『Live of dolls』 ... ジャンル:SF 未分類
作者:浅田明守                

     あらすじ・作品紹介
どんなに楽しくても笑えない。どんなに悲しくても泣けない。人でありながら人が持ちえる感情を失ってしまった青年ギースと、ロボットでありながら意思も感情も持つアンドロイドの少女ミトラ。どちらも等しく『ヒト』であり『ヒト』でない二人の『人形』の生。果たしてどちらがより人間だと言えるのか。一人の少年が語る二人の『人形』の悲しい生の物語……

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   〜プロローグ〜

 これから一つ、話をしよう。僕たちの家に伝わる、古い古い物語だ。
 それはずっと昔、一人の哲学者の下に現れた、後の世に救い手と呼ばれた一人の少女の物語だ。
 彼女の物語はただでさえ不可思議な上に、なにぶん古い話であるせいでところどころ何が起きたのか、どうしてそうなったのかわからないところも多くある。あるいはその中には物語の当事者たちですらどうしてそうなったのかわからないこともあるかもしれない。
 その物語は時に現実の矛盾する。なぜならばその物語に記されていることが本当だとしたら、今この場に僕は存在していないからだ。だから心ない人々はこの物語を嘘っぱちだといい、それを信じる僕らを無知な人間だと馬鹿にする。
 それでも僕がこれを君に話すのは、この世界は一つではないということを僕が知っているからだ。そしてもう一つ、僕は彼の子が確かに彼の、彼らの救い手であったことを知っていたからだ。
 さて、話を戻そうじゃないか。確か彼女の物語についてだったよね。
 そうだな、じゃあよくある感動ものの物語を思い出して欲しい。悩みを持つヒロイン、それをどうにか解決してやろうと醜くも懸命に足掻き続ける主人公。やがて二人は互いに惹かれあい、恋に落ちる。こういう物語の終着点としてよくあるのは……
 っと、少しお喋りが過ぎたようだね。それじゃあ焦らすのはこの辺にしておいてそろそろ話を始めようか。
 この物語は悲しいシーンから始まるんだ。悲しい、とある雨降りの日のことだ……


 小高い丘の上。晴れている日は街が一望でき、夜には満天の星空を眺めることができる絶好のスポットであったが、今日はあいにくの曇り空で、空には今にも雫を落とさんばかりの黒く重い雲がかかっていた。
 丘には黒い服を着た多くの人々が老若男女を問わず集まっていた。
「草は枯れ花は萎むが、私たちの神の言葉は永久に立つ……」
 黒の法衣を来た牧師が朗々と聖書の一節を読み上げていく。
「故人、クライム・ガイストは、優秀な哲学者であり、高名な科学者でもあり、その死は多くの人に痛まれ――」
 丘に集まる誰しもが俯き、その目に涙をためていた。
 その中でただ一人、ぼんやりと空を見上げる男がいた。
「先生……」
 故人であるクライム・ガイストの教え子であり、彼の最後を看取ったその男の眼には力がなく、未だ自分の師の不在を信じられないようであった。
 しかし、男の表情から"悲しみ"を読み取ることは出来なかった。
 ただ、いつも側にいてくれた師がいなくなったことに対する戸惑いばかりで、本来あるべき悲しみの感情を男から読み取ることは出来ない。
 多くの人々による追悼が終わり、参列者の手によってクライムの身体は丘に掘られた穴の中に収められ、少しずつ土をかけられていく。誰しもが涙を流し、悲しげに、切なげに、別れの言葉をかけながら土を穴の中に落としていく。その様子を男は冷たく凍りついた瞳でただ眺めていた。
「ギース……」
 心配そうに男に声をかける者もいた。
「けっ、こんな時ですら澄まし顔かよ」
 この場の雰囲気にそぐわない男を悪く言う者もいた。
「……」
 男に目も向けず、ただ故人の死を悼みながら去っていく者もいた。
 男はその何れに対してもただ冷たく澄んだ瞳を伏して頭を静かに下げる。悲しみや切なさの欠片も感じさせない去りゆく人々に向け続ける。別に男は強がって澄まして見せている訳でも、自分を育ててくれた人の死をなんとも思っていないわけでも、ましてや現実を受け止められていないわけでもなかった。
 ただ、泣けない。泣くことも、怒ることも、笑うことも出来ない。感覚として悲しみを知ってはいても、実感としてそれを感じることは出来ない。どんな状況にあっても心は冷たく澄んでいて、決して乱されることがない。それが男の抱える"欠陥"だった。
「雨……」
 ぽつりと頬に冷たい雫が落ちてきたのを感じた男がぼんやりと空を見上げる。ぽつりぽつりと、まるで涙を流すかのように空から雫が落ちてくる。
「困りましたね……。傘、持ってきてないのに」
 そう言いながらも男はそこを動こうとはしなかった。丘に誰もいなくなった後も、ただ一人、そこで立ち尽くしていた。
 少しずつ激しくなる雨は男の頬を濡らし、傍から見れば男が涙を流しているように見える。男もそれがわかっているのか、自らの欠陥を雨に代弁させるかのように顔を上にあげて頬を濡れるままにさせていた。
「見てください。こんな時でさえ……私は自ら涙を流すことが出来ません」
 男は胸の内にクライムへの矛盾した想いを抱えていた。親に捨てられた自分をここまで育ててくれた師への感謝と、それとは相対する感情。すなわちどうしてあの時自分を放っておいてくれなかったのかという恨みだ。
 あの時、他の大勢がそうしたように自分を放っておいてくれれば、そうすれば少なくとも今、こんな苦しみを味わってはいない、あの時あの場所で野垂れ死んでいれば、泣くことも笑うことも、悲しむことすら出来ない自分の欠陥にここまで悩むことはなかった、そう考えてしまう自分を男は抑えることが出来なかった。
「どうして先生は……私のような欠陥品に気を止めてくれたのですか」
 男は空を見上げるままに教えを問うように呟く。
「あぁ……クライム先生、私はどうしたらいいのでしょうか……」
 しかしそこには男の問いに対して優しく笑んで答えてくれる声はなくて、男の呟きは空しく空に溶けていった。


   第一部 少女ミトラ
 夢を見ている。ずっと昔の夢だ。
 もう思い出せないぐらい、遠い日の記憶。
 そこは薄暗い裏路地。ゴミと獣と死の臭いで充満する場所。そんな場所に幼い私は蹲っていた。
 どれほどの時間、そこにいたのかはわからない。どうしてそんなところにいるのかもわからない。気づいたらそこにいて、ただ一人、私は膝を抱えてそこに蹲っていた。
 いつからか雨が降っていた。ザーザーと叩きつけるようなものではなく、しとしとと肌に纏わりつくような嫌な雨だ。その雨のせいで、私は頭と言わず全身がびしょ濡れになっていた。
 しかし不思議と寒くはなかった。寒くはなく、ただひたすらに孤独だった。
「……?」
 不意に雨が止んだ。何気なく顔を上げると目の前に大きな傘を指した男がいた。
 背が高くて、ぼさぼさの頭をしている男が、細い目をさらに細めて幼い私を優しく見つめていた。
 不思議だった。彼がなぜ幼い私を見て微笑んでいるのかわからなかった。こんなところで蹲っている私を嘲っているのか、それとも憐れんでいるのか。
 どちらにしても気分のいいものではない。だから私はその男を強く睨んだ。
「こんなところで、どうしたんだい?」
 しかし、明らかな敵意を向けている私に対しても男はどこまでも優しく語りかけてくる。その声に蔑みや憐れみはなく、それこそ道端で思いもよらず知人に出会った時のようなさり気無い声色だった。
「…………」
 私はそんな男の優しい声に、とっさに答えることが出来なかった。
 男の温かさに戸惑って、どうすればいいのかわからなくなっていた。
「ここはあまりいいところじゃない。雨も降っているし、体にも毒だ。それともここで誰かを待っているのかな?」
 そんな私にも男は辛抱強く声をかけ続けた。
「……わからない」
 ずいぶん時間をかけて、私はようやくそれだけの言葉を絞り出すことが出来た。
「1人かい?」
「……うん」
「お父さんは?」
「……知らない」
「お母さんは?」
「……わかんない」
 男の質問にゆっくりと時間をかけて答えていく。
 心にあったのは戸惑いばかりで、不思議と両親がいない、見知らぬ地に置き去りにされたことに対する不安や悲しみ、恐怖はなかった。
 男は少しだけ考えるようにして、やがてある一点、私が蹲っていた裏路地のさらに奥を見据え、そして何かに納得したように頷き、悲しそうな顔をした。男が見ていた方向は、ちょうど私が座っていた位置からだと男の体が邪魔になり、結局私は男が何を見ていたのか知ることはなかった。
「もしよければ、その汚れてしまった服を綺麗にしてあげよう」
 悲しそうな表情を消して、元の温かな笑みを作り私に向き合った男はそう言って、私に手を差し出してきた。
「……お兄さん、誰?」
「私の名前はクライム・ガイスト。貧乏な哲学者さ」
 クライムと名乗る男の手をおずおずと握る。
 それはごつごつとしていて、温かな、どこか懐かしい感触のする手だった。


