『葛の葉の陰陽師(完結)』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:ピンク色伯爵                

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葛の葉の陰陽師


プロローグ

 ひどい夢を見ている。

 ごうごうといくつもの大きな火影が天に伸び、暗い夜空を照らしていた。
 そこら辺に散らかっているのは、ただの四角いガラクタになった車の残骸たち。
 どうやら、大きな事故があったらしい。
 近くの電柱棒がへしゃげている。道路から噴き出しているかのような火炎が周囲を赤く染めている。
 どこにでもあるような街の一角。そして、やはりどこにでもあるような少し道幅の広い交差点。それは、自分もよく知っている場所だ。しかし、今やそこは地獄と成り果てていた。
 どこかで、人のうめき声のようなものが聞こえた気がした。見れば、何かが四角い箱の中に閉じ込められて、蒸し焼きになっていた。
 その何かは、果たして目が見えているのか見えていないのか、気配だけを頼りにといったふうに顔を動かし、たすけて、と口を動かした。
 ひどく虚ろだ。
 だからだろうか。えっと、じゃあ、どうすればいいんですか。なんて的外れな質問を返した。
 周りを見渡す。停止した理性は目の前に広がる火炎地獄を、凍ったままの状態で眺めている。
 理性に張り付いた氷は融けない。融けるはずがない。何故ならそれは、自分が業火に焼かれまいと施した、強固な防壁だからだ。
 うめき声はあちこちから聞こえてくる。通りは炎上した四角い車で満ち満ちていた。
 臭いがない。ああ、音も無くなってしまった。
 聞いてはならないと。
 心が拒絶する。
 ただ、視界だけは完全に澄み切っていた。それはどんな罪よりも重い、呪いと言えるものだった。四角い箱の中に囚われた人間が、業炎に焼かれ悶え苦しんでいる。きっと、耳が生きていれば悲鳴だって聞こえたのだろう。嗅覚があるなら、タンパク質の焼ける嫌なにおいや、漏れ出たガソリンの不躾な臭いまで嗅ぎとれたのだろう。
 だが――何も感じない。
 四感は全て死に絶え、自分が立っているかどうかさえおぼつかない。
 生きているのは視覚だけ。
 ならば、と。それだけを判断材料にして子供心に思った。
 何て人間は汚くて――――だけどおかしなことに綺麗なのだろうと。
 凍てついた心のまま、まるで美術館に飾ってある一枚絵にため息を漏らすかのように、そう呟いていた。


第一章 現夢 ウツツノユメ


 思うに、秋の夕暮れとは何となく哀愁が漂う物だ。四月に桜が散ってしまう様を見てもこんな気持ちにはなれないだろう。地面に散ってしまった無数のピンク色の花弁を見て、ああ、掃除が大変だなとか、雨が降れば茶色に変色して景観を損なうのだろうなとかくらいにしか、思えないからだ。その点秋の夕暮れは桜の花びらのように散ってしまうこともないし、雨が降っても――降ってしまったら、夕暮れを見ることができないことに気がついた。
 とある市のとある住宅街、そのとある一つの住宅の二階、これまたとある部屋で窓の冊子に腰を下ろしていた中野ケイは物想いから意識を呼び戻された。何のことはない、乗せていた腰が窓のさんからずり落ちてしまっただけだ。
 ケイは別に太っているわけではない。というかむしろ有体に言うならばガリガリだ。
 人間の体というものは不思議なもので、肉やインスタント食品だけ食べていると逆にやせてしまうものなのだ。どうしてやせるかは、それは食べた分だけ出てしまっているわけであり、何と言うか下品なんですが、毎朝下痢ピー安定だからである。野菜を食べだした瞬間に急に太りだすというのは眉唾な話しだったけれども、なんとなく納得できる。鏡の前に立てば、ほら――百聞は一見にしかずとはよく言ったものである。
 やせているから、窓に腰掛けるなんていう行為は別に苦もなく行える。ずり落ちた原因は、ひとえにケイがバランスを崩したからだ。
 というか率直に言うと、双眼鏡片手に覗きしていました。
「でも、止められないんだよな……」
 ケイはそう呟いて再び窓から外に身を乗り出した。双眼鏡を前に構えて照準を合わせていると、予測したとおり、今晩のご飯の友をゲットする。向かってななめ右二つ目の家に物干し竿がベランダに出してある。そして、そこに煌めく洗濯もの。秋風に揺らめく白いブラジャー。そして黒を基調としたエスニック風のワンピース。
 ――ヤバい。
 やっぱり自分は服フェチなのかと思う一方、何やってんだ変態野郎と理性がケイの脳内をぽかぽか叩いてくる。ふん、理性なんかでこのほとばしる本能を倒しきれるものか。
 今のアングルは良かった。つむじ風にあおられて下方ななめ四十五度奥向きにあおられたブラの神々しい輝きはこのまま盗撮して動画をネットにアップロードしてしまおうかと思ってしまうくらいに魅力的だ。
 さすがにそこまですると犯罪なので止めておく。ちなみに覗きは犯罪ではありません。自分はただ薄暮に沈みゆく秋名市の住宅街を眺めているだけで、それでたまたま洗濯ものをまだ取り入れていない家があって、それがたまたま双眼鏡越しに自分の目に飛び込んできているだけなのだ。
 断じて犯罪ではない、うむ。
 うへへー、と次なる得物を求めて双眼鏡を右へ左へやりくりしていると、
「ケイー!」
 聞きなれた声が、足元辺りから聞こえたような気がした。双眼鏡で遠くまで見える視界の中、くいっと視線を下に向ける。案の定、家の前の細い道路に昔から仲良くしてもらっている女性が立ってこちらを見上げていた。
 ナルミ――フルネーム木村ナルミは浅黒く日焼けした体に、セーラー服をまとっていた。もう衣替えの時期だと言うのにまだ夏服のままだ。
 双眼鏡越しにナルミの手元を確認すると、白いナイロン袋を両手に二つずつ下げていた。ナイロン袋の口からは赤やら緑やら果ては金色やらのカラフルな何かが見え隠れしている。制服、ナイロン袋、赤、緑、金。それらからナルミが今日一日何をしていたのか割りだそうとする。
 考えるまでもなかった。今日は文化祭の日だったとパジャマ姿のケイは一つ頷いた。
「重くないのー?」
 双眼鏡を勉強机の上に置いてそう問いかける。すると、ノータイムでカウンターが返って来た。
「見て分かんねえのか、馬鹿! お土産持って帰って来てやったんだからドアくらい開けに下りてくるってのが筋ってもんだろう!」
 あたしゃ腕つりそうでもう動けないよ、とかのたまう謎の闖入者。いや、ナルミの素性は知っているけれども、何でケイの家に来たのか全く分からない。
「お土産ー! たーこーやーきー」
「今開ける。ちょっと待っててよ」
 そこでふと気がついた。ナルミが家に来るなんて、目的は一つだけだと。それはきっと世間話がしたいとか、お土産を渡しに来たとか、ましてやたこ焼き何かではない。そんなものは二の次だ。建前だ。要は、ナルミは――。
 ――もう、ネタは分かっているんだ。
 ふと呟く腹の奥底から響いてくる暗い声。
 高校なんて、誰が行くものか。

      ×           ×

 ドアを開けた。
 そうしたら、その瞬間キックが飛んできた。何が起きたのか全く不明であるが、とにかくそんな不届きなことをするヤツは一人だけである。マンガみたく廊下のフローリングをズザザーと滑りながら抗議の声をあげる。すると、
「ああッ? かよわき乙女をどんだけ待たしとんだ、このアホ! 何でアンタの部屋の窓からアンタの姿が消えたあと、ドアが開くまで十分もインターバルがあるのさ! 一体どうすりゃそんなことになるんだ、このアホ! ボケ!」
 こちらの抗議の声もどこ吹く風。ナルミは女の子にあるまじき言葉遣いでケイをなじるのだった。といか女の子なのに「アホ」や「ボケ」を連呼するのはどうだろうか。まあ、ナルミは外見が浅黒い肌に癖の強い黒髪というどこからどう見ても荒々しいスポーツマンだったのでそんな言葉づかいもありっちゃありだった。
 でも正直やめてほしい。
 ケイはブチブチと文句を言った。
「……痛いな。ドア開けた矢先家の主を蹴り飛ばすことないだろう。僕は別に急にお腹がすいてカップラーメンを食べようとか思ったわけじゃないんだ。ナルミ姉はいつだってそうじゃないか。いつも言葉よりも先に足が出て。まあ、そんなところもナルミ姉らしいけど。あ、台所に行ってまだ容器から湯気が立っているカップ麺の空き箱があるかもしれないけれども気にしな、――ぐほ」
 ナルミのしなやかな右足が俗に言う「やくざキック」チックにケイの左太もも横の敏感な部分にクリーンヒットする。
 せっかく立ち上がろうとしていたのに酷いってもんじゃない。
 とはいえ、なんだかんだ言ってフローリングの床に倒れ伏したケイをナルミは助け起こしてくれた。
「あんたのそのひねくれた性根はいつ治るのやら。あたしゃ、心配で心配でいられないよ。あーあ、昔のケイに戻ってくれたいいのにさー!」
 お邪魔します、と。こちらに背を向けて、膝を折りたたんで、靴をきちんと揃えて入ってくるナルミ。
 というか、そんなナルミの仕草がケイの『性根が曲がっている』理由だったりする。
 ……ナルミはこの数年でびっくりするくらい大人の女性になってしまった。ナルミは来週で多分十七歳になるはずだけれども、出るところは出て、へこむところはへこんじまっているわけだ。しかも剣道で全国大会級の天才児なだけあって非常に引き締まったケイ好みの体躯をしていらっしゃるのだ。
 ナルミの顔のつくりは――美人とは言い難い。美人じゃないけれども、愛嬌はあった。猫っぽいくりっとした目にぺったりとした鼻。小さい唇。チャームポイントは顔の真ん中を横断しているそばかすだろうか。なんというか、美人じゃないけどエロい顔をしている。
 うん。だからちょっと困らせてやろうとか、少しからかってやろうとか思ってしまうのは仕方のないことなのである。
 そんな失礼な妄想をしていると、ナルミはその間にどかどかと台所に進攻を開始していた。
 もう何年も前からナルミのものになっている台所スペース。カップ麺用のお湯を作りにくるケイよりも、時たまやって来ては本来の用途で使っているナルミの方がよっぽどこのスペース主人らしかった。
 ナルミは自分もやることが山積みだろうに、わざわざその時間を割いてこうして来てくれている。そしてやって来てはケイに栄養のあるものを作って食べさせてくれる。海外で働いている義父だけが家族のケイにとってはこの上なく嬉しいことだった。ケイは口にこそ出さないが、ナルミに深く感謝していた。
 この前だって、ケイの体操服に体育祭用のゼッケンを縫いつけに来てくれた(でも体育祭当日、ケイはやはり家に引きこもっていた)。その前は――思い出せないくらいに色々と迷惑をかけていると思う。
 だけど、それで卑屈にならないのが、ケイのいいところだとナルミは言っていた。正直ほめているのかどうか分からなかったが、要するにそのままニートになんなよ、と言うのがナルミの言いたいことなんだろう。ちょっと違う気もするが、間違いじゃない、夕飯をかけてもいい。
 とにかく、あれだ。
 この恩は、きっと返す、みたいな。
 ――まあ、僕がナルミ姉に何を返せるのかって話だけれども。
「ちょっと、あんた何このカップ麺の空き箱! 20個はあるじゃねぇか! こんなにバカバカ食って、何考えてんだ! あんた30越えたら絶対太るよ! メタボるよ! ちょっと? 聞いてるかー?」
「……聞こえてるよ」
 ぼそりと返す。
 しかし、感謝をしているとはいえ、こうして押し掛けてきては人の生活にぶちぶち文句を言ってくるのは耳が痛いわけである。
「あんたどうせ部屋にもカップ麺持ち込んでんだろ? 洗ってゴミに出しとくから持っておろしてきな。ほらとっととやる!」
 台所からナルミの声が飛んでくる。そんな口うるさい幼馴染に、へいへいとわざとやる気のない返事をしてから、ケイはゆっくりと自室へと階段を上っていった。

    ×             ×

 日常って何だろうかと、たまに思うことがある。
 というか、日常なんてと笑う自分がいる。
 こんな世界に自分の居場所はないとか思ったりもする。
 中学から高校まで、ケイは手ひどいいじめを受けていた。いじめの内容など思い出すだけで吐き気がするが、とにかく、多分、自分が学校に行けなくなってしまったのはそれが原因だと思う。
 いじめの直接のきっかけは『超能力うそつき事件』。ものすごく簡単に言うと、ケイが超能力を使えるとクラスの皆の前で言い張り、実際にやってみると、何も起こらなかったという事件である。
 ……別にケイが痛い子だったというオチではないのだが――つまり、確かに超能力は使えたのだ――その時を境に力が使えなくなっていたわけである。まあ、とにかく、昨日超能力が使えると言い張った奴が次の日やらせてみると見事に何も起きなかったわけで、クラスの生徒どころか、全校生徒から馬鹿にされ、蔑まれる対象となってしまったのだ。
 酷かった。本当に、思い出すだけで吐き気を催すほどに。
 最初は陰口と嘲笑だった。それからいじめはどんどん悪質化していった。
 休み時間にトイレに行って、帰ってきたら筆箱の中にシャーペンの芯を入れられてその状態でシャッフルされていた。それでずきりと心が痛んだけれども、我慢していた。そうしたら今度は机の中に給食に出されたドレッシングが封を切られてぶちまけられていた。
 周りから「かわいそー」とか「いじめられてんじゃねぇの」とか聞こえてきた時には本気で屋上から飛び降りてやろうかと思った。
 運動靴が無くなって、靴下だけで家まで帰ったこともあった。その日から下駄箱で誰かが靴を履き替えているのを見ると、反射的に運動靴の汚れ具合をチェックしたりしていた。
 誰が僕をいじめているの、と心の中で泣き叫んだ。
 きっと皆なんだろう、と心のどこかで分かっていた。
 見えないいじめは続いた。
 きっと、間接的には事件のずっと前からもっと色々な要因があったと思う。調理実習の時に気が付いたら一人だったとか、体育の時間に体操を一緒にやってくれる人がいなかったりとか。
 ああ、なんだ。そのときから自分はいじめられていたんだ、と今になって理解する始末。
 全く。
 やってらんない、日常(ルビ:リアル)なんて。

      ×         ×

 埃をかぶった勉強机の上にはカップ麺の空き箱がこれでもかというくらいに置いてあった。その横に双眼鏡が置いてあるのを見るとさすがに情けなくなって死にそうになったが、とにかく空き箱を集めていく。手軽なお盆になりそうなもの――昔、義父に買ってもらったハードカバーの童話――を探し出して、その上に空き箱をピラミッドのように積み上げていく。
 次々に勉強机の上から空き箱が消えていく。
 そうして一定作業をこなしていく。
 こなしていくのだが、不意に勉強机の上をまさぐる指が不可解な冷たさに触れた。何だか固いし、カップ麺の空き箱じゃないし、とケイは問題の物体に目をやった。
 ムービックキューブだった。
 特に取り立てて何の変哲もない、あのいくつかのブロックに分けられたものを、右左に回転させて、全ての側面が同一色で統一されるように組み替える知恵の輪みたいなおもちゃだ。
 ――……?
 どこかで、拾ってきたのだろうか? 全く見覚えのないおもちゃに首をかしげる。 
 机の上に鎮座するそれを見下ろしながら記憶の糸を手繰る。
 ――いや、全く記憶にないし。
「四×四×四か。珍しいな。普通は三の三乗なのにさ。――色は、赤、青、黄、緑、白、紫か」
 机の上からムービックキューブを取り上げてつぶさに観察する。
 そこら辺のおもちゃ屋で売ってそうな代物だった。というか、南都心にある百均にでもいけば絶対に手に入る。
 ただ、変わった点があるとするなら、四の三乗に分けられたブロックと、一つ一つのブロックに、墨で荒々しく書きなぐったかのような汚れが付けられていることくらいだろうか。それにして細い、荒いようで神経質な汚れだった。
 正しく組みなおせば、最後には何かの模様になっているとか、そんな進○ゼミ小学校講座のパズルみたいなノリなのだろうか。
 結論。本当に記憶にない。
 というか、今は空き箱を下に持って降りるべきだ。
 そうしないと、そろそろナルミが大声でケイのことを呼び出す頃だろう。下からケイの好物のてんぷらの香りが漂ってくる。なんだか匂いを嗅いでいるだけでよだれがでてしまいそうだ。
 うん、あれだ。
 ――ムービックキューブなんてどうでもいいや。

     ×          ×

 それで、居間のテーブルで二人向かい合って夕御飯を御馳走になっていると、ナルミがふと口を開いた。
「今年はライブなかなか凄かったんだ。軽音部、あいつらなかなかやるね。あたしゃとっくの昔に絶滅してたかと思ってたよ」
 酷い言いようである。
「……ふーん。うちの高校はもともと運動系が得意だもんな。実際、ナルミ姉もうちには剣道の推薦で来てるし。軽音部なんて誰も入りたがらないってのによくやったもんだ」
「そうさ。いっつも部室と称して音楽室に立てこもってだべっててさ、絶対後から潰してやるって思ってたけど、やるときゃやる連中だったわけね。うん」
「部長、志藤ツカサさんだっけ? えっと、2のAだから隣のクラスだよね」
「そうだけど、何……」
 急にナルミがテーブルに身を乗り出してくる。
「もしかしてラヴ? 志藤ラヴ? 確かにかわいいもんねー。まああたしにゃ負けるけど」
「っ! そ。そそそっそ、そんなわけあるかっ! 僕は別にそんなつもりでいったんじゃないから! しかもひそかにちゃっかり抜け目なく、自分をアピールしてるしさ!」
「へぇー。ふぅーん」
「何だよ」
 何が嬉しいのかナルミは箸を持った右手で頬杖をついてにやにやとケイの顔を眺めてくる。
「いんやー。あんたもお年頃なのかなってさ。まあ、告るんなら手を貸してやってもいいけど?」
「こ、告るって」
 大体自分なんかに告られたらまず迷惑だろうし。自分はいじめられているし、登校拒否児だし。運動もできなければ勉強もできないし。というか、別に志藤さんのことなんか、どうにも思っていないし、と色々言いたいことはあったが、ケイはご飯と一緒に全部のみ込んでしまうことにした。ここできゃつの計略に乗せられてはいかんのである。
「ふん、まあ、あんたにその気があればの話さ。――それはそうとさ、ケイ」
 ――来た。
 と、思った。実に長い前置きだった。つまり、ナルミは次に続く一言を言うためにこうしてケイの家に来て夕御飯を作ってくれたのだろう。
 高校には、来ないの? 単位足りてる? いじめっ子はあたしがぶっ飛ばしてやったから。
 きっと、今にもナルミの口をついて出てくるのはこれらの言葉だろう。
 分かっている。
 そんなこと、言われなくても分かっている。
 ――でも駄目なんだ。
 家にいてナルミとだけ話をしている分にはいい。だけれども、家から出ると、ケイは急に人が変わったようにうつ状態になってしまうのだ。学校などではずっと首をひっこめてびくびくしている。
 登校拒否児ってそんなものだ、と以前何かの番組で偉い人が言っていたけれども、悔しいことにケイはそんな状況だった。
 ――あんなところに行くなんて絶対ごめんだ。
 だから、今日は、機先を制してやることにした。
「ナルミ姉、僕、学校には行かない」
「何でさ、くそ野郎。死んじゃえ」
「うぐ……。いや、行きたくないんだ。ナルミ姉は、いじめっ子はもう手出しできないとかいうけどさ、そうじゃないんだ」
「はあ?」
 ナルミがサツマイモのてんぷらをかじりながら首をかしげる。
 ――分かんないだろうよ。
 と心の中で呟く。
 そりゃ暴力を振るわれるのが無くなったのは大きい。ぶっちゃけた話し、それで大分救われた。だけれども、いじめはそれだけではないのだ。
 無関心。
 そういう体に対するものではなくて、ただ無視することによって対象の心をえぐる行為。
 こればかりはどうにもなるまい。いくらナルミがいじめっ子をとっちめても、クラスの生徒にケイと仲良くすることまで強制することはできない。
 マイナス500がマイナス300に減ったのと変わらない。
 調理実習で誰も組んでくれる人がいなくて、教師に無理やりどこかのグループに入れられるのなんてトラウマものだ。調理実習以外にも体育の時間はどうだろう。きっと教師と体操したり、キャッチボールやレシーブの練習をすることになるに違いない。
 そんなのは身が切られるように痛くて、悲しくて、情けないことだ。
 それに無関心だけにいじめはとどまらない。『見えない』いじめは確実に、残酷にケイを追いつめた。あんなの、もう二度と体験したくない。
 半年引きこもって、ナルミとだけ話をして、ようやくここまで精神状態が回復したのだ。
 どうしてまた治りかけた傷に塩を塗るような真似ができるだろう?
「――よく分かんないけど、あんた単位足りなくて留年とか止めなよ」
「分かってる。でも、今のこんな状態で行ったって絶対行かなかった方がよかったって結果になるに決まっているんだ。だから、いかない」
「はぁ」
 ケイがそう言うと、ナルミはいつものように深くため息をついた。
「あんたがそう言うならそうなんだろうさ」
 ナルミはカチャリと茶碗の上に箸を置いた。茶碗はもう空っぽだった。早くも食べ終わったらしい。
「ま、あわよくばって、思ってたんだけどね。まあ、最後にこの家から出るかどうかを決めんのはあんただしさ。あたしゃ結局は――部外者なんだから」
 最後のナルミの声はどこか寂しげに揺れていた。
「じゃ、あたしゃ行くよ。これから明日の後夜祭の準備で徹夜するのさ。ああ、シャワー借りていいかい?」
「それはもちろん」
 もごもごとそう言う。
「食べ終わったら残りは冷蔵庫にしまっといて。洗いものは流しに出して水張って」
「ナルミ姉、子供じゃないんだから僕だってそれくらいできるよ……」
「フッ。そうだったね。――夜更かしすんなよ」
 ――分かってないじゃないか。
 ナルミはそれだけ言うと居間から颯爽と出ていった。それから風呂場の方で扉を開ける音がする。
 ――あ。
 ここにいてはシャワーの水音が聞こえてしまう、ということにケイは唐突に気付いた。
 何と言うか、そんなもの聞かされながらご飯を食べるなんてものすごい苦行である。主に下半身的に。ここは一旦部屋に退散するが吉だろう。三十分くらいしたらナルミもまた出かけるだろうから、それから夕御飯の続きは食べればいい。

    ×              ×

 部屋に戻って煩悩と戦っていると、ふと勉強机の上のムービックキューブが気になった。
 それを手にとってベッドに倒れ込む。ふむ、ちょうど手持無沙汰だったし、とカチャカチャとムービックキューブを組み替え始める。
「はあ、……でも何であんなエロい体してんのかなー……」
 気付いたらそんなことを呟いていた。主語が抜けているが、もちろんナルミ姉が、である。
 ――っと。いかんいかん。
 ナルミだけはそういう対象で見てはいけないのだ。何故かというと、それはきっと失礼になるからだ。ナルミはこんなろくでなしのために色々と世話を焼いてくれている。なんでそんなことをしているのかなんててんで分からないが、きっとだらしのない奴がそばにいるのが我慢ならない性質なのだろう。それは中学校の時から変わらなかった。
 ……ナルミは、断じて言うが、ケイの恋愛対象ではない。これは自分の気持ちに嘘をついているとか、気付いていないとかではなくて、事実だった。何となくであるが、ナルミは世話を焼いてくれる幼馴染であり、決して彼氏彼女の関係になんてなれない。
 ――まあ、もとからナルミ姉と僕なんてつりあいっこないんだけど。
 とにかく恋愛対象でもないのに、世話を焼きに来てくれている幼馴染にそういう破廉恥なことを思うのは、よくないことなのだ。それは、ナルミをケイの慰み者にしているようで失礼ではないか。
「っとできた」
 カチャリと、最後のブロックを右にずらす。すると正六面体はそれぞれの面に違った統一色を持った立方体になっていた。
「なんだ、この模様」
 模様と言うか、文字だろうか? 生六面体の側面にはそれぞれ一つずつの怜悧な模様が、つまり六つのそれが完成したムービックキューブには刻まれていた。
 文字にせよ、模様にせよ、ケイにはそれが何を意味するのかなど全く分からなかった。
 ……たすけて。
 瞬間。
 耳元で誰かに息を吹きかけられたかのような錯覚。
「え……」
 急いで部屋を見渡す。当たり前だが部屋にはケイしかしない。
「……」
 耳をすますが何も聞こえては来なかった。
 ――空耳、かな……。
 日がな寝て過ごしていると言うのに疲れているのだろうか?
「えーと、あれだ。やっぱり飯食いに行くか。腹減ってるから訳分かんない幻聴聞いたのかも。うん」
 あははーと笑って、反動をつけてベッドから起き上がる。
 ……たすけて。
 再び謎の声が響く。
「……」
 ――無視だ。うん。幻聴だ。違いない。飯食おう。
 とにかく、夕御飯を食べて落ち着こうじゃないか。というか、疲れているのだろうか。きっと疲れているのだろう。何と言うか、こういう引きこもり生活はそれでいて体力と言うか色々な精神力とかを消費してしまっているのかもしれない。
 外に出ていないと言うのが一番の原因だろうか?
きっとストレスが溜まっているのだろう。

     ×              ×

 夢を見ている。
 不思議な夢だ。ふわふわと浮いているような、そんな夢。
 透き通るようなライトブルーの中を、ケイは全身を幸福感に浸しながら漂っている。
 体は、どこかを目指していた。どこかに向かって不思議な液体の中を漂っていた。
 ――駄目だ。そっちへ行っては、駄目。
 本能が警鐘を鳴らす。しかし、理性はホルマリン漬けにされたかのように幸福に身をゆだねてしまっている。
 ああ、それにしても。
 なんて気持ちがいいのだろう、と思う。
 まるで深い水底を悠々と泳ぐ大きな烏賊になった気分だ。一人悠然と深海を旅し、誰にもとがめられることはない。
 それは何て開放的で、それでいて途方もなく寂しいことなのだろうか。
 ――ああ、沈んでいく。沈んでいく。
 意識は水底へ。理性は蒼穹へ。本能は自分の内へ。
 ――行ってはいけない。行けば、帰っては来れなくなる。
 だけどその先へ。僕はこの幸福をむさぼりたいんだ、と呟く。
 どこか、誰かの部屋の、誰かの勉強机の上に乗っている四角い物体が光を放ったような錯覚。
 ……ならば、歓迎しよう、と。
 ふと、誰かが耳元で囁いたような気がした。
 ――あぁ……。
 
