『ファイナル チューン』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:中島 梢陽                

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    ファイナル チューン
新宿でライヴ ハウスを始めてもう二〇数年になる。
 ただ自分が三六五日、二四時間ロックに浸っていたいという、それだけの理由で始めたから開店当初一年ほどは閑古鳥が鳴いていたが、父親の遺産を食い潰しながら経営を続けているうちに口コミで名前が知れ渡り、二〇〇席程の店内で立ち見が出るくらいの有名なミュージシャンも呼べるようになった。
またそのお陰か、出演するバンドをオーディションで選べる程に格も上がり、音楽雑誌やレコード会社、プロダクションの関係者などが出入りするようになり、ここのステージでデビューして有名になったミュージシャンも多くなった。
また有名になったミュージシャン達が時々仲間を連れて呑みに来たりして、それを目当てにファンが集まり、相乗効果でますます客も増えて、知名度も人気も上がり、出演を希望するミュージシャンも増えた。
 今ステージ下に群がる若い女性ファンとミュージシャン志望の少年達の熱い眼差し、そして少し離れたテーブル席に陣取る業界関係者達の冷静な視線の先で、高度なテクニックを要する緻密な演奏を激しく繰り拡げているファイナル チューンもまた同様にオーディションを受けに来た、都内の大学生のアマチュア四人組だった。
ファイナル チューン。
最終音。
こいつらは必ず世に出る。
おれは彼らの送って来たデモ テープを聴いて、彼らの音楽性と演奏水準の高さに驚き、ほれ込み、彼らをステージに立たせようと決めた。
ちょうど二年ほど前だ。
おれ自身の中で、新しい音に飢えていて、というのも、その頃在り来たりのポップスに近いロック グループの音楽が主流になりかけていて、衝撃を受けるような音楽にしばらく出遭っていなかったのだ。
いっその事自分でバンドを作ろうかとも真剣に考えたが、年齢と、過去挫折した苦い経験を思い出し、悩んでいた。
そんな時だった。
《おい。何だ?これ。良いじゃねえか》
勿論、デモ テープを再生する前は、何時もの食傷気味のバンドの一つとしてしか考えていなかった。
一発目の音。
いきなりアップ テンポのリズム セクションに乗って、ギターとシンセサイザーのメロディアスな掛け合いだ。
脳裏に広大な空間が一発で拡がる。
心が光り輝く大海原を疾走する。
次の瞬間、大気圏まで舞い上がって広大な太陽系を臨む。
おれ好みのサウンドだ。
面白い構成もあった。
八拍子から、ワン コーラス毎に七拍子、六拍子、五拍子、四拍子。そしてもう一度、さらに今度は四拍子から逆に八拍子までビートを変化させる。
相当腕が立ち、練習を積んでなければ出来る芸当ではない。
次の曲はストリングスを効かせた壮大なオーケストレーションが特徴の曲だ。
全員でパーカッションだけの短い曲もあった。
ドラムスとパーカッションをベースにヴァイヴがメロディを奏でる。
面白い。
《ヴォーカルが入っていないな》
こいつらの演奏水準に合う技量のヴォーカリストがいないのだろう。
少し音が悪くて、演奏の合間に拍手と歓声が聴こえるのは、何処かのライヴ ステージを録音した物だからだろう。
何度か繰り返し聴いてから彼らに連絡を取り、型通りのステージ オーディションを受けさせたが、彼らはおれの目の前で期待以上のライヴを繰り拡げ、彼らへの思いを一層強くした。
そしておれはその翌月、間に合う限り最も早いステージを用意してやった。
それも、いきなり、それなりに名の売れたミュージシャンしかブッキングしなかった土曜日の夜のステージだった。
「驚異のサウンド!」「超大型新星誕生!」「世界に通用するテクニック!」
おれは思い付くままにポスターを作って店内に張りまくり、常連客にも声を掛けた。

そして当日。
おれの予感は当たった。
彼らが声を掛けたのだろう、彼らのファン クラブのような団体が席を大半埋めていたが、この店の常連客も多く、また業界関係者の顔も見えた。
彼らの店内ライヴ デビューは大成功だった。
彼らのファンである客から、彼らの通う大学の学園祭で、招待したプロのロック ミュージ
シャンを食ってしまうほど、人気が高いと聴いただけあって、彼らの評判はあっと言う間に拡がり、わずか二ヶ月、三度目のステージで早くも立ち見が出るようになった。
そして彼らを世に出そうと目論む業界関係者も多数脚を運ぶほどになったのだ。
こいつらはちゃんとプロモートしてやれば、本当に、国内どころじゃない、世界にでも通用するバンドになる。
ビートルズのデビュー以前から四〇年以上もロックにどっぷり浸かって来たおれの耳に、彼らの音楽は強烈な印象と感動を伴って跳び込んで来たのだ。
そして彼らのステージを体験すればするほど、おれは心の底から、彼らを自分自身の手でプロデュースしたいと考えるようになった。
今までそんなバンドやミュージシャンがいなかった訳ではないが、その想いがこれほどまでに熱く湧き上がったのは、彼らが初めてだった。
五〇歳を過ぎて自分の人生を振り返るようになると、おれがロックと出遭って四〇年間、遺した足跡がこのライヴ ハウスだけというのがひどく寂しく、みすぼらしく思えるようになったせいであったかも知れない。
それも、この店が成功したのはおれ自身の力ではなく、そのほとんどが、経営に余裕を持てるほど父親の遺産があったお陰だ、という、おれ自身のコンプレックスがあるせいだろう。
生まれて五〇年、ロックを知って四〇年、このライヴ ハウスを開いて二〇年、永い年月だと感じていたが、今振り返ると、あっと言う間に過ぎ去った時間のその大半を、何と無駄に過ごしてしまったのだろうという、後悔しか残っていなかった。
店のスタッフも、ロックを追い求める年齢ではなくなって辞めたり、業界関係者も年齢と共に出世して偉くなったり、何時の間にかいなくなって代が替わったりもしていた。
四〇年以上の永い時間の中で、おれは何をしただろうか?
おれ自身、ジミ ヘンドリックスやエリック クラプトンに憧れ、ギターが好きだったのでバンドをやってもみたが、極度のあがり症で挫折し、ミュージシャンになるのを諦め、日本の音楽界を飲み込んだロックの巨大な奔流の中でただ永い時を浪費し、この店から才能のあるミュージシャンを何人か世に送り出しただけだった。
死ぬまでに、もっと何か、大きなものを遺したい。
何か永遠に遺る事をしたい。
未だ何か出来るはずだ。
五〇歳を過ぎ、頻りに過去を振り返るようになり、そう思い込み始めたおれの前にファイナル チューンが現れたのだ。
ファイナル チューンを世界的なミュージシャンに育てたい。
彼らの音楽が、おれがかつて目指した音楽と同じなのも、おれを燃えさせていた。
時折彼らのステージに、おれ自身が立っているような錯覚や、そうでありたい願望を覚える事もあったのだ。
しかしおれは年老いた。
いや、五〇代、六〇代で現役のロック ミュージシャンも大勢いる。
年齢を積み重ねる事によって音楽に円熟味を持ち、貫禄を持ち始めたり、あるいは年老いてこそ益々頑張っていたりする連中もいる。
年老いたから今更、と考えるのは、おれ自身のミュージシャンとしての資質に、おれ自身が不安を抱き、限界を感じていた証拠なのだろう。

ファイナル チューンの演奏が一曲終わった。
わずか二〇〇席ほどの狭いライヴ ハウスの中に、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こる。
「相変わらず、良いの、奏ってんな」
曲間でショウヤが二曲目に備えてシンセサイザーをチューニングしている時、背後から聴こえた声に振り向くと、ヒロシがステージを見据えたまま隣に座り、微笑んだ。
 「おっ、来たのか。レコーディング、ばっちりか?」
 「うん。後は細かいミキシングだけ。あいつらが今夜ここで奏るって聴いたんでね」
ヒロシが、ウエーターが運んで来たボトルのセットで、ウイスキーのロックを作って、喉に流し込み、新たにボトルからウイスキーを注いだ。
「マスターが入れ込んでるっていうだけあって、やっぱ、良いバンドだよな、こいつら。最近ろくなのいねえから。久しぶりだぜ、おれを興奮させるような若手のバンドなんてよ」
ヒロシはこの店のステージ ライブで力を付け、スカウトされて世に出て、有名になった最初のバンドのギタリストだった。
いわゆるフュージョン ミュージックというジャンルの音楽が日本でポピュラーになったのは、何をさて於いても、彼のグループに負う処が大きかった。
彼らが有名になった後、彼らの音楽性と演奏スタイルを模倣し、追随するバンドが多く輩出されて名を挙げ、そのせいで一層彼らの人気も増した。
一〇年以上も前に解散したのに、メンバー達がそれぞれソロで活躍している事も手伝って未だに人気が高く、ロック少年達やアマチュア バンドがテクニックを磨く為に、彼らの曲をコピーするお手本だった。
ヒロシはバンド解散以来、それまでの精力的な音楽活動を辞めてのんびり過ごし、二、三年に一度ソロ アルバムを出したり、他のアーティストのツアーやステージ、アルバムにゲスト出演したりする程度だった。
ステージで照明が暗赤色に変わり、シンセサイザーを担当するショウヤのシンセ ベースが重低音で店を揺さぶり、ドラムス、パーカッション担当のヨッチンがツー バスでたたき出す重いビートの上に、ギター担当のユウキが奏でるダブル ネックの一二弦ギターの深みのあるアルペジオと、その他のメロディ楽器やパーカッション全般を担当するコウジが弾く軽やかな透明感のあるヴァイヴが絡んで静から動へ、そして眼も眩むようなフラッシュ ライトが走ってハイ トーンの伸びやかなショウヤのシンセサイザー ソロが重なった。
 「ほー、新曲ですかいな?」
 「ああ、ユウキが創った曲だ」
 ヒロシがステージとグラスとを交互に見遣りながら、おれが空にしたグラスにもウイスキーを注いでくれた。
おれもグラスを口に運んで一呑みし、ステージを見つめた。
 「この曲のイントロはマスターのアドバイスだろ?好みが出てるぜ」
 ヒロシがステージを見つめたまま微笑んだ。
 「やっぱ、解るか?あいつらの意見が割れてたんでね」
 ヒロシとは二〇年の交際いだ。
互いの好みも音楽性も解っている。
 「しっかし、こいつらなあ、ほんと、ヴォーカル欲しいぜー」
 ヒロシがウイスキーのグラスを握り締めたまま、イスの背もたれに身体を預けて脚を投げ出し、ファイナル チューンが弾き出す音の洪水が渦巻く空間に言葉を放り投げた。
そうなのだ。
ファイナル チューンは完全なインストゥルメンタル バンド、つまり楽器演奏だけの音楽で、ヴォーカルがいなかった。
ヒロシのバンドもインストゥルメンタル バンドだったが、ジャズとロックを融和させたフ
ュージョン ミュージックというジャンルでは特に問題にはならず、また彼らはメンバーのそれぞれが超の付く演奏技術を持ち合わせており、当時アメリカから上陸したフュージョン ミュージック ブームも後押しして、それだけで充分売れたのだ。
ファイナル チューンの場合、勿論メンバーのそれぞれの演奏技術は実に確かな物を持っているが、個々のテクニックが売り物ではなく、ハードでバラエティに富んだスリリングなリズム展開に、美しいメロディーを載せるサウンド全体の構成が売り物だった。
しかし最近の日本のロック界と言えば、ヴォーカルが入ったバンドでなければ、歌詞の付いた曲でなければ売れないと言っても過言ではない程、ヴォーカル バンド全盛だった。
中にはただドラムス叩いてベース、ギターを抱えて演奏しながら歌を歌っているだけで、ロック バンドでございますというような、陳腐なグループもあったが、そんなグループでさえ売れる始末だった。
ファイナル チューンはヴォーカルのないインストゥルメンタル グループというだけで、レコード会社やロックの専門雑誌から高い評価を受けながら、未だにスカウトされないままだったのだ。
 殺伐とした社会、不安定な将来、マニュアル化された型通りの教育。
そんな時代背景の中で瑞々しい感性が失われて行くせいか、若い音楽ファンは、音のみから拡がるイマジネーションの世界よりも、安直だが、解り易い言葉で表現される世界を求めているのかも知れなかった。
 それにしても今の日本の音楽界、ロック界は情けない限りだ。
出版されてすぐ大ヒットし、メディアでも絶賛される曲が、半年も経たないうちに街角から、人々の口の端から消えて行く。
アーティストもいわゆる一発屋がほとんどで、二曲目が売れるのは少なかった。
本当に優れたミュージシャンは、一作目より二作目、三作目より四作目と、作を重ねるごとに素晴らしい作品を産み出すものだ。
ではそんなに素晴らしい良質の曲が次々と産出され、ミュージック シーンを盛り上げているかと言えば、そうではない。
例えばCM ソングが顕著な例で、新しいオリジナル曲はほとんど使われず、使われたとしてもヒットする訳ではほとんどなく、古き時代の大ヒット曲がそのまま、あるいはリメークされて使われ、それが再ヒットするだけだ。
最近でも、エイズに犯されて死んだフレディ マーキュリーをヴォーカルに擁し、二〇数年前、あっと言う間に世界的なトップ アーティストにのし上がり、一度のメンバーチェンジもなく沢山のヒット曲、ヒット アルバムを飛ばし続けて一時代を築き、解散して一〇数年経つのに未だにそのアルバムが世界中で売れ続けているクィーンの曲が、日本でCM ソングやテレビ ドラマのメイン テーマに使われ、巷でじわじわ売れ始め、新たなクィーン ブームが巻き起こった。
その新たなブームを、元のクィーンのファンは恐らく冷ややかに、あるいは戸惑いを持って傍観しているはずなのだ。
ジャーニー、ディープ パープル、ローリング ストーンズ、エアロスミスなどもまた然りで、彼らの七〇年代頃のヒット曲が未だに年に数本CM ソングで使われる。
過去、オリジナルのCMソングから火が点いて大ヒットしたケースは何度もあった。
ところが今のCMのほとんどが曲無しか、かつてのヒット曲のカバー曲だ。
またひどい例では、CMにミュージシャンが出演しているにも拘らず、CM ソングが彼のオリジナル曲でもヒット曲でもなく、他人の過去のヒット曲であったり、スタンダード ナンバーであったり、と言う、訳の解らないものさえある。
さらに大物ミュージシャンでさえ、自分のオリジナル作品に自信がないはずはないだろうに、昔の他人のヒット曲をリメークして集めたアルバムを次々と発売する始末だ。
まさかクラシックの世界のように、例えば個人的な好みで言うと、ドヴォルザークの交響曲第五番《新世界より》を、カラヤンがベルリン フィルを指揮して奏るのと、ジョージ セルがクリーブランド管弦楽団を指揮して奏るのと、ヴァーツラフ ノイマンがチェコ フィルを指揮して奏るのとを比べて、その解釈の違いを愉しむように、ロックもそんな古典の時代に入った訳でもあるまい。
「こいつら、良いヴォーカリストが入ったら、レコード会社の連中、絶対跳び付くぜ」
ヒロシの言葉に、おれもただうなずくだけだった。
おれがファイナル チューンの感想を訊いたレコード会社の連中も、杓子定規のような応えだった。
「多少は売れるが、採算が合うかどうかって処ですかね」
「トップ アーティストにまでなるには、遠いですね」
「今風ではないですからね」
関心がないはずはないのに、彼らは一様にそんなコメントを並べて、ファイナル チューンをスカウトするのに二の足を踏んでいた。
おれは時期を逸しない為に彼らをインストゥルメンタル バンドのままでも売り出したいと考えていたが、それで失敗し、彼らの将来に傷が付く事を恐れてもいた。
二時間ほどのステージで、十八番である最後の曲をアンコールに応えて終えると、彼らは一向に帰ろうともせずに握手を求めて群がるファンをかき分け、何時もおれが座っているテーブルにやって来た。
彼らはおれの隣のヒロシを眼にすると、照れ臭そうに笑った。
彼らの最初のステージに、おれはヒロシを呼んで彼らの演奏を観せた。
それ以来ヒロシは毎回彼らのステージに足を運んでいた。
駆け出しでアマチュアの彼らにしてみれば、何度かこの店で一緒に酒を呑み交わしたとは言え、ヒロシのようなベテランの世界的なトップ ミュージシャンの前で演奏するのは、気が引けるのだろう。
「よう。観るたびに、良くなってんねえ」
「こんちわ」
「ヒロシさん。来てたんですか?」
「ありがとうございます」
「お耳に適ってうれしいです」
彼らがステージから持って降りて来たグラスに、ヒロシが次々とボトルを傾けてウイスキーを注ぎ、口々に挨拶を交わしながら肩を叩き合った。
「マスター。新曲どうでした?」
「うん。あれで良いと思うよ。ただエンディング、ちょっと冗漫過ぎかな?もう少しびしっと切ってシンプルに終わった方が、逆に印象に残るかも知んねえな」
「ヒロシさん。ニュー アルバムの出来はどうですか?」
「もう、バッチリですね。若い君達に負けられないっすから」
「元気そうですね?おれ達四人で先月ライヴ観に行ったんですよ。終わってから楽屋に入ろうとしたら断られましたけど」
「今度来る時携帯鳴らせよ。入れるように言っとくから。ユウキ。また良い曲がレパートリーに入ったな」
皆でグラスを併せて乾杯する。
「ごちでーす。マスターのお蔭で、良いのが出来ちゃいました」
「早くヴォーカル入れろよ。そしたら絶対、お前らもっとすごくなるって」
「判ってんですよ。マスターとも相談してるんですけど、なかなか、ですね」
「お前らの誰か、歌えねえのかよ?」
「わっはっは」
「冗談は酔っ払ってから、ですね」」
「酒がまずくなる話は止めましょう」
ヒロシの投げ掛けに、四人は照れ笑いを浮かべた。
 「四人共下手じゃないけど、こいつらの演奏にソロで太刀打ちするとなるとな」
 「でも、ヴォーカル入れたら、歌詞も書かなきゃいけないし、アレンジもし直さなきゃなんないし。大変っすよ」
 コウジが真剣な表情で訴えた。
彼らにしてみればヒロシは大先輩、ヒロシにしてみれば彼らは、おれがそう感じているように、自分の子供みたいな存在だった。
おれは酒を酌み交わし、談笑しながらも、彼らにヴォーカリストの加入を急がなければと、真剣に考えていた。
しかし具体的に、と言うと心当たりはなかったし、インストゥルメンタルで構築された彼らの音楽に、下手にヴォーカルを入れたりすると、彼らの音楽の素晴らしさが損なわれる恐れもあった。
またコウジが言ったように、緻密に計算されて創り上げられ、既に完成されてしまった感のある彼らの曲にヴォーカルを入れ、歌詞を付け、またさらにそれを一からアレンジし直す事の困難さも感じていた。

何時も昼間の営業は早番のスタッフに任せて、夕方から店に出るおれが、税理士に出さなければならない前月の領収書と伝票の束を、月初めの一日だけ開店前に取りに出る。
新宿の街を凍らせる冬の寒さが、未だ二月だと言うのに珍しく和らぎ、未だ一〇時前だと言うのに、昇った太陽の陽差しが背中を温めていた。
ビルの地下にある店でずっと、季節の移ろいを気にも留めないで無縁の生活していたおれが、子供の頃そうだったように、最近改めて季節を感じるようになったのも、年を取ったせいか?
年老いて死ぬまでに後何年生きるのだろうか?
そしておれは何が出来るのか?
おれは何をしたいのか?
年金問題が取りざたされ、二、三〇代の若い連中さえもが、老後の生き方を語る。
そのほとんどが、老後の安定した生活を得る為に、今若いうちに頑張って働かなければいけないと言う。
そしてなんとかかんとか評論家という、知ったふうな名札を付けた連中が、さも判ったふうにそれを肯定し、あるいは無知な視聴者を誘導する。
ちょっと違うのじゃないか?
おれ達は老後の生活を楽しむ為に、安定した老後を過ごす為に、二〇代から五〇代くらいまでの数十年間必死で働くのか?
では人生とは、その大部分が、肉体も精神も衰えた、終焉の年老いた時代に備える為に存在するものなのか?
そんな馬鹿な話はない。
おれ達は子供の頃は子供の頃で、若い頃は若い頃で、成長したら成長したで、その時代時代を精一杯生きる。
その結果として年齢を積み重ね、その先にやっと老後があるのではないか?
ロック界で、かつて、ジャニス ジョップリン、ジミ ヘンドリックス、ドアーズのジム モリスン、レッド ツェッペリンのジョン ポール ジョーンズ、T―レックスのマーク ボラン、レーナード スキナードのメンバー、そして世界に衝撃をもたらせたジョン レノンなど、殺人、事故、自殺、薬物中毒で死んだミュージシャンは多いが、それは自殺行為であったり、不可抗力であったりした。
だが確かに、おれがロックの歴史の中で年老いて来たように、かつての偉大なミュージシャンもやはり普通に年老いて、病気になり、そして死んで行くようになった。
ジョージ ハリスンが死んだ。
ジョン メイオール、ポール バタフィールドなど死んだ事も知らなかった。
ジミ ヘンドリックス エクスピアリエンスのミッチ ミッチェルもあっけなく死に、新聞の片隅に小さな記事が載った。
おれがかつてギタリストを目指していた頃、好きで模倣していた黒人のブルース ギタリストの多くも死んだ。
スーパー スターのエルトン ジョンは三〇数年前、「六〇歳までなんか生きたくない」と歌った。
初めてその曲を聴いた時は、「そうだな。そうなんだ。六〇歳越してまでなんて、生きたくないんだ」と妙に自分でも納得していたのだが。
彼は未だ生きていて、世界を飛び回って大活躍している。
おれは何歳まで生きるのか?
早くファイナル チューンのヴォーカルを何とかしなければ。
最近のおれの頭から決して離れなくなった命題は、何時、何処で、どう解決するのか?