 カーテンの隙間からさす日の光で目を覚ます。昨日の夜、あの丘から帰ってからそのまま居間で寝てしまっていたらしい。
「さすがに……体が痛みますね」
 体を動かすとあちこちからぎしぎしという音が聞こえてきそうだった。疲れが抜けきっていないせいか、反応の遅い体を動かす気にもなれず、閉じたカーテンもそのままに椅子に深く腰掛けて無為な時間を過ごす。
 これからどうするのか、先生の残したものをどう処理していくのか、考えなければならないことはいくらでもあった。しかし今は何一つ考える気になれなかった。
 無為に時間を過ごし、瞳を虚空に彷徨わせ、行き着いた先は一通の手紙。
 それは生前に先生が私宛てに残した唯一のものだった。
 手紙を手に取り、弄び、幾度となく開けようとしてどうしても開けることが出来なかった。
 それは先生からの最後の手紙で、それを開けてしまえば嫌でも先生の死を受け入れるしかなくなってしまうから。
 頭では分かっていた。もう先生は死んでしまって、もう帰ってくることはないのだと。それでもいつか、なんでもなかったかのように帰ってくるのではないか、そんな矛盾した思いを捨てることが出来なかった。
 しかし、そんな幻想もこの手紙を見てしまえば容易くかき消されてしまう。手紙を読めばもう、後戻りは出来なくなってしまう。そんな思いがこの手紙を開き、我が師の最後の言葉を開くことを拒絶していた。
「でも……」
 もう逃げることは出来ない。昨日の夜に思い知ってしまったから、もうクライム先生は帰ってこないことを。知ってしまったからには、私は見なければならない。先生が最後に残した意思を知る義務がある。
「…………」
 震える手で恐る恐る手紙を開封していく。中に入っているのは二枚の紙。そのうちの一枚を手に取る。
「……これは」
 どうやらそれはこの家の見取り図のようだった。クライム先生がいつも研究室として使っていた部屋に赤マルが付けられていた。
 そしてもう一つの紙には懐かしい、少し歪んだ文字が綴られていた。

『我が愛弟子、そして愛しの息子へ。こんな手紙しか残してやれない私をどうか許して欲しい。私は凍てついた君の心を溶かしてやりたかった。人並みの暮らしを送ってもらいたかった。しかし私ではどうやら力が及ばなかったようだ。君の心は頑なで、決して溶けることを知らなかった。私はもう、そう長くは生きられない。きっと君の心を溶かしてやることは出来ないだろう。だから、せめてもの代わりとして、君の師として最後の課題を与えることにしよう。私の部屋に行ってみるといい。そこにきっと君の役に立つものがあるはずだ。我が愛しの弟子の、幸せな未来を祈っている』

 手紙を持つ手が震えていた。
「ここに行けば……いいのですか?」
 手紙を持ってゆっくりと立ち上がる。
 先生が研究室として使っていた部屋は居間を出てすぐのところにあった。
 先生に拾われ、この家に来てもう20年が経つ。その間、私は一度もその部屋にだけは入ったことがなかった。
 別段禁止されていたわけではないが、ただなんとなく、気が引けて入ることが出来なかったのだ。
 その部屋に、先生が死んで始めて招かれる。
 まるで悪いことをしている時のように心臓が高ぶっていた。見慣れた家の中で、その扉だけは異質なもののように見えた。その扉の向こうだけは、何があるのか知らない。先生の発明品で埋め尽くされていて、足の踏み場もなくなっているのか、あるいは殺風景な景色が広がっているのか。
 心拍数がどんどん上昇してくる。自分の鼓動が耳触りで仕方がない。
「…………」
 息をのみ、ゆっくりと扉の取っ手に手をかける。時間が酷くゆっくり流れているように感じられる。緊張で喉がからからになる。
 そしてゆっくりと扉を開き、
「なっ……!?」
 私はその先にある自分の想像をはるかに超えた光景に目を奪われた。
「女……の子?」
 そこにあるものをあえて言葉にするなら……そう、"異質"だ。
 部屋中にケーブルが張り巡らされて、何台もの無骨な形をした機械が唸りを上げて動いていた。ケーブルの先端の一方はその機械に、そしてもう一方はゴムで縛られ、まとめられ、そして部屋の中央にどでんと鎮座する誇大な円柱状のガラス容器に接続されていた。
 ガラスの中には仄かに赤く色付いた液体で満たされ、その中には赤ん坊のように自分の身体を抱きかかえるように丸まっている少女の姿があった。
 腰のあたりまで伸びた長く綺麗な青い髪。幼いほどではないが、十代終わりの独特な硬さが残っている体。閉じられている目はほんの少しつり眼気味で、すっと通った鼻筋と相まって冷たい美貌を感じさせる。
「これは……ホムンクルス?」
 ホムンクルス、クローン、フラスコの中の小人。時代や場所によって呼ばれ方は様々だったが、それらの指し示す意味はいつでも一緒だった。
 それ即ち、人の踏み込んではいけない神の領域。
 どうしてそんなものが先生の部屋の中に在るのかわからなかった。
 いや、わかりたくなかった。
「先生は……私に何を伝えようとしているのですか……?」
 わからない。先生が私に何を伝えようとしているのか。先生の意思が、どうしても理解できない。
 眩暈のようなものを感じる。足元がグラつき、自分がどこに立っているのかわからなくなり、思わず近くにあった台に手を突く。
「―――」
 ゴボリ、とどこかで音がした。
 私しか動くものがいないはずのこの部屋で、私以外の何かが立てた音。
「な……んで……」
 目が、いつの間にか開いていた。それまで閉じていたはずの、ガラスに浮かぶの少女の目が開いていた。
 私は酷く混乱していた。ホムンクルスが神の領域たる所以、それは意識ある生命体をどうしても創り出すことが出来なかったことにある。
 しかし今目覚めた少女は明らかに自分の意志を持った目をしている。意思を持った目で、物珍しそうに私を見つめている。
 その瞳は純粋無垢で、まるで生まれたばかりの、世の中の穢れを知らない赤ん坊のようで、そんな目で見つめられるとどこか居心地が悪かった。
 しばらくじっと私を見ていた少女は、やがて何かに気づいたような顔をして、そして私ににこりと笑いかけてくる。
「―――」
 私に何かを伝えようとしているのか、少女はしきりに口をパクパクと動かしていた。しかしすぐに声が出ないことに気付いて困ったような顔をする。
「―――」
 困った顔のまま辺りをきょろきょろと見私、やがて何かを見つけたのか、一点を見つめ、そして私を見つめ直し、無骨な機械の中の一台を指差す。少女が指差したそれは、他の機械と比べると二回りほど小さく、その代りにたくさんのスイッチやレバーが付いている。
「あれは……そうか、制御装置……」
 少女に催促されてふらふらと制御装置と思われる機械に歩み寄る。他のものより小さいとはいえ、それでも私の背丈ほどの大きさを持つそれは近くで見ると凄い威圧感を感じる。
 少女はガラスの中で一生懸命にレバーを引くような動作をしている。おそらく二本あるどちらかのレバーを引けばおそらく少女が自由の身となるのだろう。
 日本のレバーをよくよく観察すると、そのうちの一本に『緊急停止用』という文字が彫られていた。おそらくこれを動かせばいいのだろう。
 少女が促すままに私はレバーに手をかけて、動きを止めた。
 果たしてこれを動かしていいものだろうか? 少なくともそれをしてしまえば、私も、そして先生も、国の掟に逆らった犯罪者となってしまう。人工生命体を創りし者。その先にあるのはいつの時代も人々の温かい称賛ではなく、冷たく光る断頭台だ。
 今ならまだ間に合う。このまま何も見なかったことにして、この部屋を封印してしまえば、私は先生が欠けてしまった、昨日と同じ日常の中に戻ることが出来る。少なくとも犯罪者になることはない。普通ならそれが正しい判断だ。このまま何も見なかったことにするのが賢明な判断のはずだ。
 でも……
「……これが、クライム先生の意思なら」
 ゆっくりとレバーにかけた手に力を込めていく。
 迷いはあった。戸惑いももちろんあった。でも、それ以上に私は知りたかった。先生が何を思って私をこの部屋に招いたのか、何のためにこんなものを私に残したのか、先生が最後に私に教えようとしていたのは何だったのか。それを、知りたかった。
 レバーを降ろすにつれてゆっくりと少女を包んでいた液体が排出されていく。液体の中にいた時はそれ自体に仄かに色がついていたためよくわからなかったが、こうして改めて見ると少女の肌は文字通り雪のような白さを持っていた。
 しばらくして、