                                            ―――――沈んでいく。


第二章 闇夜 ヤミヨ


「っ! ああっ!!」
 急に目が覚める。呼吸が再開したかのような息苦しさのためか、何だか自分でも恥ずかしくなるようなあられもない声を出してしまう。
 ――って暗っ! ていうか寒っ!
 そしてついでに言うのなら、背中に当たるベッドがとてつもなく冷たかったし、固かった。
 真っ暗で冷たい。耳にはただ強烈な風の音だけが届いてくる。そんな状況の中で、ケイは一人でベッドに横たわっていた。
 ベッドといえば、何だろうか、この異常な固さは。何だか鉄板がベッドの下とかに入っていてその上に細かい砂利を敷き詰めて寝心地を最悪にしたような感じ。誰かのいたずらだろうか?
 そんな込んだ嫌がらせする暇人なんているのだろうか。
 というか、そんな奴がいるなら国民暇人賞をあげたっていい。
「……首、痛……」
 なんだか骨に染みいるような、じーんとした痛みである。それに後頭部も痛かった。
 砂利を敷き詰められた鉄板というもはや拷問以外の何物でもないようなベッドから上半身を起こす。途端、ものすごい風圧にもう一度後ろに倒れそうになった。
 ――って、あれ?
 ベッドの上じゃ、ない……?
 ケイは目を瞬かせて周囲の闇に目を凝らした。
 ――ここ、どこだよ……。
 少なくともケイの部屋ではないのだろう。
「って、はあああああぁ?」
 急激に脳みそが覚醒する。ケイは弾かれたようにその場に立ち上がった。
 ――え、ちょ。どこ、ここ! 何か風びゅうびゅう吹いてるし寒いし冷たいし真っ暗だし! 訳分かんない。状況が呑み込めない。ていうかさっきまでベッドに――
「ベッドに、寝てたはず、なのに……」
 裸足の足が無機物――ざらざらで冷たい。これは、アスファルトだろうか――の感覚をとらえる。
 パジャマ一枚のケイの体が寒風にうち震える。
「な、え? 意味分かんない……!! どこだよここ! ちょ、どうなってんだよ! 一体!」
 暗闇に目が慣れてくる。頭上には満天の星空と細い三日月。
 ――ちょっと待て落ち着こう。目を閉じて、深呼吸をゆっくり三回して、もう一度ゆっくり目を開ける。すると、ほら元どおりー……。
「……」
 ――戻んない。
「夢……?」
 しかし、これだけ冷たいという刺激が体に来ているわけだし、夢とは考えられないわけで。
 ――うん。何だか分からないけれども、ここは現実だ。
 そう思ってしまう。
 でも同時に夢だったらいいな、とも思う。当然だ。人間は壊れてしまった日常に直面したとき、まず最初に本能的にするのが原状回復なのだから。
 だから、もう一度、ケイは冷たいアスファルトの上に横になってみることにした。
 これで、目を閉じてそのまま眠れば、ほら、気付いたら部屋に戻ってて……。
 ――って眠れねー。寒すぎるわ。
「どうなってんだよ……」
 正直な話、少々心細くなりながらケイはゆっくりと身を起こした。
 ……どうやら、見た感じどこかのビルの屋上らしかった。床の広さは、――分からない。とにかく20メートル四方よりは確実に広い。
 恐る恐る床の切れ目、端っこまで足を運ぶ。
 ――や、やっぱり、ここはビルの屋上だ。
 その先には漆黒の闇が広がっていた。下には、ビルの垂直な壁がずっと続いていて、ところどころ窓のような出っ張りが見える。地上からビルの側面に沿って吹きあがる風が、ケイの前髪を荒々しくかき乱していく。この闇の中へに身を躍らせれば、当たり前だが、その次の瞬間には奈落の底にたたき落とされているだろうと、本能的に理解する。
 空は近く。風が強い。
 周りで一番高いビルの上にケイはいるようだった。
 町は闇に沈み、月光が暗いせいもあってか、不気味にたたずんでいた。
 遠くには大きな山。そのお山はこちらを見下ろすように空にそびえたっていた。
 暗い町には明かり一つ見えない。自動車専用らしき大きな橋も、お山にも、そのお山と反対側に位置する――大きな海も。すべて黒い絵の具をぶちまけてしまったかのように黒い色彩しかもっていなかった。
 何故か頭痛がしてきた。
 不気味な風景に、手が震える。足がすくんでしまう。
 ――一体……、どうしてこんなところに。
 こんなところに自分はいるのだろうと。ケイは今日の出来事を反芻し始める。
 今日は夕方まで眠っていて、起きたら双眼鏡片手にウォッチングをした。
 それからナルミがやってきて、ご飯を食べた。
 で、自分はナルミが学校に向かって出発すると同時に布団に倒れ込み、電気も消さずに意識を失った。……
「……それで、どうして目が覚めたらこんなところに寝っ転がっているんだろう……?」
 本当に訳が分からない。前後の記憶があいまいなんてものでは済まされない。部屋でベッドに倒れて、その後目が覚めたらどこか吹きさらしのアスファルトの上とか。自分の頭が逝っちゃったとしか思えない。
 状況は訳が分からないが、やるべきことはとりあえずひとつあった。
 暖をとることだ。
 パジャマ一枚でこんな寒風が吹きすさぶところにはいつまでもいられない。それこそ凍えて死んでしまう。
 死んではたまらないときょろきょろ周りを見回していると、下へ降りるための階段口と思しき小さな鉄の建物が奥中央にポツンと建っているのを見つけた。 暗いからよく分からないが、鉄の箱は白っぽい色をしている。近寄って見ると、扉はやはり見た印象と変わらず、エレベータなどという高尚なものではなく、階段への入り口のようだった。色は、厳密に言うと白ではなく、ピンクっぽい白、だろうか。こういう色を何色と言うのか、ケイは知らなかった。
 ドアの取っ手を握り、ゆっくりと回す。そのまま、風の力に負けないように、ケイは力いっぱいに扉を引いた。最初は動かなかった扉も、しばらく力を入れ続けていると、急にぎいっと音を立てて親指分くらいの隙間があいた。途端、
 ……たすけて。
「っ!」
 ぎょっとなってせっかくこじ開けたドアから手を離してしまう。ばたんと大きな音を立てて鉄の扉は再び固く閉じてしまうが、その大きな音さえ、今は強風にかき消されていく。
 そんな中で、今、確かに、聞こえた。
「だ、誰っ!」
 ケイは恐る恐ると周りを見回しながら大声で呼ばわった。
「誰かいるのっ!」
 返事はなく、ただ風の音だけが屋上にはびこっている。
 ――そんな訳ない! 確かに今聞こえた!
 風の音を聞き間違えたとか、そんなありきたりなことなどでは決してなかった。今、誰かが確かにケイの耳元で「たすけて」と囁いた。現に今でも囁かれた後に残る特有の『肉感』と言う物をケイは痛いほど感じていた。
 怖かった。気味が悪かった。目が覚めたら自分は不可解な場所にいたという不安も相まって、これは断じて空耳などで済ませられることではなかった。
「あ、あの! 誰かいるのっ! 自分から助けてとか言っておいて、何でこんな嫌がらせをするんだ?」
 ケイはドアから離れて屋上の中心へと歩みを進めていく。裸足の足がいい加減冷たさにジンジンしてきたが、今はそれどころではなかった。
 ……たすけてよ!
「や、やっぱりいるんだね! ど、どこにいるの?」
 そこでケイはハッと思い当たった。
 ――まさか、淵に掴まって助けを求めてる……?
 足を滑らせたのか、風にあおられたのかは知らないが、今この声の主がどこかの出っ張りに両手をかけて、必死で自重と強風に耐えているというのならおおごとだ。一刻を争う事態である。
「ちょっと待ってて!」
 慌てて屋上の端から顔を出し、どこかに屋上のヘリに掴まっている人影がないか必死で探す。
 ――こっちの側面じゃない。
 ならば他の側面だと、ケイは移動する。
 しかし、予想に反して、ビルのどの外装にも、それらしき人影を見ることはなかった。
「まさか――落ちちゃったのか……!」
 ケイは屋上のヘリを握りしめ、手にぎゅっと力を入れた。きっと、あの声の主は助けを求めて必死で叫び続けていたに違いない。声がかれるのもいとわず、足元に口を開ける暗い闇に呑み込まれまいと。そして、やっと来た助けは、ただの臆病もので、ウジウジと逡巡して何もできない愚か者だった。
 せっかく助かったと思ったのに、きっと、手を滑らせたか何かで、下へ落下してしまったのだ。
「――」
 申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 ……たすけて。
「え?」
 がばっと顔を上げる。
 ……たすけて。
 今度こそ空耳だと思ったその声は、しかし先ほどの声に間違いなかった。
 ……たすけて。
 高い、ボーイソプラノ。どこかで――遠いどこかで聞いたことのある響き。
「そんな、馬鹿な! 誰もいなかったはず……!」
 ケイは声にせかされるようにもう一度ビルの四つの側面を見て回った。やはり誰もいない。
 ……たすけて。
 いよいよ状況がおかしくなりつつあった。背筋に薄気味悪いものが走る。
 そう言えば、この声は自分の部屋にいたときにも、聞こえたような気がする。
 いや、それ以前に、この声は遠い昔に聞いたことがあるような気がする。
 なんであれ、どう考えても、この声は異常だった。
 ――逃げよう。
 そう思ってケイは唯一の脱出口である薄桃色の扉に視線を向けた。
 次の瞬間、
「ぶほっ!」
 何か生温かくて薄っぺらい物が頭の上から降って来た。加えてそれはケイの視界をふさぎ、よろめかせた。あまりのことに前後不覚に陥って、ケイはとにかく顔についた得体のしれないものを剥ぎ取ろうとした。
 だが、風が強いせいかうまく剥ぎ取ることができず、あまつさえバランスを崩して後ろ向きに体が傾く。
「っ」
 踏みとどまる。ここはビル屋上の端っこだ。そうは言ってもいくらか淵までは間隔があるが、それでもこんな場所で視界をふさがれたまま後ろ向きに倒れるなどという危険な行為はするわけにはいかなかった。
 ケイは今から「リンボーダンスをします」と言っても通じるような格好で、何とか後ろ向きにかかる上半身の重さにさえた。傍から見ればみっともない格好だが、こんな場所では関係ないだろうと思う。
(そのまま横向きに倒れて!)
 安心したのもつかの間、脳内に女性の声で、そう言った『意識』が流れ込んできた。
「?」
 呆ける。脳みそが状況についていけず、
 瞬間、腹部に強烈な痛みが走った。イメージ的には何か細い棒のようなものでお腹を思いっきり突かれた感じ。半年くらい前まで――登校拒否するまで何度か経験したことのある痛みに色々な理由で涙がにじんでしまう。竹ぼうきでお腹をぶたれるの、痛かったんだよなー……。
「っ。……痛、い」
 体に染みついた習性と言うものは恐ろしいものである。ケイはそのまま後ろ向きに地面に転がって、叫ぶこともなく、体を丸めてただ噛みしめるようにそう呟いた。
(あー、ごめんなさい……)
「……………………」
(それにしてもどこなんだろう、ここ……。気が付いたらいきなり空から落下しているとか二日ぶりよ)
「………………………………」
(え? あ、あれ? わ、私の体はっ? ちょ、か、体、体……!)
「………………………………………………」
(あの、そこの貴方。どこかに私の体落ちてない? 銀色の髪に色の白い女の子の体)
「…………………………………………………………………っ」
 そこで、ようやく思考が追いついた。
 自分は、部屋でベッドに倒れて電気も消さずに寝ていた。で、目が覚めたらよく分からないが寒くて暗いビルの屋上にいた。その後幻聴が聞こえてきた。
 ここで、誰? と大げさにと慌ててみようか。そうしたら幻聴だってお前面白いやつだなと相手にしてくれるかもしれない。
 ――なんてね。どうなってるんだよ……。どうすればいいんだよ。怖いよ……。
 このまま飛び降りてやろうか。
(本当、どうなっているのかしらね。こういう特殊な魔術は以前にもいくつか経験したことあったけど、こんなに規模の大きそうな奴は初めてよ。あと、そこから飛び降りたら、一般人の貴方なんてバラバラになってしまうだろうから、止めた方がいいわ)
 ――幻聴が意味の分からないこと言い始めている。きっとこれは僕の頭がおかしくなってきた証拠なんだ。
(まあ、貴方には理解不能かしらね。魔術なんてもの、普通の人は信じていないし。それと、今貴方と思考をリンクさせてもらっているけれども、貴方の脳みそは狂ってはいないわ。少々混乱状態にあるようだけど、根本の意識ははっきりしているし、――あら考え方も論理的ですばらしいわ。貴方、間の抜けた顔してなかなか)
 ケイは目じりに涙が浮かんできた。知らずに嗚咽を漏らす臆病な喉。ただ、帰りたいと思った。
(ちょっと、人の服汚さないでよね。というか、貴方のせいでズボンと下着が下に落ちちゃったじゃない。あの中には必要なモノも入ってたのに)
 ――うるさいよ……。もうちょっと静かにしてくれよ幻聴。
(ああ、幻聴じゃないから。どうしてか声が出なかったから、貴方に避けるよう呼び掛けるために即興で貴方の脳に私の声がリクルートされるようパスをつないだの。まあ、声が出なかったのは、肝心の体が無かったからみたいだけど。ごめんなさいね)
「……いいさ。もうどうにでもなれってんだ。幻聴なんてバッチこいだ」
(だから! 私はっ!)
 ケイは大きく深呼吸した。すると、自分の顔に張り付いたもの――シャツとコートだろうか――から、シトラスフルーティーかつジャスミンフローラルな良い香りがした。でも今はそんな匂いはどうでもよかった。
「ハハハ」
 笑いだす。
 そうしたら頭がおかしくなりそうな自分がおかしくて、ひたすら一人で笑い続ける。
(ちょっと聞いているの?)
「……っ!」
 脳内に響く声。その瞬間、ケイの頭の中で何かがはじけ飛んだ。
「こっちに来るなッ!」
 気付いたら金切り声を出していた。
「も、もう僕をほっといてくれ! ぼっ、僕は頭がおかしいんだ! ほほほほほほら、僕は頭おかしい! ハハハハハハ!! おっかしい! ……ッ! 僕に近寄るなって行っているだろッ!」
(別に私は貴方に近寄ってなんかいないわ)
「ああ、そうか! 僕は頭がおかしいから幻聴が聞こえるんだ! ハハハハハ!」
(だから貴方は正常よ。ちょっとおかしくなりつつあるけれども――)
「ほらやっぱり!」
(――でも正常よ)
「そんなわけないだ――いっ!」
 そこで、不意に固い棒状のものでガコーンと頭を殴られた。
「っっ!」
 顔に張り付いた物をはぎ取って横に投げ捨て、涙目になりながら身を起して前方を睨む。すると、目の前の闇に、ケイの頭をはたいた物体がふわふわと浮かんでいた。
 それはひと振りの美しい刀だった。金と紅とで装飾されたそれは、暗い闇の中でも、まるで自らが光を発しているかのように輝いていた。闇の中で浮き彫りになるその姿は、幻想的でさえあった。
 我を忘れてその壮麗な芸術品に見入る。
(目が覚めたかしら?)
 脳内の声がむくれた調子でそう言った。
「…………。何で、これ浮いてんだろ」
 ――うん、これだ。見とれるより先に、刀が勝手に浮いていることに驚かなきゃいけなかった。
 そんな普通の反応さえできなくなるくらいに、その刀は美しかった。
 カン、と高い金属音を立てて日本刀がコンクリートの上に転がる。
(私の言葉、通じている?)
 ――通じている? ああ、そりゃ通じているさ! 何たって、僕の頭はいかれちゃってるんだから!
「………………誰なんだよ、あんた」
 ケイは挑戦するように誰もいないはずの虚空に向かってそう呼びかけた。
(私の名前はハク)
「幻聴じゃないって言うんなら、その証拠とかあるの?」
(ないわ。でもこれだけ私がしゃっべているのを聞いて幻聴とか思えないんじゃなくて? それに――貴方には2重人格、解離性同一障害の兆しはないわ。まあ、そんなことは貴方自身が一番よく知っているでしょうけど。そもそも別の人格が出てきている時の記憶なんて後で補完されるもの。小さい子ならいざ知らず、成長してしまっている貴方がどうしてリアルタイムで別人格と話しをできるわけ?)
「……」
 ケイが沈黙していると、『声』はさらに続けてきた。
(現状の分析。ここは周辺でひときわ高いビルの屋上。地上からの高さはおよそ80メートル、このビル内には人どころか周辺500メートル付近には――現時点では人っ子ひとりいない。街の光は完全に消えていて、電気系統も麻痺している。つまり、この町はこの周辺に限って言うのなら、文字通り『死んでいる』と判断できそうね。――そして今私の目の前にいるのは、黒髪色白のやせ気味の男の子。推測するに、貴方は、私と同じようにここへ飛ばされて来たんでしょう? こんな寒い中パジャマ一つで夜のお散歩なんてわけないでしょうから)
 なるほど、確かに見事な現状分析である。何を根拠に80メートルだの500メートル以内に人はいない云々を言っているのかは知らないが、幻聴のわりにはしっかりとしゃべっている。
(だから幻聴じゃなーい!!)
「……頭痛くなってきた。もういいよ。とりあえず会話が成立しているんだから幻聴でも嬉しいよ」
(ふん。もうここで何を言っても無駄のようね。いいわ! すぐにでも幻聴じゃないって証明してやるんだから! ってどこいくの?)
「帰る。今僕がどこにいるかは知らないけれども、とにかくビル下りて、最寄りの駅まで行って、後は何とかする」
(あ、ちょっと待ちなさいってば!)
 ――頭の中で叫ぶな幻聴。
 もうケイは声を出すのも面倒になって、頭の中でそう反ぱくした。
 ケイは寒さでかじかんだ手でドアの取っ手を回し、何とかこじ開けて、中に身を滑り込ませる。
 中は真っ暗だった。文字通り一寸先は闇という中で、ケイはたたらを踏んだ。正直こんなに真っ暗では階段を下りるなんてかなり危ない行為だ。階段は階段でも踊り場までかなりの高さがあるだろうから、足を滑らせでもしたら大事になりかねない。
 とは言っても、とにかく下に降りたいというのが現状であって、……とそこでふと純粋な疑問がわき起こった。
「って、あれ。どうしてこんな真っ暗なんだ? 非常口の標識すら光ってないし、そもそも」
(――そもそもなんでセキュリティーサービスがビービー言わないのか、よね。言ったじゃない。この周辺の街は『死んでいる』って。電気系統が生きてないの。電気が流れていないの。非常用の自家発電も作動していないの。だから、ビルの中は真っ暗だし、セキュリティも動いてない)
 幻聴が知った風な口を聞いている。だからだろうか、気付けばケイは少し愉快になって、普通の返答をしていた。
「電気が、流れていない……停電?」
(だったらいいわね)
 こちらの話を受け流すような適当な返事が脳内に『意識』として流れ込んでくる。突然、ケイの目の前の空間が、ポッと青白く光った。鋭い光に目が眩む。眩しくて目をそらして、それから目を細めてもう一度光の正体を見る。
「――――っ! ひっ、人だま!!!!!」
 自分の声が「人だま……人だま……ひとだま……」と階下にこだましていく。ケイはよろよろと後退して、ドンと固い壁に背中をぶつけた。固い壁の正体は屋上に続く扉である。
(安心して。私が作ったものだから)
「あ、安心できるかッ! お、お前何! 幽霊だったのか!」
(うーん。体がない以上そんな感じね。言いえて妙かな)
「ひいいいぃぃぃぃ!」
 後ろ手に取っ手をまさぐるケイ。そんなケイを見て、
(貴方、男の子ならそろそろ落ち着きなさいよね)
 びしっと人だまがケイの目の前で停止した。
「ぁ……」
 沈黙が流れる。
 もちろん取っ手を探るケイの手も止まっていた。
「あ、あんた、やっぱり、幻聴じゃ、ない……?」
(だからそう言っているじゃない。あ、そっか、姿が見えないから落ち着かないのよね。待ってて)
 そんな『意識』が響いて来てから数秒後、ケイの視界の端にぼぅっと白い影が浮かんできた。
「ちょ、え? ひっ」
 得体のしれない白い影に思わず後ずさろうとする、が背後は冷たい鉄の壁で、逃げ場など最初からなかった。
ずりずりと扉に背を預けてずりおちる。
(うーん。難しいなー。でもこれじゃ余計怖いわよね。えっと多分ここがこうなってて)
 粘土でもこねくり回しているかのような脳内の声。ケイは目の前の白い影がもきゅもきゅと軟体動物のように動く。
(……よし、できた。これに色をつけて……。どうかしら)
 ぱち、とケイの視界に電気が走る。一瞬真っ白になった視界は徐々に薄暗くなっていく。
「――」
 視界が開けてくる。ケイの目の前に浮かぶ青い人だまは何やら嬉しそうにぶんぶん動きまわっているが、きちんと役割は果たしていた。人だまの青い光で周囲の様子が照らしだされる。ケイの立っている場所は階段の一番上、少し広いスペース。後ろには例の屋上へ出る扉。そして、目の前には下へと長々と続く少し急な階段。
 その階段の前に、一人の女性がたたずんでいた。
「ぁ……」
 知らず、ため息に似た音のようなものが漏れる。
 目の前にたたずむ女性は、先ほど見た刀のように、途方もなく美しかった。
 クラスで何番目にかわいいとか、芸能人に例えると誰それのように綺麗だとか、そんなレベルではとても語ることができない。そこに立ってこちらを見つめる女性は、だたそこにいるだけで輝きを周囲にばらまくことのできる精巧な偶像のようだった。
 まず目を引くのが美しい銀色の髪。肩下までのそれはふわりとやわらかそうで、肩辺りからウェーブがかけられている。
 色は白磁のように白く、青い光の下青白くなまめかしい艶を放っている。顔の輪郭は鋭角でありながらふっくらと女性らしく、薄桃色の唇とスッと通った鼻筋はその部分だけずっと眺めていたいと思わせる危険な魅力に満ちている。眉は髪と同じ銀色で、それでいて灰色のような陰影がついてくっきりとしている。眉の形は細く美しく、しかしその陰影ゆえに存在を際立たせている。そしてその目は――まるでガーネットのような、現実離れした赤い色だった。少し釣り目がちな瞳は宝石のように人を惹きつける魔力じみた魅力を持っていた。
 頭には黒いふわりとしたベレー帽のようなものをかぶり、上着は唐紅の――軍服を思わせるコート、襟もとに黒いファーがあしらってある。ズボンはピアノブラックでほっそりとしてスタイリッシュだった。どこか外国の石畳の街路を歩くモデルのような印象を受けた。
 一言で言うならば、女性は人間離れした美しさをしていた。幽鬼――日本の昔話に出てくる鬼のようなそういった類の、この世ならざる凄絶な美貌である。
 背はケイより少し低いくらいだから160台後半だろうか。年は――ケイよりも少し上のような、そんな大人びた雰囲気を、彼女は纏っていた。
 ――なんて、綺麗なんだ……!
 ため息が出るような美しさに、もう他のことなど何も考えられなくなる。もうこうしていられるならどうなってもいいとも思う。
 薄く結ばれた唇がおもむろに開かれる。ケイはその唇に吸い寄せられるかのように自然と顔を前に乗り出した。おまけに無意識のうちに目を細めて、じっと彼女の顔を見つめていたりする。
(ちょっと、何か目が怖いんだけど)
「ぁ……。いや、……その」
 言葉がうまく出てこない。
 ――えーっと何の話をしていたんだっけ? 分かんない! 分かんないけど、うーん、こういう時は……、
 頭の中がぐるぐる回る。
 ――こういう時は、……もうどうにでもなれっ!
「えっと、その、こんなかわいい娘、見たことない」
 ――何口走ってんだ僕のアホー! 引かれた! 絶対引かれた!
(そ。まあ当然ね)
 しかし、予想に反して、何を今さら、とでも言いたげな流し眼で女性はさらりとそう言いきった。それで急に熱が冷めて、少し舌の感覚が戻ってくる。ケイは不機嫌そうな表情を何とか作って顔をそむけた。
「…………あんた、謙譲は美徳って言葉知らないのかよ」
(あら。私が美しいのは事実よ。言っとくけどね。一定以上のレベルのかわいいコは、みんな自分が美人だってちゃんと理解しているものよ。それに気付かないふりをするなんて周りから見れば腹立たしいこと極まりない上に目ざわりでしょう。特に同性からは際立った美貌を持っているだけで目の敵にされるものなの。だから、隠さず、飾らず、ただ当然のように自分の特長を受け入れる。これ、結構重要よ)
 そう言ってウィンクする謎の女性。
「っっっっ!」
 そんなしぐさ一つでケイは赤面してしまい、思わず視線をそらしてしまった。心臓がバクバクして、何だか体中がホッカイロのようだ。
(ん? 何どうしたの? 貴方顔が真っ赤だけど、もしかして風引いちゃった? ってわけでもなさそうよね)
 視線をそらした矢先、彼女がひょいっとケイの顔を覗き込んでくる。
「OHOU!」
 日本語らしからぬ発音をして横に跳び退るケイ、そんなケイを訝しげに女性は見つめて、
(ははーん)
 なんか、めっちゃ意地悪な表情浮かべてるんですけどっ!
 女性が近づいてくる。
(まさかぁ。貴方、照れてる?)
「ち、ちちちちちつぃ、ちがわいッ!! 悪かったな! ぼ、ぼぼぼ僕はあんたみたいな、綺麗な人、今まで見たことなかったんだよッ! 興奮してたんだよ! 悪いか童貞で!」
 なぜか分からないけれどもヤケクソ気味になってしまって、そう吐き捨てる。
(ふうん。なかなかストレートにものを言うわね。ただの腰ぬけかと思ったけどやるじゃない。それに敬意を表して今日のところはこのくらいで勘弁してあげるわ)
 そう言うと、目の前に立っていた女性の幻影がふっと嘘のように消えうせた。
「あ……」
 緊張する要因が無くなってホッとした気持ちが半分と、少し残念に思う気持ちが半分だったが、とにかく、ぐるぐる回っていた脳みそはようやくクールダウンしてくれた。
(正直な話をすると、これだけ精巧な幻影を貴方の視覚情報に紛れ込ませるのは少々疲れるのよね。だからとりあえず今は幻影を消しておくわ。――さてと、自己紹介が遅れたわね。私の名前はハク。よろしく。貴方は?)
「あ、……え、えと、ケ、ケイ。中野、ケイ」
(……ケイ。そっか)
「あの、えっと?」
 妙に黙り込んでしまったハクに少し戸惑いながら、ケイは虚空に要るであろう彼女に呼びかけた。
(いきなり本題に入るけれども、この町、どこかおかしいわ。貴方下に降りて駅を探すとか言っていたけれども、もう少し慎重になるべきじゃない?)
 すると、まるで自然に会話をしていたかのようなスムースさでいきなりズバッと核心をつくような意見を言うハク。
 それにわずかに戸惑いながら、ケイは口を開いた。
「お、おかしいって、どういうことだよ。ていうか、僕としちゃ街がおかしいとか、電気がつかないとか以前に体の無いあんたが一番おかしいと思うよ。まるで幽霊もいいところじゃないか」
(ええ。正直新手の訓練内容かと思ったわ。でもそうじゃなさそうだし。……気が付いたら体が消えているなんて、悪い冗談にしか思えないわ)
「その割には落ち着いているんだな……」
(私はこれでも訓練された魔術師よ。自分をコントロールする術は最低限身につけているつもり)
「ふーん……」
 ――って何か今、聞きなれない単語が聞こえたような。
(魔術師のこと? 読んで字のごとくそのまま。呪文を唱えて不思議なことをする存在と考えてもらって結構よ)
「ぼ、僕の、考えていることがばれた! ……って」
 ケイは暗闇で目を大きく見開いた。
「って、魔術師? じゃ、じゃああんたは魔法使いなのか! お化けじゃないの?」
(そうよ)
 ――やっぱり僕の頭がおかしいのかもしれない。
(話が堂々巡りになりそうね)
 ため息交じりの脳内の『意識』。
「じゃ、じゃあ、火をおこしたりできるの? あだぶらかだぶらとか言って」
(もう起こしているじゃない)
 ケイはちらりと横でぶんぶん飛び回っている人だまを見やった。
「あ…………そっか…………」
 沈黙が流れる。
 何だか段々色々なことが馬鹿らしく思えてきた。
 魔術師? だからどうだっていうんだ? 目覚めて、おかしなところに自分はいて、幻聴が聞こえて(だから幻聴じゃないってば! と脳内の声がいちいち突っ込んでくる)人だまが見えて。
「じゃあ、魔法使いなら僕を元の場所に戻してよ」
(無理。魔術師は万能ではないわ)
 ――なんだそれ。
 何かは知らないが、もうどうだっていいや、という気分になる。正直ここまで無茶苦茶なら多少無茶苦茶でもあまり変わらないような気がするのである。
「それはそうと、なんであんたの声が僕の頭の中に聞こえてくるの? 魔法?」
 ケイは面白がるようにそう言った。そうしたら脳内の『声』は至極真面目に返してきた。
(貴方とは思考を限定的にリンクさせてもらっているわ。だから声を出さなくても意思疎通は可能。……ああ、貴方の深層意識まで読むつもりはないから安心して)
「…………」
 ――訂正。やっぱりこいつ、無茶苦茶で看過しきれないほど理解不能。
「……もうなんだっていいよ。言っとくけど、外に出て――何て言うか、おかしなこと? が起こっていなかったら、それで、とりあえずあんたみたいなのとはおさらばだからな」
 きっと人間のはずで、多分美人とは言え、得体が知れないのは変わらないのだから、とっとと縁を切るに限るものだ。というか正直宇宙人もいいところである。
「早く帰って寝たいよ」
 と付け足す。
 正直な話、ケイは事態を重くとらえていなかった。外に出ればちゃんと人が普通にいて、街全体が真っ暗になるとかいう停電騒ぎに騒然としている。ただそれだけの話なのに、どうして自分は魔術師とか勝手に名乗る良く分からない電波と仲良くしなければならないと言うのか。
 どうせあれだ。――夢遊病、とか?
 ――……。
 やっぱりどう考えても変なのだろうか?
(そうね。異常がないなら、貴方とはさようならだわ。でも、こんなところに何の脈絡もなしに飛ばされている時点で十分に『異常』事態だと思わない?)
「それは、そうなんだけどさ」
(とは言っても、下に降りてみないと話が進まない。とにかく階段を降りて、注意して外に出ましょう。それからだわ。ほら、早く降りなさい)
 何かものすごく腹が立つけれども下に降りることにはケイも賛成だったので、ケイは冷たい階段をひたひたと降り始めた。
 で、ハクと名乗る謎の『声』は、降りながら現状確認をしましょう、と提案してきた。
「現状。確認?」
 聞き返す。
 どうやらこのハクとやらは事態を重く受け止めているらしい。というか、そろそろ自分との温度差というものを悟ってはくれないのだろうか、と思う。
 ハクはそう、と返すと続けた。
(私はセレモニーに出ているところで、ここに飛ばされてきた。記憶に大きな断絶があるみたいで、詳しいことは全く覚えていないわ)
 とりあえず面倒くさかったので適当に話に乗ることにした。
「それ、要は何も状況が分かってないってことじゃないか」
(そうなるわね。だから私は結構貴方を当てにしていたりする。ほら、貴方の番よ。早く言う)
「ぼ、僕? …………僕も似たようなもんだよ。家で飯食って、ベッドに倒れて、寝ちゃって、気付いたらこの屋上で寝てた」
(共通しているのは、やっぱり記憶に大きな断絶があるってことね……ってちょっと待った)
「なにさ?」
(『家で飯食って、ベッドに倒れて、寝ちゃって』そこで記憶は途切れているのね?)
「そうだけど」
(それ、何日の何時頃? あ、貴方日本に住んでるわよね?)
「は?」
 ――いきなり何言い出すんだ、この人。
「そりゃ、僕はぼりばりの日本人だけど。……えっと多分二十四日の夜の八時前かな。ナルミ姉が家から出ていってそれからもう一回改めて飯食って、寝たから、そのくらいで間違いないはず」
 ケイがそう言うと、ハクは考え込むようにおもむろに返した。
(私の記憶が途切れているのは、日本時間で午前九時くらいよ。時間的に大きな開きがあるわね。どういうことなのかな)
「気を失っていた時間が長かったんじゃないのか」
(もし、気を失った時間が貴方と私と逆だったら、その説明もありね。だけど、貴方は午後八時、私は午前九時に記憶が途切れている。……ちらっと言ったかもしれないけれども、私、ここに飛ばされて来た時、気が付いたら空を落ちていたのよ。何が言いたいか分かる?)
「わかるよ。飛ばされて、こっちで気を失っていたのなら気が付いたら落下しているなんてことはありえない……。少なくとも十時間以上も気を失っていたのなら地面で目が覚めるはずだってことだろ」
(そう。だから、その説明の場合、私たちをこちらへ飛ばした犯人は、こちらへ私たちを送る前に私たちの意識を刈り取っておかないといけない。で、その場合、少なくとも私に関して言えば、セレモニーで人がたくさんいる中で周りの目をごまかして観客席から私の意識を奪い、それからどこか人目の付かないところに私の体を隠して、十時間以上保管しないといけない。まずそんなのは無理。絶対誰かに気付かれるわ)
「ふーん。ってことは、どういうことなんだ?」
(分からない。謎よ)
 結局、状況がよく分からないことを再確認しただけだった。
「そう言えば貴方携帯を持っていないようだけど、どうして?」
「あ、僕、携帯は持たないんだ、悪かったね、ごめん」
 本当に面倒くさくなって投げやりにそう返す。そうしたらハクはもごもごと返してきた。
(あ、いえ。持ってないんだったら仕方ないじゃないの。謝ることなんかないわ。――私、携帯置いて来ちゃったんだよなー。どうしてこう大事な時に抜けちゃうのかな……)
 ハクはそれ以上何もしゃべらず、ケイも黙々と階段を降りる作業に専念した。

        ×              ×

 ビルにはおよそ生活臭のようなものが無かった。
 非常口の合間から見えたどの階のオフィスのデスク群の上にもまるで書類が乗っていなかった。
 そのおかげでオフィスの部屋の隅から隅まで見渡せるが、およそそこに仕事に使う道具どころか、そこで仕事をするための道具――たとえばコピー機やパソコンやらが置いてなかった。
 ポットが入口に置いてあったが、その周りには湯のみらしきものが見当たらなかった。
 もちろん、各デスクの上にも湯のみやカップなんてものは置いてなかった。
 本当に、人が使っているのか――? と。
 そう訝しがっても、いいだろう。いや、客観的に見て、明らかにそれらは使われていないオフィスだった。
 最新の、この辺りで多分一番高いであろうビル。
 しかし、そこには、まるで人が仕事をしていたなどという証は見られなかった。
 ビルは、綺麗なまま、『死んで』いた。

      ×              ×
 
 そうしてしばらくの間ひたひたと階段を降りていると、唐突にグランドフロアに着いた。どうやらこのビルはどういう構造をしているのかは分からないが、2階から外へ出られるようになっているらしい。階段を降りた突き当たりに2階と表示があり、その横にグランドフロアのGが添えられていた。
 そこで、ケイの背筋にゾクリと嫌なものが走った。
 こんな悪寒はいつ以来だろうか。数年前のあの――、
「ッ」
 首を振る。
 ――馬鹿なことを考えるのは止めるんだ。こんな、なんの根拠もない震えなんて、おそるるに足らないだろ! 
 そう自分に言い聞かせる。
(このビル、やっぱり人の気配がなかったわね)
「――」
 呟くハクの声に自然とごくりと唾を飲み込む。
(あら、貴方勘がいいのね。意外に魔術師に向いているかも)
「……そういう非現実的な話を僕に降らないでほしい。僕、昔それと似たようなことで酷い目にあっているんだ」
(――何があったかは知らないけれど、気に障ったなら謝るわ。ごめんなさい)
 もしかするとケイの言葉に殺気にも似た何かがこもっていたのかもしれない。ハクは随分と素直に、誠実に謝ってきた。
 単に、たまたまケイが学校でいじめられるきっかけになった『超能力うそつき事件』を思い出してしまっただけだというのに、こちらの気まぐれで彼女を謝らせたようで、ケイとしては少し居心地が悪い感じになった。
 悪寒を無視して、取り繕うようにケイは口を開いた。
「えーっと。まあ、多分外に出たらきっとあんたともおさらばだよな。明かり、ありがとう。僕一人だったらこうして階段を降りることすら難しかったと思う」
 最後にきざっぽく「不思議な夜をありがとう」と付け足そうか迷ったが、柄ではないことに気がついて自重した。
(……いいえ。おそらくそうはなりそうにないわ。ここから左方目の前に中央エントランスがあるけれども、気をつけて。何か、こっちへ来る)
 何かって何だよ、と階段からロビーに出ながらケイは聞こうとした。
 が、聞く必要はなかった。
 いや、いきなり響いたガラスを叩く音にギョッとして二の句が継げなかったのだ。
 ケイのいる位置から左側前方、ビルの外と中とを隔てるガラスの自動ドア。
 それを一人の男がガンガンと叩いていた。
 男はパーカーにジーパンという普通の恰好をしていたが、代わりに挙動が明らかにおかしかった。まるで必死に助けを求めるように、ガラスを叩いている。それは錯乱したかのような必死さだった。
 男と目が合う。薄暗い中だが、男はわずかな光をもって何とかこちらを視界に収めたようだった。男の顔が恐怖に歪む。
 ――そっか、人だまのせいで、僕が幽霊か何かに見えるのか。
「おい、ハク――だっけ? あの人怖がってい――」
(っ!)
 ハクが息をのむ。
 だがそれはケイも同じだった。
 人影は、男のもの一つだけではなかった。その後ろにぞろぞろと、いくつもの影が続いている。男は、ケイの姿を見て、驚いて逃げようと後ろに向きを変え――大勢の人影に、気圧されたかのように立ちすくんだ。
人影は大小さまざまだった。影の大きさから子供のものと判断できるものもあった。人影はゆらゆらと、しかし確実に男への距離を詰めていく。
 男はそれを見て、再びエントランスのガラスを叩き始めた。半狂乱と言ってもよいその様子。男はついに動かない自動ドアに全身をぶつけ始めた。――ガラスを破って中へと侵入するつもりらしい。
 そして、男の必死の体当たりが功を奏したのか、ガラスにビシリとひびが入り――ガシャーン、と派手な音を立ててついにドアが砕けた。円形に空いた穴に、全身が血まみれになるのもいとわず、男がロビーに飛び込んでくる。
「ひぎぃぃぃぃぃ!!」
 それは、妙にひきつった男の声だった。顔こそきちんと見えないが若く逞しい男は、足元を見ておびえていた。
 男の足には何本もの腕がからみついていた。男の体にいくつもの人影がうめき声のようなものを上げながら覆いかぶさっていく。
「なっ……!」
 途端、男の絶叫がロビーにこだました。本当にこれはあの男が出している声なのか。そもそもこんな悲痛な声が人間に出せるのか。まるで肉食獣に食らいつかれたときのような、あまりにも人間離れした叫び声だった。
 死の間際の人間のリアルな叫び声。
 ケイは目の前の光景に目が離せずにいた。
 噛みついている。大勢の人が、男の全身に噛みついている。噛みついて、噛み切って、のみ込んで……。
「う……、げぇぇぇぇ……!」
 耐えられなかった。生きながらにして食い殺されていく惨劇に、ケイはその場で膝をついて、思いっきり胃の中のものを逆流させた。
(――! ――!!)
 ハクが何か叫んでいる。しかし、叫んでいることがかろうじて分かるくらいで、その内容を全くもって理解する力が無かった。
 男の絶叫は続く。断末魔の叫び、と言うのだろうか。男の叫び声は、長く、痛々しく、絶望にあふれていた。
 ――何だ! 何なんだ! 人が……人が人を食ってる!
「おええ。げっ、ゲホッ!」
 逆流は止まらない。もう何も出すものが無いと言うのに、口からは胃液が止めどなくあふれてくる。
 ――信じられない! 信じたくない! 夢! そうだ、これは夢なんだ! 夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢!
(いいえ! これは現実よ!)
 不意に飛び込んでくる女性の声。まるで深層心理にまで働きかけるような響きをもって、ハクはケイの頭の中で叫んでいた。
(立ちなさい! 立ってッ! このままじゃ貴方も……ッ!)
「ッ」
 膝間づいた体に鞭を入れる。できるだけロビーの床を染めていく液体を見ないようにしながら、ケイはよろよろと立ち上がった。
(階段上って、屋上に出て! 早くッ!)
 男にたかる人影が、新たな肉を探すかのようにケイに顔を向ける。
「ぁ……」
 人影は皆血だらけだった。青い炎に照らし出された彼らは老若男女ありとあらゆる人間だった。ただ、果たしてアレを人間と呼んでいいものかどうか。あるものは、首の肉を食いちぎられ、またあるものは頬肉がごっそりと欠損していた。
「UUUU……」
 うめき声が上がる。飢えた亡者の群れは、新たな得物を認識したのか、ケイの方に歩み寄ってくる。その動きは緩慢ではあったが、しかしそれでいてそこまで遅くは無かった。たちまちケイの周りに――
(何をしているの! 早く走りなさい! 階段よ! 殺されるわよ!)
 唐突に、切羽詰まったハクの声に、ケイは我に帰った。
「っ!」
 動く人影達に背を向けて走り出す。パジャマの背中を掴まれる。
「っっ!!」
 何も考えずにパジャマを脱ぎ捨てる。それから振り返ることもなくケイは階段に向かって駆け出した。

    ×              ×

 ただひたすら屋上へと通じる階段を駆け上がる。
(止まらないで……! 後ろから奴らが追いかけてきている!)
 ――言われなくても……、分かってる……!
 しかしケイの両足の太ももはもうパンパンだった。普段から引きこもってろくに運動をしたことが無かったせいで、もう息も切れ切れだった。
(……チ。向こうも決して速くないんだけど、まずいわね)
 ――い、一体何なんだ! あの化け物!
(屍食鬼(ルビ:グール)。人の肉を食べる亡者の類よ。戦闘用に魔術師が使役したりするんだけど)
 ――ぐ、ぐーる……?
(ゾンビみたいなものよ。貴方も見たでしょう? 生きている人間の肉を食って、おそらくだけど、噛まれた相手も同じ存在にしてしまうというおそろしいモノよ。アレに噛まれたら最後、すぐに解毒しないと同じゾンビになってしまう。噛まれなくても、皮膚に傷をつけられたりするのもNG。因子がアレらの爪についていないとも限らないから)
 ――は。はあッ? そんな、ものこの世にいるわけがないだろう……! 悪い冗談だ……!
(残念ながら冗談何かではないわ。この町が『死んでいる』のも、おそらくはアレらの仕業。どこまで感染が拡大しているのかは分からないけれども)
 ――もう意味分かんないよ! どうすりゃいいんだよ!
(だから、とりあえず屋上に出て。私の言う通りに動いて)
 ――い、言う通り? そ、それで助かるんだな? わ、分かった……!
(OK。いい子ね。じゃあ、屋上に着いたら、貴方には戦ってもらうから)
「は……。はあぁッ? な、なななんだって!」
 思わず大声を出してしまう。出してしまってから、息苦しさに階段を上るスピードがさらに遅くなってしまう。
(上ることに専念して。貴方には私が術式をくくるまでの時間稼ぎをしてもらう)
 ――じゅつしき? じかんかせぎ? 何訳分かんないこと言ってんだ! 僕にあいつらの足止めしろとか、冗談じゃないッ!
(冗談では言っていないわ。屋上に出たら、私は貴方を空に飛ばす魔術を行う。本当は自動詠唱ができたら良かったんだけど、貴方が私のズボンを下に投げ捨てたせいで使えなくなっちゃったんだから)
 ――あんたが何言ってんのか僕にはさっぱり分かんないよッ! あんた正気じゃないだろう! あんた一体僕に何をさせようってんだ。だいたい、あいつらの足止めって!
「できるわけないだろう!」
 酸素を求めるように、喘ぐように、かな切り声になりながら、ケイは叫んだ。
(あら、じゃあ今から階段を下に降りて素手であいつらと戦う? 一応忠告しておいてあげるけれどもそんなの自殺行為よ)
 ――そうは言ってないだろッ! ここから下に降りて戦うなんて……!
 先程のおぞましい光景がケイの頭に浮かぶ。血まみれになって、こちらに食らいついてくるゾンビ達を想像する。体中の血が凍る。
 ――まっぴらごめんだ!
(だから、屋上に行けば武器があるわ。貴方にはどうせ使いこなせないでしょうけど、振り回していれば時間稼ぎくらいにはなる。その間に、貴方が空を飛べるようになる魔法を私が掛けるから)
 ケイはもう泣きだす寸前だった。
 ――あんた、マジで何言っているんだ! 僕の分かる言語で説明してくれ!
(だから言っているじゃない、屋上に…………)