何万回昇り降りしたか、タバコと酒の匂いが澱む店に降りて行く階段の踊り場の二重扉を開いた時、店内から女性ヴォーカルが聴こえて来た。
年中無休の営業で、ステージのない時や昼間はレコードやCDを鳴らすか、ビデオやDVDを流すかしていて、それはそれで昼間でも結構な数の客は来ているが、一二時開店の未だ二時間も前だ。
開店を任せている早番のアイコかシンが暇を持て余して早く出勤して来て、自分の好きな曲を鳴らしているのか。
《何だ?これ?ええっ?誰だっけ?誰の歌だっけ?》
こんなヴォーカリストのこんな曲は聴いた事がなかった。
ヴォーカルだけで演奏が聴こえない。
アカペラの曲なんて、そんなにないはずだ。
店には五万枚以上のレコードとCD、ビデオ、DVDがあるが、全部おれが仕込んでいたし、レコード会社からの試聴盤も含めて、店で鳴らす物は全て、自分で何度も繰り返し聴いていた。
まして今耳に沁み込んで来るこのヴォーカルも、曲もおれの好みだ。
知らないはずがない。
そして言葉まで聴こえなかったが、日本語のイントネーションだ。
年のせいでド忘れしたか。
おれは苦笑いしながら、開いたままになっていた鉄製のドアを閉め、階段を降り、もう一枚の鉄製のドアを開いた。

 時の果てまで 飛んで行く
 貴方の見た事のない 世界の果てまで

《な、何だっ?こ、これっ?》
店内に入った瞬間、歌声が大きくなって心の奥まで跳び込んだ。
眼の前にめくるめく輝きに溢れた真っ青なサンゴ礁の海が浮かんだ。
その光景の余りの鮮烈さに、おれは驚いて立ち止まった程だった。

 いつも いつも いつも いつも

次の瞬間には、きらめきに満ちた地上はるかな大気圏の上空から、青い地球を見降ろす光景が浮かんだ。
おれは呆然となって立ちすくんだ。
《何の幻影だろう?》
まぶしい外から薄暗い店内に入ったせいで眼が馴染まない。
眼を凝らすと、カウンターの奥でアイコが独り、洗い物をしているのが見えた。
アイコはドアを開いたおれには気付かないままだ。

 私の愛は風 
 触れるのに気付いてよ

《おい、うそだろ?アイコが歌ってんのか?この声?アイコか?》
驚いたおれは無意識に、ドアを静かに閉め、DJ室の方に忍び歩いた。
ガラス張りのDJ室を覗くと、アンプのインジケーターは消えたままだし、モニター スピーカーからも音は出ていない。
間違いない。
アイコが歌っているのだ。
何て言う事だ。
この声。
この歌い方。
彼女の歌っている曲は聴いた事もない日本語の曲だった。
いや、そんな事はどうでも良かった。
おれは彼女の歌声にひどいショックを受け、一瞬のうちに心を奪われていた。
四〇年以上ロックを聴いて来たおれが、彼女のような声と歌い方を初めて知ったのだ。
クラシックの声楽家の様に専門的な訓練を受けた歌い方ではなかったし、一流の女性ヴォーカリストのように経験を積んで鍛え抜いた声でも、歌い方でもなかった。
細く、柔らかく、丸く、深く、そしてまるで今にも消え入りそうに透き通っていて、しかし一瞬凛として鋭く伸びやかに、彼女の想いがむき出しになる。
そして聴いているおれの心の余分なものが全て削がれ、無垢な意識だけがむき出しにされ、歌声の向こうに拡がって行く無限の空間に放り出される。
彼女の歌声がおれの心を包んで和ませたり、次の一瞬には、現在生活している次元からはるかに超越した空間に放り投げて、おれをひどく不安にさせたりする。
小学三年生の時に聴き、初めて音楽の表現の深さを思い知らされたドヴォルザークの《新世界より》。
小学4年生の時に聴き、ポップスにのめり込んだレイ チャールズの《ボーン トゥ ルーズ》。
小学五年生の時、真空管ラジオを組み立て、チューニングを回していた時に、耳に飛び込んで来て強烈な衝撃を受けたビートルズの《シー ラブズ ユー。》
中学二年生の時に聴いて、そのアレンジの多彩さに驚いたヴァニラ ファッジのファースト アルバム。
高校一年生の時に聴いて、夏の夜だと言うのに寒気がして、石斧を手にした原始人が入って来るような錯覚を覚え、怖くなって思わず窓を閉めた、チャーリー ミンガスの《直立猿人》。
高校二年生の時に聴いて、その圧倒的な音の空間にのめり込んだレッド ツェッペリンのファースト アルバム。
毎晩酒を呑んで泣きながら聴いた、二〇歳の時のジョン レノンのソロ アルバム。
LPが磨り減る程繰り返し聴いたピンク フロイドの《エコーズ》。
何時出遭ったかも想い出せなくなったほどのめり込んだイエス。
一人の人間がこれだけの音空間を構築出来るのかと強烈なショックを受け、今でも暇さえあれば聴いているヴァンゲリス。
こんな衝撃的な感覚は久しぶりだった。
初めてファイナル チューンのサウンドに出遭った時と同じ。
いや、それ以上だ。
こんな興奮は永い間忘れていた。
おれはアイコが歌う名も知らぬ美しい曲を聴きながら、眼に涙が滲むのを覚えた。
無限の彼方に無限の数の大星雲をちりばめた、光一筋、音一つない絶対零度の果てしない宇宙空間。
周囲を山と雲と大空だけに囲まれた孤高の山頂。
見渡す限り風になびき続ける大草原。
見渡す限り空と海だけの絶海の孤島。
見渡す限り真っ白な大氷原。
おれの脳裏に、まるで大自然の映像フィルムを見ているように、大いなる空間が次々と現れては残像が焼き付いた。

彼女がおれの前に現れたのは半年ほど前、真夏のくそ暑い日で、弟と一緒だった。
「ここで働かせてもらえませんか?」
大学生のアルバイトが二人も一度に、「就職が決まったので辞めたい」と言って来て、アルバイト募集の張り紙をした、その翌日の事だった。
初めて見る顔だったが、この店で働くメンバーのほとんどがそうであるように、彼らもこの店の客だったのだろうか。
簡単に認めた履歴書を見ると、アイコは二三歳、弟のシンが二〇歳、住所は近所で二人一緒にアパート住まいをしているらしく、出身は沖縄だった。
断る理由は何もなかった。
仕事振りは真面目そのもので、シンが風邪を引いてひどい咳をしている時にさえ、おれが「休め」と言っても出勤して来るほどで、「他の連中にうつされたら困るから休め」と言って初めて休むくらいだった。
この姉弟なら信用出来ると判断し、今年に入って二人に店の鍵を預け、開店の準備と仕入れを任せるようになった。
ここで働きたがる者は皆ロックが好きで、そのほとんどがロック バンドをやっていた。
この二人もそうなのだろうか。
以前に、何気なく訊いてみた事があったのを憶えていた。
「バンドか何かやってるのか?楽器は奏るのか?」
「いえ、何も。聴くのが好きなだけです」
おれの問い掛けにシンが嬉しそうに口を開こうとした、それを遮るようにアイコが無表情で言葉を発した。
おれはその時のシンの、何か言いたそうにアイコの顔を見つめた表情を思い出した。
こんな声を持ち、こんな歌い方をするアイコが、歌っていないはずはない。
アイコのこの歌声を聴いたなら、周囲が彼女を歌わせないで置く訳がない。
絶対何処かで歌っていたはずだ。
それをどうして隠す?
おれの頭の中で、アイコの素性の詮索が始まった。
そして彼女をファイナル チューンのヴォーカリストにしたら、おれが昔創ったあの曲を歌わせたら、こんな感じの曲になって、作曲が巧く行かなかったあの詩を、ファイナル チューンのオリジナル曲に提供してこんなアレンジで、と一気に想像が膨らんだ。
さっき歌っていた曲とは違う曲を歌いながら、洗い物を終えたアイコが掃除機を掛けるつもりなのか、DJ室の方に向かって歩いて来た。
おれは彼女の前にゆっくり歩み出た。
アイコはおれに気付くと、端正な顔を強張らせて立ち止まり、すぐにおれを無視するかのようにうつむいて歩き出した。
「歌を歌いたくはないのか?」
アイコがまた立ち止り、おれに向けて顔を上げ、何か言おうと開いた口をすぐに閉じ、再び顔を伏せた。
「さっきから、少しだけど聴かせてもらった。初めて遭った時、お前は何もしていないと言った。それはうそだろ?」
アイコが一瞬顔を上げ、また何か言いたそうにしたが、すぐにまたうつむいた。
「お前が歌っていないはずはない。絶対歌ってたはずだ」
素晴らしいヴォーカリストに出会った事で興奮したおれは、思わず大きい声を挙げた。
「わ、私っ、う、歌なんかっ、う、歌いませんっ」
アイコが何かの想いを振り切るように、伏せたままの顔を何度も横に振って語気を強めた。
《な、何だよっ?》
おれはアイコの言葉の激しさに驚いたが、そんなアイコの態度を見て、逆に彼女が歌を歌っていた事を確信した。
「そんなはずはない。おれは聴いてた。さっきお前がどんなに楽しそうに歌ってたか、おれはすぐに解ったぞっ」
おれは彼女を必死で説得しようとして、一層声を荒げた。
「仮に今まで歌ってなかったとしよう。でもお前は歌うべきなん。な、何っ?」
しかし彼女の頬を伝って脚許に落ちる涙を見た時、おれは絶句してしまった。
「い、いやっ、う、歌なんかっ、い、いやっ!う、歌いたくないっ!」
アイコがうつむいたままで肩を震わせ、声を振り絞るようにして叫んだ。
何故だ?
何故、そこまで、歌う事を拒む?
何があったのだ?
アイコは絶対歌が好きで、歌う事が好きで、歌っていたはずだ。
おれは確信していた。
それなのに何故?
涙を流して拒むほど、何か嫌な事があったのだろうか?
何なんだ?
おれはギターが好きで、ギターを弾きたくて、夜布団に入ってでさえ、ギターを抱いて弾きながら眠り、指先の皮が剥け、爪が割れる程必死で練習して、仲間とバンドを作って頑張った。
しかし極度のあがり症のせいで、独りで練習している時は上手く弾けるのに、人前では指が震えて動かず、結局諦めたのだ。
今は年齢と立場が加わって余裕が出来たのだろう、あがり症は治まった。
しかしおれはロック ミュージシャンになる夢を捨ててさえも、これほどまでに嘆き悲しむ事はなかった。
この店が心の支えになったせいもあったかも知れないが。
彼女は「歌えない」とは言っていない。
「歌わない」、「歌いたくない」と言っているのだ。
それは何なのだろう?
何故なのだろう?
おれはきゃしゃな身体を震わせ、大声で泣き出したいのを必死で堪えて立っている風情のアイコを前にして、言葉を失ったまま立ちすくんでいた。
その時、背後のドアが開いた。
「お、お姉ちゃんっ!う、歌えよっ!歌ってくれよっ!」
振り向くと、買い物に行っていたのか、シンがトースト用のパンを入れた大きな袋を傍のテーブルの上に放り出して、必死の形相でアイコを睨んだ。
「シ、シンッ。お、お前っ?」
おれはシンとアイコの二人を交互に見つめて再び絶句した。
何だ?何があったんだ?
アイコは?
この姉弟は?
「お、お姉ちゃんだってっ、ほ、ほんとは歌いたいんだろっ?う、歌えよっ!」
シンがもう一度叫んだ。
アイコは頬を涙に塗れさせ、ゆがんだ顔を挙げて声を振り絞るように叫んだ。
「い、いやっ、う、歌なんてっ、う、歌いたくないっ!う、歌わないっ!」
「おれっ、し、知ってるっ。お姉ちゃんのバッグの中にっ、イ、インフィニティのライヴ テープが入ってるのっ」
アイコがはっと涙に濡れた顔を上げた。
必死で訴えるシンの眼からも涙が溢れた。
「お、おれが眠った後っ、お姉ちゃんがっ、ヘッドフォン ステレオで聴いてるのっ。し、知ってるぞっ。聴きながら泣いてるのっ。と、時々仕事中にも無意識に歌ってるのっ、し、知ってるぞっ」
アイコがシンの言葉に瞬間驚き、悲しみの涙を湛えた眼を大きく開いてシンを見つめた。
「い、いやっ。い、言わないでっ」
 「お、おれっ、お、お姉ちゃんの歌、大好きだったんだっ。お姉ちゃんが歌ってるの観るのが、大好きだったんだっ。も、もう一回歌えよ。う、歌ってくれよ」
 叫び合うアイコもシンも大粒の涙を流して泣いていた。
それほどまでに、歌いたくない事情があるのか。
今無理に問い詰めるのは止めよう。
おれは二人の肩をたたいた。
 「歌いたくない理由を今は訊かない事にしよう。ただ一つだけ約束してくれ。もしアイコが心から歌いたくなった時、おれに教えてくれ。そしておれに任せてくれないか?良いな?」
 アイコは肩を震わせて泣きながらうなずくと、トイレに向かって小走りで去った。
シンもパンの袋を拾い上げ、服の袖で涙をぬぐいながらカウンターの方へ向かった。
 アイコがDJ室に入って、ジェネシスの《ウインド アンド ワザリング》を鳴らした。
 古いが良いアルバムだ。
 シンセサイザーの音空間が一発で店内に拡がった。
 おれは所在無い気分になって事務所に入り、領収書類を詰めてあった袋を持って店を出た。
 普段と同じ見飽きた新宿の雑踏を歩きながら、さっきアイコの歌声を聴いた時に脳裏に浮かんだ様々な映像が再び蘇った。
それは勿論、心を覆って消えないアイコの歌声のせいだった。
これほどまでに、彼女の歌声がおれを魅了したのだ。
税理士の事務所に行き、今年度の確定申告の説明をされたが、おれの頭の中は、アイコがステージで歌っている姿、アイコがファイナル チューンと同じステージに立っている姿が交錯して、それどころではなかった。
素晴らしい音楽と出遭った激しい興奮。
素晴らしいミュージシャンに巡り合えた喜び。
 過去の詮索は良い。
アイコが歌う気になってくれるかだ。
そしてアイコとファイナル チューンのメンバーが互いに受け容れ合うか、だ。
そしてそれは何時だ?

