『潜水少女』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:天野橋立                

     あらすじ・作品紹介
水の底では、色んな記憶がよみがえるのだけど。

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 夏休みには子供たちでいっぱいになる市民プールも、まだ梅雨も明けていない平日の今日は、がらがらに空いていた。だけど、停滞前線の晴れ間から顔をのぞかせた太陽の光は痛いくらいに強くて、見事なまでのプール日和だとわたしは思った。

 プールサイドに立って見下ろすと、水面の反射が不規則な模様を描いて揺れていた。足元のでこぼこが、痛いようなくすぐったいような感じ。目の前に広がるプールは涼しげな青。それが本当は水の色じゃないのは、もちろん分かってるけど。
 しゃがみ込んで、両手を水に浸してみる。思ったほど、冷たくない。太陽に温められてしまったのだろうか。汗ばんだ肩にかかった水着の紐が、急にうっとうしく思えてくる。水に入ってさえしまえば、この暑さともお別れと思っていたのに。
 それでも気を取り直して、つま先からゆっくりと水に入ってみる。冷たい! やっぱり冷たい。汗のことなんて、たちまちに忘れてしまう。首まで浸かると、体がひんやりと引き締まったような、そんな気がした。

 レーンの彼方をじっと見つめながら、わたしは思い切り深呼吸した。胸の奥で、空気が塊になる。そのまま息を止め、頭を思い切り水に沈めて、プールの壁を蹴った。すっ、と伸びた体が、水底を這うように前へ進んだ。ゴーグルのレンズのすぐ向こうを、敷き詰められたタイルが流れて行く。とても静かだ。耳を撫でる水の音が、まるでそよぐ風のよう。
 紺色のタイルで描かれた五メートル目のラインは、たちまちに越えた。まだ苦しくは無いけど、少し息を吐き出してみる。激しい破裂音が耳を覆い、無数の泡が体をくすぐりながら消えて行った。
 そう、消えてしまえばいいとわたしは思う。あんな思い出なんかいらない。あんな風に簡単にわたしの前から消えてしまうのなら、優しくして欲しくなんかなかった。

 学校からの帰り道。小川に架かった、古い石橋の上。差し出した、手編みのマフラー。あいつが笑う、わたしも笑う。冬の陽が、山の向こうに落ちようとしている。

 いらない。消えてしまえ。わたしは目を開いて、強く水を蹴った。少しだけ息が苦しい。でも、まだまだ行ける。両腕を前に伸ばして、水を掻き分けるように後方に押しやった。タイルが勢い良く流れていく。水のなめらかさが、肌に心地良い。やがて中間地点の赤いラインを、わたしは越えた。再び、息を吐き出す。

 お前のことがどうでもいいってわけじゃないと、あいつは、まだ咲かない桜の木の下でそう言った。そんなわけない。でも俺は、夢をあきらめられないんだ。遠くはなるけど、二度と会えないってわけでもないんだし。
 嘘だって分かってた。飛行機でなければ会いに行けない距離。そこがどんな町なのか、空の色はどんな青なのか、道端にはどんな花が咲くのか。わたしには想像もつかなかった。
 
 体の中で、苦痛がふくれあがり始めた。息苦しさと言うよりも、それは切なさに似ていた。それでもわたしは、水を蹴り続けた。あともう少し。間もなく、向こう側にたどり着く。二十メートル目のラインが、足のほうへと流れていく。
 指の先までが苦痛で染まり、もう限界だと思った瞬間、壁に手が触れた。わたしは底を蹴って、水の上に飛び出した。わっと押し寄せてくる大量の甘い空気を吸い込むと、体にしびれが走った。

 太陽に向かって思い切り息を吐き出すと、肺の中の濁りと一緒に、色んなものが空中へと消えて行くのが分かった。何もかもが、透き通って見えた。わたしの夏はまだ、始まったばかりだった。

2010/06/25(Fri)21:17:45 公開 / 天野橋立
■この作品の著作権は天野橋立さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
今までとはちょっと趣の違う作品を投稿してみました。こんなに短いものは、今までほとんど書いたことがありません。
南波志帆の(というよりも、キリンジの堀込高樹作詞・作曲のと言うべきかも)「プールの青は嘘の青」という曲を聴いていて書いてみたくなった作品です。内容は歌の歌詞とは直接関係ないのですが、「目の前に広がるプールは涼しげな青」云々の部分は、歌のタイトルほぼそのままです。

6/25 いただいた感想を基に、内容を一部修正。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。