         ×             ×

 脳内で口喧嘩をするという人生初の試みをたっぷり十分は体験したケイは、ようやく屋上へつながるドアをこじ開けた。
(お疲れ様。さあ、屋上の端まで移動して)
 もうケイの足はほとんど麻痺しているのではないかと言うくらいに感覚が無かった。息は上がり、咳込んだ喉が苦しげに酸素を求めている。ハクの声は今やケイの脳内に虚ろに響いていた。ケイは疲れ切った心と体のまま足を引きずるようにしてよろよろとビルの屋上の淵まで移動する。
(転がっている日本刀、朧(ルビ:おぼろ)を拾って)
 ――日本刀で……戦う、のか……?
(そ。どうせ貴方には抜けないでしょうけど、抜かなくても、それを振り回していれば十分よ。待って、貴方の視界に私の影を投射するから)
 ハクがそう言うや否や、ケイの視界にぼうっと先程も見たような白い影が現れる。それはハクの体のラインをまねた、白い影だった。その手には一本の流麗な棒状の何かを持っている。
 ケイは屋上の床に転がる豪奢な日本刀を見やった。白いハクの影が持っているのは、どうやらこの日本刀、朧の影のようだった。
(拾って)
「拾えば……ハァッ! いいん、だな! ハァッ……! ちくしょう!」
 ケイは息切れしながら、やけくそ気味に足元に転がっている日本刀を拾い上げた。
(今貴方の視界には私の『影』が見えているはずよ。貴方は、私の影に従って日本刀を振って。質問は無いわね? あ、今さらつまんない泣き言言ったら殺すから、OK)
「全然OKじゃないよ! あんたやっぱり悪魔だ! 鬼だ!」
 ケイの暴言を聞いているのかいないのか。ハクはケイの言葉を無視して不思議な調子の『歌』を歌い始めた。流れるように、静かなそれは、ケイに二の句を告げさせなかった。
 その歌はまるで優雅に空を舞っているかのような旋律だった。ケイの脳裏に、バチリと電撃が走り、一瞬ののちにライトブルーの大海を水底から眺めているイメージが想起される。
 唐突にバンッと屋上の扉を力任せに叩く音が響く。
 ――来た……!
 いやだ。来ないで。僕を食べないで。もう何でもしますから命だけは……。
 バンッ。バンッ。バンッ。と音は次第に断続的なものになって行く。
 そして、バーンッとひときわ大きな音が響いて、ドアが開け放たれ、中からゾンビ達が雪崩をうって飛び出してきた。
「UUUUU!!」
 おぞましいうめき声が風に乗って屋上という空間を異次元に染め上げていく。
 ケイは後ろをちらりと見た。底の見えない闇がビルの下には広がっている。
 もう後には引けないと、全身が理解する。
 同時に、窮鼠猫を噛むというか、そういった類の勇気にも似た投げやり的な感情がケイの中にわき起こった。
 ――くそ。やってやる!
 ケイは日本刀をギュッと握りしめた。それから柄にかける右手に力を入れる。
 刹那。ドクンと日本刀――朧が一つ脈動した。
 ぱしゅ。と鋭い音とともに日本刀のこいくちが切られる。
(え、嘘。抜けた……! そんな馬鹿な! 貴方、いったい……!)
 何を驚いているのか、ハクが詠唱をとぎらせて驚愕の声を上げる。だが、そんな声も遠くに聞こえるほど、ケイは焦燥していた。
 ゾンビがこちらにゆらゆらとやってくる。今にもケイに食らいつこうとこちらにやってくる!
「ハァ――ハッ」
 息が荒くなる。
 朧を鞘から引き抜く。
 風の音をかき消すかのように、朧の刀身が大気を震わす。
 いぃぃぃぃん、と高い金属が振動する音。
 それは、まるでケイを鼓舞するかのような響きだった。
 そして――目の前の白い幻影が、唐突に動き出した。
「ッ」
 影の動きを追う。
 ハクの影の動きをまねる。何も考えられずに無我夢中で残像の動きを模倣した。中段から突きだすように先頭のゾンビの首に日本刀を突きだす。
 びちゃりと血が風に舞った。血は風にさらわれてケイの体にはかからなかったが、それはそうと初めて人間の首を貫いた感触に頭の中が真っ白になった。
 殺してしまった。
 相手は確かに人間じゃないのかもしれないけれども、ちゃんと人間のような外見をして、そしてちゃんと動いてもいるのだ。この肉を貫く重い感触が、「今お前は人を殺した」と糾弾してくる。
「ああああああ!」
 叫んだ。混乱する心の中、立ち止まることだけはできなかったから、代わりに腹の底から本気で叫んだ。
頭の中の理性など、肉を貫く感触で吹き飛んでしまった。飛び散る血を見て人間らしい感覚など闇の彼方へ消し飛んで行ってしまった。
「あああ! うあ! ッあ!」
 ケイの叫び声はもはや獣性をあらわにしていた。人を斬って、血が出るのを見て、自分の中の何か凶暴な物がゆらりと鎌首をもたげている。
 自分の中にいる凶暴な誰かがケイの耳元で囁く。
 お前が今斬っている物はみんなカボチャだ。カボチャを調理するには食べやすい大きさにカットしなくてはいけない。さあ、カットだ、カットカットカットカットカット!
 ただ、頭の奥底でハクの幻影が刻む刀の軌跡だけは忘れてはならないという考えが、焼き鏝(ルビ:ごて)で型をつけられたように張り付いていた。
 ハクの残影の軌跡をはみだしてはいけない。ゾンビの血で汚れた刀に、自分の体を傷つけられてはいけない。無我夢中でひたすらお手本を見てまねるんだ!
 熱いのに冷たいという矛盾だらけの頭の中で、獣のように荒々しく、しかし作業を繰り返すロボットのように精密にハクの剣筋をなぞる。
 まるで苦行に挑む殉教者のようだ。無意識のうちに刀を振るう。
「ハ、ハハハハ、ハ!」
 激しい運動に新鮮な空気を求める喉が、勝手に笑いだす。楽しくなんてないのに勝手に笑い出してしまうなんて、なんて狂っているんだろうか。
 こちらに噛みついてくるゾンビを上段から滑り落ちるような斬撃でカラ竹割りにする。そのまま、心が凍ってしまったまま、優雅な円運動を描くハクの白い影絵をなぞって――。
 そこで、急に視界に踊るハクの影が動きを止めた。
(もういいわ、ケイ。グールは、全滅した)
 同時に、日本刀の切っ先がコンクリートをこすった。摩擦個所からわずかに火花が散り、コンクリートに薄い傷がつく。勢いよく振り下ろされた日本刀はギリギリギリとコンクリートをえぐり、ケイの左真横でようやく反作用の力に負け、わずかに反動で振り返した後に、止まってくれた。
 ケイの腕の筋肉ももう既に限界を二、三歩越えてしまっていたようだ。どうやら激しい剣舞を無我夢中で見境なくやってしまったらしい、ということにケイは今さらながら、ぼんやりと気がついた。
(まさか、ここまで完璧に私の剣筋をまねてくるなんて)
 感嘆にも似たハクのため息が漏れる。
 ケイは酸欠のためかすんだ視界の中、ぐるぐる回る頭でそこに広がる惨状を認識した。
 まるでバラバラ殺人事件だ。
 腕がケイの周りに何本も転がり、――他にも名状しがたい肉片がケイを中心に、円状にその辺りに飛び散っていた。あまりのおかしさに頭が核融合してしまいそうだった。
 ああ、風がこれだけ強いというのに、どうしてこんなにもむせかえるような鉄の香りがするのだろうか。
(どの道貴方には休息が必要だわ。身体的にも、精神的にもね)
 ふわりとケイの体が空へ浮く。だが、ケイはもうそんなことに驚いている余裕はなかった。もう半分くらい頭は夢の中だ。ケイの生物としての本能は体の主に深い睡眠を要求していた。
(頑張ったわね。刀と貴方は私が責任を持って安全な場所に運ぶわ。だから、今はゆっくり休んでちょうだい)
 それから、最後に、ハクはごめんなさい、と謝った。私の力が足りないまでに、貴方に人殺しをさせて、と。
 ――どうしてハクが、謝るの?
 そう、自然な流れで聞き返そうとして、失敗した。もう口はピクリとも動いてはくれず、脳はもうシャットダウン一秒前だった。
 その、一秒の間。
 何の脈絡もなく、きっとこれから見る夢は、最低のものになるんだろうな、と思った。

         ×             ×

 僕にはお父さんとお母さんがいた。
 そりゃそうだろと突っ込まれそうだが、とにかくいたらしい。
 二人は写真が嫌いだった。それ以前に、二人はお互いが嫌いだった。
 多分、そうだったと思う。
 顔も声も覚えていないお父さんとお母さん。というか、お父さんとは出会ったこともなかったと思う。
 でもお母さんは好きだった。
 と、思う。
 僕にはお父さんとお母さんがいた。
 僕はお母さんが好きだった。
 好きだったけど、死んでしまった。
 でも、どうして死んでしまったのか。
 ずっと、僕と一緒にいてくれると約束したのに、なんで僕を置き去りにしていなくなってしまったのか。
 あ、そうか。
 と、気付く。
 簡単なことだ。
 僕はお母さんが好きだった。だけど、お母さんは僕が嫌いだったんだ。
 本当に、当たり前の答えじゃないか。
 と、僕はそう思ったのだった。

        ×             ×

「……ぁっ…………」
 目を覚ませば、薄暗い光がケイを包んでいた。
 体がずきずきする。呻きながら起き上がれば、そこは閑散とした暗い森の中だった。ケイは大きな木の下で腐葉土の上で横たわっているようだ。
 ――えっと、ぼ、く、は……?
 周りを見回す。曲がった木や、まっすぐな木。遠くまで見えない闇。足元には腐葉土の地面に朽ち果てた葉っぱが敷き詰められている。森特有の、腐葉土の湿った香りが鼻をくすぐる。
 そして、ケイの隣には、青白い光を灯す人だまがふわふわと浮かんでいた。
 そうだ。確か、ベッドの上で眠って、起きたらビルの屋上で。それから――。
「ぅぐ……」
 吐き気がこみ上げる。凄惨な光景がまるで死ぬ前に見るとかいう走馬灯のごとくケイの頭の中で駆け巡る。
 それで、戦って、気を失った。
 ひっそりと自分の両手を見下ろす。血には汚れていないものの、少し豆ができかけている白い自分の手。確か、記憶が確かなら、この手で、――。
 心は、まるで徹夜を続けた時の目のように凍りついて、張り詰めていた。
 それでもまだまともな思考ができるのは、おそらく眠ったからだろう。人間は眠ることにより記憶を整理すると言うが、それでいくらかストレスのようなものが少しはどこかへいってくれたようだった。
(おはよう……。体は動かせるみたいね)
 起きた途端『声』――ハクの『声』が脳内に響く。
「……僕」
 何だか、不思議な感じだ。体は何故か温かいのに、中身は全部凍ってしまっているような変な感覚。
(筋肉痛は軽いみたいね。さすが私)
「ハク……か」
 呟きながら服についたほこりを払い落す。
 ――って、あれ? 服……?
 確か、自分はパジャマで。そのパジャマすらも上の羽織ものも捨ててしまったはずだった。
 だというのに、ケイは今、ジーパンに緑のパーカーという普通の恰好をしていた。
「私が調達してきたの」
 と、ケイの後ろから、脳内に流れ込む『意識』などではなく、れっきとした耳に届いてくる音として、張りのある高く透き通った声が響いてきた。
 反射的にバッと後ろを振り返る。すると、そこには、
 ふわりとした銀髪。綺麗な顔の輪郭。黒いファーをあしらった唐紅のコートに、黒いぴったりとしたズボンという格好をした、先に幻影で見た女性が、きちんとした質感を持ってそこにたたずんでいた。
「は、ハク!」
 思わず素っ頓きょんな声を出してしまう。顔が熱くなって知らず知らずのうちにその女性の瞳に吸い込まれてしまいそうになる。
「ええ」
 何故か質感をもって現れた女性――ハクはにっこりとほほ笑んだ。
「っ!」
 ドクン、と。心臓が跳ねた。
 それはそうだ。こんな美人にこんな間近で、しかも自分に向かってほほ笑んでくれただなんて、男なら誰だって顔が真っ赤になって心臓が早鐘のように絶え間なく激しくビートしてしまうに決まっている。
 うん、つまり、
 ――か、かわいい……!
 そう思った、ということだ。
 ケイがぼーっとハクの顔に見とれていると、ハクは何故虚像でなくちゃんとした質量を持てたのかを勝手に説明してくれた。
「いつまでも貴方の脳内でぴーぴー叫んでいるだけっていうのが我慢できなくて、それで貴方が寝ている間にそこら辺の土を使って体を作ったの」
 そう言って未だ地面から半身を起しただけのケイに手を差し出してくれる。ケイは、その白く滑らかな、明らかに男のものではない手をぼーっと見つめて、ようやく、ハクがケイが立ち上がるのに手を貸そうとしてくれていることに気がついた。差し出された手を緊張して早くも汗だくになってしまった手で握る。ハクの手は、本当に土でできているらしく、およそ人間の体温とは思えないくらいにとても冷たかった。
 それでも、人恋しくなっていたケイは冷たさに驚くよりも前に、感覚を確かめるようにそのきれいな手をぎゅっと握りしめていた。
「もっとグラマラスに作りたかったんだけどね」
 ハクは悲しげに自分の胸のあたりを見やって続けた。
「核は私の魂だからどうしても体がこんなふうになっちゃうのよね。土とか水とか、そういう形を成しやすい物体だと特にそう。ちょっと残念だけど、今は文句も言っていられないし」
「そ、そんなの関係ない! ぼ、僕は、その!」
 思わず口が滑ってしまう。ハクは「あら?」と目をちょっと見開いた後、ものすごく悪魔みたいな笑みを浮かべた。
「その? 何かしら? いいわよ、続けなさい」
「あ、う……」
「そこで言い淀むなんて男失格ね。見下げ果てたわ」
 わざとらしい流し眼でこちらを見てくるハク。間違いない。あれは本当の悪魔である。
 そこまで言うなら、こっちだって、と思い、ケイは目をつぶって叫んだ。
「ッ! 貧乳もいいって言うつもりだったんだ、馬鹿!」
 瞬間、ケイの掴んでいたハクの手が、肘のあたりからコートごとぼそり、と取れた。比喩とかでなく本当に取れた。
 腰から地面に落ちる。
「っっっっう、腕、腕! 取れた、取れちゃった! は、ハクの腕!」
 もう口から心臓が飛び出してそのまま空を飛び始めるんじゃないかと思う勢いで驚きの声を上げる。
 正直トラウマになってしまいそうな目の前の光景に半分気絶しかける。
「あら、ごめんなさい。土でできているからか、私の腕、結構もろくて」
 にっこりとハクがブラックな笑顔を浮かべている。
 ケイの目の前でハクの取れてしまった右腕が色彩を失い土色に戻っていく。それからそのままザザーと音をたてて細かい砂のようになり地面に崩れ落ちていく。
「ぁ……」
 前を見るとハクがとれてしまった腕を修復しているところだった。地面に千切れてしまった断面をくっつけ、シューと細い音を立てながら腕がコートごと再現されていく。
「そう言えば、貴方、お腹すいてない?」
 ケイが目を白黒させていると、ハクは修復した土の腕の感触を確かめるように関節を曲げたり伸ばしたりしながらそう訊いてきた。
「え……」
 途端、ケイのお腹がぐうと鳴った。そう言われてみれば、自分のお腹が前代未聞レベルにペコペコなことに気がついた。何となく恥ずかしくなって顔を赤らめる。そんなケイを見てハクはふっとまたほほ笑んでくれた。
「じゃじゃーん!」
 なんだか元気いっぱいな効果音とともにハクは背中の後ろからカップ麺の箱をケイの目の前に差しだしてきた。黄色いナイロンにおいしそうに湯気を立てた焼きそばの写真が印刷されていて、赤色の文字で『焼きそばメーン イケてるメーン』とでかでかと書かれている。
「貴方の服をふもとの家から失敬してきた時にね、一緒に貰って来たの」
 ケイは目を輝かせた。
「っ! これ『イケメン』じゃないか! うわ、これ僕大好き!」
 ナルミは「味はともかく名前が気に食わない」とか言って嫌煙していたが、ケイはこの焼きそばが好きで、よく引きこもって夜中に動画を見ている時なんかに食べていたものだった。
「そっかそっか、やっぱりねー」
 うんうんと頷くハク。
「ぁ……でも、お湯がない」
「ああ、大丈夫よ。向こうに小川があってね。キツネ火、お湯作って来て」
 キツネ火? ってああ、この人だまキツネ火っていうのか、ていうかお湯作るってそんな器用なことできるのか、と思ってケイが傍らに浮いていた人だまを見ていると、人だまは体の両脇から小さな腕を二本出してハクからカップ焼きそばの入れ物を受け取った。
そしてそのままふわふわとカップ焼きそばとともに木々の奥へと飛んで行った。キツネ火がいなくなってしまって、辺りは闇に包まれた。あとにはちょっと焦げくさい臭いだけが残された。
 ハクの姿は見えづらくなってしまったけれども、ケイにとっては逆に僥倖だった。はっきり言ってこんな至近距離でハクのような美人としゃべるなんてシチュエーションではまともにしゃべれそうになかったからだ。
「そ、そう言えば、さ。どうして『イケメン』が僕の好物だって分かったの?」
 何となく妙な沈黙が流れてしまったのでケイは取り繕うようにそう訊いた。
「え……? あ、えっと、男の子ってそういうの好きだろうなーって」
 あははーと笑うハク。ハクの「男の子」という言い方がちょっとエッチに感じてしまいケイは少なからずドキドキしてしまった。
 ――うう。せっかくおさまってきた動悸が、また……。
「えっと、そう言えば、僕、どれくらい寝てたのかなーって」
 闇の中で、「かわいいな」と思ってしまっている女の子と二人きりの状況に、何となく間が持たなくてケイはそんなことを聞いた。
 それで、ハクは何かを思い出したようだった。
「ぁ……、そうね。貴方に状況説明するのがまだだったわ。ごめんなさい、どうかしていたわ」
 ハクはそう言うと急に真剣な口調になった。
「えっと。まず貴方が寝ていた時間だけど、多分十五時間くらい。時計が無いから正確なことは言えないけれども、そのくらいよ」
「あ、そうなんだ」
 ケイの方はハクのような素早い切り替えができなくて、思わずそんな間の抜けた返事をしてしまう。
 ――そうか、十五時間か。十五時間……。え?
「十五時間?」
 ケイは周囲の闇を見渡した。
 そんなに寝ていたのか、と思う反面、もっと考慮すべき疑問が頭の中にもやもやと湧きあがってくる。
「十五時間って。日が昇って、もう日が暮れたっていうのか?」
「そうじゃないわ」
 ハクの声が低くなる。
「この町、変よ。ずっと夜のままで、朝が来ないの」


第三章  病夜 ヤミヨ


 目が段々と慣れてきた。
「状況を簡単に話すわね」
 ハクはてきぱきとそう言った。ケイがこくりと唾を飲み込むと、ハクは話し始めた。
「まず、今私たちがいる場所なんだけど、町の北に位置するお山の中腹よ。あのビルは海の近くのビル街にあったけれども、そこから北へ七キロほど上がったところにある山ね」
 ケイはあの高いビルから見た、そびえたつような山を思い浮かべた。きっと、自分は今その山にいるのだろう。北に七キロと言われればあの山を思い浮かべるのは妥当だと思えた。
 ハクは続ける。
「あのあと、貴方がビルの屋上でグール相手に戦ったあと、私は貴方をここまで運んだの。町はなかなか広かったわ。南に海とオフィス街、真中に住宅街、北に山と学校の類の施設と、やはり住宅街。西には神社と住宅街、東には教会と住宅街。まあ、ほとんど住宅街ね。その中で私たちは北のお山の中腹まで離脱してきたってわけ」
「な、なるほど」
「それで、時間なんだけど、先ほども言ったけれども、およそ十五時間、貴方が気を失ってから経過しているわ。そのはずなんだけど、星や月の位置が全く変わっていないの」
「え?」
 ケイは急いで頭上を見上げた。しかし、木々が邪魔をして三日月の位置を知ることはできなかった。
「そして日が昇っていない。私も貴方と同じように眠っていたら気付かなかったでしょうけど、ずっと暗いままよ。今、季節的には夏の終わりだし、まあそうじゃなくてもこれだけ長い間夜が続いているなんておかしいわ。きっとこれには何かしらの理由がある」
「日が、上らない……!」
 驚き半分、疑う気持ちが半分だった。日が昇らないとか、この木々はどうやって光合成していると言うのだろう? というか日が昇らないなんていうのは悪い冗談にしか思えない。
「とにかく分からないことだらけ」
 ハクはふるふると力なく首を振った。
「とにかく、私はこの町の様子を探りに行こうかと思う」
 彼女がそう言った瞬間、ケイの全身に嫌な悪寒が走った。バチリと、嫌な情景が脳裡をよぎる。だからだろうか、彼女がその後続けるであろうと予測していた「貴方はここで待っていて」という言葉を遮るように、
「じゃあ、僕も行くよ」
 などということを言っていた。
 ――え……?
 そう言ってしまったあと、ケイは自分がそう言ってしまったことに驚いていた。
 今から、ハクは危険な町に探索に行くと言っているのだ。それに何故、どう考えても足手まといでしかない自分がついていくなど言ってしまったのだろうか。
 脳裏によぎった、一瞬の光景。どういう光景なのかなんて分からない。だけど、何故か、それが血染めの、目の前に立っている女性のような気がして、気が気でなかった。きっと、理由なんてそんなものなんだろう。
 それに、危険な町に乗り出すのももっと嫌だったが、このような得体のしれない暗い森に一人取り残されるのも嫌だった。それにもしハクが探索に行ってしまったら、彼女がいつ帰ってくるか分からいままに一人でこの闇の中で彼女の帰りを待たなければいけないのだ。はっきり言って、そんなこと、精神的に耐えられそうになかった。
「本当? いいの? 町はとても危険なのに」
 しかし、予想に反してハクはホッとしたような声でそう言った。
「え? いいの? 一緒に付いていって」
 思わず訊き返す。
 正直驚きだった。彼女ならきっと「貴方はここに残って」と言いだすだろうと思っていたのに。
「ええ。町は危険。だけどこの山だって得体が知れないわ。だから、貴方はきっと私の横にいるのが一番安全だと思うの。思うんだけど、貴方の意志を尊重して、もしここに残りたいって言うなら、そうさせてあげようって思っていたの」
「で、でも、僕、足手まといになるぞ。運動なんて全然できないし、ゾンビ前にして、ビビってるだけだったし。きっと、ハクの足を引っ張る」
「貴方は確かに運動は苦手みたいね。でも、筋はいいわ。正直、私の太刀筋をあそこまで真似できるなんて、前世からの因縁レベルの話よ」
「え? 真似する? って、ああ……」
 ハクの言葉にまたあの凄惨な、ゾンビ達の残骸が転がる光景を思い浮かべて吐きそうになる。
 だが、我慢した。人前で吐くなんてみっともないし、それがハクの前ならなおさらだった。
「いや、なんか体にすっと入って来たっていうか。とにかく夢中だったし。ハクがどんな動きしてたかなんて全く理解してなかったし。えーと、そんな感じだからそんなふうに言われても」
「一応、これでも私は刀を扱う達人なの。私は『葛の葉』の称号を継ぐ予定の魔術師で、アーク――非常に強力な魔法の武器のことだけど――『朧』を扱う腕は学院では当代一って言われているわ。その私の太刀筋をほぼ完璧にまねて見せた。――正直ね、私、あそこで貴方は死ぬんだろうなって思っていたの。私の剣筋をトレースし損ねて、ゾンビに食いつかれて。もっと言えば、貴方は朧を鞘から引き抜くなんてできるわけが無いって思っていた」
 ハクはふーっと息を吐いて、続けた。
「だと言うのに、貴方は簡単に、当たり前のように朧を抜いて。そして見よう見まねで朧を使いきった。正直、貴方は優秀を通り越して危険よ」
「危険って。あの、ハク……? はっきり言って僕、そんなこと言われても、どう反応すればいいか分かんない。僕は別に運動も勉強も――その、できたためしがないし。なんか、そんなこと言われても、何て言うか、――とにかく、僕はそんなこと言われる覚えはないんだ」
「できたためしがない? やったためしがないの間違いではないかしら? まあ、私、貴方の事なんて全く知らないに等しいし、貴方からしても他人の私からこんなこと言われるのは正直良い気はしないか。えっと、ごめんなさい。気に障ったなら謝るわ」
 そう言うと、ハクは誠実に、本当に誠実にぺこりと頭を下げた。
「あ、いや。そんな謝らなくても。とにかく、僕はそんな足手まといだけど、君についていっていいの?」
「私こそ、こんな土人形の体を使っているせいで満足に動けないわ。だから貴方を守りきれないかもしれない。それでも良かったら」
 そう言って知らずに二人はお互いを見つめあっていた。
 それから何だかおかしくなって、二人はどちらからともなく吹きだした。
 焦げくさい臭いがふわりと漂ってくる。同時にソースの焦げたような良い香りが辺りに立ち込める。
 見ると、キツネ火がカップ焼きそばを小さな手に抱えてえっちらおっちらこちらに向かってくるところだった。

          ×           ×

「超能力が使えた?」
 ふわりとした銀髪を後ろに払いながら、私は訊き返した。
 暗い中、キツネ火の明かりの下で、気がつけば私たちはカップ焼きそばを二人でつついていた。カップ焼きそばはもともと彼ように私がとってきたのだけれども、彼に勧められて断り切れずに今に至るわけだ。
 ……正直な話、私の体は今土の塊なわけだから、こんなもの食べたって何の栄養にもならないのだけれども。
 彼のたわいもない話は続く。
「うん。昔はね」
 そう言って彼は、私がカップ焼きそばと一緒に持ちだしてきた割り箸を目の前に突きだした。
「こうやって、先っぽに人差し指をあてて、曲がれって念じるだけで曲げることができた」
 その割には、今の彼からは一般人並の魔力――生命力しか感じない。はっきり言って、彼が超能力を昔使えたなんて眉唾ものだ。
 私は話し半分に彼から割り箸を受け取って、彼が口をつけたのとは逆の方で焼きそばを口に運ぶ。
 あの屋上で出会った時よりも、彼――中野ケイはかなり饒舌になっていた。
 彼は――思考をリンクしていた時に少し垣間見てしまったのだが――どうやら昔手ひどいいじめを受けていたらしい。いじめられっ子と話をするのはこれが初めてだけど、こう、少し仲良くなると人懐っこくなるという性質があるのだろうか。
 いじめなんて、そうやっておどおどしているからやられちゃうんだ、と思うのだけれども、それは口には出さないでおく。
 焼きそばはどんどん無くなっていく。
 これを食べ終わったら私たちは町へと繰り出すのだ。最後の晩餐じゃないけれども、味も分からない焼きそばに愛着みたいなものが湧いてくる。
 あと数分後には、私たちは危険に満ちた夜の街への探索に出かけるだろう。
 それまでのしばしの休憩だ。
 焼きそばは、どんどん無くなってゆく。

        ×           ×

 そうして、ケイはハクとともに夜の街へと繰り出した。
 山を降りて、住宅街に入る。
「この家から色々と貰って来たのだけれども」
 ハクは山を降りてすぐ横に立っている小ぢんまりとした洋風な家を見上げていった。暗くて屋根の色は分からなかったが、壁は白色で、作りもおしゃれな感じでなんだか趣味の良い家だった。
 ケイの脳にバチリと一瞬火花が散る。
 ――やっぱり、まだ疲れているのかな。
 ハクに気付かれないように深呼吸をひとつする。
「この家、人がいなかったの。まあいなかったからちょっと横領してきたんだけどね。近くにある他の家もためしに入って見たんだけど、全部無人。猫一匹いなかったわ」
「そっか。……ということは、皆ゾンビになっちゃってるってことなんだね」
「そうかもしれないけれども、そうでない可能性もあるわ」
「え?」
「何も無抵抗でグールに食べられちゃった人ばかりじゃないでしょうってこと。生き残って、逃げおおせた人もいたかもしれない。実際、私たちはあのビルから出ようとして、生存者に出くわした」
 生存者……。その彼はその場でゾンビに食べられてしまって、もうこの世にはいないだろうが。
 ケイは再びあの凄惨な場面を思い出してしまい、気分が悪くなってしまった。
 ハクはそんなケイの様子に気がついて、しまったという顔になった。
「ごめんなさい、失言だったわ。気分が悪くなっちゃったなら、どこかに座って――」
「い、いや、大丈夫。ぼ、僕だって男なんだ。何ともない」
 彼女に弱気なところを見せたくなくて見栄を張る。すると、ハクはまたまたふっとほほ笑んでくれた。
 ハクは続ける。
「それで、生存者が他にもいるかもしれないの。だからまず、生存者を保護して、どうして町がこうなってしまったのか、分かる範囲での話でいいから、話しを聞けたらって思っているの。どうかしら?」
「な、なるほど、分かったよ。その作戦が、えっと、僕もベストだと思う。……ああ、あと僕はそういう細かい作戦みたいなもの考えるの苦手だから、これからはハクがいちいち僕に了解を求める必要なんかないよ。あの、僕は、……ハクの方針に従うからさ」
「でも、客観的に見ておかしいと思ったら一言言ってもらえると嬉しいわ」
 わかった、と頷く。
 とは言ったものの、客観的に見ておかしい云々の前に、魔術師なんて言う破天荒な存在なハクに自分が何をどうアドバイスすればいいのかなんて、てんで分からなかった。だからケイにできることは、彼女が言っていることをきちんと理解して、その上で自分にできることはきっちりとこなす、ということくらいなのだ。
 住宅街はやはり暗く、外灯の類は全て明かりが消えていた。道路は車が一台通れるかどうかの大きさだったが、驚くほど整備されていた。いや、作られてまっさらなまま、ずっと放置されていたというイメージだろうか。道の両脇には青々とした雑草が茂っている。これだけ真っ暗だというのに、どうしてこんなにも健康に育っているのだろうか。光合成ができないというのはこの類の植物にとっては致命的であるはずだ。だというのに、山の木々もそうだったが、こうも当たり前のようにそこらにたくさん茂っているというのか。
 道路には小石一つ落ちていない。車が通る公道なら色々と道路の上にはものが落ちているはずである。それが煙草の吸殻や空き缶などのゴミであってもだ。
「確か、山から見下ろした時に、向こうの方に学校があったはずよ。この辺り――北では一番大きな建物がそれだった」
 ハクは左手で朧を持ってしずしずと独特な歩き方で前へと進んでいる。ケイはハクの後ろに続く形で歩いているのだが、彼女の肩は歩いているのにもかかわらず全くと言っていいほど上下していなかった。足音も全く聞こえないし、まるで幽霊が滑るように歩いているみたいだった。きっと彼女の独特の歩法なのだろう。
 そんな彼女の歩き方がかっこよく見えて、知らずにケイは彼女の歩き方をまねていた。
「それで、その学校に行ってみようと思うの。もし助かった人がいるなら、まず誰か他の生き残りと合流しようとするはずでしょう? それで、合流するとなるとおそらくはこの辺りで一番大きな建物に集まろうとする可能性が高いと思うの。地震とか、災害があったときに付近の学校なんかに避難するのは定石だし」
 そこまで言って、ハクはちらりとこちらを振り返った。
「どうしたの?」
「いいえ。ただ、私の話に貴方ったら何の反応も示さないから、聞いているのかなって」
「あ、ごめん。でもちゃんと聞いてた。要は、学校に行くんだろ?」
「そうだけど。何か考え事? 上の空って感じだったけど」
「え? いや、そんなことないよ」
 と返す。必死でハクの歩き方を真似ようとしていたなんて言った日にはただの変態扱いされそうだったからだ。
「ならいいけれども」
 ハクは心配そうにちらりとケイをもう一瞥してから再び前に向き直った。
 ――くだらないことやってないで、今は気を引き締めなくちゃ。
 ケイは目を閉じて息を吐くと、ハクとの会話に集中することにした。
「――それでもし戦闘になったら、貴方は下がっていて」
 ハクは左手に持つ朧を見やった。
「今の私は完全ではないけれども、グール程度は普通に倒せる自信があるわ。もっとも大勢に囲まれたらちょっとまずいかもけど。たかられたら振り払う自信ないし……」
「たかられるって……。ハクの体は土でできているのに?」
 食らいついても土しか入ってこないだろうに、と。
 そうケイが自然な疑問を口にすると、ハクはふるふると首を振った。
「あのグールは言ってみれば吸血鬼みたいなもので、対象の精力とか魔力とかの第三要素を食べて体を動かすための栄養にしているの。つまり、魂食い(ルビ:ソウルイーター)ね。アレらはその過程で血肉を食べているにすぎないわ。もちろん、血肉を分解して得られるたんぱく質等も多少なりとも栄養にしているでしょうけれども、それは本当に微々たるものよ。だから、微弱な生命力――魔力しか持っていない貴方は、私と比べてむしろまずそうに見えるはずよ」
「よく分かんないけど、じゃあ、ハクの方が狙われやすいってことなのか?」
「そうなるわね。まあ、私の体には血が通っていない分、噛まれたくらいで一発アウトってことにはならないだろうから、貴方よりは条件がいいはずよ。……ただ、噛みつかれて、土のボディをはがされて、この人形の核――魂を入れている芯を潰されたらおしまいだけどね。魂を食べられちゃったら、まあ死ぬしかないわけだから」
「死ぬしかないって、そんな軽い調子で」
「私は別に死に急いでいるわけではないの。ただ、貴方にきちんと現状を理解してほしいだけ。何が言いたいかって言うとね。私にもしものことがあったら、私を見捨てて逃げなさいってこと。私がまだ生きているとか間違って思っちゃっていると、貴方まで危害が及んでしまうわ」
「見捨てて逃げろって……」
 ここでそんなのできるわけがない、などと言う無責任なことは言えなかった。あのゾンビ達に囲まれて、ハクがやられたら、自分はきっと一目散に逃げ出すだろう。だから特にハクの言葉を特に否定することもなく、お茶を濁す形になってしまう。
「これは約束。私がやられたら、一目散にあの山に逃げ帰りなさい。あそこは、グール達が当然のように闊歩しているこの町よりは安全なはず。わかった?」
「……」
 ケイが黙っていると、ハクは明るい調子で言った。
「それでいいわ。死にそうになったら、できたらだけど、この朧を貴方の方へ投げてよこすつもり。貴方は朧を受け取って、森に逃げ帰る。最悪、重かったら朧は捨てても構わない。とにかく自分が助かることを最優先にして。――ってまあ、もちろん死ぬ気なんて全くないから安心して」
 ケイが暗い表情でハクの方を見ていると、ハクはそう付け足した。
 そんなハクに内心で突っ込む。
 ――ハク、あんたが死んだら、
 その後僕にどうやって生き残れって言うんだ。馬鹿。

