『ペイン エイジ [1]』 ... ジャンル:リアル・現代 アクション
作者:レサシアン                

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   『Pain Age』
   

  1, sin and pay and law.


 暗闇から急速に引き上げられる感触。無から有へと四散した身体が組み上がり形を成していく様な錯覚。溶解した自分が水の中に散らばって、溶け合って、漂っているような、曖昧で無限に拡大していくような感覚が次第に、輪郭を取り戻し、驚異的な速度で収縮し、集積し、実態を成していく。
 身体が五感を取り戻し、停止していた脳髄が思考を再開する為、始動する。
 冷水を頭からぶっかけられたような感覚と共に、俺は覚醒した。
「――、――?」
 未だ覚醒しきらない曖昧な意識が頬を打たれる感覚で、徐々に正気を取り戻す。しかし五感は本調子ではなく、体中が痺れていて力が入らない。
「――い、――おい」
 ぼやけた視界は次第に晴れ、周囲の様子を脳に伝え始めた。
 そこは裸電球一つで照らし出された密室だった。何人か、人影が俺を取り囲んでいる。もっと周囲を見渡そうと首を捻ろうとして、首筋に鋭い痛みを覚えた。
「――やっと気が付いたか」
 曖昧なままの嗅覚は微かに埃臭さと血生臭さを感じ取り、その血生臭さが俺自身から出ているものだと気付く。息をする度にむせ返るような血の匂いが鼻腔に、肺に充満した。
 おぼろげな味覚が口一杯に広がった血の味を訴え、舌で頬の内側をなぞると刺すような痛みが走る。頬を切っているようだ。
 血が固まって鼻腔を塞いでいるのだろうか酷く息がしづらく、息苦しい。
 肌が感じ取る、不穏な空気と閉塞感。ここにはねっとりとした敵意と悪意が満ちている。
「おい、気付けにもう一杯かけてやれ」
 その言葉が聞こえたのとほぼ同時に俺に顔を容赦なく冷水が襲った。さらに鮮明になる意識と感覚。
 未だ冬明けきらぬ三月末日、只でさえ寒いこの時期に刺さるような冷たさが全身に行き渡る。
「っ――、げほっ、ごほっ!」
「目はスッキリ覚めたかい?」
 顔を拭おうにも腕は全く動かない。背もたれに後ろ手で縛られた両腕。椅子の足に括りつけられた両脚。両腕両脚の不自由を感じてようやく、自分が今縛り付けられていた事を思い出す。
 一気に加速し、クリアになっていく認識。
 状況を整理しよう。出口の見えない薄暗い部屋、取り囲む数人の男達、滅多やたらに縛り付けられた満身創痍の身体。 
 そうだ、思い出した。
 俺は今、"尋問"を受けている。
「あー、ってぇ」
 口の中に溜まっていた血を吐きだす。
 自分を取り戻した俺は目の前に立つ男達に視線を向けた。ヒスパニック系だろうか、赤黒い褐色の肌の男達が見下ろしている。数としては十人を割っているだろう。前に立った男達が壁になり後ろに控えている連中の正確な数までは把握できない。
 全員スーツ姿だが統一感はまるでなかった。開襟シャツに、派手な柄シャツ、ジャケットもパンツもネクタイもそれぞれ色、柄が違う。そして手に手に凶器を持った男達は到底堅気には見えない。というか、あんなナンセンスな極彩色なシャツやスーツ自体、堅気は絶対着ないと思う。マニュアル通りのナンセンスなマフィアを地でいっていた。
 俺が気を取り戻したのがそんなに嬉しいのか、リーダー格と思しき男がゴキゲンにこちらに踏み出す。
 白いジャケットに、目に痛い真っ赤な開襟シャツ。撫でつけた黒髪とヤニの染みついた黄ばんだ歯を見せながら剣呑な笑顔で俺の前に立ちはだかる。
「おはよう、目覚めの挨拶も済ましたところで早速、本題に入ろうじゃないか。 お前ここで何してた?」
 スペイン語訛りの英語が耳についた。
「……ヘイ、スピック。 目覚めのキスがまだ済んでねぇぜ?」
 男が手にしていた鉄パイプがピクリと動く。しかし、身構え、歯を喰いしばる俺を襲ったのは不意にも下から突き上げるような衝撃だった。
 下腹部を思い切り蹴り上げられる。革靴のつま先が鳩尾にめり込み、肺から呼気が漏れる。
「っ――」
 強烈な痛みと呼吸困難から俺は身を捩らせた。声にならない呻きを上げ、苦痛に悶え、喰いしばった口からだらしなく涎が垂れる。
 男はそんな事お構いなしに俺の髪の毛を鷲掴みにし、グイッと持ち上げた。
「訊かれた事さえ喋ってくれれば、こんな酷えことやらずに済むんだ。 俺だって手を汚したかねぇさ。 だからよ、無駄口叩かず訊かれた事だけ答えてくれねぇか、なぁ?」
「――っ、げほっ」
 詰まった鼻にも届くきつい口臭。言葉に反して男の顔は心底愉しそうに歪んでいる。
「もう一度、今度は名前からだ、ヤンキー。 人付き合いはまず自己紹介が大切だってママに教わったろう?」
 鳩尾を蹴り上げられた衝撃から回復し切っていない、苦しみ捩れる肺から何とか空気を絞り出し精一杯の声を出す。
「……俺の、名前は"ジョン・ドゥ"だ。 職業は名探偵さ」
 いっそう歪む黄ばんだ笑顔。もう一度、今度は手にした鉄パイプで鳩尾を思い切り突かれた。再び止まる呼吸、裏返り、悲鳴を上げる胃袋。昼に食べたツナサンドが出口近くまで逆走してきた。体を捩りたくても頭を掴み上げられて満足に悶えることも出来ない。
「っぁ――、!!……」
 しかし、男の笑みにも少し苛立ちが混じり始めた。掴んだ髪を更に引っ張り上げて耳元で凄みを利かせて呟く。
「"ジョン・ドゥ"? 名探偵だぁ? 勘違いするんじゃねぇぞ。 俺はこんな東海岸くんだりに冗談を聞きに来てる訳じぇねぇし、喋って下さいとお願いしてる訳でもねぇ。 そっちが口を割らねぇなら、こっちもそれ相応の接待をしてやる。 全部ぶちまけたくなる様な最高の接待をなっ……!」
 男が鉄パイプで脇を指し示す。横目で見たその先には小さなテーブルがあり、その上には工具が乱雑に置いてあった。車の整備や日曜大工に使うあれだ。ハンマー、ドラーバー、プライヤー。レンチにドリルにガスバーナー。糸鋸にグラインダーまでなんでもござれのよりどりみどりだ。しかも頼もしいことにどれも年季が入っていて、丹念に使い込まれている。しかもひとつ残らず血に染まってか黒ずんでいるという特典付き。
 おどろおどろしい。
 さすがに血の気が引いた。特にガスバーナーとか糸鋸とかヤバイ。あれはきっと取り返しがつかなくなると思う。こう、物理的に。
 男はテーブルに並べられた工具から手始めに一際無害そうなワイヤーブラシをチョイス。だがしかし、そのガッチリ固めの毛先には赤黒い何かがこびりついている。その色々を想像し過ぎると精神衛生上この上なく宜しくないので視線を外そうとする。
 ――が、人間危機が目前に迫るとそれから目が離せなくなるらしい。
「あぁ、くそぅ……」
 一歩一歩近づく恐怖の毛先。噴き出す冷や汗、脂汗。じっとりと額を濡らすそれを縛られている状態で拭えるわけも無く、ダラダラとだらしなく垂れ流れる。しかも後ろには更に控える数多の拷問レパートリー。
 ……マズい、毛先怖い。有る事無い事全部喋っちゃいそう。
「――すんません、兄貴。 お電話です」
 そんな絶体絶命なピンチを、空気も読まず割って入るリーダー格の部下と思しき男が一人。そいつはリーダー格の男へ向かって申し訳なさそうに告げた。携帯を男に向かって差し出している。
「んなもん、後にしろ。 今人様ん家を嗅ぎまわる迷惑な馬鹿相手でちと手が離せねぇ、ってな」
 苛立ちを隠そうともせずこちらを見据え、ワイヤーブラシ片手に、携帯が離れていてもかすかに聞こえるような大声で答えるが携帯を差し出した部下は引かなかった。
 どうにも困惑した表情を浮かべながらそれでも男は言葉をつなげる。
「それが親父からでして……」
 その言葉を耳にした途端男は振り返り、その部下の持っていた携帯をひったくった。
「このウスノロッ、そいつを先に言え!」
 部下のケツを蹴り上げて、携帯に応えようとする直前、男はこちらに振り返る。
「……お前の相手はまた今度だ」
 黄ばんだ歯をいやらしく剥き出しにして、男は怒りを孕んだ凄惨な笑顔を向けた。
 部屋から男が出ていくと、今度は後ろに控えていた男達が俺を取り囲む。勿論、手には血染めの工具が目白押し。
 軽い眩暈を覚える光景と、ヒシヒシ伝わる敵意と殺意。喋っても喋らなくてもどっちも結果が一緒なら、出来るだけ長生きしたい。
「やれやれ、お嬢さんのわがままに付き合った途端、とんだ災難だぜ……」
 それも今日は一生の内で特にハードで長い一日になりそうだ。それ以前に明日はあるのか、なんて一抹の不安を覚えながら俺は溜息をついた。


   ◆◆◆


 窓から差し込む夕日が部屋の中を赤く焦がしていた。築三十年のオンボロ雑居ビルの二階に事務所を構える俺は、今日も退屈を相手にしながらその日の営業を終えようとしていた。
 我が社の受付時間は正午ちょい過ぎから、大体日没か、窓から覗く歓楽街のネオンに明かりが灯り始めた時までだ。
 窓から見渡す歓楽街は沈みゆく夕陽に淡く照らされオレンジ色と冬独特の不安な灰色を落とした空。冬の早い日没はまるで、夜の闇に昼の明かりが追い立てられているようだ。
 みるみる弱まるオレンジの黄昏を見送りながら、俺は店仕舞いの用意を始めた。店仕舞いの用意と言っても表の掛札をオープンからクローズに変えるだけの簡単なことだが。
 よっこらせ、と身体を預けていたソファーから立ちあがる。
 この事務所は、俺の開く興信所の事務所だ。興信所、分り易くいうところの探偵事務所だ。

 探偵、そう探偵だ。 俺は探偵をやっている。

 私立探偵。シャーロック・ホームズとかフィリップ・マーロウとかが名乗るあれだ。その響きは夢見る子供にかぎってなら受けが良いだろう。名刺に私立探偵と載せたところでセンスのない冗談でしかなく、だったら興信所と名乗った方がそれらしい。
 難事件を華やかに解決するわけでもなく、怪盗と対決することもない。この街で起こる難事件と言えば組織だった犯罪と、薬と金と女が絡む問題ぐらいだ。最終的には鉄量が物を言わす血生臭い鉄火場ばかりだし、窃盗事件だって大半が未成年や外国人窃盗団の突発的犯行だ。
 前者ならシャーロック・ホームズよろしくパイプ片手に事件現場に臨んだところで、銃撃戦という至極簡素なトリックで積み上げられた鉛の入った仏の山があるだけで名推理とは縁もゆかりも無い。
 後者はある意味怪盗、怪人よりも深刻な問題かもしれない。怪盗やら怪人やらはある意味、愉快犯の類いだがこちらは社会問題だ。おまけに居直ったり、ブっ放したり、壊したり。おまけに火だって付けていく。品も無ければ知性も無い。予告状も無ければ華麗なテクニックも伴わない。勢いと力に任せた犯行。ルールやポリシーとは無縁だ。欲しいのは頭のキレる探偵ではなく強固な警備システムだろう。
 これさえ解決できれば探偵の面目躍如の連続殺人なら残っているが、大体の連中は"ガンギマリ"でお空の彼方までぶっ飛んで帰ってこれなくなった可哀そうな連中だ。探偵より医者が要る。まぁ連中、刃物か銃片手に愛やら神やら宇宙やら、電波な事を並べたてた挙句、ご近所さんやら手近な奴がどういう訳か敵に見え始め、手を出そうとしたところを駆け付けた警官に撃たれるのがオチなのだが。
 怪盗も怪人も現れないこのご時世、探偵事務所は興信所に名を変え、私立探偵は所長兼調査員といった風に名称を変えてきている。
 探偵なんぞ空想妄想の中だけの職業だ。実際は依頼された他人の行動、生活を、思考、人生を、尾行し、盗撮し、盗聴し、洗いざらい手段を選ばず丸裸に調べ上げる。それが現代の探偵の姿だ。地味だし、褒められたもんじゃない。それ以外の依頼もあるにせよ、こんな暗い仕事をしているのだ。物語の中の名探偵達の華やかさとは一切無縁。
 おまけに最近じゃ便利屋、何でも屋との区別が曖昧になってきている。探偵は仕事がないから事業拡大。それでいて連中は余所様の専売特許をホイホイ模倣して貪欲に依頼をこなしていく。まさに何でもありな便利な連中。それでも探偵より守備範囲が広い連中は他人の顧客も巻き込んで日々、経営拡大に励んでいる。
 廃れた探偵業、商売相手はやたらと家出する躾の悪いペットの飼い主ぐらいだろう。もう調査対象は人間ですらない。というか、調査ですらない。
 だがそれももう危うい。個人営業は如何せん、物量と低価格には勝てないのだ。
 経営苦の興信所。所長兼調査員の個人経営、個人操業。結局のところ、興信所と銘打った便利屋。世間の厳しさが身に染みる酷くやくざな商売だ。
 それが俺の"まっとうな"仕事。

「本日も、依頼無し。 万事いつも通りか……」
 半ば趣味道楽で続けている仕事とはいえ、ここまで依頼が来ないのも珍しい。常客の企業からよく社員の素行調査など頼まれていたが最近ではそれもない。
 真っ白なスケジュール。久々レコード更新の予感。っつーか、愛想尽かされたのか? もしや余所の興信所と契約されたとか。危うし俺の未来。
 とりあえず副業で生活費などはなんとか賄えているが、こっちの本業はさっぱりだった。事務所の立地がまずかったのか、なんにしろ仕事の依頼は月に数回、しかも小口の依頼ばかりである。
 なんつー体たらく。そろそろ本業と副業が入れ替わってしまう気配バリバリだ。
 でもまぁ何とかなるか、と呑気にそんな事を考えながら、のそりのそりと扉まで近づいていく。
 いつものルーチンワーク。月曜から始まり金曜に終わる日課。土日祝日は定休日なんです。それが自営業の強み。
 扉を少し開けると、海風に冷やされた外気が室内へと流れ込む。暦の上ではもう春の始まりを報せている。だがまだまだ今年の、この街の冬は終わらないようだ。
 冬明けきらぬ凍えた街、ヘイゼル。それが俺が住む街の名だ。

 空を侵すようにそびえ立つ高層ビルの森。灰色の空に伸びたそれらはなだらかな傾斜をなす山脈のように見える。
 ビル群で飛びぬけて高いものが集まっているのが、この街の中心地。人も金も物も、全てが集まる混沌の渦。
 いつからここがこんな街になったのか、具体的には誰も知らない。公式な記録にも曖昧なまま、これといって残っていない。ただ昔は静かな港町だったというだけだ。

 それは世界の動乱の最中に生まれた、当時の情勢の写し鏡のような街。
 人は世界規模で二度目の世界恐慌と三度目となる大戦を経験する。
 始まりは、大国の些細な経済施策の失敗からだった。小さな波紋を治めようと国政は、また小さな失敗を生み出した。負債が招く負債。失業率が瞬く間に上がっていった。世界経済の中核を成すその国から発信された不況の波が世界に届くのにそう時間はかからなかった。経済恐慌は大国を疲弊させ、国民に不満を募らせ、第三国に横暴を許し、世界大戦への火種を生んだ。
 恐慌に具体的な対策が出来ないまま半年が過ぎた頃、街には失業者が溢れ、貧民階層の不満は決壊寸前で、暴動が起きるのは自然な流れだった。
 多発する暴動、悪化する治安、泥沼化する不況、混乱する国内情勢。国家が転覆するには十分だ。
 そうして国軍の一部がクーデターを起こし、疲弊していた大国は呆気無く転覆した。
 そうしていつの間にか。一国の内紛から飛び火し、小さな紛争へと連鎖した争いは、やがて世界規模の大戦へと姿を変え、国境という国境を余す事無く変化させるまで激化し、それまでのパワーバランスを易々と破壊していく。
 世界一と高らかに謳っていた移民の大国は先の通り、呆気無く自壊、自滅した。北の大国はなりふり構わぬ軍事政策と新たに発見された地下資源をもとにかつての力を再び取り戻しつつあり、世界最多の人口を誇るアジアの大国は一人のカリスマと目覚ましい近代化によって、過去の歴史にもあった強大な国力を数百年ぶりに手にし、世界に誇る超巨大帝政国家へと復活を果たした。
 荒れに荒れた世界情勢、混沌としか形容できない程、混乱が世界を包み、戦火は大地と人を焼いていった。
 天災じみたそれは世界の全てを乱していく。火に包まれる都市、文明は衰退し、文化は失われる。
 その火が沈静化したときには、既に世界はその形を変えていた。
 混沌の波が引き、残ったのは乱れた世界と新しい秩序。いくらか文明の逆行を強いられたが、それでも世界は新生した。
 そうして世界が新生したのと同じように、北米の東海岸に位置する穏やかな港町もまた新生した。詳しい経緯は定かではない。だが戦乱の中、そこに多くの人々がやってきたことは間違いない。
 難民、移民、敗残兵、犯罪者。人が集まれば、物が集まり、気が付けば次第に寂れた港町は小都市として機能していた。戦乱で育まれた地下経済がそれの成長を助長させる。
 戦乱の最中、国内に溢れた略奪品や盗品、武器やクスリ、戦争奴隷や娼婦。それらを金に換えるためにも、出入り口が必要だった。そうやってこの港町は成長していった。
 この時代に、戦火に曝されずそこまで巨大化したのは奇跡と言っていいのかもしれない。
 混乱が治まるとその成長はさらに加速した。みるみる増える人口。比例して悪化する治安。新たに構築される混沌を孕んだ、歪な秩序。
 それはまるで戦火は途絶えたが水面下ではまだ火種が燻ぶり続ける今の世界情勢を表しているようだった。
 そうして世界で最も新しい都市はそうして誕生した。
 それが『ヘイゼル』という名の街だ。
 北米有数の貿易港。産声を上げてから百年にも満たない、光と闇、秩序と混沌を内包した、巨大な街である。 