 ぷしゅ〜……

 空気が抜けるような音と共に、ガラスの円柱が空気に溶けるように消えていった。
 目の前で次々に起きることに頭の処理が追いついてこない。それはまさに、そう、夢の中の出来事のように幻想的で、非現実的で、美しかった。
 ゆっくりとガラスの器から一歩、足を踏み出した。しかし、
「ん……っ!?」
 踏み出した瞬間に少女の身体は大きく右に傾いて今にも倒れそうになる。
「あ、危ない!」
 とっさに駆け寄って少女の体を支える。
 予期せずして抱きつくような形になり、目と鼻の先にある少女の顔に、全身に伝わってくる温かく柔らかな感触に思わずドキリとする。
 ガラス越しに見た時も思ったが、こうして間近に見ると改めて人形のような少女だという印象を持った。雪のように白い肌は陶磁器のようにきめ細かく、長い髪と同じ色の瞳はガラスのように澄んでいる。
「あ、ありがとう……」
「大丈夫ですか?」
「な、なんとか……まだ重力に慣れてなくて」
 恥ずかしそうに笑う少女の姿は人間のそれと何ら変わりはない。彼女がもし、本当に創られた存在だとしたら、ホムンクルスが神の領域と呼ばれるのにも納得がいく。
 エヘンと咳払いをして、少女は足場を確かめるようにして二、三度足で床を踏みならし、ゆっくりと私から体を離していった。
「えっと……ギースさん、ですよね」
 まだ名乗っていないにもかかわらず、彼女が私の名を呼んだ。しかし不思議とそれに違和感はなかった。まるでそれが当然であるかのように、むしろ彼女が私の名前を知っているということが当然であるかのように感じている自分がいた。
「どうして私の名前を?」
 心はどこまでも冷たく澄み切っていた。
 私は彼女がこの問いに対してどう答えるのか知っている。そしてそれが嘘であることも、同時に知っている。なぜだかはわからない。でも、確かに私はそれを知っていて、根拠はないが確信を持っていた。
「博士に、聞いたんです。自慢の一人息子のこと、愛する弟子のこと」
 私は彼女を知っている。それも遠い、ずっと遠い昔からだ。
 彼女は―――
「私はミトラ。クライム博士に作っていただいた凡庸人型機器。俗に言う―――」
「……アンドロイド」
「そう、アンドロイドです。よくご存知でしたね? あっ、もしかして博士から聞いてました?」
 もちろん、先生からは何も聞いていない。彼女の体は先ほど触った限りでは、生きている人間のそれと何ら変わりはなかった。確かに人形のような顔をしているが、どこをどう見てもロボットには見えない。
 なのに、私は知っている。彼女が人でなく、ホムンクルスでもなく、先生が創りだしたロボットであることを。
「む〜……その顔は納得してませんね? それなら……」
 何も言わない私をどう解釈したのか、突然少女、ミトラは私の頭を両手でがっしりと掴み取り、そのまま私の耳がちょうど彼女の胸元に押し付けられるようにギュッと頭を抱きかかえた。
「い、いきなり何をするんですか!」
「しっ、よく聞いてみてください」
 どうしてか、彼女の言葉には逆らい難い何かがあった。逆らえばそれなりの報復が用意されている。言外にそんな余計な一言が付いていそうな、そんな感覚だ。
 予想だにしない展開に若干ドギマギしながらもおとなしく彼女の言葉に従い耳を澄ませてみる。
 押し付けられた頭からは、薄いが確かな膨らみの柔らかさと温かさが感じられた。しかし、本来あるはずの心臓の音が聞こえない。その代りに聞こえるのは微かなモーター音だった。
「これなら……私がアンドロイドだって、信じられますか?」
「い、一応は……」
「む〜……まだ信じ切ってませんね。そういう意地悪を言うと嫌いになっちゃいますよ」
 私の頭を胸に抱きかかえたまま、拗ねたように彼女は言う。頭を抱きかかえられているせいで顔を見ることは出来なかったが、きっと頬を膨らませて唇を尖らせていたのだろう。
 口にこそ出さなかったが、想像の中の彼女の姿は、やはりロボットには見えなかった。
 まあそんなことはとりあえず置いておいてだ。
「あの……そろそろ離してくれませんか?」
「ふえ? あっ、そうでした」
「それに……」
「なんですか! はっきりと言って下さい」
 何となく言いづらくて口ごもる私にずんずんとミトラが詰め寄ってくる。その……一切を隠さないままに。
 彼女はきっと忘れているのだろう。あるいは気にしていないのかもしれない。
 しかし、若干の今更感があるとはいえ、彼女が気にしていなくとも私は……その、正常な男子であるが故にですね……
「とりあえず、服を」
「―――っ!?」
 私に言われて初めて自分が何一つ身につけていないことに思い至ったのか、両手で胸元を隠すように抱き、みるみるうちに顔を真っ赤に染めてミトラはその場に座り込んでしまった。
 というか……気づいていなかったんですね。
「と、とりあえず何か着れそうなものを探してきます」
「お、お願いします……」
 消え入りそうな彼女の声を聞きながら、私はその場を後にした。


 ほどなくして彼女が着れそうな女性ものの服が見つかった。ちなみにあった場所は先生が生前使っていた寝室のクローゼットの中だ。
 男性であるはずのクライム先生の寝室から女性ものの衣類(下着付き)が発見された件についてはあまり深く考えないことにした。きっと彼女のために買い揃えておいたものだろう。きっとそうに違いない。
「あの……もう大丈夫です」
 研究室の中から彼女の控えめな声が聞こえてきた。
 中に入ってみると、若干ぶかぶかな服を着たミトラが部屋の中央に座り込んでいた。
 先ほどの騒動が後を引いているのか、彼女の顔はまだ赤く、恥ずかしそうに俯いていた。
「ふ、服。少しぶかぶかでしたね」
「いえ、大丈夫です。でもよくありましたね、女性ものの服なんて」
「気にしたらきっと負けです」
 彼女のために買ってあったはずなのになぜかサイズがあっていなかったり、ブラのサイズがどう考えてもワンカップ大きかったり、それどころか一度使われた形跡があるような……だめだ。その辺りはきっと気付いちゃダメな部分なんだ。
「き、気にしたら負けですか」
「そうです。気にしたら負けです」
 なんとなく彼女が酷い誤解をしているような気がして仕方がない。気のせいかさっきから彼女と私との距離が微妙に広がっているような……いや、気にしちゃダメだ。
「…………」
「…………」
 それにしてもどうにも居心地が悪い。これからどうすればいいのか。先生は彼女を私に残して、それで何を伝えようとしたのか。わからない。彼女を起こせば何かがわかるかもしれない、心の奥底ではそう期待していたのに……
 きょろきょろとあたりを見渡している彼女を眺めながらそんなことを思っていた。
「あの……博士はどこでしょう?」
 不意に彼女がそう聞いてくる。その声はまるで、迷子になって親を探している子供のような声で、彼女の不安をありありと感じ取ることが出来た。
 博士はどこでしょう……そうか、彼女はまだ知らないのか……
「ギースさん?」
「クライム先生は……亡くなりました」
 もういない人の影を探し続ける彼女に真実を告げる。
「え……」
 それを聞き、ミトラは茫然としたような顔をする。それもそうだろう。目が覚めたら自分を作った人間がいないのだから。
「死んだって……うそ……」
「残念ながら本当です。ここ数週間ずっと床に伏していましたが、ついこの間」
「だって、私……いや……どうして……」
 泣きそうな顔。まるで親を亡くした子供のようだ。いや、実際その通りなのだろう。彼女の生みの親はまさしくクライム先生なのだから。もっとも、そういう私も親を亡くした子供なんですがね。
 目の前の光景に静かに自嘲した。ロボットですら作り主が亡くなったことに対して悲しむことができるのに、そんな当たり前のことが私には出来ない。そう考えると可笑しくて仕方がなかった。
「なにが……おかしいんですか」
「…………」
「博士は……クライム博士はあなたにとっても親同然だったはず。なのにどうしてそんな風に笑っているのですか!」
 彼女は怒っていた。涙で顔をぼろぼろにしながら怒っていた。
 器用なことだ。私には出来ないことを二つ同時にこなしている。
「信じられない……あなたのような人が博士の教え子だなんて……」
「…………」
「あなたはそれでも人間なのですか?! どうして……!!」
「人間……ですか」
 再び自嘲的な笑みがこぼれる。こんな卑屈な笑みならいくらでも浮かべられるのに……どうして私は普通に泣いたり、笑ったり、怒ったりすることは出来ないのだろうか……
「だから何がそんなにおかしいのですか!」
 こんな欠陥品なんかより、彼女の方がよほど……
「確かに……私はあなたの言う通り、人ではないかもしれない」
「え……?」
「世の中には……泣きたくても、悲しみたくてもそれが出来ない人間がいるものです。感情の抜け落ちてしまった出来損ないがこの世の中には確かに生まれ落ちてしまうのです」
 感情のない"人間"の私と感情を持った"ロボット"の彼女。どちらも等しく"ヒト"に近く、"ヒト"でない存在。
 そう、まるで精巧に作られた人形のようなものだ。
「あの……その……す、すみません。私、事情も知らないで……」
「いいのですよ。あなたが言ったことはすべて本当のことなのですから。謝る必要はありません」
「で、でも……私……わたし……」
 ミトラは泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、身を震わせて泣いていた。
 彼女はいったい何に対して泣いているのだろうか。
 わからない。どうして泣いているのか、泣くという行為を知らない私には見当がつかない。
「どうして……泣いているのですか?」
「あなたが……悲しい人だから」
 ぐすぐすと子供のように泣きながらもミトラの目はしっかりと強い光を灯しながら私を射抜いていた。
「悲しいこと、言わないでくださいね。あなたは出来損ないなんかじゃない。私がそれを証明して見せます。だから……」
 泣いているのに彼女の目は、言葉は、とても力強かった。
「だからそんな悲しい目をしないでください」
 それはどこか不思議な感覚。どことなく安心する、優しい温もり。
 私はこの感覚を知っている。それがいつだったかは忘れてしまったが、ずっと昔、確かに感じたことがある。
「ギース、これからよろしくお願いします。私、頑張りますから。もうあなたにそんな目をさせないように頑張りますから」
 あの手紙にあった課題とはこういうことだったのか。それは未だにわからなかった。
 あるいは彼女の存在そのものがそうなのかもしれない。人でありながら心を持たない私と、ロボットでありながらも心を持つ彼女。どちらも等しく『ヒト』であり『ヒト』でない。
 ならば『ヒト』とはなんなのだろうか。
 よくわからない。でも、だからこそ知りたかった。彼女と一緒ならなんとなくそれが見つかる気がした。だから、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 床に座り込んだままの彼女に手を差し伸べた。
 手の平に感じる確かな重みと温かさ。これが私の問いの答えとなるのだろうか。
 でも……
「見ていてください。私、こう見えて結構優秀なんです」
 そう言って笑う彼女の顔は、私にとって好ましいものだった。
 こうして、私と彼女の生活が始まった。


   閑話休題1
 ん? 不思議そうな顔をしているね。まあそりゃ不思議な顔をするなって方が無理だろうね。
 最初に言ったろ? この物語はわからないことが多分にあるって。
 彼が彼女に会ったのは確かにあの時が初めてであり、同時に彼が彼女に会ったのはそれが初めてではなかった。矛盾しているようで、それは確かに本当のことだ。
 きっと君も僕が何を言っているのかわからないだろうね。理解できない、そう思っているだろう。
 でも、それでいいんだ。
 わかる必要はない。僕だってわからないし、最初にも言ったけど当の二人にもわかっていないこともあるんだ。
 ただ、受け入れればいいんだ。ありのままの、彼らの物語を。
 そうそう、こんな話を知っているかい?