         ×              ×

 予感があった。きっと、もう自分は引き返せないところまで来てしまったのだと。
 生きているにも関わらず、何故か死を理解してしまう。
 こめかみに痛みが走る。
 夜の闇の中を学校へ向かう。キツネ火の青い光を頼りに前に進むハク、その後にひたひたと続くケイ。
「もうすぐね。ほら」
 虚ろなハクの声が聞こえてくる。
 夜の闇にはいつしかミルクのような靄が混じり始めていた。視界が余計に悪くなる中、ケイは目を細めて前方を見やった。
 いくつかの背の低い住宅を上から見下ろすような黒い校舎。
 見慣れた道路。
 見慣れた、通学路。
「ハク。ここがどこなのか、僕知ってる」
 憑かれたにケイはそう言った。
 そうだ。あの山からして見おぼえがあったはずだった。町にある建物の配置を聞いた時に気が付くべきだった事実。山から下りてふもとで見た、こぎれいな洋風の住宅を見て気がつかなければ行けなかった。
 そして、この通学路。
 長らく引きこもっていたからすぐには気が付けなかった。
「ここ、僕の住んでる町だ。――花田市。間違いない。やっぱり、この道は間違いようもないよ」
 頭に痛みが走ったり、妙な違和感がしたりしたのは、このためだった。自分は、今自分がいる場所の事を少なからず知っていたのだ。
「なっ、――何ですって? 本当なの、それ?」
 今まで単調に歩いていたハクがすごい勢いで振り返ってくる。
「ああ、本当。本当なんだ。だって、ここ、通学路なんだここを曲がって南へ下って行くと南都心の駅に着いて、それで、ここを曲がらずにまっすぐ行くと、僕の家がある」
 こめかみを押さえる。なんだか、ものすごく頭が痛かった。痛すぎて気分が悪かった。
 ……たすけて。
「っ!」
 バッと顔をあげて周囲を見渡す。
「それは、また重要な事実が明るみに出たわね。ということは、貴方に――」
 ハクはそこでケイの表情を見て血相を変えた。
「って、ねえ、大丈夫? 貴方すごく顔色悪いわよ。今にも倒れそうなくらい真っ青だし、汗だってすごくかいてる。どこかで休んだ方が――」
 ……たすけてよ!
「ッ! 声が聞こえるんだ! 助けてって! ほら! 聞こえるだろ!」
「声? いいえ、何も聞こえないわ」
 ハクの心配そうな声が聞こえてくる。それにうわ言のように返事をした。
「ぼ、僕はいいんだ。それよりも、この声を助けないと、いけない、気が、す」
 ズキン、と。ケイの脳みそが膨張して頭蓋骨にぶち当たるような感覚。
「あッ、ぐッ……」
 思わずその場に両手両膝を着いてしまう。
「ッ! ちょっとケイ! ……熱は無いようだけれども、脈拍がすごく速い。ちょっと待ってね」
 ハクがケイを助け起こして肩を貸してくれる。
「少し我慢して。どこかに休める場所を――――――」
 そこで、唐突にハクは言葉を切った。ハクは肩を貸していたケイを近くの電柱棒のところまで運ぶと、そこにもたれかけさせた。
「ハ、ク……」
 こめかみに走る痛みにあらがって、うっすらと開いた目でハクを見る。しかしハクはもうケイを見てはいなかった。
「………………」
 ハクは遠く――南の方角を睨んだまま、ゆっくりとケイから距離を離していった。
「ハク……? ッ!」
 そこで、唐突に悪寒が走った。
 姿は見えない。気配を感じるなんて高尚なことはケイにはできない。
 しかし、そんなことなしに、ケイの全身に悪寒が走った。
 ハクが無言で日本刀――朧の鯉口を切る。
 ――何か、来る。
 ただ、それだけは分かった。
 ――何か、よくないものが、来る。
「……貴方は下がっていて。戦いが始まっても、決してそこから前には出ないように。何があろうと、絶対に近づけさせないから」
 強く静かな声で、ハクはそう言った。
 ケイは南の空の一角、靄に包まれた夜闇を見た。
 霧が揺らめく。
 そして、黒い闇が滲み出るように、それは彼方より飛来してきた。
「GAAAAAA!!!」
 地を揺るがす絶叫。
 爆音。咆哮とともに靄を切り裂いて出現した黒い影はハクが繰り出した神速の迎撃と衝突し、巨大な火花を散らせて後方へと弾かれた。
「な……!」
 それは、巨大な黒い狼だった。背中には黒いコウモリのような翼を生やし、全身は固い剛毛におおわれた、小山と見まがうほどの巨獣だった。
 獣が後方、ハクと二十メートルほど離れたアスファルトの上に着地する。
 地軸を揺るがしたかのような振動。
「GAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!」
 それは鳴き声、だったのか。否、あのような物は断じて鳴き声などではない。
 もはやそれは咆哮だった。
 巨大な狼は頭を天に向け、固い筋肉が隆起する両腕を両肩の脇に広げ、天に向かって吠えたける。
 二本の足で立つその姿は伝承にいう人狼のそれだった。
「ッ、は、ハク……!」
 ケイの声に応じるかのように駆け抜ける銀の閃光。
 やや開けた校舎前の道路。その中心で吠えたける巨獣に向かって縦一文字に疾駆するハク。
 ハクは狼の間合いの内に自ら飛び込んでいく。それは、黒い狼との戦闘でケイをその渦に巻き込まないための絶対不可欠の突進だった。
 ハクの両手に握られる朧がまるで間合いを二倍は拡張したかのように不自然に空間を切り裂く。しかし、狼の爪も信じられないくらいに長く、そして固かった。二足でアスファルトの上に立つ黒い獣は、ハクの神速の斬撃をこともなげに弾き返していた。
 高い金属音が響き、火花は瞬間的に周囲を明るく照らす。
 初撃を弾き返されたハクはこのまま押し負けるつもりはないとそのまま煌めく銀の閃光をひるがえす。
 大地が振動する。
 繰り返される斬撃は重く、より早く、まるで終わりに向かって滑り落ちるかのようにいよいよ激しさを増していく。
 巨獣の剛爪の破壊力は致命的だった。いったいどのような成分で構成されているのか、アスファルトや周囲のブロック塀や電柱棒をまるで削岩機のように摩耗させていく。
 あんなものをまともに受けては、ハクはひとたまりもあるまい。いや、あの致命的な爪に当たらずとも、あの丸太のような巨腕にさらわれるだけで芥子粒のように弾き飛ばされるだろう。
 どのようにしてあのようなものを受けきっているのか。
 ハクは狼の繰り返される猛攻に一歩も引かずに剣舞を続ける。
 舞う。蝶のように優雅に。しかし、迎撃は常に刹那のタイミング。受け流し、渾身の力を込めて、大地をも殺すかのような裂ぱくの気合いで。
 ――なんて……、
 舞う。踏み込み、わずかの間に目まぐるしく足を捌き、隙あらば蜂のごとく鋭く貫く。
 ――なんて、美しいんだ…………!
「GAAAAAAAAAA!!!!!!」
 巨獣が再度咆哮を上げる。その攻撃が一時停止する。その間ハクは残像すらも残すかのような勢いで一息の内で七つの斬撃を繰り出す。
 右眼、左眼、首、心臓、睾丸、両の太ももの付け根。
 しかし、黒い獣は叩き潰す。頭上に掲げた両腕は明らかに間に合わないはずが、悠々とハクの七殺する斬撃をたたき割る。
「ッ」
 ハクは焦りを浮かべていた。
 いけない、この化け物は自分の手に余ると。
 もし体がこのような土暮れでなければまだまともに戦えたかもしれない。しかし、自分の予想するよりも明らかに遅れる形で動くこの体は、次第に狼の連撃を受け流すのが精いっぱいになっているのが分かる。
 狼の旋風が彼女の渾身の斬撃を弾き飛ばす。
 でも、と。彼女は自分の背の後ろで戦いを見守っているであろう少年の姿を思い浮かべる。
 ここで負けるわけにはいかない。自分が倒されれば次はあの少年だ。そんなことになればあのようなひ弱な少年などそれこそ紙きれのように消し飛ばされてしまう。
 負けてはならない。死ぬのは、自分だけではないのだ。
 斬撃を再度弾かれる。そのまま後方へ弾き飛ばされかけ――しかし踏みとどまり、新たな斬撃を繰り出す。
 押し負けない。絶対に。
 ここで退いてはならぬと、猛る獣を押し返す。
 ケイはそんな彼女の必死の攻防を後ろからただ眺めていた。ただ眺めているだけの自分がとてつもなく悔しかった。
 ――駄目だ……! ハクが押し負けている!
『私にもしものことがあったら――――』
 脳裏によぎるハクの声。
『――――私を見捨てて逃げなさい』
「ッ! そんなこと、できないよ!」
 しかしもう彼女は限界だった。傍から見ていてもそうだった。ハクの呼吸は荒く、さらに速度を増す狼の前にだんだんと速度を失いつつある。
 もう一太刀で狼の斬撃を二つ受け流している。終わりはもう目に見えていた。
 振り払われる巨獣の凶(ルビ:まが)つ爪。
 それに、ハクがついに大きくバランスを崩してしまう。
 黒い流星もかくやと思われるほどの獣の返す刃がハクの頭上から落下する。
「ッ」
 ゼロの刹那、身をひねったハクの右腕――利き腕を削りながら剛爪はアスファルトを深くえぐった。
 そこに、千載一遇の隙が生まれた。ハクはその左手一本で持つ朧を閃かせる。狼の足元から逆袈裟に切り裂かんとする一撃。
 しかしその一撃もかわされる。大きく後ろに跳躍する人狼。
 ――駄目だ。
 せっかくの機会が水の泡だ。一瞬のうちに訪れた必殺の瞬間。それをやすやすとかわされてしまった。これでまた仕切り直しになってしまったら、消耗したハクは今度こそあの猛攻を受けきれずに文字通り叩き潰されてしまうだろう。
 だから、決めるならば先の刹那だった。それを逃せば、もう――
「ハク、もういい!」
 と、ケイはそう叫びかけた。もういいから、逃げろと。君が戦ったところで勝てないと。だから、せめて自分をおとりにしてその間に逃げろと。
 死におびえる自分を抑えつけて、ケイは叫ぼうとした。だが、
「私に当たるものは死。私を見るものは盲」
 いつの間にか左手に白い短冊のような紙を手にしていたハクが、にっと笑っていた。早口で紡がれる呪文はいかなる効果を成すのか。既に彼女は狙いを今アスファルトに着地した巨大な狼に定めていた。
「律令の定めのように、速やかに――」
 ハクが定型句を詠唱する。詠唱の終節とともにハクの左手にあった幾枚もの白い紙束が矢のように狼めがけて飛んでいく。
「GAAAAAAA!」
 狼が吠える。しかしそれは今まで放った威嚇の咆哮とは異なるものだった。白い紙群が黒い獣の両目に強風に押し付けられたかのように張り付く。一瞬にして視界を奪われた巨獣がバランスを崩す。
「火気纏う使徒、すなわち南方より来りて、令滅不祥の力を示せ。律令の定めのように、速やかに」
 陰陽道と呼ばれる奇跡。再び紡がれる高速の呪言。ハクの手にある日本刀、朧がドクンとひとつ脈打つ。狼の足元に巨大な六亡星が青い線でもって出現する。
 瞬間、狼の足元から青い業炎が噴き出した。
「GYYYYYYYYY!」
 市街地にこだまする、血の凍るような絶叫。狼はその全身を青い炎に焼かれ、苦痛に吠えていた。
 彼女は最初から狼と近接で戦うことは無謀と知っていたのだ。だというのに無謀にもその間合いに自ら飛び込んでいった。それはひとえにケイを戦闘に巻き込まないためであり、そうでなければ、あの位置取りで既に勝負は着いていたのである。遠距離に対する攻撃手段を持たない黒い狼は、遠距離から、術を行使する彼女の魔法に対抗する手段は無いのだから。
 故に、はじめからハクの狙いは狼を後方へ押し返すこと。
 だから、巨獣がとどめの一撃を外した時点で勝敗は着いたのである。
 しかし、彼女は小さく舌打ちした。
 やはり、自分ではあの巨獣を殺しきれない。
 狼は、その体を青い炎に焼かれながら、少しずつ再生していた。あれはもう、腕を飛ばすとか、目を潰すとかそのレベルの欠損を与えなければ傷を治癒してしまうような化け物である。
 だから、現段階の彼女では、どうあっても遠距離からの術式だけでは到底殺しきれない。
「GAAAAAA!!」
 それは苦痛に吠えているのか。まるで脳を犯された狂狼がごとく、狼は青い炎に全身を焼かれながら暴風のようにハクに向かって突進する。
 しかし、獣がそう来るであろうことは彼女も分かっていた。だからこそ、彼女は全身全霊をもってする最大の一撃で黒い台風を迎え撃つ。
 朧よ、力を、――と。
 ケイは再び、ハクの持つ朧がまるで刀身を数倍に伸ばしたかのような錯覚に見舞われた。
 ギン、とハクの眼が危険な光を灯す。
 それを本能で感じ取ったのか、狼は両足でアスファルトをえぐり取るかのように急停止した。
 びちゃり、と濡れた音がやけに大きく響く。続いて、巨獣の苦痛の咆哮が闇空を貫いた。
 ケイが見ると、突進を止めた狼の右目が深く鋭利な切り口で抉られていた。
 狼は一際巨大な咆哮を上げると、背中の禍々しい翼を広げ、一気に暗い空へと霧を裂いて飛翔した。それからそのまま空中で威嚇するようにこちらに向かって一声なくと、そのまま南の方角に向かって飛び去って行った。
 ハクはしばらくの間、狼が飛び去って行った方角をじっと見据えていたが、引き返してくる気配が無いと判断したのか、ケイの方に踵を返して駆け寄って来た。
「ごめんなさい! 頭の具合はどう?」
 それから、まるで何事もなかったかのようにアスファルトに朧を置いてかがみこんで、ケイの身を案じてくれた。
 頭痛のことを聞かれ、そんなものもうとっくの昔に消えてしまっていたことに気がつく。
「治った、みたい」
「そう。よかった」
 これが本当に、今まで死闘をしていた人間のする反応なのか。ハクは淡いほほ笑みさえ漏らしながら、ケイを助け起こしてくれた。
「あ、あの、ハク、――怪我とかは」
 無いの? ときちんとした文章を口から紡ぎ出すことができず、もごもごとうだつの上がらない発音をしてしまう。
「とりあえずは大丈夫。だけど、ちょっと――――ッ」
 ハクがケイの背後の空間を見て顔をひきつらせる。
「く……」
 ケイがつられて後ろを振り返ると、闇の中から数体の人影がすぅーっと出てくるところだった。
 血まみれの全身。のどや頬を噛み切られたおぞましい姿。ゾンビだった。
「あの程度なら、すぐにすませられるわ」
 ハクはそっとそう呟くと、朧を手に立ち上がった。
 そのまま右手で朧を持って突風のようにゾンビ達に間合いを詰めていく。
 あの程度の数なら本当に問題はないだろう。何せ彼女は、いきなり現れた山のように大きな狼を奇しくも撃退せしめた腕前の持ち主なのだから。
 そのハクのふるう朧が、先頭のゾンビの頭上から滑り落ちる。そして――、
 そして、狼との戦いでもろくなっていた彼女の右腕は、握っていた朧ごとぼろりとアスファルトに崩れ落ちた。
「あ――」
 それは、ケイとハクとどちらの声だったのか。
 一瞬のうちにハクはゾンビ達によって地面に押し倒されていた。
「ッ! ハクッ!」
 考えるより先にケイの体は動きだしていた。ケイは寄りかかっていた電柱棒から立ち上がって駆け出していた。

       ×               ×

「来るな!」
 鋭いハクの叫び声。同時にケイの足元に朧が転がってくる。朧を右腕ごととり落としたハクが左手ではじいてよこしたのだ。ハクは今や弾いた左手もゾンビに抑えつけられている。
 ハクの思わぬ剣幕にケイは立ち止まってしまった。
 ゾンビは全部で五人だった。眼鏡をかけた男のゾンビや、太った背の低い男のゾンビ。その後ろのゾンビ達も次々にハクの体の上に覆いかぶさっていく。ハクの体が紛いものと気付いてか、ゾンビ達は、ハクの『核』を探しているのか、まるでハクの体臭を嗅ぐかのようにその顔をハクの顔に這わせた。
 魂食い(ルビ:ソウルイーター)。やはり、ゾンビは、血肉だけではなく、精神的要素もむさぼると言うのか。
「早く、逃げなさい! ぁ……ん」
 小太りのゾンビがうめき声をあげながらハクの胸に顔をうずめる。どうやらとらえた極上の獲物の魂がどこにあるかを突き止めたらしい。
 その、ハクに手と顔とをこすりつけるゾンビの姿に、ケイは言葉には表せないほどの激しい感情がふつふつと体の内に燃えたぎるのを感じた。
 脳みそが沸騰したみたいに熱かった。
「っ! この――放せぇぇぇぇッ!」
 気付いた時にはケイは足下に転がっていた朧を拾い上げていた。そのままハクの体の上に覆いかぶさっていたゾンビの頭を殴りつける。飛び散る濁った血液にまた胃の中のものを全部吐き出しそうになる感覚。
 ゾンビが皆ハクに覆いかぶさっているのが救いだった。朧を執拗にハクに覆いかぶさるゾンビにまるで畑を耕すかのように叩きつける。
 しかし、
「っ!」
 不意にケイの右足に何かがからみついた。見ると、それは三本のゾンビの手だった。ネズミ色に変色した腐敗だらけの手が、まるで万力のようにケイを締め上げる。
「アッ――」
 そのままあっけなくケイはアスファルトに引き倒されていた。
 ハクに乗りかかっていたゾンビが次々とケイの体にのしかかってくる。そして、
「ひ、ぎぃぃぃぃ! いた、痛いぃ!」
 気付けば右足と頭をかばうように前に出した両腕に激痛が走っていた。見れば、激痛の走った個所にゾンビが噛みついていた。
「ふっ」
 その時、ケイの隣でハクが覆いかぶさった二体のゾンビを蹴りあげるのが見えた。ハクは素早く立ち上がると、華麗な足蹴りでケイの体に噛みついた三体のゾンビを蹴り飛ばした。
 恐ろしいことに蹴り飛ばされたゾンビ達は反対側のブロック塀の真ん中くらいの高さまで高々と宙を舞い、固い塀にぶつかってゴキと嫌な音をさせた。つぶれたトマトのようにぐちゃぐちゃになってブロック塀にお腹からこびりついているゾンビもいた。
 どうあれ、ハクはただの一度の蹴りでゾンビ三体を戦闘不能にしてしまった。ハクに覆いかぶさっていたゾンビはケイに頭を切られたためか、弾き飛ばされてからピクリとも動かなくなっていた。
 ケイの右足と両腕から痛みが引いていく。
「ケイ!」
 ハクが全身にゾンビのどす黒い返り血を浴びているという猟奇的姿のままケイにかがみ込む。それから有無を言わせずケイのジーパンとパーカーの袖とをたくし上げた。
 ケイの体にはくっきりと歯型が着いてこそいたが、皮膚が破れているところは見当たらなかった。それを確認してか、ハクは大きくため息を着いてから、
「どうして戻ってきたりしたの? 約束したわよね? もしものときは私を見捨てて逃げるって」
「で、でも」
 ハクのものすごい剣幕に押される。
「でも、何? 貴方もう少しで殺されるところだったのよ。分かっているの?」
 ハクの声は静かだったが、殺気にも似た感情が彼女の全身からほとばしっていた。それは今や青いオーラとなって触れることすらできそうだった。これは、彼女の魔力なのだろうか。先に見た青い炎さながら静かに激しく燃えているようだった。
「で、でも、あそこで放っておけなかったんだ!」
 ケイは厳しい瞳のハクを直視できず視線を横にずらしながらそう言った。
「放っておけなかった? あのね、この際だから言っておいてあげるけれども、私と貴方はあくまで他人よ。こうして協力しているのは、この異常事態だからこその話。もともとは赤の他人なの。そんな私に、さっきみたいな自殺行為も同然なことまでする義理は無いの。分かってる?」
「で、でも僕が助けなかったら、ハクもやられちゃってたかもしれないじゃないか」
 ケイがそう言うと、ハクは静かにケイを見据えた後、
「そうね。だから、もうこれ以上は私からは何も言えないわ。貴方に助けられたのは事実だし。感謝しているわ。……その、ありがとう。助かったわ」
 と、素直に頭を下げた。
「あ、いや」
 なんだかそんないきなりに、頭を下げられても困ってしまう。
「でも、もうこんなことはしないで。いい?」
「それは――」
 ここで分かった、と頷くのは簡単だったが、正直もう一度先程のような状況になればきっとまた同じことをしてしまうんだろうな、という予感があった。一度体験したからこそ言えるが、女の子があんな風に押し倒されるのを見て、そのまま背を向けて逃げられるような精神を、ケイは持ち合わせていなかった。
 だから、ハクの懇願するようなその一言にも思わず頷けずにいた。
 ハクはそんなケイの様子を見て、これ以上の言い争いは不毛と考えたのか、さっと立ち上がった。
「ハク――」
「とりあえず高校の中へ行きましょう。私も、今この人形の核がむき出し状態になっているの。グールの血に汚れた個所も、全部新しいものにしたいし」
 ハクはいつもの調子でそう言うと、胸に右手を添えた。
 その指の間から、紅い、ガーネットにも似た宝石が暗い光を放っていた。
 思わずその禍々しい輝きにぎょっとなってしまう。
「ハク――それ……」
「ああ――これが人形の核よ。――ちょっと趣味悪い色だけど、私はこのダークな色が好きだったりするわ」
「そっか」
 何故か、ケイはその色が好きではなかった。何と言うか、生理的なレベルの話だろうか? とにかく嫌だった。
そんな不快感をかき消すようにケイは口を開いた。
「えっと、そんな宝石、どこから持ってきたの?」
 ハクの胸に浮いている紅い宝石はこぶし大程の大きさがあった。もし本物の良質な宝石ならものすごく値が張るに違いなかった。
「これは宝石なんかじゃないわ」
 ハクは自分の胸を見下ろしながらそう言った。
「これは貴方の血でできているの」
「へ――――?」
 ――今、この人なんて言ったの……?
「魂の器はやっぱり人間の肉体が多少なりとも必要なの。そう言うわけで貴方が寝ている間に血をもらったわ。ごめんなさいね」
「ちょ、もらったわって……」
 なんだかすごく軽い謝罪である。
 怒るべきなのだろうか。いや、怒るべきなのだろう。しかし、狼を撃退し、ゾンビを倒し、ハクに怒られた後だということもあって、そう言う気分にはなれなかった。結果、
「まあ、いいけど」
 なんて気付いたら許していた。

      ×            ×

 校庭に足を踏み入れると、ハクは早速体の修復を始めた。ケイは少し手持ち無沙汰になりしばらく見ていなかった学校を見た。
 学校は、やはりというか、ハクの予想とは違い、人のいる気配は無かった。
 校舎の窓はすべてきちんと閉められていて、学校全体が暗い闇に覆われている。校舎はケイが知っている物よりも幾分かこぎれいだった。
 さらに言うなら、まるで後夜祭をしたあとが無かった。後夜祭の準備をした後もないし、前日の文化祭の一日目を行ったあともなかった。
 ――ナルミ姉は、無事なのかな。
 そうぼんやりと考える脳内にケイの本能がはっきりと真実を告げる。
 嘘をつけ。お前はもう気が付いているんだろう? ここには何もないと。それはこの町を見て、高校を見て、明らかではないか。まだ、目をそらし続けるの――
 ――……。
 ケイは深呼吸した。
 気付いている? 馬鹿な。自分は未だにどうして町がこんなことになっているかすらも分かっていないのに。というか、そもそも気付くって何に気付くって言うんだ? 何をもってここには何もないなんて結論が出てくると言うのだ。
 ケイはもう一度深呼吸した。
 それにしても、まさかここがケイの住んでいる花田市だとは全く気がつかなかった。ずっと夜が続いていることもありビルの上から町を見回した時には気付けなかった。山から下りたときに町北部の様子を見て気付ければよかったのだが、やはり暗かったことと、ケイがほとんど引きこもり生活を続けていたせいもあって気付くには至れなかった。
 気がついたのは学校へと通じる通学路に差しかかってから。
 もう少し早く気付いていたなら――気付いていたら、何ができたと言うのだろう?
「っ」
 ――まただ。
 また頭の中に電気が走る。バチリと火花が散る。頭が少し痛む。
 ――別に、もう違和感なんて無いじゃないか。なのに、どうして。
「ケイ」
 声に振り返ると、体を校庭の土で体を修正し終わったハクが手を腰にあてて立っていた。
「お待たせ。一応体の機能上は問題無いように修復したつもりなんだけど、外見上どこかおかしいところはない?」
 ケイはちらりとハクを見た。何だか以前より少しだけ胸のふくらみが大きくなったような気がしないでもないけれども、ハクの姿に特に変わったところは無かった。
「別にないよ」
「頭の具合はどう? 顔色がまた悪くなっているけれども」
「大丈夫」
 これは若干嘘だった。先ほどから何を訴えようとしているのか、執拗に頭痛は続いていた。しかし、我慢できないほどではないし、些細なことで彼女の気を煩わせるのも気がひけたので黙っておくことにした。
「そう。それで、いきなり本題に入るけれども、貴方ここは自分の住んでいる町だって言ったわね?」
 ハクはてきぱきとそう言った。ケイが頷くとハクは続けた。
「貴方の街、何か異変は無かった? 何でもいいの。こうなる前、何か変わった事は起きてなかった?」
 ケイは屋上で目が覚める前の町を反芻しようとした。反芻しようとして、不意に町になんて自分は滅多に繰り出さないことに気付いた。
「……ごめん。僕、ほとんど家に閉じこもりっきりだったから、町の事はよく分かんないんだ。でもそんな目だっておかしな騒ぎは無かったと思うよ」
「そっか。――じゃあ、貴方、まずやっておきたいこととかないの? お父様やお母様の消息を確認するとか、家に置いてある大切なものを取りに行くとか」
 ドクン、と。また頭に衝撃が走る。
「……いや、その大切なものとか、ないし。こんなことになってたら、通帳や印鑑なんか持ちだしても意味無いし」
「でもお父様とお母様のこと、探さなくていいの? こんなこと私が確認するまでもなく、まず貴方が私に言いださなきゃいけないことのはずだけど」
「僕には――」
 ケイの頭に火花が散る。思考に靄がかかる。
「義理の父しかいない。その人も、今は海外の外資系の会社にいる」
 ケイがそう言うと、ハクは一瞬驚いたような顔になった後、納得の表情を浮かべ、ついで申し訳なさそうな顔になった。
「ぁ、――ごめんなさい。私ったら不躾なことを」
「別に。ただ――」
「ん?」
「いや、何でも無いよ。それより、これからどうするの?」
 ケイがかぶりを振ってそう言うと、ハクは少し考えたあと口を開いた。
「とりあえず学校を探索しましょうか。探索しながら現状を整理しましょう。さっきの狼のことも気になるしね」
 ハクはそう言うと校舎に向かって歩き出した。ケイも慌ててその後を追う。
「さっきの狼と戦って思ったんだけど、ここを探索した後は私の体を探すのを優先したいの。この町から出てどこかに助けを求めるにせよ、このまま町の探索を続けるにせよ、途中で狼ともう一度再戦することになる可能性が高くなるわ。いいえ。最悪あんなのが他にもいて、そいつらと戦うことになる可能性も大いにありうるわ。だから、こんな土暮れの体ではなくて、私のオリジナルの体を探さないといけない」
 なるほど、確かに先程は狼を辛くも撃退したが、一歩間違えばハクは負けていたかもしれなかった。次に偶発対峙したときにも確実に撃退できるようにまずは元の戦力――体を取り戻したいと言っているのだろう。
「オリジナルの体か……。でもその体、この町にあるの?」
「多分。えっとね、術を起動させるのは魂で、体は世界に働きかける機械みたいなものなんだけど――。って、良く分かんないわよね。分かりやすく言うとエアコンのスイッチを入れる手が魂でエアコンが体、部屋の空気が世界とか現象。私たちがエアコンのスイッチを入れて部屋を温かくするように、魔術師もそうやって術を行使するの。だから、体が無いと魔術行使はできないんだけど、私はかなり限定されているとはいえ、術が使えた。ということは、私の体はそう遠くないところに眠っているはず、ということになるの」
「さっぱり分かんないけど、とにかく町のどこかに体はあるってことなんだね」
「ええ」
 ハクはこくりと頷いた。
「ま、それもグールやさっきの狼に食べられていなかったらの話だけれども」
 さらりとそう言うハク。
「食べられていなかったらって。ハク、自分の体が心配じゃないの?」
「そんなの心配に決まっているじゃない。ただ、それよりも貴方の安全を優先しているだけよ」
「あ……」
 そうだった。なんだかんだ言って、ケイはハクに保護されている状態なのだ。それを放棄してハクが体を探しになんて行ってしまったら。
 ケイの表情を見てハクが続ける。
「昇降口から入るわ。今鍵をこじ開けるから、待ってて」

         ×           ×

 学校の中は、やはり全くと言っていいほど人の気配が無かった。
 暗い廊下は、掃除をした後というか、新しく作られてすぐのように青いキツネ火の炎を反射していた。まるで大理石のように艶やかな、ワックスがけされたばかりの廊下。そこには小さな傷一つなく、全くと言っていいほど使われていた形跡が無かった。
「……おかしい」
 ハクがぽつりと呟く。
「全く人がいたっていう形跡が無い。ケイ、確認するけれども、貴方が屋上へ飛ばされる前、本当に町は普通だったの?」
「う、うん」
 訝しがるハクの声に、やや自信が無くなりながらもケイは頷いた。
「だとしたら何が起きているの? 建物――いえ、道路だってそうだった。まるで使われた痕跡が無い、作られたばかりのような整備のされよう……。誰かが異常ともども綺麗に消して隠滅している? いえ、そんな強力な魔法、絶対にあとに魔力の残り香が出るはずだし」
 ぶつぶつと考え込むハク。
「――――」
 ケイはそっと周りの様子を見た。ここは三階の廊下。もうすぐ全ての教室を見て回ることになる。やはりというか、結局人はいなかった。いや、人がいたという痕跡すら見当たらなかった。
 確かに文化祭は行われていたはずだ。何より、ナルミがお土産を買ってきてくれて、そのお土産の焼きそばだって夕飯のテーブルに並んでいたのだから。
 祭りは行われていたはずだった。たとえ、その途中であのゾンビ共がやって来たとしても、痕跡は絶対に残るはずなのだ。出ていた屋台はきっとそのままだろうし、ゾンビに襲われた人がいたならば、血痕だってそのあたりに飛び散っていてもおかしくないはずだ。
 校舎内でも恒例とも言える喫茶店やお化け屋敷を用意していたクラスはきっといたはずだ。だというのに、教室はまるで四月のそれのようにきちんと机が並べられ、椅子がその下にしまわれている。教卓はそんな机群のちょうど真ん中に配置され、黒板はチョークの汚れなど知らないかのように綺麗な深緑色をしている。
 窓の外には暗い校庭とその先に広がる住宅街。そこに白い粉のような霧が黒い闇に融けて余計に見通しを悪くしている。
「これで、全部ね」
 最後の教室を見て、ハクはそう呟いた。
「結局、人はいなかったね」
「ええ……。でもこの辺りの人が全員グールにやられちゃったとも思えないし、助かった人が自分の家に閉じこもっているともあまり考えられないわ。と言うことはみんな町の外へ避難したのか……。いいえ。それ以前にこの町自体が変なのよ。日は昇らないし、道路とか、住宅の中とか、この学校とか。まるで人が住んでいるモノとは思えないわ」
「あれ? でも、今僕が着ている服って、その住宅から持って来たんだよね? カップ麺だって置いてあったから持って来たんでしょ?」
 率直な疑問を口にする。
「ええ。私があの家に入ったときは、他の家とは違って微妙に生活のにおいがしたのよ。ちゃんとお風呂場にはカビが生えていたし、台所は油で汚れていた。冷蔵庫の中はケチャップしか入って無かったけれども、腐ってはいなかった。二階の寝室には洗濯された服がクローゼットの中にきちんとハンガーにかけてあった。ベッドの上の枕だって微妙にずれていたし」
「え……」
 それは、つまりその部屋に人が住んでいたということだろうか。
「だから、おかしいの。あの家は確かに使われていた痕跡があった。だけど、他の住宅は誰かが足を踏み入れた痕跡すらなかった。だというのに塵一つ埃一つなかった。この学校だって同じよ。使われていなければおかしいというのに、使われていない。まるで新築の校舎だわ。これはきっと、誰かが意図的に町をこんなふうにしているに違いない」
「誰かって、誰なのさ……?」
「それは分からない。でも、グールやあの凶暴な狼を作った奴と同一人物か、仲間よ。十中八九ね」
「そいつらがこの町のどこかに潜んでいるって言うのか」
「ええ。それがあの山のふもとのおしゃれな家の主人だとは思いたくないけどね。とにかく、これだけ大規模な術を使っているのだからそう遠くから操作しているはずが無いわ。だから、――おそらくそいつを何とかすれば事態は収拾できる」
「っ! 本当か! なら、今すぐにでもそいつをやっつけに行くべきなんじゃないのか」
「行くって、そいつがどこにいるのかも分からないのよ。それに、それが分かったところでまだ仕掛けないわよ。――悔しいけれども、今行ったところで逆に八つ裂きにされるだけだわ。あの黒い狼、さっきは何とか撃退できたけれども、あれもかなり幸運だったから。正直な話、あの狼は今の私の戦闘能力を大幅に上回っている。ただ獣だから無駄な動きが多いし、知恵もあまり回らない。だから何とか隙をついて撃退にまで持っていけた。相手の駒一つに対しても勝てるかどうか分からないレベルだって言うのに、そこに敵の魔術師が加わったら歯が立たないに決まっているわ。加えて言うのなら、敵の所有している狼はあの一体だけじゃないかもしれないしね」
「そうか、それで、まずハクの体を探すってことか」
「まあ、私の体が戻ったところで戦力不足は変わらないけれどもね。私が早く体を取り戻したい理由としては、そろそろ私の体の生命維持が危ないかもしれないからよ。ずっと魂が無い状態で体だけ放置してあるんだもの。仮にグールに食べられていなかったとしても、そんな状態では体が死んでしまうわ。ちょっとヤバい状況ね、うん」
「――――死んでしまうって、それ普通にヤバいじゃないか! いや、うすうす大丈夫なのかなって思っていたんだよ。でもハクが平然とした顔をしているから」
「大丈夫よ。今もこうして術が使えるって言うことは体が生きている証拠だし、問題無いわ」
 彼女はそう言っているが、本当に大丈夫なのだろうか。こうしているうちにでもハクの体に何かあって、「あ、ごめん、死んじゃった」とか言われた日にはケイはどのような反応をすれば良いと言うのか。
「と、とにかく早くハクの体を探しに行かなきゃ!」
 ケイはそう言って思わずハクの手をバシッと掴んだ。掴んでしまってから、女の子の手を自分から力強く握りしめてしまうという人生初の試みに至ってしまったことに気がついた。
「あ、ごめん……」
 思わず顔を赤くしながらケイは手を離した。
「え、ええ。いいけど」
 やや驚きならハクもそう答える。
「どうせ土暮れの手だし。貴方は別に嫌いじゃないし。殺さない」
 ――それは赤の他人が突発的にハクの手に触れたら迷わず殺しちゃうってことなのかな……。
 だとしたら相当なホラーである。
「と、とにかく、ハクの体が死んじゃったら一大事じゃないか! 早く探しに行こう!」
「ええ。――でも大体目星は着いているわ。南のあのオフィス街。多分、私の体は、あの辺りにある」
「オフィス街――」
 それは、確かあの巨獣が飛び去って行った方じゃないか。それはハクも承知しているはずだ。南都心に行って、体を探す。それは、体を見つける前にまたあの狼と出会う可能性が高いわけだし、見つけても、それから戦闘になる可能性がかなり高いということだ。つまるところ、あの狼と遭遇する可能性は極めて高いわけであり、それだけ死の危険が付きまとうわけである。
「一応聞いておくわね。私は今から体を探しに南へ行くけれども、貴方はあの山に戻って待っている?」
 そんなのは決まっている――。
「……そりゃついていくしかないよ。山で待っているって言っても、あの山もなんかおかしいし」
 どうして光合成もしていないのにあんなに元気に草木が茂っているのか、とか。どこから栄養を取って来ているんだとか、色々不安な疑問がごまんとある。
 突き詰めて言えば、今一番安全なのは他でもないハクの隣なのだ。
「本当にごめんなさいね。でも、こうしないと手詰まりになってしまうの。――その代わり、貴方は絶対に守るから」
 その言葉を言うのがハクではなく自分だったらどんなに良かっただろうか、と考えてしまう。
 ケイはそんなハクの言葉にこくりと頷いた。
「――」
 ハクはケイに無言でほほ笑むと――――。
 急に血相を変えて窓の外を見やった。
「ハク――――――うっ?」
 ドンという衝撃がケイの体を打った。そのまま訳も分からず視界が反転し、気付いたら床にたたきつけられていた。
 瞬間、窓ガラスが幾枚も割れて床に崩れ落ちるけたたましい音がケイの耳をつんざいた。
「っ――――――?」
 混乱する頭の中、何とか両手の力で体を起こそうとする。
 遅ればせながら思考が追い付く。今、自分はハクに突き飛ばされたのだ。しかし、一体どうしていきなり突き飛ばしてくるのか。これはどう考えてもほとんど手加減が加えられていない飛ばされようである。
「貴方、誰?」
 ハクの冷たい声に顔を上げる。ハクはケイの少し前に立っていた。朧は既に抜き身で構えられており、ハクは前方を油断なく見据えていた。
 ハクの視線先を追う。
 そこには、黒いローブ姿の人影がゆらりと影が持ちあがったかのようにたたずんでいた。
 
