『群神物語U〜玉水の巻〜4』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋                

     あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。◎あらすじ◎ 二千年前。神の国、神の宝の伝説を信じて、大陸から、海を越え、オホヤシマに降り立ったニニギ。己が真に求めるものを探し、その魂は、八咫鏡の中へ。そして、周りの人間たちの運命もまた、急速に動いてゆく。……一方、現代日本の宮城県仙台市。サクヤヒメの血をひく上木美子は、修学旅行で京都を訪れる。課題の『伏流水』を、菊水可南子と初島圭吾の協力で済ませた美子は、可南子から母のゆかりの地である眞玉神社行きを勧められるが……。

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◎目次◎
一『夢、一』 二『課題』 三『夢、二』 四『伏流水』
◎主要登場人物◎
【現代編】(第二章、第四章)
★上木美子(かみき みこ)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。十七歳。O型。宮城県遠田郡涌谷町の自宅がなくなってしまったため、仙台市内の躑躅岡天満宮宿舎に居候中。特技は年齢あてと寝ること。
★ふーちゃん 初出第二章:ケサランパサランから成長した、金色の霊孤。現在は小型犬サイズ。美子の心のオアシス。
★土居龍一(つちい りゅういち)初出第二章:土居家第三十九代当主。躑躅岡天満宮宮司、萩英学園高校理事長兼務。二十六歳。A型。一見、物腰は柔らかいが、本心をなかなか明かさない。
★築山四郎(つきやま しろう)初出第二章:躑躅岡天満宮庭師、萩英学園理事長代行。六十一歳。A型。趣味の料理はプロ級。世話好きの子供好き。
★菊水可南子(きくすい かなこ)初出第二章:父は京都雲ヶ畑、眞玉神社宮司の秋男。職業は芸妓。二十三歳。B型。妄想直感型美女。
★菊水秋男(きくすい あきお)初出第四章:可南子の父。眞玉神社宮司。職業は書道家。
★初島圭吾(はつしま けいご)初出第二章:津軽の守護家、初島家の二男。バイクで日本中を回るのが趣味。退魔の武器は、自作のパチンコ。二十一歳。
★結城アカネ(ゆうき あかね)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。B型。好奇心旺盛な女の子。
★田中麻里(たなか まり)初出第二章:萩英学園高校二年三組在籍。美子の親友。AB型。将来の夢はバイオリニスト。
★大沼翔太(おおぬま しょうた)初出第二章:萩英学園高校二年一組在籍。スポーツ推薦で入学した野球部のホープ。
★HORA‐VIA(ホラ・ウィア)初出第二章:仙台の学生に絶大な人気を誇る萩英学園軽音部の三年生バンド。タニグチ(谷口。ヴォーカル兼ギター)、ミヤマ(深山。ギター)、フウジン(風神。ドラム)、ヒムラ(火村。ベース)

◎キーワード説明◎
★守護主(しゅごぬし)初出第二章:ヒタカミの流れを汲み、今なお東北に強力な結界をはり続ける土居家当主のこと。
★竜泉(りょうせん)初出第二章:土居家が、躑躅岡天満宮本殿にて守り、毎日の霊場視に使っている霊泉。
★東北守護五家(とうほく しゅご ごけ)初出第二章:守護主を支える五つの一族。津軽に初島家、北上に沢見家、出羽に蜂谷家、涌谷に上木家、白河に中ノ目家があり、それぞれの当主を守護者(しゅごしゃ)と呼びならわす。当初は四家のみだったが、四百年前に、土居家から上木家が分家され、五家となった。
★秘文(ひもん)初出第二章:魂の力を引き出すための言葉。唱える者の力量により神に匹敵するほどの力を呼ぶこともできる。「稲荷大神秘文(いなりおおかみのひもん)」により龍一が召喚する雷神が代表的。秘文を声に出さずに唱える方法を、暗言葉(くらことは)という。
★飛月(ひつき)初出第二章:伊達政宗が名匠国包に造らせた稀代の霊刀。三百年間、土居家と三沢初子の霊が護ってきたが、現在は美子が護持者となり保管。
★赤い石 初出第二章:美子の母咲子の形見。

四 『伏流水』
(六分の一)
                         ◎◎
「美子、美子」
 遠くから呼ばれて、美子はゆっくりと目を開けた。胸がしゃくりを上げるように上下に波うっている。白い光が眼の奥に射しこむ。
「美子、起きて」
 誰かが自分を上からのぞきこんでいた。
(誰?)
「美子ってば」
(みこ? それが、あたしの名前?)
 美子は、ぼんやりとしたまま、体を起こした。布団の両側から、二人の女の子が心配そうに自分を見つめている。
(この子たちは誰だっけ。ここはいったいどこだろう)
 美子は周りを見わたした。見慣れない古ぼけた和室の中にいる。白い障子が陽の光を柔らかく通し、光っていた。
「こら、上木美子。しっかりしろ!」
 女の子の一人が、ばしんと美子の背中を叩いた。
「あいた!」
「アカネ。ちょっと乱暴よ」
 髪の長い子が、言った。
「だって、麻里。この子、なかなか起きないんだもん」
 麻里が、肩を軽くすくめた。
「確かにねえ。美子がこんなに寝起きが悪いとは思わなかったわ。よく今まで遅刻しないできたわよね」
 美子は、だんだん意識が自分のものになってきて、二人の顔を交互に見た。
「何だ。アカネと麻里じゃない。何でこんなところにいるの?」
 アカネと麻里は、呆れたように顔を見合わせた。
「何でって……。昨日一緒にここに来たじゃない。忘れたの?」
 アカネは、真剣な表情になって、麻里に言った。
「どうしよう、麻里。先生を呼んでこようか?」
 美子は、慌てて手を振った。記憶がいっきによみがえる。
「あ、今、ちゃんと目が覚めた。ごめんごめん」
(ここは、京都だ。昨日、修学旅行でやって来て、この旅館に泊まったのよ。あたしは上木美子。この二人は、親友のアカネと麻里)
 何でまた、こんなことをなかなか思い出せなかったのか、不思議だ。
 まだ疑り深そうに自分を見ているアカネと麻里に、美子は訊いた。
「今、何時?」
「七時半よ」
 麻里が答えた。アカネが続けた。
「もう、みんな、朝ご飯に行っちゃったよ」
 そういえば、二人ともすでに制服に着替えている。美子は慌てて立ち上がった。
「何で、もっと早く起こしてくれなかったの?」
 二人も、苦笑いをしながら立ち上がった。麻里が障子を開け、廊下に出ながら言った。
「三十分も前から声をかけていたのよ。先に行っているから、早く下りておいで」
                         ◎◎
 洗面所で顔を洗ったあと、美子は鏡をのぞきこんだ。何だかまだ、現実に戻りきっていない気がした。
(あたしって、こんな顔をしていたかなあ……)
 そこへ、ひょいと金色の姿が映りこんだ。
「ふーちゃん!」
 美子は、にっこりした。ふーちゃんは、この世の何よりも現実的ではっきりしたものだった。ふーちゃんの温かい毛の感触を抱きしめる。
「ふーちゃんがいて、よかった。あたし、ここにいるよね。ふーちゃんのそばに」
 ふーちゃんの目が、優しく輝いた。美子はそれを見て、ほっと息をついた。
「とても、長い夢をみたの。別な人たちの、別な世界の夢。でも、ちっとも内容を覚えていないのよ」
 美子は、夢の終わりの最後の印象を考えた。悲しくて、せつなくて、温かくて、ほっとして、思いきり泣きたいような気持ちで、目が覚めたのだった。美子はため息をついた。
「これじゃ、何が何だか分からない。ま、夢なんて、そんなものよね」
 そこへ、廊下を担任教師が通りかかった。
「あら、上木さん。まだいたの。早く一階の広間に行きなさい。朝食が始まっているわよ」
 美子は、慌てて洗面用具をしまいながら、答えた。
「はい。今行きます」
 ふーちゃんは、洗面台の上から、教師の足もとに飛び降りたが、彼女はそれにはまったく気づいた様子はなかった。
「じゃあ、早くなさいね」
 そう言って、磨きぬかれたつやつやした木の廊下を歩いていった。
                         ◎◎
 美子が一階の大広間に入った時には、ほとんどの生徒が食べ始めていたが、アカネと麻里は、美子を待っていてくれた。アカネが美子に向かって手を振った。美子は二人のところに行って、座布団に腰を下ろした。
「お待たせ」
「じゃあ、食べよう。お腹、ぺこぺこだよ」
 三人は、膳に並ぶ様々な料理に箸をつけながら、旅行の予定について話し合った。アカネがノートを見ながら、言った。
「あたしは、十一時に八坂神社で、美子の親戚のお姉さんと待ち合わせなのよ。麻里のコンサートは何時からだっけ」
 麻里は、豆腐をつるりと口に入れながら、答えた。
「午後の三時からよ」
「美子は?」
 美子は、焼き茄子をつまんで、持ち上げた。
「この茄子、おっきい! ……あたしは、課題の件で、三時に人と待ち合わせしているの。で、可南子さんとは四時に会う予定よ」
 アカネがうなずいた。
「そうそう、それまでの時間、あたしにつき合ってくれるということになっているのよね。二人は三時まで何をする気なの?」
「せっかくだから、京都市内を観光するつもりよ。午前中は清水寺に行くつもりなんだけれど、アカネも一緒にどう? まだ時間あるでしょ」
 麻里の言葉に、アカネは、今度は、京都市内の地図をとり出してじっと見ていたが、やがてにっこりした。
「うん。清水寺なら、八坂神社からそんなに遠くないし、いいよ」
 麻里は、アカネの、びっしり書きこみをしてあるノートをのぞいて、感心したように、言った。
「これ、全部、舞妓さんについてのノート? すごいじゃない」
 アカネは、得意そうな顔をしながら、麩の入った吸い物を飲み、言った。
「まあね。本物の舞妓さんや芸妓さんが、わざわざ時間を作って会ってくれるんだから、失礼のないようにしなくちゃ。美子の知り合いが京都で芸妓さんをやっているなんて、ほんとラッキーだったわ。しかも、可南子さんの妹が舞妓さんで、この、こと乃さんも一緒に会ってくれるんだって」
「へえ、姉妹で舞妓をやっているの?」
 麻里が、ちょっと関心をよせて訊いた。アカネが、はきはきと答える。
「違うの。妹っていうのは、妹分ということで、実の姉妹じゃないのよ」
 そして、ノートをめくりながら、説明する。
「ええっと、祇園のような花街には、舞妓さんたちが暮らす場所があって、京都ではそれを『屋形』っていうんだって。その屋形の経営者であるおかみさんのことを、舞妓さんは『おかあさん』というの。で、自分より先輩の舞妓さんや芸妓さんは、みんな、『おねえさん』と呼ぶそうよ。そのおねえさんの中でも、舞妓さんが自分のお店デビューのときに面倒をみてもらうおねえさんというのが、一番つながりが深い人で、そのおねえさんは、その妹に自分の名前の一字をあげるし、一人前になるまで、芸のお稽古から、身の回りの支度、プライベートな相談ごとまで、全部の世話をしてあげるんだって。だから、本当の姉妹よりも濃い間柄といってもいいのよ。ちなみに、舞妓と芸妓というのは、また違うの。舞妓を四、五年やったら、襟かえという儀式をして、芸妓になるのよ。可南子さんは、この芸妓で、妓名をたま乃さんというんだって」
 麻里は美子と顔を見合わせて、くすりと笑った。『舞妓も芸妓も似たようなものでしょ』と言い放った同じアカネとは思えない。美子は、アカネの持ってきた京都市内の地図を見てみた。
「ええっと、今いる場所はどこだろう」
 学校の資料で旅館の住所を確認する。
「ひがし……どう、いん、とおり、にじょう、くだる?……これが住所なの?」
 そしてそれらしき地名を探すが、まったく見あたらない。昨日、京都駅に着いたあとは、いっせいに観光バスに乗って旅館に連れて来られただけなので、位置関係もよく分からなかった。
 アカネは、にんまりして美子から地図をとり上げた。
「この住所は、ひがしのとういんどおり、にじょう、さがる、と読むんだよ。つまり、東洞院通という道と、二条通という道が交差したところを、ちょっと南に下ったところにあるということ。ええっと、東洞院通はここだね」
 そう言って、京都駅から北に向かって延びる道をさし、そのままずうっと上に指を滑らせると、ひとところでとめた。
「あった。旅館の場所は、ここよ」
 確かにそこは、『東洞院通』と『二条通』とが交差したところより少し南側だった。ちゃんと旅館の名前も書いてある。美子は、声を上げた。
「あ、すごい、ほんとだ!」
 麻里が、言った。
「でも、二条通と交差しているなら、住所にも『二条』じゃなくて、『二条通』って、書けばいいんじゃない? 間違いかしら」
 アカネが、答えた。
「これでいいんだって。最初に書いてある通りは、その場所が面している通りなの。次に書いてある通りの名前は、そこから一番近くで交差している通りで、面している通りと区別するために『通』という言葉をわざとはぶいているの。だから、もしここが二条通に面していて、東洞院通から西に入ったところにあるところだったら、住所は二条通東洞院西入(にしいる)、となるはずよ」
 おおっと、美子と麻里は、感心して、思わず拍手した。
「アカネ、すごいよ!」
「もう、京都は、ばっちりじゃない!」
「えへへ」
 アカネは、照れたように頭をかいた。
 麻里が、地図をとって眺めた。
「本当に、京都の街って碁盤の目みたいに通りが走っているのね」
 美子も麻里と一緒に地図をのぞきこんだ。
「ほんとだ。しかも、こんなに狭い区割りや道の全部に名前がついている。……京都の人って、名前をつけるのが好きなんだねえ」
 変な感心の仕方をした。麻里が首をひねった。
「この、上京区、下京区というのは分かるけれど、どうして、東が左京で、西が右京区なのかしら」
 確かに上京区を挟んで、地図でいう、右側の東は左京区とあり、左側の西は右京区となっている。なお、上京区の下側、南には、下京区を挟んで東山区と西京区もあるが、これはそれぞれきちんと東と西の方向に分かれている。
「ははあ、そこに気がつきましたか」
 アカネが、ふっふっふっ、と笑った。
「二人とも見て。ここに京都御所があるでしょ。左、右っていうのは、御所から、つまり天皇が北の上座に座って、南を向いた位置から見た方向なのよ。だから、東が左京で、西が右京になっているの」
「なるほど!」
 美子が手を打った。麻里が笑って、地図を置いた。
「アカネの事前調査の素晴らしさがよく分かったわ。舞妓さんのことだけじゃなくて、京都の街のことも、ちゃんと調べてきたのね」
「ちゃんと、っていうほどのことでもないけどね。そこに住む人のことを知るためには、その場所のことも少しは知っておかないといけないかなって、思ってさ」
 アカネは、何だか褒められるのに慣れていないように、いつもより控え目な口調で言った。そうして、地図やノートをしまう。
「調べれば、調べるほど、やっぱり京都って、天皇を中心とした『都』だったんだなあって、思うよ。地名のつけ方一つにとってもね。でも、地図や資料をよんでいるだけじゃ分からないことも多いから、やっぱり実地調査は大事だよね。さ、二人とも、早く行こうよ。清水寺は朝の六時から開いているから、もう入れるよ。清水寺には『音羽の滝』という湧き泉があって、これがお寺の由来なの。美子のテーマは水だったよね。興味があるんじゃない?」
「う、うん」
 美子は、目を丸くした。麻里は笑って言った。
「じゃあ、行こうか、美子。アカネと一緒に行けば、きっと色々ガイドをしてくれるよ」
                         ◎◎
 外は案の定、雨だった。晴れそうで晴れない、やはり今は梅雨なのだった。そんなじっとりとした梅雨空の下、三人は清水寺に着いた。広々とした石段の上の、朱色の大きな山門の手前に鎮座する二匹の狛犬を見て、美子は躑躅岡天満宮のことを考えた。美子が暮らす天満宮も、境内に入るのに、狛犬のわきを通り、石段を上って行くのだ。しかし、清水寺の狛犬の前を通り過ぎる時、美子は、
(あれっ)
と思った。天満宮の狛犬は、向かって右側のものが口を閉じていて、左側のものが口を開けているのに、ここの狛犬はどちらも口を大きく開けているのだ。美子は首をひねった。
(変だな。狛犬は、阿と吽の二つのはずなのに、これじゃ、阿と阿になっちゃう)
 山門をくぐり、境内の中に入る。壮大な木造建築物がいくつも建ち並んでいる様子に圧倒される。鎮守の森の中にひっそりと埋もれるようにしてある天満宮とは、何もかもが違うようだった。清水寺は雨にもかかわらず、有名な世界遺産を見ようと、たくさんの観光客であふれていた。萩英学園の生徒の姿も何人か見える。美子たちはアジサイの花のように丸く開いた色とりどりの傘の波を縫って、いくつかの石段と石畳の参道を上り、ようやくお目あての本堂にたどり着いた。
「ここが有名な、清水の舞台かあ」
 美子は崖の上にせり出されている舞台の端に立った。建物の造りはがっしりしていて立派だが、舞台の床が微妙に前に向かって傾斜がついており、雨で濡れているせいもあって、何だかこわい。下をのぞくと、聞きしに勝る高さである。真正面は、ひたすら濃い緑の木々が雲のように湧き出て、その遠く向こうに小さく塔が見えている。あれも清水寺の建物の一部なのだろうか。
 その後、美子たちは雨をたっぷりと吸った建物と樹木の匂いをかぎながら、本堂を出て、ぐるりと崖を回りこみ、急な石段を下りた。そこに、名水といわれる音羽の滝が流れているのだ。音羽の滝の水は、何故か水飲み場の建物の、頭上から、三本のすじとなって、落ちるように設計されている。その水を飲むには、長い柄の柄杓を目いっぱいに伸ばして汲まなければならない。ずいぶん不便だなあ、と思いながら、美子は水を汲んで飲んだ。
 龍一は、『京の水の味は、とても柔らかいのが特徴だ』と言っていた。美子は、そもそも、『水が柔らかい』という意味がよく分からなかった。音羽の滝の水の味は、確かに美味しい、と思った。しかしそれは、名水だと聞いていたからも知れないし、あるいは単に、蒸し暑い中を歩いて来て、喉が渇いていたからかも知れない。
(あたしも圭吾君と同じかもなあ。水の味の違いなんて、よく分からないや)
 アカネも、麻里も、隣でそれぞれ神妙な顔をして、水を飲んでいる。飲み終わって、滝から離れ、清水の舞台の真下を歩いていた時、ノートを出して見ていたアカネが、突然、
「ああっ!」
と大声を上げた。美子と麻里は、びっくりしてアカネを見た。
「どうしたのよ、アカネ」
 アカネは、何だか、とてもショックを受けたような表情をしている。そうして、二人に向かって、真剣な表情で訊いた。
「あたし、三本の滝のうち、どれを飲んだんだっけ?」
 美子と麻里は顔を見合わせた。麻里が思い出すように、ゆっくりと言った。
「アカネは一番奥だったんじゃない? 私が真ん中、美子が手前、かな」
「うーん。そっかあ」
 アカネが、しきりにノートをのぞきながら考えこんでいるので、美子も気になってアカネに顔をよせた。
「何よ。あの滝が、どうかしたの?」
 アカネが、ため息をつきながら、言った。
「音羽の滝のご利益は、三本の流れでそれぞれ、違うの。向かって一番左が学業成就、真ん中が縁結び、そして右が延命長寿なんだって」
「へえ。じゃあ、私は恋愛成就のものを飲んだというわけなのね」
 麻里が面白そうに、言った。アカネは何故か暗い顔をしている。
「あたし、縁結びの水を飲もうと思っていたのよ。それなのに、すっかり忘れちゃってたわ」
「今から戻って、飲み直せばいいじゃない」
 美子は、後ろを指さしながら、言った。アカネは、首を振った。
「駄目なの。音羽の滝の水は、どれか一つにしぼって飲まないと、ご利益が消えちゃうんだって」
「なるほど、欲ばってはいけないということね」
 麻里がくすくす笑った。美子は、アカネを慰めるように、肩をぽんと叩いた。
「いいじゃないの。あたしなんて、延命長寿だよ。学業成就のほうが、ずっといいよお」
 麻里が、ちょっと考えたあと、アカネに訊いた。
「そういえば、縁結びって、誰とのことを言っているの? やっぱり、大沼翔太?」
 アカネは、ちょっと顔を赤らめたが、きっぱりと言った。
「違うよ、翔太じゃないよ」
 美子は、驚いてアカネを見た。
「どうしたの。あんなに翔太の彼女になるって、言っていたじゃない」
「翔太は全然振り向いてくれないし、もう半年も前にあきらめちゃった」
 アカネはそう言うと、美子を見て、それから、麻里を見、その後、また美子を見ながらゆっくりと言った。
「翔太は、美子を好きなんじゃないかなあ」
「えっ、まさか」
 美子は言ったが、とっさに自分の耳たぶが赤くなるのが分かった。麻里はきょとんとした顔でアカネを見た。
「翔太が美子を? どうしてそう思うの、アカネ」
 アカネは、傘をくるくると回した。
「だってさ、日本史の授業で、いっつも翔太は美子の隣の席に座っているでしょ。席なんて決まっていないのに」
「そうなの、美子。そんなこと、全然言わなかったじゃない」
「な、なんでそんなこと知っているの、アカネ」
 アカネは、にんまりした。
「あたしが何も知らないとでも思っているの? それにこれはもう、校内中の噂よ。知らぬは当人たちと、浮世離れした麻里くらいなものよ」
「へえー」
 麻里は、心底驚いた様子だった。美子は、慌てて、言った。
「席なんて、たまたまよ、きっと。それに隣に座っても、何の会話があるわけでもないし……」
「うーん、怪しいわねえ」
「そうでしょ、怪しいよ」