 遙か昔、この世界がまだ出来ていなかった頃。そこにはただ、光があった。
 光は集まり、世界を創った。
 しかしその世界には動くものはなかった。なにも動くものはなく、そこに命が生まれることはなかった。
 そんな世界を嘆いた光は、自らの身体の断片を世界に落とし、そして小さな命を生み出した。
 やがて世界は光の断片で創られた命に溢れ返った。
 僕たち人も光の断片で、僕らが死んだ時、その身体から小さな光が空に還っていくそうだ。
 
 これが彼らの物語とどう関係してるかって?
 さてね、してるかもしれないし、してないかもしれない。
 って、そんなに怒らないでくれよ。ちょっと言ってみただけだって。
 わかったわかった。そんなにせっつかないでくれ。そんなに焦らなくてもちゃんと話すからさ。
 そう、彼と彼女の生活についてだったね……


 アンドロイドの少女を迎え、男の生活はそれまでとがらりと様子を変えた。
 彼女はよく笑い、よく怒り、よく泣いた。それまでの無味乾燥の彼の生活は彼女の存在によって華やかなものになっていった。
 様々なことを知っているくせに何も知らない少女。料理をしようとすればなべ底に穴を開け、洗濯をすれば洗剤の入れ過ぎで部屋中を泡だらけにし、街に出れば必ずと言っていいほど迷子になった。
 そんな彼女に頭を抱えながらも、男は次第に彼女との時間を大切に思うようになった。
 少女との生活の中で、男は泣いたり笑ったりこそまだ出来なかったが、それでも少しづつ感情を取り戻していった。
 彼女との慌ただしい生活は、その一日一日が男にとっては新鮮なもので、本当にまたたく間に過ぎて行った。
 一週間が経ち、一ヶ月が経ち、やがて一年の月日が流れようとしていた。


   第二部 二人の生活
 夢……。赤い夢……。
 最初はいつも温かくて、優しくて、なのにどこか不安で、最後にはいつも冷たい悪夢となる。
 夢の中の私は、なぜかそれが夢であるということも、その夢の結末も知っていて、それなのにどうする事も出来ずにただ流れゆく赤い夢をぼんやりと見つめていた。
 その夢は一人の少年の夢だ。普通の家庭に生まれ、仲のいい両親と貧しいながらも楽しく、幸せに暮らしていた。
 少年の父親は学者で、いつも帰ってくるのは夜遅くだった。母親もそんな父の助手をしていて、父親ほどではないにしろやはり帰りは夜遅くだった。だから少年はいつも暗い部屋で毛布を頭から被りながら、母親の声が録音されているテープレコーダーを幾度も再生して両親の帰りを待っていた。
 その日は少年の誕生日だった。少年は「今日は出来るだけ早く帰ってくる」という両親の言葉を信じ、いつものように毛布を頭から被って二人の帰りを待っていた。その日は一日中しとしとと細かい雨が降り続ける、どことなく憂鬱になってしまいそうな日だったが、両親の帰りを待つ少年からは陰鬱さは感じられなかった。少年の心は、両親が買ってきてくれるはずの誕生日ケーキとプレゼントのことで一杯になっていたのだ。
 しかし、その日中に少年の両親が帰ってくることはなかった。両親が帰ってきたのは翌日の明け方。少年は誰かが激しくののしり合う声で目を覚ました。それは日ごろ仲の良かったはずの両親のものだった。重い瞼を必死にこじ開けながら、少年は二人に近づいて二人を仲直りさせようとした。しかし近づこうとする度に父親に突き飛ばされ、少年をかばおうとした母親も父親に拳で酷く打ちつけられる。何度も、何度も、何度も、繰り返し近づこうとしては突き飛ばされる。やがて少年は立ち上がる気力すらも失くして、部屋の隅で膝を抱えて小さく蹲ってしまう。そうして父親が母親を殴りつけるのを、母親が父親を引っ掻くのを、二人が互いを罵倒し合うのを、必死にやり過ごそうとしていた。
 そして、突如として部屋中が赤く染まった。何が起きたのかはわからない。ただ、父親の苦しそうな声が聞こえて、顔を上げると部屋のあちらこちらが霧吹きでペンキを噴射したように赤く染まっていた。
 すぐに場面は代わり、こんどは母親に連れられて、肌に張り付く不快な雨が降る中をどこまでも逃げ続けていた。どこまでも、どこまでも……
 しかし気がつけば少年は一人になっていた。真っ暗闇の中、ただ一人寒さに震えていた。
 さっきまで感じていた母親の温かさも、いつも乱暴に頭を撫でてくれる父親の大きくてゴツゴツしている手の感触も今はもうどこにもなく、一人ぼっちで少年は闇に沈んでいく。ゆっくりと、確実に、打ち付ける雨の冷たさにその身を凍らせていくのだ……