            ×           ×

 静寂を破り、窓ガラスを割って校舎に飛び込んできたのは黒いローブの謎の人影だった。ケイは床から立ち上がりながらその黒い立ち姿を見た。
 割られた窓から風が吹き込んでいるため、その黒いローブは風にあおられ不吉にはためいていた。上空に頼りなげに浮かぶ三日月を寄る辺にした夜の闇の中、そのローブは闇よりもさらに漆黒だった。
 ローブの人影は顔に能か何かに使われそうな狐の面をかぶっていた。
 白い狐の面は目に当たる部分が細く切り取られており、その奥には黒く光る瞳がこちらを見据えていた。
「貴方、何者かしら? 人の形をしているから言葉が通じるかと思って話しかけたのだけれど、やっぱり獣以下の知能しかないのかしらね?」
 ハクがローブの人影を挑発する。まるで小馬鹿にするようなその誰何の一方で、彼女は油断なく朧を正眼に構えていた。ハクの緊張は痛いほどケイに伝わって来ていた。
 きっと、彼女もこのローブの人影は戦うとなれば断じてやすい敵にはならないと直感しているのだろう。
 ケイはごくりと唾を飲み込んで、改めて黒いローブ姿に見入る。すらりと伸びた一八〇センチ以上はあるだろうと思われる背。そのひょろりとした体は、しかししなやかな筋肉を思わせるほどの立派な骨格を持っている。体格的に男を思わせる立ち姿。あごのラインは狐の仮面からはみ出てはいないのだから、それよりも小さい顔なのだろう。そうするとかなり鋭利で引き締まった顔のラインを描いているに違いない。
「あ、」
 そして、ケイはその立ち姿に訳もなくめまいを覚えていた。
 バチリ、と視界が歪む。
 ほら、答えはすぐそこにある、と。理由の分からない本能の発言がケイの脳内をかき乱す。
「領域ヲ、侵犯スルモノ、ヨ。速ヤカニ、立チ去レ」
 そこで、黒いローブが仮面の奥の口を開いた。
 ケイとハクはそろって息をのんだ。
 ハクはきっと、答えが返ってくるはずもないとほとんど期待もせずにアレに呼びかけたのだろう。誰何をするだけして、当然のように答えは帰って来ずに、そのまま戦闘に突入する。
 きっとそうなると――ケイも予想していた。
 しかし、そうはならなかった。答えは帰って来た。それも――この事実が二人をより驚かせたことだったのだが――。
「おん、な……」
 ハクが茫然と呟く。そう、体格からしてどう考えても男の体をしている人影から、女の、しかもどこかひ弱な感じがする、高いソプラノの声が出たのだ。
 そして、その声に、ケイは猛烈な吐き気を催していた。
「領域? 侵す? いいえ、私たち――いえ、少なくとも私はここへ無理やり連れてこられたの。領域なんて侵すつもりなんて毛頭ないわ」
「領域ヲ侵スツモリハナイト、女ハ言ッテイル。問ウ。シカシ、オ前ハ、スデニ我ガ王国ニ、足ヲ踏ミ入レテイルノデハナイカト」
 ローブの女の声は抑揚が全くなく、機械音声よりも感情がこもっていなかった。ケイの吐き気はどんどん強まっていく。
ついにケイはゲボリと胃の中のものを逆流させた。まだ消化されていなかった焼きそばが学校の艶やかな光沢を持つ廊下の上にぶちまけられる。
「王国? ここが? ここは彼から花田市という日本のとある地方都市だと聞いているわ。ここは王国なんてものじゃない。こんな真っ暗で、ゾンビと獰猛なクリーチャーしかいないような場所は王国なんて呼べるものじゃないわ」
 そんなケイをちらりと目の端でうかがいながら、ハクはそう返した。
「去レ。招カレザル客ヨ。オ前ハ歓迎サレテイナイ」
「分かったわ。私たちもこんな訳の分からないところからはとっととおさらばしたかったのよ。でも、ここから帰る方法が分からないの。教えてもらえるとありがたいわ」
 ハクはそう言って仮面の女の返答を待った。
 途端、何かがヒュンと風を切ってケイの横を通りすぎた。
「……?」
 何が起こったのかとあわてて前をみると、
「くッ」
 ハクが廊下の左端で受け身を取っていた。そして、つい先ほどまでハクが立っていたところには数本の銀色の髪が宙を舞っていた。銀の髪は床に落ちる前に砂となって大気に紛れていく。
「なっ……」
 ケイは目を見開いた。
 廊下には深い深い、何か鋭く重いもので切られたかのようにまっすぐな亀裂が走っていた。
 その亀裂はハクが立っていたところから始まり、ケイの数センチ右脇を通って後ろに伸びていた。
 一体、どんなことをすればこれほどの深い傷をつけられるというのか。
「帰レ」
「待ちなさい! 私は貴女と戦う気はないわ。ただ――」
 ヒュン、と再び風を切る音。咄嗟に右に飛び退ったハクは、受け身を取って素早く立ち上がり、同時に日本刀――朧をローブに向けた。
「チッ。聞く耳持たないって?」
 ヒュンという風切り音。今度こそ、ハクは敵の不可視の斬撃を朧で正面から受けきっていた。しかし、朧で一撃を防いでから、ハクは瞬間的に左後ろに跳び退った。
 ギン、という金属音が廊下にこだまする。ついで、ケイの目の前まで後退したハクの体から、ビキリと陶器に罅(ルビ:ひび)でも入ったかのような音が生まれる。
 ケイは目を疑った。ハクは肩口から右胸の辺りまで深く裂傷を負っていた。ハクはその傷を左手で抑えながら立ち上がる。ハクが体を修正している時に聞こえる、シューという細い音がやけに大きく聞こえる。
「曲がる斬撃か」
 ハクは苛立ち紛れにそう呟いた。
 速い、見えない。と、彼女は内心冷や汗をかいた。先の狼の速さなど比ではない。もうこれは己の第六感で感じ取って避けるしかない斬撃である。斬撃の軌跡を勘を頼りに予測し、風切り音と大気の揺れ動きを感じて微調整する――。
 そして、無駄のない回避運動で以て初めて完全にかわしうる一撃である。
 とてもこの土暮れの体で成しうる業ではない。
 加えて、敵の間合いは未だに不明である。但し二十メートルは悠に越えるだろうと予測できるくらいか。彼女の後ろでうずくまっていたケイの位置にも余裕をもって斬撃が届いているのだから。
 曲がる斬撃――。彼女もそのような技を用いる相手とは何度か手合わせをしたことがあった。法剣使い。俗に言うテンプルソードを扱う者たちである。戦闘用の魔術師として訓練されたハクはその対処法は当然熟知していた。伸縮自在の、ワイヤーを芯に用いた剣は、うまくタイミングを合わせることさえすればその軽さ故、簡単に弾き返すことができる。それがどのような軌跡をしていても、見えさえすれば確実に弾ける。
 だがこのローブの女の斬撃は違う。一体何を用いているのか。周囲が暗いせいでその軌跡すら見えずにいる。そして、彼女がこの上ないタイミングではじき返したはずの斬撃が、彼女の体を深々と切り裂いていた。
 体が土の塊でなければ致命傷だった。
「結果、敵ノ、生存ヲ確認シタ。最後通告ヲスル。今スグ王国カラ立チ去レ」
 機械のような女の声。人間としか思えない女の声は、しかしどうしようもないほどに抑揚を欠いていた。
 帰れと。王国という名の領域から立ち去れと彼女は再度繰り返す。
ハクはケイの方に振り返りもせずに低く呟いた。
「次撃は何としてでも防ぎきるわ。だから、貴方はその間に何としてでも逃げのびて」
「そんな」
 そんなこと、できるか。と呟く。
 吐き気に加えて頭痛まで激しくなってくる。このまま放っておけば、脳みそまで口から吐き出してしまいそうな勢いだ。
「いいえ。ここまでよ。私では、最後まで貴方を守り切れなかった。ごめんなさい。どうか――何とか逃げ伸びて」
「っ、そんなことできないよ!」
 そんなことはできるわけが無い。こんな、ハクを一人おとりにしておいて、自分だけ背を向けて逃げ出すなんてことは、できるわけがい。
 ――だって、僕は、君を。
「駄目。貴方は逃げのびて。もしかしたら事態収拾のために他の魔術師がやって来てくれるかもしれない。貴方は――そのときまで生き延びて保護してもらって」
「き、君を見捨てて逃げるなんて、できない! そんなのは――そんなのは絶対に嫌だ!」
 そんな情けない駄々っ子じみた一言を付けたす。
「回答ナシ。立チ去ル意思ガ無イモノト見ナス」
 黒いローブの女が腕を上げる。
 ――駄目だ。
 ハクは殺される。
 今度こそ、彼女は頭から真っ二つにたたき割られてしまう。
「殲滅ヲ開始スル――」
 吐き気がこみ上げてくる。
 殺される。ハクが殺されてしまう!
 ハクの背中は不動だ。次撃は必ず受けきると彼女は言った。そう言ったのだから、きっとハクは意地でも受けきろうとするだろう。あの、刀ではじいてもなお敵を引き裂く魔の風を正面から向かい打つに違いない。
 彼女にはもうかわすという選択肢は残っていなかった。
 かわせば、彼女を捕らえそこなった斬撃はケイの頭を叩き割る。だから先程のようにかわすことはできないのだ。
 ――でもそんなの。
「っ! あああああああ!」
 叫んだ。訳もなく叫んで、訳の分からなくなった思考を途中で投げ捨てて、ケイはハクの体の前に勢いよく飛び出した。
 飛び出してどうするのかなんて、てんで分からない。飛び出した後自分はどうなるのかなど予想する余裕もない。ただ、この身を彼女の前に投げ出して、殺されそうになる彼女を――。
「――――!」
 あのハクが信じられないという顔をしてケイを見つめている。それを幻視しながらケイはふっと笑った。ついにこの娘にこんな顔をさせることが――。
 ビチャリ、と自分のお腹から変な音が聞こえた。
「ケイ――!」
 鋭い悲鳴にも似た何かの音が頭の後ろから耳に突き刺さってくる。
 ああ、これはハクの悲鳴か、と無意識のうちに納得する。
 ケイの眼は前方を睨んだままだった。
 ずっと先に見据える狐の面をかぶったフードの女。
「嘘――。なんで飛び出してくるの」
 幻のように揺らめく彼女の声。
 その声に内心で、精いっぱいかっこつけて返事する。
 ――そんなの、簡単だよ。
 前のめりで倒れかける自分の体をえぐられた腹に力を入れて立ち止まる。ここで踏ん張れなかったら男じゃない。なんたって目の前で女の子が殺されかけているんだ。
 倒れまいとかすむ瞳で前方を睨む。
 驚くべきことに、フードの女も、ハクと同じように動きを停止させていた。その仮面の奥の瞳は驚愕のあまりしっかりと見開かれたままだった。どうして女は動こうとしないのか。
 ケイはゆっくりと視線を下に落とした。
 それは、銀色の鞭だった。刃のの幅は十センチあるかないかくらいの銀色の刃物がケイの左の脇腹に食い込んでいた。暗く光る凶器はケイの脇腹からずっと、女の右手にまで伸びていた。ローブの袖から漏れる銀光。まるで手と一体化したような凶刃。
 水銀。それが歪曲する斬撃を放つ女の武器の正体だった。
「ア、ア、あ、ア」
 仮面の下から壊れたカセットテープのような女の声が漏れる。
 同時に、ケイは脳みそが二倍に膨れ上がって頭蓋骨を内側から強くたたいているような強烈な頭痛を経験した。ドクン、ドクン、と。まるで心臓の鼓動のようにそれは繰り返される。
「あ、ぐ……」
 ケイはうめき声を上げた。同時に喉の奥から鉄くさいものがせりあがって来て、口の端から顎へと伝った。
「ア、アアア、ア」
 女のローブが揺れる。
 ケイとローブの女。二人はまるで共鳴するかのようにうめき声をあげていた。
「アアアア、ア――」
 女は何を見ているのか。その目はケイを確かにとらえていて、それでいてそのはるか彼方を見ていた。
 瞬間、バチリとケイのかすんだ視界に巨大な火花が散った。
「―――――――あ」
 なにか、映像みたいなものが頭の中に流れ込んでくる。あの女の魂欠片(ルビ:なかみ)とともに。
 ――駄目だ僕はそんなもの見たくない嫌だだって見たくないからずっと目をそむけ続けていたんだやっとナルミ姉のおかげで全部綺麗にさっぱり忘れてしまうことができて僕は日常に戻って行けたはずだったのにまたこんなところで思い出してしまってたまるか僕はまっとうな人間なんだ何も悪ことはしていないだから何も思い出したくない僕はやっていない無意識のうちに力が漏れちゃってついやってしまっただけなんだだからもういじめないでもう止めて下さい紅い景色が流れ込んでくる見たくない嫌だ記憶が消えてせいせいしていたのに僕はそれでもやっていない車なんか僕では到底握りつぶすことなんてできない僕は別に何も握りつぶしてなんかいないだから止めて下さいもう何でもします言うこと聞きます逆らいませんだから、たすけて――
「      」
 ケイは声にならない悲鳴を上げた。
 聴覚が麻痺したかのような錯覚。
 そして、女もケイと同じように天を突かんばかりの絶叫を上げていた。
 そのままびゅるりと水銀の刃が巻き尺のように女の袖へと戻っていく。そして女は仮面をした頭を押さえたまま何度かよろめいたあと、窓を破って外の闇へと風のように消えていった。
 水銀がケイの体から抜けた瞬間、ケイはその場に膝を折って倒れていた。
 誰かが駆け寄る音がして、続いて張りのある女性の声がいつもの優雅さを投げ捨てた怒声を耳元でぶちまけている気がした。
 ――駄目、だ……。意識。が……。
 意識が薄れていく。
 五感はすべては既に失われている。
 もうこんなもの意識を失っているも同然じゃないかと自分に突っ込んでみる。
 それで、完全に意識も落ちて無くなってしまった。

       ×             ×

 信じられないものを見た。
 自分がなんとしてでも防ぎきると決めた一撃。
 おそらく自分の左上方から滑り落ちるようにふるわれるであろう軌跡を読み取る。大気を切り裂く鋭い音を聞いて斬撃の角度を修正する。
 いける、とハクは思った。これなら何とか防ぎきれる。代償として曲がった敵の凶器の切っ先が背中をえぐり取って行くことになるだろうが、それでも確実に受けきれると確信していた。
 だというのに。
 ケイは逃げろと言ったハクの言葉を無視しただけでなく、あまつさえ――何を思ったのか――ハクの体の前に自らの体を躍らせた。
 一体どこにそのような瞬発力があったのか――いや、それ以前にどうしてそんな馬鹿げたことをしようと思い立ったのか。
 当たらないで、と彼女は刹那に願いを込めた。何かの間違いで敵の斬撃が少年の体に当たらなければいいのにと願った。
 しかし、そのような奇跡など当然起きるはずもなく、ローブの女の斬撃はハクをかばったケイの腹部に深々と突き刺さった。
 窓から差し込む暗い月光に女の凶器がギラリとその正体を現す。それは水銀でできた鋭利な刃物だった。
 しばらく茫然となる。だがなんとか脳を叩き起こしてハクは行動を再開する。
 敵の武器は水銀。ここで彼を助け起こせば彼ともども一撃で真っ二つにされるに決まっている。でも、そんなことはどうでもいい。
 どうでもいいと彼女は気が付いたら床を蹴っていた。それからうめき声をあげて倒れゆくケイの体を受け止めた。
「な――――何してんのよこの馬鹿! 貴方正気じゃないでしょ! 自分から死にに行くなんてどういう神経してるのよこのおたんこなす!」
 それで彼の耳元でただそう喚き散らしていた。
「貴方ね、逃げなさいって私言ったでしょう? それがどう曲解したら前に突っ込めになるわけ? 脳みそ腐って――」
 そこで、彼女の言葉を遮るように二つの絶叫が廊下のガラスを振動させた。
 一つは今彼女が抱き起こしているケイのもの。
 もう一つはそのケイに重傷を負わせたローブの女のものだった。
 思考が停止する。
 絶叫に驚いたからではない。彼女は絶叫程度にやすやすと驚くような胆力の持ち主ではなかった。彼女はいきなりの奇妙な状況に驚愕したのだった。
 ケイが叫んだ。目を見開いて。まるで泣き叫ぶように。女が泣き叫んだ。苦痛にむせぶかのように。ケイはそれに向かってまた声にならない悲鳴を重ねていく。
 ローブの女の長身が揺らぐ。
 よろよろと窓際へとまるで暗闇で壁を探すかのように右手をばたつかせている。
 そして、女は唐突に外に向かって跳躍した。
 最後にもう一度泣き叫ぶような声を上げながら跳躍していく。その声群には確かな感情が通っていた。つい先ほどまで聞いていた女の機械のような響きは無く、そこには言い知れぬ深い感情が込められていた。
 女がガラスを破って外へと逃げていく。するとケイの悲鳴もぱたりと止んだ。
「ケイ――ケイ!」
 ハクは必死でケイを呼ぶ。
 そんなハクに――いやそれは誰へのものか、もう意識もないであろうケイが、微かに口を動かして、言葉を紡いだ。
 ごめんなさい、■■■■、と。
 呟きはハクには聞き取れなかった。
 ただ、それが何か悲痛な告白だったのには間違いは無いのだろう。
 ハクは、ただ息をのむばかりだった。


第四章  王国 エデンノニワ


 スプーンを曲げることは得意だった。
 人差し指をスプーンの先に当てて曲がれと念じるだけで良かった。そうすればスプーンは勝手に曲がってくれたのだ。曲げられるのはスプーンだけじゃない。何だって曲げることができた。たとえば、ガードレールとか学校のフェンスなんかもだ。試したことはないが、車や家だって捻じ曲げられる自信があった。曲げること以外にも、押したり引いたり、上から手で押しつぶしたみたいにぺしゃんこにもできた。
 僕は人とは違う。
 僕は人とは違う力を持っている。
 だからと言って、そんな力を見せびらかすでもなく、ただ心の中で普通の人間を見下し続けた。ああ、この人たちはなんの力もない一般人なんだと。僕は生まれたときからこいつらよりもすぐれていて、スゴいんだと有頂天になって生きていた。
 子供の頃、そんな他人に対する優越感をずっと抱いて生きていた。
 そうしたら、気付いたらいつの間にか一人ぼっちになっていた。
 誰も相手にしてくれない。
 みんな僕と話したがらない。
 ……多分、みんな気付いていたのだろう。子供と言うのは知識と経験が無い分、本能というか、純粋な感性で人を評価する。だから、皆気付いていたのだろう。
 こいつは、俺達、私たちを同列に扱ってはいないと。
 そして、そんなふざけた奴といても、精神的に疲れるだけだと。
 だから、みんなは僕を嫌うようになったんだと思う。
 だけど、僕は得意の気付かないふりを続けた。
 そんな僕といつまでも話をしていてくれる優しい娘がいた。
 つまるところ、それが僕とナルミ姉との出会いだった。
 ナルミ姉は僕の唯一の話し相手だった。
 家に帰ったら、訳もなく母に八つ当たりをした。僕は母が好きだった。見た目も自分と良く似ていて、黒髪に色白、そして口元にほくろのある上品な顔でやはり好きだった。だから――好きだったからこそ、今日自分が学校で受けた冷たい痛みを一緒に分かってほしかった。僕は母の「おかえり」という声も無視して、母の好意をすべて冷たく否定し続けた。
自分がどれだけ母に迷惑なことをしているかなんて考えることもできなかった。僕は、ただその日あった嫌なことのせいで胸にわだかまる暗い感情の吐け口に母を使うので精いっぱいだったのだ。
 本当に、酷いことをしていたと思う。
 思ってはいたけれども、その日も気が付いたら同じように母親に我儘を言っていた。
 その日、母親に無理難題を押し付けるに至った原因は色々あった。母親が家に全く帰って来ない父に愛想を尽かし、離婚すると言いだしたことだったかもしれないし、その日学校で携帯電話を持っていないのはお前だけだとばかりに仲間外れにされたことかもしれない。
 とにかく僕はそう言う経緯で大雨の降る中、学校のすぐ外にある公衆電話から母に電話を掛けだ。
 携帯電話を三十分以内に買って来い。早く買って来ないと学校の前で死んでやるぞ、と。
 いたずらは成功だった。案の定慌てた母はすぐに買っていくから学校の前で待っていてと言ったのだ。僕は少し悲しくなる一方で、暗い喜びを感じていた。これでこのまま家に帰ってやる。家に帰って鍵をかけておいてやる。そうしたら、学校の前で僕を見つけられずに途方に暮れて帰って来た母はきっと泣き叫ぶだろう。ここを開けてと優秀な僕に泣いて謝るだろう。
 僕は受話器を置くと電話ボックスから外へと出た。
 その時は、まさかあんなことになるなんて思ってもいなかった。
 ただ、すっきりした気分のまま悠々と帰路についたのだった。

      ×           ×

 そんな、嫌な夢を見た。内容なんて覚えていないけれども、きっと自分にとって苦痛でしかなかったであろう夢だ。
 ……意識のおぼろげなる覚醒とともに背中に冷たく硬い感触を感じた。
「っ、ぁ――――」
 うっすらと目を開ける。すると薄暗い闇の中でどこかで見たことがあるような天井が目に入った。
 ついでその下に壊れた窓がガラスの無くなった虚しい姿をさらしているのを見た。
 ――なんだ、僕死んでなかったのか。
 そう思ってから、どうして自分は死にそうになっていたのかを思い出そうとして――、
「ッ! ケイ、目が覚めたのね!」
 そんな女性の声にぼやけていた記憶が急に戻って来た。
 そうだ。確か自分はフードの女に貫かれて。
 最低の記憶を思い出してしまった。
 長い間何故か忘れていた記憶。もしかしたら体の方が思い出すことを拒否していたのか。
 いや、そうではない。
 あの女と触れ合ったときに、こちらに流れ込んできたのだ。まるで、体にひかれる魂のごとく、自然な形で。
「おはよう、ハク」
 ケイは傍らに体育座りをしていた銀髪の女性――ハクに首だけ向き直ってそう言った。
「気分はどう?」
 彼女はケイの表情を見て、急に静かになって、ただそう訊いた。
 ケイは自分の腹を見下ろした。切り裂かれた左わき腹の部分から、着ている服がかなり広範囲に赤黒くなっているのには驚いたけれども、傷の痛みも、吐き気も無かった。恐る恐る切られた部分に指を這わせてみるが、つるつるの肌が指の腹に触れるだけだった。
 ただ、あるのはもう慣れてしまいそうなほどずっと続いているあの頭痛だけだった。
「そう。よかった」
 ケイが無言で頷くとハクはそう言った。それきり、ハクはもう一度廊下の壁を背に体育座りをして視線を下に下げた。
「あれ? 怒らないの?」
 そうだ。自分は「逃げろ」と言うハクを無視して前に突っ込んだのだ。その結果――腹を裂かれるという無様なことをしてしまった。きっと、ハクなら怒るだろうとケイは思っていた。
 ハクは真剣な顔のまま目を閉じて息を吐いた。
「怒っているに決まっているでしょう。でも、もう済んじゃったことだし、貴方一応傷治したばかりの半病人だし。それに、――そんな泣きそうな顔をしている人に何を言えるっていうの」
「――」
 ケイは無言で立ち上がった。
「どこに行くの?」
 ハクは静かにそう訊いた。
「君の体を探しに行かなきゃ。そうしないと、まずいんだろ」
「貴方がすぐに動けるというのなら、行くけれどもね。貴方、今自分がどんな顔しているか分かっているの? 今にも吐きそうな最低の顔しているわよ」
「僕は大丈夫」
 ケイは短くそう言って廊下を戻り始めた。
 ハクはそんなケイに何も言わず、ただ無言でケイの後ろに着いて来てくれた。

    ×            ×

 学校へ出て南都心を目指す。
 校庭を出たところでハクがケイを追い越してケイの行く手に立ちふさがった。ハクは手を腰に当てて、
「待った。一人で先頭切ってどんどん歩いていっちゃっているけれども、ここからは私が先行するわ。曲がり角から飛び出してきたグールにいきなり噛みつかれて死ぬなんて嫌でしょう?」
「分かったよ」
 ケイはそう言った。そんなケイの味の無くなったガムのような返答に、ハクは顔を曇らせた。曇らせたが、やはり何も言わずにケイの横を通り過ぎ、前を歩き始めた。あの肩を揺らさない独特の歩法。ポプラの木みたいに美しい後ろ姿がケイの前を行く。
「でも南都心に行く前に、確認しておきたいところがあるんだ」
「あら? ひょっとして貴方の家かしら?」
 ハクがそう訊いてきたので、ケイは首を横に振った。
「ちょっとした事故現場なんだ。昔、そこで大きな自動車事故が起きたところ――そこを右には曲がらず、まっすぐ行ってほしい」
「む……この曲がり角を南に下らずに、直進するの?」
「ああ、そうしたら僕の家の近隣にいずれは着くんだけれども、僕の家にたどり着く前に右折して二つ目の角で左折――」
 ケイはハクに道順を教える。すると一度ケイが言っただけで覚えてしまったのか、ハクは一言分かったわ、と言った。
 彼女の銀の髪が揺れる。前を行くその姿が美しくて――何となく憧れてしまう。自分も、こうして颯爽と風を切って前へ歩けたらな、と思う。
 彼女の歩き方は確かにかっこよかった。何だか、いかにも武芸者という感じがして、見栄えもよかった。流麗な柳が風にそよぐかのように流れる銀髪。しゃんと伸びた背筋。
 まるで、その歩き方は彼女の生き方を表しているかのようだった。
 ただ流麗に前を向いて風を越えて。その向こうへと。
 思えば、自分は彼女の歩き方がかっこいいと思えたよりも、その鮮やかな彼女自身に惚れてしまっていたのだろう。
 ……告白するなら、あの交差点には自分一人で行ってみたかった。そう、あの事故を起こしてしまったところには一人で行きたかったのだ。こんなにも綺麗な彼女に、醜い自分は見てほしくなかった。
 かっこ悪いのではない。きっと、醜いのだ。
 きっと、自分は泣き言を言うに違いない。そんな醜い自分は、できれば見せたくなかった。

       ×         ×

 そうして、ケイとハクはそこへ辿り着いた。
 とある十字の交差点。何気ない十字の交差点。どこにでもある普遍的な十字路。
 国道と小さな脇道とが交差する場所。今では信号がつけられ、事故防止のため都市計画法に基づいてまで建物の建造を制限され、極端に見晴らしが良くなったはずの交差点。
 そこで、ケイはふと足をとめた。ハクも、ケイが足を止める気配を感じたのか、歩みを止めてケイに振り返る。ケイはその彼女にぽつりと呟いた。
「ここだ――」
「……別段、変わったところもない交差点だけれども。――ここに何があるの?」
「この交差点、五年前大きな事故があったんだ。――僕たちが今まで歩いてきたのは脇道。そしてそれに交差しているあの大きい道が国道。……酷い事故だった。酷い、事故を起こしてしまった」
「? ケイ、私、貴方が何を言おうとしているのか分からないわ。いきなりこんなところに連れて来られて、それで事故があったって言われても、そうなのって返すしかないし」
「結論を言うよ、この町――多分過去の町なんだ」
 ハクはケイの唐突な告白にわずかに眉を動かしたが、続けて、と何も訊かずに先を促してくれた。こんなところにつけても、ハクはできた人間だと思う。
「僕は昔超能力が使えてね。いや――そうじゃないか。えっと」
 と、そこで口を止める。これはきっと余分なことだ。とりあえず簡潔に話だけを彼女に伝えないと。
「…………」
 ハクは静かにケイの発言を待ってくれている。
「この町は、過去の町だっていう結論は、どこからきたかって言うと。根拠はこの交差点に信号がないことなんだ。いや、決定的な根拠、かな。本来、僕はもっと始めに気がつかなきゃいけなかったんだ。街並みとか、微妙に今のとは違うって。でも別に僕たちが過去にタイムスリップしたって訳でもない。パラレルワールドなんてものを信じるのなら別だけど――」
「そんな魔法はないわ。パラレルワールドなんてものは人間が勝手に想像した幻想よ。世界は変わらず一つしかない。IFの世界なんて、空想の話よ」
「だったら、――多分、僕の考えは正しい、かも。えっと、話しを戻すと、多分ここは創られた世界なんだ。過去の町そっくりにつくられた世界。だからミニチュアみたいなものだよ。どこかにこんな世界が用意されて、そこに僕たちは飛ばされてきたんじゃないかって」
「待って。横やりを入れて申し訳ないけれども、かなり話に飛躍があるわ。この町が過去のものだってことは分かった。要するに事故が起きて、信号やらなんやらが配置されたというのにされていない――つまり貴方の昔の記憶にある街並みだから、ここは過去の町だって言うのよね? でも、それがなんで創られた世界ってことになるの? いえ――過去の町がここにあって、ここが現代であるならそういう説明もありか」
「いや、現代かどうかは分からないけれども、この町――世界はきっと僕に関係のある人が創ったんじゃないかって思うんだ」
 ケイがそう言うと、ハクは訝しげな顔をした。
「関係のある人って――、何でそう思うの?」
 普通の人なら訳が分からなくなって怒りだす頃だというのに、ハクはなおも理解しようとケイに質問をする。
 するとケイは乾いた声で呟いた。
「だって、僕――あのローブの女の人のこと、きっと知っているんだ」

     ×           ×

「知って――いる…………?」
 ハクは茫然と目の前に立つ色白黒髪の少年の言葉を繰り返した。ケイがこくりと頷く。
「知っているって――、ちょっと、貴方何を」
 何を言っているの――?
 冗談の域を越えてているわよ、と彼女は言いかけた。言いかけて、ケイの顔を見て口をつぐんだ。
 ケイが続ける。
「あの人は、五年前に僕が殺した人なんだ」
 今まで何の毒気もない、ただの臆病で間抜けな奴だと思っていた少年が、そう無感情に呟く。
「大体、僕はあの声を聞いて思い出さないといけなかったんだ。どこかで聞いたことがある声だ、なんかでは済まされないんだ」
「殺したって――――――まさか」
 ハクは理解する。彼女は事故があったという交差点を見やった。
「そうなんだ。五年前、ここで事故を起こしたのはある意味僕だったんだ。この国道を走ってくる車があってね。その車には僕の大好きな人が乗っていたんだ。僕は今君とこうしているようにここに立っていた。仲の良かった女の子と一緒にたらたらと家に帰っていた。当時そこには廃ビルが建っていて、脇道から出てくる車は国道の車が見えにくかったんだ。――国道を走ってきて、僕たちの横に停車しようと減速する、僕の大好きな人の車は、脇道から出てくる車に横っぱらをぶつけられて、僕たちが立っていたところに突っ込んできたんだ」
 ケイが息をつく。ハクはケイの話の続きを息をのんで待った。
「僕は咄嗟に思った。隣にいる幼馴染を守らなきゃって。だって守らないと明日から話相手がいなくなっちゃうんだから。それで、僕は、その突っ込んでくる車をドライバーごと握りつぶした。その時はうまく力の加減できなくて、握りつぶした後、向こうへ押しやってしまった――国道の、真中へ」
「――――!」
 ハクは息をのんだ。そんなハクを見ながら、ケイがわずかに震える声で言った。
「僕は、実の母親をねじりつぶした殺人鬼なんだ」

      ×                ×

 ケイはそう言い終えると、もう一度息を吐いた。
「その、死んだはずの人が、さっきの狐の面の人。声なんて不確かなものって言われるかもしれないけれども、それが自分の実の母親のものならまた別だよ。――本当に、僕ってばどうして今までのうのうと生きてきたんだろう。ナルミ姉と話をして良い人間になろうとして、普通の人間になったつもりでいて。結論を言うと、こんな世界が創られた目的は僕の断罪みたいなものかもしれない。いや、真面目に言っているんだ。馬鹿らしいけれども、実際ここにはゾンビと怪物しかいないし、僕の――殺したはずの人がいるし」
 最後の方はハクがくすくすと笑い始めたから付け加えたものだ。
「ご、ごめんなさい。でも別に私が真面目に聞いていないってわけじゃないの。でも――断罪って、ねぇ」
「実際ここに僕が飛ばされていて、こんな状態なんだ。どう考えても僕に対する嫌がらせにしか思えないじゃないか」
「まあそうね。ここが創られた世界で、貴方の言った通りならどう考えてもここに放り込まれた人間が世界を創った術者の標的よ。でもね。それじゃあ、私の存在はどうなるの? 私は貴方の事情にただ巻き込まれただけ? それとも貴方と私とに共通して深い恨みを持つ魔術師がいるというの? 私と貴方はここで出会うまで他人も他人、赤の他人どんぶりだったのよ」
「赤の他人どんぶりって何面白くないこと言ってんだよ、ハク。そうじゃなくて。……いや、まあ、確かにハクの存在が説明できないんだけど」
「でしょ。他人どんぶりを貴方が知らないことは置いておくとして、まだそんな風に結論付けるのは早いわ。確実なのは、この町が事故の起きる前の貴方の町にそっくりだってことだけ。あのフードの女の声だって、良く似た声の奴だったのかもしれないし。肉親だから間違えないとかそんな理屈ないわよ」
 ハクはやけに明るい調子でそう言ってから、でも、と言って続けた。
 それは打って変わって、至極真剣で、真摯な口調だった。
「貴方は殺人鬼なんかじゃない。ちゃんと善悪をわきまえた人間で、非常に理知的な人間だと私は思うわ。その――お母様の件は、死者に鞭打つようだけれども、仕方のないことだと思う。むしろお母様とそのぶつかって来た車のドライバーの不注意のせいよ。貴方は、単にそのお友達を守っただけなんだから」
「――――」
「納得していない顔ね。それは貴方の中に罪悪感があるってことね。でもそれじゃいけないわ。貴方は過去に引きずられている。それが貴方に負荷をかけている。そりゃ過去に貴方が無計画な生き方をして今がつらくなっているのなら、そのつけはきっちりと払わないといけないわ。だけど死んだ人へのつけを払うなんてね、そんなものは人間として死んでいる行為よ。人を殺したらそんなものは償いきれるはずが無いの。だというのに永遠になくならない借金をその死んでいなくなった人に払い続ける。返すべき相手がいないのに無限に負債を返していくなんてしていたらそれこそ地獄よ。そんなのは人生棒に振っているのと同じ。――勘定に入れるのは常に生きている人。いい。私の言うことを貴方は全然聞かないけれども、これだけはちゃんと理解して、その上で実行してほしい。私が言うのもなんだけど、貴方はまだ十分に若いし、可能性にあふれているのだから」
 ハクはそう締めくくった。
 ケイはハクの言葉一つ一つに体を貫かれているように感じた。
 負債はきっちり返す。死んだ人に囚われるのは死者の行為。
 ハクははっきりとそう言った。重みのあるハクの言葉に、ケイは思わずうなだれていた。
「――」
 確かに、ハクの言っていることは正論だ。自分のふざけた態度のせいで失った人間関係は自分で修復しなければならない。自分が勉強せずに遅れてしまった分は必死に取り返さなければならない。運動だってそうだ。
 社会と足並みをそろえようとするならば、人間は自分が払えなかった負債を返さなければならないのだ。
ハクはケイがまだ若いから間に合うのだと言った。それは、まだ負債は返せる額で、期限もまだあるということなのだろう。
 心が、洗われるようだった。たったそれだけ。ハクにたったそれだけのことを言われただけで何だか色々と整理が着いたような気がする。――悔やむべきは、どうして自分にはたったそれだけのことも言ってくれる人がいなかったのか、と言うことだ。それも、おそらくはケイ自身の人柄が原因だったのだろうが。
 自分をありのままに受け止めて、前を向いて颯爽と駆け抜けていく。
 そんな生き方がしたいと、同時に強く思った。
「だけど――、ハク」
 ケイは目を閉じて呟くように言った。
「僕はできるなら、彼女に一言謝りたいんだ。死んだ人に償いをするのは良くないことだって分かっているんだけど、きっと、それが全てでもないと思うんだ」
 ケイの言葉は森閑とした夜の十字路に吹く風に融けていく。
 そうだ。殺してしまってごめんなさい。だけじゃ済まない。僕は他にも伝えなくちゃいけないことがあるんだ、と心の中で誓いをたてるように呟く。
「そう。そうしたいならそうするべきだわ。それが貴方の考えた結論なら、それでもいいと私は思うわよ」
ハクはそう言うとケイに向かってにっこりとほほ笑んだ。
「…………さてと、この話はここまで。何にせよ、また一つ謎が深まったみたいなものだからね。とっとと体を見つけて、サクッと事態収拾しないと、ね」
 それを正面から受け止めて、ケイは口を開いた。
「僕からも一つ君に言っておきたいことがあるんだ」
「ん? 何?」
 はてな、と小首をかしげるハクにケイは言った。
「ハクに約束してほしいことがあるんだ。――その自分を犠牲にして僕を助けようとするのは止めよう。無理を承知で言うけど、僕は、できることなら二人で助かりたいんだ」
 ハクは一瞬呆けたようにケイを見つめ返した後、
「もちろんよ」
 そう、極上の笑顔で返してくれた。

         ×          ×

 夜道を行く。
 とこしえに深かった闇は、より濃くなっているような気もしたが、ケイは全く気にならなかった。
「ところで、あの女が言っていた『王国』ってどういう意味なのかしら?」
 こぎれいな住宅街を見回しながら、ハクはぽつりとそんなことを言いだした。
「『王国』――なんだろうね。領域、王国、みんな同じ意味で使っていただけじゃないのかな」
 何の気なしにそう返す。
「そうなのかしら」
「じゃあハクはなんだと思うんだい?」
「私? ううん。特にどうだーとか明確な答えを持っているわけじゃないの。ただ、少し気になっただけ」
「何だよ、それ」
「良く分かんないこと言っているわね、私ったら。気にしないで、王国って響きに反応しただけなのよ。本当にそれだけ」
「そう言えばさ。僕はハクが魔術師だって言うけど、それ以外は何も知らないんだ」
 ――って、そんなこと言って、だからどうしたいって言うんだ、僕は。
「私の素性を聞いているの? つまらないわよ、そんなの話しても。本当に面白くないもの、私の身の上話なんか」
「いや、さ。何と言うか、僕は――」
 そこで口ごもる。自分でも一体何が言いたかったのか分からないままに、ケイの言葉は闇に融けていった。
「貴方も変な人ね」
 ハクはそう言ったものの、ポツリポツリと自分の身の上話を語りだした。お父さんとお母さんは死んでしまって、肉親は妹だけ。その妹は目が見えなくて、ひ弱で、いつも自信なさげで。
「月亜(ムウア)って言うの。変わった名前でしょう?」
 彼女はまるで自分の事のようにそう言う。
 ――何と言うか、ハクだって十分孤独なんじゃないかな。
 だからなんだ、と言うわけではないのだが、とにかく、なんか寂しいなと思った。
 でもハクは本当に楽しそうにその妹の事を話していた。まるでかけがえのない時間を反芻するかのように、本当に楽しそうだった。全く。つまらないと言っておきながら自分は十分に楽しんでいるじゃないか。
 二人して住宅街をひたひたと歩く。グールや狼に見つからないようにハクは静かに呟くように話を続ける。行為自体が無駄であるというのにだ。
 ――なんというか、新鮮だ。
 ケイはもう何年もまともに話をしたことがあるのはナルミだけという状態が続いていた。別にナルミとの会話が面白くないと言うわけではないのだが、違った人と話をするというのは、色々と刺激に満ちていて心躍る行為だった。
 ハクと話をしていて思った。僕は、周りの人に対して、自分から扉を閉ざしていたのではないかと。そしてそれはどれだけもったいないことなのだろうか、と。
 本来ならばこんなにのんびりとした心境でいていいはずがない。問題は山積みなのだ。
 危険だって今すぐにでも差し迫ってくるかもしれない。
 だけど、そんなことを考えるのも無粋だ、とも思う。
 ――だって、今、会話というものが、こんなにも楽しいのだから。

