『愛と幻想の行動心理学入門(仮) おしまい』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:プリウス                

     あらすじ・作品紹介
少年は論理の信奉者である。物事は論理的に正しいか正しくないかで切り分け、論理的でないものは叩き切る。少女は純粋な利己主義者である。己のためだけを考え、他者の利益が己の利益だなどと甘いことは考えない。ウィトゲンシュタインを神と崇める少年と、貨幣を至上目的とする少女の織り成すハートレス・ストーリー(仮)

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01

 あなたが何か物事を深く知っているとき、その物事に対するあなたの認識はゆがめられている。

「二十七万円」
 彼女が最初に口に出した言葉は僕の予想の斜め上をいくものだったので数瞬の間僕は何かを考えるという能力においてかなりレベルダウンしてしまったのだが気を取り直して彼女が何を語っているのかをよく反芻して考えることにした。
 ……。
 よく考えてみたがよく分からなかった。まず今の状況を整理しよう。放課後の教室。夕暮れ時。僕は彼女に告白した。ベタだなどと笑わないでほしい。僕としては人生初の試みで、相当な緊張をもって臨んだのだ。窓の外から運動部がランニングをする時の「ファイッ、オー」という掛け声が聞こえてくる。ただ走っているだけなのにファイトってどうしてと、今この瞬間にどうでもいい全く無関係な疑問がわいてきたがとりあえずこの疑問は忘れよう。
 どうして僕が彼女、嫦娥峰かぐやを好きになったかと言えば、それはひとえに彼女が美人だからである。黒髪長髪で端整な顔立ち、なんて典型的な日本美人だからである。そんな彼女なのに、不思議なことに浮いた話がひとつも無い。彼氏の存在が皆無なのだ。学校の外にいるかもしれないが、その可能性は低いだろう。彼女は部活やアルバイトといった放課後の活動は一切行わず、自宅からほとんど出ないとの噂なのだ。
 読者諸兄の中には「顔で人を判断するなんて」と思われる方もいるかもしれない。けれど僕はむしろ顔以外で人を好きになれないのだ。例えば趣味の合う人がいい、という人は多い。けれど僕は悲観的な人間なのだ。趣味が合うなんてことはありえない。僕の趣味に付いてこれる高校生女子など最初から期待してはいけないというわけだ。だってそうだろう? いったいどこの女子高生が一緒にニーチェやウィトゲンシュタインはおろか、カント、ヘーゲルについて語り合ってくれるというんだい。あと性格がいいとかいうのはあくまで主観的な問題だから、僕は斟酌しない。あとはもう好みの問題でしかなく、究極的には見た目が全てということだ。
 そんなわけで僕は彼女にアプローチした。話してみて分かったことは、彼女はなかなかに頭脳明晰だということだ。それでいて流行に疎いわけでもない。これは意外なことだった。彼女のような人間は大抵、偏った知識が豊富で世の中のことからは取り残されているものだとばかり思っていたから。逆に僕のほうが分からないことが多い。つい最近も「ゆらゆら帝国が解散したのは本当に悲しいことだわ。死のうかしら」などとつぶやいていた。人気歌手が死んで後追いをする人がいたりするけど、彼女はバンドの解散=バンドの死とまで考えていたらしい。これについて僕は「人は死んだらおしまいだけど、バンドは復活することもあるよ」と元気付けておいた。彼女も「そうね。これからは坂本慎太郎に応援の手紙を書き続けるわ。一生……」と言って気を取り直したようだ。

02

「二十七万円」
 彼女は確かにそう言った。
「えっと、ごめんそれって何の金額かな。僕はさっき君に対して、僕の恋人になってほしい旨を伝えたよね。それに対する答えが二十七万円ということなのかな。これは僕の無知によるものかもしれないけれど、そこに論理の繋がりが見出せないんだ。うん。言ってしまうと飛躍している。どういう意図で二十七万円という言葉を発したのか、もう少し詳しく説明してくれないだろうか。そうすれば飛躍された論理が僕にも見出せるかもしれない。お互いの無理解を解消できるかもしれない」
 彼女、嫦娥峰は携帯端末を取り出してインターネットにアクセスし始めた。そして目的の画面に到達したらしい。それを僕の目の前に掲げて言った。
「新しいデスクトップ端末と、周辺機器一式を揃えるのに必要な金額よ。それが二十七万円。この端末それ自体は二十万円もしないけれど、それ以外に追加モニタや水冷装置も買いたいの」
 まだ論理が飛躍している。仕方が無いから僕は論理補修を行うために一つの仮定を提示した。
「なるほど。つまり君はその新しいパソコンが欲しいわけだ。僕が君に告白した直後にそうした願望を打ち明けるということは、僕の君を彼女にしたいという願望とリンクしているわけだよね。このことから推論するに、僕は二十七万円を支払えば君の彼氏になれる、ということかな」
「おおむね間違いではないわ。ただ、それは少し楽観的な推論ね。二十七万円というのは必要条件であって十分条件ではない。つまりあなたが二十七万円を払わないなら恋人になれないというのは正しいけれど、二十七万円を払ったところで恋人になれるという保証は無いわ。それを安いと思うか高いと思うかはあなたの自由。私を愛するために二十七万円くらいはどぶ川に捨ててもいいという覚悟があるか否かよ」
 これはなかなか厳しい条件が突きつけられたと思った。なんせ二十七万円だ。大卒新社会人の一か月分の給料より少し高いくらいか。いっかいの高校二年生である僕においそれと払える額ではない。ちなみに僕はアルバイトをしたことが無い。だから具体的に、どれくらいの労働でどの程度の金額が得られるかは分からない。それでも一般的な時給で計算するくらいなら出来る。まず時給千円のバイトをすると仮定しよう。僕の町で時給の相場は八百円がいいところだが、計算上の簡略さを求めて千円にした。すると僕は二七○時間働かなければいけない。学校帰りで働けるのが四時間とし、土日はフルで働いても一ヶ月では稼げない。その調子で働いて二ヶ月ギリギリといったところだろうか。実際には三ヶ月以上はかかるだろう。
「それくらいの覚悟はある。けれど実際問題、今の僕には金が無いんだ。これからアルバイトをして三ヶ月でなんとかする。だからそれまで待ってくれるかな」
「嫌よ」

03

「二十七万円という金額は私にとって、さほどの大金ではないの。その程度の額は今すぐにでもキャッシュで用意できるわ。もちろん、一般的に言って二十七万円が大金であるということは分かっている。だから一般人に対して同じことを言うつもりは無いの。でも、それが私を愛そうとする男なら話は別。この程度のお金に三ヶ月もかけるなんて無能にもほどがある。私は自分より稼ぎの無い男の愛になど興味がない」
 そう言って彼女は少しの間黙った。目を閉じ、何かを考えている風だった。
 僕は彼女の言葉に彼女を表す新しい言葉が多々盛り込まれていたことに気づいた。今まで当たり障りの無い会話しかしてこなかったから、知りえなかった情報がたくさん詰め込まれていた。
 まず第一に、実は彼女はお金持ちであるということ。そんなそぶりを一切見せたことが無かったので今まで気づけなかった。特に高級なものを身に着けているわけでもない。むしろバイトでお金を稼いでいる普通の女子高生に比べて質素な身なりをしている。それから第二に、彼女はなんらかの方法でお金を稼いでいる。「稼ぎ」という言葉を使ったことからそれは明らかだ。では、いったいどうやって。
 そこまで考えて僕は嫌な予感を覚えた。彼女はひょっとして、何かいかがわしい手段でお金を稼いでいるのではないかという予感だ。具体的には、インターネットを介したチャットレディというアルバイトではないかということ。チャットレディはスカイプなんかを使って誰かとおしゃべりをするだけでお金をもらう仕事だ。それだけの仕事なのだが、稼ぐには相手の男を満足させなければいけない。結果、カメラ越しの会話で自分の裸体をさらし、人気となるチャットレディが増えるというわけだ。
 ただこれは単なる予感であり、なんの論理的整合性も無い。こうした無駄な心配が自然発生してしまう自分に、少しだけため息をつく。
「だから、あなたに一週間だけあげる。一週間で二十七万円を調達してきて。それが達成できたらあなたとの交際を考慮対象に組み込んであげてもいいわ。それが無理だった場合、残念だけれどあなたとはこれまで通り、ただのクラスメイトAとして私に認識されることになる。どう。やる?」
 なかなかとんでもないことを言う女の子だと思った。日常会話からは想像の付かない提案に僕は少しだけ驚いた。けれど、実は内心ほっとしている部分もある。少なくとも現時点では振られていない。目標が定められて、それを達成するチャンスがある。
 賢明なる読者諸兄ならばこう言うだろう。「そんな糞ビッチはほっといて、もっと別のいい女を探せ。美少女狙いにしても、もっと他にいい子がいるだろう」、と。けれど僕の場合、そうはいかないのだ。僕にとっては嫦娥峰かぐやこそが唯一絶対の美少女なのだ。他の美少女は一般的かつ相対的な美少女であり、絶対的な美少女ではない。嫦娥峰かぐやでなければ意味がない。嫦娥峰かぐやを諦めることは僕にとって人生の恋愛を放棄することに等しい。だから僕の回答は最初から決まっていた。
「もちろん。二十七万円、必ず調達してみせよう」