 あっという間に二ヶ月が過ぎた。
四月になって新宿のコンクリート ジャングルが温もりを持ち、道路の分離帯に名も知らぬ野草が小さな花を開かせ始めていた。
今夜も超満員の観客を集めての、ファイナル チューンのライヴ ステージだ。
ふとみると、早番の仕事を終えたアイコとシンがステージ脇の客席の後ろの壁に立ち、コーラの瓶を持って何か談笑しながら、メンバーが楽器のセッティングをしている薄暗いステージを見つめていた。
 あれ以来、アイコからは何も言っては来なかった。
おれは今日こそは、明日こそは、と毎日期待し、裏切られ、しかしおれの方から話を切り出すのもはばかられ、やきもきしていた。
あれ以来二人は何もなかったように淡々と仕事をこなしていた。
おれは何かにつけて二人を意識して見るようになった。
二人は本当にロックが好きなのだ。
任せている早番は六時で終わりだが、彼らは他のアルバイトと違って、毎日必ず閉店までいて、ライヴ ステージを観た。
そして閉店の作業さえ手伝ってくれた。
「他に行くところもないし、部屋に帰っても何もないし」
「ここにいて、ロックを聴いてるのが好きなんです」
おれがこの店を始めた切っ掛けも、自分がただ二四時間大音響のロックに浸っていたいというだけの事だった。
そんな二人を見ていると、仕事をしながらでも何時も、音楽に併せて手や指、脚でリズムを取ったり、身体を揺すったりしていた。
そしてシンは勿論、ライヴを奏っているバンドのヴォーカルに合わせてアイコが唇を動かしているのさえ、おれは見つけた。
やはりアイコは歌いたいのだ。
何故そんなに頑なに歌う事を拒む?
何故隠す?
おれの頭の中では、アイコを加入させたファイナル チューンの構想がほとんど完成してしまったのに。
ファイナル チューンのステージのセッティングも終わり、DJ室から出たおれの耳に、店内のざわめきと、流れる大音量のハードロックに混じって、若い女性のかすかな言葉が跳び込んだ。
「ねえ。あの人。インフィニティのアイコさんじゃない?」
《な、何っ?な、何だっ?》
声の主を見ると、女の子二人が、シンと談笑しているアイコに眼を遣りながら、頻りに首を捻ったり、うなずいたりしていた。
《イ、インフィニティッ?インフィニティのアイコッ?》
二人の背後に立ち止まって、会話に耳を凝らす。
「そうかもね?あの隣の男の子も、確か、インフィニティのライヴの時、良くステージ サ
イドにいたわよね?」
「うん。私も憶えてる。あの男の子、楽器のセッティングも手伝ってたわよ。間違いないわ。アイコさんよ」
インフィニティ。
それは忘れもしない、おれがアイコの歌を初めて聴き、アイコに何故歌わないのか問い詰めた時、シンが、アイコが何時もバッグに入れて持ち歩き、夜密かに聴いていると言ったライヴ テープの名前だった。
おれはあの時、《インフィニティ》というジャーニーのアルバム タイトルを思い浮かべ、アイコがジャーニーの熱烈なファンなのだとばかり思って、聴き流したのだ。
ジャーニーの《インフィニティ》のライヴ アルバムがあるとは知らなかったが、二人は沖
縄出身だから、米軍基地のアーミーか誰かから、友人を介してかどうかして、海賊版か、個人録音のものでも手に入れたのだろうと、考えていた。
「ちょ、ちょっとっ、き、君達っ、か、彼女の事っ、し、知ってるのかっ?」
おれは背後から二人に声を忍ばせた。
二人は一瞬驚いて振り返り、訝しげにおれを見つめ、互いに顔を見合わせた。
「おれはここのオーナーで、彼女は従業員なんだ」
慌てて弁解すると、二人はすぐにおれを向き直った。
「私達、今年大学に入って、今月東京に来たばかりなんですけど、二人共沖縄出身なんです。高一の時ライヴでインフィニティを見て大ファンになって。ファイナル チューンのステージはネットで評判になって、受験で上京した時たまたまライヴがあって、ここで観て、今日が二度目なんですけど、インフィニティって、このファイナル チューンにちょっと似たサウンドで。そのインフィニティのヴォーカルがアイコさんだったんです」
「彼女、すごく素敵で、カッコ良くて。私達女の子も皆、憧れてて」
「そうね。那覇のライヴ ハウスでは結構有名だったのよね。コンサートにも時々出てたし。髪が随分短くなってるけど、絶対あの人アイコさんよ。私、あの人のステージ写真、携帯電話の待ち受け画面にしてるんです。ほら」
一人がバッグから出して開いた携帯電話を、おれは年甲斐もなく慌て、ひったくるように取って見つめた。
間違いない。
アイコだ。
腰辺りまで伸ばした長い髪を後ろで軽く束ね、今よりも少しふっくらした顔立ちだが、確かにアイコだった。
マイク スタンドを両手で握り締め、空を見上げるように端正な顔を上向け、眼を閉じて何かを祈るような表情。
おれは手が震えるのを禁じえなかった。
アイコはやっぱり歌っていたのだ。
「そ、それでっ?彼女はっ?インフィニティっていうバンドはっ?」
「そうなんです。去年の六月だったかな?野外コンサートの最後の曲が終わってアンコールの嵐の中で、彼女、《ごめんね。私、もう歌いません。今までありがとう》って言って」
「あれって、インフィニティのメンバーも知らなかったみたいなんです。他のメンバー、すごいショックって感じだったもの」
彼女達は、次第に興奮して来て声が大きくなったのに気付き、互いを制し合って声を潜めた。
「うん、絶対そうだわ。ギターの人なんて茫然って感じで、アイコさんがステージ降りてから、怒ってギターたたき折っちゃったんだもんねえ」
「そうよね。だってインフィニティって、アイコさんのヴォーカルで持ってたもんね。そのアイコさんがいきなり、それに理由も言わないで、でしょう?」
おれの脳裏にその光景が過ぎった。
あんなに歌が好きで、素晴らしい資質を持っていて、それなのにあれだけ頑なに泣きながら「歌わない」と拒むアイコだ。
それなりの理由があるはずだし、そしてそれを他人に言うはずがない。
「それでインフィニティは解散したみたいなんです。私達結構気にして、情報を探してたんですけど、インフィニティのライヴは何度かあって二、三度観に行きましたけど、新しいヴォーカリストがイマイチで、ねえ?」
「そう。ファンも減っちゃって。アイコさんについてはその後何の音沙汰もなかったんです」
「そうだったのか。教えてくれてありがとう。ところで彼女の大ファンの君達に是非お願いがあるんだが」
おれはアイコの事が大まかだが解ったせいもあって、心躍る想いを抑えて言った。
「な、何ですか?」
「彼女がここにいるのを、絶対秘密にして欲しいんだ。おれが彼女を近いうちに絶対ステージに立たせて見せる。それまでは彼女の事、秘密に。ね?」
二人は互いに顔を見合わせてから、意味ありげなおれの言葉に戸惑いながらも、おれを見つめてうなずいた。
おれはアイコの方を見遣った。
店内が暗くなって、ファイナル チューンのメンバーがステージに上がって持ち場に着き、楽器のセッティングを確認し始めた。
客席で演奏開始を催促する手拍子が始まり、大きくなった。
アイコは未だ、ファイナル チューンの連中が楽器の調整をしている薄暗いステージを見つめ、シンと何かしゃべっていた。
「彼女には何か歌わない理由があるみたいだけど、本当は歌いたいはずなんだ。だから彼女が歌いたくなる時まで、そっとしておいてあげて欲しいんだ。良いね?」
二人はもう一度互いに顔を見合わせてから、おれを振り返ってうなずいた。
「私達、また、アイコさんの歌を聴きたいんです。お願いします」
やっぱりアイコは歌っていたのだ。
しかし、何故歌わなくなった?
何故歌わない?
おれは複雑な気分で二人の席を離れ、何時も座るPA席の前のテーブルに戻った。
ステージが真っ暗になった。
眼もくらむ強烈なフラッシュがたかれ、ドラムが激しい変拍子のリズムを刻み、重低音のベース シンセサイザーと高音域のストリングス オーケストレーションが鳴り響き、合成音を効かしたシンセサイザーとエフェクターを駆使したギターが、鋭い掛け合を繰り返しながら細かいリフを刻んで行く。
そしていきなり静寂。
荘厳な人声コーラスがフェイド インして来て、深みのある十二弦ギターのアルペジオをバックに、透明な音色のヴァイヴが美しいメロディーを奏でる。
彼らが最も得意とするパターンの曲だ。
ここの部分でおれの書いた詩をアイコに歌わせたら。
そう思いながら、薄明かりの中、ふとアイコを見た。
身体をリズムに併せて揺らしながら、ステージを食い入るように見つめるアイコの眼が大きく見開き、輝いていた。
その表情も、普段の、無口で感情を余り表に出さない彼女からは想像も出来ないほど生き生きとして、心から楽しそうで、今にもステージに駆け上がって、歌い出しそうな錯覚を覚えるほどだ。
おれはふと、ステージのライトを反射している彼女の頬に涙が伝うのを見て、驚いた。
彼女は涙を流すほど、音楽が好きなのだ。
それなのに何故歌わない?
歌いたいに決まっているのだ。
現に演奏のリード楽器に合わせてメロディーを口ずさんでいるのが、離れていても、暗がりの中でも判った。
おれはコントロール出来そうにない苛立ちと悲しみに心を覆われてしまい、思わず立ち上がって二人の傍に近寄った。
曲が変わった。
おれがアレンジに口出しした曲だが、最初の頃に比べてさらにアレンジを重ね、すごく良い曲に仕上がったように思える。
「泣きたくなるほど歌が好きなのに、未だ歌いたくならないのか?」
おれは彼女の眼の前に、ポケットから取り出したハンカチを差し出した。
身体でリズムを取りながらステージを見つめ、メロディーを口ずさんでいたアイコが、暗く強張った何時もの表情に戻り、口を閉ざしておれを一瞬見つめ、洋服の袖で涙をぬぐいながら再びステージに視線を向けた。
しかし今度はおれが傍にいるからだろう、さっきまでのように身体でリズムを取る事もメロディーを口ずさむ事もしなかった。
「ファイナル チューン、良いグループだろう?」
おれはふっとアイコに問い掛けた。
「私、この子達の演奏、好きです」
少し間を置いて、アイコが恥らうように微笑んでうつむいた。
それは初めての事だった。
普段から無口で、皆で食事していても酒を呑んでいても、他愛もない質問には適当に応えるが、自分から自分の気持ちを語る事などほとんどなかった彼女が、初めて自分の気持ちを言葉にした。  
まして音楽の話題になると、周囲を気遣いながら、そっとその場を離れて行くような彼女だったのだ。
《チャンスだ!》
「今日、閉店した後、シンと一緒に残っててくれるかな?ファイナル チューンのメンバーにお前を改めて紹介したいんだ」
「わ、私を?あの子達に?ど、どうしてですか?」
アイコが驚いておれを見返り、しかし何処かはにかんだ嬉しそうな表情で尋ねた。
「お前、何時も、おれやヒロシがやつらと呑んでるのを、遠くで見てただろう?親しくなって、色々話したいんじゃないのか?」
アイコがさっきのように、恥らいの微笑みをたたえてうつむいた。
「それとな、やつらに新曲を書いたんだ。聴かせてやるよ」
おれは彼女がうなずくのを見て、自分の指定席に戻った。
ちょうどヒロシが来ていた。
「おお、良い時に来たよ。今日はお前にいて欲しかったんだ」
「ミキシングで気に入らない処があってね、やり直してたんだ」
空になっていたおれのグラスに、ヒロシがウイスキーを注いでくれた。
「ちょっと協力して欲しいんだ。閉店後までいてくんねえかな?」
「良いっすよ。何だい?ファイナル チューンのレコード デビューにゲスト出演かな?だったら、こっちからお願いしたいくらいだぜ」
彼もまた、ファイナル チューンのファンの一人である事を自認していた。
「まあ、そのうちにな。今夜はとんでもないものが見られるかも、知んねえぞ」
おれはこみ上げるうれしさを抑えてヒロシに言ったが、堪えても顔がほころびるのを禁じ得なかった。
ステージが終わって、ファイナル チューンのメンバーがおれ達の席にやって来た。
「閉店してから、音出しして欲しいんだ。おれの昔の曲だ。一曲だけ奏ってくれるか?」
皆軽く引き受けてくれた。
「だから、吞んでも良いけど、酔っ払うなよ」
「はーい」
「了解です」
彼らがアイコの歌を聴いてどれだけ驚くか、おれは弾む心を抑え切れなかった。
しかしその反面、アイコがおれの薦めで歌うのを拒んだら、という不安も勿論あった。
おれは複雑な気持ちでウイスキーのロックを一気に空けた。

閉店後、遅番のスタッフも、照明もミキサーも全員帰らせた。
おれは事務所の引き出しから、アイコの為にアレンジして書き上げ、何時か来るであろうこの時の為にしまって置いた楽譜を取り出し、ヒロシを促してステージに一番近い席へ移動した。
アイコとシンが皆のグラスとウイスキーのボトル、氷を運んだ。
しばらく呑んで談笑してから、ファイナル チューンのメンバーをステージに上がらせ、楽譜を渡した。
「パートを確認してみてくれ」
彼らはそれぞれ自分のパートの音を、思い思いに確認し始めた。
おれはアイコに同じ楽譜を渡した。
ただ彼女に渡した楽譜には、メロディーのパートと歌詞が入れてあった。
「楽譜は読めるのか?」
愚問だった。
アイコはおれを振り向きもせずにうなずき、譜面を眼で追いながら口ずさみ始めた。
横からシンが譜面を覗き込んだ。
ヒロシはふんぞり返ってファイナル チューンの方を見ていた。
「マスター?これ、リードのパートがない処があるよ」
ユウキがおれの方を振り返って声を揚げ、譜面を見ながら首を傾げた。
「良いんだ。他に判らない処はないな?じゃあ、一度合わせてみてくれ」
ヨッチンがスティックでカウントを取り、ファイナル チューンの演奏が始まった。
ショウヤの柔らかいオーケストレーションをバックに、フルートの音色のシンセサイザーのソロ。
ユウキが十二弦ギターでアルペジオを弾き出し、コウジがエレクトリック ピアノを弾き始めた。
「やっぱ、マスターの書いた曲らしいや」
ヒロシが横でつぶやくように言った。
我ながら良い曲だ。
二〇数年前に創った曲だが、今でも充分通用するはずだ。
ましてファイナル チューン用にアレンジしたし、彼らが演奏すると、サウンドが一層魅力的に聴こえる。
さて、肝心のアイコは、と言うと、さっきからずっと譜面を食い入るように見つめ、まるでそれが習性であるかのように、完全に音の世界にのめり込み、そしてついにファイナル チューンの演奏に合わせて、小さく歌い始めたのだ。
眼が輝いている。
表情が生き生きし出した。
おれが見つめているのにも全く気付いていない。
ファイナル チューンの演奏が終わった。
「マスター。これねえ、すっごく良い曲。だけどさ、やっぱリードの足んない部分があるよねえ」
ショウヤが首を傾げて言った。
アイコは未だ譜面を見つめたままだ。
彼女の顔がかつて一度も見た事もないほど美しく輝き、心から嬉しそうな表情を浮かべた。
《気に入ったようだな。さて、お膳立てはしてやった。後はお前の決心次第だ》
「どうだ。アイコ?これをやつらと一緒に奏りたくないか?」
おれの言葉にはっとなっておれを見たアイコが、何時もの暗く強張った表情に戻った。
「おれは、お前が歌いたいと言い出すのを二月待った。だけどもう辛抱出来ない。お前の歌が聴きたい。お前が歌ってるのを観たい」
アイコは顔を伏せたまま肩を小刻みに震わせ、小さくうずくまっていた。
「アイコ。良いか。お前はお前だけの物じゃない。お前の歌はお前だけの物じゃない。お前の歌を聴きたがってる人が大勢いるはずだ。沖縄にもな」
アイコが再びはっとして顔を上げ、おれの顔を見た。
「おれはファイナル チューンにお前を入れたい。やつらがお前の歌を気に入るかどうかは別だがな。ファイナル チューンとお前が合わなければ、おれがバック メンバーを集めてやる。お前は歌わなきゃいけないんだ。歌うべきなんだ」
「お、お姉ちゃんっ、う、歌えっ!歌ってくれよっ、昔みたいにっ。ファ、ファイナル チューン好きだってっ、い、何時も言ってるじゃないかっ!」
隣にいたシンがアイコの腕を両手で握って揺さぶり、必死で叫んだ。
《アイコッ。ステージに立てっ。もう一度歌を歌えっ》
おれも心の中で必死になって叫んだ。
そしてファイナル チューンのメンバーに目配せした。
おれの心根を悟った彼らがイントロを演奏し始めた。
《さあ、立てっ。アイコッ。お前のステージだっ》
アイコが譜面を呆然と見つめたまま立ち上がった。
顔を強張らせ、身体を震わせ、脚をふら付かせ、そしてそれでも一歩一歩確実に歩み、ステージに上がった。
マイク スタンドに震える手を掛けた。
「お、お姉ちゃんっ、が、頑張れっ!」
シンが必死で声を掛けた。
ファイナル チューンがイントロを最初から奏り直した。
《あの写真と同じポーズだ》
さっき沖縄の女の子が見せてくれた写真のポーズだ。
アイコがマイク スタンドを両手で握り、天を仰ぐように上を向いて、眼を閉じた。
アイコの身体の震えがぴたりと止み、さっきまでの怯えたような強張った表情が消え、微笑んでいるように見えるほどの穏やかな顔付きに変わった。
《さあ、歌え。皆を驚かせてやれっ》

 朝の光の中で

アイコが歌った。
おれの曲を、おれの曲想通りの声で、歌い方で、歌い始めた。
「な、何だよっ?お、おいっ、こ、これっ?」
何時もの癖で、脚を投げ出してイスにふんぞり返っていたヒロシも驚いて坐り直し、アイコを凝視した。
ヒロシもさすがだ。
アイコの資質を一発で見抜く。
ファイナル チューンの全員が演奏しながらも、驚いた表情でアイコを見つめている。
 
微笑みまぶしく輝く
貴方の熱い胸に 
愛が静かに息付く
いつまでも いつまでも 
ここでこうしていたい

アイコの眼が涙で潤んでいた。
そして一滴頬に伝った。
どんな苦しみがあって、過去に何があって歌うのを止めたのか。
歌がこれほどまでに好きなアイコが歌わなかった、その苦しみはどれほど深く、つらいものだったのか。
アイコの頬を濡らす涙が、それを充分物語っていた。
それがおれの滲んだ涙でかすんだ。
おれが作った曲を、おれが書いたメロディーで、おれが書いた詩を、あのアイコが、歌っている。
この声だ。
この歌い方だ。
時に細くて頼りなさそうな歌声。
しかし一瞬芯の通ったのびやかな歌い方。
聴く者の心の余分な物を削ぎ落として透明に、純粋にして行く。
アイコの歌声とファイナル チューンのサウンドとが融合して構築された、無限の拡がりを持った無垢でめくるめく輝きの空間に、心が全存在ごと放り出されて行く。

 シャイニング レディ 
光の中で
 シャイニング レディ 
愛の海を往け

一転してシャウト。
凛としたハイトーンの伸びやかな歌声が、重厚で柔らかいオーケストレーションと自然に一体となって溶け込む一方、鋭く切り裂くようなギターやシンセサイザーから見事に分離して、そして細糸が布を織り上げていくように絡み付く。
聴けば聴くほど不思議な魅力を持ったヴォーカルだった。
心に愛が、夢が、力が湧き起こり、膨らんで来る。
もっと何か出来る。
もっと何かしたい。
生きる喜びが湧き起こって来る。
アイコの声。
アイコの歌。

 忍び込むさやかな風に
心が騒いで揺れ起き
貴方の熱い指先で
愛が溶けて溢れる
いつまでも いつまでも
ここでこうしていたい

シャイニング レディ 
光の中で
シャイニング レディ 
愛の海を往け

アイコの伸びやかなシャウトの余韻が消えないうちに、ショウヤの左手がオーケストレーションを奏でながら、右手がハイ トーンのシンセサイザー ソロを弾き出し、ユウキの伸びやかなギター ソロが後を追い掛けるように絡んで行く。
二人共演奏しながら譜面と交互にアイコを見つめている。
ヨッチンもコウジも演奏しながら、うれしそうに何度もうなずいてアイコを見ている。
アイコは眼を閉じて天を向いたまま穏やかな表情をして、身体でリズムを取っている。
うれしそうで、楽しそうで、充たされた表情の、そのアイコを何と表現すれば良いのか。
《そうだろ?お前は歌が好きなんだ。お前は歌いたかったんだ》