「さて、とっ」
 店仕舞いを済ませると事務所に戻り、身支度を始める。サッとシャワーを浴びた後、用意していた着替えに袖を通すと整髪料で髪を乱暴に撫でつけた。
 ハンガーからファー付きのフードがある白いダウンを手に取り、お気に入りのサングラスをかけて俺は閉めたばかりの事務所を出る。
 事務所の出口から見渡せる夜が迫る歓楽街は、次第に人々が集まり始めていた。通りの人通りは疎らで、しかしどこか騒がしい。
 週末ともなればいつもより人が通りに満ちるのも早い。今日はそのせいで街がざわついているのかもしれない。
 外に設けられた階段を下り、細い裏路地から大通りへと向かった。ゴミ箱と配管を避けながら薄汚い路地を進む。
 路地から抜けると、そこはもう歓楽街の大通りだ。路地を向ける間に人通りは更に増えていた。本格的に灯り始めたネオンの光も目に眩しい。
 通りにはポン引きや娼婦達がもう客を誘い始めていた。通行人も大分増えている。
「あらガウェイン、今日はもう上がり?」
 知り合いのホステスに声をかけられた。鮮やかな化粧と豪奢な衣装、強烈な香水でネオンにも負けない存在感をかもし出している。
 出勤中だったのか、ウェーブのかかったブロンドヘアーを揺らして近づいてくる。
「よぉ、メリッサ。 生憎と今、仕事が無くてね。 もっとまっとうな食いぶち探そうかと悩んでる」
「なら、あなた向きの仕事紹介してやってもいいわよ?」
「へぇ、そりゃなんだい?」
「ウチで飲んでくれたら紹介してあげる」
 そう言いながらすり寄ってきたメリッサが俺の胸板に指を這わせ、質量感満点のバストを押し付けてくる。蠱惑的なその誘惑は並の男ならイチコロだろう。
「まるで娼婦だな、こんな客引きは」
「前の仕事で身についた技を上手に活かしてるんじゃないの」
 上目づかいに顔を人の胸に埋めてくる。
「また火傷するぞ? この前ので懲りたんじゃなかったのかよ」
「あなた相手だったらまだ全然OKよ。 どう? このまま仕事なんて投げ出して、朝まで二人で……」
 蛇のようにスルリと腕が首に巻かれ、メリッサの顔が目の前に迫る。耳元で艶めかしくルージュのひかれた厚ぼったい唇が形を変え、生暖かい息を吹きかけた。
「火遊びは生憎、間に合っててね」
「まったく……、つれないわね」
 そう言うとメリッサは膨れながらパッと身を翻し、俺から数歩距離を置いた。
「今日も"ソフィア"に行くんでしょ? 大好きな歌姫に会いたいものね」
「それとは別の用事だよ、今日は」
「ただ飲みに行く為に用事なんて要る?」
「二軒目はしっかりここで飲むさ」
「ふふふっ、嬉しいわ。 ほんとは一軒目、いえ一番最後が嬉しいのだけど……」
 ほんの少しだけ、寂しそうに呟いてメリッサは髪を掻きあげる。
「じゃあ、また後で」
 最後に優しく微笑んでメリッサは俺と別れ、人混みの流れの中に入って行った。別れの挨拶をかける暇も無い。すぐさま人混みに紛れてしまう。
「さてと、あんまり道草も食っていられないな」
 そうして再び歩き出す。客引きをいなしつつ、俺は目的の場所までゆるゆると流していく。もうとっぷりと暮れた暗い空は街の明かりに照らされて黒々とした雲を照らしあげていた。

 この歓楽街は三本ある大通りから成っている。事務所があるノースストリートと、街の中央を貫き、もっとも栄えているセントラルストリート、セントラルストリートを挟むようにサウスストリートといった三本の通りをまとめた成立している歓楽街ダンウィッチ。
 三本の通りを中心にして、幾つもの飲食、性風俗、クラブ、カジノといった具合にサービス産業がひしめいていた。俺の事務所やアンダーグラウンドな店舗も含めればその数は数百は上るであろう国内有数の快楽と欲望のるつぼ。
 そこで働く人々もまた様々だ。バーテン、ダンサー、ホストにエンターティナー、なんでもござれの陽気な所だ。ちょっと地下に潜れば俺のような探偵から、娼婦、薬や銃のブローカーやらヒットマン、マフィアに犯罪者と危険で刺激的な世界も待っている。
 そんな街だからこそ俺はここに居を構えたのかもしれない。どこか向こう見ずで厭世的な、快楽に溺れた自堕落な空気、そんな雰囲気に。
 ノースストリートにある俺の事務所からサウスストリートにある目的地のバー、ソフィアまでは通りを一本挟んでいるため少しばかり歩く羽目になる。しかしそれがなんだか街を散歩しているような、見回りをしているような気分になってどこか心地良い。時たま変なことに巻き込まれたりするが、歩いていて友人や顔見知り達と言葉を交わすことでこの街に居場所を感じられる。そんな安心感が湧くのだ。だから俺はこの街を歩くことが苦にはならない。むしろ楽しい位だ。
 それに運が良ければ金儲けの話を見つける事が出来る。
 そうして歩くうちにセントラルストリートに差し掛かった。もっとも栄えている通りだけあって、週末の今日ともなるとその人通りはかなりのものだ。通勤時のビジネス街にも引けを取らない。
 空いた壁にギャングによって描かれたグラフティーと、貼り付けられた何枚もの風俗店のチラシ。その壁に寄りかかり娼婦達は冬の明けきらない寒空にも負けず妖艶な笑みを浮かべ、手招きしている。
 日はもうとっぷりと暮れ、看板を飾る電飾も店頭から聞こえるBGMも、路上で客を捕まえようと奮闘するポン引きも、先ほどまでとは比べ物にならないほど盛んで華やかなものになっていた。
 途中、魅力的な誘惑に何度か心を乱されたが今日は如何せん、外せない用事があるのだ。一杯ひっかけていきたい思いを我慢して飲み込み、先を急ぐ。
 
「ようオーラム、ガウェイン・オーラム!」
 不遜な声のした方へふり返ると、そこには白と青のカラーリング。車体にはナンバリングと白頭鷹をあしらったエンブレム。赤い回転灯と特殊車両無線のアンテナが目に付く。
「なんだ、オークロットか。 今日は一体何の用だ?」
 運転席から顔を覗かせたのは黒人の警官だった。首に肉が付き過ぎてどこから顎なのか分からないほど肥えている。
「なんだとはなんだ、乗らねぇな。 せっかく耳寄りな話を持ってきてやったのによぅ」 
 パトカーへと歩み寄り運転席の窓に肘をかけた。
「案外気が効くじゃねぇか、なんだよ耳寄りな話って?」
「まぁ立ち話もなんだ、乗れよ。 今日もソフィアに行くんだろ? 乗っけてくよ」
 助手席乗り込み、ドアを閉めたと同時にパトカーは動き出した。
 人通りの多い歓楽街では比例して交通量も多い。パトカーは信号と軽い渋滞に引っ掛かりなかなか進まない。
 車内には暖房がそこそこ効いてはいたが、それほど暖かくはなかった。しかしオークロットは汗ばんでいる。こいつが一体どうやって夏を乗り切っているかがいつも疑問だ。
「でなんだよ? その話って」
「まぁそんなに急くなよ。 ソフィアは逃げねぇぜ?」
「けど、うまい話は逃げる」
 オークロットはハンドルを片手に好物のドーナツを頬張っていた。シフトノブの傍にはドーナツの入った袋が置いてある。
 そこからチョコ生地で、更にチョコのコーティングされたドーナツを一個、拝借した。
「おいっ、俺のドーナツ勝手に食ってんじゃねぇ!」
「いいだろ、ドーナツの一つや二つ」
 激しい剣幕で迫るオークロットに構わず、チョコドーナツを更に頬ばった。
「てめぇ! ドーナツを甘く見るなよ! ドーナツを笑う者はドーナツに泣く、だっ!」
 食べカスと唾を汚く飛ばしながら捲くし立てるオークロットを尻目に、俺は拝借したドーナツをたいらげた。安いドーナツなのか、やたらに油っぽい。いったいどれだけ高カロリーなのか。
「こん畜生っ! ……まぁいい、だが必ずこの借りは返して貰うからなっ!!」
「そうドーナツ一個でキャンキャン喚くなよ。 今度八番街で人気ドーナツ、買ってきてやるから」
「ふざけんな! 俺が今喰う予定のドーナツはもう帰ってこねぇんだぞ!! 二度と、二度とだ!! これじゃあうまい話が逃げちまっても仕方がねぇ!」
「おいおい、まじかよ!? たかだかドーナツ一個でどんだけの大騒ぎだよ!」
「言ったろ? ドーナツを笑う者はドーナツに泣くだ。 ……まぁ、八番街の人気のドーナツが二袋一杯ならドーナツの代わりにはなるかもしれないが……」
 食べカスと脂分が付いた指をしゃぶりながらオークロットがその肥えた喉を揺らして言う。
「……くっそ、無駄に食い意地張りやがって……。 分かったよ、今度必ず買ってきてやるから」
 このデブ、食い物に関しては本当に面倒だ。俺の提案を聞いてオークロットは再び機嫌を取り直し、ドーナツの袋から今度はココナッツパウダーが塗してあるドーナツを取り出してご機嫌で頬ばった。
「しかし、なんでまた今日はここへ?」
「パトロール、巡回だ。 仕事だよ、仕事」
 車載のラジオからは軽妙なジャズナンバーが流れている。今の街の雰囲気にはピッタリだろう。小気味の良いドラムとトランペットやサックスのハイテンポな演奏が、窓から流れる街の景色にマッチングしていた。
 通りにいる娼婦達もパトカーだからといって、臆することなくこちらを誘っている。そういう点でこの街の警察機構が頼りないかが見て取れた。
 オークロットはラジオから流れるジャズにハンドルを握る指でリズムを取っている。その度、顎の下の贅肉が揺れた。
 交差点に差し掛かるとオークロットは荒っぽくハンドルを切る。強い横Gと一緒にパトカーのタイヤが微かに悲鳴を上げながら、急に右折した。唐突なハンドリングに後続車からクラクションを鳴らされた。
「うるせぇな! しょっ引くぞ、このボケっ!!」
「相変わらず荒っぽいなぁ……。 ちったぁ、ましな運転できねぇのか?」
「だったらタクシー乗りな」
 自分から乗れと言っていたはずだったが、またグズると面倒なのでそこは突っ込まずに伏せた。パトカーは何事もなかったかのように通りを流していく。
「しかし珍しい。 不良警官が真面目に勤務なんて。 こりゃ来週はハリケーンが来るか?」
「最近、この辺りで事件が多いんだよ。 お前だって知ってるだろ」
 オークロットは日頃、犯罪者から賄賂を貰って小遣い稼ぎに勤しむステレオタイプな汚職警官だが、たまには真面目に街の為に仕事に励む時がある。それが今回かは分からないが、とりあえず今日はある程度真面目に仕事に取り組んでいるようだ。
「あぁ、貧民街での揉め事だろ? 南米移民区の」
「そう、それだ。 最近、目に見えて治安が悪化してる。 今回の話もそれ絡みなんだが……」
 オークロットはドーナツを食べる手を休めるとドリンクホルダーに入れてあったコーラを引っ掴み、豪快に飲んだ。
 この歓楽街の数ブロック先には、南米系移民達の貧民街が存在した。メキシコの麻薬組織やコロンビアマフィア達のテリトリーで、犯罪の温床の一つとなっている。
「どうやら今回の治安悪化、薬絡みでよ」
「薬絡み? マニサレラか?」
「いや、ドン・ブロッティのところは関係ねぇって言い張ってる」
 コーラをホルダーに置いて、またドーナツを頬張った。ドーナツに付いたココナッツパウダーが行儀悪くポロポロと落ちる。
「粗悪で、安い薬を馬鹿みたいに捌いてるトンチキがいやがるんだが、こいつが中々厄介でよ。 縄張りもくそも無視して見境無しだ、出処もルートも元締めも、何一つ分かっちゃいない。 しかも、なかなか尻尾を出さねぇ」
「……ふぅん、訳の分からないバイヤーねぇ……」
 ドーナツを平らげると、また指を舐めるオークロット。気が付けばバー・ソフィアはもう目の前だった。
「それを調べてくれってか?」
「察しの通り。 ネタはブロッティのところで買って貰える」
 バーに近づくとパトカーはウィンカーを上げ速度を落とした。
「それでお前には?」
「俺の分は八番街のドーナツ二袋でいい。 ネタが上がればブロッティの方から小遣いが貰えるからな」
 ニヤニヤと笑いながらまたコーラを勢いよく飲むオークロット。いったいこいつの一日の摂取カロリーは何キロカロリーなのか。この街は警官がよく殉職する街だが、こいつはその前に身近な敵に殺されそうである。下っぱらに潜む悪魔に、いきなりポックリと。
 商談もそこそこに、パトカーはバー・ソフィアの前に停車した。車も人通りもセントラルと比べれば少ないがそれでもやはり賑やかだ。
「それは手廻しが早いことで……」
 助手席のドアを開け、俺は降り立つ。
 ネオンの電飾や派手な立て看板など無く、扉の隣に打ち付けられたシンプルな表札。質素な造りの扉を淡い電灯が照らしていた。
「それじゃあ、あのかわいい歌姫によろしくな、ガウェイン。 良い報告を期待してるぜ」
 手を振り、それに応えるとオークロットを最後まで見送らずに俺はバー・ソフィアの扉に手をかけた。
 重い木製の扉をゆっくり押し開ける。扉の隙間から流れ出る穏やかなピアノの音色。
 人が通れるまで扉を押し開くと、俺は店内へと足を踏み入れた。