「怪しくない、怪しくない」
 しかし、むきになって否定すればするほど、二人の顔がひやかすようなものになっていくので、美子は、ほとほと困ってしまった。アカネが、明るく言った。
「ま、あたしはとっくに翔太のことはやめたの。実は、ほかに狙っている人がいるんだ。だから、美子は翔太と気兼ねなくつき合ってもいいんだよ」
「だから、そういうことじゃないんだって……」
 麻里が、アカネを振り返った。
「それで、アカネが今好きな人って、誰なの?」
「うふふ。さあて、誰でしょう」
「ずいぶん、もったいぶるわねえ」
 麻里が、笑う。
「美子ほどじゃないよ。あたしの好きな人は、今は、まだ内緒。でも、修学旅行が終わったら、教えてあげる」
「え、どういうこと? 修学旅行の最中に何かあるの?」
「さあ、どうでしょう?」
「やれやれ。美子の秘密主義が、アカネにも伝染したらしいわね」
 美子はすかさず異議を唱えた。
「あたしには、秘密なんてないよ。翔太のことだって、まったくの誤解なんだから」
「それそれ、それが秘密主義だっていうのよ」
「そうそう、いまだに、自宅にも招待してもらっていないしねえ」
「やっぱり、家に呼べない理由があるのかしらねえ」
「『龍一おじさん』の謎も解けていないしねえ」
 アカネが龍一の名前を出したので、美子は真っ赤になった自分の顔を見られないよう、傘で隠した。
 そうこうしているうちに、八坂神社に到着した。美子はほっとして、可南子の姿を探し、きょろきょろとあたりを見わたした。
「美子ちゃん」
 可南子の声がした。美子がその方向を見ると、提灯がたくさん釣り下げられている境内中央の大きな建物の前に、可南子がいた。
「可南子さん」
 美子は可南子に走りよった。
「久しぶりやなあ」
 可南子は、にこにこして美子を見た。美子も嬉しくて笑った。一年ぶりに見る可南子は、しかし、まったく変らない。今日の可南子は、濃い緑に金の織りが入った着物に紅の帯をしめ、空色の傘をさしていた。何もかもが灰色の景色の中、可南子は一輪のバラのように艶やかに立っている。そうして、美子の後ろに立っている二人に向かって、丁寧に頭を下げながら、挨拶をした。
「そちらさんが、美子ちゃんのお友達どすか? 初めまして。菊水可南子です。ようこそ京においではりました」
「初めまして……」
 アカネも麻里も、可南子の美しさに目を奪われているようなのが、美子には嬉しかった。可南子は、アカネに向かって、言った。
「あんたさんが、アカネちゃんやんな。メールで何回か、やりとりさせてもらいましたね。今日はどれくらいお役にたてるか分からへんけど、よろしゅうお願いしますね」
 アカネは、真っ赤になり、しどろもどろになりながら、答えた。
「は、はい。こちらこそ、お忙しいところ、ありがとうございます」
 可南子は、にっこりとしながら、美子を振り返った。
「ほな、美子ちゃん。四時に『ナインスターズ』でまた会おうな」
「ええ、アカネをよろしくお願いします」
「任しときや。こと乃も舞妓姿で来てくれはることになっとるし。ところで、圭吾とは連絡とれとるんやろ?」
「え? あ、はい」
「ほんなら、よかった。さ、アカネちゃん。行きましょか」
 アカネは、はっとしたように、可南子を見上げると、
「可南子さん。じゃあ、まずこの建物の前で少し、写真を撮らせてもらってもいいですか?」
と言って、さっそくカメラを構えたので、可南子はちょっと驚いた様子だったが、すぐに笑ってうなずいた。
「私の写真も撮るん? ほんなら、もうちょっとええ着物着てくるんやったなあ。……こんなもんでええん?」
「あっ、とっても素敵です」
 アカネが神社の前で色々な角度から、カメラのシャッターをきり始めたので、美子と麻里は、顔を見合せて笑いながら、その場を離れた。
「アカネ、はりきっているね」
「ほんと、ほんと。すっかり取材中の記者って感じ」
 麻里が、ちょっと空を仰いたあと、にやっとしながら、インタビューをするように架空のマイクを美子に突き出し、
「ところで上木美子さん。『圭吾』さんという人とは、どんなご関係なんですか?」
と訊いてきたので、美子は、ぱくぱくと口を開け閉めした。麻里は、くすくすと笑った。
「親戚第三号かしら? 私が思うに、叔父さんの従兄あたり。あるいは、また従兄のそのまた従兄くらいかな」
「麻里!」
 麻里は、あははと笑った。
「まあ、いいわ。私はアカネじゃないから、そんなに追及しないでおくわね」
 美子は、ため息をついた。麻里は澄ました顔でガイドブックをとり出した。
「さあ、お昼はどこで食べようか。私、お腹すいてきちゃった」
                         ◎◎
 昼食をとり美子と別れたあと、麻里は京都御苑の北側にある池のほとりで時間を潰していた。濡れたベンチの上にタオルを敷いて、座る。池の周りにたくさんある木は、桜が多いようだった。春になったらさぞ見事だろうと、麻里は思った。時計を見ると、午後一時半だった。一時間前には会場に入っていなければならない。今回の雅楽の演奏会は、御苑内にある京都御所の中でおこなわれるのだ。麻里は初めて京都御苑に来たが、その大きさはなるほど、千年の都の中心地であったことを偲ばせるのにふさわしい規模だった。御苑の敷地内に走る砂利が敷きつめられた通りは、呆れるばかりにだだっ広い。
(でも、東京の皇居御苑に比べて、何だか寂しい感じだわ)
と、麻里は思った。やはり、その中に主(あるじ)がいるかいないかの違いかも知れない。御所付近の警備の緊張感も格段に違う。聞いたところによると、京都の人は、天皇は仮に東京に住んでいるだけで、本当の住まいはやはり今でも京なのだと言うらしい。日本の首都が東京というのも、本当ははっきり決められているわけではないとも、聞いたことがある。現在、天皇がいるから、事実上、東京が日本の首都としてみなされているだけ、ということだ。
 しかし、麻里は天皇のことなど、どうでもいいと思った。東京の皇居を見たとき、麻里はその大きさや立派さに、感心をとおり越して、何だか腹だたしさを覚えた。この、日本でもっとも地価が高い東京の真ん中に、堀と森と人の警備に囲まれ、贅沢という言葉すら適当ではない広大な敷地の中に住んでいる人間など、麻里と何の関係があろうか。麻里は、小さなアパートに身をよせ合うようにして暮らしている自分の家族、父と母、そして小さな弟のことを思った。父親が破産し、先祖伝来の土地屋敷を含め、何もかもを失ったときも、国は税金のとりたてをやめようとはしなかった。麻里のバイオリンさえ、差し押さえてとり上げていったのである。今、麻里が使っているバイオリンは、それをみかねたバイオリンの講師がくれたお古なのだった。しかしもちろん、音楽とて、権力と無関係でいられるわけではない。むしろ、権力の庇護を受けてより洗練されてきたという歴史上の現実がある。
 池に雨が落ち、無数の輪を描いているのを見ながら、イヤホンをつける。今日の演奏会は、武満徹が作曲した雅楽だ。その雅楽のCDも持ってはいるが、むろん今から聴くのはそれではない。そのものはやはり、生の演奏まで、聴くのをとっておきたい。京都に持ってきたのは、武満徹の別の曲だ。雅楽を聞く前に、武満徹の世界に足を踏み入れておきたいからだ。
 スイッチを入れると、麻里の頭の中にさあっと音が射しこんできた。武満徹作曲の『鳥は星形の庭に降りる』という曲だった。五という数字に支配された音が、最初は遠慮がちに、そしてのちにどこからともなく無数に現れ、降ってくる。
麻里が武満徹の音楽が好きなのは、彼があくまで音の純粋性を求めたからだ。人間の感情や意図に左右されない、音のみが屹立する世界がそこにはある。そこでは、音が空間をつくり、音が時を刻み、音がすべてを生む力をもっているのだ。麻里は武満徹のものの中で、この曲が一番好きだった。黄金比を含む星形五角形のように、美しく完璧で閉じられた音の小宇宙。イデアの存在を信じたい、そんな気持ちになる。
 現実の世界では、麻里は非力な少女だった。しかし、音の世界では、麻里は鳥よりも自由にはばたき、女王のように君臨することができた。麻里は、このような力を与えてくれた天に感謝した。音楽を理解し、音楽を生み出すことのできる力が、確実に自分の中にあるのは分かっていた。あとは、時間をかけてやりさえすればよい。日々の練習はハードなものだったが、常に感じている焦燥感、表現したいという強い欲望を満たすためなら、つらいと思うことはなかった。つらいのは、時間がないことだった。バイオリンを手にとることのできる時間は限られていた。今住んでいるアパートでは弾くことはむろん、できない。
 麻里は、ときおり、自分はひどい自己中心的だと思うことがある。家族が住むアパートの場所も、バイオリン教室の近くに決めてもらった。家の中で練習できない分、少しでもレッスンの時間をとりたいためである。学校が終わったあとは練習室が空いていないことも多いので、麻里は毎朝、学校へ行く前に教室によって練習していた。麻里が音楽に没頭するのは、百パーセント、自分のためだけだった。コンクールで優勝したいと願うのは、音楽の世界で自分が生きていきたい、経済的なことを気にせずにひたすらレッスンにうちこみたいと思っているからであって、家族のためなどではないと自分で分かっていた。だから、美子やアカネに、バイオリンを一生懸命練習していることに対して感心されると、居心地が悪くなるのだった。そして麻里の両親は、自分たちが破産したために、子供たち、特に麻里に対して、充分な援助ができないことを、ひどく申しわけなく思っているようだった。麻里は、そんな両親に、常に後ろめたい気持ちを抱いていた。麻里は、家族を好きだった。しかし、自分がもっとも愛し、重要に思っているのは、音楽だった。音楽がいざなう美の世界に浸り、さらに奥に深く分け入りたいという欲望を満たすことに、麻里は自分の時間と体力と心のほとんどを使っているのだった。あとの時間、学校や友人、家族との時間すら、麻里にとっては影のようなものなのだ。そして、自分の思うようにバイオリンにふれることができないことから、麻里はいつもいらいらしていた。そのいらいらを少しでも解消するため、学校では数学の問題を解いた。数字と音には親和性がある。どちらも目に見えない。しかし、そこには厳密なルールがある。その神秘を解いた者だけが、新たなる世界への鍵を手に入れることができるのだ。
 武満もきっと、選ばれた者のみが入ることができる世界をのぞきみたに違いないと、麻里は思った。しかし、曲は、聴く者にその秘密の一端をちらりとみせ、あるいは想像させたかと思うと、間もなく終わった。扉はまた、麻里がその中に入る前に、固く閉じてしまった。
(いつか、必ず、自分の力で扉の向こうに行くわ)
 麻里は思う。
 そうして、無音の中で、しばし、雨が降るのを眺めた。
 その後、現実に戻るために、麻里は次の曲に『ノヴェンバー・ステップス』を選んだ。オーケストラと、尺八と琵琶の協奏曲で、雅楽を聞く準備としてふさわしいだろう。『鳥は星形の庭に降りる』よりは閉じられた感じがしないのは、洋楽と邦楽とが同じ場にいるためだろうか。しかしそうかといって、彼らが互いに譲り合っているわけではないのが面白いところである。オーケストラは、場を作り、盛り上げたのち、遠慮がちに舞台そでに下がる。そのあとを、尺八が風のようにひょうひょうと吹きわたり、琵琶は石を打つ雨のように気まぐれに音を弾けさせるが、それは必ずしもオーケストラの作った場を尊重してはいない。尺八も琵琶も、自らの音をただ自分らしく奏でているだけだ。意図に対する偶然、それは人と自然との対比にも似ている。オーケストラの意志に関わりをもたぬかのように、尺八と琵琶の自由なるカデンツァが続く。
 武満はこの曲で、音楽は生きものであることを謳っている。演奏家は、作曲家(=天)の与えた場に乗るが、それはけして硬直的な世界ではない。十一の段という規則はある。しかしその段はゆるやかに、ときに蛇行しつつ延々と続くもので、音の自由さを邪魔するものではない。音はその一瞬の中にこそ生きている。一つの音は計ることのできない時の中に生き、次の時には死んでいる。生き死にを繰り返す連続性こそ、音楽の本質だ。
 このオーケストラが象徴するものは、果たして人であろうか? あるいは、尺八と琵琶の偶然が生む自由さの中にこそ人の真の意志があるのではないか?
 雨が描く軌跡は、すべての条件を与えられれば、完全に予測できるはずだ。しかし雨自身は、自らの意志で時と場所を選んでいると思っているだろう。そして、すべての条件を加味することなど、いったい誰にできるだろうか? 人はそれを、意志と呼び、偶然と呼び、あるいは運命などと名づけている。
                         ◎◎
 御所東にあるカフェで昼食をとったあと、美子は、麻里が石薬師御門というところから京都御苑の中へ入って行くのを見送り、ぶらぶらと一人で道をあと戻りした。御苑の木々を眺めながら、静かな住宅地を歩く。そして、近くにある『梨木(なしのき)神社』という神社に立ちよった。ガイドブックによると、そこには『染井(そめい)』という泉があって、京都三名水の一つだという。あとの二つは今はなく、染井の水のみが現存する唯一のものであるそうだ。誰でも飲むことができるというので、美子は一口飲んでみた。
(あれ)
 美子はちょっと首をかしげた。清水寺で飲んだ味とは、確かにどこか違う。どこがどう違うとははっきりいえないが。
(清水寺の水のほうが美味しく感じた気がするなあ)
 しかし、単なる気のせいだろう。なにせ、これは京都三名水の一つなのだ。正直いうと、実は清水寺の水よりも、今朝、旅館で飲んだ水が一番美味しかった。
 美子は自分の舌にとみに自信を失いながら、神社の境内の奥へ入って中をぐるりと回り、社務所らしき建物の軒下にうずくまって、こんこんと眠っているこげ茶色をした犬の前を通りすぎ、またもといた位置に戻ると、立札の説明書きを読んだ。
(梨木神社の祭神は、三條実萬(さねつむ)と三條実美(さねとみ)。実萬は、当時『今天神』と尊称された、才識兼備の人で、明治維新の原動力となった。その子、実美は、父の遺志を継いだ明治の元勲、東京遷都後の御所廃止論に反対した、今日の京都の大恩人、か。ふーん)
 梨木神社は、萩の名所らしいが、咲くのは九月中旬とのことで、今は残念ながら見ることができない。
 また、もう一つの説明書きによると、隣の通り向かいには、『廬山寺(ろさんじ)』という寺があって、そこはかの紫式部の邸跡だという。美子は興味を覚えて、行ってみることにした。
 雨のせいか、寺にはほかに参拝客はいない。拝観料を払い、本堂に展示されている紫式部についての資料をざっと見たあと、縁台に座って、源氏庭と名づけられた庭園を眺めた。細かい雨の中、浮かび上がる清涼な白砂と苔のしっとりした緑、そしてちょうど咲いていた桔梗の花の紫が美しかった。花は、きれいな五角形をしている。
(そういえば、桜も梅も、花びらの数は五枚。どうしてだろう)
 美子は、ふと、そんなことを考えた。
 そして、躑躅岡天満宮のことを考える。仙台も雨が降っているだろうか。雨の日でも掃除を怠らない築山のおかげで、今日も天満宮の境内は清らかな美しさを保っているだろう。美子は急に天満宮に帰りたくなった。一年前までは足を踏み入れたこともなかったのに、今ではこんなにもなつかしい場所になっている。紫式部も、今でもときには、この場所に帰ってくることがあるのだろうか? 自分だけの大切な場所に。
「ふーちゃん。見てごらん。あんなにきれいな桔梗を見たことがある?」
 美子は、かたわらのふーちゃんにそっと、話しかけた。
 雨は時間そのものであるかのように絶え間なく花の上に降り続けていた。

(六分の二)
                         ◎◎
 美子は、御所の西北に建つ晴明(せいめい)神社にも行ってみようと思っていたが、廬山寺でぼんやりしているうちに、気がつけば午後二時をまわっていたため、それはあきらめた。圭吾との約束は三時だったが、待ち合わせの喫茶店は、円山(まるやま)公園の近くで、京都御苑からはだいぶ遠い。そろそろ、出たほうがいい。
 美子は、近くに行けばすぐに分かるだろうとたかをくくっていたが、案に相違して『ナインスターズ』はまったく見つからなかった。三十分以上、円山公園の周りをうろうろした揚句、美子はあきらめて圭吾に電話をかけた。圭吾はちょうど店のすぐ近くにまで来ていたらしかったが、すぐに公園まで迎えに行くと言った。
 何だか、おどろおどろしい枝ぶりの大きな桜の木の下で待っていると、十分ほどで圭吾がやって来た。傘はさしていない。そして重そうな四角いリュックを背負っている。
「やあ、美子ちゃん」
 圭吾が、いつもの、くしゃっとした笑顔を見せた。美子は圭吾に傘をさしかけようとした。
「これくらいの雨じゃ、必要ないよ。ありがとう」
「ごめんね、圭吾君。迎えにわざわざ来てもらっちゃって」
「いやあ、あそこは初めてだと、絶対に分からないよ。オレだって、最初は分からなかったからね。うん。客を完全に拒んでいるな、あの店は」
 圭吾は、南の出口から公園を出ると、しばらくみやげもの屋が並ぶ賑やかな通りを歩いたのち、ふっとわき道にそれた。石畳のほそい小路の両側に白壁に板ばりの美しい建物が建ち並ぶが、住宅ではなく、みな料亭などの店らしいのは、小さな看板がところどころにつけられていることで、ようやく分かる。
 道はひどく折れ曲がっている。数回、角を曲がったところの路地の奥に、ランプの形をした看板を掲げた家があり、そこが『ナインスターズ』だった。
 カラン、カランという古風なドアベルの音をさせて、店の中に入る。部屋の中はほどよい大きさで、しっとりと暗かった。カウンターの向こうに座っていたマスターが顔を上げた。
「いらっしゃい」
 ほかに客はいない。圭吾はリュックをそっと床に下ろすと、息を大きく吐きながら、美子とカウンターの前に並んで座った。口ひげを生やした四十歳くらいのマスターは、立ち上がり、二人に水を出しながら、圭吾に向かって、
「圭吾君、やったな。一年ぶりくらいやったやろか。お久しぶり、よう、お越しやす。今日はまた、かわいい子連れて来はりましたなあ」
と言った。圭吾は、ごくごくと水をいっきに飲んだあと、マスターに、にこりとした。
「覚えていてくれたんですか? ありがとう。あ、この子は、上木美子ちゃんっていうんです。仙台から高校の修学旅行で来ているんですよ」
 マスターが、優しく美子に挨拶した。
「修学旅行ですか。ええなあ。楽しんでいってくださいね」
「ありがとうございます」
 美子は、ぺこりと頭を下げた。マスターはにこにこして美子を眺めながら、
「圭吾君の知り合いで、仙台の子ゆうたら、もしかすると、土居龍一さんのことも知ってはりますか?」
と訊いてきたので、美子は、びっくりした。圭吾が、言った。
「そうそう、そうなんスよ。美子ちゃんは今、躑躅岡天満宮に住んでいるんです」
「ああ、土居さんがいらはる神社は、そんな名前やったなあ」
「マスターは、龍一のことを知っているんですか?」
 美子が訊いた。マスターは圭吾のグラスに水を注ぎ足しながら、うなずいた。
「はい。ここにも何度か来てはりますよ。たいてい、たま乃はんとの待ち合わせに使うてもろてますな」
「たま乃さんっていうと、可南子さんのことッスね。オレたちも、これからここで可南子さんと会うことになっているんスよ」
 圭吾が氷をぼりぼりかじりながら、言った。マスターは水さしをとり上げた。
「聞いてますよ。たま乃はんは四時すぎに来はるゆうことでしたな」
 圭吾は、マスターの手もとをじっと見ていたが、言った。
「あ、そうスか。可南子さんから聞いてましたか。……いや、マスター。もう水はいいから、メニューを見せてもらえませんか? オレ、昼飯がまだだから、腹がぺこぺこなんスよ。この店名物のビーフカレーなんかがいいなあ」
「えろう、すんません。たま乃はんから、お二人にはまず水、そのあと、コーヒーをお出しするよう頼まれてますのや。コーヒーももう、これゆうのを指定されてますよって、メニューはそのあとでよろしいですやろか?」
 圭吾は、きょとんとした顔を上げた。
「え、なんスか、それ。水のあと、コーヒー? なんで可南子さんが、オレたちの飲むものまで決めちゃってるんスか」
「まあ、なんやよう分からへんけど、たま乃はんにはたま乃はんの考えがあるようやったなあ。今すぐ用意しますんで、まあ心を静めて味わってみてくれはりますか。そのあと、カレーでも何でもお出ししますよって」
 と言って、マスターは、後ろを向いてグラスをとり出し、コーヒーの準備をし始めた。
 圭吾は、頬杖をつきながら、美子に言った。
「しょうがないな。美子ちゃんもコーヒーでいい?」
 美子はちょっと笑った。
「だって、嫌だと言っても出てくるんでしょ?」
 圭吾は、カウンターの上に積み上げてあるCDケースを一枚一枚、手にとって眺めていた。
「そうなんだよな。まったく、可南子さんはいっつも一人で勝手に決めちゃうんだから。すきっ腹にコーヒーか……。くだりそうだよ。あ、ごめん」
「お昼ごはん、まだだったの?」
「うん。さっき貴船(きふね)から帰って来たばかりでさ。あ、貴船って京都の北のほうにあるところで、けっこう観光地なんだけど、とりあえず、ひたすら山奥なんだ。しかも、オレが回らなきゃいけないとこってのが、また道はずれの、地図にも載っていないような場所ばかりだからな。今朝早く京都を出たんだけど、全部回るのに、飯抜きでも、この時間までに戻ってくるのに、ぎりぎりだったんだ」