04

「お兄様は最低です」
 そう言って姫子は上目遣いで僕を睨んできた。心なし、涙ぐんでいるようだ。外檻家の庭でいつものように二人でアフタヌーンティーを楽しんでいた時のことだ。さっきまではいつもどおり、楽しい会話と美味しい紅茶を楽しんでいた。姫子がイギリス王室御用達だと言って淹れた紅茶は確かに気品ある香りを漂わせていた。姫子が焼いたというクッキーを齧りながら。二人でインドの自動車産業やアラブ諸国の企業誘致政策、地球環境における太陽の黒点運動の影響、マラリア対策の薬草研究といったたわいもない話で盛り上がっていた。
 それが突然、顔を真っ赤にし、先のセリフである。僕には何が起こったのかさっぱり分からなかった。
「わたくしが、お兄様をどれほどお慕い申し上げているか、重々ご承知のはず。これが単なる家族愛でないことは何度もお話し致しました。私の今があるのは全てお兄様のためだと。お兄様に愛されるため、お兄様の好む髪型にしました。お兄様が和服を美しいと言ったその日から、着付けと日舞を習い始めたのです。お兄様がわたくしを家族としてしか愛してくださらないのは分かっています。わたくしの一方的な片思いだということも。それは仕方の無いことなのでしょう。いつか振り向いてくれるかもしれないという儚い願いを持ちつつも諦めに似た境地へと至ることもあるでしょう。けれど。だからと言って。どうしてお兄様の恋愛相談を受けるなどという恥辱を甘んじて受け入れられましょうか!」
 涙ながらに我を主張する姫子を見ながら内心ため息をつき、僕はできるだけ優しい声で返事をした。
「分かったよ。結論として、姫子は僕に協力出来ないということだね。けれど僕としてはしばらくはこの問題について思考を巡らす必要があるんだ。すまないけれど、短くとも一週間は僕に話しかけないでね」
 優しく言ったつもりが、何故か姫子の顔がさっと青くなってしまった。唇を震わせ、何かにおびえているような目で僕を見つめる。
「い、いや……、どうして」
「どうしても何も、今言った通りだよ。僕としては嫦娥峰さんをなんとか彼女にしたいと思っている。そのための方策をきちんと考えなければいけない。だから相談相手としてまず身近な姫子を選んだんだ。けれど姫子が僕の相談に乗るのは嫌だと言う。そうなればもう僕にとって姫子との会話に時間を割くことはデメリットでしかない。早急に別の相談相手を探すか、自分ひとりでも解決法を見出すしかない。なんせ時間は限られているからね」
 姫子が信じられないといった目をしている。いったい何をそんなに怯えているのか、僕には分からなかった。
 僕は席を立って自分の部屋に戻ることにした。お金を稼ぐ手段を検討しなければいけない。姫子が泣き崩れる声が背中越しに聞こえてくる。何か悲しいことでもあったのだろうか。少し心配になったが、僕にはどうしようもないので放っておいた。

05

「それで泣き崩れる妹を放ってきたってのかい。あんた、完全に外道だねえ」
 町内にある古びた古本屋の奥、隠れた一室でその男、北条時雨はやれやれとばかりに首を振る。北条は中学生のくせに情報屋などというあこぎな商売をやっている。情報屋などとかっこいい響きだが、その内実は恋愛まっさかりの思春期少年少女から金品を巻き上げるえぐい仕事ばかり。誰それが誰それを好きで誰それも誰それを好きで誰それと誰それの仲が悪い、という下らない話ばかり。
 それにしても僕が外道とは聞き捨てならない。僕は常に真善美を追及し、論理正しく生きているのだから。
「僕が外道かどうかはこの際問わないことにしよう。そもそも外道とは何かという定義もされていないからね。とにかく、僕としては情報屋の君にぜひとも、お金の稼ぎ方を教えてほしいわけだ。君はそれなりに稼いでいるのだろう?」
「まあね。そうしなきゃ生きていけないからそうしてるだけだよ。てかあんたなら金くらいすぐにでも手に入るんじゃないのか。今は全盛ほどの勢いは無くとも、あの外檻の人間なんだろ」
「いや、今回は外檻に頼るわけにはいかない。何故なら、嫦娥峰さんは“自分より稼ぎの低い男に興味が無い”と言ったんだ。これは自力で稼いでこいという意味に取れる。だから例えば、借金をしてとりあえず二十七万円を渡すという手もダメだと思う」
「ふうん。そんなもんかねえ」
 北条は右手に煙管を持ち、ペン回しの要領で器用にくるくると回し始めた。煙管に火はついていない。煙草を吸うのが目的ではなく、何かしらのファッションで持っているらしい。
「そう。だから情報屋である君に頼みたいことというのは、何でもいいから金になる情報を教えてほしいということなんだ」
「金になる情報ねえ。ったく、そんな注文してくる高校生はあんたが初めてだよ。大抵が恋愛ごとの相談で、あんましそういう情報は集めてねえんだよ。だからそうそううまい話なんか転がってない。と言いたいところだが、あんた運がいいな。つい先日仕入れたばかりの取っておきの儲け話があるぜ」
 北条がぐいっと顔を寄せてきたので僕もそれに従う。ここの声が外に漏れることは無いから小声で話す意味など無いのだが、これも彼に言わせると演出の一つらしい。僕以外の客相手には狐のお面まで被っているというのだから徹底したものだ。
「理科室の実験動物が何者かに盗まれたらしい。それもかなり危険な動物らしく、極秘裏に調査が進められている。非公式にではあるが何人かの生徒には情報が提供されていて、発見し捕獲した者には賞金として五十万円が与えられるらしい。賞金の提供元はかの有名な理科室の魔女……」
 黒岩類。
「なるほど彼女か。それで、いったい何の動物なんだ」
「猫だよ。可愛い黒猫さ」