       ×             ×

 住宅街を抜けた二人は南都心のオフィス街へと入った。背の低い住宅群ばかり見た後だと、やはり夜空に黒い影を伸ばすビル群はやはり迫力があった。
「ここからはさらに危険になるわね。さっきはついついたくさんしゃべっちゃったけれどもここからは本当に無駄話は無しなんだから」
 ハクがわずかに顔を赤らめながらそう言う。
 それにケイは無言で頷いた。
 ハクはよし、とひとつ頷くと、ケイに先行してビル街へと足を踏み入れた。
 ビル街はやはり住宅街と変わらずにやはり『死んでいる』ようだった。ただ吹き抜ける強風だけが高い、衣擦れのような音を断続的に響かせていた。
 ビルの合間を縫うように歩く。広い道路にはポツリポツリと人影が見えたが、それらはきっと生きている人間ではないだろう。虚ろにオフィス街を徘徊するその様子はグールのものだった。だから二人はあえて回り道をするようにオフィス街を見回った。
「どう、体はありそう?」
 ケイが小声でそう尋ねると、ハクは難しい顔をして首を振った。
「このビル街のどこかだとは思うんだけどね」
 そう言ってからハクはまるで重要な事実に思い至ったかのように付け足した。
「すっかり失念していたけれども、私の体、多分何も服を来ていないの」
「――!」
 叫び声はあげないがわずかに息をのむ。
「私が体の中に入って、服つくり出すまで、見たり触ったりしたら殺すから。におい嗅いだら半殺しね」
 ハクはそう言ってふふっとダークな笑みを浮かべた。
「し、しないよ」
 というか静かにしろ、ハク。
 そのケイの心の中の突っ込みがハクにも伝わったのか、ハクはそれきり無駄口は叩かず再びビルの影から影にわたるように体を探し始めた。ケイもその後に続く。
 やや大きなビルを抜け、その後に見えた小さめの少し薄汚れたビルの裏手に回る。そこから細い道をひたひたと歩く。
 ……たすけて。
 そこで、唐突に忘れかけていた頭痛が再開された。
「っ」
 しかしこれは何かを思い出そうと脳が軋みを上げているのとは違う、もっと別のものだった。
 ――でも、このくらいの痛み、もう慣れた。
 ケイは前で周りに気を配っているハクの肩をたたいた。
「ハク、ちょっといい?」
「ごめんなさい、全く目星がつかないの」
「いや、そうじゃなくて、声が聞こえないか?」
「声?」
「うん……、たすけてって」
「いいえ、聞こえないわ」
「そっか」
 ケイは耳をすまそうとして――すます必要が無いことに気がついた。
「どうやら、これは僕の頭の中だけで響いているみたいだ」
「? ケイ、何言っているの?」
 不審に思ったのかハクがケイに振り返ってじろりと顔を睨んでくる。これくらいの頭痛なら別に顔色なんて悪くならないだろうし、彼女を心配させるには至らないだろう。
「たすけてって誰かが僕に言っているんだ」
 ケイがそう言うと、ハクは考え込むように右手の人差し指をあごの下にあてた。
「…………貴方、そう言えばさっきもそんなこと言っていたわね」
 ケイは注意深く声がどこから聞こえてくるのかを探ろうとした。
 ケイの脳内でたすけてと声が繰り返される。ケイはその根源を読み取ろうと神経を研ぎ澄ませる。
「あっちだ。あっちの方から聞こえる気がする」
 ケイはそう言って右斜めを指差した。その方向には背の低いビルに囲まれて、少し背の高い、鏡のように光跳ね返す外装のビルが立っていた。
「あのちょっと大きいビル?」
 訝しげにそう訊くハクに、ケイは言った。
「ハクも体がどこにあるか全く目星がつかないんだろう? なら最悪ビルを一つ一つ中に入って調べることになるかもしれない。としたらあのビルを調べてみても損はないんじゃないか?」
「む……。えらくその声とやらにこだわるのね。何? 何かあるの?」
「分かんないけれども、屋上に飛ばされる前から、この声はずっとしていたような気がするんだ。最初は空耳かなって思って無視していて、それで、なんだかんだでハクに話せずじまいだったんだ」
「ふうん。謎の声か。――いいわ。どうせ体がどのあたりにあるのかほとんど見当も着いていないのだもの。あのビルをためしに探索してみるのも悪くないわ。――ただ、その呼び声が私たちの味方であるとは限らない。もしものときは危なくなる十歩くらい手前でちゃっちゃと退散よ?」
 ハクは考えがちにそう言った。
 それから二人は大通りを徘徊するグールに気付かれないようにだるまさんが転んだの要領で物陰に身を隠しながら少しずつ問題のビルへと近づいていった。
 そのビルの駐車場から裏口のドアにまでたどり着くと、ハクは何事か短く唱えて裏口のドアを指差した。
「鍵、空けたわ」
 ハクは素早くそう言うと、そのまま取っ手を握って蛇のようにするりと中へ侵入して行った。ケイもハクまで滑らかとまではいかなかったが、一応大きな音は出さずにビルの中へと侵入できた。
そうして、裏口からビルの中へと入ると、先に中へ入っていたハクが厳しい目をして、薄暗い闇の中を睨んでいた。
 ケイもその視線の先をたどる。ハクはどうやらエントランスの天井を睨んでいるようだった。
 だからと言って、天井に何かあるわけでもなく、来客を迎えるエントランスらしく、高い天井に豪奢な照明器具がぶら下がっているだけで、別段変ったところは無かった。
「ハク?」
 小声で前にただ突っ立っている女性に呼びかける。
「ごめんなさい。上へ行きましょうか」
 ハクは低い声でそう言うとエントランスの中央へと足を進めた。ケイも慌ててその後を追う。随分と広いロビーだった。広さだけなら最初に目覚めたところのビルよりもずっと広いくらいだ。部屋には裏口から近い順に、カウンター少し左奥に二つのエレベータ、その横に二つのエスカレータ。そして非常口へと続いていた。待ち合いのための上質なソファーも右手側にたくさん並んでいる。
 ――まるで病院みたいだ。
 ケイはハクの後を追い、カウンターを横切って動かないエスカレータに足をかけた。エスカレータを上るときですらハクは足音を全く立てなかった。真横から見ていたらエスカレータは実は動いているのではないかと錯覚させるようにハクの動きは滑らかだった。肩は上下せず、すうっとエレベータを上っていく。そんなハクの後ろで、ケイは何とか音を出さないように段差に足をかけていたが、ものすごく大きな音がエントランス全体に響いていた。
 二階に足をつける。
 するとそこはやはり広い広間になっていて、奥にはエレベータの乗り口が見えた。そして、その広間の両側には、茶色い扉がついていた。
 何だか恐ろしくこのビルとは不釣合いな扉だった。
「ハク、あの扉」
「ええ。どう考えても後から取ってつけたみたいにぎこちないわよね。というか、普通はあんなところに扉なんて付けない。見栄えも悪いし、ビルの大きさから見て、あんなところに扉付けても一部屋造るスペースも残っていないはず」
 ハクはそう言うとつかつかと左のドアに歩いていき、ドアノブに手をかけた。
「開いている」
 ハクはより低い声でそう呟いた。ハクはもはや臨戦態勢と変わらないほどにピリピリと緊張しているようだった。どうやらこのビルがただのビルではないと感じ取ってのことだろう。
「奥に、部屋はあるの?」
「ええ――部屋どころか廊下があるわ」
 ハクがドアの向こうを警戒しながらそう言う。
「ケイ、とりあえずこちらのドアの方から調べていきましょう」
 ハクと二人で暗い廊下へと足を踏み入れる。すると、靴の裏に当たる感触も変化した。固い大理石のような床の感触から、ふかふかのじゅうたんの上のような感触へ。それもそのはず、足元には赤いじゅうたんが引かれていた。
 回廊は暗く闇に沈んでいる。廊下の両側の各部屋はガラス張りになっており、回廊を歩くだけで中を見られるようになっていた。
「これは、何かの研究施設かしら? 貴方、ここにこんな施設があると知っていて?」
 ガラス張りの部屋を外から眺めながらハクが訊いてくる。ガラスの向こうの部屋の中には、良く分からない機械や、何かのオカルト本に書いてありそうな魔法陣のようなものが刻まれた石板などが置いてあった。
「いや。第一、ここはオフィス街だし、こんなもの造ったら即刻取り壊されるよ。それに、あのよくわからない模様の石板は、どう考えても普通のものじゃないし。なんか、黒魔術か何かに使われそうな感じだし。仮にここが研究施設だとしても、こんなもの中に置いておくなんておかしいよ」
「あの石板に描かれているのは魔法的意味を持った文字よ。アレの意味するのは生命。何か、魔術的な因子を持ったものに命を与える言霊をかけられた一種の魔法陣みたいなものよ」
 ハクは一人ぼそりと呟いた。そのハクの体からはまた殺気のような、手を伸ばせば触れることができるような青いオーラがほとばしっていた。知らずに、そんなハクに気圧される。
 ハクはどんどんと前へ進んでいった。ケイはその後に恐る恐る続いた。
 回廊の奥には階段があった。どう考えても空間的にあってはならない空間。だと言うのに空間は横だけには飽き足らず、さらに上へと伸びている。
「間違いないわ。ここ魔法のにおいがプンプンする。この町をこんなふうにした元凶のアジトよ、ここ」
 ハクは階段を上りながらそう呟いた。
「ハク、あの、引き返さないの?」
「このビルからは生きている人間の感覚がしないわ。多分、無人。グールも見当たらない」
「でも……ここ、敵のアジトなんだろ?」
「ええ、確かにここは魔術師のアジト――一般的には工房と呼ばれるところだわ。――いえ、工房があったところ、と言うのが正しいかしらね。ここは今主がいない工房よ」
「どういうこと? アジトの跡地で、悪い魔法使いはもうどこかへ行ってしまってるってこと?」
「ある意味では。あのね。普通盗賊のアジトって言ったら何かしらのトラップがあるものでしょ? もちろんそんなことしないずぼらな盗賊もいるけれども、たいていは侵入者に対して一定の妨害が入るはずじゃない。だと言うのに、ここへ来るまでに何か妨害があった? ビルの裏口の鍵を開けただけよ、私。普通ね、魔術師が住んでいたアジト――工房っていったら、恐ろしい罠が仕掛けてあるのよ。たとえそれが留守中であっても罠は発動する。だと言うのにここまで工房を私たちに見せている」
「いまいちハクの言っていることが分からない……。つまり、どういうことなのさ?」
「ここは確かに工房であって、つい最近、工房じゃなくなってしまった、って言ったら分かるかしら? きっとここの主である魔術師は――死んでいるわ」
「は――?」
 ハクは階段を上りながら続けた。もうハクは三階や四階のフロアを無視してひたすら上の階を目指していた。ケイはいいのかな、と思いながら三階や四階の回廊を見やったが、その間にもハクは何かにせかされるように階段を上り続けていた。
「ちょっと。ハク。待ってくれよ。どうして三階や四階を見て回んないの? あ……、五階もとばすつもり?」
「――――」
 ハクはどんどん階段を上っていく。
 そして、最上階――十階に着いてようやく彼女は止まってくれた。
「この階ね」
「……おい、ハク。……待って、くれったら……」
 息も絶え絶えになりながらケイは手すりにつかまってそう小声で彼女に呼びかける。
「――」
 ハクはケイの言葉を聞いているのかいないのか、そのまま十階の廊下へと姿を消してしまった。ケイはパンパンに張った太ももにさらに鞭をいれ、ハクの後を追う。
 十階の廊下の両側には全く部屋が無かった。ただ白い壁が延々と続いているだけで、『研究施設』なるものは全く見当たらなかった。
 ただ、廊下の奥、突き当たりに、茶色い木製の扉がついているだけだった。
 訝しげに周りを見回すケイとは違ってハクはまっすぐにその扉に向かって歩いていく。歩いていって、そのまま何のためらいもなくガチャリとそのドアを開けてしまった。
「ここよ」
 ハクはぽつりとそれだけ言うと扉の中へとその細い体を滑り込ませてしまった。
「あ、――ハク」
 ケイも慌てて後を追って中へと足を踏み入れた。

        ×              ×

 そこは、誰かの書斎だった。
 少し狭い部屋は周りを大きな本棚に囲まれており、ドアと向かい合うようにして机がそなつけられてあった。床のじゅうたんは赤い色から青い色へと変わっていた。
 本と机。その二つしか見当たらない空間。そこは、確かに書斎だった。
「血のあとね」
 ハクはキツネ火を近くに呼び寄せて足元を見ながら呟いた。
「血!」
 思わず叫んでしまう。叫んでしまってから、ハクにものすごい顔で睨みつけられる。
「あ、ごめん……。でも、血のあとって」
「ここよ」
 ハクはケイを手招きした。ハクの近くに行くと、確かにそこにはコーヒーをこぼしたしみのようなあとが残っていた。しみの大きさはかなり大きかった。まるでバケツ一杯の水をその場にぶちまけたかのようだ。
「かなりの出血量ね。この血の主は死んでいるか、瀕死状態ね、どう考えても。血痕は――かなり古い感じ。時間がかなり経っている」
 ハクはしゃがみこんで、慎重に床に手を当てながらそう言った。それから顔をあげて続けた。
「間違いないわ。この魔術師、ここで致命傷を負って、工房のコントロールもできない状況に陥っている」
「で、でもそいつを倒せば僕たちは、そのこの変な状況から抜け出せるはずだったんだろ? そいつが死んでいるって言うのに、まだ異常事態は続いているし」
「ええ、何かしらのこの異常事態を継続させている力がどこかから働いているということね。魔術師はおそらく死んでいる。だけれども『王国』は未だ変わらずここにある。まだ維持され続けている」
 立ち上がったハクは周りの本棚を見回した。
「とにかく、ここには何かしらのヒントが隠されているはずよ。探しましょう」
 ハクはそう言うと本棚の本を片っ端からパラパラと繰り始めた。
 ケイもそれに続こうとして、ふと置かれている机の引き出しが気になった。
「どうやら、この魔術師は魂を専門に扱う魔術師だったようね」
 パラパラと本をめくっていたハクがそう呟く。
「魂を、扱う……?」
「魂の入れ替えとか、維持とかそういうの。私は今土の人形に自分の魂を入れているけれども、こういう魔術にかなり精通しているみたい。こいつが集めている本見る限りわね」
「ふーん」
 いつものようにハクが何を言っているのか良く分からなかったので適当にそう返す。ケイは机の引き出しに手をかけた。引き出しの中には古ぼけた黒い背表紙の小さな本が入っていた。
 その本を持って、ハクの後ろでぶんぶん飛び回っているキツネ火の隣まで行く。
「ハク、この人だま、もっと落ち着けないの? 本とかに火が燃え移ったら大変だよ」
「ああ、この子言っても聞かないのよ。ま、この子、そんな一瞬で物を燃やすような熱量持ってないから、火がつく前ににおいで気付いて、注意してあげればそれでいいの」
 そう言えば、焼きそばのお湯を作ってくれた時も、もろにカップに触れていたけれども、発火はしていなかった。不思議な人だまだなと思いながら本を寄せる。
 手記。
 と一言黒い背表紙を一枚めくったところに書いてあった。
「あら、こっちにあるのはこの魔術師の論文かしら? どれどれ」
 ふとその声に顔をあげてみると、ハクは大きな黄色いプラスティックのファイルを取り上げていた。
「うわ。――三単元のsがところどころ抜けているし、この文には動詞が二つもある。ぱっと見ただけでスペルミスだらけだし、中学生が辞書片手に何とか仕上げた英語みたい」
 首を伸ばしてファイルの中身を確認しかけたケイだったが、英語と聞いて首をひっこめた。これからはちゃんと英語も勉強しておこうと心の中で誓う。
 英語は読めないので、ケイは自分の手にある手記の方に集中しようと思った。パラリとページをめくる。
『私は本来日記をつけるような人間ではないのだが、不定期にこの日記を書いていきたいと思う。こうして何かを書いていると精神が落ち着くものだ。だから日ごろのストレスをこの日記にぶつけている節があるのかもしれない。私の研究はうまくいかない。昔からあまりできる方ではなかった私が何かの間違いで博士号を取ってしまった。間違いはここからだったのかもしれない。私は魂の定着、剥離、維持を得意とするが、それ以外は……。私は怖い。結果を出さないと、教授会で私は――』
 早くもケイはこの辺りでこの手記を読む気が無くなって来ていた。以下もどう見ても自分の不安を紙面にぶちまけているだけの文章が延々と続いている。こんなもの読んだところで何の意味があると言うのだろう。
 とは言っても、ケイは本棚に並んでいる分厚い本に手を出す気にもなれなかったので、とりあえず飛ばし読みをして見ることにした。
『皆私を馬鹿にする。それは仕方ないことなのかもしれなかったが、やはり我慢できない。いつか殺してやる』
 ものすごく黒歴史になりそうな一文である。本人もまさか他の誰かに読まれるとは思ってはいなかったのだろうが。
 どうやら、この魔術師は――お世辞にも優秀とは言えなない人間だったようだ。日々の抑圧されたフラストレーションをひたすら手記に書きなぐってぶつけているような節がある。
 手記なんて書く人が書けばそんな内容になるものなのだろうが、はっきり言って読んでいる方はたまったものではなかった。
 おまけにこの手記を書いた人はどうもケイと似ているところが多々あるようだった。自分は何もできない駄目人間だとひたすら弱音を吐いているし、『今日は部屋から出ていない』とか書いてあるから否応なくひきこもりを彷彿とさせるし。
 ――まるで僕のことみたいじゃないか。
 ケイは腹立たしくなりながらぺらぺらとページをめくっていく。
「ケイ、ちょっと」
 ケイがやや乱暴にページをめくっていると、ハクがちょいちょいと手招きしてきた。ハクの肩越しに彼女が持っているファイルの中をのぞき見た。
 そこには、日本語で『楽園の庭計画』と太字でタイトルされたレポートだった。
「あの女の言っていた『王国』って、もしかするとこのことかもしれない」
 ハクはレポートの概要の部分に白い指を這わせた。
『このレポートは私の協力者、ジョセフ・コンラッドに捧ぐ。葛葉源一郎』
 出だしはこれだった。
『何ものにも侵されることない結界をつくることは中世以来我々魔術師にとっての憧れだった。何ものにも侵されることがない――それはつまりあらゆる外敵から自身を隔絶し、また内から迫る死を遠ざけるという半永久的な結界をつくるということである。こうすれば、我々は生命を脅かされることもなく、まるで天国で生活をしているがごとく、平穏に毎日を送ることができるのである。現代社会はあまりにも悩み事が多い。だから、私はそんなわずらわしい世界とは異なる、永遠の楽土を造りたいと思った』
「ただのひきこもり野郎じゃないか!」
 ケイはため息交じりにそう言った。
「ま、動機は確かにそうね。きっとこの人自身抑圧された人間だったのでしょう。だから『楽園』とやらをつくって、そこで暮らしたかった。確かにくだらない動機だけれども、その割にはやろうとしていることはすごいわ。この人が言っているのは、キリスト世界での天国みたいな世界をつくって、酒池肉林やらかそうっていうんだから。馬鹿もここまでくると偉大よ」
「それ、誉めてるの……?」
「とにかく続き」
 ハクはそう言って文の続きを指差した。ケイは文章に目を通していく。
『そこで私はまず楽土の維持の仕方を考察することにした。結論は精霊をとらえてきて、その魂を抜き取り、楽土の柱に定着させることで、世界の維持を行おうというものだった。精霊は無限の命と強力な魔力を持っている。これを使えば楽土と言う名の永久機関を造ることも不可能ではないのだ。精霊を捕まえて維持を行わせ、世界への出入りを制限する。後は精霊の魔力を用いて物資をやりくりすればいい』
 そこでハクは口を開いた。
「随分無茶苦茶な話だけれども、不可能ではないわ。ただ、このとき問題になるのは『魔力で物資をやりくりす』ることね。これはこの魔術師の手に余ったのではないかしら? この魔術師、論文読んでいる限りは大した奴じゃないわ。私みたいな青二才から見てもこいつは魂の扱い以外にはたいした取り柄が無いと思う。こんなのでよく魔術師をやっていたと思うわ。だから、これを実現するためには誰か他に協力者が必要だった。それが多分――冒頭にちらっと出てきたジョセフ・コンラッドね。こいつは有名な魔術師よ。数年前に行方不明になっているけれども。――このレポート自体、コンラッドのために書かれたものだわ。ともに『楽園』で好き放題しようじゃないかって。で、多分二人はこの世界をせっせとつくり始めたんでしょうね」
「そ、それでできたのがこんな世界だって言うのか?」
「ええ、二人は世界を作った。だけれども、手違いが起きた。それでこうなってしまった。というのが妥当な話ね」
「手違いって……」
「そう手違いよ。手違いで何かがおこって、二人のうちの一人は、多分ここで殺された。それで楽園で一緒に暮らしましょうって呼び寄せた他の人間も何かしらのトラブルに巻き込まれて、グールになってしまっている」
「呼び寄せた? 何かしらのトラブル?」
 ずっと尋ねっぱなしの自分ののろまな頭脳に嫌気がさしながらもケイはそう訊いた。
 ハクはこくりと頷いた。
「ええ。楽園にまさか男二人で住むはずもないでしょう? きっとこの男は他に女性や、親しい友人達――はいたのかどうか知らないけれども、すくなくともコンラッドの方はそれを望んだでしょうね。コンラッドは割と有名な奴だから知人友人も多かったでしょうし。それに、あの女が言っていた『王国』の話からして、きっと二人は王様のようなものになりたかったのではないかしら。王国を守るあの女は二人に言われていたんでしょうね。『王国』に許可なく紛れ込んで来た奴には速やかにお帰り願えってね。まあ、ただで帰すとは考えにくいけれども。――とにかく、二人は『王国』をつくりたかった。だから、親しい友人の他にも少なからず従順な一般人をここへ連れてきた。その彼らのなれの果てがあれらグールだと私は予想しているのだけれども、分かった?」
 な、なるほど、とケイが頷くのを見て、ハクはさらに続けた。
「トラブルに関しては分からないけれども、多分コンラッドの所持していた何らかの魔術的な物質が外に漏れちゃったとかそんなオチでしょうね。それで、みんなグール化しちゃったとか。私たちがここに来たばかりのときに殺されたあの男は、さしずめその生き残りってところかしら? 血痕の古さからして事件が起きたのはずっと前よ。こんな世界であのときまで生き続けられたのは奇跡と言ってもいいでしょうね。地獄と化したこの世界でひたすら逃げ回って、それであそこでついに殺されてしまった。――そんなところね。ってどうしたの? なんか浮かない顔して」
「いや、なんかその。あの男の人、きっと怖かっただろうなって」
「そりゃ怖かったでしょうね。でも運が悪かったのは、何と言うか、仕方が無いわね」
 それから微妙な沈黙が流れてしまう。
 ハクはもう一つ咳払いをすると続けた。
「あの洋風なおしゃれな家に生活臭がしたのも、ここへ連れてこられた人間が使っていたからでしょうし。多分、他にも住み心地がよさそうな住宅を探せば生活したあとのある家はいくつか見つかると思う」
 ハクはかなり大雑把な推理ではあったが、そう締めくくった。ハクがそう言い終わったあと、ケイは思わず拍手していた。そんなケイの称賛に頬を赤くしながらハクは得意げに胸を張っていたが、不意にはっとして、咳払いをした。
「こんなの適当な、本当に大雑把な推理よ。そんな誉められても全然嬉しくないわ」
「でもすごいと思う。やっぱりハクはすごい」
 素直な感想を口にする。
「誉めても何もでないわよ」
「いや、僕はただすごいって思っただけだよ。別にそう照れなくてもいいじゃ――」
「照れてないっ!」
 ハクにポカリと頭をたたかれる。
「そ、それよりケイ、貴方、さっきから何読んでいたの?」
 わざとらしく話題を変えるハク。ケイは黒いカバーの手記をハクに見せた。
「その魔法使いの日記だよ。これがすごい駄目人間でさ。読んでいていらいらする内容だった」
「へえ。貴方にそこまで言わせるなんてこの魔術師はある意味天才かもね。何? ひたすら愚痴をこぼしているような内容だったわけ?」
「まあ、そんなところだよ」
 ケイはパラパラと手記をめくりながらそう呟いた。
 ふうん、と言って再び論文の紙面をめくり始めるハク。
 その時、ケイは心臓がドクンと一段階大きく跳ね上がったかのような錯覚に見舞われた。
『昨日、妻と離婚するという話が出た』
 そんな一文である。慌てて日付を確認すると、
「ケイ――!」
 そこで、ハクがケイの思考に割り込んできた。ハクの声はやけに興奮気味だった。
「何?」
 反射的に手記をポケットにしまいながらケイは訊き返した。
「精霊が封印されている場所が分かったわ」
 ハクは論文のファイルをケイの方に近づけながら急きこんでそう言った。
「ここから南東に五百メートルの地点にあるビルに、精霊の魂を封印した柱があるらしいの」
 論文のその一ページはどうやら地図のようだった。この辺り周辺の地図のようで、ケイにはぱっと見ただけでは何がどうなっているのかさっぱり分からなかったが、ハクは白い指でとある地点をコツコツと叩いていた。
「その、封印解いたらどうなるんだ?」
「この世界は壊れるわね」
「それって結構ヤバいんじゃないか?」
「でしょうね。でも、とりあえずこの世界を壊してみないと私たちは帰ることもできないわ。だからぶっ壊して、その後のことは後で考えればいいんじゃない?」
「むっ、無茶苦茶だよ! ハク、前から思っていたんだけど、君ってやっぱり何も考えずに行動しているだろ! ぶっ壊さないと帰れないって、もっと他に方法はないの?」
 ケイがそう尋ねると、ハクはふむ、と目を閉じた。
「あるかもしれないけれど、やっぱりそれが一番手っ取り早い方法かもしれない。言うなれば、今私たちは卵の殻の中に閉じ込められているような状態よ。それで、私たちを殻の中に閉じ込めた犯人たちが行動不能になってしまっているんだから、単純に考えればそれが答えかなって」
「た、単純すぎるよ! なんかものすごく危なそうじゃないか! もう少し情報を集めてから――」
「無論そのつもりよ。というか、私の体を探さないと私は元の世界に帰れないわけだから、嫌でももう少しはこの辺りを探索しないといけないわよ。だけど、現時点では、おそらくそれがぱっと考えつく事態の収拾法。殻の外に出るには、私たちは殻を壊さないといけないんだから」
 ハクはそう言うと、ファイルを本棚にかこりと戻した。
「他にも参考になりそうなレポートがあるわ――これらを探して見ましょう」
 ハクはそう言うと、他のファイルに手を伸ばした。ケイはもう一度ポケットの手記を取り出して、続きを読もうとした。
 そのとき、部屋の隅から、水が滴るような音が部屋に響いた。
 ケイとハクはギョッとなって音のした方を振り返った。
 部屋の隅、ケイとハクが立っている本棚とは反対側の本棚の隅に、銀色に濡れ光るしずくが、細かい球となって青いじゅうたんの上に転がっていた。
 ぽたりぽたりと天井から降り注ぐしずくは次第に速度を増し、徐々に量も多くなっていく。ボタリボタリとたれ続ける水銀。パス、と音がして天井から狐の白い面とばさりと黒いローブが落ちてきた。水銀はなおもその上に垂れていく。
「ケイ、逃げるわよ!」
 ハクは手に持ったファイルを投げ捨てると、ケイの手を引いてドアへと突進した。

