長い期間陽に当たっていないみたいに色白で妙に不健康な感じがする。それに他人を怖れるようなビクビクとした空気を纏っている。それは僕と同じ空気の匂いがした。
「私は貴様らの教育を担当するスーデル特務曹長だ。ここでは上官が許可しない限り貴様らに発言する権利はないことを覚えておけ」
 スーデル特務曹長はエルフの女性だった。アニメに出てくるような尖った長い耳をしている。でも僕の持つ森の守護者エルフのイメージからは大きく離れていた。短く刈り込んだ金髪、迷彩服にジャングルブーツ、腰にはリボルバータイプの拳銃をぶら下げている。本来は美人だと思うんだけど、左の頬にから顎にかけて大きな傷痕があって凄みがある。なによりエルフは戦いを好まない賢人のようなイメージがあったけど、目の前にいるスーデル特務曹長からは逆らう者はすべて殺すという殺意が溢れていた。
「貴様らに教えておいてやる。貴様らは日本国から我がツァヒルガーン王国に兵士として売られたのだ。もう二度と日本国に戻ることはできない」
「な、なに言っているんだ! 人身売買なんて許されるわけないだろ……ぐっ!」
 甲高い声で文句を言った小太りの男性の鳩尾にウヘフさんの拳が突き刺さっていた。
 迷彩服に着替えたウヘフさんは腹を押さえて地面に倒れている小太り男を容赦なく蹴り続ける。
「特務曹長殿が発言は許さないと言ったろうが馬鹿者! 貴様らは我が国に売られた奴隷なのだ。奴隷は黙って御主人様の言うことを聞け! わかったな貴様ら!!」
「ウヘフ軍曹。このクズをさっさと立たせろ」
 ゲロと鼻水と涙で顔がグシャグシャになった小太り男はウヘフ軍曹に無理矢理立たせられる。
 スーデル特務曹長はそれを見て小さくうなずき話を続ける。
「現在、我がツァヒルガーン王国をはじめとした妖精連合軍はニンゲン軍と戦っている。戦況は連合軍の方が有利だが、ニンゲン軍は我々妖精より人口が多く次々と補充を送ってくるため決定的打撃を与えられずにいる。我々妖精はニンゲンより遙かに長寿だが、絶対数が少ない。それ故、貴様らの日本国の政府と密約を結び、我が国から資源を送る代わりに不要な人間を買い兵力の補充を図ったのだ。
 つまり貴様らは生まれた国から不要と見なされ、いなくなっても誰も困らないクズだ。たとえ日本国に残っていても誰にも相手にされず惨めな人生が待っているだけだろう。だが我が国では違うぞ。我が国に来た以上、貴様らを一人前の兵士に鍛えてやる。貴様らに戦う喜びと生きる甲斐を与えてやる」
 売られた? 奴隷? もう帰れない? ニンゲンと戦う?
 ど、ど、どういうこと。ファンタジーじゃ異世界から呼ばれた主人公は英雄になるんじゃないの……王国や姫を救ったら元の世界に戻れるんじゃないの……敵ってふつう魔王とかじゃないの…………なんで?
「貴様らも突然この地に運ばれ当惑している者も多いだろう。自分の行く末に不安を覚えたり、なかには信念としてなにがあっても戦うのが嫌だという者もいるだろう。だから貴様らに選択肢をやる。この場で今すぐ自殺するか兵士になるかだ。死にたいヤツはこれで首を切れ」
 そう言うとスーデル特務曹長は腰に付けていたナイフを抜くと地面に突き刺す。
 誰もがナイフを見つめて息を飲む。誰も動かない。誰も動けないでいた。
「よろしい。貴様らは全員戦士になることを選んだのだな。では、貴様らを兵士にしてやる。だが、忘れるな。我が軍に無能はいらない。いや、無能は敵と見なす。無能は味方を危機に陥れ戦友を殺す。だから無能者には死んでもらう。あれを見ろ」
 スーデル特務曹長が指差す先には盛り土が幾つもある。
「あれは訓練途中で死んだ無能者の墓だ。貴様らがあの仲間入りしないことを祈っているぞ。だが考え方によっては無能として早々に死んだ方がマシかもしれないぞ。訓練は貴様らが考えているほど甘くない。訓練の最中なんども自分を生んだ両親を恨むことになるだろう。それゆえ脱走を企てる愚か者もいるだろうが、脱走は理由のいかんに問わず銃殺だ。仮に脱走に成功してニンゲン軍に投降しても無駄だぞ。ヤツらは自分たちと同じ青い目で赤い髪で同じ言葉をしゃべる者以外すべて敵と見なして殺すからな。私の言葉が信じられなくてニンゲンに投降するのは勝手だが、ヤツらの拷問は壮絶だぞ。死なぬように手当てしながら毎日身体を寸刻みにするとか、手足の筋を切って鼠だらけの穴に入れるとかな」
 まるで楽しいことを話すようにスーデル特務曹長は腰に手を当てニヤニヤする。
 ほ、本当なんだろうか。逃がさないために嘘を言っているんじゃ……でも、僕にはそれを確かめる勇気はなかった。
「だが、貴様らにもチャンスはある。貴様らを捨てた無情な日本国と違って我が国には温情がある。貴様らが二十回の戦闘に参加し生き残った時には我が国の市民権が与えられる。その時貴様らが望むのなら正規軍への配属も認められる。除隊を望んだ場合は一年間遊んで暮らせるだけの金が渡される。悪い条件じゃあるまい。そのためにも貴様らに生き残るすべを徹底的に教えこんでやる。ウヘフ軍曹、直ちに訓練開始せよ!」