06

「ふむふむ、それで僕のところに……、っていくらなんでも安直過ぎにゃあ!」
 学園屈指のロリっ子、凪澤由愛がにゃあにゃあと異議申し立てを行っている。猫耳を生やしているがもちろんフェイクだ。だって、人間が猫耳を生やすなんてこと、あるわけないじゃないか。そんなものを生やしていたらそれはもう人間じゃない。ところで僕は凪澤由愛を人間だと認識している。当たり前だが、人間でなければ住民票を入手したり、学園に通ったりすることが出来ない。猫耳を生やすものは人間ではない。凪澤由愛は人間である。ゆえに凪澤由愛は猫耳を生やさない(猫耳はフェイクである)
「確かに、僕もさすがにこれはないかなと思ったよ。でも手がかりがゼロの状態だからね。今は猫に関するもの何でも情報がほしいんだ。その点凪澤さんなら校内の猫についても詳しいだろうから、何か知らないかと思ってね」
「偏見にゃ! 僕は僕以外の猫に興味なんかにゃい! だって僕が猫の中で一番可愛いんだから、他の猫なんか気にしたってしょうがにゃいんだにゃ。と言うか、手がかりも何も普通は真っ先に行くところがあるんじゃにゃいか?」
 凪澤さんははてなという表情で首をかしげた。猫耳がぴくぴくと動く。本当によく出来た猫耳だと思う。おそらく電池か何かで動いているのだろう。最近のおもちゃは手が込んでるなあ。
「分かってるよ。どうして理科室に行って黒岩さんから話を聞かないのか、だろう? 彼女がその黒猫の捕獲を求めているのだから、情報もまずそこからスタートさせるべきではないか、と。しごくまっとうな意見だし出来ることなら僕もそうしたい。だけど僕にはどうしてもそうできない事情がある」
「そうできない、事情?」
「そう。実は僕は黒岩さんにとことん嫌われていてね。最後に顔を合わせたのは昨年の終わり頃だったけれど、二度と顔を見せるな見せたら実験動物にして一生飼い殺してやる、と言われてしまったからね」
「いったい何をやったらそこまで言われるのにゃ。けれどそれにゃら、肝心の賞金も手に入らにゃいんじゃにゃいのか? そこまで嫌う人間に賞金を渡したりしにゃい気がするにゃ」
「その時は代理を頼むさ。なんなら凪澤さんやってくれない? もし色々手伝ってくれたら分け前あげるからさ」
「まあそのくらいは構わにゃいが……。それよりこれからどうするつもりにゃ。あてずっぽうに黒猫でも探すにゃか?」
「いや、それでは徒労に終わる可能性が高い。黒猫と言ってもその特徴が分からなければ、全然関係ない普通の黒猫を捕まえてばかりになる。もう少し情報を集めておきたい」
「誰に聞くつもりにゃ?」
「実は僕以外にも捜索を始めている人は何人かいる。中でも最も組織立っていて優秀な人間ばかり集めた連中……。生徒会に直に探りを入れるのさ」

07

「黒猫と呼ばれるものは実際には猫ではない。生徒会としてはそのように考えている」
 目の前の女性をどのように形容すれば良いだろうか。王者の品格を漂わせていながら、決して威圧的というわけでもない。まるで太陽のようだと思った。暖かく包み込む力を持ちつつ、眩しさのあまり直視できない存在感。生徒会長天宮日巫女とはそういう人だった。
 僕は放課後、生徒会室に足を運んだ。僕は生徒会というものを、なにか近寄りがたいものだと思っていた。生徒会室の中では日々、喧々諤々と議論が重ねられ、学園の諸問題への対応をいつも検討しているところだとイメージしていた。ところが実際に来て見ると、それが全くの先入見だと気づかされた。漫画を読んでゲラゲラ笑う男や、さっきからひたすら無言でプリンを食べ続ける少女(僕が見る限りすでに四杯目に突入している)、唯一真面目に働いていそうなのは同級生の柳一彦くんのみであった。
「黒猫を探せと言われたのに、黒猫ではないというのはおかしな話ですね」
「うむ。まったくである」
 言って天宮さんはくすりと笑みをもらした。これは、男でなくとも参ってしまいそうな笑みだと感じた。人間的魅力というやつだろうか。異性同性問わず、他者を魅了する。そういう人間ははっきり言って……、危険だ。
「何故我々が黒猫であることを否定するに至ったか。それは、さほど深い話でもない。単純なことだ。依頼主が「探し物は必ず学園内にある」と断言したためだ」
「ああ、なるほど」
 僕がそう言うと天宮さんは少し驚いた様子を見せた。
「お前はなかなか頭の回転が速いのだな。感心したぞ」
「いえ、それほどでもありません」
 実際それほどでもないと思う。この程度のことで感心されるとむしろ申し訳ないような気持ちになってしまう。要は「必ず」という言葉を黒岩さんが使ったということが重要なのだ。普通の人は「ある」という言葉にひっかかりを感じるかもしれない。一般的に、犬や猫などは「ある」とは言わず「いる」と言うだろう。けれどそこは黒岩さんに関して言えばそれほど問題にならない。彼女であれば黒猫一匹を「ある」で表現してもおかしくない。黒岩類とはそういう女の子なのだ。そんな女の子だからこそ、「必ず」という言葉が重要になる。人はよく「必ず」や「絶対」という言葉を根拠も無く用いる。そしてそこには多大にその人自身の願いが込められる。だが黒岩さんは人が壁をすり抜けられないという事実に対してさえも「絶対」という言葉を使わない。彼女は絶対というものに対してとてもデリケートなのだ。さて、探し物が猫だとして、学園の外に出ていないなどと断言出来るものだろうか。逃げ出したのであればむしろ遠くへ行ってしまった可能性の方が高いだろう。餌の多い商店街付近をうろついている可能性大だ。
「ゆえに我々は黒猫とは猫以外の何かを示す暗号、もしくは隠喩であると考えたのだ。そこでその先だが、お前ならどう考える」
 やはり黒岩さんと会う必要がありそうだ、と思った。やれやれ。

08

「お待ちください、お兄様」
 振り向くと中等部の制服に身を包んだ僕の妹が立っていた。中等部と高等部とは棟が離れているので、中等生がこの高等部の建物にいるのは珍しい。だからだろう、道行く高校生男子たちが妹をちらちらと窺い通り過ぎてゆく。
「姫子、しばらく僕には話しかけるなと言っただろう。言葉が理解出来なかったのかい。それとも、理解した上であえて話しかけてきたのかな」
「もちろん後者ですわ」
 腕を組み、堂々とした立ち姿で僕の顔をまっすぐ見つめてくる。僕はその様子を見て、話を聞こうという気になった。妹は壊れやすい反面、気丈でもあるのだ。簡単に突き崩せるが、簡単に押さえ込めない。儚くもしぶとい。そういう妹なのだ。だから僕は彼女が何かしらの考えを持参して現れたのだと理解した。どういうわけか、彼女は僕に反撃しようとしているらしい。
「よし、聞こう」
「ありがたく存じます」
 姫子はその長い髪を左手でかき上げ、冷たい視線を僕に投げかける。なぜ彼女がそうするかと言うと、僕がそう望んだからだ。彼女は全身全霊僕だけのために生きている。例えばもし僕がここで「運動の得意な女の子が好きだ」と言えば、今日中に専用のシューズを用意して何かしらのスポーツでも始めるだろう。そんなつもりは全く無いが、僕が体を求めれば必ず応じるだろう。だから彼女の一挙手一投足全て、僕の願望を体現していると言っても言いすぎではない。
「お兄様が嫦娥峰様をお好きだと言うのでしたら、わたくしもそれに従うこととしました。つまり、嫦娥峰様をお慕いなさるお兄様を愛する決意をしたということです」
 姫子はすっと僕の傍に近づき、僕の胸に右手を添える。意味は分からない。
「私にとって愛するとは、全てを捧げるということ。そこに私という自我は一切介入させません。ただ一点、愛するという行為それ自体が私の自我です。唯一の我侭です。愛することが否定されたなら、私はもう死ぬしかない。だってそれ以外に私はいないのだから。なのでお兄様には大変申し訳ないのですが、今後何がどうなろうとも私はお兄様を永遠に愛すると誓います。ええ、死が二人を別つまで。くすくす。お兄様が他の誰を愛そうとも関係ありません。誰に愛されようとも関係ありません。これが私の愛なのです。仕方ないのです。だって、そうせずには生きていけない。ですから、今後はお兄様のお役に立とうと思います。お兄様を愛しているから、お兄様の望みが成就されることを心より願うことにしました」
 滔々と語る姫子の表情はどこか恍惚としていて、不思議な魅力を放っていた。それはともかく、僕としては姫子が協力してくれるのは有難い。なんせ姫子は僕よりも頭がいいのだ。読者諸兄は意外に思われただろうか。けれどこれは論理的に言って意外でもなんでもない。僕が彼女に僕よりも頭脳明晰であることを望んだ。それだけのことなのだから。