   ◆

 扉をくぐればそこはシックな雰囲気のバーだった。こじんまりとした外観とは裏腹に店の中は予想以上に広く感じる。空間を生かした店内は実際に広い。
 半地下状の構造したこのバーは入って右手にカウンター席が十数席ほどあり、店の奥にはステージが設けてある。そこにはピアノやドラムといった楽器類、マイクスタンドやスピーカーなどの音響機材が小奇麗に配置されていた。残りのスペースにはテーブル席が設けてあり、それぞれの席の間隔も広く窮屈さを感じさせない。
 俺はサングラスを外し、カウンター席を目指す。
 染み一つ見当たらない純白の壁紙と落ち着いたオーク材の質感の二つが調和を成した内装。照明を絞っているが、しかしそこに暗さは感じられない。温かみのある暖色の照明が要所要所をうまく照らしていた。壁に掛けられた写真や絵画、配置された調度品を間接灯が淡く照らし、更に店内の上等な雰囲気を盛り上げている。
「ガウェインさん」「いらっしゃいませ」
 若いバーテンダーが二人、カウンター内で流れるような手つきで酒を作っていた。二人が俺に気付き、順に声と上品な笑みを投げかける。俺はそれに手を上げて応えた。
 アイロンがけがいき届いた清潔なシャツと上品な黒のベストとスラックス。中国系の彼等は二人とも同じような顔をしている。表情ではなく顔の造りそのものが、だ。
 正確に見比べると微細な所の違いが見えてくるが、一見すれば同じ人間が立っているようにも見える。まったく瓜二つの彼等は双子のバーテンダーだった。二人ともまだ若いが、腕は良い。
 今日の客入りはそこそこ良かったが、カウンター席に座る客は疎らだ。他の客は皆ステージ沿いのテーブル席へと集中している。そこで俺は空いていたカウンター席へと腰かけた。
 ステージに置いてあるピアノから流れるゆったりと落ち着いたメロディがバーを包んでいる。防音対策だろうか、外の喧騒とは隔絶された、心地良いピアノの音色だけが耳に届く静謐な空間だった。
 どこか刹那的で急流のような歓楽街の空気とは明らかに違う、清流のようなゆったりとした時間の流れ。ここは俺のお気に入りだ。
「ロベルトは?」
「奥のスタッフルームで」「仮眠しています」
「仮眠? サボりだろ?」
 笑顔で俺の質問を流しながらバーテンダーはてきぱきと仕事をこなしていく。俺の前に置かれるおしぼりとナッツの盛られた小皿、そして栓の空けられたばかりのよく冷えたバドワイザー。
 それを目の前にしてつい生唾を飲んでしまう。
「なんなら、マスターを」「起こしてきましょうか?」
「いいさ、あんな物臭はサボるだけサボらせておけば」
 バーテンダーの言葉を聞き流し、お構いなしにビールに飛びつく俺を尻目に、出来上がった酒をウェイトレスに任せ、フキンで手を拭うバーテンダー。一人が店の奥にあるスタッフルームへと向かおうと扉へと近づいていく。
「だぁれがサボってるって」
 バーテンダーがノブに手をかけようとした時、その扉の向こうから横柄な声が上がる。ノブがバーテンダー避けるようにして引き下がった。そしてその扉の奥から灰皿を片手に、くわえ煙草をした男が一人。
「よう、ロブ。 相変わらずのむくれっ面だな」
「うるせぇ、俺は寝起きが悪いんだよ。 ――おい、俺にもこいつと同じのを」 
「ほれ、やっぱりサボりじゃないか」
 カウンター内の端、バーテンダー達の仕事に差し障りの無いような、それでいて店内が一望できる場所に椅子が一つ置いてあり、そこに紫煙を漂わせた男が、ロベルトが腰掛ける。
 赤みがかった肩まで伸びる髪を一本に結って纏めたオールバック。不精髭の目立つほりの深い顔立ちをしかめている。鼻筋には横一文字に刻まれた深く長い傷痕、それに左のコメカミと頬にも一本ずつ傷跡が走っていた。そして切れ長な両眼から放たれる、蒼く鋭い眼光。
 なんとも剣呑な空気を纏った男だった。服装はバーテンダーの二人とほぼ同じベスト姿だったが着崩していてだらしない。
 そんな外見のお陰もあってか、とてもバーのマスターをしてると言われても悪い冗談にしか聞こえなかった。
「今日もチャージとビールだけでくだを巻く最悪の客のお出ましってか」
「んまっ、常連になんて口きくんでしょ、ここの店主は」
「だったら高い酒の一本でも頼んでみたらどうだ、守銭奴」
 瓶片手に叩いた軽口にも、不機嫌ながらにザックリと切り返すロベルト。
「仕方ないだろ、ここんとこ仕事の話がめっきり無いんだ。 金が入ったらしっかり使ってやるからさ」
「そん時はケツの毛一本までひんむしってやる」
 バーテンダーの一人がロベルトの前に、俺と同じビールを置いた。
 それを荒っぽく取るロベルトの手にも傷痕が目立つ。拳の皮はすり切れいて、ケロイド状に引き攣り、まくった袖から覗く引き締まった筋肉質な腕には銃創、裂創と大小数え切れないほどの古い傷痕が張り付いていた。
 ロベルトはビールを一気に半分ほど流し込む。喉を鳴らして飲む姿は見ているこちらも気持ち良くなる様な飲みっぷりだった。
 そこで彼がふと気付く。
「あぁ、乾杯がまだだったか」
「何をそんなに祝うことがあるんだよ」
「何か祝うことがなきゃ乾杯できないのかよ? 別にいいだろ、乾杯するのはタダだ」
 まぁそうだな、と苦笑で答えながら俺は瓶を顔の位置まで挙げた。ロベルトもそれに倣う。
「今日という日に」
「あぁ、今日という日に」
 二人で瓶を掲げた。心底愉快そうに、心底つまらなそうに。そうして残っていたビールを一息で飲み干した。
 ロベルトは酒を飲めば誰彼構わず必ず乾杯をする。外見からしても、実際に付き合ってみてもそこまで陽気な男には思えない。それに自分から言い出したくせに、不承不承乾杯する。これは彼の奇妙な個癖だった。
 瓶が空になったのを見計らってバーテンダーが、俺にもう一瓶ビールを渡す。
「ロブ」
 なんだ、と答えながらロベルトは漂い上る紫煙をぼんやりと眺めている。俺は新しく出されたビールに口をつけ、ここに来る前の出来事を思い返していた。
「最近さ……、見かけない、知らない顔とかこの辺のスラムで見てないか?」
「見かけない顔? ……例えば、流れ者とか新参者とか」
 眉をひそませながらロベルトは短くなった煙草の火種を新しい煙草に直接移すと、一度深く吸ってゆっくりと紫煙を吐きだした。
 俺もズボンのポケットからソフトケースの煙草を取り出そうとして、はたと気付いた。
「おぅ、そんな感じそんな感じ。 なんでもそこで最近誰かが薬ばら撒いてるらしいんだけどよ。 あと煙草くれねぇか? 切らしちまった」
「ほれ、ラッキーストライクでいいか?」
「吸えれば何でもいいさ」
 ロベルトは煙草を一本取り出し、指で弾いてカウンターの向こうから投げ渡す。
 俺はさっき道中聞いたばかりの話を思い出しながら愛用のオイルライターを取り出し、貰った煙草に火をつける。ゆっくりと吸い込み、紫煙を肺へと導く。
 独特の風味と緩やかな充足感が気だるさと共にやってきた。
「その話、そこそこ耳に入ってきてるぜ。 マニサレラ・カルテルのシマでだろ」
「そのシマを荒らしてる馬鹿の情報をカルテルの連中欲しがってるのさ」
「連中の自作自演じゃねぇのか?」
 つまらなそうに答えるロベルトの手には、いつ出してきたのかバーボンと氷の入ったグラスが握られていた。そうしてバーボンをグラスへと並々注ぎ、ロックで煽る。口の広いグラスをまるでショットグラスの様に使い、豪快にバーボンを流し込んでいた。
「俺もそう考えたが、まぁ今の状態じゃ何とも言えないな……。 けど、頭目のブロッティは奴さん炙り出すのに躍起らしい。 俺のところにもその件でちょっと話が来たんだ。 俺達や情報屋の情報網まで使い始めて、ありゃ案外本気かもな」
「だとしたらブロッティがよっぽどの演出好きの演技派なのか、はたまた単なる内輪揉めか、まだまだ他にも考えられるな。 ……あー、憶測上げたら限がねぇ」
 情報も真っ当に出そろっていない今、真相を形作る情報の断片はまだまだ特定できないほど無数でどれも曖昧だ。儲け話になるにはもう少し、信憑性のある断片をかき集める必要がある。
「だな。 そしてそれをどれかを特定するのが俺の小遣い稼ぎに繋がるんだよ」
「ついでに、この街の安定にも繋がる――、か?」
「そういうこと。 じゃ、なにか分かった事あったら教えてくれ」
「――で、その報酬は?」
 やはり来た。ギブアンドテイク、この街に限らず世界の常識だ。好き好んで奉仕に励む輩はこのご時世少ない。
 俺は神妙な顔つきで背筋を伸ばし、ロベルトに向き直ると、
「――溜めてたツケをキチンと清算します」
 恭しく深々と頭を下げた。
「……ガイ」
「あん?」
「俺はなぁ……、例え何かあったとしても、お前にだけは教えてやらんぞ」
 それを聞いてついつい頬が緩んだ。クツクツという笑いに合わせて口から吸ったばかりの紫煙が漏れる。ロベルトは口をへの字に結びながら煙草を吹かすばかりだ。
 何だかんだ言ってもロベルトには義理堅い所がある。この場合ああは言っているが、実際に何かを掴んだら俺にそれを提供してくれるだろう。餅は餅屋。信用できる情報は信用できる者が扱ってこそ、価値が付く。そこのところをロベルトは知っていたし、しっかりと押さえていた。
 それは単純なこの街の生存方法の一つ。下手に他人の畑に足を踏み入れても良い事なんて滅多にない。
 ただ、このままツケを溜めに溜めていたらロベルトがどう動くかは分からないが……。
「まぁ、何かあったらでいいさ」
 そう付け加えて、俺はほくそ笑みながらビールを煽った。気付けば、本日二本目の瓶は空になりつつあった。
「それとこっから本題、お前宛に伝言だ。 それに目を通しておけ、だとさ」
「そうそうそれそれ、これが目当てで来たんだ」
 ロベルトがぶっきらぼうにそう言って、顎でしゃくってバーテンダー達に合図を出した。
 バーテンダーの一人は空になったばかりのビール瓶をさっと片付け、また新しいものを出す。それを俺に渡す際に、バーテンダーの手の中に握り込まれたメモ用紙をさり気無く渡された。
「お、すなまいな。 またごちそうになるよ」
 自然体でそれを受取る。このメモ用紙こそが、今回バー・ソフィアを訪ねた目的だった。
 呼び出しがあったのは今日の昼過ぎ。日がな一日をケーブルテレビと睨めっこで終わらせようかという時に、ロベルトから連絡があったのだ。
 折りたたまれたメモ用紙を開くと、一言だけ簡素に綴ってある。
(風と共に去りぬ)
 ちらりと見て内容を暗記する。覚えた後はそれをクシャクシャに丸め、灰皿の上でライターを使って火をつけた。
 黒煙を発しながらみる間に火に包まれる丸めたメモ用紙。焼き崩れるには三十秒もかからなかった。
「これもやっぱり売人の件絡みかね」
「知らん、直接訊いてくれ。 それとそのビール、ちゃんと払えよ」
 そう冷たく言い捨ててバーボンの入ったボトルを傾けて、グラスを満たしていく。それをグイと勢いよく飲み干すロベルト。かなりの量を飲んでいる筈だったがまったく酔った様子が無い。相変わらずのウワバミっぷりに苦笑を浮かべた。
「うぅ、ケチッ。 ……しかし、なぁ〜んか今回のはキナ臭いんだよなぁ」
「こっちとしては早めに解決してくれることを祈るね。 店の邪魔をされたんじゃ堪ったもんじゃない。 いつだって平和が一番だ」
「俺だって金づるになるからって街が荒れるのを願うほど、この街をぞんざいに思っちゃないさ。 第二の故郷みたいなもんだからな、ここは」
「同感だ」
 金が欲しいのは確かにあるがそれ以上に、俺達はこの街を愛している。こんな俺達を受け入れるこの街を。
 俺もロベルトに倣いビールを煽った。ペースが速い所為か、程よくアルコールが巡って来て心地良い。まだまだ余裕ではあったがしかし、調子付いてあまり飲めたものでもなかった。何せ今手持ちが少ない。これ以上ツケを貯めれば本当に出入り禁止にされかねないだろう。こんな居心地の良い場所をそんな事で失うのは忍びない。
 しばらく、世間話を織り交ぜながらちびりちびりと残り少なくなった酒を飲む。耳に心地のいいピアノの旋律と穏やかな空気に身を任せ、煙草と酒、ロベルトとのくだらない話を楽しむ。
「さて、そろそろウチの歌姫のご登場だ。 もちろん聴いてくんだろ?」
 ロベルトが腕時計をちらりと見て言った。
 このバーには専属の歌手がいる。美しい容姿と澄んだ歌声に定評があり、それがここの目玉となっていた。当然、彼女目当ての客も多い。
「まぁ、ここにきてわざわざ聴かないのも失礼だからな……」
「――素直じゃねぇな、お前も」
 皮肉っぽく歯茎を見せて笑うロベルト。
 そうこうしているうちに店内の照明が絞られ、ピアノの独奏が止む。するとステージに照明が灯され、その奥から黒いドレス姿の彼女が客達の控え目な拍手と共に現れた。
 バー・ソフィアの歌姫、ディアナ・メルクィンだ。
 薄暗い店内でも映える彼女の白磁の様に透き通った肌は漆黒のドレスで更に引き立てられている。纏め上げられたプラチナブロンドの髪はステージの照明に照らされ、まるで輝く光の束のようだった。
 俺達はその姿に見惚れていた。マイクスタンドの前に立つディアナは彫刻の様に整ったその顔を伏せ、目を閉じていた。そうして数秒の沈黙が流れた後、ピアノが小さくゆっくりと音を紡ぎ始める。 単調であった音は、次第にその数を増やし、厚みを増して物悲しいメロディーを作り出していく。
 そうして前奏が終わる頃、彼女がその瞼を開き、ゆっくりと顔を上げ、憂いに満ちた銀色の瞳を俺達ギャラリーに向けた。
 薄いルージュのひかれた小さな唇が開き、ゆっくりと大気を吸い込む。
 集まった聴衆の期待に応えるように、彼女のステージが静かに始まった。


   ◆◆◆


 ダンウィッチのサウスストリートの外れにそこはあった。迷宮のような路地裏の奥底にひっそりと佇んでいる、寂びれに寂びれ、忘れ去られた小さな建物。
 長年風雨に晒され汚れきった外見からは想像もできないが、手入れの行き届いた看板だけがここが映画館であることを主張していた。年代物の外装と同じく内装も相当に古臭い。
 人目に付かないこの映画館には当然、日頃から客もまったくと言っていいほど入っていなかった。しかし例外も時にはある。
 その夜は映画館の前にセダンが数台停まっていた。黒塗りの車両、それらのボンネットには鈍く輝くエンブレム。それは車種がいかに高価であるかを伝えるのに一役買っている。それだけならまだ上流階級の者が所有していそうなものだが、如何せん窓にはスモークフィルムが張られており、それが豪奢な高級感をほぼ全て威圧感に変換させていた。
 映画館の扉の前、黒塗りの車と合わせたように黒々としたブランド物のスーツを纏った屈強そうな男が立っている。彼らは一様に視線をサングラスで隠していた。おまけに皆、左の胸元だけが微かに膨らんでいる。
 そんな危なげな映画館に近付く人影が一つ、大通りへと繋がる路地の闇から現れた。乱雑に撫でつけたブロンドのオールバックと鏡面状のレンズがはまったスポーティーなサングラス。ファーの付いたフードのある白いダウンを着た、不遜な笑みを浮かべる男が大股で歩いて来る。
「よぅ、お疲れさん」
 黒スーツの男に声をかけ、足取り軽くスロープをひょこひょこと上がってくる。そしてそのまま映画館の扉に手をかけた。
 一方の黒スーツの男は気にかける様子も無い。視線を男に移したのは一瞬だった。男の存在を確認するようちらりと流し見ると、視線を戻しまるで目の前の男が居ないかのように振舞う。後はもう監視カメラの様に周囲を眺めるばかりだった。
「……つれないねぇ」
 白いダウンの男は肩を竦ませ扉を押し開くと、館内へ入っていく。
 薄暗く小さなロビー。掃除は行き届いてはいるがそれでも年代物の館内の痛み具合は重ねてきた時間を顕わにしていた。だが、実際の築年数と見た目を比較すれば相当にマシな方だと言える。
 古い館内は暖房が利いていないのか、それ以前に暖房が入っていないのか、どちらにしろ寒い。外気と大して変わらない温度だった。
 これまた年代物の石油ストーブと詰め物のくたびれたソファーが数える程度置いてあるロビー。その直ぐ傍に、小さな発券窓口がある。男はその前に立ち、窓口に紙幣を差し出す。
 すると皺だらけの骨のような腕がにゅっと伸びてきて、差し出した紙幣を頼りなく震えながら取っていった。しばらく待つと窓口から入場券とお釣りが出てきた。
 それを無言で受け取って、男は奥にあるスクリーンへと向かった。
 古く重々しい扉が正面にあり、その脇にこの古びた映画館の一部に溶け込むように、まるで置物の様なもぎりの老婆が椅子に座っていた。
 即身仏と見紛うような老婆に今買ったばかりの入場券を笑顔と一緒に差し出すと、笑顔は無視してむんずと入場券を掴んで半券をむしり取る。
 それでまた残った半券を男に渡すと、また置物の様に映画館に溶け込んでしまう老婆。
 礼を言っても老婆はまるで無反応で、男はまた肩を竦めて歩みを進めた。
 両開きの建て付けの悪い扉を押し開け、劇場内に入っていく。
 そこではカラカラと回る年代物の映写機から放たれる光が、黄ばんだスクリーンに色褪せた像を結んでいた。長年酷使されたスピーカーから流れる音響はどこか物悲しい。 ここはロビーと違い、暖房が行き届いて暖かった。そして、微かに埃っぽく据え臭い、独特の空気。
 上映されていた作品は『風と共に去りぬ』、戦前の名作と呼ばれるものの一つだった。
 劇場内を見渡すとくたびれた座席の列、ちょうど劇場の中央に人影が一つ。男はその人影目指し近づいていく。
 スクリーンを見詰める人影のすぐ脇へ歩み寄ると、かけていたサングラスをはずした。エメラルドの様に透き通った碧眼が露わになる。
 人影は初老の男だった。隣に佇む男をまったく意に介さず、くたびれた座席に身を任せスクリーンに意識を集中していた。
 丁寧に撫でつけ整えられた頭髪は黒々としており、生気に満ちた表情から実年齢よりも若い印象を受ける。そしてどこか紳士然とした佇まい。
 身に付けた装飾品はどれも高価で高名なブランドばかりで、柔らかな光沢のあるダークレッドのスーツには皺一つ見当たらない。この古惚けた映画館には似ても似つかない身なりだった。
 しかし、その男とこの保存された過去の空間は、なぜか妙に調和がとれていて違和感が無い。唯一浮いているのは白いガウンを着た男だけだった。
 依然、スクリーンには古びた映像が映され続けている。初老の男の意識もスクリーンに向けられたままだった。
 男は頭を垂れ、初老の男へ挨拶をしようとした。しかし、それを初老の男がスクリーンから目を離さず、それを静か遮った。
「また入場料を払ったのか、ガウェイン。 払わなくてもいいと、毎回言っているだろう」
「爺さん婆さん相手にタダ見というのも後味が悪いですからね。 それに、この程度を踏み倒すほど、まだ貧しくないので」
 いつもより随分と丁寧な言葉でガウェインが初老の男の話に応えた。