「可南子さんの、水の採取の用事ね」
「うん。この一ヶ月、水、水、水だ。おまけに上からは雨も降ってくるしね。体中が湿っぽいよ」
「その中に、水が入っているの?」
 美子が、圭吾の重そうなリュックを指さした。圭吾は、一つのCDケースを開けながら、答えた。
「そう。オレがこの三日間で集めた二十ヶ所ほどの水のサンプルが入っている。保冷剤も一緒につめてあるから、重いのなんのって……。あ、マスター、このCDかけてもらっていいスか?」
 マスターは二人にアイスコーヒーを出したあと、CDを受けとった。
「はい、アイスコーヒーどうぞ。あ、オアシスのCDやね。ええよ」
 マスターがオーディオ機械のCDを入れ替える。オアシスの『リヴ・フォーエヴァー』が店いっぱいに流れた。
「オアシスが好きなの?」
 美子が圭吾に訊いた。
「まあね。この、自意識過剰的な歌い方がいいんだよなあ」
 圭吾が笑った。美子も笑って、コーヒーを一口飲んだ。そして、もう一口。そうして、圭吾と顔を見合わせる。
「…………」
 二人とも、言葉を失っていた。マスターは、腕組みをすると、にこにこして、それを見た。
「どう? 美味しいやろ?」
 圭吾が、コーヒーとマスターの顔を見比べながら、ようやく言った。 
「美味しいっていうか……、いや、美味しい。美味しいけど、これはほんとうに、コーヒーなの?」
 美子もうなずいた。
「そう、あたしもそう思った。全然、苦くない。コーヒーじゃないみたい。香りはコーヒーだけど、味は、何ていうか、もっと甘いの。甘いっていうのも変かな。砂糖の甘さじゃないものね」
「甘露」
 マスターが、言った。
「それだ!」
 美子と圭吾は同時に、言った。マスターが、満足げにうなずいた。
「二人とも、なかなか、味が分かりはりますな。これは、ウォータードリップという方法で淹れたコーヒーなんや。熱を加えないで、水を一滴一滴浸みこみさせて抽出するやり方で、一回淹れるのに数時間かかりますのや」
「数時間も?」
「そうや。そやから、これは今朝から淹れ始めたものなんよ。二人が来る時間にちょうど淹れ終わるようになあ。やっぱり作りおきはでけへんしな」
「そう聞くと、ますます美味しく感じるなあ」
 圭吾は大事そうにちびちびとコーヒーを飲んだ。美子は気がついて、マスターに訊いた。
「これを、可南子さんは、あたしたちに飲ませたかったんですね」
「そうらしいなあ。ウォータードリップのコーヒーはうちでもいつも出してるんやけど、今出したんは、いつものとはちいっと違うんや。これに使うた水は、今朝早く、たま乃はんが持ってきたものなんや。普段のうちのコーヒーは、店の裏にある井戸水で淹れてるんやけど。さて、ここで判じものや。このコーヒーの水は、どこの水でっしゃろか?」
「えっ」
 急に謎かけをされて、美子と圭吾は目を白黒させた。圭吾が、言った。
「そんな、オレたちは可南子さんじゃないんスよ。分かるわけ、ないじゃないですか」
「そんな、難しいことあらへん。ここは、京や。そして、水は、たま乃はんが持ってきた。それがヒントやな」
「京都には何百って湧き水やら井戸があるんだ。オレはたいていのとこは回って、一応自分でも飲んでみたけど……」
「これが分からへんかったら、カレーもおあずけやなあ」
「そ、そんなあ」
 美子は、コーヒーをもう一度真剣な表情で飲んでみた。そして、最初に出されたグラスの水も飲んでみる。そして、
「この水も、もしかしてコーヒーと同じ水ですか?」
と訊いてみた。マスターが驚いた顔をした。
「美子ちゃん。あんた、よう分かったな」
 美子は照れた。
「あ、まぐれです。鎌をかけてみただけ……」
「ほんなら、その水がどこのもんか、分かりはりますか?」
「うーん……」
 圭吾は、さっき三杯も飲んだグラスの水を、また一口含んでみたが、首を横に振った。
「だめだ、オレは……。美子ちゃんは昨日京都に来たばかりなんだ。もっと分かるわけないよ」
 美子は、またコーヒーをゆっくりと飲んでみた。不思議だった。コーヒーとして飲んだときのほうが、甘く感じる。でも、清水寺の水とも、染井の水とも、そして旅館の水とも違うのではないだろうか。そうなら、美子に分かるわけはない。可南子も、美子が京都に来るのは今回が初めてだと知っているはずだが……。それで、美子は、はっとした。
「あ、これは、眞玉の水ですね? 違いますか?」
 マスターは思わず、ぱしんとカウンターを手の平で叩いた。
「そのとおり! 大正解や」
「眞玉? 眞玉って、眞玉神社のこと?」
 圭吾が、目をみはって、訊いた。マスターがうなずく。
「そう、その眞玉神社にある湧き泉の水で淹れたコーヒーやったんや」
 圭吾が、椅子の背もたれにもたれかかった。
「なんだあ。可南子さんの実家の水じゃないか。オレはこの一ヶ月間回ったところを全部思い返していたのに。……でも、美子ちゃん、よく分かったね。あの神社の水を飲んだことがあったの?」
 美子は首を横に振った。
「ううん。……龍一が飲んでいるのを見たことはあったけど。でも、前に可南子さんが、眞玉の水でコーヒーを淹れると美味しいって言っていたのを思い出したの」
 そうだ、確かに可南子は、『いつか、美子に眞玉神社の泉の水で淹れたコーヒーを飲ませてやる』と言っていた。圭吾は、ほっとしたような顔になった。
「そういうことか。これで謎が解けたよ。さ、マスター。カレーを出してよ」
 マスターは、にやにやしながら、言った。
「なに言うてますのや。眞玉の水とあてたんは、美子ちゃんやよって、美子ちゃんに出すことはできますが、圭吾君には、あきまへんなあ」
「ええっ! それはないよ、マスター」
 美子が、笑った。
「じゃあ、あたしが頼んで、圭吾君にあげるよ」
 マスターも笑った。
「冗談、冗談や。今、お出ししますよって。そんな、泣きそうな顔しはらんでもええがな」
「やれやれ……」
 圭吾が、ため息をついた。カレーはすぐに出てきた。圭吾は、すぐに食べようとスプーンをとったが、おそるおそる顔を上げると、マスターに訊ねた。
「まさか、このカレーにも、質問がついているんじゃないでしょうね?」
 マスターは、パイプに火をつけようとしていたが、ぷっと吹き出した。
「安心してや。謎解きはもう、終わりや。ゆっくり食べなはれ」
 それで、圭吾はスプーンをカレーにつけて、がつがつと食べ始めた。
 美子は、店の中を見回した。漫画本が壁の造りつけの棚にぎっしり並んでいるあたり、普通の喫茶店と変わりない。美子は、一冊、手にとってぱらぱらとめくった。ずいぶん古い本だが、状態はきれいだった。マスターが美子に話しかけた。
「『銀河鉄道999』や。美子ちゃんなんかは、知らんやろ」
 美子は、正直にうなずいた。
「名前は聞いたことがありますけど」
 マスターは、パイプ煙草をうまそうに吹かしながら、カウンターによりかかった。
「そうやろうなあ。私にしても、ずいぶん小さいころの漫画やったもんな。いや、漫画ゆうよりも、私なんかは、アニメで、これをずいぶん夢中になって観たもんや」
「アニメになっていたんですか?」
「そや。私らかて、あんたらと同じくらい、テレビっ子やったんやで。いや、今はインターネットやゲームなんかがあるから、子供たちはもうあんまりテレビを観ない、ゆうことらしいな。あのころの男の子はみんな、『宇宙戦艦ヤマト』や、『ガンダム』をアニメで観て育ちましたんや。『銀河鉄道999』の原作者は、『宇宙戦艦ヤマト』と同じ松本零士や。『宇宙戦艦ヤマト』もいいが、『銀河鉄道999』のほうが、私は好きやね。『宇宙戦艦ヤマト』はどちらかというと、アニメが主体やからね。『銀河鉄道999』のほうが、松本零士の世界感がしっかりうち出されていると思うんや。でも、アニメもよかったなあ。私のメモリアルやねえ」
 マスターは、かなりの漫画好きらしかった。美子は、ちょっと考えて、自信なさげに、言った。
「ええっと、確か、ゴダイゴが、『銀河鉄道999』っていう曲を歌っていませんでした?」
 マスターは、ちょっと眉を上げた。
「よう、知ってはりますな。確かに、映画の主題歌でしたが、 ゴダイゴもずいぶん古いバンドやし、あんた、何でそんなこと知ってはりますのや?」
「あ、あたし、モンキーマジックというバンドが好きなので」
「ははあ。それで、ゴダイゴのことも知ってはったんやな」
「モンキーマジックとゴダイゴが、なんで関係あるのさ?」
 カレーを食べ終わった圭吾が、アイスコーヒーを飲み干しながら、聞いた。マスターは、ふうっと、煙を吐き出しながら、言った。
「ゴダイゴの曲に『モンキーマジック』ゆうのがありましてな、モンキーマジックというバンド名は、そこからとったらしいんやな」
「へえ、そりゃ初めて聞いたな。美子ちゃんは、モンキーマジックが好きなんだ?」
「うん」
「確かに、ええバンドや、私も思いますよ。特に歌詞がええな。ゴダイゴのカバー曲も歌わはってます。まあ、私なんかは、どうしてもオリジナルと比べてしまいますが、それは感傷もだいぶ混じってますよってな」
 圭吾は、カレー皿をカウンターの向こうに返しながら、言った。
「うん、うん。オアシスも、ビートルズの曲を何曲かカバーしているけど、年配の人は、やっぱり原曲のほうがいいって言うもんな。それで、オレもビートルズを聴いてみるようになったんだけど」
「若い人は、そういうところから昔の曲に入りはるということもあるやろな。これは、どちらがいい悪いは、ほんとはないんやろうけどな。私も、古今東西、色々音楽は聴きましたが、正直、今でも、ゴダイゴの『銀河鉄道999』が世界で一番かっこええ曲や、思うてますのや。しかし、それはもう、あの、『銀河鉄道999』という映画を観ながら、あの曲を聴いた、そういう体験が裏にぴたっとはりついているから、思っていることなんやろな。あの、わくわくしながら子供のころ観た映像と、タケカワユキヒデのあの歌声がもう一体となっていますからな。あの映画には、少年を夢中にさせるものが、全部つまっていましたよ」
 そう言って、マスターは、パイプの煙の向こうに、自分の少年のころがみえるかのように、うっとりと宙を眺めた。圭吾は、美子を見て、ちょっと笑った。
「マスターは、だいぶ、アニメおたくみたいだな」
「おや、あんたは、アニメはあんまり、観はりませんのか?」
「うちは親父が厳しくて、漫画と名のつくものはいっさい、家の中では禁止だったんスよ。テレビは家の中に一つきり。チャンネル権は親父だけがもっている。いっつもニュースとスポーツしか流れていないんだ。そのほかの番組は、テレビ局に別に申しこまないと観られないっていうのを、小学生になってからもしばらく信じていたくらいでね」
「そら、かわいそうに」
 マスターは、肩をすくめた。圭吾は笑った。
「まあ、漫画雑誌なんかは、友達の家でこっそり読んでいたりはしたけど、テレビの話題なんかはまったくついていけなくて、ちょっとつらかったな。だから、サッカーばかりしてましたよ」
「そやから、そんな健康優良児に育ちはりましたんやな」
「だから、こんな無骨ものに育っちゃったんですよ」
 そこへ、ドアベルが鳴って、可南子が店に入って来た。ぱたぱたと扇で首もとをあおいでいる。
「はあ、蒸すわあ。昼すぎからえらい気温が上がってきましたで。明日あたりから晴れるんちゃうやろか。あ、美子ちゃん、いたいた。圭吾も、おるな」
 そうして、テーブル席に、ひょいと座りながら、
「コーヒー、美味しかった?」
と訊いた。
「ええ、とっても」
「圭吾は、どうなんや?」
 圭吾は、グラスの水をくるくると回した。
「そりゃ、美味しかったですよ。ただそのあと、急になぞなぞを出されて、まごつきましたがね」
「コーヒーの水が何か、分かった?」
 圭吾がもったいぶったように、答えた。
「眞玉神社の水でしょ」
「それは、この美子ちゃんがあてはったんよ」
 マスターがたちまちすっぱぬいた。圭吾はとたんに情けなさそうな顔になった。可南子はにんまりと笑った。
「圭吾。あんたには分からん思うとったよ」
 圭吾は憮然とした表情になったが、気をとり直すように咳払いを一つした。
「……ところで、ねえ。可南子さん、その人を紹介してくださいよ」
 圭吾が、先ほどからちらちらと視線を送っているのは、可南子の後ろから入って来た女の子で、これはもう見間違えないような舞妓の姿だった。
「ああ、この子は、こと乃ゆうて、『花泉(かせん)』ゆう屋形におるんや。花泉は私がお世話になったとこでな、その縁で、こと乃は私が面倒みさせてもろうとるんよ」
「こと乃と申します。たま乃さんねえさんには、いつもお世話になってます。よろしゅう」
 こと乃がちょっと首をかしげて、圭吾に微笑んだ。圭吾は、さっと、こと乃の前のテーブル席に移ると、相好を崩し、にこにこした。
「こちらこそ、よろしく。オレ、初島圭吾っていうんだ。いやあ、かわいいなあ。オレ、舞妓さんと話をしたの、初めてだよ。話し方も、かわいいッスね」
 可南子は、呆れ顔になった。
「なんやの、圭吾。京ことばなら、いっつも私と話して、聞いているやないの」
 圭吾は、こと乃のサーモンピンクの着物を眺めながら、上の空の様子で答えた。
「え、なんスか? 可南子さんの話し方とは全然違いますよ。ていうか、何もかも違いますね。可南子さんは、何ていうか、姐御って感じじゃないですか。舞妓というより、極妻(ごくつま)、ッスよ。あー、よかった。これぞ、舞妓さんだ。ね、こと乃ちゃん、写真一枚撮らせてもらっていいかなあ?」
「写真どすか? よろしおすえ」
「やった。ありがとう!」
 圭吾は、携帯電話で、一枚どころか、十枚も、こと乃を撮った。可南子は、ため息をついた。
「はあー。男ってのは、ほんま、あほな生きもんやなあ。若い可愛い子がいたら、無条件でへなへなになりよる。ま、そうならん男も、たまにおるにはおるんやけどなあ。……マスター。私とこと乃にも、冷たいコーヒーくれはるか? それから、なんや、がちゃがちゃした音楽がかかってるなあ。暑苦しいわ。サラ・ブライトマンでもかけてくれへん?」
「ははは。分かりました」
 マスターは、オアシスのCDをとり出して、別なCDと入れ替えた。圭吾は不満そうな顔をした。可南子は、圭吾に向かって、扇でひらひらと指図した。
「圭吾。そこんとこ、よけて、美子ちゃんを座らせてやりいな」
「あ、はい」
 圭吾が、慌てて可南子の前の席に移る。美子は、圭吾に謝りながら、こと乃の前に座った。そこに、マスターが新しく注いだアイスコーヒーを四つ、持ってきた。サラ・ブライトマンとホセ・カレーラスが歌い上げる美しい曲、『ジャスト・ショウ・ミー・ハウ・トゥ・ラヴ・ユー』が流れてきた。可南子は、コーヒーを一口飲むと、言った。
「これこれ、これこそ、ほんまもんの、歌というものや。花街に住むもんは、普段から美しいもん、美味しいもんを、気いつけて、選ばなあかん。圭吾みたいにロックばかり聴いてたらあかんで、こと乃」
「わかりました、たま乃さんねえさん」
 こと乃が、素直にうなずく。圭吾が横を向いて、ぶつぶつ言う。
「オレの選曲だって、分かっていて、言うんだもんな。まったく意地が悪いったら、ありゃしない……」
 美子は、ちょっと笑った。そして、こと乃に、言った。
「あの、あたしの友達のアカネにつき合ってくれたんですよね。ありがとうございました。お忙しいのに」
 こと乃は、くすっと笑って、コーヒーをストローでちょっと飲んだ。
「構しまへん。ほかでもない、たま乃さんねえさんの頼みやし、屋形のおかあさんも、一日くらいやったらお稽古休んでもいいゆうてくれはりましたし。それにしても、修学旅行に課題があるなんて、なかなか大変どすね。そやけど、うちは中学卒業してすぐ舞妓になってしまいましたんで、みなさんが少うし、うらやましいおすね」
「え、こと乃ちゃんは、今、何歳なの?」
 圭吾が身を乗り出す。
「今年で、十七どす」
「あ、じゃあ、あたしと同い年なんだ」
 美子は、びっくりした。
「いやあ、その年で、もう働いているなんて、えらいなあ」
「圭吾。あんまりこっちに近づかんといてや。うっとうしいわ」
 可南子が、扇で、ぱちんと圭吾の額を叩いた。
「いて」
 圭吾が、頭を撫でながら、しぶしぶと少し体を引っこめる。
「こと乃ちゃん。その美子ちゃんは、土居さんと同じ所に住んではるんやって」
 マスターが、カウンターの中から声をかけた。すると、こと乃の顔がとたんに、ぱっと輝いた。
「まあ、ほんまどすか?」
 圭吾が、驚いたように、こと乃を見た。
「こと乃ちゃん。龍一様を知っているの?」
「ええ。あら、あんたさんも、あの方のファンなんどすか?」
「フ、ファン? なんスか、それ」
「美子さん。龍様と一緒に住んではるって、もしかして、今日も一緒に来てはりますのんか?」
 こと乃が、辺りに龍一がいないかと探すように、きょろきょろした。美子は、唖然として、こと乃をただ見ていた。
 圭吾が、目をぱちぱちさせながら、こと乃に訊いた。
「えーと、こと乃ちゃん。今、龍一様のことをなんて、言った?」
 こと乃は、うふふ、と笑った。
「りゅう、さま、どす。うちら、陰ではそうお呼びしとるもんやから、つい、口がすべってしまいました。でも、あんたさんも、同じように呼ばはりましたやろ。そやから、うちらと同じ、あの方のファンなのかと思いましたんどす」
「は? いや、オレはねえ……」
「圭吾は、躑躅岡天満宮につながる、津軽の蛇木(ははき)神社のとこの子なんや」
 可南子が、口をはさんだ。こと乃は、ちらっと圭吾を見て、
「ああ、そういうことどしたか」
と言って、また美子に向き直った。
「ところで、美子さん。龍様は、普段は、どんな格好をしてはりますの? やっぱり、宮司はんの、装束姿どすか? こちらに来らはるときは、いっつもスーツ姿どすが、装束を着はったところも、素敵やろなあ」
「……こっちに、来るとき、いつも?」
 美子が、ようやく、言った。
「ええ。これが、この春、祇園に来はったときの写真どす。お座敷に呼んでくれはりまして」
 そう言って、こと乃は、自分のこまごまとした持ち物を入れてあるかごの中から、携帯電話をとり出して、開けてみせた。そこには、確かに、畳の上に座っている龍一の姿が映っていた。両わきには、何人かの舞妓や芸妓がいる。こと乃は、龍一のすぐななめ後ろに、にっこりと笑って写っていた。圭吾は、美子の横からそれをのぞきこんで、驚いたように声を上げた。
「あ、ほんとだ。龍一様だ。へえ。龍一様って、しょっちゅう、祇園に来るの?」
「しょっちゅう、ゆうほどでもありまへんが、今まで三、四回、そう、この間で四回目や思います」
「こと乃。あんた、龍ちゃんの写真なんか持っとったんか。しかも、なんや、待ち受けにしとるん?」
 可南子が呆れたように、言った。こと乃は、可南子にも龍一の写真を見せた。
「よう、撮れとりますやろ? そや、あの日、たま乃さんねえさんは、早くお帰りにならはりましたんどしたな」
「なんや、あほらしゅうなってなあ。よう、考えたら、何で私が、龍ちゃんに踊り見せたり、お酌せな、あかんのか、思うてな。私のほうが接待してほしいくらいのもんやのになあ。それなのに、おかあさんの肝入れか、龍ちゃん一人に、七人も八人も芸妓や舞妓が、一つの座敷にぎゅうぎゅうつまって、しかも呼びもしないお人まで来はってたやないか」
「そら、龍様に一目会いたいゆうて、はる乃さんねえさんなんか、別のお座敷を断ってまで来はりましたんおすえ」
「そやろ。そやから、あほらしい、ゆうんや。ほかの座敷に出たほうが、なんぼか稼げるやろに」
「まあ、ねえさん……。稼ぎの問題やあらしまへん」
「どこが、ええんや。あんなおもろない男。いくら酒を飲んでも、ちっとも酔わんし、冗談の一つも言えんやっちゃ」
「どこが、って、俳優さんみたいに格好ええし、それでいて、いつも礼儀正しいし。おかあさんもべた褒めや、ないですか」
「おかあさんは、自分の腰痛を龍ちゃんに治してもろたからやろ。それに、礼儀正しい、やて? 私なんかは、『慇懃無礼』とは、あの男のことをゆうんやないかと思っとるんやけどなあ」
 こと乃は、目をみはった。
「たま乃さんねえさん。ねえさんは、龍様がお嫌いなんどすか?」
「いや、嫌い、ゆうことはないけんどな……」
 こと乃は、くるりとまた美子のほうを見た。
「それで、美子さん。美子さんは、龍様の写真は持ってはりませんのか? たとえば、宮司姿のものとか……」
「いえ、別にあたしは……」
 美子は、もぐもぐ言った。可南子が、ぱしりと扇を鳴らした。
「ええ加減にしいや、こと乃。この子も龍ちゃんの、いわば親戚すじや。そんなもん持ち歩いて喜んどるあんたらとは違うんや。それにな、お座敷に呼んでもろたお客の写真なんか、めったやたらに人に見せたり、するもんやない。これは、龍ちゃんが私の親戚やから言うんやないで。私ら花街の人間は、一歩お座敷を出たら、中で見聞きしたもんは、口が裂けても漏らしたらあきまへんのや。そんなことをしたら、いっぺんで干されてまう。分かったな。あんたがこれからも花街で生きていきたかったら、このことを、よう覚えておきいや」
 こと乃は、びくっとして、慌てて携帯電話を閉じた。
「すんません。たま乃さんねえさん。かんにんしてください」
 そうして、しょんぼりと下を向いた。可南子の、口調が和らいだ。
「分かってくれはったら、ええんや。……今日は、私のために長い時間つきおうてくれて、おおきにな。さ、今日はこれから大事なお座敷があるんやろ? もう、帰ったほうがええんやないの?」