シャイニング レディ 
光の中で
シャイニング レディ 
愛の海を往け

アイコがサビのワン コーラスを、今度は今までと違ったニュアンスで歌い上げる。
これは、おれさえ想い付かなかった歌い方だった。
しかし全く違和感はない。
むしろ曲想に新しい拡がりを与えている。
素晴らしいアイコのセンス。
再びショウヤとユウキの掛け合い。
そしてエンディングまで、またあのポーズ。
上を向いたアイコの閉じた眼から、新たな涙が幾筋も頬に伝った。
演奏が終わった。
「ああ、わ、私っ、う、歌えたっ。マ、マスターッ、シ、シンッ」
アイコが余りの興奮から起こった震えを抑えるように、自分の細い身体を両腕で抱き締め、涙に濡れた眼で、うれしそうにおれを見た。
そうだ。
その微笑みだ。
お前が好きなロックを聴いている時、人知れず浮かべていた、素晴らしい微笑み。
お前は歌が好きなんだ。
お前は歌うべきなんだ。
シンも手の甲で眼を何度もぬぐった。
ヒロシは未だ茫然としたまま、ステージのアイコを見つめていた。
ファイナル チューンのメンバーの誰かが拍手した。
やっとおれは我を取り戻した。
皆がそれを追って拍手した。
全員がステージを降りて席に着いた。
ヒロシが全員のグラスに氷を入れ、ウイスキーを注いだ。
シンがコーラを入れたグラスを持って来てアイコに渡した。
《そうか。アイコは酒を呑まないのか。知らなかったな》
「アイコをファイナル チューンのヴォーカリストにしたらどうかと思うんだが」
おれは改まって言い、メンバーの顔を見た。
「文句ないっすよ。すげえ。おれ、未だ興奮して、手が震えてるっすっ」
コウジが手を皆にかざした。
何時も大人しくて無口なヨッチンも興奮していた。
「アイコさんって、すんごい、叩き易いんですよ。前に女性ヴォーカルのバックやった事あったんです。その人歌が上手いって言われてたけど、合わせ難くって」
「今の、マスターが作った曲でしょ?他にも一杯あんでしょう?根こそぎ出して下さいね。歌詞もね。今までの曲、全部アレンジし直す間、マスターのオリジナル曲を先に奏っちまおうっと」
ユウキが、腕まくりして笑った。
「忙しくなんね?」
ショウヤもひどく楽しそうにグラスの氷を鳴らした。
全員文句はなさそうだ。
「すっげーヴォーカリストの誕生と、新生ファイナル チューンに乾杯だ」
皆がグラスを合わせて一気に呑み干し、それぞれ氷とウイスキーを継ぎ足す。
「ヒロシ。お前、どう思う?」
おれはさっきから見せているヒロシの意味ありげな表情を質した。
ヒロシはさっきから黙り込んで、何か考えているようだった。
「おれも、こんなヴォーカル、初めて聴いた。正直びっくりしてるよ。ほんと。すげえと思う。ただ、このままファイナル チューンに入れるとなるとどうかな?」
ヒロシが腕組みしながら、否定的な事を、しかしにやにやしながら言った。
皆はヒロシの真意が理解出来ず、一瞬顔を強張らせてヒロシを見つめた。
「こいつらの売りは全体のサウンドだろ?ユウキのギターとショウヤのシンセサイザーのメインは大抵リードだろ?コウジのパーカッションだって、リズム系よりもメロディー系の楽器を使う事が多い。って事は、そこにヴォーカルが入ったら、リードのパートが多過ぎるって事」
おれは思わず口を尖らせた。
「そんな事言って。お前だって、ファイナル チューンにヴォーカルが入れば、って言ってたじゃねえか。アイコなら文句なしだろ?反対するのか?」
「誰が反対だって言ったよ。最後まで聴いてくれって。つまりサウンドの構成の中でリズムのパートが弱かったのが、もっと弱くなるって事。ショウヤはベース シンセサイザーが絶対外せないから、その分他のリードになるキーボードを削ってたんだろ?ヴォーカルが入ったら、ファイナル チューンの売り物のショウヤがリードとして活躍するパートが減るし、ベース      
シンセサイザーの負担を無くしてやって、本来のキーボードに専念させたら、もっとサウンドにバリエーションが創れるけど、そしたらリズム セクションが圧倒的に弱くなるって事さ」
皆が納得顔でうなずく。
ヒロシがウイスキーを一呑みしてから言葉を続ける。
「この子がファイナル チューンに入るなると、この子のヴォーカル、ユウキのギター、ショウヤのキーボードを生かして、その上でリズムのパートをもっと強力にしなきゃいけねえだろ?レコーディングは音を重ねたら済むけど、ライヴはそうは行かないぜ。こいつらの売りは、レコードよりもライヴだろ?」
 その通りだ。
皆がヒロシの言葉にうなずいた。
「まあ、おれなんかの場合さ、おれのギターだけが売りだから、バックは何でも良いんだけどな。何ちゃって、バック メンバーの連中に聴かれたら二度と一緒に奏ってもらえなくなるよな。これは冗談」
さすが現役で超一流のミュージシャンだ。
ヒロシはふざけて言ったが、彼のようなギター中心のサウンドでさえ、逆にリズム セクションが重要である事は皆解っている。
「そりゃ、例えばアイコさんが入って、コウジがベースを奏ってくれたら、作曲も演奏ももっとバリエーションが拡がって、でもコウジにベース、は無理みたいだし、コウジはどっちかって言うと、ドラムとリズム系のパーカッションにもっと力を入れたいみたいだから」
ショウヤの言葉を受けて、コウジが照れながら頭をかいた。
「お、おれ、昔から、やっぱ、ドラムやりたかったんすよ。ヨッチンがおれより上手いから、譲ってるっすけど、ほんとは、ツー ドラで行きたいっすよ。皆も、曲によってはそうしようって、賛成なんす」
「やりゃ、良いじゃねえか。ツー ドラにしたら、今よっかサウンドにも迫力が出るし。でな、おれの提案なんだが、ツー ドラでコウジがドラムに換わっちゃってさ、ついでにショウヤをベース シンセサイザーから開放してやるのにさ、ベースも入れちゃどうかって事よ」
ヒロシが何時もの癖で、脚を投げ出してイスにふんぞり返った。
「べ、ベース入れちゃえ?ってっ?」
「ど、どうやってっ?」
「だ、誰ですかっ?」
驚いてヒロシを凝視すると、ヒロシが鼻で笑った。
「ほれよっ。そこにいるじゃねえか。シンって言ったっけ。お姉ちゃんが奏るなら、おれもって顔してるぜ」
皆がシンの顔を振り返った。
「おめえよ、そんなタコだらけの指してて、ベース弾けねえなんて、言わせねえぜ」
ヒロシの言葉に、シンが慌てて両手を身体の後ろに隠した。
「お、おれっ?お、おれなんてっ」
ヒロシがふんぞり返ったまま、アイコを振り向いて言った。
「お姉ちゃん。おめえなら弟の腕前、知ってるはずだ。なあ」
今度は皆がアイコに注目した。
「シ、シンッ、あ、あんたが上手いのは、私が保証する。今だって毎晩ヘッドフォン被って練習してるじゃないっ。チャンスよ。皆が仲間にしてくれるんなら、奏りなさいっ」
さっきまで、シンがアイコの応援団だったが、今度は逆の立場だ。
ここの倉庫には、以前に辞めた店員が置き忘れ、取りに来なくなったままの古いギターやベースが何本かある。 
それを思い出し、倉庫から取って来てシンに手渡した。
「安物だけどな、ヘッドが生きてるかな?シン、ステージで弾いてみろ」
シンが震える手でベースを握り締めてステージに上がり、コードでアンプに繋いだ。
「ヒロシ。お前、良くあいつの手指を見てたな?」
何時も気弱そうにしているシンがストラップに掛けたベースを抱いたとたん、誇らしげに胸を張った。
ステージでシンが大きく見えた。
「まあ、職業柄と言うか。無意識にな。見ろよ。マスター。上手いやつはよ、弾かなくたって、楽器抱えてステージに立つだけで、サマになるんだって」
ヒロシが得意げに言うと、店内に強烈な重低音が響き渡った。
狂っていたチューニングをあっという間に修正する。
「ほらよ。キーも拾わずにチューニングしやがる。このお姉ちゃんに、あの弟ってか」
見事だ。
どれだけベースの経験があるかが、それですぐに解る。
未だ二二歳。
ファイナル チューンのメンバーと同い年だ。
彼らもまた、子供の頃からそれぞれに楽器に親しみ、他の遊びには脇目も振らず、懸命に練習したそうだ。
シンもどれだけ訓練したか。
キーを拾わないでチューニング出来るのは、絶対音階を持っている証拠だ。
全員がステージのシンを見守った。
最初は静かな和音のカッティングから、一転して激しいチョッパー、切れも良い。
運指も正確だし、スライドも一定している。
そしてたった今アイコを交えてファイナル チューンが演奏したばかりのおれの曲の、ベースのパートを自分なりの解釈で構成して聴かせる。
ヨッチンがステージに駆け上がってスティックを握り、シンとアドリヴで掛け合いを始めた。
「どうよ。マスター。大したもんだぜ。お前ら。文句ねえだろ?」
全員がヒロシを振り返ってうなずいた。
ヒロシのお眼鏡に適ったのだ。
おれに異存があるはずがない。
おれはアイコが歌うのを辞めた理由が心に残ったが、今はただアイコが歌い始めた事と、ファイナル チューンの新たなスタートを素直に喜ぼうと思った。

それから毎晩のように閉店後のリハーサルを繰り返した。
ヒロシもしばらくして、ニュー アルバムの発売に併せた全国ツアーを終えて暇になり、毎日のように顔を出した。
皆それぞれ学校や仕事を終えてからの、それも深夜のリハーサルを続けて、次第に疲れ、神経が消耗して来た。
そのせいでひどく仲の良かったメンバーでさえ、主張が些細な事で食い違ってけんかした事もあった。
その時はおれやヒロシが間に入って調整役を務めた。
五月末、やっと十五曲ほど完成した。
アイコも自分が作曲作詞した曲を三曲ほど提供した。
演奏時間で換算して、約一八〇分。
ワン ステージ分以上たっぷりあるし、レコーディングにも充分過ぎるほどになった。

後数回のリハーサルでステージングが全て完成する。
今夜からPAミキサーと照明スタッフを交えて、ライヴ用のリハーサルをする、という日の夕方の事だった。
おれは店に出てカウンターに回った。
「どうだ?調子は。いよいよ今日から。お、おいっ?ア、アイコッ?ど、どうしたっ?」
 カウンターの中でコーヒーを沸かしていたアイコがいきなり倒れた。
おれは思わず駆け寄って抱き上げた。
呼吸が荒い。
ひどい熱だ。
医者。
救急車を呼べ。
「いや、待ってる暇はない。シン、表でタクシーを止めろっ」
おれはアイコを抱きかかえて、跳び出したシンの後に続いた。
「アイコッ、すぐに病院に着くからな」
タクシーの中、おれの腕の中でアイコはぐったりとなって、相変わらず荒い呼吸に胸を起伏させた。
 おれはふと、アイコが歌わないのは、何かの病気のせいではないかと感じた。
 「シン。アイコは何かの病気なのか?」
 「う、うん。お姉ちゃん。こ、好中球減少症なんだ」
 「こ、好中球減少症?な、何だ?それっ?」
 初めて聞く病気の名前だ。
 「好中球って、要は白血球の事で、白血球がすごく減ると、抵抗力がなくなって、病気になり易くなったり、細菌に感染し易くなったりするんだって」
 「な、何で?そんな病気に?」
「に、二年前インフィニティを結成した。ずっと良い感じだったのに、去年の春、風邪引いて病院で治療を受けた時、風邪薬を飲んだ後、急に酷い熱が出て、身体中が痛いって言い出して、急いで近くの他の病院に行ったら、薬のアレルギーで発症したんだろうって。一旦は落ち着いたんだけど、それからずっと、東京に出て来てからはしてないけど、毎月血液検査を受けて、普段でも白血球の数値が正常値のぎりぎりだったんだ。疲れたり、栄養不足になったりすると、劇症化して肺炎や結核を起こしたり、感染症に罹ったりするんだって」
 《な、何て事だ。そんな病気に、アイコが》
 おれは思わず、腕の中のアイコを抱き締めた。
「こ、怖かったのっ。し、死にたくなかったっ。ど、何処かに行きたかったっ」
アイコが苦しそうに喘いだ。
それは発熱のせいでも、未だおれの知らない、想い出したくもない衝撃の過去のせいでもあったのだろう。
途切れ途切れに、言葉を続けるアイコがひどく痛々しかった。
「わ、私の事、し、知ってる人が、だ、誰もいない処にっ、い、行きたかったっ。う、歌うのもっ、い、嫌になったのっ」
 「びょ、病気の事を、知ってる人は?」
 「お、俺達、お、親がいないんだ。死んじゃってて。イ、インフィニティのメンバーにも、お、お姉ちゃんが、ぜ、絶対言うなって。お、おれは、たった一人の身内だから、お姉ちゃんが退院する時に、医者から言われて」
 「そ、そんな、びょ、病院を訴えたら、い、良いじゃないかっ」
 おれはまた、ひどくやり場のない、暴力的な憤りと悲しみに心を覆われ、今更言っても無意味な言葉を八つ当たりするように吐いた。
 「病院の先生にも話したけど、取り合ってくれなかった。新聞なんかで、医療ミスの記事読んで、告訴しようかと思ったけど、お、お金もなかったし、お、お姉ちゃんが、そ、そんな事しても、治るわけじゃないって」
 《そ、その通りだが。しかし何て事だっ。そ、そんなばかな話があるかっ?》
 「そ、その病院に入院してたんだけど、い、嫌になってっ、ぬ、抜け出したのっ」
五〇年生きて、周りで何人もの肉親や知人が死んだが、そんなイレギュラーな死に方をしたケースを、おれは知らなかった。
 おれは今まで何とぬるま湯のような人生を歩んだのか。
 アイコはこの若さで、何と厳しい人生を与えられたのか。
そしてシンも。
おれがアイコの立場だったら、狂ったか、自殺したか。
それとも逆恨みして病院関係者を殺したか。
 こんな事を考えている場合じゃない。
おれは我に返った。
 タクシーが病院の入口に着いた。
おれはシンと一緒にアイコを抱いて走り込んだ。
 昔この店の常連だった連中の中には、会社の経営者もいれば、医者も弁護士もいて、今でもロックを聴いていて、いい歳になってさえ時々ライヴを見に来るやつもいる。
 その中に、おれも定期健診や人間ドッグで世話になっている医者がいて、そいつが親の跡を継いで経営している病院はそれなりに流行っていて、奴の腕も確かなようだった。
 それにしても、何て事だ。
 周囲に危ない生活をしているやつは随分いたが、死ぬの生きるのという病気に罹っているやつはいなかった。
おれも、おれの周りのやつらも、何と幸せで平穏だったか。
シンが何かに付けてアイコに「疲れないか?」「大丈夫か?」と気遣っていたのは、ただ女性に対しての、姉に対しての、普通のそれではなかったのだ。
もっと早く気付いてやれば、こんな事にはならなかったかも知れない。
「今解熱剤を点滴してるから、熱は収まるだろう。好中球減少症なら、二、三日入院させて様子を看よう。血液検査の結果は三日で出る」
 普段は全然医者らしくないのに、白衣を着たやつは医者らしく冷静に言った。
 「どんな病気なんだ?」
「珍しい病気ではあるが、多いケースでは、インフルエンザや結核、癌なんかの細菌感染と、薬物アレルギーだ。彼女の場合は薬物アレルギーだな。大体、正常な人間で血液一マイクロリットル当たり、三八〇〇から九〇〇〇位の白血球があるんだが、それが急性の場合一気に一〇〇〇以下になったりするんだ。そうすると、死亡率は三〇パーセントを超えるようになる。今日の発熱が、それが原因だとすると、彼女の場合慢性化しているかも知れない」
「治せるのか?」
「投薬治療で治せるが、但し普段の生活で疲労、栄養不足による体力低下を防がなければ、投薬しても意味がない。発症した時何かの細菌に感染したら、その感染症を防げないからな。逆に細菌に感染したら、一気に劇症化して急死する場合もある」
 《何て事だ。アイコが。あの子はあんなに歌いたがってるのに。世の中には死にたがって死ぬやつがいて、年老いて死ぬやつがいる。だがアイコは若い。一度静止の境を彷徨って生き残り、今も死と隣り合わせに生きて、その上で生きたがってるんだ。歌いたがってるんだ》
「あの子は、歌いたいと言ってる」
 おれは彼女とおれの、今回の経緯を全て話した。
 「おれも、あの子に歌わせてやりたいんだ。金儲けじゃない。金ならおれの全財産をはたいても良い。あの子が歌いたいと言う限り、歌わせてやりたい」
 おれは心からそう思った。
 「医者が言うセリフじゃないけど、彼女が望むならそうしたら良い。但し言ったように、投薬治療をしながら、過労と睡眠不足、栄養不足に注意してだ」
 おれはポケットを探ってタバコを取り出し、火を点けようとした。
 心を覆う不安と苛立ちで、手が震えて点ける事が出来ない。
やつは冷静沈着な医者らしく、タバコを取り出して火を点け、おれのタバコにライターをかざした。
 何てまずいタバコだろう。
こんなまずいタバコは久しぶりだった。
「おれも協力してやる。ここの医師でおれの甥っこがいる。今彼女を看てるやつだ。若いが腕は立つ。感染病の専門だ。やつを専属で付けろ。それと費用は随分掛かるが、ドクター カーを設えて、コンサート ツアーに同行させたら良いだろう」
やつがタバコの煙を吐きながら、インテリっぽい顔をゆがめた。
「金は要るだけ出すが、そんな事が出来るのか?」
「不特定多数の患者を対象に、不特定多数の自治体にまたがる場合は出来なかったと思うが、特定の患者だけを看るなら、確か大丈夫なはずだ。まして大袈裟な物じゃなくて個人だからな。どっちにしても、許認可が必要ならおれが取ってやる。任せろ。ただ必要な金は貰うぜ」
ありがたい。
ライヴ ハウスを二〇数年やってたお陰で、こんな処で人脈が生きるとは。
 永い時間が過ぎた。
容態が安定してアイコが眠ったと、若い医師が病室から出て来て無言で頷いた。
取り敢えず、ここは病院に任せて、店に帰ろう。
皆心配してるはずだ。
病院から店に戻ると、ライヴは終わっていて、閉店のスタッフと、ファイナル チューンのメンバー、そしてPA スタッフ、照明スタッフが待っていた。
ヒロシも来ていた。
 おれとシンを皆が取り囲んで、心配そうに見つめた。
 アイコは知られたくなかったと言った。
 おれの口から告げるべきじゃないだろう。
 「多分風邪だろうと、医者が言ってた。一応何かの検査をするらしいが、二、三日で判るから、それ位で退院出来るそうだ」
 皆は少し安心したように、顔の強張りを消した。
 三日後の昼、病院長から連絡があり、おれはシンを連れて病院に急いだ。
 アイコは少しやつれた面立ちだったが、おれとシンを見て微笑んだ。
 やはり、白血球減少症だった。
それもほとんど慢性化していると言う。
 「後の事は、また相談に来るよ」
 おれは病院長に告げて、店に戻った。
 アイコが退院すると知って、ファイナル チューンのメンバーも皆集まっていて、アイコを見てほっとしたようだった。
 「心配掛けてごめんなさい。私、実は病気を抱えてるの」
 皆には内緒にするかと思ってたが、アイコはあっさりした口調で告げた。
 ほっとした表情の皆の顔が再び強張った。
 アイコは病気の事を全て話した。
皆の驚く顔。
同情と悲しみに絶句した顔が強張る。
 「良いの。同情なんて要らない。ただ、皆とずっと一緒に奏るなら、皆に話さなきゃ、って思った。私ね、この病気に罹った事を知った時、ショックで自殺しようとしたわ」
 アイコが何時も左手首に巻いている白いスカーフを解いた。
手首に引きつった、一目でそれと判る醜いリスト カットの傷跡。
彼女独特の個性的なファッションだと思っていたスカーフは、その傷跡と過去を隠す為に巻いていたのか。
「でも、もう良いの。私。生きたい。生きるわ。私、歌いたいの。ファイナル チューンで。皆が嫌なら、諦める。大げさな言い方すると、何時死ぬか判らないけど、それまでは歌っていたいの。それに薬で治るみたいだし、案外そんなに重病じゃないかも」
 泣くと思っていたアイコが泣かなかった。
それがアイコの決意を示していた。
「良いのか?後悔しないな」
自分でアイコをそそのかしたのに、おれが言うのもおかしな話だった。
アイコはしかし、顔を強張らせてはいたが、力強くうなずいた。
ヒロシが何時ものように脚を投げ出し、何時ものようにぶっきらぼうに言った。
 「どうすんだよ?おめえらよ?この世界で滅多にいない、こんなすげえヴォーカリストをただの病人扱いしてよ、何もさせないで、可もなし、不可もなしの生活をさせるか、お前らと一緒に眼一杯ロック奏って、充実した人生を送らせてやるか?どっちだよ?」
 「ファイナル チューンはもう、アイコさん抜きでは、存在しない」
ショウヤが一番先に口を開いた。
「アイコさん、一緒に奏ろうぜ」
「おれも大賛成」
「アイコさん、頑張って」
 「お、お姉ちゃんっ、よ、良かったなっ。が、頑張ろうぜっ」
ファイナル チューンのメンバーはアイコを励ますように笑顔を見せた。
 「よし、おれは最初からそのつもりだった。良いな。最後まで行くぞ」
皆が力強くうなずいた。
「ただし、判ってると思うが、可能な限りアイコの体調を気遣って、カバーしてやれ。それと、出来るだけ早く、何事も早く、だ」
 アイコがあっさりとした表情で微笑みながら言った。
 「私、奏るわよ。ファイナル チューンが世界に出るか、その前に私が病気に負けるか、勝負よ」
 