   ◆

 カラカラと唸る映写機は淀みなくストーリーを古びたスクリーンに紡ぎ続けている。
「確かに払うも払わないもお前の勝手だが。 あの夫婦には心付けしてある。 何よりそんな事にこだわる夫婦ではない」
 まぁ、そうでしょうね、と俺は相槌を打った。深く座席に腰掛け直し、肘掛けに肘を乗せ、頬杖をつく。
「"風と共に去りぬ"ですか……」
「あぁ、とても良い作品だ。 何度観ても、良い」
 初老の男はそれを愛しむように呟いた。その間もスクリーンを見つめて続ける。そこには二人の男女が抱擁する場面が映し出されていた。俺は視線をスクリーンから離さず答える。
「よくもまぁ、こんな代物が残っているものです。 普通だったら博物館に置かれていてもおかしくない」
 この手の古い年代の映画フィルムはその殆んどを大戦で失ってしまっていた。そのためこのような映画館は存在自体が奇跡と言える。それが保護される事無く、営業までしていた。
 それはこの男の影響力の所為でもある。
「あの夫婦の情熱と努力の賜物だ。 ここを残す為なら、私も協力を惜しまない」
「良い、考えだと思いますよ。 俺は」
「何、結局は金持ちの道楽さ。 笑ってくれても構わない」
「勘弁して下さい、冗談でしょう? ヘイゼルの顔役を一笑出来るほど、俺は肝の据わった男ではありませんからね」
 それを聞いてにこやかに微笑むこの初老の男は名をアーノルド・メルクィンといった。影の市長とも言われ、この街の急成長を支えた功労者の一人である。
 穏やかな笑みとは対照的に冷たい視線が一瞬、俺に対して向けられた。
「――だが、必要とあれば私にだって銃口を向けるだろう? お前なら」
 静かで穏やかな口調とは裏腹に微かに混じる冷やかな言葉。
「それこそ悪い冗談ですね」
 険を帯びたメルクィンの言葉。目は笑ってはいない。俺はサングラスに付いた埃を息で吹き飛ばしながら、それを適当にあしらった。
「なんだ冷たいな、少しは冗談を汲み取ってはくれんかね。 ……しかし、こうも年を取ると若者をからかうのが楽しくなってくるな。 反応を見るのが良いんだ。 慌てふためいて、恐慌に陥るのは特に見ていて楽しい。 が、これでは厭味ったらしいそこいらの呆けた爺さんと変わらんな」
 メルクィンは一転、子供のように拗ねたかと思うと、再びにこやかな笑みを浮かべて再びスクリーンに視線を移した。
「呆けた爺さんだなんて、よして下さいよ、メルクィンさん。 あなたはまだまだ現役だ」
 この街を陰から牛耳るような男の機嫌を損ねぬよう、慌てながら苦笑で返す俺の姿を見て、やっと満足したのか肩を震わせながらメルクィンは答える。
「フフッ、その通り。 私は、私の目に適う跡目を見つけるまではまだまだ退けない。 が、これがまた、こいつだ!、という男が居ないのでな。 それに恐らく相手が良くても娘が納得しないだろう」
 満足げに笑みながら足を組み、幾分か深く腰を据え直すメルクィン。
「なら、この街は向こう半世紀は大丈夫ですね」
「むっ、お前も言うようになったな」
 こうして鍛えられてますから、と小声で付け加えてから俺はさらに続けた。
「それと、からかうならご息女かディアナを。 俺がそれに上手く返そうとしてもきっと芝居がかってしまいますから」
「しかし、あの二人をからかうのもなかなか勇気が要る。 下手にからかえば後から何倍にもなって返ってくるんだ。 特にディアナは容赦が無い、私相手でも本当に手厳しい。 ……お前もあれを怒らせないようにな」
「……努力します」
 渋面を浮かべながら肩を落とし、力無く笑う俺を見て、メルクィンは今度は大きく声をあげて笑った。
 大分機嫌が良くなったのか、懐から使い込まれたシルバーのシガーケースを取り出し、そこから葉巻を一本取り出した。シガーカッターで吸い口になる部分を切り落とす。
 火を付ける前の葉巻の香りを確かめてから、メルクィンはそれを咥えた。
「流石のお前もあれには苦労しているか」
 俺は今回の為に持参したマッチを取り出すと、擦って火を起こす。そして、それでメルクィンの細巻きに火を灯した。
 メルクィンは小刻みに吸い火種を作る。俺がいつも使っているオイルライターを使わないのはそれが葉巻の風味を損なうからだ。
 甘い香料の香りが立ち込め、立ち上がる紫煙が映写機から放たれる光に照らされ、白くはっきりと尾を引いていく。
「いえ、そんな事……。 彼女はこんな俺に良くしてくれて」
 マッチを仕舞いながら、照れくさくなって俺は頬を掻いた。
「――ただ、確かにキツイ所もありますね」
 少しばかり苦い思い出が蘇る。表情に出てしまったのか俺を顔を見たメルクィンは厭らしく微笑んで告げた。
「分かった。 今の台詞、しっかりとディアナに伝えておいてやるから安心しろ」
「勘弁して下さいよ!」
 狼狽する俺を尻目に、メルクィンは腹を抱えながら心底愉快そうに、一段と声を張り上げゲラゲラと笑った。
 涙まで浮かべ笑うメルクィンを見て、俺は表情を和ませる。
 カラカラと唸り働き続ける映写機。時たま飛ぶスピーカーからの音響。それらが滞る事無く淡々と物語を紡いでいた。
 それからしばらくは、映画に集中するメルクィン。俺も黙ってそれに付き合うことにした。
 昨晩からの疲れがどっと噴き出した。睡魔が俺のまぶたの上でのた打ち回っているが、そこは何とか堪える。
 正直、何度もこうして付き合って見たこの作品には飽きていた。この映画館にはポップコーンもホットドックも無い。確かに良い作品ではあるのだが、退屈な時間へと変わっていた。
 映画が佳境を終えた時、メルクィンは要件を切り出した。穏やかだった彼の表情は一転し、冷たく真剣なものとなる。
 俺もそれに合わせて、もうすっかりまぶたの半分を占拠していた睡魔を気合いで一気に撃退し、頭を切り替えた。
 ここに来てから、もう三本目になる細巻きから紫煙を深く口に含み、溜息を吐くように吐きだしてから、メルクィンは話し始めた。
「で、今日呼び出したのは他でもない。 お前に仕事を依頼したい」
 それを聞いて俺も浮かべていた笑みを消し、しばらく間を置いた。
「……それはどの"立場"の俺に対しての依頼ですか?」 
「探偵として、だ」
 顔を伏せ、その言葉をゆっくり咀嚼するように反芻してから、再び顔を上げる。
「――伺いましょう。 ですが、その前に一つ」
 予想外の返答だったのか片眉を吊り上げるメルクィンに構わず、俺は続けた。
「その仕事、最近スパニッシュ・スラムで起きている一連の事件に関係することですか?」
 俺の懸念をあらかじめ予想していたかのように、メルクィンは即座に否定した。しかし、この時期に来る依頼だ。だれもが今一番、話題になっている事件だと想像するだろう。
「いや、それとは違う。 私はあれをカルテルだけの問題と捉えている。 シマを荒らされたんだ、おそらく連中も自分達で処理するだろう。 そうでもせんと面子が立たんからな。 まぁ、収拾がつかずにその余波が"我々"に及ぶ時は別だが」
「"協定"に触れない限りは"俺達"の出番ではないと?」
「いや、私としてはお前達の運用は最終手段として考えている。 他所がお前達をどう思っているかは知らんが、協定に触れても、まず最悪の事態にならない限り、今回もお前達が動くことはないだろう」
「――わかりました。 では、話を戻しましょう」
 うむ、と頷きメルクィンは再び用件を切り出す。
「今回の市長選、誰が勝つと思う?」
 突拍子もない質問に不意を突かれ、真意を把握しかねながらも俺は思ったことを正直述べた。
「市長選ですか? ――んー、現職のダレス候補ですかね……」
 麻薬売人の事件で霞みがちになっていたが、この街は市長選挙を丁度一か月後に控えていた。昼の街に出れば壁には様々な選挙ポスター、各候補が街頭演説を繰り広げ、更にそれらを支持する代議士達、後援会が街中を宣伝カーで練り歩いていた。
 そういえば昼間ダラダラと見ていたテレビでもコマーシャルが流れているのを思い出した。一部の人間にすれば一大イベントなのだろう。とくに市政への文句の無い俺には、そういった点に無頓着だった。
「まぁ、妥当な判断ではあるな。 確かに対抗馬がどれも力不足で、今の奴を抑える奴はいないだろう」
「どうしてそんな事を、俺に?」
 率直な意見を口にする。それに、小さく燻ぶる細巻きの火種を眺めながらメルクィンは答える。
「まぁ、そう焦らず聞け。 もし、もしだ、今回の市長選で奴が他の候補に負けるとしよう」
 メルクィンはまるで生徒に対して教鞭をとる教師の様に続ける。
「そうした時にこの街がそう変わるとは思えんが、こちらはそれ相応に対応を迫られる事になるだろう。 ダレスは我々に少なくとも協力的だった、話の分かる男だ。 だが他の候補がそうであるとは限らない」
「特定の者と手を組む可能性――、ですか?」
 政治家は後ろ盾がいなければ一人では何もできない生き物だと俺は捉えていた。不特定多数の支持、支援があってこそ、彼等は初めて力を発揮するのだ。他に依存しきった、独立独歩も出来ない情けなさ。その癖、発言力と権力があるから手に負えない。
 政治家を支持、支援する不特定多数の中には当然、メルクィンのような強力な有力者も含まれていた。しかし、もしも現市長が破れ、新任の者がその座に就いた時、果たしてメルクィンに対して協力的であるかどうかは分からない。
「そう。 まぁ、まず無かろうが、他にも利権目当てに我々の排除を目論む奴がいるやもしれん」
 メルクィンの懸念はそれだった。彼は組織の存続の為に動いていた。彼は自分よりも組織の生存を優先する、メルクィンという男はそう言う男だ。おそらく今回も組織の為に動いている。
 組織の頂点に立つ人間にしてはいまいち、メルクィンは私欲に欠けていた。利己的な人物が多いこの業界では珍しい傾向と言える。しかし、それが彼の魅力の一つでもある。
 まぁ、組織を守ることが自分を守ることに繋がる事をよく知っているからこその行動かもしれないが。
「そういった可能性を含め、今回の出馬した候補達の思惑を調査しろと?」
「そう、それと誰と何が繋がっているかを調べろ。 大筋は当然把握しているが、水面下で起こっている事まで私は把握しきれんし、今回は初出馬の者が多い」
 組織の上に立つ人間の限界か。高い場所からの眺めは広くを見渡せるが、その細部、末端までには目が届かないのだ。だから俺のような小間使いが必要になる。
「候補全員、ですか……。 となると少々、骨ですね」
 微かに渋面を浮かべる。現段階で出馬を表明しているのは、記憶しているだけでも七名近く。政治家のパイプ、そしてそこにある思惑を調べるのは個人では中々面倒だ。場合によっては巧妙に隠蔽されているしだろうし、誰も自分の暗部を覗かれること好まない。それ相応のリスクも覚悟しなければならなかった。
 しかも、それをいっぺんに七人も調べなければならないのだから、これは大仕事と言えた。普通だったら気後れするだろう。
「報酬も相応なものを用意しよう。 どうだやってくれるな?」
「まぁ、断る理由がありません。 それに断れる立場でもありませんしね」
 皮肉っぽく笑って、メルクィンからの依頼をすぐさま承諾した。彼には返しても返しても返しきれない恩がある。彼の頼みには誠実をもって応えなくてはならない。
「そうか、やってくれるか」
 安堵の表情を浮かべて座席に深く身を預けるメルクィン。
「えぇ、勿論。 ……それと、危険と判断された候補が居た場合、"処理"はこちらで?」
「いや、お前は調査するだけでいい。 それはこちらの領分だ。 お前が手を煩わせる必要はない。 存分に調査にだけ集中してくれ」
 どうやら今回は荒事を起こさなくて済みそうだった。まぁ、調査の過程で多少は起こすとは思うが。
 リスクは少ない方が良い。
「分かりました。 依頼はこれだけですか?」
「あぁ、早速取りかかってくれ 報酬については追って連絡する。 まず当面の調査費用として、いつもの口座にある程度振り込んでおこう」
 それを聞いて頷き、俺は立ち上がった。それを見上げるメルクィン。
「最後まで、観ていかないのか?」
「いえ、何度も見た作品ですし。 もうほとんど終わりですしね」
 俺はそう言ってスクリーンに背を向け、狭い座席の間をゆっくりとすり抜けていく。
「そうか……。 そういえばディアナから聞いたが、また厄介事を起こしたんだって? なんでも昨日の晩、ソフィアを半壊させたそうじゃないか」
 最後にメルクィンが面白そうに聞いてきた。彼の眼は少年の様に興味しんしんと言った様子だった。俺は立ち止まり、首だけを彼に向ける。
「それ、だいぶ誇張されてますね。 起こしたんじゃなくて、巻き込まれたんです。 それに半壊って……。 壊したのは俺じゃありませんよ、暴漢にシルヴィアです。 でもまぁ、修理にはしばらく掛かりそうですが」
 ふうむ、と納得したのか、拍子抜けしたのか、またスクリーンに向き直るメルクィン。俺もまた歩き出す。
 スクリーンの中の物語はもう終わりかけていた。

『明日は明日の風が吹く』
 
 初めてここに来てから、もう何度目になるか分からない台詞を背に受け、俺は劇場を後にした。
 まるでそれは俺への励ましのようにも聞こえていた。

 映画館の外、寒空の下にはご苦労なことに相変わらず屈強な男達がつっ立っている。空には雲一つないが、星灯りは街の明かりにかき消されいた。
 スロープを下った俺を、路地から吹き込んだ寒風が撫でていく。思わず身震いすると、俺は小さく溜息をついた。
 いつだって厄介事は群れをなしてやってくる。言いつけられたばかりの仕事を思い起こし、その内容を反芻する。それは確かに割は良いかも知れないがかなりの重労働だ。
 スラムの麻薬売人に市長選の調査。問題は山積みだ。おまけに家に帰れば今一番の頭痛の種が、おそらく部屋の隅で小さくなって待っている。
「……さて、どれから片付けようかね」
 俺はもう一度、夜空に向かって大きく溜息を吐いて、歩き出した。