        ×           ×

 刹那に閃く銀光。無数の針となった水銀が書斎のドアを貫いた。
 ハクは舌打ちしながら素早くケイをかばうように後退する。瞬時の攻防だったが、ケイとハクは簡単に退路を断たれてしまっていた。
 たたらを踏む二人の目の前で、黒いローブをまとった銀の液体が徐々に人型を成していく。
「全身が水銀でできているっていうの……!」
 驚愕に震えるハクの声。
 ケイは焦りとともに長く息を漏らした。全身が水銀でできているなど、攻撃のしようがない。
「侵略者ハ、速ヤカニ、消エロ」
 ごぽごぽと持ちあがる黒い影。その顔の部分と思しき個所に狐の脳面が張り付いている。
「ケイ、下がっていて。私が何とかする」
 ハクがそう言って前へ進み出る。
「駄――」
 駄目だ、とケイが叫ぶ前に、既に戦闘は開始されていた。
 まるで必殺の一撃を計ったかのような水銀の槍が空間を走る。
 しかしハクはそれを完璧に弾き返していた。
以前は成すすべもなく敗れたあの水銀の斬撃をハクは刹那のタイミングで無力化している。信じられないことにハクは二度目にして曲がる斬撃を克服してしまっていた。
 形を成す人型。それに朧を正眼に構えて牽制するハク。
 人影が無言で動く。今度は二本だった。両手から繰り出される水銀の槍はハクの頭上から床ごと彼女を叩き潰さんと落下してくる。それを、ハクは朧と朧の鞘を使って、その場でくるりとターンするように迎撃する。方向をわずかに狂わされた水銀は、しつこくハクの体に向かって斬撃を曲げる。
 しかしハクはもうその場から流れるように体をずらしていた。床を深々と抉る二つの槍。一気に黒いローブの懐まで肉薄したハクは朧を袈裟に振り落とした。
 高い金属音と布を裂く鈍い音。
 ハクは刀を弾かれ泳いだ体を無理に戻そうとはせずに右手に取り出した白い短冊を振り放った。白い紙群は、水銀の女に触れると同時に一つ脈動する。それに呼応するかのように朧が唸りを上げる。
 直後、男性のような骨格を模した女の体が背後に吹き飛ぶ。女の体は背後の本棚を破壊しながらその後ろの白い壁に体をめり込ませた。
「固いわね」
 素早く態勢を整えたハクが苛立ち紛れにそう呟く。
「衝撃、種別、魔法攻撃。威力大。対象ハ、カテゴリーA相当。救援ヲ、求ム」
 めり込んだ陥没から本棚をさらに破壊しながら出てくる水銀の塊。ローブが裂けた全身は銀色に鈍く光っていた。
「ハク!」
「大丈夫。何とかあいつの注意をそらせてここから脱出する。今は不用心に動かないで」
 水銀の槍が再度振るわれる。足元から胸元にライズボールのように這いあがってくる銀の刃。ハクは、身をかがめながら槍の薄くなった部分を下から切り裂く。
 伸びた水銀の強度などたかが知れている。ハクは水銀の槍を破壊し、それにより生まれた空間に体をねじり込ませる。まるでばねのように跳ねるハクの体は横っ跳びに地を蹴った。ハクが宙で朧を脇構えに構える。床から受け身を取って素早く立ち上がりながらハクは囁くように朧に息を吹きかけた。
 朧よ、力を、と。
 ドクンと振動する朧。いつか見た光景のように朧に刀身はあらゆる物理法則を無視して刀身を二倍以上に拡大した。朧はまっすぐに水銀の塊の頭の部分、狐の仮面を打ちぬいた。
 仮面が割れる音と金属音。
 ――駄目だ。
 ケイは内心で冷や汗をかいた。ハクの攻撃が全く効果を成していない。全て水銀の強固な鎧に阻まれて弾かれてしまっている。
「あ、アア……」
 水銀の女の動きが止まる。槍となっていた両腕が銀色の手に戻る。女はいつかの時のようによろめきながら自分の顔を両手で覆った。
 女の胸では赤い宝石が暗い輝きを放っていた。それは、ハクと同じ人形に魂をつなぎとめる核だった。
「あ、アア!」
 女がうめき声を上げる。
 ケイはパシリと手を掴まれた。見るとハクがケイの腕を掴んで、破壊されたドアに向かって地を蹴る瞬間だった。
 再びドアに向かって突進するハク。そのハクに引きずられるケイ。
 しかし、突進はがくんと態勢を崩したハク自身により終わりを告げた。床に転がるハク。同じくじゅうたんの上に全身を叩きつけられるケイ。見ると、女が苦し紛れに放った水銀のひと薙ぎがハクの左足を切り落としていた。
 女の左腕は銀の槍となって書斎の床に深々と突き立っている。顔を覆っていた手が片手のみになり、女の素顔があらわになる。
 ケイは息をのんだ。
 何か見えないものによって時間を止められたかのように目を見開く。心臓が早鐘のように胸の内を叩き、目に映る映像がスロー再生された映画の駒のように流れていく。
 お母さん、だった。間違いない。黒髪に色の白い肌。口元のほくろに、どこかケイに似た面影。お母さんだ。あの日確かに自分が殺したはずのお母さんが、ここで、こうしている。
 自分の心臓が委縮するかのような音が聞こえる。冷たくなっていく心とは反対に頭の中では真っ赤な炎が爆発する。ケイの頬に涙が一筋伝う。
「っお母さん! お母さん! お母さん!」
 何を言えばいいのか分からなかった。今がどのような状況なのかどうでも良かった。ただ、ケイは気が付いたら目に涙をためて母親を呼んでいた。
 感情が抑えきれない。ケイは立ち上がって銀色になった母親に向かって走り寄ろうとした。
 だがハクの冷たい土暮れの手はそれを許さなかった。ケイの体を手を引いて引き止め、水銀の女が振るう銀の斬撃を刀身を拡大させた朧で寸分の狂いもなく弾き返す。高速で閃くハクの長刀は歪曲してケイの背中を切り裂こうとする槍の穂先までも完璧に相殺していた。
「目を覚ましなさい! アレは貴方の母親なんかではないわ」
 長刀で取りみだした女の狂ったような銀の鞭をいなしながらハクは叫んだ。
「で、でも、お母さんの顔をしているんだ! あの時、僕が殺した、お母さんの!」
「黙レ!」
 叫んだのは銀色の女だった。
「黙レ! 黙レ黙レ黙レ黙レ黙レ黙レ! 私ハ、アアア、私ハ! 私、ハ、オ前ヲ、知ッテイル……?」
「お母さん! ぼ、僕だ! 僕なんだ! 僕は――」
「アアアアアア、アアアアアア!」
 ケイの声を遮るように、いや、ケイの声を遮るためにか、女が絶叫する。それに呼応するかのように女の胴体から無数の触手がはじけ飛んだ。
「ケイッ!」
 ハクはもう動いていた。動いて、ケイめがけて飛んでくる銀の刃群からケイを守るために飛び出していた。だがケイは呆けたようにそこに立ちすくんでいて、ただ頭上から迫りくる水銀の刃をぼんやりと見つめているだけだった。
 きっと、それがいけなかった。
 刹那、ケイをかばって横に弾き飛ばしたハクの体に無数の刃が貫通した。
「ハ……? ク……?」
 茫然と呟く。
 ハクを貫く無数の刃が引き抜かれる。ハクの体は、支えを一つ一つ抜き取られていくかのようにして、その場に倒れた。
 女が吠える。まるで金属質なその吠え声は機械でできた無機質な鳥のそれを思わせた。女の吠え声とともに砕かれた銀の刃群が今度は一つの鋭利な斧のように収斂される。
 ケイは床から身を起こして、その様をスローで見ていた。
 永遠に続くかと思われる時間(ルビ:とき)の中、天も地も無くなってしまったかのような浮遊感の中、モノクロに染まってゆく視界の先で、ケイはハクに向かって振り下ろされる斧の動きを目で追っていた。
 今にもハクは振り下ろされる斧によって叩き潰されてしまうだろう。
 ――嫌だ。
 まるで深い闇が自身の意識を包んでいくかのようだ。
 ――止めろ。
 でも銀の斧は止まらない。まるで掟を破った彼女を断罪するかのように振り下ろされる。
 ――その女性(ルビ:ひと)だけは!
 目に火花となって流れ込んでくる紅い映像。
 それは、どこかで見たような。
 飛んでくる車に自分は無我夢中に力を使った。
 ――でも僕には力なんてない。
 嘘をつけ。お前は気付いていないだけだ。あの女に貫かれた時に記憶とともに流れ込んできた、魂の欠片に。
 ――でも僕は思い出せない。
 それはどのような力だったのか。自分に向かって迫る大きな車体に隣にいたナルミを守るために使った。
 ――覚醒しろ。
 ハクの手にある朧がドクンとひとつ脈動する。
 それはどんな力だったのか。
 それは、たとえば。
 全てをねじりつぶす巨人のような。
 ――目覚めろ!
「ああああ、アア、アアアアAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!!」
 吠えた。
 吠えて、目前に迫る銀の斧に憎しみ(ルビ:いしき)を集中させた。
 力場の固定、磁気の生成、ベクトルの改変、でもそんな理論どうだっていい。自分にはできる、それだけで十分だ。
 ただ、そこにいる女性を失いたくなくて、それ以外はどうでもよくなって目の前の銀色の女に憎悪を集中させる。
 お前なんか消えてしまえばいいと思った。
 音さえなくなったかのような刹那の瞬間。ハクに襲いかかる銀の斧は、水銀の女とともに後方に弾け飛んだ。
 超重量を誇る砲弾のような水銀の体が背後の壁に激突し、ビルに巨大な振動を与える。外装をも貫通して外へと吹き飛んでいく。風が室内に吹き込んでくる。
「あ……、お母、さん」
 部屋の横腹に空いた大穴から暗い外の闇を見ながら、ケイは茫然と呟いた。
 室内に水銀の女の姿はなく、どこか遠くでものすごい音が聞こえてきた。
 室内に訪れたはずの静寂は強風の音にかき乱されている。
「ぁ」
 頭をもたげる力が急速に失われていき、がくりと視界が下がる。まるで心がどこかへ行ってしまったかのように訳も分からず目から涙があふれた。
 自分は殺してしまった。
 お母さんを、殺してしまった。
 思い出すあの赤い光景。あのときだってそうだった。自分は、もう何がなんだか分からなくなって、気が付いたらお母さんを殺していた。
 謝りたかった。殺してしまってごめんなさいなんてどの面を下げて言えば分からない。だけど、それ以上に、もしもう一度お母さんに会えるなら、今までごめんなさいと謝りたかった。
 そのはずだったというのに、自分は。
「あ、くっ……」
 ケイの隣でハクが苦しげな喘ぎ声をあげた。それにはっと我に帰って、ケイはがむしゃらに手の甲で涙をぬぐった。
 もう立ち上がれないと泣き叫ぶ弱い自分を押し潰す。だけど、潰しそこなって、再び床に両手をつけて嗚咽を漏らした。それでも歯を食いしばって立ち上がる。震える唇をかみしめて、歯の間から深呼吸を繰り返す。
 また嗚咽を漏らしそうになる弱い自分を隅にやって、喉の奥から声を絞り出す。
「ハク、大丈夫?」
 それだけ言ったらまた涙があふれてきてしまった。二の句が継げなくなってしまったケイにハクはなんとか笑顔を見せながら身を起こした。
「大丈夫……と言いたいところだけど、ちょっとまずい、かも」
「え?」
 ケイはボロボロと涙がこぼれている顔をハクに向けた。
「さっきの攻撃で、人形の核を壊されちゃった」
 ハクはえへへ、と笑いながらそう言った。
「核が、壊さ、れた……?」
「うん……」
 ハクは右手の指で押さえた胸部をケイに見せた。ハクの胸にはいくつもの大きな穴があいていて、そのうちの一つから赤い光が漏れていた。
「うまく避けられなくて」
「ッ! ちょ、ハクッ! それって、ヤバいんじゃないのか!」
「うん、だから、ちょっと、まずい」
 胸を押さえるハクの指がさらさらと砂になっていく。
「ッ! 何とか、何とかしないと……!」
「落ち着いて」
「落ち着いてられないよ!」
「大丈夫、すぐに消えたりしない。魂がかなり破損しているけれども、なんとかなる」
 そう言っている矢先に、ハクの右腕の表面からさらさらと砂がこぼれ落ちていく。
 ケイはそれを見て戦慄した。必死でのろまな頭をフル回転させて打開策を考える。
「そ、そうだ! 新しい核を造ればいいんじゃないか? ほ、ほら早く造ってよ。血が必要なんだっけ? 僕の使っていいから早く!」
 ケイはそう言ってハクの手から朧を奪い取った。
「だめ。あいつはまだ生きている。だから、貴方だけでも、早く」
「あいつって誰だよ! いいから造るんだ! 僕は、僕は君が死んじゃうなんてまっぴらごめんだ!」
 震える手で朧の鞘をケイのベルトに差すハクに苛立ちさえ覚えながらケイは怒鳴った。
「論文にあった、この世界の柱を、破壊するの。世界が、壊れたときの、衝撃は、朧の鞘を持っていれば、なんとか、なる」
「何を言っているんだ! それは最終手段だろ! もっといい方法を見つけて、いやその前に君の体を探さないといけないんだろ!」
 ハクは首を横に振った。
「私は、ここであいつを食い止める。その間に貴方は、柱を壊して。柱の場所は、ここから南東に五百メートルの地点にあるビル。多分かなり大きいビルよ」
「だからあいつって誰なんだよ!」
 その時、ケイの背後で壁を打ち砕くものすごい音がした。同時に室内に流れ込んでくる風が強風となる。
「侵略者ハ、速ヤカニ、」
 幾本もの水銀の槍が壁の穴を広げながら室内に侵入してくる。あの、水銀の女だ。
 どうやらこの高さから落下しても無事だったらしい。ここまで来るともうその頑丈さはどのような言葉にも表せないだろう。
 ただ、ケイは自分の中にまだ母を殺してはいなかったという希望に似た光があふれてくるのを感じた。
「ケイ、行って。ここは、私が」
 そう言って無事な左手に白い短冊を持つハク。ケイはそのハクの肩を抱いて助け起こした。
「ケイ、馬鹿なことは止めて。早く逃げるの」
 なおもそう呻くハクの顔を真正面から見据えて、ケイは言った。
「二人で助かろうって約束しただろ。君を置いてなんかいかない。絶対に」
 ハクが息をのむ。ケイは大人しくなったハクから目を離して、室内で再び人の形を取ろうとする水銀の塊を見据えた。
 ――お母さん……。
「もう、やめてくれよ。お母さん」
「アア、ア、侵略者ハ、排除、ハハ排除、スル……!」
 銀の体を持った女が鞭を振るう。ケイは意識を集中させた。左右から迫る水銀の刃のベクトルを変える。しかし、力加減に失敗して右の刃がケイの腕を薄く切り裂いた。
 左の刃が床にたたきつけられる。
「駄目、ドアには」
 ハクが力の無い声で呟く。
 そんなことは分かっていた。ドアに向かって走ろうとすればあの水銀の攻撃に無防備な背中をさらすことになる。だから今ドアに駆け寄るということをするわけにはいかない。
 ――なんとか、吹き飛ばして。
 バチリ、とまたあの車を握りつぶす瞬間が想起される。
「っく」
 迫りくる凶器の群れに意識を向ける。曲がれと念じた銀の針群はその向きを変え、ケイの足元のじゅうたんをえぐる。それでも曲げそこなった槍が数本ケイの体をかすっていく。
 逃げ場はないというのだろうか。
 いや、ケイは既に状況を打開する術に気が付いていた。
「お母さん、もっと、落ち着いて話がしたかったよ」
 ケイはそう呟くと、右手を深く亀裂の入った床に向けた。
 ――打ち抜け……!
 バリバリバリと轟音を響かせて陥没する足元。横薙ぎに払われる水銀の槍を上方に逸らしながらケイはバランスを取り、着地の準備をした。
 一気に落下する視界。ケイは飛び跳ねる心臓を抑えつけ、かがめた足でうまく衝撃を殺した。ハクが驚愕と感嘆の入り混じった声を漏らしているのを聞きながら、ケイは逃走経路を確認した。目の前に広がるのは廊下だ。その先にあるのは非常階段。そこから一気に下へ降りるのが最良だろうか。
「ケイ、屋上まで逃げて」
「どうするつもり?」
「屋上から飛んで、あいつを巻くわ」
「その状態でそんなことできるの?」
 また自分を犠牲にしてケイを助けようとしているのなら、ケイは断固拒否するつもりでいた。
「安心、して。大丈夫」
 ハクは力こそなかったが、しっかりと確かに頷いてくれた。ケイの心は決まった。
 ケイはハクに肩を貸すと、走り始めた。
「ケイ、上!」
 不意にハクが叫び声をあげる。同時に前方の天井が軋みを上げる。打ちぬかれる天井。そこから長いクラゲの足のような銀色の触手が顔を出す。
 床に降り立ち前方に立ちはだかろうとする水銀に意識を集中させる。今度は水銀が無形のハンマーで横殴りにされたかのように壁を突き抜け、再度暗い闇に呑み込まれてくる。
 ずきりと痛む心。ケイは眉をしかめた。ハクはそんなケイを見て、一瞬やり切れない顔になった。だがハクはその直後に顔を引き締める。
「ケイ、横から来る。前方左五メートル先」
 ケイは意識を集中させた。
 壁を貫いて二人を串刺しにせんと迫る二本の槍を撥ね返す。意識を集中させて、今は自分の身と隣で体を引きずる女性を守ることだけを考える。
 ケイはハクを引きずるようにして非常階段にたどりついた。すぐ背後の壁が水銀の槍に貫かれて爆ぜる。
息はもうとうの昔に上がっている。口の中にほんのりと広がる血の味を無視してケイは非常階段をのぼりはじめた。
「信じられない。貴方に、こんな力が、あったなんて」
 ハクが茫然と呟く。
 ――君が驚くのももっともだよ。だって、僕でも驚いているくらいなんだから。
 階段の壁を突き破ってくる銀の槍。ケイは鼻先を通るその刃にのけぞり、なんとか持ちこたえて意識を集中させる。上方へねじれた水銀の針が細くなった部分から崩れ落ちて銀の玉を降らせる。ケイとハクはそれをすり抜けて屋上へと続く階段を上った。
 生きる。
 ただそれだけを思って、二人は足を引きずり上を目指す。
 壁を打ち破って飛び込んでくる水銀の塊を身をかがめてかわしながら、ケイは眼前に迫るドアに右手を向けて集中した。
 ――開け……!
 ガコンと鍵を破壊しながら開放される屋上への扉。ケイとハクはその扉を越えて、屋上へと転がり出た。
 同時にハクが詠唱を開始する。低く呟く歌い文句は強風にさらわれていく。まるで空に向かって祈るようなハクの歌声を聞きながら、ケイは背後の屋上の一角を見据えた。銀の砲弾が暗い空に舞い上がり、屋上の床を陥没させながら降り立つ。その振動さえもおぼつかないままに、ケイは水銀を纏う敵を睨みつけた。かけるベクトルは下へ。陥没した床ごとあの女には退場してもらう……!
 強風にもかき消されないほどの轟音が闇空に響き渡る。水銀の女は下へと直下し、ケイとハクは詠唱の大終節とともに暗い空に舞い上がる。
 落ちていく銀の姿をはるか下に見ながら、ケイとハクは南へと向きをかえた。


第五章  王国U  オチタラクエン


 あの日、母親を握りつぶして、大きな事故を巻き起こして、僕は泣きじゃくるナルミ姉とその場に茫然と立ち尽くしていた。
 立ち尽くしていたら、ふと見えたのだ。炎に巻かれ、蒸し焼きになっているある車の中で、必死に我が子を逃がそうとする親子の姿が。
 僕はそれを見てただ、綺麗だと羨ましがった。

           ×               ×

 暗い空から降り立つと、ハクはその場に座り込んでしまった。
「ハク、大丈夫?」
 ケイはうつむいたハクの背中に手を当てながら訊いた。ハクはわずかに顔をあげて一言、大丈夫とだけ呟いた。
「早く核を造らないと。ほら、朧で僕の腕を切るから」
「駄目。朧にはまだあの狼やグールの因子がついているわ。不用意に体を傷つけては駄目。とにかく、ビルの中へ、まずは」
 ハクは荒い息でそう言った。ケイは慌てて頷くと、ハクに肩を貸した。
 ハクを助け起こして目の前のビルを見据える。ビルはやはり大きく最後の砦のようにケイとハクの前にたたずんでいた。
「裏口から入ろう」
 ケイはそっとそう言うと、ビルの裏手に回り込んだ。
 ビルの裏手には駐車場が広がっていて、車一つ止められていなかった。無人の駐車場をキツネ火の明かりを頼りに進んでいくと、やがて小さな裏口のドアが暗がりに浮かんできた。
 ケイがドアに手をかけると、鍵はかかっていなかったらしく、そのままキィと音を立てて扉は開いた。
「気をつけて」
 ハクがケイの耳元でそう囁いてくれる。それに頷きだけで返して、ケイはドアの中へと滑り込んだ。
 ビルの中はやはりというか、普通だった。先程のビルよりもより広く見栄えもよくなった――この薄暗闇では見栄えも何もないかもしれないが――エントランスである。
 ケイは飾ってある四角い立方体のオブジェの前を通り過ぎる。
 それからエントランスの中央まで移動すると、ケイはハクを床に寝かせた。
「核、造れる? 苦しいだろうけど頑張ってくれ」
 ハクは何とか上半身を起こしながら言った。
「ごめんなさい、少し血を貰うわね。腕まくってくれる?」
 ハクはそう言うと右手にいつの間にやら持っていた白い短冊にフッと息を吹きかけた。慌ててケイが袖をまくる。白い紙たちはケイの右腕に張り付いて、ジワリと赤く染まった。なんだか気味が悪かったが、我慢する。
「採血は、終わったわ。あとは核を造るだけ」
「あせらずゆっくりやってくれ」
 ケイがそう言うと、ハクは首を振った。
「貴方はすぐに上にあがって、柱を壊して。あの女が追って来ているかもしれない」
「でも、まだハクの体を見つけていない。そんなのは駄目だ」
「じゃあ、こうしましょう。貴方は『柱』までたどり着いたら待機。私は核の修理が終わり次第体を探すわ。見つけたら貴方に連絡する。キツネ火を連れていって。明かりにもなるし、その子は水をかけない限りは消えないから。いい?」
「それで、連絡が入ったら僕が柱を壊すんだね」
 ハクはこくこくと痙攣するように頷いた。
「朧なら、きっと柱もすぐに壊せるはず。水銀とかなら、ちょっと無理かもだけど」
 笑顔を作るハク。ケイはハクの肩に手を置いた。
「分かった、ハクはもう核を造ることだけに専念してくれ」
 ケイは真っ暗な非常階段の方を見た。
「行ってくるよ」
 ケイはそう言うと朧を鞘にしまい、キツネ火をひきつれて階段へと駆けて行った。

       ×               ×

 階段を駆け上がる。核を造るハクのことも心配だったが、『柱』にたどりつくことが今は大事だ。ハクは賢くて強い女性だ。その彼女が大丈夫と言っているのだから、自分はただ与えられた事を完璧にこなしきるのみ。あそこでハクの隣に自分がいても何も手伝えることは無かったし、それならすぐにでも『柱』とやらを発見して、離脱できるようにするべきである。――いや、『柱』を壊したからといって、この世界から元の世界に戻れるのかどうかは分からないのだが。
 隣には青白い光を揺らすキツネ火がえっちらおっちらケイについてきている。その様子を見てふっと表情を崩したケイは階段を上るスピードをさらに上げた。
 七階に着いた。このビルは十五階まであるようだが、ハクの言っていた『上の方』とはこの辺りから範囲になるのではないだろうか。
 ケイは朧に手をかけながら――使いこなせる自信は無かったが、振り回していればなんとかなるかもしれない――そろそろと七階の回廊を進んだ。部屋は左右に二つずつあって、廊下の突き当たりにはエレベータが備え付けてあるようだった。
 部屋の扉の鍵は全て開いていた。それぞれが大きな会議室のようだった。ケイはそれぞれを慎重に見て回ったが『柱』らしきものは見当たらなかった。
 次の階へ行こうと階段を上る。
 その時、ふとケイの脳裏に見たこともない大海のイメージが流れ込んできた。広いマリンブルーの海を水底から眺めているような映像だ。
 その大海の深淵から呼ぶような微かな声を聞いたような気がした。
 ――こっちだ。
 ケイは知らずに謎の声にせかされるように階段を上った。八階は無視する。九階からも声は響いてこない。もっと上からだ。ケイはさらに上の階を目指して階段に足をかける。
 そうして、気が付いたら最上階の十二階まで駆け上がっていた。我に帰ると、声はもう随分近くなっているような気がした。
 ――この階だ。この階に違いない。
 声は近くなる。ケイは暗い廊下に足を踏み出した。両側にある無数の部屋を素通りして、その奥の突き当たり、そこにエレベータがあるはずの場所に小さな扉が付いているのを見た。
 あそこに違いないだろう。どう考えて不自然な部屋の配置だが、だからこそ怪しいというか、その前に耳鳴りがあそこが目的地だとうるさいくらいに言い張っていた。
 ケイはごくりと唾を飲み込むと奥の扉にひたひたと歩み寄り、ドアを一気に開け放った。
 同時に青白い光が目を焼く。隣に浮かぶキツネ火がかすんで見えるほどだった。きっと日の光を浴びた後の人間にとっては大したことの無い光量なのだろうが、ずっと薄暗い中をさまよっていたケイには眩しすぎる光だった。
 何度か目を瞬かせて目を慣れさせる。光の源を見極めようと何とか目を細めて前方を見る。
「やあ、こんにちは。やっと来たね」
 目もそろそろ慣れようかというころ、不意に少年のような声が室内に響いた。ケイはぎくりとして朧を、鞘をつけたまま腰のベルトから抜いて前に突き出した。本当はハクのように抜き身にして正眼に構えたかったのだが、思わずそうしてしまったのだ。
 まるで細長い棒で身をかばうような格好になりながらケイは光に呼びかけた。
「だ、誰?」
「心配しないで。ボクは君の味方ではないけれども、敵でもないから」
 室内に響く声は妙に機械音じみていた。しかしそれとは対照的にその口調にはきちんと人間らしい抑揚があった。
 ケイは目を細める。目はだんだんと光に慣れてきた。広い部屋だった。しかし、今まで見たどのビルのどの部屋とも違って、この部屋は猥雑だった。電気製品に使うような色とりどりの接続コードが床に敷き詰められ、もとの床が見えないくらい。おまけに壁には良く分からない模様が不可思議な青い光を放っている。
 そして、そんな近未来の科学者の一室を思わせるような空間の中央に、声の主はいた。
 この場合、いた、という表現は正しくなかったのかもしれない。そこにあった、と言う方が正解だったかもしれない。
 部屋の中央、青い光を放つそれは、一言で言うなら巨大なカプセルだった。巨大なカプセルには何かしらの液体が満たされていて、そこに一人の男の子が浮かんでいた。
「驚いたかい?」
 男の子の声が響く。羊水に浮かんでいるようなその男の子は口も開いていないと言うのに、部屋には確かに少年の声が響いていた。
「ボクを造った人は機械かぶれでね。まっとうな魔術師ではなかったんだ。それでこんな見苦しい恰好になってしまってね」
 苦笑交じりの男の子の声。
 ケイは目を見開いた。その男には見おぼえがあった。黒髪に色白、痩せっぽちでひ弱な感じのその男の子は。
「そうだ。ボクの姿は、君の小さい頃の体をモデルにして整えられたんだ。そうだな。ボクは少なからず君の魂を使ってこうして生きてきたから、クローンと言ってもある意味差し支えないかもしれない」
 男の子は驚きのあまり声が出ないケイを置いてけぼりにしてどんどん話を進める。
 ケイはしばらく呆けていたが、憑かれたように話す男の子の声を震える声で遮った。
「き、君がこの世界の柱か? だとしたら、破壊することになるんだ。悪いけど――」
 敵意の欠片もない男の声にケイはそう尋ねた。
「柱、ねえ。何だ。何も分からずにここへ乗り込んで来たのかと思いきや大体事情はのみこめているのか」
 ケイの子供の頃にそっくりな男の子は面白がるようにそう言った。
「事情? ここの世界が造りものだってことか?」
 男の子に敵意は感じられないし、不思議と恐怖も感じられなかった。だが、それを補って余りあるくらいに気味が悪かった。ケイは朧を構えて慎重にそう言葉を紡いだ。
「なんだ、知っているのか。面白くないな」
 人を食ったかのような調子で男の子は言う。ケイはそんな男の子の声に少し苛立ちを覚えた。
「――悪いけど、君が『柱』だって言うのならぶっ壊すことになるけれども、恨みっこなしだ」
 冷たいケイの声に男の子はむしろ喜んだような調子で返した。
「怖いなあ。でもそれは願ったりってヤツだよ。ボクは早くココから解放されたくてね。できれば今すぐにでも殺して欲しいくらいだよ」
「今すぐは壊さない。仲間から合図があったらだ」
 ケイはぶっきら棒にそう言い放った。
「じゃあそれまではお話ができるわけか」
「別にあんたと話すことなんてないよ」
 こんな気味の悪い奴とは話をしたくなかった。できれば悲鳴くらい最初に上げるべきだったのかもしれないが、もう色々と感覚が麻痺してしまっているためか、それもできずにただ目の前の男の子に嫌悪感を抱くしかなかった。
「なんだ。この世界を造ったのは君の父親だってことも知っているのか」
 男の子は気に入らなかったが、その一言は無視できなかった。
「そうか……」
 気が付けばケイは静かにそう呟いていた。
「おや、ボクとお話してくれる気になったんだね。嬉しいなー。ジェイの奴はまともに会話ができなかったから、人とお話できるのはコンラッド以来だよ。僕の名前はアイ。どうぞよろしく。ていうか君全然驚かないんだね。この世界を造ったのは君の実の父親だってボクは言ったんだよ。それを聞いて平然としているなんてすごいね。もしかして知っていた?」
 男の子はここまで息継ぎなしに全部言いきっていた。言いきってから軽く酸欠になったのか、はあはあと荒い息をする音が聞こえてきた。
 ケイはとりあえず最後の一文にだけ返事をすることにした。
「まあ、うすうす、ね」
 ケイはそう言ってポケットから黒い背表紙の手記を取り出した。そしてパラパラとめくる。
『昨日、妻と離婚するという話が出た』
 そう書かれていたページをめくる。
「この手記を読んでこれを書いた奴は妙に自分に似ているなって思ったんだ。第一、この世界がどうして僕の町を似せて作ってあるのかとか、どうして死んだはずのお母さんがいるのかとか、どう考えても、この世界を造った人は僕と深い関係があるに決まっていたんだ」
「そっか。君は賢いね。君の父親――源一郎とは大違いだよ。彼は酷く頭が固かった。ああ、気に障ったなら謝るよ」
「別に。僕はお父さんの顔を見たことすらないんだ。あんたがどう言おうと関係ない」
「つれないなあ。君の父親は君を愛していたかもしれないのに」
「出会ってもいないのに愛せる訳が無いだろ」
「いいや。源一郎は君の事を見ていたさ。ずっとね。ただ彼は接し方が分からなかっただけだよ。君や、君のお母さんとね」
「接し方?」
「そうさ。彼は引きこもりがちで、自室にこもって研究ばかりしているような人間でね。この世界でもずっとあの書斎にこもっていたよ。君の持っている手記はその書斎にあったものだね」
 ケイは手に持った黒い本を見下ろした。アイ、と名乗った少年は続ける。
「彼はよくここへ来て君の話をしていた。僕をまるで君と勘違いしているような時さえあった」
「お父さんは、人とかかわるのが嫌で、この世界を造ったのか?」
 ケイは情けなくなりながらもそう訊いた。アイはしばらく逡巡した後、語りだした。
「それもあったかもしれないけれども、彼はもっと他のことを望んでこの世界を造ったんだと思う。彼はいつも言っていた。この世界が完成したら、妻と子供とを招待して、楽しく暮らすんだってね。彼は長年ほったらかしにしていた君たちとの関係をそうすることで修復しようとしていた。だからこの世界を造ろうと思ったんだろう。この世界が完成すれば、魂の永久保存という現代魔術界においてはものすごい偉業が成し遂げられることになっただろうけれども、彼の目的は多分、そんな何でも無いことだったんだと思うよ」
「――」
 ケイは無言でため息をついた。呆れてものも言えない、というか。もしこの少年の言うことが正しければ、ケイの父親は間違いなく世紀の馬鹿だったに違いない。
「それで、失敗してこのざまか」
 ケイはそう呟いた。今すぐにでも手記を破り捨てたい気分だった。
「いいや。君の父親はどうしようもない馬鹿だったけれどもすごい人だった。だってもうすぐこの世界は完成しかけたんだから。失敗なんて微塵も犯していなかったさ」
「でも、外の世界はもう無茶苦茶だ。ゾンビが歩きまわっているし、変な狼みたいなのもいるし」
「それはコンラッドのせいだよ。彼が源一郎を裏切ったんだ。いや、正確に言うのなら、もとから源一郎は利用されていただけ、と言うべきか」
「どういうこと?」
 ケイは訝しげに尋ねた。
「コンラッドはもとから君の父親に協力する気なんか無かったってことさ。君の父親はこの世界を造るには自分一人ではいささか力不足と判断してジョセフ・コンラッドという有名な魔術師に助けを求めたんだけど、このコンラッドと言う男は自分のことしか勘定に入ってないような男でね。表面上は彼に友好的なふりをして、その実君の父親の造る世界を自分の実験場にしようとしたんだよ。他の魔術師に見つかったら糾弾されそうな危険なウィルスのね」
 アイは、そこで息継ぎをすると続けた。
「彼は源一郎のために水の精霊を捕まえて来て、この世界を支える力とした。だけど彼がしたのはそれだけだった。肝心の生産システムや魂の永久保存の術式は研究しようともしなかったんだ。それで君の父親とけんかになってね。君の父親を焼き殺したんだ。ここで口論していたよ。君の父親が怒って自室に帰って頭を冷やすとか言ってね、コンラッドに背を向けたんだ。その瞬間コンラッドが源一郎に魔法をかけて殺してしまったと言うわけさ。衝撃的映像だったな」
「――」
 何だか複雑な気分だった。アイはケイが何らかの反応を示すだろうと間を空けているようだったが、正直な話、何とも思えなかった。何とも思わない自分に疑問さえ出るほどだった。
 アイはしばらくのちに続けた。
「君の父親が望んだ『楽園』はその日から地獄のようになってしまったよ。ボクはここから全てを見ていた。コンラッドはやりたい放題だったよ。ムービックキューブをいくつも作ってね。いいように使えそうな人間のところにそれを送りつけた」
 その話を聞いた途端、ケイの脳裏に火花が散った。これは何かを思い出すときの感覚だ。ケイは頭に手を当てた。
「そうか、あの、ムービックキューブが」
 ケイの頭に自分の学習机の上に何時の間にやら乗っていた不自然な立方体のおもちゃの姿が思い浮かんだ。今まで何故か思い出せなかったが、アイに言われてようやく思い出せた。
 ということは自分も『使えそうな人間』とコンラッドに思われていたのだろうか。きっとそうに違いない。コンラッドは父親があれだから子供も間抜けだろうと踏んだのだろう。
 そして実際にその子供も間抜けな臆病ものだったわけだ。きっとコンラッドに魔法で脅されたらケイは言いなりになっていたに違いなかった。
「コンラッドは人体実験を繰り返した。グールもその一つだよ。彼はまずウィルスを作って、そのあと解毒薬を作るために抗体のある人間を探して町にグールを一体放った。彼はこのビルの屋上からワイン片手に町の人間が食われるのを鑑賞していたそうだよ。何日かに一回ここへ来てそんなことを自慢げに話していた。彼の研究はどんどんエスカレートしていった。おそらく高値で買ってくれるところを見つけたんだろうね。彼は解毒剤の研究と同時並行でまた別に他のウィルスを作り始めた。それがあの狼――ヴリコカラスを作る薬さ。だけど、彼の研究はそこで終わりを告げたんだ。ある日彼は源一郎の書斎に誤って足を踏み入れてしまってね。そこにかけられた魔法が作動してジェイから敵と認識されてしまったんだ。源一郎が死んだからって油断したんだろうけれど、作動したのはまだ生きているジェイに起因するものだったから、魔法はきちんと発動したわけ。簡単に言うと源一郎の書斎に部外者が入った途端ジェイが反応して対象を殺しに来るって話さ」
「ジェイ?」
「あれ? 君まだ会っていない? 君の母親の魂と君の魂から造られた水銀の人形だよ。あれは源一郎の自信作でね。ああ、彼はああいう人形を作ることに関しては天才だったんだ。人間誰にも特技ってものはあるもんだ」
 水銀の人形。ケイは奥歯を噛みしめた。
「僕の、魂、だって。それにお母さんの、魂って」
「源一郎は事故にあった君と君の母親の魂を抜き取ったのさ。体が死んでいた君の母親からは全部。君からは半分くらいね。もともと魔力のあった君からその分の魂を抜き取って来たんだね。魂は巨大なエネルギーだ。生命力、魔法の源。彼はそれをこの世界の維持の補助に使った。すなわちそれがボクとジェイなわけだけど」
「そうかよ! 僕の父親は人間として間違っていたわけかよ!」
 ケイは怒りさえ覚えながら手に持っていた黒い手記を破り捨てた。許せなかった。あの事故で苦しんでいた自分を救ってくれるどころか、こんな張りぼての世界を造るために利用するなんて。魂なんて概念は理解できないけれども、きっとそれは重要なものだ。それを、実の息子と妻から抜き取って弄んでいたなんて。
 破り捨てた手記からはらりと一枚の写真がこぼれ落ちる。
「ああ、おそらく君の父親は人間としておかしかったんだろうね。マッドサイエンティストどころの話じゃなかった。文字通り気が狂っていたと言ってもいいね。でも」
 ケイはプラグの広がる床に舞い落ちた一枚の写真を見やった。写真はケイとケイの母親が小学校の入学式の時に撮ったものらしく、幼い自分と綺麗な母親が左横から撮られていた。きっと盗撮まがいのことをして撮ったに違いない一枚だったが、確かに、焦点はケイと母親に当てられていた。
「きっと、悪人じゃなかったんだ。多分ね。君から抜き取った魂には事故の記憶が書き込まれていたし、我が子をさいなむ最悪の記憶を消しさるという点で、彼にとっては一石二鳥だったんだろうね」
「ッ」
 ケイはやり切れない思いに手に持った朧を地面に広がるコードにたたきつけた。
「おっと。もうボクを殺すつもりかい? いいね。だいたい話をするのに疲れてきた頃さ」
「合図はまだだよ」
 ケイはぶっきら棒にそう言い放った。
 信じられない、という気持ちでいっぱいだった。一気に色々と分かったような気がしたが、浮かんでくる新事実はどれも自分の父親が人間として破綻しているという内容のものばかり。ケイは嫌気がさしてきた。
 それでも、父親を攻めきれないのは、ケイが心のどこかでしかたないと諦めているからかもしれない。父親はちゃんとケイとケイのお母さんのことを自分なりの勘定に入れてくれていた。だけど父親は気が狂っていた。ただそれだけの話だ。そんな馬鹿な父親は最後は悪い魔法使いに騙されて殺された挙句、頑張って造ろうとした『楽園』まで無茶苦茶にされてしまった。
 ただ、それだけの話だったが、ケイは何だか悔しくて悔しくやり切れない思いだった。
「ボクを殺す時はそこの――」
 アイがそう言うとカプセルの下のボタンがピコピコとオレンジ色に点滅した。
「ボタンを押してくれればいいから。これで羊水が排出されて、気付いたらボクは勝手に死んでいるよ」
「あんた、何でそんなに死にたがっているんだ?」
 と、ケイは尋ねた。
 疑問だった。死ぬのが怖くて、ただ生きていたくてここまで必死に逃げてきたケイには理解できないことだった。
 アイはそんなの決まっているじゃないか、と言って続けた。
「ボクはここから出ることはできない。それでこんな誰もいないような広い部屋で一人でずっと存在しているなんて地獄の苦しみだよ。だから、ボクは殺して欲しかったんだ。ずっとこの孤独の内で生き続けるか、今ここで死ぬかなら、死んだ方がマシだと思ったわけだよ」
「でも、死ぬのは良くない」
「君には分からないだろうさ。こんな部屋に一日中引きこもって、延々とこの壊れた楽園を眺め続けるなんて、もうしたくない」
 アイの声はここに来て何の感情もこもっていない無表情なものになった。
 ケイはそんなアイの声を聞いて返す言葉が浮かんでこなかった。もし自分がアイだったら、と考えてしまう。それで、アイが自分ならきっとケイよりは有意義な人生を送るのではないだろうか、と。今まで堕落した人生を送って来た自分が猛烈に申し訳なくなった。
 ケイはそれでも何か言葉を探すように口を開いた。口を開いて、結局言葉は出てこずにパクパクと口を動かすだけに終わってしまう。
 そのとき、ものすごい振動がビルの下の方から伝わって来た。羊水の少年が揺れる――いや、揺れているのはケイの方だった。まるで巨大な地震が怒ったかのようにビルが大きくしなっている。
「風変わりな合図だね。君の相棒とやらも随分と派手なことだ」
 アイがのんびりとした調子でそう言う。
「いや、違う」
 ケイは目を見開いて呟いた。ハクならこんな合図をするはずがない。このような大きな音を出してしまっては今もケイとハクを探しているだろうあの水銀の女に居場所を教えるようなものだ。そんなことハクなら先刻承知だろうからこの轟音はほとんど百パーセントハクの合図などではない。
 この轟音の正体として考えられるのは――。
 嫌な汗がケイの腋の下にジワリとにじむ。
「ハク」
 ケイはドアに向かって駆け出そうとした。
「待ちなよ。とりあえずボクを殺しておいてくれないか? そこのボタンを押せばあとは勝手に死ぬからさ」
 ケイの背中からアイの声が響く。ケイはハッと我に返った。そうだ。もしものときは『柱』を破壊する。それはハクと決めたことだ。そして今がその『もしものとき』なのではないか。
 ――でも、間違っていたら。
 再び爆音が伝わってくる。今度は断続的に六つ、七つ……いや、数えきれない。
「全く、騒々しいな。誰かが下で騒いでいるのか」
「っ。おい、あんた、下がどうなっているのか『分かる』んじゃないのか?」
「ん? ああ、見えるよ。銀色の髪をした女の子が壁にぶつかっているな。それで、この銀色は、ジェイか」
 考えている暇はなかった。このままでは肉体云々の前にハクの魂が死んでしまう。
「お前を殺すにはそのボタンを押せばいいんだね?」
「そうだよ」
「本当に、死んでいいの?」
「愚問だよ、それ」
 アイは長く息を吐くようにそう言った。ケイはつかつかとカプセルまで歩み寄り、橙色に光るボタンを押した。途端、カプセル内を照らしていた青白い光が消え、キツネ火の光が鮮明になる。同時にカプセル内の液体が少しずつ排出されていく。
「ありがとう、ケイ」
 呟くアイを振り返ることもせずにケイは入口まで駆けていった。
「ああ、もう一つ」
 足を止めて振り返る。
「ここから南へ下って行くと海岸があるよね。そこにこの世界を支える精霊が封印されている。それを破壊すればこの世界は完全に崩壊する。君たちも元の世界に戻れるだろう」
「お前を殺すだけじゃ駄目だったのか」
「そうだね。だから精霊を助けてあげてくれ。彼は、とても苦しんでいる」
 光の消えたカプセルの中を浮遊しながら、アイは虚ろに響く声でそう言った。
「アイ」
 ケイは静かに死にゆく少年に呼びかけた。
「ありがとう」
 ケイの言葉に、一瞬アイが拍子抜けしたかのように間が空く。それからフッと笑みをこぼすような調子でアイは返した。
「生きろよ、ケイ」
 ケイはしっかりと闇に浮かぶアイの姿を目に焼き付けると、背を向けて扉から鉄砲玉のように飛び出した。
 轟音が続いている。
 嫌な想像を振り払いながら、ケイはひたすら下を目指した。

          ×                 ×

 階段を降りるスピードは、ケイの心の焦りと比例してどんどん増していった。いつの間にかケイはいつもなら絶対にしないだろう、二段飛ばしで階段を降りるということをしていた。今こうして足を踏み外さずにいるということが不思議なくらいだ。
 ――ハク。
 きっと、階段で転ぶなんてことはどうでもいいことだったのだろう。そんなことよりも、今は彼女の事が心配だった。音は既に止み、ビルは再び静寂に包まれていた。その静寂を破って、階段をかけ降りる。いや、かけ落ちる、と言った方が正しいだろうか。
 膝にかかる重圧を無視して下を目指す。
 ――ハク。
 一緒に帰ると約束したんだ。
 こんなところで彼女が死んでしまって良いわけが無い。
 ――ハク……!