 ドシャーン!がらがらがら……

 突然の騒音に本を読みながらうつらうつらとしていた私の意識は急速に現実へと引き戻されていった。人間というものは大抵のものになれることが出来るというが、あれは本当のことなのだろうか? それとも私のような出来そこないは例外なのだろうか。彼女と共に暮らすようになってから、物が崩れ落ちる音や爆発音などは日常的に聞くようになったが未だに慣れることがない。
 慣れることはないが、その代わりに彼女が立てる騒音で彼女が今何をやっている最中なのか、なんとなく察することが出来るようになった。さっきの音だと大方掃除中といったところだろう。
 ドーン!! ごごごごごご……
「うひゃう!? わ、わわわ……ゆ、床が……」
 バキューン! がががががががが……
「ひぃ! 本棚が大変なことに〜」
 何をどうすれば家の掃除をしていて銃声のごとき騒音を立てることが出来るのか若干気になりはするが、命がいくつあっても足りそうにないので掃除中の彼女には近づかないようにしている。これも彼女と暮らすことで身に付けたスキルの一つだ。
 しばらく彼女が立てる騒音に耳を傾けながら本を読み進める。ちょうど本もキリがいいところになったあたりで騒音がいつの間に止んでいることに気が付いた。なんとなく嫌な予感を感じて、本を閉じて耳を澄ませる。
「……なにも、聞こえませんね」
 どれほど耳を澄ませても物音一つ聞こえてこない。掃除が終わった、という可能性は低い。私が騒音で目を覚ましてから十分も経っていない。そんな短時間で彼女が掃除を終えるとは考えにくい。それに、彼女は掃除が終わると『頑張った自分へのご褒美』と言って、必ずリビングで紅茶を一杯飲んでいく。もし彼女が掃除を終えているなら、ずっとリビングにいた私が気付かないはずがない。
「本当に、仕方のない人ですね……」
 大方なにかトラブルがあって身動きが取れなくなった、そんなところだろう。ため息を一つ吐いて重たい腰を上げる。 音がした方を中心に家の中を歩いていくと研究室の方から「たすけてください〜」という情けない声が聞こえてきた。その先に広がっているであろう悲惨な光景を想像して覚悟を決める。以前に一度、覚悟を決めずに扉を開けて卒倒しそうになって以来、扉を開ける度に心の中でその先に広がっているかもしれない悲惨な状況を心に思い浮かべて耐性を付けておくのが私の習慣になっていた。
 深呼吸を三回ほどして、ゆっくり研究室の扉を開ける。扉の隙間からちらりと仲の様子が窺えたが、そこにあったのは私の予想を大きく上回る惨状だった。それはもう、思わずそのまま扉を絞めて何も見なかったことにしたくなるほど。
 しかし中から彼女の情けない声が聞こえてくる以上、何もなかったことにすることは出来ない。めげそうになる自分の心に喝を入れて何とかその場から離れようとする足を押しとどめて惨状へと続く扉をこじ開ける。
 同時に盛大にため息を吐きたくなる。
「本当に……あなたは何をしているんですか」
「あ、あははは……助けてくれると、その……ありがたいです」
 そこにあったのは引っくり返ったバケツと巨大な水たまり、その中に使ってふやけにふやけた研究データをまとめた資料の紙の束。同じく水に濡れて表題が読み取れなくなった大量の本。倒れた本棚。こんがらがったコードの類。そしてそれらの中で身動きが取れなくなっているミトラ。
 一つ一つはここ一年で見慣れた、もはや日常の光景と言えるものだった。しかしそれらが一度に重なるとこれほどの惨状になるとは思いもよらなかった。
「今日は随分と派手にやりましたね。そんなにコードと遊ぶのは楽しいですか? コードとじゃれついて遊ぶのは一向にかまいませんが後片付けだけはしっかりしてくださいね」
「あ、遊んでるわけじゃありません!」
「それじゃあ遊ばれていたんですか。さすが家のミトラさんはモテモテですね。同じ機械類だけでなく紙や本棚からも好かれているんですか」
「そういう意地悪を言うギースは嫌いです」
 頬を膨らませてじたばたと抗議する彼女に苦笑いを返しながら埋もれている彼女を引き起こす。
 彼女は私にからかわれたのがよほど気に食わなかったのか、助け起こした後もまだ頬を膨らませたままにしていた。
「ギース、イジワルです」
「助けてもらっておいてそれですか……」
「でもギース、私をからかってました。やっぱりイジワルです」
 こうなるとなかなかに彼女は面倒だった。普段はノー天気な割に一度こうして拗ねてしまうとなかなか機嫌を直してくれない。以前に一度だけ、彼女が拗ねに拗ねて一週間近く口を訊いてくれないことがあった。詳しくは思い出したくもないが、とにかくあの時は酷い目にあった。
「すみません。ちょっと冗談が過ぎましたね」
 そうなる前にさっさと謝ってまった方が得策だと思い彼女に軽く頭を下げるも、「ちょっとじゃありません」とそっぽを向いて取り合おうとはしなかった。挙句にミトラは「どうせ私なんか……」とその場に蹲ってイジケ始める始末だ。
「それはそうと、こんなところで何をしていたのですか?」
「……ギース、話題を変えてうやむやにしようとしていませんか?」
「気のせいです」
 これ以上面倒なことになる前に話題を強引に転換する。それに彼女がここで何をやっていたのか気になるというのもあながち嘘という訳でもなかった。
 この部屋は先生が亡くなって以降、あの日に私が一度入ったきりで基本的には誰も使うことのない無人部屋だ。もともと精密な実験を行うために特殊な処置を施してある部屋なので、どういう原理なのかは知らないが普通の部屋とは違い、放っておいても埃がたまるということもないはずだった。
「一応……ここは私が生まれた場所ですから」
「生まれた……場所」
 そんなことを考えていたせいか、危うく彼女の呟きを聞き逃すところだった。
「なんですかその『すっかり忘れていた』みたいな反応は」
 みたいな、ではなく、実際すっかり忘れていた。
 あまりにも彼女が"人間"に近しいせいで、すっかり失念していた。彼女が、つい一年前にここで出会ったアンドロイドだということを……
「……? どうかしたのですか、ギース?」
 少し考え事をしているとミトラが怪訝そうに私の顔を覗き込んでくる。そんな時の彼女の表情は、とてもアンドロイドのそれとは思えないほど"ヒト"そのもので、
「……いえ、なんでもありません」
 一瞬頭をよぎった馬鹿げた考えを振り払うようにかぶりを振る。それは普段は決して表に出てこない、しかしふとした瞬間に滲みだすように私の空っぽの心を暗く染めようとする。でも……彼女を見ているとつい考えてしまう。今までは努めて考えないようにしていたそれについて。人とは、"ヒト"であるとは何なのか、と。
「なんでもないって……でもギース、凄く顔色が……」
 ついさっきまで拗ねていたにもかかわらず、一変して今度は今にも泣きそうな顔で彼女がさらに一歩、私に近づく。古い紙の臭いに混じってどこか懐かしい、柑橘系の香りが鼻を掠める。その香りにどこか安心して、ループ仕掛けた思考を振り払って彼女を優しく押し戻す。
「本当に大丈夫です。少し……この部屋の惨状を見て頭が痛くなっただけです」
「うぅ……そ、そんなこというと嫌いになっちゃいますよ、ギース」
 そう言って再び床にしゃがみ込んでのの字を書き始める彼女を見ながら、ふと何かお祝いでもした方がいいのかもしれない。そんなことを考えていた。
 よくよく考えてみれば、彼女と暮らし始めてこの一年、お祝いどころかまともにどこかに出かけに行ったことすらなかった。普段から騒がしいせいで今の今まで気がつかなかったが、二人で外に出るといえば買い物に行く時ぐらいで、どこかに遊びに行ったということはなかった。
 数えてみると明日がミトラと出会ってからちょうど一年になる日だった。普段は何だかんだで、遊びに連れていくこともしなかったのだから、せめてこういうお祝いのときくらい何かプレゼントでも贈るべきか。
 頭の中で貯金の残高を計算しながらその場を離れて行った。
 翌日、
「慣れない……ことはするものではありませんね……」
 早朝の居間で私はぐったりとしていた。
 もともと朝は得意ではない。その上、今までに誰かにプレゼントをするという機会がなかったために緊張して、昨晩はろくに寝ていない。はっきり言って気力も体力も限りなくゼロに近いと言ってもいい。しかし、それに見合ったものは買えたと自分では思っている。
 ぐったりとしている私の横に置かれた赤い包み紙。その中にあるのは鮮やかな深紅のドレス。昨日の夕方ごろに近くの仕立屋に無理を言って作ってもらったものだ。今朝方受け取りに行くと目を真っ赤にした店主が迎えてくれたところを考えると、おそらくあちらも昨晩はろくに寝ていないのだろう。そう考えると少し気の毒なことをしたかもしれない。しかし昨日調べた限りではこういうものは突然渡すからこそ意味があるらしい。なによりも家族のようなものとはいえ、女性と二人でそういうお店に入るというのは酷く気恥ずかしいものだ。店主もその辺りを察してくれたのか、これといった文句も言わずにただ一言「がんばれよ」と励ましの言葉をかけてくれた。
 不思議なことに、昨日の夜はこんなもので彼女が喜んでくれるだろうかと心配ばかりしていたのに、こうしていろいろと苦労して実物を手に入れるとこれを渡されて喜ばないはずがないと、そう思えてくる。
 しばらく居間でぐったりとしていると少し眠たげな目をしたミトラが居間に入ってきた。
「……あれ? 珍しいですね。ギースがこんな早い時間に起きているなんて」
 私が居間でぐったりしているのを見つけると、心底不思議そうな顔をする。
「私が早起きするのがそんなに珍しいですか?」
「珍しいもなにも……いつも私が起こしに行ってもなかなか起きてくれないじゃないですか」
「まあ……たまには早起きもいいかと思いましてね」
 そう言う私を彼女は訝しげな表情、ではなくむしろ酷く心配そうな顔で私の頭に手をやり、
「熱……があるわけじゃないですね。じゃあ何か悪いものでも拾って食べたんですか?」
「なかなかに失礼ですね。あなたじゃあるまいしそんなことはしませんよ」
「わ、私だって拾っては食べてません!」
 どことなく気になる言い方ではあったが、とりあえず聞かなかったことにしよう。というのも、そうこうしているうちに彼女が包み紙に気がつき、興味津々といった感じにそれを見ていたからだ。
「ギース、この包みはなんですか? 昨日はこんなものなかったと思うんですが」
「でしょうね。これはつい先ほど私が受け取ってきたものですから」
 そういうと不意にミトラは顔を真っ赤にしてモジモジし始める。
 てっきりこれが自分へのプレゼントだと気がついて恥ずかしがっているものだと思っていたのだが、
「え、エッチなのは……あぁ、でもギースも男の人ですし、でもでも、こういうのはせめて隠して欲しいというか……」
 何をどう考えたのか、彼女はこれが性的興奮を得るための何か、ようするにエロ本かなにかだと勘違いをしたらしい。
 というか洗濯機の使い方もろくに知らないのにどうしてそういうことを知っているのか不思議で仕方がない。
「勘違いしないでください。それはあなたへのプレゼントです」
「えっ……そ、そんなエッチな―――」
「いい加減そこから離れてくれませんか?」
 変な勘違いを続ける彼女に呆れながら、半ば押しつけるように包みを渡した。
 しばらくの間、彼女は包みを不思議そうに裏返したり臭いを嗅いだり振ってみたりを繰り返し、そして、
「あの……あ、開けてもいいですか?」
 顔を真っ赤にして小さく手を挙げながら、消え入りそうな声でそう聞いてきた。
「えぇ、どうぞ開けてみてください」
 私がそういうと、一気に小さな子供のように目を輝かせて包み紙を剥がしにかかる。その姿は本当に小さな子供そのもので、これほど喜ばれると贈ったこちらが逆にむず痒いような気持ちになる。
「…………」
 彼女は出てきたドレスを見ると唖然としたように動きを止めた。
「お気に召しませんでしたか? なにぶんこうした贈り物は初めてですから」
「い、いえ……素敵です。でもなんで……」
「あなたと暮らし始めて今日でちょうど一年になります。それに今まで一度もどこかに連れて行ってあげたこともないですし、そのお詫びも兼ねて」
 そう言うと彼女はもともと赤くなっていた顔をさらに赤くして、恥ずかしそうに俯きながら蚊のような声で「ホントに……いいんですか?」と言った。
 そんな彼女の様子を愛おしいと感じ、そう感じている自分に少し驚きを感じる。感情を失くした私が、誰かを愛おしいと感じている。それは何とも不思議な感覚だった。
「もちろんです。私がドレスを持っていても意味がないですしね」
 そう言うと彼女は酷く恥ずかしそうに、とてもうれしそうに、深紅のドレスを胸に強く抱いて笑みを浮かべた。
 それはもう、見ている方も嬉しくなる極上の笑みで、これほど喜んでくれるならプレゼントの一つや二つ、もっと早くに用意してあげればよかった、などと思わず考えてしまう。
「あ、あの! 着てみても……いいですか?」
「えぇ、もちろん。浮かれ過ぎてここで着替え始めなければ」
「……ギースのエッチ」
 そう言いながらミトラは嬉しそうに部屋を出て行った。
 そんな彼女の背中を見ながら、私は胸の奥から湧いて出たどこか温かな感覚に身を委ねていた……


 夢……。
 そこは暗く、温かだった。何も見えなくて、ただ音だけが聞こえる。体の感覚がおかしくて、まるで誰かに負ぶさられているようにふわふわとしていた。
 聞こえてくるのはしとしとと降る雨の音、心臓の鼓動、そして……優しい誰かの声……。
「ごめんね……」
 その声は震えていた。とても悲しげに、とても苦しそうに。
 私にはどうしてその人が悲しそうにしているのかわからなかった。
「私といればあなたは不幸になってしまう……」
 その声は、どこか懐かしくて……

 ―――知らない。

 「だから……ごほっ!」
 その人は時折、嫌な咳をした。

 ―――私はこの人を知らない。

「もう……一緒に、いて……あげ……ごほっごほっ!」
 もう息をするのも辛そうな声。聞いているだけで胸が締め付けられるように痛くなる。

 ―――こんなの……私は知らない……。

 ふわりとした浮遊感。
 冷たく硬い場所に寝かされる。
「ごほっ! ぐ……う……」
 苦しそうな声が聞こえ、顔に生暖かい何かがかかる。
 ゆっくりと温もりが離れていく。雨風に曝されて残った温もりさえもあっという間に消え去ってしまう。
 遠くで何かが倒れる音がして、夢の中の私は目を覚ました。
 その時にはもう、私は一人だった…………
 辺りは暗くて何も見えなかった。服がべったりと体に張り付いて気持ちが悪かった。
 そこは死の匂いが充満していた。暗い路地の奥から死が溢れ返っていた……