   ◆◆◆


 メルクィンとの会合を終え、自宅を兼ねている事務所へと帰宅する俺を待つものがいた。二階の事務所へと繋がる階段を上っていくと扉の前に見覚えのある姿が見える。
 両耳の垂れたドーベルマンが気だるそうな視線をこちらにちらりと向けた。
「よぅ、ヴィル。 めずらしいな、久々姿を見せたと思えば、律儀に帰りを待っててくれたのか?」
 階段を昇る俺に何の興味も無いのか、ふいと視線を外しは扉の前に座り続けていた。
「ん、入んないのか? ……あぁ、やっぱり、あのお嬢ちゃんとソリが合わなかったか。 それとも、……もしかしてお姫様を守るナイト気取り?」
 冷やかしになんの反応も見せぬまま座り続けるヴィル。俺は飼い犬に冷たくあしらわれながら、ポケットから鍵を取り出、扉の錠を解いて事務所の中へと入った。
 扉を閉めればそこは自分の手も見えないほど暗い室内。慣れた手つきで照明のスイッチを探り出しすと、パチンとスイッチを押し照明を付けた。
 ガタのきている、焦げ跡と錆だらけの古いスチームヒーターが温める、いまいち暖房の効いていない室内。ハンガーにダウンジャケットを投げかけ、腰のホルスターを外して同じようにハンガーへと掛けた。
 冷蔵庫から良く冷えた缶ビールを2本ほど取り出し、足でそれを閉じる。
 ビールを持って中古の少し埃臭いロングソファーに崩れ落ちるように腰かけると、せきを切ったように一日の疲れがやってきた。
「――だぁっ」
 一息ついて壁掛けの時計に目を遣れば、午前二時を少し過ぎていた。疲労からずるずるとソファーに沈み込む。
 昼夜、スラムの麻薬売人についての情報を探して街を走り回り、深夜、メルクィンとの会合を終えてみればもうそんな時間だった。今までの生活リズムと比較すれば大忙しもいいところだ。一日の内、仕事九割なんて何ヶ月ぶりだろうか。
 缶ビールを開ける前にとりあえず、カーゴパンツのポケットからお気に入りのアメリカン・スピリットを取り出す。が、ケースはやたらに軽く、感触も心許無い。中身をのぞいてみれば、もう三本しか残っていない。
 舌打ちしながらその内の一本を咥え、ケースを応接用のディスクへと放り投げた。今のは、今朝カートンから取り出した最後の一箱だった。買い置きも無い今、今日はこの残りで我慢しなければならない。
 貴重な一本に火を付けようとライターを出したが、そこでふとある事を思い出した。火を灯す事無く、ライターをポケットに捩じ込むとソファーから腰を上げる。
 足音を発てないように寝室へと静かに歩み寄っていく。
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりと捻り扉を押し開けてその隙間から中を覗いた。
 寝室の中は灯りが付いておらず、扉の隙間から寝室の奥まで延びた一筋の光が、薄ぼんやりと部屋の闇を中和していた。
 隙間から覗く正面に、シングルベットの上で少女が一人。猫の様に背を丸めて寝ているのが見えた。
 俺は気配を殺し、そろそろと寝室へと入り、ベットへと歩みよっていく。
 スウスウと規則正しい寝息を発てる姿を見下ろす。栗色のボブに大人しそうな顔立ち。静かに眠るその寝顔はけして穏やかなものではなく、悲哀と疲労で微かに歪んでいるように見えた。
 自己主張が控えめなベージュのカーディガンにタイトなスキニージーンズ、ハイカットスニーカーを履いたまま、ブラウンのPコートを被ってベットの上で丸まっていた。年はざっと十代後半といったところか。
 シミ一つ見当たらない張りのある頬に、涙の跡が一筋残っているのを見つけた。
 儚げで、触れれば崩れてしまいそうな印象の少女。
 今俺に分かるのは彼女が厄介事にどっぷり漬かっていて、何者かに狙われているという事だ。そして、これまた俺はお節介にもそれに片足を突っ込みかけている。
 何を隠そう、この少女こそが目下一番の頭痛の種だ。
 寝室は暖房も入れていなかったのか、肌寒い。少女の足元にある丸まった毛布を手に取ると、それを静かに、起こさぬよう彼女へ掛けてやる。
 部屋の窓際にあるスチームヒーターへと歩み寄ると、スチームを送るためのバルブを音を発てないようなるべく静かに回す。スチームがパイプの中へと勢い良く循環し始め、カキンカキンとヒーターが悲鳴を上げた。
 少女の方を振り返ったが、今の音で起きる事無く寝息を立て続けている。
 ほっとして、ヒーターが温まり始めたことを確認すると、起こさないように静かに扉を閉めてソファーへと戻った。
 またドカッと腰を下ろし、今度こそ咥えた煙草に火を付ける。ゆっくりと紫煙を吸い、吐き出す。
 自嘲気味に笑って、我ながら自分の気の良さにほとほと呆れかえる。
 プルタブを引き起こした時のプシュッ、という炭酸の抜ける音と、カシュッ、と小気味の良い金属音。良く冷えた缶ビールを口元に運ぶと、一息で半分ほどそれを飲んだ。
 寝室で眠りにつく少女。彼女がここに来た経緯を思い出しながら俺はもう一度、缶ビールを傾けた。

   ◆

 照明が再び輝きを取り戻し、ディアナのステージが終わりを告げた頃、普段上品な静寂に包まれたバーは彼女の歌声を讃える観客達からの拍手で沸いていた。
 俺もそれに倣い、控えめな拍手で彼女を讃える。
「ご静聴、ありがとうございました」
 歌声と同じ澄み切った美しい声で観客に向かって挨拶すると、彼女はステージから降り、テーブル席の観客達と談話を始めた。
 漆黒のドレスを身に纏った、透き通るほど白い肌。淡い照明を受け、光り輝くプラチナブロンドを纏め上げ、その宝石のように澄んだ銀色の瞳は穏やかに周囲を見回している。
 人形のように整った顔が優しい微笑みを浮かべる度に、そのテーブルは和やかな笑いや称賛の声が上がる。今、このバーは間違いなく彼女が中心となって回っていた。
 俺はぼんやりとその様子を眺めながら、少し温くなったビールを含み、呟いく。
「やっぱりディアナがドレスを着ると映えるよなぁ」
 彼女の背中が大きく開いた漆黒のドレスからのぞく肌は、照明の熱気とステージの興奮で微かに汗ばんでいる。それがさらに艶っぽい。
「流石、今日もいい声だったな、我らが歌姫は」
 ロベルトもバーボンをゴクリと飲みながら、彼女へ称賛を送った。
 さっきから全く休むことなくグラスを傾けているロベルト。
 その手元を見れば、いつの間にか、七面鳥のラベルが貼られたボトルは半分近く量が減っている。
 恐るべきことに未開封だったボトルが小一時間もしない間に、空けられつつあるのだ。
(――おいおい、八年ものだろ、あれ。 それをロックでガブガブと。 どうなってんだよ、こいつの身体は……)
 始めのうちは見ていて気持ち良い飲みっぷりだったが、今はもう見ているこっちの胃袋がムカムカしてくる。
 一体どこにそんなキャパシティーがあるのだろうか。一度でいいからこの男の肝臓の構造を調べてみたい。
 ロベルトは、無数の傷跡を持つ強面の店長である。常に渋面を浮かべるその顔は見る者を委縮させ、話しかけても無愛想。こんな雰囲気の良いバーカウンターの中に、正直似つかわしくない男だ。まず、接客業に向いていない。
 そして、そんな無頼漢然とした男が自棄酒気味に酒を煽っているところを想像していただきたい。
 …………。
 どうだろう? おそらくそれはとっても立ち会いたくない場面ではないであろうか。少なくとも俺はそうだった。
「しかし、どうやって売人を探し出そうかなぁ」
 少なくなったビールを弄びながら聞いた俺に、ロベルトは渋面で返す。彼女のステージが終わってからはもうその事が頭から離れない。なにせ金が絡んでいる。
「何だまだ考えてんのか?」
 ロベルトは呆れがちにそう言って、短くなった煙草を灰皿で揉み消す。そうしてカウンターに置いたラッキーストライクのケースからまた一本取り出して咥えた。
「こっちは生活掛ってんだよ。 何もせず踏ん反り返って、ダラダラ酒飲んでるお前とは違うんだ」
 ムッとした顔をして火を点けかけた煙草を手に取ると、それを振りかざし反論してくる。
「ただでダラダラ飲んでるわけじゃねぇよ。 ――用心棒だ。」
「用心棒だぁ?」
 お世辞にも治安が良いとは言えないこの街では、店に用心棒、ようはガードマンがいるかどうかがその店を判断する上で大きな基準となる。
 用心棒がいる店では、身の安全がある程度保証される。しかし、用心棒のいない場末の店では性質の悪い客から喧嘩を吹っ掛けられたり、最悪店の外に連れ出され身ぐるみを剥がされた、なんて事もよくある話なのだ。
 しかし、大酒飲みが店主で用心棒とは。どうなってるんだ? このバーは。
 今までロベルトのこの店での勤めを気にしたことがなかったが、改めて聞いてみれば変な話である。一抹の不安を覚えざるを得ない。
「そう用心棒だ、用心棒。 ここに来たお客様の安全と安心を保障するのさ」
 自慢げにそう言って、再び煙草を咥えて火を点ける。その間にこぼれんばかりの吸い殻に溢れた灰皿をバーテンダーがそつなく交換していた。
「……安心と安全、って面かよ」
 張り付いた幾多の傷痕、不機嫌そうに皺の寄った眉間、いやに鋭い目つき。およそ安心感からは程遠い、獣じみた凶相だ。
 ロベルトの顔をじっと見た後、自然に嘲笑がこぼれた。どう考えても両者は結び付かないだろう。
「おい、今俺のこと馬鹿にしたろ?」
 やっ、別に、と濁しつつロベルトの冷たい視線から逃れるように俺は目をそむけた。
 まぁいい、とじろりと俺を睨んで、随分と減ってしまったボトルからまた、空にしたグラスへと琥珀色の液体を並々と注ぐロベルト。それで今日何杯目になるのか、バーボンのオン・ザ・ロックが完成である。
 バーボンに含まれたアルコールで氷が溶かされ、積みあがっていたそれがカラン、と小さく音を発てて崩れた。
 それをぼうっと眺めながら俺は訊く。
「だいたい、酒が入って用心棒が務まるのか? 酔ってて役に立ちませんなんて笑い話にもなんねぇぞ。 いくら酒に強いなんて言ったってそんだけ飲んでんだ、多少なりともくるだろ?」
 俺がそう言っている最中にバーボンを煽るロベルト。しかし、あれだけ飲んでいるのに上気した様子もないし、呂律もしっかりしている。いつものロベルトのままだ。
 平然と度数の高いバーボンを流し込む姿はまるで、ジュースか何かを飲んでいるようにも見える。
 俺が話し終わると、ロベルトはグラスを回しながら視線を落とす。いままで常に不機嫌だった口調が突然静かなものになり、険のあった表情も能面のように消えてしまう。
「そこは安心しろ、俺はただ酒に強いってわけじゃない。 前にも話さなかった? 俺はな、"酔えない"体なんだよ。 いくら飲んでも血中のアルコール濃度が上がることはない」
 酔えない体。アルコールと人体からしてみれば、つまるところ毒素である。その毒素の分解機能がいくら人よりも強いといっても血中のアルコール濃度が上がってしまうのは防ぎようがないし、度を超えて摂取すれば中毒にもなる。
 つまり、どんな人間もアルコールによる酩酊からは逃れられないのである。
 だが、ロベルトにはそれがない。どんなに短時間で大量のアルコールを摂取しようと、彼の体内でそれらは全て分解され尽くす。摂取したアルコールは全て肝臓で分解され尽し、血中に溢れることなく、ましてや神経が毒されることは決してことはない。
 果たしてそんなこと可能かといえば、その答えは明快なイエスだ。何せ目の前にそのモデルケースが居る。平然とそれを今、やってのけているのだから。
 なぜ、そんなことが可能なのか。それはかつて存在した技術による、後天的な異常代謝機能。強化、改造された身体機能だ。
 大戦中、兵士と兵器の境を曖昧にする技術が存在した。破られた人道、繰り返された人体実験、蓄積されたノウハウ。そうして確立された、身体強化という技術。幾多の命と引き換えに人が得た、兵士としての人間を兵器としての人間へと昇華させる悪魔の業。
 目の前にいる男は、おそらくそういった体の持ち主だ。それもこの力は彼の能力の中で、まだ極々一部にしか過ぎない。
 ロベルトの過去に何があったかを俺は知らない。ロベルトもそれを語らない。
 酔えない体での飲酒。酔いもしない体に酒を注ぎ込んでどんな意味があるというのだろうか。
「……"酔えない"体ねぇ」
 感心したような、呆れたようなどちらとも言えない俺の視線に応えることなく、ロベルトは空虚な瞳をグラスに向けて、満たされた琥珀色の液体を弄ぶ。
 普通ならば驚くところだが、俺も他人事ではない。人ならざる力というものを俺自身よく知っている。
「そう、慣れちまえばなかなか便利なもんさ」
 そういって微かに口元を歪めて笑うロベルトの表情はどこか悲しげで、瞳の奥には深い愁いの色が見えた。
 常人ならざる身体。その辛さは俺自身もよく知っているから。俺はなにも口にせず、ロベルトもそれ以上何も語らなかった。
 ロベルトの自嘲はそれ以上追及するなというメッセージのようにも見えた。だから俺もそれ以上、彼の過去について詮索するようなことはしていない。
「でもよ、飲んだくれの用心棒で安心しろっての少し無理な話だろう。 用心棒なら用心棒らしい姿勢でいろよ」
 しかし、最低限常識というものも考えてもらわないと。用心棒がガブガブ酒を飲んでいる様を客に見せていては、信頼と安心を感じられるはずがない。むしろ、不安を煽るようなものだ。
 まぁ、こいつが用心棒であることを知っている客が俺以外に果たしているかどうか。案外、杞憂で終わるかもしれない。
 俺の注意にロベルトは素直に頷き、深く溜め息をつくと、その眉間にはいつもの不機嫌な皺が出来上がる。
「……確かに、そうだな」
 そう言うと、何時もの調子に戻ったロベルトは短くなった煙草を灰皿で押しつぶした。

   ◆

 薄暗い室内、傘のついた裸電球一つで照らされたそこは雑然とした印象があった。散らばったパイプや廃材がコンクリートの床に散乱し、唯一あるテーブル上には工具が雑然と置いてある。
 床や壁、テーブルなどそこかしこに黒いシミや斑点があるが、オレンジの単色に照らされた薄暗い室内では、それが本来どんな色なのかが確認できない。
 狭い室内にあって響く物音は、遠く微かに聞こえる重機の作業音と使い古された電球が立てるジリジリと鳴く悲鳴、そしてくぐもった、荒く早い呼吸のみだ。
 その薄暗い室内の中心には木製の簡素な椅子が置いてあって、そこに男が一人座っている。
 だがよく目を凝らして見れば、四肢を拘束され眼隠しと猿轡を噛まされたその姿から座らされているといった方が正しい。
 猿轡を噛まされた口から血とも唾液とも取れぬ体液を垂れ流し、顔は打撲からか赤黒く変色し腫れ上がっていた。
 中肉中背、働き盛りであろう三十代ほどに見えるがいかんせん、無残に虐げられた人相からは正確なところを測りかねる。
 身につけていたシャツは汗に濡れ、埃と血で汚れていた。
「気分はどうだ、ジャクソン・ノックス」
 電球の灯りから逃れた暗がりの中から低い男の声が響く。感情と抑揚のない冷たい声音。椅子の座るノックスはその声を聞きびくりと体を硬直させた。
 猿轡を噛まされ声にならないくぐもった叫びを漏らしながら、身を捩じらせる。
「ヘイゼル市警、8分署の捜査課所属の警部補、か。 あそこの署からはあまり良い噂は聞かない。 お前もだいぶ甘い汁を吸ってきたんだろう」
 冷たい声は闇の中から語りかける。対してノックスは怯えきった様子で呻き声を揚げ、ジタバタともがくばかりだ。
 乾いた靴の音と共に、声の主は闇の中を彼の背後に回るように歩いていく。
「けれど、今回は少しばかり度が過ぎたようだ」
 声の主はちょうどノックスの真後ろへと来たところでその歩みを止めた。
 声にならない叫びをあげ、必死に束縛から逃れようともがく。
「だが、愚かなお前に私はチャンスを与える事にした」
 その言葉を耳にした瞬間、ノックスのうめき声と身動ぎが一層激しくなる。
 声の主は彼のすぐ真後ろまで近づき、そして猿轡だけを取り外した。
「――た、助けてくれっ! 何でもする、何でもするから、命だけはっ!!」
「慌てるな、いいか? まず深呼吸しろ」
「わ、わかったから、命だけは……」
「言われた通りにしろ」
 目隠しをされたまま、後頭部に当てられた重く冷たい感触は恐怖となって彼の意識を委縮させる。
 深呼吸を繰り返す内に上がっていた呼吸が次第に整っていく。
「お前にやってもらうことがある。 至極簡単な事だ。 お前は言われた通りに電話で話せばいい、普段通りにな」
 そう言ってから声の主はノックスの耳許まで顔を近づけると電話の内容を呟いた。
「分かったか?」
 彼は黙って頷くと、すぐに耳許へ携帯電話であろう冷たい何かが押し付けられた。
 数度の呼び出し音が耳へと流れてくる。そして携帯電話の向こう側で誰かがそれを取り上げた。
 電話は一分もせずに終わった。耳にあてられていた携帯電話と後頭部の冷たい何かがすっと離れていく。
「良くやった。 お前は私の期待に応えてくれた」
「もう二度とこんなことはしない! 神に誓う! 絶対だっ――!!」
 必死の懇願も空しく虚空に響く。まるで誰もいないような静寂が室内を満たしていた。ノックスの耳に聞こえるのは自分の荒い呼吸の音だけになる。
「ノックス警部補、お前の誠実に、私も誠実をもって応えよう」
 抑揚無く、闇の中から投げかけられる、冷たい声。声の主はノックスの背後から、まるで宣託のようにそう告げた。
 静寂の中でカチリ、と金属音が聞こえ、