「はい。あの、この写真は消したほうがええでしょうか?」
 こと乃は、携帯電話を握りしめながら、言った。可南子は、ちょっと笑った。
「別に、あんたのケータイの中身のことまで干渉する気はないよ。でも、待ち受けは、やめたほうが、ええかも知れへんね」
「はい。じゃ、うちは、これで」
 こと乃は、にっこりと可南子と美子と、ついでに圭吾に微笑んで、立ち上がり、ころころと下駄を鳴らしながら、店を出て行った。青竹色の鮮やかな長い帯が左右に揺れるのが、ドアの向こうに消えたのを見たあと、美子は、大きく息をついて、コーヒーを飲んだ。氷がすっかり溶けていた。
 マスターが、笑った。
「いやいや。久しぶりに、泣く子も黙るたま乃はんの啖呵を聞けましたな」
 可南子は、苦笑いした。
「マスターまでそんなこと言わんといてや。それに、こと乃はあのくらいではこたえへんよ。案外、図太いとこがある子やからな。ま、この世界、多少のことでへこたれる性格ではやっていかれへん。私はそういうところを、みこんどんのやけど。……そういや、この春、龍ちゃんがこっちに来たときも、ここによったと思ったけど、どうやった、例の件は? マスターのみたてやけど」
 マスターは、
「例の件? ああ、例の件やな」
と言って、ははは、と笑った。
「残念ながら、いや、残念かどうかは分からへんけど、ともかく違うと思うたな、私は」
「そうかあ、違うか。まあ、ほっとしたような、しないような。ともかく、おおきに」
 圭吾が不審そうに、可南子とマスターを交互に見た。
「何です? 例の件て?」
 マスターは、困ったように可南子を見た。可南子が澄まして、コーヒーを一口飲んだあと、
「龍ちゃんは、実は女より男が好きなんちゃうか思って、マスターにそのみたてを頼んどいたんや。結果は白やったみたいやな」
と言ったので、圭吾は、とたんにゴホゴホとむせかえった。美子も、驚いて可南子を見た。
「龍一様が、ホ……。可南子さん。あなた、なに考えてるんスか?」
 可南子は、ひらりと扇を開いた。白檀で作られたもので、天女の透かし模様が入っている。それがひらひらと左右に揺れた。
「そやかてなあ。十年以上もあの子をみてるのに、この年になるまで浮いた噂の一つもないなんて、おかしいやないの。隣にいくらかわいい女の子がいても見向きもせえへんし。怪しいと思うんも、無理あらへんやろ?」
「龍一様は、そんな俗物じゃ、ないですよ」
 圭吾は怒ったように言った。
「あほ。俗物か、そうでないかは関係あらへん。ま、圭吾。あんたみたいに分かりやすい人間やないことは確かみたいやけどな」
 そう言って、可南子はこと乃が消えたドアのほうをさした。圭吾は、一つ、咳払いをした。
「そ、それで、何でマスターにその確認を頼むんです? というより、ど、どうやってそういうことを確認するんスか?」
 可南子は、くすりと笑うと、マスターを見た。
「マスターは、そういう方面は得意分野なんや。そうか、そうでないか、見ただけで、ピタリとあてはるんよ」
 圭吾は、唖然として今度はマスターを見た。心なしか、体がのけぞっている。マスターは、口ひげの下でにんまりと笑った。
「圭吾君。安心してや。私そのものはノン気やさかい。実は、私の両親が同性同士やったもんやから、まあ、自然と見る目ができたゆうことかなあ」
「両親が、同性? いや、両親というからには、お父さんとお母さんなわけで、つまり、男と女でしょう?」
「そやから、それが、男と男やったんや」
 圭吾の顔が間の抜けたように伸びた。可南子は、にやにやとして、それを見た。マスターが続ける。
「むろん、私の本当の生みの母親ゆうのは、別にいてます。そやけど、私が生まれてすぐに両親は離婚しはってな。原因は母親がほかに男をつくって家を出て行った、ゆうことや。それ以来、うちのお父さんは女性不信にならはって、しばらく男手一つで私を育ててくれはりましたんや。お父さんは今でもそうやけど、神戸で割に大きな食器輸入の会社を経営しはってます。その関係で外国の方とも知り合う機会が多いんやな。お父さんは、そのうち、ドイツから貿易のために来はった人と懇意になって、そのうち恋仲になって、一緒にうちに住むようになったんや。それが、ヨハンや。
 ヨハンは忙しいお父さんに代わって、子供の私の面倒もよくみてくれはりました。料理も上手でな。もともと研究熱心な人やから、和食もすぐに習得しはって、遠足のお弁当なんかは、いっつもクラスメイトにうらやましがられたもんや。運動会や授業参観にも毎回来てくれました。私が大学に行くために京都に一人暮らしするようになったときは、えらい心配しはって、何回も訪ねて来たりして、まあ、私にとっては、本当の母親と同じような存在やね。今も神戸の家に、お父さんと一緒に住んではりますよ」
「へえ……」
 圭吾の姿勢がまたもとに戻った。可南子が、言った。
「ま、そんなわけで、マスターにその眼力を使うてもろたわけや」
 圭吾は、ため息をついた。
「そんなわけって……。だいたい、マスターにそんなことをみてもらうまでもなく、今聞いたところによると、龍一様はずいぶん祇園で人気があるみたいじゃないですか。正直、オレ、驚いちゃいましたよ。やっぱり龍一様って、女性にもてるんですねえ」
 可南子は、扇を開いたり閉じたりした。
「そんなもんやあらへん。……実はな、去年の今時分に龍ちゃんが、私の置屋のおかあさんに挨拶に行ったんや。美子ちゃんは知ってるけど、去年のゴールデンウィークに、私が龍ちゃんに頼まれて一週間ばかり仙台に行ったゆうことがあってな。そのとき、お客との約束を、いくつか先に延ばしてもらったり、ほかのねえさんに代わってもらったりしたんや。花街では約束を反故にすることが一番嫌われる。ま、親戚のばあさんが危篤や、ゆうて納得はしてもろうたんやけど。
 それで、一応龍ちゃんがそれを気にして、仙台でのことが終わったあと、おかあさんや置屋へ、詫びと礼を兼ねて京に来たんよ。おかあさんというのが『花泉』という置屋の経営者で、妓名は『いずみ乃』さんゆうんや。私はもう年季が明けて正式には置屋の所属から離れているんやけど、舞妓時代からお世話になっているとこやし、仕事をもらうんも、やっぱり花泉からのもんが一番多いんや。私が仕事を休む言うたときも、このいずみ乃おかあさんが最終的に色々手配してくれはって、京を出ることができたんや。
 ところで、いずみ乃おかあさんは、それまで何ともなかったのに、突然、去年の初めからひどい腰痛に悩まされるようにならはっていて、特に梅雨に入ってからは、どうかすると立ち上がることも苦労するくらいにまでに悪化していたんや。それは、いくら病院に通ってもまったくよくならなかったんよ。そういうところへ龍ちゃんが訪ねて行ったわけや。すると龍ちゃんは、おかあさんと会って話をしたときに、『それは、寝ている場所が悪い。部屋を変えれば腰痛は治ります』ゆうたらしいんや」
「寝る場所?」
 美子が訊いた。可南子がうなずいた。
「そうや。おかあさんは半信半疑ながら、龍ちゃんの言うとおりに、寝室を一番東の部屋に変えてみたらしいんや。そうしたら、一週間ほどで、あんなに重かった腰痛がぴたりと消えて、以来、再発することもなくなったんやて。
 それで、おかあさんは、すっかり龍ちゃんに惚れこんでしもうてなあ。龍一さん、龍一さんゆうて、私にもことあるごとに、龍ちゃんを京に呼べ呼べ、せっつくんよ。それで私も仕方なく、龍ちゃんにそのことを言うたりして、結局そのあと、去年の秋と、今年の春の二回、また龍ちゃんがこっちに来たわけや。さあ、龍ちゃんが来たら来たで、おかあさんの恩人ゆうて、ねえさんたちも下にもおかずのもてなしぶり。しかも、龍ちゃんも、みんなに恋愛占いなぞまでしてあげたから、ますます芸妓や舞妓たちが夢中になってしもうてなあ」
 そうして、可南子は、ため息をついた。圭吾は、驚いたように、言った。
「龍一様が、恋愛占い? それ、本当ですか?」
「本当は本当。が、その中身が本当かどうかなんて、実際誰も分かるわけ、ないやろ。しかし、私がみんなにそう言っても、聞き入れへんのや。はる乃さんねえさんなんて、ずっとせんに失くしたと思っていたスターサファイアの帯留を、龍ちゃんにみつけてもろうたゆうて、口に泡飛ばして、花街中に宣伝して歩いとんのや。やれやれ。龍ちゃんも、変なところでサービス精神を発揮するんやから……」
 美子は、龍一が舞妓の恋愛占いをする様子を思い浮かべようとしたが、できなかった。そもそも、祇園にいる龍一というのが、想像できない。が、ここで、先ほどこと乃が見せた写真がまた脳裏によみがえってきたので、美子はむかむかして、ぐるぐるとストローでコーヒーをかき回した。そして心の中で、一年前のアカネに謝った。
(アカネ。ごめん。今ようやく、あんたの気持ちが分かったわ)
圭吾がちょっと首をかしげて、可南子に訊いた。
「そりゃあ、失せもの捜しくらいなら、龍一様には簡単なことでしょう。でも、占いはともかく、腰痛を治せるっていうのは、すごいな。龍一様って、そんなこともおできになったんスね」
「それは、私も不思議に思って、あとで龍ちゃんにどうゆうことやったんか、訊いたらな、おかあさんは水脈の上に寝はっていたから、体調が悪くなった、ゆうんや」
 美子は、びっくりして、顔を上げた。
「水脈?どういうことですか、それ」
 可南子は、扇で宙の上につうっと線を描いた。
「龍ちゃんの説明によれば、地下水脈が通る場所には、ほかよりも良い気も悪い気も地上に出やすいそうや。しかし、そうかといって、京の地下はどこもかしこも水脈だらけやし、おかあさんも、もう二十年も同じ場所で寝はってたんやけどな。急に、去年から体調を崩しだすなんて、おかしなもんやろ? 私がそう言ったらな、龍ちゃんは、たぶん、今までの気が積もり積もっていっきに症状として出てきたか……」
 ここで可南子は、ちょっと言葉をきってから、続けた。
「それまで何ともなかった水脈に異常がきたか、そのどちらかだろう、と言ったんや」
「ふうん」
 圭吾が軽くうなった。美子は、はっとした。
「可南子さん。それって、もしかして、水の味にも影響しているんでしょうか?」
 可南子は、深くうなずいた。
「うん。私も龍ちゃんのその言葉を聞いて、心にひっかかるものを覚えてな。というのは、ここ一、二年、特に水の味に敏感な人たち、たとえば酒屋や豆腐屋、料亭の人たちの間で、京の井戸や泉の味が変わってきたという噂が出ていたんや。
 私のお母さん、これは置屋のおかあさんやのうて、本当の母親のほうやけどな、この人は茶道のお師匠さんをやっているんや。茶道というのはことのほか、水の味に神経質なもんでな、自分の納得いく水をわざわざ汲みに行ったり、または庵を水源近くに建てるのは、当たり前のことなんよ。うちのお母さんが、自宅が街中の河原町に移っても、庵だけは頑として雲ヶ畑の眞玉神社の近くから動かさへんのは、もちろん、自分の茶の湯には、眞玉の水が不可欠やと知っているからなんや。私も、飲料水はほとんどお母さんに汲んできてもらった眞玉のものしか口にせえへんから、ほかのとこの水の味というのは、そういう噂を聞いて初めて気がついたんよ。それで、お母さんにあらためて訊いてみると、確かに茶道仲間の間でも、水の味については話題になっておったそうや」
「つまり、まずくなった、ということスか?」
 圭吾が訊いた。
「いや、そういうわけやのうて。……そうやな、京の都の地下水は、井戸水も湧き泉も、たいていが鴨川の伏流水ということになっているけど、そこここで微妙に味が違うんや。それは、川の上流近く、下流近くの地域ごとで違うわけでもなく、たとえば小路をはさんだ隣同士の敷地の井戸でも、それぞれ味が変わってくる、ということがあるんよ。おそらく水脈が異なるせいやと思うんやけど。私は数年前にそれに興味をもって、京都市内の主な水源を三百ヶ所余り回って調べたことがあるんや。これがそのときの結果なんやけど」
 そう言って、可南子は、持っていたバックから地図をとり出した。それは二五〇〇〇分の一の縮尺の大判の地図で、道路や川、主要な建物の記載とともに、うす茶色で等高線が入っているのが特徴だ。色はほとんどついておらず、川の部分がうすく水色に塗られている程度。美子は、以前、龍一が使っていた東北全土の地図を思い出した。あの地図にはもう少し色が塗られていた気がする。縮尺も可南子のもののほうが、大きい。可南子は、圭吾に言って、後ろの空いているテーブルを二つつなげさせ、その上に地図を広げた。一面にたくさんのぽつぽつとした点がつけられ、それは赤や青、緑など様々な色分けがされている。圭吾は思わず声を上げた。
「これ全部、可南子さんが自分で回ったんですか!」
「そうや。京にはな、何百どころやない、何千という井戸や泉があんねん。そのうちの主なものを選んでもこれや。そして今回あんたに頼んだのは、このさらに半分ほど。私の優しさが分かったやろ? さて、ごろうじろ。ここが眞玉神社のある雲ヶ畑や。鴨川の源流といわれているとこや」
と、可南子は、京都の街中からだいぶ北にはずれた地点を扇でさした。曲がりくねった細い川の周りには等高線がびっしりと描かれてある。
「地表では雲ヶ畑川が南東へ流れていき、出合橋で中津川と合流して、賀茂川となる。賀茂川は途中で鞍馬川や高野川と合流しながら、京の町の東側を流れたのち、桂川にそそいでいるんや。伏流水とは、これら地表の川に対する地下の川のことや。その地下の川がところどころで地表に表れているのが、井戸や湧き泉や。京は盆地のために、周りの山に降る雨は全部、京に流れてくる。それは地下でも同じことや。泉の水は、それぞれの山から流れてくる水の味を含んでいる。それまで地上に出ていない分、水源の味も保たれていることが多いんや。
 さて、まず我が雲ヶ畑系の地下水脈は、山幸橋付近で貴船や鞍馬の山からきた鞍馬川と混じり合ったあと、二手に分かれていると、私はみているんや。
 一方は地表の川と同じような道すじをたどって、大原からきた高野川系の水脈と下鴨神社付近で合流したあと、京の町の東側を南に流れていく。御所東にある有名な染井の水は、そやから、雲ヶ畑、鞍馬、高野の水がほどよく合わさった、いわばブレンド水やね。
 それから、京の東端にある清水寺の泉は、これは北の山の水源とはまったく関係なくて、琵琶湖の水も若干混じった東山周辺からきた水や。
 そして、そのもっと南にある、お酒で有名な伏見は、これはもう、宇治、琵琶湖、鴨と、京のほとんどすべての水脈の最終合流地点なんよ。
 実は、水そのものを飲んでおいしいと感じるんは、こういった混合水なんや。京の水はどれも金気が少ない、超軟水やといわれているけれど、あんまり水源に近い、純水は、やはり人間の口に入ったときの旨みが少ないみたいやね。しかし、ほぼ一〇〇パーセント、水でありながら、水の味を感じさせず、ほかの味をひきたたせる必要があるもの、たとえばお茶やコーヒーを淹れる場合は、むしろ水源に近いもののほうがええ、と私は思うんや。とはいっても、人間が作った単なる純水では、これは力が足りん。天の雨が地に降り注いで、山と樹の中をいったん通ったあとの水だからこそ、ほかの味を最大限にひき出すことができるんや。
 まあ、あとどの水源のものを使うかは、好みの問題になってくるけど、私なんかは、それこそ産湯から眞玉の水につかってるから、やっぱり京で一番の水は、雲ヶ畑の、眞玉や、思うてるけどな。しかし、うちのお母さんなんかはちゃっかりしてはってな、眞玉の泉にどうも不思議な力があるようやと、お父さんが言いだしてから、自分のお茶に眞玉の水を使いだしはってな、それでそれ以来、お母さんのお茶たての評判もぐっと上がった、ゆうこともあるんや」
「眞玉神社の裏に湧いている泉の水に、癒しの力があるっていうのは、聞いたことがありますよ。でもオレも飲んでみたけど、まったく何にも感じなかったスよ。まあ、喉の渇きは癒されましたけど」
「あんたは、水道水だって関係なく、うまいと思う口やろ」
 可南子は、軽い口調で言った。圭吾はムッとしたように言い返した。
「そんなことないッスよ。うまいはうまいけど、別にそれだけだと思っただけです」
 可南子は、にこりと笑った。
「ある意味、圭吾は正しいんや。眞玉の水は別に、栄養ドリンク剤なわけやない。水の力を本当に必要としている者しか、その力を感じることはできん。逆にいえば、水の力を必要とするほど、その者が弱っているゆうことや。眞玉の水は余計なことはせえへんのや。圭吾には力を貸さんでもええと、水は思ったんやろ」
「そうかなあ。オレだってそのとき、充分に疲れてたと思うけどなあ」
 そうして圭吾は、美子を振り向いた。
「なにせ、雲ヶ畑ってとこが鞍馬山もびっくりの山奥でさ。京都の街から出るバスなんか一日三本しかないんだ。午前中は一本だけだから、それに乗るしかない。逆に帰りは夕方まで来ないし。家はみんな谷川の両側にへばりつくように無理やり建っていて、何でこんなところにわざわざ住まなけりゃいけないのか、疑問に思うような場所なんだよ。オレは全国色んなところを見て回ったけど、京都みたいに、都会と田舎がこんなに隣り合わせになっているところって、あんまりないね。しかも、雲ヶ畑も住所でいえば京都市の一部なんだからね」
「眞玉神社って、そんなに遠いの?」
 美子が訊いた。
「街からだと、バスで一時間くらいかな。バス停が間近にあるし、神社に行くこと自体は大変じゃないよ。ところがオレは、そこからさらに、バスが通ってないような、川のずっと上流のほうまで歩いて行かなくちゃならなかったからさ。往復してまた神社の場所まで戻って来た時は、マジでくたくただったよ。それで眞玉神社の水の効果というのを思い出して、飲んでみたんだけど、別に疲労回復の役にはたたなかったな」
 可南子は、眉を上げた。
「圭吾。あんたは、そのあと、充分に骨休めできたやろ。雲ヶ畑の料理屋のご主人さんに聞いたで。ぼたん鍋を二人前平らげたあげく、二時間も店の個室で昼寝していたそうやないの」
 圭吾は、ちょっと顔を赤らめた。
「えっ。知っていたんスか。だって、バスは来ないし、喫茶店だってあの辺には一つもないですからね」
「だいたい、今はぼたん鍋の季節やないやないの」
「それは、オレがメニューを見ていたら、店の人がぼたん鍋も出せますよ、と言ってくれたからですよ」
「あんたが、肉を食べたそうな顔をしとったからやろ。きっと自家用にわずかにとっておいたもんを、出してくれはったんやろなあ」
「でもねえ、一〇キロも山道をうろうろしたら、鮎の塩焼きなんかじゃ、体がもたないッスよ」
「で、肉をたらふく食って、昼寝して、帰りにはまた元気いっぱいで京に戻ってきたゆうわけやろ」
「まあ、結果的にはそうスけど……」
「あんたには、生涯、眞玉の水はいらんようやなあ」
 美子は、思わずくすくす笑った。それで圭吾も、にやっとした。
「いいですよ。オレだって、水よりは、肉のほうがいいに決まってますからね」
 可南子も笑って、また地図に目を戻した。
「雲ヶ畑水脈は、鴨川地下のものとはまた別の流れももっているんや。鴨川へつながる南東の流れに対し、こっちはほぼ真っ直ぐに南へ下りていく。
しかし、鴨川周辺とは違って、この伏流水は、なかなか地表に現れへん。何故かといえば、ここら辺の地表近くの地盤は粘土層が多いんや。粘土層は水を通しにくいので、泉も湧かんし、井戸も掘りにくいんよ」
 そう言って、可南子は、地図上を扇でさし示した。そこは、京都御所の西、二条城の少し上あたりである。
「昔の京の中心、大内裏はまさにこの辺にあったんよ」
 美子と圭吾は、地図をのぞきこんだ。圭吾が訊いた。
「そういや、今ある京都御所って、ちょっと東にずれてますよね。大内裏があったところっていうのが、まさに真ん中だ。なんでもとの位置のままにしておかなかったんスか」
「大内裏は何回も火事にあって、再建を繰り返したんやけど、ある時からもう再建するのをやめてしもうたらしいな。思うに、水を得にくい地勢というのも関係してるんやろう。池も作れんような殺風景な庭に、天皇さんも飽き飽きしはったんやないやろかね」
「へえ。水のせいで天皇も引っ越しですか」
「この粘土層に遮られていた雲ヶ畑の水が、一気に地表に噴き出してくるんが、この神泉苑の付近なんや」
 可南子の扇がついと下におりて、二条城のあたりで止まった。二条城の南にぽつりとあるのが、神泉苑である。
「ここら辺りは古代から大きな湿地帯で、どんな干ばつのときにも水が枯れることはなかったそうや。神泉苑の水を飲んだ時、私は、これはまさに雲ヶ畑の水の直系や、思うた」
 美子は、あらためて、地図上の点の色を確認した。雲ヶ畑部分は青、鞍馬山付近は黄色、大原の高野川は橙、琵琶湖からの流れは赤となっている。鴨川流域は緑が多い。京都御苑や梨木神社の染井の水も、緑だ。しかし、二条城や神泉苑は青だった。青の点は京都御所の南側にもいくつか現れたあと、ふっつりとまた姿を消している。
「この点々は、それぞれの井戸や泉を表しているんや。そして、私がその味に共通点があると思うたもんに、同じ色をつけているんよ。私が感じたところによると、雲ヶ畑の南への流れはここで終わっている。おそらく、神泉苑の南側はまた厚い粘土層が広がっているために、流れがこれ以上、下れなくなっているんやな。神泉苑の東側にある井戸に雲ヶ畑の味が出ていることから、流れのほとんどは東に折れて鴨川水脈と合流してしまっているんやと思う。雲ヶ畑の純粋な水系は、ここで終わっているんや」