09

「手段を目的と履き違えぬように」
 姫子に連れられて学園の茶室へとやってきた。姫子はてきぱきと茶道具の準備を進めている。僕はそれを観ながら正座する。もう足が痺れてきた。学園内には茶室は一箇所しかなく、中等部と高等部が一緒に使っているらしい。茶道部も元々人が少ないということもある。とは言え、さすがに千利休よろしく茶室は畳二畳あれば良いというわけではなく、それなりの広さを持っている。部員は全員で二十人ほどいるのだからそれも当然ではある。
 姫子が茶道を始めたのは言うまでもなく僕の影響だ。僕が姫子に「姫子の淹れる緑茶は美味しいね」と言った次の日には今までやっていた美術部をやめて茶道部に入部していた。別に美術部をやめずに両方やればいいのではと思ったが、彼女なりのこだわりがあるらしい。いずれにせよそのおかげで美味しい抹茶が飲めるのだ、文句は言うまい。
 姫子が茶入れと茶碗とを持って入り口(部屋の入り口ではなく、茶室を二畳に見立てた仮の入り口だ)に正座し、お辞儀をする。僕もそれに従いお辞儀で返した。よく見ると茶碗の中に茶筅と茶巾が用意されている。それらを置いて次に建水、柄杓、蓋置を運んでくる。そこまで用意して、姫子は「あっ」と何かに気づいたように。
「申し訳ありません。お濃とお薄、どちらを召し上がりますか」
「その茶入れ、棗だよね。もうそこまで準備したんだからお薄でいいよ」
「恐縮です。先に尋ねておくべきでした」
「いや、今は普通に喉が渇いてるからね。薄茶が飲みたいと思っていたところなんだ。気にしなくていい」
「お気遣い、ありがとうございます」
 話しながら姫子は着々とお手前を進めている。動作のひとつひとつが洗練されていて無駄が無い。袱紗(ふくさ)という布で茶入れと茶杓を清め、茶碗にお抹茶を二さじ盛る。
「茶道の目的はお茶を楽しんでもらうことです」
 茶釜のお湯を柄杓で掬い、茶碗に注ぐ。
「堅苦しいと思われがちな礼儀作法も、要は相手に不快な思いをさせないということが第一義。そのことを忘れて形式に拘れば本末転倒」
 左手で茶碗をそっとささえ、茶筅でお茶を立てる。さっさっさというリズミカルな音が部屋を満たした。
「今のお兄様は、ひょっとして金銭をいかにして得るかということに拘泥されているのではないでしょうか。本来の目的をお忘れなのではないかと」
 姫子は時々、僕がまだ話していないことを知っている。どうやっているのかは些細な問題だから聞いていない。大事なことは、彼女の言葉がそれなりに的を射ているということだ。
「どうぞ」
 そう言って姫子は淹れたての抹茶を差し出した。僕はそれを三度に分けて飲み干した。
「けっこうなお手前で」

10

「敵を知り己を知らば百戦危うからず、と申します」
 孫子の有名な一文を引き合いに、姫子が語り始める。
「お兄様はまず、敵すなわち嫦娥峰かぐやのことをより深く知るべきでしょう。本質的には、彼女はお兄様に金銭を求めているのではありません。稼ぐという行為を求めているのです。それはお兄様もご承知でしょう。借金をしてお金を支払っても、それは彼女の望むことではありません」
 なるほど姫子は北条、例の情報屋から話を聞いたのかと僕は思った。借金云々の話は北条にしかしていない。口が軽いと思ったが、別に探偵というわけではないから文句の付けようもない。本人は探偵まがいのこともしているようだけど。
「つまり、僕が黒猫と呼ばれる何かを探すことは無意味だ、と言いたいんだね」
「ええその通り。一時的に金銭を獲得したところで彼女は感心はしても、お兄様を恋人にしたいと強く願うことはないでしょう」
「言いたいことは分かるよ。けれど、今は一週間しか無いし、その一週間を過ぎれば僕からはチャンスが失われてしまう。一刻も早く対応したいというのが本音だ」
「その発想が短絡的だと言うのです」
 姫子は僕の妹ながら非常に手厳しいことを平気で言う。本当に僕のことを好いているのか、しばしば疑わざるを得ない。
「およそ語られうるものは明晰に語られる。そして語りえぬものには沈黙しなければならないのさ。僕は目の前に起きた事象を論理的に捉え、分析することで世界を理解する。姫子には短絡に思えるかもしれないが、これは僕のスタイルなんだ」
「分かりました。訂正いたします。短絡的ではなく頑固なのですね。だいたい、論理そのものこそ論理では計れないものでしょうに。お兄様は論理を自分勝手に曲解しています」
 僕は押し黙った。語りえぬものには沈黙あるのみ、なのだ。
「まあいいでしょう。結論から申し上げましょう。嫦娥峰かぐや、彼女は株のトレードで財産を得ているようです。これは狐の情報屋さんから伺った話ですが、それにより得た資産はすでに個人が生涯をかけて得る賃金の平均をはるかに超えているのだとか」
「株取引……」
 そもそも僕は株というものに対して何の知識も持ち合わせていない。言ってしまうと、そういう世界をどこか毛嫌いしてさえいる。近年発生した世界的な不況も株取引によって引き起こされたのだろう。金融のプロたちが好き勝手に稼ぎ、そのツケを一般市民に回している。数多くの会社が倒産し、首をくくる人間の増加を思うといたたまれない。
「ですからお兄様も、トレーディングで稼ぐのです。同業で力を持っていると証明できれば、嫦娥峰さんもきっとお兄様に振り向くはず」
 姫子が熱く断言するのと対照に、僕は少しばかり冷静になって考えた。要するに姫子は姫子で短絡的なのだ。そもそも他人というのは自分以上に不確定な存在で、こうすればこう動くという不文律が無いのだから。