 ズダンッ――。

 その瞬間、オレンジの閃光と全身を打つような大気の波、そして重い銃声が薄暗い室内を一瞬だけ照らし、震わせる。
 闇の中から突き出た手には黒く鈍く光る大口径の回転式拳銃が握られていた。
 今まさに銃弾を放ったその銃口からは、銃身に残された硝煙がユラユラと立ち上っている。
 電球に照らされた椅子の上には変わり果てたノックスの姿があった。
 数秒前、撃鉄がゆっくりとコッキングされ、それと連動した弾倉が静かに回転し、ホローポイントの357.マグナム弾が収容されたシリンダと銃身が一直線に並んだ。
 そして殺意を込めた人差し指が引き金を引き絞ると、留め金が弾かれ、撃鉄が落ちる。殺意は金属を介して伝導し、撃針を伝って雷管を射抜く。
 雷管から伝わった燃焼反応が薬莢の中に詰められたニトロセルロースまで到達し、爆発的に連鎖。燃焼し、高温の燃焼ガスと莫大な運動エネルギーが薬莢の中で暴れ狂う。
 遂に耐えきれなくなった薬莢は膨張し、行き場を得た高圧の運動エネルギーは弾丸を螺旋の切られた銃身へとねじり込んだ。
 指向性を持った強力な力学的エネルギー、そしてなにより弾丸という実体を得た殺意は、ライフルリングの切られた銃身内を回転運動を続けながら高温の燃焼ガス、燃焼炎と共に行進する。
 そして銃口へと辿り着いた弾丸は獰猛な運動エネルギーを持って、燃焼ガスと燃焼炎を纏い飛翔した。
 薄暗い室内を音速を超えて奔る弾丸は、コンマ数秒もかからず標的へと襲い掛かる。ノックスの薄い頭皮を穿ち、頭蓋を噛み砕きながら、殺意の弾丸はその姿をより獰猛な姿へと変えていく。
 先端が予め凹ませてあるホローポイント弾頭は標的へと命中したことにより、弾頭は捲り上がり、より効率良く殺意と運動エネルギーを体内へと浸透させた。
 後頭骨から侵入し髄膜を破り、変形した弾丸は大脳を、小脳を、脳幹を、頭蓋空内で脳漿と血液と共にシェイクさせながら前頭骨へと到達する。
 弾丸の螺旋運動は変形により余すことなく破壊の為の力へと変換され、破壊によって限界まで高まった脳圧が眼窩から眼球を押し出した。
 破裂する額、零れる眼球、飛び散る脳漿と赤い血液と灰色の脳、白い骨片。それらは黒いシミの残るコンクリートの床をさらに黒く染め上げた。
 声の主の誠実はノックスへと届き、これ以上無用な苦しみを避けて、彼の生命活動を完膚無きまでに停止させた。彼の意識は自分に何が起こったか理解する前に恐らく消失しただろう。
 つまらなそうな視線がたった今死んだばかりの男に向けられる。しかし、それも数秒だけだった。
 生臭い血の臭いと鼻を突く硝煙の香りに満ちた薄暗い室内を、声の主は後にする。
「片付けておけ」
 扉が閉められ、声の主が出ていくと裸電球に照らされた薄暗い室内に残されたのは、未だ血を流し続け、微かに痙攣する哀れな残骸だけだった。

   ◆

「で、だ。 どうすればいいと思うよ?」
 空になってしまったビール瓶を弄くりながら、考えに詰まった俺はもう一度、ロベルトへと問いかける。
 結局空いた時間を見つけては頭の中で、グルグルと舞い込んだ金策について熟考している俺がいた。
「どうと言われてもなぁ……。 聞き込みでもしてみたらいいんじゃねぇか? 薬を買ったジャンキーを絞めるとか、取引場所に居合わせた奴に聞くとかよ」
 首を捻り、腕を組みながら唸るロベルトが出した精一杯の答えだった。
「なんだそれ? お前刑事ドラマ見すぎじゃないのか?」
 鼻で笑う俺を見て、ロベルトは拗ねたように顔をしかめる。
「他に何にいい案があるのかよ、お前」
 火の点いたタバコで指されて、逆に問いただされる。しかし、分かっていない。いい案が無いのかと質問したのだ、こちらにそんな考えがある訳がない。が――。
「まぁ、無くもないけどな……」
 出し惜しんで焦らす俺に、さらにイライラとした様子でロベルトが詰め寄る。人相の悪い顔が寄ってくる。それだけで子供は泣いてしまうくらいの迫力だ。
「一体それは何なんだよ」
「……聞き込みしかないだろうな」
 結局のところ、それ以外に有効な手立ては見つからない。
 他に事件を追っている奴から情報を聞き出す手もあるが、やはり現地での聞き込みが一番である。あまり他力本願で他所に頼り過ぎると、重要な報酬の一部を渡す羽目になってしまう。
 俺はそれだけは避けたかった。所々に残したままのツケもかなり溜まってきている。
「散々、人のこと馬鹿にしておきながら――」
 真顔で言った俺に対し、呆れかえったロベルトはこめかみを押さえて頭を振った。
「馬鹿、お前とは観点が違うんだよ、観点が。 捜査の真理の一つなんだが、事件の陰に金と女ってな。 その流れを洗っていけば、自ずと犯人にたどり着くもんだ」
 力説する俺をロベルトの冷たい視線が貫く。
「お前の方が、俄然見てるじゃねぇか」
 呆れながら言うロベルトに対して、俺は胸を張って主張する。
「伊達に、日がな一日テレビの前に噛り付いてねぇぜ」
 いや、冗談じゃなくドラマに対しての知識が豊富になってきた今日この頃。もしかしたら本当に通用するのではないかと、テレビを見続けて腐りかけたお頭が愚考し始めていた。
「自慢するところじゃあねぇし、まずそんな暇があれば仕事を探せ」
 生来の険しい目がじっとりとこちらを睨む。
「そこはさ、自営業だし」
「要はやる気が無かっただけか」
 紫煙を吐きながら溜め息をつき、呆れたよ、と言って肩をすくめるロベルト。
「人聞きの悪い。 この前の事件が忙しかった分の休暇だ、休暇。 こっちはお前と違って大怪我したんだ、ゆっくりと休むぐらい別にいいじゃないか!」
 胸を張った自慢げな反論。正直、自慢できたものでもないが数ヶ月前に起きた、とある事件で俺は怪我を負っていた。完治はしたがこれぐらいの休暇、取っておかないと割に合わない。
 呆れかえったロベルトは、何も言わずに氷だけが残る空のグラスでこめかみを押さえた。
「生活に苦しむくらいなのに、休暇なんて非常識なこと言ってないで、ちゃんと仕事しなさい。 いつも言ってるでしょ?」 
 そんな俺に対する叱責が背後から掛けられる。澄んだ声の主の姿を求めて俺はすぐさま振り返った。
「ディアナ!」
 振り返った先には、漆黒のドレスを纏った銀髪銀眼の美女が眉をひそませ、腕組みして立っていた。
 目の前に立つこの絶世の美女こそが、この店一番の歌姫、ディアナ・メルクィン嬢だ。そして何より俺の恋人でもある。この事実は、俺が唯一胸を張って他人に自慢できることだ。
「お疲れさん、一杯どうだ?」
 短くなった煙草から、新たに煙草を取り出し火種を移しながら労いの言葉をかけるロベルト。
 俺が隣の椅子へ促すと、ディアナはドレスのスカートを押さえながら椅子へと腰を下ろす。
 一瞬、微かにコロンの甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「じゃあシンデレラでも貰おうかしら」
「畏まりました、では」「少々、お待ちください」
 二人のバーテンダーはいそいそと注文のカクテルを準備をし始める。
 その真珠のような髪を纏め上げていた髪留めを外すと、艶っぽいうなじが白銀のベールに遮られた。
「なんだ、今日は飲まないのか?」
 その様子を眺めながらロベルトはディアナに問いかける。シンデレラのレシピは、レモン・オレンジ・パイナップルのそれぞれ三種のジュースをシェイカーに入れ、シェイクするという至ってシンプルなものだ。
 アルコールを含まない、ノンアルコール・カクテルの代名詞の一つである。まあ、早い話がミックスジュースだ。
「車で来てるのよ、帰りの事もあるし」
「旦那んとこの若いのにやらせればいいだろ。 お前の運転手なんて言ったら喜んですっ飛んでくる連中なんぞ、五万といるだろうに」
 客の間で絶大な人気を誇るディアナだが、そんな彼女の人気はこのバーだけでは止まらない。彼女の義父の組織には彼女への秘めた想いを抱くものが少なくない。
「そんなことで迷惑をかけていられないわよ。 仮に呼んだって、ここへ来たら絶対に呑んでいくもの、それじゃ本末転倒でしょ?」
 まぁ、確かに、と言い包められてしまったロベルト。ディアナの言うとおり、彼らなら飲酒運転を罪とも思わないだろう。
「じゃあ、俺ん所で泊まっていけばいい。 車はとりあえずここに置いてさ」
 少々破廉恥なことを想像しながら、俺は彼女へ提案した。俺の事務所はここから、通り一本またいで直ぐだ。そんなに時間もかからない。
「いやよ、どうせ散らかってるんでしょ? 無精者のあなたの事だもの。 それにあのベット、マットが固くて寝苦しいし」
 ディアナに痛い所を突かれて言い淀む俺に、ロベルトがさらに畳み掛ける。
「お前、この期に及んでまだツケを貯める気か」
「そう固いこと言うなよ、ロベルトもたまには楽しく呑もうぜ? いつもそんなブスくれて飲んでちゃつまらないだろ」
 そう言いながら席を立つと、ロベルトのボトルを引ったくり、空のグラスに無理やり酒を満たす。
「余計な御世話だ、それにさっきは程々にしろとか抜かしてたくせに、どんな手のひら返しだ」
 今、並々と注がれているグラスを遮るように取って、ロベルトは眉間の皺をさらに深め、眉をひそめた。
 だが結局、継がれた酒を飲んでいる。説得力がないことこの上ない。
「兎に角、今日は呑みません。 呑むんだったら二人で呑んでね」
「お待たせしました、どうぞ」「ご注文の、シンデレラになります」
 そんな掛け合いの中、邪魔にならないようひっそりとバーテンたちは呟いて、ディアナの前にカクテルグラスを静かに置いた。
「私はシンデレラ、時計の針が十二時を指す前に家路に着かなくちゃならないの。 おわかり?」
 演技がかったように言うディアナ。
「重々、承知しましたよ」
 俺は渋るロベルトをよそに、もう一本ビールを注文した。なに、ツケは溜めても後々キチンと払えばいいのだ。
「じゃあ、みんなで飲むのはまた今度ね」
「まぁ仕方ないが、とりあえず乾杯だ」
 ロベルトはまた不機嫌そうにグラスを持ち上げる。
 俺もそれに続くと、三人のグラスが奏でる小気味よい音がバーカウンターに響いた。

   ◆

 宵闇の中で妖しく光る歓楽街。煌々と光る電飾、行きかう雑踏、まるで生き物のように蠢く、夜のダンウィッチ。
 眩しいほどの明かりも、鬱陶しいほどの雑踏も少しでも通りを外れれば、やはりそこには夜の暗い闇が満ちている。
 そんなサウスストーリートの一画。人通りの少ない路地に少女が一人、排気で汚れたビルの壁にもたれかかり、これから来るであろう人物を待っていた。
 栗色の滑らかな髪をひと束、指で弄びながら少女は落ち着きなく何度も時計を気にしていた。
 少女は焦燥していた。約束の時刻はとうに過ぎている。
 彼女の格好は夜の歓楽街からは浮いていた。地味で控え目なカーディガンとスキニーパンツ、その上にブラウンのPコートを着込んだその姿はこの路地には似つかわしくない。
 学生然としたその外見からも分かるように、どう見ても娼婦や客引きではないだろう。
 そして、その落ち着きの無さは恐らく、焦燥だけではなく不安からもきているようだ。下縁眼鏡をかけた小さな顔をひっきりなしに左右に回し周囲を窺っている。
 ひとり寂しく人を待つ少女は些細な物音にも肩をビクつかせた。その度に肩にかけたバックをかけ直し、周囲を見渡す。その表情には明らかに怯えが張り付いていた。
 しばらくして路地の向こうから人影が二つ、少女に向かってやってきた。それを目にし、少女の表情は一転して明るくなっていく。
 現れた人影に、駆け寄る少女。
「お待ちしていました。 あのぅ、お電話にあった警察の、方、……ですよね?」
 現れた人影は少女よりも頭二つ分程違う、二人組の大男だった。無頼漢然とした風貌、据えた目つき。スキンヘッドと脂ぎったセミロングの二人組。
 少女の質問に男たちは一瞬眉を潜めたがが、少女はそれに気づくことなく続けた。
「すみません、私てっきりノックスさんが来るものだとばかり思ったので……」
 それでもなお、男たちは無言のままだ。明るくなっていた少女の表情はみるみる曇り、自然と体が徐々に後退していた。
「あの、ノックスさんの同僚の方ですよね……?」
 男たちに反応はない。無表情のまま自分を舐めるように見まわす男たちを前にして、少女は怯えたように後ずさる。それまで無表情だった二人は互いに顔を見合わせる。すると、
「きゃっ!?」
 男たちが突然、少女に掴みかかった。もがき逃げようとする少女を二人がかりで押さえつけ、悲鳴を上げようとした口を大きな手で塞ぐと、卑下な笑みを浮かべる。
「おい、聞いたか? ノックスって誰だよ、しかも俺たちがサツだって?」
「あの男が実はサツだったんじゃねえか? ほら、ここの市警は腐敗しきってるってよく聞くじゃねえか」
 少女は自由な右手を振りまわすも屈強な男たちは微動だにもしない。
「案外、ありえるかもな」
「しっかし、ぼろい仕事だぜ。 こんなメス餓鬼捕まえるだけで、しばらく金には困らねえときたもんだ」
「あぁ、俺たちにはぴったりの仕事だぜ」
 男たちは無駄話もそこそこに捕まえた少女を路地から連れ出そうとする。必死に暴れる少女、しかし大の男二人にガッチリと掴まれ、その抵抗は無意味に終わる。
「よし、さっさと裏手につけた車に運んじまおう」
 しかし、少女は自分のバックから掌にすっぽり収まる程度のスプレー缶を取り出すと、スキンヘッドの顔へと突き出した。
 スプレー缶から噴霧されたのはOCガスと言われる催涙ガスである。しかし、スキンヘッドは咄嗟に腕で顔を覆いガスの脅威から逃れようとする。
「うわっ! 糞っ!」
「催涙スプレーか!?」
 少女を後ろから押さえつけていたセミロングもそれに驚き、拘束の手を緩めた。その隙に二人を振りきり駆け出す少女。
 腕で防いだはずだったが微量が粘膜に付着したのか、スキンヘッドは苦痛に身悶えしていた。
「いつまでボケッとしてやがる、とっとと追うぞ!!」
「うるせぇっ! 言われなくても分かってんだよ!」
 強盗や傷害など様々な容疑で指名手配をされていた二人だが、いつも互いの意見の食い違いで衝突する。しかし、この時ばかりは二人の気持ちは一つだった。
「あの糞アマ! ただじゃおかねえ!」
「ひん剥いて、輪わしてやる!!」 
 少女は息を揚げながら、夜の帳が下りた街を疾駆する。彼女に行く当てはなく、地の利も無い。
 不安、恐怖、後悔、焦燥。様々な思いが頭の中をぐるぐると掻き回し、眼には大粒の涙が溢れる。
「誰か、誰か助けて!」
 声を揚げ助けを呼ぶが、このダンウィッチにそんな常識人は皆無と言っていい。
 冷ややかな視線を浴び、時には好奇の視線をも浴びながら少女は助けを求めて夜の歓楽街を走り続ける。
 後ろからは人ごみを強引に掻き分け男たちが追ってきていた。顔は怒りで歪んでいる。
 その時、少女の視界にふと一つの扉が目に入った。どっしりとした木製の扉。
 少女はもう何も考えずその扉を押し開け、その中へと飛び込んだ。


   ◆◆◆


 バー・ソフィア。歓楽街の喧騒と隔絶された、ピアノの旋律と淡い照明が作り出す穏やかな空間。客たちはそれらを愉しみグラスを傾ける。
 柔らかなクリーム色と重厚なダークブラウンを基調とした店内。モダンな調度品の数々と、緻密に計算され配置された照明等が更に店の雰囲気を盛り上げていた。
 店の中央に置かれたステージでは中年の奏者が一人、ピアノで穏やかな旋律を紡ぐ。
 どっしりとしたバーカウンターで俺たちは酒を酌み交かわす。一人は瓶のビールを、広口のグラスでバーボンを、一人はカクテルグラスでカクテルを。
「そういえば最近、シルヴィアの姿が見えないな」
 俺はビール瓶でバーカウンターを小突きながらディアナに視線を向けた。
「あの子なら確か、隣の州に居るはずよ。 先週電話した時はそう言ってた」
 シルヴィアとは彼女の弟の名前だ。この店の常連で、俺たちの商売仲間でもあるのだが、いかんせん少しばかり変わっている。
「隣の州? 今度は大物でも狙ってるのか?」
 シルヴィアは賞金稼ぎを生業にしている。
 戦前は貸し付けた保証金を踏み倒した逃亡者を保釈保障業者に依頼され、逮捕しその賞金を受け取っていた。しかし、現在では依頼者は公民問わず、その大半の内容も"生死問わず"であり、今や西部開拓時代のそれに近い。
「詳しい事は特に言ってないから、分からないわ。 あの子、私にもろくに連絡寄越さないんだから」
 空のグラスを指で弾いて弄ぶディアナ。心配なのか、それとも苛立ちからなのか。おそらくそのどちらもだろう。その整った眉を吊り上げ、薄いチークの乗った頬を膨らませている。
「まぁ、らしいといえばらしいけどな」
「けど、あいつの放浪癖は今に始まったことじゃないだろ?」
 俺の相槌にロベルトも続けた。
 シルヴィアは定住せず、ふらふらと仮住いを転々とする。そして時にふらっと街から姿を消してたと思えば、しばらくしてまたひょっこりと顔を出す。まるで猫のように飄々とした生活を送っているのだ。
 だから俺やロベルトはあいつの姿がしばらく見えなくても、それが当たり前だし、当然心配などするはずもない。
「私、心配なのよ。 恋人の一人もつくらないでいつまでもフラフラして」
「どうせ本人の問題だ。 俺達がとやかく言うことでもないだろ」
 鼻で笑ってグラスを傾けるロベルトに、眉間に皺を寄せたディアナが少しきつい口調で怒ったようにたしなめる。
「あたし、あなたのそうやってすぐに冷める所嫌いよ? 仲間ならもっと親身になってあげなくちゃ」
「やーい、怒られてやんの」
 カウンターに乗り出し、ケタケタと笑って茶化す。
「黙れ、このヒモ野郎」
 ロベルトはしっしと鬱陶しそうに笑う俺を追い払う。そんな談笑が続く中、それは唐突にやってきた。