 可南子は、まるで地下の水路を見てきたかのように、話した。美子と圭吾は、思わず顔を見合わせた。ナインスターズのマスターが、カウンターの向こうから話しかけた。
「二人とも。たま乃はんの言うことは、確かに実証されてへんかも知れんけどな。でも、私は本当やろうと思うてるんや。たま乃はんの舌は、そりゃ大変なもんや。お酒の仕こみ水かて、はずしたことは、いっぺんもないねんで」
 圭吾は、ちょっと真面目な顔になって、言った。
「いや、オレだって、可南子さんを疑っているわけじゃないスよ。色々人格的に問題点はあっても、可南子さんの舌だけは、信用できると思ってますからね」
「なんやねん、その言い方は」
 可南子は、憤慨したように腰に手をあてたが、気をとり直したように、圭吾に言った。
「さ、これが数年前までの京の水の状態や。そして、今の状態を調べ直すために、あんたに水集めを頼みましたんや。今日で全部でそろったん?」
「はい」
 圭吾は、カウンターの下に置いてあった四角いリュックをとって来て、チャックを開けた。中には濃い青色の小さい瓶がぎっしりと並んでいる。一つ一つにラベルが貼ってあり、地名や川の名前が書かれているようだった。
 可南子はテーブルの上に、別な地図をもう一枚重ねた。先ほどの地図とまったく同じだが、書かれてある点はずっと少ない。完全に記入されていないせいかも知れないが、点の色は、前のものよりもばらばらに点在しているように見えた。可南子は、自分のカバンの中から様々な色のペンが入った透明なケースをとり出すと、わきの出窓に立てて置いた。
「圭吾。北から順に水をとってくれへんか」
「はい。……これがアソガ谷川のものです」
 圭吾が青い瓶を渡すと、可南子は、そのふたの金具を開け、少し匂いをかいだあと、ほんの少し口に含んだ。そして、独り言のようにつぶやきながら、黄色のペンで地図に印をつける。
「……アソガの味は変わっとらん。次」
「貴船神社周辺です」
「……これも黄やな。次」
 そうして、可南子は、圭吾から次々と渡される水を味わって、地図に書きこみをしていった。美子はその速さに驚いた。可南子はほとんど考える間もなく、様々な色を選んでいく。
「染井です」
 その瓶の水を飲んだ時、初めて可南子の手がとまった。そうして、赤のベンをいったんとったが、やめて黒を書きこんだ。京都御苑内はほとんどが真っ黒に染まった。
やがて可南子の後ろのテーブルには、ふたを開けた水の瓶がずらりと並び、圭吾のリュックの中はからになった。可南子はため息をついて、地図を眺めた。
「さて、どう思う?」
 圭吾が息を一つ吸ったあと、言った。
「今までにない色、黒が入りましたね」
「美子ちゃんは、どうや?」
 可南子に訊かれて、美子は、ゆっくりと答えた。
「そうですね。前に比べて、色がばらばらに散らばっているように見えます。鴨川周辺に緑だけでなく、赤や紫が入りこんでいますね」
 紫は以前は伏見の色だった。可南子はあいまいに首を振った。
「そうや。南の伏見の水が、上の鴨川にまで上がってくるゆうことが、果たしてあり得るのか……」
「なんかの間違いスかね?」
「…………」
 可南子はしばらく黙ったままだったが、ようやく顔を上げると、二人に向かって言った。
「これが何を意味するのか、私にもすぐには判断できんのやけど、ここまで明らかに結果が出たもんは無視できん。自分で言うのもなんやけど、私は自分の舌が感じたことを一番信用しとる。あり得ないと思うことでも、あるものとして考えなあかんと思うんや。
 今回の調査でとりあえずいえることは、京の伏流水に何かしらの変化があった、ゆうことや。それも水源の水の味には変化がないことから、下に降りてきてからの水の流れが、以前とは違うなっているということや思う。
 しかし、もしかしたら、水の流れというものは、こうしてときどきに変わってきたもんなのかも知れん。鴨川かて、昔からこういう姿やったわけやない。太くなったり細くなったり、位置も西東に色々ぶれながら、ただ今現在は、たまたまここを流れているというだけのことや。地下の川かて、そう考えれば流れが色々変化するゆうこともあるのかも知れんしな」
 しかし、美子は、そう言う可南子の口調が、いつもよりもずっと歯ぎれの悪いものであると感じた。そして、京都御苑を指さして聞いてみた。
「この、黒い色の場所の水は、どんな味なんですか?」
「うん……」
 可南子は、上を向いて、ちょっと考えるふうだった。着物の袂の中で腕組みをしている様子が、龍一を思い起こさせた。可南子は、また顔を美子のほうに向けた。
「色んな味が混じり合っている。けして悪い味やない。むしろ京の水のそれぞれのいいとこどりをしたような、バランスがとれた、狡猾な感じの……」
「狡猾?」
 圭吾が、訊き返した。可南子は、苦笑した。
「いや、狡猾という言葉はおかしかったな。誰かが注意深く水をブレンドしたような感じを与える、ゆう意味や。美子ちゃん。この二つの地図はあんたにあげるわ。これと、私の話をもとに、修学旅行の課題は書けるんちゃう?」
 そう言って、可南子は二枚の地図を折りたたむと、美子に渡した。美子は、びっくりして可南子を見た。
「えっ。いいんですか? 可南子さんの分は?」
「一枚目は原本がほかにあって、それはカラーコピーや。今回の内容は頭の中に入っているから、すぐに控えは作れるよって、それは持っていってもらって構わへんのや。どうやろ? 課題は大丈夫そう?」
 美子は、うなずいた。
「はい。地上の川とは別の、伏流水という地下の川があるんだということ。京都はそんな豊富な伏流水の上につくられた町で、水が都市の形や人々の生活をも左右してきたのだということ。京都の人たちは昔から水とともに生きてきて、今も水と一緒に生きているんだということが分かりました。それに、この二つの地図をつければ、課題としては、申し分ないと思います。本当にありがとうございました、可南子さん」
 可南子は、にこりとしたが、すぐに真面目な顔に戻った。
「そやね。修学旅行の課題としては申し分ないんや。課題としては……」
 そうして、美子に訊いた。
「美子ちゃん。課題は片づいたということやけど、旅行はまだ二日目やろ。明日以降はどうするん?」
 美子は、地図をかばんの中にしまう手をとめて、答えた。
「可南子さんのおかげで、あたしも、アカネも課題はこれで済みましたし、もう一人の友だちも今日中に済ませるはずなので、明日は適当に観光して回るつもりです。アカネは嵐山に行きたいって言っているんですが」
「そうかあ。嵐山もええけどな、もしよかったら、雲ヶ畑に行ってみる気はあらへんか?」
「雲ヶ畑へ?」
 美子は、思わず背を真っ直ぐにした。可南子は、微笑んだ。
「よかったら、やけど。ちょうど明日、あさって、うちのお父さんが眞玉神社に用があって、雲ヶ畑に帰るんよ。私は残念ながら一緒には行かれへんねんけど。お父さんが車を出すよって、相乗りして行ったらええんちゃうか、思ってな。帰りはタクシーでも、バスでもええしな」
「眞玉神社へ……」
「うん。せっかく京へ来はったんやし」
 美子は胸がどきどきした。
 眞玉神社は、母が巫女として働いていた場所だ。いや、母は、ある時こつ然と眞玉神社の泉の前に現れ、そして数年後、また同じ眞玉神社の泉へと消えてしまったと聞いていた。つまり、眞玉神社は、母を生み、母をまたのみこんだ場所といってもいい。そして、母が消えたときから、眞玉神社の泉には、不思議な力が備わるようになったという。また、その話を可南子に詳しく教えたのが、可南子の父であり、眞玉神社の宮司である、菊水秋男(きくすい あきお)なのだ。
 美子は可南子からもらった地図をちょっと開いて、眺めた。二つの地図で、雲ヶ畑は変わらず青色に塗られている。龍一が白河でのあの戦いのあとに飲みたがった、眞玉の泉。母の故郷ともいうべき、眞玉。
「あたし、行きます。ううん、ぜひ行きたいんです」
 可南子は、にっこりと笑った。
「そうか。ほんなら、うちのお父さんに連絡して、明日の朝、美子ちゃんの旅館によってもらうようにするからな。そや、圭吾。あんたももうヒマやろ。二回目になるけど、美子ちゃんと一緒に雲ヶ畑に行くんゆうはどうや? 季節はずれのシシ肉やのうて、今度こそ鮎でもゆっくり食べてきたらええよ。うちのお父さんにおごらせるよって。お父さんはあっちでほかに用足しもせなあかんし、雲ヶ畑を美子ちゃんに案内してやってくれはるとええんやけどな」
 美子は圭吾を見た。圭吾は、美子に、にこりとした。
「オレは別に構わないッスよ。じゃあ、明日、君のとこに行けばいいね。場所は東洞院通と二条通の交差するところだったね」
「うん。ありがとう、圭吾君」
 圭吾は、晴れやかに笑った。
「正直、案内するところなんて、あそこにはあんまりないけどね。迷いようだってまったくないよ。なにせ、道は川沿いにしかないし、建物だって、川のそばにしかないんだから。山と川と空しかないんだ。ねえ、可南子さん」
 可南子も高らかに笑った。
「ほんまや。圭吾の言うとおりや。あそこには本当にそれしかないんや。そういうとこで私は生まれ育ったんや。そして、鴨川の水も、そういうところで生まれとんのや。京の水の故郷を見て来はってや、なあ、美子ちゃん」

(六分の三)
                         ◎◎
 三人でナインスターズを出たあと、可南子は夜の座敷の準備のため、自分のマンションに帰って行った。
 美子と圭吾は、八坂神社を通り、白川という川にかかる橋を渡った。辰巳大明神という名の小さな神社の前をすぎると、川沿いに、石畳の美しい道が続いている。そこを二人はゆっくりと歩いた。桜と柳の木が植えられ、そのどちらも、青々とした葉をいっぱいにつけている。雨は霧雨といってもいいくらいになっていたので、美子も傘を畳んでいた。
「とてもきれいなところね」
 美子は、両わきのお茶屋街の風情を楽しみながら、言った。
「うん」
 圭吾は、美子の歩調に合わせながら、答えた。そうして、ぐるりと空を見わたした。
「確かに京都って、きれいな場所が多いよな。でも、オレはちょっと、飽きちゃったよ」
「そうなの?」
 美子は圭吾を見上げた。圭吾は肩に軽くなったリュックをひっかけ、ぶらぶらと歩いている。
「どこもかしこも、人の手が入らないところがないっていう感じでさ。それに、四方、どこを見ても山がぐるりと囲んでいるんだ。なんだか、閉じこめられているようで、息がつまるよ。オレは山の中を歩くのは好きだけどね。山にみられるのは好きじゃない。ここの山は、人間をじっとみているっていう気がするんだ」
「山が、あたしたちを?」
「そうだ。人間たちを逃がさないようにさ。だから、水も与える、土地も与える。ここは箱庭だよ。とてもきれいな箱庭だ。人はそれを自分で作ったと思っているけど、でも箱庭って、自分で住むもんじゃないだろう」
「ふうん」
 圭吾は気がついて、頭をかいた。
「ごめん。なんか、変なことを言っちゃったみたいだ。まあ、オレは津軽平野の、海を臨む広々としたところで育ったし、山といえば、岩木山の雄大な姿がすぐに思い浮かぶから、余計に京都はきゅうくつに感じるんだろうな。やっぱり、どんなところでも、自分が育った場所は、いつまでも特別なものだし、思い入れがあるよね。可南子さんも、そうだろ?」
「そうよね」
 可南子は、雲ヶ畑には、何にもない、と笑っていたが、そう言いつつも、雲ヶ畑を愛し、眞玉神社を誇りに思っていることは、明らかだった。そしてそれは、幸せなことなのだ。美子だって、今は住んではいないが、生まれ故郷の涌谷を素晴らしいところだと思っている。自分を育んでくれた土地というだけで、それは愛するに足るべきものなのだ。たとえそこに、もう、父も母も、なつかしい家もないとしても、温かい思い出があるというだけで、そこは特別な場所なのだ。
                         ◎◎
 可南子は八坂神社から少し南に下ったところにある自分のマンションに向け、歩を進めながら、考えこんでいた。先ほど美子に渡した地図の内容が頭から離れなかったのである。特に、御所における水の味の変化が気にかかって仕方なかった。
(なんやろう、あの水は? いったい、京の地下では何が起こっているんや?)
 そうして、ふと気がついて、傘の外に手を伸ばした。が、まだ少し雨が落ちてきている。傘をさし直しながら、後ろを振り返る。そうして、後ろに迫るようにして清水山、その向こうに雨の中に煙るようにある東山の峰があるのを確認すると、ほっと息をつきながらまた歩き始めた。
 可南子は、不安な気持ちになると、いつも山を見上げた。山に囲まれていることは、山に護られていることだった。そして、京の山はいつも、人のそばにいる。可南子は、梅雨が嫌いではなかった。梅雨の時期、もっとも山の緑が美しくなると思うからである。たっぷりと水を吸って緑を濃くした樹々は、山のいのちそのものを現わしている。そんな時期の水を飲むと、まるで山の震えるような喜びを味わっている気さえするのだった。
 京は、山に護られ、神に嘉された土地と、人はいう。人が、神より住まうことを許された場所なのだと。そうならば、神が何をしようとも、人は受け入れなければならない。どちらにしても、この場所で生きていくしかないのだから。
 可南子の前から、紺のブレザーにネクタイ姿の男子高生が数人かたまってやって来た。狭い通りだったので、可南子は、
「ごめんやす」
と言って、そのわきを通った。男の子たちが、うっとりと可南子を見つめる。可南子はそれに対し、条件反射のように、にっこりと笑みを与えながら、彼らとすれ違った。後ろにざわめきが起こるのを感じながら、今の制服に見覚えがあると思った。確か、仙台の萩英学園の制服だ。となれば、美子と同じく修学旅行で京に来ているのだろう。メモをとりながら歩いていたところを見ると、やはり課題のため、歩き回っているのかも知れない。
 可南子は、ふと、以前交わした龍一との会話を思い出した。あれは、自分が二十歳になったばかりのときだった。すると龍一は二十二歳ということになる。
 その時二人は、躑躅岡天満宮の宮司舎の書斎の中にいて、龍一は何かの行事の下調べをしており、可南子は柱にもたれかかって、座って月を見ていた。東側の廊下の障子は開け放たれ、煌煌とした満月の光が、部屋の奥までさしこんでいた。そうだ、あれは確か、秋の十五夜のときだった。可南子は、築山の用意した酒と肴を少しずつ口に入れながら、龍一が古い和紙をめくるぱりぱりという音を、何となしに聞いていた。ひどく静かな夜だった。
 龍一が、ふと言った。
『可南子。どうしたんだ。さっきからため息ばかりついて』
 可南子は驚いて振り向いた。ため息をついている自分に気づかなかったからだ。しかし、確かに、可南子はこれ以上ないというほど悲しい気持ちになっていたのだ。龍一は特に顔を上げるでもなく、資料を読み続けている。
『別に……。きれいな月やなあ思っていただけ。……ところで龍ちゃん。あんたも大変やなあ』
 相変わらず下を向きながら、龍一が言った。
『大変って、何がだい?』
『何がって、そうやって天満宮の宮司は務めなあかんし、土居家当主としての仕事もある。そのほかに、萩英学園の理事長という立場もあるんやろ? 私やったら、とても務まらんわ』
 龍一は軽く笑った。
『何をやるべきか分かっていれば、やることが多くても、そんなに苦にならないものだよ。天満宮や土居の仕事の中身は、先代の生前にしっかり仕こまれたからね。それに、萩英学園のほうは、私はほとんど何もすることがないんだ。学校行事には築山に行ってもらっているし』
『そうしたら、学校のことは、龍ちゃんは、あんまり関わってないん?』
 龍一は、ページをめくっていた手をいったんとめて、顔を上げた。
『そうだね。築山や校長からの報告は折々にある。それから、年に二回ほど、教師や職員たちとの会議がある。そこで、意見や要望を聞くことにしているんだが、たいていは、彼らに任せている。私は報告を受けるだけだよ。彼らのほうが教育のプロだからね』
 それで、可南子は思い出した。
『そういえば、私の高校のときの先生が、言っていたな。仙台の萩英学園は、教師に自由にやらせてくれると評判やって』
 龍一は、にこりとした。
『私がしている唯一のことは、彼らの邪魔をしない、ということだよ。邪魔をしなければ、教師たちは自分で色々考えて、進めてくれる。彼らは熱心で、優秀だ。その力を余計なことに使わせず、生徒たちのためだけに向かわせることができる環境を作ってやればいいだけなんだよ。たとえば、あれは……』
 そう言って、龍一は部屋の隅に置いてある段ボール箱を指さした。中には書類が半分ほど入っている。
『このひと月の間に役所から萩英学園へ送られてきた、書類だけどね』
 可南子は、その一番上にあったものをとり上げてみた。四十ページほどの厚さで、題名は『高等学校教育改革プロジェクト事業推進のための教職員及び生徒向けアンケート調査依頼書』とあった。作成名義は『文部科学省 高等学校教育改革プロジェクト事業推進チーム』。その下に続けて、長々としたお役所文章が続く。『我が国の高等学校進学率は九〇パーセントを超えており、義務教育にほぼ準じる教育課程と言っても過言ではありません。高等学校において、実質的に生徒の将来の進路がほぼ決定されることをかんがみても、高等学校教育における学習要領の改革改善は青少年の育成事業において、非常に重要な位置を占めています。そこで文部科学省においてはこの度、新時代を担う人材育成に対応した高等学校教育を目指すことを掲げ、高等学校教育改革プロジェクト事業と銘打ち、このプロジェクト事業推進チームを立ち上げました。当チームにおいては、以下の項目につき特に改革の必要性があると考え……』
 可南子は、途中で飛ばして、ページの一番最後を読んだ。『……そこで、上記必要改革項目に対応した高等学校の教職員及び生徒に対するアンケートを作成致しましたので、全国の各高等学校へ配布申し上げます。アンケート調査結果は、本事業推進方針決定に役立てたいと考えておりますので、関係者各位にはご多忙とは存じますが、調査にご協力頂きますようお願い致します』
 次のページからは、『教職員向け』と『生徒向け』に分かれて詳細な質問事項がずらっと続いている。
『あれ、龍ちゃん。これ、締め切りが九月十五日や。もうすぎてるで』
『そうかい』
『じゃあ、これはもう終わったもんなんやな。学校の先生も大変やな。教える仕事のほかに、色々せなあかんのやね』
 龍一は、こよりで綴じた和紙本を閉じると、こともなげに言った。
『大変だろう? だから、ここにあるものは、全部捨てることにしているんだ』
『え?』
 龍一は、可南子のきょとんとした顔を見て、笑った。
『文部科学省や教育委員会から送られてくるものにいちいち対応していたら、それこそ、教える時間なんてなくなってしまうよ。だから、一応、校長に目を通してもらったあと、教師や生徒に役にたちそうな資料以外は、全部私のところに送るようにいってあるんだ。まあ、たいていがこちらに送られてきているようだけどね』
『で、龍ちゃんはこれをどうするん?』
『だから、捨てるんだよ。この箱がいっぱいになったら、築山がリサイクル業者を呼ぶ。業者は代わりに新しい箱をここに置いていく。そこにまた、書類を入れていく。つまりそれが、理事長としての私の仕事さ』
 可南子はぷっと吹き出した。
『でも、そんなことして、大丈夫なん? 催促とかこおへんの?』
『その催促状も、この中に入るからね』
 可南子は、龍一と一緒に声をたてて笑った。そして、箱の中にぽんと書類を投げこんだ。
『なるほど。こうすれば、いっきに片づくなあ』
 龍一は可南子を見た。その目は月の光で優しく輝いている。
『萩英学園の先生たちは、みんな一生懸命働いてくれている。たぶん今も、まだ学校に残って仕事をしている人がほとんどだろう。うちの給料はけして多くないけれど、誰も文句を言わない。最近の教師がやる気がなくて質が下がってきているなんて、嘘だよ。本当に自分たちがやりたい教育ができる環境、これを望んでいるだけなんだね。おしきせの学習指導要領を使わず、新しいプランを自分たちで作るには、時間も手間もかかるけれど、萩英の先生たちは進んでそれをやってくれているんだ。生徒のためになることが、一番学校のためになることだからね。理事長としては大歓迎さ。でも、あんまり先生方が熱心だと、生徒は大変かも知れないな。うちは、修学旅行にさえ、宿題がついてくるんだからね』
『へえ。そら、大変やな』
 可南子は、自分が高校生だったときのことを考えた。修学旅行先は、北海道の函館と札幌だった。学校の修学旅行に対する方針は『生徒の見聞を広める』ことと、『安全第一』だったので、内容はほぼ完全な観光旅行で、楽しいは楽しかったが、どこへ行くにも教師がはりつき、個別行動はまったく許されなかったのが窮屈だった。今となっては、どこで何をしたのかも、ぼんやりとした記憶しか残っていない。
(そや。あの五稜郭だけは、ちょいと驚いたな)
 防衛のために星形の城にしたというが、あのような形が本当に戦争のときに効果を発揮するのか、可南子にはよく分からなかった。明治維新時に五稜郭にたて籠った旧幕府軍は敗れ、土方歳三も函館の地で死んだ。むしろ、呪術的な意味合いのほうが強いのかも知れない。晴明神社の桔梗紋は有名だ。
『龍ちゃんも萩英学園やったんやろ? 修学旅行はどこに行ったん? 私は北海道や』
 龍一は、ちょっと考えるように外を見た。