11

「よく来たね。歓迎するよ。じゃあとりあえず、死ね」
 黒岩さんが抜き放ったダガーナイフを僕はあらかじめ用意しておいたバスタオルで絡め取った。黒岩さんはすぐさまナイフを手放し、どこに隠し持っていたのかスタンガンを左手に構え、僕に飛び掛ってくる。僕はすかさす後方に飛び退り、近くの花瓶を黒岩さん目掛けて放り投げた。少しの隙を作ろうと思ったのだけれど、彼女は全くひるむことなく全力で僕に向かってきた。黒岩さんの体にぶつかった花瓶は理科室の床に落ち、中身の水と花を撒き散らした。
 すでに逃げ場は無い。仕方なしに僕は黒岩さんから奪い取ったナイフを構える。黒岩さんの動きが止まる。女の子にナイフを向けるだなんて最低だと思うが、男の子にスタンガンを押し付けようとするのもどうかと思うので、おあいこというわけだ。
「やあ、久しぶりだね黒岩さん。今日はちょっと聞きたいことがあって来たんだけど、ひょっとして忙しかったかな」
「零一。よくもこの僕の前におめおめと姿を現せたものだね。全く肝の据わった男だよ。それとも単に物事を考える脳みその無いアホなのかな。理科室に入ったが最後、君の体は僕が分解してあげることに決まっているんだよ」
 いったい誰が決めたのか。もちろん目の前で僕の隙を窺いつつスタンガンを威嚇のつもりか時々バチバチさせている黒髪短髪制服白衣の女の子、黒岩類が決めたのだ。彼女は実験と称してなんでもやる変人で天才ともっぱらの評判なのだ。いったいどういう実験結果なのか、彼女のせいで学校中の鏡が溶けて無くなったり、運動場に巨大な穴が開いたり、プールの水が一瞬で蒸発したりしていた。それでも何のお咎めも無いのは、彼女が学園理事長の孫娘だからだというのが一般的な理解である。
「分解は勘弁してほしいな。黒岩さん相手だとナノレベルまで分解されて消滅してしまいそうだ。死ぬにしても、体の一部は残しておきたいな。一応、家族もいるからね」
「ふん。この僕が冗談を言っているとでも思っちゃってるのかい。全く君は今も昔も未来永劫ダメダメだね。そんな余裕こいていられるのも今のうちだよ」
 とまあこんな平和な会話を楽しみながら、僕は状況の打開策を探していた。……ダメだ、見つからない。こういう場合、少年漫画なら必ず誰かが助けに来てくれるはずなのだが、そういった気配も無い。おかしい、このままでは物語が終わってしまう。僕は僕が主役の映画を観ているはずなのだが、こんなバッドエンドは想定の範囲外だ。
 仕方ない、もう少し会話を引き伸ばそう。そうだ、二人がまだ仲良しで通っていた頃の話題などどうだろうか。今では想像も出来ないが、かつて僕と黒岩さんは周囲からおしどり夫婦とまで呼ばれるほどに仲が良く、何をするにも二人一緒だったのだ。あの妹でさえ、黒岩さんとは親しかった。黒岩さんが声をかけると姫子はいつも必ず「はいお姉さま。お姉さまの下僕である卑しい姫子に何なりと」と応えるくらいに二人は打ち解けていた。
 その頃の話題で小一時間盛り上がれば、すぐに下校時刻になるだろう。見回りの警備員が来てくれれば、とか考えていると体中を電撃が走りビリビリバタン。

12

「おやおや、それは災難でしたなあ」
 猫の頭をしたスーツ姿の紳士は僕の話を聞き終えると、何の興味も無い素振りでそう返事した。猫は愛らしいものと相場が決まっているが、さすがに人間と同じ大きさの顔が目の前にあると、愛らしさは激減である。猫の紳士は一人がけの大きなソファに座り、タバコをくゆらせた。煙を吐き出す時はえらく上機嫌な顔つきになる。
 ところで僕は今、夢を見ている。当たり前だろう、こんな状況、夢でもなければ理解が出来ない。そもそも猫の声帯は人間の言葉をしゃべるのに適していない。
「まあ、そういうわけで僕は今、まな板の上の鯉というわけです。災難でしたと言うより、これからが災難になるという感じです。ひょっとしたら、もうすでに手足の一本や二本、切り落とされているかもしれませんね」
「おやおや、それは災難ですなあ」
 おそらくこの猫紳士は僕に興味が無いのだろう。そもそも何かに興味を持っているかどうかも怪しい。何しろこれは僕の夢なのだ。猫紳士は僕の思考の顕現という可能性がある。僕は昔から何に対しても興味が無かった。例えばクリスマスの夜、僕は普段と変わらない夜を過ごす。例えば小学校の卒業式、僕は家で寝ていた。何かに抵抗していたわけでもなく、ただその日その日の感覚で生きている。思考は論理的でも行動は衝動的なのだ。
 そこで僕は気づいた。猫はただの猫紳士ではなく黒猫紳士だということに。
「黒猫……」
 何か考えようとしたところで黒猫紳士が遮って言った。
「そりゃああなたが私のことを考えていたから、夢で出てきただけですよ。特にこれが物語の伏線になるとか、そんなドラマティックなことはありません。私はただのサラリーマンですからね」
 サラリーマンだったのか。さっきから全く想定外の設定が飛び出してくるが仕方ない、夢なのだから。
「それにしてもあなた、自分の手足が切り落とされる可能性を考えながら随分と冷静ですな。ひょっとして自殺志願か何かですか」
「いや、そういうわけじゃないんです。ただ僕は自分のことにも興味が持てないだけで、切られてるならそれでもいいかと思っただけなんです」
「おやおや、それはそれは」
 黒猫紳士は大きなあくびをして、ソファの上に丸くなった。ひょっこりと尻尾が出てきたので、首から下の全てが人間というわけではないのだと理解した。
 黒猫紳士が眠ってしまったので僕は話し相手を失った。まさか自分の夢で他人に眠られるとは思いもしなかった。彼はどんな夢を見ているのだろうなどと想像してみるが、そういう無限構造は現実的に存在しないし、そもそも夢の中の登場人物は自律した思考回路を持っていないものと思われる。
 僕はあくびをした。眠ることにした。

13

「おっと。ようやっとお目覚めなさった」
 かび臭い本の臭いで目が覚めた。部屋は薄暗く、赤い光が窓から差し込んでいる。見慣れた天井、聞きなれた声。僕はどうやら情報屋のところにいるらしい。
 情報屋、北条時雨は狐の面を被っていた。浴衣であぐらをかいて僕の顔を覗き込むようなしぐさをしている。実際に僕のことを観ているかどうかは不明。
「まったく、あんたは大概に阿呆だね。殺されると分かってて理科室に乗り込むなんて、自殺願望でもあるとしか思えねえ。あんたがやったことは別に死ぬほどのこっちゃねえが、あの女にとっては万死に値する罪なんだろうよ。それを知らないあんたでもねえだろうに」
 普段、北条は僕の前では面を外す。それが今この場で面を付けているということは、近くに誰かがいるということだろう。と考えて周囲を見回してみたが誰もいない。
「ああ。今はちょっと来客中でな。外で待っていてもらってるが、念のために面を付けてる。あんたを理科室から救い出してくれた人だよ。ちゃんと礼しときなよ」
「そうか」
 とりあえずこのまま寝ていても仕方ない。むくりと起き上がり、首を鳴らす。若干体が痺れているように感じるのは精神的なものだろう。スタンガンでビリビリやられた瞬間のことは鮮明に覚えている。
「ついでで申し訳ないんだけれど、その後黒猫の情報とか入ってないかな。いまいち進展が無くてね。生徒会長はどうも黒猫は何かの暗号で猫じゃないと考えてるみたいなんだが、それにしたって確証は無い。あまりにも情報が少なくてお手上げというのが現状だ。情報を持つ黒岩さんには殺されかけるし」
 北条は煙管を鉛筆のように手中でクルクルと回し、何事かを考えているようだった。実際のところは何も考えていないのではないかと思う。彼はパフォーマンスが好きなのだ。考え込む振りをして場を演出している。
「実は物が何なのかは判明してる。あんたと入れ違いに情報が入ってきてね。申し訳ないことをした。生徒会長の読みは正しいぜ。黒猫は猫じゃねえ。どうも情報が来る途中で歪んじまってたみてえだ。黒岩の持つイメージのせいだろうな。黒猫というキーワードと実験という言葉で、短絡的に実験動物に結びついたらしい」
 北条は煙管を近くの火鉢にカツンと叩き付ける。くどいようだがこの行為は演出であり、煙管に煙草は入っていないし、火鉢に火は着いていない。
「それで。結局、黒猫って何なんだ。どうすればそれを手に入れられる」
 何故か北条は出入り口の方を向いた。何かを気にしているそぶりだ。外の人間に聞かれてはまずい、ということだろうか。
「黒猫ロジスティクス」
 突然口にしたのは国内有数の運輸会社の名前だった。
「そこが発行している十年物の転換社債を見つけ出すこと。これが正しい依頼で、依頼主は黒岩類ではなくその祖父、黒岩天満学園理事長、ということだ」