 酷く嫌な夢を見た。
 知るはずのない記憶、知っていたはずの真実。それはどこかあやふやで、おぼろげで、目を覚ませばそれがどんな夢だったのかを思い出すことは出来ない。ただ、それが酷く悲しく、恐ろしいものだったということだけは覚えていた。
 それが夢だとわかっていても目を開けるまで時間がかかった。目を開ければあの夢の中の光景が広がっているような気がして、どうにも目を開けることが出来なかった。
 何度か深呼吸をしてようやく目を開ける決心がついた。そしてゆっくりと瞼を開ける。まっさきに視界に入ってきたのは天井、ではなく私を優しげに見つめるミトラの顔だった。
「……なにを、しているのですか?」
「おはようございます。戻ってみたらギースが気持ちよさそうに寝ていたので膝枕なんかしてみました。気持ち良くなかった出すか?」
「そう言う訳ではないですが……どうして膝枕をされているのか理解に苦しんでいるところです」
 彼女の突飛な行動にはこの一年で随分慣れたつもりだった。しかし今日のそれはいつも以上に理解に苦しむものだった。しかも例によって、彼女は私の質問に少し小首を傾げながら、
「そこに眠っているギースがいたから?」
 とさらに訳のわからないことを言ってくる。
「…………」
「えっ? えっ? な、何で黙るんですか? もしかしてわかり辛かったですか?」
「……いえ、もういいです」
 プレゼントに浮かれて頭のネジを数本落としたのではないかと、本気で心配してしまった。
「えっとですね……それで、どうですか?」
「……どう、と聞かれても」
 そんなことを考えていたせいか、一瞬、彼女が何を訪ねているのかわからなかった。
「……ドレスの話です」
「あぁ……」
 言われて初めて、彼女が赤いフォーマルドレスを着ていることに気がつく。
 ゆっくり身体を起こすと彼女は跳ねるように一歩下がり、その場でくるりと一回転をして見せる。ふわりとドレスの裾が舞い上がる。その様子は美しいよりも幻想的で、ひと時でも目を離せば消えてなくなってしまいそうな、そんな危うさがあった。
「ギース? どうしたんですか?」
「いえ、なんでもありません。とりあえずサイズは合っていたようですね」
「……他には?」
「一応シルクなので洗濯する時は気を付けてくださいね」
「…………」
「そう言えばドレスなんてプレゼントされても着る機会なんてありませんね」
「……もう、いいです」
 拗ねたように彼女はそっぽを向いて、そのまま部屋の隅でのの字を書き始める。

 ―――けっ、こんな時ですら澄まし顔かよ。

 そんな時、不意にあの時の声が蘇ってくる。

 ―――見てください。こんな時でさえ……私は自ら涙を流すことが出来ません。

 暗くてどろどろとしたものがジワリと滲んでくる。空っぽの心が黒い感情に塗りつぶされていく。
 私は欠陥品で、泣くことも、笑うことも、怒ることも出来ない。それなのに彼女は、アンドロイドであるはずの彼女は表情豊かで、私なんかよりもずっと"ヒト"で……
 私はきっと、人として生まれるべきではなかったのだ。私なんかよりもずっと、彼女の方が人に生まれるにふさわしい。きっとどこかで神様が私と彼女の命を取り違えたのだ。本当は彼女が人に生まれて、私は人形に生まれるべきだったのに。神様が間違えて私の命を人に、彼女の命を人形に入れてしまったのだ。
「ギース……どうしたんですか?」
「……なんでも、ありません」
「なんでもなくありません!」
 彼女が突然声を張り上げた。よく笑い、よく怒る彼女だったが、こうして面と向かって怒鳴られたのは初めてのことだった。
「なんでもなくなんて……」
 泣いていた。怒りながら彼女は泣いていた。その瞳は真剣そのもので、真剣に私を心配している瞳で、
「ギース、凄く怖い顔をしてます」
「……大丈夫。少し、疲れているだけです」
 それが、酷く恐ろしかった。どうしてかだか、酷く恐ろしいもののように感じた。
 だから、拒絶した。その瞳を、その心を、見て見ぬふりをして彼女の気持ちを受け入れないよう、彼女を受け入れてしまわぬよう、頑なに心を閉ざす。
「……無理は、しないでくださいね」
 それでも彼女は私に優しく語りかけてくる。どれだけ拒絶しても、どれほど心を閉ざしても、私の中に入ってくる。
「もう少し寝るといいですよ……膝、貸しておきますね」
 そう言って彼女は私のとなりに座ると私を優しく自分の膝の上に押し倒した。柔らかな太ももの感触を頭の後ろで感じる。確かに感じる温かさが機械の排泄熱だとどうして信じられるだろうか。
 頬にやわらかな感触と温かみを感じる。徹夜の疲れと柔らかな温もりに自然と意識が闇に沈んでいく。
「ゆっくり休んでください……ゆっくり、ゆっくり……」
 優しい彼女の声を聞きながら、ゆっくりと意識を手放していく。
 薄れゆく意識の中、彼女の歌を聞いた。それはどこかで聞いた子守唄だった。とても優しい、緩やかな調べだ。
 なのに、どうしてだろうか。どうしてこんなに悲しく聞こえるのだろうか……


   閑話休題2
 ふぅ……結構喋ったからさすがに疲れてきたよ。喉がもうからからだ。
 ん? 飲み物を奢ってくれるって?
 悪いね。別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだけど……。いや、わかってるさ。だから続きを話せっていうんだろ?
 あっ、アルコールは遠慮しておくよ。いや、別に飲めない訳じゃないが、むしろ強すぎてダメな方なんだ。どれだけ飲んでも決して酔えない。酔えないビールなんて泡の入った苦い水だろ?
 そうだな……じゃあグレープフルーツジュースでも奢ってもらおうかな。結構好きなんだ、グレープフルーツ。僕はあれほどおいしいものを他には知らないよ。なかでもあのルビーとか言われている品種のものは良いね。初めてあれを食べた時は感動して思わず涙を流したよ。
 なに、大げさなって? いやいや、人が何に感動するかなんてそれこそ十人十色だよ。僕にとってのそれがグレープフルーツだった、ただそれだけのことさ。
 そういえば君はこの辺の人かい? いや、実は僕はこう見えて世界中を旅して回っている根無し草でね。そんな風にはみえないだろ? よく言われるんだよ。まあろくに荷物も持たずに酒場にいればそう見られても仕方がないか。
 あぁ、この町にはまだもうしばらくいるよ。結構この町のことは気に入っているし、それにちょっとした用事もあるんだ。ちょっとした用事が、ね……
 おっと、ジュースが来たようだね。ありがたく頂くよ。うん、ここはなかなかいいグレープフルーツを使ってるね。なかなか良い酸味だ。
 さてと、喉も潤ったことだし続きを話そうか。


 男はほんの少しずつ、少女に心を開いていった。少女も男に心を許し、二人は互いに互いを支え合って幸せな日々を過ごしていた。
 しかし、そんな日々も長くは続かなかった。男が少女にプレゼントをしてから一週間後、最初の異変が訪れた。
 始まりは本当に小さなものだった。少し物忘れが多くなったり、よくうつらうつらとするようになったり。そんな誰にでもあるようなほんの些細なことだった。
 そう、ほんの些細なこと。それが次第に悪化していき、ついには少女は自分の身体を満足に動かすことも出来なくなった。それだけじゃない。彼女は男のことも、昨日の出来事も、自分のことすら、何一つ思い出せなくなっていった。
 それでも男は、少女を見捨てることはなかった。壊れゆく少女に、男は最後まで付き添おうとした……


   第三部 連鎖する悲しみ
 あの日から私は何かにつけて彼女のことをよく見るようになっていた。彼女が笑うと私も嬉しくなり、彼女が落ち込むと私はいてもたってもいられなくなっていた。
 初めての感覚。それはきっと、恋。心を失くした、"ヒト"でない私が誰かを好きになれるなんて思っても見なかった。
 幸せだった。ただ、彼女といるだけで空っぽの心が満たされるような気がした。
 でも……

「どこへ行くのですかミトラ?」
「ちょっと街まで買い物に。そんなに大したものは買わないのですぐに戻ります」
「……何か買い忘れでもあったのですか? 買い物ならついさっき行ったばかりじゃないですか」
「えっ……あっ、そうです。ち、ちょっと買い忘れがあって。じゃあ行ってきますね!」

 幸せは長くは続かなかった。
 始まりは些細なことだった。ほんの少しの違和感。一日に何度も買い物に出かけたり、部屋の灯りを消し忘れたり、何かを言おうとしては言葉を詰まらせてしまったり。そんな誰にでもある些細なこと。
 最初は気のせいだと、そう自分に言い聞かせていた。このくらいは誰にでもあることだと……。
 しかし彼女のそれは日に日に回数を増やしていく。物忘れから始まり、居眠りや立ち眩みをよくするようになっていった。
 最初に違和感を感じてから一ヶ月が過ぎ、彼女はそれまでに出来ていたことのほとんどが出来なくなっていた。あの部屋で目覚めてから、洗濯のやり方も、調理器具の使い方も、この家から商店街までの道筋も、彼女があの部屋で目覚めてから、私と暮らし始めてから少しずつ覚えてきたことを、彼女はすべて忘れてしまった。
 そしてついに、彼女は自力で立つことすらままならなくなり、ベッドで寝たきりの生活になっていった。
 それは私が以前から漠然と感じていた不安そのものだった。"ヒト"でない彼女がいつか動かなくなってしまうのではないか。出来るだけ考えないようにしていたことが現実となりつつあった。
 私は不安を振り払うように、ベッドで横になる彼女に様々なことを話し続けた。ときに哲学的なことであり、ときに思い出であり、ときに他愛もない世間話であり、取り留めもなく私は彼女に話しかけ続けた。
 しかし、そんな行為も空しく立ち上がれなくなってから彼女の症状は加速的に悪化していった。
 思い出を忘れ、昨日話したことを忘れ、やがては私の名前も、自分自身の名前すらも思い出せないようになっていった……
 彼女が記憶のほとんどを失い、もっとも精神が不安定になっていた一時期、彼女はしきりにある物語を口にしていた。
 それは少年と少女が光を求めて旅をする不思議な物語。遠い昔、私が毎日のように聞いた物語だ。
 遥か昔、世界がまだ出来る前の時代。
 そこは小さく温かな光で満ち溢れていた。
 光たちは互いに身を寄せ合って1つの小さな世界を生み出す。
 そこには海があり、陸があり、大気があった。
 しかしそこには生きるものが存在しない、寂しい世界だった。
 光たちはまた身を寄せ合って死んだ世界に小さな光をいくつも送り込んだ。
 小さな光たちは木となり、動物となり、或いは人となり、死んだ世界に活気をもたらした。
 もともと光だった生き物たちはその命が尽きると再び光となって空へと舞い上がる
 その光を見た者には幸運が訪れるという……
 そんな出だしで始まるその話は、書店に行けば売っているようなものではなかった。私も以前、気になって調べたことがあるがどこに行ってもそのような話を知る人はいなかった。
 そんな話を彼女がなぜ知っていたのかは知らない。ただ、その物語を口にする彼女は、何かを必死に私に伝えようとしている風にも見えて、どうしてもその物語が頭から離れなくなっていた。
 