『京都、だと思う。でも、私は行けなかったんだ。ちょうどその時、先代の具合が悪くなってね。仙台を離れられなかったんだ』
『そら、残念やったなあ。もし京に来てたら、私とも会えたかも知れんのに』
『行けたとしても、わざわざ可南子に会うことなんてことはしなかったと思うけどね』
『はいはい、そうやろ、そうやろ』
 可南子は、足を伸ばして、月を見上げた。
『ほんまに、きれいや……』
 龍一は、つと立ち上がって、そばの棚から何かをとり上げると、可南子のほうへ来て、それを渡した。
『ところで、可南子は宝石に詳しいだろう? ちょっとこれをみてくれないか』
 そうして、また机の前に戻った。可南子は、龍一から手渡されたものを見た。龍の形をした置き物だ。白い卵の殻を割りながら、まさに生まれ出でようとしている龍が、さらに自分の爪で、卵型の緑色の石をしっかりとつかんでいる、という凝った構図だった。可南子はそれを月の光にかざして、見た。
『この龍と卵の殻は、象牙やな。とろりと白くて、ええ具合に油がのっていて、悪うない。龍の細工も細かいな。この緑の石はなんやろ? エメラルドみたいや。あっ』
 龍一は、墨をすっていたが、ちょっと手を休めて、視線を可南子のほうにやったあと、また静かにすり始めた。
『どうした?』
『奥にスターが出てる。これは珍しいな』
『そうだ。よく見ると、星のような放射状の線が中に入っている』
 可南子は、さらに熱心に石の奥をのぞきこんだ。
『普通、スターエメラルドの線は六条やけど、これは八条や。ちょっと青みがかったすじやな。……これは本当にエメラルドやろか。ヒスイかも知れん。ヒスイにしては透明度が高すぎるけど、エメラルドにしてはぽってりしとるし……』
 そうして、可南子は、龍一を見た。
『どうしたん? これ』
 龍一は、白い和紙を机いっぱいに広げながら、答えた。
『ずっと前から、ここに置いてあるんだよ。天満宮の什宝目録にも載っていないし、誰のものかも分からない。私がここに来たときにはすでにこの棚に置かれてあった。先代もこれについては何も教えてくれなかったんだ。土居のいずれかの当主の個人的な持ち物だったのかも知れないね』
 そうして、龍一は、筆を持ちながら、頬杖をついて、可南子のほうを見た。
『象牙は本物のように見えるね。でも、その中央の石はどうだろう? あまりに作りものめいている。その細工自体は、もともとは根付だったようだけれど』
『根付?』
 可南子は、置き物の下の部分をひっくり返して、見た。確かに紐穴がある。銘はない。
『あ、ほんまや。これは根付やな』
 そうして、また月明かりのもとで、ゆっくりと根付を見た。全体の大きさは四、五センチ。石の大きさは直径三センチくらいだろうか。つるりと丸く形を整えられてあり、通常の宝石のカッティングのように角をもたせない、いわゆるカボションカットだ。照りのある美しく深い緑色は、水をたっぷりと含んだ真夏の樹木を思わせる。一見すると半透明だが、光をあてると奥まで透けて見え、すると八本の青白い線が浮かび上がる。この線がなく、こんなにも光を通さなければ、ヒスイといってもいい。もしこれがエメラルドだとしたら、大きさといい、珍しいスターの形状といい、大変な価値のものに違いないが……。
『うーん』
 可南子は、うなった。龍一の言うとおり、あまりにも作りものめいていた。龍一が、言った。
『私は、その龍の表情が好きなんだ。目に力がある。体もほっそりしていて躍動感があるね。時代が下がって、特に江戸時代あたりになると、龍の表現も何だか戯画化されて品がないものが多くなるけれど、それにはまだ、神獣としての面影が残っている。爪もきちんと四本ある。中国では、皇帝が身につける龍の爪は五本爪、それ以外は四本爪といわれているけれど、もともとはすべて四本爪だったようだから、後世になって差別化を図るために、皇帝のものだけ一本多くしたんだろう。日本の龍も、平安時代頃までは四本爪で描かれているものが多い。それ以後になると、三本になったり、五本、六本になったりと、適当になってくるけれどね』
 可南子は、龍を見た。口をかっと大きく開けているのは、今まさに火を噴かんとしているのだろうか、それとも辺りに響き渡るような咆哮を上げようとしているのだろうか。卵から生まれたばかりの龍の四肢は、力強く若々しさにあふれ、細かいうろこにおおわれた長い体は、滑らかにうねっている。前肢の鉤爪は鋭くがっちりと石をつかんでいた。龍は顎の下に珠をもつというが、この龍に比して石の大きさが大きすぎるので、この石はいわれるような珠というよりも、龍が護るべき別の種類の宝玉であるようだった。龍にとってこの石は、何ものにも代えがたく身を賭して護るべき宝であり、それは彼にとって生まれたときから、いや、生まれる前からの宿運であるのだ。龍の表情には、その固い決意とともに、自分の運命から逃れられぬことを知っているような悲哀をも含まれているように感じるのは、考えすぎだろうか。
 可南子は、ほっと息をついた。根付は、その小さな形の中に一つの世界、一つのものがたりがいかに表現できているかで、その良し悪しが決まる。石の真贋は分からなかったが、むしろその価値はこの象牙の細工にこそあるように思えた。石が偽物であったならなおさら、龍の哀れさは増すことだろう。
『もしよかったら、それは可南子にあげるよ』
と龍一が言ったので、可南子は驚いて目を上げた。龍一は、筆にたっぷりと墨を含ませると、和紙に最初の一行をすらすらと書いたあと、見分するように、筆跡を眺めた。
『ここにずっと置いておいても仕方がないし、私は、着物は着るけれど、根付は使わないしね』
『でも、大変な値うちもんかも、知れんよ』
『そうだったら、天満宮か土居家の宝物目録に載っているはずだよ。こんなところに埃だらけで放っておいたりしないさ。案外、最近作られたものかも知れないね。大したものでもないだろうけど、根付の意匠としてはちょっと珍しいから、祇園での話の種くらいにはなるんじゃないかと思ってね。どうだい?』
 可南子は、もう一度、龍を見、そして、つるつるとした象牙の感触を味わった。
『ほんまに、ええの?』
『もちろん』
 こうして、根付は可南子のものになった。それ以来、龍は可南子の京都の部屋に飾られている。根付として使ったことは一度もない。装飾的にも優れたデザインなので、着物によく映えると分かっていたが、可南子は外につけていく気にはなれなかった。その理由は自分でもよく分からない。ただ、あまりにも龍がせつなすぎて、人目に触れさせるのがためらわれるのだった。石の鑑定にも出さなかった。これがもし偽物だったとしたら、龍が哀れで、二度とその目を見られないだろうという気がした。
(ほんまに、こんなに、これのことを気にするなんて、おかしなもんや)
 そう思いつつも、相変わらず外には出さず、自分だけの秘密のように、龍を手もとに置いているのだった。

(六分の四)
                         ◎◎
 翌日、美子は夢もみず、爽快な気分で目が覚めた。同じ部屋のアカネと麻里がまだ布団の中に入っているうちに、さっと起きて顔を洗う。ふと気づいて、洗面所のすりガラスを開けてみると、昨日までの梅雨空はすっかり晴れて、ぴかぴかとした夏空が広がっていた。
「美子。今日はずいぶん早起きじゃない」
 部屋に戻ると、アカネが、くしゃくしゃの髪のまま、目をこすりながら起き上った。麻里は半分身を起すと、枕もとの時計を確認した。
「まだ六時半よ」
 それを聞くと、アカネがまた布団に倒れこんだ。
「うそ! 早すぎるよ。勘弁してよね」
「だって、八時に待ち合わせなんだもの」
 美子は、言いわけがましく言った。アカネが布団の中から、もごもごと言った。
「だから、山登りなんて行かなきゃいいのに。あたしたちと一緒に嵐山に行こうよ」
「山登りじゃないって。雲ヶ畑っていう場所なの。鴨川の源流が流れているところよ」
「だから、それが山なんでしょ」
 麻里が起き上がって、目を覚ますように首を振った。長い髪がさらさらとゆれる。
「鴨川の源流か。ちょっと魅力的ね」
 アカネが、慌てて、首を伸ばした。
「ちょっと。麻里まで山に行こうって言うんじゃないでしょうね。一緒に嵐山に行くって、昨日約束したじゃない」
「アカネ。あんた、そんなに嵐山に行きたいの?」
 アカネはまた布団にもぐりながら、言った。
「……だって、約束したんだもん」
「約束って、誰とよ?」
 麻里が不思議そうに訊くと、アカネはぱっと布団をはねのけた。
「タニグチさんとミヤマさんとよ! あっちが二人だから、こっちも二人はいなきゃだめなの」
 美子は驚いて、アカネのそばに座り、麻里と顔を見合わせた。
「タニグチさんって、あの三年生の人でしょ。ミヤマさんというのもそうなの?」
 アカネは、うふふと笑いながら、起き上がった。
「ミヤマさんも、HORA‐VIA(ホラ・ウィア)のメンバーよ。ギター担当なの。あたし、この間から少し彼らと話すようになって、修学旅行でお互い時間が余ったら、一緒にどこかに行こうってことになったのよ」
「へえ。あ、もしかすると、アカネが好きな人って、その二人のうち、どちらかなわけ?」
 麻里が、清水寺での会話を思い出した。アカネは、体育座りをする。
「どちらかじゃないの。どっちもよ。HORA‐VIAのほかの二人のことも大好き。みんな、とってもかっこいいし、才能もあるの。誰か、なんて選べないわ」
 麻里は、くすくすと笑った。
「それって、単なるファンなんじゃないの?」
 アカネはそう言われても、むくれもせず、頬杖をついて遠くを見るような目をした。
「ファンでもいいの。あたしは、一生懸命頑張っている彼らを応援してあげたいだけなんだから。夢をもって生きている人をみるのは、気持ちがいいものね」
「でも、一緒に嵐山に遊びに行くなんて、一ファンじゃ、なかなかできないことじゃない。友達といってもいいくらいよ」
 美子は少し熱心な口調で言った。仙台の学生の間で絶大な人気を誇るバンドのメンバーと一緒に嵐山に行く、というシチュエーションに、まったく関心がないといえば、嘘になる。惜しむらくは、メンバーの顔がまったく思い出せないということだ。麻里も、好奇心がないわけではない。ジャンルは違うが、同じ音楽を愛する者ということで、興味が湧いてきたようだった。
「コンサートのために留年しかけた人たちなんて、ちょっと面白いわよね。私も少し会いたくなってきたわ。アカネ。今、HORA‐VIAの曲はもっていないの? よかったら貸して。彼らに会う前に聴いておきたいわ」
「もちろん、持ってるよ」
 アカネは、ごそごそとかばんの中を探る。そしてCDを何枚か取り出した。
「これが一番初めのCD。次がこれ。そしてこれがつい最近に出たアルバムよ。聴くならこれがいいかも。今までの人気作が全部入っているから」
「へえ。ずいぶん本格的に活動しているのね」
 麻里が感心したようにCDを眺める。
「じゃあ、あたし、先に行っているね」
 美子は、立ち上がった。アカネと麻里は驚いて顔を上げた。
「いくらなんでも、まだ早すぎるんじゃない?」
「先にご飯を食べてから、少し散歩をしようと思って」
 麻里は、CDをとり出して自分のプレーヤーに入れながら、いたずらっぽく言った。
「じゃあ、気をつけてね、美子。『圭吾君』によろしく」
「えっ? 誰よ、その『圭吾君』って?」
 アカネが色めきたつのを尻目に、美子は笑って手を振り、部屋を出た。
 一階の大広間に行くと、すでに何人かの宿泊者が朝食をとり始めていた。美子も適当な席につくと、旅館の給仕が御膳を運んできてくれた。この旅館は豆腐が名物ということで、毎食のように豆腐がでるのだった。確かにとても美味しい。つるりと喉の奥に入ったあと、ほのかな甘みがふんわりと残り、いくらでも食べられそうだ。昨晩はほかほかの湯葉が出て、美子はとても贅沢をしているように思った。今朝は吸いものの中に豆腐が入っている。給仕をしていた女性が美子を見て微笑んだ。
「うちの料理はどうどすか?」
 美子は慌てて汁を飲みこんだ。
「あ、とっても美味しいです」
 そうして、つけ加えた。
「京都の料理って、味つけがうすいって聞いていたんですけど、別にそんなこともないですね」
 給仕は美子に汁のお代わりをさし出しながら、言った。
「そうどすか。東京の方あたりは、うすい言わはる方が多いようですが。仙台の料理はそんなに塩辛くはないんですか」
 美子はちょっと考えた。
「いえ。そんなことはないと思います。確かに京都の料理は醤油の味があまりないですけど、でも、ちゃんと塩味はするし、それに、ずいぶんだしが濃いと思いました。けっこう、どの料理にもだしがきいてますよね」
「あらっ、ずいぶん舌のきく学生さんやねえ。そやね。東の方が、うすい、うすい言わはるのは、醤油がきいてないゆうことやろ思いますね。京ではあんまり黒々と醤油の色が出るのを嫌いますよって、入れても白醤油ゆうて、色のうすいものを使います。でも、色がうすいゆうても、塩が入っていないゆうことはありませんのでね。それから、やっぱりたっぷりとだしはきかせないと、京の味にならへん思いますね」
 美子は、思い出して、ついでに訊いた。
「この旅館では、水は井戸水ですか」
「そうどす。敷地内にある井戸水を使うてます。井戸から管を引いて台所にも、洗面にも通してますんですよ。ようお分かりになりましたね」
 美子は、えへへと笑った。
「分かったということではないですが、美味しいお水だなあと思ってましたので」
 すると彼女は、にこにこした。
「料理を褒めてくれはったお客さんは大勢おりましたけれど、水を褒めてくれはった方はなかなかおらへんどした。でも、豆腐に限らず、うちの料理にはみな、この井戸水がかかせません。京には名の知れた名水がおおございますが、うちの井戸水もそれらにひけをとらず美味しい思うてますんよ。そやそや、ちょっと待ってておくれやす」
 そう言うと、給仕はやおら立ち上がり、ぱたぱたと出て行った。そうして、三分ほどしてから、グラスに一杯の水を汲んで、戻って来た。
「お出かけになる前に、一杯どうどすか。今、井戸から汲んできたばかりの水どす。やっぱり直接井戸からひき上げた、汲みたてが一番美味しいように思いますよって。井戸には昔から水の神様の弁才天の祠がありまして、水の味を護ってこられはっているんですよ」
「ありがとうございます」
 井戸の水は、きりっと冷えて、美味しかった。するすると体の中に吸いこまれ、染み透っていく。美子は、水を飲み干すと、グラスを置いた。水のことにふれたのは、昨日の可南子の地図を思い出したからだ。この旅館の辺りにも、青色の点が書かれてあった。そしてこれから、この水の生まれた場所へ行くのだ。美子は何だかわくわくしてきた。
(地下の川をさかのぼる旅なんて、ロマンチックじゃない?)
「何か、言わはりました?」
「いえ。ごちそうさまでした。とっても美味しかったです。あの、この旅館の敷地内を見て回ってもいいでしょうか。人との約束の時間までにまだ間がありますので」
「どうぞ、どうぞ。ここは江戸時代までは、お寺やったんですよ。明治の神仏分離で廃寺になりましてね。うちのご先祖がそこを旅館に改装しはったんです。井戸はお寺の時代からあったもので、弁天さんはもともとは、神泉苑の竜神様から勧請されたと聞いております」
 ということは、女性は単なる給仕ではなく、旅館経営者の身内らしい。
 美子は、女性に礼を言うと、建物を出て、旅館の敷地内をぶらぶらした。日は徐々に高く上がり、輝きを増している。今日は久しぶりに晴れの天気のようだ。建物の裏手に回ると、小さいながらも手入れの行き届いた庭があって、池には鯉も泳いでいる。庭の奥に小さな朱色の祠があったので近づいてみると、やはり井戸があった。井戸は竹でふたがしてあるが、中から何本かの管が延びているので、これで各所に水を引いているのだろう。井戸の正面から蛇口が突き出ていて、その下に大きな石の甕が備えつけてある。蛇口をひねり、手で水をすくって飲む。先ほどもらった水と同じ味がした。祠を見上げて見てみるが、小さな扁額に書かれた字はすっかりかすれて何と書いてあるかは読むことができない。弁天様というのは、女性で琵琶を持っている、七福神のうちの一人と思っていたが、水の神様だとは知らなかった。
(京都には、水の神様もたくさんいるんだろうなあ)
 そう、美子は思った。
                         ◎◎
 八時を少し回ったころ、旅館の前にワインレッドのミニバンが到着した。真ん中の横開きのドアが開いて、圭吾の姿が現れた。
「おはよう。美子ちゃん」
「おはよう。圭吾君」
 美子が車内に入ると、前の運転席に、五十歳くらいの中年男性がいた。うす茶に青い竹模様の入った着物を着ている。
「おはようさんどす。上木さんとこのお嬢さんやんな。ようお越しやす。今日は早うにすんまへんな」
 秋男の声はふんわりと柔らかい。ほっそりとした顔は、眼尻に少ししわがある程度で、つるりとしている。
「いえ、そんな。私こそ連れて行っていただいて、申しわけありません」
 圭吾がドアを閉めると、秋男は車を発進させた。
「気にせんでええのんや。どうせ行かなあかんとこやしなあ。まあ、行かはってもなんもないとこで、こちらこそ申しわけないんやが。そんでも、今日はおてんとさんも顔見せはって、その点はよろしかったなあ。道中は鴨川沿いを通って行きますよって、景色もええですよ。ピクニック気分で楽しんどくんなはれ」
「あ、ありがとうございます」
 美子は三列ある車のシートの一番後ろに、圭吾と並んで座った。真ん中のシートには、段ボールがいくつも置いてあったからである。
 圭吾はしきりにあくびをしている。そうして、美子にささやいた。
「実は夕べ、菊水先生と飲みに行ってさ。眠くて、眠くて」
「なんだ、そうだったの」
「雲ヶ畑にオレも一緒に行くと連絡を入れたら、じゃあ、自分のマンションに泊まればいい、そうすれば待ち合わせる手間が省けるからと言われて、行ってみたら、さあ、飲みに行くぞと無理やり連れ出されて、結局帰ったのが、午前二時ころだよ」
 そうして、より声を落とす。
「まったく、元気な先生だよ。花街じゃ、ちょっとした有名人らしいね」
 圭吾は窓の外をまぶしそうに眺めた。
「あーあ。朝日が目にしみるや」
 車は太い通りをどんどんと走って行き、しばらくすると秋男の言ったとおり川沿いの道に出た。空は高々と青く、川は両岸に植えられた木々の緑に劣らず、明るく輝いている。車は風をきってひたすら山を目指して北へ上っていく。秋男の言うとおり、ピクニックに行くような楽しさがあった。車内は秋男の趣味なのか、延々とサザンオールスターズがかかっていた。
 圭吾は手足を広げて一つ大きく伸びをすると、ちょっと辺りを見回した。
「ところでさ、あの、ケサランパサンは、今もここにいるの?」
 美子は、珍しげに外の風景を眺めていたが、目を戻した。
「ふーちゃん? うん。そこにいるよ」
 そうして、前の席を指さす。圭吾は、目を凝らした。窓から太陽の光がさっ、さっと射しかかるが、積み上げている段ボール以外、何も見えない。美子は笑いながら、言った。
「ふーちゃん。意地悪しないで、姿を見せてあげて」
 しぶしぶといった感じで(圭吾にはそう思えた)、段ボールの箱の上に半透明の動物の形が見えるようになる。目をつむって寝たふり(圭吾にはそう思えた)をしているみたいだ。金色のたっぷりとした毛は、ふわふわと揺れ、そこだけほかの者には感じることのできない風が吹いているようだった。
「これを見つけたのは、涌谷だって言っていたよね」
「そうよ。あたしの家、だったところ」
「前に親父に聞いたことを思い出したんだけど、ケサランパサランが出るところには、大きい鉱脈があることが多いんだってさ。銅とか銀とか、金とか。昔はケサランパサランが現れるとその付近を掘ったり、逆にケサランパサランを山の中に放して鉱脈を探そうとしたりしたんだそうだよ」
「へえ、そうなの」
 美子は、記憶をたどった。
「そういえば、龍一もそんなことを言っていた気がするわ。水脈や鉱脈の近くにケサランパサランが現れることが多いって」
 圭吾は、勢いこんた。
「だろ? ということは、君の家の近くに何らかの鉱脈がある可能性が高いってことじゃないかな」
「鉱脈?」
「そうだよ。たとえば金鉱脈とか」
「まさかあ」
 美子は笑ったが、ちょっと考えて、言った。
「そういえば、涌谷は日本で初めて金がとれた場所ということで、有名なのよ」
「本当かよ? じゃあ、ますます可能性があるんじゃないか。土地って、ずっと下までその所有者のものなんだろ?」
「でも、家があったところは大きな穴が開いていて、あの下を探すなんて無理よ」
「うーん。じゃあ、そのケサランパサランに鉱脈とつながっている場所を別に探してもらえないかな?」
「ふーちゃんにねえ……」
 美子はふーちゃんを見た。ふーちゃんは二人の会話にはまったく我関せず、といったふうに、目を閉じたままだ。圭吾がちょっと、身をのり出した。
「おい、ふー。どうだ? お前はいったいどこから来たんだ? 金色をしているから、やっぱり金があるところからなんじゃないか?」
 ふーちゃんは、うるさげに太い尻尾の中に顔をうずめた。圭吾は苦笑した。
「やれやれ。やっぱりだめか。宝探しができると思ったんだけどな」
 美子は、じっとふーちゃんを見ながら、考えこんだ。宝探しのことではない。いく度となく考えをめぐらせた、
(ふーちゃんは、どこから来たのか?)
