『同じ空が見れたら』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:エルサル                

     あらすじ・作品紹介
――マオはずっと、空ばかり見ている。

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「よく言うじゃん。同じ空が見えるって」

 マオは決して頭のいい人間ではなかった。期末考査でも下から数えた方が早かったし、たまに掛け算が怪しいし、英語のスペルはいつも間違えて覚えているし、とても音痴で。けれどマオはいつだって何かを考えていた。考えていたから、それ以外のことなんて、どうでもよかったみたい。
 彼にとっては方程式も現在完了形も、レ点の意味もいい国を誰が作ったのかも、ホモやヘテロでどう変わるのかも、全部必要のないものだった。
 その代わり彼は、マオはいつも空を見ていた。そのまま、空に吸い込まれちゃうんじゃないかと思うくらいまっすぐ、空だけを見ていた。いつのことだっただろう。突然マオがそんなことを言ったのは。
「そこから見える空は、どんな空?」
 まっすぐ、私を見てマオはそう問うた。
 私は何のことだかさっぱり。だって私はマオのすぐ隣に居たのだから。だから、見えるものはマオと同じはずでしょう? だのにマオは私に問う。あの雲は何の形に見える? あそこの山と空の境界線は何色に見える? ここから空の高さがどれくらいあるのかわかる? マオはそんなことばかり、私に問うて。だから、マオと同じものが見えると、言っているのに。
「サエと俺が同じものを見ている筈がないじゃないか」
「どうして。だってこんなにすぐ傍にいるじゃない。私がアメリカやイギリスに居るのなら、見える空も違うでしょうけど」
「だって、俺と同じところにサエは居ないじゃないか」
 たった、一歩。そのたった一歩で、景色は全く違うものになるんだとマオは言う。そしてまた視線は空へ。
 俺にはあの雲がライオンに見えるよ。サエのところからはそう見える? 俺にはあの山と空の境界線は紫色に見えるよ。サエから見ても、同じ紫色が見える? 色調や色相や形が完璧に一致するはずはないんだ。だって、俺の目に見えるものは俺だけの景色なんだもの。
「……だから、何なのよ」
「どうしてあんな台詞が使われるのか、わからないんだ」
 同じ空が見える。どうして? 違う人間なのに、視覚なんて人によって違うのに、何を持って同じと言うの。二人は同じ人間? 全く同じ場所に居る? たとえ同じ場所でも、一秒ごとに空は変わるんだ。一体いつ、同じ空を見たって、言うの?
「いくら考えてもわからないんだ。どうして。サエは、知っている?」
 二次関数が解けなくてもbeとyetの意味を覚えられなくても主人公の気持ちを理解できなくても中大兄皇子が誰なのかわからなくてもヘモグロビンが何をしているのかを知らなくてもマオは、そんなことどうだってよくて。いつだって、そればかりで。教科書に落書きされたWhy(この意味だけはちゃんと理解しているくせに)の山がどんどん増えていくばかり。
 そんな、頭を使うことでもない事象を考えたって、しょうがないじゃない。
 だから誰が何と言おうと、私はマオの隣に座ることを止めなかった。変わり者に近づくとあんたも変人になるよと友人に言われたけど、慣れてるからいいといつも笑ってスルーしてきた。だって別に、マオのことを心配したり不安になったり、何かとんでもないことをするんじゃないかって緊張したりするために隣にいるわけじゃあないのよ。
 ただ。マオの見つめる先にあるその空を、私も見てみたいと、思ったの。
「視点を変えてみるべきよ」
「え?」
「ほら、真上や真横や真ん前しか見ていないから、そう思っちゃうんだ。ね、私の指さすところを見てみて」
 マオの頭に自分の頭をくっつけて、右斜め前方を指差した。
 ね、あそこに雲があるでしょう? 風に乗ってどんどん、こっちへ向かってくるね。大きな雲も、風に流されるって不思議。ね、だんだん近づいてくる。ゆっくりゆっくりこっちに来るでしょ。ね、イチ、ニ、サンであれが何に見えるか言おう? ほら、来た来た。せぇの、イチ、ニ、サン――