14

「あら、ようやく起きてきたわね」
 北条の部屋を出るとそこで待っていたのは嫦娥峰さんだった。いつもと変わらぬ冷たい笑みを浮かべて僕を見ている。たまらない。
「君が助けてくれたんだってね。ありがとう」
「どういたしまして。先に言っておくけど、どうやったかは秘密よ。あなたが私の恋人になれたら教えてあげるわ。それにしても、一人でのこのことあの変人に会いに行くだなんて、馬鹿なのかしら」
「手厳しいね。こっちは君との約束を果たそうと精一杯頑張っているというのに」
「馬鹿な男は嫌いよ」
 厳しいことを言いながら嫦娥峰さんはそれほど怒っていないように見えた。むしろどこか楽しそうですらある。
「ところで嫦娥峰さん。ひとつ訊きたいことがあるんだけど、いいかな」
「ええ、構わないわよ」
「転換社債って何」
 そう訊くと嫦娥峰さんの目が少し細くなった。何かを値踏みするような視線だ。
「あなたがその質問をするということから二つの情報が導き出せるわね。ひとつはあなたが黒猫ロジスティクスについて調べているということ。そしてもうひとつは、私がどうやってお金を生み出しているか、あなたが知っているということね。どちらもあの狐から聞き出したのでしょう。まったく忌々しいわね」
 正確には、嫦娥峰さんの仕事については姫子から聞いたのだが、その情報もおそらく北条からのものだから嫦娥峰さんの指摘は正しいのだろう。
「まあいいわ。別にこんなの一般常識だから教えてあげる。転換社債というのは、株と交換できる社債のことよ。社債というのは会社の借金。それを買った投資家に対して利息を支払うものよ。満期になれば購入金額にプラスして利息分が支払われるわ。その時、お金ではなく株と交換できるというものなの。もちろんお金で受け取っても構わない。つまり、もしその企業の株価が上がっていれば、株に交換してそれを売り払う方が得になるということ。逆に株価が低迷しているのなら、そのまま社債として利息を貰えばいい。会社が潰れない限りにおいてはかなり魅力的な投資商品ということになるわ」
「なるほど。けれどよく分からないな。それを探せってことはおそらく、どこかに紛失したということなんだろう。でもどうして秘密裏に行う。大々的に探せばいいじゃないか。拾ったからと言ってネコババ出来るような類のものではないだろうに」
 そう言った僕の顔を嫦娥峰さんがじっと見つめる。まただ。また何か値踏みするような視線だ。
「あなた、やはり気づいていなかったのね」
 嫦娥峰さんはやれやれといった顔つきでまた驚くことを告げた。
「黒猫ロジスティクスの転換社債は現時点においてあなたが所有者になっているのよ」

15

 突然で恐縮だが、ここでひとつ詰まらない講釈を垂れたいと思う。本当に詰まらない講釈で読み飛ばされるのもやぶさかではない。これから僕が語るのはほんのちょっとだけ真面目でリアルな話だからだ。僕は今からお金というものについて語ろうとしている。
 お金とはそもそも何か、ということを語りだせば内容があまりにも深遠になってしまう。僕なりの意見を持ち合わせてはいるが、それは今回の意図ではない。僕がこれから語るのはシステムの話だ。システムというのは広義の意味ではなく、もっと狭義のコンピュータシステムのこと。以下はコンピュータシステム、即ちシステムとして語ろうと思う。
 システムとお金はとても親和性が高い。みんなも銀行のATMはよく利用するだろう? それこそパソコンやインターネットが世間に広く普及するより前からATMはみんなに利用され、親しまれてきた。最初は単にお金を引き出す機械というだけだったのが、今ではお金を他人の口座に送ったり出来るようになった。そういった機能は銀行が持つ巨大なシステムで制御されている。
 お金というのは極論すれば単なる数字なのだ。その数字を大量に足したり引いたりする。そういった作業は人間がするよりもシステムにやらせるのが一番効率がいい。システムは間違えない。もちろんシステムエラーといったケースも存在する。けれどそれは人間が手作業手計算で間違える確率よりもはるかに低い。システムは人間の不得手な大量の情報処理をいともたやすくこなしてくれる。
 とかくお金とシステムは親和性が高い。その二つが一体となって世界を席巻していると言っても過言ではない。複数の銀行間でお金を決済させるシステムをRTGSと言う。これは国の中央銀行が主体となって統括するシステム間システムとも言うべきもので、これのおかげで銀行間の決済がスムーズに行われる。話をさらに世界まで広げると、SWIFTというシステムが存在する。このSWIFTを使うことで、世界中のお金がシステムで繋がる。
 今や世界の金融はシステム抜きには語りえない。システムトレードにおける差金決済は一分一秒のレベルで競い合っている。ほんの数分、お金を右から左に動かすだけで数百万円の利益を得る。そうしたことが実際に行われている。もちろんその逆、ほんの数分で数百万円の損失を生み出してしまうということだってある。そうしたことは時の運によるところが大きいが、システムを知っているかいないかで勝者と敗者がくっきり分かれる。知らない人間は負けて当たり前の世界がそこにある。
 ところで僕は今、お金とシステムという括りで語ってみたが、対象はお金に限定されない。まあ似たようなものだけれど、株券も現在においては電子化されている。株もお金同様、数字で表現しやすい情報のひとつだ。だから現物が本当に存在している必要はこれっぽっちもない。一般的に株のことを「現物」と言うけれどね。そこは言葉のあやだ。僕、こと外檻零一は黒猫ロジスティクスの転換社債を見たことがない。けれどそれは僕の所有物らしい。であればそれを示す情報がどこかに必ず存在するはずだ。それを知るには僕はもう一度黒岩さんに会う必要がある。次はいきなり攻撃されることのないよう、慎重に事を運ぶべきだろう。そのためにはいささか乱暴な手段もやむをえないと考える。

16

「いささか乱暴な手段を取ってしまった。すまぬな。これも我が愚劣なる叔父のため、と思うが気は乗らぬ」
 気は乗らぬと言いながらも僕を転がしロープでぎゅうぎゅうに縛りつけ、頭に足を乗せ押さえつけるこの手際の良さには舌を巻く。放課後の生徒会室で生徒会長の天宮さんと二人きり、ロマンの欠片も無いシチュエーションだがどこか気分が高揚している自分を発見した。こんなところで自分の新たな一面を発見するとは思いもよらないことだった。
「まったくわけが分かりません。いきなり押し倒されて縛られるなんて経験、人生初ですよ」
「なあに、すぐに慣れるだろう。私の方は初めてというわけでもない」
 どうやらこの人は何度も他人をいきなり押さえつけて縛るということをやっているようだ。僕は改めて思う。突然人を殺そうとしたり、人の自由を奪うような輩がうようよいるこの学園はもはやファンタジーなのではないか、と。
 天宮さんは身動きの取れない僕を仰向けにしてぐっと顔を近づけてきた。急なことで僕は思わず赤面してしまう。顔をそらそうとした僕をぐっと押さえつけ、じろりと睨み付ける。太陽のごとき美少女に睨み付けられるこの気分はどうだろう。
「むう。さすがに肉眼では識別が付かぬか。それらしき痕跡は見えるから間違いないとは思うが……。ここはやはり理科室の機材を使うしかあるまいが、問題はいかにして魔女の目を誤魔化すか、か」
「会長、出来れば一人で納得しないで僕にも事情を説明してほしいのですが」
 言われて天宮さんは初めて気づいたといった表情で僕を見た。
「ああ、そういえば君は全く事情を知らないのであったな。我々一族の騙し合いに巻き込まれた哀れな小市民であった。単に小銭欲しさにあれこれと情報をかき集めておったのだろうが、それがこんなところに結びつくとは。いやしかし、君はそれ以前から当事者でもあったか。それもまあ完全に認識の外、魔女の被害者といったところだろうが」
 どうやら僕は知らぬ間に何かに巻き込まれているらしい。それが何なのかは察しが付く。黒猫ロジスティクスの転換社債が絡んでいるはずだ。ただその転換社債が具体的にどういう扱いになっているかが分からない。情報が足りない。そしてその情報は僕の眼前で仁王立ちになり、スカートの中が見えそうで見えないぎりぎりのところにいる太陽のごとき美少女生徒会長が持っているのだ。
「君が事情を知りたいと思うのも無理からぬこと。わけも分からぬままに縛り付けられれば誰だってそう思うだろう。しかし世の中には知らぬ方が身のためということだってある。もし知れば君はさらにリスクを負うことになるだろう。だから何も語らぬのは私のささやかな優しさであると理解してほしい」
 言って会長は湿った布切れを僕の口に押し当てた。古典的だが人を簡単に眠らせる例のあれだろう。名前は忘れた。それにしてもこんなものを普通に用意している生徒会とは、まったくもってファンタジーだ。