ということだ。それで圭吾の『金色をしているから、金がある場所から来たのではないか』という言葉に思わずはっとしたのだった。
(どこから来たのでもいいじゃない、ふーちゃんは、ふーちゃんなんだから)
と思う反面、そのことが頭から離れないのは、
(もし、ふーちゃんが故郷を思い出して恋しくなってしまったら、そこへ帰ってしまうのではないか)
という恐れが自分の中にあるに違いなかった。もし、ふーちゃんがあの穴の中から出てきたのであって、そこが彼のふるさとにも通じているのだとしたら、自分勝手といわれようとも、あの近くにはふーちゃんをなるべく近づけたくない、と美子は思うのだった。それで圭吾に言った。
「穴の下にあるのは、鉱脈じゃなくて、水脈だと思うわ。警察もそう言っていたし」
 すると圭吾は、何故かとたんにおろおろしだした。
「そうだよな、金なんてそうそうあるわけないよな。ごめん。変なことを言って。ただ、そうだったら、すごいんじゃないかと思っただけなんだ。本当にごめんよ」
 そうして、大きな体をしょんぼりさせたので、美子は微笑んだ。
「別に謝る必要はないわよ。あたしも、ふーちゃんはどこから来たのかなって、よく考えるの。もしかしたら、圭吾君の言うとおりかもね。たとえば、ふーちゃんのお母さんは、涌谷の金に関係のある狐だったのかも知れないわ」
「そうか。ケサランパサランは、霊孤の尻尾から分かれたものだからね。ふーにも、母親がいるっていうことか。不思議な感じだな」
 圭吾はあらためてまじまじと、ふーちゃんを見つめた。
 そんなことを二人が話しているうち、道は急激に狭くなってゆき、左の窓から見えていた川はずんずん深く沈んで、木々の間からようやく見える程度となっていた。両側にある山は実際にはそれほどの高さはないのだろうが、間近に迫っているため、上から包みこまれるような感覚に襲われる。
 道が二手に分かれたところで、秋男が車を止めた。そして音楽を少し低くしたあと、くるりと後ろを向いた。
「眞玉神社は、この道をもうすこうし先に行ったとこやけど、私はちょっとこの右に用があるんや。二人ともどないしはりますかな? 私は昼くらいまでかかるんやが」
 圭吾が腰を浮かせながら、言った。
「じゃあ、オレたちは歩いて先に行っていますよ。どうせ美子ちゃんに雲ヶ畑を見せるのが目的なんだ。時間はあるし、車を下りたほうが景色もよく見えますしね」
「そうか? そんなら悪いけど、ここで降ろしますえ。圭吾さん。お昼には岩屋橋のとこの料理屋に来なはれ。部屋をとっときましたからな。私もその時分には行ける思いますよってな」
「ありがとうございます、先生」
「じゃあ、お先に行っています」
 圭吾と美子はそう秋男に言って、車を降りた。ドアが閉められると、秋男の車は狭いY字路をぎゅうぎゅうと曲がって、右の道の奥へ消えていった。
 美子はそれを見送ったあと、辺りを見回した。美子たちが立っている場所はちょうど橋の上だった。銘板を読むと、『出合橋』とある。
「右から流れてきているのが中津川で、ここで雲ヶ畑川と合流して、賀茂川になるんだよ」
 圭吾が美子に説明した。さっきまで深い谷の底に隠れていた川は、今では橋のすぐ下を流れている。あるいは、自分たちのほうが、谷の底にまで下りてきているのかも知れない。
「じゃあ、行こうか」
 圭吾と美子は、ゆっくりと歩き出した。
 雲ヶ畑川の水は青く澄んでいて、そのせせらぎの音を聴きながら、歩くのは楽しかった。ゆるやかな上り坂はきちんと舗装されていて歩きやすく、深々と木々の枝がおおいかぶさって強い日射しを遮ってくれていた。車から出たふーちゃんは、二人の前をぴょんぴょん跳ねながら、山側と川側を交互に移動して、さかんに匂いをかいでいる。
「よかった。ふーちゃんも楽しんでいるみたい」
 美子も、ふーちゃんのように、右へ左へと視線を走らせた。美子にとって、山や川は特に珍しいものではなかったが、
(ここが、お母さんが暮らしていたところなんだ)
と思えば、何もかもが新鮮で特別なもののように思えた。そして、ふーちゃんの後ろ姿を目で追っていくうち、気がついたことがあった。雲ヶ畑の山からは、いたるところから水が染み出ているのだ。その無数の湧き水は、ちょろちょろと山肌を伝って、またどこへとも知れず消えていっている。おそらく、この水が集まりに集まって、雲ヶ畑の川となっているのだろう。雲ヶ畑の山々自体に、たくさんの水がたまっているのだ。
(本当に、山が、川を生んでいるんだわ)
 圭吾が言ったとおり、雲ヶ畑の人家は、すべて急な斜面に建てられていて、まるで人間が山や川から土地を間借りしているみたいに見えた。眞玉神社も例外ではなく、三十分ほど歩いた後圭吾が、
「あれが、眞玉神社だよ」
と指さしたのを見ると、朱の色の剥げかけた鳥居だけが道沿いに建てられ、あとは急な階段が曲がりくねりながら、はるか上のほうまで続いているのだった。苔むした石段はすっかりすり減っている上、いつからのものか落ち葉が厚くつもっているので、歩くのは一苦労だった。築山ならきっと、がまんできずにさっそく掃除を始めるに違いない。階段に沿って、細い小川が流れている。
「これは、神社の泉から流れてきているんだ」
 美子は、うなずいたが、ここでふと、疑問が湧き起こった。
(躑躅岡天満宮の竜泉は、本殿の中で湧いているというけれど、そのあとは、どこに流れていっているんだろう……)
 美子の考えは、階段が終わったところで、中断した。位置は、山の中腹付近らしい。
 真正面にまるで舞台のような壁のない建物があった。これが拝殿だろうか。境内の敷地はひどく幅が狭いので、拝殿のわきを通って奥に行くには、一人ずつ通るしかない。拝殿の裏はがらんとしていて、石畳が敷かれてはいるが、ところどころひび割れ、そこから草が生え出ている。周りは木立でぐるりと囲まれていた。美子はその風景に見覚えがあった。胸が思わず高鳴る。
(お母さんのあの写真の場所だ!)
 母が写った唯一の写真。今はもうないけれど、いく度となく眺め、美子は今でもくっきりとその細部までを思い出すことができる。この場所で、父はカメラを構え、母の姿を写しとったのだろうか。その時、母が首からかけていた赤い石は今、美子の胸もとにある。美子は石をしっかりと握りしめ、目の前に母がいるかのように、その場をじっと見つめた。
 ふと気がつくと、圭吾の姿も、ふーちゃんも見えなくなっていた。美子がきょろきょろとあたりを見回していると、奥の木の影から、ひょいと圭吾が現れた。
「美子ちゃん。こっちだよ」
 そうして、ふいとまた、太い幹の向こうに消えたので、美子は慌ててそのあとを追った。木の後ろに回ってみると、細い小道が隠されているかのように、あった。道は今にも森の中に消えていきそうになりながら、木々の間をうねうねと奥の方へ上り坂ぎみに延びている。美子は圭吾の後ろ姿を見失わないように、早足で道を歩いた。
 するとまた視界が開けたが、そこはさらに狭い場所で、古びた小さな社がぽつんと建っているきりだ。その扉は固く閉められたままである。よく見ると、社の床下から川が流れ出ている。川は社の下を通って境内を横ぎったあと、また森の向こうに消えていっていた。小さな石橋もかけられている。圭吾は、美子を建物の裏に案内した。
「これが、眞玉の泉さ」
 それは、太い杉の木の根もとが割れたように二股になっている間からほとばしるように湧き出ていた。樹齢数百年は経っていようかという堂々とした杉の幹の周りには太いしめ縄がはられている。水は木の根の下で少し渦を巻いたあと、眞玉神社の社へ向かって流れていく。川底は長年の水流に洗われて、小さいつぶての一つ一つまでもがはっきりとみえるくらいに清められていた。
 美子はしゃがんで、木の根もとに手を伸ばし、冷たい水をすくって飲んだ。ぞくぞくと体に震えが走った。
「どう? 眞玉の水は」
 美子が立ち上がると、圭吾は声をかけた。
「……よく分からないわ」
 美子は、正直に答えた。
 圭吾がほがらかに笑った。
「じゃあ、美子ちゃんも、疲れてはいないってことだ」
 そうして、眞玉の水がたまっているくぼみに手を伸ばして、一つ、石をとり上げた。そうして、日の光に透かして見る。
「なあに?」
 美子が訊いた。圭吾は美子のほうにちょっと石をかざしてやりながら、
「鋼玉だよ」
と言った。美子は見てみたが、何の変哲もない、うす茶色の三センチほどのただの石だ。圭吾はにやっとした。
「これは、サファイア……」
「えっ」
「……と同じような成分の石さ」
「なあんだ」
 美子は、圭吾と一緒に笑った。圭吾は石をちょっとひっくり返した。
「でも、これはちょっと黄がかった色がついているから、まんざらサファイアとまったく別ものともいえないよ。鋼玉のうち、色がついてきれいなものを、人間がより分けて宝石と呼んで珍しがっているだけだからね。鉱物学的にはこれも、サファイアやルビーと同じ鋼玉の仲間なんだ。鋼玉のうち、赤いものをルビー、そのほかの色のものは一緒くたにサファイアというのさ」
 そうして、圭吾は拾った石をTシャツのすそでちょっとふいて、持っていたリュックの中に放りこんだ。
「それ、どうするの?」
 美子は訊いた。
「形を整えて、パチンコの弾にしようと思ってね。眞玉の霊水に長い間つかっていた石だから、良い力をもっているだろう」
 そうして、圭吾は、リュックの中から前にも美子に見せてくれた手作りのパチンコをちょっととり出したあと、またしまった。リュックは、動かすたびに、じゃらじゃらと音をたてる。
「この一ヶ月で、石もだいぶたまったよ」
「じゃあ、水のほかに、石も集めてたのね」
「京都には名だたる霊場がたくさんあるからね。可南子さんの用事だけ済ますのは、もったいないじゃないか」
 美子は、くすりと笑った。
「圭吾君も、案外ちゃっかりしてるじゃない」
「可南子さんとつき合っていれば、そうもなるさ。うっかりしていると、あの人のペース ばかりになっちゃうからね」
 圭吾は、もう一つ笑ってみせると、美子に訊いた。
「さあ、どうしよう? 眞玉神社は、本当にこれだけなんだ。もうすっかり地元にも忘れ去られたような神社だよ。このごろじゃ、菊水先生本人だって忘れているんじゃないかって、思うくらいだからね」
 美子は、泉を眺めた。自分は、ここに、何を期待していたのだろう? いや、単に母のいた場所を一目見たいというだけだったのだ。それで、圭吾を振り返った。
「うん。ありがとう。一度来てみたかっただけだから。眞玉神社や、眞玉の泉って、龍一や可南子さんから話だけ色々聞いていたでしょ? それに、あたしのお母さんが働いていたところだったし、興味があったの。雲ヶ畑は、今回のあたしの修学旅行のテーマの、伏流水が生まれるところでもあるしね」
「よし。それじゃあ、雲ヶ畑川をもう少しさかのぼって行ってみようか。この先には由緒ある神社やお寺もあるよ」
 圭吾と美子は、眞玉神社の本社に背を向けると、また森の中の小道を通って拝殿の後ろ側に出、危なっかしく長い石段を使って、もとの舗装路まで戻った。二人は、みちみち、気軽な友達同士のようにおしゃべりをしながら、のんびりと歩いた。
「ここら辺は全然、人がいないのね」
 美子が言った。京都の街中は、観光客とみられる人々であふれていた。
「まだ梅雨の最中だからね。ここの本当のシーズンは、真夏だよ。川の上にはり出した座敷で、涼みながら鮎の塩焼きを食べたりするんだ。そういうのは、鴨川や、貴船川沿いにもあるけどね。でも、今日は晴れて暑くなってきたし、菊水先生が川魚料理を予約してくれているから、同じように楽しめるんじゃないかな」
「川や山の景色を見ながら食べるなんて、風流ね」
「ま、オレなんて、山歩きのときはたいてい、そうだけどね。あ、これが、昼に行く料理屋だよ」
 川が二手に分かれたところで、圭吾が指さした。店はまだ閉まっているようだ。川岸ぎりぎりに建てられた建物で、苔むした屋根の上からは、青々とした竹がいっぱいにおおいかぶさって陰をつくっている。
「右から流れてきているのが、祖父川。左は、雲ヶ畑岩屋川だ。もうこうなると、どっちが鴨川の源流かというのは、分からないんだけど、左側の上流に役小角(えんのおづの)が開いたといわれている修験場があるから行ってみるかい? 今はお寺になっているけど」
「うん」
 道は舗装から砂利道になった。圭吾は、わきに生えている草木を指しては、美子に説明してくれた。
「これは、ゲンノショウコっていって、腹をこわしたときに煎じて飲むといいんだよ。……あそこに白い小さな花をつけているのが、イチヤクソウ。葉の汁をこすりつけると止血になる」
「圭吾君って、何でも知っているんだね」
 美子は、すっかり感心してしまった。圭吾は、照れたように笑った。
「何でも、なんてことはないさ。自分に役にたつことだけ、覚えているだけだよ」
 美子は、ふと道端の山の斜面に目を止めた。
「あれは、何ていう植物?」
 圭吾は近よって見て、首をひねった。シダのような葉に、真っ青な、それこそサファイアのような照りのある実がいくつもついている。
「こんなもの、見たことがないよ」
 そうして、一つ実をとり、指でつぶしてみる。中まで青い。圭吾は、そばに湧いていた水で手を洗った。
「やっぱり、本物の実だね」
 あんまりそれが青く輝いているために、まるで作りもののようにも思えたのだった。二人はまた歩き出した。
「あれが何か、オレにも分からないよ。初めて見る植物だ」
「なんだか、宝石みたいにきれいだったわよね」
「そうだよなあ。本当に、単なる実には見えないくらいだ。……ところで、前々から訊きたかったんだけど、美子ちゃんがいつも首にかけている石は、何の石なの?」
 圭吾は、美子を見下ろしながら、訊いた。美子は、赤い石をちょっと持ち上げた。
「実は、あたしにも何だか分からないの。お母さんの形見なんだけど。圭吾君こそ、何か分かる?」
「オレは、宝石の鑑定士じゃないからなあ」
 そう言いつつ、圭吾は美子の首にかかったままの石をちょっと手にとって眺めたが、やがて首を横に振った。
「ごめん。正直、分からないや。でも、これがこんなに真っ赤でなかったら、真珠じゃないかと言うところだよ」
「やっぱり……」
「ピンクの真珠っていうのはあるみたいだけどね。赤というのは聞いたことがない。でも、この光り具合が真珠を連想させるよね。真珠は、生き物の体からつくられる鉱物だからね、ほかの石とはまた違う感じがする。サンゴとか、琥珀もそうだけれど」
「さっきの実も、生き物ね」
「そうだね。生き物なのに、石みたいに見える、変な奴だったな。でも、世の中にはおかしな動物が山ほどいるからね。深海には鉄の足をもった貝がいるそうだよ。赤い真珠くらい、あったって、おかしくはないよな」
 こんな話をしながら、山の中を歩いていくと、やがて寺にたどり着いた。志明院(しみょういん)という名の寺で、ひどく古びた山門がある。人気はまったくない。入口に備えつけられている箱にばらばらと小銭を拝観料として入れたのち、中に入る。境内はしいんと静まりかえり、辺りは見上げるほど大きな巨木ばかり。
「確かに、修行の場所って感じねえ」
 美子の声も、何だかひそひそ声になる。
「まったく。今だってこうなんだから、昔はほんとに足も踏み入れられないような山奥だったんだろうな」
 それから圭吾は、赤い小さな祠の下からちょろちょろと流れ出る水をさした。
「これには、飛龍の滝って、大げさな名前がついているんだ。昔、なんとかってえらい坊さんが、これまたなんとかって、京のおえらいさんを懲らしめるために、世界中の龍神をこの滝に封じこめたという、伝説があるそうだよ。それで京の都はひどい日照りに悩まされたんだって」
「へえ。それで、その封じこめられた龍たちはどうなったの?」
 圭吾は、詳しくはよく知らないらしく、その答えはあやふやだった。
「今は、京都にもちゃんと雨が降っているから、じきにまた逃がしてもらったんじゃないかな」
「ここに、世界中の龍がねえ」
 美子は、飛龍の滝の水を飲んでみた。きりっとした緊張感のある水である。眞玉の水のふんわりした柔らかさとはまた違った味だった。
「眞玉の水とは、また違った美味しさね」
「ふうん。美子ちゃんは、オレよりもずっと水の味が分かるみたいだな」
 圭吾は、滝の下に首を突っこんで、直接口でごくごくと水を飲んだあと、手の甲で口をぬぐった。
「ああ、うまい。喉がからからだったよ」
 境内をぐるりと回って見物すると、二人は志明院を出て、もと来た道を下った。
「雲ヶ畑って、想像以上にいいところだったわ」
 美子は、心から言った。こんなふうに、緑と水、そして伝説にあふれた、神話の世界を思わせるような場所は、母に本当にぴったりだと思った。涌谷も自然が多い、いいところだが、見渡す限りの豊かな田園風景が広がる、どちらかというと、明るい性格の父を思わせる土地柄だ。町の真ん中を流れる江合川も、悠々とした大きな流れである。美子は母のことを直接は覚えていないが、写真からイメージで、しっとりとした優しさをもった神秘的な女性だと想像しているのだった。

(六分の五)
                         ◎◎
 圭吾が、ちらりと時計を見た。
「オレも、ここは好きだよ。まあ、根っからの田舎者だから、街より山の中にいるほうが落ち着くってこともあるけどね。ところでそろそろ腹が減らないかい? ここから岩屋橋まで戻ったら、ちょうど昼ころだけど、菊水先生、ちゃんと遅れずに来るかな。オレ、もうぺこぺこで目まいがしそうだよ」
 朝から山道を歩き回ったせいか、美子もかなり空腹を感じていた。圭吾の心配は杞憂に終わった。二人が料理屋に戻って来ると、前の駐車場に、秋男の車はちゃんと停まっていた。店の中に入ると、すぐに部屋に案内された。
「菊水先生のお連れさんどすな。先生が先ほどからお待ちです」
 二人が部屋に入ると、秋男はにこやかに手を上げた。
「やあ。先にやってましたで」
 圭吾は、秋男の隣にあぐらをかきながら、その手もとを見た。
「やっていたって、先生。それはお酒じゃないですか。運転はどうするんです?」
「なあに。あとは家まで運ぶだけやからな、圭吾君。あんたが動かしてくれはるやろ」
 秋男は上機嫌で、一人手酌で酒を注ぎ、杯を口に運ぶ。圭吾は呆れたような顔をしたが、そばに控えている店員に、
「ウーロン茶を二つください」
と注文した。料理はすでに秋男が三人分を予約済みだ。前菜が、待っていたように運ばれてきた。
 部屋の開け放たれた窓からは川が近くに見え、涼しい風が吹き抜ける。秋男はもうほんのりと頬を赤くしていた。
「ええ眺めやろ。私は川床はあんまり好かんのや。虫やらゴミやら飛んできよるよってな。自然はこうして気持ちのいい座敷からちょいと距離をおいて楽しむのがええんや。ここは冬もええんよ。ほかほかと炭をいっぱいに熾して、熱燗で、冬景色を肴に飲むんはまた格別や」
「素敵ですね」
 圭吾がもくもくと食べ続けているので、代わりに美子が相槌をうった。
「眞玉神社は、見はりましたか?」
「はい」
「ほほほ。想像以上の荒れ神社でびっくりしなすったやろ」
「え。まあ……。でも、ずいぶん古い神社ですね。いつごろからあるんですか」
「そうやなあ。はっきりせんけど、平安京ができたころからといわれておるから、千二、三百年くらい経つゆうことになりますな」
「そんなに古いんですか?」
「そもそも菊水家は九州の出自でな。平安京を築城するときに、桓武天皇から、祭神と一緒にここに移動を命じられた、ゆう逸話がありますのや。その祭神ゆうのが、菊理媛神(くくりひめのかみ)で、もとは熊本県辺りの土地の護り神やったゆうことや。今でも、熊本には、菊水ゆう地名が残っておるはずや」
「すごいですねえ。菊水家って、由緒ある家柄なんですね」
 秋男は、酒をまた一口飲んで、ほほほと笑った。
「そう家伝されているだけやて、真偽のほどは分かりません。また、どうして天皇さんが菊理媛神を勧請しはったかも分かりません。菊理媛神を祭っている神社というと、石川県の白山比刀iしらやまひめ)神社が有名どすが、眞玉神社は白山神社と違う系列よって、あちらさんは全国に二〇〇〇もの分社をもつ大神社や、同じ神さんをお祭りしてもその規模には天と地ほどもの差がありますなあ」
「菊理媛神って、どういう神様なんですか?」
 秋男は首をひねった。
「それが、どうもよう分からへんのや」
「ええっ?」
 驚いた美子の顔を見て、秋男は楽しそうに、にこりとした。
「菊理媛神ゆうんは、『古事記』には出てこおへん。『日本書紀』の一書の一場面にちょこっと登場するだけなんや。それによれば、黄泉の国のイザナミ命とこの世にいるイザナギ命の間に入って、二人の争いをやめさせはったとのことどす。これからいえば、あの世とこの世の間をとりもつ役割を担っている神さんのようや。そやから、菊理媛神の『くくり』とは、二つのものを『結びつける』ゆう意味やともとれる。一方、『くくり』とは、水の中を『くぐらせる』ゆうことやと、菊理媛神は水神やいう人もおる。まあ、私は菊水のいわれから考えて、『くく』と『きく』は、もともとはおんなじ意味やった、思うてますけどな」
「きく?」
「ああ、鮎がきよりましたで。私はこの夏、初めてや。この泳いでいるような恰好がまた涼しげやろ」
 そう言って、秋男はうまそうに鮎をつまみ、酒を飲んだ。
「そやそや。菊理媛神の話どしたな。そもそも、『くく』になんで『菊』の字を当てているのかゆうたら、昔は『菊』は『くく』と発音していた、ということらしい。が、実際には、その最初の『く』の音は、厳密に言えば、『き』と『く』の間のような発音やったようや。上代の日本には、今と違う発音の言葉が色々あったんやな。