「――飴玉」
「――西瓜」

 ね、形だけ当たったね。どっちもまんまる、正解。
「答えが違うなら、俺が言ってることが通じるじゃないか」
「マオと同じものを私、見てるじゃない?」
「どこが」
「ね、マオ。それが何に見えるかを決めるのはその人自身。私はあれが飴玉に見えて、マオは西瓜に見えた。でも、丸っていう形は同じでしょう? ね、ほら。名前は違っても同じものを、私たち見ている」
 マオは何も言わなかった。私の言葉を聞いた後しばらく私の顔を見つめて、気が付いたら頭の上を流れていくその丸い雲を見送っていた。そのころにはもう、その丸い雲はまるでマフラーみたいに、伸びきってしまっていたけれど。頭と頭はくっついたまま、マオと私はさっき指差した方を黙って見ている。次から次に雲は流れてきて、その度にまたイチ、ニ、サンを言って当てあいっこをした。名前は違っても、やっぱりその形だけは当たってた。
 雲が見えなくなって真っ暗になって、月明かりと街灯が柔らかい光を落す時間になってから、マオは腰を上げた。黙って見ていると、マオは静かに右手をのばしてくれたので。何だか嬉しくなったからその手を取って私も一緒に立ちあがった。地面に倒してあった自転車を押しながら、その籠の中に私のかばんを入れる。
 明日はグラマーの小テストがあるよ。教科書の32ページ、ちゃんと読んでおきなね?
 ちょっと嫌そうな顔をしたけど、マオはこくんと頷いた。二人だけの足音と、キィキィ鳴る自転車の音だけが辺りに響いていた。
「サエ」
「うん?」
「夜空は」
 夜空は、同じ空が見えるっていう表現を使っても、許されると思う。ぽつりと、そう言った。何故、と問うと、星は動かないからという。
「月は動くから、そこは仕方がないかもしれないけれど。星の光はそこにしかない。だってもうあの光は死んでいるし、動くこともないから」
 だから何処に居ても同じ星空が見える。
「うん、でもここは田舎だから星がたくさん見えて綺麗だけど、都会はまぶしすぎて星なんか見えない。やっぱり太陽のある時間の方が、同じ空って言えるんじゃない?」
「サエとは一方通行だ。青空の下では雲が動くじゃないか」
 せっかく少しだけ譲歩したのに。今日初めて、マオは笑った。笑ってすぐくしゃみをした。ずっと寒空の下に居たから、風邪を引いたのかもしれない。自転車が止まる。あぁもうここは、私の家の前だ。着いちゃった。私は自分の首に巻いていたマフラーを外して、マオの首に巻いてあげた。やっぱりちょっと、首がスースーして寒い。うがいをしないと、私も風邪を引くかもしれない。
「送ってくれたお礼。明日返してね」
「わかった。おやすみ」
「うん、気をつけて。あ、ね、マオ」
「ん」
 さっきみたいに指差した。月が出ていない反対側。星だけが光る空。
「寝る前に空を見てみて。ね、今日だったら同じ空がきっと見えるよ」
 もう一度わかった、と言ってマオは自転車に乗って真っ暗の中に消えていった。自転車のキィキィが聞こえなくなるまで、それをずっと見ていた。ふっとこぼれたため息はとても白くて、あぁこんな寒い中を彼は自転車を漕いで帰るんだわと思ったら、ちょっとだけ。ちょっとだけね、ごめんねを言いたくなったの。でも、マオの突拍子もない話を聞いてあげれるのは私だけだし、まぁいいかって、暖かい家の中に入った。マフラーのない首がやっぱり、少しだけ冷えて寒かった。


 午後11時。真っ暗になった部屋の中で蛍光ライトが点滅した。携帯を開けたらそれはマオからのメールで。それを読んですぐに、私はカーテンを開けて窓を開けた。喉の奥が凍るくらい、寒かった。
『ベテルギウスが見えるよ』
『プロキオンが見えるわ』
『じゃあもうひとつも見えているね』
『一等、明るい星があそこで光ってる』
 ね、同じ空が見えたでしょう。
 また明日ね、おやすみなさい。
 携帯を閉じて空を見上げた。きっと今、マオもこの空を見ている。さっきと同じ距離ではなくてもこうして、同じ空を見れる。こんな単純なことなのに、いつまでたってもこの答えを自分で探そうとしているマオが、嫌いではないから。きっとさっき言ったばかりのグラマーの小テストなんて忘れてるだろうから、明日もう一度教えてあげないといけないって決めてベッドにもぐった。
 いつもの日常が始まって、やっぱり小テストのことを忘れていたマオの頭を小突いて笑う夢を見る。きっと、同じことが明日起きるんだろうね。でも、マオの視点が少しでも変わったならそれでいいや。同じ所ばかり見ても答えは見つからないから。だからおやすみ、マオ。頭を使ったんだからちゃんと睡眠を取らなきゃね。

 うん。おやすみなさい。
 また明日、同じ空が見れますように。


2010/01/04(Mon)23:17:26 公開 / エルサル
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