 大きな音とともに勢い良く開けられた扉。その音に振り返ると扉から何者かが飛び込んでくる。
 乱れたマルーンのボブヘヤー、ずり下がり気味の下縁眼鏡の奥に揺れる、今にも泣き出しそうな潤んだブラウンの瞳。
 小柄で痩身のそれは少女だった。肩を上下し息を切らせ、掛けた眼鏡がずれていることにも意を介さず、頼りない足取りでこちらを目指し駈け出した。
「――お願い誰かっ、誰か助け、キャッ――!」
 疲労でもつれた足が階段を踏み外し、少女はそのまま冷たい床へ肩から落ちた。ドスンと鈍い音を発て、それと同時に側頭部を強かに打ちつけ、衝撃と痛みに呻きを漏らす。そうして少女は失神したのか、その場に倒れこんだまま動かなくなる。
「ちょっと、大丈夫!?」
「お騒がせして申し訳ありません、こちらで対処致しますので、引き続きお楽しみください」
 うずくまって動かない少女の元へと駆け寄るディアナ。ざわつく客たちをなだめる為席を立つロベルト。
「大丈夫か? 少し見せてみろ」
 俺もディアナに続き少女に駆け寄る。少女の身体を丁寧に抱き起こすディアナ。意識を失った少女はしかし、肩を抱かれた際、苦痛で微かに表情が歪む。
「息はある……。 肩のほうは打ち身か、脱臼してるかもしれないな。 頭のことはここじゃ分からないな」
「そうみたいね。 ねぇ、あなたダイジョブ?」
 カウンターの二人へと視線を移し、素早く指示を出す。
「なぁ、救急箱の中に湿布あったよな? それと氷嚢作って持ってきてくれ」
「畏まりました」「すぐにお持ちします」
 二人が店の奥へとはいって行ったのを目で追って確認すると、その視線を少女を抱くディアナへ移した。
「なぁ、自分の名前がわかるようなもの持ってないか?」
「ちょっと待って」
 そう言って彼女の着ていたPコートやズボンのポケットをまさぐるが、しかしそれらしいもの見つからない。
 玉汗浮かぶ少女の顔をやさしくハンカチで拭ってやるディアナ。ロベルトも客たちへの対応を終えこちらへ駆け寄ってくる。
 止まっていたピアノの独奏もいつの間にか再開されていた。客たちは未だざわついているが、それでも先ほどにくれべれば落ち着きを取り戻している。
「何かわかったか?」
「いいえ、まだ何も、できれば病院に連れて行ってあげたいのだけれど……」
「おい、頭を打ってるんだあんまり動かすなよ」
 俺の指摘にわかってるわ、と少女に視線を合わせながらディアナが答える。肩で息をしながら苦悶の表情を浮かべる少女。
 二人のバーテンダーが店の奥から救急箱と氷嚢を持ってやってくる。ディアナにそれを渡すと、彼女はそれを少女の襟元から突っ込み直接肩に当てる。
 あまりの冷たさの所為か、気を失っている少女は身体を微かに震わせ小さく喘ぎを上げた。
「とりあえず、近くの診療所に運ぶか」
 ロベルトがそう言ってバーテンダーに指示を出す。
「マリオ爺さんの診療所に電話を入れろ、若い女の急患だってな。 それと毛布何枚か持ってこい」
 指示に従い二人はは再び店の奥へと戻っていく。そしてロベルト本人もその後を追うように店の奥へと向かう。
「――んっ、あ……」
 少女がうめきを上げ、目を薄く開ける。覚醒し始めた意識の中、未だ像の結べない、焦点の合わぬ視線を右往左往させ始めた。
 良かった、意識が戻ったと俺達二人が安堵の息を突こうとしたとき。そんな時だ。
 平静を取り戻しつつある店内を再びが混乱が訪れた。それを知らせたのは、またもや唐突に、そして先ほどよりも勢いを増して開けられた扉だった。

 あまりの勢いに蝶番が壊れ、だらしなく開きっぱなしになった扉の前、入口の階段の上に二人の男が立っている。厚い胸板に丸太のような二の腕、汗にヌメヌメと光る剃り上げられたスキンヘッドと乱れて更に不清潔さを増したセミロング。
 角ばった顔は威圧感を隠すこともせず、二人は剣呑な眼つきで店内をなめるように見渡していた。息を切らして肩を上下させているが、その顔には疲労ではなく憤怒が張り付いている。
 その二人が足元のカウンターに視線を向けるのにそう時間はかからなかった。二人の闖入者の登場で再び静まり返った店内で、第一声を上げたのはやはり男たちだった。
 視線をこちらに向け、その焦点は少女へと合わせられている。
「見つけたぞ! この糞アマ!!」
 声を荒げ、汚く罵りを上げながら男たちはこちらを目指し階段を駆け下りる。その眼は憤怒と狂気の赤で彩られていた。特にスキンヘッドの方はまるでウサギの目のように赤い。
「手間をかけさせた揚句、あんなものまで噴きかけやがって、ただじゃおかねえぞ畜生!」
 先行したスキンヘッドは腰に右手を回し、何かを掴むと階段を駆け下り、荒々しい足取りでこちらへ歩んでくる。
 後を追うセミロングは革のジャケットから棒状の何かを取り出す。それは液体の満たされたシリンダだ。それを逆手に持ち、後を追う。
 剣呑な雰囲気を察知した客たちは先ほどと違い、ざわつくことなくこちらの状況を観察していた。すぐに身を隠せるよう身構えている者もいる。
 扉が開けられた音で少女は完全に覚醒していたのか、男たちを目にした途端ディアナの腕の中で激しく暴れだした。
「離して、嫌っ! 早くっ、早く逃げないとっ!」
 痛めた肩が疼いて少女は苦痛に顔を歪めたがそれでも強引にディアナの拘束から逃れ、オーク張りの床を這いずりながら逃げ始める。氷嚢が床へと落ちて氷と水を撒き散らした。
 凶暴な笑顔を浮かべたスキンヘッドはその腰から黒く鈍く光る自動拳銃を抜き出す。慣れた手つきで遊底を引き初弾を薬室へと装弾すると、それを片手で保持し少女の足元へ向け、照準もろくに付けず引き金を乱暴に引き絞った。
 パンッ――。
 静寂を破る、.45ACPの甲高い破裂音のような銃声。銃口から噴出したマズルファイアが薄暗い店内をカメラのフラッシュの様に照らし出す。
「ひっ――」
 少女の大腿部のすぐそばには小さな弾痕が一つ。鈴の音の様な薬莢の落下音だけが静まり返った店内に響いた。
 静観を決め込んだ客たちが恐慌に陥るのにそれは十分すぎる材料だった。我先に物陰に隠れようとする者や、腰が抜け訳も分からない事を叫び続ける客たち、ステージから飛ぶように逃げ出すピアノ演奏者。
 標的にされた少女は恐怖で竦み上がった。あと十数センチ狙いがずれていれば、その小さくも獰猛な鉛の塊は少女の大腿の柔らかい肉と無垢な骨を穿ち、店の床を赤黒く汚していただろう。
 スキンヘッドは卑下な笑みを浮かべながら少女に銃口を突き付けた。薄暗い銃口の奥に鎮座する弾丸は放たれる時を待ちながら、少女を睨み続けている。
 少女はその場から動くこともできず、おそらく生まれて初めてであろう、命を奪う凶器を自らに向けられるという恐怖に支配されていた。
 そのストレスは悠々と少女の許容量を超え、溢れたストレスは失禁を引き起こさせ、それを見たスキンヘッドの暗い愉悦を掻き立てる。
「見ろよこいつ、漏らしやがった」
 ニヤニヤと汚らしい笑みを浮かべ更に少女へと近づくスキンヘッドの足を止めさせたのは恐慌に支配され混乱する客たちだった。
「うるせぇっ、黙れ!」
 そういうと少女に向けていた銃口を天井に向け、引き金を立て続けに二度、三度と引き続ける。恐慌に陥る客たちを躾け、黙らせるにはそれだけで事足りた。
 興を削がれて苦虫を噛み潰した表情も少女にその銃口を向けることですっかりと忘れて、またあの卑下な笑みを浮かべる。
 少女へまた一歩近づこうとしたその時だった。人影が恐怖に震える少女とスキンヘッドの間へスルリと割って入る。
「ちょっと、あんた女の子に向かって何て事してんのよ!」
 丁度、少女の壁になるように仁王立ちするその姿、光の束のような白銀の髪、怒りで釣り上がる柳眉。怒りを宿したその瞳はまるで輝く宝石のように美しい。
 ディアナはスキンヘッドを睨みつける。水晶の様な澄み切った声を荒げ少女を狙う拳銃を睨み上げていた。
「ンだテメェ? どかねえか、おいっ!」
 スキンヘッドはその銃口をディアナの鼻先に突きつけた。しかし彼女は眉ひとつ動かさず男を睨み続ける。スキンヘッドは最初こそディアナに気押され戸惑い、イラついていたが、しかし彼女の美貌に気付いたのかその表情は好色なものになっていく。
 何の抵抗手段も持たず、ただこちらを睨み続ける女。対して自分は腕力も強く、何より銃を持っている。
 そのことが絶対的な自信になったのか、スキンヘッドは不用意にディアナの胸元へとそのごつごつとした手を伸ばした。
「邪魔だっつってんだろうが」
 卑下な笑みをさらに歪めたスキンヘッドにはおそらく当初の目的などは見えていないのだろう。今この男に見えているのは目の前に佇む美女の肢体だけだ。
 しかし、そんなスキンヘッドの煩悩にまみれた考えはすぐに吹き飛ぶ羽目になる。
「触るな――」
 その美しい双房を目指し伸ばしたはずの左手は宙を掴み、逆に手首を掴まれたかと思うと次の瞬間にはグイと引き寄せられていた。
 自分の身に起こったことを理解する前に九十キロ近い男の身体は見事、宙を待っていた。
 左腕を軸に、巧みに男の体重と無意識に抵抗した時の力を利用して自分の倍の体重はあろうかという大男を、まるで子供を相手にしたように軽く投げ払う。
 スキンヘッドは受身も取れず、固いオークのフローリングに背中から落ちると、衝撃で肺の中の呼気がヒュッという音とともに漏れ出した。
 あまりの衝撃に身体は呼吸を忘れ、空気を求める苦痛と痛みからから身体を弓なりに反らせる。
 しかし、投げの軸にされた左腕は未だに解放されておらず、さらには投げを利用してその腕を捻り上げ、ディアナはその軽い体重を左腕に掛けることでスキンヘッドを拘束してみせた。男の左手の中には既に銃がない。
 流石というか、男を易々と放り投げ、組みふせるディアナを見て俺も気を引き締める。彼女の怒りに触れる事があれば俺もあのスキンヘッドのように投げ飛ばされることであろう。
 ただぼんやりとそれを見ていたわけではない。俺はもう一人の男を常に監視していた。スキンヘッドのやり取りを冷ややかな目で眺めていたセミロングの方を。
 俺はそこでセミロングを無力化しようと、愛用の拳銃を抜き払うため懐にそっと手を伸ばした。しかし、そこで気付く。
 ――まずい丸腰だ。
 愛用の自動拳銃は事務所に置いたままになっていた。チッ、と心の中で舌打ちする。
 時すでに遅く、先を取って手に入れたはずの俺たちのイニシアチブは男たちに奪われる形となった。
 俺が銃が無いと気付き、代わりにな物を探した時には、すでにセミロングがシリンダを左手に持ち替え、素早くダウンジャケットの懐から自動拳銃を抜き出すと、それをディアナに突きつけていた。
「そいつを解放しろ、変な気は起こすな」
 ディアナは舌打ちするとスキンヘッドの拘束を一度きつく締めあげてから、それを解放した。男の顔が苦痛に歪む。
「くっそ! この腐れアマっ」
 スキンヘッドは起き上がるとディアナの頬を目掛け思い切り裏拳を放つ。しかしひらりとスウェーバックだけでそれをかわすとディアナは男を睨みつけた。
「どこまでもコケにしやがって……」
 ワナワナと肩を震わせ、その頭皮までも真っ赤にしたスキンヘッドは落ちていた銃を拾うと、それをディアナに突きつける。
「おい、それぐらいにしろ。 俺たちはガキとっ捕まえに来ただけだろが」
 セミロングにたしなめられ、それでも構えを解こうとしないスキンヘッドだったが。
「さっさとしないか!」
 再三の忠告でやっとその銃を下す。
 俺は目に付いた空のビール瓶へ、気取られないようにそっと手を伸ばすが、
「動くな、変な気を起こせば女を撃ち殺す」
 セミロングは冷静だった。照準をディアナに合わせながら奇襲防止の為か、摺り足で壁際に移動する。俺はディアナと視線を合わせ、抵抗しないように促した。
「チッ、そこのハゲよりは頭が回るみたいだな……」
「そりゃどうも」
 俺の悪態に相槌を打ちながらも照準はしっかりとディアナを捉えていて、動揺は見られない。
「なんだとテメェ!!」
「おい、さっさと済ますぞ」
 セミロングが左手に持っていたシリンダを激昂したスキンヘッドに投げ渡す。虚を突かれ、それを怪訝な顔で受け取るスキンヘッドだったが、
「忘れたか、暴れるようならこれを使えって言われたろうが」
 セミロングの言葉でそれが何なのか思い出して合点いったのか、シリンダを手に嬉々として少女に近寄る。ディアナの一件で恐怖の呪縛から解き放たれつつあった少女は近づくスキンヘッドを見て、再び恐慌に陥った。
 スキンヘッドはパンツのベルトに銃を突っ込むと、腰が抜けたまま床の上で暴れる少女を片手で押さえつけ、その首筋にシリンダを押し付ける。
 シリンダの正体はガス圧式の自動注射器だった。首筋に突き立てられたそのシリンダはカシュッという音を上げ、ガス圧でピストンを押し込み、首筋に突き立てられた注射針を通して素早く内容液を少女へと流しこむ。
「うぁ――」
 小さく切なげな喘ぎを上げると、少女は昏倒してしまった。スキンヘッドは少女の身体を引き寄せるとその肩に軽々と担ぎ上げる。
「たっく、手間掛けさせやがって」
 スキンヘッドはそういって少女の臀部を引っ叩くが少女はピクリともしない。うぇ、小便クセェ、などとひとりごちてセミロングに方へと振り返る。
「用が済んだんださっさとズラかるぞ」
「ちょっと待てよ、この女へのお礼が済んでねえ」
 セミロングはチッと舌打ちをしながらもさっさと済ませろとスキンヘッドを促す。それでもディアナを捉えた銃口が逸らされることはない。
 スキンヘッドはベルトに突っ込んだ銃を引き抜き、暴虐な笑みを浮かべながらディアナへと歩み寄る。ディアナは上体を僅かに逸らしたが、以前男を睨みつけている。
 俺は状況を整理していた。セミロングはディアナへと照準を合わせ俺と彼女を牽制し、スキンヘッドは今まさにディアナへその銃を向けようとしている。
「殺すなよ、面倒事は御免だ」
「分かってる」
 セミロングの持つ得物は9mm自動拳銃、FN社のブローニング・ハイパワーだ。一度も発砲してないことから最大13発はあると考えて動くのが妥当だろう。
 一方のスキンヘッドは.45ACP弾を用いるコルト・ガバメントを握っている。装弾は先程の事から考えて、もう恐らく3、4発しか残ってないだろう。
(ディアナが、まずい――っ)
 スキンヘッドは握ったガバメントを高らかと振り上げ、その銃底をディアナに向かい振り降ろそうとしていた。
 俺は牽制するセミロングを出し抜き、無力化させなくてはならない。スキンヘッドはディアナが対処するにせよ、それは俺がどうにかしてセミロングを無力化することが前提だ。
(チンピラ共と侮っちゃいられねぇ、全開で行く……)
 俺は目を閉じ、深く自分の内側へと意識を傾ける。心の奥の奥。精神の深遠にある"スイッチ"を入れるのだ、彼女を救うため、暴漢共を沈黙させるために。

 目覚めろ、内に眠る本性を叩き起せ!
 