眞玉神社では、菊理媛は、はっきりと、九州は阿蘇のふもとの菊池川に住んではった神さんやと伝わってます。つまり、菊理媛の『くく』と、菊池川の『きく』は、もとはおんなじ言葉やった。そんなら、その『くく』または『きく』というんは、何か。私は、やっぱりそれには『言葉をきく』ゆう意味がそなわっている、思いますな。あの世とこの世に分かれたイザナミ命とイザナギ命は、それぞれ違う世界の住人になって、考え方も姿かたちも、すっかり異なってしまった。もしかすると、言葉もお互い通じなくなってしまったかも知れん。そういうところから、二人の間に争いが生じた。そこへ菊理媛が現れ、お互いの話を『きき』、相手にそれを伝え、意志疎通を図ってくれはったんちゃうやろか。つまり、菊理媛は通訳のような役目も担っていた。このとき通訳は実はもう一人おって、それは泉守道者(よもつちもりびと)という黄泉の国の入口の番人や。泉守道者はこれは完全に単なる通訳で、この世にいるイザナギ命の言葉をそのまんま、イザナミ命に伝えているだけや。次に菊理媛がイザナギ命に何かゆうて、イザナギ命はその言葉に満足したとなっているが、菊理媛が何と言ったのかは、『日本書紀』にもまったく記されてはおらん。しかしおそらく、二人がとりあえず矛を収められるような条件が提示されたために、争いをいったんとめることができた、ゆうことやろ。そやから、菊理媛は単なる通訳やのうて、仲裁の役目も果たしたんやな。二つの世界の橋渡し、これが、『くくる』ゆうことにつながるんや。それから、菊の音は、『こく』に近いという説もありましてな。これを聞いて思い出すんは、ほれ、今の人は知らんかな。昔の子供たちの間に流行った、『こっくりさん』ゆう遊びがありましてな。これは、交霊術のまねごとみたいなもんやが、この『こっくり』というのも、あの世とこの世をつなげる『くくる』からきた言葉やという気がしますな。
 ともあれ、菊理媛神それ自体に何かすごい力が備わってるゆうわけではありません。そやけど、人間が神様をお祭りするんは、つまりはどういうことでっしゃろ。自分たちの願いを聞き入れてほしいがためどす。いくら素晴らしい神様でも、そこに自分らの声が届かへんかったら、仕方ありません。また、せっかく神様が何かこちらにいうてくれはっても、その意味が分からへんかったら、これまた困りますな。それから、たいがい人間はとにかく自分らに何か恵みを与えてほしいと願います。しかし、神様かて、ただではそれをきいてはくれまへん。すると、そこを調整する第三者が必要になってきますな。つまりはこれが菊理媛神の働きというわけなんや。
また、神様がおる世界とつながっているんは、たいがい、山奥や、水辺ということになってますから、それで、菊理媛の性格も、山神やら水神やらいわれるようになったということやろなあ」
「ふーん。じゃあ、眞玉神社のあの湧き泉にも、菊理媛が住んでいるっていうことなんスか?」
圭吾は秋男にこう訊いたあと、出された鯉の洗いを疑わしそうに眺め、おそるおそる酢味噌につけて口に放りこんだ。秋男は嬉しそうにアマゴの唐揚げを食べながら、
「たぶん、そうやないか?」
と答えた。
「たぶん、スか?」
 秋男は、すうすうと川風の入ってくる大きな窓から、景色を眺めた。
「ああ、これぞ、水檻風涼しゅうて秋待たず、やなあ。……神様というんは、いると思えば、いらはる。いないと思えば、どこにもおらん。また、その人、その時代によって、み方、感じ方、話し方が異なるように、神様もまた名前を変え、役割を変えてきはったんや。今流行の、『大自然』、『地球』『環境』なんちゅう言葉も、一昔前やったら、それはみんな色々な名前をもつ『神様』やったやろ。神様ゆう言葉は、人間が自分らよりも大きい力に対して、恐れと尊敬の気持ちを言い表すために、生まれたもんや。それからな、私は、人間というんは想像する以上に大きな力を内にもってる思うてますのや。つまり、自分らが信じるものを実現する力や。そん人が信じとる世界は、本当にそん人にとっては現実となるんや。そして、その世界を信じる人間が、たくさんおったり、力が強かったりしたら、それはほかの人間にとっても本物の世界となる。そうするとな、自然のもんだけやのうて、人間の力にも、神さんの名前をつけてもいいことにもなりますな。そうやって数えてゆくと、やっぱり神様も、自然、八百万、になる勘定や」
 そこへ、店の女性が部屋のふすまを開け、片膝をつきながら、秋男に聞いた。
「先生。しめのご飯はいかがなさいます? 今日は鰻を用意してますよって、お重とひつまぶしから、お選びいただけますけど」
「ひゃあ。私は、もう入らへんわ。もし手数やなかったら、白焼きにしてもらえますやろか。圭吾さんと美子さんは、どないしはります」
 圭吾は、目を輝かせて、言った。
「オレは、うな重をお願いします」
「じゃあ、あたしは、ひつまぶしで」
 美子も、注文する。
「かしこまりました」
 女性は、にっこり微笑んで、部屋を出て行く。十五分ほどして、三人の注文した鰻がそれぞれ運ばれてきた。美子は、秋男が白焼きをつまみにまた飲み始めたのを見て、去年、躑躅岡天満宮で可南子が美味しそうに白焼きを食べていたのを思い出した。
 店の人が美子にひつまぶしの食べ方を教えてくれた。
「おひつのひつまぶしを、しゃもじで十字に切って四等分します。お茶椀によそった最初の一杯は、そのままの味でお楽しみください。次は、こちらの山椒や大葉などの薬味をのせてお食べください。三杯目は、この薬味の上に、だし汁を回しかけてお茶漬ふうに。四杯目は、お好きな食べ方でどうぞ」
 美子は、四杯も食べられるか不安になったが、香ばしくふっくらとした鰻と、様々に変化する味つけを楽しんでいるうちに、結局完食してしまった。ひつまぶしの薬味には通常わさびが出てくるが、この店では山椒の佃煮をその代わりとするようだった。普通の佃煮と違い、見た目も採ったばかりの生山椒そのままのごとく青々とし、食べるとしびれるように辛いが、これが非常によく鰻と合う。京都で出される料理の例にもれず、この店のだし汁も、非常に濃いものだったが、脂ののった鰻にたっぷりと山椒をのせた上から、なみなみとだしをかけて食べると、
(お茶漬って、こんなに美味しかったんだ)
と感動するほどの洗練された味になるのだった。美子は店の人に、
「この山椒の佃煮は、どこかで買われたものですか」
と訊いてみた。売っている店が分かれば、お土産に買って帰ろうと思ったのである。しかし彼女はにっこりと笑って、首を振った。
「いいえ。これはうちで作ってるんですよ。山椒の実を青いうちにどっさり採って、ひと月以上塩につけてあく抜きします。そうして、白醤油であっさり炊くんですわ。そうすると、こんなふうに、採ったまんまの山椒の実のようにして食べられるんですよ。これは今年の四月、五月に採ったものでして、最近ようやくお出しできるようになったものです。佃煮ゆうても浅炊きですので、季節もんであと一、二ヶ月しかもちませんのどす」
 美子は、一生懸命聞いていた。作り方を覚えておいて、来年ぜひ築山に作ってもらおうと企んでいたからである。
 最後の桃のシャーベットまで食べると、さすがの圭吾も満腹になったようだった。腹をさする。
「いやあ、鰻はボリュームがあったなあ。美子ちゃんも、ずいぶん食べたね」
 美子はあんまり食べすぎて、苦しいほどだった。急激に眠くなる。秋男が言った。
「ここは二時までとってるさかい、美子さんはちょっと休んでいかはったらええんちゃうか。この辺には暇をつぶすとこもないよってな。圭吾さんは、腹ごなしに荷物運びを手伝ってくれますか。運転もしてもらわなあかんし」
 美子は慌てて、言った。
「大丈夫です。あたしもお手伝いしますから」
と言ったとたんに、あくびが出そうになって、無理やりそれを噛み殺す。秋男は笑った。
「ここの料理はいっつも量が多いんや。全部食べたら、必ず眠うなる。部屋の予約には、その後の休憩時間も含まれとるんよ。まあ、動けるようにならはったら、うちに来なはれ。ここから少うし下って、眞玉神社の手前にある瓦葺の家や。三角屋根のとこに目の入った三つ巴の紋がありますよって、すぐ分かるはずや。さ、圭吾さんはこのくらいではへたばりませんやろ、少し力仕事もありますのや」
 圭吾は、勢いよく立ち上がった。
「鰻で、すっかり元気になりましたよ。じゃ、美子ちゃん。あとから散歩しながらでもゆっくりおいでよ」
「ありがとう」
 美子は、ちょっと顔を赤らめて言った。そして、二人が出て行くのを見送る。部屋の中がしんとなると、まぶたを開けていられないほどになってきたので、
(ちょっとだけ……)
と思いながら、座布団を枕にして横になった。目を閉じると、川のさらさらとした流れだけが聞こえる。
(ああ、何故こんなに眠いんだろう)
 そう思う間もなく、美子はすとんと眠りに落ちこんでいった。

(六分の六)
                         ◎◎
◎◎◎◎ニニギは、いつから自分がここにいるのか、思い出せなかった。イヅモの宮殿の王の間から、八咫鏡を通り、スクナヒコのいる大きな岩のある泉に着いた。そこでスクナヒコと話をしながら、泉の面をのぞきこんでいるうちに、気がつくと広々とした草原を歩いていたのだった。
 一緒にいたスクナヒコも、ナガスネヒコもそこには見あたらなかった。しかしニニギはそれを不思議とも思わなかった。
草原は小さな丘や谷を描きながら、果てしなく続いていた。空はぼんやりとうす青で、太陽と星が同時に輝いているようだったが、その輪郭は、まるで水の底から見上げているように、はっきりとせず、方角も形も不明瞭だった。地平線は波うつように遥か遠くで空と交わり、そのときどきで位置が変わった。ニニギは、足もとに生えている背の高い草や、背の低い草を手にとって眺めたが、どれも見たことがない形をし、見たことのない花や実をつけていた。
(俺はここに何をしに来たのだ)
 ニニギは自問自答した。答えはすぐに返ってきた。
(むろん。探しに来たのだ)
 スクナヒコは、ニニギのことを『生まれながらの探究者』だと言ったではないか。探し続けることが、ニニギの本性であり、宿命なのだ。しかし、いつまで探し続ければよいのだろうか。この旅に終わりはあるのだろうか。そもそも自分は何を探しているのだろうか。しかし、探すことをあきらめることはできなかった。あきらめてしまえば、ニニギの存在自体が無意味となってしまう。探し続けていれば、きっとそれはみつかるはずだ。ニニギはかたくなにそう思いこんでいた。みつかりさえすれば、それが求めているものかどうかは、すぐに分かるはずだった。そうだ、ただ、探し続けることが、重要であるのだ。
 しかし、果てのない旅が永遠と思えるほど続き、ニニギはさすがに立ち止った。そしてここにきてから、初めて歩みをとめ、地面に座りこんだ。体は疲れていない。体の感覚はとうの昔に失われていた。しかし、魂がすっかりすりきれてしまっているのを感じた。そうして、考えこみ、口に出して言った。
『ここは、どこで、俺は何者だ? 俺はどこから来て、どこへ行くのだ?』
 すると、もう一人のニニギが答えた。
『お前はニニギ。ここは黄泉の国ではないか』
『ニニギ。それが俺の名か。黄泉の国だと? すると俺は、死んでしまったのか。いつだ?』
『おいおい、しっかりしろ。何百年も前にお前の体は朽ち、魂だけの存在となって、この国を彷徨い続けているではないか』
『何故俺は、一人きりで、こんなにも長い間、旅を続けねばならんのだ? 死はすべての終わり、安らぎをもたらすものではないのか?』
『お前は、終わりも安らぎも、得ることを拒んだではないか。ここはお前の望みどおりの場所だ。お前は進んでこの場所にきたのだ』
 ニニギは髪の毛をかきむしった。
『違う、違う。俺はこんな世界自体を望んでいたわけではない。ただ、俺に必要なものを探しにきただけなのだ』
『ほう、そうか。では、お前に必要なものとは、いったい何だ? それが分かれば、俺もそれを探す手伝いをしてやろう。二人で探せば、より早くみつけられるだろう』
 ニニギは、呆然と前をみた。そうして、首を横に振る。
『思い出せない。ここにきたときは、確かに分かっていたはずなのだが。そうだ、スクナヒコだ。あいつなら、俺が探しているものを知っているはずなのだ』
『スクナヒコだって? そんな奴は、俺は知らない。そんな奴は、ここにはいないぞ』
『では、ナガスネヒコはどうだ? 鏡をもった男だ。案内人だ。あいつなら、正しい場所に導いてくれるはずだ』
 すると、それは、高らかに笑い声をたてた。
『ナガスネヒコか。よくぞその名を思い出したな。ずいぶんとなつかしい名だ』
『知っているのか』
『むろんだ。忘れようにも忘れられるものか。何故なら、そいつこそ、俺たちをだまして黄泉の国に連れこみ、永遠という名の鎖で閉じこめた張本人だからだ』
『なんだと? それは、いったい、どういう意味だ』
 声は、舌うちした。
『お前は、本当に何もかも忘れてしまったのか。どうしようもないやつだ。だから、ナガスネヒコの思うがままにされ、何百年たっても、奴の策にはまってぬけ出せないのだ。いいか、俺たちは地上で、あと一歩で、神の国をうち建て、その最高権力者、神の中の神、王の中の王になるところだったのだ。三つの国の、三つの宝のことを覚えているか。俺たちはそれをすべて手に入れる寸前だったのだぞ。すべては俺たちのものになろうとしていたのだ。神の王になれば、この世もあの世もあらゆるものが思いのまま。お前が執着していたサクヤヒメとて、意のままになっただろうに』
 ニニギの中の何かが、大きく波うった。
『サクヤヒメ?』
『そうだ。よもや忘れたわけではあるまい。お前がただ一つ、真に求め続けている魂の名を』
『俺が探していたものとは、サクヤヒメだったのか』
『お前は、サクヤヒメへの想いを利用されたのだよ。ここに来れば、サクヤヒメに会えるのだとな。しかし、こんなところに、彼女がいるものか。それは、いいかげんお前にも分かっただろう』
『お前は、彼女の居場所を知っているというのか』
『いや』
 ニニギは、がっかりしてため息をついた。
『しかし、ここを出る方法は知っている』
 ニニギは驚いて、顔を上げた。
 それは、にんまりとした。
『驚いたか。この場所は閉じられた輪ではない。出ようと思えば、いつでもお前にもぬけることができたのだぞ』
『そんなことは、知らなかった。何故今まで、俺に教えてくれなかったのだ』
 腹だたしげな声が返ってきた。
『お前は、知ろうともせず、ここを出たいとも思わず、ましてや今の今まで、俺の声になど耳を傾けようとしてこなかったではないか。お前のおかげで、俺までこんな場所に閉じこめられる羽目になってしまったのだ。さあ、もう目を覚ましたか。俺たちは、自由なのだ。魂に掟など本来あるものか。ゆこうと思えば、どこにでもゆけるのだ。俺についてこい』
 ニニギは導かれるままに、歩き出した。丘をすぎ、川を渡り、山を越え、森を抜ける。何度も見たような、しかしこれまで一度も見たことのない景色だった。次第にぼやけた風景がはっきりと輪郭を得てきて、次の瞬間、突然ニニギは、地平線にたどり着いた。今までどんなに歩いても、行きつくことはできなかったのに。それは、ニニギが立っている位置から、少し上のほうにあった。空と地面の境界が、くっきりと線になって真っ直ぐにどこまでも伸びている。
 声が言った。
『さあ、その空と地の境目をこじあけて、その中に入るのだ』
 それでニニギは、坂になっている部分をのぼって、線へ近よると、そこに手をかけた。空はなかなか地面と離れようとしなかったが、しまいにめりめりという大音をたてながら上と下に分かれ、その隙間に真っ暗な穴がわずかに開けた。ニニギはそこへ体を無理にさし入れた。
中は真の暗闇だった。四方の空間がぎゅうぎゅうと体を押しつぶそうとするのをかきわけ、ニニギは這うように進んだ。空気はうすく、ニニギはくらくらとしてきて、必死に息を吸おうとあがいた。
『もう少しだ。ほら、そこに光がある』
 声に励まされ、ニニギは光のほうへじりじりと近づき、そうして、その小さな輪のふちに手をかけ、世界全体のように重い体を引き上げた。
 目がつぶれるほどまばゆい真っ白な光がニニギを包んだ。空気がどっと肺の中に流れこむ。ニニギは、いったん息がつまり、そうして、大きく吐き出した。ゆっくりと目を開ける。
 そこは、川の中だった。ニニギは浅瀬の中に半ば身を浸していた。目の前には、大きな、岩があって、川の流れを左右に分けていた。川の周囲は深い森だった。今は紅葉の季節のようで、木々は様々に色づき、森は燃えるように沸きたっている。ニニギは、川面を見た。赤や黄色の葉の色を映した奥に、ささくれだった黒い川底が見え、それに見覚えがあった。サクヤヒメが消えた場所だった。
 ニニギは、立ち上がって辺りを見わたした。しかし、森はただ己を享受しているだけだった。時折、無心な鳥の鳴き声が聞こえるだけである。
『サクヤヒメなどおらぬではないか』
 ニニギが言うと、声が答えた。
『俺は、サクヤヒメの居場所を知っているわけではないと言っただろう。まあ、待て。今にあの女が出てくる』
『あの女とは?』
『ククリヒメだよ。サクヤヒメが取引をした女だ。ここはあの女の住みかなのだ』
 すると間もなく、川の中央に横たわる大きな岩の上に、かげろうのような揺らぎが生じたかと思うと、空間の中から生み出てきたかのように、真っ白な長い髪をもち真っ白な服を着た女が姿を現した。顔のつくりは若く整っていて、美しいといってもよいが、その評価を排するかのごとく、ひどく無表情だった。眼は深い藍色に透き通っている。
 ククリヒメは、ゆっくりとニニギのほうに目を向けると、手のひらで水面をぴしゃりと打つような声で言った。
『われはククリ川に住むククリヒメ。おぬしの願いはなんだ。きいてしんぜよう』
 ニニギは、思わずククリヒメのほうに近づき、その姿を仰いだ。
『俺の願いを叶えてくれるというのか? それは、本当か?』
『願いは何だ。言ってみよ』
 ニニギは、ちょっと逡巡したが、思いきって言った。
『俺はいつまで黄泉の国をさまよわねばならんのか。俺に平穏は訪れるのか?』
『平穏。それがおぬしの願いか』
 ククリヒメが片手を上げかけると、ニニギは慌てて、言った。
『いや、違う。平穏の前に知りたいことがある。サクヤヒメは今どこにいるのか』
『では、平穏の代わりに、サクヤヒメの居場所を知ることを望むのだな』
『ああ……』
 ククリヒメは右手を水平に伸ばし、一点を指さした。
『サクヤヒメの魂は、今深い眠りにつき、何びともそれを揺り起こすことはできん。しかし、今より千五百年ののち、実が自ずと芽ばえるように、自然と目覚め、己の形をとり戻すであろう。そして清き泉より地上に湧き出でるであろう。しかし、おぬしはそのときはまだサクヤヒメに会うことはできぬ。サクヤヒメがそのとき望むのは日の光。おぬしのもつ光とは相いれぬからだ。おぬしがサクヤヒメとまみえることができるのは、サクヤヒメがふたたび陰に戻るとき。同じところ、同じ月の時、月に星が陰をつくる瞬間、その機会は訪れる……』
『その、時と場所とは?』
『それをおぬしが知るためには、おぬしが通って来たくぐり穴をみ失わぬことじゃ』
『くぐり穴? なんだ、それは。黄泉の国からぬけてきた通り道のことか?』
『鏡じゃ。おぬしは鏡を通って黄泉へ渡ったのじゃろう。鏡を通ってきたものは、鏡を通してのみ、戻れるのじゃ。おぬしの穴は、鏡じゃ』
『鏡は、今、どこにある?』
 ククリヒメが指さした空間に、徐々に大きな穴が開き始めていた。
『鏡は、今、おぬしの血を引く者が守っておる。さあ、ゆくがよい。鏡を追い続けるのだ。手に入れられずとも、み失わぬことじゃ。さすればいつの日か、穴は道となり、おぬしを導いてくれるじゃろう』
 ニニギは、ククリヒメの指先に開いた穴に、頭をくぐらせた。体がすっかり穴に入ると、穴はふたたび後ろで閉じていった。ククリヒメの声が遠くなりながら、聞こえる。
『二千年の平穏と引き換えだ……』
 ニニギは後ろを振り返ったが、ククリヒメの姿も、川の景色も、すでに失せていた。また前に向き直ると、ニニギは、歩き始めた。◎◎◎◎

五『水底』につづく

2012/03/04(Sun)09:23:24 公開 / 玉里千尋
■この作品の著作権は玉里千尋さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 明鏡の巻に続く第二巻目となりますが、一巻目を読まない方でも大丈夫なように(一応)したいと思っております。
 二重カッコが気になると思いますが、今巻は現在と過去が入り交じる構成になっているため、区別の意味で、過去の部分は、全部二重カッコを使わせて頂いておりますので、ご了承ください。
 超長編になる予定ですが、多角立方体のように、世界は、見る角度で様々な姿をもっていると思っているので、一つ一つのエピソードが互いにつながりながらも、やっぱりそこに固有の物語がある、というふうに書いていけたら、と思っております。
 つたなく読みづらい点が多々あるかと思いますが、よろしければ目をとおしていただき、ご感想・ご批評などいただけると、大変嬉しいです。
 よろしくお願いいたします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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