 一週間後、おれは店を臨時休業にし、マスコミ関係者を知っている限り集めた。
 そして前以って今回の計画を話し、内諾を取って置いた旧知のビデオ制作会社の社長と、プロモーション会社の社長も呼んだ。
ヒロシが先日約束してくれたように、自分の契約しているカミュ レコードの専務を連れて来た。
「久しぶりだな?あんたの最初で最後の大勝負みたいだから、出来る限りの協力はするが、おれも商売だからな」
「解ってるさ。古い交際いだからって、遠慮しなくて良いぜ」
彼が未だ駆け出しのプロデューサーだった頃からの馴染みだった。
ヒロシのバンドがこの店のライヴで彼の眼に留まってスカウトされ、デビューして一気に全国的に有名になった。
それからも彼が手掛けたバンドの幾つかがデビューし、今でも活躍しているのだ。
彼の耳と感性は、今でも信用出来るはずだった。
バンドを解散した後も、派手ではないが、永く活躍しているヒロシの存在がそれを物語っている。
それに彼はカミュ レコードの出版に関して決裁権を持っていた。
 「話は急ぐんだろ?社内で前話はして置いたからな。おれも出来る限りの事はするぜ」
 専務の言葉を聴いて、おれはヒロシに無言で感謝した。
 ステージにファイナル チューンのメンバーが上がった。
 それぞれ思い思いに楽器と音のチェックをする。
 「六人か?メンバーが二人も増えたのか?」
 「ベースとヴォーカルが増えたんだな?」
「あの子は、ヴォーカルか?」
 「女だぜ。あれは」
 「ヴォーカルが入ったとなると、このバンド、面白くなるぞ」
 「ツー ドラで奏るのか?」
「これも売り物になる。ツー ドラにベースが入ったのなら、リズム セクションが一気に強力になるぞ」
 薄暗い店内の、あちらこちらの席に散在したマスコミ関係者達の群れから、ざわめきが起こった。
 準備は出来た。
おれは急ぎ足でステージに上がった。
 「今日は新しいファイナル チューンを聴いてくれ」
 それ以上の言葉は要らなかった。
 彼らが、自分の心で聴けば良い。
どんなに素晴らしいかを。
 おれがステージから降りてすぐ、レインボウ カラーの照明がステージを浮かび上がらせる。
ショウヤがノイズで波の音を奏で、ユウキがエフェクターをフル レベルにしたギターで、強烈なハウリングを起こし、とめどない波が大海のはるか彼方から、どよめきながら圧し寄せて岩礁に砕けて轟き、ゆったりと引いて鎮まって行く様に、フェイド イン、フェイド アウトを使ってかき鳴らす。
それに合わせていたヨッチンのドラムとコウジのシンセ ドラム、シンのベースが加わり、ギターのナチュラル ハウリングの頂点を合図に、やがて雄大な大海原のイメージのリズムを刻み始め、波頭がきらめく、見渡す限りの大海原を風が疾走するようなアップ テンポをたたき出し、それに乗ってショウヤのシンセサイザーとユウキのギターが、ハイ トーンでゆったりとした伸びやかなリフの絡みを弾き出す。
レーザー ライトが目まぐるしく跳び回り、次の瞬間暗闇と静寂。
そして新たに刻まれるミディアム テンポのリズムに乗った、ユウキが奏でる穏やかで深みのあるダブル ネックの一二弦ギターをバックに、ショウヤの指が美しいピアノのアルペジオを産み出す。
アイコの頭上からスポット ライトの灯が一筋落ちた。
 ステージのフラッシュに劣らないほどのカメラのフラッシュがたかれる。
《さあ、アイコ、こいつらの度肝を抜いてやれ》
スポット ライトの中のアイコはあのポーズで頭上を仰ぎ見て、眼を閉じていた。
何と至福に充ちた顔。
あれが病気に冒され、死と隣り合わせに生きる人間の表情か。
いや、死の恐怖に怯え、悩み、苦しみ抜いた後、それを乗り越えた人間だからこその、全てを受け容れる優しい表情か。

  アイ セイ イエス アイ ラブ ユー
     
「な、何だっ?おい、だ、誰だっ?」
 「ゆ、有名なヴォーカリストかっ?」
 
  貴方に遭えて良かった

「いや、見た事も、聴いた事もないぞっ」
 「すげえ、な、何て声だっ」
 客席から、関係者のどよめきが聴こえた。
おれはヒロシと眼を合わせて笑い合った。
ヒロシの横に座っていたカミュ レコードの専務が驚いた表情で、ウイスキーのグラスを口に運ぼうとしたヒロシの腕を掴み、何か耳打ちした。
 カメラマンがカメラを構えるのも忘れて、アイコを凝視している。

アイ セイ イエス アイ ラブ ユー
  貴方に遭えて良かった

  何気なく出遭った貴方が 
日々の暮らしの中で
  次第に大きく拡がり 
一緒に生きたいと思う
 
細く頼りない、しかしそれでいてひどく存在感のある歌声。
それが一転して、凛と芯が入り、伸びやかにシャウトする。
 
  愛し合い 昂め合い 
生きた永い時よ
  今はもう 生きる道が 
違ってしまったけれど

 素晴らしかった。
ずっとリハーサルを繰り返す中で、おれでさえこれほど素晴らしいアイコの歌声を聴いた事はなかった。
いや、もっと言えば、四〇年も様々な素晴らしいヴォーカリストの歌声を聴き続けて来たおれの頭の中にも、決して存在しなかった歌声と歌い方だ。
彼女の歌が、彼女の存在をむき出しにし、また聴く者の存在さえ、不要な物を削ぎ落とさせてむき出しにするのは、彼女が死を決意した人間だからか。
アイコが死を決意した人間で、そのうえで生きようとしているからか。
 そしておれがそれを知っているからか。
いや、違う。
アイコの歌が、ただ純粋に聴く者の心を捉えているのだ。
だからこの場に居合わせた者全て、皆、アイコの素性も病気の事も知らないはずなのに、身動きもせずただ彼女の歌に聴き入り、酔い痴れているのだ。
ファイナル チューンの演奏が素晴らしいのは、彼らは皆知っている。
今はただアイコの歌を聴いている。
 曲が終わる。
カメラマンが我に返ったように、慌ててカメラのフラッシュをたく。
関係者席から、ため息が洩れる。
会話する者は一人としていない。
ただ次の曲を待つ。
 次の曲は、アイコが作詞作曲した《私の愛は風》だ。
 あの日、おれが初めてアイコの歌声を聴いた、衝撃の曲。
 ショウヤがシンセサイザーで風の音を合成し、ユウキのアコースティック ギターをバックに、ヨッチンとシンが三拍子のミディアム テンポを刻み出すと、コウジが軽やかなヴァイヴでソロを弾き出す。
優しくて深い女性の愛を、さわやかに歌い上げた透明感溢れる曲だ。

  私の愛は風
  触れるのに気付いてよ
  私の愛は風
  包むのに気付いてよ
  時の間に間に まといついて
  貴方が聴いた事のない、愛の歌を歌う
いつも いつも いつも いつも

 細く頼りない歌声。
しかし澄み切って凛と響き、聴く者の耳に跳び込む。
ショウヤのオーケストレーションをバックに、ユウキのギターとコウジのヴァイヴが透明感溢れるソロを繰り拡げる。
アイコはマイク スタンドを握って立ち、眼を閉じて宙を向き、微笑んでいる。

  私の愛は風
  触れるのに気付いてよ
  私の愛は風
  そよぐのに気付いてよ
  時の果てまで 飛んで行って
  貴方が見た事のない 世界を見せるわ
  いつも いつも いつも いつも
 
 今度はユウキのギターと、自身の左手のオーケストレーションをバックに、ショウヤがフルートの音色のシンセサイザーのソロを繰り出す。
 コウジが楽しそうに、首を振りながらドラムを叩くヨッチンの横に立ってベルを鳴らす。
 さすがアイコだ。
歌うだけでなく、素晴らしい感性豊かな曲を作る。
「マスター。もううちで行くよ」
カミュ レコードの専務が、ヒロシの背中越しにおれの腕を掴んで言った。
おれは彼を振り返ってうなずいた。
「一五曲。二枚組だぜ」
「オーケー」
専務がおれに微笑んでから、ステージを向き直った。
今日は全部で一〇曲。
ステージのラスト、組曲《明日へ》のエンディング。
アイコのシャウト。

  ラーヴ

 ステージの照明が全て落ち、真っ暗になった。
 客席から話し声も物音もしない。
皆身じろぎもしない。
 店内に照明が点いた。
ファイナル チューンのメンバーが楽器から離れてステージ中央のアイコに駆け寄り、
心配そうな表情でアイコに耳打ちし、アイコが微笑んでうなずく。
恐らく、全員がアイコに「大丈夫か?」と訊いたのだろう。
アイコは?
大丈夫だ。
びっしょり汗をかいて肩で息をしているが、皆と同様に笑っている。
おれは胸を撫で降ろした。
おれが、ヒロシが同時に拍手を始めた。
 我に返った関係者達が、全員立ち上がってのスタンディング オベイション。
 照明がメンバー全員を照らす。
 おれはステージに上がってマイクを取り、改めてファイナル チューンのメンバーを紹介した後、本題を切り出した。
 「これが新生ファイナル チューンだ。リハは充分やって来た。準備が出来次第レコーディングに入りたい。二枚組CDだ」
 関係者の塊が揺れ動き、ざわめきが起こる。
 シングル ヒットを飛ばして人気が出て来た訳でもない。
メンバーの誰かが、実績のある有名なミュージシャンである訳でもない。
単なる無名に近いロック バンドのデビュー アルバムが二枚組などとは、前代未聞だ。
「発売と同時に全国ツアーをスタートする。スタートは東京で、各都道府県庁所在地を北から順に、最後は沖縄だ。週に二、三ヶ所、五ヶ月くらいで終えたい」
 また、関係者達がざわめく。
ざわめきが収まらないうちにおれが言葉を継ぐ。
「そのライヴを、CDとDVDとビデオに収録して発売したい。そして同時にもう一度全国ツアーを繰り返す。それが当面の計画だ。二回の全行程を一年程度でやりたい」
 「デビュー CDと、ライヴ CD、DVDと、ビデオもうちが出す」
 おれが言い終わらないうちに、カミュ レコードの専務が立ち上がった。
 居合わせた関係者達がどよめいて、一斉に彼の方を向いた。
 ヒロシの助言のお陰でもあっただろうが、やはり専務自身がファイナル チューンを充分評価してくれたのだ。
「他のレコード会社が黙ってないでしょう?交渉の余地はないんですか?」
 マスコミ関係者の一人が立ち上がった。
 「おれとマスターがプロデューサーだ。おれのギャラは高いぜ」
 ヒロシがふんぞり返ったまま、グラス片手に吐き捨てた。
ヒロシは勿論この大仕事を急いで仕上げ、成功させなければならない事を知り尽くしている。
 「他のレコード会社やイヴェント屋さんには出し抜けしたみたいで申し訳ないと思う。しかし事情があってゆっくり交渉してる暇がないんだ。ファイナル チューンの今回の件に関しては金の問題じゃない。金はおれの全財産をはたいても良いんだ」
 ふと眼を遣ったアイコが、すまなさそうにおれの眼を見た。
 「専務。ビデオとDVDの製作は《フリー プロ》、ツアー製作は《ライヴ スタッフ》で行
きたいが、良いだろうね?社長達も、やってくれるか?」
 カミュ レコードの専務も、二人の社長も深くうなずいて了解してくれた。
 《フリー プロ》と《ライヴ スタッフ》を選んだのは、彼らもまた利益を二の次にして、良質のロック アーティストに力を入れているのを知っていたからだ。
また以前から二人は、ファイナル チューンを高く評価してくれ、自分達も協力するからと言い、プライベート版のライヴ ビデオの出版や、小規模ではあるが全国ツアーを薦めてくれていた経緯もあった。
 こうしてファイナル チューンを世に出す計画の青写真が出来上がった。

 翌日からおれは店を店長に任せて、ファイナル チューンに掛かりっ切りになった。
曲自体は完成していたので変える処はほとんどなく、そのままレコーディングの打ち合わせとコンサート会場のブッキング。
それも全て前倒しで早くしなければならなかった。
 それはアイコの言う通り、アイコの病気との闘いでもあった。
おれはアイコを担ぎ込んだ病院の院長が紹介してくれた医師と専属契約を結び、ドクター カーも設えた。
 全財産はたいてもと豪語したが、見積もり書を見るとため息が出た。
親の遺した土地を二、三売れば出来るが、売れるまで待ってはいられない。
店と自宅を担保に銀行で借金してでも、と思っていたら、カミュ レコードが提示してくれたCDとビデオ、DVDの出版契約料が予想以上に高かったのと、ヒロシが契約している楽器メーカーと家電メーカー、そして《フリー プロ》、《ライヴ スタッフ》の社長が紹介してくれた飲料メーカーと自動車メーカーが協賛、そしてこの店の回転当時のアルバイトの大学生達が企画し、おれも創刊当初参加していて、現在は日本一の発行部数を誇るロック雑誌を出版している会社の社長が後援してくれる事になり、金の算段は付きそうになった。
これで心置きなく専念出来る。
 「ファイナル チューンの良さは、やっぱライヴだぜ」
ヒロシの意見によって、スタジオでのデッド録音ではなく、おれの店で一発録りのライヴ録音をする事になった。
その方が時間も金も掛からずに済む。
レコーディングの日取りとCDの発売日はすぐに決定した。
新生ファイナル チューンお披露目ライヴの際に撮ったビデオを編集したプロモーション ビデオを、カミュ レコードが可能な限り数多くのメディアに流してくれたのが大反響を呼び、また通常の金を掛けたプロモーション以外に、マスコミや音楽雑誌、電波メディアがファイナル チューンの素晴らしさを記事にし、またヒロシがプロデューサーである事も含めて、特集を組んでくれたりしたお陰で、前代未聞の二枚組のデビュー CDであるにも拘らず、レコーディング前から申し込み予約が殺到するほどになった。
レコーディングは、慣れているステージでの慣れているライヴ録音だったので、一発で仕上
がり、後は細かいミキシング処理をするだけだった。
 「おい、おめえらの、予約だけで、おれのソロ アルバムの売り上げ枚数の上行っちゃったらしいじゃねえか。許せねえなあ。もう」
 レコーディングが終わり、打ち上げで乾杯した後、ヒロシが呆れたように言った。
 「す、すみません」
 ショウヤが照れ臭そうに頭をかいた。
 「まあ、ボクは君達と違ってお金持ちで余裕があるし、君達をダシにして、また稼がせてもらうから良いの」
 ヒロシがふんぞり返って冗談を言った。
ヒロシの隣に座っていたアイコが楽しそうに笑いながら、ヒロシの空いたグラスにウイスキーを注いだ。
《アイコが、ヒロシのウィスキーのお替りを?珍しいな?》
酒を吞まないアイコが、そんな事をするなんて、と訝しく思った、その時だった。
「それとね、えー、君達には非常にショッキングな話だと思うが、ボク、アイコと結婚する事になったからね。心からのお祝い、どうもありがとう」
ヒロシがうれしさを隠し切れずに天井を見上げたまま、仰天発言をした。
おれはちょうど口に含んでいたウイスキーを噴き出した。
「な、何だってっ?」
「う、うそでしょうっ?」
「そ、そんなっ」
ファイナル チューンのメンバー全員も眼をむいて驚いた。
シンだけは知っていたようで、平然とにこにこして皆を見ていた。
「シ、シンッ、こらっ、お、お前っ、し、知ってたのかっ?」
隣にいたコウジがシンの首を腕で巻きながら叫んだ。
アイコは照れ臭そうに、しかし穏やかな微笑を浮かべて皆の遣り取りを見守っていた。
「う、うん。二週間程前の夜、部屋までヒロシさんが迎えに来て、お姉ちゃん、誘って何処かに行っちゃって。最近ずっと部屋に帰って来てないし。朝は何時もここまでヒロシさんが車で送って来るし」
「ああーっ、ほんと、ショックだよっ。おれのアイドルだったのになあーっ」
「おれもっ、ショックで当分立ち直れないよーっ」
ショウヤとユウキが同じように、ヒロシが何時もするポーズで、脚を投げ出してイスにふんぞり返った。
「おれ、今度の誕生日、アイコさん、デートに誘おうと思ってたのに、ちくしょうーっ」
コウジがむきになって、ウイスキーのロックを一気に空けた。
「ま、未だ、大丈夫ですよね?未だ、本気じゃないですよね?」
大人しいヨッチンさえも、コウジの後ろから割って出るように、アイコに尋ねた。
アイコはただ黙ってうれしそうに微笑んでいるだけだった。
「おっ、ヨッチン。おれと張り合うなんて一〇年はええぜ。何ちゃって、もう手遅れよっ。明日籍入れるんだもん。ねーえ、アイコちゃーん」
「うそっ、し、信じられねえっ、このおっさん。何が、《ねーえ、アイコちゃーん》だっ」
「くっそおー。ヒロシさんこそ、一〇年遅いよ。ほんとっ」
「妬くな。妬くな。君達も、早く、アイコちゃんのような素敵な恋人を見つけて幸せになれるように、僕達二人で祈っててあげるよ。ねえ、アイコちゃーん」
ヒロシが傍のアイコに抱き着いた。
「これだよ。やってらんねえなあ。知らねえやつが見たら、まるで親子だぜっ」
「ギターと酒が命って、雑誌のインタビューでほざいてたの、何処の誰だっけ?」
皆、口々に不満を言ったが、顔は勿論笑っていた。
ファイナル チューンが二人を祝福していないはずがなかった。
白血球減少症という不治の病に罹ったアイコと、それを敢えて受け容れたヒロシが結婚するという事情を知ってのうえだからだ。
おれ同様、ヒロシの心根に感動しているに違いないのだ。
ヒロシとおれは実際、それこそ音楽一筋の人生で、取り巻きの女と適当に遊んではいたが、結婚の対象としては勿論、真剣に永く交際っている女は、ほとんどいなかった。
《ヒロシがアイコと、結婚。ヒロシ、お前、承知の上で》
誰もがアイコの病気を忘れているかのように振舞っていた。
それがすごくうれしかった。
皆が帰った後、店を閉め、おれはヒロシとアイコを見送った。
「ヒロシ。お前」
おれの言葉をヒロシが遮った。
「マスター。おれもあんたも、何時、何処で、どうやって死ぬか判らねえって事じゃ、条件は同じだぜ」
その通りだ。
事故に遭うかも知れない。
おれの身体の何処かで、得体の知れない不治の病が進行しているかも知れない。
明日、突然急病で、あるいは交通事故か何かで、死ぬかも知れないのだ。
だからこそ精一杯現在を生きて、現在出来る限りの、精一杯の事をしなければならないのだ。
「ヒロシさんが、《死ぬまでおれと一緒にいろよな》って」
アイコが少女のような恥じらいを顔に浮かべて微笑んだ。
二人が帰った後、おれはもう一度店を開け、ヴァンゲリスの《オセアニック》を聴きながら、独りでウイスキーを呑んだ。
アイコの歌声を初めて聴いた時、このアルバムを初めて聴いた時と同じ映像が脳裏に浮かんだのだった。
あれ以上ヒロシとアイコに、言ってはいけないのだ。
二人は何もかも承知なのだから。
いや、二人の想い、決意に対して、何の言葉も見つからないというのが、正直なおれの心情だった。
それにしても、何故アイコが死ななければならないのだ。
何故アイコじゃなければなければならないのだ。
アイコは出来るだけ生きたがって、出来るだけ歌いたがっているのだ。
おれは朝までCDを繰り返し聴き続け、ウィスキーのボトルを一本空けて、アイコへの恋心を捨て、一人のミュージシャンに対して接する事を自分に誓った。