          ×              ×

 そうして、階段を下りて、ケイは再びビルのエントランスに出た。
「なっ……」
 驚愕に目を見開く。
 抉られた床はまるで爆撃されたかのようにボロボロで、周囲の壁には深い斬撃の跡が残っている。テロでもあったのではないかと思わせるビルの一階には、一つの人影がたたずんでいるだけだった。キツネ火の光を反射して銀色に濡れ光る体。あの水銀の女――ジェイだ。
 そして、そのジェイの前にはうずたかく積もった砂の山があった。あれに水を混ぜてこねればちょうど等身大の人間が造れるほどの。
「そんな」
 ケイは茫然と呟いた。朧を持った左手が震える。
「ハク!」
 呼び声に答える声はなく、水銀の女がゆっくりとケイの方に体の向きを変える気配だけが伝わって来た。
 ――ハクが、死んだ。
 茫然となる。もう体中から力が抜け落ちてしったかのようだ。
「どうして……! どうしてだよ、お母さん……!」
 自分の母親に似た水銀の女性に向かって叫ぶ。彼女にとっては自分の『王国』に侵入してきた不届きな人間を排除したにすぎないことなのだろうが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「どうして……ハクを……ッ!」
 憎しみ切れない愚かな自分を憎みながらケイはこちらへと距離を詰めて来る銀色の人形を見据えた。
「お母さん……!」
 直後、水銀の槍が走った。それを咄嗟に逸らそうと意識を集中させるが、遅かった。わずかに曲げきれなかった水銀の槍はそのままケイの右肩を貫いた。
 絶叫する。苦痛はグールに噛まれた時の比ではなかった。熱い。傷口が焼けるようだ。焼き鏝をあてられたかのようにうずく刺突された肩。刃が引き抜かれるとびっくりするくらいに血が出てきた。ケイは左手を傷口に強く押しつけながら、次に来るであろう衝撃に身を固くした。しかし、次の攻撃は飛んで来ずに、代わりに女の苦痛の悲鳴を聞いた。
 長い。頭痛に悶え苦しむかのような女の叫び声。見るとジェイは頭を抱えて悶え苦しんでいた。
「っ」
 考えている余裕はなかった。ケイはジェイに背を向けて非常階段へと走った。
 逃げてどうするかなど考えていなかった。とにかく今の内に少しでも距離を離さないと即座に殺されてしまうと思った。
 ――冷静になるんだ。
 理性が半狂乱になっている本能を押さえこもうとする。しかしそんなもので冷静な思考などできるはずもなかった。
 階段を上る。手すりの下を見ると、銀色に濡れ光る斧が階段を破壊しながらケイを追って来ていた。
 頭の中にアイの一言が響き渡る。
 生きろよ、ケイ。
 ハクは死んでしまった。自分も重傷を負ってしまった。もうあきらめてしまってもいいような状況で、アイの言葉が生きることを切望するかのような響きをもって脳の奥に反響する。
 ――生きるんだ。
 暴れる本能を押さえつけようと必死になる。
 あんなのは殺しきれない。超能力で吹き飛ばしても生半可な衝撃じゃ死にはしないだろうし、ねじりつぶすにしても大分水銀の鎧を薄くしないと不可能だ。
 右肩にジクリと痛む傷が本能を混沌とさせる。生物としての自分がもう駄目だと泣き叫んでいる。でも死にたくなかった。死にたくなければこの状況を切り抜けるしかなかった。
 五階と刻まれた踊り場を蹴る。
 ……血が抜けたからだろうか、ありがたいことに頭が急速に冷えてくる。
 あいつを倒すのは不可能だ。だから、逃げ切って『封印』とやらを解けばいいのではないか、と冷静になった頭にアイデアが浮かぶ。
 ――でも、どうやってあいつを巻けばいいんだ。
 ケイは背後に迫る銀の斧を見やった。
「っ」
 意識を集中させる。しかし力場の固定がうまくできない。当然だ。だって水銀の斧はかつてないスピードで動いているのだから。
 銀の断頭台が迫る。
「く、あああああ!」
 再度意識を集中させる。目の前には七階と書かれた踊り場。ドクン、と朧がケイの能力を補助するかのように脈動する。ケイは自分自身に向けて横殴りの衝撃を放った。吹き飛ぶ体。空中に舞う自分の体。それに一瞬遅れる形で水銀の刃はケイが一瞬前までいた空間を裂いた。
 廊下を転がって、なんとか起き上がる。右肩から激痛が走り、血が飛び出る。同時に七階の踊り場の壁に、勢いを殺しそこなったのか、水銀の塊が激突する。
 床を揺らす衝撃はもう聞こえない。聞こえないほどに自分の心臓がバクバク言っていた。
 手近な会議室に飛び込む。扉を閉める。
 ケイは、広く何も物が置かれていない会議室の真ん中まで這うように移動した。
 側面はガラス張りの町を見下ろせるようになっていて、暗い月光が会議室の中を照らしだしている。
 まるで神にでも祈るように跪く。目を閉じて、ケイは小さく震える体を両腕で抱きしめて深呼吸を繰り返した。かき抱く体の震えは止まらず、閉じた目からは涙があふれてくる。
 ――僕は。
 そしてケイは朧の柄に手をやり、力を込めた。朧は鞘から当然のことのように抜けた。高鳴る鋼の振動が告げる。必ずお前を守ると。
 同時に会議室の扉が水銀の重みでへし折られる。
 ――僕は、生きるんだ。
 ケイは立ち上がった。意識を集中させる。形を成す水銀は人影を成す前に七つの銀の針を打ちだす。ケイはそれを左に逸らせた。曲がった水銀がケイを追尾してくる。咄嗟に朧でその攻撃から身を守る。同時にケイは薄くなった水銀の女に意識を集中させる。
 ――曲がれ!
 ぐにゃりとしなる銀の体。しかしねじりつぶすには至らず、くらりとよろめいたケイは今度こそ、ハンマーのように形を変えた水銀の塊にサイドから殴り倒された。
 壁にぶつかって、跳ね返る。骨がジワリと痛む。目が回って周りの風景が分からないまま、気が付いたら自分は床に転がっていた。
「ぁ、」
 見上げるとガラス越しの三日月を背に銀色の女が立っていた。しかしその顔の眼はケイには焦点があっておらず、まるで悪夢にもがいているように両腕から生える銀の鞭をうねらせている。
 その一撃がケイの頭を偶然狙う。
 朧を前に突き出した。目をつむってがむしゃらに突き出した日本刀はそのまま銀の刃に弾かれ、ケイの手を離れて高々と舞い上がった。宙に弧を描いた朧はそのまま女の背後の床に突き立った。
 ――終わった。
 そう思った。生きるという言葉に頷き、ハクを失って、ようやくここまで来たと言うのに終わってしまった。
 もう助けは来ない。奇跡は起こらない。
 次の瞬間、無慈悲な銀の刃がケイの頭上から振り落とされてケイは真っ二つに切断されて死ぬ。
 意識が銀の槍に収縮される。
 「ぁ」
 そして銀の槍がほとばしった。見えるはずの無い銀光がまるでスローモーションで再生しているかのように流れる。もしかしたらかわせるんじゃないか、とか身の程知らずの考えが頭に浮かぶ。
 世界が消えていく。
 中野ケイは、そうして、死んだ。

         ×              ×

 そして、ケイの体を叩き割るはずの銀光は唐突に制止した。
 刹那、町を一望するフロアの強化窓ガラスが轟音をまき散らした。ダイヤモンドダストのように砕け散り風に舞うガラスの中、強風とともにハクが踊りこんできた。
 ハクは姿すらかすむ動きでジェイの背後の床にささっていた朧を抜き放った。
「は――――!」
 本来の主を取り戻した朧が月光を反射しながら閃く。逆袈裟に切り裂くその軌跡にジェイはケイに向けていた銀の鞭を振るう。しかし朧はその槍をこともなく打ち砕き、水のような水銀の体を切り裂いた。女の胸に輝く赤い結晶を朧の刀身がかすり、ぴしりとひびが入る。
「アアアアアアア!」
 ジェイは甲高い悲鳴を上げた。悲鳴を上げて、会議室の天井を打ちぬいて上へと姿を消していった。
 ハクはピン、と朧を血振りするかのように振るうとケイに駆け寄って来た。
「ケイ、大丈夫?」
 どこかで嗅いだような、シトラスフルーティーでジャスミンフローラルな香りがふわりとケイの鼻をくすぐる。差し出された手を思わず握ると、その手はほんのりと赤く温かかった。
 血の通っている人間の手と、死んだはずのハクが今目の前にいると言うことが信じられなくて、ケイはハクをただ見つめていた。
「ハク……? 本当に、ハクなの……?」
 信じられないという思いでうわ言のように口を動かす。痙攣するかのようなケイの唇は微かな吐息のような音を漏らしただけだったが、それでもハクはにっこりとほほ笑んでくれた。ギュッとケイの手を握り返してくれる。
「ええ。心配させてごめんなさい。もう――」
「ハク!!」
 ケイは思わずハクに抱きついていた。
「良かった。良かった。無事で……!」
 ハクの体の温かさを確かめたくて夢中で抱きしめる。ずっとこうしていたいとかハクの感触に麻痺してしまった脳細胞が叫んでいる。
「ち、ちょっと、ケイ」
 当然だが、ハクの方はやや狼狽した風にケイの背中を叩いた。それでもケイが体を離す気配が無いと知って、
「あ――」
 簡単にケイの束縛からすり抜けてしまった。ハクが薄暗闇の中でも分かるくらいに頬を真っ赤に染めて咳払いする。その様子を見て、ケイもはっと我に返った。自分はなんて破廉恥なことをしてしまったんだろうと後悔するも、後の祭りだ。ハクと同じように頬を赤らめる。
「とにかく、貴方が無事でよかった」
 ハクは表情を引き締めながらそう言った。
「う、うん……」
 ケイの方は相変わらず切り替えができずに顔を赤らめたままになってしまう。
「でも、ハク、どうして――」
「積もる話はあとね」
 ケイの問いにハクは短く返す。ハクはキッと打ち抜かれた穴を見上げた。天にまで続きそうな穴からは、本当に闇空の星を臨むことができた。
「今は、あいつを倒す。貴方はここで待っていて」
 そう言うや否やハクはトンと軽く会議室の床を蹴った。そして嘘のような身軽さで穴の淵から淵へと跳躍して上へと飛び上がって行く。
「ちょ、ハク……!」
 ケイは叫んだが、もうハクは屋上の方へと姿を消してしまっていた。同時に戦闘開始を告げるかのような一際高い剣戟が穴を反響してケイの耳まで響いてくる。
「く……ッ!」
 ケイは思わず会議室から飛び出した。
 ハクはここで待っていろと言ったが、こんなところでじっとしていたくなかった。上ではハクと、そしてケイの母親の面影を持った女性とが戦っているのだ。どちらも死んでほしくなかった。
 自分が行ったからと言って何か変わるわけでもなかったが、とにかくじっとしていることなどできるはずもなかった。
 手に残るハクの温かな感触。苦痛にもがく母親の絶叫。
 何ができるかなんて関係なかった。何か、したかった。
 非常階段を一段飛ばしに駆け上がる。切れそうになる息を気合いで続けて、ケイはひたすら上を目指した。

            ×               ×

 その勢いのまま、屋上に飛び出る。
 ドアを開け放って見た光景はただひたすら息をのむばかりのものだった。
 銀の鞭が今までに無い速さをもって屋上の床を、大気を切り裂いていく。ジェイが腕を動かす度に先の刃は冗談のように加速していく。
 その超高速の斬撃を、ハクは完全に見切っていた。
 今までのハクの力は本当に限定されたものだったと言うのか。ハクの動きはそれこそ出鱈目だった。荒れ狂う銀の旋風を、月光をはね返す朧の銀閃が弾き返し、打ち砕く。
 それは閃光だった。
 ふるわれる銀の鞭。ハクはそれを紙一重の動きでかわす。斬りつけるハクの朧は以前のように水銀の体に弾かれることなく、削り取るように火花を散らせ、文字通り敵を摩耗させていく。
「アアアアア!」
 泣き叫ぶような女の声。直後、女の体が弾けた。
 背中から衝撃を受けたかのように胸を反らす銀の体。その胸の部分から無数の水銀の針が飛び出る。
「ハ――」
 ハク、と叫びそうになったが、その必要はなかった。ハクの体がそこから消える。水銀の槍が貫いたのはハクの消えゆく残像にすぎなかった。
 ハクは女の背後に回り込んでいた。ふるわれる朧にジェイの体がもんどりうって倒れる。陥没する屋上の床。一瞬球形になった水銀の体は、すぐさまハクに次なる攻撃を仕掛ける。
「――」
 ハクは渋い顔をしていた。
 水銀の女の攻撃は悉く空を切っている。それにも関らず、ハクは女を倒しきれずにいるのだ。
 女を追いつめたかに見えたハクは獣のような素早さで一気に間合いをあけた。
 二十メートル。ハクはそれだけの間合いを一瞬の後退でもって開けてしまっていた。
 攻めあぐねたのか。それとも仕切り直そうとしているのか。
 ケイはハクに駆け寄ろうとして。
 直後、全身の細胞という細胞が怖気だった。
「終わりにしましょうか」
 ハクは感情の無い声で彼女はそう宣言した。
 右手に取り出した白い紙を中空に投擲する。紙群は空気抵抗など無いかのように水銀の女の頭上に展開する。
 途端、空に浮かぶ白い紙が帯電した。
 一度目の紫電より二度目の方がより強力に。三度目は磁気嵐さえも巻き起こすかのように。
 そして、四度目の電光が走ったとき、水銀の女の体がすさまじい勢いで吸い寄せられた。
 それは、ケイが使っている超能力が強化されたような魔法だった。ジェイの体は白い三枚の紙に磔にされ、水銀の体は引き伸ばされて薄くなる。次いで胸元の赤い核がむき出しになった。
「朧よ――」
 ハクの魔力が燃え上がる。彼女の体を包む青いオーラがまるで燃え盛る炎のように揺らめく。大気から吸い上げられる生命力。空間そのものを斬り殺すかのようなハクの殺気は、冷たい夜の屋上をさらに凍てつかせているようだった。
 ハクの呼びかけに応じるように脈動する朧。ハクの魔力を吸い、いつかのように朧の刀身が物理法則を捻じ曲げて巨大化する。
 刀身が二倍、四倍、八倍と増大していく。下段に構えられた朧は屋上の床を貫通し、さらに脈動を続けていく。
 朧が過剰な白い光に包まれる。まるでほとばしる魔力の開放を今か今かと待っているかのようだった。
 白く、さらに白く周囲を染め上げていく朧はまるで月がこの場に降りて来たかのような錯覚を見せる。闇空を水平に貫く巨大な光の刃が、さらに増大していく。
「あ、アアアアアア、ア――――!」
 宙に磔にされたジェイが叫び声をあげる。自身の絶体絶命を悟ったのか、必死でもがいている。直後、ガラスの割れるような音とともに空に浮かぶ三枚の短冊のうちの一つがはじけ飛んだ。
「な――」
 驚きはハクのものだった。ハクはすぐに表情を引き締め、巨大な光の刀を振るう。
 しかし、それは遅すぎた。自由になった半身からジェイは既に水銀の刃を繰り出していた。直下する銀の槍にハクは目を見開いた。なんとか、敵の刃がこちらに届く前に朧を一閃する。そうすれば一撃で向こうの核は破壊できる。
 しかし間に合わない。一瞬後に自分を貫く銀の槍のイメージにハクは内心冷や汗をかいた。
 間に合わない。
 ハクは歯を食いしばりながら朧をふるう。
 刹那の差で自分は敗北する。
 届いて、とハクは天に祈った。そして――、

そして、朧は横薙ぎにジェイの体を核ごと両断した。
完全に遅れる形でふるった朧の一閃は、どうしたことか、向こうの銀の槍よりも先に敵を打ち砕いていた。
ハクは再度目を見開いた。
彼女の前、大の字に体を広げ、彼女をかばうように立つケイの姿がそこにあった。
きっと、ケイの体は勝手にそのように動いてしまったのだろう。彼女はケイの乱入には気が付いていたものの、まさかこのタイミングで前に出てくるとは思ってもいなかった。
彼の力を使えばそのようなことをせずに済んだかもしれなかったというのに、ケイは身を呈してハクを守ろうとしたのだった。
「ケイ――」
 茫然とそう呟くハク。
 ハクは呆けたように立ち尽くし、それから我に帰る。
「あ……」
 ハクは見た。体を広げて彼女を守るケイの鼻さきで、ぴたりと制止する銀の槍を。

 ケイはゆっくりと目を開けた。衝撃は未だ訪れず、自分の体は無事なままだった。右肩から流れ出る血のせいでくらくらするが、それでも自分は立ってそこにいた。
 理由はすぐに分かった。迫る銀の槍はケイの目と鼻の先で停止していた。
 どちらにも死んで欲しくなくて、飛び出した自分。そんな馬鹿な自分を前にして、自分を貫いていく銀光は唐突に動きを止めていたのだ。
 ケイは唇を震わせながら空を見上げた。水銀の体は両断され、赤く輝く核も完全に破壊されている。そんな状態でありながら、空に浮かぶ女性は、確かにケイを見ていた。
「お、母、さん」
 力の無い声で、振り絞るように呟く。
 悪夢から覚めたかのように大人しくなった母親を凝視する。
「お母さん!」
 二度目は腹の底から力任せに叫ぶように。
 その声は果たして届いたのだろうか。
 そのまま銀色の母親は、砂が崩れていくようにビルの下へと落下していった。

       ×              ×

 そうして、ケイは崩れ落ちた。その場に膝からがくりと倒れていく。誰かが駆け寄ってくる気配にぼんやりと顔を上げる。当たり前だが、それはハクだった。
「ハク、僕、お母さん……」
 うわ言のように支離滅裂なことを繰り返すケイにハクは有無を言わせず手早く右肩の傷の止血をしてくれた。破いたケイの上着のそでで傷口をきつく縛り、そのあと血で染まったケイの右肩に手を当てて何事かを呟く。
 すると不思議なことに痛みが和らいだような気がした。
「ちょっとした応急措置よ。とにかく場所を――」
 ハクはそこまで言ってふと空を見上げた。
 それから、雨、と一言呟いた。
 ハクに助けこされてはいるが、抜けがらのようになっているケイの頬にもぽつりと冷たい雨粒が弾けた。
 その冷たさに無理やり現実に引き戻される。
 あれは、自分の母親ではなかったのだと自分に言い聞かせる。そうだ、ハクの前で泣いてなどいられない。伝えるべきことは伝えないと、とケイは唇をかみしめた。
「ハク、聞いてほしいことがあるんだ」
 ケイはそう言うと、ハクと別れてからの事をポツリポツリと話し始めた。例によってケイの話しは真ん中から始まって最初に戻っていくような拙いものだったが、それでもハクは根気よく最後まで聞いてくれた。ハクはこの世界を造ったのはケイの父親であるというケイの告白に大体予想は付いていたわ、というような得意げな顔になったが、ムービックキューブの話しや、コンラッドの悪行の件になると、だんだん機嫌が悪くなっていった。
 ケイが話し終わると、ハクはフーと長く息を吐いた。
「そっか。なるほどね。ここから、あの――」
 ハクが南を見やった。そこには暗い海が広がっているはずである。
「海岸に封印の起点があるわけね。それで、それを壊せば元の世界に戻れると」
 ハクがこれからすべきことを簡潔にまとめてくれる。
「そう。だから、早く行かなきゃ」
「そうね。貴方のその肩の傷は重傷よ。早く病院へ行った方がいいしね」
 ハクはそう言うとケイを立たせてくれた。
「ハクは、体を見つけたんだね」
「ええ。核を造っている途中にあの女に邪魔されて、それで私ぺしゃんこにされたのよ。上から落ちてくる水銀の塊を見てここまでかって思って、目をつむったの。そうしたら体が潰されると同時に魂だけ弾きだされたような感じになった。それで意識だけぼんやりしたままどこかに吸い寄せられていくなーって思っていたら、体に魂が入ってくれたの。私の体、このビルの隣のビルの宿直室の中で眠っていたのね。魂が酷い目に会っていたっていうのに、体だけのんきなものよね」
 彼女はそう言ってあははーと笑った。そんなハクの笑顔に、ケイもつい口元をゆがめた。
「行きましょうか。帰ったらシャワーを浴びて、おいしい物をたっぷり食べないとね」
 ケイはそんな明るいハクの声にこくりと頷いた。
 ハクはよし、と言うとケイの手を引いて屋上の端まで移動した。町に降る雨はどんどんと激しくなっていく。まるで崩壊を前にした終わりの雨のようだった。
 呼吸を整えるケイの横で、ハクが低く呪文を唱える。すると、ふわりと二人の体が浮き上がった。
「行くわよ。とりあえず海岸まで飛びましょう。それから、封印の位置は下りて探しましょう」
 ハクがそう言う。
と、不意にじゅっという音が聞こえて、視界が完全に真っ暗になった。
ケイが見ると、キツネ火がいた場所からぶすぶすと煙が立ち上っていた。
「雨でやられちゃったか」
 ハクが呟く。それから手をひと振りする。ほどなくして先程までのキツネ火とはケタ違いに明るい(でも色は同じ青い光だった)キツネ火が生成される。まるで大きなかがり火のようだった。
「これで炎も消えることはないでしょう」
 ハクはそう言うとケイににっこりとほほ笑んだ。
 空を飛ぶ。
 雨風を切り裂いてケイとハクは海岸を目指して飛んだ。二人とももうすぐ元の世界に戻れるという希望でいっぱいだった。
 ……たすけて。
「ぁ……」
 不意に頭の中にずっと響いて来ていたあの声が囁かれる。不思議といつものように頭痛はしなかった。
 そうか、君は、もしかしなくとも、この世界に封じ込められた精霊だったわけか、とケイはその囁きに返した。
「どうしたの?」
 隣のハクが訝しげに尋ねてくる。
「いいや、何でもないよ」
 ケイはただ一言、そう答えた。
 空は灰色に染まり、あれほど町に浸透していたかのように思えた暗闇は不思議なことに少し和らいでいるようだった。
 天にも届きそうな中を飛んで行く。
 もうすぐ、海岸に着きそうだ。
 その時だった。
 暗い闇空に一つの巨大な咆哮が響き渡った。
 血も凍るかのような長い遠吠えは、ケイの表情を瞬時に強張らせた。ケイが咆哮のした方を見ると、闇空に悪魔のように翼をはばたかせる一頭の狼が浮かんでいた。
「あいつ……!」
 ハクが切羽詰まったような呟きを漏らした。
「下りるわ。このままだと戦えない」
 ハクはそう断言するや否や急降下し始めた。ほとんど自由落下と変わりないような感覚で下に落ちる。ケイは落ちていく感覚に意識が飛んでしまいそうになったが、目を瞬かせて何とか我慢した。
 速さこそあれ、着地は滑らかだった。急に減速した落下スピードをまずハクが着地し、そのあとハクがケイを受け止めるという形になった。そして、ケイを受け止めるや否や、ハクはケイを思いっきり海岸の方へと投げ飛ばした。もんどりうって転がるケイが身を起こした時には、急降下してきた狼をハクが迎撃したところだった。いつぞやの焼き増しのように狼を弾き飛ばすハク。しかし、小山ほどもある大きな狼はその黒い翼をうまく使って勢いを殺していた。
「行って!」
 ハクの怒号が響く。
 ケイは反射的に立ちあがって、全速力で海岸を目指した。後ろから巨大なキツネ火がケイの行く先を照らし出してくれている。
 その青白い光とは別に、微かな青い光が海岸に見えた。ケイが目を細めると、その姿が浮き彫りになっていく。
 それは巨大な黒い十字架だった。煌々と輝く青い光はどういうわけか、あの不思議な十字架から発せられているものらしかった。
 ――あれか!
 ケイは目を細めた。ねじりつぶせるだろうか。いやまだ無理だもう少し詰め寄らないと力が弱いかもしれない。
 ケイは海岸に足を踏み入れた。地を蹴る靴が海岸の砂を蹴りあげる。湿った海岸の砂は重かった。
 ――よし、射程に……!
 ケイは左手を前に出して狙いを定めた。意識を集中させる。
「ケイ――!!」
 その時、突然ハクの金切り声が響き渡った。反射的に振り返ると、黒い狼が翼を水平に広げてこちらに滑空してくるところだった。
「っ」
 咄嗟に照準を狼に変える。それから意識を集中させる。
 だが力を完全に作り出す前に狼の攻撃はやって来た。何とか受け止めはするが、その強大な膂力に砂を踏みしめる足が軋みを上げる。
 ――なんて、力……!
 ざりざりざりざりざりと狼の力に押されて後退させられる。
 ――まず、押し切られ……!
 ケイが目を見開いた瞬間、巨獣の体は閃いた銀色の何かに横殴りに弾き飛ばされた。
「GAAAAAAAA!!」
 狼が吠える。見れば狼は水銀の塊に絡みつかれて全身を串刺しにされもがき苦しんでいた。巨獣と水銀が互いに互いを食いあうように組みついていた。
 膂力では上のはずの狼にジェイは張り付いて離れず、少しずつ狼の体を切り裂いていく。その様は鬼気迫る物があった。
 砂を力強く蹴る音が響く。
 追いついてきたハクが朧を投げ放った。投げ放った朧はレーザーのように狼の頭を正確無比に打ちぬき、そのまま巨獣を砂地に縫い付けた。
 狼がびくりと痙攣し動かなくなる。
 ケイは同じように動かなくなって、今は母親の姿に戻ってしまっている水銀の女に駆け寄っていた。
「ケイ――私ノ、カワイイ、ケイ……」
 水銀の女はうわ言のようにそう繰り返していた。
「お母さん……!」
 ケイは力なく横たわる水銀の体の横に跪いた。
「お母さん」
「ケイ……私ノ」
 銀色に光る手が痙攣を繰り返しながらケイの体を求めて宙をさまよう。ケイはその震える手を両手で抱きとめた。冷たい、何の熱もこもっていない無機質な手だった。それが自分の母親の手だと思ったら、どうしようもなく涙があふれてきた。
「お母さん、ごめんなさい。僕、お母さんに酷いことばかりして」
 水銀の母親はその目の焦点をケイにあてて、ふわりとほほ笑んだ。
「僕、お母さんのことも考えずにずっと迷惑かけて、」
 ケイの涙が頬を伝い、冷たい銀色の手の上に落ちた。
「ケイ、泣イチャ、ダメ、ヨ……」
 無機質だった声にはいつか自分に語りかけてくれた母のぬくもりがあった。ケイは血の通わない銀の手に顔を寄せた。
「ケイ、私ノ、カワイイ、ケイ……」
「そうだ。僕はケイだ。お母さんの、――お母さん、――死なないで」
「ケイ――」
 呼びかける母親の声。その声に、その体に、そのぬくもりにすがりつくようにしてケイは絶叫した。
「お母さん、ずっと会いたかった! あの時からずっと、謝りたかった! ずっと、一緒にいたかった! ――僕は、僕は、ずっとお礼を言いたかった!」
 水銀色の手がケイの髪をふわりと撫でる。ケイは目を閉じてその感触を確かめた。
 私の、かわいい、ケイ、と女は繰り返す。意識があるのかどうかすら分からない。だけれども、その瞳が自分をとらえている限りは、彼女を母親だと思っていたかった。
 しかし、女の体は表面からまるでガラス玉のように弾けて細かい銀の粒へとなり始めていた。
 ケイは息をのんだ。
「いやだ。止めろよ! まだ話したいことが残っているんだ。だから――」
 ケイは必死で濡れた砂浜に散らばる銀のしずくをかき集めようとした。だけど、握った銀の手から両手を放したくなくて、それからもうどうしようも無くなって、再び母親へと向き直った。
「生キテ、ケイ――」
 呟く声は自分に向けられたものだった。
 生きてと、彼女は確かにそう呟いた。
「生キテ、ケイ」
 ケイは手を強く握りしめた。もう絶対に放したくないと母の命をつなぎとめるように力を込める。
「分かった、何でも言うこと聞くから、」
「生キテ、ケイ――私ノ」
 吐息を漏らすような呟きは、そこで唐突に止んだ。残った残響すらもさざ波の音にかき消されていく。
 私の、かわいいケイと、もう一度言うことなく、母親の手から力が抜けていく。同時に人型を成していた水銀が砕け散り、無数の銀の球へと四散していった。
 ケイは手の中からこぼれ落ちて行った銀のしずくを見つめて、絶叫した。
 吠えるようなそのむせび声はなお高く。
 灰色に染まる空へと反響していった。

      ×              ×

 そうしてひとしきり泣き叫んだあと、ケイは遠慮がちに砂浜を踏みしめる音で我に返った。
「……ハク」
 ぽつりと呟く。
「…………」
 ハクはケイにかける言葉を探しているようだった。気まずそうに視線を斜め下に下げて、もごもごと口を動かしている。
「……封印、解かないとな」
 ケイはゆっくりと立ちあがって呟いた。
「ケイ、その……」
 ハクはそれだけ言って口を閉じてしまった。
「お母さんは、死んでしまったんだ」
 ケイは体の一部を切り離す思いで、しかし一切それを外には出さずにそう言いきった。
 ハクが顔を上げる。
「でも――」
「……いや、お母さんは、死んだ。でも、同時に僕に遺言を遺してくれた」
 ケイはハクをまっすぐと見据えた。
「生きろ――。それが、僕のお母さんの――母の遺した言葉。だから、」
 ケイはそこで言葉を切った。
「僕は、生きなきゃいけない」
 ケイのその強い言葉に、ハクはおもむろに頷いた。
「そうね」
 それから二人は黒い十字架の前まで歩いていった。ハクがケイに振り返り、ケイが一つ頷く。ハクは朧を振りかぶって、振り下ろした。
 斜めに切れてクロスされた部分から上が砂浜に落ちる。
 同時に、ケイの頭の中に、ありがとう、という呟きが響いた。
 暗い海が沸きたつ。巨大な気泡はやがて暗い海に大きな波を生み出した。
「な――」
 驚くハクの手をケイは握りしめた。振り向くハクに、ケイは理由もなく大丈夫、と頷いた。
 一際高い波が起こる。暗い町を砂上の楼閣のように押し流さんとする大きな津波の中に、ケイは水の体をもつ巨大な竜の姿を見た。

          ×              ×

「――ィ、ケイ、ケイ」
 誰かが自分を呼んでいる。ふわふわと漂うような幸福感の中、ケイはゆっくりと目を開けた。目の前には見知った銀色の髪の女性が浮かんでいた。
「ハク……」
 マリンブルーの中に浮かぶ彼女にケイは返した。
「気が付いたみたいね」
 ハクはそう言いながらにっこりとほほ笑んだ。ケイは周りを見回した。周りは全てマリンブルー一色の水の中のようだった。しかし、髪はいつも通り空気にさらされているかのように違和感はないし、呼吸だって普通にできた。
「どうやらここはゲートのようね」
 ハクが訳知り顔でそう言った。
「ゲート?」
「そう。多分、あの世界と、元の世界とをつなぐ出入り口みたいなものよ。ほら――」
 そう言ってハクは右手側を指差した。青の中に白い光がピカピカと光っていた。じっと見ていると光は徐々に大きく、強くなっていく。どうやら自分たちはあの光に近づいて行っているようだった。
「あそこが出口」
 ハクがほくほくとそう言った。
 ケイはぼんやりと白い光を眺めていて――唐突に気が付いた。
「ハク、これ返さないと」
 ケイはベルトに挟んであった朧の鞘を抜き取って、ハクに差し出した。
 ハクが鞘を掴む。
「ハク、ありがとう」
 ケイはハクを正面からしっかりと見つめてそう言った。ハクは一瞬「は?」という顔になってから、急に顔を赤らめて視線をそらした。
「わ、私は、当然のことをしただけだし。何て言うか、貴方に助けられたことも多々あったし。お互い様だと、思うわよ?」
 最後は何故か尋ねるようなイントネーションだった。
「それでも、ありがとうって言いたい。君のおかげで、色々なことに気付けた」
 ケイは大きく息を吸って、続けた。
「また、会えるかな」
 ハクは一瞬驚いたような顔になって、それからこくりと頷いた。
「そうね。会えるといいわね」
 ケイが鞘から手を放す。ハクは左手に握ったままだった朧を鞘にしまった。
 それから、ハクは真剣な顔でケイに向き直り、
「――」
 小さくケイに呟いた。ケイはそれにしっかりと頷く。
 オオオオオ、という風が唸るような音が聞こえてくる。見ると、白い光は目の前まで迫って来ていた。
「お別れのようね」
 寂しげな表情でハクは言った。ケイはその言葉に「ああ」とだけ返した。
 そうして二人は白い光に呑み込まれていった。……


エピローグ


「あああっ!」
 ケイは突然目が覚めた。体中が濡れたタオルに包まれているかのような不快感に顔をしかめる。しかめてから、目に映るのが自分の見慣れた白い天井と蛍光灯だということに気が付いた。
「え……?」
 がばっとやわらかい布団の上から身を起こす。
 周りを見回すと見慣れた勉強机や、コンピュータやちゃぶ台が並んでいた。
 間違いなく、自分の部屋だった。
「やった――――――!」
 思わず叫んだ。小学生のようにベッドの上でとび跳ねる。
「って、痛ああああぁぁぁぁ!」
 万歳をした瞬間に右肩がじくりと痛む。見ると肩は真っ赤に染まっていて、破れた布で固く縛ってあった。
 つまるところ、あの世界から離脱した時の、そのままの状態でケイはベッドの上で立っていた。
 ふと勉強机の上の電波時計を見やると、日付はあの文化祭の日のままだった。おまけに時間も夜の八時のままときた。
「ケイー? どうしたんだいー?」
 階下から聞きなれた野暮ったい声が響いてくる。言わずと知れたナルミの声だった。
「あ、ううん。何でもない」
 ケイは弾む心を押さえながらそう叫び返した。ケイの妙なテンションを訝しむような間が空いたのち、再びナルミの声が響く。
「んじゃ、あたしゃ明日の後夜祭の準備に行くから。あんたも夜更かししないでちゃんと寝るんだぞー」
 そんな声とともに玄関のドアをバタンと閉める音が響いてきた。
「寝るんだぞ、か……」
 ケイはそう呟いて右肩を見た。
 とりあえずこの傷は医者に見せに行かないと行けないだろう。放っておいたらどんなことになるやも知れない。ケイは、机の引き出しから財布を取り出した。
「この時間だと救急病院くらいしか開いてないよな」
 ケイは独りごちた。
 それでもケイの心は押さえきれないほどに弾んでいた。
 顔を引き締めて部屋のクローゼットを見る。あの中には長らく使われていなかった自分の制服が入っている。
 引きこもるのはもうやめだ。どんなに嫌なことがあっても、前に進んでいこう。
 そう、あの彼女のように颯爽と風を切って、前へと。
 そして、いつか来るはずの彼女との再会のときに、彼女にも、自分にも誇れるような中野ケイになるんだ。
 ケイはそう心の中で誓うと、一つ頷いた。
 人生はまだこれからだ。
 一歩ずつ、一歩ずつ、前に進んでいけばいいのだから。
 だから――。
「とりあえず病院に電話だな」
 ケイはそう呟いて、ちゃぶ台の上にのっている電話の子機を取り上げた。

                                (Fin)








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更新履歴

7月31日第一章途中まで。
8月1日第一章途中まで。 プラス加筆修正等。
8月2日加筆修正。
8月3日加筆修正。
8月9日第一章終りまで。
10月18日修正。
10月20日第一章末あたりまで。プラス加筆修正。
10月26日修正。第一章終わりました。
11月1日修正。
11月4日加筆修正、第二章途中まで。
11月9日加筆修正。
11月10日第三章途中まで。
11月11日第三章続きから途中まで。プラス加筆修正。
11月12日第三章続き。プラス加筆修正。
11月13日第三章終り。
11月14日第四章途中まで。
11月17日第四章続きから途中まで。
11月20日第四章終りまで。加筆修正。
11月21日完結。

2010/11/21(Sun)20:28:53 公開 / ピンク色伯爵
■この作品の著作権はピンク色伯爵さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 とりあえず完結しました。思えば長かったような短かったような、奇妙な道のりでしたね。きっと何回も最初から書き直すというあるまじき愚行を繰り返していたからでしょう。皆様にはまずそのことを謝りたいです。
 この作品は電撃文庫に応募するつもりで書きました。そんな僕を優しく導いて下さった皆様にこの場を借りまして「ありがとうございました」と伝えます。
 さて、これでめでたしめでたし、とりあえず電撃に向けて推敲するか……といきたいところですが、あと一、二作書きます。新しいのを書きます。文章を書きなれていない自分が今すべきことは少しずつ良質な物語を書くことであります。その過程でできた作品の中から、一番ふさわしいだろうとピンク色が判断したものを推敲し、電撃に送る、という寸法であります。
 最後の書き直しから都合二週間で書き上げた作品ですが、これで規定枚数ギリギリでありました。やっぱり枚数内に収めるのは難しいなーと思う一方で二週間でこれだけの分量が書けたのであれば、電撃までまだかなりの猶予がある状態だと言えます。この間にどんどん腕を磨いていきたい。
 思ったことをつらつらと書きなぐっただけの文章になってしまいましたが、これにてあとがきにかえさせていただきます。今まで感想を下さった皆様、本当にありがとうございました。ピンク色はこれからもここで己を磨いていくつもりであります。どうかこれからもよろしくお願いいたします。
 最後に、この作品についての感想、評価、意見等を下さるのなら、全力で受け答えしてまいります。

                 ピンク色伯爵         

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。