17

「おやおや、それは災難でしたなあ」
 前にもこんなことを言われた気がする。僕の前に座っている黒猫紳士はさも大して興味も無さそうに哀れみの言葉を言葉だけ並べた。全く感情がこもっていない。「おやおや」「それは」「災難」「でした」という風に単語を繋ぎ合わせただけに聞こえる。もちろん僕はそれに対して腹を立てたりしない。何故ならこれは夢であり、黒猫紳士は僕の夢が生み出した、言うなれば僕の分身。つまり感情がこもっていないのは、僕自身が感情をこめていないからというわけだ。
「いいえ、あなたは思い違いをしています。私は単なるあなたの分身というわけではありません。性格的な部分はあなたの深層心理から部分的に引き継いではおりますが、持っている情報はあなたから切り離されておりますので」
「そんな馬鹿なこと、ありえない。僕の夢に僕の持っていない情報が存在するなんて、容易に信じられるもんじゃない」
 そう言うと黒猫紳士はふふんと鼻をならして、さあてこれからこの馬鹿にちょっと難しい話でもしてやるかという表情を見せた。こういう仕草は僕の深層心理から取り出してきたものだとすれば全く不愉快な話だ。
「私は確かにあなたの一部だが、同時に切り離し可能な存在でもあるのですよ。あえて喩えるなら、パソコンに繋がれた外付けハードディスクといったところでしょうか。あなたがパソコン本体で、私が外付けです。私という外付けハードディスクはあなたの持つオペレーティングシステムから読み込まれる。見た目はあなたと同じになるということです。ですが私の持つ情報は私のものなので、あなたからはいつだって切り離すことが出来る。そういう関係なのです。しかも私というハードディスクにはある種のプロテクトがかけられている。なので簡単に消去したり閲覧したりということが実はあなたには許されていない。あなたに許されているのは私という情報の部分閲覧に過ぎず、それを改変したりすることは一切許されていません」
 黒猫紳士の言っていることはさっぱり分からなかった。コンピュータの話としては理解できても、それが自分の脳だか心理だかに結び付けられるものとは思えなかったのだ。外付けハードディスクと言われたが、僕はそれを取り外す方法だって知らない。
 何も分からない。分からないままに僕は尋ねた。
「その情報にアクセスするにはどうすればいいんだ」
「そんなの、決まっています。情報にアクセスするためのパスワードを入力すれば良いのです。内容の改変パスワードまでは国家レベルの管理下なので不可能に近いでしょうが、閲覧権限は個人のレベルなので容易く得られるでしょう。と言うか忘れていましたが、あなたがその権利者なのでしたね。ですからあなたは自分の持っているパスワードを思い出しさえすればいいというわけですな」
 ふむふむと黒猫紳士は何か納得した様子で満足気だったが、僕としては知らぬものを思い出せと言われただけで事態な何の好転も見せなかった。悩ましい夢である。

18

「おや、もう目覚めてしまったか。君が眠っている間に全てを終わらせてやろうと思ったのだが。まあ仕方あるまい。なんども薬で眠らせて君の体に悪い影響を与えてしまうのも申し訳ないことだし。そこで静かにしていてくれれば大丈夫だ」
 目が覚めるとそこは見たことも無い場所で僕は何やら電気椅子のようなものに固定されていて、頭上から怪しげな機械がゆっくり下りてきている状況であった。並みの精神の持ち主であれば大騒ぎする場面だろう。僕は冷静に叫ぶことを考えたが、猿ぐつわを噛まされていたので「うんうん」としか言えなかった。
「心配しなくてもいい。今から君の右目の情報を抽出させてもらうだけだ。数分で終わるだろう」
 天宮さんが何かよく分からないことを話しているが、僕はあれこれと推理してみた。「情報」という単語がまずひっかかった。さきほど見た夢での会話とどこかでリンクしている。昔どこかで読んだ漫画を思い出す。その漫画では主人公の目にバーコードが貼られているのだ。そうした人間が大勢いて、バーコードを貼られた人間はたいていが何かの犯罪を犯す。そのバーコードというのが実は情報を蓄積する類のもので、実は大きな組織が裏で暗躍してその情報をかき集めていたのだ。最初は正統派サスペンスかと思って期待していたら実はとんでも科学実験な荒唐無稽はちゃめちゃストーリィだったというオチ。
 単なる漫画の絵空事、と思っていたけれど今の状況に置かれてはそうも言っていられない。人工知能の権威であるホフスタッターの言葉を借りるまでもなく、情報とは何かしらのパターンを意味する。例えば自然界に存在する情報。赤と黒はそのまま「危険」を意味する。けれど僕らはそれを読み取れない。てんとう虫を見て「可愛い」と思いこそすれ「危険」とは考えないだろう。けれどてんとう虫が赤と黒の模様をしているのは警告色なのだ。てんとう虫は鳥から身を守るためにあんなあえて目立つ色をしている、と言われている。鳥はてんとう虫を見て「不味そう」だと考えるらしい。
 情報を何かのパターンであると考えれば、僕の右目に何かしらの情報が刻み付けられていても不思議ではない。全く身に覚えの無いことではあるが、過去の時点で情報を得ていたとしたらどうだろう。まるでファイルシステムにおけるファイルのやり取りのように。
 などと意味があるのか無いのか分からないことを考えていると、ふいに天宮さんが何か慌てたような様子になった。
「そんな。データが勝手に転送されて……。しくじった。あの魔女め、端から私の行動などお見通しだったというわけか。データの抽出に反応して自動転送を実行する、これはシェルスクリプトか。いや、手段はどうだっていい。要はこの私がその程度のことも見越せずに出し抜かれたという事実。なんという未熟か!」
 天宮さんは駆け足で部屋を出て行った。天宮さんの慌てっぷりはこれまでのイメージを一変させた。あの傲岸不遜で自信の塊のような生徒会長がああいった表情を見せるのは本当に意外なことだった。などと冷静に分析している場合ではない。僕はと言えば拘束を解かれることなく放置プレイ真っ最中。