「おはようございます」
「……あなたは、誰ですか?」
「私の名前はギース。ギース・ガイスト」
「ミトラ、あなたの……恋人です」
「ミトラ……それが私の名前なの?」

 彼女がすべてを忘れてからというもの、私の生活は彼女を中心とするようになっていった。
 毎日、朝起きては彼女の部屋を訪ねて自己紹介から始まる。
 日がな一日、彼女にこれまであったことを話して過ごす。
 最初は戸惑っていた彼女も、一日の終わりには笑いかけてくれるようになる。そして夜寝る前には、「また明日」と微笑みながら手を振ってくれるようになる。
 それでも、翌日になれば彼女はすべて忘れてしまっていた。
 どれだけ楽しい思い出を作ってやりたくても、彼女はそれを覚えていることが出来なかった。

「ご飯、持ってきましたよ。今日はキノコのリゾットです」
「リゾット?」
「えぇ……スープの中にお米を入れて煮込んだ料理です。温まりますし、とてもおいしいですよ」
「わぁ……いい匂い」
「火傷しないようにゆっくり食べてくださいね」
 苦痛だった。少し前まではあれほど元気だった彼女が少しずつ壊れていく様を見ると胸が締め付けられる思いがした。
「料理といえば、何度となく鍋に穴を空けられましたね」
「穴? ギースは料理が苦手なの?」
「穴を空けたのはあなたですよ。何をどうすれば穴なんか空けられるのやら……」

 何度も逃げ出しそうになった。これ以上、大切な人を失うことに耐えられない。すべて、何もなかったことにしてその場から逃げ出してしまいたかった。
 それでも、私が辛うじてそこから逃げ出さずにいられたのは彼女との思い出があったからだ。決して長い時間ではないけれど、何よりも大切な思い出。暗く、絶望に満ち溢れていた冷たい世界に暖かな光を運んできてくれた、彼女との大切な思い出。その思い出があるから、現実から目を背けずに済んだ。
 彼女は人間ではなくアンドロイド。一度壊れてしまったら、人のように自然完治はしない。一度失ってしまった記憶を、彼女が取り戻すことはない。壊れてしまった彼女は、もう私が知る"ミトラ"ではない。それがわかっていても、私は彼女から離れることは出来なかった。
 出来る、はずがなかった。

「もうこんな時間ですね……そろそろ寝ましょうか」
「…………」
「そんな顔をしなくてもまた明日になれば会えますよ」
「……ほんと?」
「えぇ、本当です。だから、おやすみなさい」
「おやすみなさい、ギース」

 覚めない夢はない。明けない夜はない。
 見ている夢が幸せであろうがなかろうが、目覚めは確実にやってくる。
 時間は残酷で、歩みを止めてくれることはなかった。

「ギース……」
「なんですか?」
「もっともっと、沢山お話を聞かせてください。私が失くしてしまった、大切な物語を……」
「もちろんです。いくらでも聞かせてあげます」

 止まることなく流れる時の中、壊れた人形が動きを止めるのは、実に自然なことだった。

「ギース……今まで、本当に…ありがとうございました……」
「最後……に、ひとつ…だけ……お願いしても…いい、ですか?」
「たった一つ……でも、とても…難しいお願い……です」

 彼女は、自分が壊れる最後のその瞬間まで、

「泣いて…笑って……そして、しあわせに……なってください……」

 ただ、私のことだけを考えて微笑んでいた……

「また……あいま…しょう……」

 夕日の赤が部屋に差し込む頃、彼女は安らかに目を閉じ、二度と目覚めぬ眠りについた。


 彼女が死んで一日が経ち、三日が経ち、一週間が過ぎ去って行った。
 もう、なにもやる気になれなかった。一日中、動かなくなってしまった彼女の顔をぼうっと眺め、その場でうつらうつらと眠り、そして目覚めるとまたぼうっと彼女の顔を眺める。そんな日々が続いていた。最後にベッドに入ったのがいつだったか、それどころか最後に食事をしたのがいつだったのかすら、もう思い出せない。
 悲しいわけではなかった。ただ、心がまた空っぽになってしまっただけ。彼女と出会う前に戻ってしまっただけだ。
「ミトラ……」
 一日に幾度となく彼女の名前を口にし、冷たくなった彼女の手を握った。そうしていれば何事もなかったかのように握り返してくれる。そんな空想でもしなければ空っぽの心は今にも折れてしまいそうだった。
 "ヒト"でない彼女の肉体が腐ることはなく、美しいままその場に留まり続けた。彼女にとっての死は、人形が本来あるべき姿へ戻ることを指していた。物言わぬ彼女を見ると空っぽの心が絞られるように苦しくなった。それだけが、私が生きている証しとなってくれた。
 そんなある日、私は彼女のベッドサイドに一冊の日記帳が置いてあることに気がついた。赤い表紙の古びた日記帳。表紙には大きな文字でマル秘と書かれていた。
 それはおそらく彼女が生前につけていたものだった。
 私はそれを手に取り、戸惑った。私はこれを読むべきなのだろうか、それとも読まないべきなのだろうか。読めばきっと後悔する。彼女がいない現実に耐えられなくなる。しかし同時に読まなければ後悔する。そんな予感もした。
 酷く緊張していた。喉がからからになって幾度となく唾を飲み込んだ。
 ゆっくりと、日記を開いていく。心はそれを見ることを拒んでいるのに、身体が勝手に動いた。
 その日記帳は最初の数ページが破り取られていた。さらに前から数ページが白紙の状態で、日記が書かれているのは日記帳の中ごろのページからだった。

『 四月二十一日
 クライム博士から日記を手渡された。随分と使い古された赤い日記帳だ。
 不定期でいいからこれに書いた日付とその日にあった出来事を書くようにと言われる。
 なんでも実験と私に感情が定着しているかどうかの確認を兼ねているらしい。
 日記帳を受け取った時にふと思った。私はこの日記帳を知っているんじゃないか、と。
 もちろんそんな記憶はない。そもそも日記帳と言う物を触るのも今日が初めてのはずだ。なのに、そう感じるのはなぜだろうか……』

『 四月二十八日
 今日もクライム博士から博士の弟子がどれほど優秀なのかというのろけ話を延々と聞かされた。
 少しだけ妬けてくる。博士ったら目の前にこんなに可愛い女の子がいるのにずっとギースのことばっかり。
 でも同時に少しだけギースの話を聞くのが楽しみになっている自分もいた。ずっと博士に彼のことを聞かされてきたからか、もうずっと昔から彼のことを知っているような、そんな気がして仕方がない。
 ギース……どんな人なんだろうか』

『 五月十五日
 最近どうもクライム博士の様子がおかしい。
 顔色も悪いしときどき胸のあたりを押さえて苦しそうな顔をしている。もしかしたら病気なのかもしれない。
 でも博士は私がどれほど心配しても大丈夫の一点張り。心配をしているのはこっちなのに、博士は「それより気分はどうだい? どこも調子は悪くないかい?」だって。こっちの気も知らないで……
 あの人が無理をしていないか、本当に心配だ』

 それは私の知らない、彼女が作られて間もないころの記録。
 日記は不定期に書かれていて、ときには毎日のように書かれ、ときには二週間以上書かいていない時期もあった。
 私は日記を見て驚きを隠せずにいた。
 五月の半ばからすでに先生は体を悪くしていた。思い返せば確かに、あのころ先生は食欲を失くしていたり不意によろめいたりしていた。しかし、普段私の前では辛そうな素振りなど全く見せず、また食欲がなかったりよろめいたりするのも、研究や論文でしばしば徹夜を週単位で繰り返す先生にはよくあることだったので、私はその異変に気づくことが出来なかったのだ。
 思わず自分を罵倒する。あの時、私が先生の異変にきちんと気付けていたら、もしかしたら先生は死なずに済んだかもしれない。ミトラだって、先生がいればこんなことにならずに済んだかもしれない。そんなとりとめもないことが頭に浮かんでは消えて行った。

『 六月九日
 今日は定期健診の日だ。なんでも全身を調べるから私はしばらくの間、眠ることになるらしい。今は少しだけ時間を貰ってこれを書いている。
 博士の体調は相変わらずで、顔もどことなく青ざめていたし、息遣いもなんとなく苦しそうだった。
 こんな状態で私のメンテナンスだなんて……博士は大丈夫なんだろうか?
 目が覚めたらすぐに博士をお医者様に見てもらおう。本人が嫌がっても引きずってでも連れて行ってやる。そうでもしないとあの人は絶対休まないだろうし……
 博士が私のことを呼んでいる。行かなくっちゃ』

 そこからしばらく日記は途絶えていた。おそらく彼女があのガラスの容器の中にいた時期なのだろう。
 何のために先生が彼女をあそこに眠らせたのかはわからない。本当に検査のためだったのか、あるいはもっと別の目的のためか……
 そして、

『 七月二十七日
 今日は悲しいことと嬉しいことが同時にあった。
 まずは嬉しいこと。ついにギースと会うことが出来た。
 目が合ってすぐに彼だとわかった。なんだか初めて会ったはずなのに初めてな感じがしない。博士から話をよく聞かされていたせいか、ずっと前から彼を知っているような、そんな気がした。
 彼は私が思った通りの優しい人で、思った以上に悲しい人だった。泣くことが出来ない、感情がない人がいるなんて、今まで思っても見なかった。
 悲しい知らせはそんな彼から博士が死んだことを教えられたこと。数週間床に伏せていた、そう彼は言った。やっぱり博士はあの時からずっと体調が悪かったんだ……
 もしかしたら、博士が死んだのは私のせいなのかもしれない』

 そこから先は毎日のように日記が付けられていた。
 その内容のほとんどは私とどんな話をしたか、どんなことをやったか、そんなことで埋められていた。

『 七月三十日
 今日はギースと初めて買い物をした。
 といっても私は付いて行っただけみたいなものだったけど。
 ギースは真剣な目であれこれ手に取っては眺めていた。
 正直私にはどれも同じに見えたけどな……』

『 九月八日
 今朝からなんとなく空模様が怪しいかなと思っていたら案の定昼過ぎあたりから雨が降り始めた。
 大急ぎで洗濯物を取り入れようとしたら転んで洗濯物ともども泥だらけに……
 物音を聞きつけてやってきたギースにまたため息を吐かれました……
 うん、でもなんとなくギースが楽しそうだったからいいかな』

『 十二月十日
 朝起きたらびっくり仰天、外が一面真っ白になっていた。
 雪を見るのは初めてだったけど、なんだか不思議な感じがした。
 空はどんより黒い雲がかかっているのにそこから真っ白な雪が降ってくるなんて幻想的だと思いました。
 でもギースはなんだか嫌そうな顔。なんでも寒いのは嫌いらしい。こんなにきれいなのにもったいない……
 こんど毛糸のマフラーでも頑張って編んでみようかな……

『 七月二十七日
 今日は朝起きたら珍しくギースが早起きしていた。
 さらに驚いたことにプレゼントまで用意して!
 でもなんだかそのあと少し辛そうな顔をしていた。
 嫌な夢でも見たのかもしれない。
 或いは……』

「なんですか……私のことばっかりで、少しは自分のことも書けばいいのに……」
 思わず呟く。そこに書いてあるのは本当に私のことばかりで、彼女が日頃どれだけ私のことばかりを見ていたのかがわかって。
 しかしそこからしばらくして指が止まる。そこから先はもう、辛い思い出しかないから。

『 八月
 なんだか最近物忘れが激しい。
 だんだん自分が自分でなくなっていくようで怖い。
 ギースの話の中にクライム先生という名前が出てきたけどそれが誰なのか思い出せなかった。
 もし、もしもギースのことまで忘れてしまったらどうしよう……
 今日って……何日だっけ……?』

 日記を通じて彼女が記憶を失くしていく様子がありありと伝わった。
 記憶が失われていく。それはどれほど恐ろしいことだったのだろうか。私が現実から目を背けている間、彼女は一人でその恐怖に立ち向かっていたのだ。
 やがて日記から日付が消えた。きっとその日が何月の何日なのかも思い出せなくなってしまったのだろう。

『目が覚めたら知らない場所にいた。
 なにもわからなかった。ただ、自分の名前だけはわかった。
 しばらくすると"ギース"という男の人がやってきていろいろ話をしてくれた。
 なぜだか、彼と一緒にいると安心できた。
 もしも、この日記を書いてきたのが私なら、彼は私にとってとても大切な人だったに違いない』

『朝起きると記憶が何もないことに気付いた。
 自分の名前だけはどうにか覚えていたが、それ以外はなにも覚えていなかった。
 ギースという人が来ていろいろ話してくれたけどまったく身に覚えがなかった。
 ただ、彼が苦しそうな顔をするとなぜだか私まで苦しくなった』

 記憶を失くしてからの彼女の気持ちがそこには書き綴られていた。
 心を持った彼女は、記憶を失ってもなお私のことを心の底で覚えていてくれていた。もうまともに字も書けなくなっているのに、それでも彼女は震える手を押さえながら、歪んだ文字で私のことを気にかけてくれていた。それが嬉しく、それが苦しい。
 気づけば最後のページ。
 そこにはそれまでとは打って変わって、しっかりとした文字で私宛のメッセージが書かれていた。

『あなたと過ごし、あなたを好きになり、そして次の日には忘れてしまう。どんなに心に留めようとしても、あなたとの思い出は指の間からこぼれ落ちてしまう。
 それでも、次の日にはまたあなたと過ごし、あなたを好きになっていた。
 あなたはきっと、私にとってとても大切な人だから。私は覚えていられないけど、きっとあなたは私が大好きな人だから。
 だから私が死んだら一晩だけ泣いてください。悲しんでください。
 そしてどうか、次の日からは私のことを忘れて、私以外の誰かのために笑ってください。
 さようなら。そしてありがとう。
 ギース、私の愛しい人……』

 そこに綴られていたのは彼女の想い。結局彼女は最後の最後まで、私の心配をしていたようだ。
「……な、ぜ……でしょう。目が霞んで、よく見えません……」
 文字が滲んで見えた。頬を温かな雫が流れ落ちて行く。
「本当に、あなたと言う人は、本当に……」
 その日、私は初めて涙を流した。それまで流せなかった分をまとめて流すかのように、涙が次から次へと零れ落ちて行く。
「ありがとう……おやすみなさい、ミトラ」
 涙しながら少女の冷たい手を握り、感謝の言葉を口にするのだった……


   エピローグ
 これが男と少女の物語だ。
 おや? なんだい、泣いているのかい? だから最初に言ったじゃないか。この類の話は大抵"悲劇"に終わるんだよ。
 その顔は納得いかないって顔だね。そんなことを僕に言われても困るんだけどね。だいたい君が聞きたいって言うから話したんじゃないか。
 仕方がない。ジュースを奢ってもらったことだし、もう少しだけ話してあげよう。


 それは少女が壊れて動かなくなった日の夜のことだ。彼は冷たくなった彼女の手を握り締めながら、彼女にもたれかかるように眠っていた。
 彼は夢を見たんだ。
 夢の中で彼は妻を娶り、一人の女の子を生した。男は生まれた子供にミトラと名付けて大切に育てた。
 ミトラと名付けられた子供は、両親の何れにも似ても似つかづ、それどころか成長するにつれてあの少女の面影を感じさせるようになった。
 男はそんな我が子を複雑な心境で見守り育てた。しかしその子の十八の誕生日の日、ミトラと名付けられた子供にあの少女と同じ症状が現れた。物忘れが激しくなり、身体を動かせなくなり、そして記憶を失う。
 もう止めてくれ。そう男は懇願した。こんな夢を見た自分にか、あるいはこんな悪夢を創りだした神にか。
 すると世界が歪んで、文字通り弾けた。気がつけば男は何もない世界に迷い込んでいた。何もない、真っ白な世界。
 そこでは何もかもが、自分の身体の感覚さえもがあやふやで、何も感じず、何も臭わず、ただ声だけが聞こえたそうだ。
 後悔しているか。そう声は男に訪ねた。わからない、そう男は答える。
 もう一度やり直せるとしたらどうする。そう声が聞いてくる。わからない、そう男は答える。
 ならば何を望むか。そう声が不思議そうに聞く。すると男は少しだけ迷って、
「ミトラに微笑んであげたい。彼女と思いっきりケンカをしたい。彼女と一緒に涙を流したい。そして共に、二人で"ヒト"として生きて行きたい」
 そう答えた。同時に世界が再び歪んで、男は目を覚ました。
 目を覚ました男は夢の中でのことは何一つ覚えていなかった。ただ、目覚めた瞬間にどこからか「今度は後悔しないように」と、そんな声が聞こえてきた気がした……


 さてと、実は男と少女の物語はもう一つあるんだ。っと、今何時かわかるかい? えっ、もうそんな時間!?
 まずいまずい、もう行かなくちゃいけない時間だ。
 そこまで言っておきながら何もなしは酷いって? 仕方がないだろ、僕だって色々とやることがあるんだから。
 オーケーオーケー、わかったよ。じゃあ約束をしよう。次に君にどこかで出会ったら、その時は必ずもう一つの物語を話して聞かせよう。
 なに、僕はまだしばらくこの町にいるし、きっとまたどこかで出会うこともあるだろうよ。
 っと、いけない。急がないと!
 それじゃあ、えっと……そう言えば名前を聞いていなかったね。
 ん? 僕かい?
 僕の名前はアイン。始まりのアインって呼ばれている。っていけない。のんびり自己紹介なんてしている場合じゃなかった。
 それじゃあ、またいつか縁があったら会おう。

2010/06/19(Sat)11:58:00 公開 / 浅田明守
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■作者からのメッセージ
 皆様こんにちは。あるいは初めまして。テンプレ物書きの浅田と申します。
 一応は『Live of dolls』の“無印”はこれにて終幕となります。とまあこう言えばお分かりになる方もいるでしょうが、もちろん物語の最後に語り部の『僕』が言っていたようにミトラとギースのお話はもう一つ存在します。何れそちらの方も投稿させていただきますのでそれまでしばしのお待ちをお願いいたします。
 ようやく時間が出来たので、第三部更新ついでにこれまでの話に微修正(誤字脱字の修正、および表現の修正)を加えました。ご意見を下さった方々には感謝の言葉もございません。
 次の物語でお会いしましょうノシ

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。