CDが発売された当日、全国ツアーがスタートした。
場所は、中野公会堂。
中野公会堂は、公営のコンサート ホールで、使用料が比較的安いにも拘らず、その音響の良さが、ミュージシャンやコンサート関係者の間で、昔から定評のあるホールだ。
チケットは発売二時間でソールド アウトしていた。
CDも、前評判のすごさからか、新人ロック グループでは前代未聞の二枚組にも拘らず、予約だけで、五万枚を突破していた。
また発売日である今日の売り上げで一〇万枚を突破した、というニュースも入った。
当日の夕方、公会堂の入場口付近がファンで埋まった。
話題性が先行していると、批判的な記事や意見もあったが、ファイナル チューンのライヴ ステージを一度でも観聴きした者なら誰でも、彼らの人気が上っ面の物ではない事を知って
いた。
確かにここまで観客を動員出来、CDが売れたのはマスコミの力が大きかったが、勿論それはファイナル チューンというバンドの演奏技術の確かさとサウンド構成の素晴らしさ、そしてアイコのヴォーカルの魅力と資質の高さを、マスコミ関係者が充分評価してくれ、また視聴者も評価してくれたお陰だった。
ステージのセッティングも着々と進み、ほぼ完了した。
ヒロシとアイコが到着して全員揃った。
それぞれが自分の位置に付いて、楽器のチェックを終える。
六時に客席を会場すると、観客がどっと客席になだれ込んだ。
座席が一気に人で埋め尽くされる。
ホールの入口は、入場出来ないフアンで溢れ返って、ちょっとした騒動になっていた。
ホールの内部は、初夏とは言え、冷房が役に立たないほどの、むせ返るようなすごい熱気だ。
専属の医師と相談のうえ、毎日朝と夜、コンサートがある場合は、その前後にも必ず検診する事を決めていた。
勿論異常があるからと言って、コンサートを中止する訳には行かなかったし、アイコ自身がそれは許さなかった。
検診を終えたアイコが医師と共に、ドクター カーに設えたマイクロ バスから出て来た。
「マスター、そんな顔しないで。私、大丈夫。すごく燃えてるの」
アイコがおれに微笑んだ。
医師の表情でもそれは充分解った。
開演二〇分も前から、早くも演奏を催促する手拍子と、脚を踏み鳴らす音が地鳴りのように会場を揺るがす。
開演五分前のブザーがなり、着席を促すアナウンスが流れた。
手拍子と脚を踏み鳴らす音が一層激しくなった。
皆の顔を見回すと、意外に緊張してはおらず、意欲に燃えていた。
「よしっ、行くぞっ。皆の度肝を抜いてやれっ。ファイナル チューン日本制覇のスタートだっ」
おれは皆に声を掛けた。
六人が輪になって手のひらを重ね、ショウヤが掛け声を発し、ステージに向かった。
おれとヒロシ、医師と三人で後を追い、ステージ サイドに立つ。
BGMが消え、客席が真っ暗になった。
メンバーがそれぞれ位置に立つ。
客席が一瞬大きくどよめき、一層激しくなった手拍子と足踏みが、まばゆいフラッシュのきらめきに合わせたヨッチンとコウジのバス ドラ二発で、静まり返った。
ステージの両サイドからおびただしいスモークが噴出して客席に流れ込むと、再び激しく湧き起こる歓声と拍手。
無数のフラッシュ ライトが闇の中、縦横に走りまくり、ヨッチンとコウジのダブル ドラムがいきなり激しいアップ テンポを刻む。
フラッシュ ライトがストロボ ライトに変わると、二人の動きがスローモーションのように見える。
客席から地鳴りのような歓声が湧き起こり、既に客席が総立ちになって拳を頭上に振り上げ、身体を揺すり、飛び跳ね、手拍子を送る。
濃いパープルの照明がステージを包み、シンのチョッパー ベースがドラムスに被さり、ショウヤの高音のストリングス オーケストレーションと超重低音のベース シンセサイザーがフェイド インして、ユウキがドライヴの利いたギター ソロを弾き出す。
アイコは?
アイコは何時ものあのポーズでマイクの前に立っていた。
一流のヴォーカリスト同様、それだけで絵になるほどの、存在感があった。
激しいイントロが終わって、ステージが闇に包まれ、ショウヤの美しいピアノが始まる。
バック スクリーンに青空と大海原のイメージである明るいブルーと、その中央に太陽をイメージした鮮やかなオレンジのスポットが当たった。
アイコの頭上からスポットが落ちた。
眼を開いたアイコがマイクを握った。
歌え。アイコ。
皆をお前の歌の虜にしてやれ。

大地に雨が降り

 アイコの声がホールに響き渡ると、ウオーッという喚声が湧き起こった。
誰もが隣の者と顔を見合わせながら何かを囁き、すぐにアイコに視線を移した。

草木を潤し 

 《よし。そうだ。アイコ。思いっきり歌え》

小さな流れが せせらぎを寄せ 
湖になり 何時か満ち溢れ
 大いなる流れは やがて海へ

 さきほどまでの狂乱は幻か。
満席の会場が無人と思えるほど、一瞬静まり返って、皆アイコの歌声に聴き入っている。
 アイコの瞳が宙を見つめる。
 お前はそうして何処を見ている?
深淵の死の世界か?
はるか遠い音の世界か?

ここからミディアム テンポのバックを奏でながら、ショウヤ、ユウキ、コウジ、シン、ヨッチン全員のバック コーラスが入る。
コーラスは彼らにとって初めての経験だったが、元々音感の良い連中だ。
見事なヴォイス ハーモニーを醸し出し、それに載ってアイコが高らかに歌い上げる。
 
アイ キャン フロー アウェイ 
私は生きて行く
キャン ユー フロー アウェイ? 
貴方も一緒に

 ショウヤのピアノ ソロになると、湧き上がって来る地鳴りと思える程の歓声が場内に渦巻き、再びため息と喚声が場内にこだました。
ショウヤのピアノ ソロが終わり、アイコがマイク スタンドを抱えた。
アイコの眼が潤んでいる。
嬉しいのだろう。
精一杯受け止めているのだ。
歌う事の悦び。

 果てない久遠の 海の底から
 名もない岸辺へ 命を育み
何時か灼熱の 太陽に焦がされ
小さな滴となって 再び空へ

アイ キャン フライ アウェイ 
私は生きて行く
キャン ユー フライ アウェイ? 
貴方も一緒に?
 
「彼女を死なせてはいけない。ロック界の損失だ」
 振り返ると、カミュ レコードの専務が立っていて、苦渋に満ちた表情でおれ達全ての想いを吐き捨てた。
ヒロシがアイコの病気の事を話したのか。
 「マスター。おれに出来る事があれば何でもする。遠慮なく言ってくれ」
 おれは彼の力強い言葉にうなずいて、ステージに視線を戻した。

 次の曲だ。
ヨッチン、コウジ、シンがパーカッションでアフリカの土着音楽のようなイントロを弾き出し、それに乗ってショウヤとユウキが、動物や鳥の鳴き声の模倣音をちりばめ、アフリカの雄大な大地と密林をイメージしたシンセサイザーの掛け合いを展開し、それが終わると、ヨッチンのドラムスだけがリズムを刻み、ショウヤ、ユウキ、コウジ、シンのアカペラ コーラスをバックに、アイコのヴォーカルがシンプルに歌い上げる。
  
  ワールド イズ 
ユアーズ アンド マイン 
フュチュア イズ 
ユアーズ アンド マイン

君の涙を見たら すごく悲しくなった
  君は今そこにいて 何を思うのだろう
  涙を流す為に 生まれた訳じゃない
  悲しみを背負う為に 生きる訳じゃない

 シンプルだからこそ、歌の上手い下手がはっきり分かる。
他の五人が弾き出す様々なパーカッションをバックに、ヨッチンのドラム ソロが入る。 
一〇歳の時からジャズ ドラムを習っていただけあって、有名なプロのドラマーに決して引けは取らない。
再び、四人のコーラスをバックにアイコが歌う。

ワールド イズ 
ユアーズ アンド マイン
フュチュア イズ 
ユアーズ アンド マイン

君の微笑を見て すごく嬉しくなった
君はそこにいて ぼくはここにいて
明日があるから 今日を生きるんだ
幸せを掴む為に 明日に向かうんだ

ワールド イズ 
ユアーズ アンド マイン
フュチュア イズ
ユアーズ アンド マイン

アイコはバック コーラスを意識しながら、感情を抑え気味に歌う。
こういう地味な曲でも、アイコの歌い方の魅力が引き立つ。
ふと客席を見るとハンカチを持って涙をふいたり、鼻をすすったりしているのが、あちこちにあった。
誰もがアイコの歌に、ファイナル チューンの演奏に感動しているのだ。
《ファイナル チューンは絶対売れる。このツアーは絶対成功する》
おれは身体中に力が漲るのを感じていた。
《後は、アイコの身体が持つか。何時発病するか、だ》
ステージはどんどん進行し、新たな演奏が始まり、終わる度に場内の熱気と興奮はどんどん昂まって行く。
上の階の一番奥の方の席でも、座ったままで聴いている者はほとんどいなかった。
最後の曲は、組曲《明日へ》だ。
客席は皆総立ちで身体を動かし、手拍子をしている。
客席全体が波のようにうねっている。
もうこの会場の全ての観客がファイナル チューンの虜だ。
ツアーの初日は大成功だ。
アイコは大丈夫か?
大丈夫だ。
汗はかいているが、微笑んでいる。
表情も生き生きしている。

ラーヴ

アイコの最後のシャウトが終わる瞬間、ステージのライトが消えた。
ステージが明るくなり、全員がステージの一番前に並んでハイ タッチしたり、肩を抱き合ったりしてから、ショウヤがマイクを握って挨拶した。
「今日はおれ達ファイナル チューンのライヴ ツアー初日のコンサートに、こんな大勢来てくれてありがとう」
客席はアンコールを要求しての手拍子と脚踏みで、会場が揺れ動いている。
前評判が高く、これだけの観客を集めたプレッシャーの中で、緊張する事も、あがる事もなく、全員精一杯の演奏をした。
おれには絶対出来なかっただろう。
「こいつら、相当のプレッシャー、感じてるはずなのに、逆にプレッシャーを緊張感に生かして、最高の演奏をしやがった。全く大した連中だぜ」
ヒロシがステージに見つめたまま微笑んで言った。
「マスターッ、や、やったぜっ。すげえ反応だっ」
「めでたい、めでたい」
「最高の気分っすよっ」
メンバーがおれ達の方に、走って来た。
皆喜びに満ち溢れた表情をしている。
「皆、良くやった。最高だったぞ。アイコ。大丈夫か?」
アイコが一番最後に戻って来て、ヒロシの胸に跳び込んだ。
「大丈夫よ。たった今からでも、同じくらい歌えるわ」
アイコはヒロシに抱き付いたまま、汗にきらめく顔だけ上げて、皆を見回した。
「さあ、アンコール、行くぞっ」
おれは皆の肩を叩いて、もう一度ステージに送り出した。
メンバーがステージに上がり、持ち場に着くと、照明が消えた。
その瞬間、場内の手拍子と脚踏みが地鳴りのような歓声に替わり、コウジがシンセサイザーでストリングス オーケストレーションを、ショウヤがピアノ ソロを奏で始めると、場内がしーんと静まり返った。
会場全体を、客席の隅々までまばゆいばかりの照明が駆け巡り、ステージにきらめくような四色のレーザー照明が走る。
アンコール曲は《シャイニング レディ》。
ヨッチンとシンがゆったりしたミディアム テンポを刻み出すと、ショウヤのピアノをバックにユウキのギターとコウジのヴィブラフォンが絡み合うようなソロを繰り返す。
アイコがマイク スタンドを両手で握って歌い始める。
アイコがワン コーラス歌い終え、ショウヤのピアノ ソロが始まると、激しい拍手と「うおーっ」という雄たけびが客席から起こる。
客席で涙を拭くハンカチの数が一気に増えた。
最後のリフレインの部分に来ると、アイコはステージ最前部を横に走り、客席に向かって手拍子を求めながら叫んだ。
「一緒に歌って!」

 シャイニング レディ 
光の中で
 シャイニング レディ 
愛の海を往け

ショウヤの雄大なストリングス オーケストレーションをバックに、アイコのヴォーカルを追い駆けてユウキの伸びやかなハイ トーンのギター ソロが絡むように鳴り響く。
客席が曲のテンポに併せて、寄せては引いて行く波のように揺れる。
シンのベースとヨッチンのドラムスだけを残してショウヤ、ユウキ、コウジも演奏を止め、ステージの最前部まで出て来て、手拍子を打ちながら歌い、客席をあおる。
何時終わるともない、満場のコーラスがホールを揺るがし響き渡った。
そしてエンディング。
さっきと同じように全員がステージの一番前に並んで挨拶する。
アンコールを求める手拍子と脚踏みが一層大きく鳴り響き、歓声が止まない。
彼らが再びステージ サイドのおれ達の処に戻って来て、ステージの照明が消え、客席の照明が点いた。
「いやーっ、もっと奏ってーっ」
「もっと奏れーっ」
大勢のファンのアンコールの叫びが飛び交い、会場が騒然となる。
ほとんどの観客が帰ろうとしない。
「アイコ。検診を受けろ。先生。頼む」
医師がうなずいて歩き出し、アイコにヒロシが付き添って後に従った。
「良くやったよ。お前ら。このツアーは絶対大成功する」
おれは、興奮冷めやらぬ表情のメンバー全員と握手して、褒め称えた。

翌日、札幌へ飛ぶ。
「ぼくは君達と違ってお金持ちだからね。好きな仕事しか入れてないし」
ヒロシは向こう一年間、何度かのソロ コンサートを除いてほとんど空け、ツアーに同行するようだ。
勿論皆歓迎しこそすれ、迷惑がる者はいない。
前夜のコンサートは、スポーツ紙と朝のテレビのモーニング ショーのほとんどが、芸能面のトップ記事に採り上げていた。
ヒロシがツアーに同行する事を聞いたおれは、ヒロシとアイコに秘密で、他のメンバーとある企てを実行した。
札幌公演の二日前、おれ達は富良野の大きな牧場に行った。
日本一のラヴェンダー畑で有名なその牧場は、七月の中旬では真に一面ラヴェンダー カラー一色だった。
おれは事務局へ行って挨拶し、準備を急ぐように頼んだ。
この牧場は、知る人ぞ知る《ラヴェンダー ウェディング》と言うのをやっていて、ラヴェンダー畑のど真ん中の小さな空き地で結婚式を挙げるのだ。
「ヒロシ、アイコ。ちょっと来てくれ」
準備が出来ると、二人を事務局に招き入れ、予め二人の体格に合わせて予約しておいたタキシードとウェディング ドレスを見せた。
「マ、マスター。こ、これっ?」
「ああ、何て事」
二人は眼を見張って結婚衣裳を見つめ、アイコの眼から大粒の涙が零れ落ちた。
「ヒロシ。お前はともかくアイコは入籍だけじゃ、淋しいはずだ。参列者はおれ達だけだが、その方が却って良いだろう?後は係りの人に任せてあるからな。外で待ってる」
おれはヒロシの肩をたたいて、外に出た。
他のメンバー達が、してやったりの表情で微笑み、おれを振り向いた。
「マスター。ありがとうな」
タキシードなど初めて着たであろう、ヒロシが事務室から出て来て、おれの傍に立ち、照れ臭そうにぼそっとつぶやいた。
しばらくして、真っ白なウェディング ドレスに華奢な身体を包み、胸一杯の生花のブーケを抱えてアイコが出て来た。
「アイコさん、すっげえきれい」
皆が一斉に歓声を挙げた。
「あたりめえだろ?おれのアイコちゃんだぜ」
ヒロシが何時ものヒロシに戻って、傍に歩み寄ったアイコを抱いて軽口をたたいた。
「マスター。こんな事してくれて、私」
アイコの眼がまた潤んだ。
牧師さんとカメラマンが出て来て、俺達をラベンダー畑の片隅に導いた。
満開のラベンダー畑のあぜ道に真っ赤なヴァージン ロードが用意され、その先に演台と古びたオルガンが置いてあり、バイトであろう近所のおばちゃん達が構成する、オルガン奏者と三人の聖歌隊がおれ達を満面の笑みで迎える。
真っ青な大空の下、見渡す限りのラベンダーの紫に埋もれ、結婚式が始まった。
十数人の観光客が、ラヴェンダー畑の中での結婚式など珍しいからだろう、鳴り響くオルガンの音で気付いて駆け寄り、二人に向かって何度もシャッターを切る。
そのうちマスコミに知られるだろうが、別に悪い事ではない。
結婚式はあっと言う間に終わったが、おれ達の歴史の一ページだ。
ラヴェンダーの鮮烈な色と共に、心に深く刻まれた。
良かった。
でしゃばりかと思ったが、ヒロシもアイコも喜んでくれた。
おれはその夜ホテルに戻って、“ホワイト ユー イン ラヴェンダー”を書いた。