19

「やれやれ。やっと出てってくれたか」
 いったいどこに隠れていたのか、僕の前に現れたのは理科室の魔女、黒岩さんだった。相変わらずの黒髪短髪制服白衣っぷりである。
「頭がいい人間ほどこうやって上手く転がせるもんだね。転送先を学園のサーバに設定しておいたことをすぐに見破ってくれた。そこに僕がいると判断して彼女は駆け出してったのさ。もしそこに僕がいて、転送されてきたデータを取得しようとしていたなら彼女に捕まっていた可能性は高いだろうさ。でも僕はさらに罠を仕掛けておいた。実は向こうのサーバにも仕掛けを入れておいたのさ。ここから送られたデータは自動的に削除するという仕掛けをね。だから彼女がサーバルームにたどり着いても何も得られない。じゃあデータは消えてしまったのかと問われればそんなことはない。実はシステムの裏側でデータベースのレプリカを作成するように仕掛けておいたんだ。だから一見、データが移動してしまったようでも実はこっちのバックアップにはちゃんとデータが残っている。つまり彼女が出て行ったこの瞬間こそまさに罠にかかった瞬間というわけ。聡明な彼女のことだからすぐに気づくだろうけど、それこそ後の祭りというわけだね。この勝負、僕の勝ちだ」
 黒岩さんはにやりと笑って僕を見た。そしてつかつかと近づいてぼくの猿ぐつわを取り外した。腕や足の拘束具はそのままに。そして黒岩さんは僕の顔を両手でしっかり固定し、そのまま顔を近づけて接吻なさったのだ。驚きの超展開。
「君とは色々あったけどね。なんだかんだで君のおかげで僕は彼女に勝つことが出来た。だからこれはそのお礼だよ。あのことも水に流してあげる」
 あのこと、とは何だろう。それはきっと黒岩さんが僕の命を狙うに値する出来事なのだろう。けれど今に至っても僕には全く覚えが無い。思い出せない。いったい僕は黒岩さんに対して何をしたというのだろうか。
「ところで黒岩さん。その右手に持っているものは」
「ん? これが気になるのかい? まさか知らないわけはないだろう。これはただの包丁だよ。どこでも買える普通の包丁だよ」
 そう、どう見ても普通の包丁だ。けれど普通の包丁を持つにしては異常なシチュエーションだと言える。TPOを全くわきまえていない。
「そうか。君は僕が包丁を持っていることが不思議なんだね。でも大丈夫。それはすぐに分かるから」
 と言って黒岩さんは僕の喉もとに包丁を突きつけて言ったのだ。
「水に流してあげるから、代わりに今から僕の奴隷になるんだよ。言っておくけど君に選択権は無いからね。拒否すれば、どうなるか……、ねえ? 試してみてもいいけど、それはおすすめしないな。結果の分かりきっている行為をするのは無意味というものだよ」
 僕は事ここに至ってもなお冷静でいられる自分に少しだけ驚いた。そして大事なことを黒岩さんに伝えようと思った。
「黒岩さん。そういうのって“水に流す”とは言わないんじゃないかな」

20

 結論から言うと黒猫ロジスティクスは多額の債務を抱えて破産した。巨大企業であること、旧経営陣に纏向ゆかりの者がいたということで大きな話題になった。黒岩さんが僕所有となっていた黒猫ロジスティクスの転換社債を全て株に転換した数週間後のことだった。どういうことか分かりやすく説明しよう。社債というのは会社が抱える借金のことだ。満期が来れば償還、つまりお金を払って回収しなければならない。けれど株は違う。市場にあればずっと売り買いが行われる代物だ。この違いは大きい。つまりたとえ会社がつぶれたとしても、社債は借金なので支払わなければならない。全額を返せるか否かは別として、返さなければならないという大きな責任を持つ。それに対して株は返す必要が無い。たとえ株が紙切れ同然の価値になったとしても、会社はそれを保障する必要がない。株主との争いは避けられないだろうが、社債や銀行債に優先するようなことはまずない。ぶっちゃけてしまうと黒岩さんの父である学園理事長、その弟が黒猫ロジスティクスの最高経営責任者だったのだ。黒岩さん曰く、黒猫ロジスティクスの経営破たんは不可避だったそうだ。しかし世間的にはそのような見方はされず、優良企業として株は上昇傾向にあった。そのことを尋ねてみると黒岩さんはこう答えた。
「粉飾決算よ」
 すでに会社は傾きかけていた、どころか死に体だったのだ。返す見込みの無い社債は満期が近づきつつあった。それを返す能力は全く無いにも関わらず。借金を返せないということが世に知れれば、銀行からそっぽを向かれる。そうなれば破産は完全に不可避なものとなる。いや、すでに破産は逃れられないものだったのだが、なんとか回避しようと必死になっていた。だからこそ社債を速やかに株に転換させたいと考えた。浅知恵と言えば浅知恵。それだけ経営陣が混乱していたとも言える。
 黒岩さんと天宮さんとは利害と言うか、信念が真っ向から対立していたらしい。正義を信条とする天宮さんからすれば、潰れると分かっている会社の社債を転換させるなど許されざる行為だったようだ。簡単に言ってしまうとそれは借金の意図的な踏み倒しなのだから。天宮さんの叔父にあたる人間も黒猫ロジスティクスの経営陣に参加していたらしい。要は会社の内部争いに女子高生までもが巻き込まれたというとんでもない状況だったというわけだ。
 さて、僕がその話を聞いたのが会社が潰れる数日前。その話をさらに嫦娥峰さんに伝えると彼女は言った。
「ありがとう。期限切れではあるけれど、あなたが金を稼ぐ能力のある人間だと認めるわ。あなたの恋人になってあげる」
 そう言って嫦娥峰さんは彼女の唇を僕の唇に押し当てた。嫦娥峰さんとのキスがこれほど無味乾燥なものとは思いもよらなかった。本当にへたくそで不器用なキス。し終わった後、彼女はどこか怒ったような困ったような顔をして、そのままどこかに行ってしまった。数日後、彼女はどういう手を使ってか、数百万円の利益をたたき出した。これが世に言うインサイダー取引であると知ったのはもっとずっと後のことになる。

21

 あまりにも物語があっけないので、せめてエピローグのひとつくらいは付けておかなければと思ったのも無理からぬ話であろう。などといらぬ御託を並べて茶を濁すのは僕の悪い趣味か。
 以来、僕と嫦娥峰さんは恋仲となった。互いの利害が一致している。僕は彼女に美しくあることを求め、彼女はそれに応じてくれた。もともと美容に無頓着であった彼女だが、最近では美容室に月に一度は行くようになった。服装にも気を使うようになった。以前は街を歩けば十人のうち三人の男が振り返る程度だったが、今では九人の男が見蕩れるほどの美しさを放っている。残りの一人は女に興味が無いのであろう。そしてそういった要望を出す代償として、僕は彼女にありとあらゆる企業情報を伝えるようになった。曰く、どこそこの企業が潰れそうだとか。曰く、どこそこの企業が買収をかけられているとか。とにかく大きなイベントが発生しそうなものを調べて逐一報告した。そういった情報をどのようにして得ているかは企業秘密だが、北条のネットワークが役立っていることだけは伝えておこう。そしてこの学園には大金持ちの子女が集まっているということも添えておけば、容易に推測できるのではないだろうか。北条と僕とで嫦娥峰さんをサポートし、彼女が大いに儲けることで三人の取り分とする。
 平行して黒岩さんとのその後についても触れておかねばなるまい。僕は現在、彼女の奴隷である。奴隷と言っても普段と変わらぬ、ただ彼女の肩を揉んだり、彼女にお茶を淹れてあげたりするだけのことだ。たまに実験と称して危険な行為に駆り出されることもあるが、その程度のことは許容範囲のうちだろう。何度か生徒会長に命を助けられて、呆れ顔をされたこともここに添えておく。最近は黒岩さんと妹がまた仲良くしているようだ。しかし妹までもが兄を奴隷扱いするのはいったいどうしたことだろう。黒岩さんが認めているので、奴隷の身分としては逆らえないのが現状だ。
 色々と説明不足の感は否めないが、物語にならぬ物語はここに閉じる。


おしまい

2010/06/19(Sat)17:49:11 公開 / プリウス
■この作品の著作権はプリウスさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 お久しぶりです。前作を放置したままで再投稿となります。僕個人の環境が大きく変わったため、小説に時間を割く余裕がありませんでした。また少しずつでも投稿していきたいので、どうぞよろしくお願いします。

2010/6/19
 だいぶ時間を空けてしまいました。一気にラストまで進めたので、雑な部分が大いに見受けられます。株のことを知らない人には理解しにくい部分もあるかと思います。今回の小説は、今の時点で僕が興味を持っている分野をさくっと書いてみたという程度のことで、それほど深い意図はありません(笑)。なので厳しいコメントは勘弁、などと甘っちょろいことも言ってみたり。それではまた。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。