 凶暴な闘争本能を冷徹な戦術理論で武装させ、持てる能力を余す事無く解放し、取り巻く事象の全てを掌握し、一瞬で状況を理解即応し、敵性分子を完膚なきまで制圧する、非情な猟犬となる為に。

 ――ガチリ、と頭の中で何かが繋がる様な感覚。

 急激に感覚が鋭敏化、認識が店内全てに拡大し、同時に思考が爆発的に加速を始めた。脳内では爆発的に脳内麻薬が生成、分泌されていく。
 店内にいる人間全ての挙動、呼吸、鼓動までも把握できる。例えそれが遠くテーブル越しに震えている客であっても、店の奥で機会を窺っいるロベルトの一挙一動までもが。今、ロベルトは出来るだけ音を立てぬよう、手にした散弾銃へ慎重に装弾している。
 集中すれば更に感覚は鋭敏化し、認識は際限無く拡大していく様だ。知覚は加速し、周囲の時の流れが緩慢になったように見える。
 思考は一点の濁りもなくClear、最高にSharpで、とんでもなくCoolだ。ただ女子供に、俺の恋人に手を上げたことに対する怒りが冷たく燃えている。貴様らが悪い。先に手を挙げたのは貴様らだ、一片の慈悲も躊躇も無く、完膚なきまで制圧してやる。

 敵性分子二名を実力を持って速やかに無力化、制圧。その後、人質二名を迅速に保護する。さぁ、状況開始だ――。

 スキンヘッドは今にも高らかに上げた丸太の様な腕をディアナに向け、振り降ろそうとしていた。だが、ディアナは動けない。ブローニングの銃口が彼女に狙いをすましている。それを持つセミロングも、ただ睨みつける事しかできないディアナの姿を見て陰湿な笑みを浮かべている。
 そしてスキンヘッドが銃を振り降ろす為に、その腕を振りかぶる。ディアナは襲い来る暴力に耐える為、その目をきつく閉じ、身を強張らせた。


   ◆◆◆


 それは一瞬の出来事だった。
「――ぎゃあぁああっ!!」
 突然の闖入者と銃撃により、恐怖の静寂で凍りついたバー・ソフィアの店内に響いたのは女が殴られる打撲音でも無く、ましてや銃声でも無く、男の絶叫だった。
 店内で起こった状況を理解していたのは恐らく俺一人だけだろう。
 スキンヘッドは担ぎ上げていた少女を床へ放り出し、手にしたガバメントまでをも放って、右腕を抑えてしきりに呻きを上げ、のた打ち回っている。
 身構えていたディアナも目の前でのたうつスキンヘッドを見て、何が起きたのか状況が掴めずにいた。が、しかし、それを理解する前に彼女は動いた。セミロングは相棒に気を取られ、こちらを見ていない。降って湧いた好機だった。
 ディアナは床に伏しピクリともしない少女へと素早く駆け寄よると、庇うようにセミロングへ背を向け彼女を抱き寄せ、遮蔽物を探す。しかし、そこから動こうにも女性の力では例え自分よりも軽い少女だとしても身動きが大幅に制限される。
 同じく呆気にとられていたセミロングだったが、ディアナが動いた瞬間に我に返り、照準を再び彼女に合わせようとするが、気付いた時には手遅れだった。それは男にとってあまりにも致命的に遅過ぎた。
 ――ゴッ、と鈍い音を上げてセミロングのこめかみに、ビール瓶の肉厚な瓶底が衝突する。あまりの衝撃の大きさに、反動で反対の壁に頭をぶつけるセミロング。
 ふらふらと崩れ落ちそうになりながら、セミロングは狙いも定めず手にしたブローニングの引き金を何度も引いた。天井に向けられ火を噴いたブローニングは、そのマズルフラッシュで薄暗い店内を何度も照らし、吐き出された鉛玉は吊るされたクリスタル製のシャンデリアを粉々にし、白い天井に幾つもの弾痕を穿つ。
 セミロングは寸でのところで壁に手を突き、倒れまいと踏ん張った。コブができ、ぱっくりと割れたこめかみからは勢い良く血が溢れ始めている。
 失神しなかったこと、自分の得物を離さなかったことは褒めてやろう、しかしそれだけだ。
 俺は座っていた状態からビール瓶を全力で投擲した直後に床を思い切り蹴り、舐めるような低姿勢で、間合いにして5m以上の距離を弾かれた様に一気に肉薄した。
 俺が接触するのと男が壁に手を突いたのはほとんど同時だった。
 ふらつくセミロングの握ったブローニングを掴むと遊底を後退させ、撃発不能にすると、そのまま一気にブローニングを男の手の甲に向かって捩じった。 
 引き金に掛かったままの人差し指が本来曲がらない方向へと曲がる。グシャリ、という関節と骨の砕ける音と不快な手応えが伝わってくるが一向に気にしない。
 セミロングはスキンヘッドに負けない絶叫を上げ、悶えるが俺はブローニングを掴んでいた手を男の手首へ持ち替え、そのまま肘を押さえつけ右腕を捩じり、膝を突かせる格好で組み伏せる。
 可動範囲限界まで捻り上げられた肩の関節がミシミシと悲鳴を上げた。
 セミロングはブローニングを握る事が出来なくなってそれを手放す。ガツン、と鈍い金属音を上げ床に落ちる黒い鉄の塊。
 俺は更に腕へ捻りを加え、完全に男をうつ伏せの状態に組み伏せた。瓶を投げ、セミロングに組み付いてから今に至るまで、十秒以下。
 指を捩じ折られ、更に右腕を極められたこの男は、いま自分の身に起きている事を恐らく半分程度も理解できていないだろう。
「俺の女に銃口を向けたな――」
 そのまま男の肩甲骨を肺ごとを潰さんばかりの力で踏みつける。グェ、と潰されたカエルのように無様に呻き、流血で赤く染まったセミロングの顔から血の気が引けていくのが分かった。
「やめ――!!」
 踏みつけられ満足に声も上げられない中、必死に発せられた男の懇願。その言葉に耳もかさず暴れる男の体を片足だけで強引に制し、体重をかけて腕を押し込み、可動範囲外まで捻り捩じった。
 さっきよりも一際大きく、何本もの腱が断裂し、関節が砕ける不快音が響く。しかし、それも直ぐに断末魔のような絶叫で掻き消されてしまった。
「罰だ」
 俺の言葉など、おそらくこの男の耳には届かなかっただろう。汚らしくよだれを垂らし、足の下でもがき苦しむセミロング。
 だらしなく涎を垂らし、苦痛に悶える男の顎先を蹴り抜くと、男は失神しピクリとも動かなくなる。
 まずは一名を無力化、残り一名の無力化を以って制圧は完了。しかし、あちらは俺が手を下すまでもなさそうだ。

 セミロングの相手をしている間に、事は更に進んでいた。スキンヘッドが絶叫を上げる数秒前まで話は戻る。
 俺がセミロングに仕掛けようとビール瓶に意識を移した瞬間だった。俺は扉の外に湧いたように現れた人影に気付いた。しかし、まったく気配が無い。入口から伸びた影が無ければおそらく気付かなかったろう。
 騒ぎを聞き付けた野次馬ではないことは確かだった。野次馬なら銃声を聞いて逃げ出したはずだ。
 扉の外の人影は小さく屈んだと思うと、黒い何かがスキンヘッドに向かって音も無く放った。
 黒い一条のそれはほんの僅かな風切り音を伴って薄暗い店内を閃き、振り上げられた男の腕へと吸い込まれるように飛翔した。
 スキンヘッドに放たれたそれは、黒塗りのスローイングダガーだった。薄暗い店内、風切り音のほとんどしない刃も柄も漆黒のそれは常人では視認すら難しい。
 尖鋭化した五感がそれをダガーだと認識した瞬間、俺は扉の外に立つ人物の目星がついた。その人物が俺の想像通りであれば、もうスキンヘッドはその人物に任せていい。
 俺が行動を起こしたのはその直ぐ後だ。ダガーが見事命中し、男たちの意識が完全に彼女から外れたことで俺は放たれた矢のようにセミロングを強襲する。
 一方、扉の前の人影は間髪いれず、もう一度黒いダガーをスキンヘッドへと放った。
 今度のそれは正確無比にのた打ち回る男の大腿部へと音も無く吸い込まれ、また一際大きな絶叫を放たせる。
 人影は二つ目を放ったのと同時に、階段の下、のた打ち回るスキンヘッド目掛け、獲物に跳びかかる豹を思わせるようにしなやかで、そして俊敏に跳躍した。
 それはまさに影だった。比喩でも何でも無く全身黒ずくめ。夜の闇に溶け込む、限りなく漆黒に近い濃紺のコート、フードを目深に被り、手には黒い手袋を嵌め、気配も無く、捉えどころがないそれは正に影としか形容ができない。
 スキンヘッドに跳びかかるその手には反り返った鋭い刃、肉食獣の巨大な爪の様な、異形の黒く塗り潰されたナイフがあった。それはカランビットと呼ばれるタイプのフォールディングナイフだ。
 人影は手にし、悶え苦しむスキンヘッド目がけ跳びかかっていく。その漆黒の姿は、狩りをする黒豹を連想させた。
 階段を駆け降りるのではなく急降下するような跳躍で音も無く床へと着地すると、その衝撃で沈み込んだままの身体を全身のバネを利用し、着地の勢いを殺さず床を蹴る。低く、鋭く迫るその姿は、まるで本当にネコ科の大型獣のようだ。
 人影はその異様な体術で瞬く間に間合いを詰めると片手でスキンヘッドの頭を床へ抑え込み、手にした刃を男の首筋目掛けて突きだした。急所である頚部を切り裂き、致命傷を与える、明らかに命を狙った動き。
 しかし、その刃がスキンヘッドの素っ首を掻っ切る事はなかった。
「やめなさい! シルヴィアっ!!」
 人影の持つ漆黒の爪はスキンヘッドの首の薄皮を微かに破いた所で、ピタリと静止した。
 そう、彼はディアナの弟である青年だった。
 まるで主人の待ての命令に従う猟犬のように、シルヴィアは人影は男の首筋にその爪を押しつけ続けている。
 さっきまでもがき苦しんでいたスキンヘッドは、突き立てられたナイフを凝視して彫像のように固まっていた。
 スキンヘッドの首筋からは薄皮が破られ血が滲み出している。訳も分からず固まっていたが、ようやく自分の置かれた状況を理解したのか、情けない呻きを上げるスキンヘッド。
 しかし、黒いフードの奥から睨みつけるシルヴィアの瞳には一切の慈悲は無く、冷たい殺意だけがあり、手にした刃は押し付けられたままだ。
 早くこの男を殺らせろ、とでも言うように無言でジワジワと刃を首筋に潜り込ませていくシルヴィア。一気に裂けば頚静脈へとその刃は到達するだろう。
 しかし、それをディアナの怒号が制する。
「やめなさいっ!!」
 ディアナの目は真剣だった、そして何より懇願していた。弟が人を殺める瞬間など見たくないのだ。
 その叱咤でジワジワと薄皮を裂いていた刃が再び止まる。だが、やはりシルヴィアの眼に宿った殺意は消えてはいない。この青年は自分の大切な者に銃口を向けた者を生かしておくほど寛容な人間ではなかった。
 口で言っても聞かない子には、もっと分かりやすい方法を取るしかない。姉の言う事もきけない躾のなっていない弟を教育するために俺は、失神したセミロングのもとを離れた。
 そしてスキンヘッドに刃を当てるシルヴィアのそばまで歩み寄ると、

 ――思い切りシルヴィアの鼻っ柱目掛け、蹴りを放った。

 しかし、俺の渾身の蹴りは虚しく宙を蹴る。全身を使い、跳躍し紙一重で蹴りを避け、距離を取るシルヴィア。
 俺にあの黒い爪を向けて構えるが、やっと冷静になったのか、極端に重心を低く保つ、その獣の様な構えを解いた。
 シルヴィアの目から殺意は消えたものの、今度は邪魔された怒りが燻っている。
 死の恐怖から解放されたスキンヘッドは緊張の糸が切れたのか情けない声を上げ、ぐったりと項垂れ全身を弛緩させる。 とりあえず、この男ももう抵抗はしないだろう。

 敵性分子二名を制圧、人質二名の保護も完了。それを確認して、瞼を閉じ俺はようやく自分の中の"スイッチ"をオフにする。
 ――ガチリ、と俺の中で解放されていたモノが瞬く間に小さく纏まって元の場所へと収まっていく。知覚は鈍化、認識は収束し、疲労感と倦怠感が纏わりつく。身体が重くなったようだ。
「お前は、また邪魔をする……」
 シルヴィアがその目深に被っていたフードを降ろすと、姉に負けず劣らずの美貌がそこから現れる。
 姉と同じプラチナブロンドの髪は野暮ったく伸ばされ鼻にかかるほどまで伸びている。中性的で彫刻のように整った顔立ちに白磁のような肌、姉そっくりの柳眉をひそませ、銀に輝く瞳は剣呑な眼つきで俺を睨みつけていた。
「人前だ、少しは考えろ」
 俺は突き放すようにシルヴィアへ言うと、子供のように怯えるスキンヘッドへ近づき、その顎先へ蹴りを放って意識を丸ごと刈りとった。そして振り返りディアナの元へと歩み寄る。
 シルヴィアは何か言いたげだったが、結局手にしたナイフを渋々仕舞いこむ。
 少女を抱えていたディアナは今のでかなり神経をすり減らしたようだった。大きく安堵のため息を突き、抱えた少女の頬にそっと手を当てる。
「ディアナ、大丈夫か?」
「えぇ、何とか。 でもこの子が……」
 ぐったりと意識を失ったままピクリともしない少女。不安げなディアナの視線は少女から俺へと向けられる。
 少女の傍でしゃがみ込み、その様子を観察する。呼吸も異常は無いし、手首に手を当て脈を測ると、正常に脈が振れていた。手首で脈が触れているという事は血圧の顕著な低下も無い。
「おい、おい起きろ」
 俺の呼びかけに一切反応しない。そうなると爪の先を強めに圧してやった。爪には痛覚が集中しているのでそこを押されるとかなりの痛み刺激になる。それでも少女はピクリとも反応しない。
 意識レベルにかなりの低下が見られた。詳しい事はまだ分からないが予断を許さないのは変わらない。どうにか適切な診察と処置が出来るところに連れて行かなければ。
「薬か何かで昏倒してるみたいだな」
 レミントンの散弾銃を肩に乗せ、店の奥から現れたロベルトが言う。
「お前今まで何してやがった」
 俺の呆れ顔の詰問に対し、悪い悪い、などと悪びれた風も無く言いながらロベルトはのた打ち回る男のもとに歩み寄っていく。
 結局事態を収拾したのは、非常勤の歌手と常連の客だ。この自称用心棒は何をしていたのか……。
 危機が去り、緊張から解放され再び恐慌状態に陥る客たち、それをなだめる為店の奥から戻ったバーテンダーたちが奔走していた。
 割れたシャンデリア、蝶番の壊れ開けっ放しになった扉、弾痕生々しい壁や天井。数分前までの穏やかな空間など、今は微塵も感じられない。
「人の店を滅茶苦茶にしやがって……」
 その様子を目にしたロベルトは呻きを上げうずくまるスキンヘッドに視線を移した。いつも皺の寄った眉間に更に深いしわを寄せ男たちを睨みつける。
「マリオ爺の診療所に連絡をつけておいた。 お前たち二人はその嬢ちゃんを頼む、俺はこいつらに二、三聞かなきゃならない事があるからな」
 後は任せろ、と暴漢たちに視線を向け剣呑な笑みを浮かべたロベルトがいう。
 今更責任者ぶるこの男に言いたいことがいろいろあったがそれは別の機会に取っておくことにして、俺は少女を毛布に包み抱きかかえる。
「それとシルヴィアはこっちで俺の手伝いだ」
「……知るか、勝手にやってろ」
 シルヴィアはフードを目深に被りなおし、ロベルトを無視して入口へと足を向けた。しかし、それをディアナが制止する。
「私からもお願いよ、シルヴィア」
 今にも泣き出しそうな姉の視線を正面から受けたじろぐシルヴィア。
 その懇願を無視できず、しばらく葛藤するシルヴィア。ディアナも必死の視線を彼に送っている。
 絶世の美女にこんなことされて断る男はこの世に存在しないだろう、俺だって無理だ。もし彼女の懇願を断るような男がいるのなら、そいつは男ではない、即刻去勢してやる。
「――ッ、今回だけだ」
 結局根負けしてバツの悪そうに舌打ちすると、踵を返しロベルトのもとに向かう。シルヴィアも結局彼女には勝てなかった。
「シルヴィア」
 腐りながらもロベルトのもとに向かうシルヴィアにディアナが声をかける。
「何だよ、まだ何かあるのか」
「ちょっと遅れちゃったけどおかえりなさい、シルヴィア。 今度久しぶりにご飯、一緒に食べましょう」
 そう女神の微笑みでシルヴィアに笑いかける。シルヴィアは返事することも無く、踵を返すとロベルトの方へと急いだ。
「照れちゃってまぁ」
「う、うるさいっ!」
 俺の冷やかしに怒鳴って、シルヴィアは真っ赤になった顔を隠そうとフードを被りなおす。
「よしそれじゃ、車に急ごう」
 さて、あまりゆっくりもしていられない、腕の中では少女が未だ昏倒している。未だ混乱する店内を横切って、スタッフ用の裏口から彼女の車がある裏の駐車場へと急いだ。





2010/08/08(Sun)02:53:33 公開 / レサシアン
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なかなか進展しない上に無駄に冗長で筆の遅い私ですがよろしくお願いします。

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