   ラヴェンダーに埋もれて佇む君は 空から降りて来た天使のよう
   瞳を濡らす涙は悦びの涙 頬を伝う一滴 おれを映してた

   ホワイト ユー イン ラヴェンダー
   イン ラヴェンダー ホワイト ユー
   碧い空と翠の山尾根 見渡す限りのラヴェンダー
そして君を抱き締める 七月の透き通る風

ブーケ抱いて恥らう君の微笑みは 初めて出遭った時と同じだった
   君の微笑みを永遠に消さないように 何時でも何処にいても おれが傍にいる

ホワイト ユー イン ラヴェンダー
   イン ラヴェンダー ホワイト ユー
   碧い空と翠の山尾根 見渡す限りのラヴェンダー
そして君を抱き締める 七月の透き通る風

誓いのキスで君を抱き唇を重ね 「ずっと愛してる」ってつぶやいた
触れたままの君の唇が震えて 「私も愛してる」って動いたね

ホワイト ユー イン ラヴェンダー
イン ラヴェンダー ホワイト ユー
碧い空と翠の山尾根 見渡す限りのラヴェンダー
そして君を抱き締める 七月の透き通る風

 何時かヒロシに曲を書かせて、ファイナル チューンで奏るか、アイコのソロで出そう。
 
札幌、青森からツアーは順調に進んだ。
一月経ち、二月経ち、南に下るに連れて知名度も上がり、動員数も熱狂度も高くなった。
アイコの体調も問題ないようだった。
季節が冬に向かうのに対して、おれ達は逆行しているのだ。
それもアイコの体調を保った。
おれ達の目的を達成する為には、アイコの体調が全てだった。
ファイナル チューンのサウンドは、アイコのヴォーカルなくしてはあり得ないからだ。
いや、勿論メンバーの誰が欠けても、あり得ないサウンドだったが。
地方ではさすがに、ファイナル チューンの知名度は未だ低かったが、それでもその所々のコンサート会場を満席にするだけの観客は動員出来た。
それに今回のツアーの目的は、知名度を上げる事だ。
一〇〇人でも観客が集まれば良かった。
彼らを確実にファンに出来る自信があった。
それが次回に繋がれば良いのだ。
二度目のツアーでは、全ての都市で一番大きな会場を超満員にしてやる。
三ヵ月近くで、CDの売り上げ枚数は一気に一〇〇万枚を突破した。
驚異的な数字だ。
ヒット チャートでもベスト三〇に五曲もランクされ、そのうち、《シャイニング レディ》、《アイ セイ イエス》の二曲は発売以来、アイドル歌手、アイドル グループとさえ争って常にベスト五を下る事はなかった。
アイコが何時も左手首に巻いている白いスカーフがファッション雑誌に採り上げられ、コンサートに来る多くの女性ファン、男性ファンの一部さえもが手首に白いスカーフを巻くようになった。
街を歩いている時でさえ、若い男女が白いスカーフを手首に巻いているのを見掛けるようにもなった。
その意味を知っているおれ達には、ひどく違和感があったが。
関東に入った頃、ヒロシとアイコが結婚していると言う記事が、ラベンダー ウェディングの時撮られたのであろう写真と共に週刊誌やスポーツ紙を飾った。
テレビ、ラジオなどの出演依頼も数多く入ったが、ライヴ演奏の魅力だけでのし上がって行くつもりでいるおれ達の本意ではなかったので、アイコの体調を考慮して、ツアーの流れに逆らうコースは取らず、コンサートを開催するその地方局の出演依頼には応じたが、例え一曲だけでもフル ライヴ込みの出演にした。
名古屋を終え、大阪を過ぎ、四国、九州と無事に進み、ついに今回のツアーの終点である沖縄に着いた。
沖縄では、あの幻のロック バンド、インフィニティのアイコがヴォーカルだと知れ渡っているようで、那覇に着いた時の熱狂的なファンの出迎えはそれまでで最高だった。
那覇のコンサートはちょうど、クリスマス イヴに合わせてあった。
これを終えたら、一月何もない。
それで皆の休養と、何よりもアイコの体力を回復させなければならなかった。
二回目のツアーのスタートは一月末、場所は東京ドーム。
チケットは既に完売していた。
そして今回も、そのスタートに併せて今回のライヴ ツアーの二枚組CD、ビデオ、DVDが発売される事になっていた。
那覇が終わり次第、予約を受け付け、編集に入る手はずだ。

翌日にコンサートを控えた前夜、宿泊先のホテルのレストランで食事を終えて、それぞれの部屋に戻ろうとした、その時だった。
「だ、誰だっ?お、お前っ!」
ヒロシの叫び声に振り返ると、一人の男がナイフを握ってヒロシとアイコの前に立ちはだかり、低く身構えていた。
「あ、あんたっ。ト、トオルッ?ト、トオルじゃないっ」
アイコが男の顔を見つめて叫んだ。
おれは二人の処に駆け寄った。
既に部屋の中へ入っていた皆も、騒ぎを聴き付けて跳び出し、男の前に立ち塞がった。
専属医師も出て来た。
「ふ、ふんっ、い、良い気なもんだなっ?おれ達のバンドがやっと売れ始めて、これからって時に、《もう、歌いません》で、さよならしといて、今度は名の売れたバンドからお誘い受けて、今や日本で最高のロック ヴォーカリストかよ」
《インフィニティのメンバーか》
「お前は有名になって、お金持ちになって、幸せかも知んねえけどな。おれ達ぁ、ずっと頑張って来たけど、結局売れなくて解散だ。どうしてくれるんだよっ」
「ト、トオルさんっ。あ、あんたっ。何言ってんだよっ。お、お姉ちゃんがっ、な、何で歌わなくなったのかっ、わ、判ってっ」
シンが男の前に躍り出てアイコを庇うようにして身構え、叫んだのをアイコが遮った。
「シ、シンッ。だ、だめよっ。い、言っちゃだめっ」
「な、何でだよっ?お、お姉ちゃんっ?」
シンが男を睨んだまま振り返らず、アイコに叫んだ。
「私が勝手に辞めたんだから、トオル達が怒るのも無理ないわ」
アイコが男に遠慮したのか、低く力の無い声で言った。
「シンッ。止めろっ。公けになったら、アイコが苦しむだけだっ」
おれはシンの腕を掴んで引き寄せた。
「お前のバンドが売れなかったからって、逆恨みかい?お前らが下手だっただけだろ?おれの女房にかすり傷一つ付けてみやがれ。おれはお前をこの場で殺す」
ヒロシが冷静に、しかし強烈な迫力で男を睨んだ。
ファイナル チューンのメンバー全員もまた、アイコとヒロシを庇って立ち、男に向かって身構えた。
「おれ達も、相手にするかい?とすると、お前はここで何回殺される事になるんだ?」
ショウヤが低く唸った。
男の眼に恐怖の色が浮かんだ。
「二度とおれ達の前に、その面出すんじゃねえっ。今度会ったらこっちが殺ってやるっ」
コウジが脚を一歩踏み出して脅すと、男は身震いして走り去って行った。
おれ達はほっと胸を撫で下ろして微笑みを返し合い、部屋に別れた。
アイコは、自殺しようとした程の発病した時の悩み、苦しみを心に蘇らせたに違いない。
さっき何を思っただろうか?
ショックで歌えなくなったりしないだろうか?
おれは二人の部屋に行って話をしたい衝動を抑えた。
《ヒロシに任せよう。ヒロシがちゃんとしてくれる》
おれはそれでも、眠れない夜を過ごした。
何時かは公になるかも知れない。
いや、例の病院関係者は医療ミスが公になる事を恐れて、秘密を通すだろう。
しかし金目当てでマスコミにリークする馬鹿が出るかも知れない。  
何事も無く、死ぬどころか、病気を治して、ずっとアイコに歌わせてやりたい。
それだけが願いだった。
眠れない永い夜を過ごし、朝になって、皆が朝食に集まった。
アイコはヒロシと医師と、朝食を終えてコーヒーを飲んでいた。
「皆、私、大丈夫だから。心配しないで。ちゃんと歌えるから」
アイコがさわやかに微笑んで立ち上がり、皆に気を遣った。
何時ものように朝食前に診察した医師が、皆に目配せして、指で丸を作った。
「よし。今日が終わったら、一月の休暇だ。眼一杯やろうぜ」
おれの掛け声に、全員が力強くうなずいた。
沖縄のラスト コンサートは、メンバー自身が最高のテンションだったせいもあり、また沖縄のファンが熱狂的だったせいもあって、今回のツアーでベストと言って良いほどの大成功に終わった。
おれ達は翌日、ホワイト クリスマスの東京に戻った。

年明け一〇日、久しぶりに全員がおれの店に集まった。
全員何事もなく、充電も出来たようだ。
ステージでは、席を埋めた観客を相手に、名の通ったブルース バンドが熱演していた。 
彼らの演奏を堪能してから、皆で今年一年の健康と活躍を祈って乾杯する。
「ぼく達、オーストラリアに婚後旅行に行って来たもんねえ。ハネムーン ベイビーが出来るかもねえ」
「ヒ、ヒロシさんっ。そ、そんな事っ、は、恥ずかしいっ」
アイコが顔を真っ赤にしてうつむいた。
「良いじゃんよ。夫婦だったら当たり前の事なんだから。こいつらだってガキじゃねえんだし。あれっ。でもヨッチンはもしかして?」
「ば、ばかにしないで下さい。ぼ、ぼくだって、お、女の一人や二人、知ってますよっ」
ヒロシのからかいに、何時もは大人しいヨッチンがむきになって声を揚げた。
皆が笑い転げる。
ヒロシもアイコも日焼けして、以前にもまして元気そうだった。
「先生が付いて来たんで、水入らずじゃなくて、迷惑だったけどね」
ヒロシが笑いながら、専属医師をあごでしゃくった。
医師も楽しそうに笑った。
「私も、妻と二度目のオーストラリア旅行で、新婚に戻ったようでしたよ」
《先生はわざわざ、一緒に行ってくれたのか。ありがたい事だ》
医師の報告を聴くと、何の問題もないようだった。
「よし。明日からツアーのリハーサルだ。今の処、会場の手配は万全だし、ライヴ CDとDVDの発売も予定通りだ。予約状況も上々だし、後は眼一杯やるだけだぞ」
皆が無言でおれを見た。
やる気が充分伝わって来る。
そんな時、驚いた事に、ヒロシがとんでもない申し出をした。
「あのな。おれさあ、暇なんだよ。ずっとくっついてくだけでよお。でな、嫌だったら仕方ねえけど、アンコールだけでも、一緒に奏らせてくんねえかな?曲もマスターしたし」
「ヒ、ヒロシッ。お、お前?」
「ええっ?ヒ、ヒロシさんっ、ほ、ほんとですかっ?」
 「す、すっげえっ。も、燃えるぜっ」
 「ヒロシさん、どうせなら、全曲入りませんか?ヒロシ アンド ファイナル チューンって」
ユウキがヒロシを歓迎した。
ファイナル チューンのメンバーが勿論、拒絶するはずがない。
何と言っても、日本で最高峰に位置するギタリストの一人だ。
 「ヒロシはフリーだから問題ないだろ?レコード会社も同じだし。どうせ奏るなら、そうしてくれ」
 実は二度目のツアーでも、多少のアレンジはあるが、新曲をやる予定は全くなかった。  
だからそのせいで、新鮮味を欠く恐れがあったのだ。
しかしヒロシが入るだけで、勿論アレンジも変わるし、同じ曲を同じように奏っても、充分過ぎるほど魅力的になる。
「サンキュー。おれ、ノー ギャラで良いかんな。それとファイナル チューン プラス ワンで良いぜ。それともう一つ。おれだからって、遠慮するなよ。おれもファイナル チューンのサウンドをぶち壊しにする気はねえし、おかしかったら言ってくれよな」
 ヒロシが笑った。
ノー ギャラという訳にはいかないが、ありがたい申し出だ。
 「実は、ヒロシさん。アイコさんとおんなじステージに立ちたかったりして」
 普段無口で、冗談も余り言わないヨッチンが、ヒロシをからかった。
 「皆まで、言うな。そちの想像通りよ。お主、意外と知恵が回るのう」
 ヒロシが何時ものポーズで笑った。
 ヒロシもアイコも、アイコが何かの切っ掛けで何時発病するかも知れない事を考え、それまでを一緒に過ごすなら、同じステージに立ち、一緒に演奏したい、そしてそれを一生心に刻みたいはずなのが痛い程判る。
誰もがそう思い、そうさせてやりたいと、心から思った。
 翌晩のリハーサルから、ヒロシが加わった。
 ヒロシの加入をあらゆるマスコミに流した。
ポスターやコンサート ツアー用のプロモーション フィルムも急遽やり代える事になった。
ファイナル チューン アンド ヒロシを知ったマスコミが店に駆け付けた。
その日の夕刊、スポーツ紙、夜のラジオ、テレビ、翌日のマスコミ。
全てがファイナル チューンへの、ヒロシの加入のニュースを採り上げた。
 ヒロシの加入によって、ファイナル チューンのサウンドが当然のように、一層引き締まりを持って拡がり、一段と完成度を高めた。
しかしヒロシが言った通り、互いに遠慮はなかった。
ヒロシとショウヤ、コウジが掴み合いの喧嘩になりそうになった事が何度もあった。
しかしそれは、ヒロシがファイナル チューンに加入したいと言い出した時、最初に念を押した事でもあったが、ファイナル チューンのサウンドを高め、今回のツアーを成功させようという皆の意気込みに他ならなかったのだ。
 そして全曲のアレンジが完成し、ステージングのリハーサルも充分過ぎる程やった。
 デビュー CDが二〇〇万枚を突破し、人気は高まる一方だった。
 アメリカ、イギリスの有名な音楽雑誌にも、ヒロシがファイナル チューンに加入した記事が採り上げられた。
ヒロシが加入したバンドという話題で、ファイナル チューンが脚光を浴びた。
かつてヒロシのいたバンドが、アメリカの人気グループと一緒に全米ツアーをしたり、ヒロシ自身がソロ ミュージシャンとして有名なミュージシャンのレコーディングに加わったりした事で、アメリカのミュージック シーンでも名が知れているせいだった。
そしてアメリカ、次いでイギリスのFM局でファイナル チューンの曲が流され、米英のヒット チャートにもランクされた。
 
ツアー初日の東京ドームは、朝から路面が凍結するほどの寒さで雪が降り続けていたが、かつて経験した事のない程の熱気だった。
今まで数々の有名な海外のロック ミュージシャンが来日して、この東京ドームでコンサートを行ったが、集まったファンはそれをはるかに上回ってさえいた。
 昼過ぎに着いたメンバーを、群衆とも思えるほどのファンが取り囲んで迎えた。
ドーム前の交通の邪魔になる恐れが生じた為、異例の措置で、ステージ リハーサルを早めに終え、午後二時に会場する。
四時には空白を探しても見当たらないほどの観客でドームが埋まった。
 興奮と熱狂。
心配していた雪も上がり、ドームの天井を開いた。
雲が払われた青空に虹が立ち、冬空に不似合いなほどの美しい夕焼けがドームを真っ赤に染めた。
 「行くぞっ。眼一杯やろうぜ」
 それぞれストレッチングなどで身体を解していた皆をヒロシが集めて、号令を掛けた。
 「よっしゃっ、行こうぜっ」
「OKっ」
 全員駆け足でステージに向かう。
今回もアイコの体調次第だ。
このセカンド ツアーが終わったらしばらく演奏活動は中止だから、何とか最後の沖縄まで辿り着きたい。
それから先の事は未だ白紙だった。
それが終わると、今度はじっくり充電期間を取って、世界だ。
 メンバーが真っ暗になったステージに上がった瞬間、ドーム全体を揺るがすようなものすごい歓声と拍手、足踏み。
ステージ脇に立ったおれも、聴衆の興奮と熱狂に包まれた。
客席全体におびただしい数のフラッシュ ライトが充てられ、ステージの最後方から夜の帳の降りた空に向かって色とりどりのレーザー ライトが伸び、ショウヤがシンセサイザーで地鳴りのような波の音を作り出し、ユウキとヒロシのツイン ギターが交錯して波の音を奏でると、一層激しい歓声と拍手、叫び声がドーム全体を包み込んだ。

アイ セイ イエス アイ ラヴ ユー
アイ セイ イエス アイ ラヴ ユー

驚いた事に、客席から大合唱が始まる。
ステージ最前部を小走りで走るアイコが片手を上げ、全ての方向の客席に向かってファンに応え、中央に戻って何時ものポーズを取り、イントロに身体を揺らす。
《さあ、アイコ。ヒロシと、ファイナル チューンと、世界だ》
アイコが歌い始めた。
客席でうねるようなどよめきが起こり、ドームの上空のはるか彼方へ轟いて吸い込まれて行った。