 *               *               *




「課長。ツァヒルガーン王国に送り込む人選が終わりました。確認お願いします」
 総務省大臣官房企画課課長の木下昌宏は、部下が持ってきた書類にざっと目を通す。いつも通りの空虚な言葉が連ねられた序文、会計局や警察庁からの報告、財務省や経済産業省からのデータが長々と続き、一番最後に『第●回甲種人材派遣選定(決定)』と書かれた紙に三十二人の名前が書かれている。名前の後ろには年齢や住所や経歴など個人情報が記されている。

 ●[氏名]鈴木開(スズキ・カイ)[年齢]二十四歳[出身地]大阪府泉大津市豊中町○○[現住所]大阪府高石市綾園○○[家族構成]父:一太 五十一歳 ○○建設資材調達部次長。母:喜美子 五十歳 ○○紙業パート従業員。兄:岳 二十七歳 ○○電鉄駅務員 現在は神奈川県相模原市緑区○○に居住[経歴]泉大津市立○○小学校卒業、高石市立○○中学校卒業。私立○○学園高校入学。同高二年生時から不登校になり中退。職歴:なし。アルバイト・パート等短期労働職歴:なし。

 このように経歴が綿密に綴られている。そして経歴の最後に別枠で[特記事項]がもうけられ、赤い文字で『引き籠もり暦八年。対人関係は両親のみ』と大きく書かれていた。他の人物も同様で特記事項のところには『引き籠もり暦三年。対人関係なし。自殺未遂一回』とか『引き籠もり暦二十一年。対人関係は祖母のみ』『引き籠もり暦二年。対人関係は両親と妹と心療内科医師○○。現在二週間に一度、赤嶺クリニック心療内科に通院』など記されている。
 木下は三十二人の経歴を一人一人確認すると一番下に署名し判子を押す。
「これでいいよ、ご苦労さん。次回の人選納期は十月二十日に決まった。向こうからの要望は五十人は欲しいということだから、選定期間が短いし人数も多いから大変だと思うけど頑張ってくれ」
 木下の言葉を聞いた部下は「うわぁ、また残業だ。かみさんに怒られる」と呟く。
「君たちには苦労かけて済まないと思うよ。だけど、これもお国のためだ、公僕の勤めと諦めてくれ。来年度には人員も増員される予定だから、それまで辛抱してくれ」
「それにしても最近は送り出す回数も増えたし人数も増えましたよね」
「向こうの戦闘が激しくなってきているんじゃないか」
 木下は昼に天ぷらそばなんて食べるんじゃなかったと後悔しながら、引き出しから胃薬を取り出す。部下の言葉ではないが最近はツァヒルガーン王国に送り出す回数が増え仕事が忙しい。身体が疲れているのか昔はあれだけ好きだった油物を食べるとすぐ胃がもたれる。
「しかし、日本国民を戦地に送り出すなんてこと本当にいいんですかね」
「いいんじゃないか。引き籠もりなんて税金も払わなければ年金も払わない寄生虫のようなものだ。いまは親の金で暮らしているけど、親が死んだ後はホームレスになるか生活保護が関の山。ただでさえ我が国は少子高齢化で財政が苦しいのに、引き籠もりが国民の貴重な血税を無駄に食いつぶしかねない状況だ。政府も引き籠もり問題をどうすればいいか頭を悩ませていた時、異世界からコンタクトがあったんだぞ。それも『そちらの国で不必要な人間がいれば買いたい』ってありがたい言葉だ。渡りに船とはこのことさ」
「確かに引き籠もりを売る代金として送られてくるレアメタルは、我が国の生産活動に欠かせない物資ですからね」
「だろう。引き籠もりの親兄弟だって厄介者がいなくなって喜んでるんじゃないか。それにツァヒルガーン王国に売られた引き籠もり連中だって、生きる目標とか目的ができて案外生き生きとしているかもしれないぞ」
「言われてみればそうですね。ということは我々がやっていることは、我が国の経済発展に寄与するのみならず、引き籠もり連中の親族を助け、さらには引き籠もりに人生の目標を与える公共の福祉を担っているわけですね」
「ま、そういうことだ。だから頑張ってくれよ」




 *               *               *




「今回の作戦目標は正面に見えるテンゲリーン・オロン高地に陣を敷く敵の殲滅と高地の確保だ。あの高地を敵に押さえられているため我が軍の補給は著しく停滞している」
 僕が配属された補助第三〇二中隊第二小隊のガル小隊長が塹壕の先にある高地を指差して説明する。
 高地までは木もなければ岩など敵の攻撃を遮る物のない荒れ地が続いているだけ。敵からは丸見えだ。僕は初めて見る戦場に全身の震えが止まらない。いくら顎に力を入れてもカチカチと鳴ることを抑えられない。筋肉という筋肉が僕の意志を無視したようにピクピクと痙攣する。胃袋がせり上がってくるようで呼吸が苦しい。
「……今回は貴様ら日本人で編成された補助第三〇一中隊、補助第三〇二中隊の他に支援としてワイバーン第一〇〇二航空隊、エルフ第五六雷撃小隊、ドワーフ煙幕中隊が参加する。ただし雷撃小隊と煙幕中隊は後方からの支援だ。あの高地を奪取するのは貴様らの任務だ。
 〇八時ちょうどに雷撃小隊が敵の前衛を雷撃し、ワイバーン航空隊が高地全体を爆撃する。同時に煙幕大隊が煙幕を張る。貴様らは俺が鳴らす笛の音で突撃だ。貴様らは突撃して敵を殺して高地を占領すればよい。至極簡単な任務だろう」
 竜人のガル小隊長は鱗に覆われた顔に笑みを浮かべる。
「貴様ら、後ろを見ろ」
 ガル小隊長の言葉に振り返ると、筋肉質のドワーフ兵が煙幕弾発射装置を組み立てたり、水冷式の重機関銃を設置したりしていた。
「煙幕中隊には貴様らを支援するための煙幕弾の発射の他に、逃げてくる者、敵にビビって前進しない者を撃ち殺す役目を担っている。つまり貴様らが生き残るためにはあの高地を奪うしかないのだ。死にたくなかったら戦え!」


 ピーッ!
 甲高い笛の音とともに僕たちは一斉に塹壕を飛び出した。
 わぁぁぁぁぁぁっ!
 前に広がる白い煙に向かって駆けだす。ヘルメットが前に下がってきて視界を奪う。足が地面を踏んでいるのかわからない。手に持っているはずの銃の重さが感じられない。呼吸をしているはずなのに空気が胸に入ってこない。ただ、ただ、胸が苦しい。
 ヒューッ! シュッ! ヒュン! シューッ!
 色んな音を立てながら白煙を突き抜け敵弾が次々と飛んでくる。
 ボォウ! ボォウ! ボォウ!
 内臓を揺さぶる衝撃に続いて土砂が中空舞い上がる。ワイバーンの爆撃の免れた敵の迫撃砲が砲撃をはじめる。
 ビシッ!
 前を走っていた前田さんが倒木のように真後ろに倒れた。
「前田さん!」
 駆け寄った前田さんの顔には何もなかった。目も鼻も口もない。ただ大きな穴が開いているだけ。
 煙幕が薄れてきた。それと同時に僕の耳に色々な声が流れこんでくる。
「助けて」「目が……目が……」「か、かあさん」
 いたるところに傷ついた人が倒れ、千切れた肉体の部位が彼等を彩っている。
「き、木原君、助けて……死にたくないよぉ……死にたくないよぉ」
 僕と同じ日に連れてこられた長崎君が飛び出した内蔵を抑えながらうめいている。
「ながさ……わぁ!」
 僕の声は爆音に消された。
 もの凄い空気の圧力に身体が一瞬宙に浮く。土や小石が作る壁ができたと思ったら、次の瞬間にはそれらが一斉に降ってくる。僕は胎児のように身体を丸める。いくつもの石が雨のように身体を叩く。でも、石の雨はすぐに止む。体を覆う土を払って周りを見渡す。耳の中で鐘が鳴っているようで音がはっきり聞こえない。舞い上がった土煙が視界を遮っている。
「長崎君……長崎君、だいじょうぶ?」
 一陣の風が戦場を吹き抜け硝煙や煙幕を吹き飛ばす。今さっきまでいたはずの長崎君の姿はなかった。赤黒く汚れた土と穴があるだけ。そして僕の手元には呆気にとられたような表情の長崎君の頭が転がっていた。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 僕は転がっていた銃を掴むと走りだす。
「わぁぁ!!」
「わぁぁぁぁ!!」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

2010/08/16(Mon)23:17:50 公開 / 甘木
http://sky.geocities.jp/kurtz0221/
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
厨二病的夢のダーク面です。救いはありません。現実は厳しいですから。

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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。