東京ドームを終えた翌朝、北海道へ飛んだ。
最初のツアーと同様に、北から南に向かってツアーを開始する。
何処の都市でも、そこで最もキャパのある会場を選んだにも拘わらず全て満席で、一度目と比較にならないほどの大歓迎を受けた。
 仙台のコンサートは大雪に見舞われ、電車もバスも運行を中止したが、大雪の中をコンサート会場まで歩いて行こうとする大勢のファンの姿を、地元のテレビ局やラジオ局、ケーブルTV 、FMなどがニュースで採り上げ、それを知ったおれ達が急遽、「会場が満員になるまで演奏を始めません。演奏は必ずやります」と流してもらい、開演を二時間遅らせた事で、開演までに超満員になり、普段以上に盛り上がって大成功を収めた。
 また後援してくれていた自動車メーカーが、系列のリース会社、レンタル会社に手配してバスを何十台も、降雪の収まったコンサートの終了後に繰り出し、終電に間に合わなくなったファンのほとんどを無事に送り届けてくれ、それも翌日のニュースになった。
関東で梅が咲き、関西で桜吹雪が舞った。
金沢では激しい風雨の中での屋外コンサートだったが、臨時スタッフを三倍に増やして全員で機材とステージを必死で守った。
観客はずぶ濡れになってさえ、コンサートを満喫してくれた。
四国で梅雨入りし、九州に入る頃には汗ばむような気候になった。
 驚いた事に、アメリカ、イギリスでヒットし、さらに欧米諸国でも売れ始めたお陰か、デビュー CDがついに三〇〇万枚を突破、新しい二枚組のライヴ CDは早くも二〇〇万枚を突破、ビデオは四〇万巻、DVDも九〇万枚を突破し、増産体制に入った。
そしてもっと驚いた事に、沖縄のラスト コンサートのチケットは既に二〇万枚を突破していたが、さらに売れ行きが急激に伸びていたのだ。
沖縄のラスト コンサート。
最初はそれなりに大掛かりではあるが、普通のコンサートの予定だった。
しかし予定日がお盆と重なり、さらに日曜日になった事もあったが、ある時、大手の旅行代理店から、沖縄の観光ツアーとコンサート チケットを組み合わせた商品を売り出したいというオファーがあった。
願ってもない話だったし、おれは二つ返事でOKを出した。
ところが五〇〇の定員があっと言う間に売り切れ、追加でさらに二〇〇〇枚が売れた。
その事自体が話題になり始めたせいで、他の旅行代理店からもオファーが殺到し、さらに驚いた事に海外、アメリカ、イギリスなどの代理店でも同様のツアーが売れ始めて五万枚以上が売れ、さらにマスコミの記事になった。
それがまた、チケットの売れ行きに一層拍車を駆けたのだった。
そして全米ヒット チャートのシングル部門で《シャイニング レディ》のライヴ ヴァージョンが、坂本九の《上を向いて歩こう》以来、日本のミュージシャン、日本の曲として久しぶりにナンバー ワンにランクされ、二枚目のCDはアルバム部門で二位にランクされ、欧米でもCD、ビデオ、DVDの売れ行きは一層伸びて行く様相を見せていた。
その相乗効果だろうか、さらに旅行代理店のツアーは増やされ続けて、通常のコンサート チケットも含めると、六月末で四〇万枚が売れていた。
予測では、八〇万枚という数字さえ挙がっていた。
複数のアーティストによるコンサートなら未だしも、一つのグループで、それも昨年までは無名だったバンドにしては、驚異的な数字だった。
コンサートはせいぜい最大で三〇万人規模と考え、それでもその倍以上のスペースがある米軍基地の跡地で予定していた会場も急遽変更して、もっと大きな民間の農場を借り切り、そこでやる事になった。
沖縄はとんでもない事になりそうな予感があった。
 おれ達のツアーは一層熱を帯びて行った。

そして福岡ドーム。
ここを終えたら、後は一気に九州を南下し、最後の沖縄を残すだけだ。
おれ達は絶好調だった。
ここでも大観衆と熱狂的な声援がおれ達を迎えた。
コンサートは最高潮のまま終え、アンコール曲に入った。
イントロが始まった。
運命の時はその瞬間だった。
アイコが動かない。
眼を閉じて顔を上向け、突っ立ったままだ。
観客は何も判らないが、メンバーとスタッフだけは全員気が付いた。
ここでは何時もなら、アイコがステージの最前部まで出て横に動きながら、会場の観客に手を振って挨拶するはずだ。
それなのにアイコはモニター スピーカーの横で、何時ものようにマイク スタンドを握って眼を閉じ、動かない。
ファイナル チューンのメンバーがにこやかに演奏しながらもヒロシを見る。
ヒロシが観客に気付かれないように、彼ら全員と視線を送り合う。
《おれがギター ソロを奏る。皆併せろ》
 ヒロシがサインを送った。
メンバー全員がうなずく。
イントロが終わる寸前、ヒロシがステージの最前部まで走り出て、自分のオリジナル曲のフレーズを入れた。
ファイナル チューン全員が一斉にアドリヴで併せた。
ヒロシのファンでなくても、誰でも知っている、かつて新車のCM ソングで火が点き、大ヒットした有名な曲だ。
その瞬間、満席の会場で、爆発するような歓声が起こった。
勿論ファイナル チューンのメンバーも知っている曲だし、アドリヴで合わせられる技術も持ち合わせている。
ヒロシの超技巧を駆使した素晴らしいギター ソロが始まると、観客席から一際大きな歓声と拍手が起こった。
 ヒロシはギター ソロを展開しながら、アイコの傍に歩み寄って耳元で話し掛けた。
 ファイナル チューンのメンバー全員が、演奏しながらも、硬い表情で見守る。
アイコが眼を閉じて上向いたままうなずいた。
ヒロシがおれの方を見て首を横に振った。
おれはアイコをステージ脇に入らせるよう、ヒロシに合図を送った。
ヒロシがアイコにもう一度耳打ちした。
アイコが客席に精一杯の笑顔を向けて手を強く振りながら、ふらつく足取りでステージ サ
イドに駆け寄り、おれにすがり付くように倒れ込んだ。
 ひどい熱だ。
ついに発症したのか?
ずっと投薬治療を続けていたし、アイコの調子が良さそうだったので、皆油断していたのかも知れない。
アンコールに入る前も、アイコは「大丈夫」と笑っていたし、医師もコンサート前の検診の後、特に何も言わなかった。
恐らくアイコが口止めしたいたのだろう。
おれの心を、言いようのない深い悲しみと怒りと絶望感とが覆った。
「せ、先生っ、た、頼むっ」
 おれは専属医師と二人でアイコを抱え、ドクター カーに運んだ。
 火を吐くように喘ぐアイコを診察台に寝かせると、おれはすぐにステージに戻った。
 おれがアイコの傍にいてどうにかなるわけではない。
医師に任せよう。
ステージではヒロシの曲が終わって、満場割れんばかりの歓声と拍手と足踏みが鳴り響いていた。
 メンバーが強張った表情で楽器を離れ、ステージ最前部で肩を組んで挨拶し、ヒロシがマイクを取った。
 「すまん。今日はこれ以上出来ない。アイコが倒れたんだ」
 場内にこだまする悲鳴とため息。
しかしすぐに「アイコ」コールが始まった。
それは「アイコを出せ」というニュアンスではなく、アイコを励ますコールだった。
 場内の照明が点いた。
すぐにメンバー全員が心配そうにおれの処に駆け寄った。
ヒロシが、おれを一瞥しただけで、ドクター カーに向かって走り去った。
おれ達はヒロシの後を追った、
皆の顔が緊張に強張っている。
だからと言ってどうする事も出来ない。
おれ達はただドクター カーの外に突っ立ったまま医師とヒロシに任せて、アイコの無事を祈るだけだった。
無神論者のおれが、心底祈るなんて何時以来だろうか。
 会場では未だ「アイコ」コールが鳴り止まなかった。
 《アイコッ、聴こえるかっ?皆がお前の無事を願ってるんだ。お前の歌をもっと聴きたがってるんだ。頑張れっ》
 ドクター カーのドアが開いて、ヒロシが出て来た。
青ざめ、強張った顔。
何時も陽気なヒロシが、初めて見せた悲しみと怒りが入り混じった表情。
それを見て、全員が悟った。
 《ついに来たか》
 おれは立ちすくんだまま、空を見上げた。
《どうにかならないのか?》
満天の星が一気に涙で滲んだ。
 「アイコの言葉を、皆に伝える。《最後まで奏ろうって、言ったわよ》、だ」
 皆が涙に塗れて強張った顔で、ヒロシの顔を見つめた。
 ヒロシも、涙こそ見せなかったが、眼が真っ赤だ。
 「アイコに、同情なんてするなよ。おれにもな。アイコは精一杯生きて、精一杯歌って。だから満足してるんだ」
 《だけど、もっと生きていられたら、今無理をしないで。そしたら、アイコは、病気が治って。もっと歌えて、お前と一緒にいられて、子供も産んで》
 「マスター。もう何も言うなよ。あいつも、おれも、充分だ」 
ヒロシがおれの肩をたたいた。
 《おれ達よりも、ヒロシの方が、つらい。もっとつらいのは》
 おれは、また空を見上げた。
もう視界がかすんで何も見えなかった。

 一週間後の大分ではアイコの容態が小康状態に入ったせいで、どうにか出来た。
 しかしマスコミが、アイコの病気について取沙汰し、騒ぎ出した。
おれ達はしかし、何も語らなかった。
カミュ レコードの専務も大分まで飛んで来た。
「何て事だ。発症したのか。つい昨日、アメリカの世界的なプロモーターから、来年全米ツアーをやって、その後ワールド ツアーをしないかと持ち掛けて来たのに」
彼は拳を握り締めて天を仰いだ。
その後の長崎、佐賀、熊本、鹿児島は福岡ドーム同様、アイコの気力だけでコンサートを終え、アキラのギター ソロでアンコールを補った。
 そして沖縄。
ラスト コンサートまで後一週間。
皆の願いは一つ、アイコの体調だけだった。
誰もが無口になりがちなのを、ヒロシとアイコ自身が冗談を言って元気付けた。
《何やってんだ。おれ達は》
おれ達こそ、アイコとヒロシを元気付けなければいけないのに。
それにしても、彼ら二人、何という精神力だろうか。
ヒロシがアイコに愛を打ち明けた時、アイコがヒロシの愛を受け容れた時、この日が来るのを既に覚悟してはいたのだろうが。
 おれ達の苦悩を他所に、沖縄に続々と人が集まり始めた。
ホテルの窓から見下ろす街の通りも、観光客で埋まり、ホテルの入口には、メンバーを一目見たいというファンで埋め尽くされ、ガードマンを増員しての警備態勢になった。
 アイコはホテルの部屋に、ヒロシと医師と三人で閉じこもったままだ。
食事で顔を合わせる時、アイコはおれ達に向かって笑って見せるが、やつれた表情が尚更痛々しかった。
 「大丈夫よ。ちゃんと歌うわ」
 医師の話でも、少し持ち直してはいるようだった。
 会場周辺では三日も前から集まり始めたファンが溢れかえって交通の障害になり出した為、農場のオーナーの好意で会場が開放され、コンサート前日で実に七〇万人以上が入場していた。
 その光景はまるでかつて「伝説のロック コンサート」と称されたウッドストックのライヴのような光景だった。
自炊するグループ。
バーベキューを楽しむグループ。
木陰で抱き合って愛を語り合うカップル。
泣き出す赤ん坊をあやす若い夫婦。
鬼ごっこに興じる子供達。
農場の数箇所にある池で水浴びする者。
場所取りでけんかになり、ガードマンの世話になる者。
簡単な楽器を持ち込んだ連中が至る所で、ミニ ライブを奏っていた。
それに併せて手拍子する者、踊り出す者。
あちこちにある散水栓を開けて伸ばしたホースから、会場を埋め尽くしたファンの頭上に大量の水が撒かれる。
会場は、真夏とは言え、強烈に蒸せ返る熱気と期待が高まっていた。
フェリーが着くたび、飛行機が着陸するたび、満員の乗客が沖縄を埋め、コンサート会場に向かって人と車の大河が出来た。
 広大な会場では、数十ヶ所に巨大なプロジェクターが設置され、巨大なスピーカーがそこらじゅうに配置され、ステージも着々と完成されて行った。
 天気も問題なし。
アイコ以外のメンバーも休息充分で、後は運を天に任せるだけだった。
 そしていよいよ当日の朝を迎えた。
 朝の診察をした医師は、硬い表情だったが、指で○を作ってうなずいた。
夕方ホテルの屋上に臨時着陸したヘリコプターに全員で乗り込み、現場に入る。
会場では、灼熱の太陽が西に傾き掛けて陽差しをわずかに和らげ、視界に存在する全ての物を紅く染め始めていた。
空中から見降ろす会場は人、人、人で埋まり、陽が沈み、コンサートが始まるのを、今や遅しと待ち構えていた。
ステージ サイドでは大勢のスタッフが最後の機材に万全の調整を施す為、忙しなく走り回り、怒鳴り声が飛び交っていた。
 メンバーはステージ サイドに停めたキャンピング カーに乗り込み、アイコを心配しながらもリラックスして、次第にボルテージを高め合っていた。
 おれは、ちょうどアイコの診察を終えて傍に来た医師に確認した。
アイコはヒロシに肩を抱かれて、皆の乗っているキャンピング カーの方に向かった。
 「病気の進行状況は、どれ位なんだ?今日が終わって療養すれば、落ち着くのか?」
 医師は、二人がキャンピング カーに乗り込んだのを確認してから、おれと専務の腕を取って、ステージ サイドの陰に歩み寄った。
 「彼ら二人に口止めされているんですが、貴方達には今後の計画もあるでしょうから、お話して置きます。か、彼女は、もうそんな状態じゃないんですっ」
 医師が顔を強張らせて、呆れたように、しかし鋭く言葉を吐き捨てた。
 彼も眼を真っ赤に腫らしている。
《も、もう、だめって、事なのかっ?》
「ど、どういう状態なんだね?」
 専務が、医師の腕を掴んで揺すった。
 「つ、つまり、ですね。検査の数値だけで言えば、ああやって歩いたり、話したり出来る事自体が、不思議なんです。に、二時間のステージなんてっ、と、とんでもない事なんですっ。あ、あれは、もう彼女の精神力だけです。何時ものように、点滴を打って置きましたが、か、彼女の為ではなく、わ、私自身にとっての気休めくらいにしかっ。ただ、救いなのは、他の細菌に感染している気配はないので、今日だけでも、彼女が耐えてくれさえすれば、すぐに入院させて何とか持ち直させる可能性はありますが」
 医師が天を仰いで絶句し、眼を閉じた。
目尻から涙が伝い落ちた。
 「何て事だ。そこまで、進んでいたのか?」
 専務が医師の腕を掴んでいた手を離して、頭をかきむしった。
《今夜が、アイコの、最後、なのか?》
 この巨大なラスト コンサートを、この期に及んで、中止する訳には行かない。
アイコの気力が最後まで持つか。
いや、持って欲しい。
止めさせたい。
いや、それは出来ない。
アイコは絶対許さないだろう。
しかしアイコが死ぬかも知れない。
おれはまた神に祈った。
 視界に存在する全ての物を焼き尽くすかのように、真紅に染め上げた巨大な夕陽が、先を急ぐかのように西の水平線に乗ろうとしている。
入場者数が一〇〇万人を突破した、との連絡が入った。
未だ農場の入口の路上には長蛇の列が残っているという。
会場のボルテージは最高潮に達した。
 開演時間になった。
おれは暮れなずみ始めたステージ サイドの人込みをかき分けてキャンピング カーに急いだ。
ちょうどメンバーが降り立って来た。
「ア、アイコッ」
 おれはアイコの腕を取った。
涙にかすんだアイコは何もないかのように、静かに微笑んでいた。
 《おれがあの時、さもアイコの理解者であるように、偉そうに言ったから、こんな事に。おれが、アイコに何も言わなければ、アイコは未だ》
「マスター。最後まで奏るわよ。これが終わったら次は世界よ」
 おれは何も言えず、ただうなずき、ただステージに向かうアイコと、他のメンバーの後ろ姿を見送っただけだった。
 アイコが一瞬振り返ったような気がした。
そして唇が動いたような気がした。
 《マスター。ありがとう》
 死に対して潔くないのは、おれの方か。
死ぬとは、生きる事の結果だ。
死に対して潔くないという事は、潔く生きていない、という事なのだ。
アイコは、ヒロシは、全てを潔く受け容れて、生きたのだ。
だから死に対しても潔いのか。
おれは五〇過ぎても、このざまだ。
潔くないから、五〇年以上生きて来たのに、何も遺していないのだ。
そして何かを遺そうとあせって、ファイナル チューンを世に出そうとした。
アイコをファイナル チューンに入れた。
それはおれの個人的な名誉欲でしかなかったのだ。
何かを遺したいという欲望は、潔く生きていれば起こり得なかったのだ。
インフィニティのアイコ。
インフィニティ。無限大。不滅。
アイコが死ぬかも知れない。
こうなってみると、皮肉なバンド名だった。
しかし、アイコが死んでも、アイコは皆の心に不滅な存在として遺る。
日本のロック界、いや、世界のロック界で永遠に遺るのだ。
いや、そんな不吉な事を考えるのはよそう。
医師の言う通り、他の細菌に感染していないのなら、このステージだけでもアイコが乗り越えてくれる事を信じよう。
 アイコは必ず克服する。
 そして次は世界だ。

メンバーがステージに上がった。
耳をつんざくような歓声と、地響きのような足踏みが天地を襲った。
西の水平線から上空に向かってクリムゾン レッドからオレンジ、ピンク、ライト ブルーからパープルへと段階的に色着き、少し南に眼を逸らすと見える、漆黒の闇に変わり掛けた空にきらめく金星まで届きそうだ。
 孤高の星。金星。
 ヴィーナス。
アイコはそのように生きて来て、そして。
 今はただ見守るだけだ。
アイコの生き様を。
 歓声と足踏みが一層激しくなって、一旦静まり返った。
かつて使った事のない程大量のスモークがステージの両サイドから湧き出した。
ショウヤのシンセサイザーが寄せては引き、引いては寄せる波の音を弾き出し、ユウキのギターがそれに併せてかき鳴らされ、ヒロシのギターが激しいインプロビゼーションを奏でる。
 アイコがステージ最前部を端から端までゆっくり歩き、広大な客席に向かって手を振りながら挨拶する。
《アイ セイ イエス》が始まる。
 アイコの歌声が、満天にきらめく星の狭間まで聴く者の心を飛翔させる。
 アイコの歌う姿が涙でかすみ、アイコの声が悲しみの余りの耳鳴りで聴こえなくなった。
おれはただ、ステージ サイドに立ちすくんでいるだけだった。
 ふと気付くと、もう最後の曲だった。
組曲《明日へ》のエンディング間近だ。
 持ってくれた。
アイコは?
大丈夫か?
汗びっしょりだ。
笑ってはいるが、時折顔をゆがめている。
足元がふらついている。
もう良い。
 アイコ。
もう、終わりにしよう。
良くここまで頑張ってくれた。
早くバック ステージへ戻って来い。
後はもうゆっくり。
 
  ラーヴッ

 曲の最後の絶叫。
 アイコが声を出し続ける。
 何時もシャウトを切る処でも、アイコは延ばし続ける。
 メンバー全員がアイコを振り向いた。
 何も知らない大勢の聴衆は、感動して大地を揺るがすような歓声が起こった。
《アイコッ。や、止めろっ。もう、歌うなっ》
 未だ止めない。
 何処まで延ばすのだ。
 ヒロシがギター ソロを繰り出しながら、アイコの傍に歩み寄った。
 《ヒ、ヒロシッ?お、お前っ?》
 ヒロシが泣いていた。
 ヒロシと交際って二〇年、あいつの涙を初めて見た。
 他のメンバーも皆、演奏しながらアイコを見つめて泣いていた。
 異変に気付いた大観衆が、手拍子を止め、踊るのを止め、手を振るのを止めて、ステージのアイコとヒロシを凝視した。
 ヒロシがギター ソロを止め、アイコを抱こうとした。
そしてアイコは、ヒロシの腕の中に倒れた。
 《アイコッ。逝くなっ。頼むっ》
 アイコがよろけながらヒロシにすがり付いて、再び立ち上がった。
 客席に手を振る。
微笑んでいる。
大丈夫なのか?
持ち堪えたのか?
「来年、アメリカで逢いましょうっ!」
アイコは叫び、再びヒロシの腕の中に倒れた。
見守っていた一〇〇万人の大観衆が、それに応えて吼えた。
                             《了》

2010/05/11(Tue)18:53:41 公開 / 中